2026年9月20日日曜日

1931(昭和6)年9月18日 午後10時20分頃、奉天独立守備隊島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール(長さ約80cmほど)爆破。列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行。、、、、、 19日未明、独立守備歩兵第2大隊、北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領。営口、鳳凰城、安東占領。

 

1931(昭和6)年9月15日 参謀本部第1部長建川美次少将、東京発満洲に向かう。南陸相から本庄関東軍司令官に宛てた親書持参。但し、建川は、本庄司令官に会う前に板垣と会うことになっている(事変当日の18日夜)。16日、石原が、三谷・今田・川島に対して18日夜決行を指示。17日、 石原・板垣の役割確認。 より続く

1931(昭和6)年

9月18日

奉天の森島守人領事と木村鋭一満鉄理事、建川来奉や奉天城占領演習情報などから、事態切迫を予感し、林久治郎奉天総領事に事前防止措置進言。林は、危機切迫を認めず、本庄司令官に宛てて速達の私信を送るのみ。また、この私信は旅順で片倉参謀が握り潰す。

9月18日

朝、板垣、遼陽から奉天へ引返し柳条湖爆破準備完了を確認し、本渓湖へ建川を迎えに行く。

9月18日

午後2時、本庄司令官、巡視を終え石原と遼陽から旅順に向かう。

9月18日

午後、奉天領事館で中村大尉事件に関する秘密会議。~午後8時、終了。森島領事は土肥原・花谷を探す。

9月18日

午後7時5分、建川と板垣、奉天到着。花谷が出迎え、料亭「菊分」へ直行。板垣は宴席には加わらず特務機関へ急ぐ。

「私もなにか起きるということで、その晩、最後に領事館で会議を開いて、終えたのが八時半か九時ごろでしたね。私はその日、建川少将のいるところを捜そうとしたんです。建川と話をしなければならんということで、あらゆる料理屋から、旅館から、心あたり全部電話をかけたりしまた。彼は料理屋で一杯飲んでおったが、陸軍は隠してたのです」(奉天総領事森島守人「昭和政治経済史への証言」)。奉天特務機関に行けば、建川の所在はわかる筈なのに、「探す」にしては動きは鈍重。

建川は「君らの事が半分あばかれた。中央は止めよという。自分の意見はうまくやるならやれ、駄目なら止めた方がよかろう」と述べ、酔いつぶれて寝込む。建川の口ぶりに板垣・花谷は本気で止めようとしていない腹の内を察し、計画通りに実行。建川もまさか、その夜やるとは思っていない。

林総領事は、この日、津久井平吉(日露戦争の沖・横川ら挺身破壊班の同士)の通夜に出かける。林は、関東軍の計画的行動を暴露し、政府による軍の行動緊急差止めを要請した至急極秘電を打ち、19日「午前」と「午後」に到着し、真相を中央へ伝える決定的な役割を果す。

しかし、林は、事変後、関東軍から再度の詰問を受け、中央へ報告した諸情報の取消しを強要され、再三、本庄軍司令官に対して陳謝させられ、遂には軍との協調を図ることになる。武力の前に立たされた外務官僚の現実追随の象徴。

9月18日

夜、大阪・中之島公会堂で「対支国民大会」、国粋大衆党主催。「権益確保のため帝国威武の発動」を求める。講師として登壇した朝日新聞外報部中平亮は、猛烈なやじで立ち往生。

9月18日

午後10時、本庄新関東軍司令官、満州各部隊の巡視から旅順の官邸に戻る。午後8時に大連に着き、野田画伯の家で出来上がった自分の肖像画を見る。

9月18日

午後10時20分頃奉天独立守備隊島本大隊川島中隊河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール爆破。しかし列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行

