2026年5月15日金曜日

2カ月で約20ポイント減 高市内閣の支持率「けん引役」の異変(毎日 有料記事)

 

本当にこの国は大丈夫か。原油備蓄はある、ナフタも確保されていると強弁するが、円は弱く、物価上昇は生活を直撃する。パニックを抑えようとの政府の意図は理解できても、政府を人々が信頼しているとは思えぬ。改憲などには必死になっても戦争を止める事や、円安是正にはあまりに無策だ。(田中均) 

 


鈴木農水相「相談なし」発言で企業現場との認識ずれ鮮明に

ナフサ不足でプラスチックやインク原料が品薄となり、カルビーはポテトチップスなどを白黒パッケージに変更、カゴメはケチャップの絵柄を削減するなど食品企業が苦肉の策を取っている。

鈴木農水相は「インクは平時並みで食料供給に問題なし」と強調したが、企業側は相談を控えているとの指摘が多く、X上で批判が相次いだ。

政府は備蓄放出や流通支援を進めるが、帝国データバンクの試算では4.7万社に影響の恐れがあり、認識ギャップの解消が求められている。

 

京都伏見 伏見十石舟と酒蔵の街 「黄桜カッパカントリー」で食事 2026-05-11

 5月11日(月)晴れ

学生時代の友人知人と年一回会う会が京都・伏見であり、出かけてきた。

昨年は日帰りだったが、今年はほぼ一週間京都に滞在した。

この日は、伏見の黄桜(酒造)の施設で食事後、「伏見十石舟」で遊ぶという趣向だった。

▼伏見十石舟

桜の季節は、桜のアーチの下を進むという感じでスゴクいいと思うが、今頃の新緑のシーズンは爽快さが味わえて、それはそれでまた別の良さがあると思う。

舟が小型なので、水面を間近に感じる臨場感もある。



▼酒蔵の街





▼食事は「黄桜カッパカントリー」で

生酒が美味しい!






▼近鉄の駅前に大きなアーケード商店街



▼竜馬通り


昭和100年式典の対応「政府の申し出に基づく」 宮内庁長官が説明(朝日); つまり、高市早苗が天皇にしゃべらせるな、と指示したのか! / 昭和100年記念式典〈天皇皇后両陛下をお飾りにして昭和(戦後)歌謡ではしゃぐ総理メインの茶番〉 高市早苗からの招待状には「謹啓」から始まる招待の文言が続き、最後を「敬具」で締めくくっている。拝啓-敬具、謹啓-謹白の組み合わせで使用する用語を裏方の官僚たちがわかっていない。ことあるごとに「日本の伝統」を強調する自称保守派の言語感覚などこの程度。 / 高市早苗にとってはライブ会場かカラオケスナックみたい / 曲目は戦後の曲でしかも高市早苗の生れた後の曲ばかり、つまり「サナエの青春」 / 「政府側からの要望で陛下の御言葉は式次第に入れていない」 / 「戦争の偽装者」(言い間違い) / 天皇の感想はコチラ → 両陛下「深い反省と平和守る努力大切」 昭和100年式典で感想(毎日)  

2026年5月14日木曜日

改憲理由見当たらず、私たちから問題提起を 青井未帆さんに聞く(神奈川新聞); 学習院大の青井未帆教授に聞きました。高市政権が改憲に前のめりになる中、青井さんは「改憲が必要と全く思わない」「法律を作る場合、立法事実があり、その目的のために規制を作る。憲法も同じはずだが、改憲を支える事実が何なのかが提示されていない」と指摘しました。

大杉栄とその時代年表(821) 1909(明治42)年1月19日~22日 「一月二十一日 木曜 細雨 温 起きると妹光子からハガキ。去る十二日付にて地方伝道会社生徒なる許可あり、月八円づつ貰ふことになつたと。そして三月末に名古屋の伝道学校へゆくとの事。」(啄木日記)

 

啄木の妹(三浦)光子の家族



1909(明治42)年

1月19日

水原茂、誕生。

1月19日

初世梅若実(82)、没。観世流シテ方。

1月19日

カリフォルニア州下院、外国人土地所有禁止の排日法案通過。大統領、直ちに撤回勧告。

21日、撤回。

1月20日

山野愛子、東京に誕生。

1月20日

三宅雪嶺、『宇宙』。

1月20日

(漱石)

「(一月二十日(水)、『東京朝日新聞』に「文藝欄」開設される。明治四十四年十月十二日(木)まで。)

一月二十一日(木)・木曜会。西村誠三郎(濤蔭)・小宮豊隆・松根東洋城来る。小宮豊隆泊る。

一月二十四日(日)、筆、小宮豊隆の下宿に遊びに行き、錦輝館に活動写真を観に連れて行って貰う。

一月二十五日(月)、小宮豊隆、東京朝日新聞社に月給を取りに行く。」(荒正人、前掲書)

