2026年9月22日火曜日

1931(昭和6)年9月20日 午後8時35分、林銑十郎(中将)朝鮮軍司令官より「独断一部ノ兵ヲ越境ヲナシウル余地ヲ与へラレンコトヲ切望ス」と入電。増援部隊は鮮満国境で待機の姿勢で放置。林は、軍は大命を待って出動すべきとの中央の主旨は諒解するが、大命降下となれば日支開戦になり、事は重大。地方問題として処理するには独断出兵の形式が穏当と考えられる、と入電。

 

1931(昭和6)年9月19日 朝、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針決定、上奏。南陸相には、これ以上、事変を拡大しないよう指示。林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁は夫々、事変は軍部の計画的行動と幣原外相に報告。奉天では、建川・板垣・石原・花谷・片倉が「問題解決」協議。 より続く

1931(昭和6)年

9月20日

建川・本庄会見。建川、現地軍の行動抑制しつつ、中央に対して既成事実承認へ導く役割。

9月20日

中国共産党(駐モスクワ中国代表か?)、「強暴なる日本帝國主義が東三省を占領せる事件に対する通電」。

9月20日

在留日本人官民合同時局委員会、成立。

9月20日

国民政府、中央臨時談話会開催。国民党中央執行委員会、広東政府に「共赴国難」を電請。

中央臨時談話会。干右任、戴伝賢、丁惟芬、朱培徳、呉敬恒、邵元沖、邵力子、陳布富、方覚慧、張道藩らが出席、王正延がら経過報告をして3項を決議。

①本月23日全国一斉に半旗を掲げて娯楽を1日停止し、奉天陥落に哀悼の意を表す、

②戴天仇、邵元沖、陳布富、王正延、陳立夫の諸委員に、全国々民に告ぐるの書、各国民に告ぐるの書を起草させ、国民の未曾有の国難に勉する覚悟を促す、

③対日問題に関し広東政府の態度表明を求める。

9月20日

上海市商会、市党部、反日会、夫々に臨時緊急会議を召集、対策を協議し、全国に激烈なる通電を発す。

上海市商会「全国同胞宛通電」。

「中国は今や匪息日々に甚しく、天災全国に普きに際し、国内政局は随時破裂の象を呈している。然るに日本はかかる中国の危機を千載一遇の良機と認め、遂に小事件に藉口してわが国と事を構え、その満蒙併呑の野心を遂げんとしている。かかる重大時機に際して兄弟かきにせめぐことは必ずや悔を千年に残すであろう・・・故に全国民は一致して国内的戦争を中止し、対外的に適当なる方法を構ずると共に、資力と人力を尽して以って当局を扶け、国家の危急を万一に挽回せんことを期す。祈るらくは剣履に及ぶの決心を以って奮起せよ」

反日会「排日弁法六ヶ条」。

①即刻全国軍隊を集中、東三省に出兵して日本兵を駆逐出境せしむ、

②速かに国内の軍事行動を停止して敵対的形勢を取除き、一致日本に向う、

③上海各界代表大会開催、

④抗日義勇団を組織し、軍事人材と義勇義士を募集し国難に赴く、

⑤反日宣伝拡大、

⑥会名変更。

9月20日

夜12時、奉天瀋陽館、関東軍三宅参謀長以下幕僚、全員吉林派兵に決し、三宅参謀長が本庄司令官に建言。本庄は、閣議が事変不拡大を決め、朝鮮軍増援が足止め状態という状況で、吉林出兵には同意せず。大激論の末、払暁、「出兵」決裁をとりつける。

吉林特務機関長大迫通貞大佐の「大迫機関」と甘粕正彦が謀略により「不穏な情勢」を惹き起こし、大迫大佐が、三橋居留民会長から吉林軍の動静を聞くと、甚だ不穏で、居留民保護のためにも出兵されたいと、関東軍に要望。三橋からも要請文が電報で届く。

本庄司令官は、決裁の理由を「独断派兵の理由十分で、派兵の弊害なく、かつ満蒙問題解決の根幹となるべく、また朝鮮軍の派兵を容易にして、増援を期待し得」とする。事実は、その通りになり、関東軍が吉林に移動すれば満鉄沿線はガラあきになり、朝鮮軍が沿線をカバーする理由が発生。

