1931(昭和6)年9月20日 午後8時35分、林銑十郎(中将)朝鮮軍司令官より「独断一部ノ兵ヲ越境ヲナシウル余地ヲ与へラレンコトヲ切望ス」と入電。増援部隊は鮮満国境で待機の姿勢で放置。林は、軍は大命を待って出動すべきとの中央の主旨は諒解するが、大命降下となれば日支開戦になり、事は重大。地方問題として処理するには独断出兵の形式が穏当と考えられる、と入電。 より続く
1931(昭和6)年
9月21日
蒋介石、南昌から南京へ帰る。
特別外交委員会設立(委員長戴伝賢・副委員長宋子文・秘書長顧維鈞)。
国際連盟中国代表、満州事変を連盟に正式提訴。
蒋介石、満州事変勃発対処の為、中国共産党討伐計画を緩めると言明。
国際連盟は日本の軍事行動に対して有効な行動をとらない。帝国主義列強にとって中国の共産主義とナショナリズムの方がむしろ大きな脅威であり、日本に対し宥和的な姿勢を示す。ソビエト連邦も計画経済の実施と農業集団化の推進に国力を傾注しようとしており、事件には不干渉の方針をとる。
9月21日
西埼玉地震。マグニチュード6.9、死者・行方不明者16人、家屋損失は206戸。
9月21日
英国の金本位体制停止の影響で、株式・商品相場が暴落。東京・大阪など株式市場立会停止。
23日、再開するも売物が殺到し再び休会(~26日)。
9月21日
午前3時、本庄関東軍司令官、三宅光治参謀長・板垣高級参謀に迫られ吉林出兵・事変拡大を承諾。
9月21日
多門二郎中将の第2師団、吉林無血開城。省長代理熙洽参謀長と在吉林日本総領事石射猪太郎の交渉。吉林(長春の東127km)は張学良の叔父張作相の根拠地であるが、この時、母の葬儀で錦州に在る。
9月21日
朝鮮軍、越境。
午後1時20分、朝鮮軍司令官林銑十郎、独断命令により混成第39旅団新義州で越境、満州に出動。
9月21日
午前10時~午後5時、閣議、南陸相の朝鮮軍派兵の提議、幣原外相・井上蔵相の反対で結論出ず。若槻首相は同調の気配を見せる。
9月21日
午後3時20分、朝鮮軍司令官より、越境入電。
閣議開催中の午後2時40分、朝鮮軍嘉村達次郎旅団長から金谷参謀長宛てに、「旅団ハ本日午後一時、先頭列車ヲモツテ出発ノ予定」と入電。
続いて3時20分、朝鮮軍司令官から、「関東軍ハ吉林方面ニ行動ヲ開始スルニイタリ、著シク兵力ノ不足ヲ訴へ、朝鮮軍ノ増援ヲ望ムコト切ナル重ネテノ要求ヲ接受シ、義ニオイテ忍ビズ、在新義州・混成旅団ヲ越江、出動セシムルコトトセリ・・・」と、朝鮮軍は大命を待たず、軍司令官の独断で越境増派に踏切ると入電。
午後3時半ころ、朝鮮軍より越境開始を知らせる参謀総長宛の電文が到着。ただちに陸相より閣議に報告。林銑十郎司令官の命令による独断越境。司令官が天皇の命をまたず部隊を国外に動かすことは重大な軍令違反であり、陸軍刑法では死刑に相当する。若槻首相や井上準之助蔵相は閣議の席上でおおいに憤慨。この話をあとで聞いた鈴木侍従長も「御裁可なしに軍隊を動かすことはけしからん」と怒る。
この間(19日早朝~21日午後)、既に行動を開始した部隊に停止を命じただけで、越境に対する同意も、撤収の指示も与えなかった参謀本部は、陸軍刑法第37条に抵触する行為を敢てした朝鮮軍司令官に黙諾を与えたに等しい。
午後4時、参謀本部作戦部長より朝鮮軍司令官に電報。
