2026年2月21日土曜日

高市首相ブログ全削除事件を単なる事務処理の話で片付けられないのは、非核三原則見直しや皇室典範改正、国旗損壊罪、靖国神社参拝と教育勅語への「熱い想い」が赤裸々に語られているから。一見温和なペテンスマイルの仮面の下にある、高市早苗の本当の「顔」がそこにある。

トランプ氏、6人の判事を罵倒 違法判決「国の恥」「飼い犬」(共同) / 最高裁判所長官ジョン・ロバーツとエイミー・コーニー・バレット判事およびニール・ゴーサッチ判事は、裁判所の3人のリベラル派判事と共に、関税に反対する判決に加わった。 ロバーツは、トランプが輸入税を正当化するために引用した1977年の法律は「不十分」であり、必要とされる議会承認を満たしていないと書いた。

〈高市首相の「成長スイッチ」政策に賛否の声、日経記事が注目を集める〉 → 「首相が押しまくる「スイッチ」が、円安だの、武器輸出だの、働かせ方改革だのと、本当に絶望的なんですが。人間を、労働者として低賃金で長時間こき使えば、消費者としてのまともな生活などとてもできないことが、まだ学習できてないのか。それで内需をどうやって増やすのか。」(平野啓一郎) / 「弱い円でも強い日本」の世界線 高市首相が警戒する超円安のリスク(日経) ← いまだに「円安ホクホク」なんだろうな

 

〈高市首相の「弱い円でも強い日本」論に異論相次ぐ〉 → 高市首相は聞くはずがないが、「明確な目標がない高市政権」は一刻もはやく「異常な円安」を止め、「積極財政」もやめるべきだ(東洋経済);「「責任ある積極財政」という言葉は、「気合いだ、気合いだ、気合いだ!」と叫んでいるのとほぼ同義…太平洋戦争に負けた理由とまったく同じ…高市政権の問題は、右傾化ではなく、歴史に名前を残すこと、承認欲求、自己実現だけが目的と、非常にはっきりしている点だ、と」(Shoko Egawa)  

 

高市首相は衆院選勝利後、円安を輸出産業の機会と述べましたが、釈明し内需主導の成長を目指すと強調。
一方、日経新聞や東洋経済オンラインが超円安のリスクを指摘し、小幡績氏は日銀の利上げと積極財政の見直しを提言しています。
Xでは「大企業優遇」との批判が目立ち、擁護派も政策の具体性を主張。
1ドル155円前後の相場が実質賃金をマイナスに追い込み、国民生活とのバランスが注目されています。

 

大杉栄とその時代年表(761) 1907(明治40)年12月1日~5日 李垠(11、高宗の七男)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。

 

伊藤博文と李垠(1907年頃)

大杉栄とその時代年表(760) 1907(明治40)年 〈谷崎潤一郎と精養軒〉 明治36年6月、谷崎潤一郎は精養軒当主北村重昌家の家庭教師兼書生として住み込む。彼は、その身分のまま府立一中から一高に進学する。 より続く

1907(明治40)年

12月

-韓国、江原道義兵大将儒者李麟栄、各義兵団結して漢城へ進撃を呼掛け。京幾道楊州に旧兵3千含む1万人の各道義兵集結。漢城上京途上、許鳶率いる先発隊300余、東大門3里の地点で敗退。1年半後逮捕、処刑。

進撃前、工作員を漢城に侵入させ、各領事館に対し、義兵部隊は愛国血団であり各国は国際法上の交戦団体と認めるよう訴え。また、アメリカ在住朝鮮人団体(サンフランシスコの共立教会、ハワイの合成協会)に、日本の侵略行為を全世界に訴えるよう檄文を送る。

12月

満鉄、「時報」創刊(不定期)。調査部、一般経済調査・旧慣調査を開始。

12月

幸徳秋水、ローレル「経済組織の未来」訳出。秘密出版(金曜社)。

12月

片上天弦「人生観上の自然主義」(「早稲田文学」)

12月

岩野泡鳴「新体詩史」(「新思潮」)12月~41年3月 

岩野泡鳴「新体詩の作法」(「修文館」) 

12月

今村均(21)、少尉任官。

12月

東洋教会(会長桂太郎)、内閣に韓国の「拓地殖民」のための会社設立案提出。

12月

「(十二月、白仁三郎(坂元雪鳥)・西村真次、六か月の見習い期間を終了し、東京朝日新聞社に正社員として採用される。高須賀洋平・生方敏郎は退社する。)」(荒正人、前掲書)