爆破の急報は、特務機関と島本(正一、中佐)大隊本部へ届き、「軍は軍の主力をあげて奉天付近に集中し、一挙に在奉天軍の中枢に一撃を加え、彼の死命を制し、至短期間に解決す」という作戦大綱が、板垣高級参謀によって迅速に実施。島本大隊は北大営へ進撃平田幸弘第29連隊長は、非常呼集を命じ、奉天城へ進撃

破壊されたレールの長さは約80cm(秦郁彦「柳条湖事件の再検討」)。19日には平常運行に戻る。

森島総領事代理は、特務機関からの急報で駈けつけ、外交交渉による解決の説得を試みるが、板垣から、指揮権に干渉するなと怒鳴りつけられ、「菊文」から戻っていた花谷が、抜刀して「干渉する者は殺す!」と脅迫。林総領事は、ようやく、電話で板垣に戦闘中止を勧告するが、板垣は「軍は既定の方針どおり事を進める」と、はねつける。その時には既に、24糎流弾砲は北大営を砲撃。

9月18日

午後10時30分、本庄関東軍司令官、板垣参謀より奉天での日支両軍衝突、独断で独立守備隊出動命じたとの連絡受ける。

参謀本部作戦部長建川美次少将、酔いつぶれ役立たず。

9月18日

深夜、朝日新聞奉天通信局長竹内文彬、支局員「K君」と共に喝采を叫ぶ(「満州・上海事変全記」)。

勃発の瞬間、武内は入浴中。「ドーン」とガラス戸が被れ、家を揺るがす大音響がとどろき、次々に重砲の爆音、機関銃の銃声が響く。電話が鳴り、妻の「アナタ電話です。国家の一大事だそうです。お風呂どころの騒ぎじゃないです」との伝言に、武内は飛び出し、第1報を本社に打電。徹夜で約8時間、計28通の至急電報を打ち、「朝日」開闢以来の記録を作る。奉天通信局員のK君が自動車で駆け付けて来る。「イヨイヨやりよったネ」と話しかけると、「とうとうやりましたネ」とK君も顔を真っ赤にして答える。

9月18日

夜遅く、旅順の関東軍司令部に柳条湖鉄道爆破の急報が入ると、司令部の参謀連中(情報の新井匡夫、作戦補佐の武田寿、輸送動員の中野良次の各参謀、幕僚付け片倉衷、調査班長竹下義晴ら)が参謀長官舎前に集り、板垣・石原が幕僚を無視して事件を起こしたことに不服で、事件に協力するかどうか、議論を交す。

この時、片倉と新井が大乗的見地から板垣・石原に協力するよう説き幕僚達を纏める

石原が遅れて参謀長官邸に着。彼は、急報を聞き、軍司令官官舎に行き、遼陽の第2師団に対する奉天出動命令の決裁を受けてからやって来た。そして参謀長官邸から遼陽に電話で、第2師団長にその命令を伝え、三宅参謀長以下はやがて軍司令部に移る。



9月19日

午前0時、本庄関東軍司令官、司令部着。

9月19日

午前0時28分頃、第2報が届く。

作戦主任石原は、「・・・最早一刻を猶予すべからず。断乎として軍全力の行動を起こし、短切に敵中枢の死命を制すべきである」との参謀長以下の結論を伝える。本庄は瞑目して沈思黙考5分、開眼すると「宜しい。本職の責任に於てやろう」と断案を下す。本庄より「全線全関東軍出動、奉天軍攻撃」を命令。軍司令官も奉天に出動と決定(19日午後2時、奉天に異動)。同時に、参謀長以下の進言により林銑十郎朝鮮軍司令官に増援を要請。

9月19日

午前1時7分、関東軍からの第一報、陸軍中央に届く南陸相は、夜半過ぎ、宿直将校に起され、奉天特務機関の軍機電報で事件発生を知る。

「十八日夜十時半ごろ、奉天北方、北大営西側において、暴戻なる支那軍は満鉄線を破壊し、わが守備兵を襲い、駈けつけたるわが守備隊の一部と衝突せり。報告により、奉天独立守備第二大隊は現地に向い出動中なり。」

