石川啄󠄁木(1908年10月4日撮影)
大杉栄とその時代年表(763) 1908(明治41)年1月 2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。 松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。 より続く
1908(明治41)年
1月1日
『西方』誌発刊。
1月1日
「日本平民新聞」、群馬の築比地伸助「革命の歌」など3篇の社会主義の歌応募作発表。
1月1日
幸徳秋水「病間放語」(「高知新聞」)。倒幕運動・自由民権運動の伝統を述べ、「革命は過去のものなり、歴史のものなりと思はば、これは大なるあやまりなり。文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮を保護するの日本、三井と岩崎の日本においても、革命はたしかに活ける問題なり。」と提起。続いて、中国革命の成功を語る。
また、「文芸上における陶庵公と早稲田伯」(「中央公論」新年号)掲載。明治39年2月17日の文芸協会発会式(坪内・島村が大隈を会頭にいだく)、明治40年6月17日西園寺(号「陶庵」)が文士30名を招待して会を開くことを批判(二葉亭・漱石は欠席)。
1月1日
(漱石)
「一月一日(水)、元日。朝から小宮豊隆を連れて散歩する予定だったが、松根東洋域・森田草平・鈴木三重吉・小宮豊隆・森巻吉・野間真綱・皆川正禧ら年賀に来る。森田草平、フロック・コートを着て、一同にそれぞれ「やあ」と挨拶する。高浜虚子、訪れる。近頃、鼓を習っていると知り、ぜひ聞かせて欲しいと懇願する。高浜虚子は人力車を走らせ、鼓を取り寄せる。『東北』を謡い、『羽衣』を一緒に謡ったが、うまくいかず一同に冷やかされる。来客のため『坑夫』の原稿進まぬので、焦燥感を抱く。小宮豊隆泊る。(明治四十二年一月一日(金)に、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に「元日」としで発表された文章は、この日のことを念頭に浮べながら書いたものと思う)
(一月、寺田寅彦へ『ホトゝギス』(第十一巻第四号 明治四十一年一月一日発行)に「障子の落書き」を薮柑子の筆名で発表する。以後、この種の文章にはこの署名を使用する。)
一月二日(木)、森巻吉来る。鈴木三重吉『二日』の感想を話す。
一月三日(金)、小宮豊隆が漱石宅で歌留多会をやるからと森巻吉を呼びに行って、夜十二時過までやる。(「森巻吉日記」)
一月四日(土)、小宮豊隆、鏡から立派な財布貰い、昼食をして帰る。鈴木三重吉が来たので『二日』について、森巻吉がほめていたことを伝える。」(荒正人、前掲書)
1月1日
漱石(41)、「坑夫」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』1月1日~4月6日全91回) 挿画は名取春仙(東京)、野田九甫(大阪)
続けて、「夢十夜」(7月25日~8月)、「三四郎」(9月1日~12月29日)、「それから」(明治42年6月27日~10月14日)、「門」(明治43年3月1日~6月12日)のいわゆる「前期三部作」を連載。
1月1日
漱石『虞美人艸』(春陽堂)橋口五葉装幀。1円50銭
1月1日
蒲原有明『有明集』。
1月1日
高浜虚子『鶏頭』(漱石の序を付し、『風流懺法』『斑鳩物語』などを含む)。
1月1日
大杉栄(23)、石川三四郎に手紙を出す
1月1日
大杉栄「自由合意ー現社会の無政府的現象(一)序(クロポトキン」(『日本平民新聞』)
1月1日
この年、啄木は母や妻子を貧窮のどん底において小棒で元旦を迎えた。
「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(日記)
大晦日の夜「妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之を少しつつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ」という北海道での生活。
1月2日
漢冶萍煤鉄公司設立。
1月2日
ポルトガル、国王カルロス1世・皇太子ルイス暗殺。
1月3日
夜、第18回社会主義金曜講演会。神田三崎町の吉田屋、出席80余。新年の勅題「社頭の松」にちなんだ活人劇が注目を引く(山川均が首つり男に扮する)。
狂句「元旦や社頭の松に首くくり」(1月1日「日本平民新聞」掲載)からの着想。天皇の勅題を戯画化することで、呪詛的に天皇制批判。
1月3日
この日付け啄木の日記。
新詩社の同人には詩人ブル、詩人ガル、ブル・ガル臭味がある、鉄幹の詩は外来の刺撃がなければ進歩しなく、それは思想が貧しいからである、
などと批判。
1月28日にも、
「此詩人は老いて居る」と書く。
1月3日
夜、有島武郎、東京を発って札幌に向う。農科大学の英語講師に招聘された。
「一月二十一日。(略)去年四月十四日、伊予丸の甲板を下り、小舟に揺られて神戸なる埠頭に立ち、父と直良君とに面を合はぜたる時より、我は再び日本の地を踏む可き人となりぬ。九月一日には兵営に入りで、その夏北海道の旅路に得たる諸種の回想を、飾りなき木床の夢に結ぶ身となりぬ。(略)兵営にある間に起りし結婚の問題は、我が身に癒す可からざる深き疵を与へぬ。森本君(森本厚吉)の山角静子氏との結婚も、亦深さ印象を残しぬ。(略)志賀の悲劇其他思ひ設けざる事共は、我が兵営生活の間に起りぬ。十一月末日に兵営を出でたり、十二月に至りては我が札幌農科大学に職を奉ずべき事定りぬ。""Father and Sons""(ツルゲーネフの小説)の訳は此間に大半稿を成せり。十二月の下旬に河野信子は小柳津氏に嫁ぐべき約整ひぬ。我が東京を去りて、入繁からぬ所に住むべき必要は愈ゞ迫り来ぬ。一月三日の夜、我は東京を去れり。胸を射られし鳩は、その美しき翼もてその疵を裹(つつ)みかくすと云ふに、我もこれに劣らじと思ひ定めぬ。夜汽車の淋しき味は、独逸を旅せる時、壬生馬と共にしみじみ味ひ知りぬ。青森に着せし時、日は暮れて、雪は街上に堆(うづたか)かりき。翌日船は揺ぎ少く、雪の海原を横切りて、六日の暁明三時半、半ば凍れる室蘭の港に入りぬ。(略)其の夕には札幌なり。森本君は我を迎へんがために、五度停車場に到れりと聞きて、凡ての顧慮かいやり捨てゝ北六条西一丁日なるその家に入りしは、やがて夕の六時なりしなるぺし。稍(やや)面やせて見ゆる彼の妻は美しう余を逆へぬ。
『我は英語の講師として学長主事を兼ぬる身となりぬ。偖て今日までは唯面白く暮し来りしか。
『森本君の若き妻は病みて十六日流産せり。彼の実母は十九日茅ヶ崎に永眠せり。
『何をなす可きやと云へる謎は、一瞬毎に我が骨髄に迫る。我が齢を数へ見んも愚かなる業なり。何をなす可きや。(略)」
農学校在学中に有島武郎をキリスト教に導き入れる役をし、また彼と一緒に、明治36年、伊予丸で横浜からシアトルに渡航した森本厚吉は、アメリカ留学から帰って母校の教授になっていた。彼は有島をこの母校に迎えるに努力をしたばかりでなく、その新婚の家庭に彼を当分同宿させることにした。
1月3日
大杉栄(23)、東京府豊多摩郡淀橋町318番地に堀保子と転居。
昼、森近運平、山川均とともに横浜曙回の新年会(大和田宅)に参加。
午後6時、神田三崎町の吉田屋で開かれた金曜講演会の新年会に参加。参加者80名。福引係兼煎餅・みかんなど食べ物の世話係を勤める。
つづく