2026年4月3日金曜日

鎌倉、妙本寺の海棠が満開 ソメイヨシノは終り ミツバツツジ モミジの新緑が眩しい 郵便局前の桐ヶ谷 若宮大路の桜 本覚寺の桐ヶ谷 2026-04-03

 4月3日(金)晴れ

鎌倉、妙本寺の海棠が満開。

(ソメイヨシノは終っている)




▼ミツバツツジ

▼モミジの新緑が眩しいくらい

▼郵便局前の桐ヶ谷(桜)

▼若宮大路の桜

▼本覚寺の桐ヶ谷

フランスのマクロン大統領と韓国のイ・ジェミョン大統領は、ホルムズ海峡を通る船舶の復活を目指して協力することを約束。韓国もアメリカの同盟国。なぜこれが日本はできなかったのか。ひとえに高市首相の外交センスのなさを悔やみます。高市首相、本当に暗愚。(Ikuo Gonoï ) / フランス所有のコンテナ船がホルムズ通過-開戦後、西欧関連では初か(Bloomberg) ← 高市が「カメハメハ」やってる間に

 

鎌倉、鶴岡八幡宮の段葛、源氏池畔のソメイヨシノ満開。源氏池畔の桐ヶ谷(桜)も満開。2026-04-03

 4月3日(金)晴れ

今日は、晴天で暖かい。

昨日まで曇/雨が続き、明日からまた曇/雨がちの模様。

鎌倉、鶴岡八幡宮の段葛、源氏池畔のソメイヨシノ満開。散り始めあり、まだ蕾もあり。

源氏池畔の桐ヶ谷(桜)も満開










▼源氏池畔の桐ヶ谷


大杉栄とその時代年表(797) 1908(明治41)年8月7日~15日 「先づ明星を百号にてやめる件、についての相談あり。平出君最も弁じ、大井君保守説を持す。夕刻にいたり、廃刊の事与謝野氏の懇望によつて決し、新たに与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起すこととなり、平野吉井予の三人編輯に当ることとなれり。予は初め固辞せしも聞かれず、与謝野氏の衷心に対する同情は終に予を屈せしめたり。」(啄木日記)

 

「明星」第10号(明治34年1月1日発行) 一條成美 画

大杉栄とその時代年表(796) 1908(明治41)年8月1日~6日 荷風の井上精一(唖々)宛の手紙 「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」(8月4日) 「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」(8月8日) より続く

1908(明治41)年

8月7日

啄木、8月というのに例の綿入を着て新詩杜訪問。帰りはその綿入を風呂敷に包んで、白地の浴衣を着て帰る。金田一と2人でよく見ると、女柄であり、多分晶子夫人が、自分の布地で啄木の為に男物に仕立てる。この頃、啄木は「明星」の編集発送、歌会など殆ど1日おきくらいに新詩社に通う。

8日、徹夜の歌会。午後10頃~翌日午前4時。吉井勇・北原白秋も参加。


「八月七日

八時半起床。朝餉を了へて家を出づ。風強し。

昌平橋にて与謝野氏に逢ひ、共に明治書院にゆき、十一時頃千駄ヶ谷に至る。夏草の路、蜥蜴を見て郷を思ふ。

庭の萩風に折れたり。杉垣の下なる向日葵の花、白と鹿の子の百合の花、風情あり。晶子さんは夏に疲せてベツドの上にあり

校正など手伝ひて四時辞す。晶子さんが手縫ひの白地の単衣を贈らる

(略)


十二日間の記

八日、千駄ヶ谷歌会の日なり。午前明星の歌をなほし、一時頃ゆく。

珍らしきは大井蒼梧川上櫻翠二君なりき。先づ明星を百号にてやめる件、についての相談あり。平出君最も弁じ、大井君保守説を持す。夕刻にいたり、廃刊の事与謝野氏の懇望によつて決し、新たに与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起すこととなり、平野吉井予の三人編輯に当ることとなれり。予は初め固辞せしも聞かれず、与謝野氏の衷心に対する同情は終に予を屈せしめたり

雅子女史亦会す、吉井北原君もあり。夕刻より兼題の歌の運座。

十時頃より、徹夜五十首と動議成立し、翌九日朝にいたりて大方詠出。互選の結果、読上げ終りて十二時を過ぎたり。平野吉井二君と共に残り、湯に入る。四時頃帰り来る。

    ――――――――――――――――

室に入れば女中来りて告げて曰く、昨夜植木女来り、無理にこの室に入りて待つこと二時間余、帰る時何か持去りたるものの如しと。

室内を調ぶるに、この日誌と小説“天鵞絨”の原稿と歌稿一冊と無し。机上に置手紙あり、曰く、ほしくは取りに来れと。

予は烈火の如く怒れり。蓋し彼女、世の机の抽出の中を改めて数通の手紙を見、またこの日誌の中に彼女に関して罵倒せるあるを見、怒りてこれを持ち去れるものなり!

(略)

    ――――――――――――――――

如何にして盗まれたるものを取返すべきかにつきて、金田一君と毎日の如く凝議したり。一度、予怒りを忍んで彼女を訪ねしもあらざりき。翌日オドシの葉書をやる。無礼なる返事来る。行かず。十九日の夕に至り、彼女自ら持ち来りて予を呼出し、潸然として泣いて此等の品を渡して帰れり。

ただ此日記中、七月二十九日の終りより三十一日に至るまでの一頁は、裂かれて無し。蓋しその頁に彼女に対する悪口ありたるなり。

これにて彼女の予に対する関係も最後の頁に至れるものの如し

    ――――――――――――――――

(略)

十九日は将棋に暮す。残暑少しく烈し。空は秋の空なり。

夕刻にこの日誌等返る。金田一君と共に万歳を唱ふ。」(啄木日記)

8月7日

オランダの海外領地および植民地に関する領事職務条約、(4月27日調印)公布。

8月7日

ヴィレンドルフのヴィーナスが発掘される

8月9日

永井荷風『あめりか物語』刊行。

8月10日

池田亀太郎、西大久保で女湯を覗き風呂帰りの婦女を暴行殺害(3月22日)した出歯亀事件で、無期懲役の判決。

8月11日

大日本軌道株式会社開業。小田原支社の人車軌道で小田原~熱海のうち湯河原~熱海が蒸気列車に。

8月11日

英エドワード7世、独皇帝ヴィルヘルム2世とクロンベルクで会談。独建艦案縮小など海事問題の調整、失敗。

8月14日

幸徳秋水、東京着。

15日、豊多摩郡淀橋町大字柏木の守田有秋の旧宅(金曜社)に岡野辰之助の名を借りて住む。柏木平民社。炊事などは岡野の妹が世話する。

9月末、巣鴨に移転。

8月15日

漢口の『江漢日報』封鎖。

8月15日

赤旗事件第1回公判。東京地方裁判所。弁護人卜部喜太郎・井本常作。幸徳秋水・坂本清馬・新美卯一郎ら100余、傍聴。

裁判長島田鉄吾が「被告は無政府主義者であるか」と質問。落とし穴に気付き、巧みに供述する被告の中で、菅野須賀子は「自分はもっとも無政府主義に近い思想をもっている」と述べる。秋水は法廷傍聴記「同志諸君」を「熊本評論」9月20日号に掲載。


〈赤旗事件公判筆記 『熊本評論』8月20日掲載〉

8月15日午前9時、14名の同志に対する治安警察法違反、官吏抗拒事件は、東京地方裁判所第一号法廷に於いて満田検事立会島田裁判長に依り開廷せられたり更めて記す、当日の被告左の如く

堺利彦 山川均 大杉栄 荒畑勝三 宇都宮卓爾 森岡永治 徳永保之助 佐藤悟 百瀬晋 村木源次郎 管野須賀子 大須賀里子 神川松子 小暮礼子

…裁判長は一般に向て次の訊問をなせり。曰く、

「被告らは7月22日石川三四郎の主催に係る山口義三の出獄歓迎会に赴き開会後同日午後6時『無政府』及『無政府共産』と記せる赤旗を翻し、場外に出て、無政府党万歳を絶叫し、亦は『革命の歌』を高唱したりしや。」

堺利彦君は『余親ら赤旗を翻せし事なし。余の場内に居りし際同志の一人が、門前に混雑ありと報じ来りしより、馳せ出で見たるに同志と警官の間に騒擾開始されて居れり」

裁「被告は無政府主義者なりや」

堺「否な余は社会主義者なり」

裁「無政府共産なる語を用いし事なきや」

堺「共産なる語は社会主義者一般に認められ、且つ信じられ居るも、余は自ら進で未だ無政府なる語をも用いし事なし」

次に裁判長は山川均君に向い、前同様一般的訊問を発し、山川君は是に対して

山「余は旗を会場に持参せず然し『革命の歌』は会場にて歌えり」

裁「被告は無政府主義者なりや」

山「自ら無政府主義者なりとは言いし事なきも、無政府主義の説明如何に依っては、社会主義者は何れも無政府主義者と言うも可なり」

裁「被告の会場を出でし時赤旗を見しや」

山「旗は一本高等商業学校の方にあるを見たり」

大須賀里子女子に対して…

「…未だ主義者としての資格は無からんと信ず、無論無政府主義に関しては、充分の智識なし」

(略)

斯て裁判長は、赭衣を纏い、眼光爛々たる大杉君を呼びて立たしめたり旗の製作に関する訊問あるや、大杉君は「旗は余の発意にて余の製作したものなり…」

裁「革命の歌を唱え無政府党万歳を絶叫せしか」

大「大に然り」

荒畑寒村君に対して

「…無政府党万歳を叫びたり」

(略)

小暮レイ子女史…

「自分は目下社会主義の研究中なるが故に、未だ無政府主義に就ては分明に理解せず」

神川女史は

「…主義者として自分は、社会主義者無政府主義者其の何れとも決せず、近き将来に於て発表するの機会ありと信ず」

管野幽月女史は「自分は最も無政府主義に近き思想を抱持し居れり」

(略)

是にて略審問を終り、裁判長は予審調書(数十名の巡査の口供に拘る)を読み聞せ是に対する各被告の弁明を聞けり。

当日の重なる弁明左の如し、

(略)

大杉栄君「判官諸公、吾等は面会を禁止せられ、書信の往復を断たれ、犯罪に就いて会議相談の上答をなす地位にあらず然れども彼の数十名の巡査は、被告の罪状を造る可く、自由に相談し、自由に疑義し、自由に捏造するの地位に在れりされば彼等の口供になる百の調書も、千の調書も、何等の信憑たらず、唯之一の空文のみ、諸公幸に是を諒とせられん事を」

