2026年2月11日水曜日

ラトニック米商務長官、「エプスタイン島」での昼食認める より親密な関係は否定(AFPBB); ハワード・ラトニック米商務長官は10日、少女らへの性的人身取引の罪で起訴され勾留中に自殺した富豪ジェフリー・エプスタイン元被告との関係をめぐり辞任を求める声が高まる中、2012年にエプスタイン元被告の私有島で昼食を共にしたことを認めたが、同被告とのより親密な関係については強く否定した。

 


 ハワード・ラトニック米商務長官に、ジェフリー・エプスタインとの深い関わりを示す新証拠が見つかって騒ぎになっています。

これまでの説明だと、ラトニック氏は「2005年に一度会って以来、エプスタインとは二度と同じ部屋にいないと誓った」と公言していました。

ところが、今回流出した2012年のメールには、ラトニック氏が自分の子供たちを連れて、エプスタインの所有するプライベートアイランドを訪れる計画を立てていた内容が記されていたんです。

メールには「自分のボートにもう一組のカップルがいて、それぞれ4人ずつ子供を連れている」といった具体的な状況まで書かれていました。

「2005年以降は一切会っていない」という本人の主張と、2012年時点での親密なやり取りに大きな食い違いが出てきたことで、今後の進退や説明責任が厳しく問われることになりそうです。






(社説)大阪の都構想 我田引水が目に余る(朝日) / 〈およそ理屈が通らない。選挙を都合良く利用し、その結果を都合良く解釈する姿勢は民主主義の基盤を傷つける。吉村氏の言動には我田引水が目に余る。巨大自治体の首長、与党の一角を担う国政政党の代表として、責任と自覚が問われている。強引な姿勢は改めるべきだ〉

 

大杉栄とその時代年表(751) 1907(明治40)年9月7日~14日 綱島梁川(35)没 明治40年6月頃、梁川の思想、信仰に傾倒する人々によって梁川会が作られ、東京、秋田、京都、樺浜、神戸等に組織が出来た。8月、梁川は「我とは何ぞや」を発表。その中で彼は法然・親鸞の他力本願の浄土宗系の思想に共鳴し、キリスト教と仏教との融和を認めるようになった。しかし、その稿は完成されなかった。

 

綱島梁川

大杉栄とその時代年表(750) 1907(明治40)年9月2日~6日 陸羯南(51)没。明治22年2月「東京電報」を「日本」と改称し日本主義を宣言。その傾向は終始、官僚主義と藩閥勢力の攻撃にあった。三宅雪嶺、池辺三山、福本日南、古島一雄、子規、碧梧桐、不折、如是閑がこの新聞に籍を置いた。 より続く

1907(明治40)年

9月7日

バンクーバー、アジア人排斥デモ、中国人街・日本人街襲撃。

翌1908年1月2日、再開。

9月8日

孫文、民族主義政党国民党を結成。

9月8日

片山潜「社会主義鄙見」(「社会新聞」第15、16号)。

議会政策反対派は無政府主義者であり、社会主義者ではない。今後、これらとは議論しない、と言い切る。

9月8日

旭硝子株式会社設立(本社、兵庫県尼崎)。資本金100万円。社長岩崎俊弥。1909年10月開業。

9月8日

十勝線狩勝トンネル完成。これにより、落合~帯広間開通、旭川~釧路間全通。

9月8日

ローマ教皇ピウス10世、カトリック近代主義を非難。

9月9日

清国、第2次憲政調査団を英日独に派遣。

9月10日

樺太の日露境界割定発表される

9月10日

東京・北海道間の電話開通す

9月10日

(漱石)

「九月十日(火)、大谷正信(繻石)(本郷区駒込曙町十一番地、現.文京区本駒込一丁目)を訪ね、貸家案内して貰う。また、真宗大学(北豊島郡巣鴨村、現・豊島区巣鴫)で英語教師を求めているとのことで、家に帰ってから、戸川明三 (秋骨)・多須川良(明治三十一年率)・野間真綱(明治三十六年率)を候補として、大谷正信に知らせる。」(荒正人、前掲書)


