2026年3月30日月曜日

横浜サクラ散歩 元町公園バス停付近 県立近代文学館周辺 港の見える丘公園 運河パーク・汽車道 2026-03-30

 3月30日(月)晴れ

予報では曇がちの天候だったけど、実際はまずまずのいいお天気。

気温は20℃近い。

東京は今日ソメイヨシノ満開宣言だったはず(未確認)だが、横浜はまだ。

元町の気象台に立ち寄ってみたら、ソメイヨシノの標本木、まだ五分咲き程度だった。

実勢は標本木よりは進んでいる(つまり、標本木は遅い)ように思える。

▼元町公園バス停付近 八分咲きくらいには見える


▼横浜山手聖公会まえ


▼県立近代文学館周辺

▼紅シダレ満開



▼港の見える丘公園の横浜緋桜 満開

▼運河パーク・汽車道 大島桜が満開に近い






▼日本丸近くの横浜緋桜


大杉栄とその時代年表(794) 1908(明治41)年7月24日~25日 「社会主義の巨頭幸徳秋水の来遊を歓迎して、新宮町の同志大石誠之助の発起によって大石の感化を受けて社会主義を奉ずるようになっていた町内の二、三の人々、たとえば真宗の僧侶や、川奥の山に働く青年やいかだ流しの若者、さては社会主義とは関係なく大石と親交のある町のインテリなど、大石の呼びかけに応じて集まり、季節柄熊野川に自慢の落鮎狩りを催して晩夏一夕の涼をとり、互に杯を交して親睦しつつ幸徳氏の旅情をねぎらい高話を聴こうと川舟を用意した。」(佐藤春夫『大逆事件の思い出』)

 

佐藤春夫

大杉栄とその時代年表(793) 1908(明治41)年7月16日~22日 「死場所を見つけねばならぬといふ考が、親孝行をしたいといふ哀しい希望と共に、今の自分の頭を石の如く重く圧してゐる。静かに考へうる境遇、そして親を養ふことの出来る境遇、今望む所はただそれだ。」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

7月24日

長崎県端島炭坑暴動。

7月24日

青年トルコ党革命。トルコ第2次立憲制。青年トルコ党、統一と進歩委員会とアルバニアの支持を取り付ける。スルタン(オスマン朝第34代君主)のアブドゥル・ハミト2世(66)、1876年憲法(ミドハト憲法)復活を承認。

革命の雰囲気に触発されストライキ頻発。

10月、オスマン帝国内自治公国のブルガリアが完全独立を宣言。オーストリアも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を通告。

12月、議会で帝国内のキリスト教諸民族が各々の利益を主張。逆に、青年トルコ党に反発する保守的イスラム教徒が「イスラム連合」を結成して下層市民や神学生の支持を集める。青年トルコ党はストライキ弾圧側にまわり、軍人事でも革命前に重要とされてきた人々を冷遇、その不満を増幅させる。 

欧州諸国は革命の混乱に乗じてオスマン領土を奪う策謀を始める。イタリアはリビア侵略を準備。 


1906年、青年トルコ党は軍隊に浸透しハミト専制に反抗する運動を始める。この月サロニカで軍隊を掌握し反乱、アブデュル・ハミトを退位させ、彼の専制政治を打倒、1876年憲法を復活させる。青年トルコ党の民族主義はやがてオスマン帝国主義ともいうべき汎トルコ主義となってトルコ帝国内の諸問題を解決するには至らず、党そのものも分裂。トルコの革命はバルカンに錯綜した利害を持つ列強を動揺させ、トルコの反革命勢力側に結集させる。

オーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合は、青年トルコ党の革命による国際的混乱に便乗したものだが、このオーストリア勢力侵入を怖れるバルカン諸国は、青年トルコ党の革命がオスマン帝国主義イデオロギーを高唱したとき、トルコに対抗する姿勢を固めつつあった。しかもバルカン諸国結束の背後に動くロシアは、それぞれ排外主義的民族主義の色の濃いバルカン諸国を統制できず、バルカン諸国は「共喰い」ともいうべき第1次バルカン戦争に突入した。


「ロシア革命のこだまは国境を遠く離れたところまで反響した。西ヨーロッパではプロレタリア運動を激化させ、同時にアジアでは、諸国民を政治活動に目覚めさせた。カフカースに隣接したペルシャではカフカース事件の直接的な影響から革命運動が開始され、帰趨がはっきりしないまますでに2年以上も続いている。中国でもインドでも、至る所で人民大衆は自国の独裁者やヨーロッパの略奪者(資本家、宣教師など)に反対して立ち上がっている。略奪者たちがヨーロッパのプロレタリアートを搾取するばかりか、アジアの諸国民を零落させているからである。ロシア革命の最も新しい影響は今年の夏に起きたトルコ革命である。……

