2026年2月14日土曜日

鎌倉散歩 長谷寺~光則寺~収玄寺~甘縄神明神社 2026-02-14

 2月14日(土)晴れ

暖かい。気温は14~15℃。明日は18℃とかいう予報。

今日は、鎌倉の長谷寺を中心に光則寺、収玄寺、甘縄神明神社をグルっと回ってきた。

今日は、久しぶりに帰りは鎌倉駅まで歩いたので、暖かいを通り越して暑かった。

▼長谷寺

正面の枝垂れ梅は、まだ満開ではないけど、ま、十分に見応えあり。

あちこちでメジロに遭遇したけど、メジロと遊んでる余裕もなかったので、写真はイマイチ。









▼光則寺

梅は、他と比べて控えめなので写真は割愛。

ロウバイとセツブンソウ。



▼長谷寺近く、「はせつる茶寮」とあるお宅(店)の前の梅

枯れた感じがすごくいいので、毎年楽しみにしている。


▼収玄寺の河津桜

すごくキレイに咲いている。

高いところでメジロが戯れていた。



▼甘縄神明神社の玉縄桜

いまちょうど見頃というところ。蕾がいっぱいあって、花自身が若くて溌溂としている。

この神社の近くに安達盛長(鎌倉殿の13人の1人)の館(甘縄の館)があって、頼朝は神社参詣の折には必ず立ち寄って、幕府草創期の昔話をしたと言われている。






「人は時として、幻想を破壊されたくないがために真実を聞きたくないのだ」(フリードリヒ・ニーチェ) / 「大衆は真実を渇望しない。 彼らは、彼らの好みに合わない証拠を避け、誤りが彼らを誘惑するならば、誤りのほうを神格化することを好む。 彼らに幻想を与えることができる人は誰でも簡単に彼らの主人となり得る。 彼らの幻想を破壊しようとする人は誰でも常に彼らの敵となる。」(ギュスターヴ・ル・ボン)/ 「全体主義体制にとって理想的な臣民は、ガチガチのナチでもゴリゴリの共産主義者でもない。事実と創作、真実と虚偽の区別がつかなくなっている人々である。」(ハンナ・アーレント)

 



 






 

得票率5割弱で議席8割超 - 自民、小選挙区制が恩恵(共同)

 

大杉栄とその時代年表(754) 1907(明治40)年10月 〈7年間のウィーン滞在中にトロツキーが知り合いになった人々〉 「リープクネヒトは教養あるマルクス主義者だったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直観、大衆と状況に対するカン、イニシアチブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそは革命家だった。まさにそれゆえ、彼は、官僚的単調さが支配し何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ばよそ者であった。いかに多くの俗物と下劣な連中がリープクネヒトを皮肉な目で見下すのを、この目で見てきたことか!。」(トロツキー『わが生涯』)

 

カール・リープクネヒト

大杉栄とその時代年表(753) 1907(明治40)年10月 ヒトラー、ウィーン造形美術大学を不合格(翌年も)。 トロツキー、ウィーンに戻り妻子と合流。ベルリンと往復しながら7年間滞在。ヒルファーディングと知己になり、ドイツ社会民主党員らを紹介される より続く

1907(明治40)年

10月

〈7年間のウィーン滞在中にトロツキーが知り合いになった人々〉


「ベルリンでは、毎週開かれていた左派の会合に何度か出席する機会があった。会合は毎週金曜日にレストラン『ラインゴールト』で開かれた。会合の中心人物はフランツ・メーリングで、カール・リープクネヒトも顔を出していた。彼はいつも遅れてやってきては、他の連中よりも早く帰っていった。そこに私を初めて連れていってくれたのはヒルファディングである。彼は当時はまだ自分のことを左派だとみなしていたが、ローザ・ルクセンブルクを毛嫌いしていた。この憎悪は、ダシンスキによってオーストリアに移植されたものだった。そこでの会話の中で、たいしたことは記憶に残っていない。メーリングは頬をぴくぴくさせながら――彼は顔面神経痛を患っていた――自分の『不朽の名著』のうちどれがロシア語に訳されているのかを皮肉っぽく尋ねた。ヒルファディングが会話の中でドイツの左派のことを革命家だと言うと、メーリングはさえぎって、『われわれが革命家だって? 革命家というのは彼らのことを言うんだよ!』と、あごで私の方を指した。私はメーリングのことを個人的にほとんど知らなかったし、ロシア革命に対する俗物たちの嘲笑的な態度に出くわすことがあまりにも多かったので、メーリングが冗談で言っているのか、本気で言っているのか判断がつかなかった。しかし彼は本気で言っていたのであり、このことはその後の彼の生涯が示している。」(トロツキー『わが生涯』)


