2023年8月24日木曜日

〈100年前の世界042〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑧ 〈1100の証言;世田谷区、台東区〉 「ボール紙で作ったメガホンをリーダーが持って、「ミナサーン! 井戸水に気をつけて下さい! 井戸の中に劇薬が投げ込まれました! 缶詰缶は大方爆弾です! ミナサーン、缶詰缶に気をつけて下さい……」 また別の声で「只今、本郷方面から上野方面に向かって、朝鮮人が7、8人押し寄せて来ました。皆様用心して防いで下さい・・・・・」 車坂、道灌山、鶯谷、日暮里にかけて、線路つたいに集まっていた3〜4万人の大群衆は、ワーツと吼えるようにそれを迎え撃つべく鬨の声をあげ、総立ちになった。」   

 

自警団(『一億人の昭和史』毎日新聞社)

〈100年前の世界041〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑦ 墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(1日~5日)(3) 寺島警察署の死体収容所から生き延びた愼昌範の証言 より続く

大正12(1923)年

9月1日 朝鮮人虐殺⑧

〈1100の証言;世田谷区〉

徳富蘆花〔作家〕

9月1日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。〔略〕鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と荘丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を3名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(1923年12月)

(徳富蘆花『みみずのたはこと・下』岩波書店、1950年)


山本八重〔山本七平の母〕

〔1日、山本七平の生家・世田谷区三軒茶屋で〕そのとき、表の道路を髪を振り乱し、子どもを抱え、裾をからげた裸足の若い女が、「大変だあ、殺される!」と叫びながら、家の前にあった野砲第一連隊の正門へと走りこむのが見えた。なにごとか、と近所の人たちはみな道路へ出た。と、だれ言うとなく、玉川の河原にあった朝鮮人の集落から朝鮮人が大挙して押し寄せてきたとの噂が流れ、それは間もなく、彼等が集団で家々に押し入って手当たり次第に略奪し、所かまわず放火し、井戸に毒を投げ込み、鎌で女、子どもを切り殺しているという流言蜚語に変わった

八重ははじめ半信半疑だったが、電話が通じないことは電話局が壊滅したということであり、それなら警察署も潰れているだろう。もうだれも自分たちを保護してはくれないと思い、七平を背におぷい、姉2人の手をひいて、玄関口に 「みな無事です。兵営に避難しています」と張り紙をして野砲兵連隊の兵営に逃れた。母子が入ったのは連隊の厩舎だった。

(稲垣武『怒りを抑えし者 - 評伝・山本七平』PHP研究所、1997年)

〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉

上條貢〔当時金竜小学校教員〕

1日夕方、入谷89番地の自宅で〕「いま津波が東のほうから押し寄せてきた。早く逃げろ!」と大勢の人々が口々に叫びながら真青になって駆け出して行く。四囲の家々も軒並みに空になっている。

〔略〕坂本通りに出てみると、向島、浅草方面から来た眼の色を変えた避難民が通路を埋め立錐の余地もない。〔略〕坂本2丁目の停留所から鶯谷駅入口に至るまでに1時間も要した。

〔略〕私たちは鶯谷駅北側の鉄道線路の上に一夜を明かすことにした。夜中の12時頃金竜校の方向に大きな建物がさかんに燃えているのを見た。後で聞いてみると、ちょうどその時刻に、金竜小学校は西側から火がつき、焼失したということである。夜中うとうとしていると、日暮里方面から「朝鮮人が大勢で襲撃してきたから逃げろ。命をとられるぞ!」と叫びながら線路上を群集が逃げてくる。私たちも一緒になって逃げ出した。

(上條貢『幾山坂 - わが半生記』共同出版、1971年)


木村東介〔美術収集家〕

私はその時〔震災時〕鶯谷の線路に逃げた。敷布団と掛布団を線路に敷いて、南のほうの空に立ち昇る黒煙を見ていた。マイクなどのまだない頃のことである。ボール紙で作ったメガホンをリーダーが持って、「ミナサーン! 井戸水に気をつけて下さい! 井戸の中に劇薬が投げ込まれました! 缶詰缶は大方爆弾です! ミナサーン、缶詰缶に気をつけて下さい……」

また別の声で「只今、本郷方面から上野方面に向かって、朝鮮人が7、8人押し寄せて来ました。皆様用心して防いで下さい・・・・・」

車坂、道灌山、鶯谷、日暮里にかけて、線路つたいに集まっていた3〜4万人の大群衆は、ワーツと吼えるようにそれを迎え撃つべく鬨の声をあげ、総立ちになった

(木村東介『上野界隈』大西書店、1979年)