12月上旬

(漱石)

「十二月上旬(推定)、夜、鈴木三重吉は小宮豊隆と共に、文鳥と籠持って来る。(『文鳥』)」(荒正人、前掲書)

12月上旬

「(十二月上旬または中旬(推定)、野田九甫、大阪朝日新聞社に入社する。)

第一回文展で「辻説法」が二等に選ばれる。瀧精一(節庵)の推薦で、大阪朝日新聞社に入社することになる。村山龍平・上野精一両社主、上京していた際に会い、入社が決定し、『坑夫』の挿画を響くことになる。漱石に意見を求めると〝万事委せる。とのことである。岡田版木屋で木版を彫らせる。挿画は、掲載される四日前に版木屋に届けられる。小宮豊隆が原稿を持って行く。やがて打合せの都合もあるからと、大阪へ移り、大阪朝日新聞社に近い西照庵(宿屋)に下宿する。野田九甫の挿画は漱石も喜び切抜を貼っているので感謝されたが、社の営業面からは余りに高級だと、書き替えさせられたこともあり、野田九甫は辞職を申し出る。二葉亭四迷は、明治四十一年六月十八日(木)神戸からロシヤに出発する直前に、西照庵に泊り、野田九辞の不満を慰めている。野田九甫は、八年間ほど大阪朝日新聞社に勤める。(野田九甫談)(昭和二十七年十月二十九日 清水三郎筆録)」(荒正人、前掲書)

12月1日

荒畑寒村(20)、横須賀海兵団入営。翌日、兵役免除。

12月5日

韓国、李垠(11)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。

李垠;

大韓帝高宗の七男。この年8月27日、異母兄の李坧(純宗)が即位し、9月7日、皇太子に冊立された。純宗には子はなく、また毒茶事件でアヘン入りのコーヒーを飲んでいたことで心身ともに虚弱となり、子供を設けられない体になっていた。李垠には20歳年長の兄・義王李堈がいたが、品行に問題があり皇位継承者から外されていた。

李垠は、皇太子に擁立されると、同時に東京留学を進言される。

12月5日、李垠は軍艦満州丸でに仁川を出港、7日に下関に到着し、15日に東京に入る。

翌1908年(隆熙2年、明治41年)、学習院に入学。

1910年(隆熙4年/明治43年)のれた日韓併合によって、高宗、純宗、純貞孝皇后とともに日本の皇族に準じる存在である王族となり、李王(純宗)の王世子となった。

1911年(明治44年)9月、陸軍中央幼年学校の第2学年時に編入(14期)。次いで、陸軍士官学校(29期)へ進む。

1915年(大正4年)6月5日、士官学校卒業後に近衛歩兵第2連隊に士官として配属され陸軍将校となる。

1916年(大正5年)8月、皇族の梨本宮守正王・伊都子妃の第1女子方子女王と婚約。

1918年(大正7年)12月5日、結婚の勅許が下りるが、1919年(大正8年)1月21日、挙式4日前に李太王(高宗)が死去し、結婚は延期された。

1920年(大正9年)4月28日、方子女王と結婚し。結婚式では、朝鮮人学生による爆弾投擲未遂事件が起きている(李王世子暗殺未遂事件)。主犯の徐相漢の供述では、標的は李垠夫妻ではなく、朝鮮総督となっていた斎藤実だったという。方子女王の側からは、厳密には非皇族への降嫁であるが、大正天皇の「御沙汰」により女王の身位を保持した。

夫妻の間には、結婚の翌年に第1男子の李晋が誕生したが、1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻が生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問した際、晋は急逝する。晋の急死には、当時より陰謀説がある。

翌年、陸軍大学校を卒業。

1924年(大正13年)、参謀本部附となる。

1926年(大正15年)の李王坧の薨去に伴い王位を継承、「昌徳宮李王垠」と呼ばれる。またこの後、朝鮮軍司令部附となる。

1927年(昭和2年)5月23日から翌1928年(昭和3年)4月10日、李垠夫妻はヨーロッパに外遊。この時、夫妻は「李伯爵」の仮名で旅行を行っていたが、各国元首と取り交わした文書ではプリンスを名乗っている。陸軍少佐となり、近衛歩兵第3連隊大隊長を兼務、

