明治7年(1874)12月
・三島通庸、酒田県知事就任。
*
・官金出納担当の島田組が破産。
*
・馬場辰猪、イギリスより帰国。
*
12月1日
・福地源一郎(桜痴、34)、条野伝平・西田伝助等に誘われ「東京日日新聞」社長となる。
福地源一郎(桜痴):
長崎の医師の子として誕生。
幼時に漢学を学び、15歳から長崎で最も著名な蘭学者、和蘭陀大通辞、名村八右衛門について蘭学を修める。
福地は、極めて優秀な門弟で、名村は彼をその娘婿とするが、彼は才を誇って、同僚と衝突し、それがもとで離縁される。
その後、福地は上京し、父の知人の外国奉行水野筑後守の食客となり、幕府の英語通訳の頭取森山多吉郎について英語を学ぶ。
安政6年(19歳)、横浜が開港場となった際、通弁御用雇となり、後幕府通訳として横浜・江戸間を往来して次第に認められる。
文久元年(23歳)、京極能登守・松平石見守等が開港場問題の交渉にヨーロッパへ出かけた際には、通訳として福沢諭吉と共にこの使節の一行に同行。
文久3年帰国。
翌年、外国奉行柴田日向守についてフランス・イギリスに渡る。
その後、幕府の通弁をしながら、下谷二長町で塾を開いて英仏語を教える。
維新の上野戦争の際、薄い雑誌風の「江湖新聞」という木版新聞を発行。
大いに売れるが、官軍攻撃の文を書いたとして1ヶ月間投獄される。
新聞は潰れ、福地は、日新舎という名の塾を湯島に開く。
この時、福地を助けてフランス語を教え、塾頭となるのが中江兆民(篤介)。
福地の名声をしたい、多くの書生が集るが、福地が毎日のように吉原に入りぴたって、禄に授業をしないので、生徒たちは憤慨し、塾の仇や書物を売りはらって解散。
その後、福地は渋沢栄一の紹介で伊藤博文を知り、明治4年月給250円の大蔵省御雇となり、岩倉具視についてアメリカに渡り、銀行や公債や貨幣制度を研究して帰国。
次に、伊藤についてアメリカ~ヨーロッパ各地を廻り、6年7月に帰国(成島柳北と同じ頃)。
国立銀行設立等で大きな働きをするが、政府と意見を異にすることがあり、明治7年3月辞職。
条野伝平、西田伝助等は、以前に福地と共に「江湖新聞」を経営し、明治4年に「東京日日新聞」を発行。
条野は魯文の旧友の戯作家で、戯作の傍ら出版に携り、幾つかの新聞にも携わるが、いずれも成功している。
この年、「東京日日」は「民選議院設立建白書」を掲載して注目されている。
また、新聞記者は、貧乏書生や落塊士族や、しがない戯作者共の世を忍ぶ仕事と見られていたが、成島柳北(「朝野」)や栗本鋤雲(「報知」)や福地桜痴(「日日」)が新聞に入ったことで、新聞の重要さや企業としての収益の多さを世間に認めさせた。
この日から、「日日」は紙面を拡張し、「社説」欄を設け福地の意見を発表。
記者には、イギリス帰りの新知識人の末松謙澄がおり、自由党の若手の論客で「日新真事誌」記者大井憲太郎、「民選議院設立建自書」起草者で「報知」主筆古沢滋なども、匿名でこの新聞に寄稿。
しかし12月2日、紙上で「太政官記事印刷御用被申付候条此旨無相違候事東京府」という公達文を掲載。
福地は「日日」を官報にしたいと考え、公達文の掲載し御用新聞だと思われる。
「東京日日新聞」編輯長は岸田吟香。
この頃、銀座の名物男と言われ、洋学者、新聞記者、薬屋主人であった。銀座2丁目の東側に住み、精綺水本舗という眼薬の店を営んでいた。
岡山県出身、蘭学の心得があり、安政6年(1859)25歳の頃、伝道のために来日したアメリカ人医師兼牧師ジェイムズ・カアティス・ヘボンの助手になり、和英辞典作成にも携る。
慶応3年、和英英和辞典「和英語林集成」が完成するが、日本には印刷技術がなく、上海でこの辞典を印刷。
この年、政府の調査要請を受け、法律顧問ボアソナードはこの和英辞典が立派なものであると保証したため、政府はこの辞書を2千部買い上げ、開成学校にこれを備えて学生や教授の用に供した。
辞書の完成は岸田の努力と学識によるところが大きく、ヘボンは礼の意味で、岸田に目薬の処方を与え、岸田はそれを精綺水と名づけて売り出す。
文士と売薬はつきもので、精綺水本舗の近くでは、その70年ほど前には、山東京伝が読書丸を売る店を営んでいる。
「台湾征討」では、岸田は、新聞記者の同行は許されず、御用商人大倉組の手代の名目で、軍用船に乗り、「台湾通信」と自筆の写生画を「日日」に発表、「日日新聞」は東京市民の評判となる。
*
12月5日
・「東京曙新聞」、三島県知事の遊蕩ぶりや沼間権大書記官の取調べに対する酒田県旧県官・戸長の狼狽を伝える大森宗右衛門の記事を掲載。
28日、日新堂編輯長代理長谷川義孝は、この日付け「東京曙新聞」652号の記事について、人の栄誉を傷つけたとして讒謗律第1、4条により禁獄1ヶ月・罰金200円の刑を受ける。
*
12月6日
・清国、同治帝、李鴻章に鉄甲船の購入を命ず
*
12月9日
・大久保ら清国談判への派遣員一同、天皇より慰労される。
また、この日、鹿児島から大久保の家族一同が上京。
「十二月九日、今朝伊地知子入来林子入来、
九字ヨリ皇居へ参昇、属国随行官員一同於学問所謁見被仰付、清国談判ニ付一同太儀之段勅語有之、難有御礼奉申上候、終而内侍所参拝神酒幣物ヲ賜ル、控所ニ退ク、錦三巻紅白縮緬四匹、宮内省山岡ヨリ拝領被仰付、随員へモ夫々賜り候、十一字比退出、税所、吉原同車川村氏へ参、金星経過一覧イタシ候、
今日彦之進、伸熊始母子一同着ノ由参、早々帰宅久々振面会安心イタシ侯、
今晩吉井子税所子大山子寺田子川村子等入来、祝盃ヲ傾候。」(大久保利通日記)
明治6年の政変を経て、清国との談判を終えたこの時期、鹿児島の家族を東京に呼び寄せたことは、大久保の郷里鹿児島(旧藩)との訣別、明治政府の官僚として生きる決意を示すものと推測できる。
新政府の官僚として働くうえでは、薩摩の利益代表ではいけないというその薩摩との絆を断ち切る意味合いを含んでいる。
大久保は、明治2年5月20日、それまで島義勇が住んでいた霞ヶ関の家に入居している。
当日の大久保の日記には「今日島五位旅宿移り替いたし候」(「大久保利通日記」)とある。
そして6月26日には、京都から妾ゆうとその家族が上京している。
「二十六日、無休日十字参朝、条公依召参殿、人撰等之コト御下問云々申上ル、
今日京師より家族着、吉井内田等入来」(「大久保利通日記」)
鹿児島の家族の上京を期に、妾ゆうとその子は別邸に、本妻と家族は本邸に住むことになる。
本邸は、明治2年以来、東京麹町三年町(現、霞ケ関、首相官邸附近)にあった。
明治8年初めから1年かけて、同じ場所に木造洋館を新築。
明治9年1月に入居する。また、同年4月19日には天皇がここを訪問している。
「親臨御達以来、一日モ天気雨ナク、実ニ天幸殊ニ今日万事御都合宜シク、大安心イタシ候、
鳴呼人生終世不可思議、我輩ノ家ニ親臨卜申ス事、夢タニモ見サルコトナリ、終身ノ面目ハ無申迄、子々孫々ニ至り天恩忘却ス可カラサルナリ」(「大久保利通日記」)
別邸は純和風の家で、明治8年を通して休日である「1と6の日」には機械的な正確さで大久保はこの別邸に赴いている。
また、この別邸にも五代友厚、黒田清隆、松方正義、税所篤等々はじめ、多くの友人達を招いての囲碁や接待を行い、かつての京都の隠宅と同じように、なかば内外に公然と公開していた。
*
12月13日
・宮内省式部寮雅楽課伶人、海軍軍楽隊から洋楽を習う。
*
12月15日
・参議内務卿大久保、清国談判で琉球が「幾分か我版図たる実跡」を得た、「清国との関係を一掃」する措置をとるべきとの伺書を正院に提出。
*
12月18日
・京橋・銀座・芝金杉橋間にガス灯がともされる
*
12月19日
・伊藤博文、木戸孝允に手紙。大久保が大阪あたりで木戸と会談したい意向を伝える。
25日、木戸、これを承知。
*
12月19日
・植木枝盛(18)、民選議院設立建白を巡り起きる民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ「民選議院集説」を読む。
*
12月24日
・大久保、木戸との会談を行うため横浜発。
26日、大阪入り。
*
12月24日
・中江兆民、文部省報告課御雇となる。明治政府仕官の第一歩。
*
12月24日
・モスクワ音楽院長ニコライ・ルビンシティン、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番変ロ短調」を酷評。
*
12月25日
・築地東京第一長老教会、クリスマス祝会。同日中村正直受洗。
*
12月27日
・西郷従道、東京に帰着、復命。
*
12月27日
・東京英語学校、東京外国語学校から独立。
*
年末
・岩倉具視、維新以降の大勢を天皇に上陳。
「未だ当初の聖意を対揚すること能わず」(政府の業績があがっていない)と自省し、
「なかんずく征蕃の挙、臣の首唱に係る、一旦功を奏すといえども、得るところ失うところを償うに足らず、臣の罪万々逃がるるところなきを知る、まさに別に罪を乞うものあらんとす」
(台湾出兵は大失敗であった、自分が「首唱」し「罪万々」であると謝罪)。
しかし、台湾出兵の真の「首唱」者は、大久保利通である。
この上陳は大久保が「罪万々」と名指していることと同じ。
大久保・岩倉間の亀裂はますます広がる。
*
*
「明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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2011年7月16日土曜日
2011年7月3日日曜日
明治7年(1874)11月1日~11月31日 「読売新聞」創刊 大久保利通、日清談判を終えて帰国 [一葉2歳]
明治7年(1874)11月
この月
・朝鮮、「勢道宰相」閔升鎬(閔妃の義兄)、自宅に送られた小箱により爆殺。
翌年末には領議政李最応(大院君の兄)邸に放火事件。
犯人は大院君腹心申哲均とされ処刑。
閔升鎬没後、従兄弟の閔奎鎬(閔升鎬殺害の黒幕とも言われる)が一族を代表する実力者となる。
*
・官金出納担当の小野組が破産。政府、官金委託を第一国立銀行へ移す。
*
11月1日
・大久保利通、北京発。
16日、台湾立寄り、高雄港で西郷従道に撤兵約束させる。
27日、東京帰着。
大久保の日記
「是迄焦思苦心、言語ノ尽ス所アラズ、生涯又如此ノコトアラザルベシ、・・・此日終世不可志ナリ」(10月31日)
「九月十日北京江戸着、滞在凡五十日余、実ニ重難ノ任ヲ受、困苦不可言。幸ニ事成局ニ至リ、北京ヲ発シ自ラ心中覚快。鳴呼如此大事ニ際ス、古今稀有ノ事ニシテ生涯亦無キ所ナリ・・・往事ヲ思、将来ヲ考、潜ニ心事ノ期スルアリ」(11月1日)
*
11月1日
・伊藤博文、木戸孝允の参議復帰説得に山口訪問。
2日、「勅言の御書付」と三条からの書状を渡す。
4、5日、会談。
7日、御書付への「御受書」が渡される。実際は木戸・伊藤間で、木戸が保養目的で京阪地方に出向き、ここで政府側と話し合うという調整となる。
7日夜、伊藤、帰京。
9日、伊藤より木戸へ、日清間の武力衝突回避に報告(木戸復帰の環境が整う)。
*
11月2日
・福地桜痴の「東京日々新聞」、社説欄を創設。
この頃、成島柳北の「朝野」、「郵便報知」「横浜毎日」「東京曙」も社説欄を常説。
政府施策を批判・評論する政論新聞の誕生であり、政府と新聞の蜜月も終わりに近づく。
*
11月2日
・「読売新聞」、創刊。発行部数200部。隔日発行。部数は急激に増加する。
翌明治8年4月19日から毎日刊行となり、6月1日には1万88枚を印刷するようになる。
所謂小新聞(こ新聞)。市井の出来事を書く雑報記事が売りもの。
創刊の辞(「稟告」)では、
「此の新ぶん紙は女童(をんなこども)のをしへにとて為になる事柄を誰にでも分るやうに書いてだす旨趣(つもり)でござりますから耳近い有益(ためびなる)ことは文を談話(はなし)のやうに認(したため)て御名まへ所がきをしるし投書(よせぶみ)を偏(ひとえ)に願ひます」。
昔から、天災地変が起ると、それを簡単な記事にし、瓦版に刷って、市中を走って叫びながら売り歩くものがあり、これを読売と言う。
この新聞は、題を読売とし、同じ売り方をしたので、市民は「朝野」「報知」「東京日日」よりも下品な新聞と見なした。
しかし、「読売新聞」は、記事が花柳界や芝居のこと、日常の市民生活の悲劇的な話、面白おかしい事件を、平易な筆で書き、忽ち人気新聞となる。
「朝野」は主に官庁の公布文や政治上の動きや政治評論をのせ、「東京日日」は市民生活の報告をのせるが、読者は知識階級が主で調子は固い。
「読売」は一般庶民の興味に訴える編集をしたので、部数は急激に増加。
この頃主な新聞は、「東京日日」「郵便報知」「日新真事誌」「朝野新聞」「横浜毎日新聞」。
「日新真事誌」は英人ブラックの経営で、政府と衝突してこの年廃刊。
「朝野新聞」は明石藩旧藩主松平侯爵が「公文通誌」を譲り受け、改題して明治6年8月刊行。社主乙部鼎は、前年洋行から帰った成島柳北を、この年社長とする。柳北は「雑録」欄に諧謔まじりの随筆を毎日発表、品格があり鋭い諷刺の利いた文章は、当代無比と称される。紙数は約2千部。
「横浜毎日新聞」には、沼間守一、島田三郎等がいた。
この年、仮名垣魯文は元弁天町から桜木町に移る。
彼は小説「安愚楽鍋」序文にも牛の煉薬「黒牡丹」製主と、自製の薬の広告をしていたが、桜木町の家にも売薬「黒牡丹」の看板を出す。
神奈川県庁の雇として、月給20円の安定した生活を送り、また好評の「西洋膝栗毛」の第二篇第三篇を書き続けている、しかし、著作からの収入は1冊10円程度であった。
神奈川県令大江卓は、下情に通じたものに県下を巡視させて教育の普及をはかるのがよい、と考えて戯作者あがりの魯文にその役をあてる。
魯文は村々を巡廻して訓示演説をした。
魯文は、前年横浜に来てから内証で「横浜毎日」に寄稿。
また、新聞が大衆のに次第に行きわたる形勢を見て、茶店風の新聞縦覧所を遊楽地の野毛山に開き、後妻のため子にそれを営ませていた。
魯文は、この年(明治7年)、神奈川県庁雇を辞し、「横浜毎日」社員となる。
彼にとって、新聞の雑報は気質に合い、また好評であった。
魯文が「横浜毎日」に寄稿する少し前、この新聞で最も重視されていた記者は栗本鋤雲(53歳)。
栗本鋤雲;
安積艮斎、佐藤一斎等に学び、昌平聾に入り、漢方医となり、幕府奥詰の医師となる。
31歳の時、幕府の命により、蝦夷の開発・保安のため函館に住み、在住武士たちの頭取となる。
その間、外国関係の諸問題を研究。
10年間、函館に住み、函館奉行組頭となった後、昌平學頭取(官立大学長)の役で江戸に戻る。
その後、開国談判、償金の延期談判、外国公館建築等にあたり、軍艦奉行、外国奉行、勘定奉行に就任。
慶応3年、特使としてフランスに派遣され、翌年の帰国後は帰農して小石川大塚に隠棲。
明治5年、横浜で「毎日新聞」に入る。
魯文が横浜に来た頃、栗本鋤雲は東京に戻って小西義敬の経営する「郵便報知新聞」主幹となっていた。
*
11月9日
・上海の新聞「申報」、論説「停戦を喜ぶ」掲載。
*
11月16日
・島田三郎(22)、「横浜毎日新聞」主筆となる。
*
11月17日
・スタンレー、ナイル川源流とコンゴ川調査。
*
11月18日
・米、女性クリスチャン禁酒同盟(WCTU)、結成。酒類売買禁止運動開始。
*
11月21日
・ワーグナー(61)、「神々の黄昏」完成。
*
11月26日
・木戸より伊藤へ書簡。
台湾問題解決により自分(木戸)の復帰の必要はなくなったと言う。復帰への条件闘争。
*
11月26日
・新島襄、帰国。
*
11月27日
・大久保利通、東京着。歓迎・安堵で出迎え。
以降、太政大臣三条・左大臣久光・右大臣岩倉以上の実質的首相の役割担う。
12月13日、天皇、大久保にお手許金1万円下賜。大隈には1500円。
*
11月30日
・英、ウィンストン・チャーチル、誕生。
*
*
「★明治年表インデックス」をご参照ください。
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この月
・朝鮮、「勢道宰相」閔升鎬(閔妃の義兄)、自宅に送られた小箱により爆殺。
翌年末には領議政李最応(大院君の兄)邸に放火事件。
犯人は大院君腹心申哲均とされ処刑。
閔升鎬没後、従兄弟の閔奎鎬(閔升鎬殺害の黒幕とも言われる)が一族を代表する実力者となる。
*
・官金出納担当の小野組が破産。政府、官金委託を第一国立銀行へ移す。
*
11月1日
・大久保利通、北京発。
16日、台湾立寄り、高雄港で西郷従道に撤兵約束させる。
27日、東京帰着。
大久保の日記
「是迄焦思苦心、言語ノ尽ス所アラズ、生涯又如此ノコトアラザルベシ、・・・此日終世不可志ナリ」(10月31日)
「九月十日北京江戸着、滞在凡五十日余、実ニ重難ノ任ヲ受、困苦不可言。幸ニ事成局ニ至リ、北京ヲ発シ自ラ心中覚快。鳴呼如此大事ニ際ス、古今稀有ノ事ニシテ生涯亦無キ所ナリ・・・往事ヲ思、将来ヲ考、潜ニ心事ノ期スルアリ」(11月1日)
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11月1日
・伊藤博文、木戸孝允の参議復帰説得に山口訪問。
2日、「勅言の御書付」と三条からの書状を渡す。
4、5日、会談。
7日、御書付への「御受書」が渡される。実際は木戸・伊藤間で、木戸が保養目的で京阪地方に出向き、ここで政府側と話し合うという調整となる。
7日夜、伊藤、帰京。
9日、伊藤より木戸へ、日清間の武力衝突回避に報告(木戸復帰の環境が整う)。
*
11月2日
・福地桜痴の「東京日々新聞」、社説欄を創設。
この頃、成島柳北の「朝野」、「郵便報知」「横浜毎日」「東京曙」も社説欄を常説。
政府施策を批判・評論する政論新聞の誕生であり、政府と新聞の蜜月も終わりに近づく。
*
11月2日
・「読売新聞」、創刊。発行部数200部。隔日発行。部数は急激に増加する。
翌明治8年4月19日から毎日刊行となり、6月1日には1万88枚を印刷するようになる。
所謂小新聞(こ新聞)。市井の出来事を書く雑報記事が売りもの。
創刊の辞(「稟告」)では、
「此の新ぶん紙は女童(をんなこども)のをしへにとて為になる事柄を誰にでも分るやうに書いてだす旨趣(つもり)でござりますから耳近い有益(ためびなる)ことは文を談話(はなし)のやうに認(したため)て御名まへ所がきをしるし投書(よせぶみ)を偏(ひとえ)に願ひます」。
昔から、天災地変が起ると、それを簡単な記事にし、瓦版に刷って、市中を走って叫びながら売り歩くものがあり、これを読売と言う。
この新聞は、題を読売とし、同じ売り方をしたので、市民は「朝野」「報知」「東京日日」よりも下品な新聞と見なした。
しかし、「読売新聞」は、記事が花柳界や芝居のこと、日常の市民生活の悲劇的な話、面白おかしい事件を、平易な筆で書き、忽ち人気新聞となる。
「朝野」は主に官庁の公布文や政治上の動きや政治評論をのせ、「東京日日」は市民生活の報告をのせるが、読者は知識階級が主で調子は固い。
「読売」は一般庶民の興味に訴える編集をしたので、部数は急激に増加。
この頃主な新聞は、「東京日日」「郵便報知」「日新真事誌」「朝野新聞」「横浜毎日新聞」。
「日新真事誌」は英人ブラックの経営で、政府と衝突してこの年廃刊。
「朝野新聞」は明石藩旧藩主松平侯爵が「公文通誌」を譲り受け、改題して明治6年8月刊行。社主乙部鼎は、前年洋行から帰った成島柳北を、この年社長とする。柳北は「雑録」欄に諧謔まじりの随筆を毎日発表、品格があり鋭い諷刺の利いた文章は、当代無比と称される。紙数は約2千部。
「横浜毎日新聞」には、沼間守一、島田三郎等がいた。
この年、仮名垣魯文は元弁天町から桜木町に移る。
彼は小説「安愚楽鍋」序文にも牛の煉薬「黒牡丹」製主と、自製の薬の広告をしていたが、桜木町の家にも売薬「黒牡丹」の看板を出す。
神奈川県庁の雇として、月給20円の安定した生活を送り、また好評の「西洋膝栗毛」の第二篇第三篇を書き続けている、しかし、著作からの収入は1冊10円程度であった。
神奈川県令大江卓は、下情に通じたものに県下を巡視させて教育の普及をはかるのがよい、と考えて戯作者あがりの魯文にその役をあてる。
魯文は村々を巡廻して訓示演説をした。
魯文は、前年横浜に来てから内証で「横浜毎日」に寄稿。
また、新聞が大衆のに次第に行きわたる形勢を見て、茶店風の新聞縦覧所を遊楽地の野毛山に開き、後妻のため子にそれを営ませていた。
魯文は、この年(明治7年)、神奈川県庁雇を辞し、「横浜毎日」社員となる。
彼にとって、新聞の雑報は気質に合い、また好評であった。
魯文が「横浜毎日」に寄稿する少し前、この新聞で最も重視されていた記者は栗本鋤雲(53歳)。
栗本鋤雲;
安積艮斎、佐藤一斎等に学び、昌平聾に入り、漢方医となり、幕府奥詰の医師となる。
31歳の時、幕府の命により、蝦夷の開発・保安のため函館に住み、在住武士たちの頭取となる。
その間、外国関係の諸問題を研究。
10年間、函館に住み、函館奉行組頭となった後、昌平學頭取(官立大学長)の役で江戸に戻る。
その後、開国談判、償金の延期談判、外国公館建築等にあたり、軍艦奉行、外国奉行、勘定奉行に就任。
慶応3年、特使としてフランスに派遣され、翌年の帰国後は帰農して小石川大塚に隠棲。
明治5年、横浜で「毎日新聞」に入る。
魯文が横浜に来た頃、栗本鋤雲は東京に戻って小西義敬の経営する「郵便報知新聞」主幹となっていた。
*
11月9日
・上海の新聞「申報」、論説「停戦を喜ぶ」掲載。
*
11月16日
・島田三郎(22)、「横浜毎日新聞」主筆となる。
*
11月17日
・スタンレー、ナイル川源流とコンゴ川調査。
*
11月18日
・米、女性クリスチャン禁酒同盟(WCTU)、結成。酒類売買禁止運動開始。
*
11月21日
・ワーグナー(61)、「神々の黄昏」完成。
*
11月26日
・木戸より伊藤へ書簡。
台湾問題解決により自分(木戸)の復帰の必要はなくなったと言う。復帰への条件闘争。
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11月26日
・新島襄、帰国。
*
11月27日
・大久保利通、東京着。歓迎・安堵で出迎え。
以降、太政大臣三条・左大臣久光・右大臣岩倉以上の実質的首相の役割担う。
12月13日、天皇、大久保にお手許金1万円下賜。大隈には1500円。
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11月30日
・英、ウィンストン・チャーチル、誕生。
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「★明治年表インデックス」をご参照ください。
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2011年6月26日日曜日
明治7年(1874)9月5日~10月31日 台湾問題を巡る日清談判妥結(日清戦争への火種残る) [一葉2歳]
明治7年(1874)9月5日
・上海、米人プロテスタント宣教師が創刊した「中国教会新報」、「万国公報」(週刊)と改題。のち3万8千部発行。欧米事情・思想の紹介。清末の思想界に影響を与える。
*
9月7日
・植木枝盛(18)、「明六雑誌」を購読。明六社の開明主義に大きな関心を持つ。
「閲読書日記」によると、明治7年に読んだ書物は37。
前年に続き、翻訳書が大部分を占めるが、福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之の「真政大意」、津田真道の「泰西国法論」、中村敬宇の「西国立志編」など明六社啓蒙思想家の著述が多数。
*
9月10日
・大久保一行、北京着。この日、恭親王が郡王に降格される。
12日、西太后、恭親王の降格取消し、円明園修復工事も中止させる。東西太后が同治帝を説得(西太后、政界復帰)。
14日、清国全権恭親王らと第1回交渉。16日、第2回。19日、第3回。10月5日、第4回。交渉不調だが、英国公使ウェードの尽力で31日、日清平和条約調印、和議成立。
14日の第1回交渉。
大久保は、両国の争点が「貴国政府は生蕃を属地といい、我国はこれを無主野蛮の地というの両三句に止まる」ことを確認してから問答に入るが、双方共これまでの言い分を繰り返すだけのどうどう回りに終始。
日本側は、国際法の基準に照らせば「生蕃」には清国の統治が及んでいないから無主の地だと主張。
清側は、日清修好条規第3条「両国の政事禁令各異なればその政事は己国自主の権に任すべし・・・」を採用して、「生蕃」を清国流のやり方で治めているのだからとやかくいうのは修好条規違反、と突っぱねる。
清国総税務司ロバート・ハートの描写。
大久保は、ヴィッテルやマーティンらの国際法学説を総署に射ちこんでいる。
総署はただこう返答するだけだ。「ご忠告どうもありがとうございます。けれども台湾はやはり私たちのものなのです」と。
日本人どもはわれわれを国際法論争に引き込みたがっている。かれらには、フランス人法律家とリゼンドルという大きな知恵袋があるから、うんと説得力があって的を射た一節を引用することができるのだ。
われわれは議論を避けている。そして、ただこういうのだ。「わかりました。けれども台湾は私たちのものなのです」・・・
大久保がポワソナアドと協議した交渉開始の際の質問二ヵ条。
清国は台湾を自らの版図と主張しているが、「第一ニ既ニ版図ト云ヘバ、必ズ官ヲ設ケ化導スルノ実アルベシ、今生蕃ニ何等ノ政教有リ乎。第二ニ万国往来シ各国皆ナ航旅ヲ保護ス、今生蕃人海路ノ障ヲ成シ屡々漂民ヲ害ス、之レヲ度外ニ置テ懲辧セズ、他国ノ人民ヲ憐マズシテ唯生蕃残暴ノ心ヲ養フ、此理有ル乎」というもの。
①は領土としての具体的立証を迫る、
②は、無害航行権という「自然ノ性法卜万国公法卜ニ背反スル兇暴ノ行為」を懲罰せぬのは正理にかなわない、と問詰したもの。
16日の清国側の回答。
①「台湾府志」などを根拠として、社餉(「生蕃」の納税)社学(一種の学校)があるから政教が存在する、就近庁州県に分轄したから官を設けている。
②国際交渉事件は、必ず照会文函によって調査答弁することを例とし、照会がなければ査弁しないとして、直接の回答を避ける。
日本側は、「答言を受けたが、要するに政教の実跡がない、政教のない土地は、万国公法上、領土と認められない」と反論、さらに正式に照会を発して、「夫れ、欧洲諸名公師論ずる所の公法、皆ないわく、政化逮(オヨ)ばざるの地は、以て所属となすを得ず。是れ理の公なるものとなす」と論じる。
*
9月10日
・児島惟謙、京都府士族世継重遠の長女と結婚
*
9月11日
・ワッパ騒動。酒田県、農民による雑税廃止・村役人不正追求運動、田川郡中心に全域に広がる。
県、指導者一斉検挙。
*
9月16日
・駐清イギリス公使ウェード、大久保全権を訪問。清が日本の出兵を非理としなければ撤兵するか問う。確答せず。
26日、再度来訪。日本が撤兵するなら斡旋すると持ちかける。依頼せず。イギリスは200商社が活動し貿易額は年間4億£超であり平和を望むと述べる。
*
9月19日
・天皇、近衛・東京鎮台・教導団の諸兵3370、砲18門などを統率して豊島軍元蓮沼村に行幸、陸軍中将山県有朋を参謀長として、自ら陸軍演習を指揮。
直接将官の上にたち指揮、(「元帥」「大元帥」としての行為)、国民徴兵軍である鎮台兵を直接指揮したこと(日本軍隊の最高統率者)で、男性的・軍人的天皇像を形成させてゆく。
*
9月20日
・小野梓ら7人、文化啓蒙団体「共存同衆」創立。馬場辰猪ら加わる。
初期はイギリス留学者が中心。75年1月「共存雑誌」発行。79年衆員56人。公開講談会開催・共存文庫(図書館)創設などの活動展開。81年以後衰退。
*
9月22日
・日本帝国電信条例制定。電信業務の政府管掌確立。
*
9月22日
・この頃~10月3日頃。マルクス、ドイツ各地を廻る。
ライプツィッヒでリープクネヒト、ブロス他党組織代表者と会い、政治情勢・ドイツ労働運動について細かに相談。
*
9月23日
・アメリカ、政府「スー・インディアンとブラックヒルズの譲渡を交渉する」委員会派遣。
スー族部族会議と交渉。売却拒否。
強制買収方針に対抗してクレージー・ホースが戦闘酋長に選出される。
*
*
10月
・朝鮮、日本公館長森山茂、一旦帰国。
*
・ワッパ騒動。酒田の豪商森藤右衛門、上京、左院に建白書提出。11月、再度提出。
*
・星亨、家族を残し単身イギリス留学に出発。1ヶ月後ナポリ上陸、ローマ~パリ経由、12月ロンドン着。
*
この月初
・大山弥助、フランス留学より帰国。
*
10月3日
・江戸後期の幕臣で町奉行の鳥居耀蔵(71)、没。
*
10月5日
・大久保全権と清国との第4回会談。
会談後、大久保はこれ以上の交渉は無駄なので近く帰国するというが、清国側は帰国するなら引き止めないと冷ややかに対応。
18日、第5回。20日、第6回。23日、第7回会談。
*
10月9日
・スイス、第1回万国郵便会議。万国郵便連合発足。
*
10月12日
・バイエルン王ルートヴィッヒ2世、皇太后マリア・ビスマルクに抵抗してカトリックに改宗。
*
10月14日
・大久保全権、駐清イギリス公使ウェードを訪問。償金と引換えに撤兵可能と婉曲に伝える。
ウェードは根回し開始。
*
10月15日
・岩倉、中国の大久保に手紙。
国内情勢を伝え、パークスが平和的収束を忠告、調停にあたってもよいとの「口気」であると伝える。
*
10月16日
・大久保、リゼンドルに償金の代りに琉球の日本への帰属を条件にしてはどうかと相談。
リゼンドルは、これは清が承知しないだろう。但し、台湾で遭難した琉球人の償金を清が日本に支払えば、実質的に清が琉球に対して日本の権利を認めたことになると回答。
*
10月17日
・島崎藤村の父正樹、天皇の行列に直訴状を書いた扇を投込む
*
10月25日
・日本側、井上毅立案交渉決裂宣言書を送り10月26日出発とする。
夕方、駐清イギリス公使ウェード、仲裁。日清双方を往復。
27日、日清双方が調停案受諾。
ウェードが伝えた総理衙門諸大臣の意向。
①清国政府は名義はともかく合計50万両を支払う、
②日本側の要求する支払い約束の証書を与える。
日本側はこの条件の受諾を決定。
ウェードは9月中旬以来、両国仲裁に動いていた。
*
10月28日
・この頃、マルクス、リープクネヒトより、10日にテルケがラッサル派の名で合同を申し入れてきた旨の報告受ける。
*
10月31日
・日清両国全権、「互換条款」3ヶ条と「互換慿単」に調印。
償金50万両で台湾占領地を放棄。50万両は日本貨77万円。遠征費用362万円に輸送費などで支出合計は771万円。
修好条規を結んだばかりの日本の仕打ちに対し、総署大臣恭親王らは皇帝に軍備増強を上奏。
反対を押し切って修好条規締結を進めた直隷(河北省)総督李鴻章も対日戦備強化を通感、のち北洋陸海軍となる。日清戦争の種が蒔かれた。
また、この協定により、清国は琉球遭難民が暗に日本国民と認めたことになり、国際的にも琉球に対する日本の統治権を認めたことになる。
「互換条款」:
前文、「台湾生蕃」が「日本国属民等」を加害したので日本国が「詰責」した。
一、このたび日本国が出兵したのは「保民義挙」のためだったと主張しても、清国は「不是」と言わない。
二、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に「撫恤銀」を支給する。日本軍が「蕃地」に設営した道路や建物は清国が有償で譲り受ける。金額や支払方法等は「互換憑単」で定める。
三、両国がやりとりした一切の公文は破棄し以後は論じない。「生蕃」にたいしては清国が自ら法を設けて航海民の安全を保証し再び「兇害」を起こさないことを約束させる。
「互換慿単」:
清国は「撫恤銀」10万両を即時支払う。「蕃地」道路・建物への報償40万両を日本側の撤兵完了と同時に支払う。撤兵期限は12月20日とする。
(50万両は日本貨幣換算で約77万円。日本軍の台湾遠征費用は約362万円、軍隊輸送用船舶購入費などを合算すると771万円余)
「互換条款」は、予想以上に日本側に有利。
①遭難者(琉球人)は「日本国属民等」であると明記された。
②日本国の出兵目的は「保民義挙」のため、つまり自国民保護のためだと主張しても清国は反対しないとされた。
③清国が支給する「撫恤銀」は遭難者と遺族に直接手渡されるのでなく日本政府に支払われるとされた。
清国政府が、琉球人は日本国籍であり、日本政府は琉球人にたいする統治の権利と保護の義務を有し、したがって琉球は日本領であると客観的に承認したことを意味する。
総署大臣恭親王、ウェード調停案を飲まざるをえない勅許を乞う上奏において、「本案は日本の背盟興師に発したものだが、わが海彊の武備が侍むに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と述べる。
日本の台湾出兵は日清修好条規に連反した不法行為であるのに、「わが備えの不足」のために阻止できず償金を出さねばならないところに追いこまれた無念さを吐露。
*
*
「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
*
・上海、米人プロテスタント宣教師が創刊した「中国教会新報」、「万国公報」(週刊)と改題。のち3万8千部発行。欧米事情・思想の紹介。清末の思想界に影響を与える。
*
9月7日
・植木枝盛(18)、「明六雑誌」を購読。明六社の開明主義に大きな関心を持つ。
「閲読書日記」によると、明治7年に読んだ書物は37。
前年に続き、翻訳書が大部分を占めるが、福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之の「真政大意」、津田真道の「泰西国法論」、中村敬宇の「西国立志編」など明六社啓蒙思想家の著述が多数。
*
9月10日
・大久保一行、北京着。この日、恭親王が郡王に降格される。
12日、西太后、恭親王の降格取消し、円明園修復工事も中止させる。東西太后が同治帝を説得(西太后、政界復帰)。
14日、清国全権恭親王らと第1回交渉。16日、第2回。19日、第3回。10月5日、第4回。交渉不調だが、英国公使ウェードの尽力で31日、日清平和条約調印、和議成立。
14日の第1回交渉。
大久保は、両国の争点が「貴国政府は生蕃を属地といい、我国はこれを無主野蛮の地というの両三句に止まる」ことを確認してから問答に入るが、双方共これまでの言い分を繰り返すだけのどうどう回りに終始。
日本側は、国際法の基準に照らせば「生蕃」には清国の統治が及んでいないから無主の地だと主張。
清側は、日清修好条規第3条「両国の政事禁令各異なればその政事は己国自主の権に任すべし・・・」を採用して、「生蕃」を清国流のやり方で治めているのだからとやかくいうのは修好条規違反、と突っぱねる。
清国総税務司ロバート・ハートの描写。
大久保は、ヴィッテルやマーティンらの国際法学説を総署に射ちこんでいる。
総署はただこう返答するだけだ。「ご忠告どうもありがとうございます。けれども台湾はやはり私たちのものなのです」と。
日本人どもはわれわれを国際法論争に引き込みたがっている。かれらには、フランス人法律家とリゼンドルという大きな知恵袋があるから、うんと説得力があって的を射た一節を引用することができるのだ。
われわれは議論を避けている。そして、ただこういうのだ。「わかりました。けれども台湾は私たちのものなのです」・・・
大久保がポワソナアドと協議した交渉開始の際の質問二ヵ条。
清国は台湾を自らの版図と主張しているが、「第一ニ既ニ版図ト云ヘバ、必ズ官ヲ設ケ化導スルノ実アルベシ、今生蕃ニ何等ノ政教有リ乎。第二ニ万国往来シ各国皆ナ航旅ヲ保護ス、今生蕃人海路ノ障ヲ成シ屡々漂民ヲ害ス、之レヲ度外ニ置テ懲辧セズ、他国ノ人民ヲ憐マズシテ唯生蕃残暴ノ心ヲ養フ、此理有ル乎」というもの。
①は領土としての具体的立証を迫る、
②は、無害航行権という「自然ノ性法卜万国公法卜ニ背反スル兇暴ノ行為」を懲罰せぬのは正理にかなわない、と問詰したもの。
16日の清国側の回答。
①「台湾府志」などを根拠として、社餉(「生蕃」の納税)社学(一種の学校)があるから政教が存在する、就近庁州県に分轄したから官を設けている。
②国際交渉事件は、必ず照会文函によって調査答弁することを例とし、照会がなければ査弁しないとして、直接の回答を避ける。
日本側は、「答言を受けたが、要するに政教の実跡がない、政教のない土地は、万国公法上、領土と認められない」と反論、さらに正式に照会を発して、「夫れ、欧洲諸名公師論ずる所の公法、皆ないわく、政化逮(オヨ)ばざるの地は、以て所属となすを得ず。是れ理の公なるものとなす」と論じる。
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9月10日
・児島惟謙、京都府士族世継重遠の長女と結婚
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9月11日
・ワッパ騒動。酒田県、農民による雑税廃止・村役人不正追求運動、田川郡中心に全域に広がる。
県、指導者一斉検挙。
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9月16日
・駐清イギリス公使ウェード、大久保全権を訪問。清が日本の出兵を非理としなければ撤兵するか問う。確答せず。
26日、再度来訪。日本が撤兵するなら斡旋すると持ちかける。依頼せず。イギリスは200商社が活動し貿易額は年間4億£超であり平和を望むと述べる。
*
9月19日
・天皇、近衛・東京鎮台・教導団の諸兵3370、砲18門などを統率して豊島軍元蓮沼村に行幸、陸軍中将山県有朋を参謀長として、自ら陸軍演習を指揮。
直接将官の上にたち指揮、(「元帥」「大元帥」としての行為)、国民徴兵軍である鎮台兵を直接指揮したこと(日本軍隊の最高統率者)で、男性的・軍人的天皇像を形成させてゆく。
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9月20日
・小野梓ら7人、文化啓蒙団体「共存同衆」創立。馬場辰猪ら加わる。
初期はイギリス留学者が中心。75年1月「共存雑誌」発行。79年衆員56人。公開講談会開催・共存文庫(図書館)創設などの活動展開。81年以後衰退。
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9月22日
・日本帝国電信条例制定。電信業務の政府管掌確立。
*
9月22日
・この頃~10月3日頃。マルクス、ドイツ各地を廻る。
ライプツィッヒでリープクネヒト、ブロス他党組織代表者と会い、政治情勢・ドイツ労働運動について細かに相談。
*
9月23日
・アメリカ、政府「スー・インディアンとブラックヒルズの譲渡を交渉する」委員会派遣。
スー族部族会議と交渉。売却拒否。
強制買収方針に対抗してクレージー・ホースが戦闘酋長に選出される。
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10月
・朝鮮、日本公館長森山茂、一旦帰国。
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・ワッパ騒動。酒田の豪商森藤右衛門、上京、左院に建白書提出。11月、再度提出。
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・星亨、家族を残し単身イギリス留学に出発。1ヶ月後ナポリ上陸、ローマ~パリ経由、12月ロンドン着。
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この月初
・大山弥助、フランス留学より帰国。
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10月3日
・江戸後期の幕臣で町奉行の鳥居耀蔵(71)、没。
*
10月5日
・大久保全権と清国との第4回会談。
会談後、大久保はこれ以上の交渉は無駄なので近く帰国するというが、清国側は帰国するなら引き止めないと冷ややかに対応。
18日、第5回。20日、第6回。23日、第7回会談。
*
10月9日
・スイス、第1回万国郵便会議。万国郵便連合発足。
*
10月12日
・バイエルン王ルートヴィッヒ2世、皇太后マリア・ビスマルクに抵抗してカトリックに改宗。
*
10月14日
・大久保全権、駐清イギリス公使ウェードを訪問。償金と引換えに撤兵可能と婉曲に伝える。
ウェードは根回し開始。
*
10月15日
・岩倉、中国の大久保に手紙。
国内情勢を伝え、パークスが平和的収束を忠告、調停にあたってもよいとの「口気」であると伝える。
*
10月16日
・大久保、リゼンドルに償金の代りに琉球の日本への帰属を条件にしてはどうかと相談。
リゼンドルは、これは清が承知しないだろう。但し、台湾で遭難した琉球人の償金を清が日本に支払えば、実質的に清が琉球に対して日本の権利を認めたことになると回答。
*
10月17日
・島崎藤村の父正樹、天皇の行列に直訴状を書いた扇を投込む
*
10月25日
・日本側、井上毅立案交渉決裂宣言書を送り10月26日出発とする。
夕方、駐清イギリス公使ウェード、仲裁。日清双方を往復。
27日、日清双方が調停案受諾。
ウェードが伝えた総理衙門諸大臣の意向。
①清国政府は名義はともかく合計50万両を支払う、
②日本側の要求する支払い約束の証書を与える。
日本側はこの条件の受諾を決定。
ウェードは9月中旬以来、両国仲裁に動いていた。
*
10月28日
・この頃、マルクス、リープクネヒトより、10日にテルケがラッサル派の名で合同を申し入れてきた旨の報告受ける。
*
10月31日
・日清両国全権、「互換条款」3ヶ条と「互換慿単」に調印。
償金50万両で台湾占領地を放棄。50万両は日本貨77万円。遠征費用362万円に輸送費などで支出合計は771万円。
修好条規を結んだばかりの日本の仕打ちに対し、総署大臣恭親王らは皇帝に軍備増強を上奏。
反対を押し切って修好条規締結を進めた直隷(河北省)総督李鴻章も対日戦備強化を通感、のち北洋陸海軍となる。日清戦争の種が蒔かれた。
また、この協定により、清国は琉球遭難民が暗に日本国民と認めたことになり、国際的にも琉球に対する日本の統治権を認めたことになる。
「互換条款」:
前文、「台湾生蕃」が「日本国属民等」を加害したので日本国が「詰責」した。
一、このたび日本国が出兵したのは「保民義挙」のためだったと主張しても、清国は「不是」と言わない。
二、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に「撫恤銀」を支給する。日本軍が「蕃地」に設営した道路や建物は清国が有償で譲り受ける。金額や支払方法等は「互換憑単」で定める。
三、両国がやりとりした一切の公文は破棄し以後は論じない。「生蕃」にたいしては清国が自ら法を設けて航海民の安全を保証し再び「兇害」を起こさないことを約束させる。