1月20日

「一月二十日 水曜 曇雨 温

七時頃二畳の室で目さめた。昨夜の話が朧ろ気に思出されて、異様な感じが起つた。罰金、三度で六円、換刑――つとめにゆく――不幸、荒める生活、放恣、底をはだけた悲哀……

八時半に帰つた。

終日、集つただけの第二号原稿を整理した。

日くれて平野君が来た。雨がふり出した。かへる時五十銭おいて行つた。明日本をかりて典ずる約束。

金田一君は遠からず三省堂の方をよして、大学国文研究室助手(二十円)になるといふ。二月になつたら此下宿から引こすと言つてゐた。

(略)


一月二十一日 木曜 細雨 温

起きると妹光子からハガキ。去る十二日付にて地方伝道会社生徒なる許可あり、月八円づつ貰ふことになつたと。そして三月末に名古屋の伝道学校へゆくとの事。

・・・・・予は三秀舎へ行つて第二号の初め六十四頁分の原稿をおいて来た。・・・・・

(略)

それから平野君をとふた。セツセと海外消息をかいてゐた。餅をくひ、洋画八冊、(ダヌンチオの小説ヰクチム、トライアンフオブデス、とモ一つ、マアテルリンクのダブルガーデン。ツルゲーネフのドリームテールス、メリメの英語短篇集。テニソン詩集。ダンテの神曲。)をかりて菊坂の質屋松坂屋にゆき四円かりた。そして袷と羽織をうけ、ズボン下をかひ、一円二十何銭あまつた。質屋の店で英語を教へたなんか振つてる。

(略)」(啄木日記)

1月20日

駐ロシア落合代理大使三重丸事件の損害賠償要求。1911.6.23 解決。

1月21日

カリフォルニア州下院で通過(9日)した外国人の土地所有を禁止する排日法案、撤回。

1月22日

幸徳秋水の妻の姉、松本須賀子への手紙。妻千代子は夫の活動に不安を覚え、前年(1908年)末から別居状態となっていた。1909年正月、千代子は久しぶりに高知県中村町から東京の夫の元へ戻ることになるが、途中、名古屋に住む姉のもとに立ち寄っている(姉の夫安蔵は名古屋の判事)。こののち1909年3月、2人は協議離婚し、その2年後、大逆事件により秋水は処刑される。

 

御手紙拝見致しました/千代の容態は左程御心配なさる/程ではありませんが兎に角御/言葉に従ひ五六日中に御地に遣/すことに致しますから宜敷/御世話を願ひ上ます/猶先日来の御話に付ては手紙/では何分意思が疎通し兼ね/ますから千代到着の節同人/より詳細親しく御聞取を願/ひます/千代出立の後は小生も一両月旅行/保養の上、又雑誌なり出して/飯食ふ方法と例の運動に取掛り/たいと存じます/乍末御兄上様へ宜敷御伝声を祈る/廿二日 秋水/ 御姉上様

1月22日

内山愚堂の福田英子宛手紙。

寺を出て1ヵ月以上神奈川県下農村を行脚。檀家のひんしゅくを買う。心の入れ替えを願って永平寺の夏安居の前安居4月15日結制、7月15日解制に出ることで決着。

1月22日

「一月二十二日 金曜 晴 温

今朝寝たのを、九時頃に平出から電話でおこされた。・・・・・

(略)

終日客になやまされて、頭がつかれてゐた。(足跡)をかかうと思つたが、一時頃まで原稿の整理をして、寝て了つた。

(略)


一月二十三日 土曜 晴 寒

十一時起床。朝飯もくはずに俥で三秀舎へゆき、原稿を渡し、伊上へ行つて写真版をたのみ、平出宅へ入つて、それから岡本病院に平出君を訪ねた。そして昴の事相談。

諸方へやる交換広告の原稿をかいて出した。平野が来た。

(足跡)夜十時頃から書きなほして稿をつぎ就眠午前四時

(略)


一月二十四日 日曜 曇

(略)

夜になつて太田が来た。手紙が来た。そこへ第一回の校正刷が来た。

二人は十時すぎて帰つて行つた。

(足跡)をかいて午前五時、電燈のきえるまで

(略)


一月二十五日 月曜 雨

十二時におきて(足跡)の稿をつぐ。

車夫をして原稿を三秀舎に送つた。

平野が来た。校正が来た。平野のもつて来た餅をやいてくふ。湯に入る。

終日終夜筆をとつて、就寝午前五時電燈のきえた時

(略)


一月二十六日 晴 温

(略)

