2026年4月19日日曜日

〈働いて、働いての高市早苗〉 首相動静18日、一日中公邸で過ごす。 / 17日、閣議は朝の8分間 国会も1時間2分 中東首脳や関係者との面談ゼロ 18:35には公邸に帰宅 官邸前、議員会館前デモの市民の声は届いたでしょうか?

 

2026年4月18日土曜日

神経精神科医ボリス・シルルニー「トランプ氏は精神疾患ではない。狂ってはいない。心神喪失なら法的に免罪されるが、トランプには責任がある。彼は衝動に駆られるサイコパス(共感性や良心、罪悪感の欠如した人格)だ。教育不足に起因する発達障害だ」 /  「トランプはアルツハイマー」という説は間違いだ。なぜならアルツハイマーは「忘れる」病だからだ。しかし彼は忘れていない。むしろ激化している。これは別の病態——前頭側頭型認知症(FTD)の特徴だ。 FTDの核心症状は「虚語」である。記憶の欠損を、本人も信じきった作り話で埋める現象だ。 トランプは「7個か8個の戦争を終わらせた」と本当に信じている。FIFAの参加賞を「大いなる名誉」と本気で思っている。嘘発見器に引っかからない理由がここにある。 見逃すな。FTDは脳のブレーキ——衝動抑制、自己監視、現実検討——を全て破壊する。そこに悪性ナルシシズムが載る。ブレーキ無しの暴走車に、さらにアクセルを直結するようなものだ。これは単なる認知症ではない。相乗効果の恐怖である。、、、、、    


 「トランプはアルツハイマー」という説は間違いだ。なぜならアルツハイマーは「忘れる」病だからだ。しかし彼は忘れていない。むしろ激化している。これは別の病態——前頭側頭型認知症(FTD)の特徴だ。

FTDの核心症状は「虚語」である。記憶の欠損を、本人も信じきった作り話で埋める現象だ。 トランプは「7個か8個の戦争を終わらせた」と本当に信じている。FIFAの参加賞を「大いなる名誉」と本気で思っている。嘘発見器に引っかからない理由がここにある。

見逃すな。FTDは脳のブレーキ——衝動抑制、自己監視、現実検討——を全て破壊する。そこに悪性ナルシシズムが載る。ブレーキ無しの暴走車に、さらにアクセルを直結するようなものだ。これは単なる認知症ではない。相乗効果の恐怖である。

身体症状もアルツハイマーと明確に異なる。右足を引きずるような歩容。体の前傾。「ユナイテッド・シェルシェ」「ミシズ」「クリキジャス」といった発音崩壊。これらはFTDの非流暢性失語と運動症状そのものだ。

問題の本質はここから先だ。アルツハイマーと誤認することは「ただの認知症」という見逃しを生む。FTDは悪性ナルシシズムの最後の抑制を剥ぎ取る。剥ぎ取られた先に何が現れるか?ジェット機から国民に動画を撒く行為。神様ごっこを演じる姿。これらは「衰え」ではない。解除された残虐性だ。

専門家集団Duty to Warnは2017年から警告していた。当時は無視された。今、その悪夢は現実として進行中である。あなたが見ているのは記憶障害ではない。ブレーキを失ったナルシシズムの最終加速局面だ。

結論を言おう。彼の脳にはもはや現実を止める仕組みが残っていない。そしてその事実は、大統領職という制度そのものを内部から崩壊させている。あなたが無意識に信じてきた「正常な統治は正常な認知を前提とする」という常識。その前提は、もうどこにも存在しない。

Frank George, Ph.D.(臨床心理学博士)

『The Gaslight Report: Dammit, It's Not Alzheimer's!』

(「違う、それはアルツハイマーじゃない——はるかに悪い悪夢のシナリオ」より)

トランプのホルムズ開放発表の20分前にまた大きなインサイダー取引があったらしい。 / 速報:トランプ氏がホルムズ海峡が開かれたと発表するわずか20分前に、市場に巨額の取引が殺到した。 投資家たちはブレント原油先物の合計7,990ロットを売却し、石油価格が下落するという7億6,000万ドルの賭けに出た。 これらの注文は、当時の他のどんなものよりもはるかに大きかった。 トレーダーたちは巨額の利益を上げた。 異常だ。


