2026年9月21日月曜日

1931(昭和6)年9月19日 朝、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針決定、上奏。南陸相には、これ以上、事変を拡大しないよう指示。林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁は夫々、事変は軍部の計画的行動と幣原外相に報告。奉天では、建川・板垣・石原・花谷・片倉が「問題解決」協議。  

 

1931(昭和6)年9月18日 午後10時20分頃、奉天独立守備隊島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール(長さ約80cmほど)爆破。列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行。、、、、、 19日未明、独立守備歩兵第2大隊、北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領。営口、鳳凰城、安東占領。 より続く

1931(昭和6)年

9月19日

午前7時過ぎ、若槻首相・幣原外相ら、事変発生を知る

朝、幣原外相は駒込の自宅で朝刊を読んで初めて事変を知る。すぐ首相官邸に駆け付け、若槻首相に外務省電報による概要を報告、臨時閣議召集を申し出る。林久治郎奉天総領事から「支那側に破壊されたと伝えられる鉄道個所修理のため、満鉄より線路工夫を派遣するも、軍は現場に近寄らせず、事件は全く軍部の計画的行動に出たものと想像せらる」との極秘電報が届く。

午前7時55分、林銑十郎朝鮮軍司令官より陸軍中央へ兵力移動入電。

「軍ハ奉天方面ノ情況ニカンガミ、飛行第六連隊(平壌)ヨリ戦闘・偵察各一中隊ヲ今早朝平壌出発、関東軍ニ増援セシメ、マタ第二十師団(朝鮮・竜山)ノ混成旅団・約一旅団ハ奉天方面ニ出動ノ準備ニアリ。ナホ第十九師団(羅南)ニハ、ナルベク多クノ兵力ヲ以テ出動シ得ルゴトク、衛戌地ニオイテ準備ヲ整ヘシム」

9月19日

午前8時40分、朝日新聞航空部の社機、大阪から京城へ飛ぶ。

ここで奉天(現瀋陽)から列車で着いた写真などを積み、翌20日、広島に飛ぶ。ここで待機する別の機に引き渡し、この日の内に東京・大阪で写真号外を出す。朝日は、翌32年3月までに11機を使い計296回も飛ぶ(社機15機保有、「毎日」は数機、「読売」はゼロ)。多いときには1日6回の号外を出す。

中国各地へ記者14(荒垣秀雄ら)・カメラマン8ら特派員計22人を次々に送り込み、「朝日」の圧倒的資本力・機動力で、日中交戦の写真や記事の号外を次々に発行。号外は、2~4頁の付録で、事変一段落する迄に計11回発行。加えて大付録も出す。22日の本紙に地図入り1頁の平易な解説「満蒙早わかり」を添付。国際連盟に持ち込まれてからは、27日、連盟の本質や機構を説明した「国際関係早わかり」(2貢)添付。

事変と同時に、活動写真班は奉天・長春などで軍の奮闘ぶりをフイルムに収め、21日には本社に空輸し、早速、大阪朝日会館でニュース映画を上映。以降新報が届くたびに、大阪中之島公園などで封切られ、大阪、神戸、京都、広島、名古屋、金沢、高松、門司などで公開され、大好評を博す。

「東西朝日」の報道量。社説54回。特電の回数、19日162通。9月360通、11月525通、12月末迄に3785通(普段は月50~100通)。これらの電報は奉天、北平(北京)、天津、錦州、営口、大連、チチハル、ハルビン、長春、吉林など16ヶ所60人の特派員から打電(60人中43人は「大阪朝日」特派員)。号外も連日で、日によって朝夕刊で発行、9月11日~翌32年1月10日、131回、大部分は1頁大の号外。慰問金総額38万円余。特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人の聴衆。ニュース映画上映は、公開個所1501、公開回数4002、観衆1千万人。

