2026年5月6日水曜日

それは悪口?それとも批判? 「高市1強」時代に必要な民主主義とは(朝日);「高市首相は今回の衆院選で他党を直接攻撃しない姿勢を貫いた。その態度が『前向きな政治』『分断をあおらないリーダー像』として好意的に受け止められ、結果として大きな支持につながった、とも言われた。」 → 武市陣営の野党中傷動画拡散疑惑にメスを!

止まらない「戦争インフレ」がトランプに強いる出血…アメリカには「不吉なサイン」が(ニューズウィーク);<イランで不安定な情勢が続くなか、エネルギー価格の上昇が実体経済と米政権にじわじわダメージを与えている>

 

(前編)ようこそ「腐敗の黄金時代」へ! トランプのSNS投稿直前に謎の大規模取引、市場操作疑惑を徹底検証 ; トランプ政権の動きを読んで先物取引や予測市場で稼いだのは誰? / (後編)規制当局を無力化し、権力者が甘い汁を吸う…トランプ政権下で進む市場操作と民主主義の危機 ; トランプ政権の動きを読んで先物取引や予測市場で稼いだのは誰?(ニューズウィーク日本版)

 

大杉栄とその時代年表(816) 1909(明治42)年1月2日~9日 「森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての齋藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君――今日パンの会もあつたのだ。 題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他――」(啄木日記)

 

観潮楼の復元模型

大杉栄とその時代年表(815) 1909(明治42)年1月1日 森田草平「煤煙」(「東京朝日新聞」~5月16日)事前に漱石から平塚明子(雷鳥)の父定二郎へ、草平は事件により中学教師の職を失い、もの書き以外に生きる道がなく、事件を題材に小説を書く許可を求める手紙。母光沢が断りに出かけるが、漱石に押し切られる。 新聞は12月1日より小説掲載予告を派手に宣伝。 12月中旬、明子は信州から帰郷し草平を訪問、不在のため絶縁の手紙を託す。 小説の反響は大きく、草平はスキャンダルを売り物に有名作家となる。小説中の明子の手紙は、約束に反し半分程が手を加えられており、やがて明子は「煤煙」に対する意見や自己の内面を表白する作品を公開し始める。 より続く

1909(明治42)年

1月2日

袁世凱失脚。

摂政王載澧、軍機大臣袁世凱、罷免。袁、河南に引退。(足疾を理由に強制帰郷)張之洞死去。この2人を失ったことにより、清国における議会選挙の夢打ち砕かれ、権力は満州族の手に渡る。

1910年、資政院(諮問議会)、国会即時開設の要求を決議し1913年に実現が約束される。

1月2日

米・コロンビア間に協約調印。コロンビア、パナマの独立を承認。1914年に結ばれた条約により、コロンビア、パナマに一部特権確保。米、パナマ独立承認の代償として2,500万ドル支払うことに合意。

1月2日

ロシア、この日、日本大使館で新年会。外国語学校露語科の卒業生14、5人も集まり、二葉亭に直接教えを受けたものも何人かいた。関係者全員が彼を囲んで「二葉亭先生万歳」をとなえた。この席で二葉亭は、シベリア鉄道と南満洲鉄道の相互乗入れ、および沿海州・日本航路の連絡交渉のため滞在していた満鉄の後藤新平の部下田中清次郎、大阪商船の末永一三、ロシア人の妻を持ち田中と末永の仕事を助ける有能な通訳夏秋亀一らと知りあい、心をひらいて歓談した。この日が二葉亭のロシア滞在中最良の日となった。

1月4日

清国、仏間に中越交界禁匪章程成立。

1月5日

福田英子「第三週年」(「世界婦人」第32号)。

1月5日

(漱石)

「一月五日(火)、狩野亨吉宛葉書に、「頂戴の時計今日より又鳴り出し申候御安神可被下候 以上」と書く。村上半太郎(霽月)宛葉書に、「謹んで賀正の辭/を呈し奉る/初日の出しだいに見ゆる/雲静か」(己酉正月五日となっている)」(荒正人、前掲書)

1月6日

杉村春子、誕生。

1月7日

韓国、伊藤統監、純宗皇帝に陪従して南部地方をデモンストレーション。~13日。

27日~2月3日、北部地方。

1月7日

(漱石)

