2026年4月29日水曜日

戦争でトランプファミリーに巨額利益 腐敗した文化で咲き誇る“トランプの黒い花”【報道1930】(TBS);「大統領の決定に直接影響される出来事を巡って…大きな利益を得ている」 「南北戦争以来、大統領の公的職務とこれほど重大な個人的な金融上の利益相反を抱えた大統領は存在しない」 「アメリカの腐敗した文化の中でトランプの黒い花が咲き誇っている」 

 

トランプ大統領の肖像描いた限定パスポート交付へ 建国250周年を記念 米国務省(TBS) / 「すでにパスポート更新をしておいたよかった」と喜ぶ姪のメアリ・トランプ

 

▼間違ってます!

 

大杉栄とその時代年表(813) 1908(明治41)年12月6日~9日 「僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ」(入獄中の堺利彦の妻為子宛手紙)

 


大杉栄とその時代年表(812) 1908(明治41)年12月1日~5日 大石誠之助、12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。

1908(明治41)年

12月6日

「十二月六日。

(略)

午後一時、三秀舎へ行つて、少し直すところがあるので“赤痢”の原稿を持つて来た。門の前で、吉井君。入つて話してると、二時頃、女中が来て“先夜の方が”といふ。小奴だ。別室に通しておいて室に戻つてくると、吉井はすぐ帰つた。奴をつれて来て、夕方まで話す。突然平野君が来て半時間許りゐて帰つた。

それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行つて、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとつて歩いた。小奴は小声に唄をうたひ乍ら予にもたれて歩く。大都の巷を――。俥で鈴本へ行つて、九時共に帰宿、金田一君を呼んで、三人でビールを抜き、ソバを喰つた。

十二時に帰した。通りまで送つた。


十二月七日

(略)

日本橋から今日来てくれとの電話。予は先頃から電話をかけることをおぼえた。どうも変なものだ。

夕方一寸平野君。

飯がすむと日本橋へ行つた。(お待兼でムいます。)と女中が階子口で言つた。奴は八畳間に唯一人、(逸身氏は大坂に行つて了つたのだ。)寂し相に火鉢の前に坐つてゐた。イキな染分の荒い縞お召の衣服。

共に銀坐に散歩した。奴は造花を買つた。

それからまた宿に帰つて、スシを喰ひ乍ら悲しき身の上の相談――逸身の妾になれ、と勧めた

十一時、言ひがたき哀愁を抱いて一人電車で帰つた。


十二月八日

(略)

電話、昴の用で来てくれと平野君から。

二人で平出君許へ行つて、ハガキ広告をやるその台帳のハガキを分類した。・・・・・

夕方三人で三秀舎にゆき、それから予の許に来ることにして、電車。菊坂町でビールをのみ、洋食二三皿を食つて帰宿、三人で色々“昴”の話。

(略) 」(啄木日記)

12月7日

内閣、公文書にインキの使用を認める。

12月8日

平賀譲、6月30日英国海軍大学校造船科卒業(3年の留学修了)し、仏伊の造船所視察などのあと、この日ロンドン出港。

12月8日

(漱石)

「十二月八日(火)、昼から夜にかけて、体不調である。

十二月十日(木) (推定)、午前四時過ぎ、鏡の枕許で女中が腰を抜かし、震え声で何か叫んでいる。火事と思い飛起きると、泥棒だという。鏡と共に(推定)次の部屋に行ってみると、箪笥が開放しになっている。台所口に出てみると雨戸が外れ空には寒月が輝いている。泥棒は騒がれて中途で逃げたのである。夜が明けてから警察に届ける。刑事が来る。帯ばかり十本盗まれたと判明する。(翌年夏頃になって、鏡の帯だけが質屋から発見され、二、三年後に、犯人は市が谷監獄あたりの監視だとわかる。(鏡))」(荒正人、前掲書)


12月9日

1908年12月9日付堺利彦(赤旗事件で入獄中)の妻・為子宛書簡

(宛先は妻の為子だが、内容は娘の真柄に宛てたもの)