関東軍はハルビンにも同じ手を使い、百武特務機関、甘粕正彦、吉村栄吉(元中尉、石原と同期)の3者で、日本総領事館、朝鮮銀行支店、ハルビン日日新聞社、料亭春日楼などに小型爆弾を投げ込み、「不穏なる形勢」を作る。しかし、東支鉄道が兵員輸送を拒み、ハルビン侵攻は失敗。

9月20日

午前11時、陸軍の次官以下首脳会議、出兵態勢を維持して満蒙問題を解決する、政府がこれを認めないならば陸相は辞任、と態度決定。政府に妥協的な3長官を出兵態勢維持に引き込み、「倒閣」で脅し「撤兵」論を抑え込む狙い。

しかし、「満蒙問題の解決」の内容は、3次官の間で「条約上の既得権益の完全な確保」を目指すものであり「全満州の軍事的占領に及ぶものにあらず」との確認がなされ、事件収拾方法として中国側との「交渉」を予定するものである。

9月20日

午後8時35分、銑十郎(中将)朝鮮軍司令官より「独断一部ノ兵ヲ越境ヲナシウル余地ヲ与へラレンコトヲ切望ス」の開き直った入電。

増援部隊は鮮満国境で待機の姿勢で放置。不徹底な立場に置かれた朝鮮軍司令官は、軍は大命を待って出動すべきとの中央の主旨は諒解するが、大命降下となれば日支開戦になり、事は重大。地方問題として処理するには独断出兵の形式が穏当と考えられる、と入電

9月20日

陸軍中央部「間島および琿春地方に出兵を要する件」

9月20日

この日付の朝日新聞社説。

「すでに報道にあるが如く、事件は極めて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶつ壊しをやつたから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたといふまでである」「その非とその責任が支那側にあることは、少しも疑ふの余地が無い」

「大阪朝日」社説「日支兵の衝突、事態極めて重大」(編集局長高原操)、「曲は彼れ(中国側)にあり、しかも数百名兵士の一団となっての所業なれば計画的破壊行為とせねばならぬ。断じて許すべきでない。・・・そもそも満鉄はわが半官半民の経営幹線なりといえども、世界交通路の幹線である。これが破壊を企つものは寸尺の微といえども容赦はできない。わが守備隊が直ちにこれを排撃手段に出たことは、当然の緊急処置といわねばならぬ」

「東京日日新聞」社説「満州に交戦状態-日本は正当防衛」。 

関東軍の行為を「迅速なる措置に対し、満腔の謝意を表し、・・・出先き軍隊の応酬を以て寧ろ支那のためにも大なる教訓であろうと信ずる」と賞讃。

9月20日

宮沢賢治(35)、9月初め童話「風の又三郎」の執筆進行。

20日、上京したが激しく発熱。

21日、父母あてに遺書を書く。

28日帰郷。

9月20日

古賀政男「酒は涙か溜息か」、コロムビアレコードから発売

9月20日

ソ連、金属・石炭工業における賃金制度改組を決定。

9月20日

オーストラリアの極地探検家ジョージ・H・ウィルキンズ、潜水艦「ノーチラス」で北極到達を試み、この日ノルウェーに帰着。 


つづく

鎌倉散歩 英勝寺の彼岸花が見頃 宝戒寺の萩(シラハギ)が見頃 2026-09-22

 9月22日(火)晴れ

今日は台風一過の秋晴れ。

朝から一日を通しての晴れというのは、先週14日以来。多分、今月は今のところこの2日(14日と今日)だけかもしれない。明日からはまた曇とか雨が続く。

今日は、英勝寺の彼岸花と宝戒寺の萩を観に鎌倉へ。

昨日は鎌倉市内も、大雨のため二の鳥居付近、若宮大路のJRガード下などが水に浸かったらしいが、今日はほぼ完全に回復していた模様。

”おおごと”にならずに済んでなによりだ。

▼英勝寺

彼岸花(曼珠沙華)、満開だが、一部(鐘楼側)で枯れ始めているのもある。

見頃はこの2~3日ではないだろうか(あくまで私見)。











▼萩も

▼宝戒寺

白色萩(シラハギ)が見頃。

本堂前の紫(赤紫)の萩は強めの剪定のためか、背がかなり低くなっていた。

白色の彼岸花は数は多いが殆ど終盤。






2026年9月21日月曜日

1931(昭和6)年9月19日 朝、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針決定、上奏。南陸相には、これ以上、事変を拡大しないよう指示。林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁は夫々、事変は軍部の計画的行動と幣原外相に報告。奉天では、建川・板垣・石原・花谷・片倉が「問題解決」協議。  

