2026年5月13日水曜日

米紙が報じる「高市の憲法9条改正への挑戦」 改憲反対デモの叫びは届くか(クーリエ・ジャポン); 日本の平和憲法がいま岐路に立っていると、米紙「ワシントン・ポスト」が報じている。9条改正へ本格的に動きだした高市首相の思惑、拡大する改憲反対デモを取材。「日本でこれほど抗議運動が高まるのは異例だ」と伝える。 / 反戦デモが日本を揺るがす、首相が強力な防衛を推進(BBC)

大杉栄とその時代年表(820) 1909(明治42)年1月14日~18日 「四谷で電車を降りて、とある天プラ屋で三人で飲んだ。この二人と一緒にのんだのは今夜が初めて。北原(*白秋)は酔うと不断よりもモツト坊ちやんになる。別段口をきくでもなく、嬉し相にしてゐる。太田(*正雄=木下杢太郎)はその恋――片恋のあつたことを仄めかした。予と太田は頻りに創作や思想について語つた。(僕の最も深い弱味を見せようか)と予は言つた。(何だ?)(結婚したつてことよ!)」(啄木日記)

 

五足の靴:矢印が杢太郎、左に吉井勇、平野万里、与謝野寛、杢太郎後ろの学生服姿が北原白秋


1909(明治42)年

1月14日

英、公定歩合引上げ、2.5%から3%へ。4月1日2.5%、10月7日3%、14日4%、21日5%、12月9日4.5%。

1月14日

(露暦1月1日)新年になったばかりの夜12時、二葉亭は下宿の門番の娘たちを連れて厳寒のなか、イサーキー大寺院の新年ミサに行った。姉エフゲーニャは23歳、妹のリューボフィーは16歳で、二葉亭はリューボフィーを「リューちゃん」と愛称して、ことのほかかわいがった。その音は東京た残した若い妻、柳子を連想させるごとくに響いた。

1月15日

「一月十五日 金曜 晴 温

(略)

十一時半頃太田君が来た。(南蛮寺門前)少しよんだ。上田氏を訪ふと留守

金田一君から五十銭借り、一時頃北原君を訪ふて原稿の約束をした。詩集の校正は半分許りすんださうな。それから大久保余丁町に永井荷風氏を訪ねてみたが留守、四時頃に疲れきつて千駄ヶ谷に行つた。生田長江君、河井酔茗君、太田君が行つてゐた。河井君には初めて逢つた。

晶子さんの脚本二三日中に清書して送るといふ事、四時半頃帰つて来た。疲れきつてゐた。

(略)


一月十六日 土曜 晴 温

十一時起床。

半日つぶして、(ユリウス、バツブの戯曲論)の筆記を訂正した。そして日がくれた。所々筆記の曖昧なところがあるので、電話をかけると森先生から来いと言つて来た。すぐ出かけて行つて、それを直して、それから九時半まで色々話込んだ。先生は近頃非常に新聞記者をイヤがつてゐた。(この里に来てすみしより漸くに新聞記者も訪ねこぬかな)といふ歌を作つたと言つてをられた。

予は色々と自分の文学上の考へなどをのべた。そして、この先生は、文学を見るに、全く箇々の作品として見るので、それと思想との関係を見ないといふことを感じた。

(略)


一月十七日 日曜 晴 寒

(略)

吉井君が久振でやつて来た。森先生の会以後、毎日飲んで――一日に二升六合のんだこともあると――ゐたといふ。日本橋の芸者と再燃したの、吉原へ行つて昨日までゐたのと言つた。そして女の懐妊はウソ、今女の母から邪魔が起つてるから、二人で信州の山の中へでも行かうと思つてると言つた。吉井の話はその五分の一だけ事実だ――常に。そしてスバルの原稿、受持の方を一つも集めてなかつた。藤岡玉骨が来て帰つた。

そこへ太田君が来た。(君は短剣を持つてゐる男だ)と吉井。(さうぢやないよ、僕は今なら、出せと言はれたら腹の底までさらけ出してみせる。短剣なんか持つてるもんか)と太田。予曰く、(其所だ。君はイザとなれば腹の底まで見せれるから外の者にや怖ろしいのだ。短剣を有つてる様に見えるのだ!)

