2023年8月14日月曜日

〈100年前の世界032〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災⑦ 〈関東大震災と作家たち(つづき)〉 谷崎潤一郎 横光利一 川端康成 泉鏡花 直木三十五 岡本綺堂

 

東京駅前から日本橋方面

〈100年前の世界031〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災⑥ 〈関東大震災と作家たち〉 永井荷風 堺利彦 与謝野晶子 寺田寅彦 芥川龍之介 菊池寛 より続く

大正12(1923)年

9月1日 関東大震災⑦

〈関東大震災と作家たち(つづき)〉

■「焼けろ焼けろ、みんな焼けちまえ」と思った谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は、箱根の芦ノ湖畔から小涌谷へ向かうバスのなかにいた。

「私はこの未曽有の瞬間に妻子と相抱いて焼け死ぬことが出来なかったのを悔い、彼等を置いてひとり箱根に来ていたことを、責め、怨み、憤ったけれども、「東京がよくなる」ことを考えると、「助かってよかった、めったには死なれぬ」という一念がすぐその後から頭を擡(もた)げた。妻子のためには火の勢いが少しでも遅く弱いようにと祈りながら、一方ではまた「焼けろ焼けろ、みんな焼けちまえ」と思った。あの乱脈な東京。泥濘と、悪道路と、不秩序と、険悪な人情の外何物もない東京。私はそれが今の恐ろしい震動で一とたまりもなく崩壊し、張りぼての洋風建築と附け木のような日本家屋の集団が痛快に焼けつつあるさまを想うと、サバサバして胸がすくのであった。私の東京に対する反感はそれほど大きなものであったが、でもその焼け野原に鬱然たる近代都市が勃興するであろうことには、何の疑いも抱かなかった。かかる災厄に馴れている日本人は、このくらいなことでヘタバルはずはない。

(中略)

それから十有一年の歳月が過ぎた。待ち遠に思った震災後の十年は、去年(昭和八年)の九月一日を以て完了し、私は最早や四十九歳に達している。だが、現在の私、そうして現在の東京は如何。この世は一寸先が闇で、何事も豫期の通りには行かないというが、私はかつて小涌谷の山路を辿りながらさまざまな妄想に耽った当時を追懐して、今日のような皮肉な結果を見たことを喜んでいいか悲しんでいいか、不思議な気持がするのである。まず何よりも、私があの時想像した震災の範囲、東京が蒙った惨禍の程度、並びにその復興の速度と様式とは、半ばは的中し、半ばは的中しなかったといえる。私はあの時箱根の人々の短見を嗤(わら)ったのであったが、私の推定も大袈裟過ぎていた。関東一円の地震という観測に誤まりはなかったけれども、被害は東京府下よりも神奈川県下の方がひどく、就中(なかんずく)小田原鎌倉片瀬近傍が第一であって、東京は横浜に比べると、犠牲が思いの外少い。横浜にいた私の一家眷属(けんぞく)でさえ一人残らず助かったのであるから、東京で死んだ人はよくよく運が悪いのである。被服廠(ひふくしょう)や吉原の死傷は大変な数であるけれども、私は実はあの何倍かの惨事を考え、全東京市が被服廠のようになるであろうと豫想していた。しかるに東京においては大概な家屋が倒壊を免れ、火が比較的長い時間にのろのろと燃え拡がったために、下町の住人も大部分は無事に逃げ延び、山の手の市街は殆んど旧態を保つことが出来た。従って東京市の復興は、十年の間に見事成し遂げられたとはいえ、私が思ったような根本的な変革とまでは行かなかった。」(『東京をおもう(初出:中央公論 1934(昭和9)年)』)

谷崎は、横浜に創設された大正活映株式会社の脚本部顧問に招聘されたのを機に1921(大正10)年9月、横浜本牧(宮原)へと転居。まもなく関東に上陸した台風による高潮被害で本牧の自宅が壊れてしまった。高潮(津波)に懲りた谷崎は、1922(大正11)年10月、安全な高台にある横浜山手へと移り、災害に強いように頑丈な西洋風家屋を新築した。しかし、1923(大正12)年9月1日の関東大震災では家は無事だったものの大火事により山手の家も類焼してしまう。関東地方の地震に懲りた谷崎は、その後、関西へと引っ越す。

