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2025年1月23日木曜日

大杉栄とその時代年表(384) 1902(明治35)年 〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉(2) 日本留学ブーム 中国人留学生の容貌:黄興、魯迅 前田家の崩壊(漱石『草枕』の舞台)   

 

黄興

大杉栄とその時代年表(383) 1902(明治35)年 軍備拡張・植民地経営・殖産興業を軸とする「戦後経営」による財政膨張。増税。 日本最初の中国留学生のための日本語学校・弘文学院創立 清国留学生会館設立 中国共産党創設メンバ13人中、日本留学生4人 より続く

1902(明治35)年

この年

〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉(2)

日本留学ブーム

弘文学院が開校したこの年(明治35年、1902年)、日本には清国人留学生が合計500名(600名とも)いた。翌年には千人、1904年(明治37年)には1,300名になった。1905五(明治38)年に日本が日露戦争に勝利したことと、同年に清国で科挙制度が廃止されたことから、日本留学ブームに一気に火が付き、同年は約8千名、翌1906六(明治39)年には約1万2千名に急増した。立身出世に不可欠な資格であった「科挙」試験がなくなったことで、今後は海外留学を立身出世の資格とみなし、「洋科挙」と呼ぶ者もいたほど。

留学生の動向としては、まず東京にできた日本語学校に入学して半年から一年間ほど日本語を学び、その後、早稲田、法政、慶應などの東京を中心とした私学を目指すのが一般的だった。東京や九州、京都、東北、北海道などの帝国大学へ入学するには、まず難関の高等学校に入学しなければならず、合格者はごく限られていた。その点、私学には短期育成の「清国留学生部」や「専門部」が特設され、1、2年だけ学んで帰ろうという学生の受け皿になった。私学の「本科」へ正式入学するには勉強に専念しなければならず、進学したのは全留学生総数の半分にも満たない。その他、軍事教育を専門に行う振武学校や成城学校もあり、軍事教練と基礎教育を受けた後、試験を受けて陸軍士官学校へ進学するのだが、難関の試験に合格する者はほんのひと握り。


中国人留学生の容貌1:黄興

辛亥革命では十度の熾烈な戦いの最前線で指揮を執り、同志たちの信頼はすこぶる篤かった。辛亥革命が成功して中華民国臨時政府が樹立すると、請われて陸軍総長に就任した。

黄興は湖南省出身、1874年に名門の家に生まれ、名を軫、号を克強という。19歳で科挙の試験に合格して「秀才」の称号を得て、湖広総督の張之洞の設立した両湖書院で学び、外国人教師のティモシー・リチャードの西洋近代史の講義を受けて、革命の志を立てたという。

1902(明治35)年。28歳のときに、湖北省派遣の官費留学生10名のうちの一人として来日し、清国留学生のための日本語学校、弘文学院速成師範科の第一期生になった。

但し、黄興の留学は「一時避難」の意味合いが強かった。清国では1900年の義和団事変で清朝政府が惨敗し、欧米列国に対する巨額の賠償金を抱え込んで、国力は衰退の一途を辿っていた。古色蒼然とした清朝政府に業を煮やした開明派の官僚や知識人は政治改革を模索し、激した青年たちは政府転覆を図って全国各地で暴動を企てた。

黄興の出身地・湖南省でも、秀才で有名な唐才常が清朝政府から独立することを主張して「自立軍」を組織し、武装蜂起を企てたが失敗し、唐才常は処刑された。唐才常に呼応して蜂起しようとした黄興は機を逸し、再起を図って準備する間、しばらく日本で新知識でも得ようと来日したのである。

しかし、弘文学院は設立したばかりで、教育方針も経営方法も手探りの状態だった。清国留学生たちは日本の風俗習慣に戸惑い、授業のカリキュラムや寄宿舎生活にも不満を募らせた。学校側と折衝したものの話し合いはつかず、ついに怒った学生たちは授業をボイコットして宿舎から立ち退くという「退学事件」が起こったりもした。

そもそも黄興は、日本語の勉強どころではなく、日本で知り合った宋教仁ら、同郷の留学生たちを集めて再起を誓い合い、1903年に帰国すると、湖南省で「華興会」を結成して長沙蜂起を画策した。しかし決起直前に情報が洩れて、失敗。黄興は再び日本へ亡命する羽目になった。

中国人留学生の容貌2:魯迅

魯迅(本名周樹人)は、1881年、浙江省紹興府(現、紹興市)で生まれた。3人兄弟の長男で、実家は地元の名士として知られる高級官僚の家系だったが、祖父の代に没落し、父も病没して家産が傾いた。そのため魯迅は少年時代から家長としての自覚に目覚めたようだ。

日本へ来たのは1902(明治35)年3月、21歳のときに官費留学生として同期生5人とともに来日し、弘文学院に入学した。魯迅はここで日本語以外に数学や英語、物理、化学など、清国にはない近代科目を2年間学んだ後に、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)へ推薦入学した。そこで出会った生物学の指導教官だった藤野教授をモデルにした小説『藤野先生』は有名。

しかし、僅か1年半で仙台の医学専門学校を退学してしまう。その理由について、魯迅は『藤野先生』の中で、授業の合間に日露戦争の戦況を知らせる幻燈を見たとき、ロシア兵が清国人スパイを処刑する場面があり、物見高い清国の人々が薄ら笑いを浮かべて見物していたことに衝撃を受けて、近代医学で身体だけ治療しても、精神面から教育しなければ、決して中国人は救済できないと知ったと、書いている。これは後付けの理屈らしく、後にしばしば医学を捨てた理由を尋ねられ、簡潔に説明したかったというのが本音のようだ。刺激の少ない仙台の生活に寂しさが募り、活気のある東京へ戻りたかったのではないか。

彼はもともと文芸に強い関心があり、来日当初から留学生たちの発行する雑誌に寄稿したり翻訳したりしていた。当時の東京が新興メディア都市として急成長していく中で、情報にあふれた大都会は刺激的で、最新の文芸に触れる機会も多かったのである。


この年

前田家の崩壊(漱石『草枕』の舞台)

前田家の財産を巡る争いは明治26~27年頃に始まる。

当主前田案山子の引退後、前田家はどうするのか?。案山子が隠居して家督を譲れば、前田家の財産はすべて長男下学のものになる。下学はその常識を主張した。

一方、長女の卓は、他の兄弟姉妹にも分け与えるべきだと主張した。家の財産は長兄だけが継ぐという、従来の家制度への反撥だけでなく、それ以上に妹弟を助けたい、助けなければならないという長女的体質の主張だった。

(前田案山子の末の娘は宮崎滔天の妻)

滔天が妻槌宛ての手紙で、「下学兄の話を聞けばこれにも中々尤もの処あり。また、於卓姉方の方に尤もの処あり」と書くように、どちらの理屈も通っていた。


前田家の崩壊への過程では、一時的にではあれ、財産をめぐって、親子兄弟が骨肉の争いを繰り広げた。裁判沙汰にまでなっての決着だった。裁判は長男下学と当主案山子の間で行われたが、きっかけをつくったのは長女の卓である。

卓らの父前田案山子は、維新後、小天の村民のために地租問題で奔走し、そのことから自由民権運動や国会開設運動へと向かい、第一回衆議院選挙で選ばれて国会議員となった。そしてその議員生活は一期で終え、地租問題の全面解決を見とどけて、明治26年(1893年)に政治活動から身を引く。その間、膨大な活動費用を蕩尽したであろうことは、容易に想像がつく。

そして、火災、明治34年12月24日

11月、案山子は下学に家督を譲り、完全に隠居していた。その時、財産分けについて、何らかの妥協があったようだ。しかし本邸は焼失し、財産は大きく目減りした。そこで話がこじれたのだろう。

この本邸焼失をきっかけに、財産分与問題は裁判に持ち込まれる。名家のお家騒動に、熊本の法曹界の気鋭が関わったとされる。けれどもなかなか決着がつかず、最終的には県知事が乗り出して、十分割案で収まった。十分の六を下学と清人の遺族が受け継ぎ、残り十分の四を、卓、槌、行蔵、九二四郎、寛之助、利鎌の六人が平等に分けて分家とした。そして漱石も訪ねた本邸、『草枕』に「蜜柑山に建つ立派な白壁の家」と書かれた家は、二度と再建されなかった。

このお家騒動について、二つの記録がある。一つは下学の長男学太郎が書き残した記録で、もう一つは、案山子の甥前田金儀の「明治三十五年 雑録」だ。学太郎は当然下学の立場に立っており、金儀の場合は案山子らにぴたりと寄り添っている。

学太郎の記録は、死の床の枕の下から発見された「遺稿」である。B5割のノートに、その生涯で心に残った事々を書き留めたもので、その中に「(十六)お家騒動」の題で2ページ余りが書き記されている。学太郎は、清人の入院以来、父親の名代として東京から小天に来ており、いわばこの騒動の当事者の一人だった。本邸焼失後も、焼け跡の蔵の二階に寝泊まりしながら、騒動の行方を見守ることになった。

「此の不祥事は自分の脳裏に深く刻み込まれ忘れ得ざるところなるも、記して何ら益するものに非ざれば略す」と、苦渋のほどを雷いている。書きたいことは山ほどあったが、今さら始まらないと、頻末だけを簡単に記した。

「本宅全焼に先立ち、父が家督相続をしたにつけお家騒動が起こった」という書き出しで始まるその文章は、その発端と経過と結論を簡潔に、生々しく伝える内容だ。まず発端については、「予て快からず思っていた父母〔下学夫妻〕に、お卓伯母さん達のこと故、兄弟達を疎外するに違いないと、〔略〕お祖父さん〔案山子〕を口説き落とし、お卓伯母さん達兄弟が隠居取り消しの訴訟を起こしたのが始まり」という。つまり、学太郎の両親と卓ら妹弟はかねて仲が悪かったこと、そして、家督を譲ったことで自分たちが疎外されると思い込んだ卓らが、案山子を説得し、その相続を取り消す訴訟を起こしたというのだ。その争いは、小作人も巻き込んで三年余り続いた。「祖父方は小作米を差し押さえ、行蔵九二四郎の両伯父は、夜中大刀を腰にして小作人住宅の周囲を徘徊して威圧する狂態を演じた」という。"

一方、前田金儀の「雑録」は、明治35年正月明けからの、裁判の流れを追った日記で、案山子側と下学側の要求ややりとりを詳しく書いている。

金儀に田尻東平、田尻準次、田尻於菟来馬ら親戚と、行蔵、九二四郎が、一団となって案山子のもとにかけつけた。彼らは小天と熊本を何度も往復し、宿に泊まって、毎日のように下学と交渉したり、弁護士との打ち合わせを行い、裁判所に書類を提出した。卓もときおり連絡に熊本まで出かけた。こうした行動はすべて案山子の指示で行われ、「案山子様」という呼び名が何度も出てくる。そのさまはまさに陣を張り、戦をするといったおもむきで、裁判所に書類を提出したことを、「本日いよいよ開戦の矢を放てり」などと、いきましい。

しかしその一方でこの記録には、矢を放つことになった苦衷を案山子が和歌に詠んだり、母キヨが号泣したという記述もある。その争いは、下学の家長としてのプライドと常識に対し、妹弟は長男の付属物ではないとする卓の主張から始まった。その主張に案山子も弟や妹たちも、周囲の親戚も賛同した。卓の激しい気性が引き起こしたのである。

そして最終的には、「裁判長検事の調停で」、「不動産を父が五分五厘祖父が四分五厘に分割する条件で成立」したと、学太郎は書く。当時の不動産は、「政治運動に失われて半減したといわれながらも未だ四十町歩ほどあった」という。その宅地、田、畑、山林などの一つ一つを五・五と四・五で分け、さらに不動産以外の書画骨董などの財産をふくめての最終的な分割が、下学六、案山子らが四ということになった。学太郎によれば、卓たちの側が書画骨董を多く取ったとされる。それにしても学太郎が嘆くのは、そこまで両者の間がこじれたことであり、この3年間の訴訟沙汰で、さらに財産をなくしたということだ。「双方三年間に費やしたる莫大の費用は逆に没落の悲運を招いた。行きがかりとはいえ是ほどの愚挙を祖父も父もどうして気づかなかったろう」と。

「愚挙」ではあっても、なさねばならなかった。それが前田家一族の姿なのだろう。卓だけでなく、下学も他の妹弟も、そうした愚直とも言える熱い血を案山子から受け継いだのだ。その気性には、家産を守るために、妥協し我慢するなどという言葉はない。たとえ家産をなくしても、自分が正しいと思うことにしたがって疾走せずにはいられないのである。


けれども、彼らがこの争いをいつまでも引きずらなかったことに救われる。なぜなら、それからほんの数年後、卓が中国同盟会の民報社で働くようになると、下学もその協力者の一人として再び登場する。男まきりだが、さっぱりした気性の持ち主だった卓は、「兄さん協力してよ」と、屈託なく声をかけたのだろう。晩年の卓、槌、九二四郎らが、下学の家と盛んに行き来していたことは、前田裕子さんの証言で明らかである。佑子さんの父学太郎と卓は、姉弟のように遠慮のない口をきき合ったという。表面的にはそこになんのわだかまりも見られなかった。屈託があったにしでも学太郎は、老いた卓を暖かく迎えたのだ。

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)より


2024年11月23日土曜日

大杉栄とその時代年表(323) 1901(明治34)年3月1日~4日 「今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。、、、左千夫来り秀真来り麓来る。、、、五時頃料理出づ。、、、余は遂に料理の半を残して得喰はず。」(「墨汁一滴」)

 

ブロックウェルパーク

大杉栄とその時代年表(322) 1901(明治34)年2月24日~31日 「万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝、徳川宗武、井手曙覧、平賀元義これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固より賤しききはにていづれも世に容られざりし人なり。」(「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

3月

中村春雨「無花果」(「大阪毎日新聞」)~6月 

3月

有島武郎、札幌独立教会に入会。

3月

駐英ドイツ代理大使、日本の林董駐英公使に日独英三国同盟を提唱。日英同盟交渉の発端。

3月

ロマン・ロラン(35)、クロチルドと離婚。

3月

アインシュタイン、4月まで、求職のためライプツィッヒのオストヴァルトと、ライデンのカメリング・オンネスに依頼したが成功せず。

3月1日

清国公使、満州還付に関する露の要求について、日本政府の居中調停を依頼。英独米にも。

3月1日

伊藤博文首相の意を受けた西郷従道、山県有朋・松方正義と京都で会談、貴族院との調停を依頼。拒絶される。


3月1日

竹村鍛のこと

「 黄塔(こうとう)まだ世にありし頃余が書ける漢字の画(かく)の誤(あやまり)を正しくれし事あり。それより後よりより余も注意して字引をしらべ見るに余らの書ける楷書(かいしょ)は大半誤れる事を知りたれば左に一つ二つ誤りやすき字を記して世の誤を同じくする人に示す。

 (後略)

(三月一日)」(子規「墨汁一滴」)


3月1日

ロンドンの漱石


「三月一日(金)、 Brockwell Park (プロックウェル公園)に行く。帰途、にわか雨でびしょ濡れになる。「夜入浴、此夜妄想ヲ夢ム浴後寝ニ就キタル故カ、」(「日記」)」(荒正人、前掲書)


漱石、子規に絵葉書12枚送る(「日記」)。


3月2日

高松、千金丹売りら100人、売薬行商税新設に反対して県庁に抗議。


3月2日

「 二月二十八日 晴。朝六時半病牀(びょうしょう)眠起。家人暖炉(だんろ)を焚(た)く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯(ほうたい)を取りかふ。粥(かゆ)二碗(わん)を啜すする。梅の俳句を閲(けみ)す。

 今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。水仙を漬物の小桶(こおけ)に活(い)けかへよと命ずれば桶なしといふ。さらば水仙も竹の掛物も取りのけて雛(ひな)を祭れと命ず。古紙雛(ふるかみびな)と同じ画(え)の掛物、傍(かたわら)に桃と連翹(れんぎょう)を乱れさす。

 左千夫(さちお)来り秀真(ほつま)来り麓(ふもと)来る。左千夫は大きなる古釜を携へ来りて茶をもてなさんといふ。釜の蓋(ふた)は近頃秀真の鋳(い)たる者にしてつまみの車形は左千夫の意匠なり。麓は利休(りきゅう)手簡(しゅかん)の軸を持ち来りて釜の上に掛く。その手紙の文に牧渓(もっけい)の画(え)をほめて

我見ても久しくなりぬすみの絵のきちの掛物幾代(いくよ)出ぬらん

といふ狂歌を書けり。書法たしかなり。

 左千夫茶を立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。

 五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し。

味噌汁は三州(さんしゅう)味噌の煮漉(にごし)、実みは嫁菜(よめな)、二椀代ふ。

鱠(なます)は鯉(こい)の甘酢、この酢の加減伝授なりと。余は皆喰ひて摺山葵(すりわさび)ばかり残し置きしが茶の料理は喰ひ尽して一物を余さぬものとの掟(おきて)に心づきて俄(にわか)に当惑し山葵(わさび)を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑ひとなる。

平(ひら)は小鯛(こだい)の骨抜四尾。独活(うど)、花菜(はなな)、山椒(さんしょう)の芽、小鳥の叩き肉。

肴(さかな)は鰈(かれい)を焼いて煮(に)たるやうなる者鰭(ひれ)と頭と尾とは取りのけあり。

口取は焼玉子、栄螺(さざえ)(?)栗、杏(あんず)及び青き柑(かん)類の煮にたる者。

香の物は奈良漬の大根。

 飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出し各ゝ椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半(なかば)を残して得(え)喰はず。飯終りて湯桶(ゆとう)に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚(こころおぼえ)のため書きつけ置く。

 点燈(てんとう)後茶菓(さか)雑談。左千夫、その釜に一首を題せよといふ。余問ふ、湯のたぎる音如何(いかん)。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。乃(すなわ)ち

  題釜

氷(こおり)解けて水の流るゝ音すなり     子規

(三月二日)」(子規「墨汁一滴」)