勝山佐吉〔神田錦町9で被災〕

〔1日〕午後1時頃になると、四方火の海、〔西郷〕銅像下は人でぎっしり、歩く余裕はない。その頃からデマが飛び始めた。当時の言葉で外国人が爆弾を仕掛けたためだと、もっぱらのデマ宣伝。さあ避難民はいよいよ恐々としてきた。今夜あたりは上野駅にも爆弾を仕掛けるらしいなどのデマ。

今のうちに逃げようという声が多い。喉がかわき、空腹を我慢して谷中の墓地深く避難した。ところが墓石に白墨で×△○といろいろな印がある。これは外国人の爆弾の印だ、それっ、もっと先へ逃げろということになり、ついに小石川の文化女学院まで逃げ、ここで夜を明かした。夜警の人たちにより握りめしにありついた。幸いこのあたりは災害が少なかった。

(「神保町の大火から逃れて」品川区環境開発部防災課編『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)


中川清之〔下谷区御徒町1-2で被災〕

〔1日〕間もなく今度は一目でそれと知れる焼け出された人達が上野へ向かって避難してきた。ほとんど着の身着のまま、裾もはだけ僅かな荷物しか持っていない。その人達の話を聞くと、神田方面の火はもう手の付けようもなく、しかも朝鮮人の焼き討ちによるものだという話であった。〔略〕二長町にある郵便馬車の溜りでは、50頭近い馬を上野動物園に避難させているという話を聞いた。朝鮮人が暴動を起して爆弾を投げたり、井戸に毒を入れて回っているという噂もどこからか耳に入った。

(『東京に生きる 第10回』東京都社会福祉総合センター、1994年)


伊福部敬子〔評論家〕

〔1日夜、谷中で〕拍子木を持ち、鉢巻だけが夜目に白い屈強な男たちが、恐怖と混乱の底に足音を高くして轟け(ママ)とおると、犬が吠えたてた。「男の人は、皆自警団に出て下さーい」と、怒鳴る声がきこえた。〔略〕大塚まで火が来たそうだ、三河島では暴動が起ったそうだ、この虚に乗じて日本を皆殺しにしようと井戸には毒を投げこんで歩くスパイがいるそうだ。次々と不安な流言が暗夜の心を恟々させた。

夜気の中に、いがらっぽいものが流れると、咳がたてつづけに出た。赤ん坊は呼吸が困難で妙な泣声をあげた。

毒瓦斯ではないか、と囁きあう中で、どどうん、と大砲の遠饗のようなものがきこえた。火薬庫に爆弾を投入したものがある。それから10分もたつと、そんな流言が伝ってて来た。

〔略。2日〕夜になると、近所にいる彼〔夫の伊福部隆輝〕と同じ文筆の仕事をしている人の中でも親しい友人が、3人5人と警察に検束されたことがわかった。朝鮮人暴動の流説が人々をおびえさせ、一方には社会主義者の反乱が誤りつたえられ、無警察状態となった巷では、喧嘩や私闘や暴行があり、日頃町の人々とあまり親密にしていないものは、社会主義の名で暴行せられるかもしれない、というので、傾向をもった文筆業者は悉く保護のために検束したらしいのである。けれども、そんな理由が判明したのは後のことである。〔略〕彼は、私を物陰によんで、「逃げるんだ、明日、いいね」といった。迫った口調だった。

〔略〕私たちが逃げ出したのは3日目の朝だった。〔略。浮間ケ原の舟橋で〕両岸には、剣つき銃の兵士が橋際に4人ずついて、6人以上一度に渡ろうとするのを剣のカにかけて制止していた。

〔略。3日夜、川口で〕私たちは、ここで全く見知らぬ人の救いを得なかったら、その夜の自警団の竹槍にかかっていたかもしれない。私たちは、壊れて雨も星も洩る小屋の中で、怪しい奴が出たといって乱打する半鐘の音を、競々としてきいた。松明が雨間の中をとびかい、鬨の声が森にこだまして、魂をひやさせた。

(伊福部敬子『母なれば』教材社、1941年) 


勇樹有三〔当時尋常小学校2年生。谷中で被災〕

〔1日夕〕”宮城の近くに反乱が起きた””井戸に毒を投げ込む人間がいる””何々団が手当り次第に火を放っている”等とおだやかでない流言が飛び交い〔略〕都心をはなれた周辺の人々は本能的に自警団を組織して、生命の綱とも頼む井戸を、目に見えぬ敵の手から護ろうとして起ち上がった。

(勇樹有三『勇樹有三随筆集 あじさい』私家版、1974年)


つづく



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