〈100年前の世界028〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災③ 〈神奈川県、土砂災害と津波(内閣府防災情報)〉 〈関東大震災の鎌倉〉 〈千葉県・埼玉県の被害概要〉 より続く
大正12(1923)年
9月1日 関東大震災④
〈東京の揺れの被害〉
東京の被害は、隅田川より東側が最も大きく揺れ、この地域の家屋倒壊率は20~30%近くに達している。特に隅田川から柳島一帯、本所の横綱から被服廠跡地、深川の大部分が最も被害が大きかった。
早稲田鶴巻町から江戸川沿いの地域、小石川砲兵工廠(現在の小石川後楽園・東京ドーム)から神田三崎町、西小川町、大手町、丸の内までの一帯の家屋倒壊率も20~25%、また、新吉原から玉姫町、山谷町、吉野町、千束町の辺りも20~25%だった。これらの町の特徴は、本所深川の埋立地、小石川江戸川の灌江や平川の流れを填築(埋め立て)したところに近く、下谷・浅草では姫池、千束池、姥池などの埋立地で比較的に地盤が弱い所でもあった。
逆に、いわゆる台地と言われる場所は、これらに比べ被害が少なかった。待乳山、元鳥越、八重洲口から銀座通り一帯などである。
当時の旧・東京市社会局の統計によると、焼失家屋戸数の総計は407,992戸で、地震発生前の家屋数が638,860戸だったことから実に東京市内の64%の家屋が火災により焼失したことになる。
また、罹災人口の総計は、1,505,029人で、これも地震前の人口2,437,503人に対し、65%の人が被害を受けた・・・とある。
東京市社会局の調査で死者約91,000人のうち、火災による死者が83%(約76,000人)、家屋倒壊などによる圧死者が12%(約11,000人)。その他、行方不明者のうち火災によると思われる者が90%、圧死者が4%。火災による重傷者62%、倒壊による重傷者28%であった。
〈東京府の被害概要;出火・延焼の状況〉
全壊家産1万6684戸、半壊2万0122戸。山の手台地の倒壊家屋は全体の10%内外、江東の本所・東川方面では25%前後。昼食時と重なり出火、また薬品による出火も多い。出火134ヶ所中57ヶ所は消し止めるが、残り77ヶ所の火が58の火流を作り、3日未明まで燃え続ける。二百十日を翌日に控え、この日朝方、低気圧が関東地方南部を横切り、東京では10時頃激しい降雨、やがて青空となり秒速10mを越す南風が吹き、各所の出火は、この南風に煽られ燃え広がる。
都心の官庁街でも、有楽町1丁目の山勘綾丁から出火、3時過ぎには警視庁全焼。和田倉門内の帝室林野管理局から出火は、大手町の内務省・大蔵省に飛び火し、官庁街を焼いて日本銀行に迫る。
神田・日本橋・京橋・浅草・本所・深川の下町一帯は、各所の火の手が人々の退路を絶ち、また狭い道路と木造の橋とにより多数の焼死者が出る。
江東方面の人々は、両国横網町の陸軍被服廠跡の空地に争って避難するが、3時半頃旋風が起り、人々が持ちこんだ荷物に火がつき、避難者3万8千を一挙に焼き殺す(震災による東京市の全死亡者の4割)。
下町方面の火災が広がるにつれて下町からの避難民は、上野公園、靖国神社、宮城前広場、日比谷公園などの一帯に押し寄せ、夜には、宮城前~日比谷公園・東京駅前に50万、上野公園に40万の避難民が集る。
浅草の凌雲閣(12階)は8階から折れる。建築中の内外ビルは後方に倒れ労務者300余が圧死。芝区三田四国町の日本電気会社工場は米国製最新式設備をもつ3階建て鉄筋コンクリート造りであったが、第1震で全壊、勤務中の社員・職工約400中で、出口近くの10数名以外の全員没。
丁度昼食時で、竃や七輪の火の上に材木・家財がのしかかり、火災が起る。また天ぷら屋などの飲食店では、激しい震動で油が鍋からこぼれ出て引火。学校、試験所、研究所、製造所、工場、医院、薬局等にあった薬品類は、棚等から落下して発火。特に学校からの出火は最も多い。地震直後より火災は東京市内15区全てに起り、麹町区10、神田区12、日本橋区2、京橋区10、芝区3、麻布区1、赤坂区4、四谷区1、牛込区5、小石川区7、本郷区10、下谷区12、浅草区23、本所区17、深川区11、計134、郡部で44ヶ所から出火、合計178ヶ所に及ぶ。内83ヶ所は消火され、95ヶ所で発した火災が強風に煽られ延焼し、更に飛火によって100余ヶ所から火の手があがる。