9月19日

午前2時、公主嶺独立守備隊司令官守中将、関東軍司令官より奉天前進命ぜられる。

9月19日

午前2時頃、小磯軍務局長、陸軍省からの電話で事件発生を知る。そのまま就寝。

5時頃、塀を乗り越えて訪れた朝日新聞記者高宮太平の質問に「(事件は)大きくなりそうだ」と答える。

9月19日

午前2時20分、第一報の「電通報」が「大阪朝日」本社に入電。

9月19日

午前2時30分頃、「東京朝日」編集局に第1報が入る(「満州・上海事変全記」)。

第1報。「奉天で日支軍衝突」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破・・・」「深夜の奉天市内は今や砲声轟く戦火の巷となった・・・」が入電。

「はり出しのため主要地方通信局への速報、号外準備の動員など編集局の神経は高圧電気を通した電線の如くになった」

「翌一九日には早くも編集局の論説委員会が開かれて、事件に対する正しい見解と態度が決定された。日露戦争以来の日本の建て前と正当な権益の擁護、新聞編集には単に日本国内の読者のみを対象とせず、世界の世論を考慮に入れることーこれが事変を中心としての我々の新聞製作の標識であった」(社会部長鈴木文史朗)。

9月19日

未明、独立守備歩兵第2大隊、王以哲軍兵営北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領営口、鳳凰城、安東占領

9月19日

午前3時、長春駐剳部隊司令官歩兵第3旅団長長谷部照悟少将、第4旅団長大島陸太郎大佐に命じ第2大隊(黒石大隊)の南嶺(長春南6㎞、奉天直系の歩兵1連隊・野砲1連隊、計3600・火砲36門)攻撃下命。

5時、南嶺砲兵営奇襲するも、応戦により後退。

9月19日

午前3時30分、本庄関東軍司令官、旅順発。午前11時、奉天到着。

9月19日

午前6時、公主嶺独立守備隊司令官森中将、第1大隊(小河原中佐)を南嶺へ派遣。

森中将は、前夜(18日)11時10分頃、奉天付近の戦闘の報告を受け、部隊に出動準備を命じ、19日午前2時頃、関東軍司令官から、第1、5大隊主力を奉天へ前進させる命令を受け、午前6時には公主嶺駅(長春南94km)に搭載完了。しかし、奉天での戦闘行動は成功しているのが、長春付近では苦戦中と知り、小河原中佐の意見具申を容れ、独断で小河原中佐の第1大隊を長春の応援に赴かせる。

9月19日

午前7時、陸軍中央部首脳会議。全面的に関東軍支持。

9月19日

早朝、北京、張学良ら東北関係者会議、張の主張確認、「あらゆる軍事・外交はすべて全国的問題・・・抗戦を主張するがそれは全国的抗戦でなければならない」

9月19日

午前7時過ぎ、若槻首相・幣原外相ら、事変発生を知る


つづく

歌舞伎のアトラクション アジア大会(時事) / 【アジア大会】中村勘九郎親子が名古屋城バックに宙を舞う 聖火最終ランナーは室伏親子(東スポWEB) / 中村屋一家の宙乗り・連獅子・女形(動画)

 

麻生太郎氏はいつまで権力にしがみつくのか… 自民大物OBも引退勧告「86歳で現職、伝統から外れている」(デイリー新潮); 山崎拓氏「かつて自民党には“70歳定年制”という考え方がありました。中曽根康弘さんや宮澤喜一さんも高齢が理由で引退しています。86歳になっても現職にとどまる麻生さんの姿勢は、自民党の伝統から外れているし、在職が長過ぎると思います。常識的に考えて、高齢化に伴って判断力が低下する可能性もある。私自身、間もなく90歳です。政界を引退してから十数年になります」


 