ロシアでは革命の闘士は主にプロレタリアートであった。しかしトルコでは、すでに述べたように、産業はまだ生まれたばかりで、プロレタリアの数は少なく脆弱であった。トルコのインテリゲンツィアとして最も教養があった者たち(教師、技師など)は、学校や工場でほとんど自分たちの力を発揮することができず、将校になった。彼らの多くは西ヨーロッパの国々に留学し、その地でもろもろの制度を学んだが、祖国で出会うのはトルコ兵士の無教養と貧困、国家からの侮辱であった。彼らは傷ついた。かくして将校層は不満と怒りの温床となった

今年(1908年)の7月に蜂起が起こると、たちまちスルタンには軍隊がいないありさまになった。軍団が次から次へと革命の側に寝返ったのだ。……将校たちは決然と憲法を要求し、与えられないならスルタンを退位させると脅した。アヴデュル・ハミトは妥協するより仕方がなかった。憲法を『下賜』し……、自由主義的な内閣を権力の座に就け、国会議員選挙を命じた。

国はただちに息を吹き返した。ひっきりなしに集会が開かれ、新しい新聞が数多く発刊された。生まれたばかりのトルコのプロレタリアートは、雷に打たれたように即座に目覚めた。ストライキが始まり、労働組織が生まれた。」(トロツキー「トルコ革命とプロレタリアートの任務」、『バルカン戦争』より)


「青年トルコ派の驚くべき勝利――ほとんど努力と犠牲なしの勝利――は何によって説明されるのか。

革命とは、その客観的な意味においては、国家権力を求める闘争である。国家権力は直接的に軍に依存している。それゆえ、歴史上あらゆる革命は何よりもまず、軍がどちらの側につくのかという問題を立て、その問題を解決しようとした。トルコ革命では軍そのものが解放思想の担い手として登場し、そのことがトルコ革命独自の特徴となった。新しい社会階級は旧体制の軍事的抵抗を押しつぶす必要がなかったばかりか、兵を引き連れてスルタン政府と対抗した革命将校のもとで、共感をこめて合唱すればそれでよかったのである。

その出自、その歴史的な伝統からしてトルコは軍事国家である。現在もトルコは軍の相対的な兵員数ではヨーロッパのすべての列強諸国の先頭に立っている。大所帯の軍は多くの将校を必要とした。その一部は下士官から昇進の形で補充された。ユルドゥズ[スルタンの住んでいる宮殿]は歴史的発展の必要に対し絶えず野蛮な方法で抵抗しながらも、ある程度は軍を西欧化し、知的な人材を軍に登用しなければならなかった。彼らは躊躇することなく軍に入ってきた。トルコエ業の零細さや都市文化の未熟さは、トルコのインテリゲンツィアに将校か官吏になる以外に活躍の場をほとんど与えなかった。かくしてトルコ国家は、自らの土台の内部に既存のブルジョア国家にあるような戦闘的な前衛、つまり思考し、批判し、不満を持つインテリゲンツィアを組織してしまったのである。近年、トルコ軍の内部では給与の未払いや昇進の停滞のために絶えず騒ぎが起こっていた。軍隊が電報局を占拠したり、ユルドゥズと直接的な交渉におよんだりしたこともあった。スルタンの官房は仕方なく譲歩した。かくして連隊が次々に反乱の学校になっていったのである。

蜂起が成功すると、ヨーロッパの多くの政治家や政治評論家は、青年トルコ派の大組織とは、独創的に考案され、すみずみまで手の入った代物だとひそかに考えた。その素朴な想像には成功への物神崇拝も含まれていた。実際には、将校同士の、とくにコンスタンチノープルとアドリアノープルの守備隊の間では革命に関する連絡はきわめて不十分であった。ニアーズィ・ベイやエンヴェル・ベイ[パシャ]自身が認めたように、青年トルコ派は蜂起の準備を『まったくしていなかった』のに、蜂起は勃発したのである。助けになったのは軍そのものが自動的に組織化されたことであった。飢えて孤立した兵士の自然発生的な不満が、彼らを政治的に反体制化していた将校層の側に追いやり、そして軍の持つ機構的な規律が革命の内的な規律へと自然に転化したのである。」(トロツキー「新しいトルコ」、『バルカン戦争』より)

7月24日

ロシア警備艇に5月29日に拿捕された漁船三重丸の船員、ロシア兵と争い軍事裁判で6人死刑を宣告される。

8月1日、駐ロシア代理大使落合謙太郎抗議。

10月14日、特赦放免。1911年6月23日、損害賠償問題解決。

7月24日

ロンドンオリンピック: 男子マラソンでドランド・ピエトリが係員の助けを借りて最初にゴールに辿り付いたが、失格となり2着のジョニー・ヘイズが金メダル

7月25日

幸徳秋水(36)、新宮に入り、大石誠之助方滞在。~8月8日。高木顕明(浄泉寺住職)・峰尾節堂・成石平四郎・崎久保誠一らが訪問。浄泉寺での談話会で社会主義の講演(聴衆30余)。