1930年(昭和5年)、教育総監部附となる。

1931年(昭和6年)、第2男子(李玖)誕生。

1937年(昭和12年)3月1日、歩兵第59連隊長から陸軍士官学校教官に転補。

 1938年(昭和13年)、陸軍少将となり、北支那方面軍司令部附として中国に赴任。

翌1939年(昭和14年)8月、帰国し、近衛歩兵第2旅団長に転じたる。

翌1940年(昭和15年)5月、留守第4師団長となって大阪に赴任、この年、陸軍中将になる。

1941年(昭和16年)7月、第51師団長として再び中国に渡り、11月、教育総監部附となって帰国。

1943年(昭和18年)、第1航空軍司令官となる。

1945年(昭和20年)4月、軍事参議官に補せられる。 

同年8月12日、昭和天皇から皇族らとともに御文庫附属庫に招かれ、天皇からポツダム宣言受諾を決心したことを聞く。

敗戦後は、日本政府からの歳費は1945年度で打ち切られ、李垠夫妻の生活は苦しいものとなる。建築業者梅田組の孫海圭からの支援でなんとか生活したが、怪しげな儲け話に騙されて資金や美術品、熱海の別荘であった滄浪閣などの財産を失う。滄浪閣は伊藤公爵家から購入していたもので、幣原内閣の内閣書記官長楢橋渡の要請で譲渡した。これは、度々李王家を訪れていた楢橋に心を許した李垠が、「私の地位はどうなりますか。どうかこれまで通りの待遇をしてもらえませんか」と楢橋に伝え、気を持たせる回答をした楢橋が新憲法の草案作業を滄浪閣で行うため、日本政府に譲渡してほしいと申し出たことによる。結局滄浪閣は日本政府の所有とはならず、楢橋が李王家に40万円を支払って購入した。

さらに財産税法によって課税された李王家は巨大な納税義務を背負うことになった。ちょうどその頃、創立準備中であった国際基督教大学から最大の財産であった紀尾井町の李王家邸を10万ドルで提供するよう打診があったが、李垠はこれを断っている。秘書の趙重九によれば、李垠にはホテル経営に参加して社交界に出入りする夢があったためであるとしている。その後李王家邸は参議院議長公舎として間貸しされ、夫妻は侍女の部屋で暮らすようになった

1947年(昭和22年)5月3日、王族としての地位を喪失し、更に外国人扱いとなった。「正規陸軍将校」であったため公職追放となった。

1949年(昭和24年)、「小説家張赫宙氏」が李王家東京邸を訪ね、「李王垠さまの口述を速記し、それを主軸として構成」し、面識がある趙重九から 権藤四郎介「李王宮秘史」などを借りて執筆した「李王家悲史 秘苑の花」を世界社発行の雑誌「富士」昭和24年12月〜昭和25年2月号に連載した後、若干手直しして口絵も減らした上で、1950年(昭和25年)に同社で単行本化された。

1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効にともない、李垠・方子夫妻は正式に日本国籍を喪失したが、大韓民国政府は李垠ら日本在住の旧王公族の韓国籍を認めず、帰国もできなかった。息子の李玖がマサチューセッツ工科大学に留学したが、そのパスポートも大韓民国から正式に受けることはできなかった。

また李王家邸は大韓民国政府によって駐日大使館の候補地と定められ、李垠は議長公舎の契約を解除した。しかし韓国政府からの送金がなかったため、実業家堤康次郎に売却し、赤坂プリンスホテルとして利用された。売却した金は借金返済で殆ど消えてしまい、夫妻は田園調布に家を購入して移り住んだ。

1957年(昭和32年)5月16日、李玖のマサチューセッツ工科大学卒業式に出席するため、夫妻は渡米することとなり、昭和天皇、香淳皇后への挨拶のため参内。この渡米に際しても、大韓民国政府はパスポートの発給を行わなかった。夫妻は大学からの招聘状に基づき、日本政府から特別な旅行証明書の発給を受けた。卒業式に出席した後、李垠夫妻と李玖は、元プロボクサーのジーン・タニーから借りた家で生活を始めた。1958年(昭和33年)6月8日に帰国し、同年6月10日に参内。

1959年(昭和34年)3月、李垠が脳血栓で倒れ歩行困難となったため、夫妻は5月17日に日本に戻る。

1960年(昭和35年)、夫妻は再び渡米しようとするが、今度は日本政府からの証明書が降りず、夫妻は日本国籍を取得した。8月に帰国。

1961年(昭和36年)、仕事のためにハワイを訪れていた李玖を訪ねる。11月12日には、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕国家再建最高会議議長が病床の李垠の元を訪れ、方子にいつ帰国しても構わないと伝えた。