目をさますと校正が来てゐた。平野が来、太田が来た。二人は校正してかへつて行つた。予は二人にかまはず(足跡)をかいた。

午後五時、(足跡)その一(今度の号へ出す分)脱稿。(足跡)は予の長篇――新らしい気持を以てかいた処女作だ。予はこれに出来るだけ事実をかいた。

作家の苦痛。

袷を典じて原稿紙をかつて来た。

足跡をなほして暁まで

(略)


一月二十七日 水曜

(略)

それから伊上へよつて三秀舎にゆき、(足跡)の原稿わたす。平野がゐた。一寸校正して、二時間許で帰つた。・・・・・

二時頃またゆくと間島君が来てすけてゐた。二人でやつてるとやがて平野が来た。・・・・・

この晩も暁まで広告をつくつたりなんかして起きてゐた


一月二十八日 木曜 晴 温

朝に平出によつて広告の原稿やる。

それから三秀舎へ行つて終日、――夜午前二時まで校正。やりながら(一隅より、――正月の小説界)をかいたが、頁がよけいになるので掲げられなかつた。間島君も来た。

(略)

家にかへるとモウ三時頃であつた。金田一君に祖母さんが死んだといふ電報が来て明日発つといふので、行つて起して一寸逢つた。そしてスツカリつかれて寝た。


一月二十九日 金曜 曇 風 寒

十時頃におきると吉井がフラリと来た。今は伯父と喧嘩して家をとび出して弓町の下宿にゐるといふ。一しよに三秀舎に行くと平野の奴また来てゐた。十二時全部校了。予は一人(吉井に切符をくれて)平出の宅へゆくと、やがて与謝野氏が来た。共に平出君を病院にとふ。雑誌が明晩出るといつたらおどろいてゐた。

(略)

それから与謝野氏が今度引越す駿河台東紅梅町二の家へ一しよに行つてみて、昌平橋でわかれた。予も早く家をもちたかつた。

数日前のつかれで、帰つたのが三時、すぐ床をしかせて寝ようとしてると太田君が来た。夕方までいろいろおもしろく小説の話をして、一円おいていつてくれた。

それからすぐ寝た。

(略)」(啄木日記)

1月22日

ミャンマ、国連事務総長になるウ・タン、誕生。


つづく

2026年5月13日水曜日

米紙が報じる「高市の憲法9条改正への挑戦」 改憲反対デモの叫びは届くか(クーリエ・ジャポン); 日本の平和憲法がいま岐路に立っていると、米紙「ワシントン・ポスト」が報じている。9条改正へ本格的に動きだした高市首相の思惑、拡大する改憲反対デモを取材。「日本でこれほど抗議運動が高まるのは異例だ」と伝える。 / 反戦デモが日本を揺るがす、首相が強力な防衛を推進(BBC)

大杉栄とその時代年表(820) 1909(明治42)年1月14日~18日 「四谷で電車を降りて、とある天プラ屋で三人で飲んだ。この二人と一緒にのんだのは今夜が初めて。北原(*白秋)は酔うと不断よりもモツト坊ちやんになる。別段口をきくでもなく、嬉し相にしてゐる。太田(*正雄=木下杢太郎)はその恋――片恋のあつたことを仄めかした。予と太田は頻りに創作や思想について語つた。(僕の最も深い弱味を見せようか)と予は言つた。(何だ?)(結婚したつてことよ!)」(啄木日記)

 

五足の靴:矢印が杢太郎、左に吉井勇、平野万里、与謝野寛、杢太郎後ろの学生服姿が北原白秋


1909(明治42)年

1月14日

英、公定歩合引上げ、2.5%から3%へ。4月1日2.5%、10月7日3%、14日4%、21日5%、12月9日4.5%。

1月14日

(露暦1月1日)新年になったばかりの夜12時、二葉亭は下宿の門番の娘たちを連れて厳寒のなか、イサーキー大寺院の新年ミサに行った。姉エフゲーニャは23歳、妹のリューボフィーは16歳で、二葉亭はリューボフィーを「リューちゃん」と愛称して、ことのほかかわいがった。その音は東京た残した若い妻、柳子を連想させるごとくに響いた。

1月15日

「一月十五日 金曜 晴 温

(略)

十一時半頃太田君が来た。(南蛮寺門前)少しよんだ。上田氏を訪ふと留守

金田一君から五十銭借り、一時頃北原君を訪ふて原稿の約束をした。詩集の校正は半分許りすんださうな。それから大久保余丁町に永井荷風氏を訪ねてみたが留守、四時頃に疲れきつて千駄ヶ谷に行つた。生田長江君、河井酔茗君、太田君が行つてゐた。河井君には初めて逢つた。

晶子さんの脚本二三日中に清書して送るといふ事、四時半頃帰つて来た。疲れきつてゐた。

(略)


