2026年2月12日木曜日

なだ万@横浜インターコンチネンタルホテルでランチ 2026-02-12

 2月12日(木)晴れ

今日は、横浜みなとみらい、インターコンチネンタルホテルにある「なだ万」でランチ。

エラそうなことを言えるほどの通では全くないけれど、ここの料理は、細部にまで心配りがされていることが見て取れる。

美味しかった。






▼ホテル裏の景色 「ぷかり桟橋」

▼帰りはグランモール公園と呼ばれる通りを歩いて横浜駅まで

写真は横浜美術館あたり 



〈下院司法委員会公聴会〉 トランプが公けの場で米議員によって「性暴行と殺害に関与した可能性」を示唆されたのはこれが初めて / パム・ボンディ司法長官の背後にエプスタイン性被害者 / 司法省によるエプスタイン事件の隠蔽疑惑 / パム・ボンディ司法長官、「ダウは今5万を超えていて、ナスダックは記録を打ちまくっている、それが私たちが話すべきことよ!!」と叫ぶ / パム・ボンディ司法長官、ジェイミー・ラスキン下院議員(民主党、ハーヴァード法科卒)に「私に何も言うな!くたびれた負け犬の弁護士め。弁護士ですらない」と叫ぶ /  エプスタイン・ファイル公聴会でのパム・ボンディ司法長官の「叫び」シーン集             


Pam Bondi、「ドナルド・トランプが犯罪を犯したという証拠はない」

Ted Lieu、「あなたは今、宣誓下で嘘をつきました。エプスタインのファイルには十分な証拠があります」

Pam Bondi、「二度と私を犯罪で非難しないで」

Ted Lieu、「あなたは今、宣誓下で嘘をつきました、そしてこれはビデオテープに記録されています」

Ted Lieuは続いて、エプスタインのファイルから抜粋を読み上げ、トランプとエプスタインに強姦されたと主張する少女が頭を吹き飛ばされたと述べ、警官が自殺ではあり得ないと述べている部分を読み上げる

Ted Lieu、「あなたは一人の男も責任を追及したことがありません」

「あなたは恥を知るべきです」

「もしあなたに少しでも品位があるなら、この公聴会が終了した後で辞任するべきです」


 


 司法省によるエプスタイン事件の隠蔽疑惑について

米下院での追及により、司法省(DOJ)がジェフリー・エプスタインに関連する膨大な資料の開示を拒み、事実上の隠蔽工作を行っている疑いが浮上しました。

議会からは写真や動画を含む600万点に及ぶ資料の提出を命じられていますが、実際に提出されたのはその半分の300万点に留まっています。

司法省側は未提出分を「重複しているため」と説明していますが、実際には被害者の供述メモや重要な起訴メモが削除されており、意図的な選別が行われている可能性が濃厚です。

さらに深刻なのは、公開された資料の編集方針です。

法律の定めに反し、加害者や協力者、共犯者たちの名前は「名誉を守るため」として黒塗りにされている一方で、保護されるべき被害者たちの実名や身元、画像はそのまま公開されるという、極めて不適切な対応が取られました。

この結果、プライバシーを守り続けてきた1,000人以上の被害者たちが、世界中にその正体を晒されるという二次被害に直面しています。

10万人以上の職員を抱える組織でありながら、このような事態を招いたことは、単なる無能の域を超え、司法省による冷酷な隠蔽と被害者への無関心を象徴するものとして厳しく批判されています。




おこめ券は衆院選で「評価いただいた」 鈴木農相 / 小泉防衛相、安保3文書改定「信任いただいた」 衆院選で自民圧勝 / 国論二分する政策「訴えたつもり」 公約実現に意欲 高市総裁が会見 / 吉村氏は「都構想挑戦の信を得た」       

中国の「米国債離れ」浮き彫りに、世界的な資金引き揚げへの波及警戒(Bloomberug);■中国当局の米国債保有抑制勧告、長年の動きの延長線上との受け止め ■欧州や日本など主要な貸し手までが中国に追随するかが今後の焦点

