箱根大平台林泉寺
大杉栄とその時代年表(816) 1909(明治42)年1月2日~9日 「森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての齋藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君――今日パンの会もあつたのだ。 題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他――」(啄木日記)
1909(明治42)年
1月10日
日本留学生統一団体、大韓興学会結成。
1月10日
「一月十日 日曜 曇 温
(略)
今日は誰も来なかつた。半日想をかまへてかの六日の日のことを書かうとした。十枚も最初の一枚を書き損じて、題を(束縛)とあらためた。そして予は十一時すぐるまでにやつと一枚半かいた。
束縛! 情誼の束縛! 予は今迄なぜ真に書くことが出来なかつたか?!
かくて予は決心した。この束縛を破らねばならぬ! 現在の予にとつて最も情誼のあつい人は三人ある。宮崎君、与謝野氏夫妻、さうして金田一君。――どれをどれとも言ひがたいが、同じ宿にゐるだけに金田一君のことは最も書きにくい。予は決心した。予は先づ情誼の束縛を捨てて紙に向はねばならぬ。予は其第一着手として、予の一生の小説の序として、最も破りがたきものを破らねばならぬ。かくて予は(束縛)に金田一と予との関係を、最も冷やかに、最も鋭利に書かうとした。
そして、予は、今夜初めて真の作家の苦痛――真実を告白することの苦痛を知つた。その苦痛は意外に、然り意外につよかつた。終日客のあつた金田一君は十一時頃に一寸来た。予はその書かむと思ふことを語つた。予は彼の顔に言ひがたき不快と不安を見た。
ああ、之をなし能はずんば、予は遂に作家たることが出来ぬ! とさうまで思つた。予は胸をしぼらるる程の苦痛を感じた。真面目といふものは実に苦しいものである。惨ましいものである。予は歯ぎしりした。頭をむしりたく思つた。ああ情誼の束縛! 遂に予は惨酷な決心と深い悲痛を抱いて、暁の三時半までにやつと二枚半許りかいた。
予は勝たねばならぬ。
(略)」(啄木日記)
1月11日
清理財政章程頒布。
1月11日
亀戸の東洋モスリン会社男女職工800人、賃上げ要求で同盟罷業。
1月11日
「一月十一日 月曜 晴 温
(略)
平出のところで十円包んで、風寒き夕方、麻布霞町に和田英作氏を訪ねた。スバルの表紙の御礼を出し、裏絵のことをたのんだ。画家は愛相のよい人であつた。帰つてくると日がくれた。風寒い夕べであつた。
間もなく太田君が、来て、九時まで語つた。太田君はしきりに雷同論を称へた。その雷同は、言つてみれば戦場の握手――予は賛成した。そして予は、この友に親しむ気が一日一日に深くなるを感じた。筆を持つた思想家――年をとつたか若いかわからぬ男だ、気持のよい男だ。
十時頃から三十分金田一君とはなした。君は、予の小説についての話、少くとも昨夜の話のつづきをさけた。予は今夜、昨夜初めて作家の心持になつたと太田に語つた。
(略)
一月十二日 火曜 曇 寒
十二時すぎておきた。
上田氏を訪ふたが不在。夜になつて又訪ふた。九時半までの清談――氏は自然主義と社会主義との関係、――から、日本に起つて来た、或は起りつつあるデモクラツト的思想についておもしろい観察を下してゐた。そして、今の小説――自然派の小説は、今のままで進めば勢ひ社会、道徳等の問題に触れた、所謂傾向文学となると言つた。
スバルの内幕をスツカリ言つてしまつた。氏は予に、その編輯する号は勝手気儘にやれと言つた。そして、小結社を作る作らぬといふ根本問題のきまらぬうちは、自分等の立場だつて困るぢやありませんか! と言つた。
(略)」(啄木日記)
1月11日
英加間で国際共同委員会設置。英に代り加が直接代表を出す
1月11日
米・加、海上境界決定。
1月11日
仏、長時間中止されていた公開処刑、復活。ポーレ・ギャングの4人、殺人罪でギロチン。
1月12日
東京鉄道株式会社電車賃値上げ反対の東京市民大会。明治座。参加3千。
1月12日
漱石「小説に用ふる天然」(談話筆記)〔一月十二日『国民新聞』〕
(漱石)
「一月十二日(火)、午後訪ねたいという客に、執筆で忙しいから、木曜日にしてほしいと伝える。(この頃、『永日小品』を書き始めたものと推定される)文部省専門学務局長福原鎌太郎、文部省主催の懇親会のことで、事前に諒解を得に来て、「文芸院」設立についても話す。(十四日(木)とも推定される)
(寺田寅彦、東京帝国大学理科大学助教授に任じられる。)
一月十三日(水)、吹雪。夜、鏡のことで鈴木三重吉と小宮豊隆激論交わす。
一月十四日(木)、午後から雪降り、夕方には二、三寸積りなお降り続く。(魚住影雄(折蘆)木曜会。高浜虚子来る。高浜虚子は、鈴木三重吉が国民新聞社の関係で、何か誤解していないかと聞くのでそれに似たようなことをいっていたが、気にする必要はないという。
お梅、盲腸炎で入院する。西村誠三郎(濤蔭 お櫛の兄)訪ねて来る。小宮豊隆泊る。(推定)
文部大臣小松原英太郎から十三日(水)付で、一月十九日(火)午後五時三十分から、宮邸で晩餐会を開くと案内状届く。(推定)
一月十五日(金)、午後、小宮豊隆、謡の稽古で帰る。『東京朝日新聞』に坂元雪鳥の短い前書きで「伸六君生る」が発表される。」(荒正人、前掲書)
1月12日
トルコ、墺のボスニア・ヘルツェゴビナ2州併合承認。
2月26日、墺・トルコ協定に正式調印。
1月12日
ウェスト・ヴァージニア州の坑内爆発。鉱山労働者105人死亡。
1月13日
箱根大平台林泉寺住職の内山愚童(35)、上京(越後から母上京のため)。巣鴨平民社に幸徳を訪問。幸徳は、秘密出版の部数は各地指導者の種本くらいに止めること、後継者を育てるため革命の伝道が優先と説く。
この日、森近運平を訪ね、再び岡野辰之助・徳永保之助と幸徳を訪問。
14日、坂本清馬から聞きつけ、幸徳より「花束仕掛と時計仕掛の爆弾の図」という洋字新聞「エキザミナー」の切抜きを見せて貰う。坂本清馬、神川マツと共に「爆裂弾」の図を見「一場ノ談話」として「遣ツ付ケルナラバ倅(皇太子のこと)デアル、倅ノ方ガ遣ッ付ケルニハ容易デアル…」と放談。
15日夜、柏木の菅野須賀子を訪問。菅野は「爆弾があれば命を擲て暴力革命をやりたい」といい、愚童はダイナマイトは入手したと答える。
16日、幸徳訪問後、横浜曙会(会長田中佐市)の新年懇親会に参加。『無政府共産』の反響を確認。田中宅に一泊、13日の「一場ノ談話」も再び話し合われたが、「笑い話」「空想の話」。東京に革命がおこれば応援できるかと問うと、田名らは力弱く準備ないと答える。
翌朝、箱根に戻る。
つづく