2026年5月1日金曜日

藤原帰一「仮に憲法9条の縛りがなかったとしても、日本は、戦争が続くホルムズ海峡に自衛艦を送ってはならないのです。米国によるイラン攻撃は明白な侵略戦争なので、米国からの求めに応じて自衛艦を送ったら、侵略に加担することになるからです」(2026年5月1日)

アメリカ社会は堕落...国民を「腐敗慣れ」させたトランプ大統領の罪(ニューズウィーク日本版);「またしても、トランプ政権をめぐるインサイダー取引疑惑が浮上した。だが、より深刻なのは疑惑そのものではない。スキャンダルが相次ぐなかで、人々がそれに慣れ、やがて無関心になっていく──その「感覚の麻痺」こそが、アメリカの民主主義を静かに侵食している」 「繰り返されるスキャンダルが『異常』を『日常』に変える」「社会規範に反する行動が取られると、最初のうち人々は否定的な反応を強く示す。しかし、そうした逸脱的な行動が繰り返されると、以前であればあるまじき振る舞いと見なされていた行動に慣れてしまう」「違反が当たり前になり、責任が問われない状況が続けば、次第に怒りは弱まり、諦めと無関心が広がり始める」       

タイヤもエンジンも…自動車素材が軒並み高騰 アルミなど2〜3割高(日経 有料記事) / ほぼ全ての建設資材で価格高騰 工事の中止や遅れも懸念…中東情勢受け全国建設業協会が緊急要望(日テレ) / 食品値上げラッシュ、ナフサ不足で「6月にも再燃」 帝国データ調べ(日経) / サラダ油が6月から10%値上げ、原油高でバイオ燃料需要が高まって 「ナフサ不足」本格化は夏以降か(東京)    

大杉栄とその時代年表(814) 1908(明治41)年12月11日~31日 「節子は働きながら東京にいる啄木以上の貧しい生活であった。」 「郁雨の温情に縋りながらも、節子は語るに語れぬ家計の実状を胸ひとつにしまって教壇に立っていた可能性がある。その結果の明治四十一年十二月三十一日の残金五厘である。節子は事実を書いただけなのに、啄木は非難されていると直感する。敏感にならざるを得ない素地と弱みが夫の側にあってのことである。『鳥影』がはじめて原稿料をもたらしたのであるから、半額か三分の一でも妻に送ってやるのが、せめてもの心やりであった。」(澤地久枝『石川節子 - 愛の永遠を信じたく侯』)

 


大杉栄とその時代年表(813) 1908(明治41)年12月6日~9日 「僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ」(入獄中の堺利彦の妻為子宛手紙) より続く

1908(明治41)年

12月11日

九州電気軌道(株)設立。本社小倉、資本金100万円、社長松方幸次郎、西日本鉄道(株)の前身の1つ。

12月12日

木下杢太郎、北原白秋、長田秀雄ら、パンの会を結成(~1912年)。東京両国橋近くのレストランで第1回会合。

12月12日

平賀譲、6月30日英国海軍大学校造船科卒業(3年の留学修了)し、仏伊の造船所視察などのあと、この日ロンドン出港。

12月13日

武昌で群治学社成立。

12月14日

文部省に設置(5月25日)された臨時仮名遣調査委員会(委員長 菊池大麓、主事 渡部董之介)廃止される。

12月15日

伊藤博文、松陰神社へ奉告

12月中旬

ロシアに滞在する二葉亭四迷、悪化する不眠症対策として、思い切って煙草をやめる。「八つの時から親しんで足掛三十八年の間片時も傍を放さなかった煙草」、それがなければとても原稿を書けない煙草だが「命にはかえられない」。やめてみると不思議なことに不眠症は日ごとに軽快し、今度は気を許すと12時間も眠りこんでしまう「長眠病」にかかった。

明治41年12月半ばには、通信文も玄耳宛の長文の手紙もなんとか書けるようになるまで回復した。

12月16日

英、豪華客船「オリンピック」起工

12月17日

(漱石)

「十二月十七日(木)、次男伸六誕生。(戸籍謄本による)頭髪黒い。鈴木三重吉(千葉県成田町吾妻屋)から祝電来る。服部嘉香、西村誠三郎(濤蔭)と共に来る。


申年(さるどし)に生れた六番めの子供の意味である。初めは、旦(あした)と名付けようと思い、高浜虚子らに吹聴していたけれども、十二月二十六日 (土)高浜虚子宛の手紙では取消している。