3月2日

米議会、キューバ干渉の権利を規定したプラット修正条項可決。キューバ保護国化。

3月2日

3月2日~4日 ロンドンの漱石


「三月二日(土)、 Elephant & Castle (エレファント・エンド・カスル)に行く。 London に着いて以来最も天気よく春の気候である。

三月三日(日)、 Brixton (プリクストン)を散歩する。 Karlsbad Salts (カールスパート塩)を飲んだので下痢する。

三月四日(月)、午前、 Brockwell Park (ブロックウェル公園)に行く。花園や泉水を見る。桃の花は蕾、葦の芽は青い。帰ってから、昼食に、スープ・コールドミート・プディング・蜜柑一つ・林檎一つ出る。」(荒正人、前掲書)


3月3日

「 (前略)

茶の道には一定の方式あり。その方式をつくりたる精神を考ふれば皆相当の理(ことわり)ある事なれどただその方式に拘(かかわ)るために伝授とか許しとかいふ事まで出来て遂に茶の活趣味は人に知られぬ事となりたり。茶道(さどう)はなるべく自己の意匠(いしょう)によりて新方式を作らざるべからず。その新方式といへども二度用ゐれば陳腐に堕(お)つる事あるべし。故に茶人の茶を玩(もてあそ)ぶは歌人の歌をつくり俳人の俳句をつくるが如く常に新鮮なる意匠を案出し臨機応変の材を要す。四畳半の茶室は甚だ妙なり。されど百畳の広間にて茶を玩ぶの工夫もなかるべからず。掛軸と挿花(そうか)と同時にせずといふも道理ある事なり。されど掛軸と挿花と同時にするの工夫もなかるべからず。室(へや)の構造装飾より茶器の選択に至るまで方式にかかはらず時の宜(よろ)しきに従ふを賞玩(しょうがん)すべき事なり。

 何事にも半可通(はんかつう)といふ俗人あり。茶の道にても茶器の伝来を説きて価の高きを善しと思へる半可通少からず。茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、堅魚節(かつおぶし)の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を争ふに至りてはいはゆる半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ましき事にあらず。凡(すべ)て物は極端に走るは可なれどその結果の有効なる程度に止めざるべからず。

 茶道に配合上の調和を論ずる処は俳句の趣味に似たり。茶道は物事にきまりありて主客各ゝそのきまりを乱さざる処甚だ西洋の礼に似たりとある人いふ。

(三月三日)」(子規「墨汁一滴」)


3月4日

日英独など6ヵ国、満州に関する露清密約に抗議。

3月4日

労働者大懇親会。二六新報主催、片山潜協力。

3月4日

米大統領にウィリアム・マッキンレー、副大統領にセオドア・セオドア・ルーズベルト就任。


つづく

2024年7月2日火曜日

大杉栄とその時代年表(179) 1896(明治29)年1月7日~8日 漱石、東京より松山に帰る 一葉に宛てて斎藤緑雨から初めての手紙 「我が文界の為、君につげ度こと少しあり」 「今の世の評者がめくらなる事、文人のやくざなる事、これらがほめそしりにかかはらず、直往し給へといふ事」 「よろしく君がもとをとふやくざ文人どもを追ひ払ひ給へ。かれ等は君が為の油虫なり。払ひ給はずは、一日より一日と其害を増さんのみ」といひき。」 

 

齋藤緑雨

大杉栄とその時代年表(178) 1896(明治29)年1月6日 文名が上がり世間に騒がれ始めた一葉の戸惑いと自戒 もう引き返せないという覚悟 「われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。」 より続く

1896(明治29)年

1月7日

漱石、東京より松山に帰る。(7日神戸着、9日広島、10日頃松山帰着)


「金之助が松山への帰途についたのは、一月七日の朝である。鏡子は中根の細君に連れられて新橋ステーションまで見送りに来た。ほかに和三郎と姉お房の夫の高田庄吉、それに三人の級友が来ていた。めずらしく雲一点もない好天気だったが、腰痛に悩んでいる子規は姿を見せなかった。彼はのちに、


寒けれど富士見る旅はうらやまし


という句を書いた葉書を送って来た」(江藤淳『漱石とその時代1』)

1月8日

一葉、はじめて斎藤緑雨から手紙を受け取る。「『わかれ道』に於ては明らかに御作の漸(ようや)くみだれんとするの傾向あるをみとめ得らるべく候」と忠告。緑雨が一葉を訪問するのは一葉の死の半年前の5月24日。その後はしばしば訪問して作品についての疑義をただしている。

また、同日、自ら一葉との結婚の噂を振りまいていると言われる川上眉山が一葉の写真を無理に持ち帰る。


この日、緑雨から「わが文界の為に君につげ参らしたくおもうこと」がある、「但し我に一箇の癖あり、われより君を訪ふ事を好まず候」、親しい人にも秘密にすることを誓ってほしいという。

この手紙は、使いの者が持ち帰るというもので、一葉はこれを写しとり、翌日、緑雨宛に秘密を守ることを誓い、「男ならぬ身なればさるかたに御見ゆるし御教へのいたゞかれ候やう神かけねんじまゐらせ候」と、教えを乞う返事を出す。

緑雨からは即日、長文の手紙が届く。今回も噂の種になる証拠を残さぬよう、持ち帰るもので、一葉はくに子に読ませて写しとる。

緑雨は、「にごりえ」を高く評価するが、材料としては「わかれ道」が勝っている。しかし、「わかれ道」には「濫(みだ)れ」があると云う。

緑雨は、さまざまな批評にまどわされず、「君が思ふ所にまかせて、めくら共に構はずマツすぐに進まれん事」、また一葉を訪れる「文人と称するもの」について「夫等の輩は断然逐ひ払ひ玉はんかた御為と存候」と忠告

一葉は、「正太夫はかねて聞けるあやしき男なり」と警戒し、戸惑いながらも、その忠告や批評には耳を傾け、直接の交際を重ねていき、緑雨もしばしば一葉宅を訪れるようになる。


「正太夫のもとよりはじめて文の来たりしは、一月八日成し。われは君に縁あるものならねど、我が文界の為、君につげ度こと少しあり。わが方に来給ふか、我より書にて送らんか。われに癖あり、我れより君を訪ふ事を好まず。なほ我事聞かんとならば、いかなる人にももらすまじきちかひの詞、聞きたしと也。何事とも知らねど、此皮肉屋がこと、かならずをかしからんとて、返しをやる。人にはいふまじく候。つげさせ給はれかし。我れは男ならぬ身なれば、御もとをば訪ふ事かたし。文おくり給はらば、うれしかるべしといひき。

九日の夜書きたる文、十日にとどきぬ。半紙四枚がほどを重ねて、原稿書きたるがごと、細かに書したり。にごり江の事、わかれ道の事、さまざまありて、今の世の評者がめくらなる事、文人のやくざなる事、これらがほめそしりにかかはらず、直往し給へといふ事、並びに世にさまざまの取沙汰ある事、我れが何がし作家と結婚の約ありといふ事、浪六のもとへ原稿をたづさへて行給ひしときく事、などありき。何がし作家とは川上君の事なるべし。君よりは想のひくき何がしとしるしぬ。「一覧の後は其状(そのふみ)かへし給はれ。君よりのもかへしまつるべし。世の人聞きうるさければ」と成けり。直(すぐ)に封してかへしやる。これは『めざまし草』の出るより二十日も前の事成き。のちに紙上を見れば、われへ対する評言は、このふみの如く細かにはあらで、おほらかに此旨をぞ書ぬ。

正太夫はかねて聞けるあやしき男なり。今文豪の名を博して、明治の文壇に有数(いうすう)の人なるべけれど、其しわざ、其手だて、あやしき事も多くもある哉。しばらく記してのちのさまをまたんとす。」(日記「水のうへ」)。

(斎藤線両氏から初めて便りが来たのは一月八日でした。

「私は君に関係のある者ではないが、わが文壇のために君に話したいことが少しある。私の方へ来られるか、それとも私から手紙を書こうか。私には一つの癖があって、私が君を訪ねるのを好まない。それでも私の話を聞こうと思うなら、誰にも他言をしないという誓約の言葉がほしい」

とある。何のことか分からないが、この皮肉屋のことだから、きっと面白いことだろぅと思い、返事を出す。

「他人には決して言いません。どうかお聞かせ下さい。私は男の身ではないのでお宅をお訪ねできません。お手紙を下されば嬉しく存じます」

と言ってやる。

九日夜に書いたという手紙、十日に届く。半紙四枚を重ね、原稿のように細かに書いてある。「にごりえ」のこと、「わかれ道」のこと、その他色々あって、現代の評論家が盲目であること、作家が柄が悪いこと、こういう人の褒めや詰りは気にしないで、自分の道を真直ぐ進みなさいということ、また世間では色々な噂があること、この私が何とかいう作家と婚約したということ、また村上浪六の所へ原稿を持って行ったと聞いたこと、など書いてあった。何とかいう作家とは川上眉山のことでしょう。手紙には「君よりは才能が低い某作家」と書いてあった。

「ご覧の後はこの手紙は返して下さい。君からのも返します。世間の噂はうるさいので」

とある。すぐに封をして返送する。これは 「めざまし草」創刊号が出る二十日も前のことでした。後で同誌を見ると、私に対する批評はこの手紙のように細かではなく、おおよそこの趣旨のことが書いてあった。斎藤緑雨という人は、かねて聞いていた通り一風変わった人だ。今は文豪と呼ばれ明治の文壇では数少ない人のようだが、そのする事には不思議な事が多いようだ。ともかくここに記して、後の様子を見よう)


この頃、世にあやしき沙汰聞え初ぬ。そは川上眉山と我れとの間に結婚の約なりたりといふうわさ成り。「岡やきといふものおびただしき世なれば、伝へ伝へて文界の士の知らぬもなし」といふ。あるものは伝へて、「尾崎紅葉仲立なり」とさへいふめる。あるもの紅葉にかたりたるに、高笑ひして、「もしさる事さだまらは、我れ媒しゃくにはかならず立つべし」といひしとか。『よみうり新聞』新年宴会の席にて、高田早苗君は眉山が肩をうちて、「この仲立は我れ承らん」とたはぶれしとか。こゝにかしこに此沙汰かしましければ、いつしか我れにも聞えぬるを、あやしきは川上ぬし、知らずがほを作り給ふ事なり。「この人の有さまあやし」と思ひしは、過し八日の夜、「われに写真給はれ」とて、こばむをおして持行し事ありき。母君も国子もひとしういなみしを、「さらばしばしかし給へ。男の口よりいひ出づる事、つぶされんは心わるし」とて、しひていふに、「さらば五日がほどを」とて、かしつる其写真をば、さながら返さず。人、結婚の事をいひて、「君は一葉君と其やく有るよし、誠にや」と問へば、「そは迷わくの事いひふらすものかな」とて、打笑ひ居るよし。八日の夜のさまは、ほとんど物ぐるはしきやうに眼をいからし、面を赤めて、「なに故我れにはゆるし給はぬにや、我れをばさまで仇なるものとおぼし召か。此しやしん、博文館より貰はば事はあるまじけれど、あやしう立つ名の苦しければ、ここに参りてかくいふを、猶君にはうとみ給ふにや。男子一たびいひ出たる事、このままにしてえやはやむべき」とて、つく息のすさまじかりし事、母君かげに聞て、胸をば冷し給ひしよし。「我れに妻の仲立して給へや。此十五日を限りにして、其返事聞度し。いかでいかで」などせまられたる事ありしが、それこれを思ひ合せて、あやしき事一つならず。文界の表面(おもて)にこの頃あやしき雲気(うんき)のみゆるは、何ものの下にひそめるならん、眉山排斥の声やうやう高う成りぬ。

正太夫いはく、「君はおそらく文界の内状など知り給ふまじければ、瑣細の事とおぼしめさんも計られねど、我れの考へたる処にては、なほざりならぬ大事とおもへり。よろしく君がもとをとふやくざ文人どもを追ひ払ひ給へ。かれ等は君が為の油虫なり。払ひ給はずは、一日より一日と其害を増さんのみ」といひき。

(この頃世間に変な噂が立っている。それは川上眉山と私との間に婚約が成立したという噂。嫉妬の多い世の中なので、次々に伝えて今では文壇の人で知らない者はないという。尾崎紅葉が仲人であるとまで言っているらしい。ある人が紅集にこの話をすると、大笑いして、「もし事が決まったら、私が媒酌には必ず立とう」と言ったとか。読売新聞社の新年宴会の席で高田早苗氏は眉山の肩を打って、「この仲人は私が引受けよう」と冗談を言ったとか。あちこちでこの時がやか

ましいので、いつとなく私の耳へも入って来たのに、おかしいのは川上氏が知らぬ顔をしていることです。この人の様子がおかしいと思ったのは、今月八日の夜、私に写真をほしいと言って、断るのを無理に持って行ったことがあった。母上も邦子も一緒になって断ったので、

「では暫くお貸し下さい。男の口から一度言い出したことを断られては気持ちが収まらない」

と、しきりに言うので、

「では、五日間ほど」

といってお貸ししたのに、写真はそのままで返してくれない。ある人が、

「君は一葉さんと婚約があるというが、それは本当なのか」

と聞くと、

「それはまた迷惑な事を言いふらすものだ」

と笑っていたとか。

八日の夜は、全く気狂いのように眼をいからし顔を赤くして、

「なぜ私には許して下さらないのですか。私をそんなにまで敵視なさるのですか。この写真は博文館から貰えは何でもないのだが、炒な噂が立つのがいやだから、此処へ来てこうして頼んでいるのに、やっぱりあなたは私が嫌いなのですか。男が一度言い出したことを、どうしてこのままやめてしまうことが出来ますか」

と言って、つく息の凄かったこと。母上は隣室で胸を冷やされたとのこと。また別の折に、

「私に縁談を世話してくれないか。この十五日までに話を聞きたい。是非、何としても」

と迫られたことがあったが、あれこれ思い合わせると、おかしな事は一つや二つではない。文壇の表に出るほど、近頃妙な動きがあるのは、陰に何かたくらんでいる者があるのだろうか。眉山排斥の声が次第に高くなってきた。

「おそらくあなたは文壇の内情などご存知ないので、些細な事と思われるでしょうが、私の考えでは棄てておけない大事だと思います。何としても、あなたの所に訪ねてくる品の悪い文人たちを追い払いなさい。彼らはあなたにとっては油虫のようなものだ。いま追い払わないと、一日一日とその害毒はひどくなるばかりだ」

と斎藤緑雨は言うのでした。)

(緑雨に言わせれば、孤味も禿木も秋骨も眉山も、みな害虫であったのであろう。しかし一葉はもとより彼らを追い払おうとはしなかった。)


つづく


2024年7月1日月曜日

大杉栄とその時代年表(178) 1896(明治29)年1月6日 文名が上がり世間に騒がれ始めた一葉の戸惑いと自戒 もう引き返せないという覚悟 「われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。」

 

一葉『わかれ道』(「国民の友」)

大杉栄とその時代年表(177) 1896(明治29)年1月1日~5日 トロツキーの革命運動の第一歩 乙末義兵(朝鮮義兵闘争) 芝山巌事件(台湾) 一葉「この子」「わかれ道」 漱石・鴎外、子規の句会に参加 より続く

1896(明治29)年

1月6日

星野天知が、『文学界』の新年会に一葉と三宅花圃に対し「別席しつらへおきぬ」との招待するが、「さる所には、はしたなう立出づべきにはたあらねば断りいひやりて」欠席。花圃も欠席。一葉は古い倫理感、規範を変えようとはしない。


「六日に、『文学会』の新年宴会などいふ事ありき。「われと三宅ぬしには別席しつらへおきぬれば、かならず出席あらまほしき」よし、星野ぬしよりいひこされたれど、きる所にはしたなう立出づべきにはたあらねば、断りいひやりて我れはえ行かぎりしに、たつ子ぬしにも同じこと断り成しよし。こゝの間に心をかしからぬ事あれば、馬場ぬしも、「え行かじ」などいひ居られしものから、さもいなみあへて、出席有けるよし。有様いか成けん。」

(馬場氏は星野氏との間に面白くないことがあって最初は行かないといっていたが、そうも断りきれず出席されたとのこと。どんな様子だっただろうか。)


「こぞの秋、かり初(そめ)に物しつる「にごり江」のうわさ、世にかしましうもてはやされて、かつは汗あゆるまで評論などのかしましき事よ。「十三夜」もめづらしげにいひさわぎて、「女流中ならぶ物なし」など、あやしき月旦(げつたん)の聞えわたれる、こゝろぐるしくも有かな。しぱしばおもふて、骨さむく肉ふるはるゝ夜半もありけり。かゝるをこそは、うき世のさまといふべかりけれ。かく人々のいひさわぐ、何かはまこと至とのほめこと葉なるべき。たゞ女義太夫に、三味の音色はえも聞わけで、心をくるはするやうのはかなき人々が一時のすさびに取はやす成るらし。されども、其声あひ集まりては、友のねたみ、師のいきどほり(*)、にくしみ、恨みなどの限りもなく出来(いでき)つる、いとあさましう情なくも有かな。虚名は一時にして消えぬべし。一たび人のこゝろに抱かれたるうらみの、行水(ゆくみず)の如く流れさらんか、そもはかりがたし。われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。あさましのさま少しかゝばや」

*中島歌子は「緑陰著話」に「にごりえ」について、「場所がきたなくて、それに人間がどうやら活きて居ません様で」と酷評を述べている。

(去年の秋、軽い気持ちで書いた 「にごりえ」が世間を騒がせるまでもてはやされて、またその反面、あまりにやかましい程の評論に汗のにじむような思いもするのでした。また十二月発表の 「十三夜」も褒め騒がれて、女流作家中並ぶものがないと、大変な批評が聞こえてきて本当に心苦しい。思えば思うほど骨も肉も震え上がるような夜もあったのでした。これをこそ人生の姿というのでしょうか。こんなに人々が言い騒いでいるのが、どうして本当の褒め言葉でしょうか。例えば、女義太夫の三味の音色も聞き分けられないくせに、すぐ夢中になるような人たちが、ただ一時的に熱狂して褒めはやしているようなものでしょう。しかし、そういう声でも沢山集まると、友のねたみや、先生の怒り、憎しみ、恨みなどが次々に出てくるのは本当に嘆かわしく情けないことよ。虚名はしばらくの間のことであってやがては消えてしまうでしょう。しかし、一度人の心に抱かれた恨みは、果たして行く水のように流れ去るでしょうか、それはとても望めないことです。私は今はっきりと浮世の波の姿を見そめたのです。しかもその波の流れに乗ってしまった以上、どうして引き返すことが出来ようか。その嘆かわしい浅ましい世の有様を少し書こうと思う。)