「私が初めてカウツキーに会ったのは1907年である。私を彼のところに連れていってくれたのはパルヴスであった。私はドキドキしながら、ベルリン郊外のフリーデナウにある小ぎれいなアパートの階段をあがった。青く澄んだ目をした、白髪の陽気で小柄な老人が、ロシア語で「今日は」と言いながら私を迎えてくれた。彼の著作を通じて知っていたことすべてとあいまって、それは非常に魅力的な相貌に映った。とくに魅力的だったのは、そのどっしりと落着き払った態度であった。それは、後でわかったのだが、当時における彼の有無を言わせぬ権威と、そこから生じている内的な平静さの結果だった。敵はカウツキーのことを第2インターナショナルの『教皇(パパ)』と呼んだ。友人もしばしば彼のことをそう呼んだ。ただし親愛の情をこめて。カウツキーの老いた母は左翼的傾向小説の作家で、その作品を『わが息子にしてわが教師』に捧げていたが、彼女の75歳の誕生日に、イタリアの社会主義者たちは「パパのママへ(alla mamma del papa)」という祝辞を寄こした。

カウツキーは自らの理論的使命を主として、改良と革命を和解させることに見出していた。しかし、彼自身が思想的に形成されたのは改良の時代だった。彼にとって現実とは改良のことに他ならず、革命はぼんやりとした歴史的展望だった。カウツキーは、マルクス主義を出来合いの体系として受け入れ、それを学校教師のように通俗化して普及した。大事件は彼の手に負えないことがわかった。彼の没落はすでに1905年革命から始まっていた。カウツキーとの私的会話はほとんど実りのないものだった。彼の知性はぎこちなく、無味乾燥で、機知に乏しく、心理的洞察に欠けており、評価は図式的で、冗談は月並みだった。これと同じ理由で、カウツキーは演説が極端に苦手だった。

ローザ・ルクセンブルクとの親交は、カウツキーの知的創造力の最良の時期にあたっていた。だが、1905年の革命直後からすでに、両者の関には冷ややかなものが流れはじめていた。カウツキーはロシア革命に大きな共感を寄せていたし、それを遠くからとはいえ好意的に論評していた。しかし、革命的方法がドイツの地に持ち込まれることに対しては本能的に敵意を抱いていた。ある時、トレプトウ公園での街頭デモに先立って、私がカウツキーのアパートに行くと、ローザとカウツキーとが激しく議論を闘わせていた。彼らはまだ親しい友人の口調で相手を呼びあう仲であったが、ローザの受け答えには、押しころしたような憤りがはっきりと聞きとれた。他方、カウツキーの受け答えには、無意味な冗談にまぎらわしていたが、内心での深い困惑が感じられた。私たちは連れ立ってデモに出かけた。ローザ、カウツキーと妻のルイーゼ、ヒルファディング、故グスタフ・エクシュタイン、そして私であった。道中でも激しい口論が起きた。カウツキーは単なる傍観者でいることを欲したのに対し、ローザ・ルクセンブルクは参加者たらんとしていた

2人の対立が表面化したのは、1910年、プロシアの選挙権獲得闘争の問題をめぐってであった。カウツキーはこの時、打倒戦略に対抗して、消耗戦略という戦略原理を展開した。問題は2つの非和解的な傾向にあった。カウツキーの路線は、ますます深く現存体制に順応していく路線であった。この場合、『消耗』したのはブルジョア社会ではなく、労働者大衆の革命的理想主義であった。あらゆる俗物、あらゆる官僚、あらゆる出世主義者たちが、カウツキーの側に与した。カウツキーは、こうした連中のありのままの姿をおおい隠すための観念的な外套を織ってやっていた。

戦争が勃発したとき、政治的な消耗戦略は塹壕戦略によって押しのけられた。カウツキーは、平和に順応したように、戦争にも順応した。それに対しローザは、己れの理念に忠実であるということがいかなるものかを身をもって示した…。(トロツキー『わが生涯』)