■横光利一の場合

「震災の時、私は丁度東京堂の店先きに立つて、雑誌の立読みをしてゐた。(中略)狭い道路で家が建て込んで居て、その家がバタバタと倒れて行く。それと同時に壁土やなんかがもうもうと上つて、其の辺は真黒になる。だが上から何が落こつて来るか解らないので、眼を閉ぢる訳にいかない。眼を開いてゐると土ほこりが入つて痛いが、我慢してゐる。其処らに居た人は互ひに獅嚙附いて固つてゐる。私はその時これが地震だとは思はなかつた。これは天地が裂けたと思つた。絶対にこれは駄目だ、地球が破滅したと思つた。」(横光利一講演「転換期の文学」1939年6月21日、東京帝国大学)

横光はその後、火事になった神田から逃げるために駿河台方面に出て、下宿のある小石川に向かう。

横光の住まいの被災状況については、友人の川端康成の証言がある。「私が見にゆくと、古びて粗末な下宿は、一階が傾き、二階は真直ぐに立つてゐた」が、再度見に行くと倒壊し、どのあたりにあったかもわからなくなっていたと、川端は証言している(「思ひ出二三」1961年)。

■川端康成、芥川龍之介、今東光、震災直後の東京を見て回る

このように語る川端は、「大火見物」(『文藝春秋』第1巻11号、1923年11月)のなかで、千駄木町の下宿の二階で被災したときの状況を「地震の時、私は大したことはなかつたらうと思つて、二階から容易に動かなかつたが、瓦の落ちる音が激しくなつたので、階下へ下りた」と記している。

無事だった川端は、芥川龍之介、今東光とともに、大震災直後の東京を見て回る。川端はその体験について、大震災から5 年半後、「芥川龍之介氏と吉原」(『サンデー毎日』1929年1月13日)のなかで、「芥川氏と今君と私とは、多分芥川氏が云ひ出されたやうに思ふが、吉原の池へ死骸を見に行つた。(中略)荒れ果てた焼跡、電線の焼け落ちた道路、亡命者のように汚く疲れた罹災者の群(中略)吉原遊郭の池は見た者だけが信じる恐ろしい『地獄絵』であった。幾十幾百の男女を泥釜で煮殺したと思えばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いているのは、遊女達の死骸が多いからであった。」と述べている。

川端は、大地震から「二三年の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、死の姿の一つとして、あの吉原の池に累々と重なつた醜い死骸は必ず故人の頭に甦つて来たにちがひないと思ふ」と、この時の記憶と1927年の芥川の自殺とを結び付けて語っている。

■四谷見附の公園で野宿する泉鏡花

千代田区六番町で被災した泉鏡花はその体験をルポ作品「露宿」に残している。火事を避けるため裸足で家を飛び出し、黒煙と轟音の中で避難民が集まる四谷見附の公園にたどり着き、野宿をした。水は止まり、マッチもろうそくもないなか一睡もせずに3日の午前3時を迎えた。

「四谷見附そと、新公園の内外、幾千萬の群集は、皆苦き睡眠に落ちた。……残らず眠ったと言っても可い。荷と荷を合はせ、ござ、筵(むしろ)を鄰して、外濠を隔てた空の凄じい炎の影に、目の及ぶあたりの人々は、老も若きも(中略)萎えたやうに皆倒れて居た。

──言ふまでの事ではあるまい。昨日……大正十二年九月一日午前十一時五十八分に起こった大地震このかた、誰も一睡もしたものはないのであるから」

■我が家が焼けるのを心待ちにしていた直木三十五   

市ケ谷駅前で冬物の帽子を二つかぶり、ステッキを振り回しながら火の手が上がる麹町方向を見つめている姿を広津和郎が目撃している。

広津の「三番町時代の彼」によると、直木はニヤニヤしながら「もうじき東郷さんの家に火がつきそうだ。早く火が回り俺の家が焼ければしめたものだ」と我が家が焼けるのを心待ちにしていたという。その理由が抜け目のない直木らしい。家財道具はすべて差し押さえられていた直木は、震災直後にめぼしい家財道具を避難させていた。家が焼ければ差し押さえ品も焼けたとみなされるからというのだ。震災後、直木は大阪に移住した。

■岡本綺堂の場合

岡本綺堂は、家財道具一切を火災で失ってしまった。「それでもいよいよ立退くという間際に、書斎の戸棚の片隅に押込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで出た」(「はしがき」1924.4『十番随筆』)。そうしているうちに、また余震がおこり、「それから、一時間の後」、綺堂の住んでいた一円は火の海となった(「火に追われて」同)。

つづく

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