米政権、政敵の起訴失敗 民主党議員の動画問題で 報道(時事通信);「米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は10日、トランプ政権が、米軍兵士に違法な命令に従わないよう呼び掛ける動画を公開した民主党議員6人を起訴に持ち込めなかったと報じた」

トランプ政権のカナダへの関税 議会下院が撤廃求める決議案を可決 与党・共和党議員6人が造反 トランプ大統領は「選挙で代償払うことになる」と激怒(TBS)

 

大杉栄とその時代年表(752) 1907(明治40)年9月14日~30日 漱石(40)、本郷の西片町より早稲田南町へ転居 「(西片町の家主の)家賃値上げを怒り、立ち退く時、損害賠償をすれば何をやってもよいというので、八畳の客間で小用を足したという。(難波秀吉(鉄道省電化課長)談)」(荒正人)

 


大杉栄とその時代年表(751) 1907(明治40)年9月7日~14日 綱島梁川(35)没 明治40年6月頃、梁川の思想、信仰に傾倒する人々によって梁川会が作られ、東京、秋田、京都、樺浜、神戸等に組織が出来た。8月、梁川は「我とは何ぞや」を発表。その中で彼は法然・親鸞の他力本願の浄土宗系の思想に共鳴し、キリスト教と仏教との融和を認めるようになった。しかし、その稿は完成されなかった。 より続く

1907(明治40)年

9月14日

(漱石)

「九月十四日 (土)、高浜虚子宛葉書に、「寶生新君件委細難有候。早速始めたいが轉宅前はちと困ります。」と伝える。


(*寶生新)神田区駿河台北甲賀町十番地(現・千代田区神田駿河台四丁目)に住む。室生流脇師の家で、宝生家は徳川難府の御能方を勤める。


この前後に、河東碧梧桐・高浜虚子・宝生新と星岡茶寮で晩餐を共にし、宝生新に謡を教えて欲しいと頼む。その時宝生新は『熊野』か『蝉丸』を謡い、また高浜虚子の懇望あり、河東碧梧桐・高浜虚子は地をやり、『鷺』の仕舞をする。高浜虚子は、時時絶句したが、宝生新は謡い且つ舞う。」(荒正人、前掲書)


9月16日

神戸築港の起工式

9月17日

台湾守備隊司令部設置。

9月17日

東京音楽学校、邦楽調査掛設置。古邦楽の採譜、年表編集。

9月17日

東野英治郎、生まれる

9月18日

韓国、英人べセル、日本人の義兵弾圧は「文明の方式によらず、残忍野蛮の挙措」と暴露・非難(「大韓毎日申報」)。日本の抗議により、英領事、略式裁判で禁固3週間・保釈金2千$の処分。。

9月18日

陸軍管区表改正公布。13個師団から19個師団に増師。

9月19日

英仏協商カナダ貿易調整。

9月20日

清朝、資政院設置の詔、下る。

9月20日

(漱石)

「九月二十日 (金)、夜、鏡、鈴木三重吉とオペラを見に行く。(推定)

九月二十三日 (月)、狩野亨吉宛手紙に、今月中に転宅しなければならぬので、貸家を探しているが、適当なものが見当らぬので、北町(牛込区北町三十六番地) の持家を臨時に貸して貰えぬか、家賃は三十円出すと書く。

九月二十四日(火)、秋分の日。秋季皇霊祭。午前から昼にかけて、多摩川で行われた東京朝日新聞社の運動会に出席する。午後二時頃、千駄が谷停車場で森田草平と落合い、貸家を見に行く。

九月二十五日 (水) から二十八日 (土) の間(推定)、鏡、牛込区早稲田南町七番地(現・新宿区早稲田南町七番地) の貸家の差配人中山正之祐(牛込区早稲田両町八番地)に会い、漱石の名刺を出すと、家賃四十円を三十五円に負けてくれる。予算は三十円であったが、移転を予定する。

九月二十七日(金)、狩野亨吉が来て、借家のことを話合う。翌日、二十九日に移転することを葉書で伝える。」(荒正人、前掲書)