8月1日、熊野川船遊び。新宮教会牧師沖野岩三郎、成石平四郎ら9名。幸徳が爆弾製法問い、大石が不明の返答。のち、「虚無党の秘密会議」とされる。

8日、新宮発。9日、鳥羽港上陸。

10日、伊勢神宮参拝。二見港発、熱田港上陸。義兄松本安蔵宅泊(名古屋控訴院判事、妻千代子の姉須賀子の夫)。大逆罪について種々質問したという。

11日夜12時、名古屋発。

12日午前7時、国府津着。箱根の林泉寺住職内山愚堂を訪問、2泊。幸徳は赤旗事件の弔合戦を直接行動でと主張、内山は無政府主義はまだ伝道の時期であると答える。幸徳は、ここから電車事件で入獄中の吉川守国に宛て「自愛を祈る」との手紙を出す。

14日、帰京。

大石誠之助:

慶応3年10月4日、新宮町生まれ。同志社に2年半在学。明治24年、オレゴン大学医学部入学。28年卒業、29年帰国、新宮に開業。32年伝染病研究にインドに渡り、34年帰国。37年10月、太平洋食堂を経営し、自家に「平民クラブ」を設ける。この頃から幸徳・堺・西川らとの交際始まる。ペンネーム「緑亭」で新聞に寄稿。

内山愚堂:

明治7年5月17日新潟県北魚沼郡小千谷町生まれ。長男。小千谷高等小学校卒業し父の菓子器型を習うが身につかず、20歳で上京、井上円了家の家庭教師となる(円了より社会主義について聞く)。24歳で曹洞宗入り、明治37年2月9日~42年7月迄、箱根の林泉寺住職。明治37年頃、矢野文雄「新社会」などで社会主義の勉強始め、38年、加藤時次郎の家で幸徳と知合い、「箱根大平台の小僧」のペンネームで平民社に近づく。


「社会主義の巨頭幸徳秋水の来遊を歓迎して、新宮町の同志大石誠之助の発起によって大石の感化を受けて社会主義を奉ずるようになっていた町内の二、三の人々、たとえば真宗の僧侶や、川奥の山に働く青年やいかだ流しの若者、さては社会主義とは関係なく大石と親交のある町のインテリなど、大石の呼びかけに応じて集まり、季節柄熊野川に自慢の落鮎狩りを催して晩夏一夕の涼をとり、互に杯を交して親睦しつつ幸徳氏の旅情をねぎらい高話を聴こうと川舟を用意した。」(佐藤春夫『大逆事件の思い出』(「新しき抒情」1968年所収)

この年、佐藤春夫らは廃刊になっていた雑誌「はまゆふ」を復刊創刊。

これより前、大石誠之助と沖野岩三郎が新宮の町はずれにある大石誠之助の甥西村伊作所有の空家に新開雑誌閲覧所というのを設け、そこに文学雑誌・新聞・社会主義の著作をおいていたが、佐藤春夫が学校帰りによくこれを利用した。

7月25日

赤羽一「社会党入獄史」(「東京社会新聞」)。新聞紙条例違反、発行人兼編集人松橋源吉軽禁固各2ヶ月、筆者赤羽一軽禁固2ヶ月、発行停止、処分。

7月25日

夏目漱石(41)「夢十夜」(「朝日新聞」)。~8月5日迄。

7月25日

中野武営・岩下清周・片岡直温ら実業派および無所属代議士など会合。戊申倶楽部結成を決定。

7月25日

東大教授池田菊苗、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許(14805号)を取得。12月、鈴木三郎助、逗子工場でこれにより味の素の製造開始。


つづく

「内閣記者会は何してる?! この国の最高権力者に、SNSで漠としたこと(実態不明、検証不能なこと)言わせておかず、各社団結してさっさと記者会見させるべきだろう。」(東京新聞労働組合) / ナフサ輸入「中東から切り替える」 高市早苗首相、Xで表明(日経) / 透析・手術用の品目、「安定供給図る体制立ち上げた」 高市氏がSNSに投稿(ロイター) / 「投稿には具体的な説明がなく記者会見も行われていない。この投稿をめぐり説明不足との批判が起きている。」 / 高市首相、取材対応は少なく - 歴代と比べ、Xでは連日発信(共同) ← 失言がコワイ!

 

2026年3月29日日曜日

共同通信の記事から、「官邸筋は『エネルギー供給が滞れば重要影響事態と判断することはできる。検討の俎上には載った』と明かす」が削除された理由は? / 茂木や赤澤がアレコレ苦しい言い訳をしてイランとの交渉を進めない理由は? / これら全ては、高市早苗がトランプに「何を約束したのか」という疑問に収斂するのでは?