「一月七日(木)、木曜会。西村誠三郎(濤蔭)来る。市川文丸(青森県三戸那是川村、現・青森県八戸市是川)から、油紙に包んだ山鳥を送られる。小包のなかに手紙同封され、借金は三月に上京の折に必ず返したいと書かれている。夕方、木曜会に集った五、六人と共に、山鳥の羹(あつもの)を食べる。一同帰った後で、市川文丸宛に山鳥の礼と先日用立てた金については心配無用と書く。伸六、一日中泣き続ける。小宮豊隆泊る。(「草平を訪問して『煤煙』を褒める。草平は、自分のハガキが『煤煙』に関する最初の批評だったと言って、喜んでゐた。先生〔夏日漱石〕のをまだ讀んでゐないのである。その由を教へる。」(「小宮豊隆日記」))

一月八日(金)、朝、小宮豊隆帰る。黒紋付で室生新来る。稽古初めに、『土車(つちぐるま)』を少し習う。鏡、産褥を離れる。伸六、泣き続ける。胃病むので、懐炉を抱いて寝る

一月九日(土)(推定)、曇。寒さ甚だしい。雪降る。胃の痛み大分薄らぐ。伸六、また泣き出す。到底仕事できぬ。余り寒いので、湯に入って元気つけようと思い、手拭いさげて玄関に行くと、客が来る。知人で、金を貸して欲しいとか身の上相談受ける。夕刻、風呂に行く。帰って部屋に戻っていると、鏡、蕎麦湯を持って来る。伸六、暫くして泣きやむ。二、三日前からお梅(女中)は病気で、医者に往診を依頼している。盲腸炎の疑いがある。(「火鉢」『永日小品』による)

一月十日(日)、前夜からの雪まだやまぬ。坂元三郎(雷鳥)から数日前に長い手紙貰ったので、その返事に、「雪が降るので火鉢を擁して此手紙をかく。夫から又原稿をかく。何でも夢十夜の様なものとの注文だから毎日一つ宛かいて大阪へ送る積りである。僕が原稿の催促を受けて書き出すと相撲が始って記事が不足しない様になる。社の方では気が利かないと思ってゐるだらう。」と書く。ついで、高須質淳平来て、金山の話・品川の話をして帰った後、桑原喜市何十年振りかで現れ、会津の奥に蛋白石の鉱区を持っていると話す。

一月十一日(月)、夜、飯田政良(青涼)から手紙来て、『町の湯』金に替えることのできる新聞か雑誌か本屋を紹介して欲しいと依頼される。(推定)同時に、坪内逍遥からも宜しく頼むと手紙届く。」(荒正人、前掲書)

1月8日

「一月八日 金曜 曇 寒

おそく起きた。咽が痛い。しきりに咳が出る。頭が半分いたい。

・・・・・午後四時頃、平出から昴の会議をやるとの電話。

すぐ行つた。平野吉井平出、アトから川上君、与謝野氏、栗山君、都合七人で九時ごろまでやつた。意見はすべて予の言ふことが通つた。平野は大分予が物をいふ度に不快な顔をしてゐた。

予は勝つた。編輯担任者はその号に全権をもつことにした。そして平野がやると言つてゐた短歌の添刪までもとりかへした。平野の言ふことは皆やぶれた。

(略)

そばをくつてかへる。少し熱が出た様だ。留守中に太田正雄君が来たとかで名刺があつた。今日帰京してすぐ来てくれのであらう。

(略)


一月九日 土曜 曇 夜雪 寒

十一時ごろに起きた。頭がいたく、のどが痛い。風邪がすこしも直らぬ。

太田君から電話。

(略)

一時頃に太田君が赤い顔をして元気よく入つて来た。旅中に沢山材料をえたと言つてよろこんでゐた。予は予の編輯する号は君と北原には蹂躙にまかせると言つた。三時まで話した。二号には(南蛮寺門前)といふ脚本を貰ふ約束。

森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての齋藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君――今日パンの会もあつたのだ。

題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他――

(略)」(啄木日記)

