大正12(1923)年
9月1日 関東大震災②
〈神奈川県の被害の概要〉
小田原~鎌倉の相模湾沿岸地域と房総半島の那古、船形・北条・館山等は最も激しい震動に襲われ、木造建物の全壊率は50%超、中には90%超の建物が倒壊した地域もある。
県下の家屋倒壊数は、全棟4万6719戸、半壊5万2859戸、全家屋敷の36%強にあたり、これ以外に津波による流失家屋が425戸。
小田原では全家屋の8~9割が倒壊、市内は全焼。同町小峰の閑院官別邸も倒壊、滞在中の寛子殿下圧死。
根府川では、山津波が根府川部落を埋め、駅に停車中の列車を乗客もろとも海中に押し流し約140名が没。
鎌倉では、神社仏閣多数破壊、津浪による被害も出る。
横浜市では、家屋倒壊数は全壊9800、半壊1万0732、全戸数の20%強に及ぶ。中央部の関内周辺は埋立地で、洋館は石造又は煉瓦造りで耐震性なく、最初の強震で崩壊、内部にいた者は大半が圧死。グランドホテル、オリエンタルホテルも倒壊し外人多数が即死。官庁の大半も倒れ、横浜裁判所では末永所長以下100余名がすべて圧死。南京街で在留中国人5千中2千が没。また、火災により多くの焼死者・溺死者を出す(市の全戸数9万8900戸中6万2608戸が全焼、庄死者を含む死者は2万3335名、重軽傷者1万208名。)。
横須賀では丘陵の地すべりが発生、鉄道トンネルが崩壊して列車3輌を埋め、家屋2301戸が倒壊。
浦賀、逗子、葉山、大磯、平塚、藤沢等の家屋も殆ど倒壊、平塚では海軍火薬廠でガスの引火による大爆発が起り構内の建物22棟が飛散。藤沢の吉村別邸では東久邇宮師正、鎌倉の由比ヶ浜別邸では山階宮妃が圧死。
〈横浜での揺れと被害(内閣府防災情報)〉
神奈川県での揺れが強かったことは、横浜市と東京市の住家全潰棟数を見ても明らか。
当時の横浜市は人口約42万人で東京市の約220万人に比べ1/5の規模の都市であった。一方横浜市の住家全潰棟数は約1万6千棟と東京市の1万2千棟をはるかにしのぐものである。特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた埋立地では、全潰率が80%以上に達するところが多い。この地域は現在のJR関内駅を中心とした横浜の中心地である。火災の発生場所も全潰率の高いこの地域に集中し約290か所に及ぶ。この数は、東京市での数の2倍以上で、密度にすると数倍以上となる。・・・・・。
一方、横浜市の中心地でも、火災に巻き込まれずに多くの人々の命を救ったところもある。横浜公園である。同じくらいの広さがあった東京本所の陸軍被服廠跡地(現在、両国国技館の北隣にある東京都慰霊堂の敷地)で、火災旋風によって4万人余りもの人々が亡くなったのと対照的である。2つの避難地は周辺がすべて延焼地域となった点や、数万人にも及ぶ避難民が殺到したことなど共通する点が多い。しかし、被服廠跡地は避難民とそれぞれが運び込んだ家財道具ですし詰め状況になっていたのに対して、横浜公園では、周囲で住宅の全潰率や出火点密度が高かったために、皮肉にもほとんどの避難者が着のみ着のままで、家財道具を避難地に運び込む余裕がなかった点が大きく異なっていた。横浜公園でも旋風が起こり、園内の建物はほとんど焼け落ちたが、樹木が多くそれらが火の粉を遮ったことや、折から水道管が破裂して園内に大きな水溜りを生じたことに加えて家財道具のような燃え易いものが少なかったことが幸いしたものと考えられる。・・・・・。
〈『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)による横浜市の被害状況〉
当時の同市世帯数は99,840世帯。うち全焼は全世帯の約6割3分の62,608世帯、これに全壊・半壊・破損等を加えると被害世帯は全世帯の95%に達する。
人口は441,600人で、うち死者21,384人、行方不明者1,951人。焼失面積は宅地面積16,198,347㎡のうちの12,892,562㎡で総面積の約80%、東西約4㎞、南北6㎞の広さに及ぶ。