一月十六日 土曜 晴 温

十一時起床。

半日つぶして、(ユリウス、バツブの戯曲論)の筆記を訂正した。そして日がくれた。所々筆記の曖昧なところがあるので、電話をかけると森先生から来いと言つて来た。すぐ出かけて行つて、それを直して、それから九時半まで色々話込んだ。先生は近頃非常に新聞記者をイヤがつてゐた。(この里に来てすみしより漸くに新聞記者も訪ねこぬかな)といふ歌を作つたと言つてをられた。

予は色々と自分の文学上の考へなどをのべた。そして、この先生は、文学を見るに、全く箇々の作品として見るので、それと思想との関係を見ないといふことを感じた。

(略)


一月十七日 日曜 晴 寒

(略)

吉井君が久振でやつて来た。森先生の会以後、毎日飲んで――一日に二升六合のんだこともあると――ゐたといふ。日本橋の芸者と再燃したの、吉原へ行つて昨日までゐたのと言つた。そして女の懐妊はウソ、今女の母から邪魔が起つてるから、二人で信州の山の中へでも行かうと思つてると言つた。吉井の話はその五分の一だけ事実だ――常に。そしてスバルの原稿、受持の方を一つも集めてなかつた。藤岡玉骨が来て帰つた。

そこへ太田君が来た。(君は短剣を持つてゐる男だ)と吉井。(さうぢやないよ、僕は今なら、出せと言はれたら腹の底までさらけ出してみせる。短剣なんか持つてるもんか)と太田。予曰く、(其所だ。君はイザとなれば腹の底まで見せれるから外の者にや怖ろしいのだ。短剣を有つてる様に見えるのだ!)

吉井の為に質屋にゆく、古い置時計と袷で二円かりてやる。

(略)」(啄木日記)

1月17日

(漱石)

「一月十七日(日)、岡田(林原)耕三宛葉書に、「胃病よろしからず。南方に旅寐して梅花を見たし」と伝える。(鈴木三重吉、鈴木周作宛葉書に、「此頃の朝日の煤煙は傑作だ。作者曰く予は文體を山彦千鳥より取る所多しと三重吉たるもの何ぞ煤煙以上の大作なくして可なんやだ。大いにもだえてゐる。」と書く)

一月十九日(火)、雪後曇。『東京朝日新聞』の社会面の「文藝院夢物語」に、漱石の談話掲載される。西村誠三郎(濤蔭)・小宮豊隆来る。西村誠三郎、談話を求める。小宮豊隆から論文読んで貰いたいと頼まれたけれども断る。自分でよいと思ったら高浜虚子に渡してよいではないかという。

夕刻、文部大臣小松原英太郎(桂太郎・大浦兼武・平田東助と共に山県有朋の四天王と云われる)の官邸(麹町区永田町一丁目十九番地、現・千代田区永田町二丁目二番)で催された文芸の奨励発達についての懇談会に電報で招かれ出席する。フロックコートを着る。(森鴎外・幸田露伴・巌谷小波・上田敏・上田万年・芳賀矢一・島村抱月・塚原渋柿園・岡田良平・内務大臣平田東助・文部次官・専門学務局長福原錬太郎ら十七名集る。文芸作品の検閲の瀬踏みとみなされる。隣りに、小松原英太郎がいて、「近頃學校を出て直ぐ小説家になる者が多いそうだが」と聞くので、「學校を卒業して後は勿論未だ生徒の時分から小説を書く人が大分有る様です。」と答える。小松原英太郎は、島村抱月に、「新文藝とは何ぞや」と尋ねたが、島村抱月は突然の質問に黙っている。森鴎外は、ドイツのアカデミーが十七世紀末から成立し、文芸にも影響をもたらしたことなどを話す。(推定)上田敏は、文芸院の設立論を主張する。島村抱月は、「行政上不都合の作品も文藝上からは価値あるものがある、その眞価を識別する機関を設ける要がある」と云う。晩餐の後、十時二十分閉会する。(この懇親会は、明治四十一年十一月五日(木)、森鴎外が桂内閣の文部大臣小松原英太郎の文部次官岡田良平に、「小説家に對する政府の處置という文書を提出し、それに基いて招集されたものである)

一月中旬(推定)(日不詳)、慶応義塾から文学部刷新のため講義をして欲しいと交渉に来たけれども、東京朝日新聞社との関係から断る。(上田敏とも交渉する)