「カウツキーは、言うまでもなく、第2インターナショナルの最も傑出した理論家であり、彼の意識的生活の半分以上にわたって、第2インターナショナルの最良の面を提供し総括してきた。マルクス主義の宣伝家であり通俗家であるカウツキーは、自己の重大な理論的使命を、改良と革命とを和解させることに見出した。しかし、これは思想的に彼が改良の時代に形成されたことからきている。彼にとって現実とは改良のことであった。革命は、理論的総合であり、歴史的展望であった。

(略)

カウツキーは、このようなかけがえのない革命の生きた経験を有していなかった彼はマルクス主義をできあいの体系として受け入れ、科学的社会主義の学校教師としてそれを通俗化した。彼の活動の全盛期は、パリ・コミューンの崩壊と第1次ロシア革命の間の深いくぼみの時期にあたっていた。資本主義はあらゆるものを征服してやまない勢いをもって繁栄し、労働者組織はほとんど自動的に発展した。しかし、『最終目標』、すなわちプロレタリアートによる社会革命の事業は運動そのものから遊離し、純粋にアカデミックな性質を保っていた。ここから、ベルンシュタインの悪名高い格言、『運動がすべてであり、最終目標は無である』が出てきたのである。労働者政党の原理としては、これはでたらめであり俗悪である。しかし、戦争までの最後の4分の1世紀におけるドイツ社会民主党の実際の精神を反映するものとしては、ベルンシュタインの格言は実に典型的なものであった。改良主義的日常闘争は自足的性格を受け取り、最終目標の方はあいかわらずカウツキーの担当であったのである。

カウツキーは、マルクスとエンゲルスの教義の革命的性格を倦まずたゆまず主張したが、ただしその際、修正主義的試みに対する反撃のイニシャチブはたいてい彼には属さずに、より断固たる潮流(R・ルクセンブルク、プレハーノフ、パルヴス)に属した。しかし、カウツキーは社会民主党を完成されたものとして、それと丸ごと妥協し、その深刻な日和見主義的性格には気づかず、党の戦術をいっそう決然としたものにしようという試みに応じなかった。党、すなわちその指導的官僚層の側でも、カウツキーの理論的急進主義と妥協していた。実践における日和見主義と原理における革命主義とのこうした組み合せは、ほとんど半世紀にわたって党の争う余地のない指導者であった天才的な旋盤工アウグスト・ベーベルのうちにその最高の表現を見ることができる。ベーベルは理論の領域においてはカウツキーを支持し、カウツキーは政策の分野においてはベーベルを揺るぎない権威として認めた。ただルクセンブルクだけが、カウツキーをベーベルが望むよりも左に押しやったのである。

(略)

1905年にロシア革命が勃発した。それはすぐさま世界の労働運動の急進的傾向を強め、カウツキーの理論的権威を大いに強化した。革命の内部問題において彼は断固たる立場を占め(実際には、他の人に遅れてだが)、ロシアにおける革命的社会民主主義政府を予見した。ベーベルは私的な会話の中で「熱中しやすい一寸法師」をからかい、薄いくちびるの端でほほえんだ。ドイツ党においては、ゼネストについての論議と急進主義的決議とに問題が矮小化された。この時がカウツキーの絶頂であった。その後、彼は坂を転がり落ちるように転落していったのである。……

ロシアにおいて革命が撃退され、プロレタリアートは退けられ、社会主義は砕け散って地下へと追いやられた。自由主義ブルジョアジーは、帝国主義的プログラムの立場から君主制との妥協を模索した。革命的方法への失望の波がインターナショナル中に広がり、日和見主義は雪辱を果たした。同時に、資本主義諸国間の国際的関係はますます緊張の度合いを深め、終局へと近づきつつあった。そして、社会主義政党は、民族国家を支持するのか、それともそれに反対するのかについて、立場を完全に明確にすることを迫られた。革命的理論から結論を引き出すのか、それとも日和見主義的実践をとことん押し進めるのか、いずれかが必要であった。しかしながら、カウツキーの全権威は、政策における日和見主義と理論におけるマルクス主義との妥協によって支えられていた。左派(ルクセンブルクその他)は率直な回答を求めた。すべての諸事情が回答を求めた。他方では、修正主義が全戦線で攻勢に転じていた。カウツキーはますます当惑し、ますますきっぱりと左翼と一線を画し、ベルンシュタイン派に接近し、マルクス主義的立場の外観を維持しようとする虚しい試みを行なった。この時期、彼はその外見すらも変化した。明朗な落ち着きは姿を消し、目には不安の色がよぎり、何かが彼を内部から無慈悲にむしばんでいた。」(トロツキー『戦争と革命』より)


