2019年12月19日木曜日
2010年9月11日土曜日
明治17(1884)年11月5日 警察・憲兵隊、大宮郷に繰り込む。 島崎嘉四郎の別働隊、信州転戦組参加を決意。 菊池貫平の信州転戦隊の新しい幹部たち
明治17(1884)年11月5日
*
・午前5時、警察・憲兵隊、大宮郷に繰り込む。
隈元少尉小隊は矢那瀬村発し荒川左岸本道を、影山少尉隊は矢那瀬渡しを渡り荒川右岸を併走、皆野で落ち合い、隈元隊が尖兵となり大宮郷に進む。
官憲側は県令告諭を発し、「暴徒」の自首を促し、一斉検挙も行う(15日坂本村、20日城峯山)など)。
更に、
22~24日を探偵期間、
25~27日を一斉検挙期間と定め秩父全域で100余を逮捕。
*
隈元少尉の憲兵隊と同行した巡査の記録に、
「藤谷淵ヲ通過ノ際、或ル民家ニ賊ノ潜伏スルヲ覚タリ、之ヲ憲兵ニ示シ砲撃セシムル事数回、然レドモ更ニ応答ナキヲ以テ該家ヲ捜索」とあり、緊張の様子を伝える。
*
また、この隊が皆野の手前の栗谷瀬の渡し場を渡る際、船頭を暴徒と見誤り殺害する。
鎌田警部の警察本署宛の報告。
「本月五日皆野村へ進軍ノトキ、同村船頭金子惣太郎ナル者ヲ、暴徒卜見謬りタルヤ殺害セラレタリ、鎌田警部取調中遺族ノ者苦情ヲ唱へ居ルノ聞へアリ、右殺害シタルハ憲兵付属巡査粕谷清五郎ナラント云ヘルモ、本人出張中ナルヲ以テ等閑ニ付ス」。
この粕谷巡査はこの後も信州に転戦の菊池貴平らを追い、十石峠を越え千曲川沿いに進出、9日早朝の掃討戦に参加。
本人は右殺害の事実を、
「赤白ノ布ヲ以テ身体ヲ扮装シタル異様ノ男子、竹槍ヲ以テ小吏ニ抵抗セリ、止ヲ得ズ憲兵卒値賀好郎等卜協力シテ之ヲ斫殺セリ(「粕谷清五郎出張復命書」)と述べる。
粕谷巡査は、後で検事の事情聴取を受けるが、「事正義ニ出デタル」として不問。
*
次いでこの隊は皆野村の外れで大宮郷自衛隊(百数十名)と遭遇、その「紛装異様ナル」ため暴徒と誤認し、武器を取りあげ大宮郷に連行するが、吉峰警部らの釈明ですぐに釈放(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
*
・午前8時頃、島崎嘉四郎の別働隊、下吉田村の椋神社に入る。菊池貫平らが前夜に山中谷に向ったと聞き、信州転戦組参加を決意。
*
前日(4日)、「千鹿谷ノ大将」島崎嘉四郎の別働隊150人は前川巡査を捕虜とし、この内100名ほどは風早峠を越え、更に50名ほどは捕虜巡査を連行して奈良尾峠を越え、夜10時頃、上日野沢村で落ちあう。
5日朝、ここの酒屋で朝食をとり、児玉郡八幡山町(児玉町)へ押し出そうとすると、前夜の金屋の戦いから逃げ帰ったという者から「昨夜八幡山ニ合戦始マリ、兵隊巡査ノタメ賊徒大イニ敗走セリ」と聞く。
その後、方向を転じ午前8時頃、下吉田村の椋神社に入り、菊池貫平らの山中谷への転戦を聞き、嘉四郎は信州転戦組への参加を決意。
嘉四郎は、一同に対し、「最早己レハ信州地ニ立越シ、多人数ヲ集メ再ビ当地へ立戻ルベシ、因テ命ノ惜キ者ハ勝手ニ帰レ、信州ヨリ人数ヲ集メ再度当地へ来ルベク、其際ハ直チニ駈付ヨ」(大河原鶴吉訊問調書)と言う。
多くの者が離脱し、嘉四郎は残った15名ほどを率い、捕虜の前川巡査を引き立て貫平らを追い、この夜遅く山中谷の神ケ原村に宿陣の貫平らと合流。
矢納村の大河原鶴吉は、嘉四郎からあたえられていた竹槍や鉢巻を戻して帰っていく。
嘉四郎は、帰ろうとする鶴吉たちに、「信州ヨリ人数ヲ集再度当地へ来ルヘク其際ハ直チニ駆付ヨ」(同)と、声をかける。
*
嘉四郎は、以後一度も秩父へは戻らず、甲府で乗合馬車の駁者をして没す。
その間、千野多重という偽名で生家へ手紙を出している。
*
・菊池貫平の信州転戦隊140~150、群馬県南甘楽郡の屋久峠(埼玉・群馬県境、820m)に出現、正午頃、青梨村に侵入。
鳥尾村に至り居民を募る。
貫平は神ヶ原(カガハラ)の茶屋に泊。
*
以降、神流川沿いに魚尾、尾附、乙父、乙母、新羽の村々を経て、白井ノ関から十石峠を越え、7日午後、佐久大日向村に抜ける。8日朝、大日向村を出発する時は、390名となる。
*
新井繁太郎(石間村、兵糧方)は、「此分デハ迚(トテ)モ目的ハ貫ケヌ」と前途に望みを失い、魚尾村で戦列を離れ、自首する心算で万場分署へ向う途中、住民に捕えられる。
*
□信州転戦隊の編成--新しい幹部たち
「菊池ガ総理トナリ、会津(*稲野文次郎)、惣作(*坂本宗作)が弐番手ニナリ、其次ガ私共親子(*新井寅吉・新井貞吉)ニ私同村ノ小沢弥五郎ニ三波川村ノ横円周作」(「新井寅吉訊問調書」)
*
「会津の先生」稲野文次郎
福島県岩代国南会津郡古町村出身、
明治7年10月栃木県下総国今市へ出稼中に行方をくらまし、10月18日拐帯の罪で重禁錮2月、罰金4円、監視6月の刑に処せられる。
蜂起の時は児玉郡太駄村で人力車夫をしている。
3日、困民軍に参加するため家を出て、皆野村で菊池貫平に直接会って協力を申し入れ、兵糧方を命ぜられる。
人相着衣は、
「顔ハ極ク奇麗ニシテ、眼尻ガ少シク下り居レリ」(「千本松吉兵衛訊問調書」)
「色白ク、顔ハ四角張り、眼ハパッチリト太キ方ニコレアリ、着衣ハ黒色絹綿入ニ琥珀ノ三尺帯ヲ締メ、股引脚半ハ申スニ及バズ、外ニモ衣類二枚位ハ着シ居りタリ(「小林西蔵訊問調書」)
「丈ケ低ク、鼻ノ高キ人ナリ」(「中野兵三郎訊問調書」)
と言われる。
新聞には
「卅恰好の男にて、上下とも白綸子の衣服を着し、仙台平の袴を穿ち、両刀を佩び、威風凛々たる人物なり」(「朝野新聞」11月12日)
と書かれる。
*
「玉川の子分」小林酉蔵
秩父郡伊古田村出身、職業馬喰、23歳。
明治15年まで秩父郡玉川村の博徒金三郎の子分、同年1月賭博犯で重禁錮2月・罰金5円、16年3月賭博犯で重禁錮3月。罰金7円に処せられている。
3日、困民党の狩りだしが自村を襲った際に加わり、4日大淵村から皆野村に押し出したあと信州転戦組に加わる。
5日魚尾村で菊池貫平から小旗を与えられて銃隊指揮者となり、6日朝の「川中の戦い」では弾薬運搬を差図する(「小林西蔵裁判言渡書」)。
山梨県若神子分署に捕えられた際、
「自分ハ浦和警察署警部山田氏ニ探偵ヲ頼マレ、小鹿野・吉田等諸所方々探偵中、二日夜大宮郷ニ於テ捕獲セラレ、脅迫セラレテ不得止暴徒ニ与シ」
と弁明するが、
埼玉県警に移されて「本県ニハ山田警部ナルモノ之レナシ」と追及され、
「暴徒ノ未ダ大宮郷へ進入セザル時、同所警察署ニ於テ、横瀬村浅見岩吉、大宮郷中敬助及ビ自分ノ三名へ探偵ノ証ヲ渡サレ、是レヲ証拠ニ賊状ヲ探知シテ時々報告可致旨御達相成候ニ付、本月一日ノ夜夫々探偵ヲ遂ゲ、皆野町警察出張所へ右三名ニテ出頭其由中上候処、奇特ナリトテ御手当等下賜セラレ、尚ホ精々探索可致旨御達ニ付、夫レヨリ小鹿野、吉田等へ赴キ探偵中、大宮郷妙見ノ宮ニテ暴徒ニ取押へラレシナリ」
と訂正(「小林西蔵訊問調書」)。
十石峠で前川巡査を殺害し、新井貞吉とともに死刑に処せられる。
*
坂本宗作
信州転戦組では弾薬掛として殿軍をつとめる
(下吉田村から信州馬流まで自ら弾薬を担いで行ったという)。同行の農民は、「常ニデカ事許申居りタリ」(栗崎市太郎訊問調書」)。
人相、着衣は、「鍛冶屋ノ由ニテ、丈高キ紺ノ股引ヲ履キ居タル精悼風ノ男」(「新井庄蔵訊問調書」)。
信州転戦組で、秩父困民党の運動の初期段階から幹部としてたずさわってきたのは、この坂本宗作(伝令使)村竹茂市(上日野沢村・阿熊村小隊長)の2人だけ。
*
「東京の先生」千本松吉兵衛
千葉県下総国海上郡足洗村出身、
農民であるが自称書家で、千松義雄の号を持つ。
16年1月、居村の筆生をしていた時、戸長不在中に給料・消耗品費23円を持ち逃げし、同年8月、市場支庁の欠席裁判で重禁錮1年6月の判決を受ける
(当人は16年2月より遊歴を始めている)。
17年9月下旬~10月29日まで、上州沼田辺で「縁紅」を名のり、屏風などに字を書く仕事をしている。
埼玉県秩父郡大宮郷に滞在中に、困民軍が侵攻して来て、3日、見物に出てその仲間に加わる。
皆野村で菊池貫平から、
「書家ナラバ帳簿ノ付方ヤ、又人足ノ人名ヲ控タリ、手紙ヲ書タリ、都(スベ)テ書記ヲナセ」
と命令され以後、貫平に随伴する(「千本松吉兵衛訊問調書」)。
「顔細長ク、色白キ方ニテ、髯モ少シアリ、人品ノ良キ男」という(「新井寅吉訊問調書」)。
*
横田周作
群馬県緑野郡三波川村の生れ、秩父郡矢納村の島崎鷹五郎の養子となるが、事件の前月離縁し復籍(「横田周作訊問調書」)。
しかし、その後もこの養家にはたびたび立寄り、上州と秩父の中継拠点として利用。10月31日夜ももここに待機して、栄助の命令を受けた柏木太郎吉と共に、上州勢数人を率い、城峰神社に宿泊していた陸軍測量師を襲い、これを栄助のもとに拘引(「横田周作訊問調書」)。
「頬ノコケタル、鼻筋通リ、眼ハ並」で、着衣は「藍万筋ノ羽織ヲ着、藍縞模様ノ袴ヲ着シ、ソテツ(蘇鉄)ノ葉ニテ拵ラへタル玉子形ノ笠ヲ冠リ、其笠ハ始終取りタル事ナシ」という(「日野ウ夕訊問調書」)。
*
新井寅吉・貞吉
小柏常次郎と同じ群馬県多胡郡上日野村出身の親子、寅吉43歳、貞吉23歳。
寅吉の職業は農間炭焼。
貞吉は自村の小板橋美門方に同居しており、小板橋貞吉とも呼ばれ、16年9月賭博の科で、高崎治安裁判所で重禁錮2カ月、罰金5円に処せられる(「新井貞吉訊問調書」)。
「ムックリシタル丸顔ノ丈ケモ可ナリ高ク」、「羽織ハ藍縞、袴ハ薄茶ノ様ナル色カト覚、衣類ハ黄八丈ニテ、何レモ絹ノ立派ナル風体」をしている(「堀川弥平訊問調書」)。
蜂起にあたって親の貞吉が先に秩父に出かけ、貞吉は体の調子が悪く参加を渋っていたが、新井蒔蔵らの勧めで秩父に出かける。
貞吉は十石峠での前川巡査殺害下手人として、小林酉蔵と共に死刑に処せられる。
警察の取調で「自由党ノ主義トスル処ハ如何ナル事ナリヤ」との問いに、
「高利貸及ビ銀行等ガアリテ利息ヲ貪ル故、金融ノ閉塞スルニ付、右等ヲ打毀シ貧民ヲ救フトノ主義ナリ」
と答える。
信州で高利貸を打毀したときは、「汝等是迄高利ヲ取リテ貧民ヲ泣カセタリ、因テ今回ハ汝等ヲ此方ヨリ泣カスナリ」と言ったという(「新井貞吉訊問調書」)。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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・午前5時、警察・憲兵隊、大宮郷に繰り込む。
隈元少尉小隊は矢那瀬村発し荒川左岸本道を、影山少尉隊は矢那瀬渡しを渡り荒川右岸を併走、皆野で落ち合い、隈元隊が尖兵となり大宮郷に進む。
官憲側は県令告諭を発し、「暴徒」の自首を促し、一斉検挙も行う(15日坂本村、20日城峯山)など)。
更に、
22~24日を探偵期間、
25~27日を一斉検挙期間と定め秩父全域で100余を逮捕。
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隈元少尉の憲兵隊と同行した巡査の記録に、
「藤谷淵ヲ通過ノ際、或ル民家ニ賊ノ潜伏スルヲ覚タリ、之ヲ憲兵ニ示シ砲撃セシムル事数回、然レドモ更ニ応答ナキヲ以テ該家ヲ捜索」とあり、緊張の様子を伝える。
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また、この隊が皆野の手前の栗谷瀬の渡し場を渡る際、船頭を暴徒と見誤り殺害する。
鎌田警部の警察本署宛の報告。
「本月五日皆野村へ進軍ノトキ、同村船頭金子惣太郎ナル者ヲ、暴徒卜見謬りタルヤ殺害セラレタリ、鎌田警部取調中遺族ノ者苦情ヲ唱へ居ルノ聞へアリ、右殺害シタルハ憲兵付属巡査粕谷清五郎ナラント云ヘルモ、本人出張中ナルヲ以テ等閑ニ付ス」。
この粕谷巡査はこの後も信州に転戦の菊池貴平らを追い、十石峠を越え千曲川沿いに進出、9日早朝の掃討戦に参加。
本人は右殺害の事実を、
「赤白ノ布ヲ以テ身体ヲ扮装シタル異様ノ男子、竹槍ヲ以テ小吏ニ抵抗セリ、止ヲ得ズ憲兵卒値賀好郎等卜協力シテ之ヲ斫殺セリ(「粕谷清五郎出張復命書」)と述べる。
粕谷巡査は、後で検事の事情聴取を受けるが、「事正義ニ出デタル」として不問。
*
次いでこの隊は皆野村の外れで大宮郷自衛隊(百数十名)と遭遇、その「紛装異様ナル」ため暴徒と誤認し、武器を取りあげ大宮郷に連行するが、吉峰警部らの釈明ですぐに釈放(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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・午前8時頃、島崎嘉四郎の別働隊、下吉田村の椋神社に入る。菊池貫平らが前夜に山中谷に向ったと聞き、信州転戦組参加を決意。
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前日(4日)、「千鹿谷ノ大将」島崎嘉四郎の別働隊150人は前川巡査を捕虜とし、この内100名ほどは風早峠を越え、更に50名ほどは捕虜巡査を連行して奈良尾峠を越え、夜10時頃、上日野沢村で落ちあう。
5日朝、ここの酒屋で朝食をとり、児玉郡八幡山町(児玉町)へ押し出そうとすると、前夜の金屋の戦いから逃げ帰ったという者から「昨夜八幡山ニ合戦始マリ、兵隊巡査ノタメ賊徒大イニ敗走セリ」と聞く。
その後、方向を転じ午前8時頃、下吉田村の椋神社に入り、菊池貫平らの山中谷への転戦を聞き、嘉四郎は信州転戦組への参加を決意。
嘉四郎は、一同に対し、「最早己レハ信州地ニ立越シ、多人数ヲ集メ再ビ当地へ立戻ルベシ、因テ命ノ惜キ者ハ勝手ニ帰レ、信州ヨリ人数ヲ集メ再度当地へ来ルベク、其際ハ直チニ駈付ヨ」(大河原鶴吉訊問調書)と言う。
多くの者が離脱し、嘉四郎は残った15名ほどを率い、捕虜の前川巡査を引き立て貫平らを追い、この夜遅く山中谷の神ケ原村に宿陣の貫平らと合流。
矢納村の大河原鶴吉は、嘉四郎からあたえられていた竹槍や鉢巻を戻して帰っていく。
嘉四郎は、帰ろうとする鶴吉たちに、「信州ヨリ人数ヲ集再度当地へ来ルヘク其際ハ直チニ駆付ヨ」(同)と、声をかける。
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嘉四郎は、以後一度も秩父へは戻らず、甲府で乗合馬車の駁者をして没す。
その間、千野多重という偽名で生家へ手紙を出している。
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・菊池貫平の信州転戦隊140~150、群馬県南甘楽郡の屋久峠(埼玉・群馬県境、820m)に出現、正午頃、青梨村に侵入。
鳥尾村に至り居民を募る。
貫平は神ヶ原(カガハラ)の茶屋に泊。
*
以降、神流川沿いに魚尾、尾附、乙父、乙母、新羽の村々を経て、白井ノ関から十石峠を越え、7日午後、佐久大日向村に抜ける。8日朝、大日向村を出発する時は、390名となる。
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新井繁太郎(石間村、兵糧方)は、「此分デハ迚(トテ)モ目的ハ貫ケヌ」と前途に望みを失い、魚尾村で戦列を離れ、自首する心算で万場分署へ向う途中、住民に捕えられる。
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□信州転戦隊の編成--新しい幹部たち
「菊池ガ総理トナリ、会津(*稲野文次郎)、惣作(*坂本宗作)が弐番手ニナリ、其次ガ私共親子(*新井寅吉・新井貞吉)ニ私同村ノ小沢弥五郎ニ三波川村ノ横円周作」(「新井寅吉訊問調書」)
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「会津の先生」稲野文次郎
福島県岩代国南会津郡古町村出身、
明治7年10月栃木県下総国今市へ出稼中に行方をくらまし、10月18日拐帯の罪で重禁錮2月、罰金4円、監視6月の刑に処せられる。
蜂起の時は児玉郡太駄村で人力車夫をしている。
3日、困民軍に参加するため家を出て、皆野村で菊池貫平に直接会って協力を申し入れ、兵糧方を命ぜられる。
人相着衣は、
「顔ハ極ク奇麗ニシテ、眼尻ガ少シク下り居レリ」(「千本松吉兵衛訊問調書」)
「色白ク、顔ハ四角張り、眼ハパッチリト太キ方ニコレアリ、着衣ハ黒色絹綿入ニ琥珀ノ三尺帯ヲ締メ、股引脚半ハ申スニ及バズ、外ニモ衣類二枚位ハ着シ居りタリ(「小林西蔵訊問調書」)
「丈ケ低ク、鼻ノ高キ人ナリ」(「中野兵三郎訊問調書」)
と言われる。
新聞には
「卅恰好の男にて、上下とも白綸子の衣服を着し、仙台平の袴を穿ち、両刀を佩び、威風凛々たる人物なり」(「朝野新聞」11月12日)
と書かれる。
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「玉川の子分」小林酉蔵
秩父郡伊古田村出身、職業馬喰、23歳。
明治15年まで秩父郡玉川村の博徒金三郎の子分、同年1月賭博犯で重禁錮2月・罰金5円、16年3月賭博犯で重禁錮3月。罰金7円に処せられている。
3日、困民党の狩りだしが自村を襲った際に加わり、4日大淵村から皆野村に押し出したあと信州転戦組に加わる。
5日魚尾村で菊池貫平から小旗を与えられて銃隊指揮者となり、6日朝の「川中の戦い」では弾薬運搬を差図する(「小林西蔵裁判言渡書」)。
山梨県若神子分署に捕えられた際、
「自分ハ浦和警察署警部山田氏ニ探偵ヲ頼マレ、小鹿野・吉田等諸所方々探偵中、二日夜大宮郷ニ於テ捕獲セラレ、脅迫セラレテ不得止暴徒ニ与シ」
と弁明するが、
埼玉県警に移されて「本県ニハ山田警部ナルモノ之レナシ」と追及され、
「暴徒ノ未ダ大宮郷へ進入セザル時、同所警察署ニ於テ、横瀬村浅見岩吉、大宮郷中敬助及ビ自分ノ三名へ探偵ノ証ヲ渡サレ、是レヲ証拠ニ賊状ヲ探知シテ時々報告可致旨御達相成候ニ付、本月一日ノ夜夫々探偵ヲ遂ゲ、皆野町警察出張所へ右三名ニテ出頭其由中上候処、奇特ナリトテ御手当等下賜セラレ、尚ホ精々探索可致旨御達ニ付、夫レヨリ小鹿野、吉田等へ赴キ探偵中、大宮郷妙見ノ宮ニテ暴徒ニ取押へラレシナリ」
と訂正(「小林西蔵訊問調書」)。
十石峠で前川巡査を殺害し、新井貞吉とともに死刑に処せられる。
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坂本宗作
信州転戦組では弾薬掛として殿軍をつとめる
(下吉田村から信州馬流まで自ら弾薬を担いで行ったという)。同行の農民は、「常ニデカ事許申居りタリ」(栗崎市太郎訊問調書」)。
人相、着衣は、「鍛冶屋ノ由ニテ、丈高キ紺ノ股引ヲ履キ居タル精悼風ノ男」(「新井庄蔵訊問調書」)。
信州転戦組で、秩父困民党の運動の初期段階から幹部としてたずさわってきたのは、この坂本宗作(伝令使)村竹茂市(上日野沢村・阿熊村小隊長)の2人だけ。
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「東京の先生」千本松吉兵衛
千葉県下総国海上郡足洗村出身、
農民であるが自称書家で、千松義雄の号を持つ。
16年1月、居村の筆生をしていた時、戸長不在中に給料・消耗品費23円を持ち逃げし、同年8月、市場支庁の欠席裁判で重禁錮1年6月の判決を受ける
(当人は16年2月より遊歴を始めている)。
17年9月下旬~10月29日まで、上州沼田辺で「縁紅」を名のり、屏風などに字を書く仕事をしている。
埼玉県秩父郡大宮郷に滞在中に、困民軍が侵攻して来て、3日、見物に出てその仲間に加わる。
皆野村で菊池貫平から、
「書家ナラバ帳簿ノ付方ヤ、又人足ノ人名ヲ控タリ、手紙ヲ書タリ、都(スベ)テ書記ヲナセ」
と命令され以後、貫平に随伴する(「千本松吉兵衛訊問調書」)。
「顔細長ク、色白キ方ニテ、髯モ少シアリ、人品ノ良キ男」という(「新井寅吉訊問調書」)。
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横田周作
群馬県緑野郡三波川村の生れ、秩父郡矢納村の島崎鷹五郎の養子となるが、事件の前月離縁し復籍(「横田周作訊問調書」)。
しかし、その後もこの養家にはたびたび立寄り、上州と秩父の中継拠点として利用。10月31日夜ももここに待機して、栄助の命令を受けた柏木太郎吉と共に、上州勢数人を率い、城峰神社に宿泊していた陸軍測量師を襲い、これを栄助のもとに拘引(「横田周作訊問調書」)。
「頬ノコケタル、鼻筋通リ、眼ハ並」で、着衣は「藍万筋ノ羽織ヲ着、藍縞模様ノ袴ヲ着シ、ソテツ(蘇鉄)ノ葉ニテ拵ラへタル玉子形ノ笠ヲ冠リ、其笠ハ始終取りタル事ナシ」という(「日野ウ夕訊問調書」)。
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新井寅吉・貞吉
小柏常次郎と同じ群馬県多胡郡上日野村出身の親子、寅吉43歳、貞吉23歳。
寅吉の職業は農間炭焼。
貞吉は自村の小板橋美門方に同居しており、小板橋貞吉とも呼ばれ、16年9月賭博の科で、高崎治安裁判所で重禁錮2カ月、罰金5円に処せられる(「新井貞吉訊問調書」)。
「ムックリシタル丸顔ノ丈ケモ可ナリ高ク」、「羽織ハ藍縞、袴ハ薄茶ノ様ナル色カト覚、衣類ハ黄八丈ニテ、何レモ絹ノ立派ナル風体」をしている(「堀川弥平訊問調書」)。
蜂起にあたって親の貞吉が先に秩父に出かけ、貞吉は体の調子が悪く参加を渋っていたが、新井蒔蔵らの勧めで秩父に出かける。
貞吉は十石峠での前川巡査殺害下手人として、小林酉蔵と共に死刑に処せられる。
警察の取調で「自由党ノ主義トスル処ハ如何ナル事ナリヤ」との問いに、
「高利貸及ビ銀行等ガアリテ利息ヲ貪ル故、金融ノ閉塞スルニ付、右等ヲ打毀シ貧民ヲ救フトノ主義ナリ」
と答える。
信州で高利貸を打毀したときは、「汝等是迄高利ヲ取リテ貧民ヲ泣カセタリ、因テ今回ハ汝等ヲ此方ヨリ泣カスナリ」と言ったという(「新井貞吉訊問調書」)。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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2010年7月19日月曜日
明治17(1884)年11月4日(7) 坂本宗作、菊池貫平と信州転戦を決す 事件の新聞報道
明治17(1884)年11月4日(7)
*
・坂本宗作、下吉田村から戻り、菊池貫平らと善後策検討。
この頃(午後6時頃)、皆野本陣に残る幹部は宗作、貫平、常次郎、門平惣平、稲野文治郎ら。
信州進発方針を決め、軍勢100で皆野進発、吉田で新井寅吉の上州勢を加え150余となる。
常次郎・惣平は途中で逃亡。
午後12時頃、上吉田塚越部落の河原で信州転戦を決定。
総理菊池貫平・大隊長坂本宗作・稲野文次郎(「会津の先生」)・柴岡熊吉。幹部小板橋貞吉・千本松吉兵衛(「東京の先生」)・小林酉蔵、上州組恩田卯一・新井寅吉・横田周作らが幹部に加わる。後、島崎嘉四郎も幹部に加わる。
4日夜は塚越河原で野営、翌朝、酒造家に朝食360人分を用意させ、夜明けを待って屋久峠(埼玉・群馬県境、標高820m)に向う。
*
菊池貫平は早くから困民軍の信州転戦を企図していたとみられる。
*
□菊池貫平は、4日午前中、皆野村で信州転戦を決意し周囲に呼掛けて皆野村を離れる。大宮郷経由で下吉田村に向う。
一方、この頃、首脳部の崩壊により皆野本営が混乱し、農民達は旗揚げの地である下吉田村に戻って来る。
貫平は彼らに信州転戦を呼掛け、その総理に推される。
*
「四日午前十時頃卜覚へ、大野原卜黒谷村ノ境ナル黒谷橋(下小川橋)ト申ス処ニ、諸隊長ノ会議ヲ開キタルニ、菊池貫平ハ速カニ信州ニ赴キ、同所ノ暴徒卜合併シテ大事ヲ謀ラント部下ヲ集メ、大宮郷ノ方へ赴キタリ(「滝沢房吉訊問調書」)
*
「皆野村へ参りタル処、同所ニ集り居りタル人数ハ二手ニナリ、一手ハ八幡山(町)ノ方へ繰出シ、一手ハ信州へ赴クトテ己ニ繰出ス際ニ付、信州へ赴ク一手ノ隊将信州ノ菊池貫平ニ面会、太田部(村)ニ巡査サンノ見ユル事ヲ咄シタル処、太田部・石間村ニハ構ハズ信州へ赴ク訳ニ付一緒ニ参レト申サレ、菊池ノ手ニ付キ皆野(村)ヲ発シ・・・」(「新井武平訊問調書」)
*
「四日ニ親鼻ニ居りタル際、信州へ行クト申ス事ヲ承り、夫ヨリ内(家)へ帰り仕度致シタルナリ、其時ノ咄ニハ信州へ行ケバ一万人ニナル故、秩父連ノモノハ帰リ度望ミノモノハ帰スト申ス事ナリシ」(「青木与市訊問調書」)
*
「八幡山(町)ノ方へ行クト云ッタ五百名程ノ人数ガ、織平等ハ金ヲ懐ニシテ逃去り、不届モノ故其家ヲ焼払フト申シテ一同引返シ、吉田ノ方ニ押シ登ッテ来タリ、自分等二五名ハ秩父新道ニテ其モノ共二出会ヒ、吉田村ノ下マデ共ニ行キ」(「小柏常次郎訊問調書」)
*
「前ノ酒屋へ参リテ三銭ガ程酒ヲ飲ミ帰リテ見ルト、栄助モ伜モ居ラズ、其時小柏常次郎ニ総理ハ何処へ行シカト尋ネタルニ、何処へ行キタルカ居ラズトノ事、
其時大淵(村)ノ方デ巡査ガ切り出シ、怪我ヲシタト云フ者ヲ三人戸板ニ乗セテ担ギ来ル、
総理ハ居ラヌトノ騒ギニテ、大淵(村)へ出タル人数ハ呼戻ス、
野上(村)へハ兵隊ガ繰込ミタルト云フ話ガアル、
余程ノ混雑ニテ其時小柏常次郎ヤ横田周作ガ、此処ニ居夕処ガ仕方モナシ、
兎モ角モ吉田(村)ノ方へ行キ、信州へ越シタ方ガ宜シカロウト云ヒ、皆野(村)ヲ立チシガ午後三時過ニテ、人数ハ二百五十名位ニテ、
吉田ノ方へ出ル途中ニテ常次郎ハ何レへカ逃走シ、
吉田へ来タル処ガ重立シ者ハ横田周作卜坂本宗作「会津」ノミ、彼是レ致シ居り、夕飯ヲ宿へ云イ付ヨウト相談スルトキ、菊池貰平ガ大宮ノ下ニテ赤イ襷ヲ掛ケテ居ル者ニ取巻カレ、羽織モ脱ギ捨テ、衣類モ破りタリトテ逃ゲ来ル、夫ヨリ同人ヲ大将卜頼ミ、信州へ越スコトヲ極メタリ」(「新井貞吉訊問調書」)
*
「田代栄助等ハ心変リシタルカ逃去り、夫ヨリ私共モ逃ル積リニテ、四日ノ午後六時過ギ拾四、五名ニテ吉田へ来ルト、会津先生、門平惣平、坂本宗作等ガ百人程ノ人数ニテ大淵ノ方ヨリ来リテ私共卜会ヒ、吉田ニテ又人数ガ百五拾人ニモ相成りタルヨリ、其処ニテ菊池貫平ガ南甘楽郡ヨリ信州へ押出ストノ相談ガアリ、一同ソレニ同意シ、其処ニテ飯ヲ仕舞出立スルト、門平惣平ハ何レへカ逃走シテ居ラズ、其処カラハ菊池ガ総理トナリ」(「新井寅吉訊問調書」)
*
「四月午後七時頃、下吉田上町ニ群聚スル暴徒凡弐百三拾人許、同所ニテ喫飲シ、暫ク憩止シ、石間村城峯山ニ官軍アリ、之ヲ駆除スルト唱へ、該地ニ発向スル躰ニテ上吉田村字塚越ニテ朝食ヲ炊カセ」(田中千弥「秩父暴動雑録」)
*
□塚越までの途中、坂本宗作はそっと隊列を離れ、自分の家へ立ち寄る。
*
□信州転戦は菊池貰平が蜂起参加前から抱いていた構想。
菊池貫平・井出為吉は、蜂起前に
