大杉栄とその時代年表(809) 1908(明治41)年11月1日~3日 宮下太吉、パンフレット「入獄記念無政府共産」50部受取り感動 箱根太平台・林泉寺住職内山愚童の秘密出版 より続く
1908(明治41)年
11月5日
福田英子「男女道を異にす」(「世界婦人」第30号)
11月5日
「世界婦人」発行兼編集人神崎順一の判決。東京地裁。罰金40円。検事控訴。
11月5日
京都西陣織物同業組合、染織試験場開業。
11月5日
第1期「明星」(100号)終刊。薄田泣菫「死の勝利」、木村鷹太郎「「明星」の廃刊を祝す」。平塚明子は「幽愁」と題して38首を寄せる。
翌6日、啄木、鉄幹の依頼で、明治書院に赴いて終刊号発送を手伝う。
「十一月六日
今日“明星”終刊号の発送するから、暇なら手助つてくれぬかといふ与謝野氏の葉書があつたので、八時半頃から小川町の明治書院に行つた。程なくして与謝野氏も来た。
あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身もその戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦つた明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠つてゐる。
予と、千駄ヶ谷の女中と、書院の小僧と三人で包装を初めた。与謝野氏は俥で各本屋へ雑誌を配りに行つた。十二時を打つと平野君も来た。予は糸をかけるに急いで左の手の小指を擦傷した。平野君は切手を貼る時、誤つて一枚上顎へ喰付けて、口を大きく開いて指を入れた。眼鏡の下で眼が白かつた。
三時頃になつて済んだ。ハラハラと雨が降り出したので平野君と二人電車で帰つた。与謝野氏は十五日頃に母堂の墓参をかねて京都に旅すると言つてゐた。
(略)」(啄木日記)
この1年だけで、「明星」のみならず伊藤左千夫主宰「馬酔木」、小山内薫の「新思潮」(第1次)、5月河井酔茗の関わる「詩人」廃刊。
「明星」100号は、千部のうち800部しか売れず、印刷費を払えない状況。與謝野晶子は、「萬朝報」に「不覚」といふ連載小説を書くことになつていたが、印刷費の残りを払うため小説を50回分をまとめて書く。過労の為、晶子は2日ほど右の半身が不随になる。「余はかなしくなった」(「啄木日記」11月21日)。啄木は、6日、終刊号の発送を明治書院で手伝う。
のちの『スバル』が平出修の出資で成立することが決まり、この月に鴎外宅の観潮楼歌会に出席するようになる。
11月6日
「十一月六日(金)、内田魯庵から、(トルストイ)の『復活』(前篇)(英訳からの重訳、丸善刊)貰う。造本に感嘆する。」(荒正人、前掲書)
11月7日
弘前十三師団を高田に移す
24日、高田第十三師団の開庁式
11月7日
「十一月七日
朝早く起きたが原稿紙が足らないので、九時に平野君へ行つて一円借りた。・・・・・
(略)
五時、行かうか行くまいかと言つた末、吉井君と予とは、千駄木に向つた。――これ前に、晶子さんを男でもない女でもない。それかと言つて第三性でもない。第四性位の所だらうといふ話が出た。
佐々木、与謝野、伊藤、千樫、北原、平野、平出の諸氏が既に集つてゐた。主人博士を合せて十人。
(略)
十時少し前に済んで帰つた。
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吉井君が来てゐる時、貸本屋が来たので、何気なしに徳川時代の木版本“こころの竹”三冊をかりた。著者の名は女好庵主人とあるが、春水の別号なさうで、それはそれは驚くべきほど情事を露骨にかいたものであつた。
Hitachiya. Masako ―――――― Tatsumiya mine. 856. Senzoku-cho 2 chome.」(啄木日記)"
11月10日
宮下太吉、大府駅で天皇通過に集った群集に「無政府共産」配布。
11月10日
独議会、「デイリー・テレグラフ事件」で英独関係の悪化を取上げる。
11月10日