(十二月中旬、平塚明子、松本市郊外の静養先から帰り、森田草平を訪ねる。その後、日本禅学堂に赴き、南天棒から『無門関』の第一則、「趙州狗子」の公案授かる。)


南天棒の駿足と云われた岡田乾児(自適)という外科の開業医が私財を投じて開いたもので、西宮海清寺の住職である老師を招いて、毎日接心会を行う。


十二月中旬(推定)(日不詳)、雑誌社(推定)の記者、談話筆記を求めに来たが断る。『趣味』の記者来て、「文壇の趨勢」について談話筆記する。(この頃、雑誌社からの談話筆記の依頼多くなる」(荒正人、前掲書)


12月17日

トルコ第1回国会開催。青年トルコ党、多数を占め、自由連盟(アフラール)との対立増大。青年トルコ党、政権掌握(~1909年4月26日)。

12月17日

諸列強、ハフィドをモロッコ王として承認。

12月18日

津浦鉄道、官、商共同事業となる。

12月18日

皇室財政運営上支出の超過を戒める勅諭下賜。

12月18日

民報社、「国学講習会」と改称し、牛込区新小川町2丁目8番地から、小石川区小日向台町2丁目26番地に移転。『民報』編集長で裁判に負けて入獄した章炳麟が主催し、魯迅も通っていた国学講習会が、日本の同盟会の中心になった。

12月19日

(漱石)

「(十二月十九日(土)、中村是公、南満洲鉄道会社総裁に任命される。)


中村是公は、明治三十九年十一月二十六日(火)に、南満洲鉄道会社副総裁に任命され、明治四十年四月二十五日(木)退任し、五月一日(水)副総裁事務取扱嘱託になり、明治四十一年五月十五日(金)副総裁に任命される。大正二年十二月十八日(木)に退任する。


十二月二十日(日)、小宮豊隆宛手紙に、「文壇に立つものはあらゆる競争排擠に伴ふ堕落的行動に対して従容事を辨せざるべからず。もし清きを以て自ら居り高きを以て自から處せんとせば一日も留まるべからず。」と教え、終りに「今の自然派とは自然の二字に意味なき團體なり。花袋、藤村、白鳥の作を難有がる團體を云ふに外ならず。而して皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品を云へば大抵君より下等なり、理窟を云へば君よりも分らずや多し。生活を云へば君よりも甚しく困難なり。さるが故に君の敢て為し能はざる所云ひ能はざる所を為す。君是等の諸公を相手にして戦ふの勇気ありや。君を此渦中に引き入るゝに忍びざるが故に此言あり。」と添える」(荒正人、前掲書)

12月19日

大杉栄より堀保子への手紙。「歳三〇に到るまでには必ず十〇ヶ国語を以て吃つて見たい希望だ」

12月21日

河野広中、尾崎行雄ら代議士、又新会を結成。当日の出席者40名。3税廃止、官僚政治打破を叫ぶ。

12月21日

第17(岡山)、第18(久留米)師団新設。

12月21日

英、オスカー・スレイター事件起こる

12月22日

第25通常議会召集(~25 開会、1909.3.24閉会)。

12月23日

仏・ベルギー協定、仏領コンゴ、ベルギー領コンゴの境界画定。アフリカ・コンゴの勢力圏協定締結。

12月24日

パリで初の国際空港ショー開催。

12月25日

禁衛軍設立。

12月25日

「帝国女優養成所」(所長;貞奴)第一回試演

12月25日

(漱石)

「十二月二十五日(金)頃、『ホトゝギス』(第十二巻第四号 明治四十二年一月一日発行)を読む。


付録に『開業醫』(長塚節)・『まじよりか皿』(薮柑子(寺田寅彦)・『馬車』(寒川鼠骨)・『胡頹子』(伊藤左千夫)・『破甕』(野上臼川(豊一郎))・『三畳と四畳半』(高浜虚子)が掲載されている。


十二月三十一日(木)、大晦日。松根東洋城と共に二、三番謡う。

「土車」を少し習う。子供の病気で座敷ストーヴを買い、二十八円払う。田島道治、短冊を持参する。門口で帰る。

十二月末(日不詳)、正月の掲載分「元日」は、明治四十一年一月一日(火) のことを思い出しながら書く。

十二月末(小宮豊隆推定)、『文學評論』 の校正刷出始める。」(荒正人、前掲書)