19日未明、満鉄線爆破の一報が入った時、東京朝日編集局長緒方竹虎は「出先の出来ごとだから」小さく扱うように指示(「朝日新聞社史」)が、朝日は対中国強硬論に転換したと判断した整理部員が「日支両軍戦端開く」と大展開。整理部デスクは始末書を書く。しかし、ほどなく社論は大きく転換する。

この頃の様子を緒方竹虎は戦後、「早速論説の打合せ会議を開いたところ、・・・背後から鉄砲を撃つようなことは出来んというので、事実に引きずられて」しまった、とする。大阪朝日編集局長高原操は、「奉天特派員よりのうな電その他約尺余の高きに及べり・・・。「支那官兵の鉄道破壊に始まる」と報ずこれを肯定の外なし。臨時部長会を開く。対外的関係重視の必要上、報道全部をそのまま信じ・・・」と「編集局日誌」に書く。奉天通信局長は武内文彬。関東軍石原莞爾とも親密で、関係を危ぶみつつ、激しい報道競争の中で武内を重宝がる。

東京朝日の第一報見出し、「奉軍満鉄線を爆破」(爆破は奉天軍=中国軍の仕業)と、関東軍発表をそのまま掲示。朝夕刊のみならず、号外・第二号外も発行。「奉天軍の計画的行動」「激戦で我兵十九名戦死」。

9月19日

朝、原田熊雄、新聞で事実を知り、直感的に「いよいよ、やったな」と思う。すぐ調査し、「要するに、関東軍司令官が建川が持っていった陸軍大臣の親書を見ない内に、かねての計画を実行させようということらしい」との真相を突き止める(「西園寺公と政局」)。

9月19日

午前9時、後退中の長春駐剳部隊第4連隊黒石大隊と公主嶺守備隊小河原大隊、合流。

10時一斉攻撃前進。

挟撃作戦により、午後4時、南嶺兵営占領。

9月19日

午前8時30分~9時45分、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針(但し、真相究明には踏み出さず)。幣原外相の謀略追求のため。南陸相、朝鮮軍派兵提議出来ず。続いて3次官会議(杉山元陸軍次官、二宮治重参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長)、「之を以て満蒙問題の解決の動機となす」との方針決定。

南陸相は、「事ここに至った以上は、在留邦人の保護の必要は元より、懸案の満蒙特殊権益確保のために、政府は一大決心をなすべき秋がきた」と主張。

幣原外相は、「国際関係も考慮し飽迄小範囲に限定して事件を拡大させない方針を採りたい」と反対、井上蔵相も同調し、政府は事件に対し不拡大方針で臨む事に決定。

若槻首相は南陸相に、「原因は支那兵がレールを破壊した正当防御であるか。もしそうではなく、日本軍の陰謀的行為ならば我が国の世界における立場はどうするか」とクギを刺し、これ以上、事変を拡大しないよう指示。南陸相は「朝鮮軍より増援することの必要を提議」しようとするが、幣原外相が現地からの電報を朗読し関東軍の謀略を匂わしたので、「提議するの勇を失えり」という。

幣原喜重郎は、外務省が得た情報を朗読、「事件は恰も軍部が何等か計画的に惹起せしめたるもの」(「太平洋戦争への道 資料編」)。

9月19日

午前9時45分、南陸相、参内、状況を上奏。

9月19日

午前10時15分、朝鮮軍司令官より混成旅団を増援のため出発させるとの報入電。

9月19日

建川、本庄関東軍司令官(午前11時奉天着)と会い、今後の事変展開について具体的に献策。

「東支線の性質と現下一般の情勢に鑑み、長春以北には兵を派せざるを可とすべきも、吉林、洮南等は一刻も早く打撃を加ふるを有利とすべく、又現東北政権を漬し宣統帝を盟主とし日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべし」

建川は、事変勃発後の事態に即応しつつ、中央と出先関東軍の意見を調整し、両者が齟齬を来さぬよう、関東軍に対しては過剰な行動を抑制し、中央に対しては既成事実承認へ導く巧妙な役割を演じる。