「もう一つ思い出されるのは、カウツキーのアパートで開かれたレーデブールの60歳の誕生祝いのことである[1910年]。10人ほどの来客の中に、その時すでに80歳にさしかかっていたアウグスト・ベーベルもいた。それはドイツ社会民主党が絶頂にあった時であった。党の戦術的統一性は完璧であるように見えた。古参幹部たちは党の成果を列挙し、確信を持って未来を見ていた。主賓であるレーデブールは夕食の時、こっけいな諷刺画を書いてみせた。この内輪の祝いの席で私は、ベーベルと妻のユリアに初めて会った。カウツキーをはじめとする参会者たちは、老ベーベルの言葉を一語一語聞き入っていた。私もそうしたことは言うまでもない。

ベーベルは、その人格のうちに、ゆっくりとだが着実に台頭しつつある新しい階級を体現していた。この痩せた老人は全身これ、単一の目標に向けられた我慢強く揺るぎない意志でできているように見えた。その思考、その雄弁、その論文と著書において、ベーベルは、直接的な実践的課題に役立たないような精神的エネルギーの支出をまったくすることがなかった。そこに、彼の政治的パトスの独特の美しさがあった。わずかな自由時間に学び、一分一秒を無駄にせず、厳密に必要なものだけを貪欲に吸収しようとする、そういう階級をベーベルは体現していた。何という比類なき人間像であることか! ベーベルは、バルカン戦争と世界大戦との間のブカレスト講和会議の最中に死んだ[1913年]。私はその知らせをルーマニアのプロエシュティ駅で受けとった。私は信じられなかった。『ベーベルが死んだ。ドイツ社会民主党はいったいどうなるんだろう?』。

すぐ頭に浮かんだのは、ドイツ党の内情について語ったレーデブールの言葉である。『20%は急進派、30%は日和見主義者、残りはベーベルについていく』。

ベーベルが自分の後継者として選んだのはハーゼだった。老ベーベルは、疑いもなく、ハーゼの理想主義に惹かれていた。だがハーゼのそれは、スケールの大きい革命的理想主義ではなく、もっと狭く、もっと個人的で凡庸な理想主義だった。たとえば、ケーニヒスベルクでの金になる弁護活動を党の利益のために断ったといった類のことである。さして英雄的とも言えないこの自己犠牲について、ベーベルはこともあろうに――ロシアの革命家は大いに当惑したものだが――イエナで開かれた党大会の演説で持ち出し、ハーゼを執拗に党中央委員会の副議長に推薦した。

私はハーゼのことはよく知っていた。ある党会議の後、私たちはいっしょにドイツ国内の小旅行に行き、ニュールンベルクを観光して回った。個人的なつきあいでは柔和で親切だったハーゼは、政治においては、その根っからの性質にもとづく水準を最後まで脱することはなかった。すなわち、正直な凡人、革命的な気質も理論的視野も持たない地方的民主主義者という水準を。哲学の分野では、彼は少し気恥ずかしそうにカント主義者を自認していた。危機的な情勢になるときまって彼は、最終的な決定を回避し、小手先の措置と事態の静観に傾いた。のちに、独立社会民主党が党首にハーゼを選んだのも十分理解できることである。」(トロツキー『わが生涯』)


「カール・リープクネヒトはまったく違ったタイプの人間であった。私は彼のことをずいぶん以前から知っていたが、会うことはめったになかった。ベルリンにあるリープクネヒトのアパートは、ロシア亡命者の司令部だった。ドイツの警察がツァーリズムに奉仕したことに抗議の声を上げなければならないときには、われわれはまず何よりもリープクネヒトのところに集まった。すると彼はすべてのドアとすべての頭をノックして回った。リープクネヒトは教養あるマルクス主義者だったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直観、大衆と状況に対するカン、イニシアチブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそは革命家だった。まさにそれゆえ、彼は、官僚的単調さが支配し何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ばよそ者であった。いかに多くの俗物と下劣な連中がリープクネヒトを皮肉な目で見下すのを、この目で見てきたことか!。」(トロツキー『わが生涯』)


