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2015年11月20日金曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(21) 「11 また見る真間の桜」 (その1) : 《三時過岩波書店編輯局員佐藤佐太郎氏来り軍部よりの注文あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙著腕くらべ五千部印行の承諾を得たしと言ふ。政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何等の滑稽ぞや。》(『断腸亭日乗』昭和19年9月2日)

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 戦争によって狂気に追い込まれたのは、軍人や一部の官僚とその手先ばかりにかぎらない。頭髪を坊主刈りにして、国民服に戦闘帽、脚にはゲートルを巻いていたような文学者が、独善的な愛国の名のもとにどんなものを書き、時流に同じない文学者をどんな眼でみたか。おなじ文学者のなかから摘発者まで出現するに至ったという一事だけを以てしても、昭和十年代は日本文化史上の恥部といわねばならぬ年代であった。大陸開拓文芸懇話会、海洋文学協会、経国文芸の会、国防文芸連盟、文芸銃後運動、そして、文士の勤労奉仕、ミソギと書きつらぬれば、戦時中には沈黙をまもる - なにも発表しないという、ただそれだけの行為すらひとつの抵抗であったという意味も、ある程度まで理解されるのではなかろうか。

 なるほど、荷風もまた戦局がかなり深まった時点で小品文『枯葉の記』や、『雪の日』などを発表している。のちに『勲章』と改題した『軍服』を中央公論社長の嶋中雄作に郵送したり、音楽映画台本『左手の曲』になんとか陽の目を浴びさせようと努力もしている。したがって、『浮沈』、『踊子』、『来訪者』、『問はずがたり』なども、北原武夫の『荷風を読む』(『文学論集』所収)にならって、《強いられた沈黙時代》の諸作とみるべきであるかもしれない。

 が、もし発表ということのほうに重心がおかれていたら、『浮沈』は兎も角として、『踊子』や『来訪者』や『問ずがたり』などは、はたして執筆されていただろうか。すくなくとも『踊子』には着手されていなかっただろうし、『来訪者』の後半部なども現在のこされているかたちのものとは別の展開をしていたことだろう。検閲のきびしかった戦時中という時代背景を考慮に入れるとき、『浮沈』以下の諸作は発表を断念した上での制作-沈黙を前提とした諸作であったと考えられる。

 前章にもいちど引いたが、《戦乱の世に生を偸む悲しみを述ぶるには詩篇の体を取るがよし》と想到した荷風が《散文にてあらはに之を述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。》と『断腸亭日乗』に記したのは、まだ太平洋戦争の開戦に至らぬ昭和十五年十月二十四日のことであった。時代が荷風に沈黙を強いたことは否めないが、『浮沈』以下の諸作は沈黙のなかで彼が精いっぱい時代の体制に抵抗したすがたを示している。敗戦直後に荷風ブームと呼ぶほかはない現象が招来されたのも、戦時中における彼のそうした姿勢に対する喝采の顕現にほかならない。誤解をおそれずにいえば、そこには十八年の投獄生活にたえて出所した徳田球一、志賀義雄におくられた相手に通じるものがあった。

 戦時中の言論・思想統制という狭窄衣を着せられたような状態に、国民はどれほどウンザリしていたか。それが明らかになったのは敗戦後になってからのことだが、すでにその徴候は戦争末期から胎動していた。昭和十五年から十六年にかけて荷風の旧作が次から次へと重版されたばかりか、全集刊行の許諾を彼にもとめた出版社すら三社にのぼったことについても前章でみておいたが、十九年九月二十日の『日乗』には次のような記述がある。

 《三時過岩波書店編輯局員佐藤佐太郎氏来り軍部よりの注文あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙著腕くらべ五千部印行の承諾を得たしと言ふ。政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何等の滑稽ぞや。》

 そして、敗戦の年 - 昭和二十年をむかえると、情勢はさらに変化する。二月二十三日の記述をみよう。

 《晴 午後床屋に行きて帰るに木戸氏来りて待ちゐたり。其友人中出版業をなす者あり。最近検閲局の検閲も稍寛大になりたれば余の近作来訪者踊子など上梓したまはずや言へり。》

 ここに《木戸氏》とあるのは熱海大洋ホテル主人の木戸正で、彼は戦時中さまざまな食料品を荷風におくった代償として新作原稿に眼を通す機会をあたえられていた。《来訪者踊子など上梓したまはずや》というような言葉が木戸の口から出たゆえんで、《其友人中出版業をなす者》とあるのは筑摩書房社長で今は故人となった古田晁である。また、敗戦直後に疎開先の岡山から引揚げた荷風がしばらく滞在した熱海市和田浜南区一三七四番地の家屋は、木戸の経営していた旅館が休業中のため空家となっていたのを荷風の従弟=杵屋五叟一家が借り受けていた関係で、そこへ又借りのようなかたちで寄寓したものであった。

 が、それにしても、《最近検閲局の検閲も稍寛大になりたれば》という一節には、戦時中すなわち暗黒時代というイメージをもつ戦後世代には理解しがたいものがあるのではなかろうか。すくなくとも、常識的にはその種の疑問をもつことのほうが当然だが、たまたま私自身が接触をもったせまい体験の範囲にかぎっても、この記述この記述にみられるような傾向はそのすこし以前から実際に生じていた。朝令暮改を反復した戦時中の為政者の無定見ぶりの一端が、そんなところにも馬脚をあらわしている。

 昭和十六年六月二十八日から現在の「東京新聞」の前身である「都新聞」に連載された徳田秋声の『縮図』が、情報局の干渉によって八十回で中絶に追いこまれたのは同年九月十五日のことで、その初版が出版されたのは敗戦後の二十一年七月だが、実は戦時中にも少部数ならという条件つきの許可が出て、いちど出版のはこびに至った。出版社は小山書店で、用紙も入手し、印刷も完了した段階で神田の製本屋が戦火に遭ったため、小山久二郎社長の手元に見本がただ一部のこっただけで灰燼に帰してしまったというのが実情なのだが、当時の出版は許可制のために日本出版会という機関へ企画届という書類をそえて原稿を提出するように義務づけられていた。その原稿として提出されたのか今も私の所蔵している「都新聞」の切抜きで、私が秋声の長男である徳田一穂から望まれてその切抜きを提出用に提供したのは海軍に応召した直前のことである。そして、その召集を私が受けたのは、佐藤佐太郎が《腕くらべ五千部印行の承諾を得》るために偏奇館を訪問した十九年九月二十日に六日先立つ同月十四日であったから、いちど新聞連載を禁じられた未完の『縮図』に出版の望みが生じた ー 荷風の表現にしたがえば《検閲局の検閲も稍寛大》になったのは十九年九月十四日よりほんのすこし以前ということになる。なぜ、ほんのすこしなどというかといえば、中央公論社と改造社が解散に追いこまれたのが同年七月のことだったからで、七月ごろにはまだ《寛大》ではなかったと考えられるからである。もっとも、思想問題と風俗問題とは別で、秋声と荷風のばあいが後者であったことはいうまでもない。

 荷風が木戸正のすすめに応じる気になったのには、関係の深かった中央公論社が解散してしまっていたということもあったろう。木戸の訪問を受けた翌々日に相当する二月二十五日の夜半に、東京が空襲を受けていたこととも無関係ではなかったかもしれない。三月六日の「日乗』には、《午下木戸氏来り話す。》とあって、さらにその二日後の八日には神田へ用事で出かけた帰途、赤坂福吉町の河野書店へ立ち寄ったところ正月に閉店して近日浦和へ転居するつもりだといわれたという記述がみられ、そのあとに次のように書かれている。

 《家にかへるに木戸氏筑摩書房主人を伴ひ来り話す、小説来訪者の草稿を交附す、》

 「偏奇館焼亡」がその翌日の夜半-正確には三月十日の払暁であったことについても、すでに記しておいた。林茂は『太平洋戦争』(中央公論社版「日本の歴史」)に《このときの死者七万二千、消失家屋十八万余棟、三十七万二千世帯約百万人が焼け出された。》としている。そんな状況のなかでも、というよりそんな非人間的な状況であったからこそ、荷風の人間くさい著書の出版はもとめられていたのである。敗戦直後の荷風ブームは、むしろ当然の帰結であった。
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2015年10月26日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(20) 「10 人の命のあるかぎり」 (その2終) : 《午睡一刻覚めて後今春四月頃筆とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ。このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり。》(『断腸亭日乗』昭和19年10月14日)

 十八年に入ると九月二十五日には《一昨年執筆せし為永春水論》が訂正され、十一月十八日には音楽映画台本『左手の曲』が浄写されて、同月二十一日には小品文『枯葉の記』が草され、十二月三日に書きはじめた『雪の日』を九日に脱稿しているが、『枯葉の記』と『雪の日』は用紙割当て制の影響で廃刊寸前にあった籾山梓月主宰の俳諧誌「不易」に辛うじて掲載され、『左手の曲』は《其筋の検閲を受け不許可》という理由で十九年二月十二日に川尻清潭から返送された。また、『為永春水』は戦後になってから「人間」に発表されたが、いずれも反戦または抗戦的な内容のものではなかったから、戦意昂揚に役立たぬ不急不要の文字とみなされた結果に相違ない。

 ・・・。荷風ほどの大家までが発表慾の一念から小品文や映画台本を埋もれさせまいと当時の時代相からいえば悪あがきにもひとしい努力をしているありさまには、涙ぐましいものがある。

 つづいて書かれたのが『踊子』で、十七年四月十五日の条に《机の曳出しを整理す小説戯曲の腹案を識せしもの二三種あり。その中にて稍採るべきもの備忘のためこゝに写し置く事とす。》として《小説筋書》なるものが掲げられている。浅草の楽士とその妹ならびに兄の愛人である踊子のかかわりを追うものであったらしく、構想も人物もちがっているものの、あるいはそれなどが『踊子』腹案の最初の試行錯誤の跡をしめすものであるかもしれない。

 そして、前記の『枯葉の記』と『雪の日』執筆の中間に相当する十八年十一月二十五日の記載中《枕頭の手帳に小説の腹案を書留む。盖(ケダシ)備忘のためなり。》とみえ、三日後の二十八日に《燈下小説起稿。》と記されているのが、その第一着手と受け取れる。そのあとには十二月十四日の条に《晡下浅草に至りオペラ館楽屋に憩ふ。蹄子山井晴代といふ女小説をかきましたから直して下さいとて草稿を示す。》として《小説踊子の一節》なるものが掲げられているが、これはこんにちわれわれがみる『踊子』には採用されていない。これ以外、年内には執筆に関する記述はみとめられない。

 十九年に移って《夜小説執筆。》と最初にあるのは一月八日だが、はじめはやや難航の気味で、十二日には《終日机に憑りしが小説筆すゝまず。》とあったのち風邪をひき、二十三日に至って、《十七日より殆一週間門を出でず。小説踊子筆稍進む。》と記される。が、いちど調子の波にのれば、墨客または趣味人というわれわれのイメージにもかかわらず、荷風の筆は早い。

 二十八日には《終日小説執筆。》、二十九日には《燈下小説執筆。その傍フローベルのマダムボワリーを再読す。盖し其手法文章を窺ひ参考にせむと欲するなり。》とあって二月をむかえる。そして、一日には《連日小説執筆。》、二日には《小説踊子の草稿大半筆にするを得たり。晩四時寝に就く》、五日には《立春。終日執筆》とあって、十一日《燈下小説踊子の稿を脱す。添刪暁の四時に至る。数年来浅草公園六区を背景として一編を草せんと思居(ママ)ひゐたりし宿望、今夜始めて遂ぐるを得たり。欣喜擱くべが(ママ)す》ということになる。

 これほど荷風が自己の作品完成に手ばなしでよろこびを顕わしている文章はめずらしいから、よほど長いあいだ気にかかっていたのだろう。そう思って詠むと、六年も以前の十三年三月八日の『日乗』に《浅草公園を背景となす小説の腹案相成れるが如き心地す。》とある記述も、それが『おもかげ』脱稿直後のものであるだけに、『踊子』と無関係ではないように思われる。また、《欣喜擱く》べからざるものがあったのは、筆を取り上げられたにひとしい暗い時代背景の前においてみるとき、いっそう実感をおぼえさせられる。

 そのよろこびの余熱が、とどまっていたせいだろうか。脱稿から六日後にあたる二月十七日の『日乗』に《連日家に在り。小説踊子浄写。》と記している荷風は、それからわずか二日後の十九日に《小説二人の客起稿。深更台所に氷を見る。今春第一の寒気なるべし。》と書きとめている。十八年五月十三日と十九年六月二十九日に路上へ積みおかれた配給用の炭俵から木炭を盗んでいる荷風は、冬のあいだ《炭を惜しむがため正午になるを待ち起き出で》(十八年一月一日)るような日常をすごしていたのだから、《今春第一の寒気》のなかで書きはじめたこと自体、よほどおさえがたいものがあったことを表わしている。『二人の客』はのちの『来訪者』で四月四日に擱筆しているから、所要日数は五十日弱で、モデルが平井呈一と猪場毅であることはすでに前述した。

(*『二人の客』の顛末始め)
 二人はともに佐藤春夫の紹介で偏奇館へ出入りするようになったが、『日乗』十四年六月十九日の記述によれば、猪場の《先考は号を晹谷といひたる書家にしてまた篆刻をよくしたり。》ということだし、平井は上野の名高い和菓子店うさぎ屋の店主=谷口喜作(怙寂子)の実弟で、谷口は青木書店から出版された岡本かの子の『巴里祭』その他に題簽(ダイセン)を揮毫しているほどの趣味人であったから、ともに出自にはいやしからぬものがあった。特に荷風は江戸文化や古書に精通していて能筆であったばかりか多くの翻訳もある平井には眼をかけて、十三年六月十一日には《断腸亭日記筆写副本をつくる事を依頼し、初の二冊を交附》したあと、すぐまた二十二日にも《日記三巻四巻を交附》し、十四年三月十一日にも《断膓(ママ)亭尺牘及日(ママ)かげの花草稿を交附》している。そして、同年七月四日には平井から寄せられた書簡の『ひかげの花』に対するオマージュの部分を『日乗』に筆写して《これ亦知己の言。感謝すべし。》と記し、同月十四日には《晡時平井君来話。余の旧作ひかげの花一篇を浄書して示さる。》というような交際をつづけていた。

 誰に対しても心を許したことがないとみられる荷風としては、ほとんど信じがたいまでに警戒心を解いて近づけているから、二人はよほど巧妙に取り入ったものと想像するほかはない。猪場からは彼がそこに勤めていた関係もあって冨山房百科文庫版『下谷叢話』出版の斡旋を受け、平井には岩波書店の企画した「荷風全集」の交渉をまかせているばかりか、岩波文庫版『雪解』の解説まで執筆させているほどだが、十四年の秋ごろからそうした信頼関係もついえていく。『日乗」によって、記述の一、二をみておこう。

 《本郷春木町三番地西田利一といふ人より猪場毅に関して中傷の文句を連ねし葉書を送り来れり。思ふに猪場は余の偽筆短冊及原稿を作りて売りしものなるべし。油断のならぬ世の中なり。》(十月七日)

 《過日西田某の送り来りし葉書の件(短冊原稿高価にて売るといふ事件)に付直接西田に宛返書を出したり。過日平井氏のはなしによれば平井氏余の偽筆をつくり短冊色紙の外小説原稿紫陽花其他を猪場に委託し猪場の手にて金にしたるなりと云ふ。猪場の人物につきては余既に某氏より注意せられしことありしが果してその通りなりき。平井はまさかと思ひ居たりしがこの人も余に何の断りもなく原稿の偽筆をつくりて売るが如き事を敢てするを見れば猪場氏と変りはなし。》(十月十五日)

 この当時すでに平井は千葉県安房郡富崎村布良に移住し、猪場は市川真間手古奈堂境内に居住していたことまで『来訪者』には写し取られているので、事件としての経過は作品にゆだねて事実関係のみを追えば、《猪場の許に絶交の返書を郵送す。》とあるのは十五年七月七日で、平井との交渉はその後もつづき、以下の記述がみとめられるのは十六年十二月二十日だから、事件発覚以来二年余が経過しているわけである。

 《夜平井程(ママ)一氏来訪。過日余が方より手紙を其居房州布良に出せしところ返書なき故其親戚なる上野の菓子商うさぎ屋方へ電話にて問合せしことありき。然るに同氏はいつの頃よりか本所石原町辺に僦居する由。但し番地は明言せず。奇怪千万と謂ふべし。この頃坊間の古本屋に余が草稿浄写本短冊色紙また書画の偽物折々発見せらるゝ由なれど、右は大抵この平井とその友人猪場毅二人の為すところ、実に嫌悪すべき人物なり。平井は去年中岩波書店及び中央公論社にて余が全集刊行の相談ありし時余が著作物の整理及全集編纂を依頼したるを以て相応の利益をも得たるに係らず窃に偽書偽筆本をつくりて不正の利を貪りつゝあるなり。今日までに余の探知するもの××四畳半襖の下張、短篇小説紫陽花、日かげの花、濹東綺譚其他なり。これ等は皆余が自筆の草稿の如くに見せかけ幾種類もつくり置き、好事家へ高く売りつけるなり。平井との交遊もまづ今日が最後なるべし。余一昨年頃までは文学上の後事を委詫(ママ)することもできる人の如くに思ひ大に信用せしが全く誤なりき。余年六十三になりて猶人物を見るの明なし。歎す(ママ)べく耻づべき事なり。》
(*『二人の客』の顛末終り)

 のちに『来訪者』と改題された『二人の客』が脱稿された十九年四月四日から二十日とも経過していない同月二十二日に、荷風は《燈下新にまた短篇小説の稿を起》したのにもかかわらず、五月十八日には《腹候佳ならず。執筆興なし。》、六月十日には《腹候佳ならず疲労甚し。読書執筆共に興なし。》と記して、さらにしばらくの空白期間をおいたのち、十月十四日に《午睡一刻覚めて後今春四月頃筆とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ。このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり。》とあって、十一月十日に《食後ひとりごと続篇の稿を脱す。》、同月十三日に《小説ひとりこど(ママ)正続とも校訂浄写。》ということになる。

 すなわち、『夢の夢」はこの段階で『ひとりごと』と改題されているが、さらに戦後に至って『問はずがたり』となった。なお、現行の『問はずがたり』文末には《上巻昭和十九年十二月脱稿》、《下巻昭和二十年十一月脱稿》と記されてあり、本文も《上の巻》、《下の巻》と二分されているが、作品の序文に《あくる年の冬熱海にさすらひける頃後半を改竄して増補するところあり。》と記されていることによっても明らかなように、十九年十一月に全篇を完結しているわけではない。内容的にも戦後になってからの事柄が書き足されている。その点が、おなじく戦時中に執筆して戦後発表された『勲章』、『浮沈』、『踊子』、『来訪者』などと相違している。

 こうして荷風は昭和二十年をむかえるが、三月十日払暁には大正九年五月に竣工した麻布市兵衛町の偏奇館を空襲によって焼かれ、いったん従弟(父=久一郎の五弟=大嶋久満次の長男)の杵屋五叟こと大嶋一雄方に避難ののち、四月十五日に中野区住吉町二十三番地にあった菅原明朗居住の国際文化アパートに空室が出来たのを機に移ると、五月二十五日の空襲で再度罹災し、菅原夫妻とともに明朗の郷里である明石を経て、岡山までながれていくこととなったが、そこでもさらに宿泊中の松月旅館が焼亡するという不運にみまわれて、岡山市内で敗戦の日をむかえた。

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2015年10月5日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(19) 「10 人の命のあるかぎり」 (その1) : 《正月一日 旧十二月四日 ・・・去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく・・・。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とても之を束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。》 (『断腸亭日乗』)     

萩 2015-09-28 鎌倉
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10 人の命のあるかぎり

 私は『おもかげ』を《よくまとまった好短篇》だといったが、すぐれた文学作品だとはおもわない。
 ・・・『おもかげ』では運転手豊と踊子=萩野露子の朋友との邂逅など、「趣向」かいたずらに陳腐さをまねく結果となって青年時代に歌舞伎劇の作者見習という修行体験をもったこの作家らしく、いかにもつくりもの然としている。・・・「趣向」が作品全体を古風なものにしてしまった。「現代」を映す鏡としての風俗小説としては、致命傷であろう。つづく『女中のはなし』に至っては、いかに捨てがたい味をもつとはいえ、小説としての骨格を欠いている。そのうえ『冬扇記』も、ついに作品として成立せずに終わった。

 要するに、『濹東綺譚』が実際に擱筆された昭和十一年以後、荷風の詩魂は急速に衰退した。日華戦争の勃発という事態にかさなったことも考慮に入れねばならぬ重大な原因のひとつだが、たとえ予感または自意識だけのものであって、事実とは相違していたとしても、荷風のばあい性的人間としての終末感が、作家としての終局に通じる一過程であったことはほとんど象徴的である。

 明治十二年(一七七九)十二月三日生まれの荷風は『濹東綺譚』を脱稿した昭和十一年(一九三六)十月二十五日には満年齢の五十七歳未満で、彼が歿した昭和三十四年(一九五九)四月三十日には七十九歳四カ月であったから、時間的には詩魂がおとろえてから二十二年余を生きながらえたことになる。事実、戦時中に執筆して戦後に発表したものをもふくめて、彼の戦後作品に対する評価はおおむね低い。別の言い方をすれば、作家としての荷風の文学的生命は『濹東綺譚』をもってほぼ燃焼しつくされて、以後はその余燼をたもったにすぎないとみなされている。私にもそれを誤認だと言い切る勇気はないが、そうした評価が小説だけを文学作品とみがちな日本的慣習、あるいは旧来の固定観念に起因していることも看のがしてはなるまい。

 《文学者がその作品だけではなく、日記、書簡その他断簡零墨に到るまで、その自己を現わすものであることは、近時批評の発達によって明らかにされているが、断腸亭日乗はその具体的な例証であった。》

 岩波書店版「荷風全集」月報第五号に掲載された大岡昇平『日記文学の魅力』の一節だが、中村真一郎はおなじ月報第十五号の『荷風日記について』のなかでいっている。

 《荷風の日記は後日の推敲を経たものであり、それは殆んど、編集され、演出されている。私たちは、繰り返し、この日記の頁を飜している間に、その文体そのものの人工性によって、次第に事実の記録ではなく、一篇の長編小説を読むような錯覚に捉えられてくる。恐らくここで作者永井荷風は、文学者荷風という架空な想像上の人物を、長い年月をかけて創造したのである。だから、これほど巧妙に素顔を隠蔽した日記と云うものは類がない、と云うことになる。》

 ・・・こうした見解はもはやこんにちの大勢を占めていて、定説にまで到ろうとしている。げんに遠藤周作も、文芸春秋版「現代日本文学館」の永井荷風集巻末におさめられた『解説』で、《もし荷風の二作品をえらべと言われれば、どうしてもその一つとして選びたかったのは「断腸亭日乗」だった》とのべて、さらに《これは日記ではなく日記文学である。あえていうならば日記の形式をかりた荷風の長篇小説である。》といっている。したがって、私もまたこれらの見解を是認するという前提の上に立っていうのだが、明らかに他人に読ませることを目的としてしたためられたものであっても、日記はやはり日記であって、小説は小説だという現実にも儼(げん)として動かしがたいものがある。