留任した経済財政政策担当の城内実が、「ショック」を招いた骨太の方針発表前にリフレ派・高橋洋一や会田卓司に密かに相談していた事を語った。もう少しまともな人に相談する頭はなかったのか。それを言ってしまう事に恥ずかしさは感じないのか。そして、そんな城内を留任させた高市のリアル浅はかさ。(佐藤章)

中国製AI 75%、米国を圧倒 開発者向けサービス利用量(共同);「生成人工知能(AI)を使い分けられる開発者向けのサービスで、直近1カ月の利用量上位10モデルのうち、8モデルを中国企業製が占めたことが19日分かった。上位20モデルを米中が独占し、中国製の利用量は計約75%に達した。サービスを提供する米大手オープンルーターがデータを公表した」

AIバブルはこうして終わる 金利高と収穫逓減「死の交差」(日経 会員限定); AIバブルはこうして終わる。AIの最大の試練は収穫逓減。性能向上ほど半導体・電力への巨額投資が膨らむ一方、追加収益は追いつかない。投資を止めれば競争に敗れ、続ければ資本利益率が資本コストを下回る「死の交差」が迫る。成長神話の裏でバブル崩壊の条件は整いつつある。

データセンタの電気代問題(データセンタ建設に伴う電気代UP分は誰が負担するのか); 9月16日、アメリカ下院では、賛成417、反対3で法案を通過。大型のデータセンターには、発電所も送電線も自分で払わせる。 その基準を州に示す、という決議。

 


 【データセンターの電気代問題:賛成417、反対3。アメリカは決めた。日本は、まだ誰も言い出していない】

うちのビルのエレベーターでも、お店のレジ前でも、ジムでも、電気代の話をしている人がいます。

ニューヨークで電気代が高いのは昔からだけど、変わったのは、それを口に出す人の数のほうです。

「家庭にはAIデータセンターの電気代を転嫁しない」と約束した年に、うちの請求額はめっちゃ上がった。前回書いたのは、そこまででした。

アメリカは、そこで揉めました。

規制当局に任せてもまとまらず、9月16日、下院が法案を通しました。

賛成417、反対3。大型のデータセンターには、発電所も送電線も自分で払わせる。

その基準を州に示す、という決議


では、日本はどうなっているか。

いま日本では、送電網を太くする費用の大半は「一般負担」といって、そのエリアで電気を使う人全員の託送料金に入ります。(アメリカでも同じ、AI使わない人も払ってる)

つまり、このままなら日本の家庭にも回ります。

7月10日、送配電8社が料金の引き上げを申請しました。5年で8,845億円。理由の一つが、データセンター需要を見据えた増強で・・・。

承認されれば11月1日から。月230kWhの家庭で、東京は月246円、沖縄は月458円ほど増えます。

じゃ、アメリカのように誰かが決め直すのか。

法案はありません。エネルギー基本計画に「接続の規律を確保する」と書かれ、まだ国の審議会で検討されている段階です。

データセンター反対運動はあります。印西、白井、流山、日野、江東。

でも争点は、騒音と排熱と圧迫感。

日本で揉めているのは、建物のことです。電気代を誰が払うのかは、まだ国会でも誰も持ち出してません。

日本でも、請求書のほうが先に来ます。11月1日です。




2026年9月19日土曜日

1931(昭和6)年9月15日 参謀本部第1部長建川美次少将、東京発満洲に向かう。南陸相から本庄関東軍司令官に宛てた親書持参。但し、建川は、本庄司令官に会う前に板垣と会うことになっている(事変当日の18日夜)。16日、石原が、三谷・今田・川島に対して18日夜決行を指示。17日、 石原・板垣の役割確認。  

 


1931(昭和6)年9月4日 河本大作(予備役大佐)、参謀本部第5課長重藤千秋大佐の要請により、奉天で特務機関花谷正少佐に開戦謀略資金5万円を渡す。高級参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐(関東軍作戦参謀)と会談 より続く