吉井の為に質屋にゆく、古い置時計と袷で二円かりてやる。

(略)」(啄木日記)

1月17日

(漱石)

「一月十七日(日)、岡田(林原)耕三宛葉書に、「胃病よろしからず。南方に旅寐して梅花を見たし」と伝える。(鈴木三重吉、鈴木周作宛葉書に、「此頃の朝日の煤煙は傑作だ。作者曰く予は文體を山彦千鳥より取る所多しと三重吉たるもの何ぞ煤煙以上の大作なくして可なんやだ。大いにもだえてゐる。」と書く)

一月十九日(火)、雪後曇。『東京朝日新聞』の社会面の「文藝院夢物語」に、漱石の談話掲載される。西村誠三郎(濤蔭)・小宮豊隆来る。西村誠三郎、談話を求める。小宮豊隆から論文読んで貰いたいと頼まれたけれども断る。自分でよいと思ったら高浜虚子に渡してよいではないかという。

夕刻、文部大臣小松原英太郎(桂太郎・大浦兼武・平田東助と共に山県有朋の四天王と云われる)の官邸(麹町区永田町一丁目十九番地、現・千代田区永田町二丁目二番)で催された文芸の奨励発達についての懇談会に電報で招かれ出席する。フロックコートを着る。(森鴎外・幸田露伴・巌谷小波・上田敏・上田万年・芳賀矢一・島村抱月・塚原渋柿園・岡田良平・内務大臣平田東助・文部次官・専門学務局長福原錬太郎ら十七名集る。文芸作品の検閲の瀬踏みとみなされる。隣りに、小松原英太郎がいて、「近頃學校を出て直ぐ小説家になる者が多いそうだが」と聞くので、「學校を卒業して後は勿論未だ生徒の時分から小説を書く人が大分有る様です。」と答える。小松原英太郎は、島村抱月に、「新文藝とは何ぞや」と尋ねたが、島村抱月は突然の質問に黙っている。森鴎外は、ドイツのアカデミーが十七世紀末から成立し、文芸にも影響をもたらしたことなどを話す。(推定)上田敏は、文芸院の設立論を主張する。島村抱月は、「行政上不都合の作品も文藝上からは価値あるものがある、その眞価を識別する機関を設ける要がある」と云う。晩餐の後、十時二十分閉会する。(この懇親会は、明治四十一年十一月五日(木)、森鴎外が桂内閣の文部大臣小松原英太郎の文部次官岡田良平に、「小説家に對する政府の處置という文書を提出し、それに基いて招集されたものである)

一月中旬(推定)(日不詳)、慶応義塾から文学部刷新のため講義をして欲しいと交渉に来たけれども、東京朝日新聞社との関係から断る。(上田敏とも交渉する)

一月中旬、胃病よくない。

(「文藝院夢物語、談話」)『福原君からは文藝院の事/で意見を聞きたいとの事でしたが具體的/に組織立つた提案も無いので私は賛成と/も反對とも末だ何とも言ひ兼る/△文部省から話しが出る以上は何れ国家/の仕事として「国立文藝院」と言ふ事にな/るでせう、総裁と云ふ様な人には無論文/部大臣を戴くと云ふ事に為るに相違無い/△然し我々の立脚地から云へば文藝院を/一個の審判機闘とし其の総裁を最終の審/判者とする事は何うで有らう、一時政権/を掌る人に依つて作家なり作品なりの/価値を羅列されては心持が好く無い/△到底「文藝院」など云ふものはオイ夫れ/と出来るものでも無いし出来た所で文部/省が絵画展覧会を開いて画家を奨励する/様な調子鹽梅には行くまい/△政治上の意味から文藝院を設立しやうと云ふ程に日本の國家は末だ文學者を重/視しては居るまい、文藝院の審判に依つ/て作品の価値を鑑別すると云ふ事も厳格/な意味に於ては到底望む事が出来ない』


(森が文部次官に提出した文書)小説家を徒らに強圧するよりも、芸術院または文芸院を設立し、然るべき文士をその会員にして自重を促したほうがよいという内容である。この書は『二六新報』(十一月九日)や『報知新聞』(十月十四日)に文壇の噂として報道される。自然主義文学者が除外されていることから森鴎外への反感も重なり、正確な内容は伝えられない。自然主義文学は、情欲文学のような扱いを受けていた。


(慶應での講義を断る))二月十五日(月)、慶應義塾評議会で永井荷風の教授就任が決定する。」(荒正人、前掲書)

1月17日

(露暦1月4日)ロシアに滞在中の二葉亭四迷、この日、「ジエ」という女性とネバ河口をボート遊びをし、その夜ははじめて彼女の家に泊る。そして、19日には「ジエ」とその母と3人でプレオブラジュンスキー墓地へ行く。21日、2月6日、10日、17日にも「ジエ」と会い、彼女の家で過ごす。

「ジエ」とのみ手帖に記されるこの女性の名は明らかにされていない。

1月18日

幸徳秋水の妻千代子、上京。巣鴨平民社。

1月18日

「一月十八日 月曜 雪 温

十一時生田長江君におこされた。窓外は霏々たる雪。終日やまなかつた。

(略)

