2026年2月25日水曜日

〈金で世論誘導〉 〈防衛省のインフルエンサー接触計画、Xで再び批判集まる〉 → 防衛省、芸能人らインフルエンサー100人に接触計画 予算増狙い(朝日) / 防衛省「我々が選んだインフルエンサー100人に防衛費増額をアピールして貰って世論形成をする」(ツイ速) ← 〈憲法改正もこの手口で! 資金は潤沢ですから〉

 

2021年、防衛省は約100人のインフルエンサーらに安全保障の厳しさを説明し、防衛予算増額の理解を促す計画を立てていました。
当時の岸信夫防衛相は国民理解の必要性を認めましたが、省内では「予算増ありき」の懸念も。辻さんの投稿が4万いいね超えで話題を再燃させ、「ステマ規制違反」「洗脳計画」との批判が相次ぎつつ、5年前の話との指摘もあります。
防衛省は通常の説明活動と位置づけていますが、透明性の課題が浮き彫りになりました。

 

〈3万円のギフト券を315人に配布〉 → 3万円のギフト「一般的ではない」 高市首相の金銭感覚、専門家は(朝日) / 高市首相事務所が数万円相当のカタログギフト配布 自民衆院議員に当選祝い名目で(産経) / のし袋に「お祝い 高市早苗」と記載しているが、贈ったのは「奈良県第二選挙区支部」だと / 違法高額献金追及の時は、されは高市個人にではなく「支部」にだと ← 下手なマネロンに見えてくる / なぜ「奈良県第二選挙区支部」が自民党当選議員全員に贈るのか? / 共産・山添拓議員、高市首相カタログギフト問題で批判 政党支部への献金は個人のもの?「弁明したのはお忘れか」 / 前政権反省生かされず 配布趣旨、首相の説明焦点(共同);「事務所に勝手に届けられていた。これは爆弾になる」 「石破前首相の際にあれだけ問題になりながら、同じようなことを繰り返す神経が理解できない」 / 奈良県第二選挙区支部(高市早苗支部長)には自民党本部から毎年交付金が入っており収入(原資)の一部になっている / 石破はポケットマネー / 「古い金権体質そのまま」 / 石破を批判した人たち、何故黙ってる?    

 

大杉栄とその時代年表(765) 1908(明治41)年1月4日~16日 「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。」(啄木日記)

 

1904年(明治37年)婚約時代の啄󠄁木と妻の節子

大杉栄とその時代年表(764) 1908(明治41)年1月1日~3日 「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(啄木日記)

1908(明治41)年

1月4日

啄木、誘われて西川光次郎等の社会主義演説会に行き、西川と名のり合う。帰りに、「社会主義は自分の思想の一部分だ」と桜庭保に話している。

そして日記に、

要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。・・・・・

1月4日

ムーレイ・ハフィド、フェズでモロッコのスルタンを宣言。

1月6日

(漱石)

「一月六日(月)、『読売新聞』に、「現代文人文章評論(二)」として、石黒鉄牛「露伴と漱石」(一)掲載始る。(七日(火)・八日(水)・十日(金)・十六日(木)・二十一日(火)・二十二日(水)の七回)

一月七日(火)、小宮豊隆に来て貰い、『坑夫』の原稿を野田九甫に届ける。

一月九日(木)、小宮豊隆、『抗夫』の原稿を野田九甫に届ける。高浜虚子・森田草平・野上豊一郎・鈴木三重吉・森巻吉来る。夜、高浜虚子と謡曲を謡う。(『班女』らしい)小宮豊隆、台所で家族と歌留多する。

一月十日(金)、荒井某来る。

一月十一日(土)、荒井某、『坑夫』について間違いを指摘する。小宮豊隆殖手紙で、『坑夫』の原稿を野田九甫から戻して貰うように依頼する。小宮豊隆来て泊る。

一月十二日(日)、昼頃、小宮豊隆帰る。」(荒正人、前掲書)