「若シ兵糧ニ差支タレバ信州ヨリ取寄セ、又秩父デ破レタルトキハ信州ニ退ク」
と発言し、「一同大ヒニ力ヲ得夕」という(「小柏常次郎訊問調書」)。
また、田代栄助は、
「此両人(貫平・為吉)ハ何等ノ目論見アリタルヤ自分ハ一向二存ジ不申、去リナガラ自分ノ推スルニハ、菊池、井出ノ両人ハ真ニ秩父郡ノ一揆ニ加担スル者ニアラズ、幸ヒ当郡中ニテ兵ヲ挙ゲタル上ハ、之ヲ率ヒ長野県へ繰込ム了簡ニ出タルナラン」(「田代栄助訊問調書」)
という。
*
□「この時にあたりてや衆大いに危惧し栄助織平らはすでに逃走しほとんど瓦解の域にいたらんとするをもって下吉村に立戻り、菊池質平らと相会し、転じて信州地方に入らんことを議し、さらに貫平を総理に推選し翌五日貫平らと残徒百数十人を引率し群馬県下南甘楽郡魚尾村にいたり居民を募り、翌六日同郡神ケ原村にいたり、途中土民に攻撃せられ支うるあたわず、さらに転じて楢原村にいたり、翌七日白井峠の茶屋において貫平らと相謀り、さきに捕獲したる群馬県巡査前川彦六を小林酉蔵に命じて殺害せしめ、長野県南佐久郡大日向村に進み、翌八日同村浅川源太郎、同玉之助、同源助方に乱入し家産を破壊し金円物品を略奪しなお進んで海尻にいたり、翌九日官兵の攻撃を受け奮闘して巡査二名を負傷せしめたるも勢支えがたき察し、貫平らとさきに掠奪したる金円を分配し走って所々に潜伏・・・」(坂本宗作判決文)。
*
□かつての幹部、小柏常次郎(小荷駄方)、門平惣平(伝令使)、新井蒔蔵(自由党員)らは、前途に見切りをつけて暗夜に姿を消す。
*
□新井繁太郎、幹部逃亡に怒り追及しようとするが果せず、信州へ向かうが、途中脱落。
小柏常次郎・門平惣平も同様。
繁太郎、「皆野宿ニ至リタルニ、栄助・織平其他重立チガ何レへカ逃ゲタリト云事ヲ聞込ミタル故、栄助等ハ金ヲ握ツテ逃ゲタル事ニテ不届ナル者ニ付、見付出シテナグツテ仕舞フト申シ、自分等大勢卜共ニ栄助等ノ所在ヲ捜スニ更ニ行衛分ラズ・・・」。
吉田に行くが捜し出せず、貫平と共に信州へ行こうとして峠を越える。
しかし、「此分ニテハ迚モ目的ハ貫ケヌ事卜考へ」、自首のため警察に向かう途中、上州村民に捕えられる。
常次郎も、4日午後、児玉に押出そうとした農民500は、「織平等ハ金ヲ懐ニシテ逃去り、不届モノ故、其家ヲ焼払フ」と道を転じて吉田に向かった、と述べている。
*
□島崎嘉四郎(千鹿谷の大将)、夜10時頃、分散したゲリラ隊を日野沢で統合し、下吉田の酒屋に焚出しを命じ、児玉に押出そうとする時、金屋の敗報を聞く。
5日午前2~3時、椋神社で休息中、軍隊・警官多数侵入の報を受け、嘉四郎は信州転戦を決意し、「最早己レハ信州路ニ立越、多人数ヲ集メ再ピ当地へ立越スベシ、仍テ命ノ情シキ者ハ勝手ニ帰レ。/信州ヨリ人数ヲ集メテ再度来ルべシ、ソノ際直チニ駆付ケヨ。」と演説。
嘉四郎は30名余を率い信州路に進出、幹部として活躍する。
*
*
□11月4日時点の新聞報道
・秩父事件の2度目の報道。「東京横浜毎日新聞」が「埼玉県貧民暴動」の号外を出す。
4日から掲載を始めるのは、福地源一郎の「東京日日新聞」、成島柳北の「朝野新聞」などで、この日には各紙とも加波山事件の富松正安逮捕を報じる。
*
「東京日日」は、「小民等が不景気の余響に苦しめられ、博徒溢れ者或は過激の政党輩加はりて之を煽し」と書く。
*
・末広鉄腸「雑録」(「朝野新聞」)。
「客年以来全国商業の振わざる、農家の窮する甚だしきものあり。新聞各社亦幾分か其の影響を蒙るに及べり。諸君言う。我が社の如き社運頗る隆昌なれば今日未だ苦情を訴うる秋に非ざるべしと。或いは然らん。然りと雖も履下の新霜既に我が足を寒からしむ。亦痛心焦慮して将来の幸福を保持する策を画すべきの時なり。況んや二、三年来我が社の蒙りたる刀痕鏃傷は末だ全く癒える能わざるに於てをや」
*
*
「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
*
*
*
・坂本宗作、下吉田村から戻り、菊池貫平らと善後策検討。
この頃(午後6時頃)、皆野本陣に残る幹部は宗作、貫平、常次郎、門平惣平、稲野文治郎ら。
信州進発方針を決め、軍勢100で皆野進発、吉田で新井寅吉の上州勢を加え150余となる。
常次郎・惣平は途中で逃亡。
午後12時頃、上吉田塚越部落の河原で信州転戦を決定。
総理菊池貫平・大隊長坂本宗作・稲野文次郎(「会津の先生」)・柴岡熊吉。幹部小板橋貞吉・千本松吉兵衛(「東京の先生」)・小林酉蔵、上州組恩田卯一・新井寅吉・横田周作らが幹部に加わる。後、島崎嘉四郎も幹部に加わる。
4日夜は塚越河原で野営、翌朝、酒造家に朝食360人分を用意させ、夜明けを待って屋久峠(埼玉・群馬県境、標高820m)に向う。
*
菊池貫平は早くから困民軍の信州転戦を企図していたとみられる。
*
□菊池貫平は、4日午前中、皆野村で信州転戦を決意し周囲に呼掛けて皆野村を離れる。大宮郷経由で下吉田村に向う。
一方、この頃、首脳部の崩壊により皆野本営が混乱し、農民達は旗揚げの地である下吉田村に戻って来る。
貫平は彼らに信州転戦を呼掛け、その総理に推される。
*
「四日午前十時頃卜覚へ、大野原卜黒谷村ノ境ナル黒谷橋(下小川橋)ト申ス処ニ、諸隊長ノ会議ヲ開キタルニ、菊池貫平ハ速カニ信州ニ赴キ、同所ノ暴徒卜合併シテ大事ヲ謀ラント部下ヲ集メ、大宮郷ノ方へ赴キタリ(「滝沢房吉訊問調書」)
*
「皆野村へ参りタル処、同所ニ集り居りタル人数ハ二手ニナリ、一手ハ八幡山(町)ノ方へ繰出シ、一手ハ信州へ赴クトテ己ニ繰出ス際ニ付、信州へ赴ク一手ノ隊将信州ノ菊池貫平ニ面会、太田部(村)ニ巡査サンノ見ユル事ヲ咄シタル処、太田部・石間村ニハ構ハズ信州へ赴ク訳ニ付一緒ニ参レト申サレ、菊池ノ手ニ付キ皆野(村)ヲ発シ・・・」(「新井武平訊問調書」)
*
「四日ニ親鼻ニ居りタル際、信州へ行クト申ス事ヲ承り、夫ヨリ内(家)へ帰り仕度致シタルナリ、其時ノ咄ニハ信州へ行ケバ一万人ニナル故、秩父連ノモノハ帰リ度望ミノモノハ帰スト申ス事ナリシ」(「青木与市訊問調書」)
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「八幡山(町)ノ方へ行クト云ッタ五百名程ノ人数ガ、織平等ハ金ヲ懐ニシテ逃去り、不届モノ故其家ヲ焼払フト申シテ一同引返シ、吉田ノ方ニ押シ登ッテ来タリ、自分等二五名ハ秩父新道ニテ其モノ共二出会ヒ、吉田村ノ下マデ共ニ行キ」(「小柏常次郎訊問調書」)
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「前ノ酒屋へ参リテ三銭ガ程酒ヲ飲ミ帰リテ見ルト、栄助モ伜モ居ラズ、其時小柏常次郎ニ総理ハ何処へ行シカト尋ネタルニ、何処へ行キタルカ居ラズトノ事、
其時大淵(村)ノ方デ巡査ガ切り出シ、怪我ヲシタト云フ者ヲ三人戸板ニ乗セテ担ギ来ル、
総理ハ居ラヌトノ騒ギニテ、大淵(村)へ出タル人数ハ呼戻ス、
野上(村)へハ兵隊ガ繰込ミタルト云フ話ガアル、
余程ノ混雑ニテ其時小柏常次郎ヤ横田周作ガ、此処ニ居夕処ガ仕方モナシ、
兎モ角モ吉田(村)ノ方へ行キ、信州へ越シタ方ガ宜シカロウト云ヒ、皆野(村)ヲ立チシガ午後三時過ニテ、人数ハ二百五十名位ニテ、
吉田ノ方へ出ル途中ニテ常次郎ハ何レへカ逃走シ、
吉田へ来タル処ガ重立シ者ハ横田周作卜坂本宗作「会津」ノミ、彼是レ致シ居り、夕飯ヲ宿へ云イ付ヨウト相談スルトキ、菊池貰平ガ大宮ノ下ニテ赤イ襷ヲ掛ケテ居ル者ニ取巻カレ、羽織モ脱ギ捨テ、衣類モ破りタリトテ逃ゲ来ル、夫ヨリ同人ヲ大将卜頼ミ、信州へ越スコトヲ極メタリ」(「新井貞吉訊問調書」)
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「田代栄助等ハ心変リシタルカ逃去り、夫ヨリ私共モ逃ル積リニテ、四日ノ午後六時過ギ拾四、五名ニテ吉田へ来ルト、会津先生、門平惣平、坂本宗作等ガ百人程ノ人数ニテ大淵ノ方ヨリ来リテ私共卜会ヒ、吉田ニテ又人数ガ百五拾人ニモ相成りタルヨリ、其処ニテ菊池貫平ガ南甘楽郡ヨリ信州へ押出ストノ相談ガアリ、一同ソレニ同意シ、其処ニテ飯ヲ仕舞出立スルト、門平惣平ハ何レへカ逃走シテ居ラズ、其処カラハ菊池ガ総理トナリ」(「新井寅吉訊問調書」)
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「四月午後七時頃、下吉田上町ニ群聚スル暴徒凡弐百三拾人許、同所ニテ喫飲シ、暫ク憩止シ、石間村城峯山ニ官軍アリ、之ヲ駆除スルト唱へ、該地ニ発向スル躰ニテ上吉田村字塚越ニテ朝食ヲ炊カセ」(田中千弥「秩父暴動雑録」)
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□塚越までの途中、坂本宗作はそっと隊列を離れ、自分の家へ立ち寄る。
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□信州転戦は菊池貰平が蜂起参加前から抱いていた構想。
菊池貫平・井出為吉は、蜂起前に
「若シ兵糧ニ差支タレバ信州ヨリ取寄セ、又秩父デ破レタルトキハ信州ニ退ク」
と発言し、「一同大ヒニ力ヲ得夕」という(「小柏常次郎訊問調書」)。
また、田代栄助は、
「此両人(貫平・為吉)ハ何等ノ目論見アリタルヤ自分ハ一向二存ジ不申、去リナガラ自分ノ推スルニハ、菊池、井出ノ両人ハ真ニ秩父郡ノ一揆ニ加担スル者ニアラズ、幸ヒ当郡中ニテ兵ヲ挙ゲタル上ハ、之ヲ率ヒ長野県へ繰込ム了簡ニ出タルナラン」(「田代栄助訊問調書」)
という。
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□「この時にあたりてや衆大いに危惧し栄助織平らはすでに逃走しほとんど瓦解の域にいたらんとするをもって下吉村に立戻り、菊池質平らと相会し、転じて信州地方に入らんことを議し、さらに貫平を総理に推選し翌五日貫平らと残徒百数十人を引率し群馬県下南甘楽郡魚尾村にいたり居民を募り、翌六日同郡神ケ原村にいたり、途中土民に攻撃せられ支うるあたわず、さらに転じて楢原村にいたり、翌七日白井峠の茶屋において貫平らと相謀り、さきに捕獲したる群馬県巡査前川彦六を小林酉蔵に命じて殺害せしめ、長野県南佐久郡大日向村に進み、翌八日同村浅川源太郎、同玉之助、同源助方に乱入し家産を破壊し金円物品を略奪しなお進んで海尻にいたり、翌九日官兵の攻撃を受け奮闘して巡査二名を負傷せしめたるも勢支えがたき察し、貫平らとさきに掠奪したる金円を分配し走って所々に潜伏・・・」(坂本宗作判決文)。
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□かつての幹部、小柏常次郎(小荷駄方)、門平惣平(伝令使)、新井蒔蔵(自由党員)らは、前途に見切りをつけて暗夜に姿を消す。
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□新井繁太郎、幹部逃亡に怒り追及しようとするが果せず、信州へ向かうが、途中脱落。
小柏常次郎・門平惣平も同様。
繁太郎、「皆野宿ニ至リタルニ、栄助・織平其他重立チガ何レへカ逃ゲタリト云事ヲ聞込ミタル故、栄助等ハ金ヲ握ツテ逃ゲタル事ニテ不届ナル者ニ付、見付出シテナグツテ仕舞フト申シ、自分等大勢卜共ニ栄助等ノ所在ヲ捜スニ更ニ行衛分ラズ・・・」。
吉田に行くが捜し出せず、貫平と共に信州へ行こうとして峠を越える。
しかし、「此分ニテハ迚モ目的ハ貫ケヌ事卜考へ」、自首のため警察に向かう途中、上州村民に捕えられる。
常次郎も、4日午後、児玉に押出そうとした農民500は、「織平等ハ金ヲ懐ニシテ逃去り、不届モノ故、其家ヲ焼払フ」と道を転じて吉田に向かった、と述べている。
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□島崎嘉四郎(千鹿谷の大将)、夜10時頃、分散したゲリラ隊を日野沢で統合し、下吉田の酒屋に焚出しを命じ、児玉に押出そうとする時、金屋の敗報を聞く。
5日午前2~3時、椋神社で休息中、軍隊・警官多数侵入の報を受け、嘉四郎は信州転戦を決意し、「最早己レハ信州路ニ立越、多人数ヲ集メ再ピ当地へ立越スベシ、仍テ命ノ情シキ者ハ勝手ニ帰レ。/信州ヨリ人数ヲ集メテ再度来ルべシ、ソノ際直チニ駆付ケヨ。」と演説。
嘉四郎は30名余を率い信州路に進出、幹部として活躍する。
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□11月4日時点の新聞報道
・秩父事件の2度目の報道。「東京横浜毎日新聞」が「埼玉県貧民暴動」の号外を出す。
4日から掲載を始めるのは、福地源一郎の「東京日日新聞」、成島柳北の「朝野新聞」などで、この日には各紙とも加波山事件の富松正安逮捕を報じる。
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「東京日日」は、「小民等が不景気の余響に苦しめられ、博徒溢れ者或は過激の政党輩加はりて之を煽し」と書く。
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・末広鉄腸「雑録」(「朝野新聞」)。
「客年以来全国商業の振わざる、農家の窮する甚だしきものあり。新聞各社亦幾分か其の影響を蒙るに及べり。諸君言う。我が社の如き社運頗る隆昌なれば今日未だ苦情を訴うる秋に非ざるべしと。或いは然らん。然りと雖も履下の新霜既に我が足を寒からしむ。亦痛心焦慮して将来の幸福を保持する策を画すべきの時なり。況んや二、三年来我が社の蒙りたる刀痕鏃傷は末だ全く癒える能わざるに於てをや」
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2010年6月20日日曜日
明治17(1884)年11月4日(6) 落合寅市の最後の戦い 粥仁田(新田)峠の戦い 小川口の官憲側の動き 住民の自衛
明治17(1884)年11月4日
*
・午後、落合寅市、困民軍80~100を指揮し粥仁田峠越え、坂本村に進出。
2手に別れ、南は皆谷・白石村、北は大内沢村に働きかける。
この地方の警官隊37に加え、猟師38・壮丁83で補助隊を編成。
夜、補助隊が困民軍に取込まれ、警官隊は挟撃の危機を辛くも脱出。
この日夜11時、鎮台兵1半隊が小川に到着(小川には自衛団400が結成)。
翌5日午前2時、鎮台兵・警官隊、坂本に向かい出発。
粥仁田峠をはさみ交戦。困民軍は後退。
農民52を捕縛し、5日午後、官兵は大宮郷入り。
落合寅市は皆野本陣壊滅を知り姿を消す。
*
*
□困民軍の坂本進出
3日、乙隊主力が大野原村から皆野村に進出した際、途中の大野原村・黒谷村境の蓼沼にある横瀬川に架かる下小川橋には、後方の固めとしてかなりの人員が残置される。
風布村の学務委員で花火師の宮下沢五郎(32歳)、桜沢村の木嶋善一郎(34歳)、三沢村の反町嘉平、横瀬村の千嶋周作らが隊長分となり、横瀬村の花火師町田代造方から借りてきた烟火筒(花火の打ち上げ用の筒)や、自製の破裂弾を持って布陣。
*
木嶋善一郎:
男衾郡桜沢村の博徒で綽名は「官軍善」、「木島伊豫守源ノ善一」とか「信勝」と自称。蜂起前は榛沢郡のオルグに当り、黒谷橋では「白ノ唐縮緬ニ紋ヲ書キタル」指揮旗を持つ。
*
4日午前10時頃、伝令が、「本野上ノ憲兵巡査ガ押来りタルニ付、此ノ蓼沼ニ於テ陣ヲ取ルガヨカラン」と伝えたので、官兵阻止の為に橋を焼くことも予想し、石油を買いに大宮郷に走ったり、堀を掘るなどして陣地を構築。
*
また、この日この頃、ここで「諸隊長ノ会議」が開かれて軍用金の分配があり、参謀長菊池貫平は、
「速カニ信州ニ赴キ、同所之暴徒卜合併シテ大事ヲ謀ラン」
と部下を集めて大宮郷に向い、
大隊長落合寅市は、
「坂本村ヲ初メ、小川最寄ニハ同盟ノ者モ有之ニ付、速カニ広地ニ出デザレバ、此狭隘ナル山中ニテハ迚(トテ)モ滞陣難相成、且ツ兵糧攻メニセラル、憂ヒアラバ、迅速出張スベシ」
と主張して、この方面への進出を指揮することになる。
*
この時、落合寅市は、宮下沢五郎らに対し、
「本野上ニ来ル憲兵巡査モ皆ナ寄居町へ逃ゲ去りタルヲ以テ、皆野ニ屯集シタルモノ本野上村ヲ経テ寄居町ニ押出シ、大野原村ニ堅メ居ルモノハ坂元村ヨリ小川町ヲ襲撃シ、今市村ヲ経テ熊谷駅ニ繰出ス手配ナリ」
と指示し、4日正午頃、人員50~60名、火縄銃30挺・木砲1門を持って、三沢村~坂本村に向う。
*
落合隊は、蓼沼出発前、坂本村戸島役場の筆生で自由党員福島敬三が差し向けた特使の飯田米蔵(46歳)から、「警部巡査四〇人程坂本村戸長役場に出張」と聞いているが、「我隊ガ進メバ皆ナ逃ゲ去ル」と軽視。
午後6時頃、粥新田峠に到着。
坂本村の鉄砲組4、5人が待っていて、「我々是処ニ見張スルト雖モ、固ヨリ我ガ村内之者ハ貴殿共へ味方ヲ致ス心得ニ付案内致スベシ」と先導を買って出る。
落合隊はここで休憩し、月の出になって坂本村に進出することにし、夜間の仲間識別として「天卜言ヒバ地卜答フル」ことを定める。
*
日暮になり、峠の頂上で烟火筒を発砲して気勢をあげ、鯨波をつくり、「先ハ鉄砲、次ハ大砲、次ハ抜刀、次ハ竹槍、其後ガ人足」の隊列で、「暗夜ノ事ナレバ火縄三〇モヒカヒカ」させながら、「鉄砲ヲ打チ打チ」峠を下り、午後9時頃坂本村に入る。
村の入口にも鉄砲方数人がいて落合隊を迎える。
落合隊は村の前後に哨兵を配置し、人の出入を検問し、近村に働きかけて人足の狩りだしを行う。
*
*
□小川口の警備
3日午前1時、松山警察署長吉峰警部(1日の下吉田村戸長役場で敗退し小川分署に退避中)は、寄居本部の警部長から
「暴徒ハ四隊ニ分レ、一ハ小川ヨリ松山ヲ襲フノ形勢ナルニ由り、該地ヲ防禦スベシ」
との命令を受ける。
*
しかし同警部の手許には、共に敗退してきた巡査数人(含む、負傷者)だけのため、「僅々ノ巡査ニテハ防グ術ナシ、故ニ松山マデ引揚ゲ十分ニ部署」することにし、松山の自署に戻り、郡長・戸長と協議し、土地の士族や壮者、月ノ輪村撃剣会の応援を求めるなどの対策に奔走。
この時、再び警部長から「松山ヲ引揚ゲ、西平ロヨリ嶺ヲ越へ、暴徒ノ脱漏ヲ防ギ、大宮郷ニ進入スベシ」との命令が伝えられる。このため、午後4時、吉蜂警部は松山を発して小川に戻り、寄居本部から来援の警官隊を待つ。
*
比企郡ノ月輪村の撃剣会は、「左右社」と呼ばれ流派は甲源一刀流。社長大塚奓恵八は、剣士数名を率い吉峰警部を追い小川村に進出し、警部らは西平村に出撃していたので、8日まで小川町警備につく。
*
小川口から大宮郷への道には、
①坂本村間道と
②西平村間道があり、
3日正午頃、寄居本部から、
①坂本村間道の警備要員として山室警部(熊谷警察署長、宮崎県士族、30歳)と安岡警部補(警察本署詰、熊本県士族、27歳)指揮の巡査35名が、また
②西平村間道の警備要員として深滝警部補(小川分署長、新潟県士族、29歳)と巡査25名が派遣されてくる。
吉峰警部は西平村間道警備を指揮し、吉峰警部と共に後退して来た斉藤警部(大宮郷警察署長 埼玉県士族、43歳)は小川分署に残留することになる。
*
①坂本村間道の警備の模様。
3日正午頃、小川分署に入った山室警部は、斥候を出して動静を探り、「賊未ダ粥新田峠ヲ踰(コ)へズ」と知り、午後6時、坂本村戸長役場に進出、戸長役場を本営と定め、落合と粥新田峠と定峯峠に通ずる要路に哨兵を配置。
更に、戸長役場に依頼して猟師と人夫を募り、皆谷村・坂本村・大内沢村からの応募者111人(猟師37、人夫82)をこれら各哨所に分配。
*
翌4日、定峯峠の斥候から、暴徒に附随した者から得た情報として、「金崎村ニ往ク途中憲兵ノ砲撃ニ遇ヒ、暴徒二人ノ斃ルルヲ見テ驚テ遁レ来ル」の報告がある。
その後、小川分署に残留の斉藤警部から「皆野ロノ憲兵防グ能ハズ、賊二千人象ケ鼻ニ進行ス」との急報が入る。
すると、応募の猟師・人夫全員が帰宅してしまう。
撃剣家田中峰三郎が、警官隊本営に来て協力を申し出るが、山室警部はその挙動を怪しみ謝絶。
すると間もなくこの田中峰三郎は「長刀ヲ構へ、袴ヲ穿チ、村民数名ヲ率ヒ、大内沢の間道ヨリ皆野ロノ賊軍ニ赴ケリ」との報告が入り、山室警部は「村民ノ侍ム可ラザル」の疑念を抱く。
*
この時、戸長役場の筆生・福嶋敬三(自由党員)が来て、「粥新田峠ノ斥候ヲ為シ、且村民飯田米蔵ニ命ジ、賊ノ状況ヲ偵ハシムルニ、三沢村以南賊氛絶へテナク、何ゾ速ニ営ヲ三沢ニ移シ、民情ヲ鎮圧セザルヤ」と申し入れてくるが、山室警部はこの進言を退ける。
*
その後、小川分署の斉藤警部から、「暴徒二百名横瀬ロヨリ定峰ニ出デ小川ヲ襲フノ状況アリ」との飛報が入る。
山室警部は、「村民款(ヨシミ)ヲ賊ニ通ジ、我ヲ三沢ニ誘ヒ鏖殺セントス、而シテ我ノ応ゼザルヲ以テ、方向ヲ転ジテ一ハ小川ロノ要路ヲ遮断シ、一ハ我前面ヲ衝キ、前後爽撃ノ策ヲ立テリ」と判断。
賊軍が御堂村に進出し小川口を扼すると、「我軍宛モ釜中ニ陥ル如ク、進ントスレバ前面ノ攻撃ヲ受ケ、退ントスレバ背後ノ敵ニ迫ラレ、進退維(コ)レ谷(キワ)マル、鳴呼我部下三十五名ノ生命ハ風前ノ燈火ノ如シト謂フベシ、実ニ危嶮ノ極度ニ達セリ」と判断。
*
山室警部は、部下に「事甚ダ急ナリ、坂本ハ守ルベキノ地ニアラズ、速カニ退クノ愈(マサ)レルニ如力ズ」と指示。
この時、寄居本部に連絡に行って戻った巡査が、「賊勢猖獗、寄居急ナリ」と伝え、続いて「賊数百人粥新田嶺ニ来ル」の報が入る。
村民には、「何ゾ速ニ賊軍ニ応ゼザル」と聞こえよがしに言う者もあり、山室警部は、「村民皆賊軍ニ応ジ、却テ我ヲ攻撃セントス」と思う。
*
午後5時、警官隊は坂本村脱出と決め、小川村へは危険なので大内沢村の山道から、西ノ入村を経て鉢形村を過ぎる。
ここで、進軍して来る小川口派遣の棟方歩兵大尉指揮の鎮台兵1中隊に行きあい、勢を得て引き返し、鎮台兵を誘導して午後11時50分小川村に入る。
間もなく、「坂本村ノ暴徒将サニ小川ヲ攻撃セントス」との飛報が入り、鎮台兵と警官隊は腰越の切通しに進出し、警備の地元自衛隊と交代。
*
翌5日午前4時、鎮台兵・警官隊は腰越を出発し坂本村に進撃、粥新田峠に退いた賊を追うと、山腹で木砲と鉄砲の射撃を受けるがこれを追い散らし、峠を越えて大宮郷に向う。
捕縛72人、押収木砲1門、指揮旗2旈、火縄1括、刀槍数10本。
*
「小川ロノ警備隊長山室警部ハ安岡警部補卜巡査三十五名ヲ卒ヒ、宗像中尉ノ一小隊ヲ嚮導シテ大宮郷ニ入ラントシ、峠ノ半服ニ至レハ、暴徒ハ直ニ木砲卜鳥銃ヲ併発シテ之ヲ防ク 宗像隊応放シ続ヒテ戦ハントスルモ、彼レ俄ニ辟易退散セルヲ以テ或ハ詭計アランカヲ慮リツツ宗像隊卜共ニ追撃ニ移りタルニ、難ナク大野原ヲ経テ大宮郷ニ着スルコトヲ得タリ 此日互ニ死傷ナシ捕虜七十二人アリシ」(「秩父暴動実記」)
*
②西平村間道の状況。
西平村口警備の吉峰警部指揮の警官隊は、4日午前6時、大宮郷に向って進撃。
大野峠を越えたところで大宮郷からの逃亡農民を捕え、「今朝マデ横瀬村卜芦ケ久保村トノ間ニ暴徒ノ哨兵三〇名」がいるとの情報を得たので芦ケ久保村に進出。しかし、暴徒は発見できず。
*
この時、大宮郷からの急使が、「片時モ早ク出張アレ」と伝えたので、急進して午後4時大宮郷に入る。
これが官兵の大宮郷一番乗りで、吉峰警部らは破壊された警察署に入り、飯能口の警官隊に早期進出を促す特使を出す。
*
*
□小川口(坂本村の後方、小川村を中心とする各村)での自衛の動き
小川村から坂本村にかけては、
小川村聯合(小川村・西大塚村・角山村・原川村・下里村、聯合戸長大塚範親)、
腰越村聯合(腰越村・青山村・上古寺村・下古寺村・増尾村・飯田村・笠原村、聯合戸長横川重石衛門)、
坂本村聯合(坂本村・大内沢村・皆谷村・白石村、聯合戸長白石保次郎)の諸村があり、
標高600~700mの山稜を境に秩父郡と接し、二本木峠・粥新田峠・定嶺峠を交通路に、商業上の取引も盛ん。
*
10月以来、「秩父郡人民不穏ノ挙動」が伝わり、10月31日午後、小川分署長深滝警部補以下分署主力が、寄居街道を寄居町に向って急遽出動して行くのを見た小川村住民は、秩父地方の異変について噂し合い、夜には号報用花火も聞こえ、不安を抱き始める。
*
2日午後4時頃、前日に下吉田村で困民党と戦って敗れた松山警察署長吉峰警部・大宮郷警察署長斉藤警部・小鹿野分署長太田警部補らが、平服で疲れきって小川分署に辿り着くのを見て、住民は、いよいよ恐怖にかられてくる。
*
3日になると、「暴徒ノ襲来セバコレニ加担セン」と公言する者も出て、富豪や金貸しは証書・金品の隠匿を始める。
比企郡月ノ輪村の大塚奓恵八が、自分の主宰する武道結社「左右社」の剣士数名を率い小川村聯合戸長役場で警備を申し出たのは、この頃のこと。
*
4日、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、警察と連絡を密にするため、小川分署脇に仮戸長役場を設置。
この日午前10時頃、西平村から「暴徒ノ一手ハ秩父郡大野村へ押来ル」の急報が入り、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、自衛策を協議、「各村剛勇ノ壮丁」を募る。
1~2時間のうちに腰越村90人、増尾村40人、青山村90人、上古寺村60人、下古寺村20人と、5村で計300余が応募、富豪・質屋から銃・刀剣を借りて武装させる。
この自衛隊は、坂本口の腰越村の切通しと、西平口の上古寺学校に布陣。また、前日、横田村で打ち上げる予定の天長節を祝う花火の大筒2個を切通し口、1個を松郷峠へ配置。
*
この夜、腰越村の切通しに布陣した自衛隊が夕飯をとっていると、先に坂本口に入った山室警部指揮の警官隊が後退してきたので「此所ニ踏止り防ギ給へ」と声をかけると、警官隊は見向きもせず小川村方向へ退いて行く。
続いて、坂本村聯合戸長をはじめ奥沢村・御堂村・安戸村の「屈指ノ人々」も逃げてきて、「暴徒ノ猖獗ナル如何トモスル事能ハズ、坂本村ノ人民大体暴徒ニ加ハリ、只今奥沢村ニ来リテ強迫中ナリ。暴徒ハ直チニ小川村へ侵入セントノ勢ヒ」と伝えたので、自衛隊の中にも「暴徒ノ強勢ヲ聞キ少シク躊躇スル」者が出てくる。
これを知った小川村の住民は、不安におののき小川分署前に集合、「雑沓一方ナラズ」の混乱となる。
この時、小川村の青木伝次郎は、「危急ノ時迫レリ、此機ヲ誤ラバ大事立ドコロニ到ラン、他日悔ルモ及バズ」と進み出で、「諸君憂慮スル莫レ、規律ナキ草賊何ゾ怖ル々ニ足ラズ、余ガ其衝ニ当ラン、諸君、青木既ニ死シタリト聞カバ始メテ用意スベシ、生キテ此地ヲ蹂躙サスノ憂ヒナシ」と演説し、銃手9人を率い坂本口に向う。
*
腰越村聯合では1日~5日に警備費175円を費消したが、戸長横川重右衛門の50円をはじめ富豪の寄付で賄う。
*
*