二時頃、雪を犯して発行所にゆき、岡村病院に平出君をとひ、スバルについての相談、二号以後、百頁のはづだつたのを百五十頁二十五銭にすることに決定。それから色々話した。予は、文壇と直接する必要をとき、平出をして賛成せしめた。結局スバルは予の雑誌になるのだ。予はそれを面白いとおもふ。しかし迷惑と思ふ。

夕方雪が雨になつた。森川君から二円かりて電車でかへる。雨は終夜やまず。

(略)


一月十九日 火曜 曇 温

十時頃太田君に起された。(南蛮寺門前)を脱稿して昨夜、森先生に見て貰つたと言つて持つて来た。美濃紙へ細かく三十一枚、一緒に読んだ。これは太田君が夏の頃、吉井と二人で別々に南蛮寺を描かうと言つて書いたので、吉井の方は例の予告だけで出来なかつた。それを今度――十一日頃一度書換へ、更にまたこの一週間許りで作変へたのだ。

十一時太田君と一緒に出かけて北原君をとひ、昼飯はガス鍋の牛肉で御馳走になつた。二時頃、三人つれ立つて千駄ヶ谷に与謝野氏をたづねた。いくら音なつても人のけはひがせぬ。庭へ廻つて見ると主人ただ一人、昼寝してゐた。話してると晶子さんはお子さん達と湯屋から帰つて来た。

与謝野氏の話は、氏も亦強き刺戟に渇してゐることを表はしてゐた。そして又、氏が十数年来の処世から得た虚偽を語つてゐた。・・・・・森先生が若い時その妾の姉妹に上野に氷屋を出さしてゐたことをきいた。

七時頃辞した。・・・・・四谷で電車を降りて、とある天プラ屋で三人で飲んだ。この二人と一緒にのんだのは今夜が初めて。北原は酔うと不断よりもモツト坊ちやんになる。別段口をきくでもなく、嬉し相にしてゐる。太田はその恋――片恋のあつたことを仄めかした。予と太田は頻りに創作や思想について語つた。(僕の最も深い弱味を見せようか)と予は言つた。(何だ?)(結婚したつてことよ!)

十時頃に太田と春日町まで来て、予は一人電車をおりた。生温るい風はまだ吹いてゐた。生温い風は予をしてまた電車にのらしめた。そして本郷から上野、浅草行、街路はぬかつてゐた。

(略)」(啄木日記)

1月18日

ニュージーランド酒造業界、酒場の女給廃止。女性の酒場でのアルコール類購入、ほぼ全面的に禁止。


つづく

2026年5月12日火曜日

アメリカで最も大規模な盗難の形態は賃金窃盗です。年間500億ドルがアメリカの労働者から盗まれています。・・・問題は個人の道徳についてではありません。それはむしろ、現在の経済現実における極端な不平等が、労働者を踏みにじり、本質的なシステムを大規模に搾取することを報酬する仕組みについてです。ここで話しているのは独占力です。レントシーキング。賃金窃盗。利益至上主義。株式買戻し。不動産市場の不安定化。企業がSNAP/EBTを使って賃金を補填すること。ロビー活動や政治の闇資金の後に続く大規模な政府補助金や企業への契約で、ほとんど監督や説明責任がないこと。・・・(AOC)


 アメリカで最も大規模な盗難の形態は賃金窃盗です。年間500億ドルがアメリカの労働者から盗まれています。

もし億万長者が、フルタイムの労働者を極端に低賃金で働かせ、その労働者が食料支援や政府プログラムに頼らざるを得ない状況に追い込まれることで富を蓄積しているなら、いいえ、その富は一人の個人によって稼がれたものではありません。それは、低賃金のアメリカ労働者と、大企業のシステムへのただ乗りで請求書を押し付けられる一般市民によって補助された富の移転です。

問題は個人の道徳についてではありません。それはむしろ、現在の経済現実における極端な不平等が、労働者を踏みにじり、本質的なシステムを大規模に搾取することを報酬する仕組みについてです。

ここで話しているのは独占力です。レントシーキング。賃金窃盗。利益至上主義。株式買戻し。不動産市場の不安定化。企業がSNAP/EBTを使って賃金を補填すること。ロビー活動や政治の闇資金の後に続く大規模な政府補助金や企業への契約で、ほとんど監督や説明責任がないこと。

私がこれに注目することを怒る人々がいます。それは彼らの問題です。私を甲高く、愚かで、経験不足で、女々しく、無教養だと呼べばいい。彼らは労働者が搾取されているという真実から注意を逸らしたり、弱体化させたりするために、何でも言うでしょう。そして、人々に公正な機会を与えるということは、権力の濫用を抑えるための大人びた議論をしなければならないということです。

(AOC;アレクサンドラ・オカシオ・コルテス)