 『断腸亭日乗』の読者なら、作品としての『来訪者』における白井巍(タカシ)と木場貞(テイ)のモデルが平井呈一と猪場毅(号・心猿)であることは誰の眼にも明らかだが、その事情は『西遊日誌抄』におけるイデスと『ふらんす物語』中の『雲』におけるアアマとの関係にも通じる。さらにまた『日乗』昭和十一年九月七日の記述にみられる《女》と『濹東綺譚』のお雪の例におもいめぐらせば、いっそう明瞭であろう。対人関係、世態風俗の推移など、事柄のなりゆきに対する興味ふかさからいっても、『断腸亭日乗』が長篇小説であることを私は譬喩(ヒユ)としてみとめるが、やはり文学の一ジャンルとしての日記だとしておくほうが妥当であろう。」

 「十三年の一月には『おもかげ』、二月には『女中のはなし』、三月には『葛飾情話』を脱稿し、五月にオペラ館で『葛飾情話』が上演されるに至ったため、四月には二十二回、五月には一日休んだだけで三十回、六月には二十三回も荷風が浅草に足をはこんでいることは前章でみておいたとおりだが、消閑の場所が銀座から浅草に移ってからのちも、しばらくの間はきゅうペるの定連であった高橋邦太郎、安東英男、沢田卓爾、竹下英一、杉野昌甫、酒泉健夫、万本定雄、大野俊夫(外務省書記生)らとの交遊は継続されながら、あらたに浅草で獲た友人知己が多数加わった。十三年は、ほぼその過渡期といえる年代である。ことに『葛飾情話』の上演を契機として深い親交をもったのは作曲者である菅原明朗と、のちに菅原の妻となった同劇の主役歌手=永井智子の両名であって、愛してやまなかったのはオペラ館の踊子たちであった。

 荷風は彼女らを喫茶店やしるこ屋へ連れ出すのをほとんど当時の日課としていて、祭礼に同行したり、その家まで送って行ったりもしているが、それらのおびただしい記述のなかから十八年十月六日の一節だけをぬいておく。

 《午後三菱銀行に行く。(略)三ノ輪行の電車に乗り合羽橋より浅草公園に至りオペラ館楽屋に憩ふ。こゝのみはいつ来て見ても依然として別天地なり。踊子二三人と共にハトヤ喫茶店に行き一茶して後仲店(ママ)を歩み請はるゝまゝにリボン化粧品など買ってやりぬ。余が老懐を慰るところ今は東京市中此の浅草あるのみ。》


"
" そして、『偏奇館吟草』と二、三の小品文だけを例外として、戦後になってから発表された『浮沈』、『勲章』、『踊子』、『来訪者』、『問はずがたり』などの諸作はいずれも十六年十二月八日 - 太平洋戦争の開戦以後に執筆されているのだが、十四年、十五年から十六年上半期にかけての二年半というものほとんど何ひとつ書いていないのは、すくなくと『日乗』に関するかぎり、岩波文庫ほかの旧著が重版されたり、『下谷叢話』のような旧稿の改訂出版がおこなわれたことと無関係ではなかったように読める。金額は略すが、岩波文庫の重版にかぎっても、十五年七月には訳詩集『珊瑚集』二千部、短篇集『雪解』が二千部、同年八月には『おかめ笹』三千部、『腕くらべ』三千部、十月には『腕くらべ』五千部、『おかめ笹』八千部、『雪解』六千部といった状態である。

 しかも、その状態は十六年に入っても持続される。二月には『雪解』がまた六千部、三月には『珊瑚集」が六千部、七月には『腕くらべ』が七千五百部も増刷されているいっぽう、全集の出版企画なども中央公論社、岩波書店、弘文社(ママ)(弘文堂)の三社から申入れを受けるというありさまで、十五年五月十八日には彼自身《全集編纂のため旧作を通読》したりしているが、そうした状況と同年十月二十四日の『日乗』にみいだされる次のような記述とを対照してみるとき、思いなかばに過ぎるものがある。

 《この頃ふとせし事より新体詩風のものつくりて見しに稍興味の加はり来るを覚えたれば、燈下にヴェルレーヌが詩篇中のサジエスをよむ。戦乱の世に生を偸(ぬす)む悲しみを述ぶるには詩篇の体を取るがよしと思ひたればなり。散文にてあらはに之を述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。》

 ・・・私が今回十三年から二十年末に至る八年間の記載をメモしながら最もふかい感銘を受けたのは十六年元日の記であった。

 《正月一日 旧十二月四日 風なく晴れてあたゝかなり。炭もガスも乏しければ湯婆子(ユタンポ)を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰ひたる餅を焼き夕は麺麭と林檎とに飢をしのぐ。思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過したり。始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしく又不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるゝ事多くなり行けり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とても之を束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。》

 この最後の一句に託されている信念こそ、未曾有の悪時代のなかにあって、彼に発表のあてのまったくない作品をえいえいとして書きつづけさせた唯一のささえであったに相違あるまい。

 次に、昭和十九年七月三十一日の記述につづけて、同年十二月三日の一節をかかげておく。

 《余今日まで人と雑談することをさして面白しともせず。孤独の身を悲しむことも甚稀なりしが今年はいかなる故にや。日と共に老の迫り来れる為にや。この三四月の頃より折々無限の悲愁と寂寞とを覚え孤燈の下に孤坐するに堪へさ(ママ)るが如き心地するやうになれり。》

 《この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒に長命を歎ずるのみ。唯この二三年来かきつヾりし小説の草藳と大正六年以来の日誌二十余巻たげ(ママ)は世に残したしと手革包に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし。》

 それでは、その《二三年来かきつゞりし小説》とは、どのような経過をたどって執筆されたのであったろうか。

 前に『偏奇館吟草』だけを唯一の例外として、戦後になってから発表された諸作がいずれも太平洋戦争の開戦以後に執筆されたものであったと書いたが、《褥中小説浮沈第一回起草。》とあるのは昭和十六年十二月八日だからまさに開戦当日で、翌九日には《夜小説執筆》、十三日にも同一の記述、十七日には《燈下小説執筆。》、二十一日には《夜小説執筆。》、二十三日には《昏暮土州橋に至る。帰宅後机に憑る。》、二十八日には《燈下執筆三更に至る。》、二十九日には《燈下執筆毎夜怠りなし。》、三十一日には《帰宅後執筆。》とあって、十七年をむかえた一月二日には《燈下執筆。》、三日には《夜々机に憑る。》、九日《終日執筆。》、十一日《蓐中小説の稿をつぐ》、二十五日《小説浮沈執筆》、二月一日には《終日蓐中に在りて小説の草稿をつくりぬ》、五日《終日机に憑る。》、八日《燈下執筆暁明に至る。》。十一日《年譜をつくる。》、十三日に至って《小説の草稿稍進むこと得たり。〉、二十日《終日家に在り。小説執筆。》、二十四日には同文、三月一日には《午後執筆。》、六日には《薄暮浅草より玉の井を歩す。帰宅後執筆暁三時に至る。筆持つ手先も凍らざればなり。》、八日《終日小説執筆。》、九日《夜濹東に遊ぶ。帰宅後執筆。》、十二日《燈下執筆暁明に至る。去年十二月起稿の小説漸く結末に近し。》、十九日《小説浮沈脱稿。》ということになる。この間、約百日である。

 そして、同月二十一日に《終日小説浮沈草稿浄写。》とあるのは納得できるのだが、月の変った四月三日に《初更帰宅小説浮沈続編(ママ)起稿。》とあって、それきり後につづく記述がまったくみられないのはどういうことなのだろう。岩波書店版「荷風全集」第九巻の『後記』には、《中央公論社版・東都書房版には、このくだりは、「後半改竄」とある。とにかく、四月、新たに加筆したらしい。》とされている。

 のちにのべるが、『来訪者』のモデル猪場毅と平井呈一の二人に荷風が被害を受けたのはこの前後で、そのため『浮沈』の執筆もしばしば妨げられている。

 妨げられるといえば、誰にも思い違いや記憶しがたい文字はありがちで、私が親しくしているある作家は、推薦の薦の字がどうしてもおぼえられないという。私のみたものはすでに活字化された全集であって、原稿そのものではないから、中には誤植もあるかもしれないが、荷風のばあいは《防ぐ》を《妨ぐ》と書き、《妨害》を《防害》と書き違えるような習癖があって、《リヤカア》を《ギヤカア》と書いているような例もある。また、《ひとりごと》を《ひとりこど》、《一枚づゝ》を《一枚つゞ》、《だけ》を《たげ》とする濁点の打ち違いが、特に戦時中の『日乗』にはかなり目立つ。掌中の珠のようにしていた『断腸亭日乗』であるだけに、こうしたほんの些細な現象からも、当時の荷風の日常が悠々自適というわけにはいかなかったありさまがうかがわれる。

 ところで、十七年三月十九日に『浮沈』を脱稿した荷風は、同年十二月二日の《夕飯後幼時の回想録冬の夜がたり》を起稿して《暁四時に至って就眠》ののち、翌三日にも《終日執筆。》したが、それを思い切って中途で放擲して(完成は十八年十一月九日)、四日から《短篇小説軍服》を起稿している。そして、早くも六日には書きあげて翌々八日中央公論社長嶋中雄作に郵送したのにもかかわらず、十二日の条には《島中氏返書あり。小篇軍服は掲載中止となす。》という記述がみられる。《掲載中止》は自発的なものではなく、掲載不能の意で、時代はそこまで行き着いていたのである。『軍服』は後年の『勲章』で、そのモデルは浅草オペラ館の楽屋に出入りしていた《堪忍屋》という実在の弁当屋の《年六十ばかりなる老爺》であったことが、十三年十月二十四日の『日乗』に照合すれば判明する。
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2015年6月18日木曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(18) 「9 繁華殊に著しく」 (その2終) : 《東京の生活はいまだ甚しく窮迫するに至らざるものと思はるゝなり。戦争もお祭さわざの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものゝ如し。》(『断腸亭日乗』昭和12年11月19日)

北の丸公園 2015-06-17
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 『冬扇記』執筆に対して《感興もいつか消散したり。》と記した前日、荷風は『日乗』に《夜浅草公園散歩。曲馬を看る。》と書き、翌日の記事として《銀座不二地下室に飯して後今宵もまた浅草に往きオペラ館の演技を看る。余浅草公園の興行物を看るは震災後昨夜が始めてなり。(略)丸の内にて不快に思はるゝものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし。》とのべている。前掲の数字をみても明らかなように、九月以後吉原がよいの頻度が急速に低下しているいっぽう、浅草行は九月6、十月9、十一月14と漸増して、十二月には実に26という驚異的な数字をしめしている。十二月に二十六回といえば、一カ月三十一日間のうち五日間欠かしたのみということになる。

 玉の井がよいには『濹東綺譚』の取材、吉原がよいには『冬扇記』の背景探訪という目的があった。そして、連日の銀座がよいについては、荷風自身、十一年三月十七日の『日乗』に自宅附近のことを記したのにことよせて、次のように自解している。

《飛行機ラヂオ小児の声さはがしく、雀も今は稀に見るほどの汚き町になりたるに、鶯のみ年々こゝに来りて囀るは如何なる故ならん。唯来馴れたるが故といふにや、他に行くべき処もなきまゝせむ方なく来るといふにや。若し然りとなさば我身のいやいやながら東京に住み、日々散歩すべき処なきまゝ銀座に往く境涯に似たりといふべし。》

 が、銀座には特定の溜り場がさだめられていて、そこへ行けば誰かに逢えた。逢えぬまでも、銀座には日々の食料品を買出しに行く必要があった。が、浅草には知人もなく、行かぬばならぬ必然はなかった。しかし、ひとたび執着した彼は、対象のなかへいよいよのめりこんでいく。十二年十一月十五日以後の彼の行動は、偏執の一語に尽きる。

 同月十七日には《万歳小屋》、十八日には《浅草公園興行物を巡見》、十九日には《オペラ館の新曲を聴く。》、二十日には《松喜に飯す。》、二十一日には《国際劇場》、二十三日には《万成座》、二十四日にも《万成座》、二十五日は《今半に飯し》、二十八日には《浅草公園裏の待合お駒》、三十日には《オペラ館》といった調子で、十二月に入っても、ジャポンというカフェーに立ち寄りはじめた以外あまり変化がない。つけくわえておけば《松喜》も《今半》も牛屋だから、いかに荷風が肉食好きであったか、その一端が、このへんからもうかがわれるだろう。

 そして、年があらたまったばかりの十三年一月八日の『日乗』には、《晴れて風甚寒し。晡下土州橋病院に行き浅草オペラ館立見。今半に飯してかへる。》という記述のあとに、まったく突然《燈下短篇小説おもかげ脱稿。》と記されている。『日乗』だけをみるかぎり、それはまったく思いがけぬ記事ということになるのだが、『おもかげ』そのものを読んでみれば、憑かれたような吉原がよいのあとに浅草の興行物 - 特にオペラ館見物が続いたことによって、読者はこの作品が成立した事情に想到するはずである。

 《新吉原揚屋町の門際にある番屋から、夜番の男が出て、その扉に揚屋町と刻ってある鉄の門をしめた。廓内は今しも大引の二時になったのである。
閉められた門の外は龍泉寺町の道路である。片側は幾町となく立続く女郎屋の建物の裏側で、その板バメや裏口、または窓の下に沿ひ、左の方、京町一丁目の門外へかけては、葭簀(よしず)囲ひの屋台店が暖簾と提灯とをつらね、右の方、江戸町一丁日の門外へかけては辻自動車が幾輌となく夜通し客得をしてゐる。
牛飯屋の屋台から、掌で口の端をふきふき出て来た二人のわかい運転手がある。》

これが『おもかげ』の書き出しの部分で、この二人の運転手のうちのひとりである豊と呼ばれる男が主人公である。

 ・・・右にかかげた作品(『おもかげ』)の冒頭部分と『日乗』における十二年六月二十四日の《水道尻にて車を下り創作執筆に必要なる西河岸小格子の光景を撮影》という一節とのかかわりから明らかにしていきたい。

 げんざいの吉原は、台東区千束三丁目と四丁目の一部に地名変更されてしまっている・・・。・・・都バスに乗って、今もその名だけとどめている大門前で下車・・・。・・・見返り柳に相当する柳の若樹が枝をたれていて、その柳の樹の前にあるガソリンスタンドについて左へまがると間もなく大門に行き着く。そこまでの道路を五十間(または衣紋坂)といって、戦前には両側に引手茶屋が軒をつらねていた地帯である。・・・。

 そこから先の、見返り柳よりさらに貧弱な柳並木のつらなっている自動車道路の両側がもと妓楼の櫛比(しつひ)していた吉原遊廓で、柳並木の自動庫道路そのものが旧遊廓のメイン・ストリートであった仲之町の址である。・・・

 その仲之町通りを中央にはさんで、左右にやや大きくひろがりながら長方形をかたちづくっていた吉原遊廓は、大門のほうからいけばいちばん手前の右側の通りが江戸町一丁目、左側が同二丁目、次の右側が揚屋町、左側が角町、その次の右手が京町一丁目、左手が同二丁目と六分されていて、仲之町の突き当りを水道尻といった。その水道尻の廓外にはいま台東病院、吉原電話局、吉原弁財天があって、台東病院はもと吉原病院 - 戦後は狩り込みに遭ったパンパンが病気を発見されると収容された病院で、戦前の娼妓の検徽所の跡である。また、吉原弁財天のある場所には戦後まで花園池がのこっていたが、その池は大正十二年の関東大震災のとき、逃亡をふせぐため最後まで廓内にとじこめられていた娼妓が火災に逃げおくれて次々ととびこんで何百人もの死者を出した池であり、いまそこには高く積みあげた火山岩かと思われる黒っぼい岩石の上に青銅の弁天像を祀った「大震火災 殃死者追悼記念碑」が建っている。・・・

 また、正式名称は大下水、俗に鉄漿溝(おはぐろどぶ)とよばれていた下水道は、遊廓の四方をぐるりと取りかこんでいた九尺幅の溝渠で、遊女の使ったおはぐろの水を捨てたのがその名の起りだともいい、一朝事ある時には廓を城に転用する目的の堀であったという説もあるが、西原柳雨の『川柳吉原志』にも《おはぐろは外、泥水は内にあり》という文化年代の句がみられるほどだから、江戸時代から鉄漿のように真黒な水がよどんでいた水溜りではなかったのだろうか。その溝がもとの千束町 - つまり浅草側に面しているあたりを羅生門河岸、反対側の裏手 - 龍泉寺町に面しているほうを西河岸とよんだ。

 ・・・もういちど説明しなおすと、《水道尻》は大門のほうからいって突き当りの一帯、《西河岸》は右手の端れ一帯にあたる。

 樋口一葉の『たけくらべ』には《お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎ》とあるが、《昭和十四年十一月七日誌》と文末に記されている木村荘八の画文『ハネバシ考』(『随筆風俗帖』所収)をみると鉄奨溝はすでになくなっていて、《コンクリートですっかり埋めてある。》と記されている。昭和初年代に、はじめて廓内へ足を踏み入れた私もむろん知らない。つまり、その時分には埋め立てられて道路の一部と化してしまっていたわけである。その遺蹟というか、当時の石垣のほんの一部分がいまものこっているのは、大門から行って松葉屋の手前を右に曲ると左側に小公園があって、そのすこし先の一小区劃だけである。

 ・・・、『おもかげ』のオープニング・シーンは、その西河岸と揚屋町の道筋が直角に結び合った地点に相当する・・・

麻 布タキシイでハイヤーの運転手をしていた豊は、外国大使の二号宅からの名指しで夫人の送迎をしているうちに、その家の小間使に惹かれて恋愛結婚をするが、三ヵ月ほどで食中毒のために急死きれてしまう。そして、タクシーの運転手に転じたある日、浅草へ客を乗せていって《池の縁にある歌劇館》をのぞくと、踊子のなかに死んだ恋女房とそっくりな一人をみつける。《池》は瓢箪池だから、その《縁》の《歌劇館》は当然オペラ館である。豊はそれから萩野露子というその踊子の舞台姿をみるために通いつめ、あるとき道を歩いている露子の姿を追って飲食店へ入ると自身の袖口に血がにじんでいて、スリに時計と金を取られていたことに気がつく。そのため、二人の仲間とともにほんのわずかロをきく結果になるが、さらにしばらくのち客を野田まで乗せていった帰途、松戸あたりで二人の女客をひろうと、それがいつぞやの露子の仲間で、もともと病身だった露子は死期がせまっていて見舞にいった帰りだときかされる。

 『おもかげ』は、そんな内容の話を深夜の揚足町の鉄門のあたりで豊が友人の為を相手に語りきかせるという筋立のよくまとまった好短篇だが、こんな短篇の背景ですら、今日では容易に把握しがたくなっている。風俗小説の宿命のひとつだろう。"

 《全国の舞踏場が閉鎖せられるとかいふ噂をきいて、ふと思出したことがある。月日のたつのは早い。たしか霞ヶ関三年坂のお屋敷で、白昼に人が殺された事のあった年であつたと思ふので、もう七八年前のことになる。その時分から際立つて世の中の変り出したことは、折々路傍の電信柱や、橋の欄干などに貼り出される宣伝の文字を見ても、満更わからない訳ではなかったものゝ、然しまだまだその時分には、市中到るところに、恋のサイレンだの。君恋し。なんどと云ふ流行唄が、夜のふけわたる頃まで絶間なくひゞき渡つてゐたくらゐなので、いかに世の中が変らうとも、女の髪の形や着るものにまで、厳しいお触が出やうとは、誰一人予想するものはなかった。》

これは『おもかげ』と同年に書かれた短篇『女中のはなし』の冒頭で、作品はやとい入れた女中が不在がちな独身の主人(荷風)の留守中に連夜家をあけてダンスの教習所へかよい、置手紙をして去ったのちにもまた訪ねてきたことがあるという内容のものである。随筆風の筆致ながら捨てがたい味のある短篇で、荷風はさりげなく時代風俗の変遷をえがいては、さすがに第一人者だと思わせるものをもっている。"

 ダンスホールの閉鎖が実施されたのは昭和十五年十一月一日で、・・・、巷間にはそれより早くから閉鎖が取沙汰されていて、『断腸亭日乗』十二年十二月二十九日の条には《この日夕刊紙上に全国ダンシングホール明春四月限閉止の令出づ。目下踊子全国にて弐千余人ありと云ふ。この次はカフエー禁止そのまた次は小説禁止の令出づるなるべし。可恐々々》と記載されている。

 『女中のはなし』は、その報道に触発されて執筆したものとみてまちがいあるまいが、《霞ケ関三年坂のお屋敷で、白昼に人が殺された事》とは昭和七年五月十五日に首相官邸で、犬養毅が海軍将校に拳銃で射殺された五・一五事件であり、それを機に日本がファシズムへの道を進みはじめたことは歴史書の記すとおりなので、《その時分から際立って世の中の変り出したこと》は、その時代に生きた者なら誰もが膚で感じさせられたところであった。

 しかし、《流行唄が、夜のふけわたる頃まで絶間なくひゞき渡ってゐた》ことも事実で、日華戦争の末期から太平洋戦争中にくらべれば、市井にはまだたしかに華美で浮薄な風潮がみなぎっていた。いまからおもえば上海あたりの芸人を寄せ集めて釆たかと考えられるふしもあるが、白人の美女の半裸を売りものとしたマーカス・ショウというレヴュー一座が日劇に出演して、私たちの世代の血を沸かせたのも昭和九年三月のことである。

 十二年の十一月から荷風の浅草がよいがはじまったことについてはすでにのべたが、つづいて昭和十三年上半期の行動を例によって数字にしめしてみよう。・・・

十三年 一月=玉3。浅15。吉1。
二月=玉3。浅13。吉0。
三月=玉3。浅16。吉1。
四月=玉1。浅22。吉4。
五月=玉1。浅30、吉0.
六月=玉0。浅23。吉0。"

 ・・・四月以後の驚歎すべき浅草行の頻度は自作の歌劇『葛飾情話』のオペラ館上演に強くかかわっている。『日乗』十三年一月六日の条に《是日オペラ館文芸部員川上典夫氏の書に接す。直に返書を送る。》とあるのは、荷風が十二年十二月二十五、二十八、二十九日の「読売新聞」夕刊に発表した『浅草公園の興行物を見て』という一文の反響と思われるが、一月二十六日の条には《初更過浅草公園に至りオペラ館に其作者川上氏を訪ひしが不在なり。》とあり、二月二十七日には《午後川上典夫来り話す。誘はれて浅草に至りカツフエージャポンに飲む。夜十一時川上と共にオペラ館の舞台稽古を見る。》とあるような経過をたどって三月五日から楽屋にもおとずれるようになり、八日には《浅草公園を背景となす小説の腹案稍成れるが如き心地す。》ということになる。そして、同月十六日には早くも《燈下歌劇台本葛飾情話執筆暁明に至る。》とあり、十九日には《燈下葛飾情話の稿成る。》という記載がみられるに至る。