「貴軍、以後ノ行動ニ関シテハ当部ニオイテモ情況トクニコレヲ要スルニ至ラバ、直チニ所要ノ部隊ヲ、満鉄沿線オヨビ間琿(間島琿春)地方ニ出動セシムルノ考慮ヲモツテ、要スレバ総長ノ帷幄上奏ヲモツテシテモ、速ヤカニ大命ノ発動ヲ伏奏スルゴトク準備シアリ」
午後5時、金谷参謀長、朝鮮軍越境の允裁をえるべき参内するが、参謀本部より帷幄上奏を中止されたとの連絡有り、朝鮮軍出兵の事実のみ上奏して退出。
これは、金谷の参内後、陸軍省軍事課長永田鉄山が、出兵に関する書類への連帯捺印を拒んだ為。永田の帷幄上奏反対の理由は、閣議にかけて朝鮮軍派遣承認を得た上で、軍の統帥を行なうという点にある。閣議は19日以来、不拡大、派兵不承認のままであり、永田の真意は閣議で出兵を認めさせ、不拡大方針そのものを覆すことにあったと推測される。
この夜、陸軍は、朝鮮軍司令官の今回の独断越境は大権干犯ではないと意思統一し、明朝以降、「政府と戦う」方針決定。翌日の閣議では、朝鮮軍出兵は大権干犯という結論になるかもしれず、その場合は陸相・総長揃って辞職することとして、両者の辞表を準備。
夜、杉山陸軍次官が若槻首相を訪ね、独断越境について閣議で承認する旨を今晩中に天皇に奏上してほしいと頼んだが、若槻はこれを断る。
夜、政府は今回の事件を「事変」と呼ぶことに決める。
9月21日
陸軍省、兵務課長安藤利吉を、謀略の有無の調査のため満州に派遣。事件の発端は中国側にありとの報告。
9月に事変が起きる風評は現地にあったが、陰謀ならば期日が予期されるはずがない、よって陰謀でないという論理により、「事件発端は支那側に在り」と報告(白石博司「安藤利吉兵務課長「満州事変ノ発端ニ就テ」」)。
9月21日
イギリス、金本位制を停止(金輸出禁止)。金本位改正法公布施行。
イギリスでポンド切下げ(約3分の2に下落)、スウェーデン、ノルウェー、エジプトなども金本位制停止。カナダも金輸出を制限。
22日、デンマーク、金本位制停止。
23日、イタリア、金本位維持声明。
28日、オランダ・ベルギーも同様の声明。
29日、スイス、金本位制を停止。
12月13日には日本も廃止。
以来、ポンドが2割程下落、英国商品は中国に進出し、日本のメリヤス等の輸出は打撃を受ける。満州事変以来、中国での排日貨運動は激化し、財界は危機感を強める。また、ドル買いの殺到も凄じく、当時日本の銀行は、国内金利の低下を嫌い、余裕資金で「ドル貨を買入れ、之を先物に売繋ぎ安全を計ると共に、之をロンドンに回金し」、短期外国証券を中心に投資していたが、イギリスの金本位制停止により「国際為替は一大衝撃を受け為替取引は休止状態に陥り・・・ドル先物約条履行の為自衛上必要限度のドル買いの必要を生じ、外に・・・外債利払並一般取引先の輸入為替等実需に基く為替取極の為、Coverを正金銀行より求むる事」になる。
この他、資本逃避やドルの思惑買いも加わり、9月21日~1週間で、正金銀行のドル統制売り(決済期にドル資金が不足すれば、日銀が正貨を払下げる諒解付きの為替先約)は2億円以上、10月15日までに4億円、金再禁止直前までに5億1千万円となる。
この為、日銀正貨準備は、政府の防遏策にもかかわらず、金解禁をした昭和5年1月の10億6千万円から、再禁止の6年末には4億7千万円に落込む。金本位制堅持方針を声明した政府は、10、11月に2度も日銀金利を引上げ、正金銀行には正貨を現送させるなどの手段で金本位制維持施策を強行するが、ドル買いは鎮静化せず。