9月20日

啄木(21)。小国露堂より、近く小樽に創刊の「小樽日報」に転出の件薦められる。啄木が入社したのは第三次「北門新報」で、社長は村上玉砕(祐)、主筆上野隻履(貫一)で、社屋は大通西四丁目にあった。

23日、小樽日報社へ赴任の件きまる。

9月20日

仏軍、講和会談が頓挫した後、モロッコのカサブランカ反乱軍と戦闘再開。

9月21日

ドイツ領南西アフリカの反乱鎮圧。

9月22日

「大阪平民新聞」の森近運平、新宮の大石誠之助を訪問。

23日、末広座で講演会。大石・成石・森近。300人。

9月26日

専売局官制公布

9月26日

平磯海岸で療養中の独歩から斎藤弔花あてた手紙

「此のカラダでは当分廃人です。死ねば瓦礫です。/手取早くどちらともかたをつけて貰ひたいやうに思ひますが綱島君が十年病床に在りしを思へばノンキな気特になります。/手紙を下さーい。我が霊は情にウヱて居ます。」


9月26日

ニュージーランド、英植民地から英帝国自治領となる。

9月27日

啄木(21)、北門新報社を辞して小樽に向かう。中央小樽駅長官舎に姉夫妻を訪ね、家族としばらく滞在する。翌日より出社する。

9月28日

南京領事館開館。

9月28日

米国陸軍長官タフト、来朝。移民問題につき林菫外相と会談。

9月29日

漱石(40)、本郷の西片町より早稲田南町7へ転居。敷地340坪、平屋60坪。家賃35円。胃病に苦しむ。

(以下は読み易さのため適宜段落を施す。

「西片町の家主が、最初は二十七円、まもなく三十円にし、十か月も経たぬうちに十月から三十五円に値上げするというので憤慨していた。漱石は印を誂えるのが好きで、印ができると部屋中捺す。また、家賃値上げを怒り、立ち退く時、損害賠償をすれば何をやってもよいというので、八畳の客間で小用を足したという。(難波秀吉(鉄道省電化課長)談)

早稲田両町の家は、どういう手順で見付けたかよく分らぬが、生れた場所とは、三、四百メートルの一筋道でつながっている。昔を懐かしく思う感冊が湧く。室数は七間。面積は三百四十坪。中央にハ十坪の平屋建て。家賃三十五円。和洋折衷の建築である。

漱石が十六、七歳の頃、沈雲眠假草堂(山堂)主人として、漢詩を交換していた奥田必堂のアメリカ滞在中の友人三浦篤次郎という人物が、明治三十五年頃建てた家屋である。(松岡譲)その後、銀行の支店長が住み、当時は阿部龍夫という医者の所有でめる。阿部龍夫は、第一高等学校時代から松岡譲とも顔見知りで、歌人でもある。

漱石没後、夏目家に二万円で護る。廊下の三方にベランダをめぐらす。初めは浴室もなかったが、後に瑚築する。(鏡)庭には苔が生えている。

漱石は晩年この家を余り気に入らなくなる。隣りに「貧民長屋」があったからである。通りを隔てて、正面に中山正之祐医院・風呂屋・車屋(六さん)など並ぶ。正面に向って左手は、どぶ川を渡り、通りに出る。左手には、車屋や長屋がめり、墓地に続く裏側に、宗参寺(牛込区弁天町一番地)があり、大きい榎が立っている。長屋では、夫婦喧嘩が繰り返され、垣根を作ると、それが抜かれて、焚き付けになる。垣根から一段低い台所を見下ろして何のかのと批評する。環擬がよくない。そんなわけで、鏡がこの借家を貿おうかと云うと、漱石は反対する。しかし、自分の子供たちに世の中にはこういうあさましい場所もあるということを知らせるにはよいと云うこともある。漱石が嫌になり何処かへ引っ越そうと云いだす時には、鏡のほうで引っ越し荷物のことを考え、同意しない。お互いに幾度か繰り返し切り出すが、そのまゝ延ばされる。(鏡)辰野隆も、父親の辰野金吾に設計させるからいつでも云って欲しいと勧める。