神川松子君「唯今読み聞されし一巡査の口供には、自分が大須賀と共に商業学校前にて行動を共にせりとあり、亦他の一巡査の口供には、管野と共に神田署前にて行動せしとあり、自分は、一人なれば、羽翼を有せざる限り一時に三丁余りも隔たりたる場所を短時間に駆け歩く能わず、殊に或る巡査の口供には自分が、襟に時計の銀鎖を懸けたる由を記しあれど、自分は当日鎖をも時計をも有せず、是等事実の相違より見るも如何に巡査の口供の馬鹿馬鹿しきかを知るに足らん」云々

尚お是等弁論の後にて堺、神川、山川等数名の被告より証人として大杉保子及巡査横山某を喚問されん事を申請し、是を許可せらる。次回は22日開廷と決し午後5時閉廷。

此の日幸徳秋水、坂本克水君等新聞記者席にあり場外には百余名の群集溢れたり、評論社の新美君、志賀君、清国同志、在京一般同志、何れも朝来より来廷せり。

8月15日

保証金を支払って復刊した「東北評論」第2号、赤旗事件被告を称賛したとして編集人高畠素之が新聞紙法違反で起訴、軽禁固2ヶ月処分。

10月1日、新村忠雄を発行人として第3号発行。

8月15日

ニコライエフスクに日本領事館開館。

8月15日

イリノイ州スプリングフィールド、白人女性が黒人に暴行されたと主張。黒人街が攻撃され白人と黒人が衝突。


つづく


「イラン戦争に関する重大演説」に浮かぶトランプ政権の幼児性 大戦末期ドイツとの比較から(六辻彰二) ; 「多くの精神科医や心理学者は米トランプ大統領に「自己愛性人格障害」の傾向を見出している。」

山添拓議員が国会で小泉進次郎防衛相に熊本・健軍駐屯地と静岡・東富士演習場への長射程ミサイル配備を質問 ; 山添拓議員は国会で、自衛隊の長射程ミサイルが熊本・健軍駐屯地と静岡・東富士演習場に住民説明会なしで配備された問題を小泉進次郎防衛大臣に追及した。小泉防衛大臣はミサイル基地が攻撃対象となり得ると認めつつ、敵の意図が不明で運用は多様であるとし、住民への説明の必要性を明確にしなかった。議論では小泉防衛大臣の答弁が不明瞭との指摘が相次いだ。 ← 顔はシビヤーだけど、言ってることは全く意味不明

 

米国防長官、陸軍参謀総長を解任 軍上層部の「粛清」続く(WSJ) / イランでの地上作戦に反対したのではないか(布施祐仁) 

 

 

▼この通りでなければ良いが、、、

 


〈全文〉

 英語からの翻訳

陸軍参謀総長解任:これは非常に重大だ。

今、陸軍参謀総長を解任し、忠実な人物に置き換えることは、前の指導部が遅延させたり抵抗したりしたかもしれない命令への準備だ。

戦争途中で何の理由も述べずに軍種トップを解任するなら、本当の理由はほぼ確実にドクトリン上の対立——戦争の戦い方に関するものだ。なお、米国は本日、イランの民間インフラ(イランの最大の橋)を爆撃し始めた。

陸軍の変革イニシアチブを主導したキャリアの歩兵将校であるジョージのような人物は、イランでの地上作戦の実現可能性とコストについて、深刻な制度的見解を持っていただろう。彼が内部チャンネルを通じてでも抵抗していたなら、まさにヘグセスが排除しようとするような摩擦だ。

おそらく後任はクリストファー・ラネーブ将軍で、元々ヘグセスの個人的な軍事副官——つまり、ヘグセスはイランに対する現役の戦闘作戦中に、陸軍のトップに忠実な人物を据えている。

ヘグセスはこれまでに、統合参謀本部議長のC.Q.ブラウン将軍、海軍作戦部長のリサ・フランケッティ提督、空軍副参謀総長のジェームズ・スライフ将軍、国防情報局長のジェフリー・クルース中将を含む、十数人以上の上級軍将校を解任した。

結論:これはエスカレーションだ。

文民指導部は、軍事オプションに対するあらゆる制度的ブレーキを体系的に取り除いている——これが今回の全粛清が目指していたものだ。ジョージの追放がトランプの「石器時代」演説と同時に起こっているのは偶然ではない。今後2週間が、これまでで最も激しい戦闘段階になることを予想せよ。



2026年4月2日木曜日

〈高市早苗首相は日米首脳会談で自衛隊をホルムズ海峡に派遣する意向を示したが、秘書官や自民党関係者に止められた。怒鳴りながら抵抗したものの説得され、帰国後は定時出勤・退勤し土日を休むようになった。〉 → 「3月24日夜、官邸幹部を集めた席で高市は激昂し、意見が対立する今井尚哉参与の解任を主張。その後一転、弱音を吐き始める。つらい、厳しい、眠れない…。病を抱える女帝は心身共に限界が近いようだ」(雑誌「選択」4月号(「高市が『退陣』を口にした夜」)) ← ①高市は自衛隊派遣に本気だった ②政権内のマル秘事項が流出してる

大杉栄とその時代年表(796) 1908(明治41)年8月1日~6日 荷風の井上精一(唖々)宛の手紙 「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」(8月4日) 「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」(8月8日)

 

永井荷風

大杉栄とその時代年表(795) 1908(明治41)年7月26日~31日 「夜、何か書くつもりだつたが、些ともそんな張合がない。 うつらうつらと、気のぬけた様な心地で、蚊に攻められながら、いろいろの事を考へた。大薩パに言つてみようなら、自己の価値、文学の価値、それらが総て疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。予は生れてから今が一番真面目な時だ。然し今でもまだ不真面目なところがある。」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

8月

清国、欽定憲法大綱公布。9年後、憲政実施約束。

8月

田中王堂「我国に於ける自然主義を論ず」(「明星」)

8月

中国同盟会の孫武ら、東京で英進会を組織。

8月

三輪田真佐子「現代女界の暗流」(「女学世界」)。教育とは「不健全な思想」(厭世自殺・煩悶のため周囲を心配させるような)「を除去せんために施すもの」、「文学を解する女子にして、この愚を演ずるは、教育上の一大罪人ならずや」。

8月

英、炭坑労働者の労働時間を8時間に制限。

8月

8月~12月、ウィルバー・ライト、ヨーロッパで次々と飛行記録を塗りかえる。

8月1日

ロシア大使、寺内正毅外相に日露懸案一括解決交渉を提議。

8月1日

国産自動車完成を記念し、乗用車10台、第1号所有者有栖川宮家より多摩川へ遠乗会開催。

8月1日

出口ナオ、王仁三郎ら、金明霊学会を大日本修斎会(のちの大本教)に改組。

8月1日

日光東照宮建造物26棟が当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(文化財保護法における重要文化財に相当)となる。

8月1日

「八月一日

(略) 

七時頃煙草代を怎かしようと阿部月城を訪ねたが不在。・・・・・

残れる銅銭を集めて、あやめの五匁を一つ買つて来た。

中央公論の後藤新平論と国木田独歩論を読んで、考へた。秋声の筆つきは気に入つたが、少し拵へすぎてゐる。

今夜は両国の川びらき、沓かに花火の音がする。


八月二日

(略)

日暮、金田一君と洗湯にゆく。半月目也。浴後体量を計るに僅かに十二貫三百目。帰り、氷屋に入ること二度。まくは瓜を求め来りて共に味ふ。その味に故園を忍ぶこと深し。

趣味八月号―“文豪国木田独歩”―を読む。噫多幸なる哉独歩。明治の文人にして、国民的悼歌のうちに葬られたるもの、紅葉独歩の二人のみ。而して、かの紅葉にして猶且天下の同情を贏得たること独歩に及ばざる遠し。独歩また瞑すべし。

独歩の性行を録するものを読みて、予の特に感ずるは、彼が無邪気なりし事なり。小児の如く笑ひ、小児の如く怒りし事なり。予は何故に怒りえざるや?

独歩の旧稿に“文学者――予の天職”なる一文あり。中に曰く、

“予は遂に文学者なるものの如し。”

と、更に曰く、“予は文学者の高貴なる所以を知る。然れども予は何ら虚栄の念なくして此業に従はざるべからず、宛然農夫の田を耕す如くに。”と。

予の独歩を憶ふこと日に深し。然して、予も亦遂に文学者なるが如し。!!

(略)」(啄木日記)


8月1日

英、老齢年金法、成立。1909年1月1日発効。

8月1日

仏、労働総同盟(CGT)指導部、逮捕。サンディカリストへの弾圧。

8月2日

「八月二日(日)、夜、森田草平の不調に尼子四郎医師(本郷区駒込千駄木五十番地)に相談するように勧める。

八月三日(月)、小宮豊隆宛葉書に、「僕高出歯亀となつて例の御嬢さんのあとをつけた。歸つたら話す。」と書き送る。(小宮豊隆、帰省中である)

八月五日(水)から十七日(月)の間に、『三四郎』起稿する。(十月五日(月)脱稿する。原稿用紙は、橋口五葉の図案になるもので、『明暗』まで使用する)


この前後、東京帝国大学理科大学の実験室に赴き、寺田寅彦に、光線の圧力について聞く。執筆前後とみなされる書簡で、現在発表されているものは、八月三日(月)小宮豊隆宛、八月十九日(水)高浜虚子宛、八月二十三日(日)田島道治宛のほか、八月(?) (小宮豊隆推定)、渋川柳次郎(玄耳)苑のものである。八月三日(月)は、「小既はまだかゝない。いづれ新聞に間に合ふ様にかく。」とあり、八月十九日(水)は、「小生の小説もいきれ可申か」とある。八月二十三日(日)は、「只今三四郎執筆中例により多忙を極め候」とある。渋川柳次郎(玄耳)宛の日付不明のものには、『三四郎』の題名と、予告の原文が記されている。以上の手紙のほかは発表されていない。書簡のない期間は八月四日(火)から八月十八日(火)までと八月二十日(木)と八月二十二日(土)である。八月十九日(水)には、『三四郎』の(二)までの原稿はできていたと推定される。このことから、起稿の日を推定すれば、八月十七日(月)以前ということになる。但し、書簡のない期間にも未発表書簡は存在するかもしれない。」(荒正人、前掲書)