大杉栄とその時代年表(819) 〈大逆事件に連座した3僧侶の一人、内山愚堂の年譜②(~明治41年)〉 「小作人諸君。諸君はひさしき迷信の為に、国にグンタイがなければ、民百性(ママ)は生きておられん者と信じて おったであらう、ナルホド 昔も今も、いざ戦争となれば。ぐんたいのない国はある国に亡ぼされて、しまふに極っておる、けれども之は天子だの政府だのと云ふ 大泥坊があるからなのだ、 戦争は 政府と政府とのケンクワでわないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんくわする為に、民百性(ママ)が、なんぎをするので あるから。この政府といふ、泥坊をなくしてしまへば、戦争といふ者は無くなる。戦争がなくなれば、かわい(い)子供を兵土(ママ)にださなくても宜しいと云ふことわ、スグにしれるであろう。」(『入獄記念・無政府共産・革命』)

 

〈大逆事件に連座した3僧侶の一人、内山愚堂の年譜②(~明治41年)〉

 ★眞田芳憲「大逆事件と禅僧内山愚童の「仏教社会主義」と その行動の軌跡 ―禅僧愚童の抵抗の宗教的倫理と責任―」による


明治41年(1908)(34)1月1日

伊藤證信宛葉書


「僕はそれに反して近頃思想の変化を来たした、

弱者の味方たる宗教家のやり方が馬鹿気に見えて堪らぬ、昨年の暮には小田君がト翁(*トルストイ)の人道主義を送ってくれたので、ト翁のやりかたも、念をいれて調べたが、壓制な政府とボイコットすることは大賛成であるが、其個人主義はどうも壓(ママ)き足らぬ

僕はどうしても社会的に人の上に人を頂かぬ世界を造りたくなった、

目下は其事に就て苦心して居る、その結果爆裂弾かピストルか、武器に於ては決定せぬ

いづれの政府も政府ほど暴悪な者はない、

武器を持って平民を壓しつゝ租税を奪ひつゝある、此暴悪を制する事は宗教家の力では駄目である、今の宗教家にして真個に天国の作造に心がくるならば、此政府を倒さねば駄目である数珠つまくる其手には常に爆弾を携へつゝあらねばならぬ

僕は経巻を棄てゝ何を採らんか、こは目下の研究問題でまだ決定はせぬ」


1月1日

この日付『世界婦人』第21号「伊藤中将姦通観」

「伊藤中将姦通事件」;竹数要港部司令官の海軍中将伊藤義五郎が横須賀海軍工廠長に在職中、職工組合長藤井陽一の妻原子(当時23歳)と関係を結び、それを知った陽一が伊藤義五郎に2万5千円という巨額な慰謝料を請求。苦境に陥った伊藤が弁護士をたて陽一と共犯者矢叮三郎を告訴し、陽一と矢叮は逮捕され、横浜地方裁判所で有罪の判決を受ける。原子は自殺し、伊藤義五郎も休職を命じられるという事件。

愚童は、伊藤、藤井、原子の3人の当事者に各人各様、立場・身分・地位の違いを超えて自己の何たるかを問い、自己の尊厳に目覚めよと説く。

宗祖道元禅師は「有所得心」を戒めた。「有所得心」とは、常に自分の利益にかなうよう慮って行動する自我中心の心、人間の心の奥底に巣くう自我本位に発する名利心をいう。この名利心が真実の生き方を破り、人を壊す。

愚童は、「名誉何者ぞ、財産何者ぞ、そを争ふ御主人公なる、自身それ何者ぞ」と喝破し、「徒らに煩悶する勿れ」、「沈思黙考せよ」と説く。

宗祖が戒める「有所得心」、愚童の言う「私有制度」(金銭・財産・地位・名誉・性欲等々の一切に対する執着・渇愛・我執、換言すれば本来自己のものにあらざるものを自己のものと執着すること)の心を捨てれば、真実が見える。さあ!真実の道を歩め。さあ、臆することなく「汝が夫の使命を全ふせよ」と戒しめ、勇気づけ、励まし、信仰への道を勧める。


5月

秘密出版の計画を立て、印刷機器、活字、付属品一切を購入。

7月5日

『世界婦人』で、「僕は迚も社会主義はできない。僕は矢張り自分の最も好きな宗教の伝道をするより外はない。宗教の伝道と言っても今の宗教では無いよ」と論じる。

7月21日

幸徳秋水、赤旗事件裁判傍聴のため高知県中村の生家を出立。東京への途中、和歌山県新宮の大石誠之助宅に滞在。住職髙木顕明の浄泉寺で講演「社会主義より見たる自然主観」において各国の社会主義の特徴を述べ、いずれも無宗教主義と結論。)