市内所在の官公庁舎のうち、横浜地方裁判所・横浜刑務所・横浜税関・神奈川県庁・神奈川県港務部・横浜郵便局・横浜税務署・生糸検査所・横浜市役所・横浜駅・桜木町駅、加賀町・伊勢佐木町・山手本町・横浜水上・寿・戸部各警察署等、また、公共の施設としては横浜正金銀行・神奈川県農工銀行・横浜商業会議所・開港記念会館・横浜貿易新報社・十全医院・高等工業学校・女子師範学校等が崩壊。
旧居留地の山下町一帯では、建築物の多くは石造またはレンガ造であったため第1震と同時に大半が倒壊。屋内にいた人はほとんど避難できず、通行者も倒壊した建物の下敷きになって死傷者が相次ぐ。米英を始め17ヶ国の領事館は倒壊した後に焼失し、オランダ・中国両国の領事やアメリカ領事代理が死亡。
最も多く死者が出たのは南仲通り正金銀行付近や、日の出町崖下、黄金町末吉橋、吉田橋、南太田町天神坂付近等で各200名以上を数え、真金町で144名、梅ヶ枝町東本願寺別院前では約350名が死亡。
〈『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)による横須賀市の被害状況〉
同市戸数17,000戸の内、焼失2,094戸、全壊1,761戸、半壊4,370戸で、ほとんどの家屋が被害を受け全市が壊滅し、死者742人、行方不明者26人。
火災は地震発生直後稲岡・山王の2町から発して延焼し、若松・大瀧・山王・楠ヶ浦・稲岡等同市目抜きの大部分と佐野・中里の一部を焼き、2日午前5時鎮火。
筥崎(はこざき)軍港の重油槽に貯蔵されていた重油80,000トンが火焔を揚げて流れ出し、第2区港外が火の海と化したので停泊中の艦船は港外に脱出。火の海は約4時間続き、タンク内の重油は十数日間燃え続ける。
同市の市街地はほとんどが丘と丘との間に開けているので、地震と同時に各所で丘陵や崖が崩壊して家屋を倒し、道路を埋めた。なかでも悲惨を極めたのは港町通りの崖の崩壊で、横須賀停車場より市内に通じる唯一の幹線道路全長約763mが埋没し、通行中の約70名が圧死。
〈『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)による県下の被害の被害状況〉
保土ヶ谷町は全壊1,429戸、半壊1,979戸、死者627人、行方不明者16人。特に富士瓦斯(ガス)紡績会社保土ヶ谷工揚は全壊と共に従業員450人の死者。
浦賀町は郡内で最も被害が大きく、焼失131戸、全壊1,169戸、埋没33戸、半壊1,144戸。
戸塚町は全壊527戸、半壊204戸、倒壊率は全戸数の8割7分にあたり、死者31人。
藤沢町は全壊1,505戸、半壊1,177戸、死者128人。茅ヶ崎町は全壊2,112戸、半壊1,207戸、死者155名。
小田原町は横浜・横須賀市に次いで、被害は激甚を極める。火災が発生し、全町の3分の2が焦土と化す。
同町の全壊は1,740戸、半壊は1,304戸、死者179人。焼失戸数は2,268戸で、焼死者219名。行方不明者9名。
真鶴村は全戸数653戸の小漁村だが、震災に次ぐ火災のため、その過半365戸を焼失。海岸では高さ約6mの津波が襲来し19戸を流失。その他埋没3戸、全壊95戸、半壊171戸、死者行方不明者共116人で、全村が壊滅した。
片浦村は根府川の上流約6kmの箇所で山津波が発生、海岸に向って激しい勢いで倒木や土石を押し出し、下流の根府川集落を埋没もしくは海に流し、死者80名を出す。この時、根府川駅に停車中の客車1列車は乗客もろとも海中に落下。また、同村米神集落も山津波のため約半数の30戸が埋まり、約50名が死亡。同村の被害件数は焼失3戸、埋没59戸、全壊102戸、半壊177戸で、一村ほとんどが壊滅して356人が死亡。
国府津町は、全壊279戸、半壊398戸、死者39人。
足柄村は、全焼3戸、全壊911戸、半壊909戸、死者82人、行方不明者17人。
酒匂村は、全焼2戸、全壊611戸、半壊291数戸、死者57人。
早川流域の箱根山はいたるところで崩壊し、森林を埋め樹木を折り、流れを堰き止める等山容や水態が変貌した。
つづく
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