9月19日

中国共産党満州省委員会、「日本帝国主義の満州武装占領についての宣言」

9月19日

午後0時30分、参謀総長名で朝鮮軍へ勅命下達までは増援見合わせるよう機密至急報を発信。

9月19日

午後1時30分、若槻首相、事件の不拡大方針を上奏

9月19日

午後2時、3長官会議(南次郎陸軍大臣、金谷範造参謀総長、武藤信義教育総監)、閣議決定に同調。3次官はこれを満蒙問題解決の動機にすべしとの意見。

金谷参謀総長は、部内に対し、速かに事件を処理し「旧態に復する」事が必要との意向を示すが、幕僚クラスは、何の成果も挙げないうちに撤兵させることはできないという強い反発の声があがり、3次官はこれに同調

9月19日

午後2時、旅順の軍司令部、奉天へ移動完了。

9月19日

午後5時45分、本庄関東軍司令官、金谷参謀総長に打電して内地からの増援を要請。

「事態玆ニ至レル以上、此絶好ノ機会ニ於テ先ズ軍ガ積極的ニ全満州ノ治安維持ニ任ズルハ最モ緊急ナリト借ズ。之ガ為、平時編成三個師団ノ増援ヲ必要卜認ム。之ニ要スル将来ノ経費ハ満州二於テ負担シ得ルコト確実ナリ」。

9月19日

夕方、吉林省政府顧問大迫通貞中佐、吉林総領事石射猪太郎に居留民救援要請を軍に出すよう力説、石射拒否

9月19日

夜、吉林、日本人浪人、日本人商店にピストルを撃ち込む。

9月19日

夜、満鉄北端の長春占領

9月19日

深夜、建川・板垣・石原・花谷・片倉、奉天の瀋陽館2階で「問題解決」を協議。

石原は持論の満蒙占領案を主張。

建川は、「阻害された権益の回復と事変の不必要な拡大の不可を説き、結論として満蒙を独立させ、日本が適当と認める政府を擁立し、指導してゆく。擁立すべき者としては清朝廃帝宣統帝が適当」という妥協的な結論を得る。

板垣は、「今日の事態を機とし、情勢判断第四段階、すなわち領土とするを得策とすべし」と主張。

石原は「現下の状勢、なかんずく、ソ連の軍事力、英支の軍事態勢、米国の軍事力とくにその海軍力は、いずれも実力干渉の能力に欠け、国際連盟の実力干渉も困難であり、日本の国防、満州の防衛、はたまた東亜の保衛上からも天与の好機である」ので、「このさい南北満州の一体不可分解決の要あり」と力説。この石原の判断は正鵠を射ている。アメリカはフーバー大統領が大恐慌に苦戦中、イギリスはマクドナルド首相辞職後、自由・保守両党による国民内閣を組織したばかり、ソ連は第1次5ヶ年計画が完成するかどうかの瀬戸際で、いずれも極東の軍事紛争に兵を進める余裕はない情況。

建川は、板垣・石原の意見具申に対し、翌20日、「現下一般の情勢、就中、東支線の性質から、長春以北には派兵せざるを可とするも、吉林、洮南等は一刻も早く打撃を加うるを有利とすべし。また現東北政権を潰し、宣統帝を盟主とする日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべ」と答える。建川の眼はソ連にむき、その視野を限界点として発言。彼は、その場で発言したばかりでなく、同じ内容のものを電文として、陸相・参謀総長にも打電。

建川は、「情勢判断の第一段」(満蒙における日本の権益の実際的効果を確保し、その拡充につとめる。学良政権にかわる親日新政権を樹立するが、支那中央政府の主権下におく(「昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断」)実施の時期であると提言し、板垣・石原の満蒙占領案と衝突するが、建川はその主張を変えず。しかし、軍の積極的行動には、敢えて拘束を加えないと言明(「片倉日誌」)。