8月3日

ロシア、社会革命党協議会第4評議会(~8月14日)。

8月4日

「八月四日

夜の明けざるに目さむ。暑気少しくゆるみて、八十九度。

半日金田一君と語る。例の稚き頃の思出。話してる所へ、与謝野氏より書留、為替五円。外に、明夕あたり御出下され浴衣お着代へ被下度しと晶子申候、と書いてあり。暫く語なく与謝野氏の好情を懐ふ。

(略) 

夕刻、為替をうけとり、原稿紙と蚊やり香と煙草と絵ハガキ数枚と、外に、蕪村の句集、唐詩選、義太夫本、端唄本二冊もとめて来る。

与謝野氏へ礼状、吉井、北原、長谷川、佐々木信綱、藤條、宮崎、おこうちやんの諸氏へ葉書。

蚊帳いらずを焚いて安眠するをえたり。」(啄木日記)

8月4日

荷風の井上精一(唖々)宛の手紙

「まだ下駄がよくはけないので浴衣でぶらぶら出かける事が出来ないので困ってゐる」

「当分親爺の手前をごまかす為めに役所か会社へ出やうかと思ってゐる」(7月24日付。荷風帰国の9日後)

「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」(8月4日)

「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」 (8月8日)


この月以後、のちの『ふらんす物語』に所収する短篇を「読売新聞」「新潮」「早稲田文学」「新小説」等に発表。

8月6日

ロシアと樺太島日露境界確定書(4月10日調印)について境界確定事業承認に関する外交文書を交換。9月10日、告示。


つづく

大杉栄とその時代年表【年表INDEX ③ (1906(明治39)年1月~ 更新中)】  /  【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月】  【年表INDEX ② (1903(明治36)年1月~1905(明治38)年12月 )】

 【年表INDEX ①】

大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる  附【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月)】


【年表INDEX ②】

大杉栄とその時代年表【年表INDEX ② (1903(明治36)年1月~ 1905(明治38)年12月)】


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大杉栄とその時代年表(646) 1906(明治39)年1月1日~6日 ベルリン警察、米人舞踊家イサドラ・ダンカンの舞踊を「猥雑」であるとして公演禁止。ダンカンの舞踊は、古典音楽に合わせた単純で表現力豊かな舞踊。

大杉栄とその時代年表(647) 1906(明治39)年1月7日~11日 徳富蘆花、伊香保に引き籠る 「小生は堺兄に倣ふて『蘆花生』の号を廃めたり、今後は徳富健次郎を以てすべての場合に御呼び被下度候」 徳富健次郎の伊香保温泉での日常生活は、第一が四福音書を読むこと、第二にトルストイの著作を読むことであった。

大杉栄とその時代年表(648) 1906(明治39)年1月12日~25日 「ただ新たな運動の展開に対していささか希望を与えたものは、山県軍閥直系の桂太郎に代って、かつてはフランスに遊んで自由主義の新風に浴した西園寺公望が、新政府の首相に任じた事であった。西園寺首相は住友財閥の当主吉左衛門の実兄、蔵相の阪谷芳郎は渋沢栄一の女宿、内相の原敬は足尾銅山主古河市兵衛の大番頭、また外相の加藤高明は三菱の駙馬というように、少なくとも外観上はブルジョア的色彩の濃厚な政府であったから、その政策も桂内閣の武断政治に比して自由主義的であろうと予測させた。果然、新内閣は社会主義運動に対しても前政府の如く妄りに弾圧することなく、政綱の穏和なるものに対しては結社の自由を認める方針を明らかにしたのである」(荒畑寒村『続平民社時代』)

大杉栄とその時代年表(649) 1906(明治39)年1月26日~31日 1月31日付け宋教仁の日記 「午後三時、民報社に行ったとき、急に座骨に激しい痛みを感じたので、しばらく横になり、前田氏に願ってそこをたたいてもらった」とある。この前田氏というのは、漱石『草枕』の主人公那美のモデルと言われる前田卓である。

大杉栄とその時代年表(650) 1906(明治39)年2月1日~4日 「・・・小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を恩ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ・・・」(2月3日付け漱石の野間真綱宛て手紙)

大杉栄とその時代年表(651) 1906(明治39)年2月5日~16日 イギリス、戦艦ドレッドノート第1号鑑、進水。ポーツマス。世界最強の戦艦。ドレッドノートの出現により、戦艦三笠、ボロジノなどは一挙に旧式化した。以後、建艦競争開始。

大杉栄とその時代年表(652) 1906(明治39)年2月17日~28日 コンノート卿大歓迎大会、日比谷公園にて催す。 「正門前の雑踏ハ甚しく騎馬と徒歩の警官と憲兵と数十名警戒せしが大名行列が繰り出すや潮の湧くが如く人波を打ち鉄柵の前に殊に設けたる丸太の柵を押潰せんず光景で」(読売新聞)

大杉栄とその時代年表(653) 1906(明治39)年3月 著名な国学者の章炳麟が亡命して中国同盟会の機関紙『民報』の編集長となり、編集部を置いた貸家で毎週末「国学講習会」を主宰した。魯迅も国学を学ぶために通ったが、一方で、章炳麟の主宰する革命組織「光復会」が決死隊を中国へ送り込むことになり、そのメンバーに指名された。 しかし魯迅は気が進まず、「もし自分が死んだら、あとに残された母親をどうしてくれるのか、はっきり聞いておきたい」と告げると、一同のけぞって呆れかえり、決死隊メンバーから外されたという逸話が残っている。

大杉栄とその時代年表(654) 1906(明治39)年3月1日~7日 外相加藤高明、鉄道国有化に反対し辞任。 加藤は岩崎家の婿(「三菱の大番頭」)。三菱の御用新聞「東京日日新聞」、元老井上馨も鉄道国有化反対。三菱は、長崎の造船所、高島炭鉱を経営し、更に九州鉄道株を買収中。九州鉄道を手中にすれば、競争相手の三井、貝島、麻生などの炭鉱の運搬も独占し得る。九州の炭鉱主は、三菱の鉄道支配を覆すために政府の鉄道国有化に賛成。

大杉栄とその時代年表(655) 1906(明治39)年3月8日~11日 「明くれは十一日、...日比谷公園には各方面から参集する男女一千余名、...園内の芝山には「電車値上反対市民大会 日本社会党」と大書した赤旗を中心に数十旒の赤旗が林立し、...午後一時、主催者を代表して山路愛山(国家社会党)が全員の拍手喝采裡に左の二決議文を朗読した。(略)次いで主催者代表は、右の二決議を内務大臣に手交するため、...五人を委員に指名したが、大臣不在のため委員は決議文をのこして帰った。五委員は解散後、群衆とともに赤旗四旒、幟二旒を押し立て大太鼓を打ち鳴らしつつ公園を出て有楽町の堅く門扉を閉ざした街鉄会社に押し寄せ、...更に数千枚の檄を配布しつつ 『人民』、『日日』、『時事』、『毎日』、『萬朝』、『読売』の各新聞社前に至り、「資本家に買収された新聞」「電車賃値上げに反対せよ」「反対せざる新聞は購読せず」などと叫んで示威運動の威勢を示した。」(荒畑『続平民社時代』) )

大杉栄とその時代年表(656) 1906(明治39)年3月12日~18日 東京市電運賃値上反対第2回市民大会 「この頃になって警官隊が騎馬巡査を先頭に鎮圧に駈けつけて来た。それを見た西川は、『これで今日は解散する』と群衆に挨拶したが、納まらないのは戦闘的な土工たちであった。彼らは『ここまで人を連れて来てこのまま解散するとは卑怯千万だ』と西川らに詰め寄り、西川たちはその勢いに怖れをなして、逃げ出すような始末であった。」(吉川守邦「荊逆星霜史」)

大杉栄とその時代年表(657) 1906(明治39)年3月19日~23日 「余は、社会主義者となるには、余りに個人の権威を重じて居る。さればといって、専制的な利己主義者となるには余りに同情と涙に富んで居る。...然しこの二つの矛盾は只余一人の性情ではない。一般人類に共通なる永劫不易の性情である。自己発展と自他融合と、この二つは宇宙の二大根本基礎である。.....茲に一解あり、意志といふ言葉の語義を拡張して、愛を、自他融合の意志と解くことである。乃ちシヨウペンハウエルに従つて宇宙の根本を意志とし、この意志に自己発展と自他融合の二面ありと解する事である。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(658) 1906(明治39)年3月25日~31日 「『破戒』はたしかに我が文壇に於げろ近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。」(「早稲田文学」の島村抱月の批評 )

大杉栄とその時代年表(659) 1906(明治39)年4月 蒋介石の初来日 初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。

大杉栄とその時代年表(660) 1906(明治39)年4月1日~9日 「さらば日本よ。余は爾(なんじ)を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」(トルストイ会見に向かう徳富蘆花の日記)

大杉栄とその時代年表(661) 1906(明治39)年4月10日 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。 漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)

大杉栄とその時代年表(662) 1906(明治39)年4月11日~17日 啄木(20)、母校の渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。月給8円。徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」(「渋民日記」)

大杉栄とその時代年表(663) 1906(明治39)年4月18日~30日 桜井忠温;松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。

大杉栄とその時代年表(664) 1906(明治39)年5月1日~5日 「仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」(田山花袋「不如帰物語」)

大杉栄とその時代年表(665) 1906(明治39)年5月6日~30日 韓国総監伊藤博文主唱(山縣、西園寺などの元老閣僚会議)「満州問題に関する協議会」、開催。首相官邸。児玉参謀総長ら武断派抑え、軍政廃止決定。 同日、閣議決定(関東総督機関を平時組織に改める、軍政署を順次廃止)。 9月1日、関東総督府廃止。関東都督制となる(都督は大島総督が引続き任命)

大杉栄とその時代年表(666) 1906(明治39)年6月 明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。(日本文壇史)

大杉栄とその時代年表(667) 1906(明治39)年6月1日~4日 崔益鉉が起兵を呼びかけると、その傘下に集まる者千余名に達した。そして淳昌において最初の戦闘が行われた。しかし、このとき攻撃の全面に現れたのは日本軍ではなく朝鮮軍の鎮衛隊であった。崔益鉉は朝鮮人同士で戦ってはいけないと説得しようとしたが、先制攻撃を受けると全員に退去を命じ、自ら縛についた。日本憲兵隊に送られた崔益鉉は対馬の警備隊に監禁されたが、3年間の監禁中の彼は冠巾を脱ぐこと、警備隊長の前で起立すること、日本側の飲食提供を断固拒否した。「敵国の粟喰うべからず」と絶食した崔益鉉は74歳の生涯を対馬で終えた。(姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』)