 菅原明朗作曲の『葛飾情話』は五月十七日を初日として昼夜三回、十日間オペラ館で興行された。菅原明朗は慶応義塾のカレジソング『丘の上』の作曲者で、荷風とは戦時中には偏奇館焼亡の結果中野の彼のアパートに身を寄せたり、さらに岡山疎開にも同行するほどの仲となった。

 『断腸亭日乗』十二年の記載にもどると、日華戦争開戦直後の八月二十四日には《余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものゝ如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり。》とあり、十一月十九日には《東京の生活はいまだ甚しく窮迫するに至らざるものと思はるゝなり。戦争もお祭さわざの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものゝ如し。》とあって、十三年一月二日には《去年あたりより浅草の繁華殊に著しくなりしが如し。》と、今からみれば意外の感すらあるかと思われる市井の所見をつたえている。

 が、その《繁華》の蔭にも、やはり来るべきものは忍び足で近づきつつあった。同年七月十日には、《この夜もふけわたるまで鬼灯(ホオヅキ)市にぎやかなれば踊子四五人と共に観音堂に賽し、ハトヤ喫茶店に憩ふ。公園内外の飲食店夜十二時限り閉店の厳命下りし由。また百貨店其他中元売出しの広告を禁ぜられしと云ふ。いよいよ天保改革当時の如き世とはなれり。》と記載されている。

『葛飾情話』は「新喜劇」という小雑誌に掲載されたのち、岩波書店版の「おもかげ」におさめられたが、戦前に公表された荷風の最後の作品となった。
かくして、荷風の作家的地下生活がはじまる。
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2015年6月8日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(17) 「9 繁華殊に著しく」 (その1) : 「梅雨ころ起稿せし小説冬扇記は筆すゝまず。其後戦争起りて見ること聞くこと不愉快ならさ(ママ)るはなく感興もいつか消散したり。新に別種のものを書かむかと思へどこれも覚束なし」(『断腸亭日乗』昭和12年11月16日)    

千鳥ヶ淵緑道 2015-06-08
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9 繁華殊に著しく
「人間ぎらいで一応通っている荷風には、特定の溜り場をもって、気のおけぬ複数の相手と毎夜のごとく顔を合わせずにはいられぬという半面もあった。そうした習慣がはじまったのは、『濹東綺譚』の『作後贅言』の背景となっている《数寄屋橋際なる伯拉爾児(ブラジル)珈琲店万茶亭》に立ち寄った昭和七年七月二十日以後で、校正の神様といわれた帚薬=神代種亮との交游をふかめ、高橋邦太郎ほかの常連と次第にひとつのグループを形成する結果をまねいた。それはなんとなく落合って雑談をかわすというだけのものであったが、経営者にとっては客の廻転のさまたげになる。《此夜西銀座喫茶店耕一路の主人神代氏を通じて予等一同の来集することを謝絶す。何の故なるを知らず。思ふに神代氏昼の中より来り午睡などするがためならむ歟。》と『日乗』にあるのは昭和八年三月二十二日で、同年四月二十九日以後、さらに溜り場を八丁目金春通りの茶房きゅうペるに移している。」

「・・・玉の井に荷風が興味を寄せはじめるきっかけもきゅうペるでつくられた様子なので、その前後の有様からさぐっていってみることにする。

《先生が、はじめて店へおみえになった時、カウンターに近い席に坐られたのが緑で、それからずうっとそこが先生の席のようになって、先客があってもかならず先生に席を譲られたものです。》

「文芸」臨時増刊の「永井荷風読本」に、きゅうペる店主の道明真治郎が執筆した『濹東綺譚が書かれた頃』に一節・・・

《先生が、この席で、いつも談笑されたのは、高橋邦(邦太郎=仏文学者)、安東(英男=シャンソン作詞家、松竹少女歌劇団員)、杉野(昌甫まさよし=筆名・橘太郎、早大教授)、竹下(英一=劇作家)、酒泉(健夫=号・空庵、歯科医)、樋田(行雄)、万本(定雄=建築デザイナー)の諸氏で、特に当時万朝報の記者であった樋田氏の話には、呵々大笑されたものです。先生が玉の井へ足を踏み入れられたのは、昭和七年のはじめだそうですが、昭和十一年の春ごろから足繁く通うようになられたのも、この樋田氏の話が、その一因になっているのではなかろうかと思われます。先生は玉の井から帰られると忘れないうちにと、よく玉の井の地図をこまごまと半紙に書いておられましたが、私もその下書をいただいたことがあります。》

・・・、荷風自身《初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり》と「日乗」中の一節『玉の井見物の記』に記しているように、彼は七年一月二十二日と二十五日に玉の井へ歩をはこんでいる。が、その折には興味をひかれなかったらしく、ふたたび『日乗』に《玉の井に至り陋巷を巡見す。》と玉の井の文字がみられるのは四年後の十一年三月三十一日で、この点もまた道明真治郎の記述は符合する。

そして、そのあとには玉の井にかよい、きゅうペるに立ち寄るという日常が展開されることになるのだが、両者の頻度を出勤簿風に数字でしめしてみることにする。
・・・

十一年一月=久7。
二月=久6。
三月=久10。玉1。
四月=久3。玉3。
五月=久7。玉7。
六月=久4。玉2。
七月=久6。玉1。
八月=久2。玉1
九月=久0。玉13.
十月=久5。玉12.
十一月=久6。玉11。
十二月=久3。玉5.

このうち、四月にはわずか三回の玉の井行で『寺じまの記』が書かれたのに反し、『濹東綺譚』は通算四十回という実績の上に立って九月二十日に起稿、十月二十五日に脱稿、『濹東余譚』(のち『万茶亭の夕』となり、さらに『作後贅言』と改題)は十一月二日に書き上げられている。

『濹東綺譚』を起稿して脱稿に至る九月と十月の両月で合計二十五回という玉の井がよいに対して、九月にはきゅうペるが0、十月には十二対五と数字が完全に逆転しているのもむべなるかなと思わされるわけだが、『濹東余譚』まで書きあげてしまって、いわば用済みとなった十一月以後も玉の井がよいは依然として続行される。性的人間としての荷風の一面をうかがうにたる行動というべきだが、十二年に入ると、八年四月以後三年半余もかよいつづけたきゅうペるのほうは完全に見かざられてしまうのに対して、玉の井がよいの上に浅草がよいが加わり、さらに重層的に吉原がよいまでがはじる。
そのありさまをふたたび数字でしめしてみる・・・。

十二年一月=玉5。浅4。
二月=玉5。浅5。
三月=玉3。浅5。
四月=玉7。浅6。
五月=玉4。浅4。吉2。
六月=玉3。浅0。吉16。
七月=玉3。浅1。吉9。
八月=玉4。浅7。吉6。
九月=玉7。浅6。吉2。
十月=玉10。浅9。吉0。
十一月=玉2。浅14。吉1。
十二月=玉3。浅26。

・・・食事の場所を、銀座から徐々に浅草へ移している傾向もみとめられる。が、最も注目すべき点は、すでに玉の井をえがいてしまった荷風が吉原を書いてみたいと考えて、それを実行に移しているありさまがうかがえることである。

銀座で食事をしたあと《北里に遊び彦太楼に登》った六月二日の記事中には《現代の遊廓のことも何やら筆にしたき心地するなり。》という文字がみえ、同月六日には《遊里の事を書きて見むと思立》ってタクシーで吉原に行き、京町二丁目の河内屋に登楼して内外の様子を書きとめている。そして、四日後の十日には《北里を描くべき小説の腹案稍成る。》と記している。

ひとつことに執着しはじめると、荷風はとどまることを知らぬような性格の持ち主だが、この吉原がよいの場合も例外ではない。『濹東綺譚』が執筆された十一年の九月と十月には二ヵ月間に通計二十五回玉の井にかよっても、彼はかならず帰宅していたのに反して、十二年六月の『日乗』にしめされているかぎりでは、十六回の吉原がよいのうち大部分は宿泊して朝帰りをしたのち、その夜もまた出直して宿泊をかさねている。十一日の記事にある《今月六日の夜より毎夜北里の妓楼に宿するに、今は妓楼が余の寝室の如く、我家はさながら図書館の如く思はるゝやうになりしもをかし。》という一節から、そのありさまがうかがわれよう。さらに四日後の記事には《北里に夜をあかすこと昨夜にて丁度十夜となれり。今宵も出かけたく思ひしが用事輻輳したれば家にかへる。》とみえていて、翌十六日には京町一丁目の品川屋、二十一日には江戸町二丁目の山木屋に泊っているばかりか、中間の十八日には洲崎の藤春屋に出遊して、玉の井にも足をはこんでいる。」

「が、《腹案稍成》ったはずのかんじんの作品のほうは、いっこうはかどらない。同月十三日の記事には《燈下初めて草稿に筆を着けたり。されど疲労甚しく筆すゝまさ(ママ)れば姑くして歇む。》とあり、二十二日には《朝七時楼を出で京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。起稿の小説中主人公の住宅を定め置かむとてなり。》、二十四日には《水道尻にて車を下り創作執筆に必要なる西河岸小格子の光景を撮影し、再び円タクにて家にかへれば六時なり。》、二十六日には《午後執筆。草稿は冬扇記と題す。世に用なき間(ママ)文字なればなり。》とある。そして、月を越えた七月九日には《余がこのたびの曲輪通ひは追憶の夢に耽らむためなれば、其他の事は一切捨てゝ問はざるなり。》、十八日には《小説の草稿をつくること二三葉。》、三十日には《冬扇記の草稿中絶して既に旬余なり。》とあって、四ヵ月後の十一月十六日には、次のように記されるに至る。

《梅雨ころ起稿せし小説冬扇記は筆すゝまず。其後戦争起りて見ること聞くこと不愉快ならさ(ママ)るはなく感興もいつか消散したり。新に別種のものを書かむかと思へどこれも覚束なし。》

私の見るるかぎり、幻の作品『冬扇記』に関する記事は、『日乗』のなかにこれ以外みあたらない。が、荷風の作品年譜の上からいえば『濹東綺譚』のすぐあとにつづくことになる昭和十三年二月の『おもかげ』は、右のような試行錯誤のなかからうまれ出た作品とみられる。そうした見方の出所をしめすためには、ふたたび『日乗』を追う必要がある。
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2015年5月24日日曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(16) 「8 それが終るとき」 (その2終) : 「還暦をまぢかにひかえて、事実はどうあろうとも、荷風は迫りくる老いの自覚のなかで男性としての自身が終ること - すくなくともそれが遠くないことを意識していた。男性との永別の自意識がリアルな散文精神から遠ざからせて詩的精神におもむかせ、『濹東綺譚』を書かせたのだと、私は思う。」

ヤエドクダミ 2015-05-23 わが家の庭
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 「『断腸亭日乗』によれば、《濹東綺譚脱稿》とあるのは昭和十一年十月二十五日だが、「朝日新聞」に連載が開始されたのは翌十二年四月十五日発行の十六日付夕刊からである。したがって、《明治十二年己(つちのと)の卯の年。》うまれの大江匡の年齢は、執筆時の荷風と同じかぞえ年五十八歳になっている。相手のお雪は二十四歳・・・。・・・戦前の五十八歳は、大変な老人と考えられても仕方のない年齢であった・・・。それを荷風は、あえて自己自身と同年にしたのである。大江匡を永井荷風と思わせるために、そこまで徹底しなくてはならなかったということは、『濹東綺譚』が実体験そのものではなくて、題名のしめすとおり綺譚 - すなわち面白く仕組まれたつくりものがたりであったからにほかならない。」

 「荷風が《初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道》であったのにもかかわらず、そのときにはかくべつの興味もひかれなかったのか、『断腸亭日乗』に《夜京橋明治屋にて牛酪を購ひ浅草公園を歩み乗合自働車にて玉の井に至り陋巷を巡見す。》という記載があるのは四年後の十一年三月三十一日である。そして、四月に入ると十四日と二十一日にもまた出向いて、二十二日には『玉の井』(のち『寺じまの記』)を書きあげているばかりではない。明らかなものだけでも五月中に七回、六月二回、七月一回、九月には十三回、『濹東綺譚』が書きあげられた十月には十二回という玉の井がよいがおこなわれている。

 そんな中で、お雪のモデルとおぼしい女の記述が最初に確認できるのは十月二十五日の脱稿に四十八日先立つ九月七日のことだが、《余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば、訪ふ時には必雷門あたりにて手軽き土産物を買ひて携へ行くなり。》というような記述があるところからも明らかなように、知り合ったのは当然それよりも以前である。にもかかわらず、このときにはまだ作品の構想はまとまっていなかったらしい。腹案を得るまでの経過を追ってみよう。

《晴れて風やゝ涼しくなりぬ。読書半日。晩飯すまして後隅田公園に往く。震災後変り果てたる浅草の町を材料となし一篇の小説をつくりたしと思ふなり。言問橋をわたり秋葉裏の色町を歩み玉の井に至り、いつも憩む家に立寄るに、女は扁桃線(ママ)を病みて下坐敷の暗き中に古蚊帳つりて伏しゐたり。十一時頃まで語りてかへる。蚊の声きくもむかしめきて亦おもむきありき》(九月十三日)

《夜玉の井に徃く。途中牛の御前祭礼のかざり物を見る。いつもの家にて女供と白玉を食す。一碗三十銭とは高価驚くべし。この夜女は根下りの丸髷に赤き手柄をかけ、洒(ママ)木綿の肌襦袢に短き腰巻の赤きをしめたり。この風俗余をして明治四十年代のむかしを思起さしめたり。但しその頃には暑中赤きで(ママ)がらや真赤な湯もじを用るものは素人にもなかりき。根下りの丸髷、総髪の銀杏返しは仇ツぼく見えてよきものなり。秋の蚊の群れ来るを破団扇にてばたばたと叩く響も亦むかしを思返すよすがなり。》(九月十五日)

《電車にて向嶋秋葉神社前終点に至りそれより雨中徒歩玉の井に行きいつもの家を訪ふ。横浜ちやぶ屋にゐたりしと云ふ女一人新に加りたり。雨降りてやまず。路地の中人の跫書絶え、家の中にて蚊の鳴く声耳立つのみ。長火鉢囲みて女二人の身の上ばなし聞きて十時過に帰る。》(九月十九日)

《晡下家を出で尾張町不二あいす店に飯す。日曜日にて街上雑遝(ざつとう)甚しければ電車にて今宵もまた玉の井の女を訪ふ。この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。》(九月二十日)

この日の欄外に荷風は《濹東綺譚起稿》と朱書しているが、文中の《腹案》には、恐らく『失踪』という劇中劇ないし作中作の挿入という着想がふくまれていたに相違ない。
この劇中劇『失踪』の採用をアンドレ・ジイドの『バリュード』と『贋金つくり』の影響とみることは、今やほとんど定説と化している・・・。・・・、荷風はなぜ『失踪』の挿入を必要としたのだろうか。・・・」

 「作品と事実の順序は逆だろうと私はいったが、すでにみてきたように、荷風は例の好奇心から玉の井へ足を踏み入れた。そして、これは書けるぞという手応えを感じた。するうち、お雪のモデルに遭遇した。それはいつのことか、『断腸亭日乗』からは正確な月日を把握しかぬるが、『寺じまの記』に書かれている女がお雪のモデルと別人であることは明白だから、作品のような出会いではなかったこと - すくなくとも玉の井探索の最初の日からお雪のモデルにゆきあったのではなかったことは確実である。

 そして、モデルを得たことによって創作の意慾はようやく高まっていくが、自身の五十八歳という年齢は、前にのべたような理由で老齢に過ぎる。読者に対する説得力が稀薄だが、五十一歳ならばすこしは納得が得られるだろう。そこで種田順平なる人物が創作され、お雪と同年のすみ子との交情をえがけば、大江匡とお雪との仲も承認ないし納得を得ることになる。つまり、挿話としての『失踪』の設定は、大江匡とお雪との仲があり得べき現実だということの裏づけ作業であったというのが、私の見方にほかならない。

 こういう私の考え方には、恐らく同意をしめす人などほとんどあるまい。が、しかし、と私は思う。作中での経過にすぎないが、さんざん書きなやんでいたはずの『失踪』も、最後にはわずか三日ほどの短時日のうちにばたばたと書きあげられてしまったらしく、その結末についてはいつの間にかひとことも触れぬほど冷たく脇へ突き放されてしまって尻切れ蜻蛉に終っているのも、それが、『濹東綺譚』の物語的進行に必要とされる役割をすでに果してしまっていたからに相違あるまい。用事がすんだから、お払い箱になってしまったのである。『失踪』を、私が実用性から創作された挿話だと考えざるを得ないゆえんである。

 それとおなじ眼でお雪をみては誤まりとなるが、《わたくし》が意識して作者自身になぞらえられている以上、二人が結ばれるはずのないことは最初からわかっている。したがって、時おり遠くの空に稲妻がきらめく蒸暑い夜、お雪が《わたくし》の手をとって《あなた、おかみさんにしてくれない。》と言う瞬間から、二人はどのようにしてわかれるか、読者の興味はそこのところにつながれる。が、その期待は、大きく裏切られる。

 私はすでに『濹東綺譚』を三十年前の明治四十年代に回帰した復古的な作品だとみて、荷風は自身のありとあらゆる過去の文学的蓄積をこの一作に動員しているといったが、彼はお雪とのわかれにまで同様の筆法をもちいてしまっている。われわれは聞きなれた彼の独身論を、またしても聞かされねばならないのである。

《わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉はれて、彼女達の望むがまゝ家に納れて箕帚(キソウ)を把らせたこともあつたが、然しそれは皆失敗に終った。彼女達は一たび其境遇を替へ、其身を卑しいものではないと思ふやうになれば一変して教ふ可からざる懶婦(ランプ)となるか、然らざれば制御しがたい悍婦になつてしまふからであった。

お雪はいつとはなく、わたくしの力に依つて、境遇を一変させやうと云ふ心を起してゐる。懶婦か悍婦かにならうとしてゐる。お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでゐるわたくしではなくして、前途に猶多くの歳月を持つてゐる人でなければならない。然し今、これを説いてもお雪には決して分らう筈がない。お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見てゐない。わたくしはお雪の窺ひ知らぬ他の一面を曝露して、其非を知らしめるのは容易である。それを承知しながら、わたくしが猶躊躇してゐるのは心に忍びないところがあつたからだ。これはわたくしを庇ふのではない。お雪が自らその誤解を覚つた時、甚しく失望し、甚しく悲しみはしまいかと云ふことをわたくしは恐れて居たからである。》

 「・・・私は・・・、その後もこのおためごかしというほかはない一節に接する度ごとに、憤りに似た不快さをおぼえる。それゆえ平野謙が『永井荷風』(『芸術と実生活』所収)で、《愛すればこそ大江は「殉教者の如くに」お雪から遠ざかるしかなかったのだ》としている佐藤春夫説を《ヒイキの引きだおし》だときめつけて、次のようにのべている一節に胸のつかえがさがる思いをあじわう。

《売笑は堕落でなく、一家の主婦として懶婦、悍婦となることこそ堕落とする荷風固有の倫理感そのものも、私は普遍性をもたぬ固陋の観念にすぎぬと思うものだが、いましばらくそのことは措くとして、そもそもお雪は「所謂良家に主婦たる」ことを希ったであろうか。荷風も佐藤春夫も、そのみやすい一点にかぎって一種の盲点に陥っている。

作者のくりかえすように、大江匡とお雪とはその本名も生い立ちも知らずにはかなく生別したものである。すなわち、お雪は大江を目して、最後まで「淫猥の書画を商う者」と誤認しており、そのような日蔭ものの中年男なればこそ、「おかみさんにしてくれない」と囁く気にもなったのである。そのお雪は、大江がすでに六十歳に手の届く老人であることさえ、弁えていない。秘密の出版にしたがうような日蔭ものであれば、と思いたったお雪のいじらしい自卑と謙抑の心根をも汲みとらずして、なんのヒューマニズムぞ。ここに佐藤春夫の盲点があり、『濹東綺譚』全篇の盲点がある。「おかみさんにしてくれない」とさえいえば、懶婦か悍婦たらんと希うものと誤認する根性は、小金持の若旦那が人さえ寄ってくれば金をひさだす算段かと邪推するのと一般ではないか。》

 名論であり、卓説だと信じるがゆえに引いたが、ありとあらゆる過去の業績を動員した復古的な作品を書くほどなら、荷風はなぜ『深川の唄』のあの末尾、《あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチヱの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……》という一節を思い出してもちいなったのだろう。大江匡にとっては、それが真実で、お雪を懶婦悍婦(らんぷかんぷ)にするに忍びないなどとは大嘘である。自己保身への願いをかくして、相手へのいたわりに転嫁している態度を、わたくしはおためごかしとして憤らずにいられないのである。

 が、しかし、そのような大欠点に強い反感をおぼえながらも、なおかつ 『濹東綺譚』が私を惹きつけ、何度も反復して読み返さずにいられなくしているものは、全篇にながれている詩情のためである。私は『濹東綺譚』における荷風を、風俗作家ではなくて詩人だと本章のはじめにのべたが、本書の執筆に際して三回も作品の背景となった土地をおとずれて、往時の不潔で醜悪なさまをかえりみるにつけても、あの汚濁のなかからこのような美しい作品をつむぎ出した荷風の詩人としての力倆を、あらためて痛感せずにはいられなかった。」

 「・・・『濹東綺譚』が発表された年ではなく、実際に執筆された年 - 昭和十一年二月二十四日の 『断腸亭日乗』には、《余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。》《色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てこゝに終焉の時の事をしるし置かむとす。》という記述があって、《遺書の草案》なるものが記載されている。そして、『濹東綺譚』には《今の世から見捨てられた一老作家の、他分(ママ)そが最後の作》などという文字までがみられる。」

 「・・・還暦をまぢかにひかえて、事実はどうあろうとも、荷風は迫りくる老いの自覚のなかで男性としての自身が終ること - すくなくともそれが遠くないことを意識していた。男性との永別の自意識がリアルな散文精神から遠ざからせて詩的精神におもむかせ、『濹東綺譚』を書かせたのだと、私は思う。見聞記だなどとのんきなことを考える人は、老いの自覚がもたらす寂蓼感を知らないのだろう。
『ひかげの花』で彼なりの散文精神の極北にちかい地点に立った荷風が、一転して詩的精神を展開したのは、恐らくそのことと無関係ではなかったはずである。『濹東綺譚』は荷風にとってひとつの終りではあっても、なにかのはじめではなかった。」
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2015年5月16日土曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(15) 「8 それが終るとき」 (その1) : 「娼婦でありながら、《わたくし》にとっては《消え去った過去の幻影を再現させてくれる》媒体として取扱われているために、ほとんど肉体を感じさせないほどである。だから、彼女が身を置いている現実の玉の井は淫靡で不潔な場所であっても、お雪は、そして『濹東綺譚』はひたすら美しいのである。」