1月9日

京都府教育会、低能児教育の調査委員会を設置。

1月9日

仏、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、誕生。

1月10日

午後7時、平民書房(本郷区弓町2丁目1番地、熊谷千代三郎方)に場所を移して開かれた金曜講演会で、大杉栄(23)、「欧州におけるエルヴェの非軍備主義」を40分間講演。参加者30根。他の登壇者に堺利彦。参加者には山路弥吉、佐藤覚、森岡永治ら。10時散会。

1月10日

伴淳三郎、誕生。

1月10日

ベルリン、普選要求暴動。

1月11日

駐米日本大使、高平小五郎任命。

1月11日

熊本市の縫工同盟会、洋服同業組合に賃上げを要求。縫工ら集合し争議。

1月11日

グランド・キャニオンが国定公園に指定

1月12日

大日本紡績連合会、第5次操業短縮を開始(~1910年4月30日)。向う3ヶ月間月5昼夜休業または休錘。ただし自己織布原糸用錘、操業短縮免除。4月30日まで延長実施。以後、操業短縮率変更。

1月13日

清国、津浦(旧津鎮)鉄道のため英独と借款(500万ポンド)調印。清国側、敷設権と管理権を保留(1912年1月開通)。

1月13日

吉井勇・北原白秋・木下杢太郎・長田秀雄・長田幹彦・深井天川・秋庭俊彦ら7人、鉄幹を訪ね新詩社を脱退。前年暮、「明星」社告で鉄幹「新詩社同人一同」の名でが「反自然主義宣言」。弟子たちは「同人一同」に反撥。

かつての鉄幹は、人間をありのままに写し、心情を率直に表現することで御歌御所に対して短歌革新(叛乱)したが、同じ主張の自然主義が文壇主流になるや、これに抵抗し決別宣言を出す。鉄幹の凋落始まる

1月13日

啄木(23)、「小樽日報」沢田編集長の斡旋で退職後初めて白石社長と会い、釧路新聞社入社の件決定する。

この間の事情についての沢田の説明


一月十日であった。私が只一人編輯局で茶を呑んでると、突然社長が入って来て、石川君はどうしたとの質問である。私は時こそ到れりと言下に彼の窮状を詳細に報告すると、大きく肯いて紙人から拾円紙幣を一枚抜き、是で何か石川君に原稿を書かして、釧路新聞に送らせて呉れまいかと云ふ。私は更に突き込んで是非啄木を釧路の幹部に加へて欲しいものだがと、予ての懸案を一挙に解決しょうとすると、社長は笑って、どうも彼の意見を見ると、いろいろ六ケしい条件があるので考へてるのだと云ふ、それでは無条件ならいゞですかと云ふと、之には何とも答へずサツサと室を出て行った。そこで私は早速石川家を訪問すると、啄木は例の桜庭女史を訪問に出かけて不在、母堂と夫人の前に封筒に入れた拾円紙幣を出して、白石社長の好意を伝えると、二人共眼に一ばい涙を湛へて心からの感謝を表してゐた。(中略)

白石社長から預った拾円金を届けに行った時は、まさに飢餓の状態に陥らんとしてゐた彼及び彼の一家であった。そこで私は極力啄木に説いて、兎にも角にも一度「釧路新闘」に入社して、家庭を現在の窮地から救ひ出す為めに、意見書に書いてある一切の条件らしいものを撤廃させる事を承諾させて了つた。そして一月十三日に日報社の社長室で、啄木と白石社長とを会見させ、私も同席して両者の間を斡旋し、結局内談の程度で物別れとなったが、翌十四日には社長と私と、二人だけの会談で、「釧路新聞」に啄木を三面主任として入社させ、待遇は日報社時代よりは少しでも良くすること、三面の主任と云つても実際は総編韓をさせる事などを決定して、最後に二十円でも、三十円でも此際啄木に赴任手当を呉れる事を承認させてから、私から此の決定事項を詳細に彼に伝達してやつた。是でヤツト長い間の懸案を解決し、生活の方針も立ち、彼としては新らしい陣地を得て、再び才筆を揮ふ事になったので、之を聞いた時は流石に喜色満面の様子を見せてゐた。


