2026年2月22日日曜日

〈国民民主・元フジ社員候補とキラキラSNSコンサル女子を逮捕〉「よく高級外車に乗って日枝さんとの仲を自慢してた」玉木代表の“肝いり”も買収で御用(集英社) / 「日当を支払っていることは他の人に言わないで」SNS運用担当の女(25) 違法性認識か…国民民主党から立候補の入江伸子容疑者(63)ら女3人逮捕 警視庁(TBS) / 玉木代表がマイク収めに選んだ候補   

大杉栄とその時代年表(762) 1907(明治40)年12月5日~30日 日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。

 

高野岩三郎

大杉栄とその時代年表(761) 1907(明治40)年12月1日~5日 李垠(11、高宗の七男)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。 より続く

1907(明治40)年

12月5日

直接行動派「日本平民新聞」、増税反対運動を茶番狂言と冷眼視する。

15日、議会政策派「社会新聞」は田添鉄二が、増税は帝国主義財政の帰結と指摘、反対運動参加呼掛け。

12月5日

有島武郎、母校・札幌農学校から教師に招聘される。

札幌農学校は、この年、専門学校から昇格して農科大学になったが、同時に仙台に設けられた東北帝国大学の一部分としての農科大学となった。武郎はこの予科の英語科講師に任命された。

明治27年以来、札幌農学校の第1回卒業生の佐藤昌介はこの学校の校長であったが、この時も佐藤昌介はこの農科大学の学長であった。

また明治29年、有島が札幌農学校へ入学した当時、そこの教授をしていた河野信子の叔父に当る新渡戸稲造は、明治30年にその職を離れ、台湾総督府の技師となり、その間に農学博士と法学博士の学位を得、二度の欧洲旅行を経て、明治36年に京都大学教授となり、明治39年からは第一高等学校長と東大の農科大学教授を兼任していた。

札幌の農科大学へ就職することは、有島にとっては直面している煩悶から逃れる機会であり、同時に父の世話にならずにすむ自活の道を見出したことであった。また、父武にとっては、長男が官立大学の教員になるという目出度いことであったので、それは父にとっても歓迎すべきことであった。

翌明治41年(1908年)1月3日夜、有島は東京を発って札幌に向った。"

12月6日

政界革新運動を進める新聞人、増税閣議決定に先立ち反対運動を起こすべく会合。

23日、政界・実業界100人を招き非増税懇親会開催。開会の辞は猶興会島田三郎(「毎日新聞」社社長)。大隈重信(前年、藩閥妥協派により憲政本党総裁の地位を奪われた)・中野武営(東商会頭)が演説。院外では商工会議所が、院内では猶興会・憲政本党反藩閥派(犬養毅ら)が、新聞が世論を喚起する、悪税反対運動の原型が示される。

12月6日

金曜後援会(第14回))。大杉栄、「現代社会の二大傾向」と題し、クロボトキン「パンの略取」第1章「強三斗無政府」を紹介。

12月8日

片山潜、幸徳が街鉄に買収されていると報じる(「社会新聞」第28号)。幸徳が電車賃値上げ反対運動に不熱心なため。

12月10日

(漱石)

「十二月十日(火)、暖かい雨降る。鏡、風邪で床に就く。『大阪朝日新聞』から、年が明けたら三十枚位の小説を書いて欲しいと依頼される。この日の前後、『文學評論』の訂正終る。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)


12月10日

九段に品川弥二郎銅像除幕式

12月12日

啄木(21)、社の内紛に関して「小樽日邦」事務長小林寅吉から暴力をふるわれこれを契機に退社(21日退社広告)。給料未払いで生活困窮。

22日、沢田信太郎「石川啄2木兄と別る」(『小樽日報』に掲載)。  

12月13日

愛知県の機械職工宮下太吉、大阪出張の際、大阪平民社に森近運平訪問(1回目)。日本歴史のなかの皇室に関して質問。森近は久米邦武「日本古代史」の知識で、神武起源の不確実性について述べる。

12月15日

東京市の電車市有協定成立する

12月15日

ペルシア国王、国会廃止を企て、首相を投獄。

12月16日

(漱石)