1962年(昭和37年)12月15日、夫婦ともに韓国籍になることを認めるとの通知を受ける。

1963年(昭和38年)、韓国政府から生活費の送金が開始。日韓国交正常化交渉が始まると、11月22日に夫婦ともに韓国へ渡った。金浦国際空港からソウルの聖母病院への沿道は歓迎の市民で埋め尽くされた。

1970年(昭和45年)4月28日、金婚式を病院で開き、その3日後に病院で死去。葬儀は5月9日に韓国皇太子の礼をもって行われ、日本からは昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王・高松宮妃喜久子、方子の親族として秩父宮妃勢津子・広橋規子が参列した。

1973年(昭和48年)5月、三年祭が執り行われ、李垠は皇帝になったことは無いが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められた。


つづく

2026年2月20日金曜日

横浜駅前、シチリア料理の「クローチフィッソ」でランチ 2026-02-19

 2月19日(木)晴れ

この日、横浜駅前にあるシチリア料理のお店「クローチフィッソ」でランチ。

このお店、ソムリエ協会の認定バッジを着用した方が2人、フロアにおられて、さすがに、食べログスコア「3.63」だけのことはあると思った。

昼間から、スパークリングワイン、白ワイン(2)、赤ワイン、果実酒を頂いたので、ほんわかといい気分なった。
















皇室専門家が「愛子さまが即位する可能性は100%ない」断言する“理由”と自民圧勝で進む“旧宮家養子案”の行方(週刊女性) / 【衆院選】愛子天皇へ世論69%支持! 皇位継承めぐる政党のスタンス(週刊女性)

 

〈高市首相、過去最大122兆円予算の年度内成立へ審議短縮案浮上〉 → 経団連・筒井義信会長「年度内の予算成立にこだわらなくても…」 高市首相の「拙速」「ゴリ押し」を危ぶむ(東京) / 「拙速審議好ましくない」 26年度予算案で経団連会長(共同)

 

政府は2026年度当初予算案を国会に提出。一般会計総額122兆3092億円で過去最大を更新した。
高市首相は自民・維新の与党が衆院で4分の3近い議席を握る強みを活かし、通常の半分以下の44時間審議で年度内成立を目指すが、立憲民主党は「国会の自殺行為」と非難、経団連会長も「拙速」と牽制。
与党は「真剣な審議に絞れば十分」と反論し、20日の施政方針演説で首相の説明に注目が集まる中、財政民主主義の原則をめぐる与野党対立が深まっている。

 

大杉栄とその時代年表(760) 1907(明治40)年 〈谷崎潤一郎と精養軒〉 明治36年6月、谷崎潤一郎は精養軒当主北村重昌家の家庭教師兼書生として住み込む。彼は、その身分のまま府立一中から一高に進学する。

 

谷崎潤一郎(大正5年)

大杉栄とその時代年表(759) 1907(明治40)年11月23日~29日 「「十一月二十五日(月)、上田敏欧米私費留学の送別会、与謝野鉄幹の肝煎りで、上野の精養軒で行われ、出席する。森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・木下杢太郎・成瀬無極ら五十人余り集る。森鴎外の次に壮行の辞を指名される。西洋から新式の便器を持って帰った話をする。森鴎外は独特のユーモアに感心する。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

〈谷崎潤一郎と精養軒〉 

明治40(1907)年11月25日に上田敏の洋行送別会が行われた上野精養軒ホテルは、当時の東京の代表的なホテル兼レストランであった。

日本人の手で最初に出来たホテルとしては、慶応3年に幕府の外国奉行が計画し、明治元年8月に完成した東京築地ホテルがあった。このホテルは木造瓦葺4階建で、延1600余坪、収容能力100人の規模であったは、明治5年の京橋銀座の大火で焼失した。

明治10年頃、上野に精養軒ホテルができた当時は、経営実態は幼稚なもので、客として来た在留外人のベアやベルツなどが献立の仕方、寝台の整え方を教えるほどであった。しかし、その経営は次第に安定し、上流階級・知識人階級は社交の場としてここを利用するようになった。