「日ごと訪ふ人は花の如く、蝶の如きうつくしの人々也。大島文学士が奥がたのやさがたなる、大はしとき子の被布(ひふ)すがたわかわかしき、今は江木が写真師の妻なれど、関えつ子の裾もやうでたち、同じく藤子が薄色りんずの中振袖、それよりは花やかなる江間のよし子が秋の七草そめ出したる振袖に、緋むくを重ねしかわいのさまもよく、師はん校の両教授がねづみとひわの三まい着、取々(とりどり)にいやなるもなし、一昨年(おととし)の春は、大音寺前に一文ぐわしうりて、親せき近よらず、故旧(こきう)音なふ物なく、来る客とては悪処(あくしよ)のかすに舌つヾみ打つ人々成し。およそ此世の下(しも)ざまとて、かゝるが如きは多からじ。身はすて物に、よるべたきさま成けるを、今日(けふ)の我身の成(なり)のぼりしは、たゞうき雲の根なくして、その中空(なかぞら)にたゞよへるが如し。相あつまる人々、この世に其名きこえわたれる紳士、紳商、学士、社会のあがれる際などならぬはなし。夜更て、人定まりて静におもへば、我れはむかしの我にして、家はむかしの家なるものを、そもそも何をたねとしてか、うき草のうきしづみにより、人のおもむけ異なる覧(らむ)。たはやすきものはひとの世にして、あなどるまじきも此人のよ成り。其こゑの大ひなる時は千里にひゞき、ひくきときは隣だも猶しらざるが如し。」

(毎日私を訪ねてくる人は、花や蝶のように美しい人々ばかり。大島文学士夫人みどりのすらりとした姿、大橋乙羽夫人とき子のお被布姿の若々しさ、今は江木写真館主人の妻であるが関悦子の裾模様姿、その妹藤子の薄色の綸子(りんず)の中振袖姿、江間よし子の秋の七草を染め出した振袖に緋無垢を重ねた可愛らしい姿、女子高等師範学校の安井哲子・木村きん子両教授の鼠色と鶸(ひわ)色の三枚重ね着の姿、皆それぞれに美しく嫌なものは一つもない。一昨年の春は吉原の大音寺前で駄菓子を売っての生活で、親戚も近よって来ず、旧い知人も訪ねてくる者もいなかった。来る客といえば品の悪い下町の貧しい人々ばかりでした。社会の下層階級の人でもこんな人は多くはいなかったでしょう。わが身は世間から見捨てられて、頼る所もない有様であったのに、今の私の成り昇った姿は根のない浮雲が大空に漂っているようなものです。今集まってくる人々は世間に名高い立派な紳士、商人、学士という上流社会の人ばかりです。人々が寝静まった夜更けに静かに思えば、私は昔のままの私であり、家も昔のままなのに、そもそも何が原因で人の身は浮草のように浮き沈みするのだろうか。思うに生きるのに容易なのも人の世であり、また侮ってはいけないのも人の世です。その声が大きい時は千里四方にまで響き、その声が低い時は隣りの人さえも知らないようなものです。)


「『国民のとも』春季付ろく書つるは、江見水蔭、ほし野天知、後藤宙外、泉鏡花および我れの五人なりき(*)。早くより人々の日そゝぎ、耳引たてゝ、これこそ此年はじめの花と待(まち)わたりけるなれは、世に出るよりやがて、沸出(わきいづ)るごとき評論のかしましさよ。さるは、新聞に雑誌に、いさゝか文学の縁あるは、先をあらそひてかゝげざるもなし。一月(いちぐわつ)の末には、大かたそれも定まりぬ。あやしうこれも我がかちに帰して、「読書社会の評判わるゝが如し」とさへ沙汰せられぬ。評家の泰斗と人ゆるすなる内田不知庵の、ロを極めてほめつる事よ。皮肉屋の正太夫が『めざまし草』の初号に書きたるには、「道成寺」に見たてゝ、「白拍子(しらびやうし)一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何がし、くれがし」と数へぬ。へつらふ物は万歳万歳とゝなへ、そね(おもて)む人は面を背けて、我れをみる事仇(あだ)の如かり。

*「国民之友』(明29・1・4刊)付録。江見水蔭「炭焼の煙」、星野天知「のろひの木」、後藤宙外「ひたごゝろ」、泉鏡花「琵琶伝」、一葉「わかれ道」が掲載

(「国民之友」春季附録に書いたのは、江見水蔭、星野天知、後藤宙外、泉鏡花と私の五人でした。早くから人々が注目し耳を立てて、これこそ今年の最初の文学の花と待ちかねていた雑誌なので、発宣されると同時に涌き出るような評論の、何と騒がしいことよ。少しでも文学に関係ある新聞雑誌では、先を争って載せないものはない。一月の末には大体の評価も決まった。そして不思議にも私の勝利となって、読書人の間では破れるような大評判だとまで噂された。評論家の泰斗と人も認めるあの内田魯庵が口を極めて褒めていたし、皮肉屋の斎藤緑雨が「めざまし草」創刊号に書いたのには、歌舞伎の道成寺に見たてて、「白拍子一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何某、何某」と数えたてていた。褒める者は万歳々々と唱え、憎む者は顔をそむけて私を仇敵のように見るのでした。)


「「にごり江」よりつゞきて、「十三夜」「わかれ道」、さしたる事なきをばかく取沙汰しぬれば、我れはたゞ浅ましうて物だにいひがたかり。「此二十四、五年がほどより打たえ寐(ね)ぶりたるやうなる文界に、妖艶の花を咲かしめて、春風一時(いちじ)に来るが如き全盛の場(ば)、舞台にしかへしたるは、君が一枝(いつし)の力よ」など、筆にするものあり、口にする者あり。「いかなる人ぞや。おもかげ見たし」など、つてを求めて訪ひよるも多く、人してものなど送りこすも有けり。雑誌業などする人々は、先をあらそひて、「書きくれよ」の頼み引もきらず。夜にまざれて、我が書つる門標ぬすみて逃ぐるもあり。「雑誌社には、我が書たる原稿紙一枚もとゞめず」とぞいふなる。そは、「何がしくれがしの学生、こぞりて貰ひにくる成り」とか。「閨秀小説のうれつるは前代未聞にして、はやくに三万をうり尽し、再はんをさへ出すにいたれり。はじめ大坂へはかり七百の着荷有しに、一日にしてうれ切れたれは、再び五首を送りつる、それすら三日はたもたざりしよし。このほど、大坂の人上野山仁一郎、「愛読者の一人なり」とて尋ね来つ。かの地における我がうわさ語り聞かす。「我党崇拝のものども打つどひて歓迎のもうけなすぺければ、此春はかの地に漫遊たまはらばや。手ぜまけれども別荘めきたるものもあり。いかでおはしませ」などいざなふ。尾崎紅葉、川上肩山、江見水蔭および我れを加へて、二枚折の銀屏(ぎんびやう)一つはりまぜにせまほしく、「うらばりは大和にしきにして、これをば『文学屏風』と名づけ、長く我家の重宝にせまほし。いかで原稿統一ひら給はらばや」など切にいふ。「金子御入用の事などもあらは、いつにても遠慮なく申こさせ給へ。いかさまにも調達し参らする心得也」などいふ。「ひいきの角力に羽をり投ぐる格(かく)にや」とをかし。」

(「にごりえ」に続いて「十三夜」「わかれ道」と、それ程でもない作品を、このように大げさに取り上げるので、私は驚いて物も言えない程です。

「この二十四、五年以来すっかり眠っていた文壇に妖艶の花を咲かせ、春風一時に吹き来るような全盛の舞台にしたのは君の作品の功績による」

などと筆にしたり、口にする者もいる。どんな人か顔を見たいといって、つてを求めて訪ねて来る者も多く、人を介して物を送ってよこす者もいる。雑誌の編集者たちは先を争って原稿依頼に来る者が後を絶たず、夜の闇に紛れて私が書いた門標を盗んで行く者もあり、雑誌社では私の書いた原稿が一枚もなくなったという。それは学生の誰やら彼やらが貰いに来るためだとか。「文芸倶楽部、閨秀小説特集号」が売れたのは前代未聞で、既に三万部を売り尽くし、再版をさえ出すに至った。初め大阪へだけ七百部送ったのが一日Hで売切れたのであと五百送ったが、それさえ三日ともたなかったとのこと。先日は阪の上野山仁一郎という人が、愛読者の一人だといって訪ねて来て、大阪での噂を話してくれた。

「我々、先生を崇拝する者たちが集まって歓迎会を催そうと考えていますので、この春にはおいで頂きたいものです。手狭ですが別荘らしいものもありますので、是非お出かけ下さい」

と誘いをかけてくる。

「尾崎紅葉、川上眉山、江見水蔭、それに私を加えて、二枚折りの銀屏風を一つ、貼り混ぜの形で作りたく、裏は大和錦にして、これを文学屏風と名づけて、長く家宝にしたいと思うのです。是非、原稿紙一枚で結構ですから頂きたいのです」

と、しきりに言う。また、

「お金がご入用の時などがありましたら、いつでもご遠慮なく申し越し下さい。どのようにでも準備いたす考えです」

などと言う。謂はば、贔屓の力士に羽織を脱いで投げるやり方と同じだと、面白く思ったのでした。)


つづく



2024年4月21日日曜日

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内)    

 

陸奥宗光

大杉栄とその時代年表(106) 1894(明治27)年5月17日~31日 朝鮮駐在代理公使杉村濬の出兵上申 袁世凱、出兵準備を李鴻章に電請 参謀本部、出兵必要と決定 東学農民軍、全州占領。朝鮮政府は袁世凱に出兵救援を依頼 宗銀、内閣弾劾上奏案可決(総辞職か解散かを迫られる) より続く

1894(明治27)年

6月上旬

一葉は久佐賀義孝を訪問し、今後の支援の口約束をとりつける。

6月1日

朝鮮、東学農民軍、全州城攻略

6月1日

朝鮮、日本公使館書記生鄭永邦、袁世凱を訪問。清国の出方を探り、「日本政府は決して他意を持つものではない」と付言。袁世凱は、この会談の模様を李鴻章に報告、日本は国内多事で、出兵するとしても公使館保護の100余の規模となる模様との判断を付け加える。

6月1日

朝鮮、鄭書記生の報告をうけて、朝鮮駐在代理公使杉村濬、東学党指導の農民暴動による全州占領と朝鮮政府の清国への援兵要請を外相陸奥宗光に報告(2日、受信)

6月1日

朝鮮、政府、金鶴鎮を全羅道監司に任命、農民軍宣撫工作させる

6月2日

朝鮮、領議政閔泳駿、清国代表袁世凱と密会。非公式清軍出動要請(3日公式要請)。袁世凱は直ちに高宗要請を北京の李鴻章に打電。漢城駐在清軍、即日出動。

一方、朝鮮政府は、清国軍到着までの時間稼ぎのため全琫準の要求全てを呑むことにする(和議)。

6月1日

論説「対韓問題如何」(「自由新聞」)。「遅疑躊躇する」べきでないと主張。政府と呼吸を合わせて世論を誘導。

6月2日

臨時閣議、冒頭陸奥外相が杉村代理公使の電報を読上げ、朝鮮での日清両国の権力均衡意見を述べ、一同賛成。清国の出兵に対抗して混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議。衆議院解散決議。

この夜、陸奥外相・川上操六参謀次長・林董外務次官会談し、壬午軍乱(明治15年)・甲申政変(17年)では清国に後手をとったので、今回は機先を制して前回の損失を回復しなければならず、清国以上の兵力を送りこれに臨むべき

杉村代理公使の急電。「全州ハ昨日賊軍ノ占有ニ帰シタリ。袁世凱曰ク、朝鮮政府ハ清国ノ援兵ヲ請ヒタリ」。日本は朝鮮の現状維持(=日清の権力平均)を口実に、国民と欧米諸国に出兵を納得させることができる。

日清戦争の過程の第1期。6月2日閣議での出兵決定~5日大本営設置から7月23日王城事変まで。この間、日本は「厳に事局を日清両国の間のみに限り、務めて第三国の関係を生ずるを避くべし」(「録」17)との廟算から、朝鮮問題に対し、「表裏二個の主義」(同30)、即ち、表面では「成るべく平和を破らずして、国家の栄誉を保全し、日清両国の権力平均を維持すべし」としつつ、裏面では「全力を尽して当初の目的(「日清両国の衝突」)を貫く」ことを決意(同17)。それを実現する為に、日本は軍事上は主動権を保持しつつ、外交上は「被動者たるの地位」に立ち、3度にわたり清国を挑発。

第6議会、抜き打ち的に解散。実質審議を行わず、わずか半月で終了。

最終段階の条約改正。政府は対外硬派の活動に神経を尖らせ、半年間に2度の解散を行い対外硬派封じ込めを図る。第2次伊藤内閣発足以来、陸奥外相が改正交渉を行う。彼は井上・大隈の失敗から、中途半端な改正案では国民を納得させられないことを悟り、改正を領事裁判権撤廃に絞る。秘密主義をとり、実際の交渉は青木駐英公使が行う。明治27年春からは改正のため正式委員会が開かれ、第6議会当時、交渉は最終段階を迎えている。

6月3日

グスタフ・マーラー、「<巨人>交響曲様式の音詩」、ワイマールで再演。

6月4日

李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令。

6月4日

帰国中の大鳥公使、海軍陸戦隊・警視庁巡査隊400従え帰任。伊藤首相は袁世凱と協議して可能な限り平和的に軍局をむすぶよう指示。陸奥外相は、「韓国においては優勢をとる」事を絶対的必要条件とし、「過激に思うも顧慮する処なく断然たる措置をとるよう訓令。10日漢城入り。

6月4日

この日、「東京朝日」、3日付け仁川電を号外にする。「東学党益猖獗(三日正午仁川特置通信員発) 官軍敗れ大将死す。全州(首府)は東学党に略取せられ電報通ぜず。政府狼狽し京城の人心恟々たり。又兵六百を発す」。これにより、「東朝」は5日から、「大朝」は13日から、夫々3日間の発行停止を命じられる。

6月4日

北村透谷追悼会、九段坂下の貸席玉川亭で開催。島崎藤村ら友人、石阪昌孝・北村快蔵・美那・英子も出席(42名)。

6月4日

現存する一葉「水の上日記」の初め。この日は、妹邦子と中島歌子の母のお墓に参る。

続けて、この間の久佐賀とのやり取りが記されている。


水の上-本郷丸山福山町時代-

①「塵の中」期の最後の日記と「水の上」期の最初の日記の問に1ヶ月の空白(1冊分の記録が散逸)。

②27年7月~28年4月が大きく欠落(11月9日~13日の部分は現存)。一葉が処分したと考えられる。この欠落部分には、日清戦争の興奮や久佐賀義孝・村上浪六らとの苦い交渉が記録されていたはずである。

③28年6月~10月、11月~12月、29年2月~5月も空白。これは「にごりえ」「十三夜」「たけくらペ」「わかれ道」「通俗書簡文」「われから」などの執筆に忙殺されて記録を怠ったと考えられる。

④傍系日記としては、「つゆしづく」の後半部分、二つの残簡(明27・秋~同28・1)、「しのぶぐさ」(明28・1~2)が詞書の和歌の形式で書かれ、序文だけが書かれた「詞がきの歌」もある。

続いて、「随感録」「さをのしづく」(明28・2~4)がある。「しのぶぐさ」は詞書に日付が多く出て来るので、日件録に近い印象を与える。

雑記系統は、日清戦争時に書かれた「かきあつめ」(明27、28頃)と「うたかた」(明27・末~同28・冬)が存在するだけ。

記録は29年7月22日で終り、その後「はな紅葉一の巻」の余白を使用して病床でわずかな手記が書かれ、それが最後の日記になっている。


「かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大(おほい)なる目あてありて、身を打すてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。かゝるともがらと大事を談(はな)したらんは、おきな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし。おもへは我れも、敵(かたき)をしらざるのはなはだしさよと、我れをさへあざけらる。」

(以前に天啓顕真術会本部長の久佐賀という人を訪ねて話したことがあったが、その善悪はしばらくおくとして、この世に大きな目的をもって身を捨ててその事に邁進するような人かと思っていたが、何度も逢って話しているうちに、全くあきれはてたつまらない小さな望しか持たず、ただ目の前の僅かな事にばかり迷っている人でした。このような人物を相手に人生の大事を語るのは、幼な児を相手に天を論ずるようなもので、全く苦労ばかり多くて何の益もないことでした。今にして思えば、私も相手を見分ける眼が全くなかったことよと、自分で自分が可笑しくなるのでした。)

6月5日

戦時大本営条例により大本営を動員。宣戦布告前だが、戦時に入る。広島第5師団に兵員7~8千の混成旅団編成着手させる。

この日に初めて陸軍参謀本部内に設置され、9月15日には広島城内(本丸上段)に移る。天皇は、翌明治28年4月27日に京都に移るまでの約7ヶ月間、広島に滞在。

戦時大本営条例:

(第1条)大本営を天皇親裁のもとにある最高統帥部と規定、

(第2条)そこにおいて「帷幄ノ機密ニ参与シ、帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スル」任務は参謀総長に与えられ、

(第3粂)大本営幕僚は陸海軍将校だけで組織され、文官の容喙を許さず。大本営組織後は、天皇の戦時軍令大権は参謀総長の補弼だけで発動され、統帥事項は一切、他のいかなる国家機関の制限も受けず、その機務には首相も参加できない。従って、平時には居留民保護の為の軍艦派遣・応急出兵は外交的・政略的事項として閣議決定されるが、一旦大本営が設置されると、「帝国大作戦」の一部として、大本営幕僚長(参謀総長)の専決事項となる。

