2024年3月18日月曜日

「日本史上最大の汚点」朝鮮人虐殺 認めたくない人たちと小池百合子都知事【リリアンの揺りかご#4】(TBS)

〈3つの警察署長を歴任〉神奈川県警大物OBが“参政党入り”の謎 県警内部では「みんな『はっ?』という反応」 本人は直撃に「日本を破壊してるのは共産主義勢力」と語り… — 文春オンライン

 

大杉栄とその時代年表(73) 1892(明治25)年8月26日~9月30日 漱石・子規、松山から東京に戻る 熊楠、ニューヨークからロンドンに移る 松原岩五郎、国民新聞社入社 一葉、「うもれ木」完成 規と漱石、逍遥を訪ねる 子規『早稲田文学』俳句欄担当   

 

松原岩五郎『最暗黒の東京』


1892(明治25)年

8月26日

漱石・子規、新海非風・大原尚恒と松山(三津浜港)を出発、神戸・大阪・京都・静岡を経て帰京。

27日、神戸着。29日、京都着。柊屋泊。30日、京都発、静岡着。31日、静岡発。午後3時50分(推定)、新橋着。

子規は神戸からは激しい下痢にとりつかれ、上根岸に帰ってからもなかなかとまらなかった。そして、下痢がとまると、ふたたび肺患が昂進して痰に血痕が混じりはじめた。

子規は病躯をおして中途退学の手続きに奔走したが、ついにカつきて床に臥したきりになった。常盤会の給費は9月分まで前借してあったので、医者にかかることもできず、子規は屈辱をこらえて叔父大原恒徳に無心の手紙を書いた。

8月26日

南方熊楠、ニューヨークに到着。8月22日、ジャクソンヴイルを出発していた。


「午後セントラルバルクに赴き、動物園及びアメリカン・ナチュラルヒストーリーミュージュームを観る。帰途再び園に入り巡査の為に咎めらる。衣服きたなき故なるべし。

此日所見、象、犀、河馬(かば)、象狗等、平生来始て熟視を得たる所とす。」(28日(日)の日記)


8月30日

母が渋谷との縁談を断って来たその夜の一葉の日記。

(現代語訳)「初めは父が渋谷に望を嘱し、聟にと考えていた。そして半ば事整ったと思っているうちに父が亡くなった。ある時母がそのことを言い出して、しっかりした返事を欲しいと迫った時、自分には異存はない、承諾すると答えた。しかし、仲人を立てて話を進めようとすると、利欲にまつわる条件を持ち出して来たので、母が立腹してそれを断ると、それならば破談にしましょうと言って来た。しかし相互の関係は変らず、細いながらも続いて来た。・・・」

「・・・我家やうやう運かたぶきて其昔のかげも止めず、借財山の如くにして、しかも得る処は我れ筆先の少しを持て、引まどの烟たてんとする境界。人にはあなづられ、世にかろしめられ、恥辱困難一ツに非ず。さるを今かの人は雲なき空にのぼる旭日の如く・・・身は新がたの検事として正八位に叙せられ、月俸五十円の栄職にあるあり。今この人に我依らんか、母君をはじめ妹も兄も、亡き親の名まで辱かしめず、家も美事に成立つべきながら、そは一時の栄、もとより富貴を願ふ身ならず。位階何事かあらん。母君に寧処を得せしめ妹に良配を与へて、我れはやしなふ人なければ路頭にも伏さん。・・・今にして此人に靡(ナビ)きしたがはん事をなさじとぞ思ふ。そは此人の憎くさならず。はた我れ我まんの意地にも非らず。世の中のあだなる富貴栄誉、うれはしく捨てゝ、小町の末我やりて見たく、此心またいつ替るべきにや知らねど、今日の心はかくぞある。・・・

(世間の徒花のような富貴や栄誉を嘆かわしく思いながら捨てて、小野小町のような末路を自分もしてみたいのだ。この心はいつまた変るかも知れないが、今の気持はこうなのだ)

松原岩五郎、国民新聞社入社。四谷鮫ヶ橋の貧民窟を取材(残飯屋人足に身をおいて)。

松原岩五郎:

幼くして両親を亡くす。明治21年22歳で文明開花のあり方を問う「文明疑問」を自費出版。内田魯庵・幸田露伴を知る。明治24年、魯庵を介して二葉亭四迷を知る。

明治25年の国民新聞入社、最初の下層社会報告「芝浦の朝烟」。明治26年四谷鮫ヶ橋・下谷万年町・芝新網町の東京三大貧民街を漂白し「最暗黒の東京」を書く。

9月

森鴎外(30)、慶応義塾大学の講師となり審美学を講しる。

9月1日

「日本」が発禁処分を受け、子規、古島一雄の求めで「君が代も二百十日は荒れにけり」と、即座に詠んで感心させる。

9月上旬

(または中旬)漱石、米山保三郎とヘーゲルや東洋の哲学に関して議論を重ねる。(大久保純一郎)

9月3日

一葉、身体の違和感を語る。

洗濯ものを少しして、

「此頃柔弱に馴れたる身の苦しさ堪がたきに、是よりはつとめて力わざせぼやなどかたる。」

(近頃、柔弱に馴れた身体の苦しみは、こらえ切れないほどで、これからは努めて力仕事もしたいものだなどと国子と話した。)