「十二月十六日(月)、『坑夫』の発端書き始める。小宮豊隆宛葉書に、「文債に籠る冬の日短かゝり」と書く。

(浅井忠死去する。)

十二月十八日(水)、『坑夫』執筆で忙しい。


『坑夫』を起稿したのは十二月十日(火)過ぎであろう。(不確かな推定)推定の根拠は次のとおりである。

(1)十二月十日(火)鈴木三重吉宛葉書(消印午後十一時-十二時)に、「小生も三十日つゞきのものを只今たのまれた許りに候。小説と行かなくても三十日はつゞげろ義務が出来候。可相成は二十九日位で御勘辨を願はんかと存候。」とある。この葉書を書いた日に、大阪朝日新聞社から電報または手紙で、三十日続きのものを依頼されたと推定される。必ずしも小説ではない。

(2)荒井某から『坑夫』の材料を提供されたのは、十二月十日(火)から数日の間だと推定される。

(3)十二月十六日(月)小宮豊隆宛葉書に、「小生矢張り執華中。毎日ニ三回かく豫定/文再に籠る冬の日短かゝり」と書く。」(荒正人、前掲書)

12月16日

浅井忠(52)、没

12月17日

韓国、金秀敏、処刑。

12月19日

ペンシルベニア州ジェーコブス・クリークの炭鉱中の爆発、死者239人。

12月20日

東京電灯株式会社、山梨県駒橋水力発電所一部完成により、東京への送電開始。麻布・麹町配電所区域で電灯点火。

12月20日

(漱石)

「十二月二十日(金)前後(推定)、鈴木三重吉からの手紙で午前十時、鈴木三重吉に会い、昼食と夕食を共にし、午後九時頃帰る。縁談である。(『文鳥』)翌日も同じ用件で出掛け、午後三時頃帰宅する。その間に、文鳥の餌なくなり死んでいる。十六歳になる女中を呼びつけ、文鳥の死骸を抛り出す。鈴木三重吉宛葉書で文鳥の死を知らせる。女中に、この葉書の投函と、文鳥を持ち去るように命令する。暫くすると裏庭で子供たちは文鳥を埋めると云って騒ぐ。植木屋も手伝う。翌日午前十時に起き、前日植木屋の声のしたあたりを眺めると木賊(とくさ)より低い小さな木札が立ててある。筆の筆跡で、この土手登るべからず、と書いてある。午後、鈴木三重吉から返事あり、文鳥はかわいそうなことをしたとだけ記してある。」(荒正人、前掲書)

12月21日

啄木、「小樽日報」退社。

「小樽日報」に退社広告を掲げる。

「小生本日を以て退社候也 二十一日.石川啄木 猶小生に御用の方は区内花園町畑十四番地(月見小路)に御申越被下度候」。

「小樽日報」退社後、一家のの生活困窮を極める。

22日 沢田信太郎、「小梅日報」紙上に「石川啄木兄と別る」と題する告別の辞を掲げる。


啄木は潔く退社したものの、アテにしていた札幌の新聞は容易に誕生しなかった。日報社よりの収入が絶えると、蓄もない彼は、正月を目前にひかえて暮しに困るようになった。

老母と妻子を抱えて門松も立てられず、まともな正月の準備もできず、流石に暢気な啄木もあせらずにはいられなかった。彼は「小樽新聞」の上田社長を訪問したり、札幌の「北海タイムス」に就職運動をしたりしたが、何れも失敗に終った。

雪吹きすさぶ小樽花園町の一角に、一家は再び生活の危機に直面した。


12月22日

清国、鉄路総局設置。

12月22日

日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。

①右派(日本興業銀行総裁添田寿一):国家的保護政策と主従関係利用策。工場法施行・労働保険の強制的施行を主張するが、労使関係調整は主従関係利用。

②左派(高野岩三郎):社会問題解決の鍵は労働組合・消費組合等の活動の発展。

③中間派(桑田熊蔵):社会改良主義実行には3種の方針。

ⅰ、国家的方針:国家原則は平等、「国家は弱者を助け強者を制する」べき、「国家の権力に訴え立法行政の手段に依って、社会改良の目的を達すること」を主眼とする。

ⅱ、慈恵的方針:「富豪及び資本化がその私財を抛(なげう)ち、以て貧者労働者を救助」し、労使間に家族関係を保つとこが目標。

ⅲ、個人的方針:職工組合・消費組合・共済組合等を組織し労働者の利益を保護、地位を改良する。

評価:

①「官僚的・資本家国家のために階級闘争の抹殺者として出現」(住谷悦治)。

②「労働争議・労働組合運動・社会主義を否定し、その上で天皇制支配の立場に立って「上から」の社会政策を主張」する「絶対主義的改良主義」(岸本英太郎)。

③「全体としてその立場は国家主義的基調に立っての社会改良・労使協調を基軸とするものであって、労働階級の自主的な組織や闘争については、必ずしも積極的な好意を示すものではなかった」(大河内一男)。

④「勃興期の日本資本主義に対する社会政策的良心」(大内兵衛)。


12月22日

大杉栄(22)、午後1時、牛込区牛込赤城元町の貸席・清風亭で張継らが開いた社会主義講演会(第8回)で「バクーニンの連邦主義(3回目)」を講演。5時~6時に散会。参加者60~70名。

12月22日

金曜講演の通信に見る、この日の金曜講演会の様子。神田三崎町の貸席。

「・・・我党の演説会になくてならぬ臨監警部の顔も揃ったので、会場の配合がズツト引立った。尚御念入りにも下座敷の四畳半には三、四名の正服巡査まで詰めて居た。先ず山川君は『資本家が智慧のない横暴な振舞をして到る処に社会主義の種を蒔いていても、日本政府では見ぬ振をして社会主義勃興の勢を助けて下さるが、此頃は亦、何者か壮士を差向けて金曜講演の発起人等を撲るという噂があるので、定めし今夜は吾々を保護して主義の伝道を助ける御趣意で臨監を添うせしことならん。吾々は大いに発奮努力してお思召に報いねはならぬ』と前置きして『米国恐慌談』に移り・・・」。

山川の発言によって「弁士中止」となり、続いて解散を命ぜられ全員総立ちとなり、警官を取巻いて「社会主義万歳!」を三唱。

12月23日

片山潜・鈴木楯夫ら、「憲法治下において、社会主義の実行につとむ」綱領で平民協会の結社届出。25日、内務省は結社禁止とする。

12月25日

第24議会召集。

12月25日

(漱石)

十二月二十五日(水)、小宮豊隆に東京朝日新聞社へ月給を取りに行って貰う。

(鈴木三重吉、加計正文宛手紙に、「木曜木曜に先生の所へ行くだけだ。先生の内へは缺が(ママ)きないでいく。そして近頃は先生と〇〇〇〇談をやる」と伝える。)

(『時事新報』の『文芸週報』(第八十五号)に、「漱石と獨歩」(上・下)掲載される。署名鞍疾苦。)

十二月二十六日(木)、木曜会。

十二月二十七日(金)、本多直次郎(囁月)来る。(小宮豊隆)

(十二月二十八日(土)、口付煙草「敷島」は十銭に、「大和」は九銭に、「朝日」は八銭に、「カメリヤ」は七銭に、「不二」は十二銭に値上げされる。漱石は、十銭で釣銭なしに買えるので「敷島」を喫む。「敷島」は、大正六年十二月一日まで値上げしない。何時頃から煙草を喫い始めたか、分らぬ。また、イギリス留学時代にどんな煙草を喫っていたか分らない。)

十二月三十日(月)、小官豊隆に、第一銀行(日本橋区兜町)へ行って貰う。(推定)

十二月三十一日(火)、大晦日。

十二月下旬、松本文三郎(京都帝国大学)が上京し、「随意講義」を依頼され承諾する。


伏字は、『鈴木三重吉全集』(岩波書店) の編集者によるものである。


夏目漱石は、『二百十日』・『趣味の遺伝』・『草枕』・『野分』などから評判が悪くなったが、国木田独歩は駄作を発表しているにも拘らず評判がよいことを具体的にあげ、「作家と作物を混同する勿れ」と繰り返している。漱石の微妙な文壇的地位を伝える。漱石は、この文章を読まなかったかもしれない。」(荒正人、前掲書)