1931(昭和6)年

9月10日

張学良、中村事件で穏便解決意向表明。

9月10日

旅順要塞の28センチ砲を北大営の支那兵舎砲撃用に分解して運び込み、奉天駐屯軍兵舎に据え付け。

9月10日

国民政府行政院副院長兼財政部長宋子文重光葵駐華公使会談。日中懸案の平和的解決につい張学良の排日政策の転換説得など。20日に宋・重光は上海を出発、10月の吉林将軍張作相の母の葬儀参列名目で満州に赴き、途中北平で張学良に会い説得、大連で満鉄総裁内田康哉と3者会談する計画。

実際は、満州事変が先に勃発。勃発後も、2人は局地解決のため満州入りし事態収拾しようと、重光は幣原に意見具申、回答を督促するが、承認の返電はようやく21日に到着。宋子文に会うが、中国側はその日既に国際連盟へ提訴した後であった。

9月10日

奉天特務機関長土肥原大佐、上京。

11日、幣原外相・谷アジア局長と会談。幣原、軍部の自重要請。

同日、土肥原大佐は、二宮参謀次長・杉山陸軍次官・永田軍務課長と実力行使打合せ。続いて、土肥原は、金谷参謀総長の諮問に応答。

9月10日

原脩次郎、鉄道大臣に就任。若槻禮次郎、拓務大臣に就任(兼任)。

9月10日

満蒙問題各派連合大会

9月10日

スコットランド北部のインバーゴードン港で、イギリス大西洋艦隊水兵の暴動発生。

9月10日

イギリス、軍縮財政法案成立。失業手当削減に反対してロンドン・グラスゴーで暴動発生。

9月11日

奉天軍栄臻参謀長、朝日新聞記者に中村大尉事件は事実との公表。

同日、林久治郎奉天総領事と湯爾和との間で奉天交渉開始。

9月11日

天皇、「軍紀粛正」につき南陸相に下問。南は、下問内容を予め奈良武官長より知らされており、よどみなく答える。

9月11日

帝大航空研が開発した飛行船の水素ガス爆発防止法に対して、フランス政府が権利買収を正式に申込む。

9月11日

夜、料亭「竹葉」で、3省2部(外務、陸、海、参本、軍令部)の満蒙関係課長から成る少壮派「十日会」会合。出席者20名。永田鉄山軍事課長が陸軍側の方針を説明、中村事件を機として鉄道問題など懸案一切を解決する、という事に意見一致。永田は、十年来抱懐してきた大経略の片鱗を初めてのぞかせる。

9月12日

国民党中央緊急会議、国際連盟への提訴、国内団結、広州国民政府との敵対中止の基本方針決定。

9月12日

南陸相、御殿場の西園寺公望に軍制改革の経過報告。西園寺は軍紀について厳しく注意。

「元来、満州の土地に無頼の徒、所謂ごろつきとか浮浪人とか、或は右傾の暴力団のような者を送っておくことが、頗る面白くない。殊に軍部でかくの如き者を利用するというに至っては、国家の面目上、また日本軍の威信の上からいっても頗るよくないことである。もし彼等を軍部が使嗾したとするならば、外国から、日本の軍隊を、彼等と同等の価値のものと認められても仕方がない。これは陛下の軍隊の面目を庇つけるものである・・・」

殊に満蒙の土地と雖も支那の領土である以上、事外交に関しては、すべて外務大臣に一任すべきものであって、軍が先走ってとやかく言うことは甚だけしからん話である。閣下の如きは、輔帝の兼任上、また軍の首長として、充分慎重な態度を以てこれを取締るべきである」。

西園寺は、南を全く信用せず、15日、御殿場~京都の車中で、「(南は)べらべらと一人でしゃべっていた」と吐き捨てる様な言い方で会見の模様を原田に伝える。

「まるで暖簾に腕押しのようで、どうもあゝいう大臣では困るな。唯今甘酒を飲んで参りました、というような顔をしてしきりに述べ立てていたが、どうも実に頼りのないこと夥しい」。