こうして釧路新聞社に入社の決定した啄木は、18日、白石社長より10円の仕度金を受取り、その金で質受けなどして簡単な旅装を整え、家族はひとまず小樽に残して単身赴任することに決まった。

1月13日

日本画の橋本雅邦(74)、没。日本美術院の創設者

1月14

予算編成不統一(鉄道建設改良費予算問題)の為、西園寺公望首相、阪谷芳郎蔵相、山県伊三郎逓相(山縣有朋養子)、辞表。他閣僚もならうが天皇、阪谷・山県のみ認め他は留任命ず。

閣議で審議談せず首相と2閣僚のみで天皇に辞表提出する西園寺のやり方を、原は思慮不十分で無責任な行動とみる(「原敬日記」1月13日~14日)。閣議に出せば、原の反対の可能性があり、かつこの時、西園寺は、天皇が西園寺の辞表を受け取らないことを予想。

1月14

この日付、西園寺首相の山縣元老宛手紙「社会主義者云々、内相へおつかわしの写し、たしかに落手仕り候。内相へも、申し聞かせやり候。十分に取締方策構うべきは、もちろんのことと存じ候」。前年11月サンフランシスコでの天長節不敬事件資料を山縣が関係者に配布した件(1月10日頃)

西園寺は山縣へは通りいっぺんの返事をするが、内相原敬指揮下の内務省警保局(大浦局長)は既に機密文書「米国ニオケル日本革命党ノ現状」作成着手

宮内相田中光顕は13日付け山縣宛手紙で、警保局長大浦兼武・警視総監安楽兼道を呼びつけ圧力を加えたと報告。

1月14

西園寺、この日、「実は非常疲労かつ疼痛を感じ候」と、桂に弱音を漏らす(桂太郎宛西園寺公望書状、1月14日、寺内正毅宛西園寺公望書状、1月8日、「原敬日記」1月5日)。

1月14

(漱石)

「一月十四日(火)、『坑夫』は予定の倍を越えて、七十回以上になるかもしれめと予想する。(実際は、九十一回四月六日(月)で終る)

一月十六日(木)、小宮豊隆来る。荒井某来る。

一月十七日(金)、森巻吉来る。『耕夫』の原稿六十余回書いて主人公が潮やく抗へ入ったところまで進む。(「森巻吉日記」)」(荒正人、前掲書)


1月16

田原淳、心臓刺激伝導系の田原結節を発見。


つづく

2026年2月24日火曜日

〈「竹島の日」式典に閣僚不参加、高市首相過去発言とのギャップで批判〉 → 「竹島の日」閣僚派遣せず 日韓関係考慮か、首相の持論封印(朝日); 高市氏は首相就任前の自民総裁選で、式典について「本来なら堂々と大臣が出ていったらいい。顔色を窺う必要はない」と主張した。約400人が集まった式典会場からは「堂々と大臣が出てったらいいじゃないですかって言ったのは、どこのどいつだ」といったヤジも飛んだ。

 

島根県松江市で22日、「竹島の日」式典が開かれ、政府からは内閣府政務官が出席しましたが、閣僚は不参加でした。高市早苗首相は昨年、自民党総裁選で「堂々と大臣が出て行ったらいい」と述べていただけに、言行不一致を指摘する声が相次ぎ、Xでは皮肉や批判が目立ちます。一方、自民党三役の参加を「閣僚2人分」と擁護する意見もあり、日韓関係への配慮が背景にあるとの見方も出ています。保守層の不満と外交のジレンマが浮き彫りになりました。

〈高市首相、旧姓単記使用の検討を指示 保守層から強い反発〉 → 高市首相、旧姓「単記」を指示 法相と男女共同参画相に(時事)

 

2月18日の第2次内閣発足時に、高市首相は法相と男女共同参画担当相に対し、住民票やパスポートなどで旧姓の単記を可能にする基盤整備を指示した。
政府は特別国会への関連法案提出を検討中で、黄川田担当相は法制化を含めた整備を進める方針を示した。
一方、保守層の宇山卓栄氏や山口敬之氏らが「事実上の夫婦別姓」と批判し、従来の通称使用拡大を望む声が広がっている。
選択的夫婦別姓派は通称では不十分と不満を漏らす中、改姓者の不便解消と家族観のバランスが焦点だ。