12月27日

大杉栄(22)、神田区三崎町の吉田屋で開かれた金曜講演会(第17回)で「バクーニン伝」を講演。吉田屋から会場を貸すのは今回限りと言われる。翌年の新年会は吉田屋で開かれたが、それ以降は平民書房に場所を写す)

12月28日

煙草の値上げ実施。

12月29日

警視庁令にて最初の自動車取締規則出る(速力が規定される)

12月30日

森近運平、大杉栄を訪問

12月下旬

大杉栄、石川三四郎著、幸徳秋水補「日本社会主義史」(隆文館)に掲載予定の「日本社会主義史補遺」を書き上げる。


つづく

2026年2月21日土曜日

高市首相ブログ全削除事件を単なる事務処理の話で片付けられないのは、非核三原則見直しや皇室典範改正、国旗損壊罪、靖国神社参拝と教育勅語への「熱い想い」が赤裸々に語られているから。一見温和なペテンスマイルの仮面の下にある、高市早苗の本当の「顔」がそこにある。

トランプ氏、6人の判事を罵倒 違法判決「国の恥」「飼い犬」(共同) / 最高裁判所長官ジョン・ロバーツとエイミー・コーニー・バレット判事およびニール・ゴーサッチ判事は、裁判所の3人のリベラル派判事と共に、関税に反対する判決に加わった。 ロバーツは、トランプが輸入税を正当化するために引用した1977年の法律は「不十分」であり、必要とされる議会承認を満たしていないと書いた。

〈高市首相の「成長スイッチ」政策に賛否の声、日経記事が注目を集める〉 → 「首相が押しまくる「スイッチ」が、円安だの、武器輸出だの、働かせ方改革だのと、本当に絶望的なんですが。人間を、労働者として低賃金で長時間こき使えば、消費者としてのまともな生活などとてもできないことが、まだ学習できてないのか。それで内需をどうやって増やすのか。」(平野啓一郎) / 「弱い円でも強い日本」の世界線 高市首相が警戒する超円安のリスク(日経) ← いまだに「円安ホクホク」なんだろうな

 

〈高市首相の「弱い円でも強い日本」論に異論相次ぐ〉 → 高市首相は聞くはずがないが、「明確な目標がない高市政権」は一刻もはやく「異常な円安」を止め、「積極財政」もやめるべきだ(東洋経済);「「責任ある積極財政」という言葉は、「気合いだ、気合いだ、気合いだ!」と叫んでいるのとほぼ同義…太平洋戦争に負けた理由とまったく同じ…高市政権の問題は、右傾化ではなく、歴史に名前を残すこと、承認欲求、自己実現だけが目的と、非常にはっきりしている点だ、と」(Shoko Egawa)  

 

高市首相は衆院選勝利後、円安を輸出産業の機会と述べましたが、釈明し内需主導の成長を目指すと強調。
一方、日経新聞や東洋経済オンラインが超円安のリスクを指摘し、小幡績氏は日銀の利上げと積極財政の見直しを提言しています。
Xでは「大企業優遇」との批判が目立ち、擁護派も政策の具体性を主張。
1ドル155円前後の相場が実質賃金をマイナスに追い込み、国民生活とのバランスが注目されています。

 

大杉栄とその時代年表(761) 1907(明治40)年12月1日~5日 李垠(11、高宗の七男)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。

 

伊藤博文と李垠(1907年頃)

大杉栄とその時代年表(760) 1907(明治40)年 〈谷崎潤一郎と精養軒〉 明治36年6月、谷崎潤一郎は精養軒当主北村重昌家の家庭教師兼書生として住み込む。彼は、その身分のまま府立一中から一高に進学する。 より続く

1907(明治40)年

12月

-韓国、江原道義兵大将儒者李麟栄、各義兵団結して漢城へ進撃を呼掛け。京幾道楊州に旧兵3千含む1万人の各道義兵集結。漢城上京途上、許鳶率いる先発隊300余、東大門3里の地点で敗退。1年半後逮捕、処刑。