 速報:トランプ氏がホルムズ海峡が開かれたと発表するわずか20分前に、市場に巨額の取引が殺到した。

投資家たちはブレント原油先物の合計7,990ロットを売却し、石油価格が下落するという7億6,000万ドルの賭けに出た。

これらの注文は、当時の他のどんなものよりもはるかに大きかった。

トレーダーたちは巨額の利益を上げた。

異常だ。




トランプ氏、支持離れに拍車 対イラン作戦で不満表面化―米(時事) / トランプ大統領、Z世代の支持をイラン攻撃で急速に失う ; トランプ大統領は選挙で「新たな戦争を始めない」と約束したものの、今年2月末にイラン軍事施設を空爆し、Z世代から強い反発を買っている。この世代はイラク戦争などの泥沼を幼少期から見て育ち、海外介入に拒否感が強い。NPR調査では18~29歳の64%が攻撃に反対し、失業率の高止まりやガソリン高騰も不満を増幅させている。中間選挙を前に、若者の離反が共和党に重荷となる可能性が高い。

 

大杉栄とその時代年表(808) 1908(明治41)年10月19日~31日 「十月十九日 十時頃起きると並木君が来た。昨日のボートレースに敗けたといつて残念がつてゐた。一緒に昼飯を喰つて、文部省の美術展覧会を見に上野へ行つた。櫻の葉が少し散つてゐる。日本画の方はソコソコに済して、竹の台の洋画の方へ行つた。出品百余点。二三氏のものを除いてはまだまだ日本の画会も幼稚なもの。・・・・・最後の室にゆくと、鹿子木孟郎氏の大作“ノルマンデーの浜辺”、よく海岸の淋しさが表はれてゐた。・・・・・さて大評判の和田三造氏の“煒燻”、何といはうかこの猛烈な色、見てゐると、何か知ら崇厳な生活の圧迫が頭を圧する………」(啄木日記)

 

和田三造〈煒燻〉

大杉栄とその時代年表(807) 1908(明治41)年10月10日~18日 「昨日も上野へ行つて見ると、展覧会の賑ひは意想外である、その賑ひをなせる観覧者の要素の啻に美術学生等の専門家ばかりでなく、あらゆる職業の人を集めてゐるのには、一驚を喫せざるを得なかつた、やがてこれは美術思想の普及を示すものである、兎角の批評は擱いて、文部省が一臂の力をこの方面に仮〔ママ〕した為に明治美術の存在が世人に知られた一事は徳としなければならぬと思ふ」(『万朝報』) より続く

1908(明治41)年

10月19日

警察当局、反清革命派の中国同盟会の機関誌『民報』を発禁。

この日、日本政府は『民報』第27号を、「新聞紙条例第三十三条違反」として、「発売頒布ヲ停止シ及ビ之ヲ差押エ」た(外交資料「民報関係雑纂」乙秘第1074号、明治41年10月22日)。「発行所の変更を届けなかった」というのがその理由である。このような言いがかりともいえる方法でしか、発行停止に持ち込めなかった。

『民報』の発行停止は、思想の拠り所を失わせただけでなく、収入の上からも打撃になった。

編集長の章炳麟がその不当性を裁判で訴えた。宋教仁も通訳として裁判に立ち会い、法律論を駆使して闘ったが、50円の罰金刑が確定し、『民報』は事実上の廃刊に追い込まれた。彼らはこの罰金の捻出にも苦労し、納付期日まで間に合わなかったため、章は一時入獄している。

この問題には、当時留学生だった魯迅も関わっていた。彼は清朝考証学の学者である章炳麟が、民報社で開いていた国学講習会に通っていた。その当時について、魯迅の弟周作人が書いた『魯迅の故家』に次のような一節がある。

「民報社に通って聴講していたときに、『民報』誌が日本政府によって発行を禁止された。原因はもちろん清国政府の請求によるものだが、表面の理由は出版法違犯ということであった。〔略〕『民報』は同盟会の機関誌といっても、孫中山派はずっと前から関係していなかったので、この罰金も章太炎〔章炳麟のこと〕自身が支払わなければならなかった。納付期限をすぎても支払えないと、一円一日の計算で懲役に服さなければならない。期限ぎりぎりの日になって、龔未生(宝銓)が魯迅を訪ねて相談し、結局さらに許寿裳に頼み、『支那経済全書』の訳本の印刷費の一部を流用してもらって、やっと急場をしのいだ。この事件のために、魯迅は孫文派の同盟会のやり方に非常な不満を感じた(武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』より)。