引っ越しは、鈴木三重吉・小官豊隆・野間真綱・皆川正禧ら手伝う。引っ越しをする前にこれまでの例にならい受け取った手紙を大部分焼いてしまう。

一段落して野上豊一郎も混えて二、三人で喜久井町の銭湯に行く。倶梨伽羅紋々の男が立ったまま水を被ったおり、漱石の頭にかかる。漱石は、怒鳴りつけて湯桶をつかんで立ち上る。(野上豊一郎) また、鏡は漱石がこの家で生涯を終ったのは、丑の年の丑の日に引っ越したからだと思い込む。(但し、この日は辛巳である)

漱石没後、客間 (十畳) と書斎 (十畳の板の間) を兼ねた二間続きの居間は、母屋から独立して保存されていたが、空襲で焼かれ、後に売り払われる。現在、都営アパートが建てられ、アパートの横に木棚で囲まれた八坪程の 「猫の墓」 があり、植込みも深く、四つ脚の台石の上に九層十二個の自然石を重ねた供養塔が建っている。「史蹟漱石山房跡(猫の墓)」と標識建つ。その横に、「明治文壇の巨匠、夏目漱石が明治四十年来本郷西片町から移って大正五年十二月九日死去するまで居住した処である。机は.板の間から畳の間のほうに向い据えられている。ここで『坑夫』『三四郎』『それから』等の名作が書かれた。「猫の墓」はi小説『吾輩は猫である』の主人公になった三毛猫の墓である。昭和三十二年三月新宿区役所」 と記されている。(実際は平凡な黒猫であった) また、この家では植木を入れるために、植辰という植木屋に頼む。植辰は伸六の物心のつく頃には、毎日、朝八時頃から夕方五時頃まで、何をするということもなく通って来ていた。漱石は、この男を嫌っていたが、それを知っていながら鏡が使っていることに一層腹を立てていた。(夏目伸六『父と母のいる風景』)」(荒正人、前掲書)


9月30日

初代野村徳七(57)、没。

9月30日

チリに公使館開設


つづく

2026年2月11日水曜日

ラトニック米商務長官、「エプスタイン島」での昼食認める より親密な関係は否定(AFPBB); ハワード・ラトニック米商務長官は10日、少女らへの性的人身取引の罪で起訴され勾留中に自殺した富豪ジェフリー・エプスタイン元被告との関係をめぐり辞任を求める声が高まる中、2012年にエプスタイン元被告の私有島で昼食を共にしたことを認めたが、同被告とのより親密な関係については強く否定した。

 


 ハワード・ラトニック米商務長官に、ジェフリー・エプスタインとの深い関わりを示す新証拠が見つかって騒ぎになっています。

これまでの説明だと、ラトニック氏は「2005年に一度会って以来、エプスタインとは二度と同じ部屋にいないと誓った」と公言していました。

ところが、今回流出した2012年のメールには、ラトニック氏が自分の子供たちを連れて、エプスタインの所有するプライベートアイランドを訪れる計画を立てていた内容が記されていたんです。

メールには「自分のボートにもう一組のカップルがいて、それぞれ4人ずつ子供を連れている」といった具体的な状況まで書かれていました。

「2005年以降は一切会っていない」という本人の主張と、2012年時点での親密なやり取りに大きな食い違いが出てきたことで、今後の進退や説明責任が厳しく問われることになりそうです。






(社説)大阪の都構想 我田引水が目に余る(朝日) / 〈およそ理屈が通らない。選挙を都合良く利用し、その結果を都合良く解釈する姿勢は民主主義の基盤を傷つける。吉村氏の言動には我田引水が目に余る。巨大自治体の首長、与党の一角を担う国政政党の代表として、責任と自覚が問われている。強引な姿勢は改めるべきだ〉

 

大杉栄とその時代年表(751) 1907(明治40)年9月7日~14日 綱島梁川(35)没 明治40年6月頃、梁川の思想、信仰に傾倒する人々によって梁川会が作られ、東京、秋田、京都、樺浜、神戸等に組織が出来た。8月、梁川は「我とは何ぞや」を発表。その中で彼は法然・親鸞の他力本願の浄土宗系の思想に共鳴し、キリスト教と仏教との融和を認めるようになった。しかし、その稿は完成されなかった。