北の丸公園 2015-05-15
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8 それが終るとき

「武田麟太郎は『濹東綺譚』を読んで、あれは玉の井ではなくて亀戸だといった。実際の玉の井より古風だとか、鄙(ひな)びているというほどの意味だが・・・『濹東綺譚』にえがかれた私娼窟は多分に美化されているとまではいえぬにもしろ、実態が実態のままつたえられているとは言いがたい。そんな点をもふくめて、『濹東綺譚』における永井荷風は風俗作家ではなくて、詩人だと言わねばならない。」

「たとえば荷風は、繰り返し《溝(どぶ)の汚さと、蚊の鳴声》を挙げている。そして、《溝の蚊の唸る声は今日(こんにち)に在つても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変り》がないともいっているが、いかに下水処理が不備であった戦前とはいえ、《お酉様の時分》すなわち十一月に入ってからも蚊が出るなどというのは、おなじ《隅田川を東に渡つ》た地域にあった洲崎はむろんのこと、恐らく亀戸にもみられぬ玉の井だけが持っていた固有の景物であったろう。また、ヒロインのお雪が出方として身をおいている向島区《寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方》 - 大林清『「濹東綺譚」のモデル雪子の恋』(『玉の井娼婦伝3』)によれば、屋号が《萩乃家》なる娼家は《溝際の家》だから、溝が重視されているのは当然である。」

「が、『断腸亭日乗』昭和十一年五月十六日の条にかかげられている荷風作製の玉の井見取図をみれば明らかなように、《この番地のあたりはこの盛場では西北の隅に寄ったところ》であって、《仮に之を北里(=吉原)に譬へて見たら、京町一丁目も西河岸に近いはづれとでも言ふべき》地点で、東西に通じているその五尺幅の溝は、全域を一部から四部までに区分されていた玉の井の一部と二部の北辺だけをかすめていたに過ぎない。すなわち、その溝を最北端部として南にひろがっていた三部、四部の地区はおろか、一部や二部のなかでも溝の臭気が瀰漫(ビマン)していたのは、きわめて局地的な特殊状況であった。別の言い方をすれば、溝の臭気はお雪の住む居まわりのごく一小区域のきわだった特徴をあらわしても、玉の井という私娼窟全域に通用するものではけっしてなかった。」

そのくせ、「ぬけられます」とか「完全通路」と標示された、両側または片側だけに娼家の建ちならんでいる狭隘きわまる路地から路地をつたい歩くと、行けども行けども異臭の絶えることがなかった。したがって、その異臭は溝の臭気であるはずがなく、私などは目ばかり窓とよばれた小窓の中から「ちょいと、ちょいと」とよびかけるオンナたちの声をききながら、その屎尿と洗滌液が混じ合ってはなつ、鼻よりは眼にしみるような刺痛感のある猥雑な異臭をかぐたびに、自身がいま魔窟へ来ているのだという若干の後ろめたさとある種の昂奮がまざり合った実感をおぼえさせられたものであった。逆にいえば、溝の臭気より汚物の異臭のほうがはるかに強く当時の実感としてのこっている。」

「なんといっても玉の井は、荷風がそれまで書いてきた新橋はもちろん、神楽坂、富士見町、白山、麻布の花柳界はおろか、吉原や洲崎ともまったく質のことなる最低の遊び場であった。彼が曲折のおびただしい隘路の錯綜する玉の井の陋巷を《迷宮》とよんで、ついに魔窟という表現を採択しなかったのも、不潔感や醜悪さによる読者の幻滅をおそれた詩人的配慮であったろう。」

「かさねていえば、『濹東綺譚』をつらぬいているものは散文精神ではなくて、詩的精神である。《むかし北廓を取巻いてゐた鉄漿溝(オハグロドブ)より一層不潔に見える此溝》まではえがいても、お雪を《ミユーズ》にたとえるためには、屎尿や洗滌液の異臭を回避せねばならなかった。迷路の狭隘さきはつたえても、舗装のほどこされていないぬかるんだ路面の描写は意識してかわす必要があった。人間としての荷風は、玉の井という猟奇的で淫靡な地帯に舌なめずりせぬばかりのしんしんたる興味をおぼえながらも、作家としては夢と詩をはぐくむことに専心したのである。」

「『ひかげの花』では荷風文学最大の特徴である風景描写や季節感まできれいさっぱり切り棄てられてしまったが、『濹東綺譚』ではふたたびそれが重用されているばかりか、どれほど短くみても大正十年の『雨瀟瀟』以来十五、六年ぶり、長くみれば『深川の唄』をはじめとする明治四十二年の帰朝直後作以来ほぼ三十年ぶりに、主人公即作者自身としてのおのれを、ほとんど開き直ったといったかたちで前面に押し出している。さらに、一群の花柳小説や女給ないし散娼の生態をえがいた作品 - 『腕くらべ』、『夏すがた』、『おかめ笹』、『かし間の女』や『あぢさゐ』、『つゆのあとさき』、『ひかげの花』などでは意識的に作中から作者を閉め出すような世界ばかり構築していたのであったが、『濹東綺譚』では一転して《わたくし》が主人公となり、その《わたくし》が作者たる永井荷風自身であることを、手をかえ品をかえながらなんとか読者に肯定させようと懸命に努力しているほどなのである。」

「いったい、荷風には、いうところの私小説はひとつもない。あるとすれば、せいぜい『西遊日誌抄』と『雨瀟瀟』、小品文の『狐』、『葡萄棚』、『雪の日』、『梅雨晴』くらいのものであろう。が、表面的には三人称の客観小説をよそおいながらも、帰朝直後の『深川の唄』、『曇天』、『監獄署の裏』、『祝盃』、『歓楽』、『新帰朝者日記』、『冷笑』などの諸作は、いずれも文明批評を意図した自己主張の文学であった。そして、彼はそれらの主人公ないし主人物が自身だとみられることを避け、かつ嫌っておきながら、しかも一方では自身であることを知ってもらいたい思いをもひそめている。『冷笑』の吉野紅雨に、《私は已に「深川の唄」と云ふ小篇 - お読みになりましたか - 私はあの小篇の中にも書いて居た。》などといわせているのが典型的な例だろう。したがって、昭和十年代初頭の『濹東綺譚』は、三十年前の明治四十年代に回帰した、復古的な作品だという見方も成立しないではない。」

「事実、荷風は自身のありとあらゆる過去の文学的蓄積を、この一作に復活再用して新しい生命を附与している。・・・『日和下駄』に書いたのは大正三年・・・、以降彼の作品には晴天の日に蝙蝠傘を携行する人物はまったく登場しない。それを、この作品ではお雪との出会いという最も重要な場面に復活させている。そのうえ、『つゆのあとさき』や『ひかげの花』はおろか、『雨瀟瀟』あたりを最後に随想、考証類以外ではすっかり放棄されていた懐古趣味、文人気質、厭人癖、反秩序、地誌的探索、風景描写、季節感その他あらゆる荷風的な要素の集大成がこころみられているのである。」

「その結果、当然のことながら、《わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。/おぼろ気な記憶をたどれば、》というふうに展開する作品の発端から作者はうしろ向きの姿勢をしめしている。・・・山谷堀の古書店に行き、そこで店主から為永春江の「芳譚雑誌」を見せられて、《明治十二年御届としてあるね。この時分の雑誌をよむと、生命が延るやうな気がするね。》といっている。また、お雪の取り扱いも「芳譚雑誌」とまったくおなじで、《わたくし》にとっては過去を思い出させてくれる媒体となっている。

《いつも島田か丸髷にしか結つてゐないお雪の姿と、溝(どぶ)の汚さと、蚊の鳴声(なくこえ)とはわたくしの感覚を著しく刺戟し、三四十年むかしに消え去つた過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこの果敢(はかな)くも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。お雪さんは南北の狂言を演じる俳優よりも、蘭蝶を語る鶴賀なにがしよりも、過去を呼返す力に於ては一層巧妙なる無言の芸術家であった。》

この第六章にみられる一節と、第九章にみられる《お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらしめたミューズである。》という記述から、その間の事情がうかがわれるのである。文中の《お雪》とある部分に私は《「芳譚雑誌」》という文字をこころみに置き換えてみて、そう感じたのであった。お雪は魔窟で春をひさぐプロスティテュートであっても、『夏すがた』の千代香や、『かし間の女』の菊子や、『あぢさゐ』の君香や、『つゆのあとさき』の君江や、『ひかげの花』のお千代のような淫獣ではない。娼婦でありながら、《わたくし》にとっては《消え去った過去の幻影を再現させてくれる》媒体として取扱われているために、ほとんど肉体を感じさせないほどである。だから、彼女が身を置いている現実の玉の井は淫靡で不潔な場所であっても、お雪は、そして『濹東綺譚』はひたすら美しいのである。」

「・・・『濹東綺譚』のばあい・・・主人公の名は大江匡(ただす)、住所も・・・《麻布区御箪笥町一丁目六番地。》ということになっている。が、事実に相違しているのはこの二点だけで、他はすべて《わたくし》すなわち永井荷風という態度でつらぬかれている。これでもか、これでもかというほど、それは執拗に立証される。《亡友唖々君》と実在の人名を出し、《若しわたくしなる一人物の何者たるかを知りたいと云ふやうな酔輿な人があつたなら、わたくしが中年のころにつくつた対話「昼すぎ」漫筆「妾宅」小説「見果てぬ夢」の如き悪文を一読せられたなら思ひ半(なかば)に過るものがあらう。》と、おなじく実在の荷風作品を挙げてみせるといった類である。が、実はこれこそが・・・却って『濹東綺譚』が私小説ではない、なによりもの証拠なのだ。

・・・私小説ならば、作者はけっして自身を説明しない。説明ぬきでも読者は自身が何者であるかを知っており、書かれてあることが事実だと思ってくれると、私小説作家は信じて疑わない。そのへんのところを荷風は十二分に承知の上で、ことさら《わたくし》を説明している。説明して事実であるかのように仕組むことによって、虚構にリアリティを附与しているのである。・・・」
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2015年4月22日水曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(14) 「7 画にならぬ場所」 (その2終) : 「重吉は《人間もかうまで卑劣になつたらもうお仕舞ひだ》と一応は考えながら、世の醇風美俗などどこ吹く風と自身のくらしぶりを肯定している・・・。醜悪無慙には相違ないものの、それはひとつの反社会的思想・・・、反秩序的倫理観の発露であった。 時代はすでに満洲事変下におかれていて、そのころ、大陸の風雲は急であった。」

江戸城(皇居)東御苑 2015-04-22
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 「・・・『ひかげの花』が書かれた前年の昭和八年はプロレタリア文学の退潮にともなって、文芸復興の声が高まっていた。宇野浩二が大患から立ち直って、徳田秋声がスランプを脱し、谷崎潤一郎が『春琴抄』を書くいっぼう、志賀直哉の『万暦赤絵』も出ていた。そして、九年の上半期には横光利一の『紋章』があらわれ、新人として丹羽文雄と島木健作が台頭している。芸術派の復権と転向作家の新生にうながされて、「文学界」「行動」「文芸」などの文芸雑誌も創刊をみた。

 そんな文運の熱気は、かりに眼をつぶり、耳をふさいでも、夜ごと東京の街々 - 特に主として銀座へ出ていた荷風の煩に、その火照りを感じさせぬはずはなかった。『ひかげの花』には『つゆのあとさき』のような華やかさがみられず、醜業婦をあつかいながら『腕くらべ』や『つゆのあとさき』にはあった閨房描写もほぼ放棄した、荷風作品としてはきわめて地味におさえられた作品だが、その最も大きな原因がようやくきびしくなりつつあった検閲へのはばかりであったにもせよ、活気づいていた文壇に対する荷風一流の反骨がいっそうそのようにしむけたのではなかったろうか。その意味で、私はこの作品をいかにも文芸復興期における荷風らしい作品だというふうに受け取る。」

 「『ひかげの花』の梗概をのペると、新潟の旅館の二男に生まれた中島重吉は某私立大学に在学中、背任罪で入獄縊死した実業家の妾で麹町平川町に撞球場を経営していた十歳も年長のマダムとねんごろになって、撞球場の閉鎖後同棲生活に入った。するうち、女には幾人かの男と交渉があると知って問いつめると、自分は十九の時から三十歳までいやな男にもてあそばれたため、若いころの取り返しをしたいと思っているのだから大目にみろと逆襲される。すでに新潟の家族は旅館をたたんで朝鮮に移住していたし、いちど就職して失敗していた重苦は自身に生活力のないことを思い知らされていたので、ずるずるとその年増女の《男妾》になってしまう。」

 「・・・その年長の女が病死したとき派出婦会からまわされてきた家政婦が中川畔の船宿の家出娘=お千代で、死者の親戚なども去っていったあと、二人は当然のなりゆきとして肉体的に結びつく。
このとき重吉は三十三歳、お千代は二十八歳であったが、売り食いをしているうちにゆきづまってきて、ある日近所へ台所の買い物に出たお千代は以前派出婦として働いたことのある家の主人に声をかけられ、間もなくそこへ訪ねていって暮しの一時しのぎに男をとる。が、生活はいよいよ苦しくなる一方である。そんなとき、重吉が遠まわしに女給になることをすすめたので、お千代はその気になって銀座のカフエーを歩き回ってみるが、思うような店が見あたらぬままに、銭湯で知り合った初老の女からそれとなく謎をかけられたことを思い出して行ってみると、その家が売春の斡旋所で、しばらく雑用を手つだううちにお千代もそういう女のひとりになってしまう。が、重富には銀座のカフエーではたらいていることにしてあったので、お千代は気づかれていないものとばかり思いこんでいた。ところが、重吉はそれに気づいていたばかりか、かえって彼から《「其中には何とか生活の道を立てるから。お前、己に見込まれたと思って、もう姑くの間辛抱してくれ。なア。頼むよ。」》といわれる。
そうして、二人の合意の上でのひかげの生活がはじまるのだが、この作品のなかでは、そこのところが最も注目せねばならぬ点で、重吉はその新しい事態から自身が《異様な活気を帯びて来た。》ことを感じ、お千代は《夫の為めに働くのだと云ふことから羞耻の念が薄らいで、心の何処かに誇りをも感じる。》ようにすらなる。そういう悖徳(はいとく)的な心理が、この作品ではテーマになっている。ただの、風俗小説ではない。」

 「するうち、その種のいわゆる蔭の稼業にはつきものの手入れがあって、お千代の出入りしていた旅館の女主人が警察に挙げられたと、その旅館の女中に報らされる。お千代と重苦が急遽桜川町から浅草へ引越したのは追跡捜査をおそれたためだが、夕刊をみると他の旅館も踏みこまれていて、検挙者の氏名も出ている。そして、その夜お千代は先約のあった客と逢うために浜町の待合へ行くと、客が来るまでの間に先刻重吉からわたされた毎夕新聞を読み返しているうちに、検挙者中の一人の深沢とみという名と十九歳という年齢に気づいて小首をかしげる。深沢はお千代の実家の姓で、とみという名は自分が十八のとき産み落したたみという私生児と一字ちがいである。
けっきょくそれはお千代の実の娘で、おなじ桜川町の硝子屋の二階に間借りしていた伊東春子の線から、たみ子の居所がわかる。そして、ダンサアから醜業婦となっていた娘と同業の母は、初対面にもひとしい再会をする。作品は、そのたみ子が養女にやられていた女髪結いの客のひとりにもと柳橋の芸者であったお妾がいて、その旦那として親しみを感じていた塚山という男にあてたたみ子の長文の書簡で終っている。

 《母はわたくしに貸間の代を倹約するために母の家に同居したらばと云ひ、それから、もう暫くこゝの家にゐて、貯金ができたら、将来はどこか家賃の安い処で連込茶屋でもはじめるつもりだと云ひます。すると彼氏が、貯金はもう二千円以上になったと側から言ひ添へました。
わたくしは今まで行末のことなんか一度も考へたことがありませんから、弐千円貯金があると言はれた時、実によくかせいだものだと、覚えず母の顔を見ました。母は十八でわたくしを生んだのですからもう三十七になります。それだのに髪も濃いし、肉づきもいゝし、だらしなく着物をきてゐる様子は二十七八の年増ざかりのやうに見えます。外へ出る時はもつと若くなると思ひます。わたくしがホールにゐた時分にも、やはりお金をためて貸家をたてたダンサアがゐましたが、その人よりも母の方が猶若く見えます。ダンサアで貸家をたてた人は、みんなの噂では少し低能で、男の云ふことは何でもOKで、そして道楽はお金をためるより外に何もない人だと言ふはなしでした。母もやはりさういふ種類の女ではないかと思はれます。一目見ても決してわるい人でない事がわかります。若く見えてきれいですが、どこか締りのないところがあります。人の噂もせず世間話も何もない人のやうです。かういふ人が一心になってお金をためると、おそろしいものです。》

 手紙は、・・・自身をヒモという立場に落しきって、お千代に従属しているかのごとくに見せかけながら、実はお千代をあやつって生きている中島重吉の、陋劣きわまる処世術を裏側からささえているひとつのエッセイともみることができる。

《重吉には名誉と品格ある人々の生活がわけもなく窮屈に、また何となく偽善らしく思はれるのに反して、懶惰卑猥な生活が却て修飾なき人生の幸福であるやうにも考へられてゐる。》

 これは、作品の三分の二あたりの部分におかれている一節である。それゆえ、重吉は《人間もかうまで卑劣になつたらもうお仕舞ひだ》と一応は考えながら、世の醇風美俗などどこ吹く風と自身のくらしぶりを肯定しているといえるのである。醜悪無慙には相違ないものの、それはひとつの反社会的思想といっていけなければ、反秩序的倫理観の発露であった。
時代はすでに満洲事変下におかれていて、そのころ、大陸の風雲は急であった。」
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2015年3月23日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(13) 「7 画にならぬ場所」 (その1) : 『ひかげの花』 : 「作品から風景を排除して人間だけをみつめようとした、そういう覚悟というか、作家的態度がこの作品からはうかがえる」

ヤマザクラ 2015-03-23 代官町通り
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7 画にならぬ場所

「花柳小説が『新橋夜話』から『おかめ笹』までエスカレートしたように、私娼ものも昭和六年十月の『つゆのあとさき』から三年弱の時をおいて、九年八月の『ひかげの花』へとエスカレートする。・・・」

「私娼ものの第一作である昭和二年七月の『かし間の女』の主人公=菊子は《目のばつちりした鼻筋の通った、身丈(せい)のすらりとした好い女》で、その美しさは《活動写真の女優》にたとえられている。また、『つゆのあとさき』の主人公=君江は、その内実が私娼でも、表面はいちおう銀座の大カフエーにつとめる女給という職業女性である。それに、年齢の点でも、菊子は当時としてあまり若いともいえぬ《二十七八》であるにもせよ二十代には相違ないし、君江に至っては《二十》なのに対して、読者は『ひかげの花』の冒頭で、いきなり次のような描写に接することになる。

《・・・まだ夜具の中で新聞を見てゐる男の方を見返ったのは年のころ三十も大分越したと見える女で・・・》

これが女主人公のお千代で、中村光夫も昭和九年九月の『文芸時評』で《谷崎氏は「つゆのあとさき」の著者を人形遣ひに擬してゐた。なるほど「つゆのあとさき」の人物には人形の美しきがある。しかし「ひかげの花」の人形には人間の汚ならしさしかないのである。》といっているように、なんとも醜悪無慙なえがき方がなされている。が、ここで私が醜悪無慙だというのは、お千代の容色をさしているわけではない。お千代とその連れ合いである中島重吉との組合わせによって、二人の存在がなんとも醜悪無慙なものにみえてくるのである。

《男は鏡に映る女の顔が化粧する手先の動くにつれて、忽ち別の人のやうに若くなるのを眺めてゐた。眼の縁の小皺と雀斑(そばかす)とが白粉で塗りつぶされ、血色のよくない唇が紅で色どられると、くゝり顎の円顔は、眼がばつちりしてゐるので、一層晴れやかに見えて来るばかりか、どうやら洋装をさせても似合ひさうなモダーンらしい顔立にも見られる。それに加へて肉付のしまつた小づくりの身体は背後から見ると、撫屑のしなやかに、胴がくびれてゐるだけ腰の下から立膝した腿のあたりの肉付が一層目に立って年増盛りの女の重くるしい誘惑を感じさせる。》

この描写は重吉がお千代を見る眼であって、商店の主人が商品を見る眼である。しかも、その商品は生きものである。・・・

《男はお千代が今年三十六になって猶此のやうな強い魅惑を持つてゐるのを確めると、まだこの先四五年稼いで行けない事はないと、何となく心丈夫な気もする。それと共に人間もかうまで卑劣になったらもうお仕舞ひだと、日頃は閑卻してゐる慙愧と絶望の念が動き初めるにつれて、自分は一体どうしてこゝまで堕落する事ができたものかと、我ながら不思議な心持にもなって来る。》

・・・『ひかげの花』の重富はヒモである。中村光夫は前掲とおなじ文章のなかでいっている。

《「腕くらペ」の昔から、永井氏はただ一人の女しか描かなかった。「腕くらべ」の駒代、「つゆのあとさき」の君江、「ひかげの花」のお千代と、時代と風俗の相違によって、多少の程度のちがひはあるにしても、いづれも善良で単純で、その上多少は慾張りで、しかも極端に反省を欠いて無自覚といふ点では一致してゐる。
その実生活ではあらゆる種類の女を知ってゐる氏が観念の内ではただ一人の女しか育てなかったことは極めて特徴的なことと、私には思はれる。》」

「ところで、荷風は『断腸亭日乗』昭和十一年一月三十日の条に、自身が深いかかわりをもった異性として、いちどは家妻にむかえたこともある内田ヤイをふくむ十六名の氏名を列記して、それぞれに註をくわえている。そして、そのうちの一人である黒沢きみに対しは《本名中山しん、市内諸処の待合に出入する私娼、昭和八年暮れより九年中毎月五十円にて三四回出会ひ居たり明治四十二年生砲兵工廠職工の女》と記している。明治四十二年生なら、昭和八年げんざい数え年で二十五歳である。荷風より三十歳年少であった。また、当時の貨幣価値をげんざいに換算してみせるほど至難なことはないが、ちょうどその年に社会人となった私のたしかな記憶によれば、昭和八年当時における専門学校出身者の初任給は四十円、いまよりはるかに稀少価値のあった学卒者の初任給が六十円であったから、荷風が月々黒沢きみに与えていた支給額の貨幣価値もおおよその見当がつくだろう。
『断腸亭日乗』によると、荷風が最初に彼女を《竈(ヘツつひ)河岸(=浜町堀の西岸にある入り堀)の叶家》という待合で見かけたのは昭和七年の十二月十八日で、はじめて黒沢きみの名があらわれるのは八年の正月十日である。そして、そこには、《久しく六郷辺を歩まざる故鳥森停車場に至り切符を購はむとする時、偶然黒沢きみといふ私娼に逢ふ。立談してわかる。》と記述されており、同月二十六日に関係をもったのち、四月二十五日には《夜芝浦に黒沢を訪ふ。》とあって、以後芝浦、蠣殻町などでなんどかなじみをかさねた末、六月六日の項には次のように記される。