(*)「森先生の会」;鷗外主宰の観潮楼歌会

(*)「高湛」(たかしづ);鷗外


1月9日

文部省、学校主催の講演会、記念会、運動会など、華美、浮薄に流れないよう訓令。

1月9日

李王世子殿下、学習院中学部に入学

1月9日

森鴎外主催観潮楼歌会。啄木(23)、斎藤茂吉と会う。歌会で啄木最高19点を獲得

1月9日

漱石「文士と酒、煙草(談話筆記?)」〔一月九日『国民新聞』。アンケートに答えたもの〕

1月9日

モーリス・ラヴェルのピアノ曲『夜のガスパール』、パリで初演。

1月9日

カリフォルニア州に排日問題再発。


つづく

2026年5月5日火曜日

鎌倉散歩 新緑に包まれた円覚寺 舎利殿の特別拝観日 2026-05-05

 5月5日(火)晴れ

今日は端午の節句。立夏だそうだ。気温23℃で天候は快晴。五月晴れ。湿度が低いのでムスこともない。

こういう日に鎌倉へ行くのもどうかと思うが、今日は、円覚寺舎利殿の特別参拝ができる日なので、これ狙いで出かけた。舎利殿参拝は二度目。

境内は、全てが鮮やかな新緑に包まれている。

▼総門

個人的な感想だけど、円覚寺の景観の醍醐味は、ここからが一番に思える。


▼山門

山門の写真を撮るなんて20年ぶりくらいかも。威風堂々の感じがいい。


▼山門側から総門側を振り返って見たところ

▼山門裏のモミジの新緑


▼山門を越えて、仏殿の左側を直進



▼方丈の裏の妙香池

▼国宝 舎利殿(関東大震災で倒壊後、昭和4年に復元)

お釈迦様の「歯牙」がおまつりされているとのこと。

中学の教科書に出ていた。


▼境内に鉢植えのヤマアジサイ

▼正面が舎利殿の入口 門前に受付用のテント

▼洪鐘(国宝)のある坂上から下を見たところ 


米国の悲しき逆U字カーブ 民主主義後退の病巣深く(日経 有料記事);「トランプ的なものを生む経済、政治、社会、文化の病根を絶たねばなるまい。そのためにも市民が声を上げ続ける。覚悟が問われるのは日本も同じだ。」

メットガラ、ベゾスが名誉議長を務めることに批判の声。「偽の尿」のボトルなどを置く抗議活動(ハフポスト); Amazonで働く72歳の労働者は、抗議の動画で「メットガラで祝われる必要があるのは労働者たちだ」と訴えている。


 「ジェフ・ベゾス、あなたは恥を知るべきだ」

今夜のMETガラを前に、ノースカロライナ州の72歳のアマゾン労働者が、ニューヨーク市のアジェンダ主義者たちがジェフ・ベゾスの1億2000万ドルのペントハウスの側面に投影したメッセージ




ピュリツァー賞 トランプ政権を検証する報道の受賞相次ぐ(NHK) ← あなたのところも頑張ってネ / 『ワシントン・ポスト』の記者ハンナ・ナタンソンは、脅迫を受け、訴訟を起こされ、FBIによる家宅捜索まで受けた。そして今日、国家の解体(トランプ/マスクによるDOGE)に関する取材でピューリッツァー賞を受賞。 /  サヘル・アルゴラ氏(ニューヨーク・タイムズ)が、「ガザ地区の荒廃と飢餓を捉えた、心に深く響く繊細な一連の写真」でピューリッツァー賞速報写真部門を受賞した。 / トランプ政権における大統領ドナルド・トランプ本人からその周囲に至るまで蔓延している利益相反や私的利益の追求を明らかにした調査報道により、ニューヨーク・タイムズのスタッフは2026年のピューリッツァー賞(調査報道部門)を受賞 

2026年5月4日月曜日

トランプ氏、いかに民主主義を破壊? ルース・ベンギアットさん(朝日) / トランプ大統領は地位と権力を利用して短い在任期間で数十億ドルを稼いでおり、大統領の家族やラトニック商務長官らの側近や関係者その家族も同様だ」 / 「トランプ氏は、悪化する経済、(自らの)不人気、共和党の相次ぐ選挙での敗北など、国内問題から国民の視線をそらすために(イランに)戦争を挑みました」 / 「私の理解では、米国は(台湾有事の際に)台湾を守らないことが明白です。トランプ氏と共和党が政権を握っている限り、米国が(他国の)民主主義を守ることは決してありません」   

 

