大正12(1923)年
9月1日 朝鮮人虐殺⑫
〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉
大正大震災の記 岩崎之隆〔麹町区富士見尋常小学校六年男〕
〔一日夕〕その中に誰言うともなく、〇〇人が暴動を起したとの噂がばつとたち、それで無くてさえびくびくしている人達は皆ぶるえあがって、そして万一を気づかって多数の人が竹槍を持ったり、鉄棒を握ったり、すごいのになると出刃包丁を逆手に持って警戒をし始めた。而して〇〇人だと見ると寄ってたかってひどいめにあわせる。前の通りでも数人ひどいめにあわされたと言うことである。その暮れのものすごい有様は、今でも思いだすとぞっとする。
〔略〕一時頃になると代々木の原の側の半鐘が急にヂヤンヂヤンヂヤンヂヤンヂヤンと激しく鳴り出した。〔略〕そして話を聞けば今すり番をならしたのは、〇〇人が代々木に再び入った為、非常召集をやったのだそうだ。
〔略。二日〕夜が明けるが早いか巡査がやって来て、一軒一軒に
「かねてから日本に不安を抱く不達〇人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなのを知って、それにつけ込んで暴動を起こそうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じ急に起って市中各所に放火をしたのだそうです。又横浜に起ったのは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺してしまい、段々と東京へ押寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」
と、ふれ歩いたので、皆はもう恐くて恐くて生きた心地もなく、近所の人とひとつ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意をしていた。
午前一〇時とおぼしい頃、坂下の魚屋や米屋や八百屋の小僧等が、わいわい騒ぎながら僕の家の前へ入っていった。何事かとこわごわ聞いて見ると、
「前の家に〇〇人が入ったようだというので皆で探しに来たのだ。」
と言う。どうか早く捕ってくれればいいとびくびくしながらも、こわいもの見たさに門の所に出て見ていた。その中に段々人も大勢きて前の家を包囲しながら中を探し出した。けれどもそれは何かの間違だったのだろう。幾らさがしても出ないので、皆はどんどん帰ってしまった。それで僕はほっとした。余震は中々ひどく揺すってまだまだ安心出来ない。東の空を見ても火事はまだ消えないと見えて真赤である。その中に町内の若い人達が来て、
「今度は〇人が井戸に毒薬を入れ、又は爆弾を投げるから用心して下さい。」
と警告してくれた。皆は又々震え上ってしまった。時々グワウガラガラ…‥と耳をつんざくばかりの響が聞こえる。皆はあれは鮮人が爆弾を投げた音だとか、或は火事と地震で物の崩れる音だとかいろいろ噂をし合っていた。
(東京市学務課『東京市立小学校児童震災記念文集-尋常六年の巻』培風館、一九二四年)
ツルボ咲く頃 前田普羅
〔一日夜、自宅近くに避難して〕
一人の男が薄暗い森林を上って来た。提灯がアワテテ灯されると、其の男は、
提灯を消して下さい、〇〇人が日本人を殺しに来るから。と、底力ある声で吐鳴った。
男の方は全部寝ずに警戒に当って下さい。と付け加えて直ぐ森林を出て行った。女子供は呼吸も止る程に恐れた。然しなお半信半疑で、男は休息し、女達は露除けの下に幼き者たちの寝床を作った。睦子も明子も小さい蚊帳を釣って静かに寝入った。
〔略〕再び先の男が森林に入って来て、
〇〇人は地震の最中、石油を壜に入れて方々に投げ込んで放火したので、今箕輪下停留場で三人殺されました。何時其の返報に来るかも知れないから御用心なさいまし。と云い又森林を出て行った。提灯を消し、蚊燻しとあって生枝が釜の下に投ぜられた。子供達は〇〇人が来ると恐れながらモウ深い眠りに落ちて居る。
〔俳人。当時三九歳、横浜本牧町泉谷戸に住む〕
(『ホトトギス』一九二四年二月号、ホトトギス社)
女の鳥打帽 - 序に代えて矢田挿雲
〔津波の流言の後一日夕刻〕線路の上は線路の下よりも一丈ぐらい高い。それでもいけなければ八景園の山へ逃げる事にきめて一と息つく間もなく『朝鮮人が三百人ほど六郷まで押寄せて来て先頭は大森町に入ったから皆にげて下さい』という布令が廻った。これは全く予想しなかったことなので私は非常に当惑した。況(ま)して地震と火事と津波と暴徒の四つの脅威が同時に女子供の心に働いたのだから、先ずこの位にあわてても仕方はないと思うほど誰しも青くなって取り乱した。小さい子などは全く意味もわからないのに、両手をあげて泣いて其の親にとびついた。〔略〕午後六時我々の界隈は幼稚園主の好意で裏の運動場へ避難させて貰った。男たちは戦線に立つ為めに槍や鉄砲をかつぎ出した。私の家には包丁と鉛筆けずりの外に武器が無かっだ。この混乱に乗じて我々を襲う暴徒を誰も憎まぬものは無かった。私も亦彼等が武器を以て我々を襲うならば殺しても構わないと思った。しかし少し考えた結果、殺すことは余程考えものだと思った。彼等も用心の為めに武器を携えて居るのかも知らない。その武器を以て明らかに我々を殺そうとする時の外は決して殺しではよくないと思った。午後九時ラッパの音がして軍隊が到着した。やがて海岸の方で銃声が交換された。幼稚園にすくんで居た二百人ほどの男女は初めて少し安心した。或青年は直立不動の姿勢に於て『市街戦が始まりました』と報告した。
その騒ぎの最中であった。四五人の鮮人が東京の方から線路を伝って来た。在郷軍人の一団がすぐに取巻いて検問すると、それは鮮人は鮮人だが品川警察の証明書を命の綱とたのみ、朝鮮まで帰ろうとする出稼ぎ人夫であった。弥次の中から一人の土木の親方らしいのが出て、朝鮮語を交えて猶お詳しく検問した上でこれから夜に向いてあるいちゃ直ぐ殺される。うんにゃ、そんな書きつけあってもナ、それを見せる間に殺される』と槍で胸を突いて見せた。四人の鮮人は泣き顔を見合わせて居た。親分が『今晩はおれんとこへとめてやろう。そしてあした早く行くがいい』と荒々しく云ってどこかへ連れて行った。私はその親方に感謝を禁じ得なかった。果して無事に朝鮮まで帰ったろうかと今でも時々思い出す。
幸いにして私は朝鮮人が暴れる所を目撃しないですんだ。朝鮮人を殺すことを否定する心がその翌日から盛んになって来た。そして自警団の中に落着いた青年と浮かれた青年と二いろあることが目について来た。擬似警察権を弄ぶことに有頂天になって、歯の浮くような態度をとっているものがあった。
〔小説家、俳人。当時四一歳、大森(現・大田区)に住む、報知新聞社会部記者〕
(矢田挿雲『地から出る月』東光閣書店、一九二四年)
つづく
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