10月19日

「十月十九日

十時頃起きると並木君が来た。昨日のボートレースに敗けたといつて残念がつてゐた。一緒に昼飯を喰つて、文部省の美術展覧会を見に上野へ行つた。櫻の葉が少し散つてゐる。日本画の方はソコソコに済して、竹の台の洋画の方へ行つた。出品百余点。二三氏のものを除いてはまだまだ日本の画会も幼稚なもの。・・・・・最後の室にゆくと、鹿子木孟郎氏の大作“ノルマンデーの浜辺”、よく海岸の淋しさが表はれてゐた。・・・・・さて大評判の和田三造氏の“煒燻”、何といはうかこの猛烈な色、見てゐると、何か知ら崇厳な生活の圧迫が頭を圧する………

この画の前を去りかねてゐると、僕らの背後に一人の二十才少し上の、稍背の高い、肉置のゆたかな女が立つてゐた。これは入場した時から僕らと前後して歩いてゐたのだ。マガレツトに幅広の白いリボンを結んで、衣服は何とやらいふお召の羽織に黒い縫紋。女中を一人つれてゐたが、画の見方で怎うやら素人でなかつた。

所へ一人の中背の、やせた、余り風采の揚らぬ、鼠の中折を被つた三十二三の人が来て、此女と挨拶した。そして女が、

“随分思切つた色をおつかひでござンしたねえ!”

“駄目です。”とその人が強く言つた。“思切つて書いたつもりでしたけれど、此処へ持つて来てみると、まるで駄目です。”

“そんな事はございません。私なんかモウ此処から離れたくない様で………”

“自分の画の前に立つてゐると、何だか変ですね。”と言つて軽く笑つたその様子には、妙に恁う小供らしい表情があつた。誰あらう、これがこの天才和田氏でなくて?

と、その女は、

“鹿子木さんも大分大きいものをお出しでござんしたねえ。”

と、パタパタ唇をたたいてゐたプログラムで、横の方にある“ノルマンデーの海辺”を指して言ふ。

“え。パンを食つて書いたのは違ひます。”

この語は、異様に強い響きがあつた。予は妙に憧がれる様な気持で、この人を見た。蓋し鹿子木氏は洋行して来たが、和田氏はまだ行かぬのだ!

和田氏の姿はやがて見えなくなつた。女は室から室と、繰返して見てあるいてゐた。そのうちに僕らが出て了つた。後からその女も出て来て、日本画の方へ行つた。その後姿を茶店のベンチの上から見送つて、屹度女画家であらうと僕は思つた。

彫刻の方では、特別室は見かねたが、荻原守衛氏の“文覚”には目を睜つた。この豪壮な筋肉の中には、文覚以上の力と血が充満してゐさうだ。

    ――――――――――――――――

竹の台のあちこち、通訳をつれた米艦水兵が、三々五々、遊んでゐた。

(略)」(啄木日記)


10月20日

台湾総督府、極印付円銀を公納に使用し得る期限を12月31日限りとする旨制定。円銀は時価をもって引き換え。

10月20日

宮本顕治、誕生。

10月20日

岩野泡鳴『新自然主義』。

10月21日

西園寺公望、桂太郎宛の書簡で、東京に戻った折にお会いしたかったが、「実は宿痾又起り気分あしく」、御多忙中の妨げになると思い失礼しました、と体の不調を述べる。

政友会代議士会や大会における西園寺総裁の演説も、代読が多くなり(1908年12月19日、1909年1月19日、1910年10月19日)、西園寺が行っても演説中に自ら病気にに言及することが多くなる(1909年3月26日、1910年3月25日)。

10月21日

(漱石)

「(十月二十一日(水)、狩野亨吉、病気理由に、京都帝国大学文科大学学長を依願退職する。)