8月12日

幸徳秋水、林泉寺を訪問、2泊。その滞在中、愚童、秋水の暴力革命の可能性について同意すれども時期尚早とし、秘密出版を説く。秋水が出版を急いでいたクロポトキンの『麵麭の略取』の原稿を借りて読み、無政府主義の何たるかを知る。

秋水の林泉寺来訪で愚童に対する警察の目は一変、以後重要注意人物として警察の監視を受ける

9月

印刷機を買うために上京。

浅草の古道具屋で活字と印刷機器を購入し、林泉寺の本尊釈迦如来像安置の須弥壇の袋戸棚を印刷場として、ランプの微光をたよりに不十分な活字と悪戦苦闘し、印刷製本という根気のいる仕事に心血を注ぐ

9月30日

秋水宅に滞在。革命の方法を訪ねると、秋水は洋書を繙きながら、革命の際に交通機関を破壊することなどを説明したとされる。

10月末

秘密を秘密裏に印刷した『入獄記念・無政府共産・革命』を平民社へ持参し、森近運平から提供された「大阪平民新聞」の読者名簿を頼りにこれを各地の同志へ変名で発送した。しかし送付を受けた者の多くは身の危険を感じて即座に処分し、配布した5名が不敬罪に問われている。

愚堂は、『無政府共産』で「戦争は総て罪悪也、常に専制者と相場師とを利するに過ぎざる者也。故に吾人は曰ふ、決して犠牲の羊となる勿なかれ。」と論じ、国家権力に対し抵抗の非戦論を主張した。


『無政府共産』の基調は、「小作人ハナゼ苦シイカ」「迷信ヲステヨ」、「迷がさめて見よ」である。

「迷信といふは、マチガッタ考ヘヲ大事本ぞんに守っておる事を、云ふのである」

「 △諸君は地主から、田畑をつくらして。モロ(ママ)ウカラ、其お礼として小作米をヤラネばならぬ。

 △諸君は、政府があればこそ、吾々百性(ママ)は安心して、仕事をしておることが出来る。其お礼として税金を、ださねばならぬ。

△諸君は、国にグン備がなければ、吾々百性(ママ)は外国の人に殺されてしまふ、それだから若い丈夫の者を、兵士にださねばならぬ。」

此三ツのマチガッタ考へが深くシミ込んでおるから。イクラ貧乏しても、小作米と税金と子供を兵士に出すことに、ハン封(ママ)することが、出来なくなっておる。モシモ小作米を出さなく(て)も宜しい、税金をおさめなくても宜しい、かわい(い)子供を兵士に、ださなくても宜しいなどゝ云ふ者があれば、ソレハむほんにんである国賊である、などゝ云ふて其じつ自分たちの安楽自由の為に、なることを。聞く事も読む事も、せずにしまう。コゝハ一番よーく、考へて、読んでいたヾきたい」

「小作人諸君。諸君はひさしき迷信の為に、国にグンタイがなければ、民百性(ママ)は生きておられん者と信じて おったであらう、ナルホド 昔も今も、いざ戦争となれば。ぐんたいのない国はある国に亡ぼされて、しまふに極っておる、けれども之は天子だの政府だのと云ふ 大泥坊があるからなのだ、

戦争は 政府と政府とのケンクワでわないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんくわする為に、民百性(ママ)が、なんぎをするので あるから。この政府といふ、泥坊をなくしてしまへば、戦争といふ者は無くなる。戦争がなくなれば、かわい(い)子供を兵土(ママ)にださなくても宜しいと云ふことわ、スグにしれるであろう。」

「然らば、いかにして此正義を実行するやと云ふに、方法はいろいろあるが。マヅ小作人諸君としてわ、十人でも、廿人でも連合して。地主に小作米をださぬこと、政府に税金と兵士を、ださぬことを実行したまへ。諸君が之を実行すれば、正義は友を、ますものであるから、一村より一ぐんに及ぼし。一ぐんより一県にと、遂に日本全国より全世界に及ぼして。コゝニ安楽自由なる無政府共産の理想国が出来るのである。

何事も犠牲なくして、出来る者ではない。吾と思わん者は、此正義の為に、いのを(ママ)がけの、運動をせよ。」

「此小冊子は、ながきながき迷信の夢より諸を呼び醒まし。ちかい将来になさねばならぬ、吾等の革命運動を謬釈せざる為に、広くかつ深く伝道せねばならぬのでありますから、無政府共産と云ふ事が意得せられて、ダイナマイトを投ずる事をも辞せぬと云ふ人は、一人も多くに伝道して願ひたい。しかし又、之を読んでも意得の出来ぬ人は、果して現在の社会は正義の社会であるか、又吾人の理想は今の社会の満足するや否やを、深く取調べて願(い)たい。」