 

大杉栄とその時代年表(764) 1908(明治41)年1月1日~3日 「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(啄木日記)

 

石川啄󠄁木(1908年10月4日撮影)

大杉栄とその時代年表(763) 1908(明治41)年1月 2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。 松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。 より続く

1908(明治41)年

1月1日

『西方』誌発刊。

1月1日

「日本平民新聞」、群馬の築比地伸助「革命の歌」など3篇の社会主義の歌応募作発表。

1月1日

幸徳秋水「病間放語」(「高知新聞」)。倒幕運動・自由民権運動の伝統を述べ、「革命は過去のものなり、歴史のものなりと思はば、これは大なるあやまりなり。文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮を保護するの日本、三井と岩崎の日本においても、革命はたしかに活ける問題なり。」と提起。続いて、中国革命の成功を語る。

また、「文芸上における陶庵公と早稲田伯」(「中央公論」新年号)掲載。明治39年2月17日の文芸協会発会式(坪内・島村が大隈を会頭にいだく)、明治40年6月17日西園寺(号「陶庵」)が文士30名を招待して会を開くことを批判(二葉亭・漱石は欠席)。

1月1日

(漱石)

「一月一日(水)、元日。朝から小宮豊隆を連れて散歩する予定だったが、松根東洋域・森田草平・鈴木三重吉・小宮豊隆・森巻吉・野間真綱・皆川正禧ら年賀に来る。森田草平、フロック・コートを着て、一同にそれぞれ「やあ」と挨拶する。高浜虚子、訪れる。近頃、鼓を習っていると知り、ぜひ聞かせて欲しいと懇願する。高浜虚子は人力車を走らせ、鼓を取り寄せる。『東北』を謡い、『羽衣』を一緒に謡ったが、うまくいかず一同に冷やかされる。来客のため『坑夫』の原稿進まぬので、焦燥感を抱く。小宮豊隆泊る。(明治四十二年一月一日(金)に、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に「元日」としで発表された文章は、この日のことを念頭に浮べながら書いたものと思う)

(一月、寺田寅彦へ『ホトゝギス』(第十一巻第四号 明治四十一年一月一日発行)に「障子の落書き」を薮柑子の筆名で発表する。以後、この種の文章にはこの署名を使用する。)

一月二日(木)、森巻吉来る。鈴木三重吉『二日』の感想を話す。

一月三日(金)、小宮豊隆が漱石宅で歌留多会をやるからと森巻吉を呼びに行って、夜十二時過までやる。(「森巻吉日記」)

一月四日(土)、小宮豊隆、鏡から立派な財布貰い、昼食をして帰る。鈴木三重吉が来たので『二日』について、森巻吉がほめていたことを伝える。」(荒正人、前掲書)

1月1日

漱石(41)、「坑夫」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』1月1日~4月6日全91回) 挿画は名取春仙(東京)、野田九甫(大阪)

続けて、「夢十夜」(7月25日~8月)、「三四郎」(9月1日~12月29日)、「それから」(明治42年6月27日~10月14日)、「門」(明治43年3月1日~6月12日)のいわゆる「前期三部作」を連載。

1月1日

漱石『虞美人艸』(春陽堂)橋口五葉装幀。1円50銭

1月1日

蒲原有明『有明集』。

1月1日

高浜虚子『鶏頭』(漱石の序を付し、『風流懺法』『斑鳩物語』などを含む)。

1月1日

大杉栄(23)、石川三四郎に手紙を出す

1月1日

大杉栄「自由合意ー現社会の無政府的現象(一)序(クロポトキン」(『日本平民新聞』)

1月1日

この年、啄木は母や妻子を貧窮のどん底において小棒で元旦を迎えた。

「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(日記)


大晦日の夜「妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之を少しつつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ」という北海道での生活。