十月二十二日(木)、木曜会。西村誠三郎(濤蔭)・小宮豊隆ら来る。夜、寺田寅彦来る。

十月二十三日(金)、高浜虚子宛手紙に、『寺田寅彦小説集』について、寺田寅彦の意向を伝える。序文は、集った文章を読み直してからにしたいと云う。


「虚子『寅彦小説集』編纂の計畫の由なり」(「寺田寅彦日記」)から推定すれば、漱石は寺田寅彦に、高浜虚子が『寺田寅彦小説集』という文集を計画していると伝える。だが、寺田寅彦は、文集の題名に自分の名前を冠することは強く辞退する。但し、漱石の序文が付くことは反対しなかったらしい。」(荒正人、前掲書)

10月21日

「十月二十一日

秋声の“凋落”を読み了へた。印象は灰色の重き圧迫! この作者は非常に苦心してゐる。が、技巧にはまだまだ足らぬ所がある。世評はこの人の苦心に酬ゐてゐない!

夜また独歩の“濤声”をくり返して、涙が出た。そして金田一君の室へ行つて二時間許り語つた。――今の予には何かは知らぬが力がある。希望がある。そして金田一君も國學院大學の講師になつた。」(啄木日記)


10月22日

幌別鉱山で暴動

10月23日

文部省、教育を通じて戊申詔書の国民道徳作興の聖旨を奉体するよう、直轄学校長、地方長官らに訓令。

10月23日

淡路十四師団を宇都宮へ移す

10月23日

「十月二十三日

よく晴れた日。今日米艦隊の提督スペリーが公式に退京するさうな。

(略)

・・・・・十一時少し前千駄ヶ谷の晶子さんから電話、吉井が来てゐて歌をつくるから来いといふのですぐ出懸けて行つた。再昨夜出した筈の原稿がまだ着かぬといふ。

夕方までに三十五首作つた。平野君もその頃来た。一人六時頃に辞して帰りを平出君に寄つたが留守。

帰つて来て平出君に手紙出した。十時まで金田一君と語つた。十一時頃に一寸出ておでんを喰つて来た。


十月二十四日

午前中に明星へ改めて原稿をかいて送つた。先に書いたつた詩三篇と歌六十首。

此朝にせつ子から葉書。宝小学校の方十六日付で辞令が下つて、十九日から出勤してゐると。三給上俸といふと、予が弥生にゐた時と同じ十二円だ。せつ子に恁麼事(*そのような事)をさせる! それはそれとして、予はホツと一息ついた。家族は先づ以て来春まではあまり郁雨君の補助も仰がずに喰つてゆける。

そして光子も来月から何とか云ふ外国人の家庭教師になることに話がきまつたので、京子を守するために月末までに岩見沢へ行つてゐる母を呼ぶと。

(略)」(啄木日記)


10月24日

台湾の縦貫鉄道全通式挙行(基隆~高雄)

10月25日

小村寿太郎、高平小五郎駐米大使に太平洋問題および清国における機会均等主義に関する日米協商案を訓令。

26日 高平大使、米大統領に草案提示。

10月26日

榎本武揚(73)、没。

10月26日

「十月二十六日

今日はよい日であつた。午前に栗原君から葉書。“鳥影”を島田社長と合議の上貰ふことに確定したと言つて来た。

(略) 

清岡、新渡戸、櫻庭及び郁雨正二君とせつ子とへ葉書――毎日社の小説きまつた事を知らしてやつた。

(略)」(啄木日記)


10月27日

(漱石)

「十月二十七日(火)、エイ、百日咳から腸チフスになり、昨今やっと快方に向う。

十月下旬または十一月初め(日不詳)、春陽堂から『文學評論』の整理催促され、訂正に熱中する。今年中に出版したいという。(明治四十二年三月十六日に刊行される)」(荒正人、前掲書)

10月28日

デイリー・テレグラフ事件。

独皇帝ウィルヘルム二世、英紙『The Daily Telegraph』のインタビュー。自分は英に対して友好的だが独国民の大半は反英的であると発言。国際的反響、皇帝への批判高まる。両国で物議。独首相のフォン・ビューロー公、後に辞任。