 




 

 

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〈全米3000都市超で「No Kings」抗議デモ、過去最大級の規模に〉 → 本日、行われた No Kings 抗議デモは米国史上最大規模に。 有名人の参加も目立ち、ブルース・スプリングスティーンがミネソタの ICE 暴力にちなんだ新曲を生演奏したり、ロバート・デ・ニーロ、ジェーン・フォンダ、バーニー・サンダースなど錚々たる著名人がスピーチしたり行進したり。 / 今回の抗議デモでもう一つ際立ったのは保守地盤への浸透。それもテキサス、フロリダ、オハイオなど大都市圏だけでなく、アイダホ、ワイオミング、ユタ、アラスカといった純粋な田舎にも。 / 一人一人が持参するお手製プラカードは、その時々の世情に沿った不満が見て取れて興味深いですが、今回はイラン戦争とエプスタイン文書に関するものが多く、下の 「戦争犯罪は性犯罪を帳消しにしない」も「イラン戦争はエプスタイン文書から注意を逸らす目的」という根強い不信を表現したもの。 / さらに「100人以上のイラン人女子生徒が死んだ。なぜ?」とアメリカの戦争犯罪に言及するものや、イラン戦争がアメリカがイスラエルの思惑に動かされていることを示唆する「イランに対する米国とイスラエルの戦争反対」というプラカードなどが目につきました。  

 

高市首相答弁に「二つの顔」強気のビジョンで攻撃し、巧みな防御は「テンプレ答弁」で 「女なので」には危うさ、熱狂よりも誠実な言葉の積み重ねを(47NEWS); 国会論戦をつぶさに追うと、高市首相の答弁にははっきりしたパターンが見て取れる。「サナエノミクス」など自身の政策を語るときには、大胆なビジョンを力強い言葉で示す。一方、追及が鋭くなると定型句のような言い回しを繰り返す。この二面性が、首相答弁の際立った特徴だ

 

高市早苗の二面性

 

鈴木農相「おこめ券 評価された」は大ウソ…配布したのは全国約1700自治体中たったの「29」(日刊ゲンダイ)

 

大杉栄とその時代年表(793) 1908(明治41)年7月16日~22日 「死場所を見つけねばならぬといふ考が、親孝行をしたいといふ哀しい希望と共に、今の自分の頭を石の如く重く圧してゐる。静かに考へうる境遇、そして親を養ふことの出来る境遇、今望む所はただそれだ。」(啄木日記)

 

石川啄󠄁木(1908年10月4日撮影)

大杉栄とその時代年表(792) 1908(明治41)年7月10日~16日 二葉亭四迷、ペテルブルク到着。「最初の予定と違い、大連やハルビンに逗留し、モスコウにも三日居たから、旅費が非常に嵩(かさ)んでしまった。未だ細かな勘定はしていないが、残りの高より推すと余り掛り過ぎたようだから、いくら約束で実際に掛っただけを社で出す筈とはいえ、ちょっといいにくい感があって、当惑している。しかし今更いかんともしがたい。有の儘に事情をいってやるつもりだ」(二葉亭の7月17日付妻・柳子宛手紙) より続く

1908(明治41)年

7月16日

(漱石)

「七月十六日(木)、松根東洋城・小宮豊隆来る。小宮豊隆泊る。洋服できたので、小宮豊隆に着せてみる。

七月十七日(金)、小宮豊隆泊る。中村蓊(古峡)宛手紙に、『東京朝日新聞』に掲載を希望している『回想』について心配りをする。

七月十八日(土)、小宮豊隆に第一銀行へ行って貰い、三千六百五十円を犬塚に渡す。第一銀行本店(推定) (京橋区兜町一番地、現・中央区日本橋兜町一丁目一番) の株を五十株貰って貰いたいとのことである。(「小宮豊隆覚え書」)午後、鏡は小宮豊隆に大学病院に連れていって貰う。夜、鏡とエイは小宮豊隆に、本郷座(本郷区春木町一丁目九番地)の活動写真に連れていって貰う。

七月十九日(日)、朝、小宮豊隆来る。「リウセイ」(不詳)を買って来る。」(荒正人、前掲書)


7月16日

「七月十六日――十七日

今日は千駄ヶ谷の歌会。十二時、綿入を着て出かけた。宿の傘は破れてゐる。雨が盛んに降る。

近所の空屋で催した。与謝野氏夫妻に平野、茅野、江南、中島、山城、松原、渡邊、藤條、間島、並木に予。並木君は僕が誘つて行つたのだ。其家にゐる青梅の女といふ人は、美しい快活な人であつた。アトで生田長江も来た。

(略)

晶子さんの歌に、“白刃もて我に迫れるけはしさの消えゆく人をあはれと思ふ”といふのがあつて与謝野氏は頭を掻いた。

九時少し過ぎて大方帰つた。残れるもの夫妻と平野と予と渡邊間島松原。与謝野氏の宅に移つて、予の発議で徹夜会を開いた。題三十五。一時少し過ぎて晶子さんと予と相ついでよみ上げた。アトの人は四時迄かかつた。清書して夜が明けた。(十七日)選んで飯を食つて公表。予の歌は一番よかつた。

十時頃湯に行つて、帰ると、眠い。・・・・・

(略)

障子を明けたまま、蚊やり香を焚いて枕についた。何となく頭の中に秋風の吹く心地だ。母が妻が恋しくなつた。独歩集を読んだ。ああ“牛肉と馬鈴薯”!

