大正12(1923)年
9月1日 朝鮮人虐殺①
1日夕方、流言発生。警官が流言を流している。
①10月25日、本郷区で開かれた区会議員・自警団代表などの会合で、自警団の代表者は次のように報告したという。
九月一日夕方、曙(あけぼの)町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気をつけろ」と二度まで通知に来た外、翌二日には警視庁の自動車が 「不平鮮人が各所に於いて暴威を逞しうしつつあるから、各自注意せよ」との宣伝ビラを撒布し、即ち鮮人に対し自警団その他が暴行を行うべき原因を作ったのだ。(『報知新聞』10月28日夕刊)
②寺田寅彦「震災日誌」
「九月二日。曇
〔略〕帰宅して見たら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来て居た。・・・・・昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て〇〇人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。」
(寺田寅彦『寺田寅彦全随筆五』岩波書店、一九九二年)
・横浜での流言の発生
横浜での流言は,警察資料によると9月1日にすでに発生している。
山手本町警察署管内で「午後7時頃鮮人200名襲来し、放火、強姦、井水に投毒の虞ありとの浮説壽警察署管内中村町及び根岸町相澤山方面より伝はるとて、部民の一部は武器を携帯し、警戒に着手し、該浮説は漸次山手町及根岸櫻道方面に進行伝播せり」(「大正大震火災誌」神奈川県警察部)とある。
また、鶴見方面では浅野中学校から「三八式歩兵銃五十挺あり。九月一日朝鮮人襲来の噂ありし際、同地青年会員に氏名を控えて貸与せる」(「横浜市震災誌」)と、流言が伝わるとすぐ武器の調達にはしっている様子がうかがえる。
《証言》
〈1100の証言;足立区〉
岩尾研
〔1日、竹ノ塚に〕向島から歩いて帰ってきたんです。帰ってきた時はもう朝鮮人さわぎで、1日から5日間、毎晩、毎晩、朝鮮人さわざでもって、猟銃を打つ、石油缶をガンガンたたいてみんなをねむらせないようにね。とにかくみんなでたたいて村中で警戒した。とにかく寝かせないんですよ、全然。寝かすと殺されたり、いろいろと悪いことをされるからということだったんです。
(日朝協会豊島支部縞『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
仁口関之亟〔当時西新井村東京紡績株式会社勤務〕
〔勤め先がぺちゃんこになり〕次に来たのが「流言蜚語」で、1日夕方頃からだれ言うともなく「在留外国人が、日本に対する反感から東京中の井戸の中に毒を入れて、日本人を皆殺しにする」という噂が広がり、私らも従業員として、にわか作りの竹槍を持って、夕方から朝まで徹夜で工場内、及びその周辺を見回りしたが、別に異常はなかった。私は9月3日の朝頃、東京市中がどうなっているかと思い、一人で社宅を出て、徒歩で西新井橋の北詰めまで来たところ、警戒中の数人の日本人に呼び止められた。
〔略。質問に答えて無事通過した〕
(足立区環境部防災課編『関東大震災体験記』足立区、1975年)
根本秋一〔下谷竜泉寺町で被災。1日夜、北千住荒川堤で流言を聞く〕
流言飛語が乱れとぶ ー 津波がくる?反乱が起きた!自衛のために武装しろ。井戸に毒を入れられたから水は飲むな等々 -
〔略03日〕焼け跡に行って見る。父も姉も元気でバラックを建てていた。姉は白鉢巻に竹槍を持って立っていた。
(品川区環墳開発防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記集』品川区、1978年)
〈1100の証言;荒川区〉
高原たま
〔1日〕家は3時頃には焼けてしまいました。千住大橋近くの神社の境内に避難したのです。幸いなことに、常磐線線路を境に鎮火したので、その夜三河島の親戚へ落ち着いたのですが、今夜は〇〇人が襲ってくる、男は皆棒のようなものを持って表へ出るようにといわれ、又相つぐ余震に夜眠ることも出来ず、町会役員の方もこの際田舎のある人はそこへ行くようにとの指示に、父の郷里前橋へ行くことになり、3日早朝に出発しました。
(足立区環境部防災課編『関東大震災体験記』足立区、1975年)
松本一郎
〔1日、日暮里で〕その夜は又朝鮮人が暴動を起したと言う流言で、生きた心地なく避難する有様。通行人の誰かが、今どこそこの警戒地域は朝鮮人によって破られたと言う様な事を言って通る為、朝鮮人なら片端からスパイ扱いにして目をおおう残酷な方法で、目前で殺されて行く何人かを見た。暑い時で白いワイシャツは赤く血に染まり手をがんじにしばられて尚惨劇はくり返し、道路のあちこちにその人達の死体が横たわっていた。当時ラジオがあったならば此の様な惨状にはならなかっただろうが、朝鮮人には誠に相済まない気特が深く、一日本人として罪を謝したい。
(震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)
〈1100の証言;江戸川区〉
小松川・平井地区
現在の荒川放水路西岸の小松川橋・総武線小松川鉄橋付近での証言が多い。
江戸川区は震災の被害がほとんどなく、隣接する墨田区・江東区から多数の避難民が流入し混乱した。また千葉県の習志野騎兵連隊や市川国府台野重砲連隊が治安出動した地域でもあった。
小松川警察署
鮮人暴行の流言管内に伝わりしは9月1日午後8時にして、これと同時に鮮人に対する迫害もまた開始せられ、本署に同行し来るもの多数に上りしを以て、翌2日軍隊の援助を求めて警戒及び鎮撫の事に従いしが、同3日に及びては本署に収容せる鮮人400名を算せり、これに於て郡・村長、村会議員、青年団長等と共にその善後策を協議せる結果、同5日鮮人全部を軍隊に引渡し、軍隊にてはこれを習志野に護送せり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;太田区〉
市村光雄
〔蒲田の争議団で地震直後の3時に〕近所のご婦人連がどやどやと入ってきて、朝鮮人が油を持って六郷のふもとまで押しよせてきたというのです。〔略。何事もないまま解散〕また夕方になると同じようなことをいって来るのです。
(「純労・南葛労働会および亀戸事件旧友会聞き取り(4)」『労働運動史研究』1963年5月号、労働旬報社)
荒井力雄〔当時高輪中学校1年生〕
〔l日の〕夜になると、外国人騒ぎが始まりました。翌日〔略〕東海道を行って学校裏から馬込村のほうへ入ると、自警団の人たちから「コラコラ!」と呼びとめられました。「お前たち、鉢巻きをしなくちゃだめだ!」というので、私は持っていた手ぬぐいで、ねじり鉢巻をしました。ところが、蝶次の弟は後ろで結ぶ鉢巻きをしたので、「それでは間違えられるよ」と教えてやりました。当時鉢巻のしかたが日本人と外国人とでは違っていたのです。〔略〕しばらくの間、夜は地震と外国人騒ぎを恐れて、戸外に雨戸を敷いてかやを吊り、野宿をしました。
(羽田地区町会連合会編『羽田町民の体験詩集・関東大震災』羽田町会連合会、1978年)"
つづく
上記文中、〈1100の証言;〇〇区〉とあるのは、下記書籍からの引用です。
0 件のコメント:
コメントを投稿