10月29日

「世界婦人」発行兼編集人神崎順一の公判。東京地裁。

10月30日

「十月三十日

朝飯を十時頃にすまして、戸塚村に小栗風葉氏を訪ねたが、運悪く不在。・・・・・

千駄ヶ谷に行つて晶子さんに色々話して二時半頃かへつてくると、与謝野氏に逢つて又戻つた。そして晩餐を御馳走になつた。

新たに帰朝した上田敏氏を訪ねた。与謝野氏の伝言を伝へて一時間半許りも話した。少し頭の毛がうすくなつてゐる。そして、盛んに日本文学者がプライドを失つてゐると気焔を吐かれた。

八時頃平野君に途中で逢つて帰り、十時まで語つた。そして昴の一号へ出す小説の題を“泥濘”とした。

妙に昂奮してゐて、金田一君の室へ行つて気焔を吐いた。


十月三十一日

(略) 早起。終日の雨。寒暖計は五十一度に下つた。綿入を着て猶寒い。

貸本屋から借りて、二葉亭訳の“浮草”をよんだ。風葉の青春がこれからヒントをえたものであらう。

約の如く夜雨を犯して千駄ヶ谷にゆき、五円貰つた。帰りに仏語の独修書をかつて来た。

(略)

この日の東京毎日に、“鳥影”の予告文が載つた。」(啄木日記)

10月31日

三菱合資三菱造船所(長崎)、500kWのパーソンス式蒸気タービンを製作、据付。同造船所用の発電機に使用。

10月31日

日韓漁業協定調印。両国民は相手国の沿海、港湾、河川、湖池で漁業をなし得ることとなる。1909年4月1日施行。

10月31日

新詩社の同人で東京毎日新聞社に勤務する栗原古城(元吉)の厚意で「東京毎日新聞」に新聞小説「鳥影」を連載することになり、この日啄木の書いた予告が同紙に掲げられた。「本朝の御紙にて予告文を見、聊か若き心のをののくを覚え侯」(栗原古城宛10月31日書簡)

10月31日

日韓漁業協定調印。両国民は相手国の沿海、港湾、河川、湖池で漁業をなし得ることとなる。1909.4.1 施行。

10月末

箱根林泉寺内山愚堂、秘密出版パンフレット「入獄記念・無政府共産(小作人はなぜ苦しいか)」を巣鴨平民社に持込み全国に発送を依頼。「パンの略取」出版準備中の幸徳秋水は影響を恐れ拒否。平民社にいた森近運平が同情して読者名簿を見せる。

翌日、愚堂は新橋駅前郵便局、国府津駅から発送。

(11月3日愛知県知多郡亀崎町の亀崎鉄工所労働者宮下太吉のもとに50部が届く)。

愚堂は、年内に「道徳否認論」「帝国軍人座右銘」等出す。


つづく


横浜散歩 アメリカ山(モッコウバラ、ハナミズキ、ミヤコワスレ) 横浜気象台付近(ミヤマオダマキ、オダマキ;ピンクランタン) 港の見える丘公園(チューリップ、ツリガネズイセン(青、白)、ジャーマンアイリス) フランス山(モミジの翼果) 山下公園(シラン、花壇展) 2026-04-17 

 4月17日(金、昨日)晴れ

前日の16日、みなとみらい~赤レンガ倉庫~横浜公園のルートを歩いたので、この日は、元町からアメリカ山公園~港の見える丘公園~フランス山公園~山下公園のルートを歩いた。

うまくいけば、咲き始めのバラが楽しめるかも、、、と期待していたが、アメリカ山のモッコウバラが見頃だった以外は、まだまだだった。

前日、大桟橋で見た大型クルーズ船(飛鳥Ⅲとコーラルプリンセス)は完全に姿を消していた。ある方のインスタグラムによると、この日は飛鳥Ⅱも新港埠頭に居て、17時同時に飛鳥Ⅱ、Ⅲは出港したとのこと。大黒埠頭からは2隻揃ったところが綺麗に撮れたとのこと。そして、コーラルプリンセスは夜11時の出港だったとか。

▼アメリカ山公園

▼モッコウバラ

白色黄色ともにまだ満開には至ってないが、見頃だった。


▼ハナミズキ

昨日の記事には、ハナミズキの蕾と書いてしまったけど、この花びらのように見える部分は、総苞片(そうほうへん)という葉が変化したものとのこと。


▼ミヤコワスレ これからもっとたくさん咲いてくるはず

▼横浜気象台付近

▼ミヤマオダマキ

▼オダマキ;ピンクランタン

▼港の見える丘公園

▼チューリップ 多数あり

▼ツリガネズイセン(白)