大杉栄とその時代年表(668) 1906(明治39)年6月5日~20日 「常磐会」創立 「明治三九年六月十日の夜森林太郎、賀古鶴所の二氏が小山粲、大口鯛二、佐々木信綱の三氏と余とを浜町一丁目なる酒楼常磐に招きて明治の時代に相当なる歌調を研究する為に一会を起さん事を勧められた。(中略)余は無論森、賀古の二氏の勧告に応じ(中略)其後賀古氏から話のついでに此事を山県公爵に申し上げた所が公爵も非常に喜ばれカを添へらるる事を約せられた」

大杉栄とその時代年表(669) 1906(明治39)年6月22日~29日 幸徳秋水、日本社会党の帰国歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」演説。神田区錦町の錦輝館。総同盟罷工による直接行動論。錦輝館は1902年に日本で初めてメリエスの『月世界探検』を上映した活動写真館。1908年6月22日、ここで行われた山口孤剣の出獄歓迎会がきっかけで赤旗事件が起こる。

大杉栄とその時代年表(670) 1906(明治39)年6月30日 徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会う。蘆花はトルストイの家に5日間滞在した。その間、彼は毎日のようにトルストイと散歩し水浴し、トルストイに親しみ、ある時は彼を敬い、ある時は疑い、結局トルストイの人柄に限りない親しみを感じた。

大杉栄とその時代年表(671) 1906(明治39)年7月1日~3日 「「頭は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇體なものにて十分に三十秒位づゝ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と沸くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから澤山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす(ママ)時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちにて物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千萬粒のうち一つ位が生育するものに候。然しとにかく妙な気分になり候。小生は之を称して人工的インスピレーションとなづけ候。」」(漱石の虚子宛て手紙)

大杉栄とその時代年表(672) 1906(明治39)年7月3日~8日 啄木 「七月になった。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」

大杉栄とその時代年表(673) 1906(明治39)年7月9日~28日 7月23日 児玉源太郎(54)、脳卒中で急没。 8月1日、台湾総督府民政局長後藤新平が「満鉄」総裁を引受ける。後藤は7月31日、山縣元帥に手紙を書き、8月8日には大島都督・寺内陸相に建白書を提出。

大杉栄とその時代年表(674) 1906(明治39)年8月1日 関東都督府官制公布。 遼東半島の旧露租借地を関東州と命名し旅順に関東都督府を設置する勅令を公布。都督は陸軍大将または中将。清国の関東州を管轄し満鉄線路の保護取締り・満鉄業務の監督を行う。旅順に関東都督府設置。 9月1日、大島義昌を関東都督に任命。

大杉栄とその時代年表(675) 1906(明治39)年8月2日~10日 (漱石の妻が電車賃値上反対のデモに加わっていたとの誤報に対して、「電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。」(漱石の深田康算への手紙)

大杉栄とその時代年表(676) 1906(明治39)年8月10日~31日 「彼(森田草平)は「猫」を読んで以来、熱烈を漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。それを読んだあとでは、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、すでに抵当に入っていた七八反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作った。そして9月初めに上京した。」(日本文壇史)

大杉栄とその時代年表(677) 1906(明治39)年9月1日 「鈴木三重吉から見ると、「草枕」は、中年になった漱石の人間としての諦観を芯としている点では、三十五歳の彼に書けるような作品ではなかった。しかし抒情的な文体による田園の風趣の中に人間を描くという点で、その年の四月に漱石の推薦によって「ホトトギス」に出た彼の「千鳥」の影響がこの作品に及んでいることを漠然と彼は感じていた。「千鳥」を読んだために漱石が、それなら自分もこれを書けるという気特で「草枕」を書いたことだけは推定できた。」(日本文壇史)

大杉栄とその時代年表(678) 1906(明治39)年9月1日 「私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ--美くしい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない。」(夏目漱石 談話「余が『草枕』」)

大杉栄とその時代年表(679) 1906(明治39)年9月1日~5日 9月5日 諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。

大杉栄とその時代年表(680) 1906(明治39)年9月9日~11日 「諸君よ、僕は断然政党運動を脱退したる也。是れ僕が政党運動を不必要となすが為に非ず、政党運動を以て愚挙となすが為めにも非ずして、僕自身の性格が到底政党運動に不適当なるを知りたると、政党運動以外に於て僕の専ら力を致すべき事業あることを確信するに至りたるとの為に外ならず。既往数年間僕は二途にも三途にも迷ひ来れり。今ま始めて自らの位置と職分とを覚ることを得たり。故に今敢て絶つべからざるの旧交厚誼に背き、明白に諸君を離れて孤立独住の寂寞を甘んずる也。」(木下尚江「旧友諸君に告ぐ」)

大杉栄とその時代年表(681) 1906(明治39)年9月11日~中旬 鶴見祐輔、第一高等学校英法科3年生、漱石の講義を聴く。その時の回想「紺の背廣の夏服を着た先生が、左小肱に、教科晋と出席簿とを抱へて、少し前かゞみに、足早やに入ってこられた。漆黒な髪の毛、心持ち大きい八字髯、ハッチりした眼。そして、どこか取り澄ましたやうに、横など向いて、出席簿を手早やに片付けて。鉛筆をなめて、何やら一寸書き込んで。教科書をパット開かれた。」

大杉栄とその時代年表(682) 1906(明治39)年9月16日~30日 「大杉が、黒板勝美、千布利雄らとともに日本エスペラント協会を設立(註、6月12日)し、神田の青年会館で開かれた第一回大会の席上で『桃太郎』の話をエスペラントでやり、喝采を博したのは、その年九月二十八日のことである。彼はまた、九月十七日に、本郷区壱岐坂下の習性小学校で、日本最初のエスペラント学校を開いた。生徒は四十五名。十二月六日、神田の国民英学校で行われた第一回卒業式には、黒板勝美や加藤高明が来賓として出席、大杉はやはりエスペラントで「卒業生諸君に告ぐ」という訓辞をしている。この学校は夜学で、大杉が翌一九〇七年五月巣鴨監獄に入獄するまで続いた。」(大沢正雄「大杉栄研究」)。

大杉栄とその時代年表(683) 1906(明治39)年10月 二葉亭四迷「其面影」 「内田魯庵は、二葉亭が20年ぶりの作品を書いている問じゅう、「恰も処女作を発表する場合と同じ疑懼心が手伝つて、眼が窪み肉が痩せるほど苦辛し、其間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼くなるまで全力を傾注し、千鍛万練して」書き改めて来たのを知っていた。また、二葉亭は毎日の締切時間に遅れそうになるので、社からは度々社員を催促にやったが、その仕事ぶりを見たものは誰も気の毒がって催促の言葉をロにしかれた、ということであった。池辺三山はそれを評して「造物主が天地万物を産み出す時の苦しみ」だと言った。」(日本文壇史より)

大杉栄とその時代年表(684) 1906(明治39)年10月 与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。8日、大石誠之助は新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもつ。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。

大杉栄とその時代年表(685) 1906(明治39)年10月1日~10日 「さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。」(漱石の若杉三郎宛手紙)

大杉栄とその時代年表(686) 1906(明治39)年10月11日 第一回木曜会 小宮豊隆;彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。

大杉栄とその時代年表(687) 1906(明治39)年10月13日~21日 「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。」(漱石の森田草平あての手紙)

大杉栄とその時代年表(688) 1906(明治39)年10月22日~31日 「『光』と『新紀元』との思想や主張の異同については、本書ですでに詳説したから今さら蒸し返す必要はないが、この二派の「社会主義の解釈、若しくは確信に於て、決して相容れざる者に非ず」という説は筆者の承服し兼ねる所である。それ故、石川が平民社の創立人に加わり社会党の機関たる平民新聞の編集当局に就任したことは、背信食言の行為と言わざるを得ない。唯物論的社会主義と基督教社会主義との異同に関して徹底的な論争を行わず、無理論、無原則な妥協に終った二派の合同はその後、社会党大会の決議の上にも痕をとどめた。」(荒畑『続平民社時代』)

大杉栄とその時代年表(689) 1906(明治39)年11月1日~5日 「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へとある文句は露佯(いつわ)りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙がしいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辞が這入って居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。〔中略〕気の毒で堪らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。」 (『猫』中篇自序)

大杉栄とその時代年表(690) 1906(明治39)年11月6日~11日 「読売新聞」主筆の竹越与三郎(三叉)、漱石に対して漱石門下生で中央公論主筆の滝田樗陰を通じて、読売の専属作家にならないか、と申し出る。読売の文壇を担当して1日に1欄か1欄半書き、月給は60円という条件。漱石は、報酬が少ないことと地位が不安定なことを理由にして、この申し出を断る。

大杉栄とその時代年表(691) 1906(明治39)年11月11日~13日 更に新年の原稿を依頼するため、竹越与三郎に代って文芸附録担当者の正宗忠夫(28歳)が出かけた。 正宗は前々年明治37年11月の「新小説」に処女作「寂莫」を発表して以後数篇の短篇小説を書き、作家としても少しずつ認められかかっていたが、決定的な作品を書くに到っていなかった。正宗はぶっきらぼうな物言いをする男であり、漱石もまた歯に衣を着せぬ男であったから、不愛想な対話が1時間ばかり続いた。その結果、一篇の評論を漱石は書いた。それは「作物の批評」と題した批評方法論で、20枚ほどのものであった。

大杉栄とその時代年表(692) 1906(明治39)年11月14日~20日 (漱石)「十一月十七日(土).....夕方、初めて森田草平の下宿(本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方)を訪ね、夜、柳町・菊坂通りを経て、真砂町で真砂亭(西洋料理。本郷区真砂町、現・文京区本郷一丁目)に寄る。切通しを経て、不忍池のほとりに出る。.....不忍池を一周、弥生町から東京帝国大学裏門の前に出て、第一高等学校と東京帝国大学の間を通り、森川町で別れる。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(693) 1906(明治39)年11月21日~30日 「十一月下旬(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)、『草枕』を読んで感心し、旧友中村不折を通じて、新年の随筆を依頼してくる。 この依頼をした段階では、鳥居赫堆(素川)が漱石を『大阪朝日新聞』に招聘したいという希望が十分に熟していたかどうかは、断定し難い。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(694) 1906(明治39)年12月 泉鏡花(数え34歳)、この年7月逗子に転居し、文壇人とは没交渉で過ごす。「新小説」11月号に「春昼」を、12月号に「春昼後刻」を書き、小説「愛火」を春陽堂から出版する。