進撃前、工作員を漢城に侵入させ、各領事館に対し、義兵部隊は愛国血団であり各国は国際法上の交戦団体と認めるよう訴え。また、アメリカ在住朝鮮人団体(サンフランシスコの共立教会、ハワイの合成協会)に、日本の侵略行為を全世界に訴えるよう檄文を送る。

12月

満鉄、「時報」創刊(不定期)。調査部、一般経済調査・旧慣調査を開始。

12月

幸徳秋水、ローレル「経済組織の未来」訳出。秘密出版(金曜社)。

12月

片上天弦「人生観上の自然主義」(「早稲田文学」)

12月

岩野泡鳴「新体詩史」(「新思潮」)12月~41年3月 

岩野泡鳴「新体詩の作法」(「修文館」) 

12月

今村均(21)、少尉任官。

12月

東洋教会(会長桂太郎)、内閣に韓国の「拓地殖民」のための会社設立案提出。

12月

「(十二月、白仁三郎(坂元雪鳥)・西村真次、六か月の見習い期間を終了し、東京朝日新聞社に正社員として採用される。高須賀洋平・生方敏郎は退社する。)」(荒正人、前掲書)

12月上旬

(漱石)

「十二月上旬(推定)、夜、鈴木三重吉は小宮豊隆と共に、文鳥と籠持って来る。(『文鳥』)」(荒正人、前掲書)

12月上旬

「(十二月上旬または中旬(推定)、野田九甫、大阪朝日新聞社に入社する。)

第一回文展で「辻説法」が二等に選ばれる。瀧精一(節庵)の推薦で、大阪朝日新聞社に入社することになる。村山龍平・上野精一両社主、上京していた際に会い、入社が決定し、『坑夫』の挿画を響くことになる。漱石に意見を求めると〝万事委せる。とのことである。岡田版木屋で木版を彫らせる。挿画は、掲載される四日前に版木屋に届けられる。小宮豊隆が原稿を持って行く。やがて打合せの都合もあるからと、大阪へ移り、大阪朝日新聞社に近い西照庵(宿屋)に下宿する。野田九甫の挿画は漱石も喜び切抜を貼っているので感謝されたが、社の営業面からは余りに高級だと、書き替えさせられたこともあり、野田九甫は辞職を申し出る。二葉亭四迷は、明治四十一年六月十八日(木)神戸からロシヤに出発する直前に、西照庵に泊り、野田九辞の不満を慰めている。野田九甫は、八年間ほど大阪朝日新聞社に勤める。(野田九甫談)(昭和二十七年十月二十九日 清水三郎筆録)」(荒正人、前掲書)

12月1日

荒畑寒村(20)、横須賀海兵団入営。翌日、兵役免除。

12月5日

韓国、李垠(11)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。

李垠;

大韓帝高宗の七男。この年8月27日、異母兄の李坧(純宗)が即位し、9月7日、皇太子に冊立された。純宗には子はなく、また毒茶事件でアヘン入りのコーヒーを飲んでいたことで心身ともに虚弱となり、子供を設けられない体になっていた。李垠には20歳年長の兄・義王李堈がいたが、品行に問題があり皇位継承者から外されていた。

李垠は、皇太子に擁立されると、同時に東京留学を進言される。

12月5日、李垠は軍艦満州丸でに仁川を出港、7日に下関に到着し、15日に東京に入る。

翌1908年(隆熙2年、明治41年)、学習院に入学。

1910年(隆熙4年/明治43年)のれた日韓併合によって、高宗、純宗、純貞孝皇后とともに日本の皇族に準じる存在である王族となり、李王(純宗)の王世子となった。

1911年(明治44年)9月、陸軍中央幼年学校の第2学年時に編入(14期)。次いで、陸軍士官学校(29期)へ進む。

1915年(大正4年)6月5日、士官学校卒業後に近衛歩兵第2連隊に士官として配属され陸軍将校となる。

1916年(大正5年)8月、皇族の梨本宮守正王・伊都子妃の第1女子方子女王と婚約。

1918年(大正7年)12月5日、結婚の勅許が下りるが、1919年(大正8年)1月21日、挙式4日前に李太王(高宗)が死去し、結婚は延期された。

1920年(大正9年)4月28日、方子女王と結婚し。結婚式では、朝鮮人学生による爆弾投擲未遂事件が起きている(李王世子暗殺未遂事件)。主犯の徐相漢の供述では、標的は李垠夫妻ではなく、朝鮮総督となっていた斎藤実だったという。方子女王の側からは、厳密には非皇族への降嫁であるが、大正天皇の「御沙汰」により女王の身位を保持した。