一月中旬、胃病よくない。

(「文藝院夢物語、談話」)『福原君からは文藝院の事/で意見を聞きたいとの事でしたが具體的/に組織立つた提案も無いので私は賛成と/も反對とも末だ何とも言ひ兼る/△文部省から話しが出る以上は何れ国家/の仕事として「国立文藝院」と言ふ事にな/るでせう、総裁と云ふ様な人には無論文/部大臣を戴くと云ふ事に為るに相違無い/△然し我々の立脚地から云へば文藝院を/一個の審判機闘とし其の総裁を最終の審/判者とする事は何うで有らう、一時政権/を掌る人に依つて作家なり作品なりの/価値を羅列されては心持が好く無い/△到底「文藝院」など云ふものはオイ夫れ/と出来るものでも無いし出来た所で文部/省が絵画展覧会を開いて画家を奨励する/様な調子鹽梅には行くまい/△政治上の意味から文藝院を設立しやうと云ふ程に日本の國家は末だ文學者を重/視しては居るまい、文藝院の審判に依つ/て作品の価値を鑑別すると云ふ事も厳格/な意味に於ては到底望む事が出来ない』


(森が文部次官に提出した文書)小説家を徒らに強圧するよりも、芸術院または文芸院を設立し、然るべき文士をその会員にして自重を促したほうがよいという内容である。この書は『二六新報』(十一月九日)や『報知新聞』(十月十四日)に文壇の噂として報道される。自然主義文学者が除外されていることから森鴎外への反感も重なり、正確な内容は伝えられない。自然主義文学は、情欲文学のような扱いを受けていた。


(慶應での講義を断る))二月十五日(月)、慶應義塾評議会で永井荷風の教授就任が決定する。」(荒正人、前掲書)

1月17日

(露暦1月4日)ロシアに滞在中の二葉亭四迷、この日、「ジエ」という女性とネバ河口をボート遊びをし、その夜ははじめて彼女の家に泊る。そして、19日には「ジエ」とその母と3人でプレオブラジュンスキー墓地へ行く。21日、2月6日、10日、17日にも「ジエ」と会い、彼女の家で過ごす。

「ジエ」とのみ手帖に記されるこの女性の名は明らかにされていない。

1月18日

幸徳秋水の妻千代子、上京。巣鴨平民社。

1月18日

「一月十八日 月曜 雪 温

十一時生田長江君におこされた。窓外は霏々たる雪。終日やまなかつた。

(略)

二時頃、雪を犯して発行所にゆき、岡村病院に平出君をとひ、スバルについての相談、二号以後、百頁のはづだつたのを百五十頁二十五銭にすることに決定。それから色々話した。予は、文壇と直接する必要をとき、平出をして賛成せしめた。結局スバルは予の雑誌になるのだ。予はそれを面白いとおもふ。しかし迷惑と思ふ。

夕方雪が雨になつた。森川君から二円かりて電車でかへる。雨は終夜やまず。

(略)


一月十九日 火曜 曇 温

十時頃太田君に起された。(南蛮寺門前)を脱稿して昨夜、森先生に見て貰つたと言つて持つて来た。美濃紙へ細かく三十一枚、一緒に読んだ。これは太田君が夏の頃、吉井と二人で別々に南蛮寺を描かうと言つて書いたので、吉井の方は例の予告だけで出来なかつた。それを今度――十一日頃一度書換へ、更にまたこの一週間許りで作変へたのだ。

十一時太田君と一緒に出かけて北原君をとひ、昼飯はガス鍋の牛肉で御馳走になつた。二時頃、三人つれ立つて千駄ヶ谷に与謝野氏をたづねた。いくら音なつても人のけはひがせぬ。庭へ廻つて見ると主人ただ一人、昼寝してゐた。話してると晶子さんはお子さん達と湯屋から帰つて来た。

与謝野氏の話は、氏も亦強き刺戟に渇してゐることを表はしてゐた。そして又、氏が十数年来の処世から得た虚偽を語つてゐた。・・・・・森先生が若い時その妾の姉妹に上野に氷屋を出さしてゐたことをきいた。

七時頃辞した。・・・・・四谷で電車を降りて、とある天プラ屋で三人で飲んだ。この二人と一緒にのんだのは今夜が初めて。北原は酔うと不断よりもモツト坊ちやんになる。別段口をきくでもなく、嬉し相にしてゐる。太田はその恋――片恋のあつたことを仄めかした。予と太田は頻りに創作や思想について語つた。(僕の最も深い弱味を見せようか)と予は言つた。(何だ?)(結婚したつてことよ!)