大杉栄とその時代年表(695) 1906(明治39)年12月1日~4日 この年、株式の熱狂相場続く。野村徳七も前年以来株を買い続け財産も100万円となる。 この月、弟の徳三郎はこれ以上は危険と株の売却を忠告。徳七も、株式市場が1894~95年の日清戦争後の暴落直前の状況と似てきていることを知る。 12月10日、2~3の大手投資家が売り始めたのを察知し、この日のうちに売り始め週末までには1/3を整理する。しかし、東京の大手投資家が大阪の株を買い始め、株価は毎日上昇し続ける。 26日、徳七の友人で北浜屈指の投資家岩本栄之助も売り始める。それでも、市場は上昇し続け、徳七は大阪の地方新聞に狂乱相場の危険性を警告。

大杉栄とその時代年表(696) 1906(明治39)年12月5日~15日 山川均上京。堺は『平民新聞』で「諸君の中には山川均君の名を記憶せぬ人もあるでせう、山川君は曾て皇太子御結婚の当時不敬罪を以て処罰せられ、未丁年の故を以て酌量軽減せられながら、猶且つ三年六ケ月の長き月日を巣鴨監獄に送った人である」と紹介

大杉栄とその時代年表(697) 1906(明治39)年12月16日~26日 第23議会招集 原敬と山縣派との闘い(郡制廃止問題) 衆議院では24票差で通過 貴族院では委員会で9対4で勝利、本会議で108対149で否決 原は、政友会の力の及ばぬ貴族院でも善戦し、「山縣の貴族院における勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」と自信を強める

大杉栄とその時代年表(698) 1906(明治39)年12月27日~31日 石川啄木(20)長女京子誕生 「・・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記)

大杉栄とその時代年表(699) 1907(明治40)年1月1日 泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載) 「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史)

大杉栄とその時代年表(700) 1907(明治40)年1月1日~15日 「明治四十年一月十五日、日刊『平民新聞』は産声いさましく誕生した。足かけ四年前の明治三十六年十一月十五日、日露戦争の開始を目前にして日本の歴史上に初めて戦争反対の叫びを掲げた週刊『平民新聞』の発行を見たのであるが、その英文欄には「機運が之を要するに至らば、吾人は近き将来に於て日刊新開の発行を期待する」と明記されていた。今や実にその期待が実現され、そして日刊の『平民新聞』が呱々の声を揚げたのである。」(『続平民社時代』)

大杉栄とその時代年表(701) 1907(明治40)年1月15日~31日 「一月十七日(木)、木曜会。野上ヤヱ(緯名、野上八重子)宛手紙に、『明暗』(発表されなかった)について文学理論におよぷ詳しい批評を箇条書きにして送る。木曜会で、野上ヤヱの原稿『縁』朗読される。また、野上豊一郎(臼川)『忘れ草』も朗読される。注文いろいろ出る。もっと締まれば、詩的なものになると批評を加える。(略)」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(703) 1907(明治40)年2月1日~4日 「二月七日の衆議院で代議士武藤金吾が質問をおこない、その中で次の如く論じた。 古河市兵衛は幸福な人で、政府部内と因縁を結び官辺とはつねに縁故が絶えない。現政府の内務大臣原敬君とも関係があることは、天下周知の事実である。足尾鉱業所長の南挺三君はいかん、彼は農商務省において、足尾銅山の鉱毒予防工事を監督する責任者でありながら、足尾鉱業所の所長となった人物である。諸君、この暴動は果してこの問題と関連するところ無いであろうか。」(続平民社時代)

大杉栄とその時代年表(704) 1907(明治40)年2月5日~11日 堺利彦の幸徳批判 「・・・大体の考え方でも自分は幸徳君と同じである。・・・異なるところは全然議会を否認すると、これを併せ用いることにあるのみだ。・・・私は今後、社会党運動の大方針としては、一方に議会政策をとり、一方には労働者の団結をはかり、議会の内と外とにつねに相呼応して平民階級の活力につとむるにあると思う。・・・時としては、請願の名をかり、選挙の名をかり、電車賃値上げ反対の名をかって、実は平民労働者の教育と訓練をおこなうのである。」。

大杉栄とその時代年表(705) 1907(明治40)年2月12日~17日 社会党第2回大会 決議案に対して田添と幸徳から修正案が提出 前後3時間を費して採決の結果、田添案2票、幸徳案22票、評議員会案28票で原案が可決成立

大杉栄とその時代年表(706) 1907(明治40)年2月18日~22日 「日本社会党の大会が終ると早くも二月二十日、前日発行の『平民新聞』に掲載された大会の決議、及び幸徳秋水の演説は新聞紙条令第三十三条に違反するとして発売頒布を禁止された上、裁判所に告発された。超えて同二十二日、社会党大会の決議が「安寧秩序に妨害ありと認むる」として、内務大臣から日本社会党禁止の命令が発せられた。」(続平民社時代)

大杉栄とその時代年表(707) 1907(明治40)年2月23日 有島武郎、ロンドンでクロポトキンを訪問 クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。

大杉栄とその時代年表(708) 1907(明治40)年2月24日 漱石の朝日招聘 「二月二十四日(日)、午前十一時三十分(推定)白仁三郎(坂元雪鳥)来て、朝日新聞社(大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社)へ入社の件に関し最初の予備交渉を試みる。(午後三時頃(推定)、二葉亭四迷(本郷区西片町十番地にノ三十四号)の家で、渋川柳次郎(玄耳)・弓削田精一待っており、白仁三郎(坂元雷鳥)の来るのが遅いと迎えが来る。白仁三郎は、交渉の結果を報告する。二葉亭四迷も喜ぶ。)」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(709) 1907(明治40)年2月25日~28日 「オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。…… 私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』)

大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙)

大杉栄とその時代年表(711) 1907(明治40)年3月5日~9日 朝日新聞が漱石にオファーした月給は200円: 主筆の池辺三山は交際費含め270円、経済部長松山哲堂が140円、創刊以来の古参編集長佐藤北江130円、ベテラン小説記者半井桃水80円、新入社員美土路昌一30円。主筆を除きいずれも漱石よりはるかに低い。

大杉栄とその時代年表(712) 1907(明治40)年3月10日~15日 3月10日 内村鑑三、福田英子を破門。日曜集会参加差止め。 13日「福田英子破門さる」(「平民新聞」)。 15日、福田英子「内村先生に上る書」「同じ道踏む人々に代りて」(「世界婦人」)。

大杉栄とその時代年表(713) 1907(明治40)年3月16日~25日 司法省行政局長兼大審院検事平沼騏一郎、英独仏の思想警察の社会主義者・無政府主愚者取締り研究のため渡欧。明治41年2月14日帰国。

大杉栄とその時代年表(714) 1907(明治40)年3月26日~31日 「三月二十八日(木)、仏滅。午前八時、新橋停車場を(神戸行最急行)一等で出発する。午後七時三十七分、七条(京都)停車場に到着する。狩野亨吉・菅虎雄の出迎えを受ける。三台の人力車を連ね、狩野亨吉の家(京都市外下加茂村四十八番地下加茂神社墳内、現・京都市左京区泉川町)に向い、京都に滞在している間、宿泊する。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(715) 1907(明治40)年3月28日 夏目漱石「京に着ける夕」を読む 「遠いよ」と言った人の車と、「遠いぜ」と言った人の車と、顫えている余の車は長き轅(かじ)を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。静かな夜(よ)を、聞かざるかと輪(りん)を鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮(さえぎ)られて、高く空に響く。かんかららん、かんかららん、と云う。石に逢(あ)えばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響きである。風は北から吹く。

大杉栄とその時代年表(716) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳①〉 大正4(1915)年3月19~20日 「晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す。」

大杉栄とその時代年表(717) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳②〉 大正4(1915)年3月21~22日 「電車。雨中木屋町に帰る。淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれと電話で頼む。飯を食わすために自分で料理の品を択んであつらえる。鴨のロース、鯛の子、生瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみ。御多佳さん河村の菓子をくれる。加賀の依頼。一草亭来。」

大杉栄とその時代年表(718) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳③〉 大正4(1915)年3月23~25日 「「先生お目覚めどすか」いうて、なんの気なしにふと先生を見たやおへんかいな。そしたらこう鼻の頭から、額もびしょびしょの汗どすのや。たらたらと流れているようやおへんか。あたしびっくりしましてな、「先生! おあんばいが悪るおすか」申しましたら、「いや、なにー」いうて、両手で洗面場をつかまえて、ぺちゃんぺちゃんとそこへ坐っておしまいるやおへんかいな。さあ、えらいこっちゃ、こらどむならん、こんな所へお坐りやしたらいかんいうて、あたしが腰を持ち上げるようにして、おこたのとこへお伴れしたんどす。」

大杉栄とその時代年表(719) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳④〉 大正4(1915)年3月26~4月2日 「私が行った時には、大友(お多佳さんの家)から宿へかえって臥せっておりましたが、いつもの病気でたいしたこともない様子で、まあまあと一安心しました。そこへまた皆さんがお見舞いを兼ねて来てくださいます。なかなか賑やかなことでした。」

大杉栄とその時代年表(720) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑤〉 大正4(1915)年4月6日~5月16日 「これは黒人(くろうと)たる大友の女将の御多佳さんにいうのではありません。普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私がいう事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとかいえばそれまでですが、私は折角つき合い出したあなたに対してそうした黒人向の軽薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。」

大杉栄とその時代年表(721) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑥終〉 大正4(1915)年 「先生あんたはんは女子はんにおほれやしたことおすか」と尋ねたことがおした。 すると先生は一寸真面目な顔で、「僕だつてあるさ」とおっしゃってどしたわ。(磯田多佳)



大杉栄とその時代年表(723) 1907(明治40)年4月1日~4日 漱石入社の辞 「大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だと云って驚くなら尤である。かく申す本人すらその点に就ては驚いて居る。」

大杉栄とその時代年表(724) 1907(明治40)年4月5日~11日 有島武郎(30)神戸着、帰国。神戸港には父の有島武が来ていた。 武は、この年、数え年66歳、母幸子は54歳であった。武郎は長男で、その下に愛子、壬生馬、志摩子、隆三、英夫、行郎の7人の子供があった。

大杉栄とその時代年表(725) 1907(明治40)年4月12日~15日 「著者(荒畑)の見る所では、第一に日刊新聞の経営は人も金も不足だった。外国通信の欠如はもとより記者の取材費も不足しているから、『平民新聞』の記事に独自の特色が発揮できなかった。」