▼ジャーマンアイリス 他にも多数あり



▼ツリガネズイセン(青)

▼フランス山

▼モミジにたくさんの翼果

▼翼果 乾いた状態になって、種を風に飛ばすとのこと。

▼山下公園

▼シラン(紫蘭)の群生

▼山下公園の花壇展




2026年4月17日金曜日

中国人への殺害予告「頻繫にあった」 在日大使館が発表(時事) / 中国大使館に相次ぎ脅迫 侵入前も、日本の対応批判(共同) / 脅迫状「高市早苗首相の支持者たる我々日本人はお前たち志那人を皆殺しにすることを決定した……高市早苗万歳」 / 31日には交流サイト(SNS)経由で即応予備自衛官を自称する人物から「遠隔式爆弾を設置した」と脅された。


 施泳臨時代理大使:3月5日、「特殊部隊出身の元警察官および自衛官によって構成された軍事的精鋭部隊」と名乗る人物が当館に脅迫状に送り、「中国大使館、領事館を襲撃し、日本国内の支那人を一人残さずこの世から消し去る」と称した。脅迫状が届いて、大使館は直ちに警察当局に通報した。しかし、日本側はこれを重視せず、有力な措置がとっておらず、いまだ事件の真相を解明していない。それから19日後、現役自衛隊員村田晃大が刃物を持ち、塀を乗り越えて大使館を侵入したという深刻な事件が発生した。中国側は緊急に日本外務省、警察当局に厳正な申し入れを行った。しかし、侵入事件からわずか一週間後、3月31日に、「即応予備自衛官」と名乗るもう一人の人物がSNSを通じて「大使館内で遠隔起動式爆弾を仕掛けた」と称し、当館宛てに威嚇、脅迫をした。大使館は直ちに警察当局に通報し、当日警察によって2時間近く爆発物対応作業が行われた。




神奈川の企業、6千社が倒産危機 TDB調査、運輸・通信業の割合高く(神奈川); 県内に拠点がある約6千社が、1年以内に倒産するリスクを抱えている。コスト上昇分の価格転嫁が進まない運輸・通信業や小売業の中小企業で目立つ。

 

円安深刻化、1万円の価値が5年で3割超減少を示すグラフが注目 ; ユーザーKS氏が4月16日に投稿したグラフは、1万円をドル、ユーロ、ポンドなどに両替した場合の価値が2021年から2026年にかけて軒並み3割以上減った実態を視覚的に示し、数千のいいねを集めた。17日時点で1ドル159円台、1ユーロ184円台と高止まりし、実質実効為替レートは過去30年最安値圏にあり、1970年代並みの水準だ。中東情勢の原油高が輸入コストを押し上げ、従来の「有事の円買い」が機能せず、株高も円安頼みとの声が広がる中、家計の物価高や実質賃金低下が深刻化している。


 日経新聞、大塚記者は円に対して冷たい諦観を込めた見方をする。「リスクオフでもリスクオンでも円売り」「ドル高でもドル安でも円安」。

私も先週指摘したが、名目実効為替レートでは円の価値は2024年7月の安値を「とっくに底割れし、『超円安』ゾーンにある」。

「原油高が一服するなかでの投機の円安ならまだいい。財務省にとって円買い介入の余地も生じる。だが交渉が決裂して原油高が再燃し、市場の警戒色が強まるリスクはなお高い」。

「インフレ懸念と物価高対策の財政出動で長期金利も上がり、『原油高・円安・債券安』のトリプルパンチになりかねない」。

高市政権が進める円安ホクホク政策は、日本における生活を根本から揺るがしている。




大杉栄とその時代年表(807) 1908(明治41)年10月10日~18日 「昨日も上野へ行つて見ると、展覧会の賑ひは意想外である、その賑ひをなせる観覧者の要素の啻に美術学生等の専門家ばかりでなく、あらゆる職業の人を集めてゐるのには、一驚を喫せざるを得なかつた、やがてこれは美術思想の普及を示すものである、兎角の批評は擱いて、文部省が一臂の力をこの方面に仮〔ママ〕した為に明治美術の存在が世人に知られた一事は徳としなければならぬと思ふ」(『万朝報』)