11月

『道徳否認論』の秘密出版。

ドイツのアナーキストであったマクス・バシンスキーの『無政府主義・道徳否認論』を翻訳した大石誠之助の訳稿の翻案。

表紙に「△財産は盗奪なり、国家と法律とは、盗物の保護者なり△道徳と宗教は泥坊の為に番頭の役を勤むる者なり△世に人を統治せんとする念よりも、尚不正なるもの唯一あり、則ち之に服従せんとするの意志なり。」

裏表紙に

△無政府主義は暴力を以て平安なるこ(個)人を脅かさんとするものに反抗す。

△こ(個)人が、なすべからざる所の罪悪は、政府も亦之を行ふべからざるものなり。

△若しも政府が、少しにても、人民の為に必要なることをなし能ふとせんか、そは人民が自ら、政府の助けを借らずして、なし能ふ所のみ。

△正直なる人間の為に、必要なる保護は、ただ国家といふ盗賊の害に対する防禦のみ。

△今の教育は、人をして上に向って卑屈従順ならしめ、下に向って傲まん不そん、ならしむるの稽古なり。

△すべての政府は最も険悪にして、又最も圧制なるものは人民の一部分によって、自由にし(支)配せらるべき所謂代ぎ(議)政体是なり。


11月3日

愛媛県亀崎の宮下太吉、『入獄・無政府共産』50部受け取り、一読して感動。

11月10日

宮下東海道線太府駅で天皇列車通過の際の大衆に『無政府共産』を配布、社会主義の伝道効果なく、天皇暗殺を決意。

11月15日

『帝国軍人座右之銘(「新兵諸君に告ぐ」)』の秘密出版。

フランスの週刊アナーキズム雑誌『ラ・ナルシー』掲載、大杉栄訳の「新兵諸君に与ふ」(『光』第28号明治39年11月25日)を翻案したもの。

「諸君よ、諸君にして若(も)し国境の外に送らるゝ事あらば、諸君は即ち貪婪(慾)飽くき(あくなき)銀行屋(や)及び投機師の犠牲たるを忘るゝ勿れ。而して諸君が病気或は負傷等の為に、帰り来らん時、諸君の母国は諸君に対して何をか為す。誠に此の母は(其コク家は)鬼婆の如き継母たる也(なり)。

是れ即ち(この故に)吾人非軍(グン)備主義者が(は)、○○○(ソウ脱営)以(モツ)て開戦の宣告に応ぜんと決したる所以也(理由なり)。」

「(来るべき革命は無政府共産。即ち政治的にも経済的にも、最も自由なる社会を造るにある。而して諸君のそう脱営は、之を成功せしむる一大原因なり。諸君希くば、それ勉めよ)」


つづく



2026年5月11日月曜日

高市首相は「女性天皇に反対しない」と言ってたのに(石井妙子); 2月27日の衆院予算委員会で、高市早苗首相は「男系男子に限ることが適切とされている。私としても尊重している」と述べた。だが高市氏は2021年、『文藝春秋』で「女性天皇には反対しない」とはっきり語っている。そのインタビューをしたのが、ノンフィクション作家の石井妙子氏(57)だ。

わたしたちは いまいったいどのあたり? 颯颯の 初夏の風よ (「問い」茨木のり子『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年12月刊 所収)

 


問い


人類は

もうどうしようもない老いぼれでしょうか

それとも

まだとびきりの若さでしょうか

誰にも

答えられそうにない

問い

ものすべて始まりがあれば終りがある

わたしたちは

いまいったいどのあたり?


颯颯(さつさつ)の

初夏(はつなつ)の風よ


(茨木のり子『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年12月刊 所収)


2026年5月10日日曜日

《中山美穂さん「20億円相続放棄」国会質問の情報は真偽不明》元夫・辻仁成はブログで困惑 沈黙貫く妹・中山忍は心痛「いまだ悲しみのなかに…」(NEWSポストセブン); 参政党・塩入清香(さや)議員 が取り上げた「中山美穂さん20億円相続放棄」は真偽不明 話題となった国会質疑だが、中国のソーシャルメディアに投稿されたAI生成記事がネタ元の可能性が濃厚 この質疑に元夫・辻仁成氏は困惑と憔悴をブログに綴り、妹の中山忍氏は「あまりにも故人がかわいそう」と 事務所を通じてコメントしている なお、同質疑の根拠を問われたさや議員は無回答を貫いているとのこと。一刻も早く事実確認し、誤情報なら関係者に謝罪すべきだ。

大杉栄とその時代年表(818) 〈大逆事件に連座した3僧侶の一人、内山愚堂の年譜①(~明治40年)〉 「「 今は政治が宗教を利用しつゝある時ではあるが、神の道を奉ずる者は、利害に左右せらるゝ政治の下にあることが出来ないではないか、僕は、近き将来には政治の必要を見ずして、人は各々絶対の信仰に依って生活し往くの時来る事を、然り一日も速にするのは僕の天職と信ずる、君は如何」」(明治40年12月6日付け石川三四郎への葉書)