大杉栄とその時代年表(726) 1907(明治40)年4月16日~28日 「四月末から五月初めにかけて(推定)、連日上野公園で開かれている東京勧業博覧会を見に行く。いろんな服装で行くので、不思議に思われる。 五月三日(金)『国民新聞』の「文芸界消息」による。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(728) 1907(明治40)年5月 「百姓ほどみじめをものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯(かてめし)を食って、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生活を送って居る。地を這ふ爬虫(むし)の一生、塵埃を嘗めて生きて居るのにも譬ふれは譬へられる。からだは立って歩いても、心は多く地を這ってゐる。親切に思遣ると気の毒にもなるが、趣味に同情は無い。僕はその湿気臭い、鈍い、そしてみじめな生活を見るたびに、毎(いつ)も、醜いしものを憎むと云ふ、ある不快と嫌悪を心に覚える。」(真山青果「南小泉村」)

大杉栄とその時代年表(729) 1907(明治40)年5月1日~3日 「人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為めに、変り物として出来得る限りを尽すは余の嬉(うれ)しき義務である。」(漱石)「入社の辞」

大杉栄とその時代年表(730) 1907(明治40)年5月4日~13日 「大会が始まって間もないある日のこと、私は教会の控え室で1人の男に呼びとめられた。・・・私が話していた相手こそ、マクシム・ゴーリキーだった。・・・ 当時ゴーリキーはボリシェヴィキに近い立場にあった。いっしょにいたのは、有名な女優のアンドレーエヴァだった。私たちは連れ立ってロンドン見物に出かけた。」(トロツキー『わが生涯』)

大杉栄とその時代年表(731) 1907(明治40)年5月14日~31日 「五月二十八日(火)、『東京朝日新聞』に『虞美人草』の予告を発表する。前人気大きく、三越呉服店は虞美人草浴衣、玉宝堂は黒田撫泉の虞美人草金指輪を売り出す。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(732) 1907(明治40)年6月 藤村『並木』 モデル小説の波紋 ; この小説は、ふだんの交際の問に馬場が語っていた自己の生活に対する不満を、島崎が自分流に推定して描いたものであり、モデルにされた2人に与えた不快の念もさして深いものではなかった。それに対する馬場と戸川の批判は、皮肉を弄して、多少思い上っている島崎を閉口させることを目的としたものに過ぎなかった。馬場と戸川は約束に従って、そのあとで島崎と食事を共にし、「並木」の事件は水に流したことにした。

大杉栄とその時代年表(733) 1907(明治40)年6月1日~15日 閨秀文学会(金葉会)設立。九段中坂下成美女学校、講師与謝野晶子、馬場孤蝶、森田草平(天台宗中学林の英語教師)、生田長江。聴講生平塚明子(らいてう、21歳)、青山(後、山川)菊枝ら。長江の勧めで明子が編集した回覧雑誌(1号のみ)に、明子が始めて小説を書く(「愛の末日」)

大杉栄とその時代年表(734) 1907(明治40)年6月16日~17日 「「ストルイピンは[1907年6月に]第2国会を解散し、ツァーリはポグロム主義者の同盟と友好的な電報をとりかわした。… これらの紳士諸君の戦術はきわめて単純なものである。 およそ1年前、反動的貴族階級の機関紙である『モスクワ通報』が、この戦術を以下の言葉で要約した。ロシアの人口は合計するとおよそ1億5000万人であり、革命に積極的に参加しているのは約100万人ほどである。仮に革命参加者全員を射殺したとしても、ロシアにはそれでもまだ1億4900万の住民が残っている。祖国の繁栄と偉大さにとってまったく十分な数である。」(トロツキー「国家と革命」)

大杉栄とその時代年表(735) 1907(明治40)年6月18日~21日 明治39年の終り頃から、「中央公論」、「太陽」、「文芸倶楽部」などが国木田独歩の作品を積極的に求めるようになった。 彼は、文士としての自分が時代の最前線に押し出されていることを見出した。このとき彼は数え37歳。

大杉栄とその時代年表(736) 1907(明治40)年6月22日~29日 「六月二十三日 (日)、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に、『虞美人草』掲載され始める。表題の肩に橋口清(五葉) のカットが一段の大きさで入れられる。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(737) 1907(明治40)年7月1日~3日 「此際、韓国に対して局面一変の行動を執るの好時期なりと信ず。即ち、・・・税権、兵権又は裁判権を我に収むるの好機会を与うるものと認む」(国統監伊藤博文より林菫外相への電報 )

大杉栄とその時代年表(738) 1907(明治40)年7月5日~12日 「韓国皇帝陛下が日韓協約を無視し、我政府を介することなく別に国際的行動を試みんとし玉いたる事実は則ち存す。此事実が重大なり。本来韓国皇帝は国際上の無能力者なり。此を以て日韓協約あり、此を以て統監あり。統監は日本に於て天皇に直隷し、韓国に於て直接管理指導の任に当る。而して猶今度の事あらしむるは何ぞや」(社説「伊藤統監の責」(「東京朝日」) )

大杉栄とその時代年表(739) 1907(明治40)年7月13日~19日 1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。31歳の若さであった。 秋瑾の遺句は「秋風秋雨、人を愁殺す」である。その後、多くの人に歌われた。 女性革命家であった秋瑾の処刑は、清当局が想像もしないほど大きな反響を呼び、その後の中国革命運動の精神的支柱の一つとなった。

大杉栄とその時代年表(741) 1907(明治40)年7月26日 茅野蕭々(25歳、東京帝国大学独逸文学科2年生)と増田雅子(28歳、「明星」第一期同人、新詩社を代表する女流歌人)、結婚。 茅野儀太郎、安倍能成、岩波茂雄の交友

大杉栄とその時代年表(742) 1907(明治40)年7月27日~28日 鉄幹以外は全て学生。太田正雄と北原白秋と平野万里が数え23歳、吉井勇は22歳。 旅行の紀行文は「東京二六新報」に掲載する約束があって、5人がかわるがわる無署名で執筆。「五足の靴」と題されて、8月7日から連載。

大杉栄とその時代年表(743) 1907(明治40)年7月28日~31日 新詩社同人吉井勇 吉井勇は名家の出である。祖父友美(前名は幸輔)は、鹿児島出身で、維新の時に西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走し、明治24年、数え64歳で死んだ時は伯爵、枢密顧問官であった。

大杉栄とその時代年表(744) 1907(明治40)年8月1日~3日 大韓帝国の軍隊解散 武装解除を拒んだ将兵の一部は丁未義兵など各地で蜂起 民間人も参加して武力による抗日運動(義兵闘争)が続く

大杉栄とその時代年表(745) 1907(明治40)年8月4日~15日 「漱石は沙翁を繰り返す気もなし語学者になる気もないが、この両人の根気だけはもらいたい。小説をじ然と発展させて行くうちにはなかなか面倒になってくる。これで見るとヂッケンスやスコットがむやみにかき散らした根気は敬服の至だ。彼らの作物は文体において漱石ほど意を用いていない。ある点において侮るべきものである。しかしあれだけ多量かくのは容易なことではない。僕も八十位まで非常な根気のいい人と生れ変って大作物をつづけ様に出して死にたい」(漱石の小宮豊隆宛手紙)

大杉栄とその時代年表(746) 1907(明治40)年8月16日~21日 明治40年大水害 山梨県の近代における最大規模の自然災害 被災者の北海道移住(計650戸・3,130人余) 現在では移住者の多くは離村し、移住地は原野に還元しつつあり、移住者の子孫も少なく地名などに僅かな痕跡を残している

大杉栄とその時代年表(747) 1907(明治40)年8月22日~31日 韓国、忠清北道堤川地方で「全村焼夷」作戦実施。 駐留軍司令部発行の『朝鮮暴徒討伐誌』は、「村邑は極目殆んど焦土たるに至り」と報告。イギリスの「デイリー・メール」紙も、「堤川は地図の上から消え去った」と報道した。 「英国政府が、日本軍隊の行動、往々過酷に渉るとの風聞ありと連絡してきた」と、当時の林外相は伊藤統監に注意を喚起している。伊藤統監は、「苛酷に失する軍事命令ありたるを以て、軍司令官に其の命令を変更せしめ」ると返答している。

大杉栄とその時代年表(748) 1907(明治40)年9月1日 朝鮮駐剳軍司令官長谷川好道、義兵討伐。徹底的焦土作戦、殺戮指示。 「討伐隊ハ以上ノ告示ニ基キ、責ヲ現犯ノ村邑ニ帰シテ殺戮ヲ加ヘ、若クハ全村ヲ焼夷スル等ノ処置ヲ実行シ、忠清北道堤川地方ノ如キ皆目殆ント焦土タルニ到レリ(「朝鮮暴徒討伐誌」)

大杉栄とその時代年表(749) 1907(明治40)年9月1日~2日 (漱石) 「九月上旬(日不詳)、午後、銭湯に行き長谷川辰之助(二葉亭四迷)に会う。風呂から出て、お互いに素裸のまま話し合う。二葉亭四迷は、前年一度卒倒し田端のほうで保養していたことがあると云う。現在は少しよい。それではまだ来客謝絶だろうと聞くと曖昧な返事をする。〝それぢや、行くのはまあ見合せ様。〞と云って別れる。(『長谷川君と余』) 九月二日(月)、体重十二賞五百匁(四十六・九キログラム)から二百五十匁(〇・九四キログラム)減る。胃の調子悪い。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(750) 1907(明治40)年9月2日~6日 陸羯南(51)没。明治22年2月「東京電報」を「日本」と改称し日本主義を宣言。その傾向は終始、官僚主義と藩閥勢力の攻撃にあった。三宅雪嶺、池辺三山、福本日南、古島一雄、子規、碧梧桐、不折、如是閑がこの新聞に籍を置いた。

大杉栄とその時代年表(751) 1907(明治40)年9月7日~14日 綱島梁川(35)没 明治40年6月頃、梁川の思想、信仰に傾倒する人々によって梁川会が作られ、東京、秋田、京都、樺浜、神戸等に組織が出来た。8月、梁川は「我とは何ぞや」を発表。その中で彼は法然・親鸞の他力本願の浄土宗系の思想に共鳴し、キリスト教と仏教との融和を認めるようになった。しかし、その稿は完成されなかった。