1月2日

漢冶萍煤鉄公司設立。

1月2日

ポルトガル、国王カルロス1世・皇太子ルイス暗殺。

1月3日

夜、第18回社会主義金曜講演会。神田三崎町の吉田屋、出席80余。新年の勅題「社頭の松」にちなんだ活人劇が注目を引く(山川均が首つり男に扮する)。

狂句「元旦や社頭の松に首くくり」(1月1日「日本平民新聞」掲載)からの着想。天皇の勅題を戯画化することで、呪詛的に天皇制批判。

1月3日

この日付け啄木の日記。

新詩社の同人には詩人ブル、詩人ガル、ブル・ガル臭味がある、鉄幹の詩は外来の刺撃がなければ進歩しなく、それは思想が貧しいからである

などと批判。

1月28日にも、

「此詩人は老いて居る」と書く。

1月3日

夜、有島武郎、東京を発って札幌に向う。農科大学の英語講師に招聘された。


「一月二十一日。(略)去年四月十四日、伊予丸の甲板を下り、小舟に揺られて神戸なる埠頭に立ち、父と直良君とに面を合はぜたる時より、我は再び日本の地を踏む可き人となりぬ。九月一日には兵営に入りで、その夏北海道の旅路に得たる諸種の回想を、飾りなき木床の夢に結ぶ身となりぬ。(略)兵営にある間に起りし結婚の問題は、我が身に癒す可からざる深き疵を与へぬ。森本君(森本厚吉)の山角静子氏との結婚も、亦深さ印象を残しぬ。(略)志賀の悲劇其他思ひ設けざる事共は、我が兵営生活の間に起りぬ。十一月末日に兵営を出でたり、十二月に至りては我が札幌農科大学に職を奉ずべき事定りぬ。""Father and Sons""(ツルゲーネフの小説)の訳は此間に大半稿を成せり。十二月の下旬に河野信子は小柳津氏に嫁ぐべき約整ひぬ。我が東京を去りて、入繁からぬ所に住むべき必要は愈ゞ迫り来ぬ。一月三日の夜、我は東京を去れり。胸を射られし鳩は、その美しき翼もてその疵を裹(つつ)みかくすと云ふに、我もこれに劣らじと思ひ定めぬ。夜汽車の淋しき味は、独逸を旅せる時、壬生馬と共にしみじみ味ひ知りぬ。青森に着せし時、日は暮れて、雪は街上に堆(うづたか)かりき。翌日船は揺ぎ少く、雪の海原を横切りて、六日の暁明三時半、半ば凍れる室蘭の港に入りぬ。(略)其の夕には札幌なり。森本君は我を迎へんがために、五度停車場に到れりと聞きて、凡ての顧慮かいやり捨てゝ北六条西一丁日なるその家に入りしは、やがて夕の六時なりしなるぺし。稍(やや)面やせて見ゆる彼の妻は美しう余を逆へぬ。

『我は英語の講師として学長主事を兼ぬる身となりぬ。偖て今日までは唯面白く暮し来りしか。

『森本君の若き妻は病みて十六日流産せり。彼の実母は十九日茅ヶ崎に永眠せり。

『何をなす可きやと云へる謎は、一瞬毎に我が骨髄に迫る。我が齢を数へ見んも愚かなる業なり。何をなす可きや。(略)」


農学校在学中に有島武郎をキリスト教に導き入れる役をし、また彼と一緒に、明治36年、伊予丸で横浜からシアトルに渡航した森本厚吉は、アメリカ留学から帰って母校の教授になっていた。彼は有島をこの母校に迎えるに努力をしたばかりでなく、その新婚の家庭に彼を当分同宿させることにした。

1月3日

大杉栄(23)、東京府豊多摩郡淀橋町318番地に堀保子と転居。

昼、森近運平、山川均とともに横浜曙回の新年会(大和田宅)に参加。

午後6時、神田三崎町の吉田屋で開かれた金曜講演会の新年会に参加。参加者80名。福引係兼煎餅・みかんなど食べ物の世話係を勤める。


つづく


ペンタゴンは、トランプ大統領に対し、イランに対する長期的な軍事作戦について懸念を表明しており、検討中の戦争計画には、米国および同盟国の死傷者、空防衛の枯渇、過度に負担のかかる軍隊といったリスクが伴うと助言しています。(WSJ) / ペンタゴンの最高位将軍が、トランプ大統領に対し、イランへの攻撃を控えるよう警告し、重要弾薬の不足と同盟国からの支援不足が、作戦および米軍関係者に重大なリスクをもたらすと述べました。(ワシントンポスト)   