読んでは目を瞑り、目をつぶつては読みした。何とも云へず悲しかつた。明治の文人で一番予に似た人は独歩だ!

死にたいといふ考が湧いた。!

いつの間にか眠つたが、ふと目をさましてみると電車の音もきこえぬ。水の如き夜風が開け放した窓から吹き込んで、燈火の影がゆらめいてゐた。いかなる言葉を以ても、この自分の心の深いところをば言ひ表はす事が出来ぬ。だから死んだ方がよいと云ふ事を、半醒半眠のうちに念を押して二三度考へた。死ぬと考へながら、些とも其手段をとらぬ事を自分で疑つてもみた。老いたる母の顔が目に浮んだ。若し自分が死んだら! と思ふと、涙が流れた。泣いてるうちにまた眠つてしまつたらしい。………」(啄木日記)


7月18日

奉天巡撫唐紹儀、満州借款と清米独同盟交渉の訪米使節となる。

11月30日、訪米、12月2日、大統領と会見。

7月18日

若山牧水『海の声』。

7月19日

「社会新聞」社内の万国社会党支部の看板、治安警察法違反で掲出禁止。

7月19日

「七月十九日

(略)

死場所を見つけねばならぬといふ考が、親孝行をしたいといふ哀しい希望と共に、今の自分の頭を石の如く重く圧してゐる。静かに考へうる境遇、そして親を養ふことの出来る境遇、今望む所はただそれだ。

何事も自分の満心の興をひくものがない! ああ、生命に倦むといふのがこれかしら。何事も深い興がなく、極端な破壊――自殺――の考がチラチラと心を唆のかす。重い重い、冷たい圧迫が頭から去らぬ。

かなしい、痛ましい夜であつた。二時半頃まで眠れなかつた。」(啄木日記)

7月20日

「熊本評論」、赤旗事件被告(菅野須賀子・大須賀里子・神川松子・小暮れい子)に面会したところ、「着物や金子の差入はどうでも好い。入監以来受けし圧虐に対して、何とか復仇して戴きたい」と訴え。

同号に、竹内善作(赤旗事件に不参加で助かった)が、電車事件の逆転有罪に関して、「弁護士の都合にて、いかに延期を請願せるも、聴許せず。横田(大審院長)は、社会党を刑罰ぜめにすべし、と豪語しいたりと伝う」と書く。

7月21日

幸徳秋水、上京の途へ

この日、幡多郡の下田港発、高知港で乗り換えのため泊。

22日、高知港発、大阪・天保山桟橋で紀州航路の汽船に乗り継ぎ、24日夕方、勝浦港着。大石誠之助ら出迎え。この日は勝浦温泉泊。

7月21日

(漱石)

「七月二十一日(火)、春陽堂の編集者来る。『草合』の話かと思われる。鏡、筆を連れて、小宮豊隆の下宿に行く。 

七月二十三日(木)、宝生新、旅行に出たので、尾上始太郎(もとたろう)代りに来る。小宮豊隆来て泊る。郷里から小宮豊隆に何時帰るかという電報が来たので、二十五日(土)出発を打電したという。鏡は明日小宮豊隆に松根東洋城の許へ連れて行って貰う約束をする。

七月二十四日(金)、鏡は筆と共に小宮豊隆の下宿に行き、松根東洋城の所へ行くことを断る。小宮豊隆、鏡、筆と共に帰って来る。

(七月二十五日(土)、午前八時、小宮豊隆は新橋停車場から郷里へ出発する。池田菊苗、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許を得る。)


明治四十一年十一月十七日(火)これまで仮に「精味」と呼んで、試食してきた新調味料を「味の素」として、商標登録し、明治四十二年五月一日(土)に売り出される。池田菊苗は、明治四十年、昆布から「うま味」を取り出す研究を始める。「味の素」は、案外たやすく成功したと云っている。」(荒正人、前掲書)

7月22日

各章諮議局章程、議員選挙章程頒行。

7月22日

「七月二十二日

起きたのが十二時。下宿料の催促をうけた。心が暗くて、頭が少し痛く重い。

芳子の歌をなほした。

切手代用で来た金星会の会費を煙草に代へて来た。

いひ難き不安、いひ難き不快、冷たくも熱くもない様な悲痛の情。そして時々妙な怒りが胸の底から湧いて来る。

夕方から十時頃まで金田一君と語つた。幼い時の思出、新詩社の事、……新詩社は十月に百号を出してやめる事になつてゐる………

過去の思出に生きるとは何たる事であらう。


七月二十三日

(略)