国際ギデオン協会が最初の聖書をホテルに配布
11月11日
吉沢商店、『己が罪』(中野信近一派主演)を浅草三友館で公開。新派映画の先駆け。
11月11日
新派の幹部俳優藤沢浅二郎、牛込神楽坂に東京俳優養成所設立。
28日、開所式、第1回生23人。1910年3月、女子の入所許可。
11月11日
日本窒素肥料(株)設立。曽木電気株式会社、日本カーバイト商会を買収して設立、資本金100万円。
11月11日
(漱石)
「十一月十一日(水)、日本倶楽部(麹町区有楽町一丁目五番地、現・千代田区有楽町一丁目)で東京朝日新聞編集会議に出席する。「文藝欄」担当の件について議論百出する。(「杉村楚人冠日記」)
森田草平を社員として起用する件についても議論される。(清水三郎)」(荒正人、前掲書)
11月12日
清国と、吉長(吉林~長春)、新奉(新民屯~奉天間)両鉄道に関する続約調印。満鉄より借款供与額、要件などを協定。27日告示。
11月12日
・エジプトのヘディーヴ、対民族運動で親英派でコプト教徒のブトロス・ガーリーを首相に任命。大衆の反感増大。
11月12日
ヴェストファーレンのハムで坑内爆発。炭鉱労働者360人死亡。
11月13日
宮下太吉(亀崎鉄工所労働者)、平民社の森近運平に手紙(「無政府共産」パンフレットの送り人が森近であると想定)。天皇暗殺の必要性と実力参加意志表明。
森近は幸徳秋水に手紙を見せ、幸徳は初めて宮下の存在を知る。幸徳は「天皇二向カウコトハ、ヨシタガヨイトイウ。犠牲ガ大キイナリ。・・・」と言う(「特別法廷覚書」)。
11月13日
日本の外14ヶ国、文化的及び美術的著作権保護修正ベルヌ条約に調印。1910年9月8日批准公布。
11月13日
民報社放火毒茶事件(「民報関係雑纂」中の警視庁「革命党毒殺未遂事件顛末」(乙秘第一五二八号、明治四十一年十二月十四日)による)
11月13日深夜11時半ごろから翌日午前3時までの間に、民報社の廊下の側の押し入れの襖戸が燃えた。「少許燃焦(すこしばかりねんしょう)」とある。
ついで、同月26日と30日、お茶の中に毒物が混入した毒茶事件が起こる。26日には下女林スエが、30日には留学生が、それぞれ土瓶の冷茶を飲み、鼻をつく異臭と刺激で嘔吐した。どちらもすぐに近所の医師へ連れて行ったが、スエの場合は医師が不在だったためそのまま帰り、留学生は手当てを受けた。両者とも大事にはならずに回復した。土瓶の冷茶と嘔吐物からは、ニコチンが検出された。
容疑者として、まず、元革命党員でこの頃は清朝のスパイとして暗躍していた汪公権が疑われた。汪は26日に民報社を訪れて、台所に2回入る姿を目撃されている。そして汪は、12月1日に上海に向け出発している。ただ30日には彼は来訪していないので、彼に近い何人かの人物が疑われた。
警視庁は、彼らや黄興、宋教仁など民報関係者もふくめ20名近くを取り調べるが、「一人トシテ犯跡ヲ認ムル能ハザルヲ以テ皆之ヲ釈放」する。民報社からも、疑われた人物たちの止宿先からも、ニコチンなどの証拠物件は発見されなかった。
警視庁の結論。
「革命党ノ内情ハ、其活動資本ナキノミナラズ、生活資本ニスラ今ヤ窮乏ヲ訴フルノ窮底ニアリ」とし、黄興らは、留学生の同情に訴えて、資金集めを考えざるをえない。「留学生ノ同情ヲ繋グニハ、清国政府及日本政府ガ革命党ヲ圧迫スルヲ証拠立テザルベカラズ。故ニ此事件ノ発生以来、彼等ハ発出ノ原因ガ日本政府ノ圧迫ノ結果及清国政府及公使館ノ探偵ノ所為ニアリト声言スルニ至レルナリ」。「故ニ本件〔毒茶事件〕又ハ事前事実ノ放火ノ如キハ、革命党内輪ノ魂胆ニシテ、外部ヨリノ所為ニアラズト云ウモノアルモ、強チ無稽ナル憶測ニアラズト信ジサルヲ得ズ」とする。つまり、お金に窮したあげくの内部犯行であり、狂言だったという結論。
