1931(昭和6)年
9月19日
午前7時過ぎ、若槻首相・幣原外相ら、事変発生を知る。
朝、幣原外相は駒込の自宅で朝刊を読んで初めて事変を知る。すぐ首相官邸に駆け付け、若槻首相に外務省電報による概要を報告、臨時閣議召集を申し出る。林久治郎奉天総領事から「支那側に破壊されたと伝えられる鉄道個所修理のため、満鉄より線路工夫を派遣するも、軍は現場に近寄らせず、事件は全く軍部の計画的行動に出たものと想像せらる」との極秘電報が届く。
午前7時55分、林銑十郎朝鮮軍司令官より陸軍中央へ兵力移動入電。
「軍ハ奉天方面ノ情況ニカンガミ、飛行第六連隊(平壌)ヨリ戦闘・偵察各一中隊ヲ今早朝平壌出発、関東軍ニ増援セシメ、マタ第二十師団(朝鮮・竜山)ノ混成旅団・約一旅団ハ奉天方面ニ出動ノ準備ニアリ。ナホ第十九師団(羅南)ニハ、ナルベク多クノ兵力ヲ以テ出動シ得ルゴトク、衛戌地ニオイテ準備ヲ整ヘシム」
9月19日
午前8時40分、朝日新聞航空部の社機、大阪から京城へ飛ぶ。
ここで奉天(現瀋陽)から列車で着いた写真などを積み、翌20日、広島に飛ぶ。ここで待機する別の機に引き渡し、この日の内に東京・大阪で写真号外を出す。朝日は、翌32年3月までに11機を使い計296回も飛ぶ(社機15機保有、「毎日」は数機、「読売」はゼロ)。多いときには1日6回の号外を出す。
中国各地へ記者14(荒垣秀雄ら)・カメラマン8ら特派員計22人を次々に送り込み、「朝日」の圧倒的資本力・機動力で、日中交戦の写真や記事の号外を次々に発行。号外は、2~4頁の付録で、事変一段落する迄に計11回発行。加えて大付録も出す。22日の本紙に地図入り1頁の平易な解説「満蒙早わかり」を添付。国際連盟に持ち込まれてからは、27日、連盟の本質や機構を説明した「国際関係早わかり」(2貢)添付。
事変と同時に、活動写真班は奉天・長春などで軍の奮闘ぶりをフイルムに収め、21日には本社に空輸し、早速、大阪朝日会館でニュース映画を上映。以降新報が届くたびに、大阪中之島公園などで封切られ、大阪、神戸、京都、広島、名古屋、金沢、高松、門司などで公開され、大好評を博す。
「東西朝日」の報道量。社説54回。特電の回数、19日162通。9月360通、11月525通、12月末迄に3785通(普段は月50~100通)。これらの電報は奉天、北平(北京)、天津、錦州、営口、大連、チチハル、ハルビン、長春、吉林など16ヶ所60人の特派員から打電(60人中43人は「大阪朝日」特派員)。号外も連日で、日によって朝夕刊で発行、9月11日~翌32年1月10日、131回、大部分は1頁大の号外。慰問金総額38万円余。特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人の聴衆。ニュース映画上映は、公開個所1501、公開回数4002、観衆1千万人。
19日未明、満鉄線爆破の一報が入った時、東京朝日編集局長緒方竹虎は「出先の出来ごとだから」小さく扱うように指示(「朝日新聞社史」)が、朝日は対中国強硬論に転換したと判断した整理部員が「日支両軍戦端開く」と大展開。整理部デスクは始末書を書く。しかし、ほどなく社論は大きく転換する。
この頃の様子を緒方竹虎は戦後、「早速論説の打合せ会議を開いたところ、・・・背後から鉄砲を撃つようなことは出来んというので、事実に引きずられて」しまった、とする。大阪朝日編集局長高原操は、「奉天特派員よりのうな電その他約尺余の高きに及べり・・・。「支那官兵の鉄道破壊に始まる」と報ずこれを肯定の外なし。臨時部長会を開く。対外的関係重視の必要上、報道全部をそのまま信じ・・・」と「編集局日誌」に書く。奉天通信局長は武内文彬。関東軍石原莞爾とも親密で、関係を危ぶみつつ、激しい報道競争の中で武内を重宝がる。
東京朝日の第一報見出し、「奉軍満鉄線を爆破」(爆破は奉天軍=中国軍の仕業)と、関東軍発表をそのまま掲示。朝夕刊のみならず、号外・第二号外も発行。「奉天軍の計画的行動」「激戦で我兵十九名戦死」。