9月5日

渋沢秀雄、誕生。

9月9日

水原秋桜子、誕生。

9月14日

南方熊楠、6年間のアメリカ滞在を終え、ニューヨーク発。21日リバプール到着。ロンドンに入り横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠(和歌山県人、南方家とは古くからの知り合い)を訪ねる。ここで父弥兵衛没を知る。ロンドンでは下町に住み、植物標本整理や、カルキンス、アレン等と植物標本・手紙の交換をする一方、大英博物館・南ケンシントン博物館・美術館に行く。諸国巡業の足芸人美津田滝次郎に出会い、その宅で片岡プリンスという東洋骨董商と知り合う。

9月15日

芥川龍之介(1)、母フクの精神障害のため母実兄芥川道章に養子(正式縁組みは明治37年8月5日、12)。養育は道章妹フキ(37)が文学・数の早期教育を行う。母フク(42)は明治35年11月28日没。

9月15日

田邊花圃の紹介で金港堂から作品を出すことになり、「うもれ木」が完成し、一葉はこの日に花圃に届ける。翌日には、次の作品の「たねさがし」に図書館に行く。

「都の花」は、金港堂が出す一流の文芸雑誌。明治21年の発行当初から、言文一致運動の提唱者山田美妙が主幹をつとめ発展させる。二葉亭四迷「浮雲」第3篇、幸田露伴「露団々」、尾崎紅葉「二人女房」が『都の花』に発表されている。

「うもれ木」は、世間に協調できない名人気質の陶画師を主人公に描いた作品で、兄虎之助をモデルにしている。幸田露伴の影響を思わせる客観的な作風で、これまでの戯作的色彩と王朝風雅文体から脱しているところに、一葉文学の進展がみられる。「都の花」に載ったため、星野天知、平田禿木、戸川秋骨などの目にとまり、女性には珍しい気骨のある作家として好評であった。

花圃を通じてではあるが「文学界」に執筆の機会を得るようになったのも、天知に「うもれ木」が認められていたからである。「文学界」は明治26年1月創刊。北村透谷や島崎藤村なども拠りどころとした、外国文学に通ずる若い文学者たちの出した文芸雑誌で、女流作家を育てようとの目的も持っていた。一葉は、「文学界」3号に「雪の日」を発表したのをはじめとして、「琴の音」「花ごもり」「やみ夜」「たけくらぺ」を同誌に発表。「やみ夜」の発表を契機に、同人の孤蝶・禿木・秋骨、上田敏ら、いわゆる青年浪漫派の人々との交流が日毎に繁くなっていく。

9月中旬 

この頃までに、漱石、「文壇に於ける平等主義の代表者『ウオルト、ポイツトマン』 Walt Whitman の詩について」を脱稿(大久保純一郎)

9月20日

・内海神奈川県知事と富田東京府知事、内務大臣に宛て夫々三多摩の東京府への移管を要請する上申書を提出。続いて10月13日、園田警視総監も移管上申を提出。内務省も移管問題への本格的な取り組みを開始、秘密裏に移管法案の策定が進められる。南多摩の自由党勢力放逐のために、移管問題を利用。

9月23日

5月に辞職してアメリカに去ったディクソンの後任としてオーガスタス・ウッド(ウード)着任(~明治29年7月31日)。ウードの後任がラフカディオ・ヘルン。

9月23日

一葉、野尻理作から「甲陽新報」に小説の寄稿をうながされる

9月26日

子規と漱石、坪内逍遥を訪れる。子規は『早稲田文学』の俳句欄を担当するようになる。


「登校。与漱石訪逍遥子於大久保」

「夕月に萩ある門を叩きけり」(子規『獺祭書屋日記』)


「・・・・・漱石と子規は、九月二十六日、二人はじめて、大久保余丁町に住む坪内逍遥のもとを訪れる。『日本』に連載された子規の「獺祭書屋俳話」に興味を持った逍遥が、ある人を介して子規に面談を求め、子規も楽しみに待っていたのだが、逍遥がなかなかやって来ないので、漱石に同道を求め、自ら逍遥のもとに向ったわけである。この会談の結果、『早稲田文学』に初めて俳壇が設けられ、子規は同誌の「俳句欄」を担当することになる。大学を中退した子規は漱石よりひと足(いや、ふた足?)先に文学の中心シーンに近づいて行く。(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


「東京専門学校に在学中の赤木格堂は次のように述べている。

Paris (パリ)の駐仏日本公使館に勤めていた叔父の加藤桓忠が内閣官報局長高橋健三(麹町区元衛町一番地第一号官舎)に貸した書籍を受取りに訪ねると、坪内逍遥が正岡子規に会いたがっているので高橋健三から紹介状を渡しておいたので、訪ねたら会って欲しいという。そこで正岡子規に伝えられ、首を長くして待っていた。だが、坪内逍遥は現れぬ。正岡子規は、夏目漱石に案内を頼み、自分のほうから坪内逍遥を訪ねる。この会談の結果、『早稲田文学』に、俳壇が設けられる。(赤木格堂「追懐余録」)正岡子規は、『早稲田文学』の「俳句欄」を担当する。」(荒正人、前掲書)

9月26日

南方熊楠、ロンドン着。


「ニューヨークを経由して、九月二十一日リヴァプール着。そして、九月二十六日、ついに熊楠はロンドンにその姿をあらわすことになる。この大都会ロンドンこそは、彼の運命を大きく変えることになる土地だったのである。今日、われわれが南方熊楠という人物の一生をその全体として顧みるならば、学者としての彼を育てたのも、最初の発表の機会を与えたのも、そして最大の挫折を味わわせたのも、すべて当時世界一の繁栄を誇っていたこの町であったと言うことができるであろう。ロンドン時代は、あきらかに南方の人生におけるハイライトなのだ。」(松尾竜五『南方熊楠 一切智の夢』)