12月25日

ジャック・ジョンソン(米)、ボクシング・ヘビー級初の黒人世界チャンピョンになる。

12月28日

東洋拓殖会社設立。資本金千万円(うち300万円は韓国政府引受、二束三文の評価で300万円分の土地1万1千町歩を供出させる)。総裁宇佐川一正(陸軍中将)。興銀、起業資金1296万円借款。日本政府、起業資金100万円借款。

創立以降、民有地買収を進め、1914年には水田4万6642町歩・畑1万8753町歩に山林・雑種地を加え7万143町歩の大地主となる。日本政府は創立から8年間30万円/年を補助、以降~1924年まで政府株への配当免除の優遇。


「戦前の日本における南満洲鉄道株式会社(満鉄)と並ぶ二大国策会社であり、大東亜共栄圏内の植民地政策に関して特権的な利権を保有しており、北はソビエト連邦国境から南は南方諸島まで、関連会社・子会社は85社を超えた。終戦時、朝鮮に所有していた土地は25万町歩に及び、朝鮮最大の地主であった。」(Wikipedia)

12月28日

京漢鉄道、ベルギーより回収。

12月28日

駐清公使伊集院彦吉、清国と満州懸案(法庫門鉄道、間島問題など)に関する交渉を開始。

12月28日

シチリアのメッシーナ(イタリア)で大地震。死者15万~20万。

12月31日

函館にいる啄木の妻節子、室料を払ったあと、彼女の手に残ったのは5厘玉1つであった。

節子は、この窮乏をありのまま夫に報告した。節子にとっては、それは夫に対する苦情や不満ではなく、そうした窮乏の中で働く自分を励ましてもらいたいという夫への甘えからであった。しかし啄木は自己の無能に対する妻の恨みと解釈した。

「せつ子から封書の賀状が来た。大晦日に室料を払って五厘残ったと!そして賀状のかげには予が金をおくらなかった事に対するうらみが読まれる。予は気まづくなった。」(「啄木日記」明治42年1月3日)


「節子は働きながら東京にいる啄木以上の貧しい生活であった。」

「郁雨の温情に縋りながらも、節子は語るに語れぬ家計の実状を胸ひとつにしまって教壇に立っていた可能性がある。その結果の明治四十一年十二月三十一日の残金五厘である。節子は事実を書いただけなのに、啄木は非難されていると直感する。敏感にならざるを得ない素地と弱みが夫の側にあってのことである。『鳥影』がはじめて原稿料をもたらしたのであるから、半額か三分の一でも妻に送ってやるのが、せめてもの心やりであった。」(澤地久枝『石川節子 - 愛の永遠を信じたく侯』)

12月31日

ハンガリー、ブダペシュト、鉄工労働者、ゼネストで組合活動停止の政府攻撃はねかえす。


つづく


2026年4月30日木曜日

昭和100年記念式典。高市早苗からの招待状には「謹啓」から始まる招待の文言が続き、最後を「敬具」で締めくくっている。拝啓-敬具、謹啓-謹白の組み合わせで使用する用語を裏方の官僚たちがわかっていない。ことあるごとに「日本の伝統」を強調する自称保守派の言語感覚などこの程度。 / 高市早苗にとってはライブ会場かカラオケスナックみたい / 何故、天皇の発言機会がなかったのか? / 「戦争の偽装者」(言い間違い) / 天皇の感想はコチラ → 両陛下「深い反省と平和守る努力大切」 昭和100年式典で感想(毎日)  

2026年4月29日水曜日

高市陣営が総裁選中に進次郎氏、林氏を“大バッシング”した疑惑…「中傷動画問題」の告発者はサナエトークン騒動のキーマンだった(集英社) / 〈高市陣営の動画作成問題(週刊文春 有料記事)〉 → (#1)高市早苗陣営が流した「進次郎は無能」動画《陣営のメンバーが実名証言》《1日100本の中傷動画を拡散》 / (#2)高市早苗陣営が作成・拡散した小泉進次郎「誹謗中傷動画」《「客寄せパンダ」「冷酷な売国計画」と批判し…》 / (#3)高市早苗陣営が作成・拡散した林芳正「誹謗中傷動画」《「林芳正アウトー!」小泉進次郎も標的に「進次郎は無能」》 / (#4) 高市早苗陣営が作成・拡散した「高市は女神」礼賛動画《“高市アゲ”ショート動画を量産》 / (#5)高市早苗陣営が作成・拡散した野党「誹謗中傷動画」《枝野幸男氏、岡田克也氏らが標的に…》 / 標的にされた岡田克也を貶める動画の例がコレ  

 

戦争でトランプファミリーに巨額利益 腐敗した文化で咲き誇る“トランプの黒い花”【報道1930】(TBS);「大統領の決定に直接影響される出来事を巡って…大きな利益を得ている」 「南北戦争以来、大統領の公的職務とこれほど重大な個人的な金融上の利益相反を抱えた大統領は存在しない」 「アメリカの腐敗した文化の中でトランプの黒い花が咲き誇っている」 

 

トランプ大統領の肖像描いた限定パスポート交付へ 建国250周年を記念 米国務省(TBS) / 「すでにパスポート更新をしておいたよかった」と喜ぶ姪のメアリ・トランプ

 

▼間違ってます!