明治16年、鹿鳴館が日比谷に設けられたのと前後して、洋風のホテルやレストランの数も増し、明治20年に東京ホテル、22年にホテル愛宕館、23年には渋沢栄一、大倉喜八郎等が発起となって帝国ホテルが日比谷に建築ざれた。ホテル業界の先駆者であった精養軒は上野と築地にホテル兼レストランを営み、宮中の宴会を請負うことなどもあって繁栄した。

明治40年、精養軒の当主は北村重昌でまだ30歳そこそこであった。この4年前、明治36年6月、谷崎潤一郎が家庭教師兼書生としてこの家に住み込んだ。北村家の邸宅は、歌舞伎座の向いの築地精養軒ホテル、食料品を売る精養軒西店、精養軒のパン工場の3つの建物の間にあった。

谷崎潤一郎は、明治19年(1886年)7月24日、日本橋区蠣殻町二丁目十四番地に、父倉五郎、母関の長男として生れた。父倉五郎は、神田万世橋の北側にあった玉川屋という大きな酒屋の次男に生れたが、少年時代に父母を失い、家は没落した。兄の英之助が谷崎久右衛門という米穀相場の速報を出版していた印刷屋の長女花の婿になった縁で、弟の倉五郎も花の妹関の婿となり、谷崎を名乗り分家した。

英之助は谷崎久兵衛と名を変え、米穀仲買人として成功した。倉五郎は、舅から分け与えられた資産によって、はじめ洋酒屋を営み次に街灯の掃除と点火を業とする点灯社を経営し、次に兄を見習って米穀仲買人となったが、実直な好人物に過ぎたので、そのいずれにも失敗した。潤一郎が生れた当時はまだ生計が豊かであったが、失敗するに従って倉五郎は転々と家を変え、次第に生活が苦しくなった。明治23年、潤一郎5歳のとき、弟精二が生れた。

純一郎は、数え年7歳で日本橋区の坂本小学校に入学したが、金持の総領息子として父母や乳母に甘やかされていたので、学校でも乳母が見える所にいないと泣き叫ぶのか常であった。そのため彼は1年生で落第したが、その次の年には一番で2年生になった。彼を落第させた稲葉清吉という教師が、潤一郎が高等科1年になったとき、また受け持ち教師となった。

稲葉清吉は師範学校出身の独身であった。彼は、主に哲学宗教関係の書物を読んでいたが、中国や日本の古典についても教養があり、熱意をもって生徒に教えた。高等小学校の4年間稲葉訓導の指導を受けて、潤一郎は漢詩や和歌の感銘の深い作品を読み味う方法を体得した。

潤一郎の同級の小学生たちは、回覧雑誌「学生倶楽部」を出して、彼は高等科2年生になった13歳頃から誘われてそれに参加し、花月散士、笑谷居士という筆名で文章を書きはじめた。

高等科は4年制であり、その2年を終えたものは中学校に入る資格があった。潤一郎は中学校に入りたかったが、その頃父が米穀仲買人として失敗し、家計が逼迫していたので、4年を終るまで小学校にいなければならなか

明治34年春、数え16歳で小学校を卒業したが、父は彼を上級の学校へ入れようとしなかった。しかし、稲築訓導や親戚の者の助言で父を承諾させ、4月、潤一郎は日比谷桜田門前の府立第一中学校に入学した。

彼の家の家計はいよいよ窮迫し、2年生になった春、彼は父から学校をやめるよう言い渡された。しかし、彼は父の再三の要求にかかわらず中学校をやめるという気持ちになれず、父と学校との間で話し合いがもたれた。潤一郎は東京の秀才の集りと言われた府立一中の中でも目立った秀才であったので、学校は何とか解決策を見出そうと努力した。特に国語担当の渡辺盛衛という教諭が彼を惜しんで学資の出る道を探した結果、明治35年4月、潤一郎(数え17歳)は父に連れられて、麹町中六番町の貴族院議員原保太郎を訪ねた。原は長州出身で、維新の際、上州の領地に引き籠っていた小栗上野介を斬首した官軍の隊長であった。また明治28年春、講和談判のため下関に来た李鴻章が上陸しようとしたところを小山六之助が拳銃で狙撃した時、山口県知事をしていた。その後は北海道庁事長官にもなった内務官僚である。