○真柄よ、おまえは加藤のオバさんに可愛がられて居るだらう、お前には静岡のカアちゃんだの姉さんだの、東京のカアちゃんだの、保子のオバさんだの、勝ちやんだの、延岡のオヂさんだの、大杉のオヂさんだの、可愛がつて呉れる人が沢山あるのに、今度は又加藤のオバさんだのオヂさんだのが出来たのだからホントにいゝね、それに神奈川はいゝ処でせう、体の善くなったでせう

(「静岡のカアちゃん」は堺利彦のいとこの篠田良子、「勝ちやん」は真柄の乳母で為子の弟の常太郎と結婚した延岡かつ、「延岡のオヂさん」は常太郎)


5歳の真柄を抱えていては、為子が働くのはむずかしい。そこで、しばらく加藤時次郎夫妻に預かってもらうことになった。真柄は生母の美知子が没した後、堺のいとこに預けられ、堺が為子と再婚した後に引きとられたが、また加藤家に預けられた。

赤旗事件で夫が入獄すると、為子は着物などを売って溜まっていた家賃を払い、淀橋町柏木の下宿に引っ越す。そこには、堺と一緒に入獄した大杉栄の妻の堀保子も同居した。

真柄を加藤家に預かってもらうと、為子は知人が編集している『鉄道時報』の広告取りをしてわずかな収入を得た。さらに、髪結いが繁盛しているのを見てこれをやろうと思いつく。髪の結い方を十日くらいで教えてほしいとその髪結いに頼むが、相手にしてくれない。それでもあきらめずにじっと見ていると、とにかく客を取ってやってみればいいと勧められた。そこで、思い切って四谷伝馬町に家を見つけて髪結いの看板を出す。客を練習台に使うようなもので、料金は半額にした。

慣れてくると次第に客もつくようになり、為子はその合間に針仕事をし、広告取りの仕事もして、なんとかやっていけるようになる。その後、加藤家から真柄を引き取り、四谷伝馬町の家で夫の帰りを待ち続けた。秋水ら同志たちもしばしば為子を見舞った。

為子によれば、有楽町平民社時代からの支援者である逸見(へんみ)斧吉・菊枝夫妻と小泉三申がさまざまな支援をし、毎月の家賃を補助してくれたという。

堺は「日本社会主義運動史話」で逸見斧吉を「先々代が大庄屋で、天明の飢饉の時、悉く其の倉廩(そうりん)を開いて窮民を賑はし、一族にも勧告して之に倣はしめ、聴かざる者には親戚の交りを絶ったといふ美談が、その孫の青年に感化を及ぼしたのであった。金鵄ミルク逸見三陽堂の主人」と紹介している。

このように健気な妻の為子に、堺は獄中から心のこもった言葉を書き送っている。身辺雑記に加え、健康状態なども為子に心配をかけないようにユーモアたっぷりに書いている。


僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅(さんじゆう)歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ、尤も成熟してドンナ色が付くものか、ドンナ味が出るものか知らぬが、大体僕は楓の紅葉よりも銀杏の黄葉を愛する、熟柿よりもカチ粟を好む、薩摩芋よりも大根を望む、それは兎もあれ何でも一ツ面白い秋の夕日に照されて見たいものだナ(中略)

○君の職業はうまく行くか、世間の批評など意に介する勿れ、只大胆に忠実に勤勉に働き玉へ

当時、獄中から出せる書簡は2ヶ月に1通に制限され、外から届く手紙も同じだった。それだけに極小文字で、可能な限り多くの情報をつめこもうとした。文面は検閲されている。為子によれば、外部から獄中へ出す手紙は、1通でさえあれば長さは問われなかったので、「日々の手紙を巻紙にして次々に長く長く書いて出した」という。

堺の獄中書簡にはどれをとっても、差し入れを希望する大量の本のリストが書かれている。洋書がほとんどで、原題が英語やドイツ語で書かれている横に、日本語に訳した書名が小さく添えられている。