十時頃から一時頃まで金田一君と語つた。・・・・・

自分は、真の真面目になれぬといふ苦痛を語つた。悲哀とか苦痛とか、自分らはそれを詩化し、弄ぶくせがあつて、悲哀の底苦痛の底にある“真面目”といふものに面相接する事が出来ぬ。自分は毎日心暗く、何の張合なく、何もせず悲しんで許りゐるし、身に迫る痛感の為に、死なうと許り考へてゐるが、然しながら、それでもまだ真に真に真面目に触れてゐない様な気がして仕様がない。

人生に倦んだだけなら(正宗の如く)まだよい。自分はすべて、一切、ありとあらゆるものが、苦痛だ。自分自身が苦痛だ。

ホヤが壊れた。三時までも眠れなかつた!!!"

七月二十四日

(略)

枕の上でかなしい思出に耽つた、妻も恋しく、妹も恋しい。何よりも、若かつた日の自分が恋しい。

・・・・・

今日は煙草がない。刻みの粉を五六服吸つたきり。

人間の慾といふものの、如何に強いかを、今日つくづくと知つた。此機を以て煙草をやめやうとも考へた。強いて、強いて煙草を忘れやうと、煙草入を隠して、枕を出して横になつた。そして遂に何事も考へず、何事もなさず、日のくれる迄喫煙慾と戦つた。

遂に敗けたらしい。夕飯を食ふと、すぐ袴を穿いて出懸けた。(単衣の尻の所が黒く汚れてゐるので、)そして弓町の平民書房に阿部君を訪ねた。この男も矢張一文なしであつた。

悄然として帰つて来ると、室の中が妙に味気なく見える。モウ何も売る物も質に入れるものもない。くすんだ顔をして椅子に凭れてゐると、一封の郵書。それは金星会の歌稿。添削料が一割増で三銭切手十一枚入つてゐた。うれしかつた。これを嬉しがる程の自分の境遇かと思ふと悲しかつた。

・・・・・

切手を敷嶋三つに代へて帰つた。ゆるやかな煙が限りなく目をたのしませる。

一寸と思つて金田一君の室に行つて、十時までゐた。・・・・・

眠らうと思つてランプを消した時、程近き寺に太鼓の音が聞え出した。遠くで四時の鐘が鳴つた。何処ともなく、涼しい蜩の声が暫し聞えて、窓の下を牛乳屋の草鞋穿の足音がした。」(啄木日記)


7月22日

インドの政治家ティラク、教唆扇動罪で裁判で6年の投獄。ビルマ・マンダレーに流刑。

23日 ボンベイの労働者、ティラク裁判に抗議して最初の政治スト。


つづく

2026年3月28日土曜日

自宅近くをサクラ散歩 2026-03-28

 3月28日(土)晴れ

晴れて暖かい。

お昼頃、自宅近くの桜のポイントをざっと歩いてきた。

平均的にはソメイヨシノは三分咲きか五分咲きくらいかな。

比較的よく咲いているところは、こんな↓感じ、、、

▼某巨大団地の中庭

これでもまだ全体的には60%くらいの感じ




▼センダイシダレ

▼八重枝垂れ桜

▼街中のソメイヨシノ


▼某マンションの前庭のソメイヨシノ

▼八重枝垂れ桜

▼大島桜

大杉栄とその時代年表(792) 1908(明治41)年7月10日~16日 二葉亭四迷、ペテルブルク到着。「最初の予定と違い、大連やハルビンに逗留し、モスコウにも三日居たから、旅費が非常に嵩(かさ)んでしまった。未だ細かな勘定はしていないが、残りの高より推すと余り掛り過ぎたようだから、いくら約束で実際に掛っただけを社で出す筈とはいえ、ちょっといいにくい感があって、当惑している。しかし今更いかんともしがたい。有の儘に事情をいってやるつもりだ」(二葉亭の7月17日付妻・柳子宛手紙)

 


大杉栄とその時代年表(791) 1908(明治41)年7月4日~9日 「金田一君と語つた。明治新思潮の流れといふ事に就いて、矢張時代の自覚の根源は高山樗牛の自覚にあつたと語つた。先覚者、その先覚者は然しまだ確たるものを攫まなかつた。……自分自身の心的閲歴に徴しても明らかである。樗牛に目をさまして、戦つて、敗れて、考へて、泣いて、結果は今の自然主義(広い意味に於ける)!」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