十時頃に太田と春日町まで来て、予は一人電車をおりた。生温るい風はまだ吹いてゐた。生温い風は予をしてまた電車にのらしめた。そして本郷から上野、浅草行、街路はぬかつてゐた。

(略)」(啄木日記)

1月18日

ニュージーランド酒造業界、酒場の女給廃止。女性の酒場でのアルコール類購入、ほぼ全面的に禁止。


つづく

2026年5月12日火曜日

アメリカで最も大規模な盗難の形態は賃金窃盗です。年間500億ドルがアメリカの労働者から盗まれています。・・・問題は個人の道徳についてではありません。それはむしろ、現在の経済現実における極端な不平等が、労働者を踏みにじり、本質的なシステムを大規模に搾取することを報酬する仕組みについてです。ここで話しているのは独占力です。レントシーキング。賃金窃盗。利益至上主義。株式買戻し。不動産市場の不安定化。企業がSNAP/EBTを使って賃金を補填すること。ロビー活動や政治の闇資金の後に続く大規模な政府補助金や企業への契約で、ほとんど監督や説明責任がないこと。・・・(AOC)


 アメリカで最も大規模な盗難の形態は賃金窃盗です。年間500億ドルがアメリカの労働者から盗まれています。

もし億万長者が、フルタイムの労働者を極端に低賃金で働かせ、その労働者が食料支援や政府プログラムに頼らざるを得ない状況に追い込まれることで富を蓄積しているなら、いいえ、その富は一人の個人によって稼がれたものではありません。それは、低賃金のアメリカ労働者と、大企業のシステムへのただ乗りで請求書を押し付けられる一般市民によって補助された富の移転です。

問題は個人の道徳についてではありません。それはむしろ、現在の経済現実における極端な不平等が、労働者を踏みにじり、本質的なシステムを大規模に搾取することを報酬する仕組みについてです。

ここで話しているのは独占力です。レントシーキング。賃金窃盗。利益至上主義。株式買戻し。不動産市場の不安定化。企業がSNAP/EBTを使って賃金を補填すること。ロビー活動や政治の闇資金の後に続く大規模な政府補助金や企業への契約で、ほとんど監督や説明責任がないこと。

私がこれに注目することを怒る人々がいます。それは彼らの問題です。私を甲高く、愚かで、経験不足で、女々しく、無教養だと呼べばいい。彼らは労働者が搾取されているという真実から注意を逸らしたり、弱体化させたりするために、何でも言うでしょう。そして、人々に公正な機会を与えるということは、権力の濫用を抑えるための大人びた議論をしなければならないということです。

(AOC;アレクサンドラ・オカシオ・コルテス)


大杉栄とその時代年表(819) 〈大逆事件に連座した3僧侶の一人、内山愚堂の年譜②(~明治41年)〉 「小作人諸君。諸君はひさしき迷信の為に、国にグンタイがなければ、民百性(ママ)は生きておられん者と信じて おったであらう、ナルホド 昔も今も、いざ戦争となれば。ぐんたいのない国はある国に亡ぼされて、しまふに極っておる、けれども之は天子だの政府だのと云ふ 大泥坊があるからなのだ、 戦争は 政府と政府とのケンクワでわないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんくわする為に、民百性(ママ)が、なんぎをするので あるから。この政府といふ、泥坊をなくしてしまへば、戦争といふ者は無くなる。戦争がなくなれば、かわい(い)子供を兵土(ママ)にださなくても宜しいと云ふことわ、スグにしれるであろう。」(『入獄記念・無政府共産・革命』)

 

〈大逆事件に連座した3僧侶の一人、内山愚堂の年譜②(~明治41年)〉

 ★眞田芳憲「大逆事件と禅僧内山愚童の「仏教社会主義」と その行動の軌跡 ―禅僧愚童の抵抗の宗教的倫理と責任―」による


明治41年(1908)(34)1月1日

伊藤證信宛葉書


「僕はそれに反して近頃思想の変化を来たした、

弱者の味方たる宗教家のやり方が馬鹿気に見えて堪らぬ、昨年の暮には小田君がト翁(*トルストイ)の人道主義を送ってくれたので、ト翁のやりかたも、念をいれて調べたが、壓制な政府とボイコットすることは大賛成であるが、其個人主義はどうも壓(ママ)き足らぬ

僕はどうしても社会的に人の上に人を頂かぬ世界を造りたくなった、

目下は其事に就て苦心して居る、その結果爆裂弾かピストルか、武器に於ては決定せぬ

いづれの政府も政府ほど暴悪な者はない、

武器を持って平民を壓しつゝ租税を奪ひつゝある、此暴悪を制する事は宗教家の力では駄目である、今の宗教家にして真個に天国の作造に心がくるならば、此政府を倒さねば駄目である数珠つまくる其手には常に爆弾を携へつゝあらねばならぬ

僕は経巻を棄てゝ何を採らんか、こは目下の研究問題でまだ決定はせぬ」


1月1日

この日付『世界婦人』第21号「伊藤中将姦通観」

「伊藤中将姦通事件」;竹数要港部司令官の海軍中将伊藤義五郎が横須賀海軍工廠長に在職中、職工組合長藤井陽一の妻原子(当時23歳)と関係を結び、それを知った陽一が伊藤義五郎に2万5千円という巨額な慰謝料を請求。苦境に陥った伊藤が弁護士をたて陽一と共犯者矢叮三郎を告訴し、陽一と矢叮は逮捕され、横浜地方裁判所で有罪の判決を受ける。原子は自殺し、伊藤義五郎も休職を命じられるという事件。