9月19日

林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁がそれぞれ、関東軍が奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破、これを中国軍の所為として総攻撃、奉天城を占領した(満州事変)のは、軍部の計画的行動と幣原喜重郎外相に報告

林奉天総領事、「今回軍隊出動の計画はすでに一四日以来、非常演習として予行せられたり。我軍の行動は予定の計画の実現と推定される。支那側の無抵抗態度と我軍事行動に伴う小事故が在留外人を刺激し、世界の世論がわが方に不利なる傾向が現われ、対外政策ますます難局に陥るのではないかと憂慮に堪えず」と幣原外相に入電。

9月19日

満州事変の第1報、初のラジオ臨時ニュースとなる。

9月19日

この日付「東京朝日」号外。朝月新聞奉天通信局長の武内文彬による急報。

「ままよと勇を鼓して城内へ入れば警備の武装巡警に止まれ!と銃剣を突付けられること数度に及びその度にえり下が冷やりとする」「交戦地の日支両軍のぶつ成す砲声はますます加はり、日本軍の城内占領計画具体化とともに危険刻々に迫り城内日支人の動揺は極度に達し」。

9月19日

満州事変勃発の影響で、株式、商品相場が暴落。

9月19日

「ラ・スイス」紙、柳条湖爆破事件報道。

9月19日

ヒトラー姪ゲリ・ラバウル、ミュンヘンのヒトラー宅で発見。自殺として処理されるが謎

9月19日

連盟議長レルー(スペイン外相)、日本代表芳沢謙吉に説明求む。


つづく

ウクライナ モスクワに過去最大規模のドローン攻撃、主要製油所に損傷 議会選投票最終日(CNN) / BBCニュース - モスクワ市長、ウクライナが過去最大規模のドローン攻撃と 製油所や集合住宅を直撃 / ロシアに1000機超の無人機攻撃 モスクワ郊外の製油施設など破壊(AP通信)  

ドイツ州議選で極右AfDが第1党に CDUは党初の議席ゼロ(毎日);「ドイツを構成する16州のうち、AfDが第1党となったのは3州目。全て東部の地域で、旧東ドイツ地域での党勢拡大をさらに印象づけた。」 / ドイツ州議会選挙で強硬右派「AfD」第1党の公算…首都ベルリンでも第3党に躍進の勢い(読売) / 「取り繕うことはできない、惨敗だった」…メルツ首相のCDU、メクレンブルク・フォアポンメルン州議会選挙の支持率が1桁に(東洋経済)      

 

「ベルリンのマムダニ」が市長候補の急進左派が第1党 トルコ系女性、家賃高騰歯止め訴え(産経) / ベルリン議会選挙で左派党勝利 メルツ首相の与党は歴史的大敗(AP通信) / 独首都、トルコ系女性市長誕生か 連立は難航必至(共同)


 ベルリンで躍進した左翼党(Die Linke)。旧東独の伝統的な支持基盤から、若者や女性、移民背景をもつ都市住民へと支持を広げ、「若返り」に成功した。党員数はわずか1年で約6万人から12万人超へ倍増。家賃高騰など身近な生活問題を前面に出し、ベルリンでは民間に売却された22万戸の住宅の公有化を公約に掲げていた。米国のサンダースを参考に戸別訪問を大規模に展開し、若者を政治活動へ巻き込む草の根型の組織化にも力を入れていたそう。


〈日銀の利上げジレンマ、上げても下げても厳しい難局〉 / 「ギャンブル的」アベノミクスは継続するも撤退するも悪夢(ニューズウィーク日本版);<米政府が日本に「リフレ政策からの転換」を異例の要求。金利を上げても、低金利政策を続けても国民の負担は避けられない。高市政権は厳しい選択を迫られている>

 

金融界に激震/「個人向け国債」税制優遇!(FACTA); 「個人向け国債」を新NISAの対象に――。税制優遇が実現すれば、10年間で100兆円程度が預貯金から国債に移るとの試算も。預金流出に怯える地銀や信金に、淘汰の恐怖が迫る。

