2026年2月16日月曜日

アメリカ国土安全保障省は、Google、Reddit、Discord、FacebookとInstagramを所有するMetaなどに、ICEを批判するSNSアカウントのメアド、電話番号、その他のデータの提出を命じた。X(ツイッター)はとっくに提出済だろう。もはや移民かどうか関係なくすべての反トランプのアメリカ住民が監視の対象になる。(町山智浩)

ほぼ全ての新聞が消えていく...ニュースメディア衰退の背景にある「根深い要因」(ニューズウィーク日本版) / 大規模リストラのワシントン・ポスト メディア苦境とベゾス氏の変化(朝日) / ワシントンポスト凋落とNYタイムズ独走の理由 (津山恵子); 米メディア界を揺るがしたワシントン・ポストの大量解雇。かつての栄光から一転、なぜ「崖っぷち」に立たされたのか。読者離れやAI導入の迷走、ベゾス体制下の誤算を徹底分析。ニューヨーク・タイムズとの決定的な差を浮き彫りにし、メディアの未来を考察する。

 

<社説>首相の改憲意欲 多数派の強行許されぬ:北海道新聞デジタル 「憲法を変えなければ国が行き詰まるほどの重大問題に直面しているわけではない。数の力と『改革』のムードに流されるような改憲論議は危うい」 / 選挙期間中、「改憲」については街頭では一度もなく、上越市での支持者を集めた演説会で一回触れたきり。 / NHKの党首討論はトンヅラだし!  

「政治系のショート動画作成で月収400万円」 高市旋風を生み出したのは広告動画だけではなかった 「政治的な立場から応援しているわけではない」(デイリー新潮) / 「選挙中、最も収益の上がるコンテンツは高市氏を絶賛する動画だった。2週間で100万円堅く稼げる」自民党へはポジティブ投稿、中道へはネガティブ投稿。 / “飲み代のために選挙動画”も?広告は倍に? SNS選挙で何が(NHK) / 「毎日目にして親近感」SNSの高市首相人気、自民大勝の一因か…公示後フォロワー急増で他党首圧倒・動画再生回数も(読売)   

大杉栄とその時代年表(756) 1907(明治40)年10月20日~31日 第1回文部省美術展覧会(「文展」)開催。上野勧業博物館、~11月20日 日本画99点、西洋画91、彫刻16。新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。

 

新海竹太郎《ゆあみ》(重要文化財 東京国立近代美術館)

大杉栄とその時代年表(755) 1907(明治40)年10月1日~19日 嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

1907(明治40)年

10月20日

(漱石)

「十月二十日(日)、外出中、狩野亨吉訪れ、人形と石を土産にくれる。

十月二十四日 (木)、佐瀬武雄(蘭舟)の『葦切』(原稿)を読む。

十月二十五日 (金)、佐瀬武雄(蘭舟)宛手紙に、『葦切』の感想その他を伝える。

〔文部省第一回美術展覧会、上野竹の台(上野公園)で開催する。「文展」と称す。〕

十月二十六日 (土)、「『草雲雀』序」書く。

十月二十八日 (月)、『虞美人草』、『大阪朝日新聞』の連載終る。

十月二十九日 (火)、『虞美人草』、『東京朝日新聞』の連載終る。

『虞美人草』切抜帖の終りに、「秋の蚊の鳴かずなりたる書斎かな」と詠む。

十月三十日 (水)、『虞美人草』の出版、隆文堂と春陽豊激しく競合い、春陽堂に決まる。


『草雲雀』;森田草平・生田長江・川下江村共箸。三人は、明治三十九年七月東京帝国大学を同時に卒業。森田草平は英文学科、生田長江は哲学科、川下江村は独文学科である。在学中から、『明星』や『芸苑』に執筆していた。文学的傾向も似ていた。川下江村は卒業後一年で死去する。」(荒正人、前掲書)

10月22日

米、金融恐慌が始まる.

10月24日

 ジョン・ピアポント・モルガン、エドワード・ヘンリー・ハリマン、ジェームズ・スティルマン、ヘンリー・クレー・フリックおよび他のウォールストリートの銀行家が、1907年の銀行パニックの舞台となっていたニューヨーク証券取引所の急落する株価へ投資するべく2500万ドルのプールを作成し、アメリカの金融危機を防ぐ。