大本営設置期間は、作戦用兵に関する限り、外交が戦争に従属し、統帥は国務に優越する。大本営設置は平時の法状を変更するので、1937(昭和12)年大本営令を軍令によって公布し、設置要件に事変を加えるまでは、戦時に限定されている。

日露戦争の場合は、それを極めて厳密に解釈し、開戦は1904(明37)年2月4日の御前会議で決定、6日動員裁可されるが、寺内正毅陸相は「宣戦布告以前は、絶対に大本営の成立を認むべきに非ず」と主張。その為、宣戦布告の翌2日にようやく動員下命、13日に完結。

日清戦争の場合、開戦決定の御前会議は7月17日、宣戦布告は8月1日だが、大本営設置はこの日6月5日。開戦の国家意志決意の以前に、統帥部が戦時機関である大本営を置き、平時の法状を戦時のものに変更した事は、閣議決定(居留民・公使館保護及び日清両国の権力平均という限定された出兵目的)を、その精神において無視したもので、二重外交に発展しうる論理を内包している。2日夜の川上操六参謀本部次長と陸奥外相の謀議が、開戦にもちこむ事を決定した際の論理は、日本軍が出兵すれば清国軍が戦を挑み、開戦の端緒が開けるということ。この思惑が外れ、朝鮮に帰任した大鳥公使が、閣議決定による出兵目標達成をみて増遣中止を電請した時、陸奥外相がこの申出を一面では「至当」と看做しながら、「既定の兵数を変更する能はざる」ことを理由に拒否したのは、軍事的観点が政治的観点に優越したことを意味し、政戦両略一致の点からみれば、極めて不合理。大本営設置の上での大軍派出の事実が、日清両国の同時撤兵を不可能とし、妥協成立の道を閉ざし、日清戦争回避の最大の機会を失わせる。日清戦争の真の起点は、列強の干渉や国内政治の影響により開戦政策が動揺することを阻止する目的で、統帥部が陸奥外相との私議のみにより独走的に大本営を設置した時点に、求められる。

戦争は、①清国との国際法上の戦争、②朝鮮・台湾に対する「戦争ならざる戦争」、③清帝国分割を巡る列強との「戦争にいたらない戦争」、の三局面の重層的・同時進行的戦争として遂行。

国内では、帝国憲法の多元的分立主義が新たな矛盾である統帥と国務の対立を生みながら進行。統帥は、大本営設置と海外派兵によって機構的にも国務に対する統帥の優越を獲得し、政略を戦略に従属させようとする。政略を担当する国務が戦略を拘束し、統帥を従属させる限り(政略の主導のもとに政戦両略が一致している限り)、戦争目的を達成することができる。日清戦争の歴史は、機構的に国務を抑える権限を握ってたえず戦略至上主義にたって独走しょうとする統帥を、国務が統御しょうとする歴史である。

明治憲法下では、国務・統帥分裂を統合できるのは天皇のみで、最高国策はしばしば天皇臨御の宮中での御前会議で決定される。御前会議は憲法上の会議でなく、法理的にはその決定が国法上有効ではないが、天皇の最高責任で決定した形式を含む為に、会議の決定は国務・統帥双方を強く拘束。日清戦争に際し、このような意味の御前会議は7回開催。会議参列者は固定ではなく、会議毎に相違、閣僚全員参列は初めの3回のみ、定例的出席は首相・陸相・海相・参謀総長・参本次長・軍令部長・山県有朋の7名。陸奥外相は初め3回のほか講和条件審議の御前会議に参列。

これとは別に、天皇が大元帥の資格で出席し、作戦を親裁する大本営御前会議があり、日清戦争の場合は約90回開催。会議出席者は、参謀総長・参本次長・軍令部長・陸相・海相を中心とする大本営幕僚であり、山県大将が特命で参加。伊藤首相列席が命じられた後は、双方の御前会議出席者は主要部分で一致。天皇を含めたこの8名(陸奥外相を加えると9名)が戦争指導寡頭制を構成。日露戦争の場合のように財政担当が加わわらず、また武官此率が高いことが注目される。

6月5日

伊東巳代治、伊藤首相に新聞同盟(反政府・反自由党)処分を請求。但し、新聞同盟は政社と認定されていず政社法では取締れず。4日、新聞同盟は東京ホテルで今後の方針を協議。「対外自主派総選挙本部規約」作成し、対外硬派の前代議士・貴族院議員に送付。政社の色彩でる。6日、神田錦町の錦輝館で懇親会。


つづく


2024年4月16日火曜日

大杉栄とその時代年表(102) 1894(明治27)年3月12日~27日 馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問、一葉は好意的評価 一葉、久佐賀に物質的援助を請う 子規『一日物語』  一葉、転居費用調達と桃水訪問    

 

馬場孤蝶

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典 より続く

1894(明治27)年

3月12日

3月12日付け漱石の子規宛の手紙。


「・・・・・子規が『小日本』の編集主任になったのと同じ頃に、漱石は風邪をこじらせ、血痰が出てしまう。一時は結核発病かと心配もしたらしい。三月に入ってから医者の診察を改めて受け、安心したことを、漱石は三月一二日付の子規宛の手紙で書いている。

「目下は新聞事業にて定めし御多忙の事」と、子規の編集主任としての仕事をねぎらったうえで、「過日は小生病気につき色々御配慮」を子規からしてもらったことに感謝を表明している。そして「小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども」と、動揺したことを告白していたのでもあった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


「其後病勢次第に軽快に相成目下は平生に異なるところなく至て健全に感じ居候へども服薬は矢張以前の通致し滋養物も可成食ひ居候固より死に出た浮世なれば命は別段惜しくもなけれど先づ懸替のなき者なれば使へる丈使ふが徳用と存じ精々養生は仕る覚悟に御座候へば先づ御安心可被下候小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども其後以前よりは一層丈夫の様な心持が致し医者も心配する事はなし抔申ものから俗慾再燃正に下界人の本性をあらはし候是丈が不都合に御座候ヘどもどうせ人間は慾のテンションで生て居る者と悟れば夫も左程苦にも相成不申先づ斯様に慾がある上は当分命に別条は有之間敷かと存候当時は弓の稽古に朝夕余念なく候」

「死に出た浮世なれば命は別段惜しくもなけれど先づ懸替(かけがえ)のなき者なれば使へる丈使ふが徳用と存じ、精々養生は仕る覚悟に御座候へば先づ御安心可被下候」

弓の稽古をしていて、

  弦音にほたりと落る椿かな

  弦音になれて来て鳴く小鳥かな

  弦音の只聞ゆなり梅の中

を添える。

3月12日

平田禿木に連れられて馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問。


「十二日 ・・・禿木子及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。「不平不平」のことばを聞く。うれしき人也。」


一葉の馬場孤蝶への好意的評価。

一葉は、別のところでも、「こゝろうつくしきかな」と孤蝶を評している。一葉は孤蝶に「文学界」同人の中でも、文学的にも人間的にも、もっとも心を許すことのできる相手を見出していた。


馬場孤蝶:

本名勝弥。旧土佐藩士馬場來八の4男。自由民権運動家馬場辰猪(米国で客死)の弟。明治11年、父母と共に上京、本郷龍岡町に住む。長兄以下を失い「家」を背負う状況に陥る。神田淡路町の共立学校(一葉が淡路町時代に暮らした家の前にあった)では禿木や幸田成友と同級であった。明治学院では島崎藤村や戸川秋骨と同級であった。

卒業後、郷里の高知の共立中学校に英語の教師として赴任するが、藤村がその下宿先に訪ねて行って孤蝶を『文学界』同人に引き入れ、孤蝶は上京。本郷区龍岡町十五に住み、勉強のかたわら『文学界』の同人と交渉をもった。明治26年(1893)9月に日本中学に転職し、「酒匂川」など長編の新体詩や「流水日記」などを発表した。初めて一葉を訪ねたのは明治27年3月12日で、禿木と二人で下谷龍泉寺町を訪れた時であった。その後、明治28年9月彦根中学に赴任するまで、最も頻繁に丸山福山町を訪ねた一人であった。

東京を去ってからの孤蝶は、度々長文の手紙を一葉に書き送り、一葉も、孤蝶を思って次のような歌を詠む。

「ふる雨のはれせず物をおもふかな

     今日もひねもす友なしにして

よそにきく逢坂山ぞうらめしき

     われはくもゐのとほき隔てを」

3月13日

一葉、久佐賀を訪問。

14日、久佐賀に手紙を出し、物質的援助を請う。


「十三日 晴れ。真砂丁に久佐賀を訪ふ。日没帰宅。おくらいまだ帰らず。」

「十四日 田中君を訪ふ。かずよみせんとて也。夕べはがきを出したれど、行ちがひてかれよりも文を出したるよし。「今日は小石川師君と共に鍋島家に参賀の事あり」とて、支度中也。例之(れいの)龍子(三宅花圃)ぬしがー条、いよいよ二十五日発会と発表に成ぬ。されは右披露をかねて、鍋島家の恩顧をあほがん為、今日の結構はある也けり。田中ぬし出でさられし後、一人残りて暫時かずよみす。題は三十題成し。醜聞紛々。田中君の内情みゆる。」

鍋島直大の邸宅。夫人栄子とその令嬢たちが歌子に和歌の手ほどきを受けた。

田中さんが出て行かれた後一人残ってお弟子さんたちに暫く歌の数詠みの指導をする。題は三十題。みの子さんについての醜聞をあれこれと聞く。みの子さんの生活の内情が見えるようだった。

3月16日

マスネー、オペラ「タイース」、パリ・オペラ座で初演。

3月18日

一葉日記より。禿木より手紙。今月の「文学界」への寄稿は、なるべく多くの枚数を21日迄にとのこと、また馬場孤蝶からの伝言として、学校のことで忙しく落ち着いたら伺うとのこと。

3月20日

ハンガリーの革命家ラヨシュ・コシュート、トリノで没。

45年間亡命。ブダペストでは、宗教選択の自由、教会に依存しない結婚法を求める運動激化。4月2日、葬儀。民族大デモとなる。

3月23日

子規『一日物語』(『小日本』連載)。虚子が口述筆記。


「「月の都」に次いで居士は『一日物語』という小説を、三月二十三日から『小日本』に掲げはじめた。これは新聞に載せるため、新に稿を起したので、「月の都」の如く惨憺たる苦心の余に成ったものではない。「月の都」の文章は句々鍛錬の迹(あと)が著しく、『風流仏』的小説を書くことが一の目的になっていたという居士の言も、慥(たしか)に首肯し得るものであったが、『一日物語』は新聞に連載する必要に迫られて筆を執ったので、その筋の如きも進むに従って次第に変化して行ったのではないあと思われるところがある。当時学業を一擲(いってき)して上京していた虚子氏の記すところによれば、小説の執筆は大概夜牀(とこ)に入ってからであり、口授して虚子氏に筆記せしめたものであるという。忙しい新聞事業に携わっている居士としては、小説に思(おもい)を凝しているような時間を持合せなかったのであろう。」(柴田宵曲『評伝正岡子規』)

3月25日

半井桃水から一葉宛葉書。

一葉は下谷龍泉寺町の小店をたたんで、作家生活に戻ろうとした時、再び桃水を頼ろうとし、訪問について問い合わせ、桃水は「御出を御待ちすると返書する。


3月26日

一葉、転居費用調達と桃水訪問

父の代に多額の貸金が神田のかまぼこ屋遠州屋に50円の借金を申し込む(結果、15円が送られてくる)。

次に、母の許しを得て桃水を訪問。「うれしとも嬉し」と書くが、桃水は病床にあり、存分には話はできず。

翌27日、萩の舎に中島歌子を訪ね、月2円で助教をするよう依頼される。

28日、母は西村に借金を申し込む。

4月になって、西村釧之助から利子付きの借金50円を世話して貰う。


「二十六日 半井ぬしを訪ふ。「これよりいよいよ小説の事ひろく成してんのこゝろ構へあるに、此人の手あらば一しほしかるべし」と母君もの給へば也。年比(としごろ)のうき雲、唯家(いへ)のうちだけにはれて、此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し。まづふみを参らせて、在宅の有無を尋ねしに、「病気にて就褥中なれど、いとはせ給はずは」と返事あり。此日空(そら)もようよろしからざりしかど、あづさ弓いる矢の如き心の、などしばしもとゞまるべき。午後より出づ。君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(イヅク)にか残るべき。別れぬるほどより一月がほどもよき折なく、「なやみになやみて、かくは」といふ。哀れとも哀也。物がたりいとなやましげなるに、多くもなさでかへる。」

((三月)二十六日。半井桃水先生をお訪ねする。これからはますます小説のことに手広く取り組んで行こうとの心構えも決まったし、また、「この人の助けがあれば、一段と好都合になるだろう」

と母上も言って下さったからです。母卜のこの言葉で、ここ数年来心にかかっていた浮雲が、たとえ家族の中だけであってもすっきりと晴れて、表だってお訪ね出来るようになったことは、何とも言いようがないほど嬉しい。まずお手紙をさしあげてご在宅の有無をお尋ねすると、

「病気で寝ているが、それでよろしければおいでをお待ちしています」

とのご返事があったのです。

この日は空模様もよくなかったが、射る矢のように飛んで行きたい気持ちは、もうじっとしておれなかったのです。午後からでかける。桃水先生はひどく顔色も悪く痩せて、以前の面影はどこにも残っていませんでした。

「あなたとお別れしてからというものは、ひと月とても元気な時はなく、病気に苦しめられてこんな状態です」

とおっしゃる。本当にお気の毒に可哀相に思ったのでした。お話なさるのもひどくお苦しそうなので、多くもお話しないで帰る。)

「二十七日 小石川に師君を訪ふ。田辺君発会、昨日有べき筈之所、同君病気にてしばしのびたるよし。その序(ついで)に我上(わがうへヘ)をも、「いかで斯道(このみち)に尽したらんには」など語らる。「我が萩之舎の号をさながらゆづりて、我が死後の事を頼むべき人、門下の中に一人も有事(あること)なきに、君ならましかばと思ふ」など、いとよくの給ふ。ひたすら頼み聞え給ふに、これよりも思ひもうけたる事也、さりとはもらさねど、さまざまに語りてかへる。」

(二十七日。萩の合に中島先生をお訪ねする。三宅花圃さんの発会披露の歌会が昨日の筈であったが、本人の病気でしばらく延びたとのこと。その序に私にも歌道に励んではどうかなどと話される。

「私のこの『萩の舎』の号をそのまま譲って、私のなき後のことを頼むことが出来るような人は、今の門下の中には一人もいないので、もしあなたが引き受けてくれたらね」

などと都合のよいことをおっしゃる。熱心にしきりにこのことをおっしゃるにつけても、かねて私も想像していた事ではあるのですが、そのことは口にも出さず、色々と他の話に紛らして帰る。)


「二十八日 母君、音羽町佐藤梅吉に金策たのみに行。むづかしげ也しかは、帰路(かへり)、西村に立よりて、我(わが)中島の方へ再度(ふたたび)行べきよしを物がたりて、金策たのむ。「直(すぐ)にはむづかしげにみえし」とか聞しが、母君帰宅直に、車を飛して釧之助来訪、金子の員(かず)を問ふ。その親などにはゞかれば成べし。」

(二十八日。母上は音羽町の佐藤梅吉氏に金策を頼みに行かれる。むずかしそうだったので、帰りに西村の所に寄って、私が萩の合に再び戻るようになった事を話して金策を頼まれる。すぐにはむずかしそうに思われたということでしたが、母上の帰宅後、すぐに、車を飛ばして釧之助氏が来られて金額のことを尋ねなさる。これは自宅では母親に気がねなきったからでしょうか。)

3月27日

陸奥外相の青木駐英公使宛私信。国内情勢切迫し、これを沈静化させるためにには「何か人目を驚かす事業」をする必要あり、「唯一のめあては条約改正」と述べる。

「内国ノ形勢ハ日又一日ト切迫」して、「政府ハ到底何力人目ヲ駕カシ候程ノ事業ヲ成敗ニ拘ハラズ為シツツアル事ヲ明言スルニアラザレパ、此騒擾ノ人心ヲ挽回スべカヲズ」と強調し、「内政ノ関係ヨリ強テ外交ノ成効ヲ促シ候ハ、稍本末未相違ノ嫌ナキニシモアヲザレドモ、時勢ガ時勢故実ニ不得己ノ次第」と指摘し、「故モナキニ警ヲ起ス訳ニモ不参候事故、唯一ノ昆ハ条約改正ノ一事ナリ」と結論し、「最早ペンベント永引候事ヲ容レザルノ形勢」である述べる。だが、ショウ事件で不利な地位に立つ日本は、露仏と協同して東洋でのイギリスの地位を孤立させる事はしないとの「ポリチカールコンセッション」を与える。イギリスは満足し、改正交渉はここから軌道にのる。


つづく

2024年4月15日月曜日

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典

 

楊斎延一 作「銀婚式大典之御儀式」

大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)  より続く

1894(明治27)年

3月

子規、挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。


「不折と『ホトトギス』との、さらには彼が『吾輩は猫である』の挿絵画家となる縁は、すべてここに始まる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

3月

松山で野間叟柳ら松風会を結成。

3月

この頃、漱石は菅虎雄に付き添って貰って北里柴三郎のもとを訪ねている。この頃、漱石は神経衰弱で憔悴しているうえに血を吐いた。漱石は結核ではないかと心配した。結核は兄2人の命を奪った難病であり、いつ自分も襲われるかもしれない恐怖を抱いた。


学生時代のことであるが、或る時夏目君がどうも自分は胸が悪いのぢやないかと心配だから北里柴三郎氏に診て貰ひたいと思ふが一人で行くのは何だから君一緒に行つてくれないかとのことで、当時北里氏は多分芝山内に居られたと思ふが、その北里氏のところへ一緒に行つたことがある。その時の診断は胸の方は一向別状はないとのことであつたが、今から想像すると実は胸の病気ではなくて胃潰瘍でも悪くてそのため血でも吐かれそれを考へ違ひされて心配されたのではないかとも思ふ。尚京都へ来て一緒に叡山へ登つた時も途中で胃が痛み出し、しばらく休んでから峠の茶屋で湯を呑んで直つたこともあつたが、胃潰瘍は単に晩年に始まったものでなく、ずつと以前学生時代から悪かつたのではないかと考へられるのである。