堺は千葉監獄にいる間にドイツ語を習得し、フランス語の勉強にも手をつけ、読むべき本を片端から読破するという計画を立てていた。第一高等中学校を中退後、堺はずっと独学で知識を身につけてきた。彼にとっての最良の教師は書籍だった。そのため、堺は本に関してだけは贅沢することを自分に許し、丸善で高価な洋書を購入することもあった。

獄中書簡はすべて妻の為子宛だが、娘の真柄や同志たちへのメッセージも書きこまれている。この手紙を見せてほしい、と相手の名前を挙げて頼んでいる場合もあれば、伝言してほしい、と書いていることもある。2ヶ月に1度の手紙は、獄中と外の世界とを結ぶかけがえのない通信手段だった。

〈黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』より〉


12月9日

独議会、工場労働法制定、13歳未満年少者の労働禁止


つづく

2026年4月28日火曜日

1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され、日本は「独立」したとされるが、当時の人々の受け止め方は冷ややかだったようだ。矢部貞治は「独立の日章旗がはためいているが、形だけだ」と日記に書き、野上彌生子も「結局アメ一辺倒で準属国の地位がきまったに過ぎない」と記している。

 

北川健太郎元大阪地検検事正から性被害を受けた女性検事が第三者委員会設置を拒否され辞職へ ; 北川健太郎元大阪地検検事正から2018年に準強制性交被害を受けた女性検事が、第三者委員会の設置を検察に求めたが「応じられない」と拒否された。被害者の実名を漏洩した女性副検事は不起訴処分となり、組織による二次被害が発生した。女性検事は辞表を提出し、7年半の闘いの末に辞職を決意した。 / 被告は初公判で起訴内容を認め謝罪したが、その後無罪主張に転じた。 / この北川氏、「大阪地検検事正時代には、学校法人『森友学園』を巡る国有地売却に関する決裁文書改ざん問題の捜査を指揮し、元国税庁長官らを不起訴とした」人 

 


【泥沼】元検事正(66)に性的暴行された女性検事、辞表提出へ


・2018年、酔った女性検事に北川健太郎元検事正が「これで俺の女だ」と言いながら性的暴行

・北川元検事正は被害女性に「時効まで食事をご馳走する」などと話し、書面で「公になれば私は生きていけない。自死するしかない」と口止め。 

・北川元検事正は定年前に退官

・2024年、被害女性はPTSDと診断され検察幹部に相談、検察当局が北川被告を逮捕・起訴。北川被告は起訴事実を認める

・担当弁護士が代わり一転、北川被告は無罪を主張する方針へ

・2026年、女性検事が『第三者委員会の設置と調査の実施を求める要望書』を法務大臣宛に提出、「応じられない」との回答があったため「仕事を続けたいが環境が整わない以上は戻れない」として検察庁に辞表を提出へ


これで元検事正が無罪になったら法務省も検察も司法も闇でしかないな…

 

横浜鯉のぼり散歩 舞岡川と舞岡公園の鯉のぼり(横浜市戸塚区) イチハツ キショウブ 「きじま うお三昧」でランチ 2026-04-28

 4月28日(火)晴れ

今日は、毎年恒例の舞岡川と舞岡公園(横浜市戸塚区)の鯉のぼりを見に行った。

舞岡川の方は、正式には「舞岡鯉のぼりフェスタ」と呼ぶそうで、今年で17回だそうだ。こちらは、個体は小さいが数は多い。




▼舞岡公園

里山を公園にして、古民家を移築したり、ボランティアの方による田圃(米作)の共同運営などをやっておられる。

モミジ山もあるので、今のこの時期と秋の紅葉期によく行っている。

ここには、2ヶ所に大きな鯉のぼりが泳いでいる。



▼道すがらに見つけたイチハツ(あやめ)とキショウブ


帰りは、戸塚駅に出て、駅前の「きじま うお三昧」でランチ。



2026年4月27日月曜日

日本の武器輸出が「落ちぶれ」にほかならない理由(冷泉彰彦 ニューズウィーク日本版);<世界の民生品市場で完敗した日本の財界は、二次リーグである官需、その中でも武器輸出に頼ろうとしている>