 

大杉栄とその時代年表(813) 1908(明治41)年12月6日~9日 「僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ」(入獄中の堺利彦の妻為子宛手紙)

 


大杉栄とその時代年表(812) 1908(明治41)年12月1日~5日 大石誠之助、12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。

1908(明治41)年

12月6日

「十二月六日。

(略)

午後一時、三秀舎へ行つて、少し直すところがあるので“赤痢”の原稿を持つて来た。門の前で、吉井君。入つて話してると、二時頃、女中が来て“先夜の方が”といふ。小奴だ。別室に通しておいて室に戻つてくると、吉井はすぐ帰つた。奴をつれて来て、夕方まで話す。突然平野君が来て半時間許りゐて帰つた。

それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行つて、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとつて歩いた。小奴は小声に唄をうたひ乍ら予にもたれて歩く。大都の巷を――。俥で鈴本へ行つて、九時共に帰宿、金田一君を呼んで、三人でビールを抜き、ソバを喰つた。

十二時に帰した。通りまで送つた。


十二月七日

(略)

日本橋から今日来てくれとの電話。予は先頃から電話をかけることをおぼえた。どうも変なものだ。

夕方一寸平野君。

飯がすむと日本橋へ行つた。(お待兼でムいます。)と女中が階子口で言つた。奴は八畳間に唯一人、(逸身氏は大坂に行つて了つたのだ。)寂し相に火鉢の前に坐つてゐた。イキな染分の荒い縞お召の衣服。

共に銀坐に散歩した。奴は造花を買つた。

それからまた宿に帰つて、スシを喰ひ乍ら悲しき身の上の相談――逸身の妾になれ、と勧めた

十一時、言ひがたき哀愁を抱いて一人電車で帰つた。


十二月八日

(略)

電話、昴の用で来てくれと平野君から。

二人で平出君許へ行つて、ハガキ広告をやるその台帳のハガキを分類した。・・・・・

夕方三人で三秀舎にゆき、それから予の許に来ることにして、電車。菊坂町でビールをのみ、洋食二三皿を食つて帰宿、三人で色々“昴”の話。

(略) 」(啄木日記)

12月7日

内閣、公文書にインキの使用を認める。

12月8日

平賀譲、6月30日英国海軍大学校造船科卒業(3年の留学修了)し、仏伊の造船所視察などのあと、この日ロンドン出港。

12月8日

(漱石)

「十二月八日(火)、昼から夜にかけて、体不調である。

十二月十日(木) (推定)、午前四時過ぎ、鏡の枕許で女中が腰を抜かし、震え声で何か叫んでいる。火事と思い飛起きると、泥棒だという。鏡と共に(推定)次の部屋に行ってみると、箪笥が開放しになっている。台所口に出てみると雨戸が外れ空には寒月が輝いている。泥棒は騒がれて中途で逃げたのである。夜が明けてから警察に届ける。刑事が来る。帯ばかり十本盗まれたと判明する。(翌年夏頃になって、鏡の帯だけが質屋から発見され、二、三年後に、犯人は市が谷監獄あたりの監視だとわかる。(鏡))」(荒正人、前掲書)


12月9日

1908年12月9日付堺利彦(赤旗事件で入獄中)の妻・為子宛書簡

(宛先は妻の為子だが、内容は娘の真柄に宛てたもの)

○真柄よ、おまえは加藤のオバさんに可愛がられて居るだらう、お前には静岡のカアちゃんだの姉さんだの、東京のカアちゃんだの、保子のオバさんだの、勝ちやんだの、延岡のオヂさんだの、大杉のオヂさんだの、可愛がつて呉れる人が沢山あるのに、今度は又加藤のオバさんだのオヂさんだのが出来たのだからホントにいゝね、それに神奈川はいゝ処でせう、体の善くなったでせう

(「静岡のカアちゃん」は堺利彦のいとこの篠田良子、「勝ちやん」は真柄の乳母で為子の弟の常太郎と結婚した延岡かつ、「延岡のオヂさん」は常太郎)