9月13日

広州の反蒋軍、湖南省に侵攻、蒋軍と交戦。

9月13日

オーストリア、右翼軍事団体郷土防衛団、蜂起。警察と軍隊の協力を得られず失敗。

9月14日

関東軍三宅参謀長、建川第1部長に宛てて、現状視察(張学良政権の暴圧侮辱ぶり)を要請。

9月14日

張学良の顧問柴山兼四郎少佐、上京。中村大尉事件で張の遺憾の意を軍首脳に伝える。

9月15日

林久治郎奉天総領事、関東軍の軍事行動の気配(軍の集結、爆薬資材の搬出)を幣原外相宛に打電。幣原は南陸相に厳重に注意

前日の14日、撫順守備隊長川上大尉が、撫順警備会議席上、「撫順守備隊は十八日午後十一時半頃同地出発、牛相屯下車、飛行隊を襲撃する計画あるにつき、満鉄は列車を準備せられたく、なお、守備隊出発後の炭鉱等の警備は在郷軍人等を主とする防衛隊に拠られたし」と訓示。席上これ聞いた満鉄理事伍堂卓雄が、この情報を林総領事に伝えたる。幣原外相は閣議で南陸相に質するが、南は調べなければ信じられぬ、と逃げを打つ。

9月15日

共産党軍、国民政府軍の第3次包囲攻撃戦(7月1日~)を粉砕した、と主張。

9月15日

午後9時45分、参謀本部第1部長建川美次少将、朝鮮経由満州へ向かう為、背広姿で東京発南陸相から本庄関東軍司令官に宛てた親書持参。この20分前、奉天特務機関長土肥原は軍服の正装で列車に乗りこみ西下(建川の私服渡満の陽動作戦)。土肥原は途中下車し、事変勃発時は朝鮮を通過中。

「十一日に、陛下から軍紀に関して御注意があり、殊に満蒙における軍隊の行動については、更に一層慎重なるべきことを言われた」として、「一年間の隠忍自重をさらに説く」手紙。

建川は、出発直前、今村作戦課長には大臣・総長から自重を促すように指示されたと語るが、秘かに大川周明と連絡をとり、本庄関東軍司令官に会う前に、板垣・石原の意向を確かめる方法を大川と相談。大川は部下の中島信一を飛行機で大連に飛ばせ、板垣か石原に先に連絡をとらせる手を打つ。参本からは、関東軍三宅参謀長宛に、建川派遣を打電するが、関東軍参謀大尉片倉衷によれば、「板垣か石原かを途中まで迎えによこせ」とあったという。石原供述(東京裁判)では、「板垣か石原かを奉天に残すように」とあったという。いずれにしても、建川は、本庄司令官に会う前に、板垣・石原のどちらかには会えることになっている

9月15日

深夜~未明、奉天特務機関に関係者が集る。決行説の今田と中止説の花谷が対立板垣・石原は決行を決意しながら、士官らの肚を確かめる。

建川来訪を橋本欣五郎の電報(「計画露見、第一部長そちらにいく」)で知り、関係者が最後の協議

板垣、石原、三谷(憲兵隊長)、今田大尉(張学良顧問柴山兼四郎補佐官)、川島正大尉(独立守備隊第2大隊第3中隊長)、小野大尉(第1中隊長)、花谷少佐、児島少佐(独立守備隊第2大隊付)ら。議論は果てしなく、午前2時頃、鉛筆を立ててクジをやり、結果、中止と出て、今田は憤然として、「俺一人でもやる」と、席を蹴って退出。橋本欣五郎から板垣宛ての電報には、建川来満の任務が不明のため議論は続く。板垣・石原は決行と決めている。建川の来着を待つ必要はあるが、建川が来着しても勃発には間に合わないようにする必要がある。