「互換慿単」:
清国は「撫恤銀」10万両を即時支払う。「蕃地」道路・建物への報償40万両を日本側の撤兵完了と同時に支払う。撤兵期限は12月20日とする。
(50万両は日本貨幣換算で約77万円。日本軍の台湾遠征費用は約362万円、軍隊輸送用船舶購入費などを合算すると771万円余)
「互換条款」は、予想以上に日本側に有利。
①遭難者(琉球人)は「日本国属民等」であると明記された。
②日本国の出兵目的は「保民義挙」のため、つまり自国民保護のためだと主張しても清国は反対しないとされた。
③清国が支給する「撫恤銀」は遭難者と遺族に直接手渡されるのでなく日本政府に支払われるとされた。
清国政府が、琉球人は日本国籍であり、日本政府は琉球人にたいする統治の権利と保護の義務を有し、したがって琉球は日本領であると客観的に承認したことを意味する。
総署大臣恭親王、ウェード調停案を飲まざるをえない勅許を乞う上奏において、「本案は日本の背盟興師に発したものだが、わが海彊の武備が侍むに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と述べる。
日本の台湾出兵は日清修好条規に連反した不法行為であるのに、「わが備えの不足」のために阻止できず償金を出さねばならないところに追いこまれた無念さを吐露。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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2011年6月12日日曜日
明治7年(1874)8月10日~9月3日 参議兼内務卿大久保利通、岩倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大臣に任命される [一葉2歳]
明治7年(1874)8月
この月
・秋田県士族田崎秀親、ドイツ代弁領事ハーベルを箱根で殺害。
*
・高知県士族中江篤助(兆民)、東京府知事に対し、東京の第3大区3小区中6番町45番地に仏文学の家塾を開きたいとの願書(「家塾開業願」)を提出。
この年3月、文部省は、「帰朝留学生心得箇条」を出し、「海外留学生帰朝ノ上ハ進退可為勝手事」との方針を示す(これまで官費留学生が帰国後勝手に民間に就職するのを禁止していたが、今後は官費留学生の面倒をみないと、方針を変更)。
そのため兆民は、フランス学の塾を開いて生活の資を得ようとする。
「家塾開業願」によると、学科は仏文学、教則としてはフランス語の単語・会話・文法の諸教科書のほか、ジュリー「希臘羅馬史」「仏近世史」、ジュクードレー「当代史」、ヴォルテール「査理十二世史」「路易十四世史」、モンテスキュー「羅馬興亡論」、フェネロン「的列瑪屈」、ルソー「民約論」「開化論」「教育論」、及び道学書となっている。
間もなく開業許可となり、10月、仏蘭西学舎開塾の広告を出す。
尚、「中江篤助稿 明治七年一〇月上旬」と記された「民約論巻之二」の原稿が現存しているところから、おそらく「巻之一」は既に完成していたと推測できる(「社会契約論」の翻訳は、遅くとも帰国早々か、或は帰国の船中もしくはフランス時代から始まっていたであろう)。
*
8月1日
・参議兼内務卿大久保利通、岩倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大臣に任命される。
6日、横浜出港。長崎(10日着、16日発)、上海経由。
顧問ボアソナアド。随員司法省7等出仕名村泰蔵・同井上毅・特例弁務使リゼンドルら21名。
9月10日北京着。
ボアソナアドの司法卿大木喬任への上申:
「各事件被仰付侯通り、日本政府におゐてハ余ニ面目ヲ表セラレ候ニ付テハ、信ヲ以テ之レニ報ジ度奉存候。・・・此度ノ事件ニ付而ハ、余忠勤ヲ表スベキ事、閣下ニ御請合申上候」(8月3日)。 5日、大久保に対し、委任状に併せて、
一、柳原公使への内勅および田辺四等出仕持参の訓令書が「不動の要旨」とはいえ「便宜取捨談判するの権」
二、「和戦を決するの権」
三、「在清の諸官員」を「指揮進退するの権」
四、必要があれは「武官」をも「指揮進退するの権」
五、特例弁務使リゼンドルを「進退使令するの権」
が付与される。
*
8月1日
・マルクス(56)、内務大臣にイギリスへの帰化を請願。29日、却下。
*
8月2日
・伊地知正治・黒田清隆・山県有朋、参議就任。大隈・大木・伊藤・勝・寺島・大久保入れて全9名となる。
*
8月15日
・立志社総代林有造、台湾征討の義勇兵編成願を高知県権令に提出(10月28日不認可)
*
8月15日~9月21日
・マルクス(56)、グンベルトの勧めに従い、カールスバートで療養。
*
8月16日
・ワッパ騒動。酒田県、1万人が参加した石代上納・雑税廃止を求める農民騒動が広がりをみせる。
*
*
9月
・朝鮮、日本公館長森山茂と釜山地方管轄東莱府使朴斉寛間で交渉開始合意。台湾出兵の影響で軟化。
10月、森山は一旦帰国。
翌明治8年2月、正式代表使節として副官広津弘信を伴い釜山着。
*
・置賜県(現、山形県南部)県令関義臣、米沢藩出身左院議官宮島誠一郎の圧力で更迭。
家禄石代と騰貴した米価との乖離で、士族が騒ぎ、旧藩大参事であった千坂高雅の奔走で沈静化。
ただし、関は集権化の辣腕を振るうが、言行に過度な振舞いもあり地元士族との軋轢激しくなる。
*
・官立大学として6年制の開成学校が置かれる。医学校との2つで大学を構成。
校舎は、明治6年2月起工、8月に完成。洋風2階建、総坪1,800余坪。場所は、旧榊原邸(現、学士会館辺り)。
この月の新学期には、法科9人、化学9人、工学6人の学生がいた。
*
・開成学校に入るための予備校として、外国語学校が全国に8ヶ所設けられる。
この月、開成学校の向側の東京外国語学校(4年制、各半年毎に進級、上級から1~8級に分かれる)に入った生徒に、大島正健、添田寿一、佐藤昌介、土方寧、藤沢利喜太郎、高田早苗、市島謙吉、田中館愛橘、新渡戸稲造、内村鑑三がいる。
大島正健・佐藤昌介・高田早苗等は5級に、新渡戸稲造・内村鑑三は7級に編入。
佐藤昌介・新渡戸稲造は南部藩士の子。江戸詰藩邸は芝の桜川町にあり、両家はその藩邸内にあったので2人は知り合い。
新渡戸の祖父伝は十和田湖の水を東方に流して三本木の農地を開拓した著名な人物。維新後、父子は郷里へ戻るが、稲造は明治4年、東京在住の叔父のもとで教育されるため上京。
佐藤昌介もその年上京し、大学南校の後外国語学校に入学。この年、佐藤は19歳、新渡戸は13歳。佐藤の父昌蔵は南部藩花巻支城詰の武士で、政治に志を持っていた。最初の妻で、昌介の母キンが没し、後妻キヨを迎える。キヨと昌蔵との間に、明治4年6月15日、佐藤輔子が生まれる。 のち、中江篤助が東京外国語学校校長になる。
開成学校は、初めヨーロッパ諸国語による教育を行う方針であったが、間もなく英語を主とすることに方針を変え、その予科である外国語学校は、この年未、英語学校と名を変え、英語以外の諸外国語を学ぶ生徒のために、同じ一ツ橋外に、外国語学校を併存することになる。
中江はこの措置を不満とし外国語学校長を辞任。
この年9月17日、全国に8ヶ所設けられた外国語学校のうちの第2として愛知外国語学校が名古屋に開校。
この時、坪内勇蔵(16)が入学。勇蔵の父は美濃の太田の代官の手代役で、維新後は名古屋近くの笹島村に住んでいた。勇蔵は10十番目に生れた末子で、父母や姉たちに愛され、草双紙や読本類を愛読し、母と芝居を見に行くのが大好きな少年であった。寺小屋や私立の語学校などで学んだ後、この官立の外国語学校に入った。
坪内は入学すると寄宿舎に入った。
学校には外人教師が4人いたが、教頭はアメリカ人医師ドクタア・レーザムで、英語を教え発声法に力を入れた。シェイクスピアの「ハムレット」では、表情たっぷりに俳優のような動作を混え、「トゥー・
ピー・オア・ナット・トゥー・ピー」と暗誦し、歌舞伎を見馴れていた坪内は、外国の芝居を見るような気持がして印象に残った。
坪内は、成績がよく、1年飛び級をした。彼は江戸末期の小説類を耽読し殆ど読み尽していたので、新しい読みものを捜し、仮名垣魯文「西洋膝栗毛」「安愚楽鍋」を読んだ。坪内は、上京して開成学校へ入ったら魯文の弟子になろうと空想した。
*
・小室信夫ら、徳島に自助社創立。
*
・フェノロサ、ハーバード大・大学院進学。スペンサー、ヘーゲルの哲学研究。
*
9月1日
・鶴岡、致道館跡、旧士族の子弟のための苗秀学校、開校。
*
9月2日
・(露暦8/21)チャイコフスキー「鍛冶屋のヴァクーラ」完成
*
9月3日
・スペイン、サガスタ立憲派内閣成立
*
*
「★明治年表インデックス」 をごさんしょう下さい。
*
この月
・秋田県士族田崎秀親、ドイツ代弁領事ハーベルを箱根で殺害。
*
・高知県士族中江篤助(兆民)、東京府知事に対し、東京の第3大区3小区中6番町45番地に仏文学の家塾を開きたいとの願書(「家塾開業願」)を提出。
この年3月、文部省は、「帰朝留学生心得箇条」を出し、「海外留学生帰朝ノ上ハ進退可為勝手事」との方針を示す(これまで官費留学生が帰国後勝手に民間に就職するのを禁止していたが、今後は官費留学生の面倒をみないと、方針を変更)。
そのため兆民は、フランス学の塾を開いて生活の資を得ようとする。
「家塾開業願」によると、学科は仏文学、教則としてはフランス語の単語・会話・文法の諸教科書のほか、ジュリー「希臘羅馬史」「仏近世史」、ジュクードレー「当代史」、ヴォルテール「査理十二世史」「路易十四世史」、モンテスキュー「羅馬興亡論」、フェネロン「的列瑪屈」、ルソー「民約論」「開化論」「教育論」、及び道学書となっている。
間もなく開業許可となり、10月、仏蘭西学舎開塾の広告を出す。
尚、「中江篤助稿 明治七年一〇月上旬」と記された「民約論巻之二」の原稿が現存しているところから、おそらく「巻之一」は既に完成していたと推測できる(「社会契約論」の翻訳は、遅くとも帰国早々か、或は帰国の船中もしくはフランス時代から始まっていたであろう)。
*
8月1日
・参議兼内務卿大久保利通、岩倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大臣に任命される。
6日、横浜出港。長崎(10日着、16日発)、上海経由。
顧問ボアソナアド。随員司法省7等出仕名村泰蔵・同井上毅・特例弁務使リゼンドルら21名。
9月10日北京着。
ボアソナアドの司法卿大木喬任への上申:
「各事件被仰付侯通り、日本政府におゐてハ余ニ面目ヲ表セラレ候ニ付テハ、信ヲ以テ之レニ報ジ度奉存候。・・・此度ノ事件ニ付而ハ、余忠勤ヲ表スベキ事、閣下ニ御請合申上候」(8月3日)。 5日、大久保に対し、委任状に併せて、
一、柳原公使への内勅および田辺四等出仕持参の訓令書が「不動の要旨」とはいえ「便宜取捨談判するの権」
二、「和戦を決するの権」
三、「在清の諸官員」を「指揮進退するの権」
四、必要があれは「武官」をも「指揮進退するの権」
五、特例弁務使リゼンドルを「進退使令するの権」
が付与される。
*
8月1日
・マルクス(56)、内務大臣にイギリスへの帰化を請願。29日、却下。
*
8月2日
・伊地知正治・黒田清隆・山県有朋、参議就任。大隈・大木・伊藤・勝・寺島・大久保入れて全9名となる。
*
8月15日
・立志社総代林有造、台湾征討の義勇兵編成願を高知県権令に提出(10月28日不認可)
*
8月15日~9月21日
・マルクス(56)、グンベルトの勧めに従い、カールスバートで療養。
*
8月16日
・ワッパ騒動。酒田県、1万人が参加した石代上納・雑税廃止を求める農民騒動が広がりをみせる。
*
*
9月
・朝鮮、日本公館長森山茂と釜山地方管轄東莱府使朴斉寛間で交渉開始合意。台湾出兵の影響で軟化。
10月、森山は一旦帰国。
翌明治8年2月、正式代表使節として副官広津弘信を伴い釜山着。
*
・置賜県(現、山形県南部)県令関義臣、米沢藩出身左院議官宮島誠一郎の圧力で更迭。
家禄石代と騰貴した米価との乖離で、士族が騒ぎ、旧藩大参事であった千坂高雅の奔走で沈静化。
ただし、関は集権化の辣腕を振るうが、言行に過度な振舞いもあり地元士族との軋轢激しくなる。
*
・官立大学として6年制の開成学校が置かれる。医学校との2つで大学を構成。
校舎は、明治6年2月起工、8月に完成。洋風2階建、総坪1,800余坪。場所は、旧榊原邸(現、学士会館辺り)。
この月の新学期には、法科9人、化学9人、工学6人の学生がいた。
*
・開成学校に入るための予備校として、外国語学校が全国に8ヶ所設けられる。
この月、開成学校の向側の東京外国語学校(4年制、各半年毎に進級、上級から1~8級に分かれる)に入った生徒に、大島正健、添田寿一、佐藤昌介、土方寧、藤沢利喜太郎、高田早苗、市島謙吉、田中館愛橘、新渡戸稲造、内村鑑三がいる。
大島正健・佐藤昌介・高田早苗等は5級に、新渡戸稲造・内村鑑三は7級に編入。
佐藤昌介・新渡戸稲造は南部藩士の子。江戸詰藩邸は芝の桜川町にあり、両家はその藩邸内にあったので2人は知り合い。
新渡戸の祖父伝は十和田湖の水を東方に流して三本木の農地を開拓した著名な人物。維新後、父子は郷里へ戻るが、稲造は明治4年、東京在住の叔父のもとで教育されるため上京。
佐藤昌介もその年上京し、大学南校の後外国語学校に入学。この年、佐藤は19歳、新渡戸は13歳。佐藤の父昌蔵は南部藩花巻支城詰の武士で、政治に志を持っていた。最初の妻で、昌介の母キンが没し、後妻キヨを迎える。キヨと昌蔵との間に、明治4年6月15日、佐藤輔子が生まれる。 のち、中江篤助が東京外国語学校校長になる。
開成学校は、初めヨーロッパ諸国語による教育を行う方針であったが、間もなく英語を主とすることに方針を変え、その予科である外国語学校は、この年未、英語学校と名を変え、英語以外の諸外国語を学ぶ生徒のために、同じ一ツ橋外に、外国語学校を併存することになる。
中江はこの措置を不満とし外国語学校長を辞任。
この年9月17日、全国に8ヶ所設けられた外国語学校のうちの第2として愛知外国語学校が名古屋に開校。
この時、坪内勇蔵(16)が入学。勇蔵の父は美濃の太田の代官の手代役で、維新後は名古屋近くの笹島村に住んでいた。勇蔵は10十番目に生れた末子で、父母や姉たちに愛され、草双紙や読本類を愛読し、母と芝居を見に行くのが大好きな少年であった。寺小屋や私立の語学校などで学んだ後、この官立の外国語学校に入った。
坪内は入学すると寄宿舎に入った。
学校には外人教師が4人いたが、教頭はアメリカ人医師ドクタア・レーザムで、英語を教え発声法に力を入れた。シェイクスピアの「ハムレット」では、表情たっぷりに俳優のような動作を混え、「トゥー・
ピー・オア・ナット・トゥー・ピー」と暗誦し、歌舞伎を見馴れていた坪内は、外国の芝居を見るような気持がして印象に残った。
坪内は、成績がよく、1年飛び級をした。彼は江戸末期の小説類を耽読し殆ど読み尽していたので、新しい読みものを捜し、仮名垣魯文「西洋膝栗毛」「安愚楽鍋」を読んだ。坪内は、上京して開成学校へ入ったら魯文の弟子になろうと空想した。
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・小室信夫ら、徳島に自助社創立。
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・フェノロサ、ハーバード大・大学院進学。スペンサー、ヘーゲルの哲学研究。
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9月1日
・鶴岡、致道館跡、旧士族の子弟のための苗秀学校、開校。
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9月2日
・(露暦8/21)チャイコフスキー「鍛冶屋のヴァクーラ」完成
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9月3日
・スペイン、サガスタ立憲派内閣成立
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「★明治年表インデックス」 をごさんしょう下さい。
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2011年6月5日日曜日
明治7年(1874)6月14日~7月31日 台湾問題解決に償金説浮上 大隈は開戦主張 シッティング・ブルとクレージー・ホースはインディアン連合軍を組織 [一葉2歳]
明治7年(1874)6月14日
・朝鮮に滞在の森山茂、3回目の交渉。好転の兆し。
21日、寺島外務卿宛に報告。日本の征韓論や台湾出兵は清国を通して知られていて、日本の出方が注目されている。
森山は、5ヶ月以内に、外務卿寺島宗則と外務大丞宗重正(元対馬藩主)の書契を持参、朝鮮政府の礼曹判書に提出し交渉の事前協議に入る旨通告し帰国。
*
6月15日
・植木枝盛(18)の部落差別を非難する枝盛の投書を掲載(「高知新聞」)。
活字になった枝盛の文章の初見。
「高知新聞」は明治6年7月30日に民立共立社から発刊される。帰郷後は新聞縦覧場で新聞を読んでいたが、この年4月13日から枝盛の自家で購読するようになる。
*
6月18日
・イギリス公使パークス、寺島外務卿に各国公使に公告なしの台湾出兵を難詰。
大兵を他国領土に送るにあたって各国公使に公告する以前に、軍隊が「私に」出動したのは文明国にあるまじきことだ、日本が万国公法を犯しているのは明らかだ、清への場合は例外としても他国へ3千もの大軍を送れば必ず戦争になる、日本が清に向かってそのようなことをしたからには他国が日本に向かって同様なことをしても文句はいえないだろう、もし他国が北海道に3千の軍隊を上陸させたら日本はどうするつもりか・・・。脅迫すれすれの威嚇的な言辞。
さらに、パークスは、清国総署大臣から外務卿あての照会に回答したのかと日本側の落ち度を突いてくる。寺島は未だ回答していないと日本側の怠慢を告白。
*
6月18日
・大隈蕃地事務局長官、蕃地事務局准2等出仕リゼンドルと連署で台湾出兵の法理的根拠をボアソナアドに諮問。
24日、大久保利通、ボアソナアドを知る。
25日、ボアソナアド、大隈へ意見書。
出兵がもたらす戦争への危険性警告。大久保は、その後何度もボアソナアドに会い、その万国公法理論が重要・有効と認め、北京への随行を決める。
ボワソナアドの回答。
①「蕃地」が無主地であることを論証するためにリゼンドルが挙げた歴史的・地理的根拠は正当であり、清国は領有の「権」を主張できない。
②しかし、清国が領有を断念したとの証拠もない。
③他国が「蕃地」を征服しようとすれば、清国には「自国安堵」のために他国の行為を.「妨制」する「利」がある。
ポワソナアドは、リゼンドルの顔をたてながらも、たとえ「蕃地」無主地論が成立するとしても清国が自国の安全保障を理由に武力干渉に訴えることは国際的に承認されると指摘。
*
6月22日
・榎本武揚・ロシア外務省アジア局長ストレモーホフ会談
*
6月23日
・屯田兵制度設置
*
6月24日
・清国皇帝、日本の出兵は修交条規違反、即時撤退を要求するよう、もし従わない場合は罪を明示して討伐するよう閩浙総督李鶴年らに勅命。
しかし、皇帝が沿海各地の総督・巡撫・将軍らに戦備と勝算を「諮問」したところ、台湾防備関係者以外はみな戦備不十分だから勝算なしとの悲観論を上奏。
清軍の装備は貧弱で士気も低く、軍1万を台湾に派遣するがマラリアに苦しむ日本軍3千に対しても何も手出しせず。
*
6月24日
・台湾から帰着の谷干城、原住民平定近いと報告。
*
6月27日
・第1回三田演説会開催。会員は福澤諭吉ら14人。
*
6月27日
・クワハディーコマンチ族の若者クワナ・パーカー、コマンチ族・カイオワ族南部シャイアン族連合軍を率いテキサスの白人交易所アドービ・ウォールズを襲撃。合衆国軍の徹底した報復戦に降伏。
「1875年6月2日」条約でインディアン専用地とされたバッファローの住む地域に白人猟師が侵入した事から始まったにもかかわらず、戦士の多くはフロリダ刑務所に収監、残った部族の者はオクラホマの居留地へ戻される。
合衆国政府は、ジョージ・カスターら各将軍に北部平原インディアンを狩り集め同じ様にインディアン準州(オクラホマ)へ送るように命令。
シッティング・ブルとクレージー・ホースは、残っていたインディアンを集めて連合軍を組織。
*
*
7月
・銀座煉瓦街、完成。
*
・ロシアんのアレクサンドル3世、ブラッセルに欧州15国とトルコ代表招集。俘虜待遇含む戦争法理。ブラッセル宣言、米不参加、英反対
*
7月5日
・台湾問題に関する閣議。
閣議に備えて、リゼンドルが①「番地」領有、②償金と引換えに台湾を返還、の2つの選択肢を示し、幕引き方法に償金説が浮上。大勢がこれに傾きだす。
清国総署大臣が日本外務卿に宛てて抗議的照会を発し、清国皇帝が遠征日本軍討伐を勅命したので、台湾一件は日清国交問題の様相を帯びるに至る。
日本の世論も、「蕃地」平定が済んだ以上は速やかに撤兵すべきとの意見、この機会に清国本土に進出せよとの意見などに分裂。
政府内の意見も様々で、大久保日記によれば、大久保は終始「断然の御確定」(7月3日)と基本方針の確定を主張するが、「議論分立につき、(三条が)別して御心配」(4日)、「蕃地事件御評議これあり、すこぶる紛論なり」(5日)と、連日の閣議にもかかわらず意見は不一致のまま。
*
7月8日
・三条太政大臣、陸軍卿山県に命じ台湾問題を陸軍将官の見解を問わせる。この日の閣議で報告。
山県有朋、津田出、山田顕義、三浦梧楼、井田譲、曾我祐準各少将は開戦に消極的。
野津鎮雄・種田政明2少将のみ戦備は不充分だが戦えなくはないと回答。
9日、暗黙のうちに償金説に立脚しながらも表面上は「やむをえず戦う」と決定。
「清国との商議は、両国の和親を保持するに力むるは勿論なりと雖も、もし彼より釁端(キンタン)を啓(ヒラ)かば、交戦已むを得ざるべし」。
日清両国共に、軍部は戦うことに腰が引けている。
*
7月9日
・武市熊吉、岩倉具視暗殺未遂の罪で斬刑。
*
7月12日
・外務省が管轄している琉球藩を内務省に移管。内国化を進める。
*
7月13日
・大久保、渡清を内願。岩倉が反対(大久保の独断を危惧、不信)。三条も同調。
30日、大久保は渡清への側面支援を伊藤博文に要請。大久保渡清には大隈も反対。
8月、派遣決定。
30日付け大久保の伊藤博文(台湾出兵には消極的)宛て手紙。
自分の清国行き実現への側面協力を頼み、「即今廟堂上(政府内)の景況を以て・・・実以て慨歎泣血の至りに堪えず、ここに至り既往を論じ候ても、眼を開いて寝語(寝言)するも同然にて、丈夫の恥じるべきところ・・・」と、「既往」をあげつらわれることへの憤懣を露わにする。
「既往」は、「台湾蕃地処分要略」策定や長崎で出兵断行を裁定したことと推測できるが、台湾出兵に消極的だった伊藤に理解と同意を求めているところから見ると、大久保と伊藤が通じ合えた明治6年政変での「一の秘策」の共謀のこととも推測できる。
「廟堂上」で大久保に後ろ指が指されている「既往」は、明治6年政変の際の不明朗な行動で、政変の後遺症がなお大久保に重くのしかかっていたと解釈できる。
大隈も反対。
31日の大久保日記には、「同人(大隈)、中子(大久保)清国行きにつき異論これあり、当人辞職云々の事あり」とある。大久保が渡清するようなら大隈は辞職するというくらい大隈の反対は強硬。
同日記には、黒田や伊藤も「異論あり」の態度だったという。
大久保の不人気、大久保への不信感の強さ、根強さを示す。
*
7月13日
・東京府、道路や車内での頬かぶり・手拭かぶり禁止。
*
7月13日
・プロイセン、ビスマルク狙撃。軽傷、犯人桶屋職人懲役14年。
*
7月16日
・外務省4等出仕田辺太一、清国派遣。柳原前光の援助。償金による解決訓令。
田辺が携行した訓令書は、「償金を得て攻取の地を譲与する」ことを「神速議決」すること。つまり、「フォルモサ島の一部を日本に併す」方針を根太的に転換して、金銭と引き換えに「蕃地」から手を引くことへと譲歩し、しかも大至急に取り決め上というわけである。
軍部が弱気で、おまけに病魔で進退きわまった西郷遠征軍という重荷を抱えている以上、これ以外の選択はない。
さらに、「這回(シヤカイ)の機会を以て琉球両属の淵源を絶ち、朝鮮自新(ジシン)の門戸を開くべし」と、台湾への野望を放棄する代わりに琉球の完全確保を狙い、ついでに朝鮮との関係打開の手掛かりを探ることも任務に加えられた。
また、リゼンドルを特例弁務使として福建省に派遣し、かれの人脈をたどって側面工作に当らせる。
しかし、9日閣議の開戦決意と「蕃地」有償放棄はワン・セットの筈であったが、柳原はこれを理解せず、強気の開戦決意に立脚した交渉を続け、意見の不一致はなかなか埋まらず。
*
7月24日
・イギリス、ガーナのゴールド・コースト南部を植民地とする。
*
7月25日
・小学校教員検定試験・教員免許状制度、初めて制定。
*
7月28日
・台湾蕃地事務局長官大隈重信、閣議に「海外出師の議」を提出。
「今日戦議一決し、現兵急進海陸並び迫る、彼(清国)兵備未だ実せず、周章狼狽なす所を知らず、ついに彼より和を請い罪を謝するに至らん」
「今日不戦に決す、彼に在りては兵備ますます修め、他日大挙もって我に迫らば、勢い戦わざるを得ず、・・・しかして今日先んじて戦うと、他日先んじられて戦うと、その兵鋒の利鈍あにただ一と十とのみならんや」
「これ今日海外出師のこと急にせざるべからざる所以なり」と、早急に開戦に踏み切るようにと力説。
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7月28日
・政府、台湾征討で三菱に輸送業務を委託
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7月29日
・岩倉、大久保の清国使節への「切迫内願」に態度を軟化させ、大久保派遣の件を明日の閣議にかけようと約束。
*
7月31日
・ロシアよりメノナイト教徒移民第1陣、ケベック到着。
*
7月末
・親善大使としてスー族領域のブラックヒルズへ赴くジョージ・カスターと第7騎兵隊及び民間人5人(内2人は地質学者とベテラン金鉱堀)、金鉱を発見。
7月末、カスターは報告書に纏めるが、新聞社にスッパ抜かれた、スー族の「聖なる山」に金鉱堀が殺到。ララミー砦条約は一方的に無効にされる。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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・朝鮮に滞在の森山茂、3回目の交渉。好転の兆し。
21日、寺島外務卿宛に報告。日本の征韓論や台湾出兵は清国を通して知られていて、日本の出方が注目されている。
森山は、5ヶ月以内に、外務卿寺島宗則と外務大丞宗重正(元対馬藩主)の書契を持参、朝鮮政府の礼曹判書に提出し交渉の事前協議に入る旨通告し帰国。
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6月15日
・植木枝盛(18)の部落差別を非難する枝盛の投書を掲載(「高知新聞」)。
活字になった枝盛の文章の初見。
「高知新聞」は明治6年7月30日に民立共立社から発刊される。帰郷後は新聞縦覧場で新聞を読んでいたが、この年4月13日から枝盛の自家で購読するようになる。
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6月18日
・イギリス公使パークス、寺島外務卿に各国公使に公告なしの台湾出兵を難詰。
大兵を他国領土に送るにあたって各国公使に公告する以前に、軍隊が「私に」出動したのは文明国にあるまじきことだ、日本が万国公法を犯しているのは明らかだ、清への場合は例外としても他国へ3千もの大軍を送れば必ず戦争になる、日本が清に向かってそのようなことをしたからには他国が日本に向かって同様なことをしても文句はいえないだろう、もし他国が北海道に3千の軍隊を上陸させたら日本はどうするつもりか・・・。脅迫すれすれの威嚇的な言辞。
さらに、パークスは、清国総署大臣から外務卿あての照会に回答したのかと日本側の落ち度を突いてくる。寺島は未だ回答していないと日本側の怠慢を告白。
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6月18日
・大隈蕃地事務局長官、蕃地事務局准2等出仕リゼンドルと連署で台湾出兵の法理的根拠をボアソナアドに諮問。
24日、大久保利通、ボアソナアドを知る。
25日、ボアソナアド、大隈へ意見書。
出兵がもたらす戦争への危険性警告。大久保は、その後何度もボアソナアドに会い、その万国公法理論が重要・有効と認め、北京への随行を決める。
ボワソナアドの回答。
①「蕃地」が無主地であることを論証するためにリゼンドルが挙げた歴史的・地理的根拠は正当であり、清国は領有の「権」を主張できない。
②しかし、清国が領有を断念したとの証拠もない。
③他国が「蕃地」を征服しようとすれば、清国には「自国安堵」のために他国の行為を.「妨制」する「利」がある。
ポワソナアドは、リゼンドルの顔をたてながらも、たとえ「蕃地」無主地論が成立するとしても清国が自国の安全保障を理由に武力干渉に訴えることは国際的に承認されると指摘。
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6月22日
・榎本武揚・ロシア外務省アジア局長ストレモーホフ会談
*
6月23日
・屯田兵制度設置
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6月24日
・清国皇帝、日本の出兵は修交条規違反、即時撤退を要求するよう、もし従わない場合は罪を明示して討伐するよう閩浙総督李鶴年らに勅命。
しかし、皇帝が沿海各地の総督・巡撫・将軍らに戦備と勝算を「諮問」したところ、台湾防備関係者以外はみな戦備不十分だから勝算なしとの悲観論を上奏。
清軍の装備は貧弱で士気も低く、軍1万を台湾に派遣するがマラリアに苦しむ日本軍3千に対しても何も手出しせず。
*
6月24日
・台湾から帰着の谷干城、原住民平定近いと報告。
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6月27日
・第1回三田演説会開催。会員は福澤諭吉ら14人。
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6月27日
・クワハディーコマンチ族の若者クワナ・パーカー、コマンチ族・カイオワ族南部シャイアン族連合軍を率いテキサスの白人交易所アドービ・ウォールズを襲撃。合衆国軍の徹底した報復戦に降伏。
「1875年6月2日」条約でインディアン専用地とされたバッファローの住む地域に白人猟師が侵入した事から始まったにもかかわらず、戦士の多くはフロリダ刑務所に収監、残った部族の者はオクラホマの居留地へ戻される。
合衆国政府は、ジョージ・カスターら各将軍に北部平原インディアンを狩り集め同じ様にインディアン準州(オクラホマ)へ送るように命令。
シッティング・ブルとクレージー・ホースは、残っていたインディアンを集めて連合軍を組織。
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7月
・銀座煉瓦街、完成。
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・ロシアんのアレクサンドル3世、ブラッセルに欧州15国とトルコ代表招集。俘虜待遇含む戦争法理。ブラッセル宣言、米不参加、英反対
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7月5日
・台湾問題に関する閣議。
閣議に備えて、リゼンドルが①「番地」領有、②償金と引換えに台湾を返還、の2つの選択肢を示し、幕引き方法に償金説が浮上。大勢がこれに傾きだす。
清国総署大臣が日本外務卿に宛てて抗議的照会を発し、清国皇帝が遠征日本軍討伐を勅命したので、台湾一件は日清国交問題の様相を帯びるに至る。
日本の世論も、「蕃地」平定が済んだ以上は速やかに撤兵すべきとの意見、この機会に清国本土に進出せよとの意見などに分裂。
政府内の意見も様々で、大久保日記によれば、大久保は終始「断然の御確定」(7月3日)と基本方針の確定を主張するが、「議論分立につき、(三条が)別して御心配」(4日)、「蕃地事件御評議これあり、すこぶる紛論なり」(5日)と、連日の閣議にもかかわらず意見は不一致のまま。
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7月8日
・三条太政大臣、陸軍卿山県に命じ台湾問題を陸軍将官の見解を問わせる。この日の閣議で報告。
山県有朋、津田出、山田顕義、三浦梧楼、井田譲、曾我祐準各少将は開戦に消極的。
野津鎮雄・種田政明2少将のみ戦備は不充分だが戦えなくはないと回答。
9日、暗黙のうちに償金説に立脚しながらも表面上は「やむをえず戦う」と決定。
「清国との商議は、両国の和親を保持するに力むるは勿論なりと雖も、もし彼より釁端(キンタン)を啓(ヒラ)かば、交戦已むを得ざるべし」。
日清両国共に、軍部は戦うことに腰が引けている。
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7月9日
・武市熊吉、岩倉具視暗殺未遂の罪で斬刑。
*
7月12日
・外務省が管轄している琉球藩を内務省に移管。内国化を進める。
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7月13日
・大久保、渡清を内願。岩倉が反対(大久保の独断を危惧、不信)。三条も同調。
30日、大久保は渡清への側面支援を伊藤博文に要請。大久保渡清には大隈も反対。
8月、派遣決定。
30日付け大久保の伊藤博文(台湾出兵には消極的)宛て手紙。
自分の清国行き実現への側面協力を頼み、「即今廟堂上(政府内)の景況を以て・・・実以て慨歎泣血の至りに堪えず、ここに至り既往を論じ候ても、眼を開いて寝語(寝言)するも同然にて、丈夫の恥じるべきところ・・・」と、「既往」をあげつらわれることへの憤懣を露わにする。
「既往」は、「台湾蕃地処分要略」策定や長崎で出兵断行を裁定したことと推測できるが、台湾出兵に消極的だった伊藤に理解と同意を求めているところから見ると、大久保と伊藤が通じ合えた明治6年政変での「一の秘策」の共謀のこととも推測できる。
「廟堂上」で大久保に後ろ指が指されている「既往」は、明治6年政変の際の不明朗な行動で、政変の後遺症がなお大久保に重くのしかかっていたと解釈できる。
大隈も反対。
31日の大久保日記には、「同人(大隈)、中子(大久保)清国行きにつき異論これあり、当人辞職云々の事あり」とある。大久保が渡清するようなら大隈は辞職するというくらい大隈の反対は強硬。
同日記には、黒田や伊藤も「異論あり」の態度だったという。
大久保の不人気、大久保への不信感の強さ、根強さを示す。
*
7月13日
・東京府、道路や車内での頬かぶり・手拭かぶり禁止。
*
7月13日
・プロイセン、ビスマルク狙撃。軽傷、犯人桶屋職人懲役14年。
*
7月16日
・外務省4等出仕田辺太一、清国派遣。柳原前光の援助。償金による解決訓令。
田辺が携行した訓令書は、「償金を得て攻取の地を譲与する」ことを「神速議決」すること。つまり、「フォルモサ島の一部を日本に併す」方針を根太的に転換して、金銭と引き換えに「蕃地」から手を引くことへと譲歩し、しかも大至急に取り決め上というわけである。
軍部が弱気で、おまけに病魔で進退きわまった西郷遠征軍という重荷を抱えている以上、これ以外の選択はない。
さらに、「這回(シヤカイ)の機会を以て琉球両属の淵源を絶ち、朝鮮自新(ジシン)の門戸を開くべし」と、台湾への野望を放棄する代わりに琉球の完全確保を狙い、ついでに朝鮮との関係打開の手掛かりを探ることも任務に加えられた。
また、リゼンドルを特例弁務使として福建省に派遣し、かれの人脈をたどって側面工作に当らせる。
しかし、9日閣議の開戦決意と「蕃地」有償放棄はワン・セットの筈であったが、柳原はこれを理解せず、強気の開戦決意に立脚した交渉を続け、意見の不一致はなかなか埋まらず。
*
7月24日
・イギリス、ガーナのゴールド・コースト南部を植民地とする。
*
7月25日
・小学校教員検定試験・教員免許状制度、初めて制定。
*
7月28日
・台湾蕃地事務局長官大隈重信、閣議に「海外出師の議」を提出。
「今日戦議一決し、現兵急進海陸並び迫る、彼(清国)兵備未だ実せず、周章狼狽なす所を知らず、ついに彼より和を請い罪を謝するに至らん」
「今日不戦に決す、彼に在りては兵備ますます修め、他日大挙もって我に迫らば、勢い戦わざるを得ず、・・・しかして今日先んじて戦うと、他日先んじられて戦うと、その兵鋒の利鈍あにただ一と十とのみならんや」
「これ今日海外出師のこと急にせざるべからざる所以なり」と、早急に開戦に踏み切るようにと力説。
*
7月28日
・政府、台湾征討で三菱に輸送業務を委託
*
7月29日
・岩倉、大久保の清国使節への「切迫内願」に態度を軟化させ、大久保派遣の件を明日の閣議にかけようと約束。
*
7月31日
・ロシアよりメノナイト教徒移民第1陣、ケベック到着。
*
7月末
・親善大使としてスー族領域のブラックヒルズへ赴くジョージ・カスターと第7騎兵隊及び民間人5人(内2人は地質学者とベテラン金鉱堀)、金鉱を発見。
7月末、カスターは報告書に纏めるが、新聞社にスッパ抜かれた、スー族の「聖なる山」に金鉱堀が殺到。ララミー砦条約は一方的に無効にされる。
*
*
「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
*
2011年5月28日土曜日
明治7年(1874)6月 鹿児島に私学校創設 病死者続出の台湾遠征軍「・・・目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」[一葉2歳]
明治7年(1874)6月
この月
・鹿児島に私学校創設。篠原国幹の銃隊学校・村田新八の砲隊学校附属。
236の分校。県政が全て指導。
*
・神奈川県令中島信行、石阪昌孝を県の権少属に抜擢。
第8区長を辞職し県庁の官員に任命された石阪昌孝、番組の戸長副による区長副の選挙を実施。区長に橋本政直、副に中溝昌弘を選出。
○中島信行:
神奈川県下の政治勢力結集のシンボル的な存在として、明治23(1890)年の国会開設の頃まで大きな影響力を持ち続ける。
○石阪昌孝:
第30戸籍区戸長(明治5年1月)、第8区長(明治6年4月、一時期第11区長を兼務)を経て、神奈川県権少属(明治7年5月)となる。第8大区・第10大区学区取締(明治10年12月)などに就くことにより県内の地域指導層との交流を深める。
*
・島本仲道(北洲)、大阪船場(北浜2丁目)で全国的に早い民権派代言人結社「北洲社」を設立。
多くの弁護士育成をはかり、先駆的な都市民権派として活躍。
○島本仲道:
天保4(1833)年生れ。土佐藩士。
若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ久坂玄瑞らの尊攘運動に参加。古沢滋・河野敏鎌らと武市瑞山の土佐勤王党に血盟。
文久3年(1863)武市瑞山と共に投獄され、維新後に放免される。
十津川騒動の鎮撫に加わり、明治3(1870)年、大和五条県大参事、東京府権少参事(同4年)、司法大丞兼司法大検事・警保頭(同5年)を歴任、江藤新平の司法制度改革に協力する。
明治5~6年、海軍省所属運送船大阪丸と三菱会社汽船山城丸とが瀬戸内海で衝突し、大阪丸は沈没、死傷者が多数にのぼる事故発生。
江藤司法卿は、大阪裁判所長児島惟謙にこれを審按させる。
児島は、岩崎弥太郎を召喚するが、岩崎は病と称して応ぜず(花街に遊蕩)、児嶋は江藤に電報で指令を仰ぐ。
江藤は警保頭島本による同郷人岩崎の拘引を躊躇するが、島本はこれを拘引する。
明冶6(1873)年11月、島本は司法三等出仕・大検事・警保頭を辞任し、翌7年4月、土佐の立志社設立に参加、その法律研究所長となる。
北洲社には、
寺村富栄(奈良県を辞任して参加、のち大阪組合代言人会初代会長、府会議員)、
岩神昂(古沢滋の兄、大阪鎮台・京都裁判所をやめて参加、西南戦争時には、林有造・大江卓・陸奥宗光らと峰起を計画したといわれる)、
都志春暉(大阪裁判所を辞任し参加)、
岩成濤雄(奉頂宮勘定方をやめて参加)、
菊池侃二(のち府会議員、国会議員、大阪府知事)らも参加。
7月、島田組(高麗橋1丁目)の番頭田部密から2千円を借入れ、今橋1丁目5番地の平野屋(高木五兵衛)の家屋に北洲社を移す。
9月、小島忠里(18)らが入舎、明治13(1880)年5月解散まで民権派代言人育成と民衆権利擁護の戦いを続ける。
翌8年にかけて、東京(日本橋北鞘町5番地)、広島、堺(車之町、寺島槙蔵方)、博多(土屋町)などにも北洲舎を設立(後、新潟・名古屋・大津にも支舎設立)。
明治8、9年の頃最も好況を呈す。
*
・マルクスとエンゲルス、ドイツ社会民主党における「デューリング主義」の危険性をリープクネヒト、ブロスおよびヘプネルへの手紙で繰返し指摘。
*
6月1日
・台湾遠征軍1300、3方面から牡丹社の本拠を攻撃、これを降伏させる。~5日。
戦死12・負傷17・病死561(全軍3,658人中)。
政府、13隻の汽船買入れ、三菱会社に貸し下げ軍事輸送にあたらせる。
5日、牡丹社より撤兵、根拠地に帰還。
台湾出兵による戦闘は3週間程度(西郷到着後してからは2週間)であるが、台湾滞在は半年に及ぶ。
現地ではマラリアが流行し戦闘可能状態ではない。
「・・・尚ほ出征の兵数は三千六百五十八人にして、下士官以上七百八十一人、軍人二千六百四十三人、軍属百七十二人、従僕六十二人、戦死者十二人、病死者五百六十一人、負傷者十七人、・・・」(徳富蘇峰「近世日本国民史」第90巻)。
「東京日日新聞」の岸田吟香は、日本最初の従軍記者として現地からの報道に活躍して評判をとるが、病気により7月に帰国。
25日の同紙上に体験談を載せる。
「予、頃日蕃地より帰りしに諸友人陸続として来たり訪う。
皆云う、台清のことは如何ありしぞ、東京にては評判はなはだ悪しかりし故に、君がために大いに心配せしなり、よく無難にて帰りたまいしよなど云う者多し。
・・・そのはなはだしきに至りてほ西郷都督も既に蕃人の手に死せり等、種々の浮説現下東京市中に紛々たりしことと知られたり」と、現地との熱気の落差にぼやく。
10月7日付け、谷参軍の大隈参議・山県陸軍卿宛て書簡:
「当地近来にいたりマラリア大流行、各舎ことごとく病院同様、去月最初よりは死者数多これあり、兵卒従者にいたるまで力役に勝る者ほとんど一人もこれなく、薪水の労みなこれを土人にあおぐ。