「当時の南方熊楠の日記を目にすると、ロンドンに着いて最初の内けっこう怠惰な日々を送っていた熊楠が、本格的に学問に集中したすのは翌明治二十六年春ごろからだ。そのころから大英博物館に足繁く通うようになる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


9月29日

小学校教育費国庫補助要求運動のための国立教育期成同盟会発足

9月30日

社説「再び対韓政略を諭す」(「郵便報知新聞」9月30、10月1日)、政府の対朝鮮政略を「極めて陋劣」と酷評。

欧州諸国の為に苦しめられた関税・条約を朝鮮に加え、遅れて朝鮮と条約を結んだ諸国にこれを倣わせ、「朝鮮国運進歩の一大妨害を与へた」。在朝鮮日本人も政府の挙動に倣ひ暴慢不蓬、日本人主人は使用する朝鮮人を人としてみない。また日本漁民は済州島の魚貝を尽し、全島の食糧を失わせる恐れがある。このため島民は哀号し、また憤恨の余り妨害するに至る。これで隣交を永遠に期することができようか。この社説は朝鮮に対する日本の強圧的態度が朝鮮をロシアにひきつけ、朝鮮が日清露「交鋒の防壁」でなくなったり、日本の貿易上の利益が清国によって奪われることを恐れているのであって、ハト派的政策論に立つ対朝鮮政策批判である。しかし、これは例外中の例外で、大半は侵略促進論理に転換。


つづく

「光る君へ」の記憶も新しく。藤原公任がテーマごとに優れた漢詩と和歌を選んだ『和漢朗詠集』の伝藤原行成の雲紙本(平安時代)から、藤原定家筆の国宝「更級日記」、伝狩野永徳「源氏物語図屏風」まで。皇居三の丸尚蔵館開館記念展「皇室のみやび」第3期「近世の御所を飾った品々」が3月12日開幕。  

2024年3月17日日曜日

“平和の党”を掲げる公明党は今や戦争大国への道に加担 中国にも見放され揺らぐ存在意義(AERA. 古賀茂明);「筆者は、たまたま先月上海を訪れたのだが、そこで会った知日派の人たちは、福島氏の方が会談時間も長く、見る人が見れば山口氏よりもはるかに厚遇だったことがわかると話していた。また、公明党に対する信頼感は地に落ちたとも語った。」   

大杉栄とその時代年表(72) 1892(明治25)年8月10日~24日 漱石、岡山から松山に子規を訪ね、虚子・碧梧桐らに会う 一葉の桃水宛て手紙 一葉一家を裏切った渋谷三郎が一葉宅を訪問 一葉との結婚話は母がそれを断る    

 



1892(明治25)年

8月10日

漱石、岡山を離れ、松山に子規を訪ね、高浜虚子(清)、河東碧梧桐らに会う

虚子『漱石氏と私』は、当時松山中学の生徒だった虚子が見た漱石と子規の姿を回想している。


「私が漱石氏に就いての一番旧い記憶はその大学の帽子を被つてゐる姿である。時は明治二十四五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省してゐた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折つて坐つた若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によつて、松山鮓とよばれてゐるところの五目鮓が拵へられて其大学生と居士と私との三人はそれを食ひつゝあつた。他の二人の目から見たら其頃まだ中学生であつた私はほんの子供であつたらう。又十七八の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。・・・その席上ではどんな話があつたか、全く私の記憶には残つて居らぬ。たゞ何事も放胆的であるやうに見えた子規居士と反対に、極めてつゝましやかに紳士的な態度をとつてゐた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはつきりと眼に残つてゐる。漱石氏は洋服の膝を正しく折つて静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬ様に行儀正しくそれを食べるのであった。さうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった。・・・・・・」

「・・・・・其次ぎ居士〔子規〕を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあつた。それを居士が私に見せて、『これが此間来た夏目の俳句ぢや。』と言ったことを覚えて居る。どんな句であつたか記憶しないが何でも一番最初に書いてあつた句が鶯の句であつたことだけは記憶して居る」


高浜虚子『漱石氏と私』(青空文庫)

8月10日

一葉から桃水宛て手紙

桃水から届けられた茶に対する礼と、「萩の舎」で桃水との仲を疑われ心ならずも交際を断った心情を吐露する。また、桃水は、この日(8月10日)一葉が遠ざかった真相を野々宮起久から聞かされ、その噂を否定し、それを口にする人物を知らせてほしいとの手紙を一葉に送っており、一葉の手紙はそれへの返信ともなっている。

「(略)

様子うかゞひながら御礼申度と存じ居候ひしかど憚る所なきにしもあらで心ならずも日を送り申候

今日しもめづらしき御玉章(たまずさ)久々にて御目もじせし心地うれしきにも又お恨みの御詞がうらめしく侯 

私し愚どんの身人様をしるなどゝ申すことかけても及ばねど師の君なり兄君なりと思ふお前様のこと誰人が何と申伝へ候とも夫を誠と聞道理もなくもとよりこしらへごとゝは存じ候故別して御耳にも入れざりしに候 

我さへしらぬ事をしるよの中聞かぬことを聞たりと申す位さしてあやしきことにもある間敷御捨おき遊ばし候とも消る時にはきえ候はんかし 

かく計らぬ事より御目通りの叶はぬ様に成しもやむを得ぬことゝ私しはあきらめ居(おり)今更人の口に戸も立ず只身一ッをつゝしみ申侯 

さりながら其源は何方にもあらずみな私しより起りしにて此一事のみにも非ずひまあれかし落しいれんのおとしあな設けられし身いかにのがれ候とも何の罪かきせられずにも居る間数と悲しき決心をきわめ居候 