9月16日

朝、奉天の瀋陽館に宿泊の石原が、三谷・今田・川島を呼び、17日迄の決行を求める。しかし、24糎流弾砲の駐退機の故障の為、1日遅れ18日夜と決定

9月16日

王外交部長、中村事件で妥協の線提出

9月16日

初度巡視中の本庄繁関東軍司令官、板垣・石原を従え奉天から遼陽に行く。板垣は、司令官が旅順に戻った後、奉天に戻る手筈。

9月16日

撫順炭坑襲撃事件。

9月16日

奉天、蔵式毅が省内各知事に排日運動取締令を出し、中村事件の責任者関玉衡を留置、17日軍法会議開廷を決定。

9月16日

軍事参事官会議臨時召集。白川・菱刈参事官(双方とも元関東軍司令官)は一挙解決を主張。現職出席者の南陸相・杉山次官・金谷参謀総長。二宮次長は、即時武力行使差控え決める。但し、現地部隊を拘束する措置はとられていない。

これより先、貴族院の火曜会・研究会・公正会・同和会などの有志が、外務省の中村事件解決方針は生ぬるいと批判。政友会も幹部会を開き、若槻内閣の外交を強硬外交に転換させることで一致。武力行使は、もはや時間の問題と考える傾向が、軍部以外の場でも貴族院・政友会から政治的に打ち出される

9月16日

リビア、反イタリア抵抗運動指導者ウマル・ムフタール、イタリア軍捕虜となり処刑。ムフタールの部下達はユースフ・アブー・ラーヒルを指揮官に選び、更に半年間抗戦。しかし、ラーヒルはエジプト国境越えで戦死。1932年、イタリア総督は全リビア征服・占領宣言(イタリア軍の次の征服地はエチオピア)。その後、イタリアはリビアに莫大な投資を行い、植民地時代にリビアに入植したイタリア人の多くは、第2次世界大戦後のリビア独立後、1970年迄地主として居座る。

9月16日

アメリカ、スウォーブが経済再建案を発表。

9月17日

奉天総領事館、撫順の寺田警察署長が出向いて来て、撫順守備隊から、18日未明に奉天城占領の想定の下に演習をするので、警察が居留民保護や避難の計画を立てるように指示して来た、との報告を受ける。

9月17日

遼陽、大川周明の部下中島信一が、板垣に、建川が本渓湖で下車して板垣に会いたい旨連絡。建川は18日13時奉天着予定であるが、11時29分に本渓湖で下車、板垣が迎えに出かける。

夜、遼陽の白塔ホテルで石原(旅順の軍司令部の意見統一)・板垣(奉天関連)の役割確認

9月17日

「大阪朝日」社説「満蒙権益の擁護、若槻首相の与えた言葉について」(編集局長高原操)。

「吾人は若槻首相に望む。昨今、満蒙問題の論議、漸しく激化せる折柄、軍部の昂奮を善導して意外の脱線行為なからしめ、対支外交に清鮮味を加え、その基礎の上に国際正義に基づく近代的外交の殿堂を築き上げんことを。・・・これが成し遂げられなければ、徒らに退嬰の結果による衰頽か、または猪突主義による顛落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうと確信する」

9月17日

曽野綾子、誕生。

9月17日

イギリスで金本位制停止。

9月17日

ロンドン第2次英印円卓会議。ガンジーが出席するが、協定は不成立。 


つづく


日本人の身長、なぜ中国・韓国に抜かれたのか 栄養だけじゃない要因(日経 会員限定); 【この記事でわかること】 ・中韓とのエネルギー摂取量の差  ・日本で低出生体重児が多い背景  ・3歳までの差に着目「第3の仮説」...

食費1日500円下回る 困窮世帯、物価高の影響強く―NGO調査(時事); 経済的に困窮し食料支援に申し込んだ世帯の1日の平均食費が、1人当たり500円を下回っていることが19日までに、国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」(東京都千代田区)のアンケートで分かった。物価高の影響で十分な食料を購入できない実態も浮かび上がった。