 

綱島梁川

大杉栄とその時代年表(750) 1907(明治40)年9月2日~6日 陸羯南(51)没。明治22年2月「東京電報」を「日本」と改称し日本主義を宣言。その傾向は終始、官僚主義と藩閥勢力の攻撃にあった。三宅雪嶺、池辺三山、福本日南、古島一雄、子規、碧梧桐、不折、如是閑がこの新聞に籍を置いた。 より続く

1907(明治40)年

9月7日

バンクーバー、アジア人排斥デモ、中国人街・日本人街襲撃。

翌1908年1月2日、再開。

9月8日

孫文、民族主義政党国民党を結成。

9月8日

片山潜「社会主義鄙見」(「社会新聞」第15、16号)。

議会政策反対派は無政府主義者であり、社会主義者ではない。今後、これらとは議論しない、と言い切る。

9月8日

旭硝子株式会社設立(本社、兵庫県尼崎)。資本金100万円。社長岩崎俊弥。1909年10月開業。

9月8日

十勝線狩勝トンネル完成。これにより、落合~帯広間開通、旭川~釧路間全通。

9月8日

ローマ教皇ピウス10世、カトリック近代主義を非難。

9月9日

清国、第2次憲政調査団を英日独に派遣。

9月10日

樺太の日露境界割定発表される

9月10日

東京・北海道間の電話開通す

9月10日

(漱石)

「九月十日(火)、大谷正信(繻石)(本郷区駒込曙町十一番地、現.文京区本駒込一丁目)を訪ね、貸家案内して貰う。また、真宗大学(北豊島郡巣鴨村、現・豊島区巣鴫)で英語教師を求めているとのことで、家に帰ってから、戸川明三 (秋骨)・多須川良(明治三十一年率)・野間真綱(明治三十六年率)を候補として、大谷正信に知らせる。」(荒正人、前掲書)


9月11日

電機学校(東京電機大学の前身)創立。

9月11日

啄木(21)、大竹校長に辞表を提出

9月12日

在浦潮帝国貿易事務館閉鎖、領事館を設置。

9月12日

大阪の友禅染職工2,000人、賃上げ要求し同盟罷業。

9月12日

軍令第1号公示。

9月12日

札幌農科大学開校式挙行

9月13日

啄木(21)、函館を去って札幌に向かう。向井永太郎の斡旋で北門新報記者小国露堂(善平)の厚意により、同社校正係に就職のため。この日友人吉野自村の次男誕生、啄木は名付親となり浩介と命名する。

14日 小樽に途中下車し姉夫妻の家に立ち寄る。午後1時札幌に到着。向井と松岡露堂に迎えられてその下宿先である札幌区北七条西四丁目四番地の未亡人田中サト方に赴く。以後この家に下宿する。この家に18歳の娘ヒサと12歳の娘ヒデが居た。

16日 北門新報社に出社、入社早々「北門歌壇」を起こし、感想「秋風記」を掲載する。発行部数約6千部、6貢建の日刊新聞であった。"

9月14日

綱島梁川(35)、没。

綱島梁川の死は、近年の彼の思想的影響が大きかったので、知識階級人一般にとっての衝撃だった。

前年頃から梁川の病が重いことは伝えられていたが、彼は明治31年から絶えずその重症を伝えられ、しかも臥床したままで次々と仕事を続けていたので、どの程度の病気なのか、その真相は分らなかった。

徳富蘆花は、この年4月16日に一度だけ梁川を訪ねた。蘆花は5歳年下の梁川を尊敬していた。あのような人物は、有像の実在界から無象の精霊界へ往復しているようなものだから、いわば過去、現在、未来を賞いて常住しているようなもので、死も単に此処にある生から、彼岸にある生への移行だと考えてもいいわげだ。