 

文部省第二回美術展覧会図録

大杉栄とその時代年表(806) 1908(明治41)年10月4日~9日 「十月九日 新聞の海外電報は、欧州外交界の活気を伝へてゐる。墺国のボスニア、ヘルゼゴビイナ合併、勃牙利の独立宣言、クリート島の希臘合併宣言………列国会議が開かれねばならぬ事となつた。世界の視聴は今巴爾幹半島に注がれた。そして、そして、此活劇の脚色家は、独帝にあらずして誰だらう!」(啄木日記)

1908(明治41)年

10月10日

清国、江蘇諮議局成立。

10月10日

東京麻布板倉の南紀文庫、一般公開式を挙行。

10月10日

木曽興業株式会社創設。資本金60万円。

10月10日

バルカン諸国に圧力をかけバルカン危機解決のための会議開催強要。

12日、露イズヴォリスキー外相、英にバルカン情勢に関する会議参加を承認させる。イズヴォリスキー、9日~14日ロンドンに滞在し自らの海峡(ダーダネルス、ボスポラス)構想支持を英に説く。英が海峡解放支持の条件としてトルコの同意を挙げたため露の構想は挫折。会議開催を求める交渉、継続。

10月12日

南アフリカ制憲会議。南アフリカ連邦化のための国民集会。ダーバン(~11月5日)とケープタウンで開催(~1909年2月3日)。ケープ、ナタール、オレンジ、トランスバール4州の連邦制度案起草。新議会制度発足。アフリカーンス語と英語が公用語。州政治権限制限、連邦政府に従属(~1910年5月31日)。

10月12日

タブリーズ立憲派、王朝軍部隊の総攻撃を撃退。

10月13日

9日に公布された条約改正準備委員会官制で、委員ら任命される。

10月13日

戊申詔書と地方改良運動

日露戦争後、農村の疲弊の為、新たな農村・農民の創出を目的として発布。「上下心を一にし、忠実業に服し勤倹産を治め・・・。」。そして、これを指導理念とした行財政改革である地方改良運動が展開。

行政村と自然村の二重構造を解消し、部落有林を統一し、運営の方針を提示した町村是を定めることがいわれ、農村を支える階層(中小地主・自作農上層)を作り出そうとする。

産業組合・農事改良組合が設立され、二宮尊徳に由来し農村再建をめざす報徳社が着目され、農業生産力増進が目的とされる。

第2次桂内閣内相平田東助は、県-郡-町村の指示系統強化を図り、地方改良事業講習会をさかんに開く。静岡県稲取村、千葉県源村、宮城県生出村はた模範村として表彰される。

10月14日

第2琵琶湖疏水開削工事、大津で起工式。1912年6月15日竣工。

10月14日

(漱石)

「(十月十四日(水)、鈴木三重吉、小宮豊隆を訪ね、明日成田に行くと伝える。(私立成田中学校の英語教師になる。年俸八百円)夜、鈴木三重吉と小宮豊隆は共に「朝重」を聞きに行く。)

十月十五日(木)、小宮豊隆来る。林久男が持って来た小説を小宮豊隆に読ませる。小宮豊隆は面白くないと云う。林久男に戻すように頼む。(午後一時、鈴木三重吉は日幕里停車場から成田に出発する。小宮豊隆見送る。)

十月十六日(金)、午後、小宮豊隆帰る。小宮豊隆、林久男に小説を戻し批評を加える。

十月十七日(土)、午前寺田寅彦訪ねて来る。第二回文部省美術展覧会に誘う。人力車で行く。寺田寅彦は自転車に乗っていく。受賞した和田三造の『煒燻』の拙劣にあきれ大いにけなす。昼、宝亭で昼食を馳走する。

十月十八日(日)、猫の三十五日忌。鏡、鮭一切と鰹節飯一椀を猫の墓前に供す。

十月十九日(月)、エイ、四、五日四十度の原因不明の熱続く。

筆、中島六郎からヴァイオリンを習い始める。

十月二十日(火)、加計正文宛手紙に、「仰の如く千駄木から西片町へ移り西片町から此處へ變つて小供はもう五人ある其上此暮か来春早々又一人生れる。鬢の所に白髪が大分生える。」と書く。

