大杉栄とその時代年表(814) 1908(明治41)年12月11日~31日 「節子は働きながら東京にいる啄木以上の貧しい生活であった。」 「郁雨の温情に縋りながらも、節子は語るに語れぬ家計の実状を胸ひとつにしまって教壇に立っていた可能性がある。その結果の明治四十一年十二月三十一日の残金五厘である。節子は事実を書いただけなのに、啄木は非難されていると直感する。敏感にならざるを得ない素地と弱みが夫の側にあってのことである。『鳥影』がはじめて原稿料をもたらしたのであるから、半額か三分の一でも妻に送ってやるのが、せめてもの心やりであった。」(澤地久枝『石川節子 - 愛の永遠を信じたく侯』) より続く
1909(明治42)年
1月
鈴木文治「政治的季節来る」(「新人」)。国民の権利伸長・擁護の必要性。
1月
正宗白鳥「地獄」(「早稲田文学」)
1月
(漱石)
「『永日小品』 〔『東京朝日新聞』 (一月十四日-二月十四日)・『大阪朝日新聞』(一月十四日-三月十二日)〕(冒頭に収録された「元日」は、『永日小品』として発表されたものでない。小品は、仏教語の省略の意。漢学で長短の短を意味する。短篇(小説と随筆の中間)を意味する。
文壇の趨勢〔『趣味』一月號〕(談話筆記を書き記したもの (小宮豊隆))
私の経過した学生時代(「一貫したる不勉強」)(談話筆記)〔『中学世界』一月号〕(談話筆記は、小宮豊経の推定に従う。『中学世界』の第一附録として、「私の経過した学生時代」と題し、新渡戸稲造、竹越与三郎、浮田和民、夏目金之助、丘浅次郎、上田敏、井上敏夫を掲載している。漱石のものは、「文學士 夏目金之助君」となっている。なお、「一貫したる不勉強」の題名は、編集者が付けたものと推定される)
文壇の變移(談話筆記)〔『秀才文壇』一月号〕
私のお正月(談話筆記)〔『明治之家庭』一月号〕」(荒正人、前掲書)
1月
荷風『狐』(「中学世界」)。
強者としての父と、弱者としての母ならびに自己自身というやや図式的な対置関係の上に立って、幼時の一断面が繰り広げられる。
この頃、浜町不動新道の私娼・蔵田よしと親しむ(11月頃まで)。
「今年から原稿料全額を貯蓄し五年間に千円ためて伊大利亜へ行ってヱスビヤスの火山へはいつて死にたい。兎に角今年からはつゞくだけ書く」 (明治42年1日3日、井上唖々宛て、満30歳)
1月
時事新報社の募集(世界美人コンテスト企画:シカゴ・トリビューン社、1908年3月5日)で美人写真1位に選ばれた末広ヒロ子(16歳、小倉市長の娘)、世界6位となる。
前年、国内選考で1位となるが、学習院女学部(院長乃木希典)を退学処分となる。野津道貫の子・野津鎮之助と結婚後、この月、シカゴ・トリビューンに贈られたヒロ子の写真が世界6位となったとの記事が掲載される。昭和38年(1963)3月没(享年69歳)。
1月
『流行画報』、『グラビック』創刊。
1月1日
京漢鉄道官吏権、回収される。
1月1日
(漱石)
「一月一日(金)、曇。霰降る。元日。四方拝。年始には行かぬ。賀状も返事だけ出す。謡はやらぬ。松根東洋城・野村伝四・高浜虚子・坂本四方太・小宮豊隆・野上豊一郎ら集る。(鈴木三重吉は、成田中学で拝賀式があり来ない)夜、寺田寅彦来る。小宮豊隆泊。(胃病と風邪で一月八日(金)まで振込む)
森田草平の『煤煙』、『東京朝日新聞』(挿絵・名取春仙)に掲載始り五月十六日(日)まで。『読売新聞』の、「予の新しき希望」(三)に、佐藤紅緑・田山花袋・上司小剣・島村抱月・蒲原有明・内田魯庵・徳田(近松)秋江・正宗白鳥と共に寄せ書きをする。「小袖着て思ひ思ひの/春をせん/漱石」