5歳の真柄を抱えていては、為子が働くのはむずかしい。そこで、しばらく加藤時次郎夫妻に預かってもらうことになった。真柄は生母の美知子が没した後、堺のいとこに預けられ、堺が為子と再婚した後に引きとられたが、また加藤家に預けられた。

赤旗事件で夫が入獄すると、為子は着物などを売って溜まっていた家賃を払い、淀橋町柏木の下宿に引っ越す。そこには、堺と一緒に入獄した大杉栄の妻の堀保子も同居した。

真柄を加藤家に預かってもらうと、為子は知人が編集している『鉄道時報』の広告取りをしてわずかな収入を得た。さらに、髪結いが繁盛しているのを見てこれをやろうと思いつく。髪の結い方を十日くらいで教えてほしいとその髪結いに頼むが、相手にしてくれない。それでもあきらめずにじっと見ていると、とにかく客を取ってやってみればいいと勧められた。そこで、思い切って四谷伝馬町に家を見つけて髪結いの看板を出す。客を練習台に使うようなもので、料金は半額にした。

慣れてくると次第に客もつくようになり、為子はその合間に針仕事をし、広告取りの仕事もして、なんとかやっていけるようになる。その後、加藤家から真柄を引き取り、四谷伝馬町の家で夫の帰りを待ち続けた。秋水ら同志たちもしばしば為子を見舞った。

為子によれば、有楽町平民社時代からの支援者である逸見(へんみ)斧吉・菊枝夫妻と小泉三申がさまざまな支援をし、毎月の家賃を補助してくれたという。

堺は「日本社会主義運動史話」で逸見斧吉を「先々代が大庄屋で、天明の飢饉の時、悉く其の倉廩(そうりん)を開いて窮民を賑はし、一族にも勧告して之に倣はしめ、聴かざる者には親戚の交りを絶ったといふ美談が、その孫の青年に感化を及ぼしたのであった。金鵄ミルク逸見三陽堂の主人」と紹介している。

このように健気な妻の為子に、堺は獄中から心のこもった言葉を書き送っている。身辺雑記に加え、健康状態なども為子に心配をかけないようにユーモアたっぷりに書いている。


僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅(さんじゆう)歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ、尤も成熟してドンナ色が付くものか、ドンナ味が出るものか知らぬが、大体僕は楓の紅葉よりも銀杏の黄葉を愛する、熟柿よりもカチ粟を好む、薩摩芋よりも大根を望む、それは兎もあれ何でも一ツ面白い秋の夕日に照されて見たいものだナ(中略)

○君の職業はうまく行くか、世間の批評など意に介する勿れ、只大胆に忠実に勤勉に働き玉へ

当時、獄中から出せる書簡は2ヶ月に1通に制限され、外から届く手紙も同じだった。それだけに極小文字で、可能な限り多くの情報をつめこもうとした。文面は検閲されている。為子によれば、外部から獄中へ出す手紙は、1通でさえあれば長さは問われなかったので、「日々の手紙を巻紙にして次々に長く長く書いて出した」という。

堺の獄中書簡にはどれをとっても、差し入れを希望する大量の本のリストが書かれている。洋書がほとんどで、原題が英語やドイツ語で書かれている横に、日本語に訳した書名が小さく添えられている。

堺は千葉監獄にいる間にドイツ語を習得し、フランス語の勉強にも手をつけ、読むべき本を片端から読破するという計画を立てていた。第一高等中学校を中退後、堺はずっと独学で知識を身につけてきた。彼にとっての最良の教師は書籍だった。そのため、堺は本に関してだけは贅沢することを自分に許し、丸善で高価な洋書を購入することもあった。

獄中書簡はすべて妻の為子宛だが、娘の真柄や同志たちへのメッセージも書きこまれている。この手紙を見せてほしい、と相手の名前を挙げて頼んでいる場合もあれば、伝言してほしい、と書いていることもある。2ヶ月に1度の手紙は、獄中と外の世界とを結ぶかけがえのない通信手段だった。

〈黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』より〉


12月9日

独議会、工場労働法制定、13歳未満年少者の労働禁止


つづく

2026年4月28日火曜日

1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され、日本は「独立」したとされるが、当時の人々の受け止め方は冷ややかだったようだ。矢部貞治は「独立の日章旗がはためいているが、形だけだ」と日記に書き、野上彌生子も「結局アメ一辺倒で準属国の地位がきまったに過ぎない」と記している。