大杉栄とその時代年表(815) 1909(明治42)年1月1日 森田草平「煤煙」(「東京朝日新聞」~5月16日)事前に漱石から平塚明子(雷鳥)の父定二郎へ、草平は事件により中学教師の職を失い、もの書き以外に生きる道がなく、事件を題材に小説を書く許可を求める手紙。母光沢が断りに出かけるが、漱石に押し切られる。 新聞は12月1日より小説掲載予告を派手に宣伝。 12月中旬、明子は信州から帰郷し草平を訪問、不在のため絶縁の手紙を託す。 小説の反響は大きく、草平はスキャンダルを売り物に有名作家となる。小説中の明子の手紙は、約束に反し半分程が手を加えられており、やがて明子は「煤煙」に対する意見や自己の内面を表白する作品を公開し始める。

 


大杉栄とその時代年表(814) 1908(明治41)年12月11日~31日 「節子は働きながら東京にいる啄木以上の貧しい生活であった。」 「郁雨の温情に縋りながらも、節子は語るに語れぬ家計の実状を胸ひとつにしまって教壇に立っていた可能性がある。その結果の明治四十一年十二月三十一日の残金五厘である。節子は事実を書いただけなのに、啄木は非難されていると直感する。敏感にならざるを得ない素地と弱みが夫の側にあってのことである。『鳥影』がはじめて原稿料をもたらしたのであるから、半額か三分の一でも妻に送ってやるのが、せめてもの心やりであった。」(澤地久枝『石川節子 - 愛の永遠を信じたく侯』) より続く

1909(明治42)年

1月

鈴木文治「政治的季節来る」(「新人」)。国民の権利伸長・擁護の必要性。

1月

正宗白鳥「地獄」(「早稲田文学」)

1月

(漱石)

「『永日小品』 〔『東京朝日新聞』 (一月十四日-二月十四日)・『大阪朝日新聞』(一月十四日-三月十二日)〕(冒頭に収録された「元日」は、『永日小品』として発表されたものでない。小品は、仏教語の省略の意。漢学で長短の短を意味する。短篇(小説と随筆の中間)を意味する。

文壇の趨勢〔『趣味』一月號〕(談話筆記を書き記したもの (小宮豊隆))

私の経過した学生時代(「一貫したる不勉強」)(談話筆記)〔『中学世界』一月号〕(談話筆記は、小宮豊経の推定に従う。『中学世界』の第一附録として、「私の経過した学生時代」と題し、新渡戸稲造、竹越与三郎、浮田和民、夏目金之助、丘浅次郎、上田敏、井上敏夫を掲載している。漱石のものは、「文學士 夏目金之助君」となっている。なお、「一貫したる不勉強」の題名は、編集者が付けたものと推定される)

文壇の變移(談話筆記)〔『秀才文壇』一月号〕

私のお正月(談話筆記)〔『明治之家庭』一月号〕」(荒正人、前掲書)


1月

荷風『狐』(「中学世界」)。

強者としての父と、弱者としての母ならびに自己自身というやや図式的な対置関係の上に立って、幼時の一断面が繰り広げられる。


この頃、浜町不動新道の私娼・蔵田よしと親しむ(11月頃まで)。


「今年から原稿料全額を貯蓄し五年間に千円ためて伊大利亜へ行ってヱスビヤスの火山へはいつて死にたい。兎に角今年からはつゞくだけ書く」 (明治42年1日3日、井上唖々宛て、満30歳)

1月

時事新報社の募集(世界美人コンテスト企画:シカゴ・トリビューン社、1908年3月5日)で美人写真1位に選ばれた末広ヒロ子(16歳、小倉市長の娘)、世界6位となる。

前年、国内選考で1位となるが、学習院女学部(院長乃木希典)を退学処分となる。野津道貫の子・野津鎮之助と結婚後、この月、シカゴ・トリビューンに贈られたヒロ子の写真が世界6位となったとの記事が掲載される。昭和38年(1963)3月没(享年69歳)。

1月

『流行画報』、『グラビック』創刊。

1月1日

京漢鉄道官吏権、回収される。

1月1日

(漱石)

「一月一日(金)、曇。霰降る。元日。四方拝。年始には行かぬ。賀状も返事だけ出す。謡はやらぬ。松根東洋城・野村伝四・高浜虚子・坂本四方太・小宮豊隆・野上豊一郎ら集る。(鈴木三重吉は、成田中学で拝賀式があり来ない)夜、寺田寅彦来る。小宮豊隆泊。(胃病と風邪で一月八日(金)まで振込む

森田草平の『煤煙』、『東京朝日新聞』(挿絵・名取春仙)に掲載始り五月十六日(日)まで。『読売新聞』の、「予の新しき希望」(三)に、佐藤紅緑・田山花袋・上司小剣・島村抱月・蒲原有明・内田魯庵・徳田(近松)秋江・正宗白鳥と共に寄せ書きをする。「小袖着て思ひ思ひの/春をせん/漱石」