10月25日

上野勧業博物館、第1回文部省美術展覧会(「文展」)、開催。~11月20日

日本画99点、西洋画91、彫刻16。公募展、優秀作品は政府が買い上げ。

新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。

帝大教授、美学者の大塚保治、東京美術学校校長正木直彦、東京美術学校校の西洋画科教授黒田清輝などが開催に尽力する。

正木直彦『回顧70年』

文部官僚として渡欧した際に牧野伸顕からその計画を聞いたときのことを振り返って、

「明治33年にドイツに居ったとき、私は岡田良平、福原鐐二郎とともにオーストリアを訪ねたことがあった。その時、オーストリアの公使は牧野伸顕さんで、イタリアから転じられたばかりのところであった。会って話してみると、大層美術のことに趣味を持っておられ、かつ欧米各国の美術施設にも精通していることが分かった。

(略)

しきりに日本に於いても文部省あたりで、美術の奨励法を講ずべきであると力説せられ、それについてはフランスのサロンの如きものを文部省が主催すべきである、と述べられたのであった。もちろん我々はこれに大いに賛意を表し、共々この実現に努むべきことを約したのであった。」


文展開催のニュースは、日本の画壇を盛り上げたが、審査委員の選考では紛糾した。

帝大総長の浜尾新(はまおあらた)、京都高等工芸学校校長の中沢岩太(なかざわいわた)、正木直彦、黒田清輝らが選考にあたり、まず日本画の大家橋本雅邦の名前が挙がった。

審査委員の打診を受けた橋本雅邦は、東京美術学校を退職して日本美術院を設立していた「岡倉天心が参加するなら受ける」と答えた。岡倉天心はその突出した才能から、東京美術学校で排斥運動がおこったという経緯があり、危惧されたが、岡倉天心の先輩にあたる中沢岩太が「岡倉なら吾輩が抑えつける」とフォローにまわった。

岡倉天心は東京美術学校から日本美術院へと率いてきた「下村観山と横山大観も審査委員にするなら受ける」と答え、そうなると「東京の人数が多いから、京都の人数をもっと」と中沢岩太が言い出す。ここに見える日本画の派閥争いは、のちに文展の解散にもつながっている。

展示は、日本画、洋画、彫刻の3部門からなり、日本画では京都の竹内栖鳳の六曲一双の屏風「雨霽(あまばれ)」、東京の下村観山が出品した二曲一双の屏風「木の間の秋」、寺崎広業の「大仏開眼」などが評判となる。

洋画では無名の新人(和田三造「南風(なんぷう)」)が2等賞(最高賞)をとって話題をさらう。20代半ばだった和田三造は雑誌のインタビューに答えて、「こう責任を負うては将来が困ります」と戸惑いを見せた。

「前夜には文部大臣の招待で帝国ホテルへ行ったが、イヤハヤ大苦しみ。コンな目に逢ったのは産まれて初めてです。私はご覧の通りの日本服で、従来洋服と云ふものを着たことがない。当夜も此儘で行くつもりでしたが先生(黒田清輝)のたってのすすめで、洋服の借り着です。靴が小さくて痛いのには非常に弱りました。」

なお、1908(明治41)年開催の第2回文展では、前年に東京美術学校を卒業したばかりの朝倉文夫「闇」が彫刻部門の2等賞をとり頭角をあらわし、第3回で「山から来た男」で3等賞をとって評判を確かなものにした。

美術界を活気づけ、後世に残る多くの作品を世に送りだした文展だったが、審査委員の分裂が顕著になり1918(大正7)年に幕を閉じる。

翌年からは、文部大臣の管理下に新設された帝国美術院が主催する帝国美術院展(帝展)がスタート。帝展では審査委員は帝国美術院が推薦し、内閣が任命する中堅作家と決められていた。

10月27日

幸徳秋水、老母多治子・妻千代子と帰郷。

29日、梅田着。老母を親戚にあずけ富山(妻千代子の姉須賀子の嫁ぎ先富山地検判事松本安蔵)に向かう。

11月1日、大阪に戻る。

10月28日

現役歩兵科兵卒の帰休に関する件公布。歩兵科兵役を3年から2年制に改訂。即日施行。

10月30日

二葉亭四迷「平凡」(「東京朝日」、~12月31日、62回)

二葉亭四迷『平凡』(青空文庫)

10月30日

野口雨情、岩泉主筆のために小樽日報社を追われ、31日退社する。啄木は主筆の懐柔策で月給25円に増俸され、三両の主任となるも、秘かに主筆排斥を画す。

10月30日

平野謙、生まれる

10月31日

ハワイのセントルイス野球団来日。~11月19日。東京芝三田の綱町グランドで慶応大学と対戦。初めて入場料を徴収。


つづく


2026年2月15日日曜日

エプスタイン問題、米ゴールドマン幹部ルームラー氏が辞任へ(日経) / ゴールドマン・サックスと「エプスタイン文書」の余波(宮野宏樹) /  ゴールドマン法務トップ辞意でも、ソロモンCEOの擁護姿勢が社内に波紋(NewsPicks) / エプスタイン関連ファイルによれば、彼女はその小児性愛者の首謀者を「アンクル・ジェフリー」と呼び、「彼のことが大好き(I ADORE him)」とまで絶賛していたうえ、彼から高級ギフト(エルメスのバッグ、1万ドルのカード、毛皮のコート)を受け取っていたという。    