 【日本は世界の民生品市場で完敗した】

まず武器輸出には大きなデメリットがあります。

(1)同盟国、同志国にしか売れないので市場に制約がある

(2)軍需に囲い込まれると、素材、回路、ソフト、製造方法、品質管理などといった、

https://newsweekjapan.jp/articles/-/320368?page=2

民生用でもっと大きな経済的成功の潜在能力のある技術が、機密の黒塗りの世界に入ってしまい、成長ポテンシャルが損なわれる

(3)命がかかっているので、ユーザーは自分でメンテしたがる。なので、売ったらそれでおしまい

(4)競争原理や市場の洗礼を受けにくいので、実は技術的に遅れてしまっていても気づきにくい

(5)軍需で有名になると、そのブランドが反対派や非同盟国にとっては著しくイメージが悪化し、マイナスの経済効果がある

(6)ユーザー側は極めて政治的な官需であるので、往々にしてその国の政争に巻き込まれたり、贈収賄トラブルに巻き込まれる危険がある

この中で特に重要なのは(1)(2)であり、昭和の日本はこのことを理解していたので、民生品に特化した製造業を全方位外交にもアシストしてもらって、世界を制覇することができたわけです。

では、こんなに弊害があるのに、どうして昨今は、財界や多くのメーカーの間で、軍需への期待があるのかというと、次のような理由からです。

「若い世代を中心とした世界の消費者ニーズを理解できなくなり、民生品の競争力が崩壊した」

「ロボットの高度化により、英語のできる理系人材を多数揃えないとデバイスの大量生産はできないが、教育のミスマッチのために人材を用意できない」

「先端産業が巨大化する中で、大規模な資金を集めてリスクを取れる経営がないと、半導体やAIの開発競争に加われない」

「空洞化が国内経済を破壊することを十分に理解せず、ホイホイと海外生産を展開して、気づいたら製造技術や品質管理を丸ごと盗まれた」

つまり、世界の巨大な民生品市場で完敗したので、二次リーグである官需に頼るようになり、その中でも一品一品を手作りする旧技術で何とかなり、比較的単価の高い定価販売ができる武器輸出に頼ろうとしているのです。



松尾貴史のちょっと違和感:デモへの「ごっこ遊び」発言 一般市民を見下しているのでは(毎日); 政治家の意識の劣化がひどくなっているのだろうか、それとも発言の主が劣悪なだけなのだろうか。自民党の門寛子衆院議員は今月、 戦争や改憲に反対し国会周辺で行われたデモ活動について「それで政権は変わらないですよね。なのにそういう手段をとってやった気になっている」「ごっこ遊びにしか見えないんですよ」とデモで意思表示をする市民をあざ笑うかのような発言をした。それも個人的な飲み会などではなく、インターネット番組で放ったのだ。

〈「目詰まり」はその場しのぎの言い訳だったのか〉 → 24年コメ生産「32万トン不足」、流通の目詰まり確認されず 農水省(日経);〈24年産の生産量は679万トンで、需要に対して生産が32万トン不足した計算になる。価格高騰は「流通の目詰まり」ではなく生産不足が招いた可能性が高い〉

 

大杉栄とその時代年表(812) 1908(明治41)年12月1日~5日 大石誠之助、12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。

 

大石誠之助

大杉栄とその時代年表(811) 1908(明治41)年11月14日~30日 11月25日、熊本の松尾卯一太、幸徳訪問。「熊本評論」再建の相談。19日の大石誠之助の幸徳訪問と併せて、「熊本の主義者の巨魁と和歌山の巨魁」の集合(11月謀議)とされる。(松尾は死刑、松尾が熊本に戻って秋水の話を伝えた新美卯一郎も死刑、佐々木道元と飛松与次郎が無期懲役になる) より続く