□粥新田峠の戦い
5日朝、坂本村の人達の向背に変化があり、落合隊は朝食調達もままならなくなる。
午前7時頃、隊長落合寅市は、「憲兵二百名来ル」の報告を受けるが、味方の人員は50人前後、鉄砲は僅か11挺。
寅市は、「之ニテハ憲兵二百人ニ対シ応ズル事能ワズ」と判断し、皆野村の本隊と合流のため、昨日越えてきた粥新田峠の道を引き返す。
朝食代りに峠の入口の酒屋で、寅市が1円を出して一同が酒を飲み始めると、憲兵接近の報が入り、急いで峠の道を上り、追尾する官兵を銃撃し、木砲を発射するなど抵抗しながら退却。
三沢村の「三方の辻」に出た時、婦人から「貴下方ハ何処へ御出ナサル」と声をかけられ、「我等ハ皆野ニ至ル」と答えると、婦人は「オ止シナサイ、貴下方ノ組ハ皆逃ゲタリ或ハ縛ラレタリシテ一人モイマセン、憲兵卜巡査バカリ」と伝られる。
寅市は主力の潰減を知り、もはやこれまでと観念し、部隊を解散、自らも逃亡の道を選ぶ。
*
「坂本村戸長福島慶蔵役場ニテ夜明ケタリシ時、報知ニ憲兵弐百名来ルトノ報アリ、人員調査シテ見レハ五十人前後鉄砲十一ナリ、之ニテハ憲兵二百人ニ村シ応スル事能ハス引返シ皆野ニ至ルベシト引返ス、けひにた峠登り口酒店ニテ朝食、酒一口飲ントスル際坂本村人飛来リシ者アリ、之ヲ木島善一郎桑ノ木ニ志ばり付白状シロトセメ、答ヒ憲兵二百人モ来リシニ付坂本村人居タラ逃サント考へタル次第卜申シ、多衆ニ早ク峠ケ逃ケ登レト命シ、後方ニハ憲兵見へタレハ石間村新井喜市外一人大滝村人鉄砲打卜謂フ折、止テモ止メス鉄砲打テ憲兵打一合戦、其間ニ我等峠ケ頂上ニ登り大砲方人員打卜云フ、止メテ我解散ヲ命シテモ止メス打卜謂フニ付、我大滝ノ人二名卜三沢村ニ出時、婦女貴下ハ何所へ行クト申サレ、皆野村卜申シタレハ、御よしナサレ皆野ニハ貴殿等友ハ逃ケタリ志ばられタリ一人モ居ナイ憲兵計リト教へラレ、是レ幸運ナリ」(「寅市経歴」)
*
井上善作は、この寅市の粥新田峠侵攻隊に参画していたと云われるが、その後の行方は不明。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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・午後、落合寅市、困民軍80~100を指揮し粥仁田峠越え、坂本村に進出。
2手に別れ、南は皆谷・白石村、北は大内沢村に働きかける。
この地方の警官隊37に加え、猟師38・壮丁83で補助隊を編成。
夜、補助隊が困民軍に取込まれ、警官隊は挟撃の危機を辛くも脱出。
この日夜11時、鎮台兵1半隊が小川に到着(小川には自衛団400が結成)。
翌5日午前2時、鎮台兵・警官隊、坂本に向かい出発。
粥仁田峠をはさみ交戦。困民軍は後退。
農民52を捕縛し、5日午後、官兵は大宮郷入り。
落合寅市は皆野本陣壊滅を知り姿を消す。
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□困民軍の坂本進出
3日、乙隊主力が大野原村から皆野村に進出した際、途中の大野原村・黒谷村境の蓼沼にある横瀬川に架かる下小川橋には、後方の固めとしてかなりの人員が残置される。
風布村の学務委員で花火師の宮下沢五郎(32歳)、桜沢村の木嶋善一郎(34歳)、三沢村の反町嘉平、横瀬村の千嶋周作らが隊長分となり、横瀬村の花火師町田代造方から借りてきた烟火筒(花火の打ち上げ用の筒)や、自製の破裂弾を持って布陣。
*
木嶋善一郎:
男衾郡桜沢村の博徒で綽名は「官軍善」、「木島伊豫守源ノ善一」とか「信勝」と自称。蜂起前は榛沢郡のオルグに当り、黒谷橋では「白ノ唐縮緬ニ紋ヲ書キタル」指揮旗を持つ。
*
4日午前10時頃、伝令が、「本野上ノ憲兵巡査ガ押来りタルニ付、此ノ蓼沼ニ於テ陣ヲ取ルガヨカラン」と伝えたので、官兵阻止の為に橋を焼くことも予想し、石油を買いに大宮郷に走ったり、堀を掘るなどして陣地を構築。
*
また、この日この頃、ここで「諸隊長ノ会議」が開かれて軍用金の分配があり、参謀長菊池貫平は、
「速カニ信州ニ赴キ、同所之暴徒卜合併シテ大事ヲ謀ラン」
と部下を集めて大宮郷に向い、
大隊長落合寅市は、
「坂本村ヲ初メ、小川最寄ニハ同盟ノ者モ有之ニ付、速カニ広地ニ出デザレバ、此狭隘ナル山中ニテハ迚(トテ)モ滞陣難相成、且ツ兵糧攻メニセラル、憂ヒアラバ、迅速出張スベシ」
と主張して、この方面への進出を指揮することになる。
*
この時、落合寅市は、宮下沢五郎らに対し、
「本野上ニ来ル憲兵巡査モ皆ナ寄居町へ逃ゲ去りタルヲ以テ、皆野ニ屯集シタルモノ本野上村ヲ経テ寄居町ニ押出シ、大野原村ニ堅メ居ルモノハ坂元村ヨリ小川町ヲ襲撃シ、今市村ヲ経テ熊谷駅ニ繰出ス手配ナリ」
と指示し、4日正午頃、人員50~60名、火縄銃30挺・木砲1門を持って、三沢村~坂本村に向う。
*
落合隊は、蓼沼出発前、坂本村戸島役場の筆生で自由党員福島敬三が差し向けた特使の飯田米蔵(46歳)から、「警部巡査四〇人程坂本村戸長役場に出張」と聞いているが、「我隊ガ進メバ皆ナ逃ゲ去ル」と軽視。
午後6時頃、粥新田峠に到着。
坂本村の鉄砲組4、5人が待っていて、「我々是処ニ見張スルト雖モ、固ヨリ我ガ村内之者ハ貴殿共へ味方ヲ致ス心得ニ付案内致スベシ」と先導を買って出る。
落合隊はここで休憩し、月の出になって坂本村に進出することにし、夜間の仲間識別として「天卜言ヒバ地卜答フル」ことを定める。
*
日暮になり、峠の頂上で烟火筒を発砲して気勢をあげ、鯨波をつくり、「先ハ鉄砲、次ハ大砲、次ハ抜刀、次ハ竹槍、其後ガ人足」の隊列で、「暗夜ノ事ナレバ火縄三〇モヒカヒカ」させながら、「鉄砲ヲ打チ打チ」峠を下り、午後9時頃坂本村に入る。
村の入口にも鉄砲方数人がいて落合隊を迎える。
落合隊は村の前後に哨兵を配置し、人の出入を検問し、近村に働きかけて人足の狩りだしを行う。
*
*
□小川口の警備
3日午前1時、松山警察署長吉峰警部(1日の下吉田村戸長役場で敗退し小川分署に退避中)は、寄居本部の警部長から
「暴徒ハ四隊ニ分レ、一ハ小川ヨリ松山ヲ襲フノ形勢ナルニ由り、該地ヲ防禦スベシ」
との命令を受ける。
*
しかし同警部の手許には、共に敗退してきた巡査数人(含む、負傷者)だけのため、「僅々ノ巡査ニテハ防グ術ナシ、故ニ松山マデ引揚ゲ十分ニ部署」することにし、松山の自署に戻り、郡長・戸長と協議し、土地の士族や壮者、月ノ輪村撃剣会の応援を求めるなどの対策に奔走。
この時、再び警部長から「松山ヲ引揚ゲ、西平ロヨリ嶺ヲ越へ、暴徒ノ脱漏ヲ防ギ、大宮郷ニ進入スベシ」との命令が伝えられる。このため、午後4時、吉蜂警部は松山を発して小川に戻り、寄居本部から来援の警官隊を待つ。
*
比企郡ノ月輪村の撃剣会は、「左右社」と呼ばれ流派は甲源一刀流。社長大塚奓恵八は、剣士数名を率い吉峰警部を追い小川村に進出し、警部らは西平村に出撃していたので、8日まで小川町警備につく。
*
小川口から大宮郷への道には、
①坂本村間道と
②西平村間道があり、
3日正午頃、寄居本部から、
①坂本村間道の警備要員として山室警部(熊谷警察署長、宮崎県士族、30歳)と安岡警部補(警察本署詰、熊本県士族、27歳)指揮の巡査35名が、また
②西平村間道の警備要員として深滝警部補(小川分署長、新潟県士族、29歳)と巡査25名が派遣されてくる。
吉峰警部は西平村間道警備を指揮し、吉峰警部と共に後退して来た斉藤警部(大宮郷警察署長 埼玉県士族、43歳)は小川分署に残留することになる。
*
①坂本村間道の警備の模様。
3日正午頃、小川分署に入った山室警部は、斥候を出して動静を探り、「賊未ダ粥新田峠ヲ踰(コ)へズ」と知り、午後6時、坂本村戸長役場に進出、戸長役場を本営と定め、落合と粥新田峠と定峯峠に通ずる要路に哨兵を配置。
更に、戸長役場に依頼して猟師と人夫を募り、皆谷村・坂本村・大内沢村からの応募者111人(猟師37、人夫82)をこれら各哨所に分配。
*
翌4日、定峯峠の斥候から、暴徒に附随した者から得た情報として、「金崎村ニ往ク途中憲兵ノ砲撃ニ遇ヒ、暴徒二人ノ斃ルルヲ見テ驚テ遁レ来ル」の報告がある。
その後、小川分署に残留の斉藤警部から「皆野ロノ憲兵防グ能ハズ、賊二千人象ケ鼻ニ進行ス」との急報が入る。
すると、応募の猟師・人夫全員が帰宅してしまう。
撃剣家田中峰三郎が、警官隊本営に来て協力を申し出るが、山室警部はその挙動を怪しみ謝絶。
すると間もなくこの田中峰三郎は「長刀ヲ構へ、袴ヲ穿チ、村民数名ヲ率ヒ、大内沢の間道ヨリ皆野ロノ賊軍ニ赴ケリ」との報告が入り、山室警部は「村民ノ侍ム可ラザル」の疑念を抱く。
*
この時、戸長役場の筆生・福嶋敬三(自由党員)が来て、「粥新田峠ノ斥候ヲ為シ、且村民飯田米蔵ニ命ジ、賊ノ状況ヲ偵ハシムルニ、三沢村以南賊氛絶へテナク、何ゾ速ニ営ヲ三沢ニ移シ、民情ヲ鎮圧セザルヤ」と申し入れてくるが、山室警部はこの進言を退ける。
*
その後、小川分署の斉藤警部から、「暴徒二百名横瀬ロヨリ定峰ニ出デ小川ヲ襲フノ状況アリ」との飛報が入る。
山室警部は、「村民款(ヨシミ)ヲ賊ニ通ジ、我ヲ三沢ニ誘ヒ鏖殺セントス、而シテ我ノ応ゼザルヲ以テ、方向ヲ転ジテ一ハ小川ロノ要路ヲ遮断シ、一ハ我前面ヲ衝キ、前後爽撃ノ策ヲ立テリ」と判断。
賊軍が御堂村に進出し小川口を扼すると、「我軍宛モ釜中ニ陥ル如ク、進ントスレバ前面ノ攻撃ヲ受ケ、退ントスレバ背後ノ敵ニ迫ラレ、進退維(コ)レ谷(キワ)マル、鳴呼我部下三十五名ノ生命ハ風前ノ燈火ノ如シト謂フベシ、実ニ危嶮ノ極度ニ達セリ」と判断。
*
山室警部は、部下に「事甚ダ急ナリ、坂本ハ守ルベキノ地ニアラズ、速カニ退クノ愈(マサ)レルニ如力ズ」と指示。
この時、寄居本部に連絡に行って戻った巡査が、「賊勢猖獗、寄居急ナリ」と伝え、続いて「賊数百人粥新田嶺ニ来ル」の報が入る。
村民には、「何ゾ速ニ賊軍ニ応ゼザル」と聞こえよがしに言う者もあり、山室警部は、「村民皆賊軍ニ応ジ、却テ我ヲ攻撃セントス」と思う。
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午後5時、警官隊は坂本村脱出と決め、小川村へは危険なので大内沢村の山道から、西ノ入村を経て鉢形村を過ぎる。
ここで、進軍して来る小川口派遣の棟方歩兵大尉指揮の鎮台兵1中隊に行きあい、勢を得て引き返し、鎮台兵を誘導して午後11時50分小川村に入る。
間もなく、「坂本村ノ暴徒将サニ小川ヲ攻撃セントス」との飛報が入り、鎮台兵と警官隊は腰越の切通しに進出し、警備の地元自衛隊と交代。
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翌5日午前4時、鎮台兵・警官隊は腰越を出発し坂本村に進撃、粥新田峠に退いた賊を追うと、山腹で木砲と鉄砲の射撃を受けるがこれを追い散らし、峠を越えて大宮郷に向う。
捕縛72人、押収木砲1門、指揮旗2旈、火縄1括、刀槍数10本。
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「小川ロノ警備隊長山室警部ハ安岡警部補卜巡査三十五名ヲ卒ヒ、宗像中尉ノ一小隊ヲ嚮導シテ大宮郷ニ入ラントシ、峠ノ半服ニ至レハ、暴徒ハ直ニ木砲卜鳥銃ヲ併発シテ之ヲ防ク 宗像隊応放シ続ヒテ戦ハントスルモ、彼レ俄ニ辟易退散セルヲ以テ或ハ詭計アランカヲ慮リツツ宗像隊卜共ニ追撃ニ移りタルニ、難ナク大野原ヲ経テ大宮郷ニ着スルコトヲ得タリ 此日互ニ死傷ナシ捕虜七十二人アリシ」(「秩父暴動実記」)
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②西平村間道の状況。
西平村口警備の吉峰警部指揮の警官隊は、4日午前6時、大宮郷に向って進撃。
大野峠を越えたところで大宮郷からの逃亡農民を捕え、「今朝マデ横瀬村卜芦ケ久保村トノ間ニ暴徒ノ哨兵三〇名」がいるとの情報を得たので芦ケ久保村に進出。しかし、暴徒は発見できず。
*
この時、大宮郷からの急使が、「片時モ早ク出張アレ」と伝えたので、急進して午後4時大宮郷に入る。
これが官兵の大宮郷一番乗りで、吉峰警部らは破壊された警察署に入り、飯能口の警官隊に早期進出を促す特使を出す。
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□小川口(坂本村の後方、小川村を中心とする各村)での自衛の動き
小川村から坂本村にかけては、
小川村聯合(小川村・西大塚村・角山村・原川村・下里村、聯合戸長大塚範親)、
腰越村聯合(腰越村・青山村・上古寺村・下古寺村・増尾村・飯田村・笠原村、聯合戸長横川重石衛門)、
坂本村聯合(坂本村・大内沢村・皆谷村・白石村、聯合戸長白石保次郎)の諸村があり、
標高600~700mの山稜を境に秩父郡と接し、二本木峠・粥新田峠・定嶺峠を交通路に、商業上の取引も盛ん。
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10月以来、「秩父郡人民不穏ノ挙動」が伝わり、10月31日午後、小川分署長深滝警部補以下分署主力が、寄居街道を寄居町に向って急遽出動して行くのを見た小川村住民は、秩父地方の異変について噂し合い、夜には号報用花火も聞こえ、不安を抱き始める。
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2日午後4時頃、前日に下吉田村で困民党と戦って敗れた松山警察署長吉峰警部・大宮郷警察署長斉藤警部・小鹿野分署長太田警部補らが、平服で疲れきって小川分署に辿り着くのを見て、住民は、いよいよ恐怖にかられてくる。
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3日になると、「暴徒ノ襲来セバコレニ加担セン」と公言する者も出て、富豪や金貸しは証書・金品の隠匿を始める。
比企郡月ノ輪村の大塚奓恵八が、自分の主宰する武道結社「左右社」の剣士数名を率い小川村聯合戸長役場で警備を申し出たのは、この頃のこと。
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4日、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、警察と連絡を密にするため、小川分署脇に仮戸長役場を設置。
この日午前10時頃、西平村から「暴徒ノ一手ハ秩父郡大野村へ押来ル」の急報が入り、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、自衛策を協議、「各村剛勇ノ壮丁」を募る。
1~2時間のうちに腰越村90人、増尾村40人、青山村90人、上古寺村60人、下古寺村20人と、5村で計300余が応募、富豪・質屋から銃・刀剣を借りて武装させる。
この自衛隊は、坂本口の腰越村の切通しと、西平口の上古寺学校に布陣。また、前日、横田村で打ち上げる予定の天長節を祝う花火の大筒2個を切通し口、1個を松郷峠へ配置。
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この夜、腰越村の切通しに布陣した自衛隊が夕飯をとっていると、先に坂本口に入った山室警部指揮の警官隊が後退してきたので「此所ニ踏止り防ギ給へ」と声をかけると、警官隊は見向きもせず小川村方向へ退いて行く。
続いて、坂本村聯合戸長をはじめ奥沢村・御堂村・安戸村の「屈指ノ人々」も逃げてきて、「暴徒ノ猖獗ナル如何トモスル事能ハズ、坂本村ノ人民大体暴徒ニ加ハリ、只今奥沢村ニ来リテ強迫中ナリ。暴徒ハ直チニ小川村へ侵入セントノ勢ヒ」と伝えたので、自衛隊の中にも「暴徒ノ強勢ヲ聞キ少シク躊躇スル」者が出てくる。
これを知った小川村の住民は、不安におののき小川分署前に集合、「雑沓一方ナラズ」の混乱となる。
この時、小川村の青木伝次郎は、「危急ノ時迫レリ、此機ヲ誤ラバ大事立ドコロニ到ラン、他日悔ルモ及バズ」と進み出で、「諸君憂慮スル莫レ、規律ナキ草賊何ゾ怖ル々ニ足ラズ、余ガ其衝ニ当ラン、諸君、青木既ニ死シタリト聞カバ始メテ用意スベシ、生キテ此地ヲ蹂躙サスノ憂ヒナシ」と演説し、銃手9人を率い坂本口に向う。
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腰越村聯合では1日~5日に警備費175円を費消したが、戸長横川重右衛門の50円をはじめ富豪の寄付で賄う。
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□粥新田峠の戦い
5日朝、坂本村の人達の向背に変化があり、落合隊は朝食調達もままならなくなる。
午前7時頃、隊長落合寅市は、「憲兵二百名来ル」の報告を受けるが、味方の人員は50人前後、鉄砲は僅か11挺。
寅市は、「之ニテハ憲兵二百人ニ対シ応ズル事能ワズ」と判断し、皆野村の本隊と合流のため、昨日越えてきた粥新田峠の道を引き返す。
朝食代りに峠の入口の酒屋で、寅市が1円を出して一同が酒を飲み始めると、憲兵接近の報が入り、急いで峠の道を上り、追尾する官兵を銃撃し、木砲を発射するなど抵抗しながら退却。
三沢村の「三方の辻」に出た時、婦人から「貴下方ハ何処へ御出ナサル」と声をかけられ、「我等ハ皆野ニ至ル」と答えると、婦人は「オ止シナサイ、貴下方ノ組ハ皆逃ゲタリ或ハ縛ラレタリシテ一人モイマセン、憲兵卜巡査バカリ」と伝られる。
寅市は主力の潰減を知り、もはやこれまでと観念し、部隊を解散、自らも逃亡の道を選ぶ。
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「坂本村戸長福島慶蔵役場ニテ夜明ケタリシ時、報知ニ憲兵弐百名来ルトノ報アリ、人員調査シテ見レハ五十人前後鉄砲十一ナリ、之ニテハ憲兵二百人ニ村シ応スル事能ハス引返シ皆野ニ至ルベシト引返ス、けひにた峠登り口酒店ニテ朝食、酒一口飲ントスル際坂本村人飛来リシ者アリ、之ヲ木島善一郎桑ノ木ニ志ばり付白状シロトセメ、答ヒ憲兵二百人モ来リシニ付坂本村人居タラ逃サント考へタル次第卜申シ、多衆ニ早ク峠ケ逃ケ登レト命シ、後方ニハ憲兵見へタレハ石間村新井喜市外一人大滝村人鉄砲打卜謂フ折、止テモ止メス鉄砲打テ憲兵打一合戦、其間ニ我等峠ケ頂上ニ登り大砲方人員打卜云フ、止メテ我解散ヲ命シテモ止メス打卜謂フニ付、我大滝ノ人二名卜三沢村ニ出時、婦女貴下ハ何所へ行クト申サレ、皆野村卜申シタレハ、御よしナサレ皆野ニハ貴殿等友ハ逃ケタリ志ばられタリ一人モ居ナイ憲兵計リト教へラレ、是レ幸運ナリ」(「寅市経歴」)
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井上善作は、この寅市の粥新田峠侵攻隊に参画していたと云われるが、その後の行方は不明。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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2010年6月13日日曜日
明治17(1884)年11月4日(5) 金屋の夜戦(秩父蜂起最大の戦闘)。大野苗吉戦死。
明治17(1884)年11月4日(5)
*
▽本営瓦解後の困民軍の行方は、・・・。
①大野苗吉は寄居方面に進撃。
②落合寅市は釜伏峠の方向に遊撃戦を展開。
③菊池貫平・坂本宗作は信州へ転戦。
*
□皆野村戸長役場の記録によると。
「午後四時頃ニ至り、総軍ヲ三分シ、一ハ本野上村、一ハ下吉田村ヲ指シテ繰出シ、一ハ下日野沢村根古屋橋ノ固メトシ繰出シタリ、是ニ於テ皆野村ノ暴徒ハ悉皆引払ヒタリ、時ニ午後五時三十分ナリ」
とある。
本野上村と根古屋橋に向った隊は、秩父新道を八幡山町(児玉町)へ進うもので、下吉田村に向った隊は、目標を失い自然と旗上げの地に向った者たちや、信州転戦を目指すものである。
*
■金屋の夜戦(秩父蜂起最大の戦闘)。大野苗吉戦死。
・午後3時、大野苗吉率いる困民軍200~300、本野上に進出。
軍は500に膨れ、警察・役場に乱入、軍用金を調達。
夕方、寄居より警備隊が進出との報あり、児玉・八幡山町への秩父新道より児玉軍へ進出。児玉郡金崎村では軍は500~600となる。
11時半、金屋村に到着。ここで平田大尉指揮鎮台第3大隊70余と小銃戦。
農民戦死6(大野苗吉戦死)・収容後死亡4・負傷9。軍・警察負傷4。
本陣解体後も平野部に積極的に出撃した意義。
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□本野上村に向った隊の高岸駅蔵(石間村、44)の供述。(改行を施す)
「四日ニハ寄居町ヲ襲撃セントノ手配ナリシガ、憲兵ガ中野上ニ繰出シタリトノ報アルユエ、更ニ方向ヲ転ジ児玉町ニ押出サント評議一決シ、
隊長分高岸善吉、落合寅市等ハ味方三百計(バカリ)ヲ引率シ、大浜ノ渡船ヲ渡り、児玉町新道(秩父新道)ヲ進ミ、
自分等ハ姓名知ラザル隊長分卜親鼻之渡船ヲ越へ、本野上村戸長役場ニ参り、味方ヲ募り、左折シテ出牛峠ヲ越へ、出牛村(金沢村字出牛)ニ於テ、先キニ大浜ヲ越へ新道ヲ進ム高岸善吉等卜出合ヒ、合併シテ襲撃スルノ手配ナルヲ以テ、
自分等ハ姓名知ラザル隊長分(大野苗吉)ニ随ヒ、味方二百計ヲ引卒シ、親鼻ヲ出発シテ本野上村戸長役場ニ参り、味方二百名計ヲ募り、惣勢四百名計リニテ同所出発、出牛峠ヲ越へ出牛村(金沢村出牛)ニ至りタルトキ、高岸善吉等ハ約束ノ如ク参ラザルニ付」
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彼らは、中野上村に憲兵がいることを知っており、出牛峠~秩父新道~大浜の渡船場~八幡山に向かい、高岸善吉らの隊と合流する計画であった。
しかし、高岸善吉は、既に加藤織平らと、蓑山から東京へ逃走の道を進んでいる。
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□この日午前中、本野上村方面へは高岸駅蔵が数十名を率い先手として向かう。
大野苗吉は、2~300を率い荒川を渡り、藤谷淵村で先手に追いつく。
藤谷淵村では、困民軍の要求により、戸長の指示で100余名が加わる。
こうして本野上村に入った困民軍は700~800名で、一部は野上下郷の宮沢まで進出。
ここでも20人ほどが戸長役場に押入り、公証割印簿を差し出させようとするが、戸長・筆生とも不在のためそれができず、ついで警察分署に入り、中のものを毀す。
さらに高利貸兼質屋を襲い、貸金証書51通(1,746円85銭分)と質征書4通(123円50銭)を焼く。
その後、夜のうちに児玉町(八幡山町)に押し出すために出牛峠に向かう。
*
□八幡山口の警備
八幡山分署長浜田警部補は、31日午後8時、寄居警察署長から巡査5名の応援を求められるが、余裕がなく、自署員3名を派遣し、2名は本庄警察署に代員を頼む。
翌1日午後2時、「寄居警察本部ヲ皆野村へ移サレ、江夏警部長モ出張セラル」の急報を受け、浜田分署長は直ちに八幡山町を出発、途中本野上分署に立寄り、同署に居た巡査6名に随行を命じ、皆野村の現地警察本部に入る。
従って、八幡山・児玉両町方面の警備は「一時空虚」となるが、2日、皆野から寄居に後退した警部長は、暴徒は秩父新道を八幡山町方向に進出する虞があると判断し、警察本署の大西警部(山口県士族、36)と八幡山分署長浜田警部補に巡査30名を与えて八幡山口警備を命じる。
この隊は児玉町の池田清三郎宅を警察出張所とし、太駄村に巡査10名を進出させて見張所を設け、秩父方面の警戒にあたる。
また、郡吏に依頼して民間のピストル20余挺を借り上げ、地雷を埋設する計画のもとに火薬と鉛を購入し、烟火筒2個、野砲1門を借り入れて散弾発射の準備をするなど武装を強化する。
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4日、本庄警察署長伊藤警部(山口県士族、35)、加須警察署長脇田警部(長崎県士族、38)が巡査を率いて応援に駆け付け、この方面の警官隊は、警部・警部補4・巡査50名になる。
児玉・賀美・那珂郡役所(郡長諸井興久)は本庄町にあるが、2日以降、県庁より電報で、また本庄警察署よりも「秩父郡暴徒蜂起の実況」が伝えられ、郡長は郡吏を分派して各聯合戸長役場に対し「郡内動揺ハ勿論、該徒ニ応接セザル様毎戸無洩懇諭スベキ旨」戸長に伝えさせ、自らは児玉町警察仮出張所に出向き、秩父新道に煙火用木炮を備えることを進言し、郡史に児玉・八幡山両町にある木砲と火薬を収集させるなど警備力強化に奔走。
さらに秩父新道沿いの金屋村聯合戸長役場、河内村聯合戸長役場を訪れ「暴徒襲来セバ、男子ハ必ズ皆山間ニ潜ミ、決シテ附随セザル様」部内各戸に通知させ、役場書類の避難を指導。
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□鎮台兵派遣
3日午後、児玉町・八幡山町は「人民驚愕、老幼婦女ハ他ニ立退キ、男子ハ家財ヲ運搬スル等大ニ動揺」し始め、郡長は「僅々四十余名ノ巡査ヲシテ、夥多ノ暴徒ニ充ルモ到底其功奏スル能ハズ」と判断し、警備力強化要請のため寄居町に出向き、午後11時すぎ吉田県令に巡査増員を要請。
しかし、県令はこれに応じず。
郡長は次に春田少佐に憲兵の児玉町分遣を要請するが、春田少佐も承知せず。
郡長は再度県令に会い、改めて「今部民危急存亡ノ時ニ至レリ、彼我之別ナクヨロシク防禦ノ指揮アラン事ヲ」進言。
遂に吉田県令は、来援予定の東京鎮台兵を児玉町方面に投入することを郡長に約し、県庁の笹田少書記官あて電報を打ち、郡長には兵食手配を命じる。
「鎮台兵着セバ、直ニ本庄マデ汽車ニテ送り、新道ヲ進ミ、金沢村ノ宝登山ニ楯龍ル賊ヲ撃払ヒタシ、人力車其他諸賄ハ児玉郡役所ニテ手配ス、尤出発時聞及人員ハ其郡役所へ通報アレ」
これによりこの日出動の鎮台兵4個中隊のうち、1個中隊が児玉口に配備される。
この夜、「金屋の夜戦」となる。
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□金屋の夜戦
大野苗吉は、寄居町への官兵集結を知り、本野上村から出牛峠を越え、金沢村字出牛に出る。
斥候による太駄村の様子では、警官隊が引揚げているとのことなので、午後9時頃松明をかかげ、鯨声を作って太駄村に押し入る。
「其物音凄クモ又恐ロシキ有様」で、群衆は約400人、「秩父新道ニ透間(スキマ)ナク、只黒ク、一時間人跡ノ絶間ナシ」と云う。
ここでは隊長分1人に5、6人~20人位が附添い、毎戸に武器人夫の差出しを迫るが、村の者は逃去っており応ずる者はいない。
その後、この村を通り抜け、午後10時頃、河内村に入る。