地元紙・神戸新聞が検証…”インフルエンサー”中田敦彦の言動が兵庫県知事選に及ぼした「影響力」 | FRIDAYデジタル

大杉栄とその時代年表(755) 1907(明治40)年10月1日~19日 嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

 

明石元二郎

大杉栄とその時代年表(754) 1907(明治40)年10月 〈7年間のウィーン滞在中にトロツキーが知り合いになった人々〉 「リープクネヒトは教養あるマルクス主義者だったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直観、大衆と状況に対するカン、イニシアチブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそは革命家だった。まさにそれゆえ、彼は、官僚的単調さが支配し何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ばよそ者であった。いかに多くの俗物と下劣な連中がリープクネヒトを皮肉な目で見下すのを、この目で見てきたことか!。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1907(明治40)年

10月1日

服部良一、誕生。

10月1日

啄木(21)、 出社して道会議員の社長の白石東泉(義郎)と会い、編集会議に臨む。野口雨情(英吉)と三面を担当することになる。

2日、小樽区花園町十四番地西沢善太郎方に間借し、母と妻子との4人の新生活を始める。

○啄木の描く小樽。

10月1日。「遠く聞ゆる夜回りの金棒の響は函館のそれよりも忙しげ也。小樽は忙しき市なり。札幌を都といへる予は小樽を呼ぶにへ<市>を以てするの尤も妥当なるを覚う」。

10月3日、「小樽の如き悪道路は、蓋し天下の珍なり」。

また、彼の「小樽のかたみ」(「石川啄木全集」第8巻)というスクラップには、「当時小樽は、人口一〇万で、その膨張が急速であった。商港としては函館を凌駕して(北海道で)第一位に上がった。日露の協約が成立してからは、ウラジオストックとの貿易で、覇を敦賀と争っている。新聞も上田重吉(重良であろう)の小樽新聞は三千幾百号となり、約一万部を越えている」。

「小樽にきて初めて真に新開地的な、真に植民地精神の溢れる男らしい活動を見た。小樽の人は歩くのでない、突貫するのである。小樽人の特色は、執着心のないことである」。

小樽は「男らしい活動の都府」であり、「此活動の都府の道路は人も言う如く日本一の悪道路である。善悪に拘らず日本一と名のつくのが、既に男らしいではないか。且つ他日此悪道路が改善せられて市街が整頓すると共に、他の不必要な整頓……階級とか習慣とか言う死法則まで整頓するのかと思へば、予は一年に十足二十足の下駄を余計に買わねばならぬとしても、願わくば未来永劫小樽の悪路が日本一であって貰いたい」。

10月3日

韓国、伊藤、副統監曾禰荒助、純宗に謁見。日本皇太子の訪韓、英親王の日本留学策示す。

10月4日

大阪府三島郡五領村の廃弾工場で砲兵工廠払い下げの小銃弾28,000発爆発。死者66人。

10月4日

(漱石)

「十月四日(金)、渡辺和太郎から鮑を送られる。大谷正信(繞石)宛手紙に、医学士尼子四郎から、有尾敬重(勧業銀行)の子息が中学校を卒業し、高等学校を受験するまでの英語の家庭教師を探して欲しいと云われていたので、勉強を見て貰えぬかと頼む。

移転後、神経衰弱はおさまったが、胃病に苦しむ

十月七日(月)、森次太郎(円月)、『満洲日日新聞』の創刊に関して、訪ねて来る。

十月八日(火)、高浜虚子宛手紙に、宝生新から謡を習う件は別に急がない、ただ、家賃が五円あがったので、月謝を五、六円も出すのは苦しく、様子を伺ってからにしたいと伝える。(高浜虚子は初め、松本金太郎を推していたが、後に宝生新に変える)

森次太郎(円月)宛手紙に、『満洲日日新聞』創刊を祝して、「朝日のつと千里の黍に上りけり」と詠む。」(荒正人、前掲書)

10月5日

6月に創刊された「大阪平民新聞」(編集森近運平)、「日本平民新聞」と改題。

10月5日

明治天皇の母の典侍、中山慶子(71)、没。

10月6日

大阪兵器廠爆発事故(死傷者約100名)