本郷教会の牧師で、蘆花や兄の蘇峰の友人で、彼の従姉の夫でもある海老名弾正が編輯している宗教雑誌「新人」に梁川はしばしば文章を発表した。梁川は24歳の頃、神戸で療養中に神戸教会の牧師をしていた海老名を知った。

蘆花は、「予が見神の実験」をその雑誌で読んでいたし、「病間録」に収められた他の文章も愛読していた。

4月、木下尚江が彼の新居を訪れて、そのとき梁川の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体で恐れ入った元気だ」と言った。

4月16日午後、蘆花は牛込区大久保余丁町十七番地の綱島家を訪れた。

梁川は終生独身であったが、明治30年に郷里岡山県から母、弟、妹を呼び寄せて、牛込の原町に一家を構えた。一族ともに生活し、母の看病を受けて仕事をするというのか、彼の最大の願いであった。余丁町へはその翌年に引越した。彼の病気は全身にわたっていて、32、33年頃から結核は胸ばかりでなく腸と咽喉を畠していた。そういう身体で7年も8年も生き、絶えず読み、考え、述作するというのは人間業でないと見られていた。

案内された部屋は6畳ほどの室で、押入れの下半分を硝子戸の本棚にして、そこには金文字の書物がぎっしり詰まっていた。その本棚を背にして、蒲団の上に坐っている色の浅黒い男が、丁寧に頭を下げ、吸い込むようなかすれた声で初対面の挨拶をし、自分が梁川だと言った。その様子にはつゝましさがあったが、その黒い目が澄んでじっと動かぬさまは、その人の意志の強い性格を示していた。声はかすれて聞き取りにくく、その人に話をさせるのも気の毒こ思われたが、蘆花はいつのまにか打ち解けた話を交わしていた。

途中で、梁川の弟子で勤労的宗教生活団体を創立していた西田天香(てんこう)の訪問があり、三人の間で話がいろいろな方面に展開した。

その後も蘆花と梁川との間には文通があり、4月に出たばかりの梁川の「国光録」を贈られたりした。「国光録」は梁川の最晩年の思想を述べたもので、神秘主義的な信仰の告白だった。

そして、明治40年6月頃、梁川の思想、信仰に傾倒する人々によって梁川会が作られ、東京、秋田、京都、樺浜、神戸等に組織が出来た。8月、梁川は「我とは何ぞや」を発表した。その中で彼は法然・親鸞の他力本願の浄土宗系の思想に共鳴し、キリスト教と仏教との融和を認めるようになった。しかし、その稿は完成されなかった。

梅雨の頃から彼の病勢はつのっていたが、9月13日危機が迫って来た。彼は病苦の中で、母や弟夫妻に向い、

「心配し給うな。治って見せます。大丈夫だ、まだ死なれないから」と言った。

だが14日朝、危篤に陥り、夜半になって息絶えた。、

9月17日、梁川の葬儀の日。雨であったが、蘆花は粕谷村から4里ほどある新宿まで歩き、そこから電車で本郷に行った。海老名弾正の司会で葬儀が営まれた。教会は会葬者でー杯だった。やがて棺が余丁町から昇ぎ込まれた。海老名弾正は説教で、「美人の裸体はよい。然しこれに彩衣を諾せるとなお美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章で述べた人である」と言った。

棺は雑司ケ谷の墓地まで運ばれ、蘆花も棺の後について歩いた。葬式のあと、彼はいつの間にか俥に乗せられて、余丁町の綱島家へ行った。

そこには故人と親しかった人々が集っていた。西田天香、中桐確太郎、水谷不倒など蘆花の見知っている人もいた。面識のない人々の中には、明治36年第一高等学校在学中から梁川に私淑していた数え24歳の東大哲学科の学生安倍能成もいた。晩餐が出された。そのあと蘆花は新橋まで電車で行き、4里の泥道を歩いた。粕谷村の家へ着いたのは1時を過ぎていた。

その後しばらくして、梁川の遺文を集めた「寸光銀」が贈られて来た。その中で梁川はしばしば蘆花に言及し、蘆花のことをよく言ってあった。

つづく