 

1931(昭和6)年9月18日 午後10時20分頃、奉天独立守備隊島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール(長さ約80cmほど)爆破。列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行。、、、、、 19日未明、独立守備歩兵第2大隊、北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領。営口、鳳凰城、安東占領。 より続く

1931(昭和6)年

9月19日

午前7時過ぎ、若槻首相・幣原外相ら、事変発生を知る

朝、幣原外相は駒込の自宅で朝刊を読んで初めて事変を知る。すぐ首相官邸に駆け付け、若槻首相に外務省電報による概要を報告、臨時閣議召集を申し出る。林久治郎奉天総領事から「支那側に破壊されたと伝えられる鉄道個所修理のため、満鉄より線路工夫を派遣するも、軍は現場に近寄らせず、事件は全く軍部の計画的行動に出たものと想像せらる」との極秘電報が届く。

午前7時55分、林銑十郎朝鮮軍司令官より陸軍中央へ兵力移動入電。

「軍ハ奉天方面ノ情況ニカンガミ、飛行第六連隊(平壌)ヨリ戦闘・偵察各一中隊ヲ今早朝平壌出発、関東軍ニ増援セシメ、マタ第二十師団(朝鮮・竜山)ノ混成旅団・約一旅団ハ奉天方面ニ出動ノ準備ニアリ。ナホ第十九師団(羅南)ニハ、ナルベク多クノ兵力ヲ以テ出動シ得ルゴトク、衛戌地ニオイテ準備ヲ整ヘシム」

9月19日

午前8時40分、朝日新聞航空部の社機、大阪から京城へ飛ぶ。

ここで奉天(現瀋陽)から列車で着いた写真などを積み、翌20日、広島に飛ぶ。ここで待機する別の機に引き渡し、この日の内に東京・大阪で写真号外を出す。朝日は、翌32年3月までに11機を使い計296回も飛ぶ(社機15機保有、「毎日」は数機、「読売」はゼロ)。多いときには1日6回の号外を出す。

中国各地へ記者14(荒垣秀雄ら)・カメラマン8ら特派員計22人を次々に送り込み、「朝日」の圧倒的資本力・機動力で、日中交戦の写真や記事の号外を次々に発行。号外は、2~4頁の付録で、事変一段落する迄に計11回発行。加えて大付録も出す。22日の本紙に地図入り1頁の平易な解説「満蒙早わかり」を添付。国際連盟に持ち込まれてからは、27日、連盟の本質や機構を説明した「国際関係早わかり」(2貢)添付。

事変と同時に、活動写真班は奉天・長春などで軍の奮闘ぶりをフイルムに収め、21日には本社に空輸し、早速、大阪朝日会館でニュース映画を上映。以降新報が届くたびに、大阪中之島公園などで封切られ、大阪、神戸、京都、広島、名古屋、金沢、高松、門司などで公開され、大好評を博す。

「東西朝日」の報道量。社説54回。特電の回数、19日162通。9月360通、11月525通、12月末迄に3785通(普段は月50~100通)。これらの電報は奉天、北平(北京)、天津、錦州、営口、大連、チチハル、ハルビン、長春、吉林など16ヶ所60人の特派員から打電(60人中43人は「大阪朝日」特派員)。号外も連日で、日によって朝夕刊で発行、9月11日~翌32年1月10日、131回、大部分は1頁大の号外。慰問金総額38万円余。特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人の聴衆。ニュース映画上映は、公開個所1501、公開回数4002、観衆1千万人。

19日未明、満鉄線爆破の一報が入った時、東京朝日編集局長緒方竹虎は「出先の出来ごとだから」小さく扱うように指示(「朝日新聞社史」)が、朝日は対中国強硬論に転換したと判断した整理部員が「日支両軍戦端開く」と大展開。整理部デスクは始末書を書く。しかし、ほどなく社論は大きく転換する。