炎は炎と合流し市内のみでも58の大火系となって、最も速度の速い火系は毎時800m以上の速さで町をなめ尽し、58の流れの内13の火系で100万㎡(約30万坪)以上を焼失。
①本所区菊川町1丁目の煮豆商と2丁目の下駄歯入業・自動車業かの火は合流して北進、更に東南に転じ竪川以南大横川東部の地域を焼き払い郡部に達す。
②日本橋本石町3丁目の薬品商と薬種問屋からの火は、北は神田川、南は京橋川、東南は大川、西北は高架線に連する日本橋区の大部分と神田区の一部を焼き、更に京橋区船松町に及ぶ。
③京橋区八官町の芸妓屋から起った火災は東進し、銀座通り~木挽町~築地に進み、大川を越えて月島に飛火し附近一帯を焼く。
④下谷区入谷町の洋傘柄商から発した火は、北風に乗じ左右に伸びて南進し、西は上野、東南は隅田川に達す。
⑤赤坂区田町の待合2軒と新町の蒲焼屋から出た火は、東南に急進し芝区北部の中心地~古川に達す。
⑥浅草区蔵前の東京高等工業学牧からの火は、浅草区南部、外神田、下谷南部を焼いて御成街道に及ぶ。
⑦京橋区霊岸島塩町の足袋商からの火は北進し、日本橋区~大川を越えて深川区に飛火し越中島に侵入。
⑧神田区猿楽町の人家に起った火は本郷区を焼く。
⑨麹町区帝室林野管理局からの火は、内務省に飛火して神田区東北部に延焼。
火災は、1月正午~3日午前6時迄続き、東京市の43.5%の1,048万5,474坪が焼き払われる。日本橋区は1坪も残らず全焼し、浅草区98.2%・本所区93.5%・京橋区88.7%・深川区87.1%と被害は甚大。東京市の全焼戸数は、全戸数48万3千戸中の30万924。死者・行方不明者(圧死・溺死含む)6万8660名、重軽傷者2万6268。
本所区横網町の陸軍被服廠跡の惨劇
被服廠移転後、大正12年3月逓信省と東京市に払下げられ、近代式運動公園や小学校等が建設される予定の2万430坪余の広大な敷地。附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察署も避難民を誘導。被服廠跡には多くの人々が家財とともに溢れ、火が四方から襲い、家財に引火し、大旋風が巻き起こり、推定約3万8千名(震災での全東京市の死者の55%)となる。相生署山内署長もここで殉職。被服廠跡に避難した人は4万人と云われ、2千人(5%)が奇跡的に難を逃れたことになる。この惨事は、突然起った大旋風と敷地内にぎっしり運びこまれた荷物の燃焼によって起った大火災によるもの。旋風は馬もろとも馬車を、川の水を数十mも、また何百と言う人間を豆を投げたように巻き上げたとの目撃談がある。
被服廠跡に次いで死者の多いのは浅草区田中小学校敷地内1081、本所区太平町1丁目46番地先横川橋北詰773、本所区錦糸町駅630、浅草区吉原公国490(内女性435)、深川区東森下町109番地先237、深川区伊予橋際209、本所区枕端際157等。死者の多い場所は、広場か橋の袂で、火に追われた人々が密集し身動きならぬようになった時に火が四囲から殺到したことを示す。
東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で5万2178、次に溺死者5358、圧死者は727。東京市内の橋総数675で、地震によって墜落・破損したのは僅か18で、火災によって340の橋が被害を受ける。
浅草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町、佐久間町一帯が、住民の努力により焼失を免れる。
東京を中心とする交通・通信は全て不通。地震の瞬間に電信・電話は切断。数時間後に横浜港内の汽船や海軍省船橋送信所から、震災発生が各地に報道される。鉄道は、荒川鉄橋~御殿場駅区間が破壊され、罷災地では電燈・水道なども止まる。
つづく
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