大杉栄とその時代年表(752) 1907(明治40)年9月14日~30日 漱石(40)、本郷の西片町より早稲田南町へ転居 「(西片町の家主の)家賃値上げを怒り、立ち退く時、損害賠償をすれば何をやってもよいというので、八畳の客間で小用を足したという。(難波秀吉(鉄道省電化課長)談)」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(753) 1907(明治40)年10月 ヒトラー、ウィーン造形美術大学を不合格(翌年も)。 トロツキー、ウィーンに戻り妻子と合流。ベルリンと往復しながら7年間滞在。ヒルファーディングと知己になり、ドイツ社会民主党員らを紹介される

大杉栄とその時代年表(754) 1907(明治40)年10月 〈7年間のウィーン滞在中にトロツキーが知り合いになった人々〉 「リープクネヒトは教養あるマルクス主義者だったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直観、大衆と状況に対するカン、イニシアチブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそは革命家だった。まさにそれゆえ、彼は、官僚的単調さが支配し何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ばよそ者であった。いかに多くの俗物と下劣な連中がリープクネヒトを皮肉な目で見下すのを、この目で見てきたことか!。」(トロツキー『わが生涯』)

大杉栄とその時代年表(755) 1907(明治40)年10月1日~19日 嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

大杉栄とその時代年表(756) 1907(明治40)年10月20日~31日 第1回文部省美術展覧会(「文展」)開催。上野勧業博物館、~11月20日 日本画99点、西洋画91、彫刻16。新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。

大杉栄とその時代年表(757) 1907(明治40)年11月1日~9日 大韓帝国第2代皇帝の純宗、即位に伴い、それまでの宮殿であった慶雲宮から昌徳宮へ移る。これにより、高宗は徳寿宮(旧・慶雲宮)に取り残され、実質的な影響力を削がれる。

大杉栄とその時代年表(758) 1907(明治40)年11月10日~22日 「『読売新聞』に、白雲子「漱石の人物と其作物」掲載される。・・・人物では徳義を知らず、作物では第三流に位すると批評する。自然主義者たちの反感を代表したものというよりも、『読売新聞』の漱石への反感を露骨に主張したもので、非難と罵倒の限りを尽くしている。『読売新聞』では、明治三十九年末頃から明治四十年初めまで、入社を期待し再三「社告」を出したにも拘らず、裏切られたという感じが強かったと推定される。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(759) 1907(明治40)年11月23日~29日 「「十一月二十五日(月)、上田敏欧米私費留学の送別会、与謝野鉄幹の肝煎りで、上野の精養軒で行われ、出席する。森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・木下杢太郎・成瀬無極ら五十人余り集る。森鴎外の次に壮行の辞を指名される。西洋から新式の便器を持って帰った話をする。森鴎外は独特のユーモアに感心する。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(760) 1907(明治40)年 〈谷崎潤一郎と精養軒〉 明治36年6月、谷崎潤一郎は精養軒当主北村重昌家の家庭教師兼書生として住み込む。彼は、その身分のまま府立一中から一高に進学する。

大杉栄とその時代年表(761) 1907(明治40)年12月1日~5日 李垠(11、高宗の七男)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。

大杉栄とその時代年表(762) 1907(明治40)年12月5日~30日 日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。

大杉栄とその時代年表(763) 1908(明治41)年1月 2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。 松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。

大杉栄とその時代年表(764) 1908(明治41)年1月1日~3日 「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(765) 1908(明治41)年1月4日~16日 「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(766) 1908(明治41)年1月17日~21日 金曜会屋上演説会事件。 堺利彦・大杉栄・坂本清馬・山川均・竹内善作・森岡栄治ら6人検束。 堺は『日本平民新聞』に、「僕等は只だ寧ろ軽率に一時の小憤を漏したるに過ぎぬ。実は窃に沈着なる同志の笑を恥ぢて居るのである」と書く。

大杉栄とその時代年表(767) 1908(明治41)年1月22日~29日 〈釧路;歓迎される啄木〉 29日付「釧路新聞」投書欄 「以前其新体詩にあこがれつつありし予此度啄木氏の入社を聞き懐しさに堪へず希くは近く結ばれむとする和歌会の為にも尽力の程を」

大杉栄とその時代年表(768) 1908(明治41)年2月1日~2日 「貞吉は実際、自分ながら訳の分らぬ程、日本人を毛嫌ひしてゐる。西洋に来たのを鬼の首でも取つたやうに得意がつて居る漫遊実業家、何の役にも立たぬ政府の視察員、天から虫の好かぬ陸軍の留学生。彼等は、秘密を曝かれる懼れがないと見て、夜半酒場に出入し、醜業婦に戯れて居ながら、浅薄な観察で欧洲社会の腐敗を罵り、其の上句には狭い道徳観から古い武士道なぞを今更の如くゆかし気に云ひ囃す」 (荷風『ふらんす物語』)

大杉栄とその時代年表(769) 1908(明治41)年2月3日~10日 「紀州新宮の大石祿亭君、彼は実に吾党の先輩長者である。彼の医術がいかにひいでたるかは僕の知るところでない。しかし僕はもし病ありて彼の手に治療を受くるならば、即日死んでも本望である。彼の半面は慈眼愛腸(ママ)である。彼の反面は狷介不羈である。彼は浮世をお茶にして三分五厘を観すべき瓢逸の質を備えている。彼は世を捨て山に入り隠遁の生を送るべき仙骨をも備えている。 しかして今彼はあくまで人間にとどまり、あくまで世間と闘い、革命家をもって自ら任ぜんとしているのである。彼はどどいつをも作る。料理にも凝る、細君の紋付のすそ模様の考案をもする。一種風変りの洋服をも案出する。産科学の書をも読む。哲学宗教の書をも読む。文章も書く。演説もする。痛罵もする、冷嘲もする。皮肉を言う、そしていつでも嬉々として喜び、ゆうゆうとして楽しんでいる。僕は実に彼の清高と多才とに推服せざるを得ぬ。」(堺利彦「獄中より諸友を懐(おも)ふ」)

大杉栄とその時代年表(770) 1908(明治41)年2月11日~29日 「人は感情の満足を、若き女に求め、家庭に求め、趣味に求めむとす。然れども小生は遂に天が下の浮浪漢なり。之を若き女に求めむには我が心老いたり。之を家庭に求めむには我が性あまりに我儘に過ぐ。而して之を趣味に求めむには、我が趣味あまりに自発的なり、所詮は之を自己自らに求むる外に途なきを悟り候ひぬ。 「創作的生活」(専念創作に従ふ生活) はかくて現在の私の最大なる希望、唯一の希望に候ひき。」(啄木の大島経男宛手紙)

大杉栄とその時代年表(771) 1908(明治41)年3月1日~7日 蒋介石の二度目の来日 蒋介石ら62名の軍事留学派遣団、大連港を出発、長崎経由で神戸へ上陸、鉄道で東京へ向かう。東京の牛込区市谷河田町にある振武学校(清国人専用の軍事予備学校)に入学。

大杉栄とその時代年表(772) 1908(明治41)年3月8日~20日 「今度の「新仏教」では(も?)チョイチョイ社会党分裂に対する御こゞとがあるやうだが、僕等が社会新聞の人達と分れたのは、意見議論の違ふ上から来た自然の結果で、別に金銭や利益の問題を混して居ない。即ち 僕等は、政治、法律、議会、選挙に絶望した無政府共産主義となり  彼等は、依然国家の権力に依って万事を行はんとする所謂社会民主主義だ。」(幸徳秋水の高嶋米峰宛の手紙)

大杉栄とその時代年表(773) 1908(明治41)年3月21日~31日 釧路訣別の辞「〝さらば″ 啄木、釧路に入りて僅かに七旬、誤りて壷中の趣味を解し、觴(*さかずき)を挙げて白眼にして世を望む。陶として独り得たりとなし、絃歌を聴いて天上の楽となす。既にして酔さめて痩躯病を得。枕上苦思を壇にして、人生茫たり、知る所なし焉。 啄木は林中の鳥なり。風に随って樹梢に移る。予はもと一個コスモポリタンの徒、乃ち風に乗じて天涯に去らむとす。白雲一片、自ら其行く所知らず。噫。 予の釧路に入れる時、沍寒骨に徹して然も雪甚だ浅かりき。予の釧路を去らむとする、春温一脈既に袂に入りて然も街上積雪深し。感慨又多少。これを訣別の辞となす。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(774) 1908(明治41)年4月1日~2日 塩原事件の後始末 「(四月初め(推定)(日不詳)、生田長江、平塚家を訪れ、漱石と馬場孤蝶に事件の処理を委ねたと語り、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにど両親に十分謝罪させる。その上で時期をみて、平塚家へ令嬢との結婚を申し込ませる。」(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』)と伝言する。平塚明子も両親も意外に感じる。)」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(775) 1908(明治41)年4月3日~8日 「(四月八日(水)、午後十時頃から雪降る。桜花満開時で驚く。魯迅、仲間四人と共に本郷区西片町二十番地ろノ七号(現・文京区西片一丁目十二、十三番) に住む。) 魯迅の友人の許壽裳が探したものである。五人で住んでいたので、門灯に 「伍舎」と書く。魯迅は、漱石の『虞美人草』を愛読し、漱石の旧居に住むことを誇りにしていたと云う。魯迅は、階下南側の六畳に住む。当時、民報社に通う。民報社から孫文・炳麟・黄興らが『民報』を刊行し、中国革命を志していた。宮崎滔天の義姉前田卓子も手伝う。宮崎滔天は、『民報』の後援者でもある。魯迅は、この家に明治四十二年一月まで住む。家賃が余りに高かったので、西片町十番地はノ十九号(現・文京区西片一丁目) に移り、同年帰国する。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(776) 1908(明治41)年4月10日~20日 塩原事件の後始末 漱石「四月中旬(推定)、平塚定二郎宛、親展の手紙(現在はない)を出す。〝森田は今度の事件で、職を失った時あの男はものを書くよりほか生きる道をなくした。あの男を生かすために今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。貴下の体面を傷つけ、御迷惑をかけることを自分の責任においてさせないから曲げて承知をしてほしい〞との主旨であったが、両親は承知しない。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(777) 1908(明治41)年4月22日~30日 鉄幹に失望する啄木 「四時すぎて新詩社につく。 お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も坐布団も、三年前と変りはなかつたが、八尾七瀬と名づけられた当年二歳の双児の増えた事と、主人与謝野氏の余程年老つて居る事と、三人の女中の二人迄新しい顔であつたのが目についた。本箱には格別新しい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋絣とかいふ、馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が二寸も出て居た。同じく不似合な羽織と共に、古着屋の店に曝されたものらしい。 (略) 与謝野氏は既に老いたのか? 予は唯悲しかつた。」