愚童は、伊藤、藤井、原子の3人の当事者に各人各様、立場・身分・地位の違いを超えて自己の何たるかを問い、自己の尊厳に目覚めよと説く。

宗祖道元禅師は「有所得心」を戒めた。「有所得心」とは、常に自分の利益にかなうよう慮って行動する自我中心の心、人間の心の奥底に巣くう自我本位に発する名利心をいう。この名利心が真実の生き方を破り、人を壊す。

愚童は、「名誉何者ぞ、財産何者ぞ、そを争ふ御主人公なる、自身それ何者ぞ」と喝破し、「徒らに煩悶する勿れ」、「沈思黙考せよ」と説く。

宗祖が戒める「有所得心」、愚童の言う「私有制度」(金銭・財産・地位・名誉・性欲等々の一切に対する執着・渇愛・我執、換言すれば本来自己のものにあらざるものを自己のものと執着すること)の心を捨てれば、真実が見える。さあ!真実の道を歩め。さあ、臆することなく「汝が夫の使命を全ふせよ」と戒しめ、勇気づけ、励まし、信仰への道を勧める。


5月

秘密出版の計画を立て、印刷機器、活字、付属品一切を購入。

7月5日

『世界婦人』で、「僕は迚も社会主義はできない。僕は矢張り自分の最も好きな宗教の伝道をするより外はない。宗教の伝道と言っても今の宗教では無いよ」と論じる。

7月21日

幸徳秋水、赤旗事件裁判傍聴のため高知県中村の生家を出立。東京への途中、和歌山県新宮の大石誠之助宅に滞在。住職髙木顕明の浄泉寺で講演「社会主義より見たる自然主観」において各国の社会主義の特徴を述べ、いずれも無宗教主義と結論。)

8月12日

幸徳秋水、林泉寺を訪問、2泊。その滞在中、愚童、秋水の暴力革命の可能性について同意すれども時期尚早とし、秘密出版を説く。秋水が出版を急いでいたクロポトキンの『麵麭の略取』の原稿を借りて読み、無政府主義の何たるかを知る。

秋水の林泉寺来訪で愚童に対する警察の目は一変、以後重要注意人物として警察の監視を受ける

9月

印刷機を買うために上京。

浅草の古道具屋で活字と印刷機器を購入し、林泉寺の本尊釈迦如来像安置の須弥壇の袋戸棚を印刷場として、ランプの微光をたよりに不十分な活字と悪戦苦闘し、印刷製本という根気のいる仕事に心血を注ぐ

9月30日

秋水宅に滞在。革命の方法を訪ねると、秋水は洋書を繙きながら、革命の際に交通機関を破壊することなどを説明したとされる。

10月末

秘密を秘密裏に印刷した『入獄記念・無政府共産・革命』を平民社へ持参し、森近運平から提供された「大阪平民新聞」の読者名簿を頼りにこれを各地の同志へ変名で発送した。しかし送付を受けた者の多くは身の危険を感じて即座に処分し、配布した5名が不敬罪に問われている。

愚堂は、『無政府共産』で「戦争は総て罪悪也、常に専制者と相場師とを利するに過ぎざる者也。故に吾人は曰ふ、決して犠牲の羊となる勿なかれ。」と論じ、国家権力に対し抵抗の非戦論を主張した。


『無政府共産』の基調は、「小作人ハナゼ苦シイカ」「迷信ヲステヨ」、「迷がさめて見よ」である。

「迷信といふは、マチガッタ考ヘヲ大事本ぞんに守っておる事を、云ふのである」

「 △諸君は地主から、田畑をつくらして。モロ(ママ)ウカラ、其お礼として小作米をヤラネばならぬ。

 △諸君は、政府があればこそ、吾々百性(ママ)は安心して、仕事をしておることが出来る。其お礼として税金を、ださねばならぬ。

△諸君は、国にグン備がなければ、吾々百性(ママ)は外国の人に殺されてしまふ、それだから若い丈夫の者を、兵士にださねばならぬ。」

此三ツのマチガッタ考へが深くシミ込んでおるから。イクラ貧乏しても、小作米と税金と子供を兵士に出すことに、ハン封(ママ)することが、出来なくなっておる。モシモ小作米を出さなく(て)も宜しい、税金をおさめなくても宜しい、かわい(い)子供を兵士に、ださなくても宜しいなどゝ云ふ者があれば、ソレハむほんにんである国賊である、などゝ云ふて其じつ自分たちの安楽自由の為に、なることを。聞く事も読む事も、せずにしまう。コゝハ一番よーく、考へて、読んでいたヾきたい」