この頃の様子を緒方竹虎は戦後、「早速論説の打合せ会議を開いたところ、・・・背後から鉄砲を撃つようなことは出来んというので、事実に引きずられて」しまった、とする。大阪朝日編集局長高原操は、「奉天特派員よりのうな電その他約尺余の高きに及べり・・・。「支那官兵の鉄道破壊に始まる」と報ずこれを肯定の外なし。臨時部長会を開く。対外的関係重視の必要上、報道全部をそのまま信じ・・・」と「編集局日誌」に書く。奉天通信局長は武内文彬。関東軍石原莞爾とも親密で、関係を危ぶみつつ、激しい報道競争の中で武内を重宝がる。

東京朝日の第一報見出し、「奉軍満鉄線を爆破」(爆破は奉天軍=中国軍の仕業)と、関東軍発表をそのまま掲示。朝夕刊のみならず、号外・第二号外も発行。「奉天軍の計画的行動」「激戦で我兵十九名戦死」。

9月19日

朝、原田熊雄、新聞で事実を知り、直感的に「いよいよ、やったな」と思う。すぐ調査し、「要するに、関東軍司令官が建川が持っていった陸軍大臣の親書を見ない内に、かねての計画を実行させようということらしい」との真相を突き止める(「西園寺公と政局」)。

9月19日

午前9時、後退中の長春駐剳部隊第4連隊黒石大隊と公主嶺守備隊小河原大隊、合流。

10時一斉攻撃前進。

挟撃作戦により、午後4時、南嶺兵営占領。

9月19日

午前8時30分~9時45分、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針(但し、真相究明には踏み出さず)。幣原外相の謀略追求のため。南陸相、朝鮮軍派兵提議出来ず。続いて3次官会議(杉山元陸軍次官、二宮治重参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長)、「之を以て満蒙問題の解決の動機となす」との方針決定。

南陸相は、「事ここに至った以上は、在留邦人の保護の必要は元より、懸案の満蒙特殊権益確保のために、政府は一大決心をなすべき秋がきた」と主張。

幣原外相は、「国際関係も考慮し飽迄小範囲に限定して事件を拡大させない方針を採りたい」と反対、井上蔵相も同調し、政府は事件に対し不拡大方針で臨む事に決定。

若槻首相は南陸相に、「原因は支那兵がレールを破壊した正当防御であるか。もしそうではなく、日本軍の陰謀的行為ならば我が国の世界における立場はどうするか」とクギを刺し、これ以上、事変を拡大しないよう指示。南陸相は「朝鮮軍より増援することの必要を提議」しようとするが、幣原外相が現地からの電報を朗読し関東軍の謀略を匂わしたので、「提議するの勇を失えり」という。

幣原喜重郎は、外務省が得た情報を朗読、「事件は恰も軍部が何等か計画的に惹起せしめたるもの」(「太平洋戦争への道 資料編」)。

9月19日

午前9時45分、南陸相、参内、状況を上奏。

9月19日

午前10時15分、朝鮮軍司令官より混成旅団を増援のため出発させるとの報入電。

9月19日

建川、本庄関東軍司令官(午前11時奉天着)と会い、今後の事変展開について具体的に献策。

「東支線の性質と現下一般の情勢に鑑み、長春以北には兵を派せざるを可とすべきも、吉林、洮南等は一刻も早く打撃を加ふるを有利とすべく、又現東北政権を漬し宣統帝を盟主とし日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべし」

建川は、事変勃発後の事態に即応しつつ、中央と出先関東軍の意見を調整し、両者が齟齬を来さぬよう、関東軍に対しては過剰な行動を抑制し、中央に対しては既成事実承認へ導く巧妙な役割を演じる。

9月19日

中国共産党満州省委員会、「日本帝国主義の満州武装占領についての宣言」

9月19日

午後0時30分、参謀総長名で朝鮮軍へ勅命下達までは増援見合わせるよう機密至急報を発信。

9月19日

午後1時30分、若槻首相、事件の不拡大方針を上奏

9月19日

午後2時、3長官会議(南次郎陸軍大臣、金谷範造参謀総長、武藤信義教育総監)、閣議決定に同調。3次官はこれを満蒙問題解決の動機にすべしとの意見。

金谷参謀総長は、部内に対し、速かに事件を処理し「旧態に復する」事が必要との意向を示すが、幕僚クラスは、何の成果も挙げないうちに撤兵させることはできないという強い反発の声があがり、3次官はこれに同調