9月11日

電機学校(東京電機大学の前身)創立。

9月11日

啄木(21)、大竹校長に辞表を提出

9月12日

在浦潮帝国貿易事務館閉鎖、領事館を設置。

9月12日

大阪の友禅染職工2,000人、賃上げ要求し同盟罷業。

9月12日

軍令第1号公示。

9月12日

札幌農科大学開校式挙行

9月13日

啄木(21)、函館を去って札幌に向かう。向井永太郎の斡旋で北門新報記者小国露堂(善平)の厚意により、同社校正係に就職のため。この日友人吉野自村の次男誕生、啄木は名付親となり浩介と命名する。

14日 小樽に途中下車し姉夫妻の家に立ち寄る。午後1時札幌に到着。向井と松岡露堂に迎えられてその下宿先である札幌区北七条西四丁目四番地の未亡人田中サト方に赴く。以後この家に下宿する。この家に18歳の娘ヒサと12歳の娘ヒデが居た。

16日 北門新報社に出社、入社早々「北門歌壇」を起こし、感想「秋風記」を掲載する。発行部数約6千部、6貢建の日刊新聞であった。"

9月14日

綱島梁川(35)、没。

綱島梁川の死は、近年の彼の思想的影響が大きかったので、知識階級人一般にとっての衝撃だった。

前年頃から梁川の病が重いことは伝えられていたが、彼は明治31年から絶えずその重症を伝えられ、しかも臥床したままで次々と仕事を続けていたので、どの程度の病気なのか、その真相は分らなかった。

徳富蘆花は、この年4月16日に一度だけ梁川を訪ねた。蘆花は5歳年下の梁川を尊敬していた。あのような人物は、有像の実在界から無象の精霊界へ往復しているようなものだから、いわば過去、現在、未来を賞いて常住しているようなもので、死も単に此処にある生から、彼岸にある生への移行だと考えてもいいわげだ。

本郷教会の牧師で、蘆花や兄の蘇峰の友人で、彼の従姉の夫でもある海老名弾正が編輯している宗教雑誌「新人」に梁川はしばしば文章を発表した。梁川は24歳の頃、神戸で療養中に神戸教会の牧師をしていた海老名を知った。

蘆花は、「予が見神の実験」をその雑誌で読んでいたし、「病間録」に収められた他の文章も愛読していた。

4月、木下尚江が彼の新居を訪れて、そのとき梁川の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体で恐れ入った元気だ」と言った。

4月16日午後、蘆花は牛込区大久保余丁町十七番地の綱島家を訪れた。

梁川は終生独身であったが、明治30年に郷里岡山県から母、弟、妹を呼び寄せて、牛込の原町に一家を構えた。一族ともに生活し、母の看病を受けて仕事をするというのか、彼の最大の願いであった。余丁町へはその翌年に引越した。彼の病気は全身にわたっていて、32、33年頃から結核は胸ばかりでなく腸と咽喉を畠していた。そういう身体で7年も8年も生き、絶えず読み、考え、述作するというのは人間業でないと見られていた。

案内された部屋は6畳ほどの室で、押入れの下半分を硝子戸の本棚にして、そこには金文字の書物がぎっしり詰まっていた。その本棚を背にして、蒲団の上に坐っている色の浅黒い男が、丁寧に頭を下げ、吸い込むようなかすれた声で初対面の挨拶をし、自分が梁川だと言った。その様子にはつゝましさがあったが、その黒い目が澄んでじっと動かぬさまは、その人の意志の強い性格を示していた。声はかすれて聞き取りにくく、その人に話をさせるのも気の毒こ思われたが、蘆花はいつのまにか打ち解けた話を交わしていた。