潤一郎は、原の屋敷の書生になると思っていたが、谷崎親子を居間に通した原は、紹介状を書いて渡し、築地の精養軒へ行かせた。

潤一郎が教えるのは、この家の幼い二人の少年と、中学校へ入ろうとしている主人の弟たちであった。玄関を入った左側に、琉球畳を敷いた六畳間があって、雑用をするもう一人の次郎さんという書生と、一緒に彼はそこに寝起きすることになった。子供たちは勉強のときにはそこへ来るのであった。

晩の食事のときは彼は、台所の戸棚と竈(かまど)の間の板の間に坐り、「戴きます」と挨拶して、その書生と向い合って食べた。この家には二人の書生の外に女中が三人いた。

その晩彼は床へ入ってから、自分も小学生の頃はここの家の子供たちのように「坊っちゃん」と呼ばれ、家にも多くの奉公人がいて何不足なく暮したことを考え、悲しくなって涙を流した。

潤一郎は家庭教師という名目で傭われたのだったが、日が経つに従って、子供たちを教えていないときは、家庭の用事を何でも言いつけられ、書生として働かされていた。

学校にいるときの潤一郎には、暗いいじけた所が全く見えず、傲然とした態度で級友たちに臨んでいた。北村家に住み込んで5ヵ月ほどして、9月の新学期に、2年生の彼は3年生に飛び級した。飛び級は、明治の秀才に許された特別待遇であった。

純一郎は、1年から3年まで首席を通した。彼が飛び級で3年となったとき同級になった吉井勇は、目立たない存在で、学年末の明治36年4月に落第し、それを機に退学したので、純一郎と間には交際がなかった。

3年生の潤一郎は4年生の土岐善麿、5年生の黒田朋信と三人で文芸部の委員をしていた。純一郎は1年生の時から「学友会雑誌」に漢詩や美文や文芸評論を発表していて、そのいずれもが、中学生の手になるとは思えないほど辞句が華麗で才気の迸るような文章であり、全校の注目のまとであった。

明治36年3月、潤一郎(数え19歳)は府立第一中学校を卒業し、7月、第一高等学校入学試験に通って英法科に入学した。一高に入ってからも潤一郎は北村家の家庭教師兼書生をしていたが、その翌年、数え20歳で2年生になった明治40年、彼は「校友会雑誌」に小説らしい文章を発表しはじめた。即ち、3月20日発行の第165号に「狆(ちん)の葬式」を、6月10日発行の第168号に「うろ覚え」を書き、その外に「死火山」というのも発表した。

これ等の作品を発表した頃、潤一郎は、箱根塔の沢の宿屋の娘で行儀見習のため北村家へ小間使いとして住み込んでいたふく子という娘が好きになった。二人の間にはある程度の交際があった。ふく子は少し前に北村家をやめて郷里へ帰っていた。そのふく子から谷崎あてに来た手紙を、朋輩の女中が盗み読みしたところ、「どうぞ私のことは思ひ切って下さい」という文句があった。そのことを女中は北村家の妻君に告げ口した。妻君は、その文句がある以上、二人の間に関係があったと推定した。

北村家から呼び出され、父倉五郎が精養軒の事務室へ出かけると、北村重昌は、婦人関係のことで間違いがあっては大事な息子さんを預っていて申しあけかない、という理由で、即座に潤一郎を連れ帰らせた。

父に連れられて家へ帰る途中、潤一郎はふく子とのいきさつを話した。倉五郎は「ふん、ふん」と耳を傾けてうなずき、潤一郎を答めることはなかった。

家では母の関は「あたしゃお前が大怪我でもして、呼びに来られたんじゃをいかと思って、飛んだ心配をしちまったよ」と言っただけであった。

純一郎はこの事件を機会に、文士として世に立つことを決心し、英法科から英文科に移った。

(『日本文壇史』より)


つづく


〈2029年度国債費が41兆円超、社会保障費を上回る試算〉  2029年度の財政状況の試算 「国債費」41兆3000億円に 財務省(NHK) / 金利上昇で国債費が41兆円に 財務省の後年度影響試算が判明(テレ朝)

 

財務省の試算では、2029年度の国債費が41兆3000億円に達し、社会保障費の41兆円を抜いて歳出最大項目になると予測されています。これは2026年度予算を基に金利上昇を想定したもので、利払い費だけでも21兆6000億円に上る可能性があります。税収は12兆円増えますが、歳出全体の139兆7000億円に追いつかず、ネットでは懸念の声が広がっています。一方で、試算手法や歳出削減を疑問視する意見もあり、財政運営の議論が活発化しています。