1908(明治41)年

12月

逓信省、東京の受渡線路、主要市内伝送線路に自動車の使用開始。

12月

3月11日に休業した京都府の第四十九銀行、京都商工銀行へ買収される。

12月

(漱石)

「十二月(推定) (日不詳)、新渡戸稲造に逢う。新渡戸稲造は、初めてと思っていたが、明治十六年(一八八三)成立学舎で隣席にいたことを話す。」(荒正人、前掲書)

12月

アンリ・マチス(39)、ベルリンのパウル・カッシラーの画廊の展覧会に出品、不評。『画家のノート』を『ラ・グランド・ルヴュ』誌に発表。

12月

トロツキー、「民族的心理か階級的観点か」。オーストリア社会民主党の排外主義批判(国際部責任者はロイトナー)。

12月1日

東京の数寄屋橋際に高等演芸所(有楽座)開場式。客席を全て椅子とするなど洋風劇場のさきがけ。1923年9月、関東大震災で焼失。

12月1日

改正軍隊内務書改訂(軍隊家庭主義強調)。公示。

12月1日

東京米穀、東京商品両取引所合併。(株)東京米穀商品取引所と改称。

12月1日

(漱石)

「(十二月一日(火)、『朝日新聞』二千号記念して、森田草平『煤煙』の予告する。予告の文は、白仁三郎(坂元雪鳥)が書く。)

(十二月二日(水)、鈴木三重吉、加計正文宛手紙に、夏目先生よりは相變らず父のやうにして貰ふ」とある。中村蓊(古峡)『回想』完結する。)

十二月三日(木)、午前六時頃、伝通院失火、本堂全焼する。

十二月初め、『文學評論』の訂正完了する。訂正に熱中していた時、頭痺れるように疲れる。

十二月初め (日不詳)、エィ、腸チフスよくなり、看護婦を帰す。

(十二月上旬 (日不詳)、森田草平、平塚明子宛手紙で、夏目漱石の紹介で明治四十二年元旦から、『煤煙』掲載されると伝える。)

(上田敏(本郷区西片町十番地)の許に、石川啄木・吉井勇・平野万里・栗山茂ら訪ねる。)」(荒正人、前掲書)

12月1日

釧路の小奴、逸見豊之輔と上京、啄木を蓋平館に訪ねる。

啄木、この月、平野万里と「スバル」創刊号の準備にあたる。誌名は森鴎外の意見による。


「十二月一日

遂に今年も十二月となつた。

一昨日原稿がおそかつたので、今朝は新聞の小説休載。

“赤痢”また稿を改めて書き出した。それで一日は短かく暮れた。

六時半頃のことだ。女中が来て、日本橋から使が来たといふ。誰かと思つて行つて見ると、俥夫が門口に立つてゐる。誰からと聞くと、一寸外へ出てくれといふ。

“釧路から来たものだと言つてくれ。”

といふ女声が聞えた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。黒綾のコートを着た小奴が立つてるではないか!

“ヤア!”

と言つたきり、暫くは二の句をつげなかつた。俥を返して入つた。

或る客につれられて来たので日本橋二丁目の蓬莱屋に泊つてるといふ。予は唯意外の事にサツパリ解らなかつた。

釧路の変動をきいた。小奴は、予が立つて以来、ウント暴れたといふ。日景が予の悪口をいひ、毎日の様に小奴のことを新聞に出したといふ。市子は鹿島屋を出て、家から通つてるといふ。市子と親しくしてるといふ。

予に嘗てエハガキを寄こした時は、福本といふ人に頼んで住所を探つて貰つたのだといふ。

散歩しようと言つて二人出た。本郷の通りで予が莨を買つてる間に一寸見えなくなつた。“狐だ!”と予は実際思つた。二十間許り彼方に待つてゐた。

それから三丁目から上野まで、不忍池の畔を手をとつて歩いた。ステーシヨン前から電車、浅草に行つてソバ屋に上つた。二本の銚子に予はスツカリ――釧路を去つて以来初めての位――酔つた。九時半、そこを出て、再び手をとり合つて十町許りもあるいた。

予の心は淘とした!