唯々先日野々宮さまにおことづて願ひしとはりお前様御高恩のほどはみなみな身にしみて有難く日夜申暮し候もの共其親切仇(あだ)にして御名前をけがし候こと何よりも心ぐるしく愁らきはたゞ是のみに候 

申上度こといと多けれどさのみはとで御返し斗をなむ猶々願ひ参らするは何方へ御転住相成候とも何とぞ御住処御しらせ置たまはり度又折ふしは一片の御花託もと夫のみ苦中のたのしみに待渡りまゐらせ候

                                           かしこ

折しもあれ初秋かぜの立そめたるに虫の音の時しりがほなるなど月にもやみにも夜こそものはおもはれ侯へ 

露けき秋とはつねづね申ふるせし詞ながら袖の上におく今日此頃ぞ誠にしかとは思ひしられ侯 

何事を申合する人もなき様に覚えて世の中の心細さ限りなく私しこそ長かるまじき命かと存じられ候 

先頃より脳病にて自宅に帰り居候を又さる人々のあしざまに言ひなすとか

     とにも角にも誠うき世はいやに御坐侯

八月十日夜

御兄上様 御前                           なつ子」

桃水の8月3日付手紙には、「今晩野々宮様御出のふしいろいろ御懇ろの御言伝其の外お話承はり侯処」とあり、野々宮起久、8月3日夜、桃水宅で一葉のことを色々話したようだ。

そして、8月7日には起久が一葉のところに歌の稽古に来た。「半井君を訪給ひしよし。我事に付(つき)ての談話(ものがたり)ありしやに聞く」と一葉日記にある。


8月11日

吉川英治、久良岐郡中村根岸に誕生。

8月13日

原敬(36)、陸奥外相の要請により外務省通商局長(~28年5月22日外務次官、2年10ヶ月)。9月6日~26年11月9日取調局長兼務。10月「現行条約論」刊行。9月23日芝公園の住宅購入。

8月14日

イタリア勤労者党、ジェノヴァで結成。1882年結成の労働者党の労働者主義・経済主義的な性格を克服、労働者の統一的な社会主義政党を組織するため結成。党主流はトゥラーティら。アナーキズムを排し、日常的な組織活動の発展に社会主義の実現をみる路線を採択。’93年勤労者社会党,’95年社会党と改称、現在に至る。

8月15日

ドヴォルザーク、ニューヨーク、ナショナル音楽院院長就任のため妻・子供2人連れて出発。プラハ音楽院作曲家教授は2年間休職。

8月20日

検事総長松岡康毅・司法次官三好退蔵、依願退職。22日、司法次官清浦奎吾(山県直系)、検事総長春木義彰(広島控訴院検事長)、就任。

8月21日

野々宮起久が一葉を訪れ桃水の縁談のことを話しと写真を見せる。一葉は大きな衝撃を受ける。その後、野々宮起久は10月14日盛岡女学校に赴任し桃水の消息を伝える人がいなくなる。

8月22日

児島惟謙、大審院長辞任。24日、大審院部長名村泰蔵、部長兼任のまま大審院長心得となる。

検事側では、10月14日、高木秀臣東京控訴院長、依願免官。19日、今井良一大審院検事、依願免官。20日、加藤祖一大審院判事、依願免官。9月12日、東京地裁野崎啓造検事正、依願免官。判事側では、11月1日、中定勝大審院判事、依願免官。10月20日、加藤祖一大審院判事、依願免官。

8月22日

新潟三条区裁判所の検事に昇進した渋谷三郎が10月に行われる東京専門学校創立10周年式典の準備のため上京し、樋口一葉の本郷菊坂70番地の家を訪問。渋谷の父は、一葉の父義則の同郷の先輩。明治22年夏、義則は渋谷を一葉の結婚相手に頼み込むが、渋谷は義則没後の樋口家の没落を知り、去る。

渋谷三郎は一葉の5歳年上で、一葉の父の世話を受けて法律学校を卒業し、この頃(新潟三条区裁判所の検事)の月俸は50円であった。

三郎は、小説出版などの費用の立替え、春のや(道遥)なり、高田(早苗)なりへの紹介の労を取ろうなど言い、許嫁の縁の復活を仄めかす。そして数日後、知人山崎正助を通して、渋谷との結婚話が持ち上がるが、母たき子は直ぐにそれを断る。

「今この人に我依らんか、母君をはじめ妹も兄も亡き親の名まで辱めず。家も美事に成立つべきながら、そは一時の栄えもとより富貴を願う身ならず。位階何事かあらん」(「一葉日記」明治25年9月1日)。

この年、一葉、「うもれ木」「暁月夜」発表。稿料はそれぞれ12円弱。

8月24日

この日付け一葉の日記(日記への書き込み)。

「・・我はじめよりかの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し床しなど思ひつることかけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に人けなき折々は、そのこととなく打かすめてものいひかけられしことも有しが、知らず顔につれなうのみもてなしつる也。さるを今しもかう無き名など、世にうたはれ初て処(トコロ)せく成ぬるなん、口惜しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし。此頃降つづく雨の夕べなど、ふと有し閑居のさま、しどけなき打とけ姿など、そこともなくおもかげに浮びて、彼の時はかくいひけり、この時はかう成りけん。さりし雪の日の参会の時、手づから雑煮にて給はりしこと、母様のみやげにし給へとて干魚の瓶付送られしこと、我参る度々に嬉しげにもてなして、帰らんといへば、今しばししばし、君様と一夕の物語には積日の苦をも忘るるものを、今三十分、廿五分と時計打詠(ウチナガ)めながら引止められしこと、まして我が為にとて雑誌の創立に及ばれしことなど、いへば更也。・・・"