一月二日(土)、森田草平の『煤煙』評判よい。鈴木三重吉の『黒髪』は評判よくない。

一月三日(日)、元始祭。狩野亨吉宛葉書に、「頂戴の時計を遅いからねぢつて早くしたら時を打たなくなった。どうした〔ら〕なるだらう。」と書く。

一月三日(日)以後、『大阪朝日新聞』から、『夢十夜』のようなものを求められていたところ、電報で督促受ける。」(荒正人、前掲書)

1月1日

北原白秋ら、「スバル」創刊(森鴎外命名、発行名義人啄木)。「明星」終刊後、平出修が出資。最初の編集同人、平野万里、吉井勇、石川啄木、木下杢太郎。客員与謝野鉄幹・晶子。発行所住所は平出修法律事務所。啄木(小説)「赤痢」、鷗外(戯曲)「プルムウラ」。~1913年12月、60冊。佐藤春夫(新宮中学学生)の歌は10首採用される。

編集者は創刊号から平野万里、石川啄木、木下杢太郎、吉井勇、栗山茂、平出修と1号ごとに変わり、9号以後は江南文三が主としてあたり、吉井勇、和貝彦太、長田幹彦らが助けている。1913年9月以後は万造寺斉。

1月1日

「一月一日 晴曇 寒

今日から二十四歳。

(略)

三時半頃になつて出かけた。空は曇つてゐて、風つよく、寒い。廻礼の人々が電車に溢れた。予は何がなしに浮世の春が自分一人をのけ者にしてるといふ様な感じにうたれた。千駄ヶ谷に与謝野氏を訪ふ。間島長島の二君がゐた。屠蘇、夕飯。与謝野氏はスバルの前途を悲観してゐた。主要なる話はスバルに関した事であつた。六時頃間島君と電車を同うして帰り、予は平出君を訪ねた。話はここでもスバルの事。予は編輯を各月担任者に全責任を負はせる事を説いた。(然し吉井君には任せられない。アノ人は仕事の人ではないから。)と平出君が言つた。与謝野氏は予と同意見なのだ。

(略)

・・・・・(朝日)に森田君の(煤煙)が出初めた。

(略)


一月二日 土曜 快晴 寒

(略)

何といふことなく予は心に頼むところが出来た。そして今迄平野を散々罵倒してゐたが今夜、それがあまりに小供染みてると感じた。ツマラヌ。一雑誌スバルの為に左程脳を費すべきではない。予は作家だ!

(略)


一月三日 日曜 晴 温 元始祭

(略)

・・・・・せつ子から封書の賀状が来た。大晦日に室料を払つて五厘残つたと! そして賀状のかげには予が金をおくらなかつた事に対するうらみが読まれる。予は気まづくなつた。ああ、金は送らねばならなかつた。然し予は送りえたのであつたらうか? ・・・・・

(略)」(啄木日記)

1月1日

森田草平「煤煙」(「東京朝日新聞」~5月16日、1910年2月~1913年11月、4巻刊)。

事前に漱石から平塚明子(雷鳥)の父定二郎へ、草平は事件により中学教師の職を失い、もの書き以外に生きる道がなく、事件を題材に小説を書く許可を求める手紙。母光沢が断りに出かけるが、漱石に押し切られる。

新聞は12月1日より小説掲載予告を派手に宣伝。

12月中旬、明子は信州から帰郷し草平を訪問、不在のため絶縁の手紙を託す。

小説の反響は大きく、草平はスキャンダルを売り物に有名作家となる。小説中の明子の手紙は、約束に反し半分程が手を加えられており、やがて明子は「煤煙」に対する意見や自己の内面を表白する作品を公開し始める。

この年、明子は曙町の実家に戻り、神田美土代町日本禅学堂で中原南天禅老師について参禅、神田正則英語学校で唯一の女生徒として英語を学ぶ。年末には、禅の友人木村政子との交遊から、西宮海清寺で臘八接心を受け、再び見性を許され「全明」の大姉号を受ける。

1月1日

山路愛山「足利尊氏」。

1月1日

米、映画特許会社設立。仏の2社を含む9社の映画製作会社に特許許可。

1月1日

英、1908年8月1日に可決の老齢年金法、発効。


つづく