9月19日
朝、原田熊雄、新聞で事実を知り、直感的に「いよいよ、やったな」と思う。すぐ調査し、「要するに、関東軍司令官が建川が持っていった陸軍大臣の親書を見ない内に、かねての計画を実行させようということらしい」との真相を突き止める(「西園寺公と政局」)。
9月19日
午前9時、後退中の長春駐剳部隊第4連隊黒石大隊と公主嶺守備隊小河原大隊、合流。
10時一斉攻撃前進。
挟撃作戦により、午後4時、南嶺兵営占領。
9月19日
午前8時30分~9時45分、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針(但し、真相究明には踏み出さず)。幣原外相の謀略追求のため。南陸相、朝鮮軍派兵提議出来ず。続いて3次官会議(杉山元陸軍次官、二宮治重参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長)、「之を以て満蒙問題の解決の動機となす」との方針決定。
南陸相は、「事ここに至った以上は、在留邦人の保護の必要は元より、懸案の満蒙特殊権益確保のために、政府は一大決心をなすべき秋がきた」と主張。
幣原外相は、「国際関係も考慮し飽迄小範囲に限定して事件を拡大させない方針を採りたい」と反対、井上蔵相も同調し、政府は事件に対し不拡大方針で臨む事に決定。
若槻首相は南陸相に、「原因は支那兵がレールを破壊した正当防御であるか。もしそうではなく、日本軍の陰謀的行為ならば我が国の世界における立場はどうするか」とクギを刺し、これ以上、事変を拡大しないよう指示。南陸相は「朝鮮軍より増援することの必要を提議」しようとするが、幣原外相が現地からの電報を朗読し関東軍の謀略を匂わしたので、「提議するの勇を失えり」という。
幣原喜重郎は、外務省が得た情報を朗読、「事件は恰も軍部が何等か計画的に惹起せしめたるもの」(「太平洋戦争への道 資料編」)。
9月19日
午前9時45分、南陸相、参内、状況を上奏。
9月19日
午前10時15分、朝鮮軍司令官より混成旅団を増援のため出発させるとの報入電。
9月19日
建川、本庄関東軍司令官(午前11時奉天着)と会い、今後の事変展開について具体的に献策。
「東支線の性質と現下一般の情勢に鑑み、長春以北には兵を派せざるを可とすべきも、吉林、幷洮南等は一刻も早く打撃を加ふるを有利とすべく、又現東北政権を漬し宣統帝を盟主とし日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべし」。
建川は、事変勃発後の事態に即応しつつ、中央と出先関東軍の意見を調整し、両者が齟齬を来さぬよう、関東軍に対しては過剰な行動を抑制し、中央に対しては既成事実承認へ導く巧妙な役割を演じる。
9月19日
中国共産党満州省委員会、「日本帝国主義の満州武装占領についての宣言」
9月19日
午後0時30分、参謀総長名で朝鮮軍へ勅命下達までは増援見合わせるよう機密至急報を発信。
9月19日
午後1時30分、若槻首相、事件の不拡大方針を上奏。
9月19日
午後2時、3長官会議(南次郎陸軍大臣、金谷範造参謀総長、武藤信義教育総監)、閣議決定に同調。3次官はこれを満蒙問題解決の動機にすべしとの意見。
金谷参謀総長は、部内に対し、速かに事件を処理し「旧態に復する」事が必要との意向を示すが、幕僚クラスは、何の成果も挙げないうちに撤兵させることはできないという強い反発の声があがり、3次官はこれに同調。
9月19日
午後2時、旅順の軍司令部、奉天へ移動完了。
9月19日
午後5時45分、本庄関東軍司令官、金谷参謀総長に打電して内地からの増援を要請。
「事態玆ニ至レル以上、此絶好ノ機会ニ於テ先ズ軍ガ積極的ニ全満州ノ治安維持ニ任ズルハ最モ緊急ナリト借ズ。之ガ為、平時編成三個師団ノ増援ヲ必要卜認ム。之ニ要スル将来ノ経費ハ満州二於テ負担シ得ルコト確実ナリ」。
9月19日