国会は面倒くさい場所、議員削減は全体主義の始まりだ 「これだけは言いたい!」(田原総一郎) /  斎藤幸平さん、ありがとう! 「議員定数の削減なんかは特に民主主義の根幹に関わるものなわけで、やっぱり私たちはもっと注目しなけはればいけないし、こういうものは国会の数の論理で押し切るんではなくてしっかり議論をしないと…気がついた時には独裁みたいなものになってしまう。」

ベッセント米財務長官の激怒も仕方なし…「高市政権の経済ブレーン」が危なっかしすぎて(週刊現代) / 留任した経済財政政策担当の城内実が、「ショック」を招いた骨太の方針発表前にリフレ派・高橋洋一や会田卓司に密かに相談していた事を語った。もう少しまともな人に相談する頭はなかったのか。それを言ってしまう事に恥ずかしさは感じないのか。そして、そんな城内を留任させた高市のリアル浅はかさ。(佐藤章)

2026年9月20日日曜日

1931(昭和6)年9月18日 午後10時20分頃、奉天独立守備隊島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール(長さ約80cmほど)爆破。列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行。、、、、、 19日未明、独立守備歩兵第2大隊、北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領。営口、鳳凰城、安東占領。

 

1931(昭和6)年9月15日 参謀本部第1部長建川美次少将、東京発満洲に向かう。南陸相から本庄関東軍司令官に宛てた親書持参。但し、建川は、本庄司令官に会う前に板垣と会うことになっている(事変当日の18日夜)。16日、石原が、三谷・今田・川島に対して18日夜決行を指示。17日、 石原・板垣の役割確認。 より続く

1931(昭和6)年

9月18日

奉天の森島守人領事と木村鋭一満鉄理事、建川来奉や奉天城占領演習情報などから、事態切迫を予感し、林久治郎奉天総領事に事前防止措置進言。林は、危機切迫を認めず、本庄司令官に宛てて速達の私信を送るのみ。また、この私信は旅順で片倉参謀が握り潰す。

9月18日

朝、板垣、遼陽から奉天へ引返し柳条湖爆破準備完了を確認し、本渓湖へ建川を迎えに行く。

9月18日

午後2時、本庄司令官、巡視を終え石原と遼陽から旅順に向かう。

9月18日

午後、奉天領事館で中村大尉事件に関する秘密会議。~午後8時、終了。森島領事は土肥原・花谷を探す。

9月18日

午後7時5分、建川と板垣、奉天到着。花谷が出迎え、料亭「菊分」へ直行。板垣は宴席には加わらず特務機関へ急ぐ。

「私もなにか起きるということで、その晩、最後に領事館で会議を開いて、終えたのが八時半か九時ごろでしたね。私はその日、建川少将のいるところを捜そうとしたんです。建川と話をしなければならんということで、あらゆる料理屋から、旅館から、心あたり全部電話をかけたりしまた。彼は料理屋で一杯飲んでおったが、陸軍は隠してたのです」(奉天総領事森島守人「昭和政治経済史への証言」)。奉天特務機関に行けば、建川の所在はわかる筈なのに、「探す」にしては動きは鈍重。

建川は「君らの事が半分あばかれた。中央は止めよという。自分の意見はうまくやるならやれ、駄目なら止めた方がよかろう」と述べ、酔いつぶれて寝込む。建川の口ぶりに板垣・花谷は本気で止めようとしていない腹の内を察し、計画通りに実行。建川もまさか、その夜やるとは思っていない。

林総領事は、この日、津久井平吉(日露戦争の沖・横川ら挺身破壊班の同士)の通夜に出かける。林は、関東軍の計画的行動を暴露し、政府による軍の行動緊急差止めを要請した至急極秘電を打ち、19日「午前」と「午後」に到着し、真相を中央へ伝える決定的な役割を果す。