7月10日

与謝野晶子(30)歌集「常夏」(大倉書店)刊行

7月10日

ヘイケ・カメルリング・オネス(オランダの物理学者)、初のヘリウムの液化に成功

7月11日

『読売新聞』、「昨今夜の日比谷公園、堕落男女の野合場と化す。毎夜密行巡査十数人、醜行取締りに出動」と報ずる。

7月11日

慶應義塾大学野球部、ハワイに初遠征

7月12日

スラヴ会議開催。~17日、プラハ。

7月13日

第4回五輪、ロンドン、初の水泳競技。

7月14日

第2次桂太郎内閣成立。反動官僚軍閥内閣。桂蔵相兼任。

外相寺内正毅(臨時兼任)、内相平田東助(男爵、枢密院書記官長・法制局長官を歴任)、蔵相桂太郎(兼任)、陸相寺内正毅、海相齋藤實、法相岡部長職(子爵、実権は民刑局長兼大審院次席検事平沼騏一郎が掌握)、文相小松原英太郎、農商務相大浦兼武、逓信相後藤新平、内閣書記官長柴田家門、法制局長官安廣伴一郎。

政権授受において、天皇は桂で良いか、と元老たちの了解を取るが、元老会議は開かれず。元老の力は衰えていた。第2次桂内閣では、山県系官僚閥内で山県に準じる権力を持つようになった桂が独自性をかなり発揮するようになる。

復帰した内務省警保局長有松英義(内相平田東助の右腕)、個人的意見を発表。労働者にたいする社会政策と、学校教育による社会主義排斥と在郷軍人団の利用による国家思想の注入。社会主義は研究のみ認め、雑誌、新聞、演説は許可せず、ストライキは行政警察権で取締る。

7月14日

横浜市の糞尿汲取運搬人102人、請負人に対し賃上げを要求し同盟罷業(不貫徹)。

7月14日

午前10時、大審院で電車賃値上反対騒擾事件の上告審公判が開かれる。

17日、判決。上告棄却。西川光二郎が重禁錮2年。大杉栄、岡千代彦、山口孤剣、吉川守圀、樋口伝、松永敏太郎、増山伝吉は重禁錮1年6ヶ月。

7月中旬

幸徳秋水、クロポトキン「パンの略取」翻訳完成。中村

7月15日

「高原文学」創刊。編集兼発行人新村忠雄(21)。善光寺僧侶など同人。

7月15日

大蔵省、専売局現業員共済組合規則公布。

7月15日

尼港にて三重丸船員、ロシア護送兵と争闘、軍事裁判にて6名死刑を宣告。

7月15日

(露暦7月2日)二葉亭四迷、ペテルブルク到着。東京朝日新聞特派員。滞在中に結核を患い、明治42年9月、帰国途上で没。

二葉亭は、イギリス・ホテル(オテル・ダングルテール)に投宿。

ぺテルブルグの街区はほとんど3層~5層の高層建築で、ところどころに彼の目には「雲に入る程」と映る塔がそびえ、東京とはまるで違った面貌を呈している。

7月17日付、妻柳子への出発以来15通めの手紙に、「これから思うと銀座通りなどは見られたものにあらず、西洋人が日本をみくびるのも仕方なし」と書いた。7月16日、娘のせつ子にはじめて出した絵葉書には、「将来一家の主婦たる者は、或はかかる處に来る事もあるべし。よくこの絵葉書を見てよく考えて見るべし」と書いた。

しかし、彼は、「先進国」たるヨーロッパ・ロシア、なかんずくぺテルブルグの物価高には苦しんだ。イギリス・ホテルは1泊日本円にして5円、そのほかに食事代として1日5円くらいはかかる、と二葉亭は柳子にぼやいているが、7月17日にチェックアウトするとき計82ルーブリ30コペイカ支払ったから、その経費は1日あたり日本円で40円余におよんだ。

この日、持金をチェックしてみると、英ポンド建ての巡廻手形にした千円分を除けば、現金の残りは79ルーブリしかなかった。二葉亭が朝日の会計から受け取った1,850円(これは啄木が踏み倒した生涯の借金の総額と偶然一致する)のうち、100ポンドの小切手にした985円を差引いて、865円をルーブリに直したのだから、その額は828ルーブリである。ということは、二葉亭は東京での出発準備金と東京、神戸、大連、ハルビン、モスクワを経てぺテルブルグに達する旅費として、だいたい749ルーブリ、1円は0.96ルーブリなので、彼の月給の8ヵ月分、780円をこのひと月で消費した計算になる。


「最初の予定と違い、大連やハルビンに逗留し、モスコウにも三日居たから、旅費が非常に嵩(かさ)んでしまった。未だ細かな勘定はしていないが、残りの高より推すと余り掛り過ぎたようだから、いくら約束で実際に掛っただけを社で出す筈とはいえ、ちょっといいにくい感があって、当惑している。しかし今更いかんともしがたい。有の儘に事情をいってやるつもりだ」(7月17日付柳子宛書簡)