途中で、梁川の弟子で勤労的宗教生活団体を創立していた西田天香(てんこう)の訪問があり、三人の間で話がいろいろな方面に展開した。

その後も蘆花と梁川との間には文通があり、4月に出たばかりの梁川の「国光録」を贈られたりした。「国光録」は梁川の最晩年の思想を述べたもので、神秘主義的な信仰の告白だった。

そして、明治40年6月頃、梁川の思想、信仰に傾倒する人々によって梁川会が作られ、東京、秋田、京都、樺浜、神戸等に組織が出来た。8月、梁川は「我とは何ぞや」を発表した。その中で彼は法然・親鸞の他力本願の浄土宗系の思想に共鳴し、キリスト教と仏教との融和を認めるようになった。しかし、その稿は完成されなかった。

梅雨の頃から彼の病勢はつのっていたが、9月13日危機が迫って来た。彼は病苦の中で、母や弟夫妻に向い、

「心配し給うな。治って見せます。大丈夫だ、まだ死なれないから」と言った。

だが14日朝、危篤に陥り、夜半になって息絶えた。、

9月17日、梁川の葬儀の日。雨であったが、蘆花は粕谷村から4里ほどある新宿まで歩き、そこから電車で本郷に行った。海老名弾正の司会で葬儀が営まれた。教会は会葬者でー杯だった。やがて棺が余丁町から昇ぎ込まれた。海老名弾正は説教で、「美人の裸体はよい。然しこれに彩衣を諾せるとなお美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章で述べた人である」と言った。

棺は雑司ケ谷の墓地まで運ばれ、蘆花も棺の後について歩いた。葬式のあと、彼はいつの間にか俥に乗せられて、余丁町の綱島家へ行った。

そこには故人と親しかった人々が集っていた。西田天香、中桐確太郎、水谷不倒など蘆花の見知っている人もいた。面識のない人々の中には、明治36年第一高等学校在学中から梁川に私淑していた数え24歳の東大哲学科の学生安倍能成もいた。晩餐が出された。そのあと蘆花は新橋まで電車で行き、4里の泥道を歩いた。粕谷村の家へ着いたのは1時を過ぎていた。

その後しばらくして、梁川の遺文を集めた「寸光銀」が贈られて来た。その中で梁川はしばしば蘆花に言及し、蘆花のことをよく言ってあった。

つづく

米共和党のルミス上院議員が、エプスタイン事件に関する新たな事実を受けて自身のスタンスを180度転換したと明かしました。 これまでは「大した問題ではない」と静観していましたが、議会側に開示された情報から、 9歳の被害者を含む世界規模の恐ろしいネットワークの実態を目の当たりにして、認識を改めたとのことです。  / 「議員権限でエプスタイン文書を閲覧したところ、犯罪に関与したと思しき男性が少なくとも 6人いる。司法省はその名を公開すべき」と述べたトーマス・マッシーとロー・カンナ両議員。    

 


 

米共和党のルミス上院議員が、エプスタイン事件に関する新たな事実を受けて自身のスタンスを180度転換したと明かしました。 これまでは「大した問題ではない」と静観していましたが、議会側に開示された情報から、 9歳の被害者を含む世界規模の恐ろしいネットワークの実態を目の当たりにして、認識を改めたとのことです。 ルミス氏は、これまで独自に調査を進めてきた議員たちの主張は正しかったと認め、この問題の深刻さと捜査の正当性を強調しています。

 

「ミネソタで起こっていることは間違っています。グレーな部分はありません。私たちは自分たちの国を愛しています。私たちはチームUSAのためにプレーしています。オリンピックが意味するのは、卓越性、尊敬、友情です。私たちは全国の人々のためにプレーしています。その人々はそれらを体現し、同じ価値観、つまりその思いやり、その愛、そしてその尊敬を共有しています。」 / 「米国代表は複雑な思い」 五輪選手からトランプ政権への懸念相次ぐ(毎日) / 米五輪代表ら「発言の権利ある」、トランプ氏の「負け犬」投稿に(ロイター) / トランプ氏、オリンピック代表ヘス選手に「真の負け犬」 国内の分断浮き彫り(日経) ; ミラノ・コルティナ冬季五輪に参加した米国人選手が、米国代表としての出場に「複雑な思い」を抱えていると胸中を吐露した。トランプ政権下で差別や憎悪が広がる現状を念頭に置いた発言。