唯、淘とした!

上野から電車、宿屋まで送つてまた電車で帰つた。羽織の紐の環を一つ残した程酔つた。別れる時キツスした。

(略)」(啄木日記)


12月1日

新宮の医師大石誠之助、幸徳を訪問後、京都に一泊し、11月29日、大阪着。常宿にしていた和歌山県人経営の西区の「村上旅館」に投宿。

12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(えいいちろう、会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、実は司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。


帰郷後、大石は、翌明治42年1月下旬の旧正月のころに新年会を催し、そこに成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)の泉昌寺の留守居僧、臨済宗妙心寺派、崎久保誓一の4人が参加した。この新年会も謀議の教宣の場とされる。


大逆事件は「三つの事実」を強引に一つの事件として関連づけ、社会主義者による天皇殺害計画としてフレームアップしたものだった。

その「三つの事実」の第一は、宮下らが天皇への爆裂弾テロを計画したこと、第二はこの年11月に上京した大石誠之助が巣鴨平民社を訪れて、秋水と森近運平と3人で会談したこと、第三は過激な秘密パンフレットを作成した内山愚童が、関西の同志たちを訪ね歩いたことである。

12月2日

清国の光緒帝(11月14日)と西大后の死去(11月15日)を受け、光緒帝の甥溥儀(3)、宣統帝として即位。父醇親王載灃、摂政。


12月2日

「十二月二日

(七)の三。

昼食がすむと、日本橋に坪仁子の宿を訪うた。座にゐたのは大阪炭鉱の逸身豊之輔、函館の奥村某――小奴は予の後に座つてゐた。三時頃異様な感情を抱いて帰つた。

(略)

夜、アテにならぬ約にほだされて、殆んど何も手につかなかつた!

予の心の平和は撹乱された。ああ、この日終日顔が上気してゐた。そして、何となく落付かなかつた。

九時頃遂に堪へがたくなつて一人出て、パラダイスで麦酒を一本のんで、赤くなつて来て寝た。

(略)


十二月三日

八時頃目がさめた。宮崎君から久振の手紙。

(八)の一。

“赤痢”をかいてると、一時頃平野君が来た。今日は平出君の宅に“昴”の談話会

一緒に出て、予一人千駄ヶ谷に行つた。吉井君がゐ合せた。与謝野氏とは一ケ月ぶり。ヒゲを生してゐる。

二時間許り楽しく話して帰つた。平出君の宅には、石井柏亭君、(一字欠)君、太田君、北原君、平野君、あとで吉井君も来た。予は六時に辞して帰つた。何のため?

昨夜の気持をくり返した! 金田一君の室に行つたため、外出はしなかつたが、十一時すぎまでゐた。

(略)


十二月四日

午前六時半平野君が昴の原稿催促に来たがまだ出来てゐない。すぐ起きて寒さにふるへながら“赤痢”の稿をついだ。午後一時までで一行隔四十枚煙草も忘れて執筆、脱稿。すぐ車夫に持たして平出君宅まで届けた。

それから八の二。書き終るところへ太田君が来た。

太田君と小奴の話をした。

今日は実に満足な日であつた。・・・・・」(啄木日記)

12月2日

満州借款と清米独同盟交渉の訪米使節として訪米(11月30日)した奉天巡撫唐紹儀、大統領と会見。

12月4日

ロンドン海事会議開催。強大な海軍を保有する10ヵ国、参加。海戦法規に関する協定。批准に至らず。

12月5日

鉄道院官制公布。総裁後藤新平、内閣に直属、帝国鉄道庁、逓信省鉄道局、廃止。


つづく