しかし、林は、事変後、関東軍から再度の詰問を受け、中央へ報告した諸情報の取消しを強要され、再三、本庄軍司令官に対して陳謝させられ、遂には軍との協調を図ることになる。武力の前に立たされた外務官僚の現実追随の象徴。

9月18日

夜、大阪・中之島公会堂で「対支国民大会」、国粋大衆党主催。「権益確保のため帝国威武の発動」を求める。講師として登壇した朝日新聞外報部中平亮は、猛烈なやじで立ち往生。

9月18日

午後10時、本庄新関東軍司令官、満州各部隊の巡視から旅順の官邸に戻る。午後8時に大連に着き、野田画伯の家で出来上がった自分の肖像画を見る。

9月18日

午後10時20分頃奉天独立守備隊島本大隊川島中隊河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール爆破。しかし列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行

爆破の急報は、特務機関と島本(正一、中佐)大隊本部へ届き、「軍は軍の主力をあげて奉天付近に集中し、一挙に在奉天軍の中枢に一撃を加え、彼の死命を制し、至短期間に解決す」という作戦大綱が、板垣高級参謀によって迅速に実施。島本大隊は北大営へ進撃平田幸弘第29連隊長は、非常呼集を命じ、奉天城へ進撃

破壊されたレールの長さは約80cm(秦郁彦「柳条湖事件の再検討」)。19日には平常運行に戻る。

森島総領事代理は、特務機関からの急報で駈けつけ、外交交渉による解決の説得を試みるが、板垣から、指揮権に干渉するなと怒鳴りつけられ、「菊文」から戻っていた花谷が、抜刀して「干渉する者は殺す!」と脅迫。林総領事は、ようやく、電話で板垣に戦闘中止を勧告するが、板垣は「軍は既定の方針どおり事を進める」と、はねつける。その時には既に、24糎流弾砲は北大営を砲撃。

9月18日

午後10時30分、本庄関東軍司令官、板垣参謀より奉天での日支両軍衝突、独断で独立守備隊出動命じたとの連絡受ける。

参謀本部作戦部長建川美次少将、酔いつぶれ役立たず。

9月18日

深夜、朝日新聞奉天通信局長竹内文彬、支局員「K君」と共に喝采を叫ぶ(「満州・上海事変全記」)。

勃発の瞬間、武内は入浴中。「ドーン」とガラス戸が被れ、家を揺るがす大音響がとどろき、次々に重砲の爆音、機関銃の銃声が響く。電話が鳴り、妻の「アナタ電話です。国家の一大事だそうです。お風呂どころの騒ぎじゃないです」との伝言に、武内は飛び出し、第1報を本社に打電。徹夜で約8時間、計28通の至急電報を打ち、「朝日」開闢以来の記録を作る。奉天通信局員のK君が自動車で駆け付けて来る。「イヨイヨやりよったネ」と話しかけると、「とうとうやりましたネ」とK君も顔を真っ赤にして答える。

9月18日

夜遅く、旅順の関東軍司令部に柳条湖鉄道爆破の急報が入ると、司令部の参謀連中(情報の新井匡夫、作戦補佐の武田寿、輸送動員の中野良次の各参謀、幕僚付け片倉衷、調査班長竹下義晴ら)が参謀長官舎前に集り、板垣・石原が幕僚を無視して事件を起こしたことに不服で、事件に協力するかどうか、議論を交す。

この時、片倉と新井が大乗的見地から板垣・石原に協力するよう説き幕僚達を纏める

石原が遅れて参謀長官邸に着。彼は、急報を聞き、軍司令官官舎に行き、遼陽の第2師団に対する奉天出動命令の決裁を受けてからやって来た。そして参謀長官邸から遼陽に電話で、第2師団長にその命令を伝え、三宅参謀長以下はやがて軍司令部に移る。



