啄木の妹(三浦)光子の家族
1909(明治42)年
1月19日
水原茂、誕生。
1月19日
初世梅若実(82)、没。観世流シテ方。
1月19日
カリフォルニア州下院、外国人土地所有禁止の排日法案通過。大統領、直ちに撤回勧告。
21日、撤回。
1月20日
山野愛子、東京に誕生。
1月20日
三宅雪嶺、『宇宙』。
1月20日
(漱石)
「(一月二十日(水)、『東京朝日新聞』に「文藝欄」開設される。明治四十四年十月十二日(木)まで。)
一月二十一日(木)・木曜会。西村誠三郎(濤蔭)・小宮豊隆・松根東洋城来る。小宮豊隆泊る。
一月二十四日(日)、筆、小宮豊隆の下宿に遊びに行き、錦輝館に活動写真を観に連れて行って貰う。
一月二十五日(月)、小宮豊隆、東京朝日新聞社に月給を取りに行く。」(荒正人、前掲書)
1月20日
「一月二十日 水曜 曇雨 温
七時頃二畳の室で目さめた。昨夜の話が朧ろ気に思出されて、異様な感じが起つた。罰金、三度で六円、換刑――つとめにゆく――不幸、荒める生活、放恣、底をはだけた悲哀……
八時半に帰つた。
終日、集つただけの第二号原稿を整理した。
日くれて平野君が来た。雨がふり出した。かへる時五十銭おいて行つた。明日本をかりて典ずる約束。
金田一君は遠からず三省堂の方をよして、大学国文研究室助手(二十円)になるといふ。二月になつたら此下宿から引こすと言つてゐた。
(略)
一月二十一日 木曜 細雨 温
起きると妹光子からハガキ。去る十二日付にて地方伝道会社生徒なる許可あり、月八円づつ貰ふことになつたと。そして三月末に名古屋の伝道学校へゆくとの事。
・・・・・予は三秀舎へ行つて第二号の初め六十四頁分の原稿をおいて来た。・・・・・
(略)
それから平野君をとふた。セツセと海外消息をかいてゐた。餅をくひ、洋画八冊、(ダヌンチオの小説ヰクチム、トライアンフオブデス、とモ一つ、マアテルリンクのダブルガーデン。ツルゲーネフのドリームテールス、メリメの英語短篇集。テニソン詩集。ダンテの神曲。)をかりて菊坂の質屋松坂屋にゆき四円かりた。そして袷と羽織をうけ、ズボン下をかひ、一円二十何銭あまつた。質屋の店で英語を教へたなんか振つてる。
(略)」(啄木日記)
1月20日
駐ロシア落合代理大使三重丸事件の損害賠償要求。1911.6.23 解決。
1月21日
カリフォルニア州下院で通過(9日)した外国人の土地所有を禁止する排日法案、撤回。
1月22日
幸徳秋水の妻の姉、松本須賀子への手紙。妻千代子は夫の活動に不安を覚え、前年(1908年)末から別居状態となっていた。1909年正月、千代子は久しぶりに高知県中村町から東京の夫の元へ戻ることになるが、途中、名古屋に住む姉のもとに立ち寄っている(姉の夫安蔵は名古屋の判事)。こののち1909年3月、2人は協議離婚し、その2年後、大逆事件により秋水は処刑される。
御手紙拝見致しました/千代の容態は左程御心配なさる/程ではありませんが兎に角御/言葉に従ひ五六日中に御地に遣/すことに致しますから宜敷/御世話を願ひ上ます/猶先日来の御話に付ては手紙/では何分意思が疎通し兼ね/ますから千代到着の節同人/より詳細親しく御聞取を願/ひます/千代出立の後は小生も一両月旅行/保養の上、又雑誌なり出して/飯食ふ方法と例の運動に取掛り/たいと存じます/乍末御兄上様へ宜敷御伝声を祈る/廿二日 秋水/ 御姉上様