つづく

2026年2月13日金曜日

選挙は民主主義を守れるか 時代遅れの公職選挙法を放置するな(日経 有料記事); 福島学院大学の高選圭教授の論文によると、韓国では投票の90日前からAI動画・画像を使った選挙活動が禁止される。昨年の大統領選は500人体制で監視し、1万件超に削除要請を出した。

自民圧勝の衝撃と高市人気〜この国で生きてると、「明るさの兆し」や停滞した空気の変化に飢えるのはそりゃわかるけど(ハフポスト日本版); スパイ防止法が制定され、憲法は改正され、防衛費は増やされ福祉予算は削られ、高額療養費制度は負担増になり、ナショナリズムが煽られるだけ煽られ、さらなる自己責任社会が訪れる…。それが控えめに見た未来予想図だ。(雨宮処凛)

トランプ関税、「ほぼ全額」を米国民が負担 NY連銀分析(ロイター)

 

大杉栄とその時代年表(753) 1907(明治40)年10月 ヒトラー、ウィーン造形美術大学を不合格(翌年も)。 トロツキー、ウィーンに戻り妻子と合流。ベルリンと往復しながら7年間滞在。ヒルファーディングと知己になり、ドイツ社会民主党員らを紹介される

 

ヒルファーディング

大杉栄とその時代年表(752) 1907(明治40)年9月14日~30日 漱石(40)、本郷の西片町より早稲田南町へ転居 「(西片町の家主の)家賃値上げを怒り、立ち退く時、損害賠償をすれば何をやってもよいというので、八畳の客間で小用を足したという。(難波秀吉(鉄道省電化課長)談)」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

10月

韓国、警察事務執行の取極書調印(警察合併)。

10月

満鉄、煙台・瓦房店など炭鉱床調査。中央試験所設立(最初は関東都督府)。

10月

大阪で活版技工組合結成。

11月21日加盟70工場で賃上げ要求、23日、同じく20工場の職工700人同盟罷業。

10月

荒畑寒村、堺利彦も周旋で「大阪日報」(社長吉弘白眼)記者となる。多くの時間を大阪の平民運動支援に割く。

10月

小山内薫、「新思潮」を創刊。

10月

京城高等商業学校、東洋協会専門学校(現拓殖大学)京城分校として創立。

10月

谷中村不当廉価買収訴訟。弁護団が残留民に示談を勧める。また、谷中村救済会は残留民に対して暫定的に谷中村恵下野に移住するよう要請。残留民の意志をは不一致。救済会は訴訟から手を引き、会自体も解消。訴訟だけが残留民・正造に残される。

10月

(漱石)

「十月(推定)(臼不詳)、二葉亭四迷の『其面影』(八月二十五日。春陽堂刊)を買って読む。賞賛と激励の意を手紙で伝える。(『長谷川君と余』この手紙はない)

十月(日不詳)、鈴木三重吉に文鳥を買うことを勧められ、五円渡す。」(荒正人、前掲書)


10月

長谷川天渓「論理的遊戯を排す」(「太陽」)

10月

この月(10月)、早稲田大学は創立25周年記念祝典を挙げることになった。新しく校歌を作る案が出て学生から募集したが、よい作品がなかった。審査員の坪内逍遥と島村抱月は、「早稲田文学」の編輯をしていた御風相馬富治を起用してそれを作らせることにした。

相馬は音楽に明るい鉄笛東儀季治のところへ相談に行き、東儀の手もとにあった英米諸大学の校歌をしらぺ、曲を聞き、更に高田早苗や坪内から内容の構想を聞いて制作に取りかかった。そのとき相馬御風が援助を受けたのは三木露風であった。

「都の西北早稲田の森に」ではじまるその歌詞は御風によってまとめられ、東儀鉄笛の作曲によって完成し、その年10月25日の祝祭日の行進に歌われた。

10月

英、ロレンス、オックスフォード大学ジーザズ学寮奨学資金試験合格、入学。~1910年6月。歴史専攻、卒業論文「中世ヨーロッパ築城技術に与えた十字軍の影響」。

10月

ヒトラー、画家を志しウィーン造形美術大学を受験、不合格

12月母クララがガンで没。

翌08年9月ウィーン造形美術大学を再び不合格。この頃、絵を描きながらウィーンを放浪。風景画や絵葉書などをユダヤ人の画商に売り生計を立てる。

10月

トロツキー、ウィーンに戻り妻子と合流。7年間オーストリア社会民主党員として活動。

ヒルファーディングと知己になり、オットー・バウアー、マックス・アドラー、カール・レンナーを紹介される(これらの人間はマルクス主義者であっても革命家でないと知る)。