夫妻の間には、結婚の翌年に第1男子の李晋が誕生したが、1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻が生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問した際、晋は急逝する。晋の急死には、当時より陰謀説がある。

翌年、陸軍大学校を卒業。

1924年(大正13年)、参謀本部附となる。

1926年(大正15年)の李王坧の薨去に伴い王位を継承、「昌徳宮李王垠」と呼ばれる。またこの後、朝鮮軍司令部附となる。

1927年(昭和2年)5月23日から翌1928年(昭和3年)4月10日、李垠夫妻はヨーロッパに外遊。この時、夫妻は「李伯爵」の仮名で旅行を行っていたが、各国元首と取り交わした文書ではプリンスを名乗っている。陸軍少佐となり、近衛歩兵第3連隊大隊長を兼務、

1930年(昭和5年)、教育総監部附となる。

1931年(昭和6年)、第2男子(李玖)誕生。

1937年(昭和12年)3月1日、歩兵第59連隊長から陸軍士官学校教官に転補。

 1938年(昭和13年)、陸軍少将となり、北支那方面軍司令部附として中国に赴任。

翌1939年(昭和14年)8月、帰国し、近衛歩兵第2旅団長に転じたる。

翌1940年(昭和15年)5月、留守第4師団長となって大阪に赴任、この年、陸軍中将になる。

1941年(昭和16年)7月、第51師団長として再び中国に渡り、11月、教育総監部附となって帰国。

1943年(昭和18年)、第1航空軍司令官となる。

1945年(昭和20年)4月、軍事参議官に補せられる。 

同年8月12日、昭和天皇から皇族らとともに御文庫附属庫に招かれ、天皇からポツダム宣言受諾を決心したことを聞く。

敗戦後は、日本政府からの歳費は1945年度で打ち切られ、李垠夫妻の生活は苦しいものとなる。建築業者梅田組の孫海圭からの支援でなんとか生活したが、怪しげな儲け話に騙されて資金や美術品、熱海の別荘であった滄浪閣などの財産を失う。滄浪閣は伊藤公爵家から購入していたもので、幣原内閣の内閣書記官長楢橋渡の要請で譲渡した。これは、度々李王家を訪れていた楢橋に心を許した李垠が、「私の地位はどうなりますか。どうかこれまで通りの待遇をしてもらえませんか」と楢橋に伝え、気を持たせる回答をした楢橋が新憲法の草案作業を滄浪閣で行うため、日本政府に譲渡してほしいと申し出たことによる。結局滄浪閣は日本政府の所有とはならず、楢橋が李王家に40万円を支払って購入した。

さらに財産税法によって課税された李王家は巨大な納税義務を背負うことになった。ちょうどその頃、創立準備中であった国際基督教大学から最大の財産であった紀尾井町の李王家邸を10万ドルで提供するよう打診があったが、李垠はこれを断っている。秘書の趙重九によれば、李垠にはホテル経営に参加して社交界に出入りする夢があったためであるとしている。その後李王家邸は参議院議長公舎として間貸しされ、夫妻は侍女の部屋で暮らすようになった

1947年(昭和22年)5月3日、王族としての地位を喪失し、更に外国人扱いとなった。「正規陸軍将校」であったため公職追放となった。

1949年(昭和24年)、「小説家張赫宙氏」が李王家東京邸を訪ね、「李王垠さまの口述を速記し、それを主軸として構成」し、面識がある趙重九から 権藤四郎介「李王宮秘史」などを借りて執筆した「李王家悲史 秘苑の花」を世界社発行の雑誌「富士」昭和24年12月〜昭和25年2月号に連載した後、若干手直しして口絵も減らした上で、1950年(昭和25年)に同社で単行本化された。