確かに、番茶事件も放火事件も、被害は少なかった。また、前年3月に孫文が去ったあと、東京の同盟会は窮乏に陥っていた(さまざまなところから寄せられる資金は、孫文に集中していた)。その直後に満州に渡る宋教仁は、渡航資金を得るため銀行に行って借金を申し込んでいるし、その後も、さまざまな人に借金をしている。もともとの活動資金の不足と『民報』発禁処分による経済的打撃とで、彼らが追いつめられていたことは確かである。だが、それをもって事件を「狂言」と断定できない。
事件発生直後の「毒殺未遂事件ニ就テ」(「民報関係雑纂」甲秘第二六〇号、明治四十一年十二月一日)には、その日、勝手口から入ろうとした清国人がいたことや、他にも1人の清国人が竹垣の側から邸内をのぞいていたこと、そして、26日の件では、汪公権が立ち去った直後に林スエが茶を飲んだ事などを報告している。また、警視庁の「顛末書」の中にも、30日に台所に「膝行スル者」がいたが、この人物は 「牛込署ヨリ差入レアリタル密行員ニシテ真実怪シムモノニアラズ」などの記載もある。
日本と清国のスパイが、かなり頻繁に民報社周辺を横行していた。当初、警視庁も汪らの犯行の線で捜査したが、その後内部犯行説に転じて事件の収拾をはかったと推測できる。
この時期の前田卓
民報社の家政一般を取り仕切り、特に台所関係の責任者であった前田卓のお膝元で起こった事件であるが、一連の毒茶・放火事件に関して、卓の名前が出てこない。黄興や宋教仁、滔天の取り調べは名指しで書かれているが、「民報社の首謀者」と呼ばれていた卓は、関係者として取り調べを受けた様子もない。
卓はこのころ、母親キヨの死とその後の財産整理のため、古里小天に帰っていたと考えられる。キヨは12月11日に死去しているので、母の死期を知り、最期を看取るため、それ以前に小天に帰っていたのだろう。卓の異母弟で後に卓の養子になる前田利鎌の年譜に、「十二月、母死す。姉卓子家政整理に帰国。其間小石川区第六天町の宮崎滔天家にあづけらる」とある。
卓は、成長しつつある異母弟寛之助と利鎌、その生母林はなの3人を東京に呼び寄せるため、母の死に先立って民報社への住み込みをやめ、近くの飯田町に家を借りていた。父・案山子を亡くし、熊本で寄る辺なく暮らすこの親子3人を、卓は放っておけなかった。中国の革命も支援するが、自分の家族も守らなければならない。妹の槌とその夫宮崎滔天の一家や九二四郎の家族も含め、一丸となって自分たちの暮らしを立てながら、中国革命を支えていた。
この時期、卓たち姉弟は、与えられた遺産を次々と中国革命につぎ込んでいた。
槌の「亡夫滔天回顧録」(『宮崎滔天全集』第五巻)には、滔天・槌夫婦が小石川区の第六天町に引っ越してから(明治41年年夏以降のこと)、「何天烱氏が武器の払い下げを計画し、私も里方にあった骨董品の全部を処分して、その費用に当てたのもこの時でした」とある。これは、香港に武器を密輸しようとして、陸揚げ直前に摘発された「幸運丸事件」のことで、この船には九二四郎も乗っていた。槌は和歌にうたっている。「思ひのみ今はのこさぬかたみかな父母の家宝も今日をかきりに」と。
母の死後、卓は別邸もふくめた最終的な整理を行う。利鎌の年譜には、「この母の死を期として、故郷の一家ついに離散。二児の養育費として、少許(すこしばかり)の書画珍奇をのこすのみ。前田一家のこの悲運にかてて加えて、宮崎滔天又支那革命成らず、貧窮の極に達す。姉卓子の帰国中、幼少利鎌等の教育費にあつべかりしそれらの珍器を吉原角海老楼に質入れして、わずかに運動の資金に代うる等の悲惨事あり」と。母の死後、もう一つの別邸も売り払い、熊本に前田家の家はななくなる。僅かに残った書画骨董は、利鎌と覚之助の養育費に当てようと、とりあえず小石川の滔天家に送ったところ、滔天はそれをも売り払ったらしい。
これ以降、卓がどのように中国革命に関わったがは不明である。妹槌の回顧録によれば、「民報社の解散後は、支那革命の運動は地下に潜んだ形に」なったという。あるいは関わりを続けたのかもしれないが、かつての「民報社の首謀者の一人」としての役割は、一応この時期で終わったと思われる。
〈安住恭子「『草枕』の那美と辛亥革命」より〉
11月13日
アンドリュー・フィッシャー(労働党)がオーストラリア首相に就任
