2023年8月10日木曜日

〈100年前の世界028〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災③ 〈神奈川県、土砂災害と津波(内閣府防災情報)〉 〈関東大震災の鎌倉〉 〈千葉県・埼玉県の被害概要〉

 

鎌倉 大町の惨状

〈100年前の世界027〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災② 〈神奈川県の被害の概要〉 〈横浜での揺れと被害(内閣府防災情報)〉 〈『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)による横浜市・横須賀市・その他県下の被害状況〉 より続く

大正12(1923)年

9月1日 関東大震災③

〈神奈川県、土砂災害と津波(内閣府防災情報)〉

地震による強い揺れによって箱根、丹沢を中心に多くの土砂災害が発生した。中でも箱根火山の一角にある小田原市(旧片浦村)根府川では、熱海線(現在の東海道線)の根府川駅の裏山が崩れ、停車中の汽車が海中に没して多くの死者を出したほかに、本震によって箱根の大洞山が崩れ、白糸川を流れ下った岩屑なだれ(山津波)が根府川集落を埋めて、逃げ遅れた住民が多数巻き込まれ命を落とした。

また、地震の際に各所で崩壊した土砂は渓床部に堆積し、渓流を堰止めていた場所も多かった。神奈川県伊勢原市大山(旧中郡大山町)では地震発生後2週間が経過した9月12~15日の集中豪雨によって、これらの崩壊土砂が土石流となって一気に流れ下り大きな被害を出した。また、翌年の1月15日に発生した丹沢の余震によってもさらに崩壊が促進された。関東地震による土砂災害は、中山間地に限らず、三浦半島や房総半島などの広い範囲で発生し、横浜、横須賀、鎌倉などの市街地およびその周辺部にも被害が及んでいる。・・・・・。

一方、先に述べた根府川での犠牲者の中には、白糸川河口付近で遊んでいた子供達約20名も含まれていた。根府川地区の海岸部では、本震から5分後に高さ5~6mの津波が押し寄せた。海からの津波と白糸川からの山津波によって挟み撃ちになって命を落としたのである。・・・・・。

〈関東大震災の鎌倉〉

『鎌倉震災誌』(昭和6年 鎌倉町役場刊)によれば、 被害は鎌倉町(現在の大船・山ノ内・腰越地区等を含まない)で全壊1,455戸、半壊1,549戸、埋没した家8戸。さらに津波による流失113戸、 地震直後の火災で全焼が443戸にのぼり、半焼は2戸で、死者412名、重傷者341名。 

大船(山ノ内を含む)の被害は全壊450戸、半壊80戸、死者18名、負傷者は23名。 腰越津村の被害は全半壊合せて310戸、死者70名。深沢村もかなりの被害を蒙ったが、 詳細は不明。

当時の鎌倉町の全戸数は4,183戸、大船の全戸数が635戸、腰越津村は500戸以下。

第1震は午前11時58分45秒、第2震(余震)は零時40分に襲来。

津波は第2震の前後2回にわたって襲来。被害は1回目よりも2回目の方がはるかに大きく、 海水は急激に引き、やがて沖合から黒褐色を帯びた大波が押し寄せたという。 

以下、『鎌倉震災誌』に記された各区の経験者の談話。

坂ノ下

稲瀬川付近で第2震のおよそ20分後、海水は遠く引き去りはるか沖合に黒光りした大波が大音響を立てていた。 その時砂浜には被災者が5、60名位づつ数個所に避難しており、気がついた人々は辛うじて逃げ去った。 家屋や護岸が流された。

極楽寺

第2震の20分ほどのち、海水は江の島の東端より三浦半島に向って一直線を引いたと思われるあたりまで引き去っていた。 ところが見る見るうちに3m以上の大波が襲来し由比ヶ浜方面に向ったが、その余波は極楽寺川にも浸入した。 再び海水は引き去り、夕方には500m位沖まで引いていた。

極楽寺の人家はいずれも高所にあったためか、 ほとんど流されてはいなかった。

乱橋材木座

津波は最初、砂浜を没して岸壁に衝突し豆腐川に浸入したが、急速に400m位沖合まで引き去った。 和歌江嶋が長く半島状に露出するとその約20分後再び来襲して、豆腐川を中心として付近一帯の人家や岸壁を破壊した。 海水は補陀洛寺辺りまで浸入して電柱を没した。

最初に海水が引いた距離はおそらく500m以上で、高さは7~8m、江の島の沖から由比ヶ浜方面を向いて襲って来たと思われる。滑川では海岸橋が破壊され、 橋上方の低地より東方一帯の田畑に海水が入る。また、材木座の南側では補陀洛寺境内に達し、 長谷では稲瀬川から由比ヶ浜駅を越えて県道付近まで浸入、坂ノ下では県道北側の人家を流したといわれている。

津波は熱海・伊東以南の沿岸を浸して北上し、小田原付近で東へ折れ、鎌倉に襲来したと考えられている。

被害は小田原・大磯辺では軽微で、伊豆・鎌倉方面は大きなものであったといわれている。 

『鎌倉震災雑誌』は各地の津波の高さを、房州洲の浜8.1m、葉山5.4m、小坪7.1m、吉浜8m、熱海6.5mと推定し、 当時鎌倉町に来襲した津波は小坪よりも1mを超過していたと伝えている。流失家屋は、坂ノ下53戸、 長谷30戸、乱橋材木座(現在の材木座と大町・由比ガ浜等を含んだ地域)30戸で、 計113戸に過ぎず統計上からみれば僅少だが、倒壊した家屋の下で溺死した人は少なくなかったといわれている。

川口村江ノ島については震災当時に陥没説が伝えられたが、江ノ島神社は無事で、片瀬から渡るための桟橋は津波によって流失した。

腰越津村は全戸数の約37パーセントに当る278戸を焼失。全壊415戸、半壊162戸、死者58名を出し、全村のほとんどが壊滅。また、同村七里ガ浜の鈴木病院は全壊して、死者11名を出す。

記事は、以下に依りました。

「e- ざ鎌倉・ITタウン」 ー 知られざる鎌倉 ー 関東大震災の鎌倉

〈千葉県・埼玉県の被害概要〉

千葉県の家屋の全壊1万2894、半壊6204。館山湾内の那古では人家900戸が全て全壊。館山町でも戸数1700戸の99%が倒壊、附近一帯の田は2m沈下し砂が吹き出す。館山町に隣接する北条町では、戸数1600余戸中、全壊1502、半壊47、郡役所、中学校、停車場等全てが全壊。古川銀行・房州銀行の建物が奇蹟的に残った以外は柱の立つ家さえなく、町全体が壊滅。亀裂は深さ2mに及び、陥没地域も多く、測候所・小松屋旅館などは亀裂の中に落ちこむ。

埼玉県では全壊4562、半壊4348、静岡県で全壊2241、半壊5216、山梨県下で全壊562、半壊2217、茨城県下で全壊157、半壊267という被害状況。


つづく




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