(「夏目君の書簡」 『漱石全集』月報、第7号、昭和3年9月)

3月

人民党ジェイコブ・コクシー、ワシントンへ向けて失業者行進組織。失業救済を求めオハイオ出発。延べ参加者10万人。5月1日、先陣400人、ワシントン到着。弾圧。

3月

トーマス・マン(18)、故郷リューベックで学校を中退、母弟妹が移り住んだミュンヘンに行く。

3月

ワルシャワ、王国ポーランド社会民主党第1回党大会。非合法。

3月1日

第3回臨時衆議院議員選挙。

自由党、81→119人と躍進。石阪昌孝当選(3回目)。先に議員除名された星亨(栃木1区)、死傷者を出す選挙戦に勝ち、帰り咲く。

民党:自由党119・改進党48・計167(過半数上回る)。吏党:立憲革新党37・国民協会26・無所属70・計133。

対外硬派の国民協会は66→26人に激減するが、対外硬派全体は尚130名を擁する。

3月1日

一葉日記より


三月一日 『文学界』十四号来る。・・・

(「花ごもり」其1~其4、『文学界』第14号に掲載)


二日 曇り。かしらなやましくて終日(ひねもす)打ふす。夕刻、号外来る。衆議員当撰者の報(しらせ)なり。

(三月一日に行なわれた衆議院議員臨時総選挙の開票速報。)


3月5日

英、第4次グラッドストン内閣崩壊。第2次アイルランド自治法不成立原因

3月6日

高野房太郎(25)、米労働総同盟サミュエル・ゴンパース会長に手紙を書く。以後、数回の往復書簡。

3月9日

日本初の記念切手、発行(天皇成婚25年)。

3月9日

明治天皇大婚二十五年祝典の日。小雨の中を市中はお祭り気分でにぎわう。柳橋の料理屋・船宿・芸妓連中は、大川に数十艘の伝馬船を浮べ、力持にその上で軽業を披路させ、終日花火を打ち上げた。鉄道馬車会社は一輌の馬車を青葉で飾って両面に菊の紋章をつけ、銀で「奉祝銀婚」という四つの文字をあらわし、屋根には大小の国旗をなびかせ、車中では市中音楽隊の奏楽を行い、二頭の白馬にひかせて新橋・浅草間を往復した。下町一帯の大きな商店も、趣向をこらした飾りつけをきそった。二重橋前では午前に百一発の祝砲がはなたれ、夜は「奉祝万歳」の仕掛け花火があげられた。

漱石はといえば、心身ともに衰弱し、市中のお祭りさわざをよそに、大学の寄宿舎にほど近い上野池ノ端をひとりで雨に打たれながら散歩した。


「実は去る二月初め風邪にかゝり候処其後の経過よろしからず、いたく咽喉を痛め、夫より細き絹糸の如き血少々痰に混じて喀出仕り候故、従来の○○と○○と両方へ転んでも外れさうのなき小生故、直ちに医師の診察を受け候処、只今の処にては心配する程の事はなく、・・・・・。尤も人間は此世に出づるよりして日々死出の用意を致す者なれば、別に喀血して即席に死んだとて驚く事もなけれど、先づ二つとなき命故使へる丈使ふが徳用と心得、医師の忠告を容れ精々摂生致居候。

何となう死に来た世の惜まるゝ」(明治27年3月9日付山口県山口高等中学校菊池謙二郎宛)

3月9日

一葉日記より

九日 雨。今日は銀こんの大典也。都市府県をしなべて、こゝろごゝろの祝意を表するに狂するが如しとか聞しが、折あしき雨にて、さのみはにぎはしからぬやにきく。・・・此夕べ、樋口くら来る。


(明治天皇・皇后の大婚二十五年の祝典。則義の弟喜作の次女。長男幸作を丸茂文良の経営する下谷区上野桜木町の丸茂病院に入院させるため、相談に上京していた。)

3月10日

金玉均ら(和田延次郎、刺客洪鐘宇が同行)、東京発。26日神戸発


つづく


2024年4月14日日曜日

大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)  

 

樋口一葉(羽石光志画)

大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号) より続く

1894(明治27)年

3月

行き詰った一葉(22)の心の内。

感想「いはでもの記」(塵之中日記(ちりのなかにつき)、表書年月「二十七年三月」。署名「樋口夏子」。)。日付のない感想文。当時の逼迫した生活の苦しみが感じられる。

「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。すめる家は追はれなんとす。食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。かくていかさまにならんとすらん。死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か」

(したいと思うことはなかなか捨てきれるものではないが、我が身は力なく弱い者だから、捨ててしまうより他はない。世間の人には同情心もないし、私にはお金もないので、この世に生きる手段は何もない。今住んでいる家も追われようとしている。食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆を執って物を書こうとしてもいつの間にか眠ってしまう日が多い。こんな調子では一体どうなるのだろうか。のたれ死にの果ては犬の餌食となってしまい、空しい名前を野にさらすことになるのだろう。千年の後、万年の後のために、私がこの世に生きていたしるしとして何を残すことが出来ると言えるのだろうか。岡辺の松風の音が恨むように悲しく聞こえてくるのは、私と同じ悲しみを持った人のなれの果ての声なのだろうか。何とも俺しい限りです。)


「日々にうつり行(ゆく)こゝろの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭(こたん)の水の月をうかペるごとならんとすらん。愚かなるこゝろのならひ、時にしたがひことに移りて、かなしきは一筋にかなしく、をかしきは一筋にをかしく、こしかたをわすれ行末をもおもはで、身をふるまふらんこそ、うたても有けれ。

こゝろはいたづらに雲井(くもい)にまでのぼりて、おもふ事はきよくいさざよく、人はおそるらむ死といふことをも、唯(ただ)嵐の前の塵とあきらめて、山桜ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず、唯此死といふ事をかけて、浮世を月花(つきはな)におくらんとす。


(日々に移り行く心は、一体いつになったら本当の悟りを得て、水に澄む月のような心境になれるのでしょうか。愚かな私の心は時の流れとともに移り変わり、何か事あるたびに揺れ動いて、悲しい時はただもう悲しいばかり、おかしい時はただもうおかしいばかりで、過去を忘れ未来を思わず、その場限りの生き方をしているのは、本当に情けない思いです。

心は雲の上まで高く登り、清くいさざよい事ばかりを考え、人の恐れる死というものも塵のようにはかないものとあきらめて、山桜が散るようにやがて死ぬのは道理だと思えば、嵐もそれ程恐ろしいこともない。このように死ということを覚悟した上で、浮世を風流に楽しく生きて行こうと思うのです。)

「ひとへにおもへば、其(その)いにしへのかしこき人々も、此願ひにほかならじ。さる物から、おもふまゝを行なひておもひのまゝに世を経んとするは、大凡(おほよそ)人の願ふ処なめれど、さも成がたきことなれば、人々身を屈し、ことをはゞかりて、心は悟らんとしつゝ、身は迷ひのうちに終るらんよ。あはれはかなしやな。虚無のうきよに君もなし、臣もなし。君といふ、そもそも偽(いつわり)也、臣といふも、又偽也。いつはりといヘども、これありてはじめて人道さだまる。・・・」


(よく考えてみると、昔の賢人たちもこのことを願っていたのでしょう。そうは言っても、思うままを行って思うままに暮らそうとするのは誰でも願うところですが、そうも出来ないので、大方の人は自分の考えを曲げて遠慮し、心では悟ろうと努力しながらも現実には迷いのなかに一生を終わるようです。本当にはかない事です。この虚無の人生には君とか臣とかの区別はないのです。君といっても仮のものです。臣というのも仮のものです。しかし仮のものとは言っても、現実にはこれがあって、人の生きる道がきまっているのです。

(このように無の中に有が生じ、一つの道がはっきりとなってくるので、この人間世界で何かをしようとする者は、必ずこの人道に頼らねばならないのです。天地を心のうちに呑み込み、有も無も手のうちに納めたとしても、実行されない誠は、人は見ようと思っても見ることは出来ない。自分だけは清らかであっても、それを感じるのは人の心であって耳ではないから、放言高論しても何の甲斐もない。))


(世には文章家という者がいて、美辞麗句をつらねたり、和歌俳句を上手に作る者がいる。また弁士といって悲歌憤慨の強い言葉をつらねて一時の感動を与える者もいる。しかしこれらは人形使いが人形を操って人の目を楽しませるようなもので、ただ一時的な喜びにしかすぎない。一時的な感動はやがて消えてしまうものです。一代にわたりさらに百代にまで残るようなことをと願っても、それは自分自身の問題であって人の問題ではない。従って自分が清潔だからといって他人をけなすのはまあよいが、人のことを批判するばかりで自分の誠を示そうとしないのはよくない。まして国政をそしり、大臣をけなし、大家や知名士の非を指摘し非難しても、相手は著名人でもありこちらは一小批評家にすぎないのだから、何の役にも立たない。心には天地の誠を抱いていたとしても、身は一生涯気違いということで終わってしまえば、人に対しても社会に対しても何の効果もないことになってしまうでしょう。これでは清らかな人生と汚れた人生と、どちらが優れていると言えるのでしょうか。だから昔の賢人たちは心の誠を第一として現実の人の世に生きる務めを励んできたのです。)


(務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一句が世のため人のためになるものです。それが滾々(こんこん)として流れ広まり、濁を清に変え、人生の価値判断の基準となるのです。自分一身の欲を捨て楽しみを捨てて初めて自分の思うままの人生を生きて行けるのです。花も実も初めから得ようとすると、とても得られるものではないと書き残した人もあるのです。机上の理論ももちろん虚ではない。しかしそれが実行にまで熟さなければ実とは言えない。理論家には実行が伴わず、実行家には言葉がない。言葉が無いとはいっても行いの結果ははっきりと現れているのです。)


「・・・四時(しいじ)の順環(じゆんくわん)、日月(にちげつ)の出入(でいり)、うきよはひとりゆかず、天地はひとり存せず。地に花あり、天に月あり。香(か)は空(くう)にして、色は目にうつる。あれも少(せう)とし難く、これも大とはいひ難し。されば、人世(じんせい)に事を行はんもの、かぎりなき空(くう)をつゝんで、限りある実(じつ)をつとめざるべからず。・・・」


((しかし、その行いを百代の後に残しても、結局は虚であり、無なのです。天地の誠はこの虚無意外にはないのですが、人生の誠は道徳仁義であって、それ以外にはないのです、こちらを尊んであちらを棄てるのは愚かであり、あちらを取ってこちらに背くのもよいとはいえない。虚は空であり、実は実存です。無は裏であり有は表です。)

季節の巡りや日月の出入りを見てもわかるように、人生も天地も、それだけが勝手に動いているのではない。地には花があり天には月がある。花の香りは空に流れ、月の色は目に映る。そこには大小の差はない。だから人生で何かを行おうとする者は無限の空を内に抱いて、有限の実を行うのです。

(一時の勇気にはやるのは決して本当の勇気とはいえない。一人で一人の敵を打ち殺したといっても全軍にどれほどの効果があるといえるのでしょうか。一人で十人の敵を打っても十分とはいえない。一人で万人の敵に当たるのがあの孫子呉子の兵法です。奇も正もその兵法の中にあるのです。その変化運用の妙味は天地を包んでしかも天地の法則からはなれていない。これを知ることの出来る者は偉大な傑人となり、知ることの出来ない者は名もない狂人となる。だから法は奇であって濁ではない。清流は昔から今に至るまで一貫して流れている。思えば聖者の行いが水の流れのようにとどこおるところがないのは、まことに羨ましい限りです。

一首の歌に托してみました。))

3月初め(下旬?)

一葉、廃業決意の心境。塵中(ちりのなか)につ記。表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」。

「わがこゝろざしは国家の大本にあり」。憂国の志士のような高唱。

日清戦争前夜の日本は国家的な危機感に包まれていた。一葉もその危機感から自分が和歌の改革に挺身する決意を、危ぶまれる国家の根本の建て直しのために働くのだと述べて、明治27年3月初めの「塵中につ記」に記す。

近代的自我意識に立ち、踏みにじられる者の怒りをこめ、社会のあり方に不信をつきつける、毅然とした姿勢を示す。


「国子はものにたえしのぶの気象とはし。この分厘にいたくあきたる比(ころ)とて、前後の慮(おもんばかり)なく、「やめにせばや」とひたすらすゝむ。母君も、「かく塵の中にうごめき居らんよりは、小さしといヘビも門構への家に入り、やはらかき衣類(きもの)にてもかさねまほしき」が願ひなり。されば、わがもとのこゝろはしるやしらずや、両人(ふたり)ともにすゝむる事せつ也。されども、年比(としごろ)うり尽し、かり尽しぬる後の事とて、此みせをとぢぬるのち、何方(どこ)より一銭の入金(にうきん)もあるまじきをおもへば、こゝに思慮はめぐらさゞるペからず。さらばとて、運動の方法(てだて)をさだむ。まづかぢ町なる遠銀(鍛冶町の遠州屋石川銀次郎)に金子(きんす)五十円の調達を申しこむ。こは、父君存生(ぞんじよう)の比(ころ)より、つねに二、三百の金はかし置たる人なる上、しかも商法(しやうはう)手びろく、おもてを売る人にさへあれば、「はじめてのことゝて、つれなくはよも」と、かゝりし也。此金額多からずといヘども、行先(ゆくさき)をあやぶむ人は、俄にも決しかねて、「来月、花の成行にて」といふ。


(邦子は辛抱する気性が乏しい。この一銭一厘の僅かの利益の商売にはすっかり飽きはてたといって、前後のこともよく考えずに店を閉じることばかりをしきりに勧める。母上もこんな塵の中の世界に埋もれているよりは、小さくとも門構えの家に住み、柔らかな衣服を身につけて生活したいのが願いでしょう。だから、私の本心を知っているのか知らないのか、二人とも熱心に店を閉じようという。しかしここ数年来家の衣類家財は殆ど売り尽くし、お金も借り尽くしてしまった後のことなので、店を閉じた後は一銭の収入もないことを思うと、ここは十分考えねばならない。そこで皆でその対策の方法を考える。まず鍛冶町の遠州屋石川銀次郎氏に金五十円の調達を申し込む。これは父上の存命中の頃からいつも二、三百円のお金は貸しておいた人であり、商売も手広く、また顔役の人でもあり、これまでは貸金を取り立に行ったことはあっても、こちらから借金を申し込むのは初めてのことなので、すげない返事はまさかあるまいと思って申し込んだのです。この金額はそれ程多くはないといっても、先のことを心配する人としては急にも決定しかねて、来月花の頃の商売の成りゆきを見た上で決めようということになった。)

「おもひたつことあり、うたふらく、

      すきかへす人こそなけれ敷島の

        うたのあらす田(だ)あれにしを

いでや、あれにしは敷島のうた斗(ばかり)か。道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かひなき女子(おなご)の何事を思ひ立(たち)たりとも及ぶまじきを知れど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。かすか成(なり)といヘども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生(ししやう)いとはず天地の法(のり)にしたがひて働かんとする時、大丈夫(ますらを)も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本(おほもと)にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期(ご)す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘(ふんりん、僅かな利益)のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。


(*「しき島の歌のあらす田荒にけりあらすきかへせ歌の荒樔田」(香川景樹)。)

(・・・荒れてしまったのはこの和歌の道ばかりではない。道徳はすたれ、人情は紙のように薄くなり、政治家も一般の人も私利私欲ばかりを追及し、国家の発展を考える者もなく、世の中はどうなるのでしょうか。力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないことは分かってはいるが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えない者ではない。たとえ僅かでも人間の心を持っている者が、生涯の情熱をそそいで、死をもいとわず、天地の法則に従って働こうとする時、賢人であろうと愚者であろうと、また男であろうと女であろうと何の区別があるでしょうか。この私を笑いたいものは笑い、謗りたいものは謗るがよい。私の心は既に天地自然と一体になっており、私の志は国家の大本にあるのです。力及ばず倒れ、私の屍は野に棄てられ痩犬の餌食となっても、それは望むところです。どんな努力をし苦労をしたからといってその報酬を求めているのではないので、私の進む道は前後左右に広々としているのです。だから今のような僅かの利益を求めて争う商いの道にこの身を束縛しておくべきではないのである。その時その時の処世の術は風の前の塵のように変わるものです。何も心配することはないと考えて、この商売の店を閉じょうと決心したのです。)


透谷の影響と共感

一葉は、『女学雑誌』『文学界』を読んで、北村透谷の「人生に相捗るとは何の謂ぞ」(『文学界』明治26・2)、「内部生命論」(同5)などの詩や評論を読んでいたと思われる。

透谷は、精神の道義を失った「今の時代に沈厳高調なる詩歌なき」ことを嘆き

「噫詩人よ詩人たらんとするものよ、汝等は不幸にして今の時代に生れたり、汝の雄大なる舌は陋小なる箱庭の中にありて鳴らさゞるべからず。汝の運命はこの箱庭の中にありて能く講じ能く歌ひ能く罵り能く笑ふに過ぎざるのみ。汝は須(すべか)らく十七文字を以て甘んずべし、能く軽口を言ひ、能く頓智を出すを満足すべし。汝は須らく三十一文字を以て甘んずべし、雪月花をくりかへすを以て満足すべし、にえきらぬ恋歌を歌ふを以て満足すべし」(評論「漫罵」(明治26・5))

と伝統に甘んじる和歌、俳句などの「詩人」を批判。

一葉は、この詩人批判を共感をもって読んだと思われる。一葉は既に、「心をあらひめをぬぐひて誠の天地を見出んことこそ筆とるものゝ本意なれ、いさゝかの井のうちにひそまりて、これより外に世はなしとさとりがほなるを人より見んにいか斗(ばかり)をかしからぬ」(「よもぎふにつ記」明26・2・9)と、歌人の閉鎖的、旧套的姿勢を批判している。


つづく


2024年4月13日土曜日

大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号) 


 大杉栄とその時代年表(98) 1894(明治27)年2月14日~25日 朝鮮で古阜民乱 商売は行き詰まった一葉の捨て身の行動(久佐賀義孝から援助を引き出す工作) 「「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」 より続く