《晩餐後黒沢きみの行衛をさぐる手がゝりを得んものと思ひて、兼て聞知りたる其親戚の家を浅草東三筋町にたづねしが遂に得ずして止む。おきみといふ女の性行経歴はこれを委しくさぐり出さば必小説の材料となすに足るべきものと思はれしが故なり。》

しかも、翌九年三月二十八日の条には〈晡下鍛治橋外岩井三郎事務所を訪ひ黒沢しん及其情夫の身元調査書類を受取り、》という記述までが見いだされることになる。彼女が『ひかげの花』のお千代のモデルとみられる(成瀬正勝説)ゆえんだが、一方にはこれを否定する説(宮城達郎説)もあって、私はどちらかといえば否定説の側に立つ。」

「・・・つまり私の黒沢きみモデル否定説は、『ひかげの花』のお千代に特定のモデルはないとする説である。」

「お千代と重吉が間借りしているのは《芝桜川町の裏通に面して、間口三間ほど明放ちにした硝子店》の二階だが、桜川町の正式町名は戦前から西久保桜川町で、虎ノ門から神谷町の方向に進んでいくと以前の西久保巴町電停 - げんざいの明舟町バス停があるあたりの左側のり一劃で、・・・」

「・・・風景は荷風文学の源泉であって、そのためには《無理な方法を取》っても作品の拠り所にしようと意図したほどであったのだし、西久保桜川町から程遠からぬ距離のところには愛宕山や芝公園もあるのだから、ほんのすこし位置をずらせば、町並はともかくとして、背景に地形の変化をもとめることもさまで困難ではなかったはずである。にもかかわらず、『ひかげの花』における荷風はあえてそれを放棄して、西久保桜川町をえらんだ。画にならぬような場所に、お千代と重吉とを住まわせた。・・・桜川町の選定は明らかにひとつの意図をもっておこなった結果と断ぜざるを得ない。"
"なぜなのだろうか。考えられる理由のひとつは、大正十四年の十一月ごろまで赤坂新町に私娼の野中直をかこっていた荷風は、その直後に大竹トミとねんごろになっているが、そのトミの両親が西久保桜川町の路次奥で素人下宿をしていて、そこにかよいつめた体験をもっていることである。・・・それをあえて放棄して西久保桜川町としたのは、お千代ばかりか、重吉もともにひかげの存在であればこそ、二人は目立たぬ場所に置かぬばならぬと考えたからであったろう。」

「硝子屋の二階の表座敷には《伊東さんといふカフエーの女給》を住まわせて、二人は物干場に摸した裏座敷に住んでいるとした設定も、そうした周到な配慮に相違ない。そして、画にならない土地をことさらえらんだのは、風景描写を捨ててかかっていることを意味している。それは、彼の作風ないし作品の成立条件からいえば百八十度の大転換なのだが、作品から風景を排除して人間だけをみつめようとした、そういう覚悟というか、作家的態度がこの作品からはうかがえるのである。」

「・・・重吉がお千代の商売仲間の玉子と二人で彼女らの商売の仲立ちをしている荒木のおばあさんなる老婆を市谷本村町へたずねていくところがあるが、この作品における風景処理のしかたは、『つゆのあとさき』にあらわれるおなじ本村町界隈の取り扱いかたと比較検討してみればいっそう明瞭になるだろう。『つゆのあとさき』ではこのあたりの風景をさして《私は東京中での最も美しい景色の中に数へてゐる。》とまで書いておきながら、『ひかげの花』では、おなじ濠端の風景が一顧だにされていない。お千代が銀座のカフエーに職をもとめて歩くくだりでも、店内の様子やそこでの女給たちの接客態度が詳述されているのに、市街としての銀座はまったく描写されていない。他作品とは、大変な変りようである。
それに反して、二人が借りている硝子屋の二階の貸間の内部をえがいた場面では、人間の食生活に密着した牛乳壜とか小鍋といったもの - 演劇や映画でいえば大道具よりも小道具がクローズ・アップされる。」

「世間をはばかる二人の存在を中心にすえて、一群の夜行性動物の生態をうつそうとしたこの作品では、風景より風俗のほうが重要であり、風俗を通じて彼等の生き方をえがくという作者の意図は、かくしてぴっちりとさだまっている。・・・」
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2015年3月1日日曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(12) 「6 堤上からの眺望」 (その2終) : 「荷風は堤上のうらぶれた川島に託して、放蕩無慙(むざん)な自身の来し方をながめているのである。」

カワヅザクラ 2015-02-27 北の丸公園
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(前回)
「・・・・・・『おかめ笹』が、花柳小説としての終着駅となったゆえんである」

女給もの、『つゆのあとさき』の君江の造型
 「それにかわって登場するのがカフェーの女給ということになるのだが、女給もまた荷風の手にかかっては春婦の一形態でしかない。芸者以上に、その点では徹底している。・・・」

 「それでは、どのようにして(*『つゆのあとさき』の)君江の性格は造出されたのであろうか。荷風自身、『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』に先立つ、昭和六年十月二十二日付の谷崎潤一郎宛書簡のなかでのべている。

《五十歳を過ぎたる今日小生の芸術的興味を覚るは世態人心の変化する有様を見ることにて昔の戯作者のなしたる事と大差なく従つて思想上之といふ抱負も無御座候 それ故自分ながら気魄の薄弱なるには慚愧致居候 モデルは別に之と定りたる女もなし実験の上三四人同じやうな性行の女をあれこれと取合せて作り上げしもの之はドーデが屡取りし方法に御座候》

過大な謙遜は割引きして読むほかはないとして、君江のモデルは実際に複数者の合成人物であったのだろうし、誰と誰の合成か、そんなことはかりにつきとめられるとしても知る必要のないことである。

 なぜなら、荷風は『つゆのあとさき』の執筆にのぞんでにわかに君江という人物を造型したのではなくて、君江の原型ともいうべき性格づくりを、恐らくはまだ『つゆのあとさき』などという作品の構想がカケラほども念頭になかったはずの数年前から、すでに着々とこころみていたことが、われわれにはわかっているからなのである。大正十五年の『かし間の女』、昭和五年の「夢』、六年の『あぢさゐ』などがそれであって、そうしたかずかずの試行錯誤のはてに把握した性格を具象化したのか『つゆのあとさき』の君江に相違あるまい。・・・」

『かし間の女』
 「・・・『かし間の女』から触れていけば、二十七歳の小村菊子は・・・」
"「こういう(*『かし間の女』の菊子の)性行が『つゆのあとさき』の君江と符合して一卵性双生児の観すらあるといえば、牽強のそしりをまぬがれないだろうか。菊子がそのまま君江になり変ったのではないにしても、『かし間の女』を書いたことが荷風に『つゆのあとさき』を書かせたことは、まずまちがいない。『かし間の女』の末尾にちかい部分で、作者は作中人物のひとりに語らせている。

《公娼がだんだん廃(すた)って芸者が流行り、芸者が下火になって私娼が流行り出すのは時代の趨勢で仕方がない。徹底的に私娼を一掃しやうと言っても到底一掃し得られるものぢやないぜ。》

こういう見解のもとに、その種の作品が産み出されていく。」

『夢』
 「次に『夢』だが、これは発禁をおそれたらしく、《わたし》なる人物が夢のなかで出逢った、作者の分身とおもわれる老人にきいた談話という、戟前の作品らしい遠慮がちな形で書かれているのにもかかわらず、執筆当時にはついに発表の機会が得られぬまま、戦後の昭和二十七年に至ってはじめて陽の目をみたといういわくつきの作品で、・・・作品としては取り立てていうほどのものではないが、・・・」

 「・・・《好い男ぶつてゐるお客ほど気障なものはない事ヨ。 一番きらひヨ。 それから恋愛だの情熱だのといろいろな事を云ふ人も面倒くさくツていやだわねえ》と語る個所に至って、いちだんと『つゆのあとさき』の君江に接近する。」

『あぢさゐ』
 「また、『あぢさゐ』は下谷の枕芸者におぼれた三味線ひきが多情な女のしうちに殺意をいだくが、それより早く女は他の男に殺されるという筋立ての小篇で、《年は丁度二十、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図愚図でれでれと月日を送ってゐる。》という点などが、やはり濃密に君江と共通している。」
"「いったい『つゆのあとさき』は女給ものの集成とよばれて、それが定説化している模様だし、私なども今回あらためてやや系統的に関連作品を読み返してみるまでは、ただうかうかと流説を鵜呑みにしていたのであったが、こうしてつぶさに検討してみた結果、かならずしも女給ものの系譜の上に立っているわけではないことに気づかされた。」

『つゆのあとさき』=女給ものの集成、ではない
 「そこで以上の記述をざっと整理してみると、『雪解』のお照は職業が女給だというだけで『つゆのあとさき』の君江の性格とは無縁である。『カツフヱー一夕話』 のお蔦もまた然りで、君江に直線的なつながりをもつ『かし間の女』の菊子はカフエーに出入りすることのない私娼であり、『夢』の《女》は芸者、『あぢさゐ』の君香もまた芸者なのだから、『つゆのあとさき』が女給ものの集成だという見方はもはや撤回されるべきだろう。そして、芸者という職業女性にはおさめきれなくなって、芸者からはみ出るものを女給のなかに盛りこんだ作品が『つゆのあとさき』であったとみるべきなのである。」

「谷崎潤一郎は『「つゆのあとさき」を読む』のなかでいっている。

《「芸術的感興なんて、もうそんなものは持ち合はせない。心理がどうだの性格がどうだのつて、そんな面倒くさい詮索もイヤだ。己は唯自分の見た女や男を玩具の人形にして暇ツ潰しをするだけだ」と、作者がさう云ってゐるやうな気がする。・・・》

 「(しかし)・・・荷風はやはり君江がどのような性行の女かをえがきたかったのだろうと思う。そして、その一点に、この作品がもつ花柳小説からの文学的飛躍をみとめずにいられない。」

『つゆのあとさき』の君江
 「埼玉県の菓子屋に生まれた二十歳の君江(実名=君子)は、十七歳のとき小学生時代の友人で牛込の芸者から妾になっていた京子をたよって上京すると、その旦那である川島の世話で保険会社の事務員になって課長に身をまかせたのち京子とともに待合や結婚媒介所へ出入りするようになるが、京子が検挙をおそれて富士見町の芸者になったとき上野池ノ端のサロン・ラックへ女給として入ってから、やがて銀座のドンフワンに移る。そして、女給になる以前から交渉をもっていた法学博士でもと某省の高等官であった松崎という六十歳の男と、池ノ端以来の客で三十六歳の作家=清岡進の二人をパトロンにもちながら、自動車輸入商の支配人や西洋舞踊家などとも刹那的悦楽にふけっているような女である。」

肉体の老化を自覚しはじめていた荷風自身の悲愁
 「さらに『腕くらべ』の菊千代と君江とは根本のところで違っていると私はいったが、菊千代は抱え主をもっていて買われる女で、君江はみずからの意志で自発的に売る女である。消極に対する積極で、荷風はここで女の制禦しがたい性慾というものに直面している。そして、そこに性の荒廃と虚無とを感じて、みずからの老いを知ったのであろう。」

 「君江は四番町の外濠に面した土手公園でおちぶれはてた京子のかつての旦那の川島に逢って、自身の部屋へ連れ戻るとおのれのからだをくれてやるが、そのあと川島が遺書をのこして去るところで『つゆのあとさき』は終っている。その結末にも半生を淫事に埋没した男の末路のあわれが感じられるが、私はそうした結末よりも、土手公園の堤上で川島が君江に語りかけるというよりは、自己自身にむかって語りきかせるような言葉のうちに、ただの感傷としてではなく、現実に肉体の老化を自覚しはじめていた荷風自身の悲愁をみる。

《「成程小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じやうに向(むかう)を眺め、「あすこの、明いところが神楽阪(ママ)だな。さうすると、あすこが安藤阪(ママ)で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似をしたもんだな。併し人間一生涯の中に一度でも面白いと思ふ事があればそれで生れたかひがあるんだ。時節が来たら諦めをつけなくつちやいけない。」》

安藤坂は大曲から伝通院前へのぼる坂で、戦中作の『浮沈』の主舞台としても取り扱われている牛天神は、安藤坂の坂下からいえば中途右手にある北野神社で、土手公園の濠をへだてた対岸にはげんざいビルディングが櫛比(しつぴ)して往年の面影をすっかりうしなっているが、戦前は夜になると真暗になってしまう一帯であった。それだからこそ、《あすこの、明いところが神楽阪だな。》という言葉が生きている。・・・」

自分の生誕地を眺める荷風=「放蕩無慙な自身の来し方をながめている」
 「自裁を直前にした川島が末期の眼で見ているのは小石川の高台で、小石川は荷風の生誕地である。荷風は堤上のうらぶれた川島に託して、放蕩無慙(むざん)な自身の来し方をながめているのである。」
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2015年2月24日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(11) 「6 堤上からの眺望」 (その1) : 「『つゆのあとさき』は、むしろ空前のカフエーやバアの最全盛期に執筆されたといわれるべきなのである。」

カワヅザクラ 2015-02-20 北の丸公園
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6 堤上からの眺望

『おかめ笹』(大正7年1月)から『つゆのあとさき』(昭和6年10月)の間
 「親がかりであった外遊前や外遊中は別として、明治四十一年に帰朝した荷風は柳橋に遊び、新橋の妓に狎れしたしんで、刺青をし合ったり、家へ入れるまでに至っている。そして、そういう遊蕩状況は大正五年ごろまで持続される。『新橋夜話』や『腕くらべ』がそうした体験のなかからうまれ、『夏すがた』から『おかめ笹』に至った文学的経路を私は前章で《麻布十番までの道》とよんで、彼の花柳小説をついに行き着くところまで行き着いたとみた。その先には『つゆのあとさき』、『ひかげの花』の世界しかなかったとのべたのであったが、もしここに代表作中心の荷風略年譜といったものを作製するとしたら、大正七年一月の『おかめ笹』から昭和六年十月の『つゆのあとさき』に至るまでの間にいかなる文学的業績をえらんでかかげるべきだろうか。」

 「ひとくちに大正七年から昭和六年までといっても、その期間は実に十四年間で、年齢的にいえば四十歳から五十三歳 - 中年から初老に至る、作家的には完成期に相当するもっとも貴重な歳月が空白ではないまでも、甚だしく充実を欠いている。四十歳にして過半の新進作家がようやく名を知られる現状に、この年齢をあてはめることはゆるされない。荷風は当時、すでに大家のひとりであった。昭和二年にみずからの生命を断った芥川龍之介がかぞえ年でも三十六歳であったといえば、思いなかばに過ぎるものがあるだろう。大正十年の『雨瀟瀟』にみられる陰々滅々たる心情がどこから生じているか、想像に難くない。」

(『雨瀟瀟』の一節)
 《されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之儘(これなきまゝ)一字金一円と大きく吹掛け居候ものゝ実は少々老先心細くこれではならぬと時には額に八の字よせながら机に向つて見る事も有之候へども一二枚書けば忽筆渋りて癇癪ばかり起り申候間まづまづ当分は養痾に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節若き頃読耽りたる書冊埒もなく読返して僅に無聊を慰め居候次第に御座候。》

いかにひどいスランプ状態であったか
 「当時の原稿料は、広津和郎の『年月のあしおと』によると、《大正六年に「中央公論」にはじめて書いた時は一円》であり、同八年に《今までの一円を二円》にされ、《大正十二年の震災前に五円になった。》とのことである。荷風は広津和郎より文壇的に先輩であったから、これより多額の稿料を獲ていたことは確実だが、それにしてもこういうデータに照合すれば、荷風が《一字金一円》つまり一枚四百円と《大きく吹掛け》たと記していることが、冗談にもせよ、いかにひどいスランプ状態にあったかをものがたっている。

 そういう状態のなかで書かれた『雪解』から『夜の車』に至る諸作は、・・・素材の上では花柳小説から去って一歩新境地へ足を踏み入れているのにもかかわらず、失敗作という意味ともまたすこしちがって、作品がしずんでいる。生色がみられない。」

今や実際、カフエの黄金時代である
 「・・・『腕くらべ』中にみられる《千人近い新橋芸者》とか、《新橋南北壱千八百有余名》という数字を昭和四年十二月に中央公論社から出版された『新版大東京案内』の記載にひきくらべてみると、新橋六四四人、新橋南地二一一人で合計八五五人だから約半数に減少している。しかも、同書には次のような記述もある。

 《なぜ花柳界が苦悶をする。それはいふまでもない、日を追ふて発展するカフエーとバーの圧迫、取分け激しかつた昭和四年の夏枯れに加へて、浜口内閣の高圧的な緊縮政策といふ風で、まるで花柳界は三方から詰め腹でも切らされさうな有様になった事である。新橋などでは六百四十四人の芸者が、一晩に三十八人しか動かなかったといふみじめな事さへ出来上った。同じ日に柳橋と葭町と新橋の三ヶ所を調べたら、三ヶ所合計千六百余人の芸者中で、動いてゐるのは僅かに百人であった。》」

 「それに対して、花柳界に《圧迫》をくわえたといわれるカフエーやパアのほうはどうであろうか。奇しくも『新版大東京案内』と同年同月に四六書院から出版されている酒井真人の『カフヱ通』をのぞいてみることにしよう。

 《今や実際、カフエの黄金時代である。この日に増す世間の不景気に反比例して、何んといふ驚くべきカフエの膨脹振りであらうか。
統計学のやうにして、試みに今この驚くべきカフエの膨脹振りを数字で現すならば、四年八月現在の調査による都下(東京)のカフエ、バーの数は、カフエ六千百八十七軒、パー千三百四十五軒である。(略)そしてしかも、私の知つてゐる限りに於てさへ、この数字の示された八月からこの方、それからそれへと新らしくカフエやバーが殖えて来てゐるのだ。》

『つゆのあとさき』は、空前のカフエーやバアの最全盛期に執筆されたといわれるべきなのである
 昭和五年九月から翌六年二月にかけて広津和郎が「婦人公論」に長篇小説『女給』を連載して大きな反響をよび、その主題歌まで大流行したのも、こうした社会風俗の反映にはかならない。『つゆのあとさき』は『女給』が完結したのと同年の十月に発表された作品だが、その時分には「女給の流行も既に盛を越したやうである。》とのべている荷風の言にもかかわらず、昭和四十二年六月に社会思想社から出版された『明治・大正・昭和 世相史』昭和九年の欄には「全国カフエー・バーの数は約三万、内、東京七千、女給数二万二千》とあり、誠文堂新光社から昭和十二年九月に出版された「日本地理風俗大系」中の『大東京」篇をみると、《相当の盛衰はあるがなほ大銀座街における無慮二〇〇のカフエーの中、女給一〇〇人以上を使用するもの六を数へるの盛況である。》と記録されている。『つゆのあとさき』は、むしろ空前のカフエーやバアの最全盛期に執筆されたといわれるべきなのである。

 が、それならば荷風はなぜ『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』のなかで、《既に盛を越した》などとのべたのであろうか。まず大正四年二月に妻=ヤイと離婚したのちの彼は複雑な異性関係をもって転々と居を移しているので、宮城達郎編著『永井荷風の文学』巻末に収載されている竹盛天雄作製の『年譜』によって、その足跡をたどってみよう。

(*一部に改行を加えた)
大正四年五月、《京橋区築地一丁目に移宿し、清元梅吉のもとに出入し清元節に励んだ。》
同年十一月、《宗十郎町の妓家に隠れ住》む。
大正五年正月、《浅草旅籠町一丁目一三番地米田方に転居(先年の三月、新橋芸者米田みょを身受けしたのをここに囲っていた。)》
同年五月はじめ《旅籠町の住居を引き払って大久保余丁町本邸に帰り、玄関の六畳を断腸亭と命名し、そこに起居した。》
九月、《ふたたび浅草旅籠町に住んだが、一か月余り余丁町に帰った。》
十二月、《米田みよと縁を切り、神楽坂の妓中村ふさとの関係が始まった。》
大正六年九月、《木挽町九丁目に住み、家を無用庵と名づけた。》
《この年、中村ふさを女中がわりとして家に入れた。》
大正七年十二月、《余丁町の邸宅を売り、築地二丁目三〇番地に移居した。》
大正八年十二月、いったん四谷の芸者となっていた《中村ふさを家に入れ妾とした。》
大正九年五月、《麻布市兵衛町一丁目六番地に偏奇館を完成しこれに移居した。》

 そして、大正十五年夏以降、独身生活の欠をみたすために銀座尾張町のカフエー・タイガーで夕食をとることが多くなって、関心を女給にかたむけはじめている。ひとたび何らかの対象に没入すると、荷風の執拗さには驚くべきものがあることについては、これからおいおいのべていくこととするが、『つゆのあとさき』執筆当時の彼は、すでに興味の対象を別種のところに移している。したがって、《既に盛を越した》のはカフエーそのものではなくて、彼のカフエーに対する関心が《盛を越し》ていたのである。」

 「私の見落しでなければ、『雪解』(*大正11年)あたりが女給を取り上げた荷風の最初の作品であろう。浅草瓦町の玩具雑貨輸出問屋の主人であった田島兼太郎は、株式の大崩落で家倉をなくしたすえに築地本願寺横手の路地奥で二階借りをしながら、もと瓦町の店の使用人であった男の店で、いまは《電話と家屋の売買を周旋する所謂千三(せんみつ)屋の手先》にまでおちぶれた身となって、偶然銭湯で実の娘のお照と避逓する。そして、そのお照が女給になっていて、人形町のカフエーから日比谷のカフエーに鞍がえする時機が背景となっている。
この『雪解』は北原武夫も高く評価していたひとりで、彼の指摘した観点からいえば秀作のひとつだが、いったん銭湯でわかれたのち夜になってからたずねてきたお照が鋼壷(どうこ)の中から取り出した二合壜で酌をする手つきから、娘が水商売に入っていることを兼太郎がさとる・・・。つまり、『雪解』は作品に女給が登場するというだけのものであって、芸者にかわる新時代の職業女性がえがかれているというような作品とはいえない。」

『つゆのあとさき』の先駆的作品は、『かし間の女』、『夢』、『あぢさゐ』、『夜の車』
 「・・・『おかめ笹』から『つゆのあとさき』に至る十四年間に発表された諸作のうちで『つゆのあとさき』に直接かかわりのある作品 - 『つゆのあとさき』の先駆的作品ということになれば、『かし間の女』、『夢』のほかに『あぢさゐ』と『夜の車』を挙げるべきだろう。・・・」

『おかめ笹』が花柳小説としての終着駅となったゆえん
(ここで花柳小説の最後たる『おかめ笹』前後の話に戻る)
「・・・いわゆる芸者遊びは、およそ三種に大別できるかと思う。客が単数か、もしくは複数の芸者をよんで浅酌をかたむけながら絃歌をたのしんでさっと引き揚げる平(ひら)の座敷と、宴席ならびに枕席である。・・・」