ここで、隊長分4人が「何レモ袴羽織ヲ着シ、紫ノ頭巾ヲ冠リ、何モ白ノ鉢巻ニ白ノ襷ヲ掛ケ、抜刀ヲ携エ」聯合戸長役場に押入り、「戸長ハ居ルカ」と聞くと、居合せた小使が、「戸長ハ阿久原村へ出張ニテ不在ナリ」と答える。
「然レバ是非ナシ、戸長帰庁次第部内ノ人民ヲ悉ク集メ、児玉町へ差出スベキ様達スベシ」と言い置いて、村の高利貸2軒を放火。
この時、隣家への延焼防止が指示されているが、2戸に延焼し、馬1頭(時価110円)が焼け死ぬ。
困民軍は次の元田村で夜食をとり、金屋村に向う。
*
4日東京を出発した東京鎮台歩兵1個大隊(4中隊)の内3中隊は、深谷で下車し寄居町に向うが、1中隊(中隊長歩兵大尉平田尚介以下70)は本庄で下車し、午後5時40分児玉町に進出。
この方面を警備する伊藤禄三警部(本庄警察署長、山口県士族、35歳)は平田大尉と「明日ノ進行ノ方略」を協議するが、平田大尉は「鬼石町出張ノ群馬県官ニ談ゼザレバ一決シガタシ」と云う。
大西謙輔警部(警察本署詰山口県士族、36歳)が群馬県側と交渉することになり、児玉町から鬼石町交番所の河野警部長を訪ねる。
河野警部長は、甘楽郡村民は秩父の暴民の到来を待って応ずる気配があり、できれば児玉町の鎮台兵の派遣を得て、賊徒の進出を防ぎたいという。
伊藤警部は、良策だが鎮台兵と協議しなければならない、もし鎮台兵動員が不可能な場合は、児玉町一丸となって戦うと言明する。
河野警部長との協議をおえて帰途についた伊藤警部が、渡瀬川を渡った時、夜空に河内村の火災が望見され、「是賊ノ放火シテ児玉町へ進入シタルモノ」と判断し児玉町に戻る。
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児玉町でも、河内村方向に2ヶ所で火災が発生、半鐘が鳴り、住民は「愕然トシテ色ヲ失ヒ」「老人婦女子ヲ逃走セシメ、家財器具ヲ取纏メ、各所へ送致スル有様ハ、実ニ見ルニ忍ビザル」状況となる。
遂に中隊長平田大尉は中隊全員を率い、伊藤・浜田・佐藤警部(警部補)が指揮の巡査10名の誘導で金屋村に進むと、ここで脇田警部・永井警部補らが元田見張所から引き揚げてくるのに会い、近くに困民軍の喊声を聞く。
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金屋村聯合戸長の記録による困民軍の状況。
「十一時四十分、暴徒大凡八百名、内小銃ヲ携ヘル者三十人計り、余ハ悉ク竹槍・抜刀ニテ大声ヲゲ、巡査ニ非ザル者ハ逃ルナ、トロ々ニ怒鳴り押寄セ、金屋村字中倉林吉蔵ノ居宅前ニ来リ一発々砲ス、同所中林喜三郎ノ蚕室ニ放火セントスルアリ、或ハ字池内蓄財家倉林太郎兵衛方ノ門ヲ打破ラントスルアリ、暴行実ニ言フ可カラズ。」
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平田大尉は、左翼半隊をその場におき、右翼半隊を率い兵に「提ケ銃」の姿勢をとらせて2町程前進する。困民軍は大声を発し、火縄銃の火縄の火は「宛(アタカ)モ群蛍ノ飛散スル如ク」に見える。
距離が15、6間になったとき、困民軍が射撃を始め、平田大尉も応射を命じ、「弾丸雨ノ如キ」銃撃戦となる。
しかし、困民軍は「味方が一発打ツ内ニハ、敵ノ弾丸ハ二十発モ飛ビ来リ」(「高岸駅蔵訊問調書」)という有様で火力の差は歴然としている。
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この夜は月明りであったが、道路の傍らが森林であるため付近は暗黒で、鎮台兵は困民軍の火縄を目がけて狙撃。
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金屋の戦闘は4日午後11時30分に始まり、射撃戦は30分ですみ、家屋捜索などすべては、5日午前1時30分に終了する。
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「金谷村ニ至ルト、人家ノ竹薮ヨリ兵隊ニ砲撃サレ、於是姓名知ラサル味方之隊長分、「抜刀隊ハ進メ々々」卜下知シタレドモ、砲撃裂シク、味方カ一発打ツ内ニハ敵ノ弾丸ハ二十発モ飛ビ来ルニ付進ミ兼テ居ルト、敵ノ弾丸先キニ進メ々々卜指揮シタル隊長分ニ当り、忽チ人家ノ戸ノ傍ニ斃レタルヲ見受ケタルニ付、自分ハ直ニ同所ヲ逃ゲ去り・・・」(「高岸駅蔵訊問調書」)
この「姓名知ラサル味方之隊長分」が大野苗吉とされ、この戦闘で戦死したと推測されている。
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困民軍兵士の記録。
「八幡ノ町ヨリ二、三丁手前迄行ト、向ヨリ敵兵出来り、蔵ノ問ヤ杉薮ノ中等ヨリ発砲シ、ピカピカ火ノ出ルヲ見タリ、自分ノ方ヨリ鉄砲方ノモノガ撃出シ、双方撃合、凡ソ五、六分ニシテ鉄砲ノ打方ヲ止メロト云フ令ニテ一同発砲ヲ止メルト、スグ抜刀方ノ者三十名斗り切り込ムトテ前へ出ルノヲ見テ、自分ハ直ニ逃ゲ去りタルニヨリ、後ハドウナリシヤ存ゼズ」(「高田坂蔵訊問調書」)。
射撃戦後は白兵戦となった様子がわかる。
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そして、「午後十二時二十分砲声止ム」、戦場は死傷者で「実ニ目モ当テラレヌ」惨状を呈し、死傷者は近くの円通寺に収容される。
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鎌田冲太「秩父暴動実記」による戦場の状況。
「激戦アリシ地ハ即チ円通寺西方秩父街道ナルヲ以テ、附近ノ家屋一トシテ其弾痕ヲ留メザルモノナシ、最モ街道ニ面セシ牆壁ノ如キニ至テハ、蜂巣ノ如クナラザルモ、痕跡稠密ナルガ故ニ、行人顧ミテ以テ其暴動ノ往事ヲ想到セザル者ナカリキ」
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翌5日、県は金屋小学校(現、円通寺)を「埼玉県仮病院」とし、地元医師2名が治療にあたるが、設備もなく負傷者がここに担ぎ込まれたというだけのもの。
6日夜、鎮台兵付添医師がここの立ち寄った時も、
「何レモ重傷ナリ、或ハ雨戸ニテ荷ヒ込ミシ儘ナルアリ、或ハ単ニ藁菰ヲ被テ呻吟スルアリ、或ハ重傷ノ為メ庭前ニ倒レテ既ニ死スルアリ、実ニ其ノ景況憫然ナリキ」
という状況。
それでも、周囲住民の中には「余りに暴徒の負傷に手当の厚きに過る」と批判するものもあった(「東京日日新聞」明治17年11月10日)。
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金屋の戦闘における困民軍側の即死は6名(何れも「郷貰氏名不知者」)で、病院収容後さらに6名が没する。
引間元吉(秩父郡下日野沢村小学校の授業生、18歳、上日野沢村の自由党員門平惣平(伝令使)の義兄弟、惣平のすすめで4月に入党。11月1日、惣平からの連絡を受け蜂起に参加)はこの負傷者の一人。彼は「衆潰散シタルヲ以テ逃走セントスル際、両股ニ銃丸ヲ受ケ、遂ニ捕縛セラレ」、「煽動シテ勢ヲ助ケタル者」として重禁錮1年6月に処せられる。
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金屋仮病院で負傷者の治療にあたった八幡山町の医師中神貞作の報告には、入院者14名の名がある。うち、入院してからの死亡者は上日野村太田政五郎(5日没)、河原沢村黒田広吉(5日没)、藤倉村東市重(6日死)、金沢村桜井喜十郎(8日没)、金尾村新井助三郎(10日没)、下田野村田島丑五郎(12日没)の6名。引間元吉ら8名は、まもなく退院、裁判所へ護送。
即死者は5名。胸や膝を「銃丸ノ為メニ貫カレ」、人家前の「往還」や「桑畑ノ中」に「斃死」していた。
「生擒」された者15名。
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金尾村新井助三郎(25)は入院してから死亡した6名のなかの1人で、「右足脛ノ中部ニ銃傷ヲ被ムリ脛骨全ク折断」の重傷だったが、命を救うために「該骨ヲ切断セン事ヲ諭」した中神医師に、「譬ヒ死ストモ其術ヲ受ケス」と、「自若トシテ強情ス」と言い、自死を図って刀で頚を突く。
「十一月十日午前十時実ニ眠ルカ如クニシテ斃レタリ」
という。
尚、金尾村からは新井三四郎ら数人が信州転戦隊に加わり、東馬流まで闘いつづける。
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□「土陽新聞」の報道。
「鎮台兵は最初暴徒の手強き勢ほひに当り得ず、引退いて暫らく其鋭気を避け竹薮に籠り、暴徒の右翼を砲撃せしより今まで斃るる者を踏こえ踏こえ町角へ競ひ集りし暴徒も遂にたまりかねけん、向ふの人家に引取り、畳を積みて胸壁に代へ、凡午前一時廿五分頃まで戦ひしは、百姓一揆に稀なる天晴の剛兵なりとぞ。死体等を所々に見出すあれど、いずれも股引脚半草鞋にて百姓体なり、或は十四五歳の少年が手を負ひ助けを乞ひ、声をあげて叫ぶ者、又五十有余の老夫が健気に奮闘して斃れたる者等あり。」(「土陽新聞」)。
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官側は台兵3名、巡査1名が負傷。いずれも銃創。
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翌5日午前6時、鎮台兵と警官隊は長冲村を出発、秩父新道を進み、大淵村長楽寺で青木巡査(前日、新井周三郎を斬りかかり殺害された)を仮埋葬し、この夜はここに宿泊。
6日、下日野沢村の藤原峠に残徒屯集の情報を得て同村に向い、「自由党ノ巣窟」重木の村上泰治宅などを捜索し、藤原峠を越えて午後8時頃児玉町に戻る。児玉・八幡山両町は、鎮台兵と警官に「酒壱樽卜家鴨十羽」を贈って慰労。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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▽本営瓦解後の困民軍の行方は、・・・。
①大野苗吉は寄居方面に進撃。
②落合寅市は釜伏峠の方向に遊撃戦を展開。
③菊池貫平・坂本宗作は信州へ転戦。
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□皆野村戸長役場の記録によると。
「午後四時頃ニ至り、総軍ヲ三分シ、一ハ本野上村、一ハ下吉田村ヲ指シテ繰出シ、一ハ下日野沢村根古屋橋ノ固メトシ繰出シタリ、是ニ於テ皆野村ノ暴徒ハ悉皆引払ヒタリ、時ニ午後五時三十分ナリ」
とある。
本野上村と根古屋橋に向った隊は、秩父新道を八幡山町(児玉町)へ進うもので、下吉田村に向った隊は、目標を失い自然と旗上げの地に向った者たちや、信州転戦を目指すものである。
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■金屋の夜戦(秩父蜂起最大の戦闘)。大野苗吉戦死。
・午後3時、大野苗吉率いる困民軍200~300、本野上に進出。
軍は500に膨れ、警察・役場に乱入、軍用金を調達。
夕方、寄居より警備隊が進出との報あり、児玉・八幡山町への秩父新道より児玉軍へ進出。児玉郡金崎村では軍は500~600となる。
11時半、金屋村に到着。ここで平田大尉指揮鎮台第3大隊70余と小銃戦。
農民戦死6(大野苗吉戦死)・収容後死亡4・負傷9。軍・警察負傷4。
本陣解体後も平野部に積極的に出撃した意義。
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□本野上村に向った隊の高岸駅蔵(石間村、44)の供述。(改行を施す)
「四日ニハ寄居町ヲ襲撃セントノ手配ナリシガ、憲兵ガ中野上ニ繰出シタリトノ報アルユエ、更ニ方向ヲ転ジ児玉町ニ押出サント評議一決シ、
隊長分高岸善吉、落合寅市等ハ味方三百計(バカリ)ヲ引率シ、大浜ノ渡船ヲ渡り、児玉町新道(秩父新道)ヲ進ミ、
自分等ハ姓名知ラザル隊長分卜親鼻之渡船ヲ越へ、本野上村戸長役場ニ参り、味方ヲ募り、左折シテ出牛峠ヲ越へ、出牛村(金沢村字出牛)ニ於テ、先キニ大浜ヲ越へ新道ヲ進ム高岸善吉等卜出合ヒ、合併シテ襲撃スルノ手配ナルヲ以テ、
自分等ハ姓名知ラザル隊長分(大野苗吉)ニ随ヒ、味方二百計ヲ引卒シ、親鼻ヲ出発シテ本野上村戸長役場ニ参り、味方二百名計ヲ募り、惣勢四百名計リニテ同所出発、出牛峠ヲ越へ出牛村(金沢村出牛)ニ至りタルトキ、高岸善吉等ハ約束ノ如ク参ラザルニ付」
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彼らは、中野上村に憲兵がいることを知っており、出牛峠~秩父新道~大浜の渡船場~八幡山に向かい、高岸善吉らの隊と合流する計画であった。
しかし、高岸善吉は、既に加藤織平らと、蓑山から東京へ逃走の道を進んでいる。
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□この日午前中、本野上村方面へは高岸駅蔵が数十名を率い先手として向かう。
大野苗吉は、2~300を率い荒川を渡り、藤谷淵村で先手に追いつく。
藤谷淵村では、困民軍の要求により、戸長の指示で100余名が加わる。
こうして本野上村に入った困民軍は700~800名で、一部は野上下郷の宮沢まで進出。
ここでも20人ほどが戸長役場に押入り、公証割印簿を差し出させようとするが、戸長・筆生とも不在のためそれができず、ついで警察分署に入り、中のものを毀す。
さらに高利貸兼質屋を襲い、貸金証書51通(1,746円85銭分)と質征書4通(123円50銭)を焼く。
その後、夜のうちに児玉町(八幡山町)に押し出すために出牛峠に向かう。
*
□八幡山口の警備
八幡山分署長浜田警部補は、31日午後8時、寄居警察署長から巡査5名の応援を求められるが、余裕がなく、自署員3名を派遣し、2名は本庄警察署に代員を頼む。
翌1日午後2時、「寄居警察本部ヲ皆野村へ移サレ、江夏警部長モ出張セラル」の急報を受け、浜田分署長は直ちに八幡山町を出発、途中本野上分署に立寄り、同署に居た巡査6名に随行を命じ、皆野村の現地警察本部に入る。
従って、八幡山・児玉両町方面の警備は「一時空虚」となるが、2日、皆野から寄居に後退した警部長は、暴徒は秩父新道を八幡山町方向に進出する虞があると判断し、警察本署の大西警部(山口県士族、36)と八幡山分署長浜田警部補に巡査30名を与えて八幡山口警備を命じる。
この隊は児玉町の池田清三郎宅を警察出張所とし、太駄村に巡査10名を進出させて見張所を設け、秩父方面の警戒にあたる。
また、郡吏に依頼して民間のピストル20余挺を借り上げ、地雷を埋設する計画のもとに火薬と鉛を購入し、烟火筒2個、野砲1門を借り入れて散弾発射の準備をするなど武装を強化する。
*
4日、本庄警察署長伊藤警部(山口県士族、35)、加須警察署長脇田警部(長崎県士族、38)が巡査を率いて応援に駆け付け、この方面の警官隊は、警部・警部補4・巡査50名になる。
児玉・賀美・那珂郡役所(郡長諸井興久)は本庄町にあるが、2日以降、県庁より電報で、また本庄警察署よりも「秩父郡暴徒蜂起の実況」が伝えられ、郡長は郡吏を分派して各聯合戸長役場に対し「郡内動揺ハ勿論、該徒ニ応接セザル様毎戸無洩懇諭スベキ旨」戸長に伝えさせ、自らは児玉町警察仮出張所に出向き、秩父新道に煙火用木炮を備えることを進言し、郡史に児玉・八幡山両町にある木砲と火薬を収集させるなど警備力強化に奔走。
さらに秩父新道沿いの金屋村聯合戸長役場、河内村聯合戸長役場を訪れ「暴徒襲来セバ、男子ハ必ズ皆山間ニ潜ミ、決シテ附随セザル様」部内各戸に通知させ、役場書類の避難を指導。
*
□鎮台兵派遣
3日午後、児玉町・八幡山町は「人民驚愕、老幼婦女ハ他ニ立退キ、男子ハ家財ヲ運搬スル等大ニ動揺」し始め、郡長は「僅々四十余名ノ巡査ヲシテ、夥多ノ暴徒ニ充ルモ到底其功奏スル能ハズ」と判断し、警備力強化要請のため寄居町に出向き、午後11時すぎ吉田県令に巡査増員を要請。
しかし、県令はこれに応じず。
郡長は次に春田少佐に憲兵の児玉町分遣を要請するが、春田少佐も承知せず。
郡長は再度県令に会い、改めて「今部民危急存亡ノ時ニ至レリ、彼我之別ナクヨロシク防禦ノ指揮アラン事ヲ」進言。
遂に吉田県令は、来援予定の東京鎮台兵を児玉町方面に投入することを郡長に約し、県庁の笹田少書記官あて電報を打ち、郡長には兵食手配を命じる。
「鎮台兵着セバ、直ニ本庄マデ汽車ニテ送り、新道ヲ進ミ、金沢村ノ宝登山ニ楯龍ル賊ヲ撃払ヒタシ、人力車其他諸賄ハ児玉郡役所ニテ手配ス、尤出発時聞及人員ハ其郡役所へ通報アレ」
これによりこの日出動の鎮台兵4個中隊のうち、1個中隊が児玉口に配備される。
この夜、「金屋の夜戦」となる。
*
□金屋の夜戦
大野苗吉は、寄居町への官兵集結を知り、本野上村から出牛峠を越え、金沢村字出牛に出る。
斥候による太駄村の様子では、警官隊が引揚げているとのことなので、午後9時頃松明をかかげ、鯨声を作って太駄村に押し入る。
「其物音凄クモ又恐ロシキ有様」で、群衆は約400人、「秩父新道ニ透間(スキマ)ナク、只黒ク、一時間人跡ノ絶間ナシ」と云う。
ここでは隊長分1人に5、6人~20人位が附添い、毎戸に武器人夫の差出しを迫るが、村の者は逃去っており応ずる者はいない。
その後、この村を通り抜け、午後10時頃、河内村に入る。
ここで、隊長分4人が「何レモ袴羽織ヲ着シ、紫ノ頭巾ヲ冠リ、何モ白ノ鉢巻ニ白ノ襷ヲ掛ケ、抜刀ヲ携エ」聯合戸長役場に押入り、「戸長ハ居ルカ」と聞くと、居合せた小使が、「戸長ハ阿久原村へ出張ニテ不在ナリ」と答える。
「然レバ是非ナシ、戸長帰庁次第部内ノ人民ヲ悉ク集メ、児玉町へ差出スベキ様達スベシ」と言い置いて、村の高利貸2軒を放火。
この時、隣家への延焼防止が指示されているが、2戸に延焼し、馬1頭(時価110円)が焼け死ぬ。
困民軍は次の元田村で夜食をとり、金屋村に向う。
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4日東京を出発した東京鎮台歩兵1個大隊(4中隊)の内3中隊は、深谷で下車し寄居町に向うが、1中隊(中隊長歩兵大尉平田尚介以下70)は本庄で下車し、午後5時40分児玉町に進出。
この方面を警備する伊藤禄三警部(本庄警察署長、山口県士族、35歳)は平田大尉と「明日ノ進行ノ方略」を協議するが、平田大尉は「鬼石町出張ノ群馬県官ニ談ゼザレバ一決シガタシ」と云う。
大西謙輔警部(警察本署詰山口県士族、36歳)が群馬県側と交渉することになり、児玉町から鬼石町交番所の河野警部長を訪ねる。
河野警部長は、甘楽郡村民は秩父の暴民の到来を待って応ずる気配があり、できれば児玉町の鎮台兵の派遣を得て、賊徒の進出を防ぎたいという。
伊藤警部は、良策だが鎮台兵と協議しなければならない、もし鎮台兵動員が不可能な場合は、児玉町一丸となって戦うと言明する。
河野警部長との協議をおえて帰途についた伊藤警部が、渡瀬川を渡った時、夜空に河内村の火災が望見され、「是賊ノ放火シテ児玉町へ進入シタルモノ」と判断し児玉町に戻る。
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児玉町でも、河内村方向に2ヶ所で火災が発生、半鐘が鳴り、住民は「愕然トシテ色ヲ失ヒ」「老人婦女子ヲ逃走セシメ、家財器具ヲ取纏メ、各所へ送致スル有様ハ、実ニ見ルニ忍ビザル」状況となる。
遂に中隊長平田大尉は中隊全員を率い、伊藤・浜田・佐藤警部(警部補)が指揮の巡査10名の誘導で金屋村に進むと、ここで脇田警部・永井警部補らが元田見張所から引き揚げてくるのに会い、近くに困民軍の喊声を聞く。
*
金屋村聯合戸長の記録による困民軍の状況。
「十一時四十分、暴徒大凡八百名、内小銃ヲ携ヘル者三十人計り、余ハ悉ク竹槍・抜刀ニテ大声ヲゲ、巡査ニ非ザル者ハ逃ルナ、トロ々ニ怒鳴り押寄セ、金屋村字中倉林吉蔵ノ居宅前ニ来リ一発々砲ス、同所中林喜三郎ノ蚕室ニ放火セントスルアリ、或ハ字池内蓄財家倉林太郎兵衛方ノ門ヲ打破ラントスルアリ、暴行実ニ言フ可カラズ。」
*
平田大尉は、左翼半隊をその場におき、右翼半隊を率い兵に「提ケ銃」の姿勢をとらせて2町程前進する。困民軍は大声を発し、火縄銃の火縄の火は「宛(アタカ)モ群蛍ノ飛散スル如ク」に見える。
距離が15、6間になったとき、困民軍が射撃を始め、平田大尉も応射を命じ、「弾丸雨ノ如キ」銃撃戦となる。
しかし、困民軍は「味方が一発打ツ内ニハ、敵ノ弾丸ハ二十発モ飛ビ来リ」(「高岸駅蔵訊問調書」)という有様で火力の差は歴然としている。
*
この夜は月明りであったが、道路の傍らが森林であるため付近は暗黒で、鎮台兵は困民軍の火縄を目がけて狙撃。
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金屋の戦闘は4日午後11時30分に始まり、射撃戦は30分ですみ、家屋捜索などすべては、5日午前1時30分に終了する。
*
「金谷村ニ至ルト、人家ノ竹薮ヨリ兵隊ニ砲撃サレ、於是姓名知ラサル味方之隊長分、「抜刀隊ハ進メ々々」卜下知シタレドモ、砲撃裂シク、味方カ一発打ツ内ニハ敵ノ弾丸ハ二十発モ飛ビ来ルニ付進ミ兼テ居ルト、敵ノ弾丸先キニ進メ々々卜指揮シタル隊長分ニ当り、忽チ人家ノ戸ノ傍ニ斃レタルヲ見受ケタルニ付、自分ハ直ニ同所ヲ逃ゲ去り・・・」(「高岸駅蔵訊問調書」)
この「姓名知ラサル味方之隊長分」が大野苗吉とされ、この戦闘で戦死したと推測されている。
*
困民軍兵士の記録。
「八幡ノ町ヨリ二、三丁手前迄行ト、向ヨリ敵兵出来り、蔵ノ問ヤ杉薮ノ中等ヨリ発砲シ、ピカピカ火ノ出ルヲ見タリ、自分ノ方ヨリ鉄砲方ノモノガ撃出シ、双方撃合、凡ソ五、六分ニシテ鉄砲ノ打方ヲ止メロト云フ令ニテ一同発砲ヲ止メルト、スグ抜刀方ノ者三十名斗り切り込ムトテ前へ出ルノヲ見テ、自分ハ直ニ逃ゲ去りタルニヨリ、後ハドウナリシヤ存ゼズ」(「高田坂蔵訊問調書」)。
射撃戦後は白兵戦となった様子がわかる。
*
そして、「午後十二時二十分砲声止ム」、戦場は死傷者で「実ニ目モ当テラレヌ」惨状を呈し、死傷者は近くの円通寺に収容される。
*
鎌田冲太「秩父暴動実記」による戦場の状況。
「激戦アリシ地ハ即チ円通寺西方秩父街道ナルヲ以テ、附近ノ家屋一トシテ其弾痕ヲ留メザルモノナシ、最モ街道ニ面セシ牆壁ノ如キニ至テハ、蜂巣ノ如クナラザルモ、痕跡稠密ナルガ故ニ、行人顧ミテ以テ其暴動ノ往事ヲ想到セザル者ナカリキ」
*
翌5日、県は金屋小学校(現、円通寺)を「埼玉県仮病院」とし、地元医師2名が治療にあたるが、設備もなく負傷者がここに担ぎ込まれたというだけのもの。
6日夜、鎮台兵付添医師がここの立ち寄った時も、
「何レモ重傷ナリ、或ハ雨戸ニテ荷ヒ込ミシ儘ナルアリ、或ハ単ニ藁菰ヲ被テ呻吟スルアリ、或ハ重傷ノ為メ庭前ニ倒レテ既ニ死スルアリ、実ニ其ノ景況憫然ナリキ」
という状況。
それでも、周囲住民の中には「余りに暴徒の負傷に手当の厚きに過る」と批判するものもあった(「東京日日新聞」明治17年11月10日)。
*
金屋の戦闘における困民軍側の即死は6名(何れも「郷貰氏名不知者」)で、病院収容後さらに6名が没する。
引間元吉(秩父郡下日野沢村小学校の授業生、18歳、上日野沢村の自由党員門平惣平(伝令使)の義兄弟、惣平のすすめで4月に入党。11月1日、惣平からの連絡を受け蜂起に参加)はこの負傷者の一人。彼は「衆潰散シタルヲ以テ逃走セントスル際、両股ニ銃丸ヲ受ケ、遂ニ捕縛セラレ」、「煽動シテ勢ヲ助ケタル者」として重禁錮1年6月に処せられる。
*
金屋仮病院で負傷者の治療にあたった八幡山町の医師中神貞作の報告には、入院者14名の名がある。うち、入院してからの死亡者は上日野村太田政五郎(5日没)、河原沢村黒田広吉(5日没)、藤倉村東市重(6日死)、金沢村桜井喜十郎(8日没)、金尾村新井助三郎(10日没)、下田野村田島丑五郎(12日没)の6名。引間元吉ら8名は、まもなく退院、裁判所へ護送。
即死者は5名。胸や膝を「銃丸ノ為メニ貫カレ」、人家前の「往還」や「桑畑ノ中」に「斃死」していた。
「生擒」された者15名。
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金尾村新井助三郎(25)は入院してから死亡した6名のなかの1人で、「右足脛ノ中部ニ銃傷ヲ被ムリ脛骨全ク折断」の重傷だったが、命を救うために「該骨ヲ切断セン事ヲ諭」した中神医師に、「譬ヒ死ストモ其術ヲ受ケス」と、「自若トシテ強情ス」と言い、自死を図って刀で頚を突く。
「十一月十日午前十時実ニ眠ルカ如クニシテ斃レタリ」
という。
尚、金尾村からは新井三四郎ら数人が信州転戦隊に加わり、東馬流まで闘いつづける。
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□「土陽新聞」の報道。
「鎮台兵は最初暴徒の手強き勢ほひに当り得ず、引退いて暫らく其鋭気を避け竹薮に籠り、暴徒の右翼を砲撃せしより今まで斃るる者を踏こえ踏こえ町角へ競ひ集りし暴徒も遂にたまりかねけん、向ふの人家に引取り、畳を積みて胸壁に代へ、凡午前一時廿五分頃まで戦ひしは、百姓一揆に稀なる天晴の剛兵なりとぞ。死体等を所々に見出すあれど、いずれも股引脚半草鞋にて百姓体なり、或は十四五歳の少年が手を負ひ助けを乞ひ、声をあげて叫ぶ者、又五十有余の老夫が健気に奮闘して斃れたる者等あり。」(「土陽新聞」)。
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官側は台兵3名、巡査1名が負傷。いずれも銃創。
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翌5日午前6時、鎮台兵と警官隊は長冲村を出発、秩父新道を進み、大淵村長楽寺で青木巡査(前日、新井周三郎を斬りかかり殺害された)を仮埋葬し、この夜はここに宿泊。
6日、下日野沢村の藤原峠に残徒屯集の情報を得て同村に向い、「自由党ノ巣窟」重木の村上泰治宅などを捜索し、藤原峠を越えて午後8時頃児玉町に戻る。児玉・八幡山両町は、鎮台兵と警官に「酒壱樽卜家鴨十羽」を贈って慰労。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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2010年5月5日水曜日
明治17(1884)年11月4日(4) 困民党総理田代栄助の戦線離脱 何ゆえに?