後、オーストリア社会民主党の排外主義を批判。ベルリンとの往復で、フランツ・メーリング、カール・リープクネヒト、カウツキーなどと会う。


「1907年10月、私はウィーンに戻った。まもなく、妻が息子を連れてやってきた。新しい革命の波を期待して、私たちはヒュッテルドルフの郊外に住居を定めた。それから長い間、私たちは待つことになった。7年後に私たちをウィーンから押し流した波は、革命の波ではなく、まったく別の波、すなわちヨーロッパの大地を血で染めた世界大戦の波だった。

他のすべての亡命者がスイスかパリに集まっていたときに、どうして私たちはウィーンを選んだのか? それは、当時、私が何よりもドイツの政治生活の近くにいたからである。警察との関係で、ベルリンに住むことはできなかった。そこでウィーンに住むことにしたのである。だが、この7年間というもの、私は、踏み車のリスのようなせわしさをあまりにも彷彿とさせるオーストリアの政治生活よりも、はるかにドイツの政治生活の方を注意深く追った。」(トロツキー『わが生涯』)


「誰もが認めるオーストリア社会民主党の指導者たるヴィクトル・アドラーのことは1902年以来知っていたが、今や、彼の最も近しい取り巻きとオーストリア党全体について知る機会が訪れた。

1907年の夏、私はカウツキーの家でヒルファディングと知り合った。当時ヒルファディングは、その革命性が最高潮にあった。だがこのことは、彼がローザ・ルクセンブルクへの憎悪とカール・リープクネヒトへの軽蔑をつちかうことを妨げはしなかった。しかし、ロシアに関しては、当時の他の多くの者と同様、最も極端な結論を受け入れる用意があった。彼は、『ノイエ・ツァイト』に掲載された私の論文を称賛してくれた。その論文は、私がまだ国外に脱出する前にロシアの出版物から翻訳されたものだった。さらに彼は、思いがけないことに、会ってすぐに『俺、お前』の仲でいこうと持ちかけた。そのせいで、われわれの関係は表向きは親しそうに見えた。だが、この親しさには、いかなる政治的・道徳的基盤もなかった。

ヒルファディングは当時、不活発で受動的なドイツ社会民主党のことを非常に見下した態度で語り、それとの対比でオーストリア社会民主党の積極性を持ち出していた。しかしながら、この批判は内輪だけのものでしかなかった。公式にはヒルファディングは、ドイツの党に奉仕する文筆官僚であり続け、それ以上ではなかった。ヒルファディングはウィーンにやってくると私のところに立ち寄り、日が暮れると私をカフェに連れ出し、オーストリア・マルクス主義の友人たちに引き合わせた。私もベルリンに行くとヒルファディングを訪れた。ある時、私たちはベルリンにあるカフェでマクドナルドと会った。通訳をしてくれたのはエドゥアルト・ベルンシュタインだった。ヒルファディングが質問をし、マクドナルドがそれに答えていた。いま私は、その問いも答えも思い出せない。なぜなら、それらは、月並みであることをのぞけば、何の注目すべき点もなかったからである。私は心の中で自問した。彼ら3人のうちで、私が社会主義という言葉で理解しているものから最も隔たっているのは誰だろうか? それに答えるのは至難の業だった。」(トロツキー『わが生涯』)


「ヒルファーディングは、私がこれまで会ったのことのなかったウィーンの友人たちを私に引き合わせてくれた。オットー・バウアーマックス・アドラーカール・レンナーといった面々である。彼らは非常に教養があり、さまざまな分野で私より知識があった。最初のうち私は、非常に熱心な――ほとんどこう言ってもいいと思うが――うやうやしい注意深さで、カフェ『ツェントラル』での彼らの会話に耳を傾けた。だが、すぐに私の注意には不審が交じりはじめた。これらの人々は革命家ではなかった。それどころか、彼らは、革命家とは正反対のタイプの人間だった。そのことはあらゆる点に表れていた。問題へのアプローチの仕方に、その政治的意見と心理的評価に、その自己満足――自信ではなく、自己満足――に。私には、彼らの声色にさえ俗物根性が感じとれるような気がした。