 

箱根大平台林泉寺山門

大杉栄とその時代年表(817) 1909(明治42)年1月10日~13日 箱根大平台林泉寺住職の内山愚童、幸徳を訪問。幸徳は、秘密出版の部数は各地指導者の種本くらいに止めること、後継者を育てるため革命の伝道が優先と説く。14日、幸徳より「花束仕掛と時計仕掛の爆弾の図」という洋字新聞「エキザミナー」の切抜きを見せて貰う。坂本清馬、神川マツと共に「爆裂弾」の図を見「一場ノ談話」として「遣ツ付ケルナラバ倅(皇太子のこと)デアル、倅ノ方ガ遣ッ付ケルニハ容易デアル…」と放談。 より続く


大逆事件に連座した3僧侶の一人、内山愚堂の年譜①(~明治40年)〉

 ★眞田芳憲「大逆事件と禅僧内山愚童の「仏教社会主義」と その行動の軌跡 ―禅僧愚童の抵抗の宗教的倫理と責任―」による


明治7年(1874)5月17日

新潟県北魚沼郡小千谷町(現小千谷市)で弟2人妹1人の4人兄弟妹の長男として出生。父直吉は宮大工、後に菓子木型製作職人。

明治13年(1880)(6歳)7月

小千谷小学校入学。

明治18年(1885)(11)

小千谷小学校卒業。成績優秀、知事から表彰。しばらく家業の手伝い。

明治23年(1890)(16)10月23日

父直吉(42)病死。

明治25年(1893)(19)

出郷。一説によれば、哲学館(東洋大学の前身)創設者井上円了家で家庭教師(書生ともいう)として住み込む。また一説によれば、長野や群馬あるいは遠く朝鮮、中国に旅歴したというが、一切不明。

明治30年(1897)(23)初春

神奈川県愛甲郡三田村清源院住職、叔父(母の弟)青柳賢道を訪問、曹洞門に入る決意をかためる。

4月12日

同県同郡小鮎村宝増寺住職坂詰孝童(叔父青柳賢道の弟子)について得度、天室愚童と称する。

同県同郡三田村清源院青柳賢道常恒会首先安居(入衆)。

10月

神奈川県足柄下郡早川村海蔵寺で掛錫。

明治31年(1898)(24)

曹洞宗第2中学林本科(足柄上郡松田村延命寺内か)に入学。

明治32年(1899)(25)2月23日

曹洞宗第2中学林本科修業。

4月

海蔵寺認可僧堂に再掛鍚(修学)、海蔵寺認可僧堂安居証明を取得。同僧堂説教試験登第証を取得。

明治33年(1900)(26)冬

神奈川県愛甲郡三田村清源院住職和田寿静常恒会において立職(立身)。

明治34年(1901)(27)10月10日

神奈川県足柄下郡温泉村林泉寺兼務住職宮城実苗の室に入りて、宝珠院で嗣法(伝法)。

明治35年(1902)(28)7月7日

曹洞宗大本山永平寺で瑞世・転衣を許され、愚童和尚と呼ばれることになる。

老齢かつ病弱の宮城実苗の看護。実苗に代って、林泉寺の寺務の一切を処理、同時に当初から「寺小屋学級」での教授指導や「青年組合」の結成と社会教育の実践に取り組む

明治36年(1903)(29)2月2日頃までに

海蔵寺認可僧堂で再々掛錫。

4月5日

宮城実苗遷化

5月12日

愚童小千谷の戸籍を大平台に移籍。事実上住職として寺務を執り行う。

林泉寺檀家大平台の住民40戸前後。当時、大平台には温泉はなく、観光資源もなし。木工細工生産を職とする。耕作地は劣等地。

日露戦争の開戦時のこと、一家の支えである村の屈強な青年たちは戦地に送られ、ある者は戦死、ある者は傷痍軍人として困窮した生活に追いやられていく。愚童の眼には、生国小千谷の小作農の極貧生活はもとよりのこと、出郷後の放浪生活で実体験した一般大衆の困窮生活が二重写しとなって再現し、社会主義への傾斜を強めていったと推測できる。

明治37年(1904)(30)1月17日

愚童、週刊「平民新聞」第10号に「予は如何にして社会主義者となりし乎」寄稿。


「余は仏教の伝道者にして曰く一切衆生悉有仏性 曰く此法平等無高下 曰く一切衆生的(ママ)是吾子 之れ余が信仰の立脚地とする金言なるが余は社会主義の言ふ所の金言と全然一致するを発見して遂に社会主義の信者となるものなり」