9月19日

午前0時、本庄関東軍司令官、司令部着。

9月19日

午前0時28分頃、第2報が届く。

作戦主任石原は、「・・・最早一刻を猶予すべからず。断乎として軍全力の行動を起こし、短切に敵中枢の死命を制すべきである」との参謀長以下の結論を伝える。本庄は瞑目して沈思黙考5分、開眼すると「宜しい。本職の責任に於てやろう」と断案を下す。本庄より「全線全関東軍出動、奉天軍攻撃」を命令。軍司令官も奉天に出動と決定(19日午後2時、奉天に異動)。同時に、参謀長以下の進言により林銑十郎朝鮮軍司令官に増援を要請。

9月19日

午前1時7分、関東軍からの第一報、陸軍中央に届く南陸相は、夜半過ぎ、宿直将校に起され、奉天特務機関の軍機電報で事件発生を知る。

「十八日夜十時半ごろ、奉天北方、北大営西側において、暴戻なる支那軍は満鉄線を破壊し、わが守備兵を襲い、駈けつけたるわが守備隊の一部と衝突せり。報告により、奉天独立守備第二大隊は現地に向い出動中なり。」

9月19日

午前2時、公主嶺独立守備隊司令官守中将、関東軍司令官より奉天前進命ぜられる。

9月19日

午前2時頃、小磯軍務局長、陸軍省からの電話で事件発生を知る。そのまま就寝。

5時頃、塀を乗り越えて訪れた朝日新聞記者高宮太平の質問に「(事件は)大きくなりそうだ」と答える。

9月19日

午前2時20分、第一報の「電通報」が「大阪朝日」本社に入電。

9月19日

午前2時30分頃、「東京朝日」編集局に第1報が入る(「満州・上海事変全記」)。

第1報。「奉天で日支軍衝突」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破・・・」「深夜の奉天市内は今や砲声轟く戦火の巷となった・・・」が入電。

「はり出しのため主要地方通信局への速報、号外準備の動員など編集局の神経は高圧電気を通した電線の如くになった」

「翌一九日には早くも編集局の論説委員会が開かれて、事件に対する正しい見解と態度が決定された。日露戦争以来の日本の建て前と正当な権益の擁護、新聞編集には単に日本国内の読者のみを対象とせず、世界の世論を考慮に入れることーこれが事変を中心としての我々の新聞製作の標識であった」(社会部長鈴木文史朗)。

9月19日

未明、独立守備歩兵第2大隊、王以哲軍兵営北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領営口、鳳凰城、安東占領

9月19日

午前3時、長春駐剳部隊司令官歩兵第3旅団長長谷部照悟少将、第4旅団長大島陸太郎大佐に命じ第2大隊(黒石大隊)の南嶺(長春南6㎞、奉天直系の歩兵1連隊・野砲1連隊、計3600・火砲36門)攻撃下命。

5時、南嶺砲兵営奇襲するも、応戦により後退。

9月19日

午前3時30分、本庄関東軍司令官、旅順発。午前11時、奉天到着。

9月19日

午前6時、公主嶺独立守備隊司令官森中将、第1大隊(小河原中佐)を南嶺へ派遣。

森中将は、前夜(18日)11時10分頃、奉天付近の戦闘の報告を受け、部隊に出動準備を命じ、19日午前2時頃、関東軍司令官から、第1、5大隊主力を奉天へ前進させる命令を受け、午前6時には公主嶺駅(長春南94km)に搭載完了。しかし、奉天での戦闘行動は成功しているのが、長春付近では苦戦中と知り、小河原中佐の意見具申を容れ、独断で小河原中佐の第1大隊を長春の応援に赴かせる。

9月19日

午前7時、陸軍中央部首脳会議。全面的に関東軍支持。

9月19日

早朝、北京、張学良ら東北関係者会議、張の主張確認、「あらゆる軍事・外交はすべて全国的問題・・・抗戦を主張するがそれは全国的抗戦でなければならない」

9月19日

午前7時過ぎ、若槻首相・幣原外相ら、事変発生を知る


つづく

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