私がひどく驚かされたのは、これらの教養あるマルクス主義者たちが、大きな政治問題、とりわけ革命的変革の問題にアプローチするやいなや、マルクスの方法をまったく使いこなすことができなくなることだった。何よりも私がこのことを確信したのは、レンナーとの会話を通じてである。ある時、カフェに遅くまで居残っていたため、私の住んでいたヒュッテルドルフ行きの路面電車がなくなってしまった。レンナーは自分の家に泊まるよう勧めた。当時、教養と才能に恵まれたこのハプスブルク家の官吏は、自ら歴史的弁護を買って出たオーストリア・ハンガリーの不幸な運命によって、10年後にオーストリア共和国の首相になろうとは、思いもしなかったろう。カフェからの帰り道、私たちは、その頃すでに反革命によって制覇されていたロシアにおける今後の発展の展望について語り合った。レンナーは、この問題について、教養ある外国人らしい慇懃さと無頓着さをもって論じた。彼にとっては、当時におけるオーストリアのベック男爵内閣のことの方が、はるかに大きな関心事だった。ロシアに関する彼の見解は要するに、1907年6月3日のクーデター後のストルイピン体制に表現されていた地主とブルジョアジーとの同盟は、ロシアの生産力の発展に完全に合致しており、したがって、そのまま存続することは十分可能というものであった。私は反論して次のように述べた。私の見解では、地主とブルジョアジーとの支配ブロックは第2の革命を準備するものであり、その革命はほぼ間違いなくロシアのプロレタリアートを権力に就かせるだろう。

今でも覚えているが、レンナーはガス灯の下で、困惑したような、それでいて相手を見下したような目でさっと私を見た。おそらく彼は、私の予測を、数ヵ月前の社会主義インターナショナル・シュトゥットガルト大会で将来の世界革命の日時を予言したオーストリアの神秘家の黙示録的予言と同じたぐいの、無知蒙昧なたわごとと思ったのだろう。

『本当にそう思っているんですか?』、レンナーは尋ねた。そして、おそろしく慇懃にこうつけ加えた――『もちろん、私はロシアの状況についてよく知らないんでしょうけど』。

私たちの間には、これ以上会話を続けるための共通の基盤はなかった。この人物は、エジプトのファラオの中で最も保守的な人間と同じくらい革命的弁証法から遠かった。

私が受けた最初の印象は、その後ますます深まるばかりであった。これらの人々は多くの知識を持ち、日常の政治的実務の範囲内では立派なマルクス主義の論文を書くこともできた。だが、彼らは私にとっておよそ異質な人々であった。私の交際範囲と見聞が広がれば広がるほど、この点に対する確信はますます強まっていった。彼らは、仲間内でのうちとけた会話の中では、論文や演説におけるよりもはるかにあけすけに本音を語り、時にはあからさまな排外主義的感情を、時には小金持ちの高慢さを、時には警察に対するうやうやしい畏れを、時には女性に対する下劣な態度を、さらけだした。そのたびに私はあっけにとられて、心の中でこう叫ぶのだった。「何という革命家だ!」。

労働者のことを言っているのではない。もちろん、彼らにも少なからぬ小市民的特徴が見られるが、それはもっと単純で素朴なものである。だが、私が前にしていたのは、戦前のオーストリア・マルクス主義の精華であり、国会議員、著述家、ジャーナリストのお歴々だった。こうしたつき合いを通じて私は、いかに多様な諸要素が同一人物の心理の中に共存しうるかを、そして、体系の一部を受動的に認識する水準から、その体系を総体として心理的に感得し、その体系の精神で自己を再教育するに至るまで、いかに巨大な距離があるかを理解するようになった。マルクス主義者の心理タイプというものは、社会的激動の時代、伝統と習慣との革命的断絶の時代においてしか形成されない。だが、オーストリア・マルクス主義者は、あたかも人が法律を学ぶようにマルクスの理論のあれこれの部分を学び、『資本論』の利子で食っていたため、あまりにもしばしばその俗物性をさらけだした。オーストリア帝国の古い町ウィーン、この階層的でせわしく虚栄に満ちた都市で、マルクス主義の学者たちはいかにもうれしそうにお互いを『博士(ヘル・ドクトル)』と呼びあっていた。労働者もたびたび彼らのことを『同志博士(ゲノッセン・ヘル・ドクトル)』と呼んでいた。