1月31日

同新聞第12号「読者と記者」欄に「貴族・富豪を社会主義に感化する手段」について寄稿。


「▲余の考に依れば今日社会主義の理想が貴族や富豪より唱導せらるゝこと、教主悉多太子(*釈迦の出家前の王子名シッダールタ(悉達多)のこと)の如く財を捨て位を捨てゝ一平民になるの自覚を生ぜざれば福音の実現困難なることゝ存候、若し愚意に少しだも同感の節有之候はら、貴族富豪を感化するの手段など御教授願度候(箱根大平六(ママ)、内山愚童氏)」


2月9日

正式に大光山林泉寺住職に任命。

2月21日

同新聞第15号に「兵士の母」を寄稿。

7月10日

同新聞第36号「箱根大平台より」を寄稿。

9月10日

石川三四郎、加藤時次郎の子時也を連れて林泉寺訪問。その日の夜、石川が大平台村民30余名に消費組合など社会主義の話をする。大平台における社会主義の第一声にして、愚童の構想とする「夏期平民倶楽部」の記念すべき第1号。

明治38年(1905)(31)8月13日

愚童、7月に出獄して8月6日から小田原加藤時次郎別荘で静養中の幸徳秋水と初対面。愚童、秋水と堺利彦と「鼎座して禅を論ず」。

9月10日頃

愚童、伊藤證信の大日堂・無我苑を訪問、初対面で3時間ほど対話し、さらに堺利彦宅で泊まり帰寺。愚童、伊藤證信の「無我の愛」運動に意気投合。箱根芦の湖畔に修道苑の計画を立てる。

10月13日

東海道を社会主義の伝道行商中の小田賴造と山口義三、小田原に到着。

10月15日

林泉寺で青年を集めて愚童と共に社会主義の談話会を開く。

12月初旬頃

伊藤證信に宛てた「此地に仏種を植ゆる」の書簡で「本山の魔窟より発する偽法には堪えられません」「住職罷免のあるまでは」「今は四面楚歌の声で、いつ落城するやわからない」と書き送る。

明治39年(1906)(32)

伊藤證信との親交を深め、互いに往来する。

9月26日

「専心修道と伝導に従事」を目的とする修道苑の開苑計画(明39年9月26日付書簡)

11月18日

修道苑の機関紙として「神奈川教報」の発行計画(明39年11月18日付書簡)を進める。

明治40年(1907)(33)1月9日~15日

神奈川県の農村を托鉢しながら巡回視察、小作人の貧困の実情を調査。

1月

『神奈川教報』を発行。

3月

日刊『平民新聞』の「新刊紹介」欄に「神奈川教報(第3号)箱根大平台住職にして、古き社会主義者なる内山愚童氏の発行する所、宗教問題及び社会問題につき毎号有益の記事多し」とある。

この頃、日本の古代史、南北朝史、「大谷派の明治史」に関心を持つ。

6月3日

箱根山中の水力発電工事現場で60余名の建設作業員がダイナマイトをとって大乱闘、愚童「労働者の勢力が高大であることを知った」とし、「この勢力を人の最大幸福のためにするよう導くこと」の重要性を説く。

10月9日

上京、堺利彦宅5泊、西川光二郎宅1泊。直接行動派に傾く。

12月6日(消印)

巣鴨監獄在監中の石川三四郎宛に仏法・正法の道を天職とする旨の葉書を送る。

「 今は政治が宗教を利用しつゝある時ではあるが、神の道を奉ずる者は、利害に左右せらるゝ政治の下にあることが出来ないではないか、僕は、近き将来には政治の必要を見ずして、人は各々絶対の信仰に依って生活し往くの時来る事を、然り一日も速にするのは僕の天職と信ずる、君は如何」


②に続く


“直系長子継承ルール”が最善策(河西秀哉);「象徴天皇制を安定的に維持するためには、性別を問わず、「直系長子が皇位を継承」というルールにするのが、最もシンプルかつ最善の策だ」 / 皇位継承は、小泉純一郎内閣による「皇室典範に関する有識者会議」の報告書が提案する通り、男女問わず直系長子優先が基本と思う。(田島まいこ) / 「天皇は男系男子のみ」主張は「歴史を故意に歪めている」王室制度の専門家・君塚直隆教授が解説する女性天皇の功績 / 「愛子さま人気と政界での議論が乖離」象徴天皇制の専門家・河西秀哉教授が指摘する皇室典範改正案の問題点「男系男子にとらわれるほうが問題」(週刊文春 有料記事)

2026年5月9日土曜日

ABCは、FCCとの「The View」をめぐる紛争で、米国政府が憲法修正第1条を侵害したと非難しました。このネットワークの主張は、トランプ政権に対するテレビネットワークによるこれまでで最も攻撃的な姿勢です。(The New York Times)