 

 

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2026年2月23日月曜日

「エプスタイン文書」に約1万回登場する日本人…伊藤穣一氏が「エプスタイン島を訪問していた証拠写真」(プレジデント) / 千葉工大学長らを参加禁止 米富豪エプスタイン氏との関係考慮 世界最大のハッカー大会(産経); 米富豪エプスタイン氏に関する開示文書を巡り、世界最大級のハッカー大会「DEFCON」は、同氏と関係があったと報じられた千葉工業大学長ら3人を参加禁止にすると発表した。 / エプスタイン文書は、日本の国会でも議論必至の流れ。「グローバルスタートアップキャンパス」構想のもと、運営主体を設立するための法案が国会に提出される。構想を主導したひとりに、伊藤穰一氏がいる。高市政権は、追及を避けられないだろう。   

 

DEFCONは2月18日頃、公式ページを更新し、伊藤穰一氏ら3人を永久追放。
理由は米司法省のエプスタイン関連文書で、DEFCON入場バッジ確保や犯罪歴隠蔽の疑いが指摘されたためだ。
伊藤氏の名前は文書に8000回以上登場するが、犯罪関与の証拠はない。
日本ではメディアの報道姿勢や伊藤氏の説明責任を求める声が広がり、テックコミュニティで倫理基準の見直しが議論されている。

 

出稼ぎポーランド人、イギリスから40万人帰国 高成長でG20入りに照準(日経);  かつて「ポーランド人の配管工」は低賃金で働く移民労働者の代名詞でした。しかしEU加盟から20年超で立場は逆転。イギリスの成長鈍化に見切りをつける動きが広がります。

 

大杉栄とその時代年表(763) 1908(明治41)年1月 2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。 松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。

 

松居松葉

大杉栄とその時代年表(762) 1907(明治40)年12月5日~30日 日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。 より続く

1908(明治41)年

この年

韓国、反日義兵闘争の高揚

朝鮮駐在日本軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」。

明治40年中の戦闘回数323・暴徒兵4万4,116(内死者3,627)。

41年は戦闘回数1,451・暴徒兵6万9,832(内死者1万1,562)。

この年

1908年(明治41年)の長谷川利行(17歳)

耐久中学3年のとき、同学年生薗悌次郎、紀南新聞記者井上豊太郎、浜田峯太郎とで同人雑誌を発行。小説、詩、短歌など多作する。

「当時、長谷川君は繁児と云ふ奇妙な雅号で、その因縁を問ひただしても答えず、ただ恋人に因めるものを云つたやうに思ふ」(薗悌次郎「思ひの記」)。


 雑誌を機縁に上級生金沢種美と交友。

「「人として彼(註・長谷川利行)を知ったのは、私達の中学時代、即ち明治四十年前後であり、彼は私より三つ程も若く、私が五年、彼が三年の頃である。絵を習つてゐるといふことであつたが、私達が知り合つたのは共に文学少年としてであつた。彼が紀州の耐久中学生でゐながら小さな雑誌を出してゐたのに、友人の紹介で歌や評論を寄せたのが、私と彼との繁りである。彼は時に歌も詠んだが、最もその才能をみせたのは創作であつた。これが田舎の中学生の作品かと思はれるほどコクのある作品を書いたが、文章には可成り飛躍性があつて晦渋に陥つてゐるとおもへるものもなくはなかつたが、彼が順調に素養を積めば恐るべき作家にならうと思つたのだが、何時の間にやら雑誌も廃刊して爾後消息を不通にしてしまつた」(金沢種美(高崎正男『長谷川利行画集』明治美術研究所刊))。