明治17(1884)年11月4日(4)
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・困民党指導部崩壊。
午後3時、田代栄助、「運命ヲ俟タン」として柴岡熊吉より500円を受取り、半分を訪ねてきた3男八作に渡し、井上伝蔵・三山小隊長犬木寿作ら一行7名で荒川を越え逃亡。
4時過ぎ、長留村芝原部落で4人に120円を与えて分れ、この部落の懇意な医師宅で休息後、伝蔵ら2名と別れる。
*
「夫ヨリ自分ハ柴岡熊吉、井上善作ノ二人ニ万事ヲ托シ十一月四日午後三時前、井上伝蔵、嶋田清三郎、贄川村磯田左馬吉、犬木寿作其他名前不知者二人合セ七人ニテ皆野村ヲ発シ蒔田村ヲ経テ寺尾村山中ニ至り様子ヲ探ルニ、皆野村ノ方ニ当り砲声頻リニ聞へ、大官郷ノ方ヲ窺フニ憲兵及ビ警察官吏大勢繰込ミ居ル故、深山ニ逃ルルニ若カズト倶々同日午後四時過ギ同所ヲ発シ長留村字芝原ニ至り各離散再会ヲ期セント自分持合金ノ内姓名不知二人へ五円ヅツ嶋田清三郎、犬木寿作ノ両人へハ六拾円ヅツ与へ別レタリ・・・」。
この供述によれば、贄川村磯田左馬吉(栄助の甥)と会計長井上伝蔵は、最後まで栄助の身辺に残ったことになる。栄助、左馬吉、伝蔵がどう別れ別れになったかについては、栄助は供述を避けている。
*
栄助脱出後の混乱。
「角屋へ行キ、又前ノ酒屋へ参リテ三銭ガホド酒ヲ飲ミ、帰リテ見ルト栄助モ倅モ居ラズ、其時小柏常次郎ニ総理ハ何処へ行シカト尋ネタル処、何処へ行キタルカ居ラズトノ事、其時大淵ノ方デ巡査ガ切り出シ怪我ヲシタト云者アリ、ヤガテ三人戸板ニ乗セテ担ギ来ル、総理ハ居ラヌトノ騒ギニテ、大淵へ出タル人数ハ呼戻ス、野上へハ兵隊ガ繰込ミタルト云フ話シガアル、余程ノ混雑ニテ」(「新井貞吉訊問調書」)
*
「四日火縄購求ノ為メ大宮ニ到り再ヒ皆野ニ帰リシ時、既ニ栄介等ノ所在ヲ失シ殆ント瓦解ノ域ニ至ル」(「門平惣平裁判言渡書」)。」
栄助は側近惣平の帰陣を待てないほど慌ただしく離脱した様子が窺え、それほどの栄助の動揺、戦意喪失の程度ぶりもまた窺える。
*
「万事ヲ托」すと言われてた柴岡熊吉は間もなく逃走し、井上善作は落合寅市隊に参加。
*
○その後の栄助:
4~8日、日野の山中潜伏。
9~11日武甲山に潜伏。
12日、次男保太郎(24)と横瀬村五番観音の岩窟。
13日保太郎が食糧を運び山中潜伏。
14日黒谷村の宮谷方で宿泊中、宮谷某の密告により熟睡中に捕縛(15日午前3時30分)。
*
□「十四日夜一老人来り、本部長ニ面会ヲ乞フ者アリト本部護衛巡査ノ申告ニ応ジ、鎌田ハ之卜別間ニ面会セシニ、老人ハ即チ黒谷村宮谷倉吉卜名乗リ、声ヲ低フシテ曰ク、過刻懇意ナル田代栄助父子両人来り一泊ヲ乞フ、即チ其意ニ応ジ休息セシメ置キタリト、直ニ倉吉ヲ案内者トシ、田代刑事以下巡査十余名ヲ派シ、栄助及其倅保太郎ノ両名ヲ捕押シ来レリ(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
*
栄助の次男保太郎の供述。
「十四日ハ三沢ノ峯山こ匿レ、縁者横田太郎ヨリ飯ヲ貰ヒ自分カ運搬シ実父ノ食用ニ供シタレトモ、温気ノアル食物ヲ服セサルニ付如何ニモ寒気ニ難堪ヨリ、黒谷村姓名ハ聢卜知ラサル倉トカ称スル大工ノ宅ニ潜伏シ居タル処、同日午前十二時頃天網免レ難ク終ニ捕縛イタサレ、大宮郷ニ押送致サレ候」
*
○その後の井上伝蔵:
その後、姿をくらまし欠席裁判で死刑。大井との密約で水戸での再起を期して水戸に向うが果たせず、下吉田村字関の知人の土蔵で2年間潜伏。
越後・能登での同志との再会の約束のため、そこに向うがまた果たせず、明治20年秋北海道に渡る。
苫小牧の「土工請負某」のところに2~3ヶ月潜伏後、軽川の侠客某を頼り潜伏、後、代書業を始めこれが繁盛する。
法制改正により代書業者の身元調査が行われるため廃業。この間、結婚し5人の子供をもうける。
大正7年6月23日、現・北見市で没(65)。直前21日、過去を妻子に告白。秩父の家族を待って葬儀。
*
□「朝日新聞」。
「秘密の三十五年、秩父事件の首魁井上伝蔵、死に臨で妻子に旧事を物語る」
「明治十七年蜂起せる秩父事件の首魁井上伝蔵は、当時全く行方不明とされつゝありしが、今より七年前、高橋姓を名乗りて北海道北見国常呂郡野付牛村に来り居住し、去月二十三日六十五歳にて死亡せり。其死するにあたり、一時間前妻子を枕元に呼び寄せ、初めて自己の経歴と身元を明したる為め、妻子の驚き一方ならず、遺言に基き国元埼玉県に電報したるに、実弟井上頼作及其甥に当る井上宅治等訪ね来り、葬儀を執り行ひたり。三十五年の長き間行方不明とされ居りし者が、突然現われたるは稀有とすべく、又伝蔵は当時官憲の捜査を遅れ、先づ室蘭に来り、夫より北海道各地を放浪せるものなりと。」
*
■栄助逃亡を巡って:
○持ち逃げを疑う幹部たち
「四日朝皆野宿へ至りタルニ、栄助折平其他室立ガ何レヘカ逃ケタリト云フ事ヲ聞込タル故、栄介等ハ金ヲ握ツテ逃ケタル事ニテ不届ナル者ニ付見付ケ出シテナグッテ仕舞フト申シ、自分等大勢卜共ニ栄助等ノ所在ヲ探スモ更ニ行衛分カラス」(石間村漆木新井繁太郎の供述)。
*
「皆野宿ニ至り、新井逓吉ニ出会栄助ノ所在ヲ間フニ、逓吉ハ昨夜当所江栄助卜共ニ来りタレトモ熊五郎カ何レヘカ連レ行キ更ニ所在知レスト云ヒリ 夫ヨリ熊五郎ヲ尋ツテ其所在ヲ間フニ、熊五郎モ知ラント云ツテ判然タル事ヲ申サズシテ、所在ヲ知り居ル者ヲ連レ来ルト申シ何レヘカ踪跡ヲ晦マシタリ 因テ井上伝蔵ヲ尋タルニ之レ又所在知レス 此トキ折平カ出テ来タリシ故栄助伝蔵ノ所在ヲ尋ヌルニ、折平ノ答ニ自分ハ更ニ所在ハ知ラス 君ハ共ニ居リシ故知り居ルナラント申シタリ 此トキ自分ハ前夜以来栄助ノ動作ヲ述へ、必定彼レハ陸軍カ向ヒタルヲ聞キ且ツハ多分ノ金ヲ持チシ故逃走シタルナラント申シタリ」(小柏常次郎第2回訊問調書)
*
○逃亡時刻は「午後三時前」(栄助供述)か?
・重傷の周三郎を見てから逃亡という証言
「味方ニ裏切レカアリ周三郎外弐名ヲ切リ斃サレタルト報知アルヤ否周三郎ヲ戸板ニ乗セ連レ来 栄助是ヲ視ルヤ忽チ色ヲ変シテ、鳴呼残念卜云フ言葉ヲ発シテ皆野村門田屋ノ裏ヨリ直ニ馳出シタリ」(柴岡熊吉第4回訊問調書)
*
・栄助より後に逃亡した熊吉の逃亡時刻は、以下熊吉の供述では「ずれ」はあるものの11時~12時と考えられ、「栄助第4回訊問調書」(午後3時頃逃亡)や「熊吉第4回訊問調書」(運び込まれた重傷の周三郎を見てすぐ逃亡)と異なっている。
「所詮勝利は得難キモノト存ルヨリ、同盟者ノ透ヲ窺同日午前十一時覚卜覚、皆野邨ヨリ逃走致シタルニ相違ナシ」
「正午十二時頃皆の村ヲ逃ケ出シ、秩父郡高篠山ニ隠レ夜ヲ明カシ」
*
・本野上村の伝令使島田清三郎(栄助と共に角屋から柴原まで同行)の裁判言渡書には、
「彼我ノ動静ヲ捜察シ居ル折柄、大渕村ニ於テ裏切アリトノ注進ヲ為シ来ルヨリ之レヲ本営ニ報シ、栄助等ハ事ノ成ラサルヲ察シ、伝三犬木寿作卜共ニ逃走スルニ際シ被告モ之レニ随従シ寺尾村山中ニ入り・・・」
と、「注進」を「報シ」てから逃亡とあり、栄助は周三郎が運ばれてきたこととは無関係に逃亡しているようにとれる。
*
・周三郎が角屋に担ぎ込まれた時、栄助はそこに居なかったとする供述もある(加藤織平、小柏常次郎、村竹茂市、新井貞吉などの調書)。
加藤織平の調書では、
「問 周三郎ノ切ラレタルコトハ
答 山ヨリ直ク下リテ聞キタリ 依テ自分ハ周三郎ヲ皆野村ナル惣理へ送りタリ
問 其時惣理栄助ハ居りタリヤ
答 居ラサルニ付柴岡熊書ニ托シタリ」
*
・周三郎の負傷が10時頃、角屋到着が11時前、栄助の離脱は11時前後ではないかと推察できる。
*
○栄助の早い離脱の理由は?
諸説:
①大宮郷に結成された自警団との人民同士の流血の惨事を避けるため。。
②実戦によって生じるであろう犠牲者を最小限にとどめるため。
③前日(3日)朝、困民党が皆野へ動きだしたことを戦術的誤算として、総理の任これまでと覚悟した。
④当日(4日)午前、三男八作の陣中訪問により精神的虚脱状態が一層深まったため。
など・・・。
*
栄助は年齢50歳、加えて胸痛の持病をもっており、3日にもこれが発症している。
この日、官憲・自警団襲来の注進(4日午前の段階では殆どが虚報)が相次ぎ、前日来の自軍の統制破綻の状況下で、栄助の焦燥は深まり、
加えて、
この日の三男八作の陣中訪問と周三郎の負傷により戦意喪失した、
というのがこれらを綜合したところの理由といえる。
*
■この年の栄助の軌跡
2月
自由党に入党する意思で下日野沢村重木の村上泰治(17)を訪問するが、拒絶される。田代は深く傷つく。
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9月
困民党指導部に参加を要請され、これを決意。
*
10月26日
粟野山会議で、決行の1ヶ月延期を主張。否定され、11月1日朝8時下吉田村椋神 社集合・11月2日午前2時大宮郷繰出しが決定。
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11月2日夜
大宮郷で、近くに住む実姉を訪ね「永訣ヲ告ゲ」る。
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11月3日朝
甲乙両隊の独断専行に不満を抱くが、井上伝蔵・宮川津盛ら側近と護衛数10名を率い皆野村に向い、正午頃、乙隊の本営「角屋」に入る。
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11月3日午後
持病の胸痛を発し、常次郎・熊吉ら数名と大野原に戻り民家で静養。
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11月4日朝
皆野の本陣に戻る。憲兵・警官隊による包囲・封鎖が徐々に進み悲観的情勢を知る。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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・困民党指導部崩壊。
午後3時、田代栄助、「運命ヲ俟タン」として柴岡熊吉より500円を受取り、半分を訪ねてきた3男八作に渡し、井上伝蔵・三山小隊長犬木寿作ら一行7名で荒川を越え逃亡。
4時過ぎ、長留村芝原部落で4人に120円を与えて分れ、この部落の懇意な医師宅で休息後、伝蔵ら2名と別れる。
*
「夫ヨリ自分ハ柴岡熊吉、井上善作ノ二人ニ万事ヲ托シ十一月四日午後三時前、井上伝蔵、嶋田清三郎、贄川村磯田左馬吉、犬木寿作其他名前不知者二人合セ七人ニテ皆野村ヲ発シ蒔田村ヲ経テ寺尾村山中ニ至り様子ヲ探ルニ、皆野村ノ方ニ当り砲声頻リニ聞へ、大官郷ノ方ヲ窺フニ憲兵及ビ警察官吏大勢繰込ミ居ル故、深山ニ逃ルルニ若カズト倶々同日午後四時過ギ同所ヲ発シ長留村字芝原ニ至り各離散再会ヲ期セント自分持合金ノ内姓名不知二人へ五円ヅツ嶋田清三郎、犬木寿作ノ両人へハ六拾円ヅツ与へ別レタリ・・・」。
この供述によれば、贄川村磯田左馬吉(栄助の甥)と会計長井上伝蔵は、最後まで栄助の身辺に残ったことになる。栄助、左馬吉、伝蔵がどう別れ別れになったかについては、栄助は供述を避けている。
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栄助脱出後の混乱。
「角屋へ行キ、又前ノ酒屋へ参リテ三銭ガホド酒ヲ飲ミ、帰リテ見ルト栄助モ倅モ居ラズ、其時小柏常次郎ニ総理ハ何処へ行シカト尋ネタル処、何処へ行キタルカ居ラズトノ事、其時大淵ノ方デ巡査ガ切り出シ怪我ヲシタト云者アリ、ヤガテ三人戸板ニ乗セテ担ギ来ル、総理ハ居ラヌトノ騒ギニテ、大淵へ出タル人数ハ呼戻ス、野上へハ兵隊ガ繰込ミタルト云フ話シガアル、余程ノ混雑ニテ」(「新井貞吉訊問調書」)
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「四日火縄購求ノ為メ大宮ニ到り再ヒ皆野ニ帰リシ時、既ニ栄介等ノ所在ヲ失シ殆ント瓦解ノ域ニ至ル」(「門平惣平裁判言渡書」)。」
栄助は側近惣平の帰陣を待てないほど慌ただしく離脱した様子が窺え、それほどの栄助の動揺、戦意喪失の程度ぶりもまた窺える。
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「万事ヲ托」すと言われてた柴岡熊吉は間もなく逃走し、井上善作は落合寅市隊に参加。
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○その後の栄助:
4~8日、日野の山中潜伏。
9~11日武甲山に潜伏。
12日、次男保太郎(24)と横瀬村五番観音の岩窟。
13日保太郎が食糧を運び山中潜伏。
14日黒谷村の宮谷方で宿泊中、宮谷某の密告により熟睡中に捕縛(15日午前3時30分)。
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□「十四日夜一老人来り、本部長ニ面会ヲ乞フ者アリト本部護衛巡査ノ申告ニ応ジ、鎌田ハ之卜別間ニ面会セシニ、老人ハ即チ黒谷村宮谷倉吉卜名乗リ、声ヲ低フシテ曰ク、過刻懇意ナル田代栄助父子両人来り一泊ヲ乞フ、即チ其意ニ応ジ休息セシメ置キタリト、直ニ倉吉ヲ案内者トシ、田代刑事以下巡査十余名ヲ派シ、栄助及其倅保太郎ノ両名ヲ捕押シ来レリ(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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栄助の次男保太郎の供述。
「十四日ハ三沢ノ峯山こ匿レ、縁者横田太郎ヨリ飯ヲ貰ヒ自分カ運搬シ実父ノ食用ニ供シタレトモ、温気ノアル食物ヲ服セサルニ付如何ニモ寒気ニ難堪ヨリ、黒谷村姓名ハ聢卜知ラサル倉トカ称スル大工ノ宅ニ潜伏シ居タル処、同日午前十二時頃天網免レ難ク終ニ捕縛イタサレ、大宮郷ニ押送致サレ候」
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○その後の井上伝蔵:
その後、姿をくらまし欠席裁判で死刑。大井との密約で水戸での再起を期して水戸に向うが果たせず、下吉田村字関の知人の土蔵で2年間潜伏。
越後・能登での同志との再会の約束のため、そこに向うがまた果たせず、明治20年秋北海道に渡る。
苫小牧の「土工請負某」のところに2~3ヶ月潜伏後、軽川の侠客某を頼り潜伏、後、代書業を始めこれが繁盛する。
法制改正により代書業者の身元調査が行われるため廃業。この間、結婚し5人の子供をもうける。
大正7年6月23日、現・北見市で没(65)。直前21日、過去を妻子に告白。秩父の家族を待って葬儀。
*
□「朝日新聞」。
「秘密の三十五年、秩父事件の首魁井上伝蔵、死に臨で妻子に旧事を物語る」
「明治十七年蜂起せる秩父事件の首魁井上伝蔵は、当時全く行方不明とされつゝありしが、今より七年前、高橋姓を名乗りて北海道北見国常呂郡野付牛村に来り居住し、去月二十三日六十五歳にて死亡せり。其死するにあたり、一時間前妻子を枕元に呼び寄せ、初めて自己の経歴と身元を明したる為め、妻子の驚き一方ならず、遺言に基き国元埼玉県に電報したるに、実弟井上頼作及其甥に当る井上宅治等訪ね来り、葬儀を執り行ひたり。三十五年の長き間行方不明とされ居りし者が、突然現われたるは稀有とすべく、又伝蔵は当時官憲の捜査を遅れ、先づ室蘭に来り、夫より北海道各地を放浪せるものなりと。」
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■栄助逃亡を巡って:
○持ち逃げを疑う幹部たち
「四日朝皆野宿へ至りタルニ、栄助折平其他室立ガ何レヘカ逃ケタリト云フ事ヲ聞込タル故、栄介等ハ金ヲ握ツテ逃ケタル事ニテ不届ナル者ニ付見付ケ出シテナグッテ仕舞フト申シ、自分等大勢卜共ニ栄助等ノ所在ヲ探スモ更ニ行衛分カラス」(石間村漆木新井繁太郎の供述)。
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「皆野宿ニ至り、新井逓吉ニ出会栄助ノ所在ヲ間フニ、逓吉ハ昨夜当所江栄助卜共ニ来りタレトモ熊五郎カ何レヘカ連レ行キ更ニ所在知レスト云ヒリ 夫ヨリ熊五郎ヲ尋ツテ其所在ヲ間フニ、熊五郎モ知ラント云ツテ判然タル事ヲ申サズシテ、所在ヲ知り居ル者ヲ連レ来ルト申シ何レヘカ踪跡ヲ晦マシタリ 因テ井上伝蔵ヲ尋タルニ之レ又所在知レス 此トキ折平カ出テ来タリシ故栄助伝蔵ノ所在ヲ尋ヌルニ、折平ノ答ニ自分ハ更ニ所在ハ知ラス 君ハ共ニ居リシ故知り居ルナラント申シタリ 此トキ自分ハ前夜以来栄助ノ動作ヲ述へ、必定彼レハ陸軍カ向ヒタルヲ聞キ且ツハ多分ノ金ヲ持チシ故逃走シタルナラント申シタリ」(小柏常次郎第2回訊問調書)
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○逃亡時刻は「午後三時前」(栄助供述)か?
・重傷の周三郎を見てから逃亡という証言
「味方ニ裏切レカアリ周三郎外弐名ヲ切リ斃サレタルト報知アルヤ否周三郎ヲ戸板ニ乗セ連レ来 栄助是ヲ視ルヤ忽チ色ヲ変シテ、鳴呼残念卜云フ言葉ヲ発シテ皆野村門田屋ノ裏ヨリ直ニ馳出シタリ」(柴岡熊吉第4回訊問調書)
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・栄助より後に逃亡した熊吉の逃亡時刻は、以下熊吉の供述では「ずれ」はあるものの11時~12時と考えられ、「栄助第4回訊問調書」(午後3時頃逃亡)や「熊吉第4回訊問調書」(運び込まれた重傷の周三郎を見てすぐ逃亡)と異なっている。
「所詮勝利は得難キモノト存ルヨリ、同盟者ノ透ヲ窺同日午前十一時覚卜覚、皆野邨ヨリ逃走致シタルニ相違ナシ」
「正午十二時頃皆の村ヲ逃ケ出シ、秩父郡高篠山ニ隠レ夜ヲ明カシ」
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・本野上村の伝令使島田清三郎(栄助と共に角屋から柴原まで同行)の裁判言渡書には、
「彼我ノ動静ヲ捜察シ居ル折柄、大渕村ニ於テ裏切アリトノ注進ヲ為シ来ルヨリ之レヲ本営ニ報シ、栄助等ハ事ノ成ラサルヲ察シ、伝三犬木寿作卜共ニ逃走スルニ際シ被告モ之レニ随従シ寺尾村山中ニ入り・・・」
と、「注進」を「報シ」てから逃亡とあり、栄助は周三郎が運ばれてきたこととは無関係に逃亡しているようにとれる。
*
・周三郎が角屋に担ぎ込まれた時、栄助はそこに居なかったとする供述もある(加藤織平、小柏常次郎、村竹茂市、新井貞吉などの調書)。
加藤織平の調書では、
「問 周三郎ノ切ラレタルコトハ
答 山ヨリ直ク下リテ聞キタリ 依テ自分ハ周三郎ヲ皆野村ナル惣理へ送りタリ
問 其時惣理栄助ハ居りタリヤ
答 居ラサルニ付柴岡熊書ニ托シタリ」
*
・周三郎の負傷が10時頃、角屋到着が11時前、栄助の離脱は11時前後ではないかと推察できる。
*
○栄助の早い離脱の理由は?