「小作人諸君。諸君はひさしき迷信の為に、国にグンタイがなければ、民百性(ママ)は生きておられん者と信じて おったであらう、ナルホド 昔も今も、いざ戦争となれば。ぐんたいのない国はある国に亡ぼされて、しまふに極っておる、けれども之は天子だの政府だのと云ふ 大泥坊があるからなのだ、

戦争は 政府と政府とのケンクワでわないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんくわする為に、民百性(ママ)が、なんぎをするので あるから。この政府といふ、泥坊をなくしてしまへば、戦争といふ者は無くなる。戦争がなくなれば、かわい(い)子供を兵土(ママ)にださなくても宜しいと云ふことわ、スグにしれるであろう。」

「然らば、いかにして此正義を実行するやと云ふに、方法はいろいろあるが。マヅ小作人諸君としてわ、十人でも、廿人でも連合して。地主に小作米をださぬこと、政府に税金と兵士を、ださぬことを実行したまへ。諸君が之を実行すれば、正義は友を、ますものであるから、一村より一ぐんに及ぼし。一ぐんより一県にと、遂に日本全国より全世界に及ぼして。コゝニ安楽自由なる無政府共産の理想国が出来るのである。

何事も犠牲なくして、出来る者ではない。吾と思わん者は、此正義の為に、いのを(ママ)がけの、運動をせよ。」

「此小冊子は、ながきながき迷信の夢より諸を呼び醒まし。ちかい将来になさねばならぬ、吾等の革命運動を謬釈せざる為に、広くかつ深く伝道せねばならぬのでありますから、無政府共産と云ふ事が意得せられて、ダイナマイトを投ずる事をも辞せぬと云ふ人は、一人も多くに伝道して願ひたい。しかし又、之を読んでも意得の出来ぬ人は、果して現在の社会は正義の社会であるか、又吾人の理想は今の社会の満足するや否やを、深く取調べて願(い)たい。」

11月

『道徳否認論』の秘密出版。

ドイツのアナーキストであったマクス・バシンスキーの『無政府主義・道徳否認論』を翻訳した大石誠之助の訳稿の翻案。

表紙に「△財産は盗奪なり、国家と法律とは、盗物の保護者なり△道徳と宗教は泥坊の為に番頭の役を勤むる者なり△世に人を統治せんとする念よりも、尚不正なるもの唯一あり、則ち之に服従せんとするの意志なり。」

裏表紙に

△無政府主義は暴力を以て平安なるこ(個)人を脅かさんとするものに反抗す。

△こ(個)人が、なすべからざる所の罪悪は、政府も亦之を行ふべからざるものなり。

△若しも政府が、少しにても、人民の為に必要なることをなし能ふとせんか、そは人民が自ら、政府の助けを借らずして、なし能ふ所のみ。

△正直なる人間の為に、必要なる保護は、ただ国家といふ盗賊の害に対する防禦のみ。

△今の教育は、人をして上に向って卑屈従順ならしめ、下に向って傲まん不そん、ならしむるの稽古なり。

△すべての政府は最も険悪にして、又最も圧制なるものは人民の一部分によって、自由にし(支)配せらるべき所謂代ぎ(議)政体是なり。


11月3日

愛媛県亀崎の宮下太吉、『入獄・無政府共産』50部受け取り、一読して感動。

11月10日

宮下東海道線太府駅で天皇列車通過の際の大衆に『無政府共産』を配布、社会主義の伝道効果なく、天皇暗殺を決意。

11月15日

『帝国軍人座右之銘(「新兵諸君に告ぐ」)』の秘密出版。

フランスの週刊アナーキズム雑誌『ラ・ナルシー』掲載、大杉栄訳の「新兵諸君に与ふ」(『光』第28号明治39年11月25日)を翻案したもの。

「諸君よ、諸君にして若(も)し国境の外に送らるゝ事あらば、諸君は即ち貪婪(慾)飽くき(あくなき)銀行屋(や)及び投機師の犠牲たるを忘るゝ勿れ。而して諸君が病気或は負傷等の為に、帰り来らん時、諸君の母国は諸君に対して何をか為す。誠に此の母は(其コク家は)鬼婆の如き継母たる也(なり)。

是れ即ち(この故に)吾人非軍(グン)備主義者が(は)、○○○(ソウ脱営)以(モツ)て開戦の宣告に応ぜんと決したる所以也(理由なり)。」

「(来るべき革命は無政府共産。即ち政治的にも経済的にも、最も自由なる社会を造るにある。而して諸君のそう脱営は、之を成功せしむる一大原因なり。諸君希くば、それ勉めよ)」


つづく