まことに意外の天災何とも申しようこれなく、医者もことごとく病み候ゆえ、諸事薬用も行き届かず、不養生より死者甚だ多く、実に愍然(ビンゼン)のいたり、目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」
と病魔による窮状を訴え、「此のごとき難儀に遇うこと未曾有未曾聞(モン)なり」と慨嘆。
*
6月1日
・イギリス、東インド会社正式解散。
*
6月2日
・神奈川県、区番組制を廃し、大区小区制へ移行。
*
6月4日
・清国総署雇人の英人ケーン、総署大臣恭親王の抗議照会を外務省に持参。
*
6月7日
・西郷従道、参軍谷干城と陸軍少佐樺山資紀を東京派遣し、終了を報告。
併せて植民地化を建言。
「これより専ら地方のことに心を寄せ、永遠の基礎を開かんとす・・・すなわち優に将士を養い、漸く山野を墾(ヒラ)き以てその良報を得べし」
と、「蕃地」での移民拓殖の事業に着手すべきことを建言。
*
6月9日
・中江兆民、2年4ヶ月間のフランス留学より帰国。この日、横浜に到着。
8月、仏学塾「開業願」を提出。
(仏学塾の場所はコチラ)
*
「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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この月
・鹿児島に私学校創設。篠原国幹の銃隊学校・村田新八の砲隊学校附属。
236の分校。県政が全て指導。
*
・神奈川県令中島信行、石阪昌孝を県の権少属に抜擢。
第8区長を辞職し県庁の官員に任命された石阪昌孝、番組の戸長副による区長副の選挙を実施。区長に橋本政直、副に中溝昌弘を選出。
○中島信行:
神奈川県下の政治勢力結集のシンボル的な存在として、明治23(1890)年の国会開設の頃まで大きな影響力を持ち続ける。
○石阪昌孝:
第30戸籍区戸長(明治5年1月)、第8区長(明治6年4月、一時期第11区長を兼務)を経て、神奈川県権少属(明治7年5月)となる。第8大区・第10大区学区取締(明治10年12月)などに就くことにより県内の地域指導層との交流を深める。
*
・島本仲道(北洲)、大阪船場(北浜2丁目)で全国的に早い民権派代言人結社「北洲社」を設立。
多くの弁護士育成をはかり、先駆的な都市民権派として活躍。
○島本仲道:
天保4(1833)年生れ。土佐藩士。
若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ久坂玄瑞らの尊攘運動に参加。古沢滋・河野敏鎌らと武市瑞山の土佐勤王党に血盟。
文久3年(1863)武市瑞山と共に投獄され、維新後に放免される。
十津川騒動の鎮撫に加わり、明治3(1870)年、大和五条県大参事、東京府権少参事(同4年)、司法大丞兼司法大検事・警保頭(同5年)を歴任、江藤新平の司法制度改革に協力する。
明治5~6年、海軍省所属運送船大阪丸と三菱会社汽船山城丸とが瀬戸内海で衝突し、大阪丸は沈没、死傷者が多数にのぼる事故発生。
江藤司法卿は、大阪裁判所長児島惟謙にこれを審按させる。
児島は、岩崎弥太郎を召喚するが、岩崎は病と称して応ぜず(花街に遊蕩)、児嶋は江藤に電報で指令を仰ぐ。
江藤は警保頭島本による同郷人岩崎の拘引を躊躇するが、島本はこれを拘引する。
明冶6(1873)年11月、島本は司法三等出仕・大検事・警保頭を辞任し、翌7年4月、土佐の立志社設立に参加、その法律研究所長となる。
北洲社には、
寺村富栄(奈良県を辞任して参加、のち大阪組合代言人会初代会長、府会議員)、
岩神昂(古沢滋の兄、大阪鎮台・京都裁判所をやめて参加、西南戦争時には、林有造・大江卓・陸奥宗光らと峰起を計画したといわれる)、
都志春暉(大阪裁判所を辞任し参加)、
岩成濤雄(奉頂宮勘定方をやめて参加)、
菊池侃二(のち府会議員、国会議員、大阪府知事)らも参加。
7月、島田組(高麗橋1丁目)の番頭田部密から2千円を借入れ、今橋1丁目5番地の平野屋(高木五兵衛)の家屋に北洲社を移す。
9月、小島忠里(18)らが入舎、明治13(1880)年5月解散まで民権派代言人育成と民衆権利擁護の戦いを続ける。
翌8年にかけて、東京(日本橋北鞘町5番地)、広島、堺(車之町、寺島槙蔵方)、博多(土屋町)などにも北洲舎を設立(後、新潟・名古屋・大津にも支舎設立)。
明治8、9年の頃最も好況を呈す。
*
・マルクスとエンゲルス、ドイツ社会民主党における「デューリング主義」の危険性をリープクネヒト、ブロスおよびヘプネルへの手紙で繰返し指摘。
*
6月1日
・台湾遠征軍1300、3方面から牡丹社の本拠を攻撃、これを降伏させる。~5日。
戦死12・負傷17・病死561(全軍3,658人中)。
政府、13隻の汽船買入れ、三菱会社に貸し下げ軍事輸送にあたらせる。
5日、牡丹社より撤兵、根拠地に帰還。
台湾出兵による戦闘は3週間程度(西郷到着後してからは2週間)であるが、台湾滞在は半年に及ぶ。
現地ではマラリアが流行し戦闘可能状態ではない。
「・・・尚ほ出征の兵数は三千六百五十八人にして、下士官以上七百八十一人、軍人二千六百四十三人、軍属百七十二人、従僕六十二人、戦死者十二人、病死者五百六十一人、負傷者十七人、・・・」(徳富蘇峰「近世日本国民史」第90巻)。
「東京日日新聞」の岸田吟香は、日本最初の従軍記者として現地からの報道に活躍して評判をとるが、病気により7月に帰国。
25日の同紙上に体験談を載せる。
「予、頃日蕃地より帰りしに諸友人陸続として来たり訪う。
皆云う、台清のことは如何ありしぞ、東京にては評判はなはだ悪しかりし故に、君がために大いに心配せしなり、よく無難にて帰りたまいしよなど云う者多し。
・・・そのはなはだしきに至りてほ西郷都督も既に蕃人の手に死せり等、種々の浮説現下東京市中に紛々たりしことと知られたり」と、現地との熱気の落差にぼやく。
10月7日付け、谷参軍の大隈参議・山県陸軍卿宛て書簡:
「当地近来にいたりマラリア大流行、各舎ことごとく病院同様、去月最初よりは死者数多これあり、兵卒従者にいたるまで力役に勝る者ほとんど一人もこれなく、薪水の労みなこれを土人にあおぐ。
まことに意外の天災何とも申しようこれなく、医者もことごとく病み候ゆえ、諸事薬用も行き届かず、不養生より死者甚だ多く、実に愍然(ビンゼン)のいたり、目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」
と病魔による窮状を訴え、「此のごとき難儀に遇うこと未曾有未曾聞(モン)なり」と慨嘆。
*
6月1日
・イギリス、東インド会社正式解散。
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6月2日
・神奈川県、区番組制を廃し、大区小区制へ移行。
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6月4日
・清国総署雇人の英人ケーン、総署大臣恭親王の抗議照会を外務省に持参。
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6月7日
・西郷従道、参軍谷干城と陸軍少佐樺山資紀を東京派遣し、終了を報告。
併せて植民地化を建言。
「これより専ら地方のことに心を寄せ、永遠の基礎を開かんとす・・・すなわち優に将士を養い、漸く山野を墾(ヒラ)き以てその良報を得べし」
と、「蕃地」での移民拓殖の事業に着手すべきことを建言。
*
6月9日
・中江兆民、2年4ヶ月間のフランス留学より帰国。この日、横浜に到着。
8月、仏学塾「開業願」を提出。
(仏学塾の場所はコチラ)
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2011年5月21日土曜日
明治7年(1874)5月1日~23日 西郷従道の台湾征討軍、台湾に上陸 植木枝盛(17歳)、土佐で活動開始 [一葉2歳]
明治7年(1874)5月
この月
・森有礼「妻妾論」(「明六雑誌」)。一夫一婦制の内実、乱脈を指摘。
*
・5~6月頃、大久保利通、「殖産興業に関する建議書」作成。
大凡、国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ係ル。
而テ物産ノ多寡ハ、人民ノ工業ヲ勉励スルト否ザルトニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ、未ダ嘗テ、政府政官ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザル無シ。
維新のときからみれば、「外交内治」「文物制度」はましにはなったが、
然レドモ勧業殖産ノ一事ニ至リテハ、未ダ全夕其効験アルヲ見ズシテ、民産国用、日ニ減縮スルニ似タリ。
その訳は、民の知識が開けていないというより、むしろ政府の「注意」がたらず、「提携誘導」の力が足りないからだ。
イギリスも日本と同様、島国にすぎないが、貿易と工業によって盛大になった。イギリスが「君民一致」し、天然の利を生かし、財の用いかたを盛んにし、国家の基礎を確立したのは偉大である。
我国もこの重大事に、イギリスを「規範」とすべきである。
(明治政府のモデルは、明治10年代にプロシャに移ってゆくが、この時期の大久保は、政治・経済ともにイギリスを規範としている)
*
「民産国用日ニ減縮スル」:
明治初年以来、対外貿易は大幅赤字を続け、明治3年の赤字は1,919万円超、4年は若干改善、5年914万円、6年647万円の赤字。輸出品は生糸と茶(輸出の70%以上)くらいしかない。
この年(明治7年)、前年の19世紀最大の恐慌の影響が、金銀価格差として日本に押し寄せ、明治7年だけで金貨流出は800万円、翌8年には1,000円に及ぶ。鋳造高の2割を超える額である。
数年前まで政府財政を一手に支えた両替為替商の小野組・島田組は、明治7年末に倒産。
内務省にとっては、輸出振興、輸入阻止、財政再建は最重要課題。
*
・ドイツ、ビスマルク、第2次「5月法」によりカトリック聖職者に対する弾圧強化。
*
・フランス、王政派分裂によりド・ブロイ内閣、辞職。
この月、審議優先権を巡り政府と共和派が対立し、正統王朝派が共和派支持に廻り、政府案は破れ、ド・ブロイ内閣は辞職。
これを機にオルレアン派の中から中道左派と組んで議会多数派を形成していこうというグループも生れ、更に補欠選挙の動向は王政派を一層弱小化へと導く。
*
5月1日
・昌平坂書画展開催。万世橋外聖堂(湯島聖堂)
*
5月2日
・大久保の西下を知り、参軍谷干城・赤松則良ら、西郷命により軍艦4隻で出港。
翌3日、大久保利通、長崎着、大隈重信・西郷従道と評議。台湾出兵の議を決す。
出兵を是認し激励。
*
「兵隊進退」の全権を帯びた大久保だが、これまで遠征計画を推進してきており、遠征軍の帰還を命令したり、西郷を命令達反で処罰する意思もない。
大久保は、「既に福州(閩浙)総督へ公告書を送りたる上は、止めるべからざるの実況ゆえ」出兵を是認し、「生蕃処分済みの上、兇暴の所業を止め、我が意を遵奉するまでは、防制のため相応の人数残しおくべきこと」と、「討蕃」終了後も現地占領を継続するとの積極方針までも「御委任の権内を以て裁定」。大久保は積極的な出兵推進者である。
大久保の長崎行きは、西郷の暴走を抑止するためではなく、逡巡する大隈に活をいれ西郷を激励するためであった。
大久保日記では、「大難の事ゆえ、心決いたし候」とし、予想される「難題を醸しだし候節は、大久保はじめその責めに任ずべきこと」を大隈・西郷三者で申し合わせたという。
*
政府は、各国外交団の干渉に対応するため長崎にいるリゼンドルの至急帰京を要請。西郷はやむなくこれを了承。
長崎を離れるにあたってリゼンドルは、西郷のために「蕃地」での詳細な作戦計画書を作成。
現地で「熟蕃」懐柔に成功したら、「これを分ちて別伍となさず、日本人の内に編入するを要す」、そうすればかれらは日本軍の「配下に帰す」と教示。
*
5月2日
・地方長官会議開催の詔書。議院憲法および規則を定める。
*
5月3日
・厦門領事陸軍少佐福島九成、厦門着。李総督に出兵通知書伝達。
11日、出兵通知受けた李鶴年総督、琉球も台湾も清国に属している、台湾への出兵は領土相互不可越を約束した日清修好条規違反であり撤兵要求の回答を西郷都督に送る。
*
5月3日
・上海仏租界の道路拡張案に中国人墓地の破壊が含まれていたため衝突、死傷者がでる。
*
5月6日
・「有功丸」、台湾琅橋湾に到着、陣営作成。
7日、陸軍少佐樺山資紀、台湾出兵「日進」艦と合流。以下続々と艦船到着。
22日、「高砂丸」(西郷従道、18日出航)到着。
*
5月11日
・清国総署大臣恭親王、台湾は「中国版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発す。
6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参。
*
5月11日
・台湾の日本軍、牡丹社の酋長を招致、漂民殺害犯引渡しを求めるが酋長はこれを拒否。
12日以降数度衝突。
17日、偵察中の遠征軍1人、殺害される。
22日、佐久間参謀長の部隊200、激戦の末、四重渓にて牡丹社酋長阿禄親子を斃す。
*
5月12日
・地価5年間据置。
地租改正条例第8章(耕地の地租は、改正後5年間は時価の高低にかかわらず新定価額によって徴収する)追加。
*
5月12日
・立志社、一般大衆を加えた最初の集会。
*
5月15日
・大久保、帰京。
不在中、三条太政大臣・岩倉右大臣、島津左大臣(4月27日任命)に辞表提出。台湾出兵不手際(外国の干渉により中止騒ぎ)、大久保の強引さへの批判。
島津は2人の辞表を執奏せず握りつぶす。
*
5月15日
・土佐、帯屋町の立志社で初めての演説討論会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
*
○これ以降のこの年の植木枝盛。
「自から国会論と称する一文章を作り、之を己れの同村各戸に回達して懇ろに其意を示し、更に又同区の区長と其の区内の人々とに謀りて一小区の民会を興し、或る時は其の議長に選挙せらるることもありて、之が為めに尽力せしこと一ならず」(「自伝」)とある。
*
「日記」には、
「五月十八月 民会に過る。」
「二十二日 民会に過る。」
「二十八日 民会に過る。会長を撰ぶ。」
「六月五日 民会に過る。学校取締等の議を発す。」
「十六日 民会に過る。」
「二十五日 民会へ過る。」
「七月二日 十二区衆会に過。」
「五日 民会に行。林氏会長となる。」
「六日 小民会創立に就て十二区集議所に過。」
「十四日 区会に行く。組合の事を議定す。」
「十五日 民会に行く。堕胎圧死の事を議す。」
「十六日 小民会に行く。」
「二十一日小民会へ過。」
「二十六日小民会へ行。」
「八月十一日小民会へ行 。」
「十三日夜十区民会に過る。」
「十四日区会に過る。」
「十五日民会に行。」
「十六日小民会へ行。」
「十九日民会へ行。」
「二十二日民会へ行。」
「二十六日小民会流会。」
「九月一日民会小へ行。」
「二日民会大へ行。」
「十日集議所に過。」
「十四日区会へ行。」
「十五日区会へ行。」
「二十一日小民会へ行。」
「十月一日中民会へ行。」
「三日集急所へ行。印を押す。」
「十一月一日中民会流れ。」
「五日区会流れ。」とある。
枝盛は、大民会・小民会等自分の居住する12区会ばかりでなく10区会にまで出かけて、熱心に地域的自治組織を作るのに奔走している。
*
民会:
「集議所」と呼ばれる。「戸長・副戸長以下各町村用係・世話係・肝煎(イモイリ)」によって構成されたという(「高知県史」)。
枝盛の父直枝は57歳なので、枝盛がその代理を務めたと思われる。
枝盛は、民会を「代議政体を促」すものと位置づけ、「国会論」と題する文章を書いて各戸に配る。
*
枝盛の稿本「国会ノ説」によると、国会開設は政体を変革するのではなくそれを確固たらしめるものであり、「皇統一系」のわが政体を「永久安泰」たらしめるには「上下同治ノ政治ヲナスニ如クハナシ」と主張している。(天皇制擁護の見地から国会の必要を説く)
*
新知識を標榜する地方官が競って地方民会を開き、ことに明治6年11月兵庫県令神田孝平が制定した民会議事章程略の影響が著しい。
明治初年の地方民会は、概して開明官僚の上からの開化政策に基き、地方行政の「安全弁」として奨励された諮問機関に過ぎない。
明治7年の高知では町村会は設けられていないので、大小民会が他県の町村会の機能を代行したと考えられる。
*
この年、枝盛が読んだ書物は37部(「閲読書日記」)
福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之「真政大意」、津田真道「泰西国法論」、中村敬宇「西国立志編」など。
9月7日には「明六雑誌」を購読。
民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ「民選議院集説」を借読。
*
翌年以降の東京再遊学期における枝盛の思想動向が大体この年にすでに形づくられつつある。
*
5月17日
・西郷従道、台湾征討軍の残兵600を率い長崎出港。
19日、柳原前光駐清公使、赴任のため横浜発。
*
5月19日
・政府、ようやく台湾出兵を国内に布達。
明治4年11月、琉球藩人民が台湾の「蕃地」に漂着したところ、54名が先住民に殺害された。明治6年3月、小田県の人民4名が漂着して、また先住民から暴行略奪をうけた。
そこで、加害先住民を懲罰し、かつ今後のわが人民の航海上の安全を確保する措置を講じるために出兵した。
*
5月22日
・西郷都督、台湾南部上陸。
*
5月22日
・ヴェルディ「レクイエム」、ミラノ、サン・マルコ教会で初演。
*
5月23日
・左大臣島津久光、「反動的内容」の意見書を三条に提出。
礼服・租税制度・兵制を旧に服す。併せて大隈免職要求、大久保も反対なら免職、と迫る。
大久保は、島津の復古論に同意できず免職してほしいと申し出て、居直って出仕を拒否。
6月6日、久光、三条・岩倉の説得により意見書撤回。大久保も2週間ぶりに出仕始める。
*
*
「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
*
この月
・森有礼「妻妾論」(「明六雑誌」)。一夫一婦制の内実、乱脈を指摘。
*
・5~6月頃、大久保利通、「殖産興業に関する建議書」作成。
大凡、国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ係ル。
而テ物産ノ多寡ハ、人民ノ工業ヲ勉励スルト否ザルトニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ、未ダ嘗テ、政府政官ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザル無シ。
維新のときからみれば、「外交内治」「文物制度」はましにはなったが、
然レドモ勧業殖産ノ一事ニ至リテハ、未ダ全夕其効験アルヲ見ズシテ、民産国用、日ニ減縮スルニ似タリ。
その訳は、民の知識が開けていないというより、むしろ政府の「注意」がたらず、「提携誘導」の力が足りないからだ。
イギリスも日本と同様、島国にすぎないが、貿易と工業によって盛大になった。イギリスが「君民一致」し、天然の利を生かし、財の用いかたを盛んにし、国家の基礎を確立したのは偉大である。
我国もこの重大事に、イギリスを「規範」とすべきである。
(明治政府のモデルは、明治10年代にプロシャに移ってゆくが、この時期の大久保は、政治・経済ともにイギリスを規範としている)
*
「民産国用日ニ減縮スル」:
明治初年以来、対外貿易は大幅赤字を続け、明治3年の赤字は1,919万円超、4年は若干改善、5年914万円、6年647万円の赤字。輸出品は生糸と茶(輸出の70%以上)くらいしかない。
この年(明治7年)、前年の19世紀最大の恐慌の影響が、金銀価格差として日本に押し寄せ、明治7年だけで金貨流出は800万円、翌8年には1,000円に及ぶ。鋳造高の2割を超える額である。
数年前まで政府財政を一手に支えた両替為替商の小野組・島田組は、明治7年末に倒産。
内務省にとっては、輸出振興、輸入阻止、財政再建は最重要課題。
*
・ドイツ、ビスマルク、第2次「5月法」によりカトリック聖職者に対する弾圧強化。
*
・フランス、王政派分裂によりド・ブロイ内閣、辞職。
この月、審議優先権を巡り政府と共和派が対立し、正統王朝派が共和派支持に廻り、政府案は破れ、ド・ブロイ内閣は辞職。
これを機にオルレアン派の中から中道左派と組んで議会多数派を形成していこうというグループも生れ、更に補欠選挙の動向は王政派を一層弱小化へと導く。
*
5月1日
・昌平坂書画展開催。万世橋外聖堂(湯島聖堂)
*
5月2日
・大久保の西下を知り、参軍谷干城・赤松則良ら、西郷命により軍艦4隻で出港。
翌3日、大久保利通、長崎着、大隈重信・西郷従道と評議。台湾出兵の議を決す。
出兵を是認し激励。
*
「兵隊進退」の全権を帯びた大久保だが、これまで遠征計画を推進してきており、遠征軍の帰還を命令したり、西郷を命令達反で処罰する意思もない。
大久保は、「既に福州(閩浙)総督へ公告書を送りたる上は、止めるべからざるの実況ゆえ」出兵を是認し、「生蕃処分済みの上、兇暴の所業を止め、我が意を遵奉するまでは、防制のため相応の人数残しおくべきこと」と、「討蕃」終了後も現地占領を継続するとの積極方針までも「御委任の権内を以て裁定」。大久保は積極的な出兵推進者である。
大久保の長崎行きは、西郷の暴走を抑止するためではなく、逡巡する大隈に活をいれ西郷を激励するためであった。
大久保日記では、「大難の事ゆえ、心決いたし候」とし、予想される「難題を醸しだし候節は、大久保はじめその責めに任ずべきこと」を大隈・西郷三者で申し合わせたという。
*
政府は、各国外交団の干渉に対応するため長崎にいるリゼンドルの至急帰京を要請。西郷はやむなくこれを了承。
長崎を離れるにあたってリゼンドルは、西郷のために「蕃地」での詳細な作戦計画書を作成。
現地で「熟蕃」懐柔に成功したら、「これを分ちて別伍となさず、日本人の内に編入するを要す」、そうすればかれらは日本軍の「配下に帰す」と教示。
*
5月2日
・地方長官会議開催の詔書。議院憲法および規則を定める。
*
5月3日
・厦門領事陸軍少佐福島九成、厦門着。李総督に出兵通知書伝達。
11日、出兵通知受けた李鶴年総督、琉球も台湾も清国に属している、台湾への出兵は領土相互不可越を約束した日清修好条規違反であり撤兵要求の回答を西郷都督に送る。
*
5月3日
・上海仏租界の道路拡張案に中国人墓地の破壊が含まれていたため衝突、死傷者がでる。
*
5月6日
・「有功丸」、台湾琅橋湾に到着、陣営作成。
7日、陸軍少佐樺山資紀、台湾出兵「日進」艦と合流。以下続々と艦船到着。
22日、「高砂丸」(西郷従道、18日出航)到着。
*
5月11日
・清国総署大臣恭親王、台湾は「中国版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発す。
6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参。
*
5月11日
・台湾の日本軍、牡丹社の酋長を招致、漂民殺害犯引渡しを求めるが酋長はこれを拒否。
12日以降数度衝突。
17日、偵察中の遠征軍1人、殺害される。
22日、佐久間参謀長の部隊200、激戦の末、四重渓にて牡丹社酋長阿禄親子を斃す。
*
5月12日
・地価5年間据置。
地租改正条例第8章(耕地の地租は、改正後5年間は時価の高低にかかわらず新定価額によって徴収する)追加。
*
5月12日
・立志社、一般大衆を加えた最初の集会。
*
5月15日
・大久保、帰京。
不在中、三条太政大臣・岩倉右大臣、島津左大臣(4月27日任命)に辞表提出。台湾出兵不手際(外国の干渉により中止騒ぎ)、大久保の強引さへの批判。
島津は2人の辞表を執奏せず握りつぶす。
*
5月15日
・土佐、帯屋町の立志社で初めての演説討論会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
*
○これ以降のこの年の植木枝盛。
「自から国会論と称する一文章を作り、之を己れの同村各戸に回達して懇ろに其意を示し、更に又同区の区長と其の区内の人々とに謀りて一小区の民会を興し、或る時は其の議長に選挙せらるることもありて、之が為めに尽力せしこと一ならず」(「自伝」)とある。
*
「日記」には、
「五月十八月 民会に過る。」
「二十二日 民会に過る。」
「二十八日 民会に過る。会長を撰ぶ。」
「六月五日 民会に過る。学校取締等の議を発す。」
「十六日 民会に過る。」
「二十五日 民会へ過る。」
「七月二日 十二区衆会に過。」
「五日 民会に行。林氏会長となる。」
「六日 小民会創立に就て十二区集議所に過。」
「十四日 区会に行く。組合の事を議定す。」
「十五日 民会に行く。堕胎圧死の事を議す。」
「十六日 小民会に行く。」
「二十一日小民会へ過。」
「二十六日小民会へ行。」
「八月十一日小民会へ行 。」
「十三日夜十区民会に過る。」
「十四日区会に過る。」
「十五日民会に行。」
「十六日小民会へ行。」
「十九日民会へ行。」
「二十二日民会へ行。」
「二十六日小民会流会。」
「九月一日民会小へ行。」
「二日民会大へ行。」
「十日集議所に過。」
「十四日区会へ行。」
「十五日区会へ行。」
「二十一日小民会へ行。」
「十月一日中民会へ行。」
「三日集急所へ行。印を押す。」
「十一月一日中民会流れ。」
「五日区会流れ。」とある。
枝盛は、大民会・小民会等自分の居住する12区会ばかりでなく10区会にまで出かけて、熱心に地域的自治組織を作るのに奔走している。
*
民会:
「集議所」と呼ばれる。「戸長・副戸長以下各町村用係・世話係・肝煎(イモイリ)」によって構成されたという(「高知県史」)。
枝盛の父直枝は57歳なので、枝盛がその代理を務めたと思われる。
枝盛は、民会を「代議政体を促」すものと位置づけ、「国会論」と題する文章を書いて各戸に配る。
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枝盛の稿本「国会ノ説」によると、国会開設は政体を変革するのではなくそれを確固たらしめるものであり、「皇統一系」のわが政体を「永久安泰」たらしめるには「上下同治ノ政治ヲナスニ如クハナシ」と主張している。(天皇制擁護の見地から国会の必要を説く)
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新知識を標榜する地方官が競って地方民会を開き、ことに明治6年11月兵庫県令神田孝平が制定した民会議事章程略の影響が著しい。
明治初年の地方民会は、概して開明官僚の上からの開化政策に基き、地方行政の「安全弁」として奨励された諮問機関に過ぎない。
明治7年の高知では町村会は設けられていないので、大小民会が他県の町村会の機能を代行したと考えられる。
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この年、枝盛が読んだ書物は37部(「閲読書日記」)
福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之「真政大意」、津田真道「泰西国法論」、中村敬宇「西国立志編」など。
9月7日には「明六雑誌」を購読。
民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ「民選議院集説」を借読。
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翌年以降の東京再遊学期における枝盛の思想動向が大体この年にすでに形づくられつつある。
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5月17日
・西郷従道、台湾征討軍の残兵600を率い長崎出港。
19日、柳原前光駐清公使、赴任のため横浜発。
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5月19日
・政府、ようやく台湾出兵を国内に布達。
明治4年11月、琉球藩人民が台湾の「蕃地」に漂着したところ、54名が先住民に殺害された。明治6年3月、小田県の人民4名が漂着して、また先住民から暴行略奪をうけた。
そこで、加害先住民を懲罰し、かつ今後のわが人民の航海上の安全を確保する措置を講じるために出兵した。
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5月22日
・西郷都督、台湾南部上陸。
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5月22日
・ヴェルディ「レクイエム」、ミラノ、サン・マルコ教会で初演。
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5月23日
・左大臣島津久光、「反動的内容」の意見書を三条に提出。
礼服・租税制度・兵制を旧に服す。併せて大隈免職要求、大久保も反対なら免職、と迫る。
大久保は、島津の復古論に同意できず免職してほしいと申し出て、居直って出仕を拒否。
6月6日、久光、三条・岩倉の説得により意見書撤回。大久保も2週間ぶりに出仕始める。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月15日日曜日
明治7年(1874)4月10日~28日 土佐に立志社結成 米英が日本軍の台湾出兵に反対 [一葉2歳]
明治7年(1874)
4月10日
・立志社結成
板垣退助が土佐で結成。片岡健吉社長。
当面の目的は士族授産と学校設立による新時代教育。
5月15日、初めての演説会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
立志社同人達は、その「設立之趣意書」に「国ノ本」としての国民が政治的主体としての自己を確立する為に、自己教育の課題を提起。
こうした政治と教育の不可分性を自覚した同人たちは、政治結社としての立志社の付設機関として、法律研究所と並び、立志学舎を開設(同月14日開校)。
立志学舎は、漢学・洋学・数学・体育など「中学校ノ体ニ基」く教育にあたり、当時の高知県では、「学問として、・・・西洋学は立志社に洋学校あり」といわれ、「関西の慶応義塾」とも呼ばれる。
1874(明治7)~79年(閉鎖)の6年間の教員・生徒数は、(変動が激しく安定を欠くものの)年間平均教員約8名、生徒130名。
立志社=立志学舎とほぼ同様に、各地の民権運動は、国民の権利の確立・伸張の要求を機軸として、自己を近代的な政治=教育主体として鍛え解放する為に、学習=教育機関としての学舎を開設し、その中で教育における自主と自由の権利の自覚を深めて行く。
石陽社=石陽館(福島)、三師社=正道館(同)、求我社=行余学舎(岩手)、白郷社=自郷学舎(福井)、奨匡社=奨匡学舎(長野)など。
*
4月10日
・英特派全権公使パークス・外務卿寺島会談。
副島は無主の地への「打蕃撫民」と説明するが、パークスは日清間の紛争は英資本の経済活動に影響あり危惧する。
また、清政府へは柳原全権公使が伝えると説明すると、パークスは順番が逆と反撃。
13日、パークス、清が日本の台湾出兵を敵対行為と見做す場合、参加の英人・英艦を召喚すると警告。
パークスが、各国外交官に同調呼びかけ、ロシア、スペインが局外中立を表明。
*
4月13日
・岸田吟香、台湾征討軍に従軍記者として参加
*
4月13日
・佐賀裁判所判決。
征討総督東伏見宮嘉彰親王・参議兼内務卿大久保利通臨席。
征韓党江藤新平(40)、憂国党島義勇(52)梟首、他斬首11名。夕刻執行。
大久保日記「江藤醜躰笑止なり」。
*
4月15日
・軍艦「日進」「孟春」以下を率い遠征根拠地長崎に向う西郷従道、佐賀に立ち寄り大久保利通と出兵につき会談(「徹夜あい話した」)。
*
4月15日~5月15日
・第1回印象派展、パリ。
*
4月16日
・上海の新聞「申報」、日本の台湾出兵意図に疑惑を示し、当局の奮起を促す。
日本が台湾に出兵するとの噂がとびかっていると紹介し、
「日本が出兵する意図は、ただ報復を加えるためだけであろうか。それともほかに何か下心があるのだろうか」と疑惑を示し、
もし日本に台湾領有意図があるなら、「わが大清国が自ら開拓した領土を、どうして一朝にて他国に譲ることができようか」と、当局者の奮起を促す。
*
4月17日
・大久保利通、佐賀発、帰京へ。
*
4月17日
・横浜の英字新聞「ジャパン・ヘラルド」、台湾派兵は戦争の原因になるかもしれないのに、日本政府は出兵を公告していない。外国公使は中立とすべき。アメリカは中立義務を違反している、主張。
+
4月18日
・アメリカ公使ビンガム、清政府からの名分の了解ない限りアメリカ人・アメリカ艦の参加を禁止すると通告。
寺島外務卿は、三条太政大臣にリゼンドル、カッセル、ワッソン3名とアメリカ艦の台湾行き差し止め上申。
ビンガムは、前年10月、デロングの後任として来日、デロングの方針を継いで日本政府の台湾政策には好意的で、カツセルの雇用にも尽力していた。
その後、ビンガムは、17日付け「ジャパン・ヘラルド」の記事に影響をうけイギリス公使パークスに追随する強硬態度に変わる。
*
4月18日
・駐清イギリス公使ウェード、駐日公使パークスからの情報を総署へ通報。
20日、清国総税務司ロバート・ハートも総署へ通報。
*
4月18日
・木戸孝允、参議・文部卿辞任。台湾遠征に反対して。
2日には閣議決定書への参議としての承認押印拒否。
5日、伊藤博文も岩倉への手紙で政府の台湾方針に危惧を示し、5月、郷里山口に退去。
*
ドイツから帰国し、この年3月から4ヶ月近く木戸邸に食客として過ごしている青木周蔵(外務一等書記官)は、岩倉具視から木戸の慰留周旋を依頼される。
以下、「青木周蔵自伝」より。
*
青木が、岩倉と会って木戸邸に帰った夜中の12時過ぎ、木戸は静座して待っていた。
「予(青木)は直に翁(木戸)に面し、其の質問に応じて右大臣(岩倉)の論旨を逐一申告し、更に留任を苦諫(クカン)せしに、翁は一言だも発せず、沈思黙考するものの如くなりしが、卒然翁と予との間に在りし桐の火鉢を取て之を坐上に擲ちたり。熱灰は室内一面に飛散して、燈火も為に其の明を没し、炭火は散乱して畳を焦す・・・」。
青木が質問する。「此の火鉢は不肖に向て投ぜられしが、何等の不興なるぞ」
木戸は涙を浮べて「何の理由をて足下に投ぜんや。唯感慨に堪へず、茲(ココ)に至りしなり」と答える。
青木が、苦諫して木戸の感触を害したことを謝まる。
木戸は、「何とて謝する事の必要あらん。足下の如き人物、我友人中果して幾人かある。是れ予の感慨に堪へぎる所なり」と言い、青木を抱擁してまた泣く。
*
これが、長州藩閥ナンバー2の伊藤博文でないところに、旧長州藩・政府内における木戸の孤立が示されている。
*
4月19日
・政府、アメリカからの雇船計画が崩れ、台湾遠征軍出動見合わせを大隈・西郷に連絡。西郷はこれに強硬に反対。
この日、大臣・参議が緊急に集会するものの、大久保は佐賀に、大隈も長崎に出張中で、出兵強行か中止かも決断できず、とりあえず清政府に至急問い合わせ、その回答が到着するまで遠征軍出動を見合わせることとする。
その旨を長崎の大隈に電報で命令し、こうなったからには「この度の一挙、成功の目的万々これあるまじく」、しかも「各国の公論、台湾は支那の版図たること判然たる上は」、遠征を一時中止せざるをえないであろうとの三条の書簡を携行した使者を長崎へ急派。
大隈は、遠征一時見合わせの電報に接して弱気に転じるが、西郷都督は出発延期命令に従わない。
リゼンドル、カッセル、ワッソンのアメリカ人グループも強行を主張。
*
4月20日
・ドイツ帝国議会、セプテナート(7年分の軍事予算)を一括承認。
*
4月21日
・原敬(18)、エブラル神父の学僕として新潟へ赴く。~翌明治8年9月。
*
4月24日
・大久保、佐賀より帰京。
台湾出兵に対するイギリス・アメリカの干渉は、「まことに大事の国難」と痛感し、「兵隊進退」の委任をうけて、29日、東京を出発して長崎へ急ぐ。
*
4月24日
・(露暦4/12)チャイコフスキー、オペラ「オブリーチニク」初演。モスクワ、マリンスキー劇場。ラジュチニコフの歴史小説。
*
4月27日
・西郷従道、厦門領事陸軍少佐福島九成に清国閩浙総督李鶴年宛の出兵通知書を託し、独断で兵200を有功丸で派遣。アメリカ人カッセル、ワッソンも同行。
5月3日、福島は厦門に到着、現地当局経由で台湾管轄の李総督に出兵通知書を伝達。
*
4月27日
・内閣顧問島津久光、左大臣就任。
*
4月28日
・樺太支庁、東シララカ・ウショロ両出張所に漁場廃止の旨通達。
*
*
「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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4月10日
・立志社結成
板垣退助が土佐で結成。片岡健吉社長。
当面の目的は士族授産と学校設立による新時代教育。
5月15日、初めての演説会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
立志社同人達は、その「設立之趣意書」に「国ノ本」としての国民が政治的主体としての自己を確立する為に、自己教育の課題を提起。
こうした政治と教育の不可分性を自覚した同人たちは、政治結社としての立志社の付設機関として、法律研究所と並び、立志学舎を開設(同月14日開校)。
立志学舎は、漢学・洋学・数学・体育など「中学校ノ体ニ基」く教育にあたり、当時の高知県では、「学問として、・・・西洋学は立志社に洋学校あり」といわれ、「関西の慶応義塾」とも呼ばれる。
1874(明治7)~79年(閉鎖)の6年間の教員・生徒数は、(変動が激しく安定を欠くものの)年間平均教員約8名、生徒130名。
立志社=立志学舎とほぼ同様に、各地の民権運動は、国民の権利の確立・伸張の要求を機軸として、自己を近代的な政治=教育主体として鍛え解放する為に、学習=教育機関としての学舎を開設し、その中で教育における自主と自由の権利の自覚を深めて行く。
石陽社=石陽館(福島)、三師社=正道館(同)、求我社=行余学舎(岩手)、白郷社=自郷学舎(福井)、奨匡社=奨匡学舎(長野)など。
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4月10日
・英特派全権公使パークス・外務卿寺島会談。
副島は無主の地への「打蕃撫民」と説明するが、パークスは日清間の紛争は英資本の経済活動に影響あり危惧する。
また、清政府へは柳原全権公使が伝えると説明すると、パークスは順番が逆と反撃。
13日、パークス、清が日本の台湾出兵を敵対行為と見做す場合、参加の英人・英艦を召喚すると警告。
パークスが、各国外交官に同調呼びかけ、ロシア、スペインが局外中立を表明。
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4月13日
・岸田吟香、台湾征討軍に従軍記者として参加
*
4月13日
・佐賀裁判所判決。
征討総督東伏見宮嘉彰親王・参議兼内務卿大久保利通臨席。
征韓党江藤新平(40)、憂国党島義勇(52)梟首、他斬首11名。夕刻執行。
大久保日記「江藤醜躰笑止なり」。
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4月15日
・軍艦「日進」「孟春」以下を率い遠征根拠地長崎に向う西郷従道、佐賀に立ち寄り大久保利通と出兵につき会談(「徹夜あい話した」)。
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4月15日~5月15日
・第1回印象派展、パリ。
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4月16日
・上海の新聞「申報」、日本の台湾出兵意図に疑惑を示し、当局の奮起を促す。
日本が台湾に出兵するとの噂がとびかっていると紹介し、
「日本が出兵する意図は、ただ報復を加えるためだけであろうか。それともほかに何か下心があるのだろうか」と疑惑を示し、
もし日本に台湾領有意図があるなら、「わが大清国が自ら開拓した領土を、どうして一朝にて他国に譲ることができようか」と、当局者の奮起を促す。
*
4月17日
・大久保利通、佐賀発、帰京へ。
*
4月17日
・横浜の英字新聞「ジャパン・ヘラルド」、台湾派兵は戦争の原因になるかもしれないのに、日本政府は出兵を公告していない。外国公使は中立とすべき。アメリカは中立義務を違反している、主張。
+
4月18日
・アメリカ公使ビンガム、清政府からの名分の了解ない限りアメリカ人・アメリカ艦の参加を禁止すると通告。
寺島外務卿は、三条太政大臣にリゼンドル、カッセル、ワッソン3名とアメリカ艦の台湾行き差し止め上申。
ビンガムは、前年10月、デロングの後任として来日、デロングの方針を継いで日本政府の台湾政策には好意的で、カツセルの雇用にも尽力していた。
その後、ビンガムは、17日付け「ジャパン・ヘラルド」の記事に影響をうけイギリス公使パークスに追随する強硬態度に変わる。
*
4月18日
・駐清イギリス公使ウェード、駐日公使パークスからの情報を総署へ通報。
20日、清国総税務司ロバート・ハートも総署へ通報。
*
4月18日
・木戸孝允、参議・文部卿辞任。台湾遠征に反対して。
2日には閣議決定書への参議としての承認押印拒否。
5日、伊藤博文も岩倉への手紙で政府の台湾方針に危惧を示し、5月、郷里山口に退去。
*
ドイツから帰国し、この年3月から4ヶ月近く木戸邸に食客として過ごしている青木周蔵(外務一等書記官)は、岩倉具視から木戸の慰留周旋を依頼される。
以下、「青木周蔵自伝」より。
*
青木が、岩倉と会って木戸邸に帰った夜中の12時過ぎ、木戸は静座して待っていた。
「予(青木)は直に翁(木戸)に面し、其の質問に応じて右大臣(岩倉)の論旨を逐一申告し、更に留任を苦諫(クカン)せしに、翁は一言だも発せず、沈思黙考するものの如くなりしが、卒然翁と予との間に在りし桐の火鉢を取て之を坐上に擲ちたり。熱灰は室内一面に飛散して、燈火も為に其の明を没し、炭火は散乱して畳を焦す・・・」。
青木が質問する。「此の火鉢は不肖に向て投ぜられしが、何等の不興なるぞ」
木戸は涙を浮べて「何の理由をて足下に投ぜんや。唯感慨に堪へず、茲(ココ)に至りしなり」と答える。