9月19日

午後2時、旅順の軍司令部、奉天へ移動完了。

9月19日

午後5時45分、本庄関東軍司令官、金谷参謀総長に打電して内地からの増援を要請。

「事態玆ニ至レル以上、此絶好ノ機会ニ於テ先ズ軍ガ積極的ニ全満州ノ治安維持ニ任ズルハ最モ緊急ナリト借ズ。之ガ為、平時編成三個師団ノ増援ヲ必要卜認ム。之ニ要スル将来ノ経費ハ満州二於テ負担シ得ルコト確実ナリ」。

9月19日

夕方、吉林省政府顧問大迫通貞中佐、吉林総領事石射猪太郎に居留民救援要請を軍に出すよう力説、石射拒否

9月19日

夜、吉林、日本人浪人、日本人商店にピストルを撃ち込む。

9月19日

夜、満鉄北端の長春占領

9月19日

深夜、建川・板垣・石原・花谷・片倉、奉天の瀋陽館2階で「問題解決」を協議。

石原は持論の満蒙占領案を主張。

建川は、「阻害された権益の回復と事変の不必要な拡大の不可を説き、結論として満蒙を独立させ、日本が適当と認める政府を擁立し、指導してゆく。擁立すべき者としては清朝廃帝宣統帝が適当」という妥協的な結論を得る。

板垣は、「今日の事態を機とし、情勢判断第四段階、すなわち領土とするを得策とすべし」と主張。

石原は「現下の状勢、なかんずく、ソ連の軍事力、英支の軍事態勢、米国の軍事力とくにその海軍力は、いずれも実力干渉の能力に欠け、国際連盟の実力干渉も困難であり、日本の国防、満州の防衛、はたまた東亜の保衛上からも天与の好機である」ので、「このさい南北満州の一体不可分解決の要あり」と力説。この石原の判断は正鵠を射ている。アメリカはフーバー大統領が大恐慌に苦戦中、イギリスはマクドナルド首相辞職後、自由・保守両党による国民内閣を組織したばかり、ソ連は第1次5ヶ年計画が完成するかどうかの瀬戸際で、いずれも極東の軍事紛争に兵を進める余裕はない情況。

建川は、板垣・石原の意見具申に対し、翌20日、「現下一般の情勢、就中、東支線の性質から、長春以北には派兵せざるを可とするも、吉林、洮南等は一刻も早く打撃を加うるを有利とすべし。また現東北政権を潰し、宣統帝を盟主とする日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべ」と答える。建川の眼はソ連にむき、その視野を限界点として発言。彼は、その場で発言したばかりでなく、同じ内容のものを電文として、陸相・参謀総長にも打電。

建川は、「情勢判断の第一段」(満蒙における日本の権益の実際的効果を確保し、その拡充につとめる。学良政権にかわる親日新政権を樹立するが、支那中央政府の主権下におく(「昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断」)実施の時期であると提言し、板垣・石原の満蒙占領案と衝突するが、建川はその主張を変えず。しかし、軍の積極的行動には、敢えて拘束を加えないと言明(「片倉日誌」)。

9月19日

林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁がそれぞれ、関東軍が奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破、これを中国軍の所為として総攻撃、奉天城を占領した(満州事変)のは、軍部の計画的行動と幣原喜重郎外相に報告

林奉天総領事、「今回軍隊出動の計画はすでに一四日以来、非常演習として予行せられたり。我軍の行動は予定の計画の実現と推定される。支那側の無抵抗態度と我軍事行動に伴う小事故が在留外人を刺激し、世界の世論がわが方に不利なる傾向が現われ、対外政策ますます難局に陥るのではないかと憂慮に堪えず」と幣原外相に入電。