夏休みには帰郷せず、同人雑誌仲間と浜田峯太郎の実家、日高郡和田村和田に遊ぶ。

この年

米国ピアソン財団、(メキシコの)タンピコ南方で大油田発見。権利をロイアル・ダッチ・シェルに譲渡

スタンダード石油も進出。石油開発ラッシュ。米国資本は,鉱山62%、石油40%、鉄道幹線の殆どを支配下に。


1月

韓国、裁判所構成法施行

1月

安東電気株式会社創立。

1月

都府をはじめとした近畿地方、東京に天然痘患者が拡大。1月の間で患者数1万8,000人、死者6,000人

1月

新村忠雄が中心となり信濃社会主義研究会、結成。

1月

小林多喜二(5)一家、小樽区若竹町に住居をさだめ、両親は伯父の経営していた三塁パン店の支店を開く。

5月、若竹町を起点に小樽港第2期築港工事が数年の予定で始まる。

若竹町18番地で伯父の三星パン店の支店(駄菓子屋に近く、パンと自家製の餅の類を売る店)を開く。父は朝暗いうちから、小樽の中央寄りにある新富町の伯父の製パン工場に、パンの仕入れに行き、早朝までに帰って来て、出がけの労働者や学生に自分の店でそれを売り、昼には土工たちに浜までパンを売りに行く。彼らの家は、小樽南端にあり、周りは貧民が多く、大きな商いにはならず、小林家は秋田から小樽に出てきたが、豊かにはならず

1月

満鉄東京支社に満州・朝鮮歴史地理調査部設置

1月

輿謝野晶子(30)「婦人と思想」(「太陽」)。

1月

田山花袋「一兵卒」、正宗白鳥「何処へ」(~4月、10月刊行)、島村抱月「文芸上の自然主義」(「早稲田文学」)。この号には白松南山・相馬御風・中村星湖・片上天弦らも執筆。

1月

広津柳浪「是か非か」(「文藝倶楽部」)。自然主義、とりわけ「蒲団」の花袋を攻撃。

3月、花袋は「新潮」で反論。

「新潮」4月号では鏡花が自然主義批判。

1月

水野蝶郎「再会」(「新思潮」)。小山内薫の「新思潮」には、蒲原有明、薄田泣菫、北原白秋、岩野泡鳴、小栗風葉などが執筆。既に、泣菫は「新思潮」に自然派風に詩を発表。有明・泣菫らも鉄幹により世に出る。

1月

国木田独歩「竹の木戸」(「中央公論」)

1月

長谷川天渓『現実暴露の悲哀』(『太陽』)。

7月、『自然主義』刊行。

1月

二葉亭四迷、亡命ロシア人ポドパフが創刊した雑誌「東洋」に、森鴎外「舞姫」ロシア語訳を掲載。ついで独歩「牛肉と馬鈴薯」を翻訳・掲載。

1月

「(一月、森田草平、「閨秀文学会」の最初の雑誌に、平塚明子が初めて発表した「愛の末日」について、長い批評を発表する。煤煙事件の発端になる。)」(荒正人、前掲書)

1月

『冒険世界』、『音楽会』創刊。

1月

『婦人の友』創刊(『家庭の友』改)。

1月

2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。

松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。

1月

佐藤紅緑「東風物語」初演。東京座、新派大合同。

1月

大工原銀太郎、酸性土壌論。『農事試験場報告』37号。土壌酸性の原因、性質、酸性土壌の分布に関する研究。

1月

長崎三菱造船罷業。

1月

長野県、女教員妊娠規定を定める。初めて産前産後2ヵ月を有給休養とする。

1月

グスタフ・マーラー、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場デビュー。

1月

メキシコ、ディアス、米ジャーナリストのクルールマンと記者会見。次期大統領選への不出馬と反対党設立の自由を声明(クリールマン宣言)。コラルへの政権禅譲と院政継続を狙ったディアスの声明は与党内からも反発を招く。

1月

ハンス・プルマンら支持者たち、セーヴル通り56番地に美術教室(アカデミー・マチス)を開校、アンリ・マチス(39)が教える。


つづく