 

アメリカ合衆国オリンピックチームのメンバー:「ミネソタで起こっていることは間違っています。グレーな部分はありません。私たちは自分たちの国を愛しています。私たちはチームUSAのためにプレーしています。オリンピックが意味するのは、卓越性、尊敬、友情です。私たちは全国の人々のためにプレーしています。その人々はそれらを体現し、同じ価値観、つまりその思いやり、その愛、そしてその尊敬を共有しています。」

 

2026年2月10日火曜日

トランプ氏、高市政権に共感と不信 「全面支持」の裏にあった怒り(日経 有料記事);「トランプ米大統領は衆院選で圧勝した高市早苗首相と長期的な協力体制を望む。投開票日の目前には首相を「完全かつ全面的に支持する」と表明。背後には対米投資の実行が遅れる日本への不信感が入り交じり、米国への「見返り」の期待もある。 ■対米投融資の遅れに「激怒」 / 高市外交「搾取される同盟国」に陥るな 自律性高める戦略を(日経 有料記事j)   

 

大杉栄とその時代年表(750) 1907(明治40)年9月2日~6日 陸羯南(51)没。明治22年2月「東京電報」を「日本」と改称し日本主義を宣言。その傾向は終始、官僚主義と藩閥勢力の攻撃にあった。三宅雪嶺、池辺三山、福本日南、古島一雄、子規、碧梧桐、不折、如是閑がこの新聞に籍を置いた。

 

陸羯南

大杉栄とその時代年表(749) 1907(明治40)年9月1日~2日 (漱石) 「九月上旬(日不詳)、午後、銭湯に行き長谷川辰之助(二葉亭四迷)に会う。風呂から出て、お互いに素裸のまま話し合う。二葉亭四迷は、前年一度卒倒し田端のほうで保養していたことがあると云う。現在は少しよい。それではまだ来客謝絶だろうと聞くと曖昧な返事をする。〝それぢや、行くのはまあ見合せ様。〞と云って別れる。(『長谷川君と余』) 九月二日(月)、体重十二賞五百匁(四十六・九キログラム)から二百五十匁(〇・九四キログラム)減る。胃の調子悪い。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

9月2日

陸羯南(51)、鎌倉極楽寺村の別荘で没。

陸鵜南は結核を患っていて新聞「日本」を退いて療養していた.

羯南は、中田謙斎の三子で、中津軽の清水村に生れ、仙台の師範学校を経て、司法省法律学に学ぶ。明治9年同級の原敬とともに賄征伐をして放校された。その後「東奥日報」の記者等を経て上京し、太政官御用係となり、後の官報局に当る文書局の仕事をして編輯課長となった。明治19年、先輩の援助を得て新聞「商業電報」を買収して「東京電報」を発行、22年2月「日本」と改称し、日本主義を紙上に宣言した。

その傾向は終始官僚主義と藩閥勢力の攻撃にあり、知識階級の間に読者が多かっだ。三宅雪嶺、池辺三山、福本日南、古島一雄、子規、碧梧桐、不折、如是閑がこの新聞に籍を置いた。

羯南は明治37年、日露戦争前にヨーロッパを歴遊し、帰朝後病を得たので、明治39年、「日本」を伊藤欽亮に譲り、鎌倉の極楽寺村に静養していた。


池辺三山の談話筆記「陸羯南の文章と人物」

その徹底した観察眼を賞讃した後、

「それは欧羅巴へ漫遊した時、青山胤通博士と同行した事である。元来知合で無かつたのを、加藤恒忠氏が紹介したのである。処が両方とも有名な鼾かきであったから堪らぬ。何でも先に眠就いた方が勝なので、一寸後れたら、もう相手の雷の如き鼾戸に妨げられて一晩中眠ることは出来なかったさうな。これはこれだけの話だが、面白いのは二人が帰朝してから、互に評し合った言葉である。