9月19日

満州事変の第1報、初のラジオ臨時ニュースとなる。

9月19日

この日付「東京朝日」号外。朝月新聞奉天通信局長の武内文彬による急報。

「ままよと勇を鼓して城内へ入れば警備の武装巡警に止まれ!と銃剣を突付けられること数度に及びその度にえり下が冷やりとする」「交戦地の日支両軍のぶつ成す砲声はますます加はり、日本軍の城内占領計画具体化とともに危険刻々に迫り城内日支人の動揺は極度に達し」。

9月19日

満州事変勃発の影響で、株式、商品相場が暴落。

9月19日

「ラ・スイス」紙、柳条湖爆破事件報道。

9月19日

ヒトラー姪ゲリ・ラバウル、ミュンヘンのヒトラー宅で発見。自殺として処理されるが謎

9月19日

連盟議長レルー(スペイン外相)、日本代表芳沢謙吉に説明求む。


つづく

ウクライナ モスクワに過去最大規模のドローン攻撃、主要製油所に損傷 議会選投票最終日(CNN) / BBCニュース - モスクワ市長、ウクライナが過去最大規模のドローン攻撃と 製油所や集合住宅を直撃 / ロシアに1000機超の無人機攻撃 モスクワ郊外の製油施設など破壊(AP通信)  

ドイツ州議選で極右AfDが第1党に CDUは党初の議席ゼロ(毎日);「ドイツを構成する16州のうち、AfDが第1党となったのは3州目。全て東部の地域で、旧東ドイツ地域での党勢拡大をさらに印象づけた。」 / ドイツ州議会選挙で強硬右派「AfD」第1党の公算…首都ベルリンでも第3党に躍進の勢い(読売) / 「取り繕うことはできない、惨敗だった」…メルツ首相のCDU、メクレンブルク・フォアポンメルン州議会選挙の支持率が1桁に(東洋経済)      

 

「ベルリンのマムダニ」が市長候補の急進左派が第1党 トルコ系女性、家賃高騰歯止め訴え(産経) / ベルリン議会選挙で左派党勝利 メルツ首相の与党は歴史的大敗(AP通信) / 独首都、トルコ系女性市長誕生か 連立は難航必至(共同)


 ベルリンで躍進した左翼党(Die Linke)。旧東独の伝統的な支持基盤から、若者や女性、移民背景をもつ都市住民へと支持を広げ、「若返り」に成功した。党員数はわずか1年で約6万人から12万人超へ倍増。家賃高騰など身近な生活問題を前面に出し、ベルリンでは民間に売却された22万戸の住宅の公有化を公約に掲げていた。米国のサンダースを参考に戸別訪問を大規模に展開し、若者を政治活動へ巻き込む草の根型の組織化にも力を入れていたそう。


〈日銀の利上げジレンマ、上げても下げても厳しい難局〉 / 「ギャンブル的」アベノミクスは継続するも撤退するも悪夢(ニューズウィーク日本版);<米政府が日本に「リフレ政策からの転換」を異例の要求。金利を上げても、低金利政策を続けても国民の負担は避けられない。高市政権は厳しい選択を迫られている>

 

金融界に激震/「個人向け国債」税制優遇!(FACTA); 「個人向け国債」を新NISAの対象に――。税制優遇が実現すれば、10年間で100兆円程度が預貯金から国債に移るとの試算も。預金流出に怯える地銀や信金に、淘汰の恐怖が迫る。

国会は面倒くさい場所、議員削減は全体主義の始まりだ 「これだけは言いたい!」(田原総一郎) /  斎藤幸平さん、ありがとう! 「議員定数の削減なんかは特に民主主義の根幹に関わるものなわけで、やっぱり私たちはもっと注目しなけはればいけないし、こういうものは国会の数の論理で押し切るんではなくてしっかり議論をしないと…気がついた時には独裁みたいなものになってしまう。」

ベッセント米財務長官の激怒も仕方なし…「高市政権の経済ブレーン」が危なっかしすぎて(週刊現代) / 留任した経済財政政策担当の城内実が、「ショック」を招いた骨太の方針発表前にリフレ派・高橋洋一や会田卓司に密かに相談していた事を語った。もう少しまともな人に相談する頭はなかったのか。それを言ってしまう事に恥ずかしさは感じないのか。そして、そんな城内を留任させた高市のリアル浅はかさ。(佐藤章)