青木が、苦諫して木戸の感触を害したことを謝まる。
木戸は、「何とて謝する事の必要あらん。足下の如き人物、我友人中果して幾人かある。是れ予の感慨に堪へぎる所なり」と言い、青木を抱擁してまた泣く。
*
これが、長州藩閥ナンバー2の伊藤博文でないところに、旧長州藩・政府内における木戸の孤立が示されている。
*
4月19日
・政府、アメリカからの雇船計画が崩れ、台湾遠征軍出動見合わせを大隈・西郷に連絡。西郷はこれに強硬に反対。
この日、大臣・参議が緊急に集会するものの、大久保は佐賀に、大隈も長崎に出張中で、出兵強行か中止かも決断できず、とりあえず清政府に至急問い合わせ、その回答が到着するまで遠征軍出動を見合わせることとする。
その旨を長崎の大隈に電報で命令し、こうなったからには「この度の一挙、成功の目的万々これあるまじく」、しかも「各国の公論、台湾は支那の版図たること判然たる上は」、遠征を一時中止せざるをえないであろうとの三条の書簡を携行した使者を長崎へ急派。
大隈は、遠征一時見合わせの電報に接して弱気に転じるが、西郷都督は出発延期命令に従わない。
リゼンドル、カッセル、ワッソンのアメリカ人グループも強行を主張。
*
4月20日
・ドイツ帝国議会、セプテナート(7年分の軍事予算)を一括承認。
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4月21日
・原敬(18)、エブラル神父の学僕として新潟へ赴く。~翌明治8年9月。
*
4月24日
・大久保、佐賀より帰京。
台湾出兵に対するイギリス・アメリカの干渉は、「まことに大事の国難」と痛感し、「兵隊進退」の委任をうけて、29日、東京を出発して長崎へ急ぐ。
*
4月24日
・(露暦4/12)チャイコフスキー、オペラ「オブリーチニク」初演。モスクワ、マリンスキー劇場。ラジュチニコフの歴史小説。
*
4月27日
・西郷従道、厦門領事陸軍少佐福島九成に清国閩浙総督李鶴年宛の出兵通知書を託し、独断で兵200を有功丸で派遣。アメリカ人カッセル、ワッソンも同行。
5月3日、福島は厦門に到着、現地当局経由で台湾管轄の李総督に出兵通知書を伝達。
*
4月27日
・内閣顧問島津久光、左大臣就任。
*
4月28日
・樺太支庁、東シララカ・ウショロ両出張所に漁場廃止の旨通達。
*
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
*
2011年4月17日日曜日
明治7年(1874)4月1日~9日 台湾遠征軍総司令官西郷従道、品川進発 江藤新平ら処刑 [一葉2歳]
明治7年(1874)4月
この月
・田中正造、岩手県令島惟精より無罪赦免を言渡される。
5月9日、叔父に伴われ5年ぶりに小中村に帰郷(3月9日、母さき(55)、没)。
隣村赤見村造酒家蛭子屋の番頭となる。
獄中でスマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」熟読。
*
・「成島柳北戯著柳橋新誌二編」(奎章閣)出版。
漢文。明治4年の著作。読書階級に大きな反響を呼ぶ。
○成島柳北:
徳川幕府の正史「徳川実紀」の編者成島司直の孫、史書「後鑑」の編者成島稼堂の子。
幼時から神童と云われ、18歳(安政元年)で家督を継ぎ、21歳で将軍家茂の侍講となる。
23歳(安政6年)「柳橋新誌」第一編を著す。
27歳(文久3年)建策が幕府に容れられず風刺詩を発表して免職、閉門処分。
慶応元年、千石で歩兵頭から騎兵頭となる。
慶応3年、2千石で騎兵奉行。
ついで、外国奉行から従五位下大隅守に任じ、俸給3千両で会計副総裁となる。
維新後は下野し隠遁。のち左院議員に勧められるが拒絶。
明治3年、浅草本願寺境内に私学校を開き、「柳橋新誌」第二編を書き始める。
明治6年9月創刊の「朝野新聞」社長。この年、38歳。
柳北は、今の柳橋に遊ぶ者が、この間までは手内職をして生活を維持したという京都の公卿や、人情も風流も理解しない長州や薩摩や土佐の田舎侍であることを、巧妙な筆を駆使して辛辣に描く。
政府は柳北を敵視する。
*
・服部誠一(撫松)「東京新繁昌記」(奎章閣)出版。好評。この年中に続編を五編まで出版。
○服部誠一:
奥州二本松丹羽家の旧家臣、明治3年29歳で東京に移住。代々丹羽家に仕えた儒者の家系。
維新により禄を失い、確たる目当てもなく、新しい生活の道を求めて上京。
*
4月2日
・この日の閣議。
木戸は、「台湾一条への連印・・・あい辞せり」と閣議決定書面への参議としての押印を断る。
木戸は、18日、「内外緩急の序ますます乱れ」との理由で参議の辞表を提出。
また、5日、伊藤は岩倉に手紙を送り、「木戸不承知・・・私においても・・・おのれを曲げ、心中はなはだ不安」と、政府の台湾方針への危惧の念を伝える。
*
4月4日
・西郷従道(陸軍大輔)を陸軍中将に昇格させ台湾蛮地事務都督(遠征軍総司令官)に、陸軍少将谷千城と海軍少将赤松則良を参軍に、陸軍中佐佐久間左馬太・陸軍少佐福島九成を参謀に任命。
リゼンドル推薦のアメリカ軍人カッセルやワッソン参画。
熊本鎮台歩兵・砲兵、「日進」ほか2艦動員。イギリス汽船・アメリカ汽船も用船。
台湾蕃地事務局設置し、5日、参議兼大蔵卿大隈重信を台湾蛮地事務局長官に任命。
8日、リゼンドルを外務省准2等出仕から台湾蕃地事務局准2等出仕(副長官)に配置変え、柳原前光を清国駐剳特命全権公使とする。
9日、西郷従道、軍艦「春日」・「孟春」率い品川発。長崎(遠征根拠地)に向う。隆盛300の部隊・徴集隊派遣同意。
*
柳原に与えられた「内勅」:
一、出兵は「討蕃」のためであって清国と戦争する意図がないことを清側に理解させよ。
二、「蕃地」と清国領台湾との境界が複雑であるために派生する問題を処理せよ。
三、琉球藩が日本に服属することを清側に理解させよ。
*
西郷都督に与えられた勅命は、
①「我国人を暴殺せし罪を問」うこと、
②「臨機兵力を以てこれを討つ」こと、
③被害が再発しないように「防制の方法を立」てることの三項目で、リゼンドルが献策した「表向きの眼目」通り。
また、同時に全10款の「特諭」が授けられる。
その第二款は、「鎮定後は漸次に土人を誘導開化せしめ、ついにその土人と日本政府との間に有益の事業を興起せしむるを以て目的となすべし」となっている。リゼンドルのいう「真の眼目」実現のための方策がほぼそのまま踏襲されている。
*
西郷都督の任務は、表面は「討蕃撫民」だが、実質は「フォルモサ島の一部を日本に併す」ことで、「台湾蕃地処分要略」からは一度削除された「その地を拠有」という目的が事実上復活。
もっとも第二款には、「但し、この場合に於ては支那政府との関係及び後来の利害等を詳明に上奏して命を乞うべき事」との歯止めはかけられている。
*
15日付け三条の岩倉宛て書簡:
「台湾殖民一条、実に苦慮に堪えず候、もっとも御委任状は御改めに相成り候えども、実地の運びはすでに殖民の都合に相成り候あいだ、都督の処分は必ず殖民の姿に相成るべくに相違これなくと懸念つかまつり候」と、西郷が台湾領有を期しているからには、「特諭」第二款の歯止めは有名無実であり、必ず「殖民の姿」、つまり領有へと進むにちがいないと告白している。
*
4月5日
・司法省佐賀裁判所開設。佐賀城内。裁判長司法権大判事河野敏鎌。
この日、参議文部卿兼内務卿木戸孝允、太政大臣三条に江藤減刑の書簡。
*
河野敏鎌が、「将来にわたって不逞のやからが出没横行するおそれがある」として府県裁判所の新設を上申し、佐賀出張中の大久保利通からも、「いそぎ当県へ裁判所を置いて、官員を派遣されたし」と、催促。
この佐賀裁判所は、府県裁判所であって臨時裁判所ではない。
司法省職制章程には、「府県裁判所は、『流刑』以下を処断して、『死罪および疑獄』は司法省の裁可を受ける」とあり、佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所で死刑判決を受けても、司法卿大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿木戸孝允(文部卿兼務)へ取り計らうべきであり、ただちに執行されることはない。
また、3月20日には、大久保利通が得た2月10日に三条実美からの委任状「死刑といえども、臨機に処分のこと」(第1項但書)は取り消されている。
*
4月5日
・ヨハン・シュトラウス2世、オペレッタ「こうもり」、アン・デア・ウィーン劇場で初演
*
4月7日
・江藤新平護送の軍艦「猶竜」、佐賀入り。江藤ら9人収監。
*
4月8日
・佐賀裁判所(設置されたばかり)裁判長河野敏鎌(権大判事)・直班検事岸良兼養(大判事)、江藤梟首の「擬律伺」を大久保に上申。
佐賀裁判所審理開始。~9日。
13日、江藤・島ら11人死刑判決、即日処刑。政府軍戦死190、江藤軍戦死167。
*
河野敏鎌(元土佐藩士)は、明治5年5月から、司法卿江藤新平の推挙でヨーロッパへ派遣された。
その後、司法大丞(四等官)に昇進し、明治7年1月15日付で司法権大判事。
大検事(四等官)岸良兼養も、河野と共にヨーロッパへ派遣されている。
共に江藤のかつての部下。
*
8日の大久保日記:
「河野大検事(ママ)ヨり擬律伺コレアリ評決」とある。
結審前に判決案(擬律)が固まっていたことを示す。
*
13日の判決。
「其ノ方儀、朝憲ヲ憚(ハバカラ)ズ、名ヲ征韓ニ托シ、党与ヲ募り、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウスル科ニテ、除族ノ上、梟首申シ付ル」。
*
佐賀裁判所は府県裁判所であるから、その権限は司法職務定制第58条により「流以下ノ刑ヲ裁断スル事ヲ得ベシ、死罪及ビ疑獄ハ本省ニ伺イ出テ、其ノ処分ヲ受ケ」と定められおり、単独で死刑判決はできないことになっている。それを敢て強行した。
*
判決。梟首2、斬首11、懲役10年6、懲役7年17、懲役5年18、懲役3年62、懲役2年47、懲役100日1、禁錮100日2、禁錮70日3、禁錮40日2、免罪11,237。
*
○福沢諭吉の江藤裁判批判。
「佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之れを疑わず、加うるに、此の犯罪の巨魁を補えて更に公然裁判もなく、其の場所に於て、刑に処したるは、之れを刑と云うべからす。其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し。
鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云うべし」(「丁丑公論」)。
*
4月9日
・イギリス公使パークス、西郷都督の東京出発と同じこの日(9日)、日本政府が兵員や物資を台湾へ輸送するために各国船舶を雇用しているとの風聞があるが、船名と行き先を教えて欲しいと寺島外務卿に問い合わせ。
*
4月9日
・ボアソナアド、司法省法学校で講義を始める。既にブスケの講義を聴講していた者を中心に15名。
後に「フランス法派」の中核を形成。
明治9年入学の第2期生には原敬、松室致、末弘巌石。明治17年の第4期生(最後)には若槻礼次郎ら。
また、ボワソナアドは、法学校の講義の他に司法省の官吏を対象とするフランス実定法の解説も開始。これは、日本民法編纂への準備として行われたもの。
ボワソナアドの「開講の辞」:
「私は(政府に対して)なかんずく、日本政府の立法改革事業は、その司法官および行政官の一新と不可分であることを指摘しました。・・したがって、新たな諸法律を準備しているあいだにも、貴重な時間を一刻も無駄に失うことのないように、(新たに作られる)法律の条文を理解する学力を備えた若い司法官の育成所を作らなければならない、と進言しました」と述べる。
かれは、自らの講義を「自然法の講義」と名づける。
*
原敬は、明治12年、賄(マカナイ)征伐事件(寮の食事内容に対する抗議事件)に関連して退学処分となる。
*
「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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この月
・田中正造、岩手県令島惟精より無罪赦免を言渡される。
5月9日、叔父に伴われ5年ぶりに小中村に帰郷(3月9日、母さき(55)、没)。
隣村赤見村造酒家蛭子屋の番頭となる。
獄中でスマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」熟読。
*
・「成島柳北戯著柳橋新誌二編」(奎章閣)出版。
漢文。明治4年の著作。読書階級に大きな反響を呼ぶ。
○成島柳北:
徳川幕府の正史「徳川実紀」の編者成島司直の孫、史書「後鑑」の編者成島稼堂の子。
幼時から神童と云われ、18歳(安政元年)で家督を継ぎ、21歳で将軍家茂の侍講となる。
23歳(安政6年)「柳橋新誌」第一編を著す。
27歳(文久3年)建策が幕府に容れられず風刺詩を発表して免職、閉門処分。
慶応元年、千石で歩兵頭から騎兵頭となる。
慶応3年、2千石で騎兵奉行。
ついで、外国奉行から従五位下大隅守に任じ、俸給3千両で会計副総裁となる。
維新後は下野し隠遁。のち左院議員に勧められるが拒絶。
明治3年、浅草本願寺境内に私学校を開き、「柳橋新誌」第二編を書き始める。
明治6年9月創刊の「朝野新聞」社長。この年、38歳。
柳北は、今の柳橋に遊ぶ者が、この間までは手内職をして生活を維持したという京都の公卿や、人情も風流も理解しない長州や薩摩や土佐の田舎侍であることを、巧妙な筆を駆使して辛辣に描く。
政府は柳北を敵視する。
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・服部誠一(撫松)「東京新繁昌記」(奎章閣)出版。好評。この年中に続編を五編まで出版。
○服部誠一:
奥州二本松丹羽家の旧家臣、明治3年29歳で東京に移住。代々丹羽家に仕えた儒者の家系。
維新により禄を失い、確たる目当てもなく、新しい生活の道を求めて上京。
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4月2日
・この日の閣議。
木戸は、「台湾一条への連印・・・あい辞せり」と閣議決定書面への参議としての押印を断る。
木戸は、18日、「内外緩急の序ますます乱れ」との理由で参議の辞表を提出。
また、5日、伊藤は岩倉に手紙を送り、「木戸不承知・・・私においても・・・おのれを曲げ、心中はなはだ不安」と、政府の台湾方針への危惧の念を伝える。
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4月4日
・西郷従道(陸軍大輔)を陸軍中将に昇格させ台湾蛮地事務都督(遠征軍総司令官)に、陸軍少将谷千城と海軍少将赤松則良を参軍に、陸軍中佐佐久間左馬太・陸軍少佐福島九成を参謀に任命。
リゼンドル推薦のアメリカ軍人カッセルやワッソン参画。
熊本鎮台歩兵・砲兵、「日進」ほか2艦動員。イギリス汽船・アメリカ汽船も用船。
台湾蕃地事務局設置し、5日、参議兼大蔵卿大隈重信を台湾蛮地事務局長官に任命。
8日、リゼンドルを外務省准2等出仕から台湾蕃地事務局准2等出仕(副長官)に配置変え、柳原前光を清国駐剳特命全権公使とする。
9日、西郷従道、軍艦「春日」・「孟春」率い品川発。長崎(遠征根拠地)に向う。隆盛300の部隊・徴集隊派遣同意。
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柳原に与えられた「内勅」:
一、出兵は「討蕃」のためであって清国と戦争する意図がないことを清側に理解させよ。
二、「蕃地」と清国領台湾との境界が複雑であるために派生する問題を処理せよ。
三、琉球藩が日本に服属することを清側に理解させよ。
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西郷都督に与えられた勅命は、
①「我国人を暴殺せし罪を問」うこと、
②「臨機兵力を以てこれを討つ」こと、
③被害が再発しないように「防制の方法を立」てることの三項目で、リゼンドルが献策した「表向きの眼目」通り。
また、同時に全10款の「特諭」が授けられる。
その第二款は、「鎮定後は漸次に土人を誘導開化せしめ、ついにその土人と日本政府との間に有益の事業を興起せしむるを以て目的となすべし」となっている。リゼンドルのいう「真の眼目」実現のための方策がほぼそのまま踏襲されている。
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西郷都督の任務は、表面は「討蕃撫民」だが、実質は「フォルモサ島の一部を日本に併す」ことで、「台湾蕃地処分要略」からは一度削除された「その地を拠有」という目的が事実上復活。
もっとも第二款には、「但し、この場合に於ては支那政府との関係及び後来の利害等を詳明に上奏して命を乞うべき事」との歯止めはかけられている。
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15日付け三条の岩倉宛て書簡:
「台湾殖民一条、実に苦慮に堪えず候、もっとも御委任状は御改めに相成り候えども、実地の運びはすでに殖民の都合に相成り候あいだ、都督の処分は必ず殖民の姿に相成るべくに相違これなくと懸念つかまつり候」と、西郷が台湾領有を期しているからには、「特諭」第二款の歯止めは有名無実であり、必ず「殖民の姿」、つまり領有へと進むにちがいないと告白している。
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4月5日
・司法省佐賀裁判所開設。佐賀城内。裁判長司法権大判事河野敏鎌。
この日、参議文部卿兼内務卿木戸孝允、太政大臣三条に江藤減刑の書簡。
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河野敏鎌が、「将来にわたって不逞のやからが出没横行するおそれがある」として府県裁判所の新設を上申し、佐賀出張中の大久保利通からも、「いそぎ当県へ裁判所を置いて、官員を派遣されたし」と、催促。
この佐賀裁判所は、府県裁判所であって臨時裁判所ではない。
司法省職制章程には、「府県裁判所は、『流刑』以下を処断して、『死罪および疑獄』は司法省の裁可を受ける」とあり、佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所で死刑判決を受けても、司法卿大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿木戸孝允(文部卿兼務)へ取り計らうべきであり、ただちに執行されることはない。
また、3月20日には、大久保利通が得た2月10日に三条実美からの委任状「死刑といえども、臨機に処分のこと」(第1項但書)は取り消されている。
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4月5日
・ヨハン・シュトラウス2世、オペレッタ「こうもり」、アン・デア・ウィーン劇場で初演
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4月7日
・江藤新平護送の軍艦「猶竜」、佐賀入り。江藤ら9人収監。
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4月8日
・佐賀裁判所(設置されたばかり)裁判長河野敏鎌(権大判事)・直班検事岸良兼養(大判事)、江藤梟首の「擬律伺」を大久保に上申。
佐賀裁判所審理開始。~9日。
13日、江藤・島ら11人死刑判決、即日処刑。政府軍戦死190、江藤軍戦死167。
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河野敏鎌(元土佐藩士)は、明治5年5月から、司法卿江藤新平の推挙でヨーロッパへ派遣された。
その後、司法大丞(四等官)に昇進し、明治7年1月15日付で司法権大判事。
大検事(四等官)岸良兼養も、河野と共にヨーロッパへ派遣されている。
共に江藤のかつての部下。
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8日の大久保日記:
「河野大検事(ママ)ヨり擬律伺コレアリ評決」とある。
結審前に判決案(擬律)が固まっていたことを示す。
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13日の判決。
「其ノ方儀、朝憲ヲ憚(ハバカラ)ズ、名ヲ征韓ニ托シ、党与ヲ募り、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウスル科ニテ、除族ノ上、梟首申シ付ル」。
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佐賀裁判所は府県裁判所であるから、その権限は司法職務定制第58条により「流以下ノ刑ヲ裁断スル事ヲ得ベシ、死罪及ビ疑獄ハ本省ニ伺イ出テ、其ノ処分ヲ受ケ」と定められおり、単独で死刑判決はできないことになっている。それを敢て強行した。
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判決。梟首2、斬首11、懲役10年6、懲役7年17、懲役5年18、懲役3年62、懲役2年47、懲役100日1、禁錮100日2、禁錮70日3、禁錮40日2、免罪11,237。
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○福沢諭吉の江藤裁判批判。
「佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之れを疑わず、加うるに、此の犯罪の巨魁を補えて更に公然裁判もなく、其の場所に於て、刑に処したるは、之れを刑と云うべからす。其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し。
鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云うべし」(「丁丑公論」)。
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4月9日
・イギリス公使パークス、西郷都督の東京出発と同じこの日(9日)、日本政府が兵員や物資を台湾へ輸送するために各国船舶を雇用しているとの風聞があるが、船名と行き先を教えて欲しいと寺島外務卿に問い合わせ。
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4月9日
・ボアソナアド、司法省法学校で講義を始める。既にブスケの講義を聴講していた者を中心に15名。
後に「フランス法派」の中核を形成。
明治9年入学の第2期生には原敬、松室致、末弘巌石。明治17年の第4期生(最後)には若槻礼次郎ら。
また、ボワソナアドは、法学校の講義の他に司法省の官吏を対象とするフランス実定法の解説も開始。これは、日本民法編纂への準備として行われたもの。
ボワソナアドの「開講の辞」:
「私は(政府に対して)なかんずく、日本政府の立法改革事業は、その司法官および行政官の一新と不可分であることを指摘しました。・・したがって、新たな諸法律を準備しているあいだにも、貴重な時間を一刻も無駄に失うことのないように、(新たに作られる)法律の条文を理解する学力を備えた若い司法官の育成所を作らなければならない、と進言しました」と述べる。
かれは、自らの講義を「自然法の講義」と名づける。
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原敬は、明治12年、賄(マカナイ)征伐事件(寮の食事内容に対する抗議事件)に関連して退学処分となる。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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2011年3月20日日曜日
明治7年(1874)3月1日~30日 江藤新平、鹿児島で西郷隆盛と会談、土佐で捕縛 台湾領有意図「フォルモサ島(台湾)の一部を日本に併す」 [一葉2歳]
明治7年(1874)3月
・華族会議、結成。総代中山忠能(ただやす)。
岩倉使節団で「貴族」の存在を認識した木戸と三条の腹心尾崎三良の工作で「通款社」(明治6年12月設立、若手華族の学術研究団体)と「麝香間祗候(じゃこうのましこう)会議」(保守的華族長老団体)が合同。
6月、華族会館に発展。「協同勉励学術を研精」する機関と位置づける。
*
華族の中にはその地位を返上しようとする人物もいる。
明治7年2月、旧福本藩(播磨)知事池田徳潤(ノリマス)は、「報恩の寸功も之なく、多罪之仕合と存じ奉り侯得共、此上歳々時日を過ぎ侯ては猶更恐入候」と、位記の返上と家令・家扶の廃止を願い出る。
明治9年2月、元広島藩主浅野長勲(ナガコト)は、「身を民籍に帰し祖先墳墓の地に拠り、力を開墾に用ひ、聊か物産を富殖し、万一も国家に稗益あらんことを冀望(キボウ)」すると出願。
しかし、政府はこれらの出願を却下。
華族は次第に宮内省の強力な統制下におかれ、「戸位素餐」の振る舞いも市民的自由も制約されることとなる。
*
3月1日
・佐賀鎮定全権委任された参議兼内務卿大久保利通、佐賀城入り。
*
3月1日
・憂国党党首島義勇、島津久光に嘆願書を渡すため鹿児島に向かう。
7日、憂国党幹部らと鹿児島で逮捕。佐賀へ護送。
*
元薩摩藩主の島津久光は、2月13日に東京を発って20日に鹿児島に戻り、佐賀に呼応することのないよう元藩士に睨みをきかせていた。
憂国党の幹部は、鎮台兵が佐賀を蹂躙し、士族のブライドを傷つけられたことを訴え、島津久光に謝罪・帰順しようとした。
久光はこれに理解を示し、佐賀の大久保に使者を送るが、大久保は一切取り合わず。
*
3月1日
・江藤新平、宇奈木温泉で遊猟中の西郷隆盛に面会(4ヶ月ぶりに再会)。再挙への協力求めるが、西郷は応じず。
西郷は、島津久光に会うよう勧めるが江藤従わず。
3日、江藤、宮崎に向かい、日向飫肥の小倉処平が用意してくれた船で宇和島に渡る。
陸路から四万十川を下り、下田港から海路で高知へ潜行し、土佐の同志の協力を得て東京に行き三条・岩倉に真意を訴えたいと考えた。
*
鹿児島での江藤新平と西郷隆盛は、2日間にわたって2人だけで話し合う。
宿の女将は、一度、西郷の大声を聞いた。
「私の言うようになさらんと、アテがちがいますぞ!」
江藤は太政官へ出頭して、正院において弁明したいと西郷に助力を頼む。
しかし、西郷隆盛は、島津久光に会うように勧める。
島津は、2月20日の帰国後、西郷を呼び出し、「江藤新平の挙を非とするならば、陸軍大将たるものが兵をひきいて、これを討伐すべきではないか」と迫る。
西郷は、「私は静養中の身であるから、もし必要なら陸海軍が乗り出して、討伐にあたるでしょう」と、受け流す。
島津は、西郷らが江藤に呼応する事を心配していた。
その経緯から、西郷の口添えあれば、島津は悪いようはしないと、西郷は読んだ。
しかし、江藤は西郷の勧告に従わず土佐に向う。
*
3月2日
・陸軍少佐樺山資紀、膨湖諸島を調査。
9日、台湾打狗(高尾)に上陸。
*
3月4日
・太政官、「佐賀戦争平定」布告。江藤の人相書き配布。
*
3月7日
・(清、同治13年正月19日)同治帝、第2次アヘン戦争で破壊されたままの円明園の修復工事を正式に着工させる。国家財政困難なため群臣は中止を求める。
*
3月13日
・リゼンドル、大隈の諮問に台湾遠征の具体計画を提出。
「フォルモサ島(台湾)の一部を日本に併す」と領有意図を明白にする。
また、遠征成功には必要権限を与えられた「長官」が不可欠と助言。
大久保の意を受けて黒田は谷を押すが、西郷従道が自ら望み三条・岩倉に工作。黒田も折れる。
*
遠征の「表向きの眼目」は「ボンタン人〔牡丹社〕の罪を問い後来さらにその悪業を行うを防制するため」だが、「其の眼目は土人の所轄たるフォルモサ島〔台湾〕の一部を日本に併すにあり」、そのために「土人を開化せしめ、鎮定の後その土人をして己等と日本政府との為に有益ならしむるに着眼」せよと提言。
「台湾蕃地処分要略」では隠されていた領有意図を明白に打ち出す。
*
3月13日
・女子師範学校設立の通達が出る。
*
3月14日
・釜山の草梁和館に在勤の外務省権少録奥義制より東京の外務省権大録・森山茂と同出仕・広津弘信に宛てて大院君引退の報告書。
高宗が親政し全面的な人事刷新観測を知らせる。
6月、三条太政大臣は三度森山茂を派遣。
明治政府は、朝鮮国の内紛に乗じて、強く開国を迫ることを決する。
*
3月15日
・フランス、ヴェトナム(阮朝)と第2次サイゴン条約締結。
紅河(ソンコイ川)沿いの通商権を獲得、ヴェトナムの清からの「独立」を認め事実上これを保護国化。清朝はこれを認めずヴェトナムを藩属国と主張するが、政権中枢の李鴻章らの妥協・譲歩政策により実効ある抵抗はできず。
*
中旬
・マルクスとエンゲルス、ベーベルの論文により、デューリングなる危険人物の存在を知る。
*
3月20日
・太政大臣三条実美、大久保利通の全権委任状の「死刑といえども、臨機に処分のこと」を取り消し、処刑は内務卿の取り計らいとする旨、大久保に電報。
この時点で、内務卿は木戸孝允である。
また、2月23日の佐賀征討令により、総督東伏見嘉彰親王、参軍山県有朋・伊東祐麿が任命されており、既に大久保は非常時大権を持っていない。
*
3月21日
・築地海軍兵学寮、競闘遊戯会開催。
*
3月24日
・江藤新平、土佐の林有造に面会。
林は、自首を勧め、高知県令岩崎長武に密告。
江藤は徒歩で阿波に向う。
*
3月24日
・司法卿、フランス人顧問2人(ボアソナアド、プスケ)と法学教育に関する契約締結。
4月から日本で初めて本格的なヨーロッパ的法学教育が始まる。
ポワソナアドは、初め「自ら三百円の増金有之候事と断然と存込」んでいたが、実際には200円となる。プスケの増俸は150円。
*
3月26日
・板垣退助、土佐へ帰郷。
4月10日、立志社結成。
*
3月28日
・秩禄公債証書発行。
*
3月29日
・江藤新平、部下8人と共に土佐・阿波国境の安芸郡甲の浦で逮捕される。
4月3日、護送の軍艦「猶竜」に乗せられる。
*
3月30日
・この日の閣議で、木戸は、「台湾一条・・・着手の密にして蹉跌なきことをるる陳諭す」と慎重論を述べる(「木戸日記」)。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
*
・華族会議、結成。総代中山忠能(ただやす)。
岩倉使節団で「貴族」の存在を認識した木戸と三条の腹心尾崎三良の工作で「通款社」(明治6年12月設立、若手華族の学術研究団体)と「麝香間祗候(じゃこうのましこう)会議」(保守的華族長老団体)が合同。
6月、華族会館に発展。「協同勉励学術を研精」する機関と位置づける。
*
華族の中にはその地位を返上しようとする人物もいる。
明治7年2月、旧福本藩(播磨)知事池田徳潤(ノリマス)は、「報恩の寸功も之なく、多罪之仕合と存じ奉り侯得共、此上歳々時日を過ぎ侯ては猶更恐入候」と、位記の返上と家令・家扶の廃止を願い出る。
明治9年2月、元広島藩主浅野長勲(ナガコト)は、「身を民籍に帰し祖先墳墓の地に拠り、力を開墾に用ひ、聊か物産を富殖し、万一も国家に稗益あらんことを冀望(キボウ)」すると出願。
しかし、政府はこれらの出願を却下。
華族は次第に宮内省の強力な統制下におかれ、「戸位素餐」の振る舞いも市民的自由も制約されることとなる。
*
3月1日
・佐賀鎮定全権委任された参議兼内務卿大久保利通、佐賀城入り。
*
3月1日
・憂国党党首島義勇、島津久光に嘆願書を渡すため鹿児島に向かう。
7日、憂国党幹部らと鹿児島で逮捕。佐賀へ護送。
*
元薩摩藩主の島津久光は、2月13日に東京を発って20日に鹿児島に戻り、佐賀に呼応することのないよう元藩士に睨みをきかせていた。
憂国党の幹部は、鎮台兵が佐賀を蹂躙し、士族のブライドを傷つけられたことを訴え、島津久光に謝罪・帰順しようとした。
久光はこれに理解を示し、佐賀の大久保に使者を送るが、大久保は一切取り合わず。
*
3月1日
・江藤新平、宇奈木温泉で遊猟中の西郷隆盛に面会(4ヶ月ぶりに再会)。再挙への協力求めるが、西郷は応じず。
西郷は、島津久光に会うよう勧めるが江藤従わず。
3日、江藤、宮崎に向かい、日向飫肥の小倉処平が用意してくれた船で宇和島に渡る。
陸路から四万十川を下り、下田港から海路で高知へ潜行し、土佐の同志の協力を得て東京に行き三条・岩倉に真意を訴えたいと考えた。
*
鹿児島での江藤新平と西郷隆盛は、2日間にわたって2人だけで話し合う。
宿の女将は、一度、西郷の大声を聞いた。
「私の言うようになさらんと、アテがちがいますぞ!」
江藤は太政官へ出頭して、正院において弁明したいと西郷に助力を頼む。
しかし、西郷隆盛は、島津久光に会うように勧める。
島津は、2月20日の帰国後、西郷を呼び出し、「江藤新平の挙を非とするならば、陸軍大将たるものが兵をひきいて、これを討伐すべきではないか」と迫る。
西郷は、「私は静養中の身であるから、もし必要なら陸海軍が乗り出して、討伐にあたるでしょう」と、受け流す。
島津は、西郷らが江藤に呼応する事を心配していた。
その経緯から、西郷の口添えあれば、島津は悪いようはしないと、西郷は読んだ。
しかし、江藤は西郷の勧告に従わず土佐に向う。
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3月2日
・陸軍少佐樺山資紀、膨湖諸島を調査。
9日、台湾打狗(高尾)に上陸。
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3月4日
・太政官、「佐賀戦争平定」布告。江藤の人相書き配布。
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3月7日
・(清、同治13年正月19日)同治帝、第2次アヘン戦争で破壊されたままの円明園の修復工事を正式に着工させる。国家財政困難なため群臣は中止を求める。
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3月13日
・リゼンドル、大隈の諮問に台湾遠征の具体計画を提出。
「フォルモサ島(台湾)の一部を日本に併す」と領有意図を明白にする。
また、遠征成功には必要権限を与えられた「長官」が不可欠と助言。
大久保の意を受けて黒田は谷を押すが、西郷従道が自ら望み三条・岩倉に工作。黒田も折れる。
*
遠征の「表向きの眼目」は「ボンタン人〔牡丹社〕の罪を問い後来さらにその悪業を行うを防制するため」だが、「其の眼目は土人の所轄たるフォルモサ島〔台湾〕の一部を日本に併すにあり」、そのために「土人を開化せしめ、鎮定の後その土人をして己等と日本政府との為に有益ならしむるに着眼」せよと提言。
「台湾蕃地処分要略」では隠されていた領有意図を明白に打ち出す。
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3月13日
・女子師範学校設立の通達が出る。
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3月14日
・釜山の草梁和館に在勤の外務省権少録奥義制より東京の外務省権大録・森山茂と同出仕・広津弘信に宛てて大院君引退の報告書。
高宗が親政し全面的な人事刷新観測を知らせる。
6月、三条太政大臣は三度森山茂を派遣。
明治政府は、朝鮮国の内紛に乗じて、強く開国を迫ることを決する。
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3月15日
・フランス、ヴェトナム(阮朝)と第2次サイゴン条約締結。
紅河(ソンコイ川)沿いの通商権を獲得、ヴェトナムの清からの「独立」を認め事実上これを保護国化。清朝はこれを認めずヴェトナムを藩属国と主張するが、政権中枢の李鴻章らの妥協・譲歩政策により実効ある抵抗はできず。
*
中旬
・マルクスとエンゲルス、ベーベルの論文により、デューリングなる危険人物の存在を知る。
*
3月20日
・太政大臣三条実美、大久保利通の全権委任状の「死刑といえども、臨機に処分のこと」を取り消し、処刑は内務卿の取り計らいとする旨、大久保に電報。
この時点で、内務卿は木戸孝允である。
また、2月23日の佐賀征討令により、総督東伏見嘉彰親王、参軍山県有朋・伊東祐麿が任命されており、既に大久保は非常時大権を持っていない。
*
3月21日
・築地海軍兵学寮、競闘遊戯会開催。
*
3月24日
・江藤新平、土佐の林有造に面会。
林は、自首を勧め、高知県令岩崎長武に密告。
江藤は徒歩で阿波に向う。
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3月24日
・司法卿、フランス人顧問2人(ボアソナアド、プスケ)と法学教育に関する契約締結。
4月から日本で初めて本格的なヨーロッパ的法学教育が始まる。
ポワソナアドは、初め「自ら三百円の増金有之候事と断然と存込」んでいたが、実際には200円となる。プスケの増俸は150円。
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3月26日
・板垣退助、土佐へ帰郷。
4月10日、立志社結成。
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3月28日
・秩禄公債証書発行。
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3月29日
・江藤新平、部下8人と共に土佐・阿波国境の安芸郡甲の浦で逮捕される。
4月3日、護送の軍艦「猶竜」に乗せられる。
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3月30日
・この日の閣議で、木戸は、「台湾一条・・・着手の密にして蹉跌なきことをるる陳諭す」と慎重論を述べる(「木戸日記」)。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年3月6日日曜日
明治7年(1874)3月 「明六雑誌」創刊 [一葉2歳]
明治7年(1874)3月
・「明六雑誌」創刊
前年(明治6年)7月アメリカより帰国した森有礼が、「万国史略」の著者西村茂樹を訪ね「我国ノ教育ヲ進メンガ為ニ、有志ノ徒会同シテ、其手段ヲ商議スル」結社結成を持ちかける。
賛同した西村が、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之、津田真道、神田孝平、箕作麟祥、杉亨二ら8名を誘い、明治6年秋、「明六社」を結成。
「明六雑誌」第1号に西周「洋学ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」掲載。洋字使用論でローマ字論争が起こる。
*
○加藤弘之:
佐久間象山に学ぶ。幕臣となって幕府の洋学教育機関、開成所の教授職竝(なみ)となる。
維新後、新政府に参加し天皇の侍講として洋書講義をおこなう。
明治4年以降、文部大丞。
幕末の『鄰草(となりぐさ)』(文久元年(1861))、『立憲政体略』(慶応2(1866))、『真政大意』(明治3年)によって、日本に初めて立憲政体、憲法、議事院の原理を紹介。
「億兆ノ為メニ一君ヲ置キ奉ラセ玉フ訳デ、決シテ一君ノ為メニ億兆ガアルト云フ訳デハナイデゴサル。」(「真政大意」)
*
西周、津田真道は陸軍省、加藤弘之、西村茂樹は文部省、森有礼は外務省、神田孝平は兵庫県令、箕作麟祥は司法省、中村正直は大蔵省に在職する官吏(中村、箕作、西村は翻訳官や編書官)。
*
薩摩の森有礼以外は、出身の違いはあるものの、幕末の最終局面では、幕府の蕃書調所から開成所にいたる洋学教育の中心に身をおき、尊王攘夷や復古の風潮に染まったことのない思想家。
*
雑誌の名は明治6年に作られた「明六社」の名をとる。和紙で20ページ弱。各号3千部は売れたと言われ、再版号も多い。
*
社員のうち、議院設立が尚早との意見を持つのはドイツ系統の思想を持つ加藤弘之で、森有礼・西周はそれに加担した。
西村茂樹・津田真道等は議院設立の即行論者。
*
津田真道(幕末にオランダ、フランス等に学ぶ)は、雑誌に3ヶ月連載した「政論」において代議員選出の範囲と手続きについての自説を述べる。
「士族ハ従来文字アルモノ稍(ヤヤ)多ク、平民ハ豪富ニアラザレバ、書ヲ読ム者希ナリ。故ニ今代議士司選ノ人ヲ定メテ悉皆華士族トシ、並ニ平民ノ多ク租税ヲ納ムルモノトシ、其平民、都会ニ於テハ譬(タト)へバ二百円乃至千円以上ノ地券ヲ有スルモノニ限リ、村落ニ於テハ五十円乃至百円以上ノ地券ヲ有スルモノニ限ルベシ。・・・右ノ如ク定メタル選者ヲ初選者卜名ヅク。初選者百人ニシテ相当ノ鑑識ヲ具スル一人ヲ選挙シ、之ヲ本選者卜名ヅケテ、此本選者ノ更ニ選挙スル所ノ人ヲ代議士トシテ議院ニ会集シテ、国民ニ代リテ国事ヲ審議スル人トス」
そして、日本の人口3,000万の中から60名乃至120名を代議士として選出すべきと述べる。
*
その他、森有礼、西周、加藤弘之、阪谷素(シロシ)、神田孝平等が殆ど毎号、議会政治について論じる。
*
第1号巻頭の西周「洋字を以て国語を書するの論」:
明六社結成を「時宜ヲ制シテ漸次開明ノ域」に入るために「学術文章ノ社ヲ結パント欲」したと位置づけ、そのためには、国語国字改良が必要とし、今まで中国の漢字をつかってきたならば、今、ヨーロッパをモデルにして進もうとするとき、「洋学」を採用して何の不思議があろうかという。
ローマ字採用論。utukusiki hanaと書いて文章としては「ウツクシキ花」と読ませ、口語としては「ウツクシイ花」とkをサイレントにすればいいと述べる。
*
福沢諭吉は、前年明治6年の小冊子「文字の教」で、今後は漢字をなるべく使わない文章を書くべきと述べる。文章の改革思想が、西や福沢によって次第に識者の注意を引くようになる。
*
第2号は、福沢諭吉が「学問のすゝめ」4篇(明治7年1月刊)の主張する「私立」の精神への反論。
福沢は、
「日本には唯政府ありで、未だ国民あらずと云ふも可なり。
……我国の文明を進めて其独立を維持するは、独り政府の能する所に非ず、又、今の洋学者流も依頼するに足らず。
……既に改革家の名ありて、又其身は中人以上の地位に在り、・・・私立の地位を占め、……政府の頂門に一釘〔針)を加へ、旧弊を除で民権を恢復せんこと方今至急の要務なる可し。」
と云う。
*
津田、森、加藤、西は、「私立」にこだわるだけで開化は進展できるかと疑問を呈出。