1894(明治27)年

2月26日

一葉日記より。

星野天知来訪。「文学界」第14号(「花ごろも」其一~其四掲載)の原稿料持参。社(女学雑誌社)が今月から三ノ輪に移転したとのこと。車を待たせていたのですぐに帰る。

2月27日

一葉、歌塾「梅の舎」を開いている田中みの子を訪問。中島歌子に対し批判を抱き対立を深めているみの子と、折から訪ねてきた伊東延子(夏子の母)と共に、花圃と広子の家門についての憤懣をぶつけ、歌子を批判。

みの子の歌子批判。


「談は中島の師が上なり。品行日々にみだれて吝(ケチ)いよいよ甚敷(はなはだしく)、歌道に尽すこゝろは塵ほども見えざるに、弟子のふえなんことをこれ求めて、我れ身しりぞきてより新来の弟子二十人にあまりぬ。よめる歌はと問へば、こぞの稽古納めに歌合(うたあわせ)したる十中の八九は手にはとゝのはず、語格みだれて歌といふべき風情はなし。」


みの子の批判は、歌塾を開く田辺花圃、鳥尾広子にも向けられる。


「「かゝるが中にこの有様を知りつくしたる龍子(たつこ、三宅花圃)ぬしが、これに身を投じて家門を開かんとすと聞こそ、おぼろげのかんがへにはあらざるべし。秋の紅葉のさかりは今一時(イツトキ)なる師が袖にすがりて、我世の春をむかへんとするの結構、此間(このあひだ)にかならずあるべし。鳥尾ぬしがことはもとより論ずるにたらず。師が甘(うま)きロに酔ひて、我が才学のほどをもおもはず、うきよに笑ひ草の種やまくらん。すべて、てんでんがたきの世」とかたる。」

花圃が家門を開くのは、歌子の衰えを承知のうえで、今のうちに歌子にすがって「我世の春をむかへんとする」のであり、広子は「師が甘き口に酔ひて、我が才学のほどをもおもはず、うきよに笑ひ草の種やまくらん」とも言う。


一葉はみの子を励ます。


「いでさらば、何事をも言ほじ、おもはじ。我はもとよりうきよに捨て物の一身を、何のしわざにか欺くべき。田中ぬしはしからず。なまなかあらはし初(そめ)たる名を末弟(ばつてい)におされて、朝(あした)の霜の、此まゝに消なんはいかにロをしからずや。師に情なく、友に信なくとも、何か又そは厭(いと)ふにたらず。念とする所は君が手腕(てなみ)のみ。うきよは三日みぬ間の桜なれば、君もむかしの君ならで、歌学大(おほい)にあがり給ひしか知らねど、我が知りたるまゝならば、此世はとまれ、天下後代に残してそしりなきほどの詠(えい)あるべしとも覚えず。いかで万障をなげうちて、歌道に心を尽し給はずや。我れもこれより君が為に、およぶ限りの相手にはなるべし。かずよみをもなし、各判をもなし、論議弁難もろ共にみがゝでやは。我は今まで、小商人(こあきんど)の歌よむことをもなさゞりしかど、君は常におこたりなくつとめ居たまひしに相違あるまじ。まが玉をみがくに他山の石を以てすとか。一人にてはいかでか」とすゝむ。」


一葉は、「我はもとよりうきよに捨て物の一身」と言い、みの子に「歌道に心を尽」すよう励まし、これからは歌のお相手をすると約束する。


「此人もとより汚濁の外に立ちて、すみ渡りたるこゝろならぬはしれど、おもて清くしてうらにけがれをかくす龍子などのにくゝいやしきに、よしけがれはけがれとして、多数(あまた)のすてたる此人に、せめては歌道にすすむ方(かた)だけをはげまさんとて也。」

(この人(田中みの子)が元来汚濁の外にいてすっかり澄み切った心でないことは知っているが、表面は清浄で裏面に汚れを隠している龍子(田辺=三宅)などが憎らしく卑劣なのに対して、たとえ汚れは汚れとしても、多くの人が見放したこの人に、せめて歌道の方面に進むことだけは励ましてやりたいのである。)


文壇と接触するのにあれほど世話になった田辺(三宅)龍子に対し、かく悪しざまの評言をするのは如何であろうか。また田中みの子に対する煽動にも、策謀の匂いがする。


しかしその後、3月、一葉がみの子を訪ねると、みの子は、花圃の家門の発表、披露について「鍋島家の恩顧をあほがん為」、歌子と共に鍋島侯爵邸へ「参賀」の仕度中であった。「醜聞紛々、田中君の内情みゆる」と一葉は書く。

しかし、一葉も3月未、歌子から「我が此萩の舎は則ち君の物なれば」と云われ、萩の舎で働くよう迫られ、「此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば」と言い、歌子の申し出を承諾し、萩の舎の助教となる。

2月28日

一葉「花ごもり」其1~其4、『文学界』第14号に掲載

4月30日発行第16号に「花ごもり」其5~其7を発表。

久佐賀から手紙。一葉の精神に感激し、今後親しくしてもらえたら本望であるとのこと。臥龍梅への梅見の誘い。中味も字もよくないが、世に出るほどの人物ではある。下心を察し、梅見は断るが、また教えを乞いに参上すると返事。


「花ごもり」(青空文庫)

主人公瀬川与之助が、幼馴染で従妹のお新との結婚を意識しながらも、母お近の説得により、某省次官田原の令嬢との縁談を承知し、お新は恋の面影を胸に与之助のもとを去るというもの。

題名の『花ごもり』は、一葉の造語で由来は明らかではない。

お新が与之助と別れて田舎へ住むことを決意する「花の中にこもっていく美しさと平和」や「恋をあきらめ田舎にひきこもろうとするお新の生き方」が題名になっていると思われる。

2月下旬または3月上旬(日不詳) 

漱石、商等師範学校長嘉納治五郎から命じられた尋常中学校英語教授法方案取調べようやく完了し、提出する。


つづく

2024年4月12日金曜日

大杉栄とその時代年表(98) 1894(明治27)年2月14日~25日 朝鮮で古阜民乱 商売は行き詰まった一葉の捨て身の行動(久佐賀義孝から援助を引き出す工作) 「「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」  

 


大杉栄とその時代年表(97) 1894(明治27)年2月1日~11日 子規、終の住処「子規庵」へ転居 一葉(22)の年始廻り 絵入り新聞『小日本』創刊(編集主任子規) 子規の月給は30円に上がる 不評だった小説「月の都」掲載 より続く

1894(明治27)年

2月14日

朝鮮駐在公使大鳥圭介、朝鮮の近況を報告。革命を企図する者多いが、日清協力して朝鮮内政改革を実行し革命を抑止するという意見。

2月15日

朝鮮、古阜民乱。

全羅道古阜郡で郡主趙秉甲に対する全琫準・鄭益瑞・金道三指導農民4千反乱、郡庁占拠、獄舎解放、税米取り戻し、武器奪取。

25日、左議政趙秉世の改善約束を信じ、全琫準は郡庁占拠解除、解散指示。

しかし、政府は約束を守らず、東学の仕業と看做し弾圧。政府軍出動し、東学の男達を逮捕、信徒の財産略奪、抵抗すると焼き払う。

全琫準:

接主(中堅リーダ)。古阜出身。古阜官吏の父は百姓一揆を指導して刑死。1890年第2世崔時亨門下に入り、反乱指導、斥洋斥倭運動、閔氏一族の勢道政治弾劾運動に活躍。

2月17日

一葉日記より


二月十七日 平田君より状(ふみ)来る。『文学界』の投稿うながし来る也。ほし野君よりも、おなじことにて状来る。

十八日、十九日、執筆いそがし。小説「花ごもり」四回分二十枚計(ばかり)なる。

二十日 清書(きよがき)。午後(ひるすぎ)、平田君にむけ出(いだ)す。

(「花ごもり」其1~其4、脱稿し、平田に届ける。)

二十二日 かみあらひ。


2月23日

商売は行き詰まった一葉、捨て身の行動に出る。

本郷真砂町の一種の山師天啓顕真術会の観相家久佐賀義孝(30)を相手に偽名秋月を使って近づき、「すでに浮世に望みは絶えぬ、此身ありて何にかはせん、いとをしとをしむは親の為のみ。さらば一身をいけにゑにして運を一時のあやふきにかけ相場といふこと為して見ばや」と千円もの大金を引き出そうと試みる。対して、久佐賀は金は出すから妾になることを要求。

5月、一家は10ヶ月出した荒物屋を閉じ、本郷の丸山福山町へ転居するが、一方で尚も、「交わりの情を以て」月15円の補助をすると言い寄る久佐賀を相手に、交際抜きの援助の申込みを続ける。際どい手紙のやり取りは1年近くにも及び、日記の空白期間とも重なる

この頃、一葉最大の危機か?

2月11日付『東京朝日新間」に載った天啓顕真術会の広告を見て相場を教えてもらおうと思いつき、23日本郷真砂町に久佐賀義孝を訪ねる。広告では、易学の一種の観相によって、身上の吉凶を占い、商売の勝利術指南、相場などの予言、病気の鑑定をするという。「受鑑諸君より受納せし礼状実に山の如く」ともいうが、久佐賀は、禅、漢学、易経を修めた世間に知られる人物。


「久佐賀はまさご丁(チヨウ)に居して天啓顕真術をもて世に高名なる人なり。うきよに捨ものゝ一身を何処の流にか投げこむべき。学あり力あり金力ある人によりて、おもしろくをかしくさわやかにいさましく、世のあら波をこぎ渡らんとて、もとより見も知らざる人のちかづきにとて、引合せする人もなければ、我よりこれを訪はんとて也」(同、明27・2・23)

(浮世に世捨人ともいえるこの体を、どこの流れに投げ込んだらよいのか。学問もあり力もあり金力もある人によって、面白おかしく、きれいに、勇ましく世の荒波を漕ぎ渡ろうとして、もちろん見ず知らずの人と近づきになろうとしても、紹介してくれる人もないから、自分からこの人を訪問しょうとするのである。)

久佐賀は元治元年(1864)熊本城下に生れ、禅・易学を修めた後、朝鮮に渡り、季節学を研究し、清・インド・アメリカ合衆国を研修旅行して明治19年に帰国、本郷で天啓顕真術会を創設した。本部は本郷区真砂町32にあった。

顕算術による鑑定。

『東京朝日新聞』2月11日付の広告には、「顕真術は天地四季の活動変化妙用法に拠て物体物質に関係ある系線引力の盛衰気候正変数理の出没等よりして人体幽明の事柄は勿論筍も宇宙万物有機上凡て最初の起因を求め未然の結果過去の状況現在の如何を瞭然火を見る如く顕真する一大奇術」とある。

新聞に、全国にわたる久佐賀の会員のおびただしい数が宣伝されていた。遠山景澄著「京浜実業家名鑑』(明40・12刊)に「君亦予言に妙なり人身の吉凶相場の高低一として適中せざるはなし世人以て神となす」とある。


「我れはまことに窮鳥の飛入るべきふところなくして、宇宙の間にさまよふ身に侍る。あはれ広き御むねは、うちにやどるべきとまり木もや。聞たまへ、先生。うきよの人に情はなかりけるものを、わがこゝろよりつくり出てたのもしき人とたのみ、にごれるよをも清める物とおもひて、我れにあざむかれてこゝに誠を尽しにき。・・・今は下谷の片ほとりに、あきなひといふもふさはしかるまじきいさゝか成る小店を出して、ここを一身のとまりと定むれど、なぞやうきよの苦しみのかくて免(ノ)がるべきに非らず。老たる母に朝四暮三のはかなきものさへすゝめ難くて、我がはらからの佗び合へるはこれのみ。すでに浮世に望みは絶えぬ。此身ありて何にかはせん。いとをしとをしむは親の為のみ。さらば一身をいけにゑにして、運を一時のあやふきにかけ、相場といふこと為して見ばや。されども貧者一銭の余裕(ユトリ)なくして、我が力にて我がことを為すに難く、おもひつきたるは先生のもと也。窮鳥ふところに入たる時ばかり人もとらずとかや。天地(アメツチ)のことはりをあきらめて広く慈善の心をもて万人の痛苦をいやし給はんの御本願に思(オボ)し当ることあらば教へ給へ。いかにや先生、物ぐるはしきこゝろのもと末(スエ)、御むねの内に入たりやいかに。」(「日記ちりの中」明27・2・23)

相場をしたいが金がないので助けてほしいというが、多分、一葉は本気で相場をやりたいのではなく、この事業家から、生活打開の智恵を得るか、或は生活費を引き出せないかと考えたのであろう。


「我が一生は破れ破れて、道端にふす乞食(かたゐ)の末こそは、終生の願ひ成けれ。さもあらばあれ、其乞食にいたるまでの道中をつくらんとて、朝夕もだゆる也。つひに破るべき一生を、月に成てかけ、花に成て散らばやの願ひ。破れを願ふほかに、やぶれはあるまじやは。要する処は好死処(よきしにどころ)の得まほしきぞかし。」との大胆さを見せる一葉。

久佐賀は「秋月」と名乗る一葉の申し出を慰留し、相場はやめるべきと言い、「あらゆる望みを胸中よりさりて終生の願ひを安心立命にかけたるぞよき」と諭し、「自然の誠にむかひて物いはぬ月花とかたる世界、即ち文学の道に進むことを勧める。

帰宅後久佐賀に出そうとした一葉の手紙の下書には、「にごりににごれる世の中をいとひて清き一生を送らんとする身に災厄しばしば来り厄難度々のぞみて人しらぬ苦るしみにこゝろを痛めつゝ猶此よを捨てもはてぬは或る大きなる望につながるればに御坐候を我天性の小さくかすかに小溝の中に育ちて汚れのうちに死するうぢむしと同じかるべしとはさても情なき生れに御座候はずや」と訴えている。

その後、久佐賀とのかかわりは、卑俗な展開をみせる。

最初の訪問の5日後、一葉の礼状に対し、久佐賀からは、一葉との交際を望み、梅見の誘いが来る。

一葉は、「貧者余裕なくして閑雅の天地に自然の趣きをさぐるによしなく」と断り、「梅見の同行は、かれに趣向あるべし。我れは彼が手中に入るべからずとほゝ笑みて返事したゝむ」と日記に記す。

しかし一葉は、その後も久佐賀とは1年ほど交際を続け、久佐賀は一葉を料亭に誘ったり、6月には、「貴女の身体は小生に御任せ被下(クダサル)積りなるや否や」と妾にならないかと申し出たりする。

一葉は久佐賀の誘いや要求に対し、言葉巧みに身をかわしている。

一葉は、久佐賀にそれまでの自分をとりまいていた男性とは異質のタイプの男性像を見続けたことになり、その後の作品の上に幅と深みを増す一因となっている。

久佐賀との関係の中で「男」と「女」の関係を収穫として、その後の作品「暗夜」「たけくらべ」「にごりえ」の女性像が豊かになっていると言われている。

折から田遽花圃が歌門を開くと聞かされていた一葉は、中嶋歌子と相談の結果、田中みの子と二人で助教(非常勤講師)として師の稽古を助けることになり、3月から萩の舎に復帰した。

2月25日

一葉のもとい平田禿木が来訪。三宅花圃と鳥尾広子が家門を開くことが、『女学雑誌』に紹介されていたという。花圃のことは、歌子からも聞いていたが、広子(華族、貴族院議員、陸軍中将鳥尾小弥太の娘)もまた開くという。


「二月二十五日 西村君来訪、午後まではなす。平田君来訪されたるより、前者はかへる。例(いつも)のせまやかなる部屋の内に物がたること多し。五時まで遊ぶ。「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」


『女学雑誌』第365号(明27・2・3刊)に掲載された「田辺花圃女史」。「歌人中島うた子の高門弟たる田辺花圃女史は、師のすゝめにより、鳥尾子の令嬢と力を合せて此度び新たに歌門を開かる」とある。


一葉が龍泉寺町へ転居する前、歌子は、広子について、少し歌がうまくなったもので有名になりたいという虚栄心がみえみえで、歌への真実の志がないと批判(「こも又虚飾にて誠みちにこゝろざすの人には非らず」26年6月22日「日記」)していたが、その歌子が広子の家門を許したと知って、一葉は衝撃を受ける。

歌子は一葉にも家門を開くように提案したが、家門を開くには、師匠への支払い、披露の催し、社交上の出費など莫大な金がかかり、一葉にはとうてい望めないことであった。

歌子が家門を許す条件は金と家柄であり、歌子は一葉には「発会当日の諸入用及びすべてのわづらひは憂ふるべからず」と言っているが、これまでの歌子の行動を考えると、とてもそれを当てにすることはできない。


つづく


2024年4月11日木曜日

大杉栄とその時代年表(97) 1894(明治27)年2月1日~11日 子規、終の住処「子規庵」へ転居 一葉(22)の年始廻り 絵入り新聞『小日本』創刊(編集主任子規) 子規の月給は30円に上がる 不評だった小説「月の都」掲載   

 


大杉栄とその時代年表(96) 1894(明治27)年1月1日~31日 三菱1号館竣工 一葉の店の向い側に同業が開店 星野天知(32)が始めて一葉を訪問 「男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき」(一葉日記) より続く

1894(明治27)年

2月

漱石、風邪の経過はかばかしくなく血痰をみた。

2月

イギリス、ルイーゼ・カウツキー(34)、ルートヴィヒ・フライベルガー(29)と結婚。

2月1日

子規、上根岸88番地から上根岸82番地(羯南宅東隣、終のすみか、子規庵)へ転居。


子規が根岸に住みはじめたのは、明治25年から。日本新聞社社長・陸羯南の紹介で上根岸88番地に住み、松山から母と妹を呼び寄せて生活を送った。

明治27年からは、陸羯南の東隣である、上根岸82番地に転居した。いわゆる「子規庵」である。

子規は、中村不折に、「文学者や美術家にとり根岸ほどよい所はない、閑静でもあり、研究にも至便の地である根岸を離れず、根岸の土となる」(和田克司「不折と子規」)、と語ったともいう。