1月22日
内山愚堂の福田英子宛手紙。
寺を出て1ヵ月以上神奈川県下農村を行脚。檀家のひんしゅくを買う。心の入れ替えを願って永平寺の夏安居の前安居4月15日結制、7月15日解制に出ることで決着。
1月22日
「一月二十二日 金曜 晴 温
今朝寝たのを、九時頃に平出から電話でおこされた。・・・・・
(略)
終日客になやまされて、頭がつかれてゐた。(足跡)をかかうと思つたが、一時頃まで原稿の整理をして、寝て了つた。
(略)
一月二十三日 土曜 晴 寒
十一時起床。朝飯もくはずに俥で三秀舎へゆき、原稿を渡し、伊上へ行つて写真版をたのみ、平出宅へ入つて、それから岡本病院に平出君を訪ねた。そして昴の事相談。
諸方へやる交換広告の原稿をかいて出した。平野が来た。
(足跡)夜十時頃から書きなほして稿をつぎ就眠午前四時。
(略)
一月二十四日 日曜 曇
(略)
夜になつて太田が来た。手紙が来た。そこへ第一回の校正刷が来た。
二人は十時すぎて帰つて行つた。
(足跡)をかいて午前五時、電燈のきえるまで。
(略)
一月二十五日 月曜 雨
十二時におきて(足跡)の稿をつぐ。
車夫をして原稿を三秀舎に送つた。
平野が来た。校正が来た。平野のもつて来た餅をやいてくふ。湯に入る。
終日終夜筆をとつて、就寝午前五時電燈のきえた時。
(略)
一月二十六日 晴 温
(略)
目をさますと校正が来てゐた。平野が来、太田が来た。二人は校正してかへつて行つた。予は二人にかまはず(足跡)をかいた。
午後五時、(足跡)その一(今度の号へ出す分)脱稿。(足跡)は予の長篇――新らしい気持を以てかいた処女作だ。予はこれに出来るだけ事実をかいた。
作家の苦痛。
袷を典じて原稿紙をかつて来た。
足跡をなほして暁まで。
(略)
一月二十七日 水曜
(略)
それから伊上へよつて三秀舎にゆき、(足跡)の原稿わたす。平野がゐた。一寸校正して、二時間許で帰つた。・・・・・
二時頃またゆくと間島君が来てすけてゐた。二人でやつてるとやがて平野が来た。・・・・・
この晩も暁まで広告をつくつたりなんかして起きてゐた。
一月二十八日 木曜 晴 温
朝に平出によつて広告の原稿やる。
それから三秀舎へ行つて終日、――夜午前二時まで校正。やりながら(一隅より、――正月の小説界)をかいたが、頁がよけいになるので掲げられなかつた。間島君も来た。
(略)
家にかへるとモウ三時頃であつた。金田一君に祖母さんが死んだといふ電報が来て明日発つといふので、行つて起して一寸逢つた。そしてスツカリつかれて寝た。
一月二十九日 金曜 曇 風 寒
十時頃におきると吉井がフラリと来た。今は伯父と喧嘩して家をとび出して弓町の下宿にゐるといふ。一しよに三秀舎に行くと平野の奴また来てゐた。十二時全部校了。予は一人(吉井に切符をくれて)平出の宅へゆくと、やがて与謝野氏が来た。共に平出君を病院にとふ。雑誌が明晩出るといつたらおどろいてゐた。
(略)
それから与謝野氏が今度引越す駿河台東紅梅町二の家へ一しよに行つてみて、昌平橋でわかれた。予も早く家をもちたかつた。
数日前のつかれで、帰つたのが三時、すぐ床をしかせて寝ようとしてると太田君が来た。夕方までいろいろおもしろく小説の話をして、一円おいていつてくれた。
それからすぐ寝た。
(略)」(啄木日記)
1月22日
ミャンマ、国連事務総長になるウ・タン、誕生。
つづく