(私は最初からあの方に心を許したこともなく、また恋しいゆかしいなどと思ったことも全然ありませんでした。ですから、何度かお会いしているうちに、他に人がいない時には、はっきりとではなく娩曲に愛情の言葉をかけられたこともありましたが、知らぬ顔をして冷淡な態度をとったのです。それを今になって事実無根の噂をたてられ、肩身の狭い思いをしたのはくやしくてならないことです。然し、人の心とはまことに不思議なものですね。この頃降り続く雨の夜など、ふと、あの時の先生のお家の様子、先生のうちとけたお姿など、そこはかとなく思い出されて、あの時はこうおっしゃった、この時はこんなであったなどと偲ばれるのです。あの雪の日にお訪ねした時に先生ご自身で雑煮を炊いてもてなされたこと、母への土産にとて干魚の瓶漬けを下さったこと、また私がお訪ねするといつも嬉しそうにもてなして下さり、私が帰ろうとすると、

「もうしばらく、もうしばらく話したいのです。あなたとのしばしの物語には何日もの苦労もすっかり忘

れてしまう程ですから、あと三十分、いや、あと二十五分でも……」

と時計を見ながらお引きとめなきったこと、まして私のためにと言って雑誌の発行までして下さったことなど、今更いうまでもないことでした。)

・・・(さるものかは)かく成行しも誰故かは、その源はかの人故ぞかし。かの人みづから形もなき事まざまざしういひふらしたればこそ、わりなう友などの耳にも伝ひしなれ。友に信義の人しなければ、やがて真そらごと師の君に訴へにけん。されども猶師の君まこと我れを見る眼おはせば、かうはかなき邪説などにやみやみと迷はされ給ふべきにはあらじを、などさまざまに思ふほど憎くからぬ人もなく成ぬ。いでや罪は世の人ならず。我李下の冠のいましめを思はず、瓜田に沓をいれたればこそ、いつしか人の目にもとまりて、いひとき難き仕義(シギ)にも成たれ。・・・

(しかしこんな結果になったのは一体誰のせいでしょうか。その原因はあの人が自分で根も集もないことをまるで本当の事のようにあちこちでお話になったからこそ、それが私の友人たちの耳に入ってしまったからでした。友達といっても信義のある人ばかりとは限りませんので、そのうちに本当のことも嘘のことも区別なく中島先生に告げ口したのでしょう。然し中島先生がもし本当の私を見る眼を持っておられたのならば、こんなつまらない嘘偽りにやすやすと迷わされなさることは決してなかっただろうになどと思いますと、誰も誰も憎くない人は一人もいないのです。然しながらまた考えてみますに、私がこのような罪を得たのも世間の人からではなく、私が「李下の冠」の戒めを考えず「瓜田に沓」を踏み入れたからこそ、いつの間にか世間の人の目にもふれ、弁解の余地もない次第になってしまったのでしょう)

・・・必竟は我かの人を思ふにも非ず、恋ふにも非らず、大方結ひ初たる友がきの中、終始かはらざらんが願はしさにこそ、かくさまざまの物おもひもするべけれど、猶かくいふも我迷ひに入らんとする入口にやあらん。今こそ人も我もにごりたる心なく、行ひなく、天地に恥ぢずして交りもなさめ。やうやう入立てむつれよるままに、いかに我心、人の心替り行かんか計り難し・・・

(結局は、私はあの方をいとしく思ったり恋い慕ったりするのではなく、およそ交際を始めて以来、最後まで変らない交際をこそ願っているので、このようにあれこれと物思いをするのです。しかしこんなことを言うこと自体が迷い始める初まりなのでしょうか。だから今こそはあの人も私もやましい心もなく、やましい行いもせず、天地神明に恥じずに交際をしたいものです。次第に親しくむつまじく交際するにつれて、お互いにどんなに心が変わって行くかはわからないことです)

・・・ある時は厭ひ、ある時はしたひ、よ所(ソ)ながらもの語りききて胸とどろかし、まのわたり文を見て涙にむせび、心緒(シンショ)みだれ尽して、迷夢いよいよ闇(クラ)かりしこと四十日にあまりぬ。七月の十二日に別れてより此かた、一日も思ひ出さぬことなく、忘るるひま一時も非ざりし。今はた思へば、是ぞ人生にからなず一たびは来るべき通り魔といふものの類ひ成けん。道にかんがみ良心に間へば、更に更に心やましきことなく、思ひわづらふふし更になし。我徳この人の為にくもらんとして却りてみがかれぬ。いでやこれよりいよいよみがきて、猶一大迷夢見破りてましと思ひ立しは、八月の廿四日、渋谷君に訪はれし翌日成けり。・・・

(ある時は不愉快でいやなことに思ったり、ある時は慕わしく恋しく思ったり、また人づてに噂をお聞きして胸をとどろかしたり、直接お手紙をいただいては涙にむせんだりして、心はただもう乱れに乱れて迷いの夢の闇の中を歩き続けて早くも四十日が過ぎました。七月十二日にお別れして以来、一日として思い出さない日はなく、一ときとして忘れるひまもありませせんでした。今にして思えば、あの人とのことは人生において必ず一度はやって来るという通り魔のようなものでしたでしょうか。道徳的に見ても、また私の良心に照らして見ても、心には一点のやましいこともなく、思い悩むことも全くないのです。私の人格は、この人のために汚されようとしてかえって磨かれたのでした。これからは一層徳操を磨いて、人生の一大迷夢を打ち破りたいと思い立ったのは八月の二十四日のことで、渋谷三郎さんの来訪を受けた翌日のことでした。)