10月8日

韓国駐箚憲兵に関する件、公布。主として治安維持に関する警察を掌り統監が配置を決定。韓国駐箚憲兵隊隊長明石元二郎少将

翌1908年6月、韓国人憲兵補助員制度。

年末、憲兵は2,347人・補助員4,234人となる。

10月8日

京都西陣で染物同業組合友禅部職工同盟会結成。加盟700人。

10月10日

皇太子嘉仁親王、韓国行啓

10月10日

ハンガリー、普通選挙要求20万人ストライキ

10月12日

旭川の野砲兵第7連隊に入営中の宮崎郁雨、啄木の身を案じ、機動演習の余暇を利用して小楯に来訪一泊する。

15日 「小樽日報」創刊。社屋は小樽区稲穂町字静屋畑十四番地(現、稲穂二丁目十九番地十三号)。社主中村定三郎の招きで社中一同精養軒に祝宴。これよりさき啄木は野口雨情らと主筆岩泉江東の排斥を企てるが、初号発刊のこの日事が露顕する。

10月15日

グスタフ・マーラー(47)、『フィデリオ』を最後にウィーン宮廷歌劇場を去る。

12月アメリカのメトロポリタン歌劇場に向かう。

10月16日

嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

10月16日

「(十月十六日(水)、「今日は先生の寫眞を床の間へ飾った。夕方に先生の鳥籠を探しにいつた。」(小宮豊隆宛鈴木三重吉手紙))」(荒正人、前掲書)

10月17日

6月の招待に対する文士の西園寺への答礼会。芝紅葉館。

柳浪、宙外、桂月、眉山、独歩(転地先湊町より上京)、花袋、秋声、藤村、鏡花(逼塞先の逗子より上京)、春葉、露伴、小波ら。天外、風葉、逍遥、鴎外、四迷は欠席。漱石には声かからず。

10月18日

幸徳の帰郷送別会を兼ね「社会主義金曜講演会」。90名。張継、北輝次郎、幸徳演説。堺、山川、片山出席。

10月18日

ハーグ万国平和会議が閉幕、ハーグ陸戦協定(陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約)締結。

10月18日

アメリカ・アイルランド間に無線電信サービスが開始。

10月19日

箕面有馬電気軌道株式会社設立。本社大阪、資本金550万円、専務取締役小林一三。

1910年3月10日、梅田~宝塚間開業。

1918年2月4日、阪神急行電鉄株式会社と改称。


つづく

2026年2月14日土曜日

鎌倉散歩 長谷寺~光則寺~収玄寺~甘縄神明神社 2026-02-14

 2月14日(土)晴れ

暖かい。気温は14~15℃。明日は18℃とかいう予報。

今日は、鎌倉の長谷寺を中心に光則寺、収玄寺、甘縄神明神社をグルっと回ってきた。

今日は、久しぶりに帰りは鎌倉駅まで歩いたので、暖かいを通り越して暑かった。

▼長谷寺

正面の枝垂れ梅は、まだ満開ではないけど、ま、十分に見応えあり。

あちこちでメジロに遭遇したけど、メジロと遊んでる余裕もなかったので、写真はイマイチ。









▼光則寺

梅は、他と比べて控えめなので写真は割愛。

ロウバイとセツブンソウ。



▼長谷寺近く、「はせつる茶寮」とあるお宅(店)の前の梅

枯れた感じがすごくいいので、毎年楽しみにしている。


▼収玄寺の河津桜

すごくキレイに咲いている。

高いところでメジロが戯れていた。



▼甘縄神明神社の玉縄桜

いまちょうど見頃というところ。蕾がいっぱいあって、花自身が若くて溌溂としている。

この神社の近くに安達盛長(鎌倉殿の13人の1人)の館(甘縄の館)があって、頼朝は神社参詣の折には必ず立ち寄って、幕府草創期の昔話をしたと言われている。






「人は時として、幻想を破壊されたくないがために真実を聞きたくないのだ」(フリードリヒ・ニーチェ) / 「大衆は真実を渇望しない。 彼らは、彼らの好みに合わない証拠を避け、誤りが彼らを誘惑するならば、誤りのほうを神格化することを好む。 彼らに幻想を与えることができる人は誰でも簡単に彼らの主人となり得る。 彼らの幻想を破壊しようとする人は誰でも常に彼らの敵となる。」(ギュスターヴ・ル・ボン)/ 「全体主義体制にとって理想的な臣民は、ガチガチのナチでもゴリゴリの共産主義者でもない。事実と創作、真実と虚偽の区別がつかなくなっている人々である。」(ハンナ・アーレント)