一月二日(土)、森田草平の『煤煙』評判よい。鈴木三重吉の『黒髪』は評判よくない。
一月三日(日)、元始祭。狩野亨吉宛葉書に、「頂戴の時計を遅いからねぢつて早くしたら時を打たなくなった。どうした〔ら〕なるだらう。」と書く。
一月三日(日)以後、『大阪朝日新聞』から、『夢十夜』のようなものを求められていたところ、電報で督促受ける。」(荒正人、前掲書)
1月1日
北原白秋ら、「スバル」創刊(森鴎外命名、発行名義人啄木)。「明星」終刊後、平出修が出資。最初の編集同人、平野万里、吉井勇、石川啄木、木下杢太郎。客員与謝野鉄幹・晶子。発行所住所は平出修法律事務所。啄木(小説)「赤痢」、鷗外(戯曲)「プルムウラ」。~1913年12月、60冊。佐藤春夫(新宮中学学生)の歌は10首採用される。
編集者は創刊号から平野万里、石川啄木、木下杢太郎、吉井勇、栗山茂、平出修と1号ごとに変わり、9号以後は江南文三が主としてあたり、吉井勇、和貝彦太、長田幹彦らが助けている。1913年9月以後は万造寺斉。
1月1日
「一月一日 晴曇 寒
今日から二十四歳。
(略)
三時半頃になつて出かけた。空は曇つてゐて、風つよく、寒い。廻礼の人々が電車に溢れた。予は何がなしに浮世の春が自分一人をのけ者にしてるといふ様な感じにうたれた。千駄ヶ谷に与謝野氏を訪ふ。間島長島の二君がゐた。屠蘇、夕飯。与謝野氏はスバルの前途を悲観してゐた。主要なる話はスバルに関した事であつた。六時頃間島君と電車を同うして帰り、予は平出君を訪ねた。話はここでもスバルの事。予は編輯を各月担任者に全責任を負はせる事を説いた。(然し吉井君には任せられない。アノ人は仕事の人ではないから。)と平出君が言つた。与謝野氏は予と同意見なのだ。
(略)
・・・・・(朝日)に森田君の(煤煙)が出初めた。
(略)
一月二日 土曜 快晴 寒
(略)
何といふことなく予は心に頼むところが出来た。そして今迄平野を散々罵倒してゐたが今夜、それがあまりに小供染みてると感じた。ツマラヌ。一雑誌スバルの為に左程脳を費すべきではない。予は作家だ!
(略)
一月三日 日曜 晴 温 元始祭
(略)
・・・・・せつ子から封書の賀状が来た。大晦日に室料を払つて五厘残つたと! そして賀状のかげには予が金をおくらなかつた事に対するうらみが読まれる。予は気まづくなつた。ああ、金は送らねばならなかつた。然し予は送りえたのであつたらうか? ・・・・・
(略)」(啄木日記)
1月1日
森田草平「煤煙」(「東京朝日新聞」~5月16日、1910年2月~1913年11月、4巻刊)。
事前に漱石から平塚明子(雷鳥)の父定二郎へ、草平は事件により中学教師の職を失い、もの書き以外に生きる道がなく、事件を題材に小説を書く許可を求める手紙。母光沢が断りに出かけるが、漱石に押し切られる。
新聞は12月1日より小説掲載予告を派手に宣伝。
12月中旬、明子は信州から帰郷し草平を訪問、不在のため絶縁の手紙を託す。
小説の反響は大きく、草平はスキャンダルを売り物に有名作家となる。小説中の明子の手紙は、約束に反し半分程が手を加えられており、やがて明子は「煤煙」に対する意見や自己の内面を表白する作品を公開し始める。
この年、明子は曙町の実家に戻り、神田美土代町日本禅学堂で中原南天禅老師について参禅、神田正則英語学校で唯一の女生徒として英語を学ぶ。年末には、禅の友人木村政子との交遊から、西宮海清寺で臘八接心を受け、再び見性を許され「全明」の大姉号を受ける。
1月1日
山路愛山「足利尊氏」。
1月1日
米、映画特許会社設立。仏の2社を含む9社の映画製作会社に特許許可。
1月1日
英、1908年8月1日に可決の老齢年金法、発効。
つづく