一葉は、渋谷との結婚話の再燃から、桃水との結婚の可能性を検討してみたと思われる。

つづく

2024年3月16日土曜日

南米チリの弁護士ら650名が、シオニスト政権イスラエルとネタニヤフ首相を国際刑事裁判所に提訴する意向を表明しました。— ParsTodayJapanese【公式】

 

大杉栄とその時代年表(71) 1892(明治25)年7月17日~8月8日 子規、松山で落第通知を受け取る 漱石、子規の退学決意を引き留める手紙 「松山競吟集」第2~5回 漱石、岡山洪水に遭遇 一葉「五月雨」(『武蔵野』第3編) 松方内閣総辞職 第2次伊藤内閣(元勲内閣、挙国一致) 鉄幹(19)本郷駒込吉祥寺に寄宿          

 

本郷駒込吉祥寺


1892(明治25)年

7月17日

子規、松山にて落第の通知をうけとる。


「小生夏目と共に大阪へ行き、同人は岡山に滞在中に御座候。小生遂に大失敗を招き候。可賀(がすべし)可弔(とむらふべし)」(7月17日付大谷藤治郎宛て)


「帰郷して、


母親になつやせかくすうちは哉


御聞及びにも候はん、小生終に落第の栄典に預り候故、


水無月の虚空に涼し時鳥


辞世めきたりとて大笑ひ致候。」(7月20目付五百木良三宛て)

7月17日

露仏、軍事協定調印。

7月19日

この日付けの漱石の子規宛て手紙。漱石、岡山で子規より落第の知らせを受けとり、その日のうちに子規の退学の決意を引き留める手紙を送る。


「貴地十七日発の書状正に拝誦(はいしょう)仕(つかまつり)候。・・・・・試験の成蹟面黒き結果と相成候由、鳥に化して跡を晦(くら)ますには好都合なれども文学士の称号を頂戴するには不都合千万なり。君の事だから今二年辛抱し玉へと云はば、なに鳥になるのが勝手だといふかも知れぬが先づ小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候。願くば今一思案あらまほしう


鳴くならば満月に鳴けほとゝぎす」(明治25年7月19日書簡)


7月19日

三津浜の「いけす」で子規・虚子・碧梧桐・伊藤可南、競吟する。(「松山競吟集」第2回))

7月23日

紡績業隆盛に伴い職工の争奪が激化し、大阪の紡績会社9社は「摂河泉紡績業同盟規約」40条を協定。しかし、大阪の企業のみでは問題は解決せず、8月、紡聯総会を開き、紡績規約の附則として「職工に関する規定」24ヶ条を議定、9月1日から実施。

7月23日

~24日 岡山地方に大雨が降り、漱石は洪水に遭遇する。旭川が氾濫して河畔にある片岡家でも浸水が床上五尺に及んだ。この時の大洪水で、県下の死者は74人、流突破損家屋は5千5百余戸。

水が出はじめると、漱石は「大変だ」と叫んで自分の本の入った小さな柳行李をかつぎ、県庁のある小高い丘に一人でいちはやく難を逃れた。丘の上で一夜を明し、25日から片岡家と親交のある財産家光藤亀吉の離れ座敷に厄介になった(~8月1日)。

7月23日

この日、一葉(20)の「五月雨」がようやく『武蔵野』第3編に掲載された。『武蔵野』はこの第3編で廃刊となる。

「五月雨」(『武蔵野』第3編)(青空文庫)

7月24日

石阪昌孝、横浜旧公道倶楽部、自由党懇親会出席。代議士の慰労と、伊藤治兵衛謀殺嫌疑者の無罪放免を祝う会。

7月24日

夜、虚子宅に子規・碧梧桐が集って競吟する(「松山競吟集」第3回)

7月25日

自由党政務調査会、従来の消極策(「政費節減・民力休養」)から積極策(鉄道事業など公共投資推進)への転換を打ち出す。星亨を中心としたグループ(自由党の今後の方針を、積極主義への転換と藩閥内進歩派との連携と定める)。

7月30日

松方内閣総辞職。

議会閉会後、品川の後任に河野敏鎌(改進党系)が内相に任命。国政の要の内相に民権派を任命した事に政府内で批判が強く、河野が選挙干渉に関して次官らを処分するにおよび、陸海相は辞表を提出し、松方内閣は総辞職。

7月31日

虚子宅二階で、子規・碧梧桐・新海非風・勝田明庵(主計)が集って競吟する。(「松山競吟集」第4回)


8月

この頃、与謝野鉄幹(19)、上京。1ヶ月ほど本郷菊坂の異母兄大都城響天の家に寄宿。義兄の経済困窮のため、前年より東京哲学館に学ぶ佐村八郎と貸間を物色し、本郷駒込吉祥寺境内の寄宿舎(空家)に「僧に乞ひ、一室月額十五銭の借料を約して移る」。「焼芋を以て一日一食に代へ、或は屡々絶食」の生活をしながら、上野の帝国図書館に通う。(石川啄木の父親も駒込吉祥寺で勉強したことがある。川上眉山の墓もある) 