諸説:
①大宮郷に結成された自警団との人民同士の流血の惨事を避けるため。。
②実戦によって生じるであろう犠牲者を最小限にとどめるため。
③前日(3日)朝、困民党が皆野へ動きだしたことを戦術的誤算として、総理の任これまでと覚悟した。
④当日(4日)午前、三男八作の陣中訪問により精神的虚脱状態が一層深まったため。
など・・・。
*
栄助は年齢50歳、加えて胸痛の持病をもっており、3日にもこれが発症している。
この日、官憲・自警団襲来の注進(4日午前の段階では殆どが虚報)が相次ぎ、前日来の自軍の統制破綻の状況下で、栄助の焦燥は深まり、
加えて、
この日の三男八作の陣中訪問と周三郎の負傷により戦意喪失した、
というのがこれらを綜合したところの理由といえる。
*
■この年の栄助の軌跡
2月
自由党に入党する意思で下日野沢村重木の村上泰治(17)を訪問するが、拒絶される。田代は深く傷つく。
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9月
困民党指導部に参加を要請され、これを決意。
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10月26日
粟野山会議で、決行の1ヶ月延期を主張。否定され、11月1日朝8時下吉田村椋神 社集合・11月2日午前2時大宮郷繰出しが決定。
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11月2日夜
大宮郷で、近くに住む実姉を訪ね「永訣ヲ告ゲ」る。
*
11月3日朝
甲乙両隊の独断専行に不満を抱くが、井上伝蔵・宮川津盛ら側近と護衛数10名を率い皆野村に向い、正午頃、乙隊の本営「角屋」に入る。
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11月3日午後
持病の胸痛を発し、常次郎・熊吉ら数名と大野原に戻り民家で静養。
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11月4日朝
皆野の本陣に戻る。憲兵・警官隊による包囲・封鎖が徐々に進み悲観的情勢を知る。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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2010年3月7日日曜日
明治17(1884)年11月4日(3) 島崎嘉四郎のゲリラ隊、前川巡査捕縛 群馬の警官隊隊長柱野警部補戦死
明治17(1884)年11月4日(3)
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・風布の宮下沢五郎(31、重禁錮2年)ら、粥新田峠で花火を打ち上げる。
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「大沢逸作の陳述によれば客月二日暴徒乱入のさい、桜沢村木島善一郎の依頼をうけて大宮郷薬店塩ノ谷其方においてエンサンカリ、ケイカンセキを購求いたし、これをもって横瀬村町田代蔵宅へ持ちゆき、この家において木島善一郎および風布村の宮下沢五郎両名が破烈薬を製したりという。」(大官郷警察署長斎藤勤書の復命書)。
大沢逸作・町田代蔵は銃砲鍛冶職人、風布の宮下沢五郎は農の傍ら学務委員を勤める花火師。
「横瀬村町田代造ヲ訪ヒ木製ノ烟火筒ヲ借受ケ破烈丸ヲ製造シ大野原村ニ進ミ該姻火筒ヲ要所ニ据へ官兵ノ襲撃ニ備へ、四日善一郎ニ属シ百五十六名ト小川ロヲ衝カント欲シテ路ヲ三沢村ニ取り村境粥新田峠ニ於テ善一郎等卜共ニ烟火筒ヲ放チ砲声卜共ニ鯨波ヲ作り阪本村ニ進入シ・・・」(沢五郎判決文)。
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・昼、石間の戦い。
島崎嘉四郎のゲリラ隊、群馬の警官隊を攻撃。前川巡査捕虜。2日の蜂起で参加した「酉蔵」と呼ばれる大工と若い娘2人が警官隊を誘導。
午後10時、嘉四郎は分散したゲリラ隊を下吉田で統合。
5日朝2時頃、児玉に押し出そうとする時、金屋の敗報を聞く。椋神社で休息し、信州行きを部下に告げ、30余で信州進出。貫平軍の幹部として活躍。
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甲大隊の加藤織平・新井周三郎は、群馬県からの警官隊迎撃の為、別働隊として「千鹿谷の大将」島崎嘉四郎に銃砲隊長新井悌次郎ら銃手5~6名、「玉川の子分」小林酉蔵、石間村の柿崎義藤らの猛者に約200人をつけて日野沢谷へ進発させる。
3日夜、別動隊は、上日野沢村小前耕地に分宿し、翌4日早朝から奈良尾峠を越えて矢納村(児玉郡神泉村)に向う。
峠へ半里(約2km)のところで、峠上から警官隊(群馬県警大竹警部ら10余)の発砲を受ける。これに恐れ、一部は逃げるが、嘉四郎や酉蔵ら「強気ノ者」20人は峠に攻め上り、逃げる警官を追って、矢納村鳥羽~神流川吊橋辺に進出し、午後4時頃、高牛で逃げおくれた前川巡査を捕縛。
その後、別働隊は重木耕地へ入り、夜は幹部は村上泰治留守宅に宿泊し、残りは近くの民家に分宿。
村上泰治の妻ハンは、自ら進んで本陣提出を申し出、近隣の女衆を励まして焚出を行う。
*
事件鎮定後、本野上分署は所轄内村々に被害届を出させ、これをもとに「暴徒被害者調」を作成するが、その中に村上泰治名義で、「一、脇差四本、倭銃(ヤマトジュウ)一挺、男綿入一枚、外二品」の被害物件がある。協力を偽装する為の被害届提出であろう。
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重木耕地では殆どが蜂起に参加。
警官隊が泰治宅を急襲した際、妨害したとして逮捕された加藤善蔵は、拷問によって健康を害していて参加できなかったが、長男九蔵(19)は参加して重禁錮1年6ヶ月の刑に処せられる。
泰治の一族の中庭柳太郎家では、入聟駒吉が参加し、児玉進撃隊に選ばれ4日深夜の東京鎮台1中隊・警官隊との金屋の夜戦で、拇指に銃創を負う。山野を這いずりまわって逃亡するが、群馬側で捕われ、前橋軽罪裁判所において罰金4円を申し渡される。
*
・午後、半納の戦い。
城蜂山の西の山麓で、偵察の群馬県警警官隊、待ち伏せ攻撃を加えられる。警官隊隊長柱野警部補、戦死。
*
鬼石町に現地警察本部を設けた群馬県河野警部長は、2日、秩父郡太駄口に警部3名・巡査30名を、南甘楽郡保美ノ山口に警部2名・巡査25名を派遣。保美ノ山口に向った警官隊は、秩父郡矢納村に向う隊と秩父郡太田部村に向う隊とに分かれる。
3日朝には、大宮郷の困民軍本営に、憲兵が矢納村から大宮郷に向うと伝えられている。
4日午前3時、万場分署長佐藤警部補は巡査1名と万場村を出発、神流川を越えて秩父郡太田部村に進出し、村の戸島宅で休憩中に柱野警部補の10余名が到着。柱野警部補は鬼石町の警備本部宛て、「太田部ニ着、一賊ヲ見ズ、賊ハ凡半納ニアリト聞ク、里程一里」と報告、午前7時、佐藤警部補の隊と合同して出発、11時太田部峠に到達。斥候の報告で、「兇徒ハ峠下ノ石問村ニ退キ布陣」と知り、中食を得るため柱野・佐藤警部補は巡査の半数を峠に残置し、半数を率い峠を下り半納に向う。
*
この地区における困民党の動き:
石間村加藤織平は、1日の出陣に先立ち、地元の火縄製造経験者に、焼き火縄の製造を指示。
火縄を製造した農民の供述。
「自分ハ素ヨリ火縄ヲ拵(コシラ)ヘル事ヲ知り居ルニ付、今度ノ事件ニ付鉄砲へ用ユル火縄ガ入用ニテ、村方賊魁加藤織平ナル者ニ頼マレ、自宅裡(ウラ)ノ山ニテ本月二日ヨリ三日ノ昼過迄火縄ヲ拵へ、某日午後二時頃、賊ノ頭分ラシキ者取ニ来りタルニ依リスグ渡シタ」(「石間村新井保之松訊問調書」)。
困民軍主力が小鹿野町から大宮郷に進撃後、その背後にあたる城峯山・群馬県方面の官憲の動きに対しては、石間村加藤織平の兄嘉市が中心になって警戒にあたる。近村に呼びかけ、人足狩りだしを行い、神流川近くの太田部村にも、3日午後3時頃抜刀の14名ほどが入り、人足を集め半納に向わせる。
こうして集められた40名ほどは、4日午前8時頃半、納耕地の寄合蔵のある辻に勢揃いする。この中には矢納村に出現した官兵に対処するため、前夜大淵村の甲隊から派遣された別動隊の一部も合流しており、それらの「惣(スベ)テノ指図役」には、上吉田村島崎弥十郎(24、大工、島崎嘉四郎の弟)があたる。弥十郎は、鬼石町や矢納村方面からの官憲の動きを見張るため、城峯山の「権現の尾根」の配置につく。
*
「漆木ノ亀番」(金丸亀五郎)は、馬喰風を装って、峠を越え太田部村に出ていたので、群馬県警のこの方面における動きは、「警部巡査方半納へ向フ」の注進となって届いている。
この時、加藤嘉市(副総理加藤織平の兄)は、太田部村に出現の警官隊に対抗するため、皆野の本隊に応援を求める特使を出すが、その本隊は潰滅寸前の混乱で、結局応援は得られず。
警官隊出現の報を聞いた城峯山の見張組は、「道ヲドタドタ飛下り」、半納の横道という山の斜面の6戸程の集落の裏山に潜み、指図役の弥十郎は酉番に対し「警部・巡査ヲ誘ヒ、何処ナリト尾根ヲ下ラスベシ、左スレバ此方ヨリ鉄砲隊ヲ指図シ、其ノ場所ニ赴キ宜シキ様ニ打出ス」と言い含める。
*
酉番:
本名は強矢徳次郎、48歳、家は日尾村の合角。幼名を「酉之助」といい、大工をしていたので「酉番」とか「合角ノ酉」と呼ばれる。
「顔ハ丸ク、色ハ白キ方、鼻ハ高ク、髯ハ少々アリ、ロハ並、目ハクリクリ致シ居り」(「石間村加藤栄造訊問調書」)。
自分の女房を寝取ったことがあるという男が自分の家に立寄ると、斧を持って追いかけ臀に斬りつけ、そのあげく自分の家に火をつけ、この男が火付けをしたと言いふらし、7年も訴訟を続けたという話題の持主で、「飛込サヘスルト、如何ナル悪事ニテモ為ス、中中曲者ノ軍師」とみられている。
彼は、2日午前5時頃、村役場から、「暴徒等上吉田村ノ塚越辺迄押寄せタルニ付、村役場へ詰ロ」の触れで、和田耕地の戸長役場に出ると、坂本宗作指揮の別動隊によって、既に役場は帳簿を焼かれ、脊戸の関口清三郎方では、.母屋の戸障子を表に持ち出して火をつけ、土蔵から時計や繭袋を持ち出し、時計は打毀し繭を焼いているところであった。
彼は、ここで困民党に加わり、小鹿野に向う途中塚越の民家で脇差1本を奪い、小鹿野町では前夜本隊が打毀した高利賃を再び打毀し、日暮近く大宮郷の妙見の森(秩父神社)に入り、ここで栄助の顔を見る。暫くの休憩後、秩父郡役所に行き、整列して総理・副総理の入所式に立ち会う。夕食後休憩してよいと言われ、大宮郷の中央にある高利賃の刀屋(稲葉貞助)の隣の家に入って「トロリトロリ」していると、深夜鉄砲の音で目を覚し「スハ討手ニ向ハレシ事」と早合点して裏口から逃げ出す。一晩中山中を走り、石間村の沢口で2人の女に呼び止められる。「逃ゲ通ス事モ六ケ敷カラン」と加藤織平の兄嘉市の組に入り、その夜は近くの実家で休み、この日は朝から地元の組に加る。
*
弥十郎から秘命を受けた「酉番」は、「堂ノ尾根」で警官隊の手前10間ばかりのところで、「御願ヒデ御座リマス」と声をかける。
「此地へ来イ」と呼ばれて近寄ると、「使ヒニ通ル人ヲ頼ミ度」というので、承知して近くの「横道」という、山の斜面の6軒ほどの部落の京蔵の家に警官隊を案内すると、警官がここでは「不都合」だというので、役場の筆生岩城福松の家へ案内し縁側に警官を腰かけさせる。
そこで、近所の婦人2人がお茶を出してもてなす。警官隊の隊長は峠に残留の警官を呼び寄せるため手紙を書き、それを婦人1人に持たせて使に出し、ついで中食として鶏1羽の料理を所望し、途中で捕え老人の縄を解いて手伝わせる。
「酉番」はかねて打ち合せ通り、その家の子供と共に薪を取りに行く風をして裏手に回る。
すると、これを合図に裏山に隠れていた弥十郎らが、一斉に鉄砲で警官隊を襲う。警官隊隊長柱野警部補は、6発を発射しながら福蔵宅前の崖下に向うところを狙い撃ちされ、投石でひるんだところを、石間村の高岸団作と加藤太次郎が斬り込んで顔を切り腹を突いて殺害。
*
警官隊の逃亡後、弥十郎は、「酉番」と新井伊十郎と共に警部の死体のそばの土に突き立ててあるサーベルを抜き、警部の腰の鞘を取ってそれに身を収める。
「酉番」が、弥十郎に、「御前ハ其刀ガ在レバ壱本ハ余ルニ付、自分ニ呉レヨ」と言うと、弥十郎は自分の腰の刀を「酉番」に渡す。
弥十郎は、警部の懐中を捜すと、手帳とその中に絵図面と10円60銭が見つかる。弥十郎は、「此金ハ大将ニ出シ、其褒美トシテ金五円貰受クルニ付、其時ハ一緒ニ酒ヲ飲モウ」と言う。
「酉番」は「刀ガ出来タル上ハ首ヲ切リ試シタシ」と言い、刀で切り始めるが、初めはよく切れず、「上ヨリモコスリ、下ヨリモコスリ」してようやく首を切断し、竹鎗に突き刺して堂の尾根へ持って行く。この時、太田部の方から大勢の警部巡査が来ると聞き、そこに首を捨てて逃げる。
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この時の困民党の人数は、地元組に前日大淵村から派遣された別動隊の一部が加わり、40~60名程度とみられ、「石間村字漆木ノ剣術遣ヒ柿崎平角、字中郷新井伊十郎、字沢戸新井広吉、日野沢ノ鉄砲打ガ五、六人、藤倉村ノ鉄砲打ガ拾人斗、川原沢村ノ鉄砲打ガ二、三人、三山村ノ者ニテ弐人ガ刀ヲ差シ居タリ」と、かなりの人数が鉄砲を持っている。
*
この戦いで困民党側は、石間村半納の城口定吉(55歳)が警官の短銃で右股貫通銃創を受け、石間村漆木の柿崎丑十郎は「頭ニ二ヶ所、掌ニ壱ヶ所、背ニ壱ヶ所ハ太刀傷、足部踝骨ノ上ニ弾丸傷壱ヶ所」を負う。
また、島崎弥十郎は、警部巡査にたち向ったのは「皆剣道ヲ心得タル者」であったと云う。石間村は、加藤繊平はじめ、上州自由党員小柏常次郎らによって、柔術が盛んであり、石間村の諏訪神社に現在もある甲源一刀流の献額には、加藤太次郎、城口定吉、柿崎丑十郎、高岸団作らこの時の戦士の名前がある。
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一方の警官隊は隊長柱野安次郎警部補が殺され、巡査西川弥七郎・吉田彦逸2人が重傷(刀創と銃創)を負う。
吉田彦逸巡査の報告。
「太田部村ヲ経テ石間村へ出張シ、処々巡回ノ末同村筆生岩城福蔵方ニ於テ暫時休憩中、四日午後二時頃兇徒凡ソ四、五〇名、各銃器刀剣ヲ携へ、突然右福蔵宅裏山ヨリ襲来、連(シキ)リニ発砲又ハ石礫等ヲ抛チ掛ケ候ニ付、本職等之ニ応ジ発砲、防禦罷有候処、暴徒益々猖獗ニシテ其勢益々加ハリ、然ルニ同行ノ警官巡査西川弥七郎ヲ除クノ外悉ク見失ヒ候ニ付、其場ヲ引揚ントスルニ、兇徒己ニ四方ヲ囲ミ、益々発砲致スニヨリ、不得己西川巡査卜共ニ一時息ヲ休メン為メ、福蔵宅前面、空家ニ立入候処、暴徒益々集ヒ来り「何ンデモ此辺ニ巡査ガ居ル筈ナリ」と云ヒツツ、該家ニ踏込マントスル勢ヒニ付、西川巡査卜申合セ、同巡査ハ抜剣、本職ハ七連発馬上銃ヲ以テ、将サニ打出ントスル際、兇徒忽チ同家障子ヲ明ケ放ツニ斉シク、本職等両名ガ在ルヲ認メ、大声ニ鉄砲方々々と呼ビ、槍ヲ突キ人参ルニ付、一発ノ下ニ打斃シ、其虚ニ乗ジテ橡側ヨリ庭前へ駈ケ出シタル処、左ノ方ヨリ抜刀ヲ以テ進ミ来ルヲ、尚ホ一発其場ニ斃シ、夫ヨリ右ノ方ニアル暴徒三名槍ヲ以テ突掛ケ来りタルニ付、西川巡査共々之ヲ追駈ケ一名ヲ斃シ、尚ホ巨魁卜覚シキヲ(鉢金ヲ着ケ、義経袴ヲ穿チ、白布ヲ襷トシ、俗ニカツサイ袋ヲ着ケ、年三十四、五、大ナル方)追討セシ処、忽チ振返り、抜刀ニテ本職ノ頭部へ斬付ケ、帽子左方へ傷ケ、其太刀余リテ左手ニ傷ケタリ、此時本職弾丸尽キタルニ付(弾薬ハアリタレドモ玉込ニ暇アラズ)、銃ヲ抛ゲ付直ニ兇徒ニ組付、暴徒ハ組付キナガラ西川巡査ヲ傷付ケタリ、頬及ビ咽へ負傷シナガラ西川斬レト云ヒツツ組討中、同巡査背部へ二夕太刀斬付ケ、暴徒ノ力衰フルニ乗ジ、刀ヲ振ヒテ本職又背ヨリ肩へカケ一刀斬付ケ、(西川巡査モ尚ホ一刀腰部ヲ斬ル)、其場ニ斃ルルヲ認メツツ引揚ゲ申候、此際弾丸裂シク、遂ニ左手へカスリ創ヲ負ヒ、夫ヨリ刀ヲ杖テ退ク事二町余ニシテ警官十二、三名ノ遥ニ引揚ゲ行クヲ認メタルニ付呼返シ、巡査柴田庚吉外四名ノ扶助ヲ受ケ、午後九時頃漸ク鬼石町へ引揚ゲ(「巡査吉田彦逸始末書」)。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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・風布の宮下沢五郎(31、重禁錮2年)ら、粥新田峠で花火を打ち上げる。
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「大沢逸作の陳述によれば客月二日暴徒乱入のさい、桜沢村木島善一郎の依頼をうけて大宮郷薬店塩ノ谷其方においてエンサンカリ、ケイカンセキを購求いたし、これをもって横瀬村町田代蔵宅へ持ちゆき、この家において木島善一郎および風布村の宮下沢五郎両名が破烈薬を製したりという。」(大官郷警察署長斎藤勤書の復命書)。
大沢逸作・町田代蔵は銃砲鍛冶職人、風布の宮下沢五郎は農の傍ら学務委員を勤める花火師。
「横瀬村町田代造ヲ訪ヒ木製ノ烟火筒ヲ借受ケ破烈丸ヲ製造シ大野原村ニ進ミ該姻火筒ヲ要所ニ据へ官兵ノ襲撃ニ備へ、四日善一郎ニ属シ百五十六名ト小川ロヲ衝カント欲シテ路ヲ三沢村ニ取り村境粥新田峠ニ於テ善一郎等卜共ニ烟火筒ヲ放チ砲声卜共ニ鯨波ヲ作り阪本村ニ進入シ・・・」(沢五郎判決文)。
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・昼、石間の戦い。
島崎嘉四郎のゲリラ隊、群馬の警官隊を攻撃。前川巡査捕虜。2日の蜂起で参加した「酉蔵」と呼ばれる大工と若い娘2人が警官隊を誘導。
午後10時、嘉四郎は分散したゲリラ隊を下吉田で統合。
5日朝2時頃、児玉に押し出そうとする時、金屋の敗報を聞く。椋神社で休息し、信州行きを部下に告げ、30余で信州進出。貫平軍の幹部として活躍。
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甲大隊の加藤織平・新井周三郎は、群馬県からの警官隊迎撃の為、別働隊として「千鹿谷の大将」島崎嘉四郎に銃砲隊長新井悌次郎ら銃手5~6名、「玉川の子分」小林酉蔵、石間村の柿崎義藤らの猛者に約200人をつけて日野沢谷へ進発させる。
3日夜、別動隊は、上日野沢村小前耕地に分宿し、翌4日早朝から奈良尾峠を越えて矢納村(児玉郡神泉村)に向う。
峠へ半里(約2km)のところで、峠上から警官隊(群馬県警大竹警部ら10余)の発砲を受ける。これに恐れ、一部は逃げるが、嘉四郎や酉蔵ら「強気ノ者」20人は峠に攻め上り、逃げる警官を追って、矢納村鳥羽~神流川吊橋辺に進出し、午後4時頃、高牛で逃げおくれた前川巡査を捕縛。
その後、別働隊は重木耕地へ入り、夜は幹部は村上泰治留守宅に宿泊し、残りは近くの民家に分宿。
村上泰治の妻ハンは、自ら進んで本陣提出を申し出、近隣の女衆を励まして焚出を行う。
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事件鎮定後、本野上分署は所轄内村々に被害届を出させ、これをもとに「暴徒被害者調」を作成するが、その中に村上泰治名義で、「一、脇差四本、倭銃(ヤマトジュウ)一挺、男綿入一枚、外二品」の被害物件がある。協力を偽装する為の被害届提出であろう。
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重木耕地では殆どが蜂起に参加。
警官隊が泰治宅を急襲した際、妨害したとして逮捕された加藤善蔵は、拷問によって健康を害していて参加できなかったが、長男九蔵(19)は参加して重禁錮1年6ヶ月の刑に処せられる。
泰治の一族の中庭柳太郎家では、入聟駒吉が参加し、児玉進撃隊に選ばれ4日深夜の東京鎮台1中隊・警官隊との金屋の夜戦で、拇指に銃創を負う。山野を這いずりまわって逃亡するが、群馬側で捕われ、前橋軽罪裁判所において罰金4円を申し渡される。
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・午後、半納の戦い。
城蜂山の西の山麓で、偵察の群馬県警警官隊、待ち伏せ攻撃を加えられる。警官隊隊長柱野警部補、戦死。
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鬼石町に現地警察本部を設けた群馬県河野警部長は、2日、秩父郡太駄口に警部3名・巡査30名を、南甘楽郡保美ノ山口に警部2名・巡査25名を派遣。保美ノ山口に向った警官隊は、秩父郡矢納村に向う隊と秩父郡太田部村に向う隊とに分かれる。
3日朝には、大宮郷の困民軍本営に、憲兵が矢納村から大宮郷に向うと伝えられている。
4日午前3時、万場分署長佐藤警部補は巡査1名と万場村を出発、神流川を越えて秩父郡太田部村に進出し、村の戸島宅で休憩中に柱野警部補の10余名が到着。柱野警部補は鬼石町の警備本部宛て、「太田部ニ着、一賊ヲ見ズ、賊ハ凡半納ニアリト聞ク、里程一里」と報告、午前7時、佐藤警部補の隊と合同して出発、11時太田部峠に到達。斥候の報告で、「兇徒ハ峠下ノ石問村ニ退キ布陣」と知り、中食を得るため柱野・佐藤警部補は巡査の半数を峠に残置し、半数を率い峠を下り半納に向う。
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この地区における困民党の動き:
石間村加藤織平は、1日の出陣に先立ち、地元の火縄製造経験者に、焼き火縄の製造を指示。
火縄を製造した農民の供述。
「自分ハ素ヨリ火縄ヲ拵(コシラ)ヘル事ヲ知り居ルニ付、今度ノ事件ニ付鉄砲へ用ユル火縄ガ入用ニテ、村方賊魁加藤織平ナル者ニ頼マレ、自宅裡(ウラ)ノ山ニテ本月二日ヨリ三日ノ昼過迄火縄ヲ拵へ、某日午後二時頃、賊ノ頭分ラシキ者取ニ来りタルニ依リスグ渡シタ」(「石間村新井保之松訊問調書」)。
困民軍主力が小鹿野町から大宮郷に進撃後、その背後にあたる城峯山・群馬県方面の官憲の動きに対しては、石間村加藤織平の兄嘉市が中心になって警戒にあたる。近村に呼びかけ、人足狩りだしを行い、神流川近くの太田部村にも、3日午後3時頃抜刀の14名ほどが入り、人足を集め半納に向わせる。
こうして集められた40名ほどは、4日午前8時頃半、納耕地の寄合蔵のある辻に勢揃いする。この中には矢納村に出現した官兵に対処するため、前夜大淵村の甲隊から派遣された別動隊の一部も合流しており、それらの「惣(スベ)テノ指図役」には、上吉田村島崎弥十郎(24、大工、島崎嘉四郎の弟)があたる。弥十郎は、鬼石町や矢納村方面からの官憲の動きを見張るため、城峯山の「権現の尾根」の配置につく。
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「漆木ノ亀番」(金丸亀五郎)は、馬喰風を装って、峠を越え太田部村に出ていたので、群馬県警のこの方面における動きは、「警部巡査方半納へ向フ」の注進となって届いている。
この時、加藤嘉市(副総理加藤織平の兄)は、太田部村に出現の警官隊に対抗するため、皆野の本隊に応援を求める特使を出すが、その本隊は潰滅寸前の混乱で、結局応援は得られず。
警官隊出現の報を聞いた城峯山の見張組は、「道ヲドタドタ飛下り」、半納の横道という山の斜面の6戸程の集落の裏山に潜み、指図役の弥十郎は酉番に対し「警部・巡査ヲ誘ヒ、何処ナリト尾根ヲ下ラスベシ、左スレバ此方ヨリ鉄砲隊ヲ指図シ、其ノ場所ニ赴キ宜シキ様ニ打出ス」と言い含める。
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酉番:
本名は強矢徳次郎、48歳、家は日尾村の合角。幼名を「酉之助」といい、大工をしていたので「酉番」とか「合角ノ酉」と呼ばれる。
「顔ハ丸ク、色ハ白キ方、鼻ハ高ク、髯ハ少々アリ、ロハ並、目ハクリクリ致シ居り」(「石間村加藤栄造訊問調書」)。
自分の女房を寝取ったことがあるという男が自分の家に立寄ると、斧を持って追いかけ臀に斬りつけ、そのあげく自分の家に火をつけ、この男が火付けをしたと言いふらし、7年も訴訟を続けたという話題の持主で、「飛込サヘスルト、如何ナル悪事ニテモ為ス、中中曲者ノ軍師」とみられている。
彼は、2日午前5時頃、村役場から、「暴徒等上吉田村ノ塚越辺迄押寄せタルニ付、村役場へ詰ロ」の触れで、和田耕地の戸長役場に出ると、坂本宗作指揮の別動隊によって、既に役場は帳簿を焼かれ、脊戸の関口清三郎方では、.母屋の戸障子を表に持ち出して火をつけ、土蔵から時計や繭袋を持ち出し、時計は打毀し繭を焼いているところであった。
彼は、ここで困民党に加わり、小鹿野に向う途中塚越の民家で脇差1本を奪い、小鹿野町では前夜本隊が打毀した高利賃を再び打毀し、日暮近く大宮郷の妙見の森(秩父神社)に入り、ここで栄助の顔を見る。暫くの休憩後、秩父郡役所に行き、整列して総理・副総理の入所式に立ち会う。夕食後休憩してよいと言われ、大宮郷の中央にある高利賃の刀屋(稲葉貞助)の隣の家に入って「トロリトロリ」していると、深夜鉄砲の音で目を覚し「スハ討手ニ向ハレシ事」と早合点して裏口から逃げ出す。一晩中山中を走り、石間村の沢口で2人の女に呼び止められる。「逃ゲ通ス事モ六ケ敷カラン」と加藤織平の兄嘉市の組に入り、その夜は近くの実家で休み、この日は朝から地元の組に加る。
*
弥十郎から秘命を受けた「酉番」は、「堂ノ尾根」で警官隊の手前10間ばかりのところで、「御願ヒデ御座リマス」と声をかける。
「此地へ来イ」と呼ばれて近寄ると、「使ヒニ通ル人ヲ頼ミ度」というので、承知して近くの「横道」という、山の斜面の6軒ほどの部落の京蔵の家に警官隊を案内すると、警官がここでは「不都合」だというので、役場の筆生岩城福松の家へ案内し縁側に警官を腰かけさせる。
そこで、近所の婦人2人がお茶を出してもてなす。警官隊の隊長は峠に残留の警官を呼び寄せるため手紙を書き、それを婦人1人に持たせて使に出し、ついで中食として鶏1羽の料理を所望し、途中で捕え老人の縄を解いて手伝わせる。
「酉番」はかねて打ち合せ通り、その家の子供と共に薪を取りに行く風をして裏手に回る。
すると、これを合図に裏山に隠れていた弥十郎らが、一斉に鉄砲で警官隊を襲う。警官隊隊長柱野警部補は、6発を発射しながら福蔵宅前の崖下に向うところを狙い撃ちされ、投石でひるんだところを、石間村の高岸団作と加藤太次郎が斬り込んで顔を切り腹を突いて殺害。
