大杉栄とその時代年表(821) 1909(明治42)年1月19日~22日 「一月二十一日 木曜 細雨 温 起きると妹光子からハガキ。去る十二日付にて地方伝道会社生徒なる許可あり、月八円づつ貰ふことになつたと。そして三月末に名古屋の伝道学校へゆくとの事。」(啄木日記)
1909(明治42)年
1月26日
米大統領、カリフォルニア州議会提出の排日法につき知事宛親書にて注意喚起。
1月27日
米総督、キューバを去る。ホセ・ゴメス、共和国大統領となる。
1月28日
(漱石)
「一月二十八日(木)、小宮豊隆泊る。お手伝いがいなくて困る。
一月二十九日(金)、北風が強い。午前十一時過ぎ、中村是公(南満洲鉄道株式会社総裁)から突然電話で新喜楽(築地三丁目十五番地、現・中央区築地四丁目六番)に、十二時までに来いという。午後は塞がっていたので、明日はだめかというと、明日は中村是公の側に用事あるとのことで会えぬ。(中村是公とは、明治三十五年四月十三日(日)または十四日(月) (推定)にロンドンで会って以来である)」(荒正人、前掲書)
1月28日
大石誠之助、新宮自宅に成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)の泉昌寺で留守居僧をしていた臨済宗妙心寺派の僧侶)、崎久保誓一を招き新年宴会。ここでも東京での幸徳の「革命ばなし」がでる。このことが「大逆の陰謀成立」となる。牧師沖野岩三郎も招待する予定であったが、禁酒家であったため除外(このため大逆事件の検挙まぬがれる)。
(大石と成石は死刑、高木、峯尾、崎久保の3人は無期懲役となる)
新年会の廻状には、当初、大石、沖野、顕明、平四郎、峯尾、崎久保の六人の名前があったという。
「成石君、今晩の会は酒を飲むんだろう?」
成石平四郎の作った廻状を見ながら大石が訊いた。
「成石君、今晩の会は酒を飲むんだろう」
「もちろんですよ。新年ですからね」
「そうか、それじゃあ、沖野君は酒を飲まないんだから、かわいそうだ。除けときたまえ」
「でも、ドクトル、もう廻状に書いてしまいましたから」
「それは、消せばいい」
「そうですか。あれがこないと話しが面白くないんですが」
平四郎はやゝ不満気に、筆を執って沖野の名前にシュツと棒線を引いた。
沖野岩三郎「「大逆事件前後」 ー 生きている「日本思想史」座談会」(『文藝春秋』1950年2月号)。
こうして沖野の代わりに成石の兄、勘三郎が出席することになった。
しかし、田中伸尚『囚われた若き僧峯尾節堂』によれば、もともとこの新年会には酒はなかった。崎久保も高木も酒を飲まなかった。平四郎の兄、勘三郎の出席も確証はない、とのこと。真相は不明である。
1月29日
桂太郎首相、西園寺公望政友会総裁と会見。政府と政友会の妥協が成立。
1月29日
神奈川県下の別荘、旅館荒らしのインテリ盗賊(好色漢)、電小僧逮捕。
1月29日
ハワイ準州農業関係特別調査委員会、農商務長官宛に「糖業者の日本人労働者の危機感」と題する報告。3ヶ月後のストを予測。
1月30日
クロポトキン「麺麭の略取」(幸徳秋水訳。平民社訳として出版)、出版法違反の行政処分。発行禁止。
3月9日、署名人坂本清馬罰金30円の判決。出版予定日は1月30日(1000部限定出版の予約締切りは1月15日)。差押えは残部20部のみ。実際には12月15日前後には製本が出来上がり大半を捌く。
12月21日、岩手県の医師大粂虎介が上京し出来上がったばかりの「パンの略取」を貰う。
- 収用(エスプロプリエーション) てふこと、即ち人間安楽に用ある一切の事物を将て共産制に復帰すること、是れ歴史が二十世紀の人民の前に提供せる問題である -
ー 吾人は信ずる、孰(いず)れの社会でも私有財産を禁じた以上は、自然に共産的無政府の方針に依って組織せねばならぬ。夫れ無政府は共産制を生じ、共産制は無政府に至る。両者倶に近代社会を風靡する趨向、即ち平等の追求てふことの顕現である -
- 吾人の共産主義は……じつに無政府共産主義である。政府を有せぬ共産制 -- 自由の共産制である。是れ古来代々の人類が追及せる二大理想の総合である。二大理想とは何ぞ - 経済的及び政治的自由---
--- 将来の革命が、人類に対して為し得べき最大の奉公は、実に此賃銀制度をして如何なる形式に於ても存続すること能はざらしめ其唯一の解決法として、賃銀奴隷の拒絶者なる共産主義を採用するに外ならぬのである
1月30日
漱石「コンラッドの描きたる自然に就て」(『国民新聞』)
1月31日
安重根、ポシエトのノウォキエフスク村で「断指同盟」結成。全員12名、左手薬指第3関節を切断、「大韓独立」を国旗に血書。(1908年11月の記述もあり)
1月31日
坂本清馬、巣鴨平民社を出る。清馬は密かに想いを寄せていた管野須賀子との仲を注意され逆上、「貴様が革命をやるかおれがやるか競争するぞ」と言って飛び出す。以降、和解することはなかった。
この後、大杉栄の妻堀保子の「家庭雑誌」を手伝うが、「パンの略取」で出版法違反起訴となる。発行人の清馬は罰金30円となるが幸徳が支弁し、換刑入獄は免れる。
その後、九州に向うが、「熊本評論」は廃刊されており、全国を放浪する。東京、群馬、栃木、福島、また、東京に戻って芝の印刷会社に職を得たが、浮浪罪で別件逮捕される。
大逆事件裁判では死刑判決を受けるも、翌日、清馬ら12人が「恩赦」により無期懲役に減刑となる。
秋田監獄22年、高知刑務所3年の計25年間入獄。1934(昭和9)年、49歳の時、仮釈放される。
1961年、再審請求裁判に立ち上がるも、6年後最高裁で棄却される。
1975(昭和50)年1月15日、89歳で没す。墓は中村の正福寺の幸徳秋水墓と同じ並びにある。
1月31日
「一月三十一日 日曜 曇 温
おそくおきた。何となく気分のすぐれぬ日であつた。
午後一時半頃三秀舎にゆくと、雑誌はもう出来あがつて発行所へやつたといふ。行つてみると積んであつた。予が一ケ月の労力はこれ。
芝の方は自分で行つて本屋へおろした。そして電車の中で阿部次郎君に逢つた。
与謝野氏は転宅のため来てくれぬ。平野も来ぬ、来なくてもいい時は来て、来なければならぬ今日は来ぬ。自分でスツカリかたづけようかとも思つたが、つまらぬと思つて帰つて来た。
今日金田一君の代理で国学院の六円をうけとつておいた。
女中共へ一円五十銭やる。それから森川からかりた二円をかへして来た。
(略)」(啄木日記)
1月31日
鉄幹(36)と晶子(31)、神田区駿河台東紅梅町2番地へ転居。長男光の通学問題。
つづく