 「・・・荷風の花柳小説では新橋を取り上げている『腕くらべ』においてもほぼ枕席に終始していて、里見弴の表ないし明に対して、裏または暗の面が展開される。すなわち、荷風作中の芸者は歌舞音曲等の遊芸を表看板とする職業女性ではなく、公娼や私娼とさしてえらぶところのない春婦であって、・・・。神楽坂をえがく『夏すがた』や、富士見町や白山をえがく『おかめ笹』に至って、その偏向はいよいよ顕著となる。内実はどうあれ、芸者は一応建前として芸と粋(いき)とが売りものである以上、《箱無しの枕芸者》(『あぢさゐ』)ばかりになっては、花柳小説の花柳小説たる特徴がうしなわれる。特徴をみずから放棄しては、ゆきづまらざるを得ない。『おかめ笹』が、花柳小説としての終着駅となったゆえんである」
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2015年2月7日土曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(10) 「5 麻布十番までの道」 (その2終) : 「『おかめ笹』では翰(主人公)を当時としては最下級の花街であった麻布十番へ追い詰めるまでにその無慙さをエスカレートしたとき、ついに花柳小説としての限界・・・最後の壁に衝き当ってしまった・・・。その先には、もはや『つゆのあとさき』から『ひかげの花』に至る世界しかなかった・・・。」

北の丸公園 2015-02-06
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 「・・・彼の年譜をみておく・・・。明治四十一年七月に帰朝した彼は同年秋に柳橋芸者=小勝(鈴木かつ)となじんでいるばかりか、翌四十二年正月から十一月ごろまで浜町不動新道の私娼=蔵田よしとまじわったいっぼう、新橋=新翁家の富松(吉野コウ)と四十二年夏から翌年九月ごろ彼女が落籍されるまで情をかわした。重層的愛慾生活がおこなわれたわけである。富松のことについては『きのふの淵』にくわしいが、腕にたがいの名(荷風の場合は《こうの命》)を刺青し合ったという逸話をのこしている・・・」

 「つづいて四十三年六月に登場するのが新橋巴家の八重次(内田ヤイ)こと後年の舞踊家=藤間静枝(のち藤蔭静樹)で、彼女との仲は大正四年までつづいていったん中断後、大正九年から十一年まで復活状態にはいっている。

 そして、荷風にはその間に明治四十三年二月から大正五年三月に至る六年間にわたっての慶応義塾大学文学科教授と「三田文学」主幹という生活がはきまり、大正元年九月には本郷湯島の材木商=斎藤政吉の二女=ヨネとの結婚(二年二月離婚)、翌年一月には父=久一郎の死、三年八月には市川左団次夫妻の媒的で内田ヤイと再婚(四年二月離婚)という事態が生じている。これを客観的にみれば、父は死ぬ、離婚はした、あとは何をしてもよいという状況に彼はおかれることになったわけである。」

 「そういった体験のなかからつむぎ出されて『新橋夜話』として一括された諸篇のうち、たとえば『松葉巴』では神田明神下の花街=講武所の小玉という芸者がヒロインになっているように、その背景はかならずしも新橋のみにかぎられてはいない。・・・吉田精一の『荷風と女たち』によれば、《「短夜」「昼すぎ」わけても「風邪ごゝち」、随筆「妾宅」などは、いずれも八重次をモデルにした》ものであるという。・・・」

 「また、『新橋夜話』一連の作品群は、背景ばかりでなく、その内容においても同一傾向のものばかりが蒐められているわけではない。大きく分ければ抒情的ないし情緒的な傾向と、リアルな傾向の二種にしぼられるかとおもうし、後者のなかには滑稽味をおびたものすら混在していて、『風邪ごゝち』、『松葉巴』、『短夜』、『昼すぎ』と『見果てぬ夢』などが前者に属し、『掛取り』、『色男』、『名花』、『五月闇』、『浅瀬』などが後者の部類に振り分けられる。そして、私が本章の冒頭に近いあたりで、彼の花柳小説に対して《花柳情緒に陶酔する感受性がすでに磨耗してしまった地点》で書きはじめられたと先まわりして指摘しておいたのは、この場合の後者に該当する。・・・」

 「しかし、それ以後の作品では後者の傾向がいよいよ濃密となって、前者の傾向はいちじるしく衰退するばかりか、やがては無に近い状態にまで変容していくことになるのだが、ここで彼の花柳小説とよばれる四作品の初出年月をみておくことが必要になる。
1、『新橋夜話』 明治四十三年一月
2、『夏すがた』 大正四年一月
3、『腕くらペ』 大正五年八月
4、『おかめ笹』 大正七年一月

 『夏すがた』は書きおろしとして出版された直後に発禁となったため、私も他の大部分の読者と同様に敗戦直後の昭和二十二年三月に扶桑書房から上梓された・・・」

 「荷風ほど、後日になってから自作をいじりまわす作家はめずらしい。日記までひとたび公刊したものを改訂するなど、その例のさいたるもの・・・
・・・岩波書店版「荷風全集」第六巻の『後記』をみると、『腕くらべ』に関しては次のように記載されている。

《一九一六年(大正五)八月発行の「文明」第一巻第五号から一九一七年(大正六)十月発行の第十九号(第二巻)へかけて、連載十三回をもって打切った。そのかん、第十四号(第二巻、一七年五月)と第十八号(同年九月)においてだけ休載だった。
 そのご存分に朱を加えて、一九一七年(大正六)十一月十三日に改稿を終え(『断腸亭日乗』巻之一・其月日)、十二月、その初版を十里香館の私家版「別刷五拾部限」として知友に頒った。
あくる一九一八年(大正七)二月、この私家版の紙型にもとづき、およそ一万数千語を省略したものを、十里香館版として新橋堂から発売させた。流布本の初版である。さらに十月、この十里香館版を京橋堂から再版発売した。以上、三本は、ほぼおなじ装帖である。こえて一九二〇年(大正九)二月、同一紙型による流布本第三版が、装帳をやや新たにして春陽堂から刊行された。この本文がいくらか修訂されて元版全集第五巻(一九二一年七月)におさめられ、さらに多少の加筆のうえ、重版全集第五巻(一九二五年六月)に収録された。流布本の定本といっていい。》」

 「・・・さきに私が『新橋夜話』中の諸作を二分割した後者 - リアルな傾向は夏すがた』、『腕くらべ』を経たのち『おかめ笹』までエスカレートする。・・・」

 「通常『おかめ笹』を取り上げるばあい、『腕くらべ』の新橋という一流地に対して、二流以下の富士見町と白山が舞台になっていることが挙げられるし、それはその通りに相違ない。が、私としては、荷風が『腕くらべ』でも脇役の山井要と尾花家の次男坊=滝次郎を浅草千束町の銘酒屋まで追い落したように、『おかめ笹』では主人物である内山翰をついに麻布十番まで追いこんだとこうに注目したい。『夏すがた』でノゾキによる煽情という醜悪無慙な男女図をくりひろげた荷風は、『腕くらべ』で駒代と菊千代の衣類をはぎ取って裸体としたあと、『おかめ笹』では翰を当時としては最下級の花街であった麻布十番へ追い詰めるまでにその無慙さをエスカレートしたとき、ついに花柳小説としての限界という表現を避けるとすれば、最後の壁に衝き当ってしまったのである。その先には、もはや『つゆのあとさき』から『ひかげの花』に至る世界しかなかったのも、ある意味では当然であった。」

 「『おかめ笹』の末尾に、《この小説は大正四五年頃の時代を写したるものと御承知ありたし大正七年以後物価の騰貴人情の変化甚しければこゝに一言御断り致す也》という作者自身の附言が記されてあるが、石田龍蔵の『明治変態風俗史』をみると富士見町花街の開設は明治二十年、学生たちがたわむれにモンブランとよんだ白山は明治四十五年(大正元年)、麻布十番は翌大正二年であるから、『おかめ笹』の時代背景が《大正四五年頃》であるとすれば、翰は開設早々(白山は銘酒屋が変身したもの)の土地に足を踏み入れたわけで、この点でも荷風が『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』のなかで《流行も亦既に盛を越した》から執筆したといっているのは、いささか事実に反しているわけである。」
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2015年1月27日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(9) 「5 麻布十番までの道」 (その1) : 「私には『狐』における裁判に対する疑惑や、『花火』における《良心の苦痛》や《甚しき羞恥》というような表現を彼一流の弁疏ないし文学的修辞とみて、あまりまともに受け取ろうとする気が起らない。振り廻されることを避けて通り過ぎるほうが、無難だという思いが強い。」

ウメとメジロ 2015-01-27 江戸城(皇居)東御苑
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 「《私は御存じの通り其後偶然にも欧羅巴の空気に触れた。耳新しい様々な響は此れまで保つて居た私の思想を滅茶々々にかき乱してしまった。私はもう二度とあの当時のやうなしめやかな感興で、深川の水と島田の娘を見る事ができない。今日もし私が洲崎の水楼に上つて夜半の絃歌を聴き、図らず一点の暗涙を落し得たとするならば、それは掛言葉で飾られ、七五の調子で綴られた憂川竹(うきかわたけ)の恨(うらみ)の唄そのものが私を泣かせるのではない。同じその唄を聴いて心の底から泣く事ができた十年前の私の身の上を、今の私が泣くのである。滅びた時代の思想をば押移つて来た次の時代から振返つて見た時、こゝに生ずる無限の暗愁は・・・・あゝ然(さ)うでした。私は巳に「深川の唄」と云ふ小篇 - お読みになりましたか - 私はあの小篇の中にも書いて居た。》

 『冷笑』の第四章『深川の夢』における作中人物吉野紅雨の述懐という形をかりてはいるものの、荷風のいわゆる花柳小説が、こうした心境のもとに書かれたものであることを看のがしてはなるまい。とくに、ヨーロッパの空気によって思想をかき乱された自分が、《もう二度とあの当時のやうなしめやかな感興》を取り戻すことができない人間になっているという点には注目を要する。先まわりして言っておけば、花柳情緒に陶酔する感受性がすでに磨耗してしまった地点で、彼の花柳小説は書きはじめられているのである。」

 「荷風には、自己自身の文学についての解明的な文章がすくなくない。そして、それがエッセイにのみとどまらず、たとえば右の 『冷笑』とか、『濹東綺譚』 のような作品のなかにまでみいだされるのが一特徴である。」

 「ここに取り上げることすら気はずかしいほどしばしば引き合いに出される例の『花火』のなかの、彼が大逆事件の容疑者を護送する囚人馬車をみて、《世の文学者と共に何も言はなかった》おのれを恥じた結果、《自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。》という記述なども、私にはまともにのみくだすことがためらわれる。がんらい荷風には、自身のいかなる言動に対してもなんらかの理由づけをせずにいられぬ性情がある一方、健康状態などについても誇張癖がいちじるしいが、囚人馬車をみても痛憤の念を一字も書きあらわさなかった心のいたみが花柳小説に筆をそめる動機であったなどとは、いかに時間的な符節が合っているとはいえ、こじつけも度が過ぎるというものだろう。」

 「なるほど文明批評家というきわだった一面をもつ荷風は、他の同時代作家に比して段ちがいに社会的関心がふかい。前章でも引いておいた《九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な「明治」》というようなきわめてアクのつよい反権力的言辞は、いたるところに見いだされる。が、それらはいずれも一社会人としての冷静な批判ではなく、まことに一方的な個人的気質から発したイヤミ、ないしは私憤的な様相をおびていて、正常な意味での思想的煩悶や痛苦などはカケラほども感じられない。どだい荷風は、社会主義的な世界観など持たぬ、政治社会の進歩改良というような精神とはまったく無縁の存在なのである。したがって、私には『狐』における裁判に対する疑惑や、『花火』における《良心の苦痛》や《甚しき羞恥》というような表現を彼一流の弁疏ないし文学的修辞とみて、あまりまともに受け取ろうとする気が起らない。振り廻されることを避けて通り過ぎるほうが、無難だという思いが強い。

 それにくらべれば、『花火』とまったく同一主旨のことをのべていても、昭和七年に書かれた『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』のほうがはるかに穏当で、妙なこじつけがないだけ自然な説得力をもっている。

 《大正改元の頃にはわたくしも年三十六七歳に達したので、一時の西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。(略) 日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持ってゐる。わたくしは専(もつぱら)これ等の感慨を現すために「父の恩」と題する小説をかきかけたが、これさへやゝもすれば筆を拘束される事が多かつたので、中途にして稿を絶つた。わたくしはふと江戸の戯作者又浮世絵師等が幕末国難の時代に在つても泰平の時と変りなく悠々然として淫猥な人情本や春画をつくつてゐた事を甚痛快に感じて、ここに専花柳小説に筆をつける事を思立った。「新橋夜話」または「戯作者の死」(=のち『散柳窓夕栄』と改題)の如きものは其頃の記念である。》

・・・私は右の一節のうちでも特に《筆を拘束される事が多かつた》ことから《江戸の戯作者又浮世絵師等》を想起したという点に注目したい。そし当時の彼がこうむった自著 - 『ふらんす物語』(四十二年三月)、『歓楽』(同年九月)に対する打ちつづく発売禁止処分こそ、かえって意地になって花柳小説におもむかせた直接の動機ではなかったろうかというふうに考えてみたい。・・・(同じ文章の続き)

 《わたくしは教師をやめると大分気が楽になって、遠慮気兼をする事がなくなったので、おのづから花柳小説「腕くらべ」のやうなものを書きはじめた。当時を顧ると、時世の好みは追々芸者を離れて演劇女優に移りかけてゐたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、其生活風俗を描写して置かうと思ったのである。カツフヱーの女給は其頃には猶女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見られてゐたが、大正十年前後から俄に勃興して一世を風靡し、映画女優と並んで遂に演劇女優の流行を奪ひ去るに至った。しかし震災後早くも十年を過ぎた今日では女給の流行も亦既に盛を越したやうである。是がわたくしの近著「つゆのあとさき」の出来た所以である。》

・・・、風俗小説といえども、けっして流行の波にのって執筆するのではなく、むしろその潮がひいてからのちに自分は対象に立ちむかっているのだと力説しているのであって、『腕くらペ』や『つゆのあとさき』にかぎっていえば、たしかに彼の言うとおりに相違ない。が、外遊以前の芸妓ものや、名作のひとつである明治四十二年七月の『牡丹の客』などは別として、一般に荷風の花柳小説ともくされているもののうちの最初の作品群にあたる『新橋夜話』一連の諸短篇は、かならずしもそういうものではなかった。・・・」

 「・・・大正五年から翌六年にかけて執筆された『腕くらべ』の第七章『ゆふやけ』のなかにも《千人近い新橋の芸者》とあり、第十章『うづらの隅』には《新橋南北壱千八百有余名》という記述がみられる。《南北》の《南》は南地、すなわち鳥森で、他土地といえばいえぬこともないにせよ、これを『近世日本世相史』中の明治四十一年度における全東京の芸妓総数三千八百という数字に照合すれば、花柳界の灯はとぼしくなっているどころか、いっそう煌々ときらめきわたっていたとみるほかはあるまい。」

「・・・『新橋夜話』は、そうしたいわば全盛期の花柳界を背景として次々に制作された諸短篇にあたえられた総題で、『新橋夜話』という作品があるわけではない・・・」
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2015年1月20日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(8) 「4 深川と深川の間」 (その2終) : 「あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる」(『深川の唄』)

江戸城(皇居)梅林坂のウメ 2015-01-20
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 「『深川の唄』発表までには、帰国後すでに半歳のときが経過していたのにもかかわらず、荷風はまだ外遊中の生理状態から完全には離脱しきっていなかった模様である。

《四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。》

『深川の唄』は、こんなふうに書き出されている。海外生活の延長であることが、あきらかに意識されている文章である。同時に読者に対しても、当時としては自身がかなり特異な体験をもつ人物だという注意を喚起している。・・・」


 「・・・『深川の唄』主人公を乗せた電車も茅場町あたりで停車してやむなく歩きはじめるが・・・

《自分は憤然として昔の深川を思返した。幸ひ乗換の切符は手の中にある。自分は浅間しい此の都会の中心から一飛びに深川へ行かう -- 深川へ逃げて行かうと云ふ押へられぬ欲望に迫(セ)められた。》

 その生涯を通じて、荷風がパリの次に最も愛した土地を、深川といっていけなければ墨田区から江東区一円にかけてではなかったろうかと私がいったことの根拠は、『元八まん』より一カ月早い昭和九年十一月に書かれた散策記『深川の散歩』、昭和十一年四月に書かれた小品文『放水路』などをふくめた上でのことだが、『深川の唄』の右の文章につづく次の一節にももとづいている。

《数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。電車はまだ布設されてゐなかつたが既に其の頃から、東京市街の美観は散々に破壊されてゐた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落との云尽し得ぬ純粋一致調和の美を味はして呉れたのである。》

 そして、当時の深川の風物をめんめんとうたいあげたのち、おもむろに現在のおのれへと立ち戻っていく。

《それ等の景色をば云ひ知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托した其頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思ってゐた。近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも云尽し得るものと安心してゐた。音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、そんな事は少しも自分の神経を刺戟しなかつた。そんな事は芸術の範囲に入るべきものとは少しも予想しなかった。日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由に云ひ現して呉れるものだと信じて疑はなかつた。
自分は今、髯をはやし、洋服を着てゐる。電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。時代の激変をどうして感ぜずにゐられやう。》

 それから、彼は深川不動尊の境内へ入っていく。・・・」


「『深川の唄』の主人公は、その境内で盲目の三味線ひきの歌沢節に耳をかたむける。

 (その三味線ひきは、)《・・・江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕉雑な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失ふと共に盲目になった。そして栄華の昔には酒落半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであらう。・・・》(と想像する)

 『曇天』、『監獄署の裏』、『祝盃』、『歓楽』、『新帰朝者日記』、『冷笑』などの諸作は、すべてこの『深川の唄』の延長線上にある。『深川の唄』を軸として、荷風の江戸趣味 - 江戸文化への傾斜は強められ、深められて、それがやがて花柳小説へと移行していく経過をたどることになる。それゆえ、あえてこの作品を重視したのだが、注意せねばならないのは、この作品の結びの部分である。

《自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いてゐたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪へられぬほど辛く思はれた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまひたい様な気がした。
あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……》

 深川ばかりではなかった。還暦を目睫にひかえてから、玉の井へ行っても、浅草へ行っても、この《運命》は生命あるかぎり彼からはなれていかぬものであった。《われは明治の児ならずや》とうたった荷風は、同時に山の手の児であった。深川も、玉の井も、浅草も、彼にとってはパリと同様、ある意味では異国であった。異国ゆえの愛であった。彼がそのことに気づかぬはずはなかったのに、それでもなお愛してやまなかった。
つけくわえておこう。荷風の深川関係のものには、以上のほかにも『雪の日』、『冷笑』の第四章『深川の夢』がある。・・・」
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2014年12月31日水曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(7) 「4 深川と深川の間」 (その1) 「四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。」(『深川の唄』)

江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-12-24
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4 深川と深川の間

深川、洲崎、『夢の女』
 「荷風の好きな土地といえば、晩年の彼から浅草を想いうかべる人がすくなくあるまい。・・・が、その生涯を通じて彼がパリの次に最も愛したのは、深川といっていけなければ隅田川以東 - げんざいの墨田区から江東区の一円にかけてではなかったろうか。」

 「『日和下駄』に《市中の散歩は子供の時から好きであった。》とのべられている一節があるように、荷風の散策には趣味の域を越えて、生来彼の嗜好にかなったものがあったことを看(み)のがしてはなるまい。」

 「ついに人間を愛することのできなかった彼も、市中の景況 ー 人間が住むことによって成立する陋巷のたたずまいは愛してやまなかった。町々もたえず変貌して、彼を裏切りつづけたことでは女性とえらぶところがなかったのにもかかわらず、次々と女性を棄てたのに反して、好きな町々はけっして見棄てなかった。それが、パリであり、浅草であり、吉原や玉の井であった。」

 「文末に、《甲戊》すなわち昭和九年《十二月記》と書きとめられてある散策記『元八まん』には、《三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ》後年の東陽公園のあたりまであるいたことを記した一節がある。」

 「・・・まだ部屋住みの身であった彼が《遊里に留連》できるほどの金を所持していた時といえば、金港堂から創刊された直後の「文芸界」の懸賞に応募した『地獄の花』が入選とはならなかったものの、三十五年九月に同社から出版されて七十五円の稿料を入手した折と考えるのが妥当だろう。白米一升が十五銭弱の時代の七十五円である。翌三十六年五月に新声社(のちの新潮社)から書きおろし出版された『夢の女』の主要部分は、その《留連》の間に獲た見聞の所産にちがいない。」

洲崎の暴風雨や海嘯
 「荷風は前掲の引用につづいて『濹東綺譚』のなかで、『夢の女』に言及している。
《曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくつた事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(つなみ)のことを写さないのは杜撰(づさん)の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子(きのえね)楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」と言はれた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。》」

 「広津柳浪に接近し、さらに清国人羅臥雲の紹介で巌谷小波の木曜会員となったのは明治三十二年初冬のことである。そして、木曜会月のなかでは押川春浪、生田葵山(きざん)、西村渚山(しよざん)と親交をもったから、『夢の女』に評言をくわえた《友人》というのは、荷風のかよった青楼の屋号まで知っていたところから考えて、井上唖々でなければ、右の三人のうちの誰かだったろう。」

 「洲崎遊廓は、本郷根津にあった遊廓が深川区弁天町 - げんざいの東陽一丁目の埋立地へ明治二十一年に移転したものだから、『夢の女』が書かれたころまでにはまだ十五年しか経過していない。その間に《甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか》ったとすれば、どんな立地条件であったか、およその見当はつくはずである。『夢の女』執筆の時期と時間的な至近距離にある明治三十七年版の『深川区全図』をみると、弁天町の南は海、東は弁天町より若干せまい洲崎養魚所、西は埋立地という荒涼たる環境だから、その埋立地をげんざいの夢の島の小規模なものだと想像しても、《暴風雨や海嘯》のすさまじさがしのばれる。」

 「売春防止法が実施されて、中央通りをバスが走るようになったげんざいの東陽一丁目という一廓と、明治三十七年 - 荷風が 『夢の女』を書いたのとほぼ同時期の洲崎遊廓とは、その面積、地形、ならびに道路区割に関するかぎり、正確に符合するといっても決して過言とはならぬほど一敦している。」

渡米以前の作品は習作期の延長にすぎない
 「明治三十五年四月の『野心』、六月の『闇の叫び』、九月の『地獄の花』、十月の『新任知事』、翌三十六年五月の『夢の女』、七月の翻案『恋と刃』、九月の『女優ナゝ』などがゾラの影響下に書かれた系列の作品だが、私は一応という但し書きをつけた上で、この時期をまだ荷風の習作期の延長、すくなくとも後年の荷風がなかったら、全集に収録されたり、後世の論者に取り上げられたりするほどのものであるかを疑う。」

 「それが一転して、確乎たる個性が確立されるのは、『あめりか物語』、『ふらんす物語』の年代 - すなわち明治三十六年九月の渡米以後である。

《明治以来、我国の文人で海外を旅行したものは数へ切れぬほどである。しかし、芸術家としての生涯の決定的な時期に外国にゐた作家は恐らく永井氏一人なのではなからうか。》