*
警官隊の逃亡後、弥十郎は、「酉番」と新井伊十郎と共に警部の死体のそばの土に突き立ててあるサーベルを抜き、警部の腰の鞘を取ってそれに身を収める。
「酉番」が、弥十郎に、「御前ハ其刀ガ在レバ壱本ハ余ルニ付、自分ニ呉レヨ」と言うと、弥十郎は自分の腰の刀を「酉番」に渡す。
弥十郎は、警部の懐中を捜すと、手帳とその中に絵図面と10円60銭が見つかる。弥十郎は、「此金ハ大将ニ出シ、其褒美トシテ金五円貰受クルニ付、其時ハ一緒ニ酒ヲ飲モウ」と言う。
「酉番」は「刀ガ出来タル上ハ首ヲ切リ試シタシ」と言い、刀で切り始めるが、初めはよく切れず、「上ヨリモコスリ、下ヨリモコスリ」してようやく首を切断し、竹鎗に突き刺して堂の尾根へ持って行く。この時、太田部の方から大勢の警部巡査が来ると聞き、そこに首を捨てて逃げる。
*
この時の困民党の人数は、地元組に前日大淵村から派遣された別動隊の一部が加わり、40~60名程度とみられ、「石間村字漆木ノ剣術遣ヒ柿崎平角、字中郷新井伊十郎、字沢戸新井広吉、日野沢ノ鉄砲打ガ五、六人、藤倉村ノ鉄砲打ガ拾人斗、川原沢村ノ鉄砲打ガ二、三人、三山村ノ者ニテ弐人ガ刀ヲ差シ居タリ」と、かなりの人数が鉄砲を持っている。
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この戦いで困民党側は、石間村半納の城口定吉(55歳)が警官の短銃で右股貫通銃創を受け、石間村漆木の柿崎丑十郎は「頭ニ二ヶ所、掌ニ壱ヶ所、背ニ壱ヶ所ハ太刀傷、足部踝骨ノ上ニ弾丸傷壱ヶ所」を負う。
また、島崎弥十郎は、警部巡査にたち向ったのは「皆剣道ヲ心得タル者」であったと云う。石間村は、加藤繊平はじめ、上州自由党員小柏常次郎らによって、柔術が盛んであり、石間村の諏訪神社に現在もある甲源一刀流の献額には、加藤太次郎、城口定吉、柿崎丑十郎、高岸団作らこの時の戦士の名前がある。
*
一方の警官隊は隊長柱野安次郎警部補が殺され、巡査西川弥七郎・吉田彦逸2人が重傷(刀創と銃創)を負う。
吉田彦逸巡査の報告。
「太田部村ヲ経テ石間村へ出張シ、処々巡回ノ末同村筆生岩城福蔵方ニ於テ暫時休憩中、四日午後二時頃兇徒凡ソ四、五〇名、各銃器刀剣ヲ携へ、突然右福蔵宅裏山ヨリ襲来、連(シキ)リニ発砲又ハ石礫等ヲ抛チ掛ケ候ニ付、本職等之ニ応ジ発砲、防禦罷有候処、暴徒益々猖獗ニシテ其勢益々加ハリ、然ルニ同行ノ警官巡査西川弥七郎ヲ除クノ外悉ク見失ヒ候ニ付、其場ヲ引揚ントスルニ、兇徒己ニ四方ヲ囲ミ、益々発砲致スニヨリ、不得己西川巡査卜共ニ一時息ヲ休メン為メ、福蔵宅前面、空家ニ立入候処、暴徒益々集ヒ来り「何ンデモ此辺ニ巡査ガ居ル筈ナリ」と云ヒツツ、該家ニ踏込マントスル勢ヒニ付、西川巡査卜申合セ、同巡査ハ抜剣、本職ハ七連発馬上銃ヲ以テ、将サニ打出ントスル際、兇徒忽チ同家障子ヲ明ケ放ツニ斉シク、本職等両名ガ在ルヲ認メ、大声ニ鉄砲方々々と呼ビ、槍ヲ突キ人参ルニ付、一発ノ下ニ打斃シ、其虚ニ乗ジテ橡側ヨリ庭前へ駈ケ出シタル処、左ノ方ヨリ抜刀ヲ以テ進ミ来ルヲ、尚ホ一発其場ニ斃シ、夫ヨリ右ノ方ニアル暴徒三名槍ヲ以テ突掛ケ来りタルニ付、西川巡査共々之ヲ追駈ケ一名ヲ斃シ、尚ホ巨魁卜覚シキヲ(鉢金ヲ着ケ、義経袴ヲ穿チ、白布ヲ襷トシ、俗ニカツサイ袋ヲ着ケ、年三十四、五、大ナル方)追討セシ処、忽チ振返り、抜刀ニテ本職ノ頭部へ斬付ケ、帽子左方へ傷ケ、其太刀余リテ左手ニ傷ケタリ、此時本職弾丸尽キタルニ付(弾薬ハアリタレドモ玉込ニ暇アラズ)、銃ヲ抛ゲ付直ニ兇徒ニ組付、暴徒ハ組付キナガラ西川巡査ヲ傷付ケタリ、頬及ビ咽へ負傷シナガラ西川斬レト云ヒツツ組討中、同巡査背部へ二夕太刀斬付ケ、暴徒ノ力衰フルニ乗ジ、刀ヲ振ヒテ本職又背ヨリ肩へカケ一刀斬付ケ、(西川巡査モ尚ホ一刀腰部ヲ斬ル)、其場ニ斃ルルヲ認メツツ引揚ゲ申候、此際弾丸裂シク、遂ニ左手へカスリ創ヲ負ヒ、夫ヨリ刀ヲ杖テ退ク事二町余ニシテ警官十二、三名ノ遥ニ引揚ゲ行クヲ認メタルニ付呼返シ、巡査柴田庚吉外四名ノ扶助ヲ受ケ、午後九時頃漸ク鬼石町へ引揚ゲ(「巡査吉田彦逸始末書」)。
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2010年1月19日火曜日
明治17(1884)年11月4日(2) 甲大隊長新井周三郎重傷 困民党幹部に衝撃 困民党崩壊始まる
明治17(1884)年11月4日
*
・甲大隊長新井周三郎、長楽寺本営で青木与一巡査(1日吉田で捕えられ甲隊に属す)に斬られ頭部に重傷、村竹茂市らにより自村・西ノ入村明善寺に運ばれる。青木巡査は斬殺。坂本宗作を大隊長にして皆野に戻る。
田代・加藤ら幹部に大きな衝撃。これを契機に困民党の崩壊始まる。
*
4日早朝、新井周三郎は、官兵が國神を襲うと聞き、自ら手兵を率いてそこに向うが、官兵は見当らず(この官兵は、前夜ここに進出し、困民軍優勢を聞いて引き返した群馬・埼玉県警合同隊のことと思われる)。
新井周三郎らが國神で朝食中、皆野村の田代栄助から「皆野ニ退去スベシ」との命令が届き、長楽寺に引返す。
寺門前で部隊を整列させていると、日野沢方面を騎馬で偵察した甲隊の大隊長飯塚森蔵が、赤旗を振り回しながらこちらに向って来る。
「官軍ナリ、司令ノ任アル警部ナリ」という者があり、部隊は動揺。
この時、先に下吉田村戸長役場の戦いで捕虜となり、新井周三郎の書記として従っていた青木巡査が、突如刀を抜いて新井周三郎の頭部に斬りつけて重傷を負わせる。
また、これを助けようとした菅沼鍋吉(贅川村、竹細工職人、26歳)らも傷つけるが、周囲の反撃でその手に銃撃を受け、ひるんだところを、よってたかって斬殺される。
*
「四日午前十一時頃、大淵村ニテ巡査青木与市氏戦死ス」(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
*
新井周三郎は、
「彼ノ巡査ハ之ヲ官軍ノ来リシモノト思ヒ違ヒ、勢ヲ得タルト見へ、忽チ後ロヨリ自分へ斬り掛ケ、自分ハ其儘顛倒シタリシガ、自分ノ隊ノ者等数十人ニテ遂ニ右ノ巡査ヲ切殺シタルモノニ有之、自分ハ負傷ノ為メ一刀モ其巡査ヲ斬ル事出来ザリシナリ(「新井周三郎訊問調書」)と云う。
しかし、裁判言渡書には、周三郎は、「憤怒ニ堪へズ、重傷ヲ力メテ(青木巡査の)胸部ヲ刺シ」たとある
*
この後、周三郎は坂本宗作に後事を托し、大隊長の指揮旗を同人に渡す。
加藤織平・坂本宗作は、負傷した周三郎らを戸板に乗せて送り出し、部下を纏めて皆野村の本営に引き揚げるが、そこには既に田代栄助らの姿はない。
負傷した新井周三郎の看護に当ったのは、上日野沢村の村竹茂市(45)と男衾郡三品村の門松庄右衛門(53)。
茂市は荒川の栗谷瀬の渡し場の警備についているところで、周三郎負傷を聞き、15名程で駈けつけ周三郎を看護する。茂市らが周三郎を皆野村の本営角屋に運んだ時には、既に総理田代栄助らは逃亡しており、茂市はそこで信州転戦組に加わる。
その後の周三郎看護に当ったのは門松庄右衛門。庄右衛門は、この年9月、周三郎の勧誘で困民党運動に加わり、周三郎と共に奔走、蜂起後は火薬運搬方を勤める。庄右衛門は、周三郎を介抱し、美濃山(蓑山)に隠して逃亡。
*
菅沼鍋吉:
2日、「袴ヲ穿チ、陣笠ヲ冠り」荒川上流諸村の狩りだし隊に加る。
裁判言渡書には、「長楽寺門前ニテ衆列ヲ正シ、日野沢村ニ向ツテ出発セントスルニ方テ、其伍中ニ在ル青木与市ガ奮然刀ヲ握ッテ周三郎ニ斬り懸りタル際、被告進デ之ニ抗敵シ、為メニ右肩及ビ左頬其外両手ニ刃傷ヲ負ヒ現場ニ転倒」とあり、重傷のため周三郎と共に皆野の角屋に護送される。
その直後、幹部逃亡・潰乱状態の中で見捨てられ、翌5日、官兵の一斉進攻の時もそこに横臥したままであった。裁判の結果、軽懲役6年6ヶ月に処せられ服役中獄死。
*
田代栄助は、1日夜、小鹿野町で、捕虜の青木巡査の「首ヲ切り、火ノ中ニ入レテ仕舞へ」と新井周三郎に命じるが、周三郎は、「降参セシモノヲ殺スハ甚ダ宜シカラズ、且ツケ様ノモノヲ厚ク用ヒタレバ、此后官軍卜雖ドモ危キニ臨マバ皆降参シテ、当方ノ用ヲ為ス様ニナレバ、殺スハ甚ダ得策ニアラズ」と言い、自分の書記として使用していた(「小柏常次郎訊問調書」)。
*
幹部の受けた衝撃。
「コノ時ニ当ツテ大宮郷ノ人民背後ヲ襲フノ飛報アリ、マタ諸方ノ暴徒急ヲ告ゲ応援ヲ求ムルモ衆阻喪シテ之ニ備フル能ハズ。マタ嶋田清三郎来り大淵村ニ屯在スル甲隊中叛者アリテ大隊長新井周三郎外数名ヲ傷ツケ・・・凶報相ツイデ至リ到底事ノ成ラザルヲ悟リ・・・」(「田代栄助判決文」)。
*
「四日朝警官襲撃アリト聞キ大隊長新井周三郎隊伍ヲ整列スルニ臨ミ、伍中ノ一人即チ先日擒トナリタル巡査青木与一ガ突然奮闘、周三郎外二名ニ重傷ヲ負ハシメ大イニ紛擾シ、タメニ衆心疑懼ヲ生ジ暴勢ニハカニ挫折スルヲモツテ、倉皇部下ヲ収メテ皆野村ニ赴ムク・・・」(「加藤織平判決文」)。
*
□その後の周三郎。
一時は瀕死の重傷と伝えられるが、西ノ入村の妙善寺に運ばれる。
現場の秩父郡国神村から男衾郡西ノ入村へ行くには荒川を渡る必要があるが、4日、皆野の困民軍本営が解体し、秩父地方には新鋭村田銃の援護のもとに東京鎮台・高崎鎮台兵が到着し、警官隊は「第二の暴徒」(神官田中千弥の言葉)の如く検問捜索に残忍を極め、豪農商に組織された自警団も活躍し始め、容易ではない。
更に、荒川を渡った後も、厳しい検問のある定峰峠か粥仁田峠あるいは釜伏峠のいずれかを越えねばならず、これもまた至難のこと。11月9日夜、村民の密告により逮捕。一晩中歩かされ、10日寄居警察署に留置。夜、熊谷監獄支署に移され13日より取調べ。
*
13日の取調べ。
「問 甲乙二部ノ隊長ハ何人ナルカ
答 存ゼズ
問 コレニ覚アルナラン(此時証処物件トシテ押収シタル木綿白旗〔甲ノ字ノ記載アルモノ〕ヲ垂示ス
答 更ニ覚へ無之候
問 汝等ガ各所ニ乱入シテ或ハ官舎ヲ破壊シ、或ハ民屋ニ放火スル等ノ所為ヲ為セシハ如何ナル目的カアル
答 何モ目的トテハ無之、早ク申セハ当時気違ヒ居リシナラン
問 十月三十一日金時村永保社ニ闖入シテ地券又ハ書類ヲ焼棄テ、尚ホ金円ヲ奪ヒ取リタル事アルへシ
答 左様ノ覚無之候」(「新井周三郎訊問調書」)。
*
翌14日の第2回訊問。加藤織平も既に逮捕され事実を陳述していると追及され、「是ヨリ真実ヲ申上ベシ」と、困民党参加の動機から、負傷までの経過を述べ、最後に、
「問 汝ハ此ノ如キ暴挙ヲナシ、果シテ何等ノ事ヲ為シ課(わりあて)セル考へナリシヤ」との問に、
「答 自分ハ大総督ニデモナル積リナリシ
問 大総督トハ如何
答 日本陸軍ノ大総督ヲ云フナリ
問 汝等ノ境界ヲ出デ、能ク我国ノ大総督トナリ得ル事アランヤ
答(黙シテ語ラズ)」(「新井周三郎訊問詞書」)、と答える。
*
○新井周三郎:
男衾郡西ノ入村、資産家の次男。妙善寺小学校を優秀な成績で卒業。
明治14年上京(18)、本郷真砂町の切偲塾に入り雨宮春譚に和漢洋を学ぶ。また春譚の剣道道場で道を修める。
後、故郷に帰り鬼石(浄法寺)小学校教員となる。
「初メ秩父郡ノ村民等借金ヲナシヲル者往々コレアリ、コノ不景気ニ際シ頗ル困難ヲキハメ、債主ニ種々返済延期方等頼談致シタルモ承諾致ス者優カニ五六名ニスギズソノ他ハコレヲ承諾セザルニヨリ、村民等ハ益々困窮ニ迫リタリ。元来自分ノ借銭アルニ非ザレドモ、村民ノ困窮ヲ目ノアタリ傍観スルニ忍ビズ・・・」。
当時の末端教員は反権力的にならざるを得ない環境。師範学校卒1等訓導の俸給30円、5等は13円、1級訓導補10円、5級訓導補2円50銭。末端教員は労働力となっている不就学児童の駆出し(就学督促)により勤務評定される。
*
蜂起に参加した教員:
①新井周三郎、
②飯塚森蔵(群馬県南甘楽郡平原村学校、8月山林集会の段階から参加、大隊長、事件後行方不明)、
③引間元吉(椋宮小学校の分校・上日野沢学校授業生、金屋村の戦闘で負傷)、
④天沼要(23、皆谷村三益学校長、3日坂本村に進出した警官隊の不当に抗議して解職)。
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・甲大隊長新井周三郎、長楽寺本営で青木与一巡査(1日吉田で捕えられ甲隊に属す)に斬られ頭部に重傷、村竹茂市らにより自村・西ノ入村明善寺に運ばれる。青木巡査は斬殺。坂本宗作を大隊長にして皆野に戻る。
田代・加藤ら幹部に大きな衝撃。これを契機に困民党の崩壊始まる。
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4日早朝、新井周三郎は、官兵が國神を襲うと聞き、自ら手兵を率いてそこに向うが、官兵は見当らず(この官兵は、前夜ここに進出し、困民軍優勢を聞いて引き返した群馬・埼玉県警合同隊のことと思われる)。
新井周三郎らが國神で朝食中、皆野村の田代栄助から「皆野ニ退去スベシ」との命令が届き、長楽寺に引返す。
寺門前で部隊を整列させていると、日野沢方面を騎馬で偵察した甲隊の大隊長飯塚森蔵が、赤旗を振り回しながらこちらに向って来る。
「官軍ナリ、司令ノ任アル警部ナリ」という者があり、部隊は動揺。
この時、先に下吉田村戸長役場の戦いで捕虜となり、新井周三郎の書記として従っていた青木巡査が、突如刀を抜いて新井周三郎の頭部に斬りつけて重傷を負わせる。
また、これを助けようとした菅沼鍋吉(贅川村、竹細工職人、26歳)らも傷つけるが、周囲の反撃でその手に銃撃を受け、ひるんだところを、よってたかって斬殺される。
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「四日午前十一時頃、大淵村ニテ巡査青木与市氏戦死ス」(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
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新井周三郎は、
「彼ノ巡査ハ之ヲ官軍ノ来リシモノト思ヒ違ヒ、勢ヲ得タルト見へ、忽チ後ロヨリ自分へ斬り掛ケ、自分ハ其儘顛倒シタリシガ、自分ノ隊ノ者等数十人ニテ遂ニ右ノ巡査ヲ切殺シタルモノニ有之、自分ハ負傷ノ為メ一刀モ其巡査ヲ斬ル事出来ザリシナリ(「新井周三郎訊問調書」)と云う。
しかし、裁判言渡書には、周三郎は、「憤怒ニ堪へズ、重傷ヲ力メテ(青木巡査の)胸部ヲ刺シ」たとある
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この後、周三郎は坂本宗作に後事を托し、大隊長の指揮旗を同人に渡す。
加藤織平・坂本宗作は、負傷した周三郎らを戸板に乗せて送り出し、部下を纏めて皆野村の本営に引き揚げるが、そこには既に田代栄助らの姿はない。
負傷した新井周三郎の看護に当ったのは、上日野沢村の村竹茂市(45)と男衾郡三品村の門松庄右衛門(53)。
茂市は荒川の栗谷瀬の渡し場の警備についているところで、周三郎負傷を聞き、15名程で駈けつけ周三郎を看護する。茂市らが周三郎を皆野村の本営角屋に運んだ時には、既に総理田代栄助らは逃亡しており、茂市はそこで信州転戦組に加わる。
その後の周三郎看護に当ったのは門松庄右衛門。庄右衛門は、この年9月、周三郎の勧誘で困民党運動に加わり、周三郎と共に奔走、蜂起後は火薬運搬方を勤める。庄右衛門は、周三郎を介抱し、美濃山(蓑山)に隠して逃亡。
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菅沼鍋吉:
2日、「袴ヲ穿チ、陣笠ヲ冠り」荒川上流諸村の狩りだし隊に加る。
裁判言渡書には、「長楽寺門前ニテ衆列ヲ正シ、日野沢村ニ向ツテ出発セントスルニ方テ、其伍中ニ在ル青木与市ガ奮然刀ヲ握ッテ周三郎ニ斬り懸りタル際、被告進デ之ニ抗敵シ、為メニ右肩及ビ左頬其外両手ニ刃傷ヲ負ヒ現場ニ転倒」とあり、重傷のため周三郎と共に皆野の角屋に護送される。
その直後、幹部逃亡・潰乱状態の中で見捨てられ、翌5日、官兵の一斉進攻の時もそこに横臥したままであった。裁判の結果、軽懲役6年6ヶ月に処せられ服役中獄死。
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田代栄助は、1日夜、小鹿野町で、捕虜の青木巡査の「首ヲ切り、火ノ中ニ入レテ仕舞へ」と新井周三郎に命じるが、周三郎は、「降参セシモノヲ殺スハ甚ダ宜シカラズ、且ツケ様ノモノヲ厚ク用ヒタレバ、此后官軍卜雖ドモ危キニ臨マバ皆降参シテ、当方ノ用ヲ為ス様ニナレバ、殺スハ甚ダ得策ニアラズ」と言い、自分の書記として使用していた(「小柏常次郎訊問調書」)。
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幹部の受けた衝撃。
「コノ時ニ当ツテ大宮郷ノ人民背後ヲ襲フノ飛報アリ、マタ諸方ノ暴徒急ヲ告ゲ応援ヲ求ムルモ衆阻喪シテ之ニ備フル能ハズ。マタ嶋田清三郎来り大淵村ニ屯在スル甲隊中叛者アリテ大隊長新井周三郎外数名ヲ傷ツケ・・・凶報相ツイデ至リ到底事ノ成ラザルヲ悟リ・・・」(「田代栄助判決文」)。
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「四日朝警官襲撃アリト聞キ大隊長新井周三郎隊伍ヲ整列スルニ臨ミ、伍中ノ一人即チ先日擒トナリタル巡査青木与一ガ突然奮闘、周三郎外二名ニ重傷ヲ負ハシメ大イニ紛擾シ、タメニ衆心疑懼ヲ生ジ暴勢ニハカニ挫折スルヲモツテ、倉皇部下ヲ収メテ皆野村ニ赴ムク・・・」(「加藤織平判決文」)。
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□その後の周三郎。
一時は瀕死の重傷と伝えられるが、西ノ入村の妙善寺に運ばれる。
現場の秩父郡国神村から男衾郡西ノ入村へ行くには荒川を渡る必要があるが、4日、皆野の困民軍本営が解体し、秩父地方には新鋭村田銃の援護のもとに東京鎮台・高崎鎮台兵が到着し、警官隊は「第二の暴徒」(神官田中千弥の言葉)の如く検問捜索に残忍を極め、豪農商に組織された自警団も活躍し始め、容易ではない。
更に、荒川を渡った後も、厳しい検問のある定峰峠か粥仁田峠あるいは釜伏峠のいずれかを越えねばならず、これもまた至難のこと。11月9日夜、村民の密告により逮捕。一晩中歩かされ、10日寄居警察署に留置。夜、熊谷監獄支署に移され13日より取調べ。
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13日の取調べ。
「問 甲乙二部ノ隊長ハ何人ナルカ
答 存ゼズ
問 コレニ覚アルナラン(此時証処物件トシテ押収シタル木綿白旗〔甲ノ字ノ記載アルモノ〕ヲ垂示ス
答 更ニ覚へ無之候
問 汝等ガ各所ニ乱入シテ或ハ官舎ヲ破壊シ、或ハ民屋ニ放火スル等ノ所為ヲ為セシハ如何ナル目的カアル
答 何モ目的トテハ無之、早ク申セハ当時気違ヒ居リシナラン
問 十月三十一日金時村永保社ニ闖入シテ地券又ハ書類ヲ焼棄テ、尚ホ金円ヲ奪ヒ取リタル事アルへシ
答 左様ノ覚無之候」(「新井周三郎訊問調書」)。
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翌14日の第2回訊問。加藤織平も既に逮捕され事実を陳述していると追及され、「是ヨリ真実ヲ申上ベシ」と、困民党参加の動機から、負傷までの経過を述べ、最後に、
「問 汝ハ此ノ如キ暴挙ヲナシ、果シテ何等ノ事ヲ為シ課(わりあて)セル考へナリシヤ」との問に、
「答 自分ハ大総督ニデモナル積リナリシ
問 大総督トハ如何
答 日本陸軍ノ大総督ヲ云フナリ
問 汝等ノ境界ヲ出デ、能ク我国ノ大総督トナリ得ル事アランヤ
答(黙シテ語ラズ)」(「新井周三郎訊問詞書」)、と答える。
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○新井周三郎:
男衾郡西ノ入村、資産家の次男。妙善寺小学校を優秀な成績で卒業。
明治14年上京(18)、本郷真砂町の切偲塾に入り雨宮春譚に和漢洋を学ぶ。また春譚の剣道道場で道を修める。
後、故郷に帰り鬼石(浄法寺)小学校教員となる。
「初メ秩父郡ノ村民等借金ヲナシヲル者往々コレアリ、コノ不景気ニ際シ頗ル困難ヲキハメ、債主ニ種々返済延期方等頼談致シタルモ承諾致ス者優カニ五六名ニスギズソノ他ハコレヲ承諾セザルニヨリ、村民等ハ益々困窮ニ迫リタリ。元来自分ノ借銭アルニ非ザレドモ、村民ノ困窮ヲ目ノアタリ傍観スルニ忍ビズ・・・」。
当時の末端教員は反権力的にならざるを得ない環境。師範学校卒1等訓導の俸給30円、5等は13円、1級訓導補10円、5級訓導補2円50銭。末端教員は労働力となっている不就学児童の駆出し(就学督促)により勤務評定される。
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蜂起に参加した教員:
①新井周三郎、
②飯塚森蔵(群馬県南甘楽郡平原村学校、8月山林集会の段階から参加、大隊長、事件後行方不明)、
③引間元吉(椋宮小学校の分校・上日野沢学校授業生、金屋村の戦闘で負傷)、
④天沼要(23、皆谷村三益学校長、3日坂本村に進出した警官隊の不当に抗議して解職)。
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2010年1月9日土曜日
明治17(1884)年11月4日 群馬県警の進出 栄助の精神的虚脱 自衛始める大宮郷
明治17(1884)年11月4日
*
11月4日
・朝鮮、朴泳孝・洪英植・金玉均・徐光範ら開明派、日本公使館で島村書記官と密談。
実力行使詳細(日、場所、暗殺対象など)決定。
*
11月4日
・群馬県警の進出。
午前1時頃、群馬県警察山形警部は、警部補2・巡査40名を率い、鬼石町~杉ノ峠~埼玉県警の太駄見張所に進出。
*
山県警部は、埼玉県警側に
「我輩ハ皆野村屯集ノ賊ヲ砲撃、接戦セント計画ス、共ニ進撃スルハ如何」
と申し入れると、浜田警部補(八幡山分署長)は、
「縦令警郡長ノ命令ナキモ、戦地ニ於テ進退スルハ我職権ナリ、何ゾ命令ヲ俟ツノ遑(イトマ)アンヤ、群馬県警ノ警官我卜力ヲ戮(アワ)セ、我県内ノ賊ヲ掃攘セント云、是進ムベキノ好機ナリ」
と、応じようとする。
しかし、既に埼玉県側では、5日早朝大宮郷一斉進撃が決っており、浜田警部補は群馬県警の申し入れを謝絶。群馬県警のみでの進撃となる。
その後、哨兵巡査から「賊已ニ金沢村出牛マデ来り、当所ヲ襲フ形勢アリ」の急報が入ると、埼玉県警は態度を一変し群馬県警を追い、出牛から合同して金崎村国神の荒川堤畔に進出。
途中、「道ニシテ賊ノ間諜二人ヲ捕フ、其言ニ曰ク「皆野ノ暴徒ハ約三千人アリ、尚且大渕ニモ屯集セリト」」と判明し、両県警察隊は、衆寡敵せずと判断し、太駄村に引きあげ。
群馬隊は自県に引きあげ、埼玉隊も太駄の見張所を元田村に後退させる(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
*
・朝、久島村聯合戸長肥土三郎平(42)、大淵村の長楽寺前で困民軍甲隊に捕われ、皆野村の本営に連行される。
*
秩父郡久長村を中心とする「久島村聯合」は、蜂起根源の阿熊村・上日野沢村・野巻村を管轄地とし、1日の久島村は激しい人足狩りだし、武器徴発を受ける。
「十一月一日正午頃、暴徒等血に染ミタル刀槍又ハ銃砲等ヲ携へ、民家ニ乱入シ、男子タル者ハ兇器ヲ持シテ悉ク出ヅベシト脅迫シ、又同日午後七時頃凡ソ七十名許リ、抜刀又ハ銃砲ニ切火縄ヲ付シテ、戸長ノ宅ヲ始メ近隣ノ民家ニ侵入シ、男子ヲ捜索シテ、必ズ山間等ニ潜伏シ居ルベシ、因ッテ放火セント申威シ、村内ヲ横行セシ事数回ニシテ、銃砲等ヲ掠奪シ去レリ(「秩父暴動被害諸村概況久長村」)とある。
聯合戸長肥土三郎平は、蜂起根源地が自分の管轄であることに責任を感じ、自ら県庁に暴動の実況を報告するため浦和に向うが、途中の児玉町で伊藤警部(本庄警察署長)に会ったので、これに状況を報告して引き返途上での出来事。
皆野では田代栄助が、「汝等が聯合内ヨリ加盟ヲ出サザルハ不屈至極ナリ、近来国政紊乱、四民塗炭ニ苦ム、依テ貧民ノ救助ニ努メツツアルニ拘ラズ、汝等ハ微職ニ甘ジ、却テ我輩ニ反対スルハ愈々其罪大ナリ、誅伐スルノ外ナシ」と問詰。
肥土は、「此如キ壮挙ナルヲ知ラザルガ故ニ、生等ニ加盟セザル而己ナラズ、村人ヲ制止セリ、今后努メテ賛同スベシ」と巧言を用いるが、栄助は肥土を抑留して人質とする。
その後、午後には栄助らが逃亡し、肥土は隙を見て逃げ帰る(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
*
・朝、田代栄助、菊池貫平に迎えられ、大野原から皆野の本陣に出向く。胸痛のため「栄屋」という安宿で横になる。
午前10時頃、柴岡熊吉・高岸善吉・落合寅市・小柏常次郎ら12~13人が来て、親鼻の渡しでの憲兵隊撃退の報を伝える。
*
「昨日総理ノ出発後、荒川ヲ隔テ憲兵隊卜聊(イササカ)戦闘ヲ為シタル処、憲兵隊ハ本野上村マデ引揚ゲタリ、同村ニハ道々兵士繰込ミタル様子ニ有之、且矢納峠ニモ兵隊繰込ミタル模様ニモ有之ニ付、是非本陣角屋マデ来り呉レ」と言うので、栄助は「角屋」に戻る。
*
・田代栄助、本陣「角屋」に移り作戦を練る。
憲兵・警官隊による包囲・封鎖が徐々に進み情勢は悲観的。
*
「本陣ニ至り兵ノ配置ヲ尋ネタル処、皆野村渡船場近傍ハ銃砲二挺、其他竹槍ヲ携ヘタル者合セテ十二、三人ニテ固メ居タルモ、菊池貫平、井出為吉、堀口幸助等ハ何レへカ遁逃所在詳ナラズ、竹槍ヲ携へタル者ハ大勢アリト雖モ、恃(タノ)ムベキ鉄砲方ハ僅力七、八人ニテ久ク難支(ササエガタキ)ヲ歎キ居ル所へ、只今井戸村・藤谷淵村ニ於テ両三人ノ敵ヲ見受ケタリ、用心可致トノ注進アリ、尋(ツイ)デ坂本村ヨリノ注進ニハ、憲兵及ビ巡査百五十人許り繰込ミタリト、為メニ軍中大二勇気砕ケタリ、時ニ三男八作来り告テ云フ、大宮郷モ昨夜来大ニ味方ヲ失ヒタル故用心専一ナリト、言終ラザルニ大淵村ノ報ニハ、赤旗ヲ樹テ警部巡査四十人許り繰込ミ来ル、為ニ降ル者多シト、斯ク八方敵ヲ受ケタル上ハ討死スルノ外ナシ、併シ一時寺尾村へ引揚ゲ、山中ニ潜ミ、運命ヲ俟ント述べタレバ、何レモ同意ニ付」(「田代栄助訊問調書」)と言う。
*
栄助が兵の配置を尋ねる。皆野の渡船場には銃2挺・竹槍12~13人、本陣の周りには竹槍隊は多いが銃砲隊は僅か7~8人、と頼りない限り。
整備された県警・軍隊の作戦配置は、郡内部に向けて無言の圧力をかけ、大宮の自衛隊も背後からの圧力となる。