(上田敏、外国留学から帰る。十一月、京都帝国大学文科大学講師になる。)


(和田)吉田博の『雨後の夕』と共に、二等賞に選ばれる。一等賞なし。


寺田寅彦は、十月十六日(金)午後、東京帝国大学の恩師や同僚たちと共に第二回文部省美術展覧会を見ている。十月十七日(土)に漱石を訪ねたのは、所用を済ませ他に廻る途中に立ち寄ったところ、漱石から誘われたので、再び行ったのである。なお、宝亭へは他の人物に同行し、馳走されたとも思われる。「寺田寅彦日記」には、「神田を散少し信盛堂にて鳥打帽を買ふ。」と記されている。これは、漱石と共に行ったとも解釈されるし、また、寺田寅彦が一人で行ったとも解釈される。「信盛堂」は、西洋小間物店である。


(ヴァイオリン)鏡は、琴を勧めたらしい。」(荒正人、前掲書)


10月15日

国画玉成会、展覧会開催。観山『大原御幸』、紫紅『時宗』、靫彦『守屋大連』、青邨『囚らはれたる重衡』など。

10月15日

第2回文展。~11月23日。栖鳳「飼はれたる猿と兎」、春挙「雪松図」、中川八郎「北国の冬」、山本森之助「曲浦」、満谷「車夫の家族」、鹿子木「ローランス画伯の肖像」、黒田「春の名残」、山崎朝雲「大葉子」、荻原守衛「文覚」など。

「昨日も上野へ行つて見ると、展覧会の賑ひは意想外である、その賑ひをなせる観覧者の要素の啻に美術学生等の専門家ばかりでなく、あらゆる職業の人を集めてゐるのには、一驚を喫せざるを得なかつた、やがてこれは美術思想の普及を示すものである、兎角の批評は擱いて、文部省が一臂の力をこの方面に仮〔ママ〕した為に明治美術の存在が世人に知られた一事は徳としなければならぬと思ふ」(「美術展覧会の顛末(上)」(『万朝報』1908年10月18日、一面))

10月16日

徳田秋声「新世帯」(「国民新聞」~12月6日、1909年9月刊行)。この作により自然主義作家に加わる。

10月16日

司法省、監獄局、初めて全国の監獄に、受刑者(満期接近の者)の指紋徴取を指示。

10月16日

秋になって冬の準備が必要な頃になっても、啄木よりの送金はなく、上京の見込みはなかった。妻の節子はやむなく経済的に自立することを決意し、啄木の友人吉野白村の妻貞子の世話で、この日付けで函館区立宝尋常高等小学校の代用教員となる。彼女は袴を着用し女教師として19日より教壇に立つ。月給は12円。

10月17日

「十月十七日

(略

午後三時頃、フト思立つて千駄ヶ谷に行つた。栗山君が来てゐた。昨夜金尾文淵堂が来て、“昴”を引受けることに定つたといふ。そして、僕のかいた広告文が気に入つたからと言つてゐたと晶子さんが話した。バイブルを借りて五時帰る。

と、藤岡玉骨(長和)といふ、新詩社の社友で今大学の政治科にゐる男が初めて訊ねて来た。大和の雑誌“敷嶌”へ正月号の原稿くれることに約束した。

イヤな顔な男だつた。それで九時頃に帰つてからも興が乗らずにしまつた。

神嘗祭だつた為か、電車には美人が乗つてゐた。

外出してみると、矢張時々外出しなくちやいけないと思ふ、が、家にゐると、外出するのが憶劫だ、憶劫といふも少し過ぎるが、出ようと思はぬ。


十月十八日

日曜日。昼餐は金田一君と共に。

今日米国の廻航艦隊が横浜に入港するのだ。これからの一週間は、東京も賑かだらう! 然しそれが自分と何の関係がある………何かしら侘しい様な感じがする。

(略)」(啄木日記)


10月18日

米太平洋艦隊、横浜に来航。

10月18日

ベルギー議会、ベルギー領コンゴ(元コンゴ自由国)を承認。

11月15日、正式併合。


つづく