大杉栄とその時代年表(778) 1908(明治41)年5月1日~2日 花袋・真山青果(30)、「二十八人集」を持って茅ヶ崎南湖院に独歩を訪ねる。8日、青果は独歩の話相手になるべく、海岸の宿に移る(2ヶ月間)。独歩とのやり取りを「国木田独歩氏の病状を報ずる書」として読売新聞連載(10回)。5月中旬、病床の独歩の言行録を纏める約束を新潮社社長佐藤義亮と交わす(6月23日独歩没後、7月15日、青果編「病状録」刊行)

大杉栄とその時代年表(779) 1908(明治41)年5月2日~8日 「謹しみて過ぎし夜の御礼申上侯、 海氷る御国のはてまでも流れあるき侯ふ末、いかにしても今一度、是非に今一度、東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験せねばと決しては矢も楯もたまらず、養はねばならぬ家族をも当分函館の友人に頼み置きて、単身緑の都には入り侯。」(啄木の5月7日付け鷗外宛の手紙)

大杉栄とその時代年表(780) 1908(明治41)年5月9日~17日 「五月中旬、鏡との間、険悪になる。五月中旬から六月下旬までの「断片」(小宮豊隆校訂)には、殺人や自殺を扱ったものが多い。 これは、次のように分類される。恐らくは同じ日に書き込まれたものである。(推定)」

大杉栄とその時代年表(781) 1908(明治41)年5月18日~30日 5月24日 正宗白鳥・岩野泡鳴、独歩を見舞う。田山花袋・前田木城・吉江狐雁・小栗風葉が先客。「暗闘」あり。国木田独歩(35)、正宗白鳥、中村星湖、小栗風葉、相馬御風、前田木城、田山花袋、小杉未醒、岩野泡鳴、真山青果、吉江孤雁の10人と共に記念写真をとる。この日、花袋・白鳥ら国府津館に泊まる。

大杉栄とその時代年表(782) 1908(明治41)年5月下旬 「五月下旬から六月初めまでの間、二葉亭四迷が、ロシアの首都ペテルブルグ (レニングラード)に赴くことが内定した頃(「長谷川君と余」)、鳥居赫雄(嘉川)は大阪から出張上京し、神田連雀町の常宿で、二葉亭四迷と漱石を昼食に招待する。旅館でおち合い、鰻屋神田川 (神田茂七経営。神田区台所町一番地、現・千代田区外神田二丁目五番十一号) に行く。神田川で、二葉亭四迷は満洲に旅行したことやロシア人に捕えられ監獄に入れられたこと、ロシアの文学界の詳しい事情を話し、ロシアに行ったら日本の短篇小説をロシア語に訳してみたいと云う。ヴァシーリ・イヴァノヴィッチ・ネミロヴィチ=ダンチェンコの宴会に出て欲しいこと、弟子の物集和子を託したいと頼まれる。三人で三時間寝そべって話す。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(783) 1908(明治41)年6月1日~3日 安重根、間島地方で「連合大韓義軍」参謀中将に選出(兵力200~300)。間島から豆満江を越えて咸鏡北道に出撃。緒戦勝利するが、武器弾薬不足・訓練不足のため連合大韓義軍は崩壊。安は1人で山中放浪しロシア領ポシエトに逃亡。

大杉栄とその時代年表(784) 1908(明治41)年6月4日~11日 「馬場氏は、自然派の文が感情を軽んじてゐる事を難じ、且つ若いうちは延ばすに可いだけ延ばして書くべしと云つた。藤村の“春”については、真摯でない点があると云つた。 此人は常に一寸捻くれた頭を持つた人で、其いふ事がキビキビしてゐる。学生の堕落といふ事を話した時、今日が昔に比して学生が悪くなつたのでなくて、詰り悪い事をする様な者まで学生になる程、教育の範囲が広くなつた、と評した。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(785) 1908(明治41)年6月11日~13日 「今の世でも理想家はある。しかし多くの理想家の理想は死(しに)理想で役に立たぬ。実際家は固(もとよ)り多い。しかし実際家は実際にかまけて理想を缺(か)きが故に、其の為(す)る所は動(やや)もすれば小細工に流れケチになる。理想に囚われず、実際に役(えき)せられず、超然として心を物外(ぶつがい)に置きながら、驀地(まつしぐら)に物内に突入して活殺自在の働きを為し得る底(てい)の其人物は存外少ない。否殆ど無いが、僕の見た男爵(後藤新平)は則ち其の人たるに庶幾(ちか)い」 (二葉亭四迷「入露記」)

大杉栄とその時代年表(786) 1908(明治41)年6月14日~15日 現実に川上眉山を殺したのは、生活の窮迫であり、将来への悲観であった。そのことは二葉亭の送別会に出席した誰もが知っていた。彼は死に臨んで、武士の末裔であることをしめすかのように、ためらい傷ひとつつくらず、剃刀のただ一閃によってその命を断ち切った。〈関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』より〉

大杉栄とその時代年表(787) 1908(明治41)年6月16日~22日 二葉亭四迷が見た大連 「露国の遣方(やりかた)は実際的ではなかったから、こんなに大風呂敷を拡げやがって、尻括(しりくくり)が出来るか如何(どうか)怪しいものだと嘲けりながらも、眼前に大埠頭の海に突出し大厦高楼の巍然(ぎぜん)として広衢(こうく)の左右に聳ゆるのを見ては、竊(ひそか)にスラーブ民族の羽翮(うかく)の力存外強く、一たび搏てば高く天に沖(ちゆう)する勢いあるに驚き、我が日本の前途の為に憂惧せざるを得なかった」 (「入露記」)

大杉栄とその時代年表(788) 1908(明治41)年6月22日 赤旗事件「それから皆は警視庁に移され、東京監獄(今の市ケ谷=いちがや)に移され、そして青鬼とあだ名された河島判事の予審に付せられた。罪名は官吏抗拒、および治安警察法違犯であった。公判の結果は、たかだが二カ月以上四カ月くらいなものだという見当だった。あんな何でもない、つまらん事件だもの、それ以上になりっこはないという、被告らの輿論だった。ところが意外にも、判決申し渡しは一年、一年半、二年の三種だった。それを聞いた時、わたしはほんとに「オヤ!」と思った。多くの被告は「無政府主義万歳!」を唱えて退廷した。婦人連のうち、二人は免訴となり、二人は執行猶予となった。」(堺利彦「赤旗事件の回顧」)

大杉栄とその時代年表(789) 1908(明治41)年6月23日~30日 西園寺首相、原敬・松田正久に病気を理由に辞意表明。原、次期議会終了前の辞職に反対。 原は、「今日病気にて辞職するも誰も病気の為めと思う者」はいない、来春の議会が終わるまで、せめて秋に予算編成が終わるまで政権を維持することを主張(「原敬日記」27日)

大杉栄とその時代年表(790) 1908(明治41)年7月1日~3日 「七月二日 (略)もう十二時ですと女中に云はれて起きた。今日も雨、イヤな日。宿の人を呼んで、下宿料待つて貰ふことに談判調ふ。三時頃出掛けて、昨日来た五円を郵便局で受取つて、“趣味”の七月号、辞林、英和辞書、“Favourite poems”を買つて来た。紋付の羽織を質屋から受けて来た。(略)金の多少ある晩は、何となく気が暢然してゐる。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(791) 1908(明治41)年7月4日~9日 「金田一君と語つた。明治新思潮の流れといふ事に就いて、矢張時代の自覚の根源は高山樗牛の自覚にあつたと語つた。先覚者、その先覚者は然しまだ確たるものを攫まなかつた。……自分自身の心的閲歴に徴しても明らかである。樗牛に目をさまして、戦つて、敗れて、考へて、泣いて、結果は今の自然主義(広い意味に於ける)!」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(792) 1908(明治41)年7月10日~16日 二葉亭四迷、ペテルブルク到着。「最初の予定と違い、大連やハルビンに逗留し、モスコウにも三日居たから、旅費が非常に嵩(かさ)んでしまった。未だ細かな勘定はしていないが、残りの高より推すと余り掛り過ぎたようだから、いくら約束で実際に掛っただけを社で出す筈とはいえ、ちょっといいにくい感があって、当惑している。しかし今更いかんともしがたい。有の儘に事情をいってやるつもりだ」(二葉亭の7月17日付妻・柳子宛手紙)

大杉栄とその時代年表(793) 1908(明治41)年7月16日~22日 「死場所を見つけねばならぬといふ考が、親孝行をしたいといふ哀しい希望と共に、今の自分の頭を石の如く重く圧してゐる。静かに考へうる境遇、そして親を養ふことの出来る境遇、今望む所はただそれだ。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(794) 1908(明治41)年7月24日~25日 「社会主義の巨頭幸徳秋水の来遊を歓迎して、新宮町の同志大石誠之助の発起によって大石の感化を受けて社会主義を奉ずるようになっていた町内の二、三の人々、たとえば真宗の僧侶や、川奥の山に働く青年やいかだ流しの若者、さては社会主義とは関係なく大石と親交のある町のインテリなど、大石の呼びかけに応じて集まり、季節柄熊野川に自慢の落鮎狩りを催して晩夏一夕の涼をとり、互に杯を交して親睦しつつ幸徳氏の旅情をねぎらい高話を聴こうと川舟を用意した。」(佐藤春夫『大逆事件の思い出』)

大杉栄とその時代年表(795) 1908(明治41)年7月26日~31日 「夜、何か書くつもりだつたが、些ともそんな張合がない。 うつらうつらと、気のぬけた様な心地で、蚊に攻められながら、いろいろの事を考へた。大薩パに言つてみようなら、自己の価値、文学の価値、それらが総て疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。予は生れてから今が一番真面目な時だ。然し今でもまだ不真面目なところがある。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(796) 1908(明治41)年8月1日~6日 荷風の井上精一(唖々)宛の手紙 「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」(8月4日) 「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」(8月8日)

大杉栄とその時代年表(797) 1908(明治41)年8月7日~15日 「先づ明星を百号にてやめる件、についての相談あり。平出君最も弁じ、大井君保守説を持す。夕刻にいたり、廃刊の事与謝野氏の懇望によつて決し、新たに与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起すこととなり、平野吉井予の三人編輯に当ることとなれり。予は初め固辞せしも聞かれず、与謝野氏の衷心に対する同情は終に予を屈せしめたり。」(啄木日記)