ウィーンに住んでいた7年間というもの、私はこれらの指導者たちとの誰とも心を割って話すことができなかった。その間ずっと、私はオーストリア社会民主党の一員であり、その集会に出かけ、デモに参加し、出版活動に協力し、時にはドイツ語で短い報告さえしたというのに。私はこの社会民主党指導者たちを自分とは疎遠な人々であると感じたが、集会やメーデーでの行進で出会った社会民主党の労働者たちとは、共通の言葉をやすやすと見出した。」(トロツキー『わが生涯』)


つづく

2026年2月12日木曜日

なだ万@横浜インターコンチネンタルホテルでランチ 2026-02-12

 2月12日(木)晴れ

今日は、横浜みなとみらい、インターコンチネンタルホテルにある「なだ万」でランチ。

エラそうなことを言えるほどの通では全くないけれど、ここの料理は、細部にまで心配りがされていることが見て取れる。

美味しかった。






▼ホテル裏の景色 「ぷかり桟橋」

▼帰りはグランモール公園と呼ばれる通りを歩いて横浜駅まで

写真は横浜美術館あたり 



〈下院司法委員会公聴会〉 トランプが公けの場で米議員によって「性暴行と殺害に関与した可能性」を示唆されたのはこれが初めて / パム・ボンディ司法長官の背後にエプスタイン性被害者 / 司法省によるエプスタイン事件の隠蔽疑惑 / パム・ボンディ司法長官、「ダウは今5万を超えていて、ナスダックは記録を打ちまくっている、それが私たちが話すべきことよ!!」と叫ぶ / パム・ボンディ司法長官、ジェイミー・ラスキン下院議員(民主党、ハーヴァード法科卒)に「私に何も言うな!くたびれた負け犬の弁護士め。弁護士ですらない」と叫ぶ /  エプスタイン・ファイル公聴会でのパム・ボンディ司法長官の「叫び」シーン集 / FOXニュースにまで痛烈に批判されるボンディ司法長官 / AOC議員(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス)の批判 ボンディ自身が「ある重大な隠蔽工作」に関わっている後ろめたさがあるのではないかと指摘 具体的には、ペドフィリア(小児性愛者)のネットワークを守るために、犯人の名前を黒塗りにしたり、300万件もの重要ファイルを隠したり、ギレーヌ・マクスウェルを待遇の良い施設へ移送させたりといった疑惑          


Pam Bondi、「ドナルド・トランプが犯罪を犯したという証拠はない」

Ted Lieu、「あなたは今、宣誓下で嘘をつきました。エプスタインのファイルには十分な証拠があります」

Pam Bondi、「二度と私を犯罪で非難しないで」

Ted Lieu、「あなたは今、宣誓下で嘘をつきました、そしてこれはビデオテープに記録されています」

Ted Lieuは続いて、エプスタインのファイルから抜粋を読み上げ、トランプとエプスタインに強姦されたと主張する少女が頭を吹き飛ばされたと述べ、警官が自殺ではあり得ないと述べている部分を読み上げる

Ted Lieu、「あなたは一人の男も責任を追及したことがありません」

「あなたは恥を知るべきです」

「もしあなたに少しでも品位があるなら、この公聴会が終了した後で辞任するべきです」


 


 司法省によるエプスタイン事件の隠蔽疑惑について

米下院での追及により、司法省(DOJ)がジェフリー・エプスタインに関連する膨大な資料の開示を拒み、事実上の隠蔽工作を行っている疑いが浮上しました。

議会からは写真や動画を含む600万点に及ぶ資料の提出を命じられていますが、実際に提出されたのはその半分の300万点に留まっています。

司法省側は未提出分を「重複しているため」と説明していますが、実際には被害者の供述メモや重要な起訴メモが削除されており、意図的な選別が行われている可能性が濃厚です。

さらに深刻なのは、公開された資料の編集方針です。

法律の定めに反し、加害者や協力者、共犯者たちの名前は「名誉を守るため」として黒塗りにされている一方で、保護されるべき被害者たちの実名や身元、画像はそのまま公開されるという、極めて不適切な対応が取られました。

この結果、プライバシーを守り続けてきた1,000人以上の被害者たちが、世界中にその正体を晒されるという二次被害に直面しています。

10万人以上の職員を抱える組織でありながら、このような事態を招いたことは、単なる無能の域を超え、司法省による冷酷な隠蔽と被害者への無関心を象徴するものとして厳しく批判されています。