根岸周辺には、子規に関わりのある、高浜虚子、河東碧梧桐、中村不折、浅井忠、寒川鼠骨らも住んだ。


根岸は、「呉竹の根岸の里」、「初音の里」などと呼ばれ「竹」と「鶯」の名所として有名であり、古くから文人墨客が多数居住する、閑静で風流な土地でった。

江戸時代には、画家・俳人の酒井抱一、浮世絵師の北尾重政、儒者の寺門静軒・亀田鵬斎らが住み江戸の文化を支えた。

明治 20年代には、幸田露伴、饗庭篁村、森田思軒ら、「根岸党」または「根岸派」と呼ばれる文人たちが、根岸を中心に活動していた。根岸党は、文学的な一派というよりは、むしろ、文人たちによる「サロン」という趣きが強かった言われる。また美術家の岡倉天心や新婚当初の森鴎外も根岸近辺に住み、根岸党と関わりを持ったという。

子規には根岸近郊を詠んだ多くの句がある。

「根岸にて梅なき宿と尋ね来よ」

「月の根岸闇の谷中や別れ道」

「芋阪も団子も月のゆかりかな」

「障子明けよ上野の雪を一目見ん」

「人も来ぬ根岸の奥よ冬籠」

「冬ごもる人の多さよ上根岸」


上根岸に動物の附いた横町が二つある。

狸横町に鶯横町。鶯横町とは優しい名だ。どんな横町であらうか。

狸横町を出た所に前田候の別邸の表門がある。それから一間余りの高さの黒板塀に添うて鶯横町と反対の方向に進むこと二十間許りで裏門へ出る。其裏門には十四五のいろ/\の表札がおもひおもひに打つてある。其れは孰れも此邸の内の貸家に住んでゐる人の名前である。尚ほ黒板塀に添うて左へ曲がつて更に二十間許り行くと又左へ曲る横町があつて其横町の左側は同じく黒板塀で右側は竹垣になつてゐる。其所に一つの立テ札があつて御家流の字で「鶯横町」と書てある。

此札の立つてゐる所から奥へ三十間許り曲つて淋しい横町が即ち鶯横町である。(中略)

元来幅の狭い町であるのに、高い板塀と竹籬の内から檜や椋や榛やの立木が飛び/\に出てゐるので、益狭く感じられる。是等の木に春はよく鶯が来て啼くので鶯横町の名がおこつたのであらうといふ事だが、冬枯の今頃でも鶸や鐡嘴はよく来て高い椋の木にしかけてあるハゴにかゝつて毎日四五羽は取られるさうな。 (中略)

初めて子規氏の宅を尋ねて、なつかしく思つてゐた鶯横町に這入つて来る者は、以上の事を目撃して、さうして三軒のうちの表札を一々しらべて、最後に「正岡子規」とある表札を漸く見当てて喜んで戸を推すと、戸に附けてある鈴がチリヽンと鳴つて、玄関の障子があく前に、必ず主人の咳を聞くであらう。

(高浜虚子「根岸草蘆記事」)


陸羯南の玄関番をしていた佐藤紅緑が引っ越しを手伝う


「比の二月今の処に転宅するといぶので、余は其の手伝を命ぜられた。余の第一の喜びはあの人は如何なる書を読んで、どれ丈け多くの書を持て居るかを見るにあつたが、行て見ると第一に驚いたのは写本である。其れは悉く自写であるに至ては寒心の外ないのであった。

(引っ越しのあと、同じく手伝いに来ていた五百木瓢亭と子規と3人で昼食)

此時いろいろな文学の話などがあった。「あなたは文学が好きだと陸君から話がありましたが、発句はどうです、やりますか」「イヤやった事がありません。狂歌ならば好んで読む位の事です。発句をよんでも狂歌ほど面白くありませんな」などと今から思へば抱腹の至りである。正岡さんは余の話を聞き、折々瓢亭君と顔を見合して笑つて居つた。」(佐藤紅緑「子規翁」、『子規言行録』収録)

2月2日

一葉(22)の年始廻り。

本郷の姉には、門から声をかけるだけにして、安藤坂の萩の舎に向う。前年11月15日の訪問の際には、師中島歌子は、「かつて浮薄の徒とのゝしり偽賢の人とうしろ指さしたる師は何方にさりけん」と思うほどの慈愛を示してくれていた。また年末には、歳暮の品を届けている。

この日、歌子は三宅花圃が家門を開くと語り、一葉にも勧めるが、それには取りあわず退出。近くの西村で昼食をふるまわれ、西村には借金を申し入れる。次に、かつて『都の花』編集に携っていた作家藤本藤陰を訪ねるが、転居していたため、23日に改めて転居先の根岸を訪問する。この日は、伊東夏子宅へ行き、遅くまで話をし、俥を世話してもらって帰宅。


外出着がなく年始回りは2月に入ってからになる。妹くに子が、一枚の着物の、羽織を重ねる部分を他の生地で継いで、外見上わからないように工夫する。


「年始に出づ。きるべきものゝ塵ほども残らずよその蔵にあづけたれば、仮そめに出んとするものもなし。邦子のからうじて背中と前袖とゑり、さまざまにはぎ合せて羽をりだにきたらましかば、ふとははぎ物とも覚えざる様に、小袖一かさねこしらへ出たり。これをきて出るに、風ふくごとの心づかひ、ものに似ず。寒風おもてをうちて寒さ堪がたき時ぞともなく、冷汗のみ出るよ。」(「塵中日記」明27・2・2)

(二月二日。年始挨拶に出かける。着物は全部質に入れてあるので、一寸した外出のためのものもない。邦子が苦心して背中と前袖と襟を色々に継ぎ合わせて、上から羽織を着れば、一寸見ただけでは継ぎ合わせ物とも見えないように小袖を一つ作ってくれた。これを着て出かけたのですが、風が吹くたびにめくれはしないかと、その気苦労は大変なものでした。寒風が顔を打ち寒さ厳しい季節だというのに冷汗ばかりが出るのでした。)


此月いはふべき金の何方(いづかた)より入るべきあてもなきに、「今日は我が友のうちにてもこしらへ来ん」とて家を出づ。「さはいヘど、伊東ぬしのもとにはかねてよりの負財も多し、又我心をなごりなく知りたりとも覚えぬ人にかゝる筋のこと度々いふべきにもあらず。いかにせん」と思ふに、・・・

(今月はどこからもお金の入る当てがないので、今日は友人の所を訪ね都合してこようと思って家を出る。そうは言っても、伊東夏子さんには前からの借金がまだ多い。かといって、私の気持ちをすっかり理解してくれているとも思われない人に、このような話など度々言えるものでもない。どうしようかと思案の末に、・・・)


借金の算段をしながらの年始回り。かつて樋口家が恩義を与えた西村釧之助には尊大な態度となる。

「「かの西村が少なからぬ身代にはらふくるゝを、五円十円の金出させなばいつにても成ぬべし。我はもとよりこびへつらひて人の恵みをうけんとにはあらず。いやならばよせかし。よをくれ竹の二つわりに、さらさらといふてのくべきのみ」とおもふ」(同)

(あの西村釧之助はかなり財産を持って裕福な暮らしをしているのだから、五円十円のお金を出させるとしたら何時でも出せるに違いない。私は勿論媚びへつらって人から恵みを受けようとしているのではない。嫌だと思うならばよせばよいのだ。青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ)と思って出かける。)

・・・。師君のもの語(がたり)に、「三宅龍子ぬし、家門を起し給ふこゝろ」のよし。さるは雄次郎君の内政之(の)いとくるしく、たらずがちなるに、例之(の)才女の、かゝる方におもむくこゝろ深く、かくとはおもひたゝれし成るべし。師は我れにもせちにすゝめ給ふ。「いかで此折過さず、世に名を出し給はずや。発会(はつくわい)当日の諸入用(ものいり)及びすべてのわづらひは、憂ふるべからず。何方よりも何共(なんとも)なるべく、かへりては利益のあるべし」と、いとよくすゝめ給ふ。・・・

(先生の話では三宅花圃さんが塾を開かれる予定とのこと。ご主人の雄次郎氏の勝手向きが非常に苦しくいつも不足がちなので、例によって才女のこととて、家計の一助にもと、このことを思いたたれたのでしょう。先生は私にもしきりに勧めなさる。

「是非この機会をのがさず、あなたも世間に名前をお出しなさい。発会当日の諸費用、またその他の面倒な事などは心配する必要はないのです。何処からでも何とかなるものです。むしろ逆に利益になることですから」

としきりに熱心に勧めなさる。)


事実は、龍子が華族女学校に通う近所の娘数人に『紫式部日記」を教えたことが歌子にとがめられ、看板料を納めてお披露目をするよう求められたものであった。


西村にて昼飯。種々(さまざま)ものがたる。「金子は明日、もやうをつぐべき」よし。

(西村氏を訪ねて其処でお昼をいただく。色々と話があり、お金のことは明日都合を知らせるとのこと。)

夏子ぬしを訪ふに、家をうりて明日明後日のほどには何方(いづく)へか移られんとて、いとろうがはしかりしが、此中(このうち)にてもの語りす。夜くるゝまでありて、車をたまはりてかへる。

(伊東夏子さんを訪ねる。家を売って明日か明後日には何処かへ引越されるとかでとりこんでおられたが、そんな中でお話する。夜が更けるまでお邪魔して車をいただいて帰る。)


2月2日

妹エリーザベト、ニーチェ・アルヒーフを母の家の1階にしつらえる。

2月7日

川上音二郎(30)、小田原の桐座で「意外」を興行。~12日。

2月8日

明治初年、洋風に改築された五条大橋がふたたび元の姿に戻され渡り初めが行われる

2月11日

絵入り新聞『小日本』創刊。編集主任は子規。月給は20円から30円に上がる。「月の都」「一日物語」「当世媛鏡」「俳諧一口話」「文学漫言」などを相次いで発表。


「強心臓にも(?)子規は『小日本』で、二年前に執筆し幸田露伴から遠まわしに出版を拒絶された処女小説『月の都』を、創刊号から連載し(三月一日まで)、さらに新作『一日物語』を発表する(三月二十三日から四月二十三日まで)。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


つづく



2024年4月9日火曜日

大杉栄とその時代年表(95) 1893(明治26)年11月26日~12月31日 第5議会、星亨除名決議可決 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ」(一葉日記) 一葉、ぎりぎりの金策の末、どうにか年越しができる 

 

星亨

大杉栄とその時代年表(94) 1893(明治26)年11月1日~25日 明治座開場 チャイコフスキー(53)没 子規「芭蕉雑談」 森鴎外(31)陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員 一葉、買い出しと図書館通いの毎日 「琴の音」成稿 より続く

1893(明治26)年

11月26日

一葉日記。「二十六日 晴れ。寒し。今朝、洲崎弁天町、火あり。夜の三時頃よりと聞えしかは、過半はやけうせしなるべし。・・・」

(*深川洲崎遊郭の大火。大半が焼ける。明治10年にも大火、21年に再建されていた)

11月28日

第5議会、開会。翌日、大日本協会安部井磐根から、星議長不信任決議案が緊急動議として提出され、賛成多数により可決。

星は憲法上議長不信任はあり得ないとして、翌日も平然と議長席に着く。これに対し、衆議院は、議長不信任上奏案を可決するが効果なく、更に星の7日間登院停止を決議するが、その期限後、星は平然と議長席に着く。この倣慢不遜な態度は自由党内にも敵を作り、12月13日、衆議院除名決議が可決され、遂に議席を失う。議長在任は1年7ヶ月。短期間で議長の座を失うが、その剛腹さを見せつけたことはその後の活躍の為にはむしろ役立った面がある。

不信任の直接の理由は、①相馬事件と②取引所事件。

①相馬事件は、旧相馬藩の旧家臣が、相馬家当主を、その兄謀殺を理由に告訴、星は、告訴された相馬家当主を弁護し、無罪を勝ち取り、告発者が逆に誣告罪で有罪となる。しかし当初は、告発が正当と思われ、その弁護人となった星は社会的非難を浴びる。

②第4議会、星議長の下で、取引所に関する諸法令(米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例)が統合され、会員組織取引所と株式会社組織取引所の2種類の取引所設立を認める取引所法が成立。新法令では、商品取引所と証券取引所の設立を免許制として政府監督下に置くが、免許制の為、政府には100社近い出願が殺到。しかし実際に免許を受けたのは18社のみ。商品取引所設置に関する監督官庁は農商務省で、大臣は星と関係が深い自由党系後藤象二郎。後藤は清廉潔白からは程遠い人物で、出願を却下された業者は、後藤-星ラインとこれに癒着する競願業者にしてやられたとの思いが強い。改進党機関紙「改進新聞」は、星が一部業者から賄賂を受け取ったと書き立て、他の改進党系新聞もこれに追随。星は新聞社を告訴し、第5議会開会直前には新聞発行人に対する禁固・罰金刑、新聞社に対する謝罪広告掲載を命ずる判決を得て、法的には決着。しかし裁判の勝利によって、逆に星にまつわるダーティなイメージを消し去る事はできず。


12月

蘇峰『吉田松陰』(初版)。

12月1日

一葉日記より。「文学界」第11号が送られてくる。三宅龍子の「山の井勾當」がすばらしい。馬場孤蝶「酒匂川」、島崎藤村「哀縁」なども優れた作品だと思う。現代の詩歌がつまらないのは、人の心の中に入って真実の心を歌っていないからであり、開けゆく時代の感情と一致していないからである。

夜、号外が届く。衆議院議長の不信任問題について上奏案が可決されたとのこと。

(*星享議長の汚職容疑で不信任動議が11月29日可決。星はこれを拒否したため、12月1日不信任上奏案が可決された)

「十二月一日 晴れ。『文学界』十一号来る。花圃女が文章、めづらしくみえたり。山の井勾当がことを書しなるが、文辞いたく老成になりて、こゝ疵とみゆる処もなく、とゝのひゆきぬ。今の世に多からぬ女文学者の中、この人などやときは木のたぐひにぞ、後のよまで伝はりぬべきなめり。おのづから家の筋、人ざまなどもうちあひて。

孤蝶子が「さかわ川」、無声(*藤村)が「哀縁」など、をかしき物なり。「哀縁」はおきて、「さかわ川」はいん文といふべき物にもあらず、五七の調にてうたふべき様にもあり、浄るりに似て散文躰にもあり、今一息と見えたり。

いひふるしたるみじか歌の、月花をはなれて、今のよの開けゆく文物にともなひ難きあまり、新体などいふも出くめり。もとよりざえかしこく、学ひろき人々がものすのなめれど、猶わかう人が手になれるは、好みにかたより、すきにへんして、あやしうこと様のものになれるもあり、ふる人の指さしわらふもげにと覚ゆることなき忙しもあらず。さりとて、みそひと文字の古体にしたがひて、汽車汽船の便あるよに、ひとりうしぐるまゆるゆるとのみあるべきにあらず。いかで天地の自然をもとゝして、変化の理にしたがひ、風雲のとらへがたき、人事のさまざまなる、三寸の筆の上に呼出してしがな。さはいへ、かくおもふは我人共の顧ひなるべけれど、そは天才といふ人の世に出ざるかぎり、成りたつまじきものなるにや。俗中に風流あり、風流のうちに大俗あり。新たい詩歌の俗の様に覚えて、かのみぢか歌のみやびやかに聞ゆるは、ならはしのみのしかるにあらず、人の心に入て人の誠をうたひ、しかも開けゆくよの観念にともなはざれは也。詞はひたすら俗をまねぴたりとも、気いん高からは、おのづから調たかく聞えぬべし。さても学び易くしてうたひがたきは、猶この道の奥にぞある。

此夜、号外来る。議長不信任問題上奏案の可決なしたるよし。」

12月2日

この日の樋口一葉(21)の日記。欧化の波に漂う日本の国情を憂い、議会の混乱や外交の軟弱ぶりを憤激。

「物好き」とあざけられても、「なすべき道を尋ねて、なすべき道を行はんのみ」と激情をほとばしらせている。

議会の問題について、私行の暴き合いや隠事の摘発なでお大人げないと思う。

夜半、静かに目を閉じ、現代社会の有様について考える。

〈政治上のことに女性が口を出すことは一般的に技巧であり、差別される時代であるが、女性といえど同じ人間である。安楽な生活に慣れた人々は外国の華やかな風俗を求め、日本の伝統を捨て、日常の小さい面から文学、教育、政治といった本質的な事にまで広がり、留まることを知らない有様だ。もの好きな女だと世間から噂され、後世の人々から嘲笑されても、このような時代に生れたものとして、何もせず一生を終えていいのか、何をなすべきかを考え、その道を進んでいくのみ〉

「(十二月)二日、晴れ。議会紛々擾(ジョウ)々。私行のあばき合ひ、隠事の摘発。さも大人げなきことよ。

半夜眼をとぢて静かに当世の有さまをおもへば、あはれいかさまに成りていかさまに成らんとすらん。かひなき女子の何事をおもひたりとも猶蟻みゝずの天を論ずるにもにて、我れをしらざるの甚しと人しらばいはんなれど、さてもおなじ天をいたヾけば風雨雷電いづれか身の上にかゝらざらんや。国の一隅にうまれ一端に育ちて、我大君のみ恵に浴するは彼の将相にも露おとらざるを、日々せまり来る我国の有さま、川を隔てゝ火をみる様にあるべきかは。安きになれてはおごりくる人心の、あはれ外つ国の花やかなるをしたひ、我が国振のふるきを厭ひて、うかれうかるる仇ごころは、なりふり、住居の末なるより、詩歌政体のまことしきにまで移りて、流れゆく水の塵芥をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処をしらず。かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。外は対韓事件の処理むづかしく、千島艦の沈没も、我れに理ありて彼れに勝ちがたきなど、あなどらるゝ処あればぞかし。猶、条約の改正せざるべからざるなど、かく外にはさまざまに憂ひ多かるを、内は兄弟かきにせめぎて、党派のあらそひに議場の神聖をそこなひ、自利をはかりて公益をわするゝのともがら、かぞふれば猶指もたるまじくなん。にごれる水は一朝にして清め難し。かくて流れゆく我が国の末、いかなるべきぞ。外にはするどきわし(ロシア)の爪あり、獅子(清国)の牙あり。印度、埃及(エジプト)の前例をきゝても、身うちふるひ、たましひわなゝかるゝを。いでよしや物好きの名にたちてのちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。さても恥かしきは女子の身なれど。