そのうち、寄居口から憲兵・巡査隊150が侵入との報が入り、外秩父の坂本村からは来援を求める使者がくる。
*
(この後)
栄助が皆野防備を固める為に呼ぼうとした甲隊では、長楽寺前で出発まぎわに周三郎が負傷。
この日、栄助3男八作が父を訪ねて来て、しばらく親子の対話が続く。この倅の訪問は、栄助の精神的虚脱状態を一層深める。
状況は悲観的で、戦術的には包囲されつつあるが、主軍はまだ一戦も交えていない。
*
・東京鎮台第3大隊第3中隊、児玉着。この夜、困民軍と戦闘。
*
・自衛を始める大宮郷。
この日午前7時、上影森からの使者2人が大宮郷の重立ちに対し、大宮郷の暴徒に対する弱腰を批判。
大宮郷の重立ちは、これを受けて各町内に相談すると、「暴徒ノ防禦」に異議なく、「先ヅ暴徒ノ攻メ寄セザルウチ、此方ヨリ進撃スベシ」ということになる。
この旨を使者に返答すると、使者は「然ラバ其加勢ニ入方ヨリ鉄砲方ヲ差向クベシ」と言って帰って行く。
この頃になると大宮郷の住民は、下の方から上ってきた困民軍兵士を捕えるようになる。
午前10時、大宮郷は、改めて上・下影森村や浦山など上方の諸村に鉄砲方の出動を要請、諸村はこれを快諾。
正午頃、上方から鉄砲方が駆け付け、大宮郷の者達と合同し自衛隊を組織する。
*
山狩りをしながら、
午後4時、大野原村蓼沼の構瀬川べりに進み布陣し、近くの山林に潜伏する残徒6~7名を捕える。
午後5時頃、応援の鉄砲方は、兵食が届かないのを怒って自村へ帰り始め、夜に入ると自衛隊主力も大宮郷に後退し、帰宅する者が多く、自然解散となる。
*
*
「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
*
*
11月4日
・朝鮮、朴泳孝・洪英植・金玉均・徐光範ら開明派、日本公使館で島村書記官と密談。
実力行使詳細(日、場所、暗殺対象など)決定。
*
11月4日
・群馬県警の進出。
午前1時頃、群馬県警察山形警部は、警部補2・巡査40名を率い、鬼石町~杉ノ峠~埼玉県警の太駄見張所に進出。
*
山県警部は、埼玉県警側に
「我輩ハ皆野村屯集ノ賊ヲ砲撃、接戦セント計画ス、共ニ進撃スルハ如何」
と申し入れると、浜田警部補(八幡山分署長)は、
「縦令警郡長ノ命令ナキモ、戦地ニ於テ進退スルハ我職権ナリ、何ゾ命令ヲ俟ツノ遑(イトマ)アンヤ、群馬県警ノ警官我卜力ヲ戮(アワ)セ、我県内ノ賊ヲ掃攘セント云、是進ムベキノ好機ナリ」
と、応じようとする。
しかし、既に埼玉県側では、5日早朝大宮郷一斉進撃が決っており、浜田警部補は群馬県警の申し入れを謝絶。群馬県警のみでの進撃となる。
その後、哨兵巡査から「賊已ニ金沢村出牛マデ来り、当所ヲ襲フ形勢アリ」の急報が入ると、埼玉県警は態度を一変し群馬県警を追い、出牛から合同して金崎村国神の荒川堤畔に進出。
途中、「道ニシテ賊ノ間諜二人ヲ捕フ、其言ニ曰ク「皆野ノ暴徒ハ約三千人アリ、尚且大渕ニモ屯集セリト」」と判明し、両県警察隊は、衆寡敵せずと判断し、太駄村に引きあげ。
群馬隊は自県に引きあげ、埼玉隊も太駄の見張所を元田村に後退させる(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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・朝、久島村聯合戸長肥土三郎平(42)、大淵村の長楽寺前で困民軍甲隊に捕われ、皆野村の本営に連行される。
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秩父郡久長村を中心とする「久島村聯合」は、蜂起根源の阿熊村・上日野沢村・野巻村を管轄地とし、1日の久島村は激しい人足狩りだし、武器徴発を受ける。
「十一月一日正午頃、暴徒等血に染ミタル刀槍又ハ銃砲等ヲ携へ、民家ニ乱入シ、男子タル者ハ兇器ヲ持シテ悉ク出ヅベシト脅迫シ、又同日午後七時頃凡ソ七十名許リ、抜刀又ハ銃砲ニ切火縄ヲ付シテ、戸長ノ宅ヲ始メ近隣ノ民家ニ侵入シ、男子ヲ捜索シテ、必ズ山間等ニ潜伏シ居ルベシ、因ッテ放火セント申威シ、村内ヲ横行セシ事数回ニシテ、銃砲等ヲ掠奪シ去レリ(「秩父暴動被害諸村概況久長村」)とある。
聯合戸長肥土三郎平は、蜂起根源地が自分の管轄であることに責任を感じ、自ら県庁に暴動の実況を報告するため浦和に向うが、途中の児玉町で伊藤警部(本庄警察署長)に会ったので、これに状況を報告して引き返途上での出来事。
皆野では田代栄助が、「汝等が聯合内ヨリ加盟ヲ出サザルハ不屈至極ナリ、近来国政紊乱、四民塗炭ニ苦ム、依テ貧民ノ救助ニ努メツツアルニ拘ラズ、汝等ハ微職ニ甘ジ、却テ我輩ニ反対スルハ愈々其罪大ナリ、誅伐スルノ外ナシ」と問詰。
肥土は、「此如キ壮挙ナルヲ知ラザルガ故ニ、生等ニ加盟セザル而己ナラズ、村人ヲ制止セリ、今后努メテ賛同スベシ」と巧言を用いるが、栄助は肥土を抑留して人質とする。
その後、午後には栄助らが逃亡し、肥土は隙を見て逃げ帰る(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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・朝、田代栄助、菊池貫平に迎えられ、大野原から皆野の本陣に出向く。胸痛のため「栄屋」という安宿で横になる。
午前10時頃、柴岡熊吉・高岸善吉・落合寅市・小柏常次郎ら12~13人が来て、親鼻の渡しでの憲兵隊撃退の報を伝える。
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「昨日総理ノ出発後、荒川ヲ隔テ憲兵隊卜聊(イササカ)戦闘ヲ為シタル処、憲兵隊ハ本野上村マデ引揚ゲタリ、同村ニハ道々兵士繰込ミタル様子ニ有之、且矢納峠ニモ兵隊繰込ミタル模様ニモ有之ニ付、是非本陣角屋マデ来り呉レ」と言うので、栄助は「角屋」に戻る。
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・田代栄助、本陣「角屋」に移り作戦を練る。
憲兵・警官隊による包囲・封鎖が徐々に進み情勢は悲観的。
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「本陣ニ至り兵ノ配置ヲ尋ネタル処、皆野村渡船場近傍ハ銃砲二挺、其他竹槍ヲ携ヘタル者合セテ十二、三人ニテ固メ居タルモ、菊池貫平、井出為吉、堀口幸助等ハ何レへカ遁逃所在詳ナラズ、竹槍ヲ携へタル者ハ大勢アリト雖モ、恃(タノ)ムベキ鉄砲方ハ僅力七、八人ニテ久ク難支(ササエガタキ)ヲ歎キ居ル所へ、只今井戸村・藤谷淵村ニ於テ両三人ノ敵ヲ見受ケタリ、用心可致トノ注進アリ、尋(ツイ)デ坂本村ヨリノ注進ニハ、憲兵及ビ巡査百五十人許り繰込ミタリト、為メニ軍中大二勇気砕ケタリ、時ニ三男八作来り告テ云フ、大宮郷モ昨夜来大ニ味方ヲ失ヒタル故用心専一ナリト、言終ラザルニ大淵村ノ報ニハ、赤旗ヲ樹テ警部巡査四十人許り繰込ミ来ル、為ニ降ル者多シト、斯ク八方敵ヲ受ケタル上ハ討死スルノ外ナシ、併シ一時寺尾村へ引揚ゲ、山中ニ潜ミ、運命ヲ俟ント述べタレバ、何レモ同意ニ付」(「田代栄助訊問調書」)と言う。
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栄助が兵の配置を尋ねる。皆野の渡船場には銃2挺・竹槍12~13人、本陣の周りには竹槍隊は多いが銃砲隊は僅か7~8人、と頼りない限り。
整備された県警・軍隊の作戦配置は、郡内部に向けて無言の圧力をかけ、大宮の自衛隊も背後からの圧力となる。
そのうち、寄居口から憲兵・巡査隊150が侵入との報が入り、外秩父の坂本村からは来援を求める使者がくる。
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(この後)
栄助が皆野防備を固める為に呼ぼうとした甲隊では、長楽寺前で出発まぎわに周三郎が負傷。
この日、栄助3男八作が父を訪ねて来て、しばらく親子の対話が続く。この倅の訪問は、栄助の精神的虚脱状態を一層深める。
状況は悲観的で、戦術的には包囲されつつあるが、主軍はまだ一戦も交えていない。
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・東京鎮台第3大隊第3中隊、児玉着。この夜、困民軍と戦闘。
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・自衛を始める大宮郷。
この日午前7時、上影森からの使者2人が大宮郷の重立ちに対し、大宮郷の暴徒に対する弱腰を批判。
大宮郷の重立ちは、これを受けて各町内に相談すると、「暴徒ノ防禦」に異議なく、「先ヅ暴徒ノ攻メ寄セザルウチ、此方ヨリ進撃スベシ」ということになる。
この旨を使者に返答すると、使者は「然ラバ其加勢ニ入方ヨリ鉄砲方ヲ差向クベシ」と言って帰って行く。
この頃になると大宮郷の住民は、下の方から上ってきた困民軍兵士を捕えるようになる。
午前10時、大宮郷は、改めて上・下影森村や浦山など上方の諸村に鉄砲方の出動を要請、諸村はこれを快諾。
正午頃、上方から鉄砲方が駆け付け、大宮郷の者達と合同し自衛隊を組織する。
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山狩りをしながら、
午後4時、大野原村蓼沼の構瀬川べりに進み布陣し、近くの山林に潜伏する残徒6~7名を捕える。
午後5時頃、応援の鉄砲方は、兵食が届かないのを怒って自村へ帰り始め、夜に入ると自衛隊主力も大宮郷に後退し、帰宅する者が多く、自然解散となる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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2010年1月3日日曜日
明治17(1884)年11月3日(3) 栄助後退 宮川寅五郎捕縛 大宮郷、自衛を始める 天長節祝賀会、鹿鳴館夜会
明治17(1884)年11月3日(3)
*
・憲兵隊に随行した兵事課長2等属村田譲吉、巨魁は大宮郷田代栄助らであるなど概略を報告。
*
「三日、隈元少尉ノ隊ニ尾行シ、糧食ヲ連送シテ本野上ニ至り、警察分署ニ就キ賊ノ景況ヲ問ハントスルニ、空署ニシテ一人モ在ルヲ見ズ、夫ヨリ戸長役場二至り
・・・偶秩父郡大宮郷ノ隣村大野原村聯合戸長富田左平治、役場ノ書類ヲ携へ乱ヲ避ケ来ルニ会ス 同人ハ昨二日賊ノ一群小鹿野峠(小鹿坂峠)ヨリ大宮郷ニ進入スルヲ目撃セシ由、其他賊魁田代栄助等ノ挙動ヲ詳ニスルヲ得タリ(「兵事課長二等属村田譲吉出張経歴書」)。
*
・午後3時、田代栄助後退。
栄助は、持病の胸痛を発し、常次郎・熊吉ら数名と大野原に戻り民家で静養。
*
栄助は、後退する際も、兵の配備に気を使う。
「栄助ハ自分外十二名程ヲ連レ、秩父郡黒谷村ノ橋ニ至リ、ソコヲ防戦ノ地卜定メ、甲隊(乙隊の誤リカ)破ルレバ此地ヲ防グ事トナシ、栄助ノ子分姓名知レザル横瀬村辺ノ者ガ人夫八名ヲ引連レ、花火筒ヲ卓ニ乗せ挽キ来り、橋ノ真向ヒニ備へタリ、此破烈丸十一程持来りタリト云ヘリ、
茲ニ於テ同村ノ者及ビ皆野・黒谷辺ノモノガ集り来り、総勢二百名程ニナリタリ、夫ヨリ三ヶ所ニ見張リヲ十人程ヅゝ出シ、自分ヲ其場ニ残シ、栄助ハ夫ヨリ壱丁程大宮ノ方寄リノ人家ニ至リ休息セリ(「小柏常次郎訊問調書」)。
*
また、山田村の撃剣家が指揮する140名が助力に駈けつけて来る。
「自分一人ニテ栄助ノ所ニ至り、手配ノ模様等噺シ居ルトキ、大宮郷ノ方ヨリ鯨波ヲ揚ゲ釆ルモノアリ、
茲ニ於テ栄助ガ自分ニ云フニ、アレハ味方デアロウカラ、御前ガ行ツテ皆野ニヤラズ、茲ニ留メテ夕飯デモ与へ呉レロトノ頼ミニ付、自分往来ニ出向キタルニ、秩父郡山田村撃剣家加藤某ガ先生トナリ、両三人帯刀、跡ハ残ラズ竹槍ヲ持チ、総勢六十三名、引続キ八十五名ガ来リシ故、加藤ニ面会シ、夕飯ヲ与へ、一同ハ近傍ノ民家へ宿泊セシメタリ、此時己ニ一番鶏(四日朝)トナリタリ(「小柏常次郎訊問調書」 改行を施す)。
*
栄助後退後も、参謀長菊池貫平、小隊長高岸善吉、大隊長落合寅市らの指揮により、活溌な動きは継続。
皆野本隊の数百人は荒川を越えて大淵村に押し出し、金穀を奪って皆野に運び、また、児玉口警備のため数百人を下日野沢村に配備。
*
・午後5時、小笠原憲兵大尉は内田憲兵中尉指揮の1個小隊とともに上尾停車場で下車し、その夜のうちに川越町に進出。
午後6時10分、影山憲兵少尉指揮の1個小隊、熊谷停車場で下車、右半隊は松山町に向い、左半隊は停車場前の小松屋旅館を営所として待機。
*
熊谷に待機の隊は児玉方面進出を予定していたが、この日午後、親鼻の銃撃戦で憲兵第1陣が敗退した為、吉田県令は急拠寄居に進出させることにし、午後9時この旨を伝える。
午後11時、午前零時すぎ、午前2時の3回に分乗で熊谷を出発し、午前4時40分までに全員寄居に進出。同時に、松山の右半隊も寄居に移動。
*
・午後7時、宮川寅五郎捕縛。
寅五郎は、前日襲った上田野村高利貸三上重左衛門より証書類を取上げるべく向う。大宮郷からの伝令で本陣の皆野移動と帰還命令が届くや、周囲が寅五郎に背き、戸長三上薗次らに捕縛。14日の横瀬村豪農襲撃の罪で極刑15年判決、北海道樺戸監獄の送致。明治31年大赦出獄(53)。身元引受人なく数ヶ月監獄に滞留。
*
○宮川寅五郎(40):
「静岡県遠江国浜松出生/平民 日稼業 当時無籍」。
「被告ハ明治十七年九月以降、埼玉県武蔵国秩父郡上吉田村石間村ニ流寓中、明治十七年十月下旬田代栄助、加藤織平、高岸善吉等ガ世間高利貸ノ無情ニシテ窮民ノ困難ニ陥ルヲ救ハントテ秩父郡ニ於テ暴動ヲ企チタルコトヲ聞知シ大ニ感慨ヲ惹起シ、且ツハ織平等ノ勧メニ依リ共二事ヲ為サンコトヲ決シ・・・」。
蜂起の際は「軍用金徴収方」。
小鹿野町襲撃後、高岸善吉・犬木寿作等と三山村に行き、ここで隊を2分し、寅五郎は犬木寿作と共に、薄村戸長役場に押しかけ「村吏ヲ斬殺ス」と脅かして村民募集と炊きだしを迫る。
2日朝小森村に進み、109円70銭を強奪、続いて同村戸長役場に押かけ、ここでも村民募集を迫り、ついで贄川村に進み、磯田忠君を脅して刀4本・小銃2挺を奪い、上田野村戸長役場に対しても村民募集を迫り、午後5時頃大宮郷に引揚げる。掠奪した金員のうち80円を田代栄助に、5円を犬木寿作に渡す。
ここで寅五郎は栄助から4円40銃を貰い、この夜、土地事情に明るい堀口幸助の案内で再び荒川上流に向い、上田野村の高利貸三上重左衛門方に押しかけ、抜刀で脅かして貸金証書・軍用金の差し出しを迫る。重左衛門は「手元ニ所持セズ、家族ノ出先ヨリ持参スペシ」と言うので、組合の者3名を重左衛門に随行させ、4名を人質とするが、同人は戻らず。
*
寅五郎は「上田野村三上重右衛門宅ニ於テ調整シタル自由党屯所宮川寅五郎卜書シタル旗ヲ建テ大宮郷ニ立帰ル・・・」。
翌3日も重左衛門から証書類を取りあげるべく、3度上方に上るが、大宮郷から使がきて「田代栄助等皆野村ニ進発シ、指揮スル者無之、速ニ来会セヨ」と伝えると、周囲の者は態度を一変し寅五郎に反き、午後7時頃、戸長三上薗次らに捕縛(「宮川寅五郎裁判言渡書」)。
*
・午後7時頃、親鼻の渡しの銃撃戦の負傷者が大宮郷に後送されるが、医師は治療を拒む。
この頃、大宮郷では火災と暴徒の掠奪を防ぐため槍・竹槍・鉄砲・刀剣を持った者が、相詞を用いて市中巡回を始める。矢尾商店でも数名が竹槍や刀剣を持って、自衛のため警戒を始める。
*
・夜、山県・柱野警部指揮の巡査隊、城峯峠を守備するが、柱野警部は部下数名を率い石間村に潜行する。
*
・夜、大宮郷では困民党は秩父神社境内に20名程度となり、町内の火の番を強化し、「自衛団」結成の動きを示す。
*
・山県内務卿の川越方面への注意喚起に応じて、川越警察は士族53名を募り夜のうちに秩父へ向わせる。
*
・午後11時頃、甲隊(織平・周三郎)、昼に襲った下吉田の高利貸須藤弥平を再度襲う。
「東京憲兵七十四名が矢納迄出張セリ」の報告が入り、大隊長新井周三郎は500名程で別動隊2隊を編成。1隊は「千鹿谷の大将」島崎嘉四郎が指揮して日野沢村より、他の1隊(新井悌次郎指揮)は石間村より進撃させて、矢納村から来る憲兵の挟撃作戦をとる
(その後、日野沢村に進んだ隊は矢納村で、石間村に向った隊は半納の横道耕地で、群馬県警の偵察隊と遭遇して激闘を展開する。また、嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する)。
3日夜、甲隊本隊は大淵村~野巻村の中産以上の民家に分宿、大淵村の長楽寺を本営とし、新井周三郎・加藤織平ら幹部はここに泊る。東京憲兵隊70余が矢納入りとの情報で、新井周三郎は島崎嘉四郎と新井悌次郎に夫々250を与え、日野沢と石間から矢納挟撃をさせる。嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する。
*
・この日、上日野沢村小隊長村竹茂市、新井周三郎より指揮権を剥奪され後任を柴岡熊吉とされる。しかし、4日周三郎が重傷に陥ると、そこに駆けつけ本営まで護送。その後、信州転戦組に加わり12月9日の軍壊滅まで従軍。
*
・秩父困民党の衝撃波。
この日、横浜本署、八王子警察署(署長平田東馬警部)に警官40を急派。また、豆州・駿州・遠州・上州・信州へ広がる。
上州・信州の一部は秩父に加わり、飯田の愛国正理社・田原自由党は戦闘準備。11月下旬、豆州君沢郡・田方郡、駿州駿東郡東部など蜂起前夜の様相。
*
・この日は天長節。東京では祝賀式のあと、日比谷の鹿鳴館で政府高官による華やかな夜会。
*
(見出し)「紅の幕は切って落されたり 天長の佳節 鹿鳴館の夜会」
(記事)「井上伯には、其北方と共に主人となりて、夜会の盛宴を鹿鳴館に張られたり、
・・・庭上の音楽は園外の烟火と相応じ、満堂の燭光は晝よりも明らかに、週廓の球燈は球を貫ぬくかと疑われたり、挿花の風流なる、粧師の閑雅なる、實に宏麗と清逸とを併せ、中々の見物なりき。取分きて勝れて見えたるは、御息所を始めとし参らせ、北の方奥方娘君たちの御出立と云ひ、御振舞の優にやさしくあり、自ら気高くもありて、能く内外の交際に慣れ玉ひたる様の迥(ハル)かに去年に勝れて、實にも斯る會場の光を増すことの、外国の貴婦人にも劣り玉はざるぞ貴かりけれ。
主人の井上伯御夫妻は、平素ながら内外の来賓に遣る方なくもてなし、・・・舞踏と立食とに何れも歓を盡し、楽を極めて夜の深行くも知らず、十二時頃に至りて散ぜられたり。尤も横濱の来賓の為とて、別仕立の汽車を用意せられてありぬ」(11月5日「東京日々新聞」 改行を施す)
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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・憲兵隊に随行した兵事課長2等属村田譲吉、巨魁は大宮郷田代栄助らであるなど概略を報告。
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「三日、隈元少尉ノ隊ニ尾行シ、糧食ヲ連送シテ本野上ニ至り、警察分署ニ就キ賊ノ景況ヲ問ハントスルニ、空署ニシテ一人モ在ルヲ見ズ、夫ヨリ戸長役場二至り
・・・偶秩父郡大宮郷ノ隣村大野原村聯合戸長富田左平治、役場ノ書類ヲ携へ乱ヲ避ケ来ルニ会ス 同人ハ昨二日賊ノ一群小鹿野峠(小鹿坂峠)ヨリ大宮郷ニ進入スルヲ目撃セシ由、其他賊魁田代栄助等ノ挙動ヲ詳ニスルヲ得タリ(「兵事課長二等属村田譲吉出張経歴書」)。
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・午後3時、田代栄助後退。
栄助は、持病の胸痛を発し、常次郎・熊吉ら数名と大野原に戻り民家で静養。
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栄助は、後退する際も、兵の配備に気を使う。
「栄助ハ自分外十二名程ヲ連レ、秩父郡黒谷村ノ橋ニ至リ、ソコヲ防戦ノ地卜定メ、甲隊(乙隊の誤リカ)破ルレバ此地ヲ防グ事トナシ、栄助ノ子分姓名知レザル横瀬村辺ノ者ガ人夫八名ヲ引連レ、花火筒ヲ卓ニ乗せ挽キ来り、橋ノ真向ヒニ備へタリ、此破烈丸十一程持来りタリト云ヘリ、
茲ニ於テ同村ノ者及ビ皆野・黒谷辺ノモノガ集り来り、総勢二百名程ニナリタリ、夫ヨリ三ヶ所ニ見張リヲ十人程ヅゝ出シ、自分ヲ其場ニ残シ、栄助ハ夫ヨリ壱丁程大宮ノ方寄リノ人家ニ至リ休息セリ(「小柏常次郎訊問調書」)。
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また、山田村の撃剣家が指揮する140名が助力に駈けつけて来る。
「自分一人ニテ栄助ノ所ニ至り、手配ノ模様等噺シ居ルトキ、大宮郷ノ方ヨリ鯨波ヲ揚ゲ釆ルモノアリ、
茲ニ於テ栄助ガ自分ニ云フニ、アレハ味方デアロウカラ、御前ガ行ツテ皆野ニヤラズ、茲ニ留メテ夕飯デモ与へ呉レロトノ頼ミニ付、自分往来ニ出向キタルニ、秩父郡山田村撃剣家加藤某ガ先生トナリ、両三人帯刀、跡ハ残ラズ竹槍ヲ持チ、総勢六十三名、引続キ八十五名ガ来リシ故、加藤ニ面会シ、夕飯ヲ与へ、一同ハ近傍ノ民家へ宿泊セシメタリ、此時己ニ一番鶏(四日朝)トナリタリ(「小柏常次郎訊問調書」 改行を施す)。
*
栄助後退後も、参謀長菊池貫平、小隊長高岸善吉、大隊長落合寅市らの指揮により、活溌な動きは継続。
皆野本隊の数百人は荒川を越えて大淵村に押し出し、金穀を奪って皆野に運び、また、児玉口警備のため数百人を下日野沢村に配備。
*
・午後5時、小笠原憲兵大尉は内田憲兵中尉指揮の1個小隊とともに上尾停車場で下車し、その夜のうちに川越町に進出。
午後6時10分、影山憲兵少尉指揮の1個小隊、熊谷停車場で下車、右半隊は松山町に向い、左半隊は停車場前の小松屋旅館を営所として待機。
*
熊谷に待機の隊は児玉方面進出を予定していたが、この日午後、親鼻の銃撃戦で憲兵第1陣が敗退した為、吉田県令は急拠寄居に進出させることにし、午後9時この旨を伝える。
午後11時、午前零時すぎ、午前2時の3回に分乗で熊谷を出発し、午前4時40分までに全員寄居に進出。同時に、松山の右半隊も寄居に移動。
*
・午後7時、宮川寅五郎捕縛。
寅五郎は、前日襲った上田野村高利貸三上重左衛門より証書類を取上げるべく向う。大宮郷からの伝令で本陣の皆野移動と帰還命令が届くや、周囲が寅五郎に背き、戸長三上薗次らに捕縛。14日の横瀬村豪農襲撃の罪で極刑15年判決、北海道樺戸監獄の送致。明治31年大赦出獄(53)。身元引受人なく数ヶ月監獄に滞留。
*
○宮川寅五郎(40):
「静岡県遠江国浜松出生/平民 日稼業 当時無籍」。
「被告ハ明治十七年九月以降、埼玉県武蔵国秩父郡上吉田村石間村ニ流寓中、明治十七年十月下旬田代栄助、加藤織平、高岸善吉等ガ世間高利貸ノ無情ニシテ窮民ノ困難ニ陥ルヲ救ハントテ秩父郡ニ於テ暴動ヲ企チタルコトヲ聞知シ大ニ感慨ヲ惹起シ、且ツハ織平等ノ勧メニ依リ共二事ヲ為サンコトヲ決シ・・・」。
蜂起の際は「軍用金徴収方」。
小鹿野町襲撃後、高岸善吉・犬木寿作等と三山村に行き、ここで隊を2分し、寅五郎は犬木寿作と共に、薄村戸長役場に押しかけ「村吏ヲ斬殺ス」と脅かして村民募集と炊きだしを迫る。
2日朝小森村に進み、109円70銭を強奪、続いて同村戸長役場に押かけ、ここでも村民募集を迫り、ついで贄川村に進み、磯田忠君を脅して刀4本・小銃2挺を奪い、上田野村戸長役場に対しても村民募集を迫り、午後5時頃大宮郷に引揚げる。掠奪した金員のうち80円を田代栄助に、5円を犬木寿作に渡す。
ここで寅五郎は栄助から4円40銃を貰い、この夜、土地事情に明るい堀口幸助の案内で再び荒川上流に向い、上田野村の高利貸三上重左衛門方に押しかけ、抜刀で脅かして貸金証書・軍用金の差し出しを迫る。重左衛門は「手元ニ所持セズ、家族ノ出先ヨリ持参スペシ」と言うので、組合の者3名を重左衛門に随行させ、4名を人質とするが、同人は戻らず。
*
寅五郎は「上田野村三上重右衛門宅ニ於テ調整シタル自由党屯所宮川寅五郎卜書シタル旗ヲ建テ大宮郷ニ立帰ル・・・」。
翌3日も重左衛門から証書類を取りあげるべく、3度上方に上るが、大宮郷から使がきて「田代栄助等皆野村ニ進発シ、指揮スル者無之、速ニ来会セヨ」と伝えると、周囲の者は態度を一変し寅五郎に反き、午後7時頃、戸長三上薗次らに捕縛(「宮川寅五郎裁判言渡書」)。
*
・午後7時頃、親鼻の渡しの銃撃戦の負傷者が大宮郷に後送されるが、医師は治療を拒む。
この頃、大宮郷では火災と暴徒の掠奪を防ぐため槍・竹槍・鉄砲・刀剣を持った者が、相詞を用いて市中巡回を始める。矢尾商店でも数名が竹槍や刀剣を持って、自衛のため警戒を始める。
*
・夜、山県・柱野警部指揮の巡査隊、城峯峠を守備するが、柱野警部は部下数名を率い石間村に潜行する。
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・夜、大宮郷では困民党は秩父神社境内に20名程度となり、町内の火の番を強化し、「自衛団」結成の動きを示す。
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・山県内務卿の川越方面への注意喚起に応じて、川越警察は士族53名を募り夜のうちに秩父へ向わせる。
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・午後11時頃、甲隊(織平・周三郎)、昼に襲った下吉田の高利貸須藤弥平を再度襲う。
「東京憲兵七十四名が矢納迄出張セリ」の報告が入り、大隊長新井周三郎は500名程で別動隊2隊を編成。1隊は「千鹿谷の大将」島崎嘉四郎が指揮して日野沢村より、他の1隊(新井悌次郎指揮)は石間村より進撃させて、矢納村から来る憲兵の挟撃作戦をとる
(その後、日野沢村に進んだ隊は矢納村で、石間村に向った隊は半納の横道耕地で、群馬県警の偵察隊と遭遇して激闘を展開する。また、嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する)。
3日夜、甲隊本隊は大淵村~野巻村の中産以上の民家に分宿、大淵村の長楽寺を本営とし、新井周三郎・加藤織平ら幹部はここに泊る。東京憲兵隊70余が矢納入りとの情報で、新井周三郎は島崎嘉四郎と新井悌次郎に夫々250を