さんざん苦労して探した末、7月17日、シベリア・スタブリヤルイニ街の下宿に移る。月40ルーブリ、食事は夕食1回につき60コペイカという約束。食事の量が多いから朝はパンと茶と缶詰くらいで簡単に済ませ、夕食だけを頼んで1日2食にすれば食費は月にせいぜい20ルーブリ余、他にこの国では避けがたい下宿の門番、メイド、給仕、ボーイへの心づけが10ルーブリくらい、あわせて70ルーブリほどで暮らせるだろうと二葉亭は踏んだ。これは基本的生活費で、噂好品は含まれず交際費や活動費も勘定外である。

下宿は2方向に窓がある10畳くらいの広さのひと間で、片隅に屏風でかこった寝台があり、その屏風の陰に洗面台もあった。机、椅子、長椅子、大きな姿見が備えつけであった。東京でこの広さ、1日2食つきの下宿でせいぜい20円くらいだろうから、ぺテルブルグの物価は東京の3倍はゆうにあり、「それほど倹約せねばとてもやりきれ申さず」と二葉亭が嘆くのも当然だった。

二葉亭は、下宿に移ってからは、旅疲れと、慣れぬ外国暮らしのせいで、不眠症に悩まされはじめた。ひと晩中起きていて朝になってようやく床につく。午後2時から4時のあいだに起き出して、朝食として柳子に送ってもらい、税を払って受け取ったお茶を飲む。お茶に飽きるとココアにかえ、やがてコーヒーをたしなむようになった。晩の6時頃が昼食である。二葉亭は肉を嫌い、野菜を好んだ。ことに大根おろしをかけたタマゴ焼きとなまの胡瓜が好物だったという。

体調を徐々に崩しながらも、律義な二葉亭は仕事上の義務を果たそうとしつづけた。打電送稿控を見ると、明治41年10月には13本、計817語、11月には17本、計1,319語を送稿している。

原稿は全て日本文をローマ字に直して電報を打つ。1語11コペイカと推定すると、10月の打電費用は約90ルーブリ、11月は約145ルーブリである。12月には、深夜に500語という長大な電報を打ちに出掛けたこともあった。


「昨夜三時頃、ソリに乗って雪中を中央電信局へ駈けつけ、議会に於ける外務大臣の演説を五百語程打った。余り疲労した為昨夜は熟睡出来なかったが、しかしもう病気は大丈夫だ。今日の日曜は一日遊ぶ」 (12月27日朝8時付書簡、柳子宛)


国際情勢に鋭い観察眼を養った二葉亭だから、5年半後に起こる第一次世界大戦をすでに予見したごとくバルカン半島関係の情報収集に力を入れていて、その面目躍如である。

しかし、トルストイ80歳の祝賀会のようすから政府内部権力闘争の激化を予測した、「ストルイピンが敢て此文豪の寿を祝するを非とせず、唯之に托し政治的示威運動を為すを非とせるは、暗に教務院の措置を非難せる観あり、政府部内に激流の暗闘、刻々と急調を帯び来る如し」という9月10日ハルビン経由で打電した電報は、ようやく9月15日、東京朝日に掲載され、「ハルビン電報として非常の延着」と覚え帖に不満げな注記がある。二葉亭の電報はしばしばロンドン・タイムズ電に先を越され、池辺三山の懐旧によれば記事としてはあまり役に立たなかった。

二葉亭の不眠症はますますひどくなり、眠ろうと思うともう明るくなる。コニャックかウオッカをひっかけて、その勢いで眠るのだが、2時間もして酔いがさめるともう目がひらく。それ以後はいくら飲んでも駄目だ。3、4日こんな夜がつづいたあとのひと晩はぐっすり眠るのだが、つぎの日からまた眠れなくなって、おなじことを繰り返すばかりである。やがて、ネフスキー通りで卒倒しかけること4、5度におよぶほど体力の消耗ぶりが目立ってきた。大使館員たちも医者も帰国を勧める。自分でもいっそ辞職して帰ろうかと思ったが、せっかく「一万露里も踏み出して来て」「オメオメ帰れるものか」と思い直し、「一生懸命養生した」と二葉亭の明治42年1月4日付、渋川玄耳宛の手紙にはある。

7月16日

「七月十六日(木)、松根東洋城・小宮豊隆来る。小宮豊隆泊る。洋服できたので、小宮豊隆に着せてみる。

七月十七日(金)、小宮豊隆泊る。中村蓊(古峡)宛手紙に、『東京朝日新聞』に掲載を希望している『回想』について心配りをする。

七月十八日(土)、小宮豊隆に第一銀行へ行って貰い、三千六百五十円を犬塚に渡す。第一銀行本店(推定) (京橋区兜町一番地、現・中央区日本橋兜町一丁目一番) の株を五十株貰って貰いたいとのことである。(「小宮豊隆覚え書」)午後、鏡は小宮豊隆に大学病院に連れていって貰う。夜、鏡とエイは小宮豊隆に、本郷座(本郷区春木町一丁目九番地)の活動写真に連れていって貰う。

七月十九日(日)、朝、小宮豊隆来る。「リウセイ」(不詳)を買って来る。」(荒正人、前掲書)


つづく