夕方、吉林省政府顧問大迫通貞中佐、吉林総領事石射猪太郎に居留民救援要請を軍に出すよう力説、石射拒否。
9月19日
夜、吉林、日本人浪人、日本人商店にピストルを撃ち込む。
9月19日
夜、満鉄北端の長春占領
9月19日
深夜、建川・板垣・石原・花谷・片倉、奉天の瀋陽館2階で「問題解決」を協議。
石原は持論の満蒙占領案を主張。
建川は、「阻害された権益の回復と事変の不必要な拡大の不可を説き、結論として満蒙を独立させ、日本が適当と認める政府を擁立し、指導してゆく。擁立すべき者としては清朝廃帝宣統帝が適当」という妥協的な結論を得る。
板垣は、「今日の事態を機とし、情勢判断第四段階、すなわち領土とするを得策とすべし」と主張。
石原は「現下の状勢、なかんずく、ソ連の軍事力、英支の軍事態勢、米国の軍事力とくにその海軍力は、いずれも実力干渉の能力に欠け、国際連盟の実力干渉も困難であり、日本の国防、満州の防衛、はたまた東亜の保衛上からも天与の好機である」ので、「このさい南北満州の一体不可分解決の要あり」と力説。この石原の判断は正鵠を射ている。アメリカはフーバー大統領が大恐慌に苦戦中、イギリスはマクドナルド首相辞職後、自由・保守両党による国民内閣を組織したばかり、ソ連は第1次5ヶ年計画が完成するかどうかの瀬戸際で、いずれも極東の軍事紛争に兵を進める余裕はない情況。
建川は、板垣・石原の意見具申に対し、翌20日、「現下一般の情勢、就中、東支線の性質から、長春以北には派兵せざるを可とするも、吉林、洮南等は一刻も早く打撃を加うるを有利とすべし。また現東北政権を潰し、宣統帝を盟主とする日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべ」と答える。建川の眼はソ連にむき、その視野を限界点として発言。彼は、その場で発言したばかりでなく、同じ内容のものを電文として、陸相・参謀総長にも打電。
建川は、「情勢判断の第一段」(満蒙における日本の権益の実際的効果を確保し、その拡充につとめる。学良政権にかわる親日新政権を樹立するが、支那中央政府の主権下におく(「昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断」)実施の時期であると提言し、板垣・石原の満蒙占領案と衝突するが、建川はその主張を変えず。しかし、軍の積極的行動には、敢えて拘束を加えないと言明(「片倉日誌」)。
9月19日
林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁がそれぞれ、関東軍が奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破、これを中国軍の所為として総攻撃、奉天城を占領した(満州事変)のは、軍部の計画的行動と幣原喜重郎外相に報告。
林奉天総領事、「今回軍隊出動の計画はすでに一四日以来、非常演習として予行せられたり。我軍の行動は予定の計画の実現と推定される。支那側の無抵抗態度と我軍事行動に伴う小事故が在留外人を刺激し、世界の世論がわが方に不利なる傾向が現われ、対外政策ますます難局に陥るのではないかと憂慮に堪えず」と幣原外相に入電。
9月19日
満州事変の第1報、初のラジオ臨時ニュースとなる。
9月19日
この日付「東京朝日」号外。朝月新聞奉天通信局長の武内文彬による急報。
「ままよと勇を鼓して城内へ入れば警備の武装巡警に止まれ!と銃剣を突付けられること数度に及びその度にえり下が冷やりとする」「交戦地の日支両軍のぶつ成す砲声はますます加はり、日本軍の城内占領計画具体化とともに危険刻々に迫り城内日支人の動揺は極度に達し」。
9月19日
満州事変勃発の影響で、株式、商品相場が暴落。
9月19日
「ラ・スイス」紙、柳条湖爆破事件報道。
9月19日
ヒトラー姪ゲリ・ラバウル、ミュンヘンのヒトラー宅で発見。自殺として処理されるが謎
9月19日
連盟議長レルー(スペイン外相)、日本代表芳沢謙吉に説明求む。
つづく

