エブロ川のエルピラール大聖堂。 (サラゴサ、スペイン)
*1771年10月、ゴヤはサラゴーサヘ帰って来た
「一七七一年一〇月、ゴヤはサラゴーサヘ帰って来た。
・・・
・・・おそらく・・・、マドリードを経て帰って来たものであったろう。たとえ短期間であったとしても、留守をした以上は、マドリードでの様子を心得ておかなければならないであろう。
そうして、もしマドリード経由であったとしたら、おそらくバイユーのところへ帰国の挨拶くらいはしに行ったものであろう。
そうしておそらくこのバイユーに、故郷のサラゴーサに一つ仕事がある、どうだ、やってみないか、帰って君の旧師のルサーンに会って事情を聞いてみるがよかろう、といった話を聞かされたものであったろう。」
サラゴーサでの仕事というのは、エル・ピラール大聖堂の丸天井にフレスコ画を描くことであった
「サラゴーサでの仕事というのは、エル・ピラール大聖堂の丸天井にフレスコ画を描くことであった。
この寺院の建築は一六八四年に開始されたもので、ようやく完成に近く、そろそろ装飾が考えられなければならぬ段階に達していたものである。
この機会を失ってはならないであろう。
いままで三度も、ゴヤは失敗、落選をしているのである。」
「・・・エル・ピラールは、もう一つのラ・セオ大聖堂と並び立つ、サラゴーサを代表する教会である。二つの教会は、いかなる場合にもこの独立不羈な市民たちに対して絶対的な権威をもっていた。・・・」
ここで成功をすれば、ゴヤは、サラゴーサを代表する画家ということになる
「・・・エル・ピラールとラ・セオは、ほとんど隣り合ってその建築の豪勢さを競っていたものであった。エル・ピラールの方は、スペイン国そのものの守護聖者であるヤコボに対して、聖処女マリアそのものが、ある柱(エル・ピラール)の上にあらわれて伝道のための道程を示された、という高貴かつ重要な由緒をもつものであった。
ほかならぬこのエル・ピラールの丸天井にフレスコ画を描く。
ここで成功をすれば、ゴヤは、サラゴーサを代表する画家ということになるのである。
機会を、つかまねばならぬ。
機会の方が、向うからやって来てくれたのである。」
この機会をつかむために、われわれの主人公は、どうやら少々悪賢く振舞った形跡がある
「この機会をつかむために、われわれの主人公は、どうやら少々悪賢く振舞った形跡がある…‥・。
・・・
適当な画家を選ぶための委員会は、聖職者と市民の代表から成っていて、彼らは自ら選んだ画家の、フレスコ画のための能力と既成の成績を勘考しなければならない。それから過大な費用、つまりは画料を請求されても困る。もう一つ、あまりに長い年月をかけられても困るのである。早描きの出来る画家でなくてはならぬ。
ゴヤは、言うまでもなく機会に飛びついた。
審査のための下絵は、マトリードのアカデミイヘ送って、その推薦をうけるものとする、という条件もがくっついていた。」
競争者ゴンサレス・ベラスケスは、画料二万五〇〇〇レアールを要求したが、ゴヤは、一万五〇〇〇レアールを提案
「彼の競争者は、この場合には一人だけいた。アントニオ・ゴンサレス・ベラスケスという、その当時ではかなりに名の通った画家であり、この人にはすでに本堂内陣の上の丸天井に一群の天使にかこまれた聖処女の出現画が委嘱されていたのである。いまわれわれの青年とのあいだで競争になっているものは、内陣中の合唱席の天井画である。
・・・
ゴンサレス・ベラスケス氏は、後者の画料として二万五〇〇〇レアールを要求していた。
ゴヤは、一万五〇〇〇レアールを提案した。」
「おそらくゴヤは、何等かの手だてを弄して、ゴンサレス・べラスケスのつけた値段をさぐり出したものであろうと思われる。」
1771年10月21日、委員会決定。それは、最初の勝利であった
「・・・一七七一年一〇月二一日に、委員会は決定をした。
三週間後にフレスコ画の技術を実証するための下絵が提出され、委員会の承認をえた。
そうしてさらにふた月の後に、全体の下絵が提出された。
それは、最初の勝利であった。
委員会は、マドリードのアカデミイの推薦をうけるまでもない、と自分たちの眼に誤りがなかったことを誇りに思って、ゴヤに正式に委任をしたのてあった。
一万五〇〇〇レアールにて、労力及び材料費は画家もちのこと。
記録は、一七七二年六月に、天井からぶら下げてあった足場がとり払われた、としているから、約半年で完成したことになる。」
私は遺憾ながらこれらの天井画を、見たとは言い切れない
「サラゴーサの、このエル・ピラールでのゴヤの最初の仕事も、実はまことに見るに難いものである。天井の高さは高し、採光も極度にわるく、もう一つ困ったことに合唱席を取り巻く独立した巨大な堂内建築が邪魔になる。」
「右のような、いわば物理的、生理的理由によって、私は遺憾ながらこれらの天井画を、見たとは言い切れないのである。」
この絵の手法は、スペイン・バロックの手法に確実に添ったたもの、と言える
「われわれの主人公がいま描いているフレスコは、きわめて部厚い、山塊のような雲のかたまりに乗った「天使たちによる神の御名の礼賛」を表現したものであり、一定の題名はない。エル・ピラールの後陣穹窿のためのフレスコ画、と通称されているものである。
この雲のかたまりは、望遠鏡でて見上げる限りでは、いかにもしっかりした山のように見えて、到底踏み抜いたりすることはあるまいと思われるほどのものである。そうして右と左の両側に二組の大天使が位置していて、その他の小型の天使たちは、大胆にX字型に配置されている。
大胆に、と言ったのは、穹窿の彎曲を生かして奥行きを出すためには、これがおそらくは最良の方法であろうと思われるからてある。そうしておいて、三位一体をあらわし、そのほかに、減多に口には出来ない神の名がヘブライ語でしるしてある、ということである。
ということである・・・と書いたのは、保存されている下絵には、たしかにそのヘブライ語は見えているけれども、本番のフレスコ画では、いくら望遠絶でのぞいてみても私には見とれなかったからである。
ところで、この絵の手法は、ということになると、それは新古典主義などといったものではなく、スペイン・バロックの手法に確実に添ったたもの、と言えるであろう。ゴヤは、ほとんどはじめて”時の好尚”に自分をあわせることが出来た。」
とは言うものの、ゴヤはやはりゴヤなのであって
「とは言うものの、ゴヤはやはりゴヤなのであって、輪郭そのものをあまり重要視せず、色調によって重要な部分を押え込んで行く。天使たちの、とりわけて眼は、窪んだ穴のようにがくんと引いていて、その眼の奥にあるものへと人の視線む吸い込んで行く。少しの誇張を許してもらえるならば、私は望遠鏡む吸いとられるような思いをしたものであった。そうして、天使たちは、ほとんどが女性である。しかもモデルの個性表現が見られる。その辺のことは、このあとに、後半のゴヤの宗教的な仕事の性格をすでに予言しているものと言って差支えがないてあろう。
また、人体の量塊による表現もまた、後年の彼を予言しているであろう。その量塊のおのおのがもつ色調間の関係、対比が運動の表瑚となって行く点もまた、すでに、この最初期の作品に出ているのである。」
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