9月15日、落合直文門下生となり、以後直文の庇護と指導を受ける。 

8月

高野岩三郎、帝国大学法科大学に入学。兄・房太郎の仕送り負担軽減。

8月4日

東京の左官職の仕手方、棟梁組合「壁職業組合」に賃上げを求めてストライキ。

1890~92年、この他に東京で石工・花崗石工・煉瓦積職人・大工等が請負制下での賃金低下と物価勝貴からスト。

8月4日

漱石の子規宛手紙。岡山での水害を報告、金毘羅に寄り松山を訪ねる旨知らせる。

8月5日

三津浜「いけす」に子規・虚子・碧梧桐・新海非風が集って競吟する。(「松山競吟集」第5回))

8月7日

米、ニューオルリンズ、ヘビー級プロボクシング初代チャンピオン、ジェームズ・コーベット。

8月8日

第2次伊藤内閣成立。山県有朋司法相、陸軍大臣大山巌、外務大臣陸奥宗光(48)

井上(馨)内相、山県司法相、黒田通信相など、維新の元勲が多く入閣し、元勲内閣と呼ばれる。民党からも後藤農商務相と河野(敏鎌)文相を入閣させ、挙国一致体制を整える。陸奥は待望の外相に就任。

陸奥宗光:

明治16年釈放(獄中5年間、著述・読書、ベンサム功利論翻訳など)。翌年伊藤博文のすすめで欧米2年間。ウィーン公使西園寺公望を感嘆させるほどの勉学ぶり。明治19年帰国、外務省弁理公使、半年後特命全権公使に昇格。のち駐米公使、農商務大臣。


つづく

NHK大河ドラマ「#光る君へ」にちなんで花山天皇が出家するエピソードを描いた月岡芳年の「つきの百姿 花山寺の月」をご紹介。月が輝く中、藤原道兼と共に元慶寺へ向かう花山天皇。芳年は若き花山天皇の横顔を美しく描いています。太田記念美術館で開催の「月岡芳年 月百姿」展にて4/3~4/29に展示。 — 太田記念美術館

 

2024年3月15日金曜日

堀井学・衆院議員、支持者らへの「おわび行脚」前に1社10万円以上の寄付要請…関係者「順番おかしい」(読売)

「日本は衰退している」と感じる日本人は約7割。最も多くの人が望む税金の使い道は?  「既存の政党や政治家は、私のような人間を気にかけていない」と思う日本人は62%にのぼった。(ハフポスト日本版);「政府が支出を増やすべきだと思う項目は、3位「仕事の創出」、2位「医療(病気の予防、診断、治療、研究)」、1位「貧困と社会不平等の緩和」だった。」   

大杉栄とその時代年表(70) 1892(明治25)年7月1日~16日 漱石、文科大学貸費生(年額70円) 漱石・子規の京都旅行(後半、漱石は岡山へ、子規は松山へ)、帰途に再度京都へ 一葉、花圃の仲介で『都の花』への小説掲載決まる 「松山競吟集」第1回   

 



1892(明治25)年

7月

北村透谷「徳川氏時代の平民的理想」(「女学雑誌」)

7月

漱石、文科大学貸費生(返還義務あり)となる。年額70円。

しかし、漱石は、英文学研究に対する漠然とした不安と疑問を抱いていた。


「私は大学で英文学といふ専門をやりました。其英文学といふものは何んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だつたのです。其頃はヂクソンといふ人が教師でした。私は其先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作つて、冠詞が落ちてゐると云つて叱られたり、発音が間違つてゐると怒られたりしました。試験にはウォーヅウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シエクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、或はスコツトの書いた作物を年代順に並べて見ろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像が出来るでせう、果たしてこれが英文学か何うだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とは何ういうものだか、是では到底解る筈がありません。(中略)兎に角三年勉強して、遂に文学は解らずじまひだつたのです。(中略)  私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になつたといふより教師にされて仕舞つたのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、何うか斯うか御茶を濁して行かれるから、其日々々はまあ無事に済んでゐましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚なら一そ思い切りが好かつたかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでゐるようで堪らないのです。」(「私の個人主義」)

7月

漱石、藤代禎輔(素人)・立花銑三郎・松本文三郎らと共に、文科大学の雑誌「哲学雑誌」の編集委員になる。従来の「哲学会雑誌」の誌名を改め、「少し世間向の材料を加へようといふ方針になった」ので、文学専攻の漱石らがスタッフに加えられる。