9月22日
反日市民大会。反日援僑委を上海抗日救国連合に改組
9月22日
関東軍首脳(三宅光治参謀長、土肥原賢二・板垣征四郎両大佐、石原莞爾中佐、片倉衷大尉)、奉天で建川を交え「満蒙問題解決案」策定。「東北四省及び蒙古」に「宣統帝を頭目とする支那政権を樹立」。石原・板垣両参謀は、日本の満州領有を想定するが、建川は、領有案では中央部は同意しないと主張、激論ののち妥協して「独立国家」となる。
板垣・石原らからすれば、この案の力点は、宜統帝起用よりも、地方治安維持の為、熙洽・張景恵らを鎮撫使とする点にあり、これらの旧張作霖軍閥幹部達に働きかけ、張学良からの独立を宣言させ、そうした小政権や独立運動を既成事実とすることで、中国側との「交渉」を成立せなくするという新たな方策を意味するもの。
9月22日
中国共産党中央、日本の満州占領に関する決議。「反日」スローガン無くソヴィエト革命スローガンのみ。
9月22日
朝、南陸相、若槻首相を訪ね、朝鮮軍出兵経費支出を認めるよう説く。若槻は、「出たものは仕方なきにあらずや」と認める。
午前9時30分、若槻首相、参内。朝鮮軍出兵経費支出を閣議決定する旨、上奏。天皇をこれを認めるが、「事態を拡大せぬという政府の決定した方針は、自分も至極妥当と思うから、その趣旨を徹底するように努力せよ」と条件をつける。若槻は、「(現地軍から派兵を具申している)ハルビンと間島では、居留民の現地保護を行わず(出兵しない)、危急の場合はその引揚げを実施致します」と奉答。
若槻は宮中で金谷参謀総長に会い、金谷からは独断派兵について閣議の決定を経なければ天皇の裁可を仰げないので閣議の決定を経たかたちで上奏してもらいたい旨を依頼されたが、若槻はこれを断り、総理大臣官邸での閣議に向かう。
閣議、居留民保護目的の関東軍の吉林出兵、独断越境の朝鮮軍(林銑十郎司令官)、賛成も反対もなく追認。但し、不拡大方針を固守し得ないとはいえ、早期撤兵により国際的孤立を避け、中国との交渉に入る方針は堅持。
「兵力の派遣に関しては閣議に於てとや角論議すべき限りにあらずして唯その事実を認めて軽費の支出に関し議決すれば可なるものなり」(参謀本部作戦課河辺虎四郎中佐「満州事変機密作戦日誌」)。
午後2時40分、若槻首相、再度参内、朝鮮軍派遣経費を認めた旨上奏。天皇は不拡大方針徹底を指示。続いて、南陸相・金谷参謀総長、参内、越境の允裁を得る(追認)。天皇は、「将来を慎め」と叱る(「側近者と入智恵とみて、軍部は憤慨」)。
若槻首相は「こういう情勢になってみると自分の力で軍部をおさえることはできない」と語ったといわれる。
21日に吉林へ出兵した関東軍は、朝鮮軍と謀って間島・ハルビンに出兵しようとする。しかし、若槻首相は、天皇から不拡大方針徹底の念を押され、間島・ハルビンには出兵しないと奉答し、金谷参謀総長も同様。参謀本部は、朝鮮軍に宛て、「間島進入は勅裁命令あるまで断じて許されず」と打電、関東軍にも「ハルビンに対する出兵は、事態急変せる場合に於ても、これを行なうべからず」と厳命、「軍の主力を南満線上に保持して動かざること」と指示。
9月22日
米スチムソン長官、9ヶ国条約不戦条約を引用し満州の事態に関する責任は日本が負うべきとの通告を出淵大使に手交。
つづく