昭和初年代に書かれた中村光夫のことばだが、たしかにこの外遊は荷風の文人としての性格を決定づけている。」

 「こんど眼をとおした小門勝二の『永井荷風の生涯』には在米時代の荷風の恋人であったイデス Edyth Girard の実在を否定するかのような文辞が四五、六七、八三ページの三ヵ所にみられる。」

 「『ふらんす物語』におさめられている『雲』(『放蕩』の改題)・・・。イデスが実在の人物であれば、『雲』のなかでイデスに擬せられているアアマがあれほど理想化されることはあるまいというのが、私の考え方の第一の薄弱な根拠である。・・・荷風は愛に燃え、恋におぼれるといったタイプの人間だとは考えられないので、イデスとの交情にはどこか彼らしからぬものが感じられる。ひょっとすると、渡米に八ヵ月先立って辱知を得た森鴎外の『舞姫』を読んだはての妄想ではなかったのか。それが、第一の場合よりさらに薄弱な私の第二の根拠である。」

 「イデスの実在を肯定している太田三郎も『永井荷風』(『近代日本の文豪2』所収)のなかで、《東洋の男は娼婦の世界でも低くみられる。白人の女の愛をうることは、たとえ相手が娼婦であろうと、当時日本人としては到底考えられないものである。》といっている。荷風は巨漢といっていい身長の持ち主であったにしろ、ジャップとさげすまれた日本人が、まして日露戦争前後という時代背景を考慮に入れるとき、『西遊日誌抄』に書かれているほどモテたのだろうかというゲスな考え方も私にはあって、・・・」

アメリカ、フランスでの海外生活をはさんだ二つの深川の間には、どれほど大きな相違があったろうか
 「明治四十一年七月に帰国した荷風は、その年から翌年はじめにかけて『ふらんす物語』におさめられた諸篇を書きついで、その間に『狐』を発表しているが、当時の性急で浅薄な西洋模倣にあけくれていた日本文化を痛烈に批判した一連の諸作をかりに「新帰朝者もの」と呼ぶとすれば、その第一作が二月号の「趣味」に掲載された『深川の唄』にほかならない。すなわち、《深川遊廓の娼妓を主題にし》たとみずからいう『夢の女』をのこして外遊の途についた彼は、帰朝後の新生面を『深川の唄』によってきりひらいたのである。深川と深川の間 - アメリカ、フランスでの海外生活をはさんだ二つの深川の間には、どれほど大きな相違があったろうか。そこに、永井壮吉としてではなく、永井荷風としての外遊のほんとうの意味があった。ここでは、その意味を追ってみたい。」

 「『深川の唄』発表までには、帰国後すでに半歳のときが経過していたのにもかかわらず、荷風はまだ外遊中の生理状態から完全には離脱しきっていなかった模様である。

《四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。》

『深川の唄』は、こんなふうに書き出されている。海外生活の延長であることが、あきらかに意識されている文章である。同時に読者に対しても、当時としては自身がかなり特異な体験をもつ人物だという注意を喚起している。・・・」
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2014年12月15日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(6) 「3 九段坂・青春前期」 (その2終) 「そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾の月と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。」

代官町通り千鳥ヶ淵堤上 2014-12-15
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明治31年、20歳の秋、広津柳浪の門を叩く
 《そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾(スダレ)の月と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕(マレ)にして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩きたまさか家に在れば小説俳句漢詩狂歌の戯に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念漸く押へがたくなりければ遂に何人の紹介をも俟たず一日突然広津先生の寓居を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは予め電話にて春陽堂に問合せたるによってなり。
 余は其頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。今戸心中、黒蜥蜴、河内屋、亀さん等の諸作は余の愛読して措く能はざりしものにして余は当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遙に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。》(『書かでもの記』)

明治34年ころまでは習作期(数え23歳、満で21歳数ヶ月) 
 「・・・これ以後、柳浪との合作の名義、あるいは柳浪の名で作品が掲載され、三十三年ごろからは「新小説」、「文芸倶楽部」、「括文壇」、「小天地」等々に自作を発表するという経過がたどられることになるのだが、三十四年ごろまでは習作期とみるべきで、まだ自己の作風を確立するまでには至らず、広津柳浪、泉鏡花、小杉天外などの模倣ないし亜流の域を出ていない。」

明治32年3月、「落語家朝寝坊むらくの門人となり、夢之助を名のつて、夜々席亭に出入」
 「・・・明治三十四年には、数え年で二十三歳に達しているが、満では二十一歳と何ヵ月かでしかない。あちらこちらに気を取られて視線が一点に集中しなくても、ある程度までやむを得まい。    が、・・・、荷風のばあいはその限度を越えている。《一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕にして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩》いていた彼は、《牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩》いた翌三十二年の三月、まず手はじめに《落語家朝寝坊むらくの門人となり、夢之助を名のつて、夜々席亭に出入》する身となる。・・・《講釈と落語に新しき演劇風の朗読を交へ人情咄に一新機軸を出さんとの野心を抱》いていた・・・」

『雪の日』(昭和19年2月)
 「そのころの思い出を書きとめたものには昭和十九年二月の『雪の日』と、大正十二年十月の『梅雨晴』がある。前者にえがかれている情事が生じたのは《その年正月》とあるから、むらくに入門したのが三十二年三月とすれば、翌三十三年の一月という・・・。《深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭》に出ていたとき、《名は忘れてしまったが、立花家橘之助の弟子で、家は佐竹ツ原だといふ》下座の三味線をひく十六、七の娘がいた。麹町へ戻る荷風とは方向がおなじなので毎夜つれだって家路についたが、ある雪の夜、蕎麦屋で酒をのんだあと路傍の材木の蔭で情をかわすに至ったといういきさつをたんたんとのべた小品文で、夢之助としての荷風の楽屋における働きぶりを知るためには読み落すことがゆるされぬ一篇である。」

『梅雨晴』(大正12年10月) : 井上唖々(本名は精一)
 《わたしが昼間は外国語学校で支那語を学び、夜はないしよで寄席へ通ふ頃、唖々子は第一高等学校の第一部第二年生で、既に初の一箇年を校内の寄宿舎に送った後、飯田町三丁目黐の木坂下向側の先考如苞翁の家から毎日のやうに一番町なるわたしの家へ遊びに来た。ある晩、寄席が休みであつたことから考へると、月の晦日であつたに相違ない。わたしは夕飯をすましてから唖々子を訪はうと九段の坂を燈明台の下あたりまで降りて行くと、下から大きなものを背負って息を切らして上つて来る一人の男がある。電車の通らない頃の九段坂は今よりも峻しく、晴かつたが、片側の人家の灯で、大きなものを背負つてゐる男の唖々子であることは、頤の突出たのと肩の聳えたのと、眼鏡をかけてゐるのとで、すぐに見定められた。》

 「・・・大きな荷物の中身は『通鑑綱目』五十余巻で、家から持ち出してきた父の蔵書であったが、坂上の荷風がかよいつけにしていた篠田という質屋へもちこんで十円とふっかけても二円五十銭にしかならなかった。それでは新宿で遊ぶのにも不足なので、二人はさらに一計を案じて、富士見町花街の入口にあって永井家のことも知っていた煙草屋へ行くと、友達が吉原から馬(=借金取り)をひいてきたので、なんとか急場の都合をつけてくれとそこの親爺をだまして金を借りる。そして、《二人は意気揚々として九段坂を下り車を北廓に飛した。》というのである。」

 「ここに《唖々子》とあるのは、俳号を深川夜烏と称した井上唖々、本名は精一で、荷風とは附属中学入学当時から親交をもって、のちに荷風主宰の文芸雑誌「文明」、「花月」の編集に協力するなど、狷介でめったに胸襟をひらくことのなかった荷風にとっては唯一といって恐らくまちがいのな莫逆の友であった。・・・、秋庭太郎の『考証永井荷風』によると、唖々は金沢藩士如苞=井上順之助の長男として明治十一年一月三十日名古屋に生まれて一高から東大独法科に進んで、病いのために中途退学したのち、籾山書店や毎夕新聞社などにもつとめたことがあるが、隠士的な生涯をおくって大正十二年七月十一日歿した。『深川の散歩』はその回想記で、『梅雨晴』は追悼記である。」

「涼風立初めし頃」、禁足を命じられる
 邦枝完二作製『年譜』の《明治三十二年(二十一歳)》の項と小門勝二『永井荷風の生涯』巻末所掲の『荷風年譜』明治三十二年の項を「つなぎ合わせると、夢之助こと永井荷風は《三月》に朝寝坊むらくの門に入って《涼風立初めし頃》には家庭内に禁足を命じられてしまっている。」
但し、『雪の日』には《その年正月》とあり《三月》とは矛盾する。そもそも『雪の日』にある「下座の女との濡れ場は荷風の創作のように思われてならないのである。」

禁足をくらった経緯は、邦枝完二作製の『年譜』によると・・・
《偶(たまたま)九段坂の席亭藤本に出演中家僕夫妻の来るに会し、忽ち事発覚に及びて、即夜邸内の一室に逼塞を命ぜらる。涼風立初めし頃の出来事なり。》とある。
但し、この「藤本」は「富士本」というらしい。

明治32年12月、外国語学校2年を除籍
 「そんなことに憂き身をやつしていた結果は学業もおろそかになって、荷風は期末試験に欠席したため三十二年十二月には外国語学校を第二学年で除籍される始末で、いよいよハンパ者になってしまった。」

明治34年1月、福地桜痴の門人として歌舞伎座の作者見習
 「そんな彼が榎本破笠の請書を得て、正式に福地桜痴の門人として歌舞伎座の作者見習になったのは、三十三年六月のことである。げんに、歌舞伎座三十四年一月興行の番附には《永井壮吉》の名が登載されている。・・・中村光夫は《一年たらずの間の「作者見習」の生活は、氏の江戸芸術に対する心酔期の頂点をなすと同時に、おそらく氏自身にとっても思ひがけなかつた新しい転回の機縁をなすものでした。》といって、さらに次のようにのペている。

 《封建的な家庭の空気を嫌悪した氏が何故見方によっては、さらに古い因襲の世界である歌舞伎のなかにとびこんだかといふことは、ちょっと考へると理解しがたいやうですが、明治の文明を「封建制度の美点を除いて、その悪弊のみ残した」と見る氏は、他に行き場所もないままに、せめてその「悪弊」が甚だしくともその「美点」の比較的保たれてゐる世界に「流宜の楽土」を求めようとしたので、このおそらく外部から見れば遊蕩児の気紛れとしか見えない行為が、氏の心の内面では純一な思考の論理に徹する道であったので、このやうないはば逆説的倫理家の面貌は、氏の生涯を貫く大きな特色と云へませう。

 当時の狂言作者の位置は対社会的にも、また劇場の内部でもはなはだ低いもので、ことにその見習となれば「一日の興行済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても巻茛を遠慮し作者部屋へ座元もしくは来客の方々見ゆれば叮寧に茶を汲みて出し其の草履を揃へ」といふ風にまるで給仕代りに使はれたのですが、荷風は最初桜痴から与へられた客分の待遇を辞退して、「旦那芸は却て甚しき耻辱なれば何卒楽屋古来の慣習に従ひ寸毫の遠慮なく使役せられん事を請」ひ、来客の草履を直したり、立作者の羽織を畳み食事の給仕をするといふやうな労役に進んで服したので、これは氏の芸道への熱意の現はれといふより一種の変装趣味に近いもめがあつたやうです。昔風に云へば「やつし」の嗜好です。

 おそらく当時の氏の理想は道楽で身を過り、その堕ちて行った境遇に、道楽気を失はずに安住することであつたので、漢学者の血をひく良家のお坊ちやんが、かういふ辛い屈辱に堪へたばかりでなく、それに或る愛着さへ覚えたのは、ともかく「好きな道」のために苦労するのだといふ一種の英雄心とともに、自分を自分の手で不当に虐むといふ意識から来る自卑の満足感とも言ふべきものに支へられたためでせう。

 「つまり最初に己れと云ふものを出来るだけ卑しくして、然る後、一種超越した態度に立つて局外者を眺めて見ると、何につけ自然と巧まずして冷な笑ひが口の端に浮んで来るものである。」と「冷笑」の中谷は云つてゐますが、この「一種超越した態度」の眼は単に他人ばかりでなく氏自身をも眺めてゐたので、自分の正体を知らぬ来客などに丁寧に茶を勧める自分の姿を、わきから傍観する氏の精神はそこに何か隠れんぼ遊びに似た興味をさへ覚えたことでせう。》

永井荷風を知る上でのさまざまな示唆
 「ここには、永井荷風を知る上でのさまざまな示唆がばらまかれている。《一種の変装趣味》には『濹東綺譚』における大江匡の態度に通じるものがあるし、《一種の英雄心とともに、自分を自分の手で不当に虐むといふ意識》には索居独棲を堅持した問題を解く端緒があり、《隠れんぼ遊び》という指摘によって晩年の浅草における踊子たち・・・との交流のよって来るところも理解されるのである。」

明治34年4月、桜痴にしたがって「日出国新聞」入社、同年9月、解雇
 「・・・明治三十三年六月にはじまったその時代(*作者見習時代)も翌年四月にはあわただしく閉じられる。落語家時代は半歳余、作者見習時代も一年に充たぬ短時日のうちに終る。初代社長の採菊=粂野伝平から松下軍治が「日出国新聞」を買い取って福地桜痴を主筆としてむかえたのを機に、荷風も歌舞伎座を去って桜痴にしたがうことになったからである。しかも、同年九月には早くも社月淘汰に際して新聞社も解雇されることになるのだから、表面だけをみればいかにも腰がすわっていなかったようだが、落語家時代をもふくめて、彼は外部からそれぞれの世界を追い立てられたとみるべきだろう。が、文学一途に専心していたわけではなかったこともまた明白である。」

ゾラを知り、自己の文学的進路を見い出す
 「もともと荷風は「文芸倶楽部」に作品を発表していた関係から、博文館へ出入りして同誌の編集長である三宅青軒の知遇を得ていた。福地桜痴に紹介の労をとったのもその青軒で、きっそく訪問をしたものの容易に桜痴の面会が得られず、《せめてわが芝居道熱心の微衷をだに開陳し置かば又何かの折宿望を達するよすがにもなるべしと長々しき論文一篇を草しそつと玄関の敷台》に置いて帰宅したところ、半月ほどたってから福地家の執事であった破笠=榎本虎彦から《予て先生への御用談一応小生より承り置可しとの事に就き御乗車ありたし》という手紙を受け取った。そして、その上で桜痴にひきあわされた結果、破笠が請人となって荷風は歌舞伎庭へも入り、「日出国新聞」へ転じたときにも彼等と行動をともにしたのであったが、この動きのなかで見落すわけにいかないのは、荷風にゾラの作品をはじめて教えたのが榎本破笠だったことである。

明治34年9月、暁星学校夜学に通いフランス語を学ぶ
 習作期を脱した荷風が、ゾラによって自己の文学的進路をみいだしたことは周知の事実だが、学殖ゆたかな荷風は単なる書斎人ではない。一面において、非常な行動人である。また、徹底した意志の人である。晩年の『葛飾土産』にみられる真間川水流の探尋行のように、ひとたび興味をいだけばどこまででも歩く。つけはじめた日記は、最後の日まで書きぬく。「日出国新聞」を解雇されてゾラに憑かれた彼は、早速その月 - 明治三十四年九月のうちに暁星学校の夜学へかよってフランス語をまなびはじめている。その暁星学校の所在地もまた、黐の木坂をのぼってすぐ右手 - 九段坂上といってもまちかいではない地点である。」
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2014年11月21日金曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(5) 「3 九段坂・青春前期」 (その1) 「《尋常中学の二三年級の頃、下谷の第二病院に入院した時、一人の看護婦を見染めた。・・・看護婦の名が「お蓮」と云ふので、其れに近いものをと考へた未に、荷風小史と云ふ字を得た。》」

千鳥ヶ淵 2014-11-21
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3 九段坂・青春前期
「中村光夫や武田勝彦にならって『あめりか物語』、『ふらんす物語』の年代を《荷風の青春》とよぶなら、それに先行する青春前期とでも称すべき一時期」について

「父・久一郎が文部大臣秘書官となって麹町区永田町一丁目二十一番地の官舎に移ったのは明治二十三年、荷風がかぞえ年で十二歳のおり・・・その直後ごろから荷風の生活圏の中心は、九段坂周辺という一地点に据えられることになる。
永田町から麹町区飯田町三丁目、黐(もち)の木坂下 - 麹町区飯田町二丁目二番地の借家へ移ったのは二十六年十一月・・・」

黐の木坂は、
「現在では、ホテル・グランドパレスの向かってすぐ左横にある坂だという説明が、いちばんわかりやすい表現になるだろう。地図でいえば、その坂が千代田区飯田町一丁目と九段北一丁目との境界になっている。さらに、中坂の下には飯田町の世継稲荷の縁日で、一と六の日に夜店が出たが、三番町の二七不動や小川町の五十稲荷の縁日にくらべればずっと淋しかった。大正時代でも、飯田町は暗い静かな町であった。
しかし、永井家はその借家にも一年たらずいただけで、翌二十七年十月には、おなじ麹町区内の一番町四十二番地に移転している。明治三十七年版の『麹町区全図』をみると、四十二番地は現在の九段南二丁目 - 九段花街の千鳥ケ淵や半蔵門の方向に寄ったすぐ裏手あたりで、現在の三番町の北端部に所在した模様である。『桑中喜語』(『猥談』の改題)には次のような一節がある

《明治三十年の頃僕麹町一番町の家に親の脛をかじりゐたり。門を出でゝ坂を下れば富士見町の妓家軒先に御神燈をぶら下げたり。御神燈とは妓の名を書きたる提灯をいふなり。毎日学校への往かへりに提灯の名を早くも諳じ女同士が格子戸の立ばなしより耳ざとく女の名を聞きおぼえて、之を御神燈の名に照し合すほどに、いつとなく何家の何ちやんはどんな芸者といふ事、一度も遊ばざるに蚤(ハヤ)く之を知る身ぞ賢かりける。》」

「また、永井威三郎の『風樹の年輪』によると、この家屋には明治三十五年五月二十六日、牛込区大久保余丁町七十九番地 - 市ヶ谷刑務署の裏手、すなわち『監獄署の裏』の家屋に転じるまで八年弱居住しているが、荷風が入院生活をしたのも、一番町時代のことである。《生来腺病質で十六才(ママ)の頃東京医科大学病院で二回瘰癧(るいれき)の外科手術を受けた。》と威三郎は記しているが、荷風自身は短文『雅号について』で次のようにのべている。

《尋常中学の二三年級の頃、下谷の第二病院に入院した時、一人の看護婦を見染めた。自分が女性に対して特別の感情を経験したのは、此れがそもそもの始めである。退院した後、小説をかいた。(これも余の小説の処女作である)小説には、是非雅号を署名せねばならぬと思って、其の時いろいろ考へた。看護婦の名が「お蓮」と云ふので、其れに近いものをと考へた未に、荷風小史と云ふ字を得た。》」

一方で荷風の雅号については、
「荷風が作家として師事した広津柳浪の子息である広津和郎の『年月のあしおと』」に記述がある。

《永井は最初からズバ抜けて才能があった。中村(=吉蔵)は学者に向いたろうが、作家としては永井とは較べものにならなかった」と後年父は私に話したことがあるし、又荷風という雅号は、永井さんが荷風というのともう一つ何とか云うのと二つ持って来て選んでくれと云ったので、荷風が字面も好いし、響きもいいので、「それにしたらいいだろう」と云って荷風を選んだというようなことも云っていた。》

「・・・昭和十年正月に書かれた『十六七のころ』をみると、《十六七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった。若しこの事がなかったなら、わたくしは今日のやうに、老に至るまで閑文字をも弄(もてあそ)ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人(あるじ)ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかも知れない。》と記されているから、いささかの誇張は割引きしても、その病臥が一応後年の作家=永井荷風を形成する出発点となったとみられぬことはない。が、荷風は最初から文学者への道をひとすじに歩きつづけたわけではなかった。

「わたくしが十六の年の暮、といへば、丁度日清戦役の最中である。流行感冒に罹ってあくる年の正月一ばい一番町の家の一間に寝てゐた。(略)二月になつて、もとのやうに神田の或中学校へ通ったが、一週間たゝぬ中またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。(略)そろそろ桜がさきかけるころ、わたくしはやつと病褥を出たが、医者から転地療養の勧告を受け、学年試験もそのまゝ打捨て、父につれられて小田原の町はづれに在った足柄病院へ行く事になった。》」

「この文中の《神田の或中学校》は、一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学科で、小田原の《足柄病院》は十字町にあった。荷風は、そこに四カ月いたのち、《七月の初東京の家に帰ったが、間もなく学校は例年の通り暑中休暇になるので、家の人達と共に逗子の別荘に往き九月になって始めて学校へ出た。然しこれまで幾年間同じ級にゐた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のやうに学業に興味を持つことが出来ない。》
そのため、ほぼ九カ月の療養生活は荷風に読書の習慣を植えつけたかわりに、彼を学業から遠ざける結果をもたらした。・・・」

「明治三十年、数え年十九歳の三月に附属中学を卒業した荷風は、おなじ年の七月、第一高等学校の入学試験に失敗した。・・・同年九月にはすでに官界をしりぞいて日本郵船株式会社上海支店長となっていた父、母、弟らとともに上海へ渡航して、十一月に父だけをのこして帰京したのち、高等商業学校の附属外国語学校清語科に入学した。が、その件に関しては凌霜こと相磯勝弥との対談『荷風思出草』 のなかで、《シナ語のところはすぐはいれたから。はいるのは楽だったんだ。ほかのところは、もう入学試験がすんじまっていたあとだつたから。》と語っていることからみても、ただ両親のてまえ学校へ入ったというだけのものでしかなかったようである。事実、彼はそのままずるずると逸楽の淵へはまりこんでいって、ついに正規の学校教育は受けずじまいにおわってしまったのだが、順序としてその前に、いわゆる新帰朝当時の作品群のひとつである短篇『祝盃』をみておかねばならない。

《遂に最後の機会が到来した。それは学校の同級会から一同尋常中学を卒業した祝賀会をかねて鎌倉へ一泊の徒歩旅行を催す廻状の葉書の来た時である。》

その同級会のほうへは不参の返事を差出した《私》は、親からは過分な旅費を受け取って外泊の許可も得る。

《其の日の夕方兼て打合して置いた通り、親友の岩佐が自分を誘ひに来た。岩佐も今度の好機を逸しては他に外泊の口実を見出す事が出来まいと思ってゐたので、二人は早や夏らしい夕風の吹きそめる往来へと親の家をば逃るやうに飛出し四五町がほどは何にも云はず互の顔さへ見ず非常に急いで、そして世間を悼るやうに町の溝際を歩いて行った。その頃私の家は市ヶ谷の濠外に在ったので足にまかせて乗かゝつた処は九段の公園であった。往来はまだ明い。公園の葉桜の蔭ばかりが早や夜らしく暗くなってゐるのを見るや、私と岩佐とは同じ秘密を包む身のいづれが言出すともなく殊更に暗い木立の奥の腰掛を択んで腰をおろした。》