1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効にともない、李垠・方子夫妻は正式に日本国籍を喪失したが、大韓民国政府は李垠ら日本在住の旧王公族の韓国籍を認めず、帰国もできなかった。息子の李玖がマサチューセッツ工科大学に留学したが、そのパスポートも大韓民国から正式に受けることはできなかった。

また李王家邸は大韓民国政府によって駐日大使館の候補地と定められ、李垠は議長公舎の契約を解除した。しかし韓国政府からの送金がなかったため、実業家堤康次郎に売却し、赤坂プリンスホテルとして利用された。売却した金は借金返済で殆ど消えてしまい、夫妻は田園調布に家を購入して移り住んだ。

1957年(昭和32年)5月16日、李玖のマサチューセッツ工科大学卒業式に出席するため、夫妻は渡米することとなり、昭和天皇、香淳皇后への挨拶のため参内。この渡米に際しても、大韓民国政府はパスポートの発給を行わなかった。夫妻は大学からの招聘状に基づき、日本政府から特別な旅行証明書の発給を受けた。卒業式に出席した後、李垠夫妻と李玖は、元プロボクサーのジーン・タニーから借りた家で生活を始めた。1958年(昭和33年)6月8日に帰国し、同年6月10日に参内。

1959年(昭和34年)3月、李垠が脳血栓で倒れ歩行困難となったため、夫妻は5月17日に日本に戻る。

1960年(昭和35年)、夫妻は再び渡米しようとするが、今度は日本政府からの証明書が降りず、夫妻は日本国籍を取得した。8月に帰国。

1961年(昭和36年)、仕事のためにハワイを訪れていた李玖を訪ねる。11月12日には、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕国家再建最高会議議長が病床の李垠の元を訪れ、方子にいつ帰国しても構わないと伝えた。

1962年(昭和37年)12月15日、夫婦ともに韓国籍になることを認めるとの通知を受ける。

1963年(昭和38年)、韓国政府から生活費の送金が開始。日韓国交正常化交渉が始まると、11月22日に夫婦ともに韓国へ渡った。金浦国際空港からソウルの聖母病院への沿道は歓迎の市民で埋め尽くされた。

1970年(昭和45年)4月28日、金婚式を病院で開き、その3日後に病院で死去。葬儀は5月9日に韓国皇太子の礼をもって行われ、日本からは昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王・高松宮妃喜久子、方子の親族として秩父宮妃勢津子・広橋規子が参列した。

1973年(昭和48年)5月、三年祭が執り行われ、李垠は皇帝になったことは無いが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められた。


つづく

2026年2月20日金曜日

横浜駅前、シチリア料理の「クローチフィッソ」でランチ 2026-02-19

 2月19日(木)晴れ

この日、横浜駅前にあるシチリア料理のお店「クローチフィッソ」でランチ。

このお店、ソムリエ協会の認定バッジを着用した方が2人、フロアにおられて、さすがに、食べログスコア「3.63」だけのことはあると思った。

昼間から、スパークリングワイン、白ワイン(2)、赤ワイン、果実酒を頂いたので、ほんわかといい気分なった。
















皇室専門家が「愛子さまが即位する可能性は100%ない」断言する“理由”と自民圧勝で進む“旧宮家養子案”の行方(週刊女性) / 【衆院選】愛子天皇へ世論69%支持! 皇位継承めぐる政党のスタンス(週刊女性)

 

〈高市首相、過去最大122兆円予算の年度内成立へ審議短縮案浮上〉 → 経団連・筒井義信会長「年度内の予算成立にこだわらなくても…」 高市首相の「拙速」「ゴリ押し」を危ぶむ(東京) / 「拙速審議好ましくない」 26年度予算案で経団連会長(共同)

 

政府は2026年度当初予算案を国会に提出。一般会計総額122兆3092億円で過去最大を更新した。
高市首相は自民・維新の与党が衆院で4分の3近い議席を握る強みを活かし、通常の半分以下の44時間審議で年度内成立を目指すが、立憲民主党は「国会の自殺行為」と非難、経団連会長も「拙速」と牽制。
与党は「真剣な審議に絞れば十分」と反論し、20日の施政方針演説で首相の説明に注目が集まる中、財政民主主義の原則をめぐる与野党対立が深まっている。