7月

この頃、二葉亭四迷(28)と妻つね(未入籍、19)、本郷菊坂町81番地に転居。8月には神田仲猿楽町17番地(二葉亭の実家近く)に移る。

7月2日

犬養木堂(37)、横浜での民党政談演説会で尾崎行雄らと共に演説。

7月2日

アメリカ、人民党全国大会,オマハで開催.綱領採択。ジェームス・ウィーバーを大統領候補指名。ウィーバー、百万以上票獲得、ポピュリズム運動、ピークに達する。 

7月4日

韓国政府、日本の防穀損害14万円要求に対し6万余円が妥当と回答。日本側拒否。

7月5日

清国、ドイツへの借款返済用として韓国に10万両を貸与。

7月6日

伊沢修二、小学校教育費の国庫補助を要求する運動のため、国立教育期成同盟会の結成を提案(10月29日発足)。

7月6日

カーネギー製鋼会社のホームステッド工場、5ヶ月にわたる大規模なストライキ。流血事件に発展する。

7月7日

漱石と子規の京都旅行。夏休みを利用して初めての関西旅行。

7月7日 新橋停車場発。

8日 七条停車場着。柊屋(京都市中京区麩屋町御池通り下ル)に宿泊。夜、清水寺などを観光。

9日 比叡山に登り、川魚料理屋平八茶屋(京都市左京区修学院)を訪ねる。柊屋に泊る。 

10日 大阪に向かう。

その後、

10日 子規は漱石と別れ松山へ帰郷。漱石は岡山に向う。

11日 漱石は岡山に着き、嫂(次兄直則の妻)小勝の実家片岡家に3週間滞在したのち松山に向い、

8月29日 帰途もう一度京都に立寄り1泊。

京都では二人は麩屋町の柊屋という旅館に泊った。夜、街を見物に出る。子規が買って来た夏みかんを食べながら、人通りの多い街を行くうちに2人は遊郭にまざれこんだ。漱石は、幅1間ほどの小路の左右にならんだ家の覗き窓から、女が声をかけているのがなにを意味するのか気がつかずにいた。漱石が、「なんだこれは」と問うと、子規はこともなげに「妓楼だ」と答えた。当惑した漱石は、制服の裾をつかまえられたら一大事と思い、「目分量で1間幅の道路を中央から等分して、其の等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に」歩いた。そんな漱石を、子規は苦笑して見ていた。


〈『京に着ける夕』(明治40年、漱石40歳)に記された子規との京都旅行〉

漱石は、朝日新聞入社が決まった40歳の時、京都の狩野亨吉(京都帝国大学文科大学学長)に招かれて京都を訪れている(明治40年3月28日~4月12日)。この京都訪問のことをを書いた随筆に『京に着ける夕』があるが、文章の大半は子規と訪れた初めての京都の印象である。

漱石は合計4回、京都旅行をしている。2回目である明治40年の旅行は、6月から新聞連載を始める虞美人草の京都取材をするためであった。


「子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行いたことを記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えといって余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間にやら幅一間ぐらいの小路に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしという声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしという。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕まえそうに烈しい呼び方をする。子規を顧みて何だと聞くと妓楼だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に練って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫えている今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われたくても、相談にはならん。

(略)

 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜の月円きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢のごとく柔かなる空想を縦ままに酔わしめたるは、制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強いたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔いて新聞屋となる、余は尻を端折って西国へ出奔する。御互の世は御互に物騒になった。物騒の極子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかというだろう。新聞屋になって、糺の森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。」

「細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。

 桓武天皇の御宇に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である。しかし赤いぜんざいと京都とはとうてい離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。ぜんざいを召したまえる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い因縁で互に結びつけられている。始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とかいう家へ着いて、子規とともに京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故なにゆえかこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食ったことがない。実はぜんざいの何物たるかをさえわきまえぬ。汁粉であるか煮小豆であるか眼前に髣髴(ほうふつ)する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻のすみやかなる閃きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜のごとく干枯びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首をちぢめて京都を南から北へ抜ける。」

夏目漱石『京に着ける夕』(青空文庫)

「夏目漱石「京に着ける夕」論 ―寄席・落語に始まった子規との交友―」

7月7日

フィリピン、リサール、ダピタン島へ流刑。夜、独立革命をめざす秘密結社カティプーナン結成。 

7月11日

吉川英治、誕生。

7月12日

司法官弄花事件。大審院懲戒裁判所、判事懲戒法による懲戒訴追。証拠不十分で免訴。児島惟謙ら大審院判事6名の花札賭博。

7月12日

一葉(20)は、田邊花圃宅を訪ね相談し、花圃の周旋で金港堂の『都の花』に作品を出すことになる。一葉は、早速「うもれ木」執筆に取り掛かる。約1ヶ月で書き上げるつもりであったが、肩凝りと頭痛に悩まされ、完成が長引き、8月4日、花圃宛に詫びの書簡を送る。

7月12日

一葉、中元の挨拶に桃水を訪ねる。「もの語ることもなくて帰る」(「日記」)。

7月12日

桃水は、7月12日、本郷西片町の家を引払い、神田三崎町煉瓦街に転居し葉茶屋「松濤軒」を開き、8月6日弟茂太に茶1筒を持たせて開店のしるしに一葉宛て届けさせる。

7月14日

イタリア、労働党結成。

7月15日

午後、延齢館(高浜町)で子規・虚子・碧梧桐が集って、句会競吟五題(「松山競吟集」第1回)を催す。

7月15日

英、総選挙で保守党敗北。自由党ウィリアム・グラッドストン(83)、4度目の内閣組織。

7月16日

弄花事件の「徳義上の問題」追及の声。この日付「日本」は、児島ら被告側と、松岡・三好らにも仲間内の談話を法定外の自白とする陰険さと司法官の権威・裁判の信用を失墜させたとして、速やかな出処進退明確化を勧告。14日付け「国民新聞」もほぼ同様。

7月16日

漱石、小勝の再婚先の岸本庄平(岡山県上道郡金田村、現・岡山市西大寺金田)を、小勝の弟亀太郎と共に人力車で訪れ、19日まで滞在。小勝の再婚を祝うため、祝品として銚子縮を持参する。

19日朝、金田村から岡山市に戻る。

岡山は亡兄臼井栄之助の妻かつ(小勝)の実家片岡家のあるところ。漱石の岡山訪問の目的は明らかでない。臼井家はかつの実弟亀太郎が継いでおり、片岡・夏目両家の交際は、栄之助の没後かつが岡山に戻ってからも円満に続いていた。

7月16日

島崎藤村(20)、箱根で開催の第4回キリスト教夏期学校に出席(~27日)。


つづく

2024年3月14日木曜日

エッフェル「不倫」過激ショー次々と起こる自民の不祥事について(←岩手!) 玉川徹氏「僕は大きな流れの中に今あるような気がする…やっぱり水は淀むと『腐る』『権力は腐敗』する…長い自民党の権力の『歪み』が噴出してるとすれば、大きな流れとしてそれが終わる方向に流れてるのでは」