「陸君は加藤氏に向つて『君は飛んだ奴を己にくっつけて弱った。どうも鼾をかいて・・・・・それにせっかちで、吝嗇で仕様がない。然し君あれは一寸変った奴だね』と言ったさうな。処が青山氏は又加藤氏に向つて『飛んだ奴を己にくっつけて、鼾をかいてどうも弱った。おまけにぐづりぐづりしてゐて、ちっとも銭勘定を知らない奴だ。然し君、あれは一寸面白い奴だねえ』と言ったさうな。

「その話を後で陸君にした処が、先生苦笑ひをしてをつた。何でもフランスで、宿で昼飯を食ふ時、その以前何店かで飲んだ葡萄酒が陸君の気に入って、いつもあれを取らうといふ。処が一リットルのを取っては、半分位飲んであとは其儘打棄って了ふ。青山氏は西洋流できちんとやる方だから『君それは詰らない。取るにしても半リットルのにしたらよからう』と言ふと、『いや、君は困る。飯を食ふ時に、そんな詰らない事を言ほれると飯がまずくなる』といふ。如何とも始末に困ったさうだ。実際陸君は銭勘定を知らない方で、そこが陸君の一面である。旨いといふ事、好きといふ事を追って行くので、銭などは関はぬ。有れば有るだけ遣ふ。無くなればそれまでといふ風である。(略)」

青山胤通(このとき数え49歳)は、岐阜県人、東京大学医学部を卒業して、明治16年、鴎外と前後してドイツに留学、ベルリン大学に学んだ。帰朝後東大教授。明治37年陸羯南と同行したときは二度目の外遊。明治34年以後、東大医学部長で羯南が病気になると主治医として治療に当った。


狂歌師坂井久良岐(くらき)「陸羯南の書簡」(「文章世界」同号

「前の日本新聞社長として、直言硬骨の志士として天下の三大記者として徳富蘇峰、朝比奈知泉(ちせん)と並称せられ、文壇の珍とせられた睦美先生は遂に肺結核の為めに近く四十九歳をもって鎌倉に没せられた。自分の陸先生を知ったのは(略)今川小路の玉川亭に会合した其時に、眉太く眼大きく髯いかめしき偉丈夫を認めた(略)其人が陸羯南先生であることを始めて知った。

「其後日本新聞社に入って、陸先生と日夕面を合はすことに成ったが(略)先生の道楽は碁位で、社へ出ても別席で閑な時は、福本日南先生や国分青崖や桂湖村などと絶えず盤面に向つて石を下してゐられる。先生は漢学の素養が深いのは勿論であるが、余技として和歌をも詠まれ、新古今を愛読せられたので、余が作歌に就いても愛読せられた一人で、正岡子規子の百中十首体の歌とは意見が合はなかつた。ソコで子規先生は『歌よみに与ふるの書』を『日本』へ連載して、大に旧派の和歌者流の迷夢を破った、が、其実は陸先生の新古今式の主張に対して、極力優美打破を力めたので、一体普通の人ならば、自分の手下の者で自分の趣味や持説に反対する者があれば、直ちに小言を云ふかこれをいぶせく思って遠ざけるのであるが、さすが陸先生もエライ、子規先生もエライ、益〃紙面を貸し与へますます病中の子規先生を保護して、其歌論を尽すことを許したので、其当時新派の和歌などは、老人株からは殆ど書生のイタヅラ仕事のやうに見做し、社会も亦決して之れを歌などと認めてはゐなかった。之れが今日自由自在に漢語、俗語を駆使して、誰も攻撃する者もなく、怪しむ者もゐないやうになった。(略)