  吹かへす秋のゝ風にをみなへし

      ひとりはもれぬのべにぞ有ける」(「塵中日記」明26・12・2)

日記には政治や社会にも一段と強い関心が示されてる。改進党や自由党の対立を背景に、衆議院議長の星亨への不信任動議に紛糾する国会を嘆き、日朝・日英間の外交にも憂慮している。民族主義的、国家主義的な新聞論調に同調しているようだが、女であることにこだわりながら、平等の主張を示し、人生の目標を国家的な水準に引きあげようとしているかのようだ。

*防穀事件。大鳥公使の赴任後、朝鮮側は仁川・釜山二冗山での輪川米の持出しを禁止した。

*千島艦の沈没をめぐる上海裁判所での日英の係争は、英国側の勝訴に終る。

*吹き返す秋の野風に女郎花(がうちなびく)、(その女郎花のように、「女」の身である私も)一人だけ(吹く風から)逃れることはない野辺(=当世)なのだなあ

風に吹かれる女郎花は、古歌ではうちなびいたり折れふしたりするもので、女性の比喩としても詠まれてきた。「源氏物語」の「野分巻」でも、「吹きみだる風のけしきに女郎花しをれしぬべき心地こそすれ」とある。

歌で「女郎花」が女性の比喩となる場合、男性との差別化が図られる場合が多くなるが、一葉の場合は、女の身にあっても「国の一隅にうまれ一端に育ちて、我大君のみ恵に浴するは彼の将相にも露おとらざる」ものであると、対等化しようとする意識がうかがえる。

12月4日

一葉日記より。神田に買い出し。久しぶりに伊東夏子を訪問。夕方近くまで話し込む。「宇治拾遺物語」「西行撰歌集」を借りる。

(夏子は「私の家に、木版の本が多くありましたから、見せましたら「珍本ね、なぜ今まで見せなかったの」と喜んで持ち帰りました」と述べている(『一葉の思い出』))"

12月5日

松平容保(59)、没。

12月7日

一葉、多町に買い出しがてら北川秀子に菓子箱を返す。帰りに奥田栄に利子を支払う。広瀬伊三郎から五円借りる。小売りの金で俗に「日なし」というもので、生れてはじめてのこと。山梨に手紙を出す。一つは、後屋敷の芦沢に返金督促の手紙、もう一つは雨宮源吉に協力依頼する手紙。


「七日 晴れ。多丁にかひ出しながら、喜多川君に菓子箱かへす。帰路、奥田に利金入るゝ。此日、伊三郎より金五円かりる。高利の金にて、俗に「日なし」といふもの也。かゝる事、物覚えてはじめての事也。此夜、山梨県に手紙出す。金子のこと後屋敷に申つかはし、雨宮のもとへも頼み文出す」

*広瀬伊三郎は帰京後、やみ金融を始めた。「日なし」は、貸付けた当日から利子をかけ、日済で少しずつ返済させながら、高利の利子を取る貸し方。

*山梨県東山梨郡後尾敷村の芦沢卯助。卯助には養父五左衛門の時代に則義から借りた古い負債が残っていた。

*たきの甥、雨宮源吉。東山梨郡玉宮村に在住。

12月8日

一葉日記より。母たきが借金を頼むために久保木家にゆく。

伊東夏子から星野天知が文学をこころざすようになった経緯を聞く。芸妓に迷って悲恋を味わったとのこと。悟りきれぬ人の心の不可思議を思う。

12月9日

仏、無政府主義者オーギュスト・ヴァイヤン、国民議会下院にダイナマイト投擲。議会はこれを機に暴力行為準備集会取締法を強引に可決。

12月16日

20年ほど前(明治6,7年頃)に、父が母の弟の養子先に貸したという28円の回収の為に、一葉の母たきが山梨に出かける。

結局、交渉は失敗。その間、一葉姉妹は、母一人を送り出したことで、「母君のことをおもふに、くに子も我も終日むねいたくて、ともすれば涙のみなり。」(17日付け日記)、「此日頃大方なみだ也」(21日付け「日記」)となる。母は26日に戻る。

結局この年末は、山梨の従弟や、父の知人からの調達、28日には『文学界』から「琴の音」の稿料1円50銭も届き、どうにか年越しができる

12月16日

ドヴォルザーク(52)、「交響曲第9番ホ短調<新世界より>」、カーネギーで初演。

12月19日

外相陸奥宗光、条約改正の目的は国として受くべき権利と国として尽すべき義務を完うすることにある、「是ヲ実際ヨリ云へバ則此日本帝国ガ亜細亜州中ニアリナガラ欧米各国ヨリ特別ナル待遇ヲ受ケム云フ趣旨デアル」と議会演説。

12月24日

オーストリア、第1回労働組合全国大会開催

12月26日

毛沢東、誕生。湖南省湘潭県韶山冲上屋場。

12月28日

英帰国中の英公使フレーザー、在日英公使館付ショウ牧師に対する暴行事件に関し青木周蔵公使に警告。

対外硬派が第5議会に「条約励行建議案」を上程。大日本協会安部井磐根は、説明にあたり在留外国人が条約違反を積重ねていると暴露すると、外国人に対する暴行やいやがらせが頻発。イギリス公使館付牧師アルチデーコン・ショウが暴漢に襲われ際、巡査は傍観して救援せず。この報がロンドンに達するや、イギリス外務省の「模様俄カニ一変」。30日、青木公使の電報によりそれを知った伊藤内閣は、即座に衆議院を解散。

11月29日

政府、条約励行論は開国の国是に反するとして大日本協会に解散命令。

11月30日

衆議院(第5議会)解散。伊藤政権と自由党が提携すると、第5議会で国民協会と改進党が提携し、官紀振粛問題(後藤象二郎農商務相らの汚職問題)・条約励行問題で伊藤政権を追詰める。第5議会解散により反政府熱は高まる。貴族院では、近衛篤麿ら有志38名が対外硬派を支持し、政府の議会解散を非難し、伊藤内閣に対する国民の信任は失墜したと退陣を要求。

大日本協会は改進党と協同して排外的な「条約励行案」を上程。極秘裡に英国と条約改正交渉を進めている第2次伊藤内閣は衆議院を解散して励行案の成立を防ぎ、一方で大日本協会の結社を禁止。

取引所事件に閑し、後藤農商務相と斎藤修一郎農商務次官に対する官紀振粛上奏案も可決され、両名はその官を辞すた。梟雄と呼ばれた後藤象二郎もこの事件を最後にその政治力を失い、3年余後に没。

12月

一葉日記。「よし物好きの名にたちて、のちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。」(「日記」)。

「三十日 もちをつく。金壱円。上野君父子歳暮に来る。議会解散。」

「三十一日 あきなひ多し。二時まで起居る。」


つづく

2024年4月7日日曜日

大杉栄とその時代年表(93) 1893(明治26)年10月1日~31日 漱石(26)東京高等師範学校(英語嘱託) 一葉、店は邦子にまかせ連日図書館に通う 一葉日記「塵中日記 今是集」 平田禿木が一葉を再び来訪、『文学界』との関係が復活  「二六新報」発刊(社主秋山定輔)     

 

二六新報 創刊号(明治26年10月26日)

大杉栄とその時代年表(92) 1893(明治26)年8月12日~9月28日 8月下旬~9月上旬、一葉、頭痛で寝込む日がしばしばある 漱石、東京専門学校講師 一葉、商売は軌道に乗り、売り上げは順調だが、利益は厳しい より続く

1893(明治26)年

10月

北村透谷「漫馬」

10月

漱石(26)、東京高等師範学校の英語嘱託となる。初出講は10月19日。週2回。手当は年額450円。


「第一高等学校と高等師範学校から殆んど同時に就職口があり、両方にいい加減な返事をする。第一高等学校の古参の教授(不詳)に呼ばれ、叱責されたので、両方とも断ってしまおうかと思っていたが、第一高等学校長久原躬弦と高等師範学校長嘉納治五郎の話し合いで、帝国大学学長外山正一の推薦を受け、高等師範学校英語嘱託になる。その後、国民奨学会(神田区錦町三丁目十九番地、現・千代田区神田錦町二、三丁目)にも出講する。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)

「・・・・・だが差し迫った問題は生活費である。彼は二年の時から東京専門学校(のちの早稲田大学)に出講し、三年時には大学から給費も貰っていたが、大学院では自分で生活費を稼がなければならなかった。

英文科を一年先に卒業した立花銑三郎が、勤務する学習院の職を持ち掛け、漱石も「此際断然決意の上学習院の方へ出講致し度」と希望したが、学習院は一足先にアメリカ留学生活の長い、文学博士の採用を決めていた。東京高等師範学校(高師)にも友人を通じて依頼したが当てにはせず、一方、金沢の第四高等中学は、友人で当時その教授だった狩野亨吉から是非にという誘いがあったが、遠方なので決心がつかなかった。ところが諦めていた高師から文科大学学長・外山正一に話があり、結局、高師に就職することとなった。年俸四百五十円、月額三十七円五十銭から七円五十銭を大学の貸費へ返納し、十円を父に送ったので、月に二十円の生活である。当時はかなりの就職難で、東京を離れずに済んだのは彼の英語力や人柄のゆえとはいえ、恵まれたと考えるべきだろう。

外山から勧められ、高師の校長・嘉納治五郎の話を聞くと、「教育の事業」とか「教育者」のありかたとか面倒なことを言うので、自分にはとても出来ませんと答えると、嘉納は逆にそれが気に入って、とにかくやってみてくれと依頼した。漱石は「私の性質として」断われなかった、と呑気なことを言っている(「時機が来てゐたんだ」)。この話はやがて『坊つちゃん』に取り入れられるが、後の松山中学同様に、漱石は高師とはあまり相性がよくなかったのではなかろうか。義務には真面目で細密な彼は、最初の就職で頑張りすぎたのかもしれない。」(岩波新書『夏目漱石』)


「幸に語学の方は怪しいにせよ、何(どう)うか斯うか御茶を濁して行かれるから、其日々々はまあ無事に済んでゐましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚なら一そ思ひ切りが好かつたかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでゐるやうで堪(た)まらないのです。しかも一方では自分の職業としてゐる教師といふものに少しの興味も有ち得ないのです。教育者であるといふ素因の私に欠乏してゐる事は始めから知ってゐましたが、たゞ教場で英語を教へる事が既に面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移らう飛び移らうとのみ思つてゐたのですが、さて其本領といふのがあるやうで、無いやうで、何処を向いても、思ひ切つてやつと飛び移れないのです。

「私は此世に生れた以上何かしなければならん、と云つて何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度霧の中に閉ぢ込められた孤独の人間のやうに立ち竦んでしまつたのです。さうして何処からか一筋の日光が射して来ないか知らんといふ希望よりも、此方から探照燈を用ひてたつた一条(ひとすじ)で好いから先迄明らかに見たいといふ気がしました。所が不幸にして何方(どつち)の方角を眺めてもぼんやりしてゐるのです。ぼうつとしてゐるのです。恰も嚢の中に詰められて出る事の出来ない人のやうな気持がするのです。私は私の手にたゞ一本の錐さへあれば何処か一ヶ所突き破つて見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、生憎其錐は人から与へられる事もなく、叉自分で発見する訳にも行かず、たゞ腰の底では此先自分はどうなるだらうと思つて、人知れず陰鬱な日を送つたのであります(『私の個人主義』)

10月

三宅雪嶺(33)、鎌倉雪ノ下91に政教社を移し、10月10日号として「日本人」(第2次)を復刊。12月18日号(第5号)より再び東京神田に戻る。

10月

北村透谷「双蝶のわかれ」(「国民之友」)

10月

宮崎湖処子「ヲルズヲルス」(「民友社」)

10月

山県有朋、「軍備意見書」。「今より十年ののちシベリア鉄道全通」すると、ロシアが本格的に東洋に進出し対露戦争は必至。戦略拠点である朝鮮を事前に確保するために、早い機会に対清戦争を起こすことが必要。

10月1日

「対外硬」を中心とした右派と左派の連合戦線「大日本協会」、発足。

「大阪朝日」の高橋健三と「日本」陸羯南の理論的指導。吏党だった旧大成会指導者安部井磐根と、国民協会を率いる熊本国権党の佐々友房、自由党左派で東洋自由党の大井憲太郎らが「外国人内地雑居講究会」を改組した組織。

10月1日

マックス・ウェーバー、フライブルク大学経済学教授に推されるが、10月1日付でベルリン大学商法・ドイツ法の員外教授となる。 

10月2日

~8日、一葉、店は邦子にまかせ、連日図書館に通う。

10月3日

ラオス、フランス保護領となる

10月9日

一葉、家の奥の間にこもって読書。

この日より「塵中日記 今是集」始まる。~11月14日。署名「なつ」。日記には甲集、乙集の二種類があり、多少の異同がある。乙集は甲集の改訂版と見られる。

「今是集」とは、商売を始めた7月の頭に「につ記」に記した見通しが甘いことを噛みしめ、現在日記をつけるのもままならないほど苦しい日々で、それでも今日の自分に「是」と映るところを記そうという意味。このところ頭痛がひどかったが、小康状態なのか、商売に慣れてきたのか、執筆の余裕もでてきた。


「十月九日 晴れ。此二日より晴雨とも日々図書館にかよひて暮しけるが、今日はえゆかで、奥なる座敷に籠りて書をよむ。店は昨日、一昨日の頃より、売高いと多く成りて、国子のいそがしき事、起居ひまなし。さるは近き処にもとより有ける家の、我家にうりまけて店をとぢけるが二軒あるよしに聞けば、夫れが為なるにや。さしもきそひ心などの有るにもあらず、おのづからにまかせて商ふものから、店をあづかる国子に、運といふもののあればなるべし。我は何事も打まかせて、さるべき処々へかひ出しといふ事に行く外は勘定も工夫もしらず、唯二間なる家の奥にこもりて書をよみ文をつくる。店は二厘三厘の客むらがり寄て、こゝへもかしこへもと呼はる声蝉の鳴たつにもたとへつべし。障子一重なる我部屋は、和漢の聖賢文墨の士来りあつまって仙境をなす。塵中に清風を生じ清風おのづから塵中に通ず。わが浮草之舎も又一奇ぞかし」 (「塵中日記」今是集[甲種]明26・10・9)


10月10日

一葉、神田へ買い出し。一昨日買ってきた半箱の風船が売り切れたので、もう一箱買う。

10月11日

一葉、この日は一日中机に向かう。

10月12日

一葉、風船の買い出しに神田の多町に。

10月13日

結城哀草果、山形に誕生。

10月13日

一葉日記。第五国会の召集令。召集は11月25日。

10月13日

ロシア艦隊、仏トゥーロン港訪問

10月17日

「大阪朝日」の事実上の主筆高橋健三、長編論説「内地雑居論」20篇(明26年10月17日~11月1日)。神戸地区外人の生態ルポ「神戸雑居地の光景」5回が中核。

社内同人の協力を得て、外人による土地の不法所得脱税の横行、旅行規定の無視、居留地警察の無力、領事裁判の不法、密淫街の醜状までルポ。在留外国人が治外法権で保護されながら、現行の不平等条約さえ踏みにじって横暴を行なっている現実を実証。外人の内地雑居に反対する為の論証。

10月18日

仏、作曲家グノー(75)、没。

10月18日

西村釧之助の縁談整う。

「十八日、雨やうやくやむ。午後西村母君来訪。釧之助に縁談ととのひぬるよし。」

10月19日

朝鮮、米の輸出を1ヶ月間禁止

10月25日

一葉宅に平田禿木が再び来訪、『文学界』との関係が復活。

小説執筆を再開し、「たけくらべ」が徐々に作品の形になり始めたのはこの頃からで、『塵中日記今是集』の巻末に書かれた、三五郎たちが筆屋で歌い騒ぐ「仁和賀」の歌の覚書がそれを物語っている。一葉は塵の中をうごめく生活を通じて世間を知るとともに、悲恋をテーマに主人公の孤独な内面ばかりを描いた従来の傾向から脱して、人間が世間の底辺であえぐ姿や、子供が大人へと成長していく過程で目にする人間性の活き活きとした現実などに目を注ぐようになった


「二十五日 晴れ。午前神田にかひ出しをなす。午後、平田禿木子来訪。来月の文学界にかならず寄書なすべきよしを約す。七月以来はじめて文海の客にあふ。いとうれし。旅宿(*下宿)は日ぐらしのさとの花見寺の隣家にて、妙隆寺とかいへるよし。此夜田辺査官(*巡査)来訪。貧民救助之事につきてはなしあり。縁談のこと申来る。」 (同[乙種]明26・10・25)


禿木の11月2日付の一葉宛て手紙。


「この春はじめて御目にかゝり候折とはいたく変り給ふて、いつもいつもをかしき事を言ひ捨てうち笑ひ給ふのみなれど、人知れぬ夜半の床には、むかしよりも愁(つ)らき涙に御袂をぬらし給ふ事ともおもはれ候のみ」


明るく開放的な一葉の表情が窺われる。


「女史はいそいそと自分を迎へ、源氏を語り、近松、西鶴を談じ、十年の知己の如く打ち解けて、万丈の気焔を上げるので、自分はこの時始めて真の一葉女史を見たやうな気がした。」(禿木「一葉の思ひ出」『東京朝日新聞』昭和14・4・23)


禿木は、初対面の時の一葉の「低い声で言葉も絶え絶えに、いとつゝましやかに応待される」様子との違いに驚くが、一葉の変化の内側に、人知れぬ涙の日々のあることをも読みとる。

10月26日

「二六新報」発刊。社主秋山定輔。落合直文の紹介で与謝野鉄幹(20、この頃より鉄幹の雅号を用いる)が記者となり、社員鈴木天眼・安達九郎(本名:本間九助)等の大陸経営に志を寄せる国粋的志士と知り、影響を受ける。

10月26日

カナダ、全国女性評議会が創設

10月27日

グスタフ・マーラー、「〈巨人〉交響曲様式の音詩」初演。

10月28日

チャイコフスキー交響曲第6番「悲創」、サンクト・ペテルブルクで初演

1031日

一葉、『文学界』第5号~10号を受け取る。


つづく