「そこで二人は双方の所持金をたしかめ合い、《第一の案内書なる都新聞其の他の研究から芸者はどうも高価であるらしく、》思われるところから、坂をくだって小川町まで歩いた末に《合箱(あひばこ)》つまり二人乗りの人力車に乗って吉原へ繰りこむ。
むろん『祝盃』は小説だから、これを事実として受け取るわけにはいかない。・・・」
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2014年11月11日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(4) 「2 順境のなかの逆境」 (その2終) 「《私は母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美(はで)一ばいに暮したいのです。私は母の為めならば、如何な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう。》」

北の丸公園 2014-11-10
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 ・・・、この強いもの、逞しいものとしての父に対する畏怖の念はたいへん象徴的で、のちにアメリカへ渡り、さらにフランスへ移ってからもたえず荷風につきまとい、いよいよ日本へ帰国する直前に至ってよぅやく解放されることになるものである。年齢的にいえば満二十八、九歳ごろまでまつわりついてはなれなかった重圧感であった。

 ・・・庭に棲みついた狐が鶏をとったことから家人 - 特に父の怒りをかって、父、書生、出入りの鳶職、植木屋、車夫たちによって雪の日に仕留められたのち、今度は目的が達せられたことを祝って、父たちが新しく殺した二羽の鶏を料理して酒盛りをおこなうまでの経過が『狐』の梗概だが、荷風はそのあとに記している。

《眠りながらその夜私は思った。あの人達はどうしてあんなに狐を憎くんだのであらう。鶏を殺したからとて、狐を殺した人々は、それがために更に又鶏を二羽まで殺した。
あゝ、ツルゲネエフは蛇と蛙の争ひから幼心に神の慈悲心を疑つた。私はすこしく書物を読むやうになるが早いか、世に裁判と云ひ懲罰と云ふものゝ意味を疑ふやうになつたのも、或は遠い昔の狐退治。其等の記憶が知らず知らず其原因になったのかも知れない。》

・・・・
荷風は狐を仕留めた大人たちのうち、特に書生の田崎に憎悪を集中する表現をもちいているが、田崎は忠実な部下であったに過ぎなくて、その指揮官が父であることは覆うべくもない。この作品にかぎらず、父は常に悪役として登場する。

・・・、荷風にはエディプス・コンプレックスがあったという佐藤春夫らの説がある。佐伯彰一の集英社版「日本文学全集・永井荷風集」の解説『作家と作品・永井荷風』も、拡大解釈をすれば、その系統のひとつとみて大過あるまい。

・・・下谷の家とは母=恒の実家 - すなわち鷲津家で、家長の毅堂は明治十五年十月五日、荷風が満三歳に達しようとする直前に胃癌で他界したため、その家はもっぱら祖母=美代の記憶につながる。しかも翌十六年二月五日に弟の貞二郎が生まれたため、荷風は下谷竹町四番地の鷲津家にあずけられて、初孫のために祖母から鍾愛され、お茶の水の女子師範学校附属幼稚園にもその家からかよって、十九年に小石川服部坂の黒田小学校へ入学する直前に金富町へもどっている。そして、漢学者の妻であった祖母はクリスチャンであり、母=恒もその感化を受けて入信し、のちに鷲津家へ養嗣子として入った荷風の次弟=貞二郎は牧師となって下谷教会を創設している。

悪役としての父に対して、母がそうした家から出ているという事実には注目すべきものがあって、佐伯彰一は強い父に対する母のやさしさが『狐』のなかで《くり返し強調されている》点を指摘する。そして、次のような異議を唱える読者がいるかもしれぬとのべる

《荷風は、なるほど生涯を通じて、倦むことなく女を描き続けた。『腕くらべ』『つゆのあとさき』『濹東綺譚』『問はずがたり』のいずれを取っても、「女に覆われた」世界であり、男性は女たちとかかわりを持つ限りにおいてのみ登場を許される底(てい)の世界には違いなかった。しかし、そこにおける女性たちの芸妓、カフェの女給、私娼といった職業は別として、いずれも母性的なものからは極端にまで縁遠い女ばかりではないのか。荷風が興味をいだいたのは、男性に快楽をもたらし得る限りにおいての女性であり、母としての女性など、そもそも彼の念頭には浮ばなかったのではないか。いや、さらには、母としての女性こそ、荷風が自分の世界から意識的に閉め出し、遠ざけたところではなかったか、と。そうした異議に対しては、ぼくといえども反駁する気持はまったくない。》

《たしかに、こうした荷風にあって、母としての女性のイメージは、意識的に排除されている。荷風は長い小説家的な生涯において、母たる女性に、ほぼ完全に締め出しをくわせて来た。だが、ぼくの注目を求めたいのは、まさにその点、その「意識」性、あまりな「完全」さ自体なのだ。『下谷の家』と『狐』における母のイメージを思い合わせる時、その排除ぶりの「意識」性は、いよいよ際立ってくる。とすれば、いったい何のために? 荷風は、母のイメージを手つかずの完璧さにおいて保持しようがためにこそ、ひたすらその反対物、つまり娼婦としての女に執着しつづけたのではなかったろうか。荷風における芸術家としての自己確立に際して、「父」からの離脱、「父」的な世界からの脱走、拒否が大きく働いた。そしてその際、他方の極に、「母」のイメージが、「下谷の家」の世界が浮んでいた。抱きかばってくれる母のイメージと、「神秘な気高い」過去にひたされた世界とが重なり合う形で、別の対極を形造った。しかし、こうした対極の世界のうちにのめりこむことを荷風は避けた。母のイメージを純化、理想化する母性崇拝への道を避け、むしろ現実の女たちを見る道をえらんだ。変化と多様性に惹かれる小説家的な本能の仕業には違いなかったろうが、同時に母のイメージを完璧に護持しつづけるための戦略でもあった、とぼくはいいたい。げんに荷風は、これらの「現実の女たち」のいっさいから、母たる資格と位置をきびしく剥ぎとっている。創造者としての荷風は、彼女らの誰一人に母たることを許さなかった。裏側からいえば、母のイメージを前にしての、潔癖な禁欲であった。》

荷風は昭和十年三月の随筆『きのふの淵』に、《父は曾て一たびも芝居を見たことのない人》であった、と書いている。久一郎が最初に劇場へ足をはこんだのは《東京で始めて椅子席を用ゐた》《数寄屋橋の有楽座》が開場したときだというから、それは明治四十一年十二月、満でも五十二歳のおりで、漠詩人とはいえ彼がいかに芸能と縁遠い人間であったかは、この一事によっても明白である。

それに反して、荷風が年少にして「帝国文庫」ほかの文学書類にしたしんだのは、母=恒の蔵書に負うところが大であったといわれるし、『監獄署の裏』をみると、母について《江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で琴もよく弾きました。》とあって、さらに次のような記述もみいだされるのだから、後年の永井荷風をはぐくんだ素地が母によってつちかわれたことはまちがいない。すくなくとも、佐伯彰一説を裏づけることになっても、抵触するものはどこにもない。

《私は忘れません、母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座なぞの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、冬の日の置炬燵で、母が買集めた彦三や田之助の錦絵を繰り広げ、過ぎ去った時代の芸術談を聞いた事。》

《私は母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美(ハデ)一ばいに暮したいのです。私は母の為めならば、如何な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう。》

が、実在の荷風は《母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美一ばいに暮した》であろうか。暮さぬまでも、暮そうと心がけたことが実際にあったのだろうか。右は『監獄署の裏』からの引用だが、その直前に発表した海外生活中の手記である『西遊日誌抄』に、彼は父に対する怨嗟や憎悪は記しても、母に対する慕情は一片だに示していない。どんな形にせよ、当時の彼の心に父はあっても、母はなかった。

荷風の著作物を通じてみるかぎり、恒は明治中期の富裕で知的な家庭の主婦として、さほど特殊な女性であったとは私には考えられないし、荷風の思慕にもそれほど深いものがあったとは受取りかねる。

なるほど昭和十二年九月八日、満七十八歳で恒が死去したとき、荷風は《泣きあかす夜は来にけり秋の雨》という哀悼句をつくっている。が、いかに義絶中の三弟=威三郎と顔を合わせることを忌避したという理由があったにもせよ、そして、荷風が憎悪に対しては絶対に妥協せぬ性格の人物であったにしろ、母の葬儀に列しようとしなかったことには、瞋恚(しんい)や憎悪を乗り越えてもというほどの心を、母に対していだいていなかったという事情があったのではなかろうか。
右の句と同時に吟じられた《秋風のことしは母を奪ひけり》という句に、私はむしろ彼と母との間にあった距離をすら感じる。

経済的には何ひとつ不自由がなかったという意味で、荷風は順境の子であった。めぐまれた家庭環境のなかで、彼は育てられた。が、彼はそうした家庭の反逆児であった。荷風がはじめて吉原の娼家へ登楼したのは明治三十年二月、満では十七歳のおりである。そして、三十二年春には落語家に弟子入りして、高座へあがるなどのために学業も半途におわった。一方では小説を書きはじめたり、三十三年夏からは歌舞伎座の作者部屋へ入るというありさまで、通常の家庭でも顰蹙をかって当然のところ、彼の場合は家長が文部官僚であっただけに、他家よりいっそう強く家族から白眼視されねばならなかった。しかも、世間からは落語家としても、作家としても、狂言作者としても、一人前としては認められぬ存在でしかなかったから、家庭の一員としても、社会人としても、逆境におかれているという心境がぬぐいがたかったに相違ない。『すみだ川』の主人公=長吉は、恐らくそのような自身のすがたの写し絵である。

『紅茶の後』中の一篇である『九月』をみると、高校入試に失敗した荷風にむかって父が《絶望と憤怒の叫》を《頭上にあびせ掛けた。》のに対して、母が《なにも大学とかぎつた事はないでせう。高等商業か福沢さんの学校でもいゝぢやありませんか。》と取りなすところがある。が、荷風が当時としては社会的に一段も二段も低くみられていた落語家、作家、狂言作者という経過をたどったとき、母はどれだけそんな息子の側に立ったであろうか。夫に対して、どれだけ息子の庇護者の立場にまわったであろうか。

私ひとりの当て推量でしかないが、『すみだ川』の母親=文字豊は荷風の母=恒の、そんな半面の投影であったかもしれない。憶測が過ぎるかもしれないが、長吉という主人公の作中名も、作者自身の本名=壮吉のもじりでなかったとはいえないだろう。
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2014年9月23日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(3) 「2 順境のなかの逆境」 (その1) 「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。」

三ノ輪 浄閑寺の永井荷風詩碑
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 前章を書きあげてから間もなく、私は小石川伝通院の附近をあるいた。そして、それからまたちょっと日をおいて三ノ輪の浄閑寺へ足をはこんだあと、亀戸行の都バスで隅田川を越えて白鬚(しらひげ)神社をおとずれてから、明治通りづたいに百花園の脇を通って玉の井へまわった帰途、東武鉄道で浅草へ出て伝法院をカメラにおさめてきた。

 ・・・、玉の井についてはいずれ触れねばならぬこと勿論ながら、浄閑寺についてはふたたび記すことがあるまいと思われるので、ここに書き留めておいた。

 《余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域(エイイキ)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。》

 吉原遊女の遺骨の投げ込み寺として知られる栄法山清光院浄閑寺(荒川区南千住二丁目一番二号)は、永井荷風の日記『断腸亭日乗』昭和十二年六月二十二日の条に右のように記載されているのにもとづいて、荷風没後の昭和三十八年五月十八日、その境内に詩碑(『偏奇館吟草』中の『震災』を刻字)と筆塚(設計者=谷口書郎)が建碑された浄土宗の寺院で、彼の墳墓そのものは豊島区雑司ケ谷墓地にある。

 《私は祖母様や父上母上なぞと、向島のお花見に出掛けられる年頃になった時、白髯(ママ)神社の土手際に立ってゐる大きな石碑をば、あれは下谷の祖父様の門人達が先生の徳を頌へるために建てたものだと教へられた。(略)石碑は今日も同じ処に立つてゐる。歴史の尊重には全く無頓着な東京市の市政が、此の辺鄙までも市区改正の兇手を拡げさへしなければ、かの石碑は白髯神社境内の装飾品として此の以後も長く同じ処に立ってゐる事であらう。》(『下谷の家』(「三田文学」明治44年2月))

 碑そのものが建てられたのは鷲津毅堂の一周忌にあたる明治十六年十月だが、毅堂の二女であった恒がその父の死に五年先立つ明治十年七月十日に十七歳で嫁した相手が、毅堂の愛弟子で禾原(かげん)または来青と号して漠詩人としても一家をなした荷風の父=永井久一郎で、中村光夫によれば《毅堂は久一郎の経学の師でしたから、今でいへば大学の校長先生のお嬢さんを貰った格で、荷風氏の父は抜群の秀才であり、また謹厳なオ子でもあったのでせう。」ということになる。

 荷風の手になる大正十三年初出の『下谷叢話』(原題『下谷のはなし』)は、外祖父=鷲津毅堂とその周辺の人物の閲歴や事蹟を考証した周密な史伝だが、久一郎関係の要点だを摘記すると"
"彼は嘉永五年(一八五二)尾州愛知郡鳴尾村の素封家にうまれた。永井家は大江広元の二男=長井左衛門尉時広入道から出て永井氏となったというし、久一郎は通称で名は匡温、祖父は匡威であったと・・・

 久一郎の曾祖父=襲吉は星渚と号した漠詩人で、久一郎も十二、三歳から詩を賦して知多郡大高村長寿寺住職の青木可笑や尾張一ノ宮の医家から出た森春濤にまなび、毅堂が名古屋へ来たとき、その塾生となった。そして、明治元年九月徴士となり、毅堂にしたがって京都三条河原の旅宿に滞留したのち、翌二年師とともに上京した。また、そのころ彼は大沼枕山にも漢詩の指導を乞うているが、毅堂の曾祖父=鷲津幽林の長子で竹渓と号した漠詩人が大沼家に入って、枕山はその子息であったから、久一郎と鷲津家との縁故には浅からぬものがあったといわねばならない。

 写真でみる久一郎は恰幅のよい、角張った顔に口髭をたくわえた偉丈夫という感じのする紳士だが、時勢に対してよほどの炯眼をそなえていたのだろう。早くから福沢諭吉のもとで洋学もおさめて、明治四年には尾張侯の命を受けてアメリカに留学し、プリンストン大学にまなんで帰国後明治新政府の官僚となり、のちに荷風となった長男の壮吉が誕生したころには内務省御用掛で、十九年には帝国大学書記官となっている。

 ・・・久一郎は尾張藩の出身ながら、薩長専横時代の官界にあって文部省会計局長にまで栄達したのち、晩年には実業界へ転じて日本郵船の上海ならびに横浜支店長になったが、漢学者=鷲津毅堂に将来を嘱望されて娘をあたえられ、教育行政の道をあるいた人物だけに、家族に対しては多分に儒学者肌の謹厳で専制的な家父長としてのぞんだところがあった様子である。

 《余年々の正月雄司ケ谷墓参の途すがら音羽の町を過るとき、必思出す事あり。そは八九歳のころ、たしか小石川竹早町なる尋常師範学校附属小学校にて交りし友の家なり。音羽の四丁目か五丁目辺の東側に在りき。》

 《玄関も格子戸口もなかりき。縁先に噴井戸ありて井戸側より竹の樋をつたひて池に落入る水の普常にさゝやかなる響を立てたり。此井戸の水は神田上水の流なりといへり。夏には西瓜麦湯心天(ママ)などを井の中に浮べたるを其の家の母なる人余が遊びに行く折取り出して馳走しくれたり。余が金冨(ママ)町の家にはかくの如き噴井戸なく、また西瓜心天の如きものは害ありとて余はロにすることを禁じられ居たれば、殊に珍らしき心地して、此の家を訪ふごとに世間の親達は何故にかくはやさしきぞと、余は幼心に深く我家の厳格なるに引きかへて、人の家の気儘なるを羨しく思ひたりき。或日いつもの如く学校のかへり遊びに行きたるに、噴井戸の側に全身刺青したる男手拭にて其身をぬぐひゐたるを見たり。これは後に聞けば此家の主人にて、即余が学友の父なりしなり。思ふに顔役ならずば火消の頭か何かなるべし。》
(『断腸亭日乗』昭和九年正月元日の条)

 明治四十二年一月の短篇『狐』には、そうした強者としての父と、弱者としての母ならびに自己自身というやや図式的な対置関係の上に立って、幼時の一断面がくりひろげられている。

 明治十二年(一八七九)十二月三日、東京市小石川区金富町四十五番地に生誕した荷風=永井壮吉は、父が帝国大学書記官から山県有朋内閣の文部大臣=芳川顕正の秘書官となって、麹町区永田町一丁目二一番地の官舎に転宅した同二十三年まで生家に居住した。

 荷風の生家は、羽振りのよい官員さんであった父久一郎が、没落階級であった旧幕時代の御家人や旗本の空屋敷が売物になっていたのを三軒ほどひとまとめに買い取って、古びた庭園や木立はそのままに、広い邸宅を新築したものであったという。そのため邸内には古井戸が二つもあって、一つは埋められたが、残る一つとその傍にあった柳の老木が幼い日の荷風には恐怖の対象となった。
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東京 三ノ輪 浄閑寺(投込寺)  永井荷風の詩碑 花又花酔の川柳の碑 新吉原総霊塔 遊女「若紫」の墓

東京 伝通院(でんずういん) 永井荷風育成地 富坂 東京都戦没者霊苑 礫川公園 春日局の像



2014年9月15日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(2) 「1 明治四十二年十二月」 (その2終) 「明治四十二年十二月は、文明批評家としての永井荷風と、郷土詩人としての永井荷風がまだ融和しきれぬかたちながら、きわめて高く聳立した時点であった。」


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 風景を重視した彼は、さらにそれをより効果あらしめるために季節感にも重点をおいて、八月にはじまる『すみだ川』を翌年の初夏で閉じているのも、ひととおり四季のうつろいをえがいて、その変化のうちに隅田川周辺のもつ江戸的情趣をいやが上にもかき立てることを計算に入れていたからにほかならない。様式美を尊重した、彼らしい配慮である。

 春の末から夏のはじめにかけては、大雨が降る。
東京の下町では、大正十三年に岩淵水門が出来て荒川上流の水を放水路へみちびくまで雨後の洪水が年中行事であったから、季節感に敏感な荷風はそれを作中にとりいれて、『すみだ川』一篇のしめくくりとしている。

 現在の眼で読めば、あまりにも浮世ばなれのした大甘な結末で顔を赧(あか)らめずにいられぬものがあるが、もともと『すみだ川』は河岸とその周辺の風物をえがいて、消えゆく江戸の情趣をうたいあげることを目的とした作品で、作者自身、作品の内容ははじめからたいして問題にしていない。といえば、ずいぶん読者をばかにした話だが、それにはひとつの理由があった。思想上の帰結がうんだ作品だったからである。

 文末に《明治四十二年八月 - 十月作》と附記されている『すみだ川』は、同年十二月の「新小説」に発表されたものである。そして、荷風は同年同月「東京朝日新聞」に『冷笑』を連載しはじめている。
が、郷土詩人としての特性が最大限に発揮されている『すみだ川』がひとつの完成度を示してこの期の代表作たり得ているのに反して、彼のもう一方の特徴である文明批評家としての面を極限にちかいまでに発揮している『冷笑』が、登場人物一人一人の日本文化批判ともいうべき議論にのみ終始して、小説作品としての具象性をまったく欠いた失敗作となっていることも皮肉な現象ながら、その両作が当時の彼の抱懐していたひとつの思考から派生していたことは、さらにいっそう皮肉であろう。
明治四十二年十二月という同一時点において発表された『すみだ川』と『冷笑』という二つの作品は、さまざまな意味で一本の幹から大きく左右にわかれて伸長した二本の枝のようなものであった。

 明治三十六年九月に渡米した荷風が残りの十ヵ月をフランスに滞在して帰国したのは四十一年七月だが、そこに彼を待ち設けていたものを言であらわそうとすれば、栄光と悲惨というありふれた表現ほど適切なものはない。

 洋行土産である『あめりか物語』、『ふらんす物語』に盛られた主情的な耽美精神は、世紀末の頽唐を讃美する浪漫派の「明星」一派によろこびむかえられる一方、それとは対立的な側に立つ自然主義者たちも暗鬱さや虚無的な面 - つまりそれぞれが自派の好みに合致した面をとらて称揚したが、事実はそれらの讃辞とうらはらのところにあった。

 すなわち、荷風が翌四十二年に入ってから続けざまに発表した実質的な帰朝後の作品--『深川の唄』、『曇天』、『監獄署の裏』、『祝盃』、『歓楽』、『帰朝者の日記』(のち『新帰朝者日記』)などは、いずれも彼を熱狂的に歓迎した人びとが形成していた明治末の東京がもっていた近代国家、ならびに近代都市としての未成熟、西欧文明の猿真似に対する徹底的な嫌悪であり、痛烈な蔑視と揶揄と呪詛であった。

帰朝した主人公が神戸埠頭に出迎えた弟をみた瞬間、「あゝ、人間が血族の関係ほど重苦しく、不快極るものは無い。」とのべている『監獄署の裏』の一節は、単に肉親の一個人に対する嫌悪にとどまるものではなく、そのまま荷風の母国に対する嫌厭の表白であった。

 爛熟期のフランス、特にベル・エポックのパリをみてきた荷風の眼には、日露戦争後の新興国として西洋模倣に狂奔しながら、しかもなお遠く及ばなかった明治末葉の貧寒とした東京のみすぼらしさ、物ほしげないやしさと並行して進められつつあった旧物破壊の無神経がなんともたえがたかったのは当然であったろう。

 東京に集約され、代表されていた明治日本の社会風俗が西洋文化の表皮的な模倣にのみ偏して、日本固有の伝統文化との間にはなはだしい不均衡が生じていると観じ取った荷風は、『深川の唄』や小品文『霊廟』などからもうかがわれるように、それ以前の、よき一致調和のとれていた日本文化の純粋状況を、やや強引に江戸の遺産のなかに発見しようとする。

 《江戸時代はいかに豊富なる色彩と渾然たる秩序の時代であつたらう。今日欧洲の最強国よりも遙に優る処があって、又史家の嘆賞する路易(ルイ)十四世の御代の偉大に比するも遜色なき感がある。》(「冷笑」)

 西欧一辺倒が、わずか一年たらずのうちにここに到ったのである。こうした江戸文化ないし江戸情緒への作為的ともおもわれる急速なのめりこみを、郷土詩人の立場に立って声高にうたいあげた東京讃歌が『すみだ川』にほかならない。そうでなくて、どうしてあんな顔の赧らむような大甘な結末がうまれてくるものか。

明治四十二年十二月は、文明批評家としての永井荷風と、郷土詩人としての永井荷風がまだ融和しきれぬかたちながら、きわめて高く聳立した時点であった。
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