「其議論の材料は、兼て陸先生と議論を上下したに依ったのか多く、子規先生は、コレでも分らぬかコレでも分らぬかと日々認められたので、陸先生も大分和歌について意見の進歩を見たのは、同先生の人言を容るゝに客でなく、能く人を用ゐるの眼識に服さねはならぬ。(略)先生は女の子ばかり六人で、男の子は七八歳ばかりの四郎と云ふお子がある外、男子はない。先生も心細く思ほれたことであらう。(略)」

9月3日

北京自治局設立。

9月4日

独歩、平磯海岸で転地療養。

この日、奥井君子と次女みどり(4歳)を伴って出発。水戸に着いて杉田恭助家で休憩し、那珂川を舟で下り、夕刻に牛久保の杉田別荘に着いた。

そこでは、独歩は散歩したり、魚釣りをしたり、杉田恭助から借りた写真機で写したりしていたが、妻の治子に出す手紙には、熱があるとか仕事ができないとか愚痴っぽい事ばかりを書いてやった。

9月4日

作曲家グリーク(64)、没。

9月5日

ズイタン帝、ベトナムの皇帝に即位。

9月6日

幸徳秋水・堺利彦・山川均ら直接行動派、金曜講演会結成。初め九段下のユニヴァサリスト会堂で開かれ、のち神田三崎町の貸席吉田屋に移り、警察の干渉厳しく、吉田屋も追われ、本郷弓町の平民書房の2階となる。翌年1月17日、金曜会屋上事件に繋がる。

9月6日

(漱石)

「九月六日(金)、夜、泥棒に入られる。机上のニッケル時計・鋏・小刀を盗まれる。

九月七日(土)畔柳都太郎(芥舟)宛手紙に、「中川は一體熊本へ行くのかな何だか些とも分らない/まづ此位でやめる。/もう一つある。體量は十二貫半から半の牛に減じた翌日から急に十三貫に増して昨日は十三・一あった。此様子で見ると體量と家賃は正比例するものと見て差支ない」と洩らす。


中川芳太郎は、『文學諭』の校正で失敗したため、漱石に叱られて次第に遼のいていた。だが、漱石は第五高等学校を世話していたらしい。中川芳太郎には別の口もあって迷っているうちに両方ともだめになってしまう。(森田草平『續夏目漱石』)」(荒正人、前掲書)


つづく

2026年2月9日月曜日

エプスタインの生存者たちは、このスーパーボウル日曜日にこの広告を公開し、世界最大の性的人身売買スキャンダルから「前進する」ことはないというメッセージを送ります。

バッド・バニーさん、アメリカ大陸の「団結」強調 スーパーボウルで(朝日) / 米人気歌手「憎しみより愛」、移民政策を批判 スーパーボウル(毎日) / バッド・バニー、ハーフタイムショーでプエルトリコ愛演出 ガガも登場(ロイター) / ラテン風 Die With A Smile を披露するガガ / トランプ氏、バッド・バニーのハーフタイムショーは米国への「侮辱」(AFPBB) 

 

自宅近くの河津桜とメジロ 旧東海道信濃坂近くより富士山 平戸永谷川(港南区)沿いの河津桜(まだちらほら咲き) 品濃白旗神社の枝垂れ梅はもう終盤 2026-02-09

 2月9日(月)はれ

昨日の大雪(といっても積雪5cm)とうって変わって、今日は快晴。気温は10℃には届かないものの、陽射しは暖かい。

今日は、自宅から徒歩圏内を3時間ちょっと散歩した。

▼自宅からすぐ近くの河津桜とメジロ








▼旧東海道信濃坂近くより富士山

実際は、富士山の真正面前に建築中のビルのクレーン4基が立っている。余りに無粋なので、Iphoneカメラの機能を使ってそれを削除した。

これからは、どこか他のビューポイントを探さないといけない。


▼平戸永谷川(港南区)沿いの河津桜

ここは、まだチラホラ咲きの状況。

この川沿いの河津桜は150本と言われている。

2月中旬以降が最盛期かも?





▼品濃白旗神社(東戸塚駅近く)の枝垂れ梅はもう終盤