「学問のすゝめ」4篇は「此社」(明六社)のために執筆されたものなので、理念は理解できる。
だが、「在官」の人間を排除して、どこに開化の推進者を見出せるか、「在官私立ニ拘ラズ」開化の問題をたてるべきではないか、と質問する。
この頃には、慶応義塾出身者も大量に政府内部に進出しており、また大久保政権は、イギリスを規範とする殖産興業を進めている。
その大久保政府は反対派を排除することで、福沢の指摘どおり、強大化しすぎており、「未だ国民あらずと云ふも可な」る状態である。
*
明六社同人の大部分は、この政府に様々な形で参加しつつ、各方面でジレンマに直面している。 津田真道や中村正直は、政府改革、自由・自主の主張に力点をおいている。
*
第6号で、津田は、「出板自由ナランコトヲ望ム論」で、「文明」と「野蛮」の別は、「唯其民ノ言行自由ヲ得ルト得ザルトニ於テ」はっきりする、政府が治安を保とうとして言論を抑圧するのは、かえって政府「顚覆ノ原(ミナモト)」だという。
*
「民撰議院設立建白」への評価も分かれている。
もっとも徹底した賛成論は福沢諭吉。民撰議院が早いというなら、廃藩置県も早すぎたのか、明治4年が廃藩置県の「好時節」だったように、明治8年は「即、民会創立ノ好時節也」((明治8年)「五月一日明六社談話筆記」)。
津田、西村は議院に賛成だが、加藤弘之、森有礼らは時期尚早論。
*
・西周「百一新論」(上下)出版。
日本の道徳思想の基幹となっていた儒教思想と対比させ、近代ヨーロッパの哲学思想を紹介。
西洋思想の本質はフィロソフィア即ち「哲学」とでも訳すべきものである、と彼は言う。
以前から、ヨーロッパのフィロソフィアなるものがその文明の中核であると紹介していたが、それを性理学または理学と訳していた。
しかし、哲学と訳すのがよいとこの書で述べている。
理学は物理化学をも意味しており、この混同はしばらく続き、次第に哲学という言葉に落ち着いてゆく。
西は主にコントの実証思想の影響を受け、西洋の学問の根本を学ぶには、西のこの書を読むことが是非必要だと知識階級人に看倣される。
しかし西の論は、福沢に較べると難解で、読者は知識階級の中の一部に限られた。
津田真道と西周は共に幕末の洋学の秀才で、蕃書調所(幕府の洋学研究所)の教授手伝であった。
*
○西周:
石見国津和野の代々の藩医西時義の子として、文政12年(1829年)に生れる。
20歳の時、藩命により儒学を学ぶため大阪、岡山等に遊学。
25歳の時、藩の学塾塾頭となる。
翌年、江戸詰となってから洋学に志し、オランダ語を学ぶ。
その後、英語を学び、29歳の時、蕃書調所教授手伝並、次に教授手伝となる。そこで津田真道と同僚となる。
34歳の時、西は、津田・榎本武揚(兵学)・赤松則良(造艦)らとオランダ遊学を命ぜられろ。
これら幕府留学生は3年間学んで、慶応元年末に帰国。西と津田は蕃書調所の後身である洋学の大学(開成所)教授に任命される。
西は幕府のためにオランダ政治学を訳述し、また万国公法を訳す。この頃の門弟は500人という。
慶応2年頃、彼は慶喜にフランス語を教え、幕府の外交文書を訳して重く用いられる。
鳥羽伏見の戦後、慶喜が江戸に逃れると、西も江戸に戻る。
慶応4年、西・津田は幕府命により立憲政体の調査研究を命ぜられる。
明治3年3月、山県有朋は、徳川家に従って駿河に退き沼津の兵学校教授をしている西を兵部省顧問とし、ヨーロッパ式の軍制制定にあたらせる。
西と山県は極めて親密で、西は長く陸軍に関係を持つことになる。
西は兵部省に勤める傍ら、侍読(明治天皇の教師)をも兼ねる。
また、兵部省に出仕する傍ら、浅草鳥越の自宅で育英合という私塾を開き、漢学、英語、数学等の諸学課を統一した学問として教えることを始める。
彼は、明治3年~6年、近代ヨーロッパの文明全体の本質を包括的に教育しようとして、18世紀のフランスのアンシクロペジストと同じやり方で「百学連環」という特別講義を行い、それを「百一新論」として纏めて出版。
日本において最初のこの体系的な近代文化の講義(歴史学、地理学、文章学、数学等の基本学課の外、特殊学として、神学、哲学、法学、経済学、統計学、物理学、化学等に及ぶ)は、次々と刊行されることになる。
*
この頃、西周は神田小川町に住み森林太郎(13)を預かっている。
林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静男という蘭医の息子。
森静男は西の勧めで維新後東京に一家を移し、向島曳舟通で病院を開いていた。
長男林太郎を東京医学校に入学させる積りで、ドイツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離のがあるので、小川町の西家に預けた。
この春、15歳と願書に書き東京医学校を受験し合格、下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通う。
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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・「明六雑誌」創刊
前年(明治6年)7月アメリカより帰国した森有礼が、「万国史略」の著者西村茂樹を訪ね「我国ノ教育ヲ進メンガ為ニ、有志ノ徒会同シテ、其手段ヲ商議スル」結社結成を持ちかける。
賛同した西村が、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之、津田真道、神田孝平、箕作麟祥、杉亨二ら8名を誘い、明治6年秋、「明六社」を結成。
「明六雑誌」第1号に西周「洋学ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」掲載。洋字使用論でローマ字論争が起こる。
*
○加藤弘之:
佐久間象山に学ぶ。幕臣となって幕府の洋学教育機関、開成所の教授職竝(なみ)となる。
維新後、新政府に参加し天皇の侍講として洋書講義をおこなう。
明治4年以降、文部大丞。
幕末の『鄰草(となりぐさ)』(文久元年(1861))、『立憲政体略』(慶応2(1866))、『真政大意』(明治3年)によって、日本に初めて立憲政体、憲法、議事院の原理を紹介。
「億兆ノ為メニ一君ヲ置キ奉ラセ玉フ訳デ、決シテ一君ノ為メニ億兆ガアルト云フ訳デハナイデゴサル。」(「真政大意」)
*
西周、津田真道は陸軍省、加藤弘之、西村茂樹は文部省、森有礼は外務省、神田孝平は兵庫県令、箕作麟祥は司法省、中村正直は大蔵省に在職する官吏(中村、箕作、西村は翻訳官や編書官)。
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薩摩の森有礼以外は、出身の違いはあるものの、幕末の最終局面では、幕府の蕃書調所から開成所にいたる洋学教育の中心に身をおき、尊王攘夷や復古の風潮に染まったことのない思想家。
*
雑誌の名は明治6年に作られた「明六社」の名をとる。和紙で20ページ弱。各号3千部は売れたと言われ、再版号も多い。
*
社員のうち、議院設立が尚早との意見を持つのはドイツ系統の思想を持つ加藤弘之で、森有礼・西周はそれに加担した。
西村茂樹・津田真道等は議院設立の即行論者。
*
津田真道(幕末にオランダ、フランス等に学ぶ)は、雑誌に3ヶ月連載した「政論」において代議員選出の範囲と手続きについての自説を述べる。
「士族ハ従来文字アルモノ稍(ヤヤ)多ク、平民ハ豪富ニアラザレバ、書ヲ読ム者希ナリ。故ニ今代議士司選ノ人ヲ定メテ悉皆華士族トシ、並ニ平民ノ多ク租税ヲ納ムルモノトシ、其平民、都会ニ於テハ譬(タト)へバ二百円乃至千円以上ノ地券ヲ有スルモノニ限リ、村落ニ於テハ五十円乃至百円以上ノ地券ヲ有スルモノニ限ルベシ。・・・右ノ如ク定メタル選者ヲ初選者卜名ヅク。初選者百人ニシテ相当ノ鑑識ヲ具スル一人ヲ選挙シ、之ヲ本選者卜名ヅケテ、此本選者ノ更ニ選挙スル所ノ人ヲ代議士トシテ議院ニ会集シテ、国民ニ代リテ国事ヲ審議スル人トス」
そして、日本の人口3,000万の中から60名乃至120名を代議士として選出すべきと述べる。
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その他、森有礼、西周、加藤弘之、阪谷素(シロシ)、神田孝平等が殆ど毎号、議会政治について論じる。
*
第1号巻頭の西周「洋字を以て国語を書するの論」:
明六社結成を「時宜ヲ制シテ漸次開明ノ域」に入るために「学術文章ノ社ヲ結パント欲」したと位置づけ、そのためには、国語国字改良が必要とし、今まで中国の漢字をつかってきたならば、今、ヨーロッパをモデルにして進もうとするとき、「洋学」を採用して何の不思議があろうかという。
ローマ字採用論。utukusiki hanaと書いて文章としては「ウツクシキ花」と読ませ、口語としては「ウツクシイ花」とkをサイレントにすればいいと述べる。
*
福沢諭吉は、前年明治6年の小冊子「文字の教」で、今後は漢字をなるべく使わない文章を書くべきと述べる。文章の改革思想が、西や福沢によって次第に識者の注意を引くようになる。
*
第2号は、福沢諭吉が「学問のすゝめ」4篇(明治7年1月刊)の主張する「私立」の精神への反論。
福沢は、
「日本には唯政府ありで、未だ国民あらずと云ふも可なり。
……我国の文明を進めて其独立を維持するは、独り政府の能する所に非ず、又、今の洋学者流も依頼するに足らず。
……既に改革家の名ありて、又其身は中人以上の地位に在り、・・・私立の地位を占め、……政府の頂門に一釘〔針)を加へ、旧弊を除で民権を恢復せんこと方今至急の要務なる可し。」
と云う。
*
津田、森、加藤、西は、「私立」にこだわるだけで開化は進展できるかと疑問を呈出。
「学問のすゝめ」4篇は「此社」(明六社)のために執筆されたものなので、理念は理解できる。
だが、「在官」の人間を排除して、どこに開化の推進者を見出せるか、「在官私立ニ拘ラズ」開化の問題をたてるべきではないか、と質問する。
この頃には、慶応義塾出身者も大量に政府内部に進出しており、また大久保政権は、イギリスを規範とする殖産興業を進めている。
その大久保政府は反対派を排除することで、福沢の指摘どおり、強大化しすぎており、「未だ国民あらずと云ふも可な」る状態である。
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明六社同人の大部分は、この政府に様々な形で参加しつつ、各方面でジレンマに直面している。 津田真道や中村正直は、政府改革、自由・自主の主張に力点をおいている。
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第6号で、津田は、「出板自由ナランコトヲ望ム論」で、「文明」と「野蛮」の別は、「唯其民ノ言行自由ヲ得ルト得ザルトニ於テ」はっきりする、政府が治安を保とうとして言論を抑圧するのは、かえって政府「顚覆ノ原(ミナモト)」だという。
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「民撰議院設立建白」への評価も分かれている。
もっとも徹底した賛成論は福沢諭吉。民撰議院が早いというなら、廃藩置県も早すぎたのか、明治4年が廃藩置県の「好時節」だったように、明治8年は「即、民会創立ノ好時節也」((明治8年)「五月一日明六社談話筆記」)。
津田、西村は議院に賛成だが、加藤弘之、森有礼らは時期尚早論。
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・西周「百一新論」(上下)出版。
日本の道徳思想の基幹となっていた儒教思想と対比させ、近代ヨーロッパの哲学思想を紹介。
西洋思想の本質はフィロソフィア即ち「哲学」とでも訳すべきものである、と彼は言う。
以前から、ヨーロッパのフィロソフィアなるものがその文明の中核であると紹介していたが、それを性理学または理学と訳していた。
しかし、哲学と訳すのがよいとこの書で述べている。
理学は物理化学をも意味しており、この混同はしばらく続き、次第に哲学という言葉に落ち着いてゆく。
西は主にコントの実証思想の影響を受け、西洋の学問の根本を学ぶには、西のこの書を読むことが是非必要だと知識階級人に看倣される。
しかし西の論は、福沢に較べると難解で、読者は知識階級の中の一部に限られた。
津田真道と西周は共に幕末の洋学の秀才で、蕃書調所(幕府の洋学研究所)の教授手伝であった。
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○西周:
石見国津和野の代々の藩医西時義の子として、文政12年(1829年)に生れる。
20歳の時、藩命により儒学を学ぶため大阪、岡山等に遊学。
25歳の時、藩の学塾塾頭となる。
翌年、江戸詰となってから洋学に志し、オランダ語を学ぶ。
その後、英語を学び、29歳の時、蕃書調所教授手伝並、次に教授手伝となる。そこで津田真道と同僚となる。
34歳の時、西は、津田・榎本武揚(兵学)・赤松則良(造艦)らとオランダ遊学を命ぜられろ。
これら幕府留学生は3年間学んで、慶応元年末に帰国。西と津田は蕃書調所の後身である洋学の大学(開成所)教授に任命される。
西は幕府のためにオランダ政治学を訳述し、また万国公法を訳す。この頃の門弟は500人という。
慶応2年頃、彼は慶喜にフランス語を教え、幕府の外交文書を訳して重く用いられる。
鳥羽伏見の戦後、慶喜が江戸に逃れると、西も江戸に戻る。
慶応4年、西・津田は幕府命により立憲政体の調査研究を命ぜられる。
明治3年3月、山県有朋は、徳川家に従って駿河に退き沼津の兵学校教授をしている西を兵部省顧問とし、ヨーロッパ式の軍制制定にあたらせる。
西と山県は極めて親密で、西は長く陸軍に関係を持つことになる。
西は兵部省に勤める傍ら、侍読(明治天皇の教師)をも兼ねる。
また、兵部省に出仕する傍ら、浅草鳥越の自宅で育英合という私塾を開き、漢学、英語、数学等の諸学課を統一した学問として教えることを始める。
彼は、明治3年~6年、近代ヨーロッパの文明全体の本質を包括的に教育しようとして、18世紀のフランスのアンシクロペジストと同じやり方で「百学連環」という特別講義を行い、それを「百一新論」として纏めて出版。
日本において最初のこの体系的な近代文化の講義(歴史学、地理学、文章学、数学等の基本学課の外、特殊学として、神学、哲学、法学、経済学、統計学、物理学、化学等に及ぶ)は、次々と刊行されることになる。
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この頃、西周は神田小川町に住み森林太郎(13)を預かっている。
林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静男という蘭医の息子。
森静男は西の勧めで維新後東京に一家を移し、向島曳舟通で病院を開いていた。
長男林太郎を東京医学校に入学させる積りで、ドイツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離のがあるので、小川町の西家に預けた。
この春、15歳と願書に書き東京医学校を受験し合格、下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通う。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年2月27日日曜日
明治7年(1874)2月 佐賀の乱勃発 台湾蛮地処分要略 [一葉2歳]
明治7年(1874)2月1日
・佐賀の乱
佐賀の憂国党、県の公金を扱う小野組支店襲撃、20万円余奪う。
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2月1日
・慶應義塾出版社から「民間雑誌」(主宰福澤諭吉)創刊。
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2月2日
・聖公会ウィリアムス主教、築地居留地に英語学校を設立。のちの立教大学。
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2月3日
・福岡県庁、参議内務卿大久保利通に佐賀県士族動静不穏電報打つ。
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2月4日
・内務卿大久保利通内示。
陸軍大輔西郷従道、熊本鎮台(司令官谷干城陸軍少将)に派兵命令。
谷は、まず佐賀県庁に使者を送る。
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2月4日
・島義男(ヨシタケ)、太政大臣三条実美に面会し、三条の依頼により鎮撫のため佐賀に向う。
佐賀に赴任する岩村高俊と同船、不法分子を一網打尽にするとの岩村の傍若無人な広言に不快を感じ、岩村が鎮台兵出動打ち合わせのため下関で下船したのを知り、文官が兵を率いて赴任するとは何事だと怒る(岩村は意識的に島を挑発したか?)。
9日、長崎着。
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島義男(ヨシタケ):
大学少監ー侍従ー秋田権令、明治5年6月、開化政策に反対し辞職。憂国党党首に祭り上げられている)
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2月4日
・イギリス軍、ガーナのアシャンティ王国首都クマシ侵攻。5日、制圧。
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2月5日
・警視庁、羅卒を巡査の呼称に改める。
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2月5日
・佐賀県権令岩村高俊(1月28日、兄に通俊に代って佐賀県権令に任命され、赴任前で在東京)、兵力による鎮圧を大久保内務卿に建白。
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2月6日
・大久保・大隈連名、琉球民殺害事件に関して閣議に「台湾蛮地処分要略」全9ヶ条提出。
台湾遠征軍派遣、閣議決定。大久保・大隈・リゼンドル・柳原前光・鄭永寧ら協議。リゼンドル第3覚書をそのまま踏襲。
近代日本の最初の海外への武力行使方針決定。
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「要略」:
「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地域(著地)に対し、琉球民遭難への「報復」の「役」(軍事行動)を発動することが基本方針。
「討蕃」と「撫民」を目的とするが、「生蕃」討伐と「土蕃・塾蕃」撫育とを区別して併用せよとする福島九成の見解が採用されている。
「撫民」の目的は、「土人を懐柔綏撫(スイブ)せしめ、他日生蕃を処分するの時の諸事に便ならしむ」(第八条)ためである(「討蕃」の為の手段とする)。何故なら、「熱蕃の地、琅嬌・社寮の港より兵を上陸せしむる」(第九条)計画だったから。
台湾「蕃地」への軍事力行使に対して清国から抗議された場合は、「ただ推託して時日遷延の間に即ち事を成し」(第四条)とし、交渉を引き延ばして「討蕃撫民」の既成事実を作るとした。
また、清が琉球の日清両属問題を提起してきた場合は、「さらに顧て関係せず、その議に応ぜざるをよしとす」(第三条)とし、交渉に応じないことにした。外交による解決をとらない、軍事力優先の路線を採用。
但し、柳原外務大丞と鄭外務少丞が起草した「要略」原案弟一条は、「琉球人民の殺害せられしを報復しその地を拠有すべきは・・・」となっていたが、成文では「その地を拠有」が削除された。
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6日閣議後、岩倉は、「台湾処分御決定、先ずもって安心候」と大久保に書き送り、大久保も同日の日記に、台湾一条が決定し「安心いたし候」と書く。
また、大久保宛て書簡で、岩倉は、「吾属地」とするかどうかは「再び御評議のはず」と領有論再開を期待。
岩倉は、「なにとぞ吾れに得べきの目的立てたきものと存じ候」と、「蕃地」領有を望み、大久保の同意を求めるような書きぶりからみて、大久保も領有論傾向であったと推測できる。
岩倉は、「要略」が決定したからには「問罪使命の人体お取り極めの義急務」(遠征軍最高指揮者の人選を急がねばならない)であるが、「鹿児島県の人にて誰かこれなくや」と大久保に推薦を促す。
しかし、大久保は、台湾遠征という国家的大事業を薩摩閥だけのものとみられるのを避けたかったらしく、土佐出身の熊本鎮台司令長官谷千城に白羽の矢をたてる。
但し、木戸孝允ら長州系は「要略」決議に抵抗。
6日付け木戸日記に、「今日岩倉(邸)にて会議あり、台湾-条なり、廻しの暮面に同意せり、よって今日出会を断れり」とある。
木戸は、事前に見せられた書面(「要略」案)に同意したので閣議は欠席した。「同意」したとはいえ閣議には出たくなかったというわけで、この一件にたいする木戸の消極的態度が表れている。しかも、木戸が同意した案と閣議にかけられた案では内容が異なっていた。
翌7日、伊藤博文が木戸に閣議の模様を報告する手紙を送り、「台湾一条会議ござ候ところ、かねてお目にかけおき候書面の趣意とも少々相違」していたと云い、「急に一大隊の兵を発し、・・・議かくのごとく火急・・・卒然に事を処する見込み」と、「要略」決定までが性急で慎重さに欠けることへの不安を伝える。
*
2月6日
・越仏協定成立。フランス、ハノイなどから撤退を開始。
*
2月8日
・ムソルグスキー、オペラ「ボリス・ゴドノフ」、サンクト・ペテルブルクのマリンスキー劇場で初演。
*
2月9日
・フランス、歴史学者ミシュレ(75)、没。
*
2月9日
・島義勇、長崎上陸。
*
2月9日
・江藤新平、長崎にて土佐の林有造と会談。
林は西郷に民撰議院設立への同意を取り付ける為に鹿児島に行った帰途。肥前が決起しても薩摩は呼応しないとの観測を示す。
*
2月10日
・参議兼内務卿大久保利通、太政大臣三条実美に佐賀鎮定、軍事・裁判、全権委任させる。
14日、三条、参議文部卿木戸孝允に内務卿を兼任させる。
*
政府軍の出動が遅れれば熊本や鹿児島の士族も呼応し九州全体の騒乱となり、更に高知、岡山、鳥取、鶴岡などに飛び火する可能性もある。
警察機構は十分に整備されていないうえ、軍隊にも征韓論政変の余燼がくすぶっていたので、政府側の危機感は深刻。
大久保内務卿はただちに軍事と裁判の権限を随時に委任されて九州に向かう。
江藤らが鹿児島など他県の士族が加勢するのを待っている間に、政府側は電信線で情報を正確に把握し、蒸気船で鎮庄部隊を送り込む。
さらに佐賀の中立派士族を味方につけ、熊本など近隣への波及を抑える。
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2月10日
・熊本・広島・大阪鎮台兵、出兵。
*
2月11日
・島義勇、長崎で憂国党幹部と会談。後、深堀に江藤新平と会談。岩村高俊の暴挙(鎮台兵を率いて佐賀県庁に赴任、鎮圧)阻止で意見一致。
12日、江藤新平、佐賀に戻り正式に征韓党党首となる。
13日、征韓党幹部、旧藩校弘道館に集合。江藤の「決戦之議」配布。本部を佐賀城北方にある実相院に移す。
*
決戦之議:
「夫れ国権行はるれば、則ち、民権随(シタガツ)て全し。
之を以て交戦講和の事を定め、通商航海の約を立つ、一日も権利を失へば、国、其の国に非ず。今茲に人あり。之を唾して而して憤らず、之を撻て而して怒らずんば、爾後、婦人小児とと雖も、之を軽侮するや必せり。是れ、人にして其権利を失ふものなり。嚮に朝鮮、我国書を擯け、我国使を辱むる、其の暴慢無礼、実に言ふに忍びず。上は聖上を初め、下は億兆に至るまで、無前の大恥を受く。因て客歳十月、廟議尽く征韓に決す。天下之を聞て、奮起せざるものなし。已にして而して二三の大臣、偸安の説を主張し、聖明を壅閉し奉り、遂に其議を沮息せり。鳴呼国権を失ふこと、実に此極に至る。是れ所謂、之を唾撻して、而して憤怒せざるものと相等し。苟くも国として斯の如く失体を極めば、是れよりして、海外各国の軽侮を招く、其の底止する所を知らず。必ず、交際、裁判、通商、凡そ百事、皆な彼が限制する所と為り、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪、遂に貧困流離の極に至る、鏡に掛けて見るが如し。是れ有志の士の以て切歯扼腕する所なり。是れを以て同志に謀り、上は聖上の為め、下は億兆の為め、敢て万死を顧みず、誓て此の大辱を雪(ソソ)がんと欲す。是れ蓋し人民の義務にして、国家の大義、而して人々自ら以て奮起する所なり。然るに、大臣、其の己れに便ならざるを以て、我に兵を加ふ。其の勢状、此に至る。依て止むを得ず、先年長州大義を挙ぐるの例に依り、其の処置を為すなり(*幕長戦争に依拠して自衛行動に立ちあがる、という意)。古人日く、精神一到何事か成らざらん。我輩の一念、遂に此の雲霧を披き、以て錦旗を奉じ、朝鮮の無礼を問んとす。是れ誠に区々の微衷、死を以て国に報ゆる所以なり」(「江藤南白」)。
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2月13日
・島津久光(内閣顧問、佐賀憂国党は盟主として担ぐ)、東京発。
20日、鹿児島到着。
元藩士に佐賀に呼応しないよう睨みをきかせる。また、西郷を呼出し自重を命じる。
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2月13日
・アメリカ、ハワイの国王継承問題を口実に、海兵隊がホノルルに上陸。
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2月14日
・島義勇、佐賀入り。
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2月14日
・熊本鎮台より1個大隊650、出動。県権令岩村高俊と共に有明海北上。
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2月14日
・大久保内務卿、天皇から「佐賀鎮定」を委任され、九州へ出発。途中、大阪で陸海軍首脳と軍議。
17日、大阪より黒田清隆に宛てて台湾「要略」について念押し。
17日付け大久保の黒田清隆宛て手紙。
「台湾のこと既に決定せり・・・いずくまでも御貫徹、実効お挙げこれなく候てほ天下の信義もあい立たず」と念押し。
「この事は廟議決定の事にて懸念はこれなくと信用つかまつり候えども、憂情のあまりに候」と、「要略」の閣議決定が引っくり返るかも知れないとの憂情(不安)を拭いきれない心情を語る。
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2月15日
・佐賀県権令岩村高俊と熊本鎮台兵半隊650、筑後川河口より佐賀城(県庁)入城。
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2月16日
・征韓党2千・憂国党4千連合軍、佐賀城の熊本鎮台兵と交戦。
18日早朝、県庁側、多数の犠牲を出して包囲を突破、岩村権令は県外へ避難。
佐賀県庁(佐賀城)攻略・占拠。
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2月16日
・小島為政の断髪の強制を批判した投書「断髪苦情一家言」、「横浜毎日新聞」に載る。
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2月19日
・大久保内務卿乗船のアメリカ船、東京・大阪鎮台兵船団、博多上陸。ここに本営を置く。同日、政府、佐賀県下の暴徒征討の太政官布告。
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2月20日
・陸軍少将野津鎮雄、政府軍率い佐賀城下に進撃。
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2月20日
・イギリス、保守党ディズレーリ、景気対策に失敗した自由党グラッドストンを破って首相就任。
言葉としての「帝国主義」の始まり:
ディズレーリ(任1868、1874~80)は、この頃高まりつつある「小英国主義」(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃、植民地支配強化、帝国拡張・団結を主張。
ディズレーリは、1875年スエズ運河株式買収、1877年インド帝国の成立、1878年露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止し一方でキプロス島獲得、帝国主義政策を推進。
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2月22日
・参謀局設置。局長山県有朋。
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2月22日
・佐賀軍、福岡県境朝日山で迎撃準備。
政府軍(野津少将)と本格的戦闘。
政府軍、佐賀軍の防衛線突破。
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2月22日
・高浜虚子、愛媛に誕生。
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2月23日
・東伏見宮嘉彰親王を佐賀征討総督に、陸軍中将山県有朋を征討参軍に任命。
24日、海軍少将伊東祐麿を征討参軍に任命。
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2月23日
・江藤新平、征韓党解散命令。船で鹿児島に向かう。しかし、実際には佐賀側の抗戦は続く。
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2月26日
・大前田英五郎(82)、没。
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2月26日
・スペイン、フランシスコ・セラーノ大統領就任。サバーラ立憲派内閣成立。
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2月28日
・憂国党降伏。政府軍、佐賀城入城。
戦死者は佐賀・政府側双方とも170~180。負傷者は双方とも200弱。佐賀軍捕虜6,327人。29ヶ村1,500戸余が戦火にかかる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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・佐賀の乱
佐賀の憂国党、県の公金を扱う小野組支店襲撃、20万円余奪う。
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2月1日
・慶應義塾出版社から「民間雑誌」(主宰福澤諭吉)創刊。
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2月2日
・聖公会ウィリアムス主教、築地居留地に英語学校を設立。のちの立教大学。
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2月3日
・福岡県庁、参議内務卿大久保利通に佐賀県士族動静不穏電報打つ。
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2月4日
・内務卿大久保利通内示。
陸軍大輔西郷従道、熊本鎮台(司令官谷干城陸軍少将)に派兵命令。
谷は、まず佐賀県庁に使者を送る。
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2月4日
・島義男(ヨシタケ)、太政大臣三条実美に面会し、三条の依頼により鎮撫のため佐賀に向う。
佐賀に赴任する岩村高俊と同船、不法分子を一網打尽にするとの岩村の傍若無人な広言に不快を感じ、岩村が鎮台兵出動打ち合わせのため下関で下船したのを知り、文官が兵を率いて赴任するとは何事だと怒る(岩村は意識的に島を挑発したか?)。
9日、長崎着。
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島義男(ヨシタケ):
大学少監ー侍従ー秋田権令、明治5年6月、開化政策に反対し辞職。憂国党党首に祭り上げられている)
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2月4日
・イギリス軍、ガーナのアシャンティ王国首都クマシ侵攻。5日、制圧。
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2月5日
・警視庁、羅卒を巡査の呼称に改める。
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2月5日
・佐賀県権令岩村高俊(1月28日、兄に通俊に代って佐賀県権令に任命され、赴任前で在東京)、兵力による鎮圧を大久保内務卿に建白。
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2月6日
・大久保・大隈連名、琉球民殺害事件に関して閣議に「台湾蛮地処分要略」全9ヶ条提出。
台湾遠征軍派遣、閣議決定。大久保・大隈・リゼンドル・柳原前光・鄭永寧ら協議。リゼンドル第3覚書をそのまま踏襲。
近代日本の最初の海外への武力行使方針決定。
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「要略」:
「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地域(著地)に対し、琉球民遭難への「報復」の「役」(軍事行動)を発動することが基本方針。
「討蕃」と「撫民」を目的とするが、「生蕃」討伐と「土蕃・塾蕃」撫育とを区別して併用せよとする福島九成の見解が採用されている。
「撫民」の目的は、「土人を懐柔綏撫(スイブ)せしめ、他日生蕃を処分するの時の諸事に便ならしむ」(第八条)ためである(「討蕃」の為の手段とする)。何故なら、「熱蕃の地、琅嬌・社寮の港より兵を上陸せしむる」(第九条)計画だったから。
台湾「蕃地」への軍事力行使に対して清国から抗議された場合は、「ただ推託して時日遷延の間に即ち事を成し」(第四条)とし、交渉を引き延ばして「討蕃撫民」の既成事実を作るとした。
また、清が琉球の日清両属問題を提起してきた場合は、「さらに顧て関係せず、その議に応ぜざるをよしとす」(第三条)とし、交渉に応じないことにした。外交による解決をとらない、軍事力優先の路線を採用。
但し、柳原外務大丞と鄭外務少丞が起草した「要略」原案弟一条は、「琉球人民の殺害せられしを報復しその地を拠有すべきは・・・」となっていたが、成文では「その地を拠有」が削除された。
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6日閣議後、岩倉は、「台湾処分御決定、先ずもって安心候」と大久保に書き送り、大久保も同日の日記に、台湾一条が決定し「安心いたし候」と書く。
また、大久保宛て書簡で、岩倉は、「吾属地」とするかどうかは「再び御評議のはず」と領有論再開を期待。
岩倉は、「なにとぞ吾れに得べきの目的立てたきものと存じ候」と、「蕃地」領有を望み、大久保の同意を求めるような書きぶりからみて、大久保も領有論傾向であったと推測できる。
岩倉は、「要略」が決定したからには「問罪使命の人体お取り極めの義急務」(遠征軍最高指揮者の人選を急がねばならない)であるが、「鹿児島県の人にて誰かこれなくや」と大久保に推薦を促す。
しかし、大久保は、台湾遠征という国家的大事業を薩摩閥だけのものとみられるのを避けたかったらしく、土佐出身の熊本鎮台司令長官谷千城に白羽の矢をたてる。
但し、木戸孝允ら長州系は「要略」決議に抵抗。
6日付け木戸日記に、「今日岩倉(邸)にて会議あり、台湾-条なり、廻しの暮面に同意せり、よって今日出会を断れり」とある。
木戸は、事前に見せられた書面(「要略」案)に同意したので閣議は欠席した。「同意」したとはいえ閣議には出たくなかったというわけで、この一件にたいする木戸の消極的態度が表れている。しかも、木戸が同意した案と閣議にかけられた案では内容が異なっていた。
翌7日、伊藤博文が木戸に閣議の模様を報告する手紙を送り、「台湾一条会議ござ候ところ、かねてお目にかけおき候書面の趣意とも少々相違」していたと云い、「急に一大隊の兵を発し、・・・議かくのごとく火急・・・卒然に事を処する見込み」と、「要略」決定までが性急で慎重さに欠けることへの不安を伝える。
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2月6日
・越仏協定成立。フランス、ハノイなどから撤退を開始。
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2月8日
・ムソルグスキー、オペラ「ボリス・ゴドノフ」、サンクト・ペテルブルクのマリンスキー劇場で初演。
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2月9日
・フランス、歴史学者ミシュレ(75)、没。
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2月9日
・島義勇、長崎上陸。
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2月9日
・江藤新平、長崎にて土佐の林有造と会談。
林は西郷に民撰議院設立への同意を取り付ける為に鹿児島に行った帰途。肥前が決起しても薩摩は呼応しないとの観測を示す。
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2月10日
・参議兼内務卿大久保利通、太政大臣三条実美に佐賀鎮定、軍事・裁判、全権委任させる。
14日、三条、参議文部卿木戸孝允に内務卿を兼任させる。
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政府軍の出動が遅れれば熊本や鹿児島の士族も呼応し九州全体の騒乱となり、更に高知、岡山、鳥取、鶴岡などに飛び火する可能性もある。
警察機構は十分に整備されていないうえ、軍隊にも征韓論政変の余燼がくすぶっていたので、政府側の危機感は深刻。
大久保内務卿はただちに軍事と裁判の権限を随時に委任されて九州に向かう。
江藤らが鹿児島など他県の士族が加勢するのを待っている間に、政府側は電信線で情報を正確に把握し、蒸気船で鎮庄部隊を送り込む。
さらに佐賀の中立派士族を味方につけ、熊本など近隣への波及を抑える。
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2月10日
・熊本・広島・大阪鎮台兵、出兵。
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2月11日
・島義勇、長崎で憂国党幹部と会談。後、深堀に江藤新平と会談。岩村高俊の暴挙(鎮台兵を率いて佐賀県庁に赴任、鎮圧)阻止で意見一致。
12日、江藤新平、佐賀に戻り正式に征韓党党首となる。
13日、征韓党幹部、旧藩校弘道館に集合。江藤の「決戦之議」配布。本部を佐賀城北方にある実相院に移す。
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決戦之議:
「夫れ国権行はるれば、則ち、民権随(シタガツ)て全し。
之を以て交戦講和の事を定め、通商航海の約を立つ、一日も権利を失へば、国、其の国に非ず。今茲に人あり。之を唾して而して憤らず、之を撻て而して怒らずんば、爾後、婦人小児とと雖も、之を軽侮するや必せり。是れ、人にして其権利を失ふものなり。嚮に朝鮮、我国書を擯け、我国使を辱むる、其の暴慢無礼、実に言ふに忍びず。上は聖上を初め、下は億兆に至るまで、無前の大恥を受く。因て客歳十月、廟議尽く征韓に決す。天下之を聞て、奮起せざるものなし。已にして而して二三の大臣、偸安の説を主張し、聖明を壅閉し奉り、遂に其議を沮息せり。鳴呼国権を失ふこと、実に此極に至る。是れ所謂、之を唾撻して、而して憤怒せざるものと相等し。苟くも国として斯の如く失体を極めば、是れよりして、海外各国の軽侮を招く、其の底止する所を知らず。必ず、交際、裁判、通商、凡そ百事、皆な彼が限制する所と為り、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪、遂に貧困流離の極に至る、鏡に掛けて見るが如し。是れ有志の士の以て切歯扼腕する所なり。是れを以て同志に謀り、上は聖上の為め、下は億兆の為め、敢て万死を顧みず、誓て此の大辱を雪(ソソ)がんと欲す。是れ蓋し人民の義務にして、国家の大義、而して人々自ら以て奮起する所なり。然るに、大臣、其の己れに便ならざるを以て、我に兵を加ふ。其の勢状、此に至る。依て止むを得ず、先年長州大義を挙ぐるの例に依り、其の処置を為すなり(*幕長戦争に依拠して自衛行動に立ちあがる、という意)。古人日く、精神一到何事か成らざらん。我輩の一念、遂に此の雲霧を披き、以て錦旗を奉じ、朝鮮の無礼を問んとす。是れ誠に区々の微衷、死を以て国に報ゆる所以なり」(「江藤南白」)。
*
2月13日
・島津久光(内閣顧問、佐賀憂国党は盟主として担ぐ)、東京発。
20日、鹿児島到着。
元藩士に佐賀に呼応しないよう睨みをきかせる。また、西郷を呼出し自重を命じる。
*
2月13日
・アメリカ、ハワイの国王継承問題を口実に、海兵隊がホノルルに上陸。
*
2月14日
・島義勇、佐賀入り。
*
2月14日
・熊本鎮台より1個大隊650、出動。県権令岩村高俊と共に有明海北上。
*
2月14日
・大久保内務卿、天皇から「佐賀鎮定」を委任され、九州へ出発。途中、大阪で陸海軍首脳と軍議。
17日、大阪より黒田清隆に宛てて台湾「要略」について念押し。
17日付け大久保の黒田清隆宛て手紙。
「台湾のこと既に決定せり・・・いずくまでも御貫徹、実効お挙げこれなく候てほ天下の信義もあい立たず」と念押し。
「この事は廟議決定の事にて懸念はこれなくと信用つかまつり候えども、憂情のあまりに候」と、「要略」の閣議決定が引っくり返るかも知れないとの憂情(不安)を拭いきれない心情を語る。
*
2月15日
・佐賀県権令岩村高俊と熊本鎮台兵半隊650、筑後川河口より佐賀城(県庁)入城。
*
2月16日
・征韓党2千・憂国党4千連合軍、佐賀城の熊本鎮台兵と交戦。
18日早朝、県庁側、多数の犠牲を出して包囲を突破、岩村権令は県外へ避難。
佐賀県庁(佐賀城)攻略・占拠。
*
2月16日
・小島為政の断髪の強制を批判した投書「断髪苦情一家言」、「横浜毎日新聞」に載る。
*
2月19日
・大久保内務卿乗船のアメリカ船、東京・大阪鎮台兵船団、博多上陸。ここに本営を置く。同日、政府、佐賀県下の暴徒征討の太政官布告。
*
2月20日
・陸軍少将野津鎮雄、政府軍率い佐賀城下に進撃。
*
2月20日
・イギリス、保守党ディズレーリ、景気対策に失敗した自由党グラッドストンを破って首相就任。
言葉としての「帝国主義」の始まり:
ディズレーリ(任1868、1874~80)は、この頃高まりつつある「小英国主義」(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃、植民地支配強化、帝国拡張・団結を主張。
ディズレーリは、1875年スエズ運河株式買収、1877年インド帝国の成立、1878年露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止し一方でキプロス島獲得、帝国主義政策を推進。
*
2月22日
・参謀局設置。局長山県有朋。
*
2月22日
・佐賀軍、福岡県境朝日山で迎撃準備。
政府軍(野津少将)と本格的戦闘。
政府軍、佐賀軍の防衛線突破。
*
2月22日
・高浜虚子、愛媛に誕生。
*
2月23日
・東伏見宮嘉彰親王を佐賀征討総督に、陸軍中将山県有朋を征討参軍に任命。
24日、海軍少将伊東祐麿を征討参軍に任命。
*
2月23日
・江藤新平、征韓党解散命令。船で鹿児島に向かう。しかし、実際には佐賀側の抗戦は続く。
*
2月26日
・大前田英五郎(82)、没。
*
2月26日
・スペイン、フランシスコ・セラーノ大統領就任。サバーラ立憲派内閣成立。
*
2月28日
・憂国党降伏。政府軍、佐賀城入城。
戦死者は佐賀・政府側双方とも170~180。負傷者は双方とも200弱。佐賀軍捕虜6,327人。29ヶ村1,500戸余が戦火にかかる。
*
*
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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2011年2月19日土曜日
明治7年(1874)1月17日~28日 民選議院設立建白書提出 江藤新平、伊万里に上陸 [一葉2歳]
明治7年(1874)1月17日
・民選議院設立建白書提出
板垣・江藤・副島・後藤・由利公正(前東京府知事)・岡本健三郎(前大蔵大丞、海援隊士)・古沢滋・小室信夫、左院に提出。
12日、古沢滋(27、旧土佐藩士)が起草、副島が筆をいれて完成。
18日付「日新新事誌」掲載、全国的に反響を呼び、民選議院論争起こる。
「・・・政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、しかも独り有司に帰す」。
民選議院を設立して「天下の公議」を政治に反映させ、有司専制を制限する。
*
岩倉太政大臣代理の違法かつ専断越権な行為によって、適法かつ正当な手続きによってなされた閣議決定が一方的に覆され、それが既成事実となって罷り通っている現実に対する、下野参議の痛切な批判が込められている。
*
有司専制批判・租税共議権主張・微温的立憲制の要求を盛ったこの建白書は、民選議院論争で国政参加権をさしあたり「維新の功臣」を出した「士族および豪家の農商」に限定し、本質的には政府部内反対派の要求である。
しかし、この行動は、愛国公党の組織的行為であり、「日新真事誌」掲載により広くアピールしたという点で従来のものとは異なり、当事者の主観的意図を越えて国民に迎えられ、民主主義を求める国民的運動が形成される政治的契機になる。
*
「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上(カミ)帝室に在らず、下(シモ)人民に在らず、而独有司(而も独り官吏)に帰す。
夫(ソレ)有司、上帝室を尊ぶと曰(イ)はざるには非ず。而(シカモ)帝室漸く其尊栄を失ふ。
下人民を保つと云はざるには非ず。
而政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出ず、言路壅弊(ヨウヘイ)困苦告るなし。
夫如是にして天下の治安ならん事を欲す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。
因循改めずば、恐くは国家土崩の勢を致さん。臣等愛国の情自ら已む能はず。
即ち之を賑救(シンキフ)するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已(ノミ)。
天下の公議を張るは民撰議院を立るに在る而已。則有司の権限る所あって、而して上下其安全幸福を受くる者あらん。請遂に之を陳ぜん。
夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃(スナワチ)其政府の事を与知可否(ヨチカヒ)するの権利を有す。
是れ天下の通論にして復喋々臣等の之を贅言するを待たざる者なり。
故に臣等窃に願ふ、有司亦是大理に抵抗せざらん事を。
今民撰議院を立るの議を拒む者日く、我民不学無知未だ開明の域に進まず。故に今日民撰議院を立る尚応に早かる可しと。
臣等以為らく、若し果して真に其謂ふ所の如き歟、則之をして学且智、而急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。
何となれば則ち今日我人民をして学且智に開明の域に進ましめんとす、先ず其通義権理を保護せしめ、之をして自重自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さしめんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り」(「日新真事誌」18日付)
*
ブラックが主宰する「日新真事誌」が建白書全文をスクープ。
ブラックは英字新聞「ジャパン・ヘラルド」「ジャパン・ガゼット」の主筆兼経営者として客観的報道の意義と影響力を理解している。
建白書は、事前に板垣から参議木戸に渡されることになっていたが、木戸への使者である自由民権運動家(愛国公党員、小室信介の養父)小室信夫が「日新真事誌」に建白書を持ち込み全文を公表する。木戸はすこぶる感情を害したと云われる。
「日新真事誌」は民撰議院開設賛否両論に公平に紙面を提供、キャンペーンを展開し、国会開設の世論が、全国各地に巻き起る。
*
前年12月、この草案が出来ると、板垣・後藤等は、土佐人の林有造を使者として佐賀の江藤新平と鹿児島の西郷隆盛にこれを送り賛成の署名を求める。
江藤は賛成して署名するが、西郷は反対して「御建白の趣は至極当然の儀と存候、然れども天下の事は独り議論のみにては行はるべからざるものと存候へば、僕等は先づ腕力を用ゐて然る後此事成るべしと存候」という返書を寄こす。
*
「建白書」及び愛国公党の意義:
①日本近代化に関する体系的理念、構想、ノウハウを独占していた政府に対抗できる国政理念を提示。これまで政府の攻勢に追われ受動的抵抗をするだけであった反政府派に権威と理論が付与され、運動の全国的結集の核が生まれる。
②政治組織(「党」)の考え方を生み出す。のちの運動の中で定着してゆく。
③「天賦人権論」を公然と主張。
*
政府(大久保の独裁)の対応:
翌明治8年4月、漸次に立憲制を施くべしとの詔(ミコトノリ)を出し、木戸・板垣らを入閣させる。
同6月、民選議院に代わる地方官会議を開いて不平士族や豪農を宥める。
政府の約束は、讒謗律、新聞紙条例などの言論弾圧、また江藤らの相次ぐ士族反乱で棚上げにする。
*
1月17日
・三条太政大臣、大隈参議兼大蔵卿に、台湾問題に関する副島大使の交渉結果検討依頼。
18日、大久保、副島種臣を訪問。
19日、福島九成、再び台湾出張を命じられる。
26日、三条太政大臣、大久保・大隈に台湾・朝鮮問題取調べ命じる。
大久保と大隈は、副島、リゼンドル、柳原前光、鄭永寧らと相談して、2月6日、大久保・大隈連名で「台湾蕃地処分要略」全9ヶ条を答申して閣議決定。
*
1月20日
・江藤新平、伊万里上陸。嬉野温泉に滞在。
25日、佐賀入り。
2月2日、義弟(妻の実家)のいる長崎郊外深堀に移り静養、舟遊びなど楽しむ。
*
1月21日
・樺太境界問題交渉、樺太と千島列島の一部との交換を提案。
*
1月22日
・カナダ、総選挙、与党自由党勝利。
*
1月23日
・近衛歩兵第1・第2連隊が組織され、天皇が軍旗を授ける
*
1月28日
・大久保、佐賀県権令岩村通俊を更迭、弟高俊(神奈川県権参事)就任。
佐賀の治安回復を指令。
通俊は就任半年で転任申し出、弟を推挙。
*
「★樋口一葉インデックス」
*
・民選議院設立建白書提出
板垣・江藤・副島・後藤・由利公正(前東京府知事)・岡本健三郎(前大蔵大丞、海援隊士)・古沢滋・小室信夫、左院に提出。
12日、古沢滋(27、旧土佐藩士)が起草、副島が筆をいれて完成。
18日付「日新新事誌」掲載、全国的に反響を呼び、民選議院論争起こる。
「・・・政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、しかも独り有司に帰す」。
民選議院を設立して「天下の公議」を政治に反映させ、有司専制を制限する。
*
岩倉太政大臣代理の違法かつ専断越権な行為によって、適法かつ正当な手続きによってなされた閣議決定が一方的に覆され、それが既成事実となって罷り通っている現実に対する、下野参議の痛切な批判が込められている。
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有司専制批判・租税共議権主張・微温的立憲制の要求を盛ったこの建白書は、民選議院論争で国政参加権をさしあたり「維新の功臣」を出した「士族および豪家の農商」に限定し、本質的には政府部内反対派の要求である。
しかし、この行動は、愛国公党の組織的行為であり、「日新真事誌」掲載により広くアピールしたという点で従来のものとは異なり、当事者の主観的意図を越えて国民に迎えられ、民主主義を求める国民的運動が形成される政治的契機になる。
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「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上(カミ)帝室に在らず、下(シモ)人民に在らず、而独有司(而も独り官吏)に帰す。
夫(ソレ)有司、上帝室を尊ぶと曰(イ)はざるには非ず。而(シカモ)帝室漸く其尊栄を失ふ。
下人民を保つと云はざるには非ず。
而政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出ず、言路壅弊(ヨウヘイ)困苦告るなし。
夫如是にして天下の治安ならん事を欲す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。
因循改めずば、恐くは国家土崩の勢を致さん。臣等愛国の情自ら已む能はず。
即ち之を賑救(シンキフ)するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已(ノミ)。
天下の公議を張るは民撰議院を立るに在る而已。則有司の権限る所あって、而して上下其安全幸福を受くる者あらん。請遂に之を陳ぜん。
夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃(スナワチ)其政府の事を与知可否(ヨチカヒ)するの権利を有す。
是れ天下の通論にして復喋々臣等の之を贅言するを待たざる者なり。
故に臣等窃に願ふ、有司亦是大理に抵抗せざらん事を。
今民撰議院を立るの議を拒む者日く、我民不学無知未だ開明の域に進まず。故に今日民撰議院を立る尚応に早かる可しと。
臣等以為らく、若し果して真に其謂ふ所の如き歟、則之をして学且智、而急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。
何となれば則ち今日我人民をして学且智に開明の域に進ましめんとす、先ず其通義権理を保護せしめ、之をして自重自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さしめんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り」(「日新真事誌」18日付)
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ブラックが主宰する「日新真事誌」が建白書全文をスクープ。
ブラックは英字新聞「ジャパン・ヘラルド」「ジャパン・ガゼット」の主筆兼経営者として客観的報道の意義と影響力を理解している。
建白書は、事前に板垣から参議木戸に渡されることになっていたが、木戸への使者である自由民権運動家(愛国公党員、小室信介の養父)小室信夫が「日新真事誌」に建白書を持ち込み全文を公表する。木戸はすこぶる感情を害したと云われる。
「日新真事誌」は民撰議院開設賛否両論に公平に紙面を提供、キャンペーンを展開し、国会開設の世論が、全国各地に巻き起る。
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前年12月、この草案が出来ると、板垣・後藤等は、土佐人の林有造を使者として佐賀の江藤新平と鹿児島の西郷隆盛にこれを送り賛成の署名を求める。
江藤は賛成して署名するが、西郷は反対して「御建白の趣は至極当然の儀と存候、然れども天下の事は独り議論のみにては行はるべからざるものと存候へば、僕等は先づ腕力を用ゐて然る後此事成るべしと存候」という返書を寄こす。
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「建白書」及び愛国公党の意義:
①日本近代化に関する体系的理念、構想、ノウハウを独占していた政府に対抗できる国政理念を提示。これまで政府の攻勢に追われ受動的抵抗をするだけであった反政府派に権威と理論が付与され、運動の全国的結集の核が生まれる。
②政治組織(「党」)の考え方を生み出す。のちの運動の中で定着してゆく。
③「天賦人権論」を公然と主張。
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政府(大久保の独裁)の対応:
翌明治8年4月、漸次に立憲制を施くべしとの詔(ミコトノリ)を出し、木戸・板垣らを入閣させる。
同6月、民選議院に代わる地方官会議を開いて不平士族や豪農を宥める。
政府の約束は、讒謗律、新聞紙条例などの言論弾圧、また江藤らの相次ぐ士族反乱で棚上げにする。
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1月17日
・三条太政大臣、大隈参議兼大蔵卿に、台湾問題に関する副島大使の交渉結果検討依頼。
18日、大久保、副島種臣を訪問。
19日、福島九成、再び台湾出張を命じられる。
26日、三条太政大臣、大久保・大隈に台湾・朝鮮問題取調べ命じる。
大久保と大隈は、副島、リゼンドル、柳原前光、鄭永寧らと相談して、2月6日、大久保・大隈連名で「台湾蕃地処分要略」全9ヶ条を答申して閣議決定。
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1月20日
・江藤新平、伊万里上陸。嬉野温泉に滞在。
25日、佐賀入り。
2月2日、義弟(妻の実家)のいる長崎郊外深堀に移り静養、舟遊びなど楽しむ。
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1月21日
・樺太境界問題交渉、樺太と千島列島の一部との交換を提案。
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1月22日
・カナダ、総選挙、与党自由党勝利。
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1月23日
・近衛歩兵第1・第2連隊が組織され、天皇が軍旗を授ける
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1月28日
・大久保、佐賀県権令岩村通俊を更迭、弟高俊(神奈川県権参事)就任。
佐賀の治安回復を指令。
通俊は就任半年で転任申し出、弟を推挙。
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「★樋口一葉インデックス」
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2011年2月12日土曜日
明治7年(1874)1月 愛国公党結成 喰違の変 [一葉2歳]
明治7年(1874)
この年
・三菱商会、上海支店開設。
*
1月
・森林太郎(鴎外、12)、東京医学校予科に入学
この際、願書に万延元年(1860)生まれと記載。以後、公けにはこの生年月日に従う。
14歳、依田学海について漢文を学ぴ、添削を受ける。
18歳、本郷竜岡町の下宿屋上条に住み、千住の佐藤応渠に漢詩文を学ぴ、同郷の国学者福羽美静、加部巌夫に和歌を学ぶ。
*
この頃、林太郎は、神田小川町の西周邸に寄宿。
林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静男という蘭医の息子。
森静男は西の勧めで維新後東京に一家を移し、向島曳舟通で病院を開いていた。長男林太郎を東京医学校に入学させる積りで、ドイツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離のがあるので、小川町の西家に預けた。
この年、15歳と願書に書き東京医学校を受験し合格、下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通う。
*
・星亨(23)、横浜税関次官から横浜税関長になる
(長官中島信行が神奈川県令に転出したあめ)。
翌2月、従六位に叙任。
イギリス公使パークスとの紛争により半年で税関長免職。
しかし、その後まもなく、租税本案外事課長、また条約改正委員にも任命され、9月にはイギリス留学を命ぜられる。
星が「ハー・マジェスティー」を「女王陛下」と訳したところ、イギリス公使ハリー・パークスが、日本での女王は皇族の内でも最下級で、このような呼び名を用いる事は大英帝国君主の尊厳の冒瀆である、と激怒し、星の処罰を求める。
星は、英語の「クイーン」は、女の王又は王の后を意味する言葉で、「女王」と訳す事に差しつかえない、イギリスが「皇帝」と訳して欲しければ「エムペラー」又は「エムプレス」の称号を用いるべき、と回答。
事件は、外務卿寺島宗則がイギリス公使の威圧に屈し、太政官布告によって外国君主には全て皇帝の称号を用いることとし、星を免職にして解決。
*
・ブラームス(41)、1月末ライプツィヒで数回の演奏会、ヘルツォーゲンベルク夫妻と再会。ワルツ愛の歌作品52a完成。
*
・この頃~75年9月頃
マルクスとエンゲルス、レオ・フランケルが在ロンドン・ドイツ人労働者協会でラッサル派と闘争しているのに対し、彼に訓令を与える。
*
1月1日
・慶應義塾内に私立小学校和田塾(のちの慶應義塾幼稚舎)開塾。
*
1月2日
・マドリード、王政復古を目指すマヌエル・バビア将軍、蜂起。
3日、議会解散。スペイン第1共和政終る。
*
1月8日
・オーストリアのフランツ・ヨーゼフ(43)とエリザベト(36)の長女ギーゼラに娘誕生。
*
1月9日
・旧庄内藩士酒井玄蕃の西郷との談話筆記。
ロシアとの対決は必死だが、北海道防衛だけでは不備。
朝鮮問題を解決し、沿海州に進出し「北辺」を防備する必要ある。
英露対立を利用し、イギリスと提携してロシアにあたれば「魯国恐るに足らず」との世界戦略を示す。
*
「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホッセットの方よりニコライ迄も張り出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し、・・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起こり申すべきと・・・能々英国と申し合わせ事を挙げ候日には、魯国恐るに足らずと存じ奉り候」
*
ロシアとの対決は必至であるが、北海道防衛だけではロシアと対抗できない。
朝鮮問題を解決して日本が積極的に沿海州方面に進出し、「北地」を防衛するのが上策であり、さらに英魯対立を念頭において、英と連携してロシアに当たれば「魯国恐るに足らず」という。
朝鮮と事を構えるよりはロシアを警戒すべしというのが当時の西郷の考え。
*
1月9日
・司法省警保寮、内務省に移管。1等寮となり官員4千が転属。
14日、内務卿大久保利通、幹部に訓示。
「警保寮奏任官一同」の訴えにより、前年12月23日に臨時裁判所が無罪とした槇村正直を、同31日に参座を解散させた上で槇村を逆転有罪にし、長州派木戸らに煮え湯を飲ませた蔭に大久保がいるの事は知れ渡っている。
*
警保寮:
明治5年8月、司法卿江藤新平が、軍事と警察を分離することにして、約4千人の東京府邏卒を司法省管轄下に入れ、政府警察として機能させたもの。
近衛兵(約5千5百人)に括坑する勢力で、これを背景に司法省は軍部の綱紀粛正、藩閥の腐敗摘発ができた。
*
1月10日
・参議司法卿大木喬任(元佐賀藩士、江藤の2歳上)、江藤新平を呼出し佐賀への帰郷を止めるよう勧告。
*
1月10日
・閣議、開拓中判官榎本武揚を海軍中将とし特命全権大使でロシア派遣決定。
*
1月10日
・ドイツ帝国議会選挙。カトリック政党中央党躍進。文化闘争でのカトリック側の反撃。
*
1月10日
・フランス、マチエ(歴史家)、オート・ソーヌ県ラ・ブリュイエールの宿屋の子として誕生。
*
1月11日
・スペイン、第1インターナショナル非合法化。
*
1月12日
・愛国公党結成
板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋、奥宮正由の9人、愛国公党綱領署名式。副島種臣屋敷にて。
天賦人権論に立脚して人民の基本的人権(通義権理)を保護主張し人民の自立を図ること。
「天の斯民(シミン)を生ずるや、必ず之に附するに道義権理を以てす。
・・・我党の目的は、唯(タダ)斯人民の道義権理を保護主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民たることを得せしむるに在る而巳(ノミ)」。
日本最初の政党。
*
「自由党史」によると:
板垣が土佐出身の英国帰りの2人(前海軍中佐片岡健吉・前外務省6等出仕林有造)に国会開設建白を勧める。
2人は板垣が先頭にたつべきとしたため、板垣は後藤に相談。
後藤は同意し、英国帰りの前左院3等議官小室信夫・古沢滋の意見を聞くことになる。
次に、板垣は江藤・副島を誘う。
「政体書」の起草者副島は立法権独立に理解があり、板垣に賛同。
江藤は、明治元年に議会論を唱導し、佐賀藩政改革でも「下之議院」を構想し、明治3年の諸官制改革案において上下議院の導入を図り、左院の議会化にも工夫をめぐらすなど、筋金入りの議会論者であったから、これも大賛成。
さらに、五箇条誓文の原案起草者で前東京府知事の由利公正や大蔵大丞岡本健三郎らも仲間に加わった。
*
1月12日
・片岡健吉、病気を理由に海軍中佐の辞表提出(8月22日免官)。
*
1月13日
・江藤新平、新橋発、横浜港より佐賀に戻る。後藤は横浜まで見送る。
15日、神戸に寄港。岩倉襲撃を知る。同船に乗り合わせた林有造は誤解を避けるため神戸で下船。
*
林有造:
元土佐藩士、前外務省6等出仕、愛国公党に参加。岩村通俊の弟・高俊の兄。副島の指示により西郷から民撰議院設立建白書への賛意を得る為に鹿児島に行く途上であった。
*
岩村通俊:
佐賀県権令、元土佐藩士。明治6年8月に県権令(一定期間をへて正式に県令となる)に赴任するが、半年足らずで、転任を申し出て、後任として野心家の弟・岩村高俊(神奈川県権参事)を大久保利通に推挙。
その岩村高俊は、戊辰戦争の際、東山道総督府軍監として長岡藩家老河井継之助との会談において傲岸不遜な態度をとり、長岡藩を徹底抗戦においやったと評価されている。
*
1月13日
・ロシア、国民皆兵徴兵制度施行。
*
1月14日
・喰違の変
午後8時、武市熊吉(高知県士族、前近衛局陸軍少佐)ら土佐征韓派士族・元近衛将校下士官、右大臣岩倉具視襲撃。
17日、東京警視庁、首謀者武市熊吉、逮捕。共犯者(元土佐藩士、陸軍少尉・曹長など)8人も逮捕。
翌18日より司法省臨時裁判所で裁判。7月9日、9名全て斬罪。
*
1月15日
・小平浪平(日立製作所創業者)、誕生。栃木県下都賀郡中村合戦場、名望家の次男。
*
1月15日
・内務省直轄の東京警視庁(川路利良大警視)、設置(警保寮から分離独立)。
27日、「羅卒」を巡査と改称。これまで町費で賄われていた准警吏を廃止、国費による巡査を増員。
*
1月15日
・警保頭の河野敏鎌、司法権大判事(勅任3等官)に任命。異例のスピード出世。上には司法大判事佐々木高行(2等官)がいるだけ。
*
1月16日
・高島炭坑が官営(工部省所管)化。
19日、オランダ人ボードウィンに償却金40万ドルを支払う。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
*
この年
・三菱商会、上海支店開設。
*
1月
・森林太郎(鴎外、12)、東京医学校予科に入学
この際、願書に万延元年(1860)生まれと記載。以後、公けにはこの生年月日に従う。
14歳、依田学海について漢文を学ぴ、添削を受ける。
18歳、本郷竜岡町の下宿屋上条に住み、千住の佐藤応渠に漢詩文を学ぴ、同郷の国学者福羽美静、加部巌夫に和歌を学ぶ。
*
この頃、林太郎は、神田小川町の西周邸に寄宿。
林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静男という蘭医の息子。
森静男は西の勧めで維新後東京に一家を移し、向島曳舟通で病院を開いていた。長男林太郎を東京医学校に入学させる積りで、ドイツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離のがあるので、小川町の西家に預けた。
この年、15歳と願書に書き東京医学校を受験し合格、下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通う。
*
・星亨(23)、横浜税関次官から横浜税関長になる
(長官中島信行が神奈川県令に転出したあめ)。
翌2月、従六位に叙任。
イギリス公使パークスとの紛争により半年で税関長免職。
しかし、その後まもなく、租税本案外事課長、また条約改正委員にも任命され、9月にはイギリス留学を命ぜられる。
星が「ハー・マジェスティー」を「女王陛下」と訳したところ、イギリス公使ハリー・パークスが、日本での女王は皇族の内でも最下級で、このような呼び名を用いる事は大英帝国君主の尊厳の冒瀆である、と激怒し、星の処罰を求める。
星は、英語の「クイーン」は、女の王又は王の后を意味する言葉で、「女王」と訳す事に差しつかえない、イギリスが「皇帝」と訳して欲しければ「エムペラー」又は「エムプレス」の称号を用いるべき、と回答。
事件は、外務卿寺島宗則がイギリス公使の威圧に屈し、太政官布告によって外国君主には全て皇帝の称号を用いることとし、星を免職にして解決。
*
・ブラームス(41)、1月末ライプツィヒで数回の演奏会、ヘルツォーゲンベルク夫妻と再会。ワルツ愛の歌作品52a完成。
*
・この頃~75年9月頃
マルクスとエンゲルス、レオ・フランケルが在ロンドン・ドイツ人労働者協会でラッサル派と闘争しているのに対し、彼に訓令を与える。
*
1月1日
・慶應義塾内に私立小学校和田塾(のちの慶應義塾幼稚舎)開塾。
*
1月2日
・マドリード、王政復古を目指すマヌエル・バビア将軍、蜂起。
3日、議会解散。スペイン第1共和政終る。
*
1月8日
・オーストリアのフランツ・ヨーゼフ(43)とエリザベト(36)の長女ギーゼラに娘誕生。
*
1月9日
・旧庄内藩士酒井玄蕃の西郷との談話筆記。
ロシアとの対決は必死だが、北海道防衛だけでは不備。
朝鮮問題を解決し、沿海州に進出し「北辺」を防備する必要ある。
英露対立を利用し、イギリスと提携してロシアにあたれば「魯国恐るに足らず」との世界戦略を示す。
*
「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホッセットの方よりニコライ迄も張り出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し、・・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起こり申すべきと・・・能々英国と申し合わせ事を挙げ候日には、魯国恐るに足らずと存じ奉り候」
*
ロシアとの対決は必至であるが、北海道防衛だけではロシアと対抗できない。
朝鮮問題を解決して日本が積極的に沿海州方面に進出し、「北地」を防衛するのが上策であり、さらに英魯対立を念頭において、英と連携してロシアに当たれば「魯国恐るに足らず」という。
朝鮮と事を構えるよりはロシアを警戒すべしというのが当時の西郷の考え。
*
1月9日
・司法省警保寮、内務省に移管。1等寮となり官員4千が転属。
14日、内務卿大久保利通、幹部に訓示。
「警保寮奏任官一同」の訴えにより、前年12月23日に臨時裁判所が無罪とした槇村正直を、同31日に参座を解散させた上で槇村を逆転有罪にし、長州派木戸らに煮え湯を飲ませた蔭に大久保がいるの事は知れ渡っている。
*
警保寮:
明治5年8月、司法卿江藤新平が、軍事と警察を分離することにして、約4千人の東京府邏卒を司法省管轄下に入れ、政府警察として機能させたもの。
近衛兵(約5千5百人)に括坑する勢力で、これを背景に司法省は軍部の綱紀粛正、藩閥の腐敗摘発ができた。
*
1月10日
・参議司法卿大木喬任(元佐賀藩士、江藤の2歳上)、江藤新平を呼出し佐賀への帰郷を止めるよう勧告。
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1月10日
・閣議、開拓中判官榎本武揚を海軍中将とし特命全権大使でロシア派遣決定。
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1月10日
・ドイツ帝国議会選挙。カトリック政党中央党躍進。文化闘争でのカトリック側の反撃。
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1月10日
・フランス、マチエ(歴史家)、オート・ソーヌ県ラ・ブリュイエールの宿屋の子として誕生。
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1月11日
・スペイン、第1インターナショナル非合法化。
*
1月12日
・愛国公党結成
板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋、奥宮正由の9人、愛国公党綱領署名式。副島種臣屋敷にて。
天賦人権論に立脚して人民の基本的人権(通義権理)を保護主張し人民の自立を図ること。
「天の斯民(シミン)を生ずるや、必ず之に附するに道義権理を以てす。
・・・我党の目的は、唯(タダ)斯人民の道義権理を保護主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民たることを得せしむるに在る而巳(ノミ)」。
日本最初の政党。
*
「自由党史」によると:
板垣が土佐出身の英国帰りの2人(前海軍中佐片岡健吉・前外務省6等出仕林有造)に国会開設建白を勧める。
2人は板垣が先頭にたつべきとしたため、板垣は後藤に相談。
後藤は同意し、英国帰りの前左院3等議官小室信夫・古沢滋の意見を聞くことになる。
次に、板垣は江藤・副島を誘う。
「政体書」の起草者副島は立法権独立に理解があり、板垣に賛同。
江藤は、明治元年に議会論を唱導し、佐賀藩政改革でも「下之議院」を構想し、明治3年の諸官制改革案において上下議院の導入を図り、左院の議会化にも工夫をめぐらすなど、筋金入りの議会論者であったから、これも大賛成。
さらに、五箇条誓文の原案起草者で前東京府知事の由利公正や大蔵大丞岡本健三郎らも仲間に加わった。
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1月12日
・片岡健吉、病気を理由に海軍中佐の辞表提出(8月22日免官)。
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1月13日
・江藤新平、新橋発、横浜港より佐賀に戻る。後藤は横浜まで見送る。
15日、神戸に寄港。岩倉襲撃を知る。同船に乗り合わせた林有造は誤解を避けるため神戸で下船。
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林有造:
元土佐藩士、前外務省6等出仕、愛国公党に参加。岩村通俊の弟・高俊の兄。副島の指示により西郷から民撰議院設立建白書への賛意を得る為に鹿児島に行く途上であった。
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岩村通俊:
佐賀県権令、元土佐藩士。明治6年8月に県権令(一定期間をへて正式に県令となる)に赴任するが、半年足らずで、転任を申し出て、後任として野心家の弟・岩村高俊(神奈川県権参事)を大久保利通に推挙。
その岩村高俊は、戊辰戦争の際、東山道総督府軍監として長岡藩家老河井継之助との会談において傲岸不遜な態度をとり、長岡藩を徹底抗戦においやったと評価されている。
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1月13日
・ロシア、国民皆兵徴兵制度施行。
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1月14日
・喰違の変
午後8時、武市熊吉(高知県士族、前近衛局陸軍少佐)ら土佐征韓派士族・元近衛将校下士官、右大臣岩倉具視襲撃。
17日、東京警視庁、首謀者武市熊吉、逮捕。共犯者(元土佐藩士、陸軍少尉・曹長など)8人も逮捕。
翌18日より司法省臨時裁判所で裁判。7月9日、9名全て斬罪。
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1月15日
・小平浪平(日立製作所創業者)、誕生。栃木県下都賀郡中村合戦場、名望家の次男。
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1月15日
・内務省直轄の東京警視庁(川路利良大警視)、設置(警保寮から分離独立)。
27日、「羅卒」を巡査と改称。これまで町費で賄われていた准警吏を廃止、国費による巡査を増員。
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1月15日
・警保頭の河野敏鎌、司法権大判事(勅任3等官)に任命。異例のスピード出世。上には司法大判事佐々木高行(2等官)がいるだけ。
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1月16日
・高島炭坑が官営(工部省所管)化。
19日、オランダ人ボードウィンに償却金40万ドルを支払う。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年2月8日火曜日
明治6年(1873)12月 大久保、政権維持を憂慮「来年二月頃までは国家維持の成否あい分かれ申すべく」 江藤新平、不在の中で佐賀征韓党党首に選ばれる 槇村正直らに有罪判決 [一葉1歳]
明治6年(1873)12月
*
・地券税額を決定。
「明治六年十二月地券税額を原価百分の三に定むることを論定す。
地券税を施行するや、地価の幾分を以て税額と定むる、最も至要の事とす。
蓋し、地租改正の旨趣たる、従前の旧弊を一洗し、公平賦課の率を設て、上は国用を闕かず、下は民力を斉ふるにあり。
・・・方今多事の際、旧来の歳入にては現今の経費に給するに足らずと雖も、今俄に民力を量らず其の額を増さんと欲するときは、勢ひ固より不可なるものあり。
況や生財源の地に重税を賦するは経済の本旨に背戻するに於ておや。
・・・故に、地租改正の始、先づ旧来の歳入を減ぜざるを目的とし、而して賦課其の宜しきを得、衆庶の幸不幸を一洗せば、庶幾くは改正の本旨を達せんか。
是れ、自今原価百分の三を以て税額と定むる所以なり」(「明治前期財政経済史料集成」)。
*
・オーストリア、フランツ・ヨーゼフ即位25周年、ブルク劇場で記念演劇。
ハインリッヒ・ラウベ演出シェイクスピア「じゃじゃ馬ならし」。
女優カタリーナ・シュラットとの出会い。
*
12月1日
・郵便葉書と郵便封嚢、発売。
*
12月6日
・台湾・清国調査の児玉利国・成富清風、帰国。
17日、大久保、児玉・成富より台湾事情聴取。
20日、大久保、岩倉に報告。
台湾問題を、「そのままにては甚だ相済まざる事」、と注意を促す。
*
12月8日
・佐賀県令岩村通俊、大蔵卿大隈重信に宛てて書簡。
城下宝琳院に士族集団憂国党が結集。40~50代中心で勢力3千余、守旧派(士族独裁政治をめざす)。征韓尚早・邪宗排斥・武道興隆を唱え島津久光を盟主と仰ぐ。
対抗して征韓党が結成される。20~30代中心で勢力2千余、一時藩校弘道館を占拠。
他に中立党(勢力500)も結成。
県庁では統制できず。
併せて、この年、九州北部は不作で、米価高騰。
福岡県の大農民暴動の影響もあり、佐賀城下は物情騒然。
*
12月9日
・スマトラ、アチェ王国にオランダ軍侵攻、アチェ軍と戦闘。
*
12月10日
・陸軍少佐樺山資紀、台湾より香港に向う。寧波・丹山・厦門経由。
明治7年3月2日、膨湖諸島を調査。
*
12月10日
・李氏朝鮮、景福宮で火災。王夫妻は無事。
閔妃の寝殿に爆弾を仕掛けたとして、大院君の使用人が逮捕。証拠なく迷宮入り。
やがて大院君は王宮に近い雲峴宮を去り、三渓洞の山荘に隠居し、さらに、父南延君の墓参のため徳山郡に行き、そこから揚州都へ従者も少ない旅を続けて、直谷山荘に引き籠る。
*
12月12日
・木戸の反対論を受けて家禄税に関する閣議。
大隈からは家禄奉還制が再提起(勝がこれに賛同)。
木戸を支持するのは伊藤のみであるが、その伊藤も岩倉に責められ引下る。
岩倉・大久保主導で家禄税・官禄税創設が最終決定。家禄奉還制もほぼ決定。
15日、木戸は岩倉に再度抗議。
27日、禄税賦課(明治6年太政官布告423号)、家禄奉還(同425号)布告。
*
「明治六年太政官布告第四百二十二号(華士族禄税別)」;
「即今内外国事多端、費用も夥(オビタダシキ)の折柄に付、陸海軍資の為め明治七年以後当分の所、別冊の通、賞典禄を除くの外、家禄税設けられ候条、此旨華士族へ布告すべき事。」
*
禄高ごとに禄税の石高が定められる。
家禄6万5千石~5石を335段階に区分し、35.5%~2%の率で賦課。
6万5千石の税は2万2,750石で、5石だと1升。5石未満は課税される
(このクラスは、それ以上の削減は生活不能に追い込むと解釈され、諸藩の禄制改革でも殆ど削禄を受けていない)。
家禄5石以下の総計は26万4千石弱で、5万2,800人と推定される。
明治5年「日本全国戸籍表」によれば、士族卒の戸数は42万5,827であり、最低でも12.5%は5石未満の微禄であったことになる。
明治5年の卒廃止によって1万7千戸が平民に編入された。
大蔵省財務課の推定よれは、華士族の家禄は全部で467万8,287石で禄税総額は50万5,777石。
全体で11%の削減。
*
禄制の最終決定までの過渡的措置。
課税されることは、家禄の所有権を認めることに繋がるため、名目は陸海軍に資金を差出すこととする。
*
華士族説得の為に地方官に与えらええた書面:
「華士族は禄の根拠となっている軍事奉仕の義務から離れたので、すぐにも有名無実となった家禄を全廃することは可能だが、それでは生計の手段を持たない彼らが困窮するだろうから、政府は温情で家禄の支給を続けている。
せめて軍隊の充実に役立つように禄税を差し出し、さらに政府の保護に甘える態度を捨てて一刻も早く自営の手段をたて、国家に報じるように自助努力をせよ」
*
家禄奉還制の創設
家禄奉還制提議に際し、大蔵卿大隈重信が提出した稟議書で、彼は華士族に対し、農商営業の自由を許されたのちも以前の習慣にこだわり、また家禄は長らく支給されるものと思い込み、自営の努力をしないまま無駄に数年を過ごしてきたと責める。
しかし、たとえ政府の趣意を認識していても、薄禄の者は生活を支えるのが精一杯で、新規事業を始める知識を獲得したり資金を蓄積する余裕がないことも認めた。
そこで大隈は、家禄を奉還した者に家禄の六力年分を産業資金として下付すれば大いに便宜が図れるだろうとする。
全部の士族が家禄奉還に応じれば資金が底を付くので、とりあえず100石未満の者にだけこの措置を適用することにした。
明治7年11月、家禄100石以上にも拡大。
*
「明治六年太政官布告第四百二十五号」
「華士族卒在官の外、自今農工商の職業相営侯儀、差許され侯旨、去る明治四年辛未十二月布告候処、薄緑の者資本金これ無きより、其志を遂げ兼候輩もこれある哉に相聞候に付、特別の訳を以て別冊の通方法相設、家禄賞典禄百石未満の者に限り奉還聞届候条、望の者は其管轄庁へ願出るべく、此旨士族並に元卒へ布告すべき事。
但、本文願出の向は禄税上納に及ばざる事。」
*
同時に、「家禄奉還之者へ資金被下方規則」「産業資本之為官林荒蕪地払下規則」が制定。
家禄奉還に応じた者には、世襲家禄たる永世録には6ヶ年分、一代限りの終身録には4ヶ年分が、現金と8分利し付き秩禄公債が半額ずつ支給される。
また、官有林野を代価の半額で払い下げるなど就産の便宜も図られる。
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12月12日
・植木枝盛、高知に帰郷。
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12月16日
・織物伝習生の佐倉常七・井上伊兵衛の2人、フランスより織物機械を持って帰国。
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12月19日
・(露暦12/7)チャイコフスキー、幻想序曲「テンペスト」初演。モスクワ。N・ルビンシテイン指揮。
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12月20日
・大久保、岩倉に書簡。
「四方人身恟々(キョウキョウ)たることはもとより御承知の通りにて、今日に行きがかり候原因また容易ならず、来年二月頃までは国家維持の成否あい分かれ申すべく」。
内外政で実績を上げないと政権維持は困難と述べる。
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12月21日
・劉永福の率いる黒旗軍、ハノイ占領のフランス軍と戦う。フランス軍指導者戦死。
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12月23日
・佐賀征韓党、江藤新平(不在)を党首に選出。
この月、征韓党中島鼎蔵・山田平蔵が上京、副島・江藤に帰郷して指導してくれるよう依頼。
板垣が自重を促し、江藤のみ帰郷することにする。
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12月23日
・臨時裁判所第4回公判。参座一同の投票により京都府参事槇村正直(長州)に無罪判決。
27、28日と非公開審理が続き、京都府知事長谷信篤・京都府大属関谷生三も無罪となる模様。
ところが、江藤等が去った後、警保寮は益々結束を固め、今回の無罪判決により憤りは激化。
警保頭河野敏鎌は参議司法卿大木喬任に、槇村有罪しか道はないと述べる
(背景には、警保寮を大久保構想の内務省に無傷で移管しなければならないことがある。槇村を無罪とすることで警保寮を中心として司法省内の結束が固まる)。
江藤は、河野に対して法理論的には参座の決定が無罪なら仕方ないという考え。
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12月23日
・参議内務卿大久保利通、五代友厚に2通の借用書と地券(担保)を送る。
明治5年5月の3千円と明治6年5月の4千円。
政敵に攻撃された場合のアリバイ作り。
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12月25日
・島津久光、内閣顧問に任命される。大臣の次、参議の上位。
明治7年4月、左大臣。
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12月26日
・京都~大阪間の鉄道建設開始。
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12月28日
・参議司法卿大木喬任、太政大臣三条に、槇村は天皇の裁可(京都裁判所判決)でも心服できないものは従わずとのべているが、これは国体維持に係る問題。拷問を用いてでも法廷で糾弾すべきである旨の「伺」提出。
29日、三条の司法省への指令。
臨時裁判所の参座全員の解任、槇村への更なる糾弾は不要、口供(公判調書)により取調べ伺い出ること。
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12月28日
・外務省十等出仕池上四郎、清国視察から東京に帰着。
29日、外務省に帰朝の届け出。
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12月30日
・参議司法卿大木喬任、正院に京都府知事らの判決案を上申。太政大臣三条が天皇に上奏、裁可を得る。
31日、臨時裁判所、「京都府と京都裁判所の権限争議」に関する小野組転籍事件と新次郎魚代金渋事件(①聴訟事務侵害事件、②断獄事務侵害事件、③行政訴訟判決(命令)拒否事件)のいずれについても、京都府側の全面敗訴となる判決言渡し。
府知事長谷信篤(贖金40円)・参事槇村正直(30円)など他4名にも贖金。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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・地券税額を決定。
「明治六年十二月地券税額を原価百分の三に定むることを論定す。
地券税を施行するや、地価の幾分を以て税額と定むる、最も至要の事とす。
蓋し、地租改正の旨趣たる、従前の旧弊を一洗し、公平賦課の率を設て、上は国用を闕かず、下は民力を斉ふるにあり。
・・・方今多事の際、旧来の歳入にては現今の経費に給するに足らずと雖も、今俄に民力を量らず其の額を増さんと欲するときは、勢ひ固より不可なるものあり。
況や生財源の地に重税を賦するは経済の本旨に背戻するに於ておや。
・・・故に、地租改正の始、先づ旧来の歳入を減ぜざるを目的とし、而して賦課其の宜しきを得、衆庶の幸不幸を一洗せば、庶幾くは改正の本旨を達せんか。
是れ、自今原価百分の三を以て税額と定むる所以なり」(「明治前期財政経済史料集成」)。
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・オーストリア、フランツ・ヨーゼフ即位25周年、ブルク劇場で記念演劇。
ハインリッヒ・ラウベ演出シェイクスピア「じゃじゃ馬ならし」。
女優カタリーナ・シュラットとの出会い。
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12月1日
・郵便葉書と郵便封嚢、発売。
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12月6日
・台湾・清国調査の児玉利国・成富清風、帰国。
17日、大久保、児玉・成富より台湾事情聴取。
20日、大久保、岩倉に報告。
台湾問題を、「そのままにては甚だ相済まざる事」、と注意を促す。
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12月8日
・佐賀県令岩村通俊、大蔵卿大隈重信に宛てて書簡。
城下宝琳院に士族集団憂国党が結集。40~50代中心で勢力3千余、守旧派(士族独裁政治をめざす)。征韓尚早・邪宗排斥・武道興隆を唱え島津久光を盟主と仰ぐ。
対抗して征韓党が結成される。20~30代中心で勢力2千余、一時藩校弘道館を占拠。
他に中立党(勢力500)も結成。
県庁では統制できず。
併せて、この年、九州北部は不作で、米価高騰。
福岡県の大農民暴動の影響もあり、佐賀城下は物情騒然。
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12月9日
・スマトラ、アチェ王国にオランダ軍侵攻、アチェ軍と戦闘。
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12月10日
・陸軍少佐樺山資紀、台湾より香港に向う。寧波・丹山・厦門経由。
明治7年3月2日、膨湖諸島を調査。
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12月10日
・李氏朝鮮、景福宮で火災。王夫妻は無事。
閔妃の寝殿に爆弾を仕掛けたとして、大院君の使用人が逮捕。証拠なく迷宮入り。
やがて大院君は王宮に近い雲峴宮を去り、三渓洞の山荘に隠居し、さらに、父南延君の墓参のため徳山郡に行き、そこから揚州都へ従者も少ない旅を続けて、直谷山荘に引き籠る。
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12月12日
・木戸の反対論を受けて家禄税に関する閣議。
大隈からは家禄奉還制が再提起(勝がこれに賛同)。
木戸を支持するのは伊藤のみであるが、その伊藤も岩倉に責められ引下る。
岩倉・大久保主導で家禄税・官禄税創設が最終決定。家禄奉還制もほぼ決定。
15日、木戸は岩倉に再度抗議。
27日、禄税賦課(明治6年太政官布告423号)、家禄奉還(同425号)布告。
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「明治六年太政官布告第四百二十二号(華士族禄税別)」;
「即今内外国事多端、費用も夥(オビタダシキ)の折柄に付、陸海軍資の為め明治七年以後当分の所、別冊の通、賞典禄を除くの外、家禄税設けられ候条、此旨華士族へ布告すべき事。」
*
禄高ごとに禄税の石高が定められる。
家禄6万5千石~5石を335段階に区分し、35.5%~2%の率で賦課。
6万5千石の税は2万2,750石で、5石だと1升。5石未満は課税される
(このクラスは、それ以上の削減は生活不能に追い込むと解釈され、諸藩の禄制改革でも殆ど削禄を受けていない)。
家禄5石以下の総計は26万4千石弱で、5万2,800人と推定される。
明治5年「日本全国戸籍表」によれば、士族卒の戸数は42万5,827であり、最低でも12.5%は5石未満の微禄であったことになる。
明治5年の卒廃止によって1万7千戸が平民に編入された。
大蔵省財務課の推定よれは、華士族の家禄は全部で467万8,287石で禄税総額は50万5,777石。
全体で11%の削減。
*
禄制の最終決定までの過渡的措置。
課税されることは、家禄の所有権を認めることに繋がるため、名目は陸海軍に資金を差出すこととする。
*
華士族説得の為に地方官に与えらええた書面:
「華士族は禄の根拠となっている軍事奉仕の義務から離れたので、すぐにも有名無実となった家禄を全廃することは可能だが、それでは生計の手段を持たない彼らが困窮するだろうから、政府は温情で家禄の支給を続けている。
せめて軍隊の充実に役立つように禄税を差し出し、さらに政府の保護に甘える態度を捨てて一刻も早く自営の手段をたて、国家に報じるように自助努力をせよ」
*
家禄奉還制の創設
家禄奉還制提議に際し、大蔵卿大隈重信が提出した稟議書で、彼は華士族に対し、農商営業の自由を許されたのちも以前の習慣にこだわり、また家禄は長らく支給されるものと思い込み、自営の努力をしないまま無駄に数年を過ごしてきたと責める。
しかし、たとえ政府の趣意を認識していても、薄禄の者は生活を支えるのが精一杯で、新規事業を始める知識を獲得したり資金を蓄積する余裕がないことも認めた。
そこで大隈は、家禄を奉還した者に家禄の六力年分を産業資金として下付すれば大いに便宜が図れるだろうとする。
全部の士族が家禄奉還に応じれば資金が底を付くので、とりあえず100石未満の者にだけこの措置を適用することにした。
明治7年11月、家禄100石以上にも拡大。
*
「明治六年太政官布告第四百二十五号」
「華士族卒在官の外、自今農工商の職業相営侯儀、差許され侯旨、去る明治四年辛未十二月布告候処、薄緑の者資本金これ無きより、其志を遂げ兼候輩もこれある哉に相聞候に付、特別の訳を以て別冊の通方法相設、家禄賞典禄百石未満の者に限り奉還聞届候条、望の者は其管轄庁へ願出るべく、此旨士族並に元卒へ布告すべき事。
但、本文願出の向は禄税上納に及ばざる事。」
*
同時に、「家禄奉還之者へ資金被下方規則」「産業資本之為官林荒蕪地払下規則」が制定。
家禄奉還に応じた者には、世襲家禄たる永世録には6ヶ年分、一代限りの終身録には4ヶ年分が、現金と8分利し付き秩禄公債が半額ずつ支給される。
また、官有林野を代価の半額で払い下げるなど就産の便宜も図られる。
*
12月12日
・植木枝盛、高知に帰郷。
*
12月16日
・織物伝習生の佐倉常七・井上伊兵衛の2人、フランスより織物機械を持って帰国。
*
12月19日
・(露暦12/7)チャイコフスキー、幻想序曲「テンペスト」初演。モスクワ。N・ルビンシテイン指揮。
*
12月20日
・大久保、岩倉に書簡。
「四方人身恟々(キョウキョウ)たることはもとより御承知の通りにて、今日に行きがかり候原因また容易ならず、来年二月頃までは国家維持の成否あい分かれ申すべく」。
内外政で実績を上げないと政権維持は困難と述べる。
*
12月21日
・劉永福の率いる黒旗軍、ハノイ占領のフランス軍と戦う。フランス軍指導者戦死。
*
12月23日
・佐賀征韓党、江藤新平(不在)を党首に選出。
この月、征韓党中島鼎蔵・山田平蔵が上京、副島・江藤に帰郷して指導してくれるよう依頼。
板垣が自重を促し、江藤のみ帰郷することにする。
*
12月23日
・臨時裁判所第4回公判。参座一同の投票により京都府参事槇村正直(長州)に無罪判決。
27、28日と非公開審理が続き、京都府知事長谷信篤・京都府大属関谷生三も無罪となる模様。
ところが、江藤等が去った後、警保寮は益々結束を固め、今回の無罪判決により憤りは激化。
警保頭河野敏鎌は参議司法卿大木喬任に、槇村有罪しか道はないと述べる
(背景には、警保寮を大久保構想の内務省に無傷で移管しなければならないことがある。槇村を無罪とすることで警保寮を中心として司法省内の結束が固まる)。
江藤は、河野に対して法理論的には参座の決定が無罪なら仕方ないという考え。
*
12月23日
・参議内務卿大久保利通、五代友厚に2通の借用書と地券(担保)を送る。
明治5年5月の3千円と明治6年5月の4千円。
政敵に攻撃された場合のアリバイ作り。
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12月25日
・島津久光、内閣顧問に任命される。大臣の次、参議の上位。
明治7年4月、左大臣。
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12月26日
・京都~大阪間の鉄道建設開始。
*
12月28日
・参議司法卿大木喬任、太政大臣三条に、槇村は天皇の裁可(京都裁判所判決)でも心服できないものは従わずとのべているが、これは国体維持に係る問題。拷問を用いてでも法廷で糾弾すべきである旨の「伺」提出。
29日、三条の司法省への指令。
臨時裁判所の参座全員の解任、槇村への更なる糾弾は不要、口供(公判調書)により取調べ伺い出ること。
*
12月28日
・外務省十等出仕池上四郎、清国視察から東京に帰着。
29日、外務省に帰朝の届け出。
*
12月30日
・参議司法卿大木喬任、正院に京都府知事らの判決案を上申。太政大臣三条が天皇に上奏、裁可を得る。
31日、臨時裁判所、「京都府と京都裁判所の権限争議」に関する小野組転籍事件と新次郎魚代金渋事件(①聴訟事務侵害事件、②断獄事務侵害事件、③行政訴訟判決(命令)拒否事件)のいずれについても、京都府側の全面敗訴となる判決言渡し。
府知事長谷信篤(贖金40円)・参事槇村正直(30円)など他4名にも贖金。
*
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年2月1日火曜日
明治6年(1873)11月17日~末日 家禄税創設決定 木戸は不満 [一葉1歳]
明治6年(1873)11月17日
・木戸孝允、大蔵卿兼任を辞退。
*
11月17日
・ハンガリーで、ペシュト、ブダ、オーブダ合併しブダペシュトとなる。
*
11月20日
・フランス、王政派を中心に議会で7年制法が採決。マクマオン大統領の任期を7年に延長。
*
王政派中心の連合勢力で作るド・ブロイ公爵の新政府は、急進派進出を阻止し王政復古実現を最大の目標とする。
戒厳令継続、共和派の示威運動・新聞の弾圧、急進派ラーンク処刑などの反共和的強権政策。
*
しかし、政府は連合勢力の弱体化によって次第に窮地に立たされるようになる。
連合勢力の中核である王政派両派は、王政復古運動を喫機に離反・反目。
王政復古運動は、両王家によりブルボン家王子シャンボール伯を国王とする事で合意するが、政治制度と国旗について両王家間で調整がつかず。
国旗を白旗にすることには帝政派も反対し、大統領も軍隊分裂を危惧し、シャンボール伯の国王推戴運動は連合勢力分裂によって失敗。
*
その後、オルレアン家パリ伯を国王とする策動がおこるが、正統王朝派の反対により失敗。
*
ド・ブロイは、近い将来の王政復古は不可能と見通し、王政復古の機会が来るまで共和派に政権を渡さないことを最大の政治目標とする。
しかし、7年制法には、30人からなる憲法起草委員会を設置するとの共和派の主張が盛り込まれる。
*
11月20日
・フランス艦隊、ハノイ城砲撃、陥落。
*
11月26日
・家禄処分に関する閣議。岩倉邸。家禄税創設のみ決定。
29日、天皇臨席して評議。禄税の方針は決まるが、木戸は不満。
12月7日、木戸は家禄税反対意見書を伊藤を通じ政府に提出。
*
明治5年2月の大蔵原案、井上馨の妥協案である年々減却之法や一時禄券之方法、大隈重信が提示した、任意により家禄の代わりに禄券を与えるという家禄奉還制度も、否決かあるいは可決できず、禄制の最終処分については来年に再び議論することとなり、家禄税創設だけが決定。
あわせて、家禄に課税することへの批判に対処するため、勅任・奏任の官員に対する俸給にも官禄税がかけられることとなる。
尚、三条と木戸は欠席。
*
29日、天皇臨席しての再評議。
岩倉は、禄税を実施して翌年に家禄の最終処分にとりかかるのはやや急に過ぎると難色を示し、伊藤・寺島は、この問題は参議だけで決定するのではなく、地方官を招集した会議なぢに諮るべきと述べるが、いずれも少数意見で、方針はほぼ確定。
なお、木戸はこの日も欠席。
洋行中から秩禄処分に慎重論を唱えだした木戸が、今回の措置に不満を唱えることは明白。
そのまま無視もできないので、伊藤博文が書面で家禄税創設の方針決定を伝える。
*
木戸は大いに不満。
5月、大蔵大輔井上馨が辞職した際、政府財政の危機的状況を新聞に公表し、自らの緊縮財政論への批判に反撃した。
これに対し、大蔵省事務総裁として財政を引き継いだ大隈重信は、政府刊行物の「太政官日誌」に財政には余裕があると歳入出見込表を掲げて反論。
この時から、工業化に積極的に財源を投入する大隈と、健全財政論者である井上のライバル関係が始まるが、木戸はこの大隈の数値を持ち出し、新税は歳入不足を補う場合にのみ設けられるべきで、財政に余裕があるのに禄税を賦課するのほおかしいと主張。
士族が禄を有するのはそれなりの経緯があり、政府案は万全の策ではないと批判し、一方で一昨年に自分が示した禄高の三分の一を貯蓄するというブランへの未練を示す。
*
木戸は伊藤から政府決定を聞いて熟談。
翌日付け伊藤宛の書簡では、今の政府にはついていけない、一年ほどゆっくり保養したいと希望を出しているが許してもらえない、この上は雲隠れの他に手段がなさそうで進退に窮している、しかし自分の秩禄処分プランを実行してもらえるなら閣議に出頭してもよい、などと言う。
伊藤は困り果てるが、木戸にも一理あると考える。
また、西郷・板垣が下野し、有力な政府反対派が形成されつつある時期に、長州閥の重鎮の木戸までが政府を離れれば、また政局が不安定となる。
伊藤は、岩倉と大久保に木戸の意向を伝え妥協を求める。
岩倉は、木戸にもうなずける点はあると感じ、家禄廃止は10~15年ぐらいの期間をかけてもよいと穏便な腹案を持っているが、禄税は天皇臨席のうえで決まったことであり、朝令暮改は認められないとする。
そして、既に決定した以上、横やりが入らないうちに早く布告すべきだと大久保に述べる。
大久保は「禄税の義、第一差急ぎ候訳と存じ候」とする岩倉書簡に対し、「御趣旨御尤に存じ奉り候」と簡潔に答える。
*
木戸孝允の家禄税反対の意見書:
政治の要諦は「利」と「義」の得失を顧慮することにある。両者を全うしなければ他日に必ず弊害が生じる。
士族の禄は彼らの先祖の功績に由来する。
それ故、家禄は200年にわたり継承され、子孫は廉恥を守り諸芸学術の修練に励んできた。
国家の保護は士族に委ねられ、士族もそれを職分と自任してきた。
しかし、時勢が変遷して国家を保護する任務は士族だけに限られなくなり、義務を全うしない者を食わせる理由はないので、禄制を変えるのもやむをえない。
このため家禄の削減措置がとられたが、その結果として貧窮に悩む者もあらわれてきた。
さらにまた禄税を設け、家禄を処分すれば彼らはどうなるのか。
士族への過酷な処置は、「義」を優先するあまり「利」(国益)を見失っている。
「政府既に士族の力に藉(カ)りて以て国家を保護するも亦屡(シバシバ)なり」。
人民の人民たるゆえんは国家のために自分の義務を尽くすことにある。
しかし、長らく農工商が家業に専念するように振り向けられていた結果、残念ながら「廉恥を知り愛国の念を存し、国の為に義務を尽さんと欲する者」はもっぱら士族のみである。
*
木戸の基本的立場は民治の安定。
そして、維新以来の新政策が必ずしも実を結んでいないのは、西洋文明の由来を考慮せずに表面のみを導入しているためと感じ、産業近代化の決意を固めた大久保とは対照的により漸進的な立場に転じている。
また、文明の実とは人々が国のために義務を尽くすことであり、そのためには道徳心を持つ者による誘導が必要だと考える。
したがって、国民全体に義務を尽くさせようとするならば、士族が恒心を捨てないように保護策を設けるべきだとした。
*
月末
・台湾・清国視察から帰国(9月)の福島九成、外務省に長文の意見書を提出。生蕃討伐の必要性を主張。
*
台湾先住民を生蕃・土蕃・熟蕃の3種に分類し、凶暴な生蕃は「討」たなければならないが、順従な土蕃・熟蕃は保護して「撫」するのがいい。
そこで「速やかに処蕃の目的を立て、上下の人心を振起」せよと論じる。
福島は、12月初めには岩倉にも意見書を提出。
感銘をうけた岩倉は、大久保に福島と面会するように勧める手紙を送る。
岩倉は、旧肥前佐賀藩出身の福島と大隈重信とが同郷なので「至っての知人」だとも記す。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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・木戸孝允、大蔵卿兼任を辞退。
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11月17日
・ハンガリーで、ペシュト、ブダ、オーブダ合併しブダペシュトとなる。
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11月20日
・フランス、王政派を中心に議会で7年制法が採決。マクマオン大統領の任期を7年に延長。
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王政派中心の連合勢力で作るド・ブロイ公爵の新政府は、急進派進出を阻止し王政復古実現を最大の目標とする。
戒厳令継続、共和派の示威運動・新聞の弾圧、急進派ラーンク処刑などの反共和的強権政策。
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しかし、政府は連合勢力の弱体化によって次第に窮地に立たされるようになる。
連合勢力の中核である王政派両派は、王政復古運動を喫機に離反・反目。
王政復古運動は、両王家によりブルボン家王子シャンボール伯を国王とする事で合意するが、政治制度と国旗について両王家間で調整がつかず。
国旗を白旗にすることには帝政派も反対し、大統領も軍隊分裂を危惧し、シャンボール伯の国王推戴運動は連合勢力分裂によって失敗。
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その後、オルレアン家パリ伯を国王とする策動がおこるが、正統王朝派の反対により失敗。
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ド・ブロイは、近い将来の王政復古は不可能と見通し、王政復古の機会が来るまで共和派に政権を渡さないことを最大の政治目標とする。
しかし、7年制法には、30人からなる憲法起草委員会を設置するとの共和派の主張が盛り込まれる。
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11月20日
・フランス艦隊、ハノイ城砲撃、陥落。
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11月26日
・家禄処分に関する閣議。岩倉邸。家禄税創設のみ決定。
29日、天皇臨席して評議。禄税の方針は決まるが、木戸は不満。
12月7日、木戸は家禄税反対意見書を伊藤を通じ政府に提出。
*
明治5年2月の大蔵原案、井上馨の妥協案である年々減却之法や一時禄券之方法、大隈重信が提示した、任意により家禄の代わりに禄券を与えるという家禄奉還制度も、否決かあるいは可決できず、禄制の最終処分については来年に再び議論することとなり、家禄税創設だけが決定。
あわせて、家禄に課税することへの批判に対処するため、勅任・奏任の官員に対する俸給にも官禄税がかけられることとなる。
尚、三条と木戸は欠席。
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29日、天皇臨席しての再評議。
岩倉は、禄税を実施して翌年に家禄の最終処分にとりかかるのはやや急に過ぎると難色を示し、伊藤・寺島は、この問題は参議だけで決定するのではなく、地方官を招集した会議なぢに諮るべきと述べるが、いずれも少数意見で、方針はほぼ確定。
なお、木戸はこの日も欠席。
洋行中から秩禄処分に慎重論を唱えだした木戸が、今回の措置に不満を唱えることは明白。
そのまま無視もできないので、伊藤博文が書面で家禄税創設の方針決定を伝える。
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木戸は大いに不満。
5月、大蔵大輔井上馨が辞職した際、政府財政の危機的状況を新聞に公表し、自らの緊縮財政論への批判に反撃した。
これに対し、大蔵省事務総裁として財政を引き継いだ大隈重信は、政府刊行物の「太政官日誌」に財政には余裕があると歳入出見込表を掲げて反論。
この時から、工業化に積極的に財源を投入する大隈と、健全財政論者である井上のライバル関係が始まるが、木戸はこの大隈の数値を持ち出し、新税は歳入不足を補う場合にのみ設けられるべきで、財政に余裕があるのに禄税を賦課するのほおかしいと主張。
士族が禄を有するのはそれなりの経緯があり、政府案は万全の策ではないと批判し、一方で一昨年に自分が示した禄高の三分の一を貯蓄するというブランへの未練を示す。
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木戸は伊藤から政府決定を聞いて熟談。
翌日付け伊藤宛の書簡では、今の政府にはついていけない、一年ほどゆっくり保養したいと希望を出しているが許してもらえない、この上は雲隠れの他に手段がなさそうで進退に窮している、しかし自分の秩禄処分プランを実行してもらえるなら閣議に出頭してもよい、などと言う。
伊藤は困り果てるが、木戸にも一理あると考える。
また、西郷・板垣が下野し、有力な政府反対派が形成されつつある時期に、長州閥の重鎮の木戸までが政府を離れれば、また政局が不安定となる。
伊藤は、岩倉と大久保に木戸の意向を伝え妥協を求める。
岩倉は、木戸にもうなずける点はあると感じ、家禄廃止は10~15年ぐらいの期間をかけてもよいと穏便な腹案を持っているが、禄税は天皇臨席のうえで決まったことであり、朝令暮改は認められないとする。
そして、既に決定した以上、横やりが入らないうちに早く布告すべきだと大久保に述べる。
大久保は「禄税の義、第一差急ぎ候訳と存じ候」とする岩倉書簡に対し、「御趣旨御尤に存じ奉り候」と簡潔に答える。
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木戸孝允の家禄税反対の意見書:
政治の要諦は「利」と「義」の得失を顧慮することにある。両者を全うしなければ他日に必ず弊害が生じる。
士族の禄は彼らの先祖の功績に由来する。
それ故、家禄は200年にわたり継承され、子孫は廉恥を守り諸芸学術の修練に励んできた。
国家の保護は士族に委ねられ、士族もそれを職分と自任してきた。
しかし、時勢が変遷して国家を保護する任務は士族だけに限られなくなり、義務を全うしない者を食わせる理由はないので、禄制を変えるのもやむをえない。
このため家禄の削減措置がとられたが、その結果として貧窮に悩む者もあらわれてきた。
さらにまた禄税を設け、家禄を処分すれば彼らはどうなるのか。
士族への過酷な処置は、「義」を優先するあまり「利」(国益)を見失っている。
「政府既に士族の力に藉(カ)りて以て国家を保護するも亦屡(シバシバ)なり」。
人民の人民たるゆえんは国家のために自分の義務を尽くすことにある。
しかし、長らく農工商が家業に専念するように振り向けられていた結果、残念ながら「廉恥を知り愛国の念を存し、国の為に義務を尽さんと欲する者」はもっぱら士族のみである。
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木戸の基本的立場は民治の安定。
そして、維新以来の新政策が必ずしも実を結んでいないのは、西洋文明の由来を考慮せずに表面のみを導入しているためと感じ、産業近代化の決意を固めた大久保とは対照的により漸進的な立場に転じている。
また、文明の実とは人々が国のために義務を尽くすことであり、そのためには道徳心を持つ者による誘導が必要だと考える。
したがって、国民全体に義務を尽くさせようとするならば、士族が恒心を捨てないように保護策を設けるべきだとした。
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月末
・台湾・清国視察から帰国(9月)の福島九成、外務省に長文の意見書を提出。生蕃討伐の必要性を主張。
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台湾先住民を生蕃・土蕃・熟蕃の3種に分類し、凶暴な生蕃は「討」たなければならないが、順従な土蕃・熟蕃は保護して「撫」するのがいい。
そこで「速やかに処蕃の目的を立て、上下の人心を振起」せよと論じる。
福島は、12月初めには岩倉にも意見書を提出。
感銘をうけた岩倉は、大久保に福島と面会するように勧める手紙を送る。
岩倉は、旧肥前佐賀藩出身の福島と大隈重信とが同郷なので「至っての知人」だとも記す。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年1月26日水曜日
明治6年(1873)11月5日~15日 内務省設置(初代内務卿大久保利通) 西郷の帰郷 ボアソナアド、横浜に到着 [一葉1歳]
明治6年(1873)11月5日
・司法省急進派司法大輔福岡孝弟・三等出仕樺山資綱・司法大丞(警保頭兼大検事)島本仲道、辞表提出。
10日、受理。
「警保寮奏任官一同」(警保権頭丁野遠影・警保助川路利良・大警視国分友諒・同田辺良顕)、正院へ京都府参事槇村正直の拘留を解く「特命」への説明を求める「上書」提出。
*
10月10日
・内務省設置
初代内務卿大久保利通(29日就任)。
勧業・警保・戸籍・駅逓・土木・地理の6寮(警保を司法省から移す)。
明治7年1月、内務省職制布告。
人民の戸籍、地方行政、警察、産業指導を一手に操る絶大な権力をもつ。
*
内務省の管轄は、警察、勧業、衛生、運輸通信に至る内政全般にわたり、権限は非常に強力。
大久保の地位は三条太政大臣・岩倉右大臣の下位にあるが、重要な政策決定は最終的に大久保の決断に委ねられることが多く、大久保を中軸に大蔵卿大隈重信・工部卿伊藤博文が両脇を固める形で主流派が形成。
*
国内行政の総合推進の任務は、内務省に委ねられ、政府の形式上の首班は太政大臣であるが、衆目のみるところ、大久保政権となる。
大久保暗殺に際し、イギリスの新聞は日本の首相暗殺と報じたほど。
*
10月10日
・陸軍大将に留任させられた西郷隆盛、鹿児島着。
桐野利秋、篠原国幹〈いずれも陸軍少将)ら薩摩出身の近衛将兵600人が従う。
天皇の親衛隊としての近衛兵は存立が危ぶまれ、板垣退助が土佐出身の近衛兵を引き止める。しかし、武市熊吉(陸軍少佐)ら40数人が辞職。
*
10月10日
・司法卿大木喬任、辞職した島本仲道の後任に、司法大丞河野敏鎌(29、土佐)を警保頭兼大検事に任命。
河野は、明治5年4月、同郷の先輩島本仲道とはかり司法省改革のために左院副議長江藤新平を司法卿に迎える。後、江藤の推挙で欧州留学、一時帰国の大久保と同じ船で出発。出発時は司法少丞(五等官)、帰国後同大丞(四等官)。
*
10月11日
・軍艦「春日」、台湾近海測量出動。
また、この月、美代清元(ミシロキヨモト)中尉ら8人、語学研修のため清国派遣。
*
10月15日
・ボアソナアド、名村泰蔵と共に横浜着。
29日、ボアソナアド、プスケ、法律編成見込書・法学教授見込書を司法卿大木喬任に提出。
*
【経緯】
明治4年10月、司法省は正院に対し、ナポレオン法典を基本として語法典編纂を推進するため、フランスからから教師を雇い入れたい、と伺い出る。
理事官として岩倉遣外使節に同行して欧米を巡歴しパリに到着した司法大輪佐々木高行は、河野敏鎌らの司法省派遣団と落ち合い、江藤司法卿が「専門教師雇人ノ儀」について「可相成(アイナルベク)上等ノ人」を雇い入れるよう厳命していることを知る。
直ちに鮫島公使に江藤司法卿の意を伝え協議した結果、ボワソナアドが適任と判断し交渉を開始。*
しかし、ポワソナアドは1年半分の俸給前渡しや家族引越料などを条件とし、日本側はこれを「過当之望」と判断し一旦は破談となる。
明治6年4月8日付けで、江藤司法卿に宛てて人選遅延を報告。
しかし、その後も計画は思うように進まず、たまたまロシア出張の鮫島公使お帰仏後、再度ボワソナアドと交渉し、彼の日本招聘に成功する。
本国からの訓令を得た後、6月24日、御雇条約(契約)全15条を結ぶ。
契約では、ボワソナアドは家族の旅費を得ているが、給料前渡額は3ヶ月分に譲歩している。
*
ポワソナアドが翻意した理由:
彼の恩師オルトラン(刑法及び比較刑事法制講座正教授)死去にともない、5月24日、法学部教授会で後継正教授候補者が選出されるが、その結果はポワソナアドの正教授就任の見込みを将来にわたって消滅させるような惨憺たるもの。
文部大臣に推薦する後継候補者名簿には第1位と第2位の候補者を記載するが、ボワソナアドは第2位候補者でしかも2名が同順位に並記されることになった(2回の投票ともに同票)。
第2位のもう一人は26歳で初めて教授資格試験を受験し首位合格を果たした俊秀(ポワソナアドは、39歳の時に3回目の受験で最下位の8位合格)。
このことは、次回に正教授ポスト競争では、ポワソナアドは飛び越される可能性が大きいことを意味する。
この精神的に絶望的打撃により、彼は新しい天地に自らの運命をかける気持ちになったと推測できる。
*
ポワソナアドは、司法省で法学教育を行う旨の口頭の約束をとりかわし、別にそれに対する相当の報酬を受け取る取り決めになっていたが、東京に到着してみると、先任の法律顧問プスケが、事実上主任教師として、フランス語担当のリブロオル及び通訳のガリイと共に、明治5年秋から、明法寮の募集した生徒を対象として講義を始めていた。
ポワソナアドは期待を裏切られ、プスケとの関係も初めのうちはぎくしゃくする。
司法省は、両者の調停を通訳ガリイに依頼し、その仲裁で2人の不和は一応解消し、「遂ニ両氏互ニ共和スルニ至リ殆ンド親友ノ如クニ」なった。
*
そして11月29日、2人は連名で、法律編成についての見込書と法学教授に関する見込書を司法卿に提出。
*
10月15日
・植木枝盛(16)、東京発、土佐へ帰郷。
明治8年、再上京するまでの約1年間は郷里で過ごす。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
*
・司法省急進派司法大輔福岡孝弟・三等出仕樺山資綱・司法大丞(警保頭兼大検事)島本仲道、辞表提出。
10日、受理。
「警保寮奏任官一同」(警保権頭丁野遠影・警保助川路利良・大警視国分友諒・同田辺良顕)、正院へ京都府参事槇村正直の拘留を解く「特命」への説明を求める「上書」提出。
*
10月10日
・内務省設置
初代内務卿大久保利通(29日就任)。
勧業・警保・戸籍・駅逓・土木・地理の6寮(警保を司法省から移す)。
明治7年1月、内務省職制布告。
人民の戸籍、地方行政、警察、産業指導を一手に操る絶大な権力をもつ。
*
内務省の管轄は、警察、勧業、衛生、運輸通信に至る内政全般にわたり、権限は非常に強力。
大久保の地位は三条太政大臣・岩倉右大臣の下位にあるが、重要な政策決定は最終的に大久保の決断に委ねられることが多く、大久保を中軸に大蔵卿大隈重信・工部卿伊藤博文が両脇を固める形で主流派が形成。
*
国内行政の総合推進の任務は、内務省に委ねられ、政府の形式上の首班は太政大臣であるが、衆目のみるところ、大久保政権となる。
大久保暗殺に際し、イギリスの新聞は日本の首相暗殺と報じたほど。
*
10月10日
・陸軍大将に留任させられた西郷隆盛、鹿児島着。
桐野利秋、篠原国幹〈いずれも陸軍少将)ら薩摩出身の近衛将兵600人が従う。
天皇の親衛隊としての近衛兵は存立が危ぶまれ、板垣退助が土佐出身の近衛兵を引き止める。しかし、武市熊吉(陸軍少佐)ら40数人が辞職。
*
10月10日
・司法卿大木喬任、辞職した島本仲道の後任に、司法大丞河野敏鎌(29、土佐)を警保頭兼大検事に任命。
河野は、明治5年4月、同郷の先輩島本仲道とはかり司法省改革のために左院副議長江藤新平を司法卿に迎える。後、江藤の推挙で欧州留学、一時帰国の大久保と同じ船で出発。出発時は司法少丞(五等官)、帰国後同大丞(四等官)。
*
10月11日
・軍艦「春日」、台湾近海測量出動。
また、この月、美代清元(ミシロキヨモト)中尉ら8人、語学研修のため清国派遣。
*
10月15日
・ボアソナアド、名村泰蔵と共に横浜着。
29日、ボアソナアド、プスケ、法律編成見込書・法学教授見込書を司法卿大木喬任に提出。
*
【経緯】
明治4年10月、司法省は正院に対し、ナポレオン法典を基本として語法典編纂を推進するため、フランスからから教師を雇い入れたい、と伺い出る。
理事官として岩倉遣外使節に同行して欧米を巡歴しパリに到着した司法大輪佐々木高行は、河野敏鎌らの司法省派遣団と落ち合い、江藤司法卿が「専門教師雇人ノ儀」について「可相成(アイナルベク)上等ノ人」を雇い入れるよう厳命していることを知る。
直ちに鮫島公使に江藤司法卿の意を伝え協議した結果、ボワソナアドが適任と判断し交渉を開始。*
しかし、ポワソナアドは1年半分の俸給前渡しや家族引越料などを条件とし、日本側はこれを「過当之望」と判断し一旦は破談となる。
明治6年4月8日付けで、江藤司法卿に宛てて人選遅延を報告。
しかし、その後も計画は思うように進まず、たまたまロシア出張の鮫島公使お帰仏後、再度ボワソナアドと交渉し、彼の日本招聘に成功する。
本国からの訓令を得た後、6月24日、御雇条約(契約)全15条を結ぶ。
契約では、ボワソナアドは家族の旅費を得ているが、給料前渡額は3ヶ月分に譲歩している。
*
ポワソナアドが翻意した理由:
彼の恩師オルトラン(刑法及び比較刑事法制講座正教授)死去にともない、5月24日、法学部教授会で後継正教授候補者が選出されるが、その結果はポワソナアドの正教授就任の見込みを将来にわたって消滅させるような惨憺たるもの。
文部大臣に推薦する後継候補者名簿には第1位と第2位の候補者を記載するが、ボワソナアドは第2位候補者でしかも2名が同順位に並記されることになった(2回の投票ともに同票)。
第2位のもう一人は26歳で初めて教授資格試験を受験し首位合格を果たした俊秀(ポワソナアドは、39歳の時に3回目の受験で最下位の8位合格)。
このことは、次回に正教授ポスト競争では、ポワソナアドは飛び越される可能性が大きいことを意味する。
この精神的に絶望的打撃により、彼は新しい天地に自らの運命をかける気持ちになったと推測できる。
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ポワソナアドは、司法省で法学教育を行う旨の口頭の約束をとりかわし、別にそれに対する相当の報酬を受け取る取り決めになっていたが、東京に到着してみると、先任の法律顧問プスケが、事実上主任教師として、フランス語担当のリブロオル及び通訳のガリイと共に、明治5年秋から、明法寮の募集した生徒を対象として講義を始めていた。
ポワソナアドは期待を裏切られ、プスケとの関係も初めのうちはぎくしゃくする。
司法省は、両者の調停を通訳ガリイに依頼し、その仲裁で2人の不和は一応解消し、「遂ニ両氏互ニ共和スルニ至リ殆ンド親友ノ如クニ」なった。
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そして11月29日、2人は連名で、法律編成についての見込書と法学教授に関する見込書を司法卿に提出。
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10月15日
・植木枝盛(16)、東京発、土佐へ帰郷。
明治8年、再上京するまでの約1年間は郷里で過ごす。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年1月19日水曜日
明治6年(1873)11月1日~4日 大久保利通「立憲政体に関する意見書」 井上馨、伊藤博文に利権を無心 李氏朝鮮の高宗親政開始 大院君失脚 [一葉1歳]
明治6年(1873)11月
この月
・政府、工部卿伊藤博文・外務卿寺島宗則に「政体取調」指示。
大久保利通、伊藤に自分の考えを長文の「立憲政体に関する意見書」に纏めて渡す。
イギリスを手本とした「君主政治」「民主政治」の検討。また、この取調に福沢諭吉を取込み、失望させないためにも政府で不採用とならないよう本気で考えたいと述べる。
*
■大久保意見書
「民主未ダ以テ取ル可ヲズ。君主モ亦、未ダ以テ捨ツ可ヲズ。」
しかし、大久保利通は、「民主ノ政」が「天理」だと考えている。
「天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽(アマ)ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者ニシテ・・・」
その上で、「民主ノ政」は、アメリカ、スイス他の例をあげ、「創立ノ国」「新徒ノ国」ではうまくゆくが、として退ける。
同時に、「君主ノ政」が「明君」「良弼」あるときはうまくゆくが、ピュリタン革命やフランス大革命をまねくことは必然だとする。
「君主ノ政」は「人為」からでて、「天理」にかなわない場合が多く、長く維持すべきではない、とする。
日本は、維新以来「君主擅制(センセイ)」だが、今日にはそれが適用できても、すでに「時勢」は「半バ開化」に入っている。
将来もこれを「固守」すべきではない。
大久保は、理念型として「君民共治」を打ち出す。
「定律国法ハ即ハチ君民共治ノ制ニシテ、上ミ(ママ)君権ヲ定メ、下モ民権ヲ限り、至公至正、君民得テ私スベカラズ。」
*
この「意見書」では、大久保は、イギリスは一例として引いているだけだが、翌明治7年5~6月頃の「殖産興業に関する建議書」では、イギリスを準拠国としている。
*
大久保は、「此取調には福沢諭吉なども組込侯てはいかが」かという。
伊藤は、福沢と協力する場合は、「必ず其人の識見と道理」を重視せねはならす、「政府において不採用」などといえば失望させるだけだから、本気に考えたいと述べる(伊藤博文書簡、「大久保利通文書」)
*
・ロシア公使ビュツフォ、樺太の日露境界画定交渉開始要求。
*
・庄内・田川郡下で石代納を求める運動「ワッパ騒動」、勃発。
*
・官職を辞した旧高知藩士、海南義社結成。
品川大井の旧藩主山内容堂の墓前に共同行動を誓約。
*
・板垣退助ら、銀座3丁目に幸福安全社を開設。
*
・第28番中学区福井私立中学校に師範学科を併設。小学校教員養成機関の設置。
翌7年4月、この学科は福井師範学校として独立。
5月、1千戸に1人の割合で生徒を募集、試験のうえ師範学科に入学させた者は120人。学資は1ヶ月2円30銭を貸与。
8年9月、小浜(第26中学区)・武生(第27中学区)・大野(第28中学区)・福井(第29中学区)4ヶ所に小学授業法伝習所を設置、定員150人を募集。
12月、区長・学区取締・校長などの会議によって「公学規則」が定められ、伝習所の卒業証書をもつ者しか訓導はできなくなる。
9年2月より現職の教員や一般の志願者に対し試験を行い、及第者に証書を与える。
*
*
11月1日
・前大蔵大輔(捕縛寸前であった)井上馨、工部卿伊藤博文に厚顔無恥にも利権要求の手紙。
①鉱山税の廃止または免除。
②XX(判読不能)鉱山を払い下げて欲しい。
③飛騨高山鉱山は中小企業経営で非効率だが有望なので、一旦工部省鉱山寮管轄に移し、払い下げて欲しい。
*
「……早速ながら我儘がましく候えども、工部卿御職へ対し候て申し上げ候、
諸鉱山の税御免と□□(破損)鉱山だけは是非とも生(井上)へ仰付けられ度く願い奉り侯、
また飛騨高山鉱山の義は小民稼ぎに従来の弊多くこれあり候えども、充分見込みもこれあり候山に候あいだ、一応鉱山寮のものに御引き揚げなし下され候て、我が会社へ御任せ下され候わば有り難く存じ奉り候、
当時の勢いにては往々不始末山も衰え候様成り行き候あいだ御配慮下され度く候……」
*
11月1日
・バクーニン派、ジュネーブでジュラ同盟会議開催。第1インターナショナル総評議会廃止決定。
*
11月3日
・李氏朝鮮、崔益鉉、大院君退陣・高宗親政の上疎(2回目)を高宗に呈出。
文中に過激な言辞あり済州島に配流(実際は大院君のテロからの保護)。
5日、高宗(21)、「親政」布告。
大院君失脚。宮廷の大院君専用出入口を閉鎖。全て閔妃の差金。
右議政朴珪寿(開化思想)、左議政興寅君李最応(大院君の兄)。大院君長男と伯父李最応は大院君の動静の閔妃への通報者。
領議政は李裕元(かつて大院君かた左議政にと乞われたがこれを固辞した)。
高宗即位工作に尽力した趙大王王妃派一門を優遇し、大院君の政敵安東金氏一門も再浮上。
大院君派を一掃(没落、追放、流罪、処刑)
大院君の手許に残ったのは妾腹の息子李載先だけ。
*
崔の2回目の上疏:
「大院君は王の父であり、最高の敬意をもって遇するは当然だが、いつまでも国政に関与するのは間違いである。王が成年に達せられた今日、すみやかに執政の座をおりるべきだ」というもの。
ほほ10年間君臨した大院君には法的権力の根拠はない。
「王が若年」との理由で執政となったが、法的には王が最高権力者であり、命令・布告はすべて王の名で出されている。
「立派に成人された王(21歳)の叡知と仁徳をもって、親政をされるのが至当」との主張に対して、大院君には対抗する論拠はない。
*
新政権は、大院君が制定した諸政の改革を破壊。
大院君が政治生命を賭して撤廃を断行した書院の一部は復興し、両班階級が強く反撥した戸布の義務は免除される。
一般庶民階級に対しては、彼らの人気を得る目的で「清銭禁輸」が施行され、大院君が景福宮再建の財源として設けた「通門税」などが廃止。
*
勢道政治の幕開け:
大院君の引退は、同時に閔氏一族の勢道政治の幕開けであり、閔升鎬、閔奎鎬が一門の代表格。
勢道政治を嫌い、有力、有能な後ろ盾のない王妃をと厳還した大院君であったが、閔妃は彼女自身の意志と才覚でそれを実現した。
ソウルの儒生たちの間に、大院君還宮促進運動が起こる。
彼らは、「大院君をいつまでも遠地に閑居させるのは、父子の義にあらず」と、孝道を尽さない王を激しく非難。
厳しい処罰にもかかわらずこの運動の広がり、地方の儒生たちもソウルに集まって種々の建白書を配布。
王はみずから建白書を読み、閣僚たちに「不孝者呼ばわりをして父子の間を裂く、許しがたい行為」と告げて、時々後ろの屏風の方をふり返りながら、儒生たちの処分を命じる。
屏風の内には、王の発音を助け導く関妃が控えている。
これが「高宗親政」の実体であり、閣僚たちはこの事を知っている。
*
閔妃:
驪興(漢城の北、京畿道驪州)を本貫(一族の始祖の出身地)とする閔氏一族の閔致禄の一人娘。
1851年(嘉永4)生まれで、高宗より1歳年上(結婚の時、閔妃は16歳)。幼名は紫英。
名門ではあるが没落していた閔致禄の一家は、その後、驪州を離れ、漢城府内の安国洞に移り住む。
一家の生活は極端に貧しく、その辛酸をなめつくした閔紫英は、耐えることの重要さを知る。
閔紫英8歳のとき、父母が相次いで亡くなり、やむなく少女は出生地の驪州に戻り、遠い親戚筋の幼女となり、ここで閔紫は人の心のひだを読みとる術を身につける。
*
11月4日
・泉鏡花、誕生。
*
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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この月
・政府、工部卿伊藤博文・外務卿寺島宗則に「政体取調」指示。
大久保利通、伊藤に自分の考えを長文の「立憲政体に関する意見書」に纏めて渡す。
イギリスを手本とした「君主政治」「民主政治」の検討。また、この取調に福沢諭吉を取込み、失望させないためにも政府で不採用とならないよう本気で考えたいと述べる。
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■大久保意見書
「民主未ダ以テ取ル可ヲズ。君主モ亦、未ダ以テ捨ツ可ヲズ。」
しかし、大久保利通は、「民主ノ政」が「天理」だと考えている。
「天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽(アマ)ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者ニシテ・・・」
その上で、「民主ノ政」は、アメリカ、スイス他の例をあげ、「創立ノ国」「新徒ノ国」ではうまくゆくが、として退ける。
同時に、「君主ノ政」が「明君」「良弼」あるときはうまくゆくが、ピュリタン革命やフランス大革命をまねくことは必然だとする。
「君主ノ政」は「人為」からでて、「天理」にかなわない場合が多く、長く維持すべきではない、とする。
日本は、維新以来「君主擅制(センセイ)」だが、今日にはそれが適用できても、すでに「時勢」は「半バ開化」に入っている。
将来もこれを「固守」すべきではない。
大久保は、理念型として「君民共治」を打ち出す。
「定律国法ハ即ハチ君民共治ノ制ニシテ、上ミ(ママ)君権ヲ定メ、下モ民権ヲ限り、至公至正、君民得テ私スベカラズ。」
*
この「意見書」では、大久保は、イギリスは一例として引いているだけだが、翌明治7年5~6月頃の「殖産興業に関する建議書」では、イギリスを準拠国としている。
*
大久保は、「此取調には福沢諭吉なども組込侯てはいかが」かという。
伊藤は、福沢と協力する場合は、「必ず其人の識見と道理」を重視せねはならす、「政府において不採用」などといえば失望させるだけだから、本気に考えたいと述べる(伊藤博文書簡、「大久保利通文書」)
*
・ロシア公使ビュツフォ、樺太の日露境界画定交渉開始要求。
*
・庄内・田川郡下で石代納を求める運動「ワッパ騒動」、勃発。
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・官職を辞した旧高知藩士、海南義社結成。
品川大井の旧藩主山内容堂の墓前に共同行動を誓約。
*
・板垣退助ら、銀座3丁目に幸福安全社を開設。
*
・第28番中学区福井私立中学校に師範学科を併設。小学校教員養成機関の設置。
翌7年4月、この学科は福井師範学校として独立。
5月、1千戸に1人の割合で生徒を募集、試験のうえ師範学科に入学させた者は120人。学資は1ヶ月2円30銭を貸与。
8年9月、小浜(第26中学区)・武生(第27中学区)・大野(第28中学区)・福井(第29中学区)4ヶ所に小学授業法伝習所を設置、定員150人を募集。
12月、区長・学区取締・校長などの会議によって「公学規則」が定められ、伝習所の卒業証書をもつ者しか訓導はできなくなる。
9年2月より現職の教員や一般の志願者に対し試験を行い、及第者に証書を与える。
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11月1日
・前大蔵大輔(捕縛寸前であった)井上馨、工部卿伊藤博文に厚顔無恥にも利権要求の手紙。
①鉱山税の廃止または免除。
②XX(判読不能)鉱山を払い下げて欲しい。
③飛騨高山鉱山は中小企業経営で非効率だが有望なので、一旦工部省鉱山寮管轄に移し、払い下げて欲しい。
*
「……早速ながら我儘がましく候えども、工部卿御職へ対し候て申し上げ候、
諸鉱山の税御免と□□(破損)鉱山だけは是非とも生(井上)へ仰付けられ度く願い奉り侯、
また飛騨高山鉱山の義は小民稼ぎに従来の弊多くこれあり候えども、充分見込みもこれあり候山に候あいだ、一応鉱山寮のものに御引き揚げなし下され候て、我が会社へ御任せ下され候わば有り難く存じ奉り候、
当時の勢いにては往々不始末山も衰え候様成り行き候あいだ御配慮下され度く候……」
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11月1日
・バクーニン派、ジュネーブでジュラ同盟会議開催。第1インターナショナル総評議会廃止決定。
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11月3日
・李氏朝鮮、崔益鉉、大院君退陣・高宗親政の上疎(2回目)を高宗に呈出。
文中に過激な言辞あり済州島に配流(実際は大院君のテロからの保護)。
5日、高宗(21)、「親政」布告。
大院君失脚。宮廷の大院君専用出入口を閉鎖。全て閔妃の差金。
右議政朴珪寿(開化思想)、左議政興寅君李最応(大院君の兄)。大院君長男と伯父李最応は大院君の動静の閔妃への通報者。
領議政は李裕元(かつて大院君かた左議政にと乞われたがこれを固辞した)。
高宗即位工作に尽力した趙大王王妃派一門を優遇し、大院君の政敵安東金氏一門も再浮上。
大院君派を一掃(没落、追放、流罪、処刑)
大院君の手許に残ったのは妾腹の息子李載先だけ。
*
崔の2回目の上疏:
「大院君は王の父であり、最高の敬意をもって遇するは当然だが、いつまでも国政に関与するのは間違いである。王が成年に達せられた今日、すみやかに執政の座をおりるべきだ」というもの。
ほほ10年間君臨した大院君には法的権力の根拠はない。
「王が若年」との理由で執政となったが、法的には王が最高権力者であり、命令・布告はすべて王の名で出されている。
「立派に成人された王(21歳)の叡知と仁徳をもって、親政をされるのが至当」との主張に対して、大院君には対抗する論拠はない。
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新政権は、大院君が制定した諸政の改革を破壊。
大院君が政治生命を賭して撤廃を断行した書院の一部は復興し、両班階級が強く反撥した戸布の義務は免除される。
一般庶民階級に対しては、彼らの人気を得る目的で「清銭禁輸」が施行され、大院君が景福宮再建の財源として設けた「通門税」などが廃止。
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勢道政治の幕開け:
大院君の引退は、同時に閔氏一族の勢道政治の幕開けであり、閔升鎬、閔奎鎬が一門の代表格。
勢道政治を嫌い、有力、有能な後ろ盾のない王妃をと厳還した大院君であったが、閔妃は彼女自身の意志と才覚でそれを実現した。
ソウルの儒生たちの間に、大院君還宮促進運動が起こる。
彼らは、「大院君をいつまでも遠地に閑居させるのは、父子の義にあらず」と、孝道を尽さない王を激しく非難。
厳しい処罰にもかかわらずこの運動の広がり、地方の儒生たちもソウルに集まって種々の建白書を配布。
王はみずから建白書を読み、閣僚たちに「不孝者呼ばわりをして父子の間を裂く、許しがたい行為」と告げて、時々後ろの屏風の方をふり返りながら、儒生たちの処分を命じる。
屏風の内には、王の発音を助け導く関妃が控えている。
これが「高宗親政」の実体であり、閣僚たちはこの事を知っている。
*
閔妃:
驪興(漢城の北、京畿道驪州)を本貫(一族の始祖の出身地)とする閔氏一族の閔致禄の一人娘。
1851年(嘉永4)生まれで、高宗より1歳年上(結婚の時、閔妃は16歳)。幼名は紫英。
名門ではあるが没落していた閔致禄の一家は、その後、驪州を離れ、漢城府内の安国洞に移り住む。
一家の生活は極端に貧しく、その辛酸をなめつくした閔紫英は、耐えることの重要さを知る。
閔紫英8歳のとき、父母が相次いで亡くなり、やむなく少女は出生地の驪州に戻り、遠い親戚筋の幼女となり、ここで閔紫は人の心のひだを読みとる術を身につける。
*
11月4日
・泉鏡花、誕生。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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2011年1月11日火曜日
明治6年(1873)10月25日~28日 朝鮮の崔益鉉、大院君弾劾上疎を呈出 槇村正直の拘留を解く「特命」 大久保書簡「旧参議にたいし御申し訳あるまじ」 [一葉1歳]
明治6年(1873)10月25日
・朝鮮、崔益鉉、大院君弾劾上疎を高宗に呈出。
*
崔は衛正斥邪運動指導者李恒老の一番弟子、以前にも大院君を弾劾し、それを閔妃一派にかわれ、10月初め、副承旨(次席秘書官)就任。
王は崔益鉉を支持、上疎を賞賛、崔を戸曹参判(大蔵省次官クラス)に任じる。
大院君は、崔の処罰を主張し、左・右議政に崔非難の上疎を出させる。
王は、崔を擁護、執拗に非難する官人を流罪にする。
また、ソウルの儒生たちも崔を批判するが、王はこれを押える。
11月3日、崔は再び上疎を呈出。
*
崔の大院君弾劾の内容:
強硬な鎖国政策をとり続けていれば対日戦争が起こり、壬辰・丁酉倭乱の悲劇が再現されかねない。
さらに、大院君の摂政政治にはいくたの疑問があり、それを排斥すべし。
政治が不安定であるにかかわらず、高官は正論を吐かず、直言をしない。
人事は適材適所を旨とせず、天災地変や凶作への対策は乏しく、ために国民の生活は困窮をきわめている。
*
10月25日
・天皇、近衛局の佐官、近衛各兵の大隊長を集め、西郷は唯一の陸軍大将、国家柱石と表明。
近衛軍人の動揺なだめるため。
29日、近衛将校に「職務精励」を親諭。
*
10月25日
・木戸孝允、元老院設置を主唱。
*
10月25日
・太政大臣代理岩倉具視、京都府参事槇村正直の拘留を解く「特命」布達(超法規措置)。
司法大輔福岡孝弟、三等出仕島本仲道、同樺山資綱以下司法省首脳は抗議文を提出。
*
「京都府参事槇村正直拒刑の罪あり、
……政府特命を下して其の拘留を解く、臣等驚き且つ怪しむ、
……拘留繋獄一に裁判所の権力に在り、恐らくは政府といえども私する所にあらず、
……而して特旨の下る所以のものは……或は怪む陰に正直を庇護する者ありて是に至るか、大日本政府の体裁に於て必ず此等のこと無きを信ず、ここに於て疑団釈然たる能わず、
……今もし政府愛憎を以て法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、則ちいわん国家の大臣信ずるに足らざるべしと、
……政府何(イズクン)ぞ独り正直に寛にして人民に酷なる、
……是れいわゆる路に豺狼(サイロウ)を遣して野にある狐狸を問うの類なり、
……かかる瑣屑の事件に当り処置その宜しきを得ず、誤りて特命を瀆すに至る」
*
山城屋和助事件・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直……と、汚職・不祥事を続出させていた長州派は、政変のおかげで罪跡をうやむやにできて、没落寸前の淵から這い上がることに成功した。
長州汚職閥は、明治6政変の最大の受益者であった。
*
10月25日
・司法卿大木喬任、「槇村裁判に関する警保寮ポリスの不穏な動き」を大久保利通に報告。
翌月10日の内務省設置に際しては、司法省から警保寮を移管し一等寮として内務省省務の中枢に置く構想。
*
10月27日
・天皇、参議と夕食。大久保の要請。内閣ひきしめ。
*
10月28日
・西郷隆盛、横浜発。
11月10日鹿児島着。
*
10月28日
・大久保、岩倉に書簡。
ロシアとの樺太問題交渉(クシュンコタン放火事件の善後処置と日露国境画定)では「前議の御決定」=副島時代の既定路線を踏襲しなければ、「旧参議にたいし御申し訳あるまじ」と述べる。
*
27日、大久保は岩倉に宛てて、帰国中の駐英特命全権公使寺島宗則が副島の後任外務卿に就任すれば「樺太事件御評議肝要」だが、「是非前議の通りならでは、小子においては全く信義を失い」と政策継続の必要を力説。
翌28日にも、「樺太混雑裁判の事および境界談判の事、いずく迄も前議の御決定にもとらざるよう確定」すべきであり、「此の条間違いあらば、旧参議にたいし御申し訳あるまじ、小臣においては決して朝に立つことを得ず」と重ねて念を押す。
*
10月28日
・1873年金融恐慌、ドイツに波及。ベルリン証券取引所、空前の大暴落。
*
10月下旬
・~12月上旬、マルクス(55)、グンベルトの診察を受け一切の仕事を禁じられる。
ハロウゲイトで療養。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
・朝鮮、崔益鉉、大院君弾劾上疎を高宗に呈出。
*
崔は衛正斥邪運動指導者李恒老の一番弟子、以前にも大院君を弾劾し、それを閔妃一派にかわれ、10月初め、副承旨(次席秘書官)就任。
王は崔益鉉を支持、上疎を賞賛、崔を戸曹参判(大蔵省次官クラス)に任じる。
大院君は、崔の処罰を主張し、左・右議政に崔非難の上疎を出させる。
王は、崔を擁護、執拗に非難する官人を流罪にする。
また、ソウルの儒生たちも崔を批判するが、王はこれを押える。
11月3日、崔は再び上疎を呈出。
*
崔の大院君弾劾の内容:
強硬な鎖国政策をとり続けていれば対日戦争が起こり、壬辰・丁酉倭乱の悲劇が再現されかねない。
さらに、大院君の摂政政治にはいくたの疑問があり、それを排斥すべし。
政治が不安定であるにかかわらず、高官は正論を吐かず、直言をしない。
人事は適材適所を旨とせず、天災地変や凶作への対策は乏しく、ために国民の生活は困窮をきわめている。
*
10月25日
・天皇、近衛局の佐官、近衛各兵の大隊長を集め、西郷は唯一の陸軍大将、国家柱石と表明。
近衛軍人の動揺なだめるため。
29日、近衛将校に「職務精励」を親諭。
*
10月25日
・木戸孝允、元老院設置を主唱。
*
10月25日
・太政大臣代理岩倉具視、京都府参事槇村正直の拘留を解く「特命」布達(超法規措置)。
司法大輔福岡孝弟、三等出仕島本仲道、同樺山資綱以下司法省首脳は抗議文を提出。
*
「京都府参事槇村正直拒刑の罪あり、
……政府特命を下して其の拘留を解く、臣等驚き且つ怪しむ、
……拘留繋獄一に裁判所の権力に在り、恐らくは政府といえども私する所にあらず、
……而して特旨の下る所以のものは……或は怪む陰に正直を庇護する者ありて是に至るか、大日本政府の体裁に於て必ず此等のこと無きを信ず、ここに於て疑団釈然たる能わず、
……今もし政府愛憎を以て法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、則ちいわん国家の大臣信ずるに足らざるべしと、
……政府何(イズクン)ぞ独り正直に寛にして人民に酷なる、
……是れいわゆる路に豺狼(サイロウ)を遣して野にある狐狸を問うの類なり、
……かかる瑣屑の事件に当り処置その宜しきを得ず、誤りて特命を瀆すに至る」
*
山城屋和助事件・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直……と、汚職・不祥事を続出させていた長州派は、政変のおかげで罪跡をうやむやにできて、没落寸前の淵から這い上がることに成功した。
長州汚職閥は、明治6政変の最大の受益者であった。
*
10月25日
・司法卿大木喬任、「槇村裁判に関する警保寮ポリスの不穏な動き」を大久保利通に報告。
翌月10日の内務省設置に際しては、司法省から警保寮を移管し一等寮として内務省省務の中枢に置く構想。
*
10月27日
・天皇、参議と夕食。大久保の要請。内閣ひきしめ。
*
10月28日
・西郷隆盛、横浜発。
11月10日鹿児島着。
*
10月28日
・大久保、岩倉に書簡。
ロシアとの樺太問題交渉(クシュンコタン放火事件の善後処置と日露国境画定)では「前議の御決定」=副島時代の既定路線を踏襲しなければ、「旧参議にたいし御申し訳あるまじ」と述べる。
*
27日、大久保は岩倉に宛てて、帰国中の駐英特命全権公使寺島宗則が副島の後任外務卿に就任すれば「樺太事件御評議肝要」だが、「是非前議の通りならでは、小子においては全く信義を失い」と政策継続の必要を力説。
翌28日にも、「樺太混雑裁判の事および境界談判の事、いずく迄も前議の御決定にもとらざるよう確定」すべきであり、「此の条間違いあらば、旧参議にたいし御申し訳あるまじ、小臣においては決して朝に立つことを得ず」と重ねて念を押す。
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10月28日
・1873年金融恐慌、ドイツに波及。ベルリン証券取引所、空前の大暴落。
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10月下旬
・~12月上旬、マルクス(55)、グンベルトの診察を受け一切の仕事を禁じられる。
ハロウゲイトで療養。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2010年12月27日月曜日
明治6年(1873)10月21日~24日 明治6年10月政変(大久保のクーデタ)なる [一葉1歳]
明治6年(1873)10月21日
・捕縛必至と言われている前大蔵大輔井上馨、横浜から大阪に向う。
*
10月21日
・この日付け「木戸日記」に、「博文また号泣数刻」とある。
この頃の工作は、岩倉・大久保・黒田・吉井友実らが極秘に進め、伊藤のもとには正確な情報が入ってこない。
この日、伊藤は、岩倉が西郷らを支持するらしいと木戸に伝えている。
岩倉・大久保は、木戸らにも企図を秘匿している。
*
10月22日
・岩倉を太政大臣代理とする閣議。
西郷・板垣・江藤・副島4参議、岩倉に15日の閣議決定の上奏迫る。
岩倉は、三条と自分は別人なので自分の思うようにする(閣議決定に拘束されない)、閣議決定の上奏とともに自説を添える、と発言。
*
岩倉の露骨な違法・越権に対して、4参議は抗議辞職か天皇直訴しか道はなくなる(岩倉は宮内卿兼侍従長徳大寺実則に直訴阻止を手配)。
*
大久保は岩倉に「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ候事」といい含め、
岩倉=大久保が成しとげた王政復古クーデタで「基本を開」いた政権を、それに参画していない三条・木戸・板垣・大隈・副島・江藤らに渡しておけない、と叱咤。
反対派一掃のためには、西郷の巻き添えも止む無しの決意。
黒田は、大久保に西郷を罠にかけた良心の呵責をを感じる悲痛な反省を告白。黒田は、西郷に対して「恥じ入」り「謝し候様これなく」お詫びの言葉もない、「面皮もこれなく」と悩む。
*
大久保の岩倉宛て手紙
「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ侯事」といい含めら、
「つらつら往事を回憶すれば、丁卯の冬、御憤発(王政復古クーデタ)一臂(イツピ)の御力を以て基本を開かせられ、終に今日に立ち至り侯ところ、豈図らんや此の如き難を生じ、偶然〔太政大臣代理の〕御責任に帰し候も、畢竟、天賦というべし
…‥実に御太儀ながら御負担下され候様」。
*
大久保の真のねらいは、征韓阻止でなく、西郷を巻添えにしてでも反対派を政府から追放すること。 *
岩倉の大久保宛て書簡。
「是非進退を致すの人々これ有り、世上物議も少からず」と辞職者が出ることを覚悟し、
動揺を防ぐために「速に政体改革有無、何とか演舌然るべく」、
「人選御登用の事も迅速の方人心大に定まり」と、
大久保に官制改革の準備を急ぐよう申し渡す。
*
大久保に激励された岩倉は、
四参議の要請(「太政官職制」遵守して、閣議決定を上奏する)を断わり、
三条と自分とは別人だから自分の思いどおりにする(閣議決定に拘束されない)と主張。
江藤は、代理者(岩倉)は原任者(三条)の意思に従って事を運ぶべきであると法理論を説明するが、岩倉はこれを聞かず。
*
明治7年1月9日、鹿児島で西郷に会った旧庄内藩士酒井玄蕃の談話筆記。
「岩倉が申すには、畢竟、見込み違いの事にこれあり、〔三条・岩倉〕双方〔の見解を〕共に具(ツブ)さに〔天皇に〕奏聞に及び、何分にも宸断次第に仕るべくと申す事に侯あいだ、
〔西郷が岩倉に尋ねて〕夫は如何に〔天皇に〕仰せ上げ候や、
三条が見込を個様々々、私(岩倉)の見込は個様々々、然して三条の見込は天下のため然るべからず、私の見込は天下のため然るべしと仰せ上げられ侯やと申し候ところ、
〔岩倉は〕如何にも其の通りと申され侯あいだ、
さ侯わは私(西郷)は退き申すべしと、夫で事分かれと相成り侯」
*
黒田清隆の大久保宛ての手紙。
「今日に立ち至り、退いて篤と我が心事追懐つかまつり候に、
大いに西郷君へ対し恥じ入る次第、
……西君(西郷)とはかねて死は一緒と、
また従来恩義もあり、
旁(カタガタ)我が心を向えは面皮もこれなく、止むを得ざるの策とは申しながら、如何して同氏へ謝し候様これなく恐れ入るのみにて……」
*
10月23日
・岩倉太政大臣代理、西郷派遣決定を上奏。
但し、もし使節に万が一のことがあれば、後事が続かないので、不可とすべきと信ずる、と代理としての個人的意見を奏陳。
*
欧米歴訪によって、条約改正による国権の回復が「意料の外」困難であって、「功を-朝-夕」に奏しえないと痛感した、
したがって「成功を永遠に期し、驟進速成を求むるなく、大にこれが目的を定め、不動不撓政治これ理し、民力これ厚からしめ、以て其の実効を立て其の実力を用い以て国権を復」すことが肝要である、
維新以来日浅い今、「軽く外事を図る」べきではない、いわんや朝鮮に「使を発するの日、乃(スナア)ち戦を決するの日」であり採るべきではない。
「船艦の設け、兵食の具、銭貨の備へ及び内政百般の調理等に至る迄、予め其の順序目的を定め、而(シカ)る後に朝使を発遣するも未だ晩(オソシ)とせざるなり。
若しこれが備へをなさず、今頓(ニワカ)に一使節を発し万一の事ありて後、事継がず、而(シコウ)して更に他の忠害にかかるあらば、悔ゆといえども追うべからざるなり、
故に之が備をなさず今頓に使節を発するは、臣その不可を信ず」
と、自己の見解を提示して、
「臣その不可を信ず」と、閣議決定の不裁可を進言。
*
10月23日
・西郷隆盛、勅裁を待たず参議・近衛都督・陸軍大臣辞表を提出、東京郊外に身を隠す
(「胸痛の煩いこれあり、とても奉職罷り在り候儀相叶わず」)。
この時点では未だ西郷派遣の天皇裁可は出ていない。辞表は岩倉の違法行為への抗議辞任。
この日、西郷側近陸軍少将桐野利秋、辞表提出。
陸軍少将篠原国幹はじめ、29日迄に46人辞表提出。
*
反対派の一斉退陣を期待していた大久保は黒田清隆に書簡を送る。
「辞表は今日西郷一人差出し相成りたる由に御座候、実に意外」と、「一の秘策」の真の狙いを告白。
*
10月24日
・岩倉太政大臣代理、大久保の献策を受けて、西郷の陸軍大臣(本官)の辞表却下。兼官の参議・近衛都督辞表は受理。
本官はそのままなので、形式的には西郷の地位に変動はない(大久保の配慮)。
板垣・江藤の辞表提出を誘い出すために、西郷の兼官の辞表受理を急ぐ。
*
10月24日
・天皇、「国政を整え民力を養ひ・・・」勅語。岩倉の奏聞を「これを嘉納する」と裁可。
閣議決定は覆され、朝鮮への使節派遣は無期延期となる。
*
「衆庶同心協力、漸(ヨウヤ)く全国一致の治体に至る。ここに於て国政を整へ民力を養ひ、勉めて成功を永遠に期すべし。今汝具視が奏状、これを嘉納す」
*
・明治6年10月政変(大久保のクーデタ)
(土佐系)板垣退助・後藤象二郎、(肥前系)江藤新平・副島種臣、下野。25日に辞表受理。
*
長州汚職閥(木戸=伊藤)の勝利(山城屋和助・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直など)。大久保は盟友西郷を失う。
*
閣議で西郷を支持した板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の四参議は辞表提出。
(太政大臣代理の違法行為を合法的にチェックできず、連袂辞職によって反省を求める)。
閣議で西郷使節派遣に同意しながら大隈重信、大木喬任両参議は、辞表提出せず。
*
板垣以下四参議の辞表は翌25日に速やかに受理される。
この速やかさに、反対派追放という大久保の「一の秘策」の狙いが現われている。
*
大久保の辞表は却下される。
*
閣僚の補充にあたり、岩倉・大久保は、参議省卿兼任制を打ち出す。
(大隈は大蔵卿を、大木は司法卿を兼任。参議兼工部卿に工部大輔伊藤博文を、参議兼海軍卿に海軍大輔勝安芳を、参議兼外務卿に特命全権公使寺島宗則を任命)
24 ・「大久保政権=有司専制」。閣議、参議・各省長官(卿)兼任決議。大隈大蔵・大木司法・伊藤工部・寺島外務・勝海軍卿。
*
11月21日、大久保は、堺県令税所篤の問合せに答えて、政変をめぐる事情を説明。
政変に至る対立を囲碁に譬えれば、「此の上は盤上一盃に敗を取り侯か、また勝を取り候か、投げさせるか投げるかの二つ」に一つの闘いであったとし、
「畢竟、此の災難は期したる事にて、それゆえ千思万慮、実に肝胆を砕き、容易に進退致さず候えども、止むをえざる機会と相成り、舞台懸りに出懸け候ところ、
果して一幕終らずに舞台が崩れ、勧進元の大損に相成り侯」。
*
25日付け伊藤の木戸宛て手紙。
岩倉・大久保から後任参議の人事について相談されたが、
「人選論は頗る困窮……真に閉口」、
しかし「司法丈けの処は……大久保より相談に及ばれ侯につき、図らず吐露仕り候」と伝える。
伊藤らの最大の関心事は司法省人事。
*
翌26日付の岩倉から木戸に宛てた書簡。
大久保・伊藤と後任参議の人事について相談したところ、
「ただ司法卿のところ三人見込相異り、小生決を取り候様との事につき、小生大木に決し」と記す。
司法卿後任問題が最も論議のまとになり、三者の意見が食い違い、岩倉の判断で大木喬任を推薦することになる。
*
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・捕縛必至と言われている前大蔵大輔井上馨、横浜から大阪に向う。
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10月21日
・この日付け「木戸日記」に、「博文また号泣数刻」とある。
この頃の工作は、岩倉・大久保・黒田・吉井友実らが極秘に進め、伊藤のもとには正確な情報が入ってこない。
この日、伊藤は、岩倉が西郷らを支持するらしいと木戸に伝えている。
岩倉・大久保は、木戸らにも企図を秘匿している。
*
10月22日
・岩倉を太政大臣代理とする閣議。
西郷・板垣・江藤・副島4参議、岩倉に15日の閣議決定の上奏迫る。
岩倉は、三条と自分は別人なので自分の思うようにする(閣議決定に拘束されない)、閣議決定の上奏とともに自説を添える、と発言。
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岩倉の露骨な違法・越権に対して、4参議は抗議辞職か天皇直訴しか道はなくなる(岩倉は宮内卿兼侍従長徳大寺実則に直訴阻止を手配)。
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大久保は岩倉に「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ候事」といい含め、
岩倉=大久保が成しとげた王政復古クーデタで「基本を開」いた政権を、それに参画していない三条・木戸・板垣・大隈・副島・江藤らに渡しておけない、と叱咤。
反対派一掃のためには、西郷の巻き添えも止む無しの決意。
黒田は、大久保に西郷を罠にかけた良心の呵責をを感じる悲痛な反省を告白。黒田は、西郷に対して「恥じ入」り「謝し候様これなく」お詫びの言葉もない、「面皮もこれなく」と悩む。
*
大久保の岩倉宛て手紙
「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ侯事」といい含めら、
「つらつら往事を回憶すれば、丁卯の冬、御憤発(王政復古クーデタ)一臂(イツピ)の御力を以て基本を開かせられ、終に今日に立ち至り侯ところ、豈図らんや此の如き難を生じ、偶然〔太政大臣代理の〕御責任に帰し候も、畢竟、天賦というべし
…‥実に御太儀ながら御負担下され候様」。
*
大久保の真のねらいは、征韓阻止でなく、西郷を巻添えにしてでも反対派を政府から追放すること。 *
岩倉の大久保宛て書簡。
「是非進退を致すの人々これ有り、世上物議も少からず」と辞職者が出ることを覚悟し、
動揺を防ぐために「速に政体改革有無、何とか演舌然るべく」、
「人選御登用の事も迅速の方人心大に定まり」と、
大久保に官制改革の準備を急ぐよう申し渡す。
*
大久保に激励された岩倉は、
四参議の要請(「太政官職制」遵守して、閣議決定を上奏する)を断わり、
三条と自分とは別人だから自分の思いどおりにする(閣議決定に拘束されない)と主張。
江藤は、代理者(岩倉)は原任者(三条)の意思に従って事を運ぶべきであると法理論を説明するが、岩倉はこれを聞かず。
*
明治7年1月9日、鹿児島で西郷に会った旧庄内藩士酒井玄蕃の談話筆記。
「岩倉が申すには、畢竟、見込み違いの事にこれあり、〔三条・岩倉〕双方〔の見解を〕共に具(ツブ)さに〔天皇に〕奏聞に及び、何分にも宸断次第に仕るべくと申す事に侯あいだ、
〔西郷が岩倉に尋ねて〕夫は如何に〔天皇に〕仰せ上げ候や、
三条が見込を個様々々、私(岩倉)の見込は個様々々、然して三条の見込は天下のため然るべからず、私の見込は天下のため然るべしと仰せ上げられ侯やと申し候ところ、
〔岩倉は〕如何にも其の通りと申され侯あいだ、
さ侯わは私(西郷)は退き申すべしと、夫で事分かれと相成り侯」
*
黒田清隆の大久保宛ての手紙。
「今日に立ち至り、退いて篤と我が心事追懐つかまつり候に、
大いに西郷君へ対し恥じ入る次第、
……西君(西郷)とはかねて死は一緒と、
また従来恩義もあり、
旁(カタガタ)我が心を向えは面皮もこれなく、止むを得ざるの策とは申しながら、如何して同氏へ謝し候様これなく恐れ入るのみにて……」
*
10月23日
・岩倉太政大臣代理、西郷派遣決定を上奏。
但し、もし使節に万が一のことがあれば、後事が続かないので、不可とすべきと信ずる、と代理としての個人的意見を奏陳。
*
欧米歴訪によって、条約改正による国権の回復が「意料の外」困難であって、「功を-朝-夕」に奏しえないと痛感した、
したがって「成功を永遠に期し、驟進速成を求むるなく、大にこれが目的を定め、不動不撓政治これ理し、民力これ厚からしめ、以て其の実効を立て其の実力を用い以て国権を復」すことが肝要である、
維新以来日浅い今、「軽く外事を図る」べきではない、いわんや朝鮮に「使を発するの日、乃(スナア)ち戦を決するの日」であり採るべきではない。
「船艦の設け、兵食の具、銭貨の備へ及び内政百般の調理等に至る迄、予め其の順序目的を定め、而(シカ)る後に朝使を発遣するも未だ晩(オソシ)とせざるなり。
若しこれが備へをなさず、今頓(ニワカ)に一使節を発し万一の事ありて後、事継がず、而(シコウ)して更に他の忠害にかかるあらば、悔ゆといえども追うべからざるなり、
故に之が備をなさず今頓に使節を発するは、臣その不可を信ず」
と、自己の見解を提示して、
「臣その不可を信ず」と、閣議決定の不裁可を進言。
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10月23日
・西郷隆盛、勅裁を待たず参議・近衛都督・陸軍大臣辞表を提出、東京郊外に身を隠す
(「胸痛の煩いこれあり、とても奉職罷り在り候儀相叶わず」)。
この時点では未だ西郷派遣の天皇裁可は出ていない。辞表は岩倉の違法行為への抗議辞任。
この日、西郷側近陸軍少将桐野利秋、辞表提出。
陸軍少将篠原国幹はじめ、29日迄に46人辞表提出。
*
反対派の一斉退陣を期待していた大久保は黒田清隆に書簡を送る。
「辞表は今日西郷一人差出し相成りたる由に御座候、実に意外」と、「一の秘策」の真の狙いを告白。
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10月24日
・岩倉太政大臣代理、大久保の献策を受けて、西郷の陸軍大臣(本官)の辞表却下。兼官の参議・近衛都督辞表は受理。
本官はそのままなので、形式的には西郷の地位に変動はない(大久保の配慮)。
板垣・江藤の辞表提出を誘い出すために、西郷の兼官の辞表受理を急ぐ。
*
10月24日
・天皇、「国政を整え民力を養ひ・・・」勅語。岩倉の奏聞を「これを嘉納する」と裁可。
閣議決定は覆され、朝鮮への使節派遣は無期延期となる。
*
「衆庶同心協力、漸(ヨウヤ)く全国一致の治体に至る。ここに於て国政を整へ民力を養ひ、勉めて成功を永遠に期すべし。今汝具視が奏状、これを嘉納す」
*
・明治6年10月政変(大久保のクーデタ)
(土佐系)板垣退助・後藤象二郎、(肥前系)江藤新平・副島種臣、下野。25日に辞表受理。
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長州汚職閥(木戸=伊藤)の勝利(山城屋和助・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直など)。大久保は盟友西郷を失う。
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閣議で西郷を支持した板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の四参議は辞表提出。
(太政大臣代理の違法行為を合法的にチェックできず、連袂辞職によって反省を求める)。
閣議で西郷使節派遣に同意しながら大隈重信、大木喬任両参議は、辞表提出せず。
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板垣以下四参議の辞表は翌25日に速やかに受理される。
この速やかさに、反対派追放という大久保の「一の秘策」の狙いが現われている。
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大久保の辞表は却下される。
*
閣僚の補充にあたり、岩倉・大久保は、参議省卿兼任制を打ち出す。
(大隈は大蔵卿を、大木は司法卿を兼任。参議兼工部卿に工部大輔伊藤博文を、参議兼海軍卿に海軍大輔勝安芳を、参議兼外務卿に特命全権公使寺島宗則を任命)
24 ・「大久保政権=有司専制」。閣議、参議・各省長官(卿)兼任決議。大隈大蔵・大木司法・伊藤工部・寺島外務・勝海軍卿。
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11月21日、大久保は、堺県令税所篤の問合せに答えて、政変をめぐる事情を説明。
政変に至る対立を囲碁に譬えれば、「此の上は盤上一盃に敗を取り侯か、また勝を取り候か、投げさせるか投げるかの二つ」に一つの闘いであったとし、
「畢竟、此の災難は期したる事にて、それゆえ千思万慮、実に肝胆を砕き、容易に進退致さず候えども、止むをえざる機会と相成り、舞台懸りに出懸け候ところ、
果して一幕終らずに舞台が崩れ、勧進元の大損に相成り侯」。
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25日付け伊藤の木戸宛て手紙。
岩倉・大久保から後任参議の人事について相談されたが、
「人選論は頗る困窮……真に閉口」、
しかし「司法丈けの処は……大久保より相談に及ばれ侯につき、図らず吐露仕り候」と伝える。
伊藤らの最大の関心事は司法省人事。
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翌26日付の岩倉から木戸に宛てた書簡。
大久保・伊藤と後任参議の人事について相談したところ、
「ただ司法卿のところ三人見込相異り、小生決を取り候様との事につき、小生大木に決し」と記す。
司法卿後任問題が最も論議のまとになり、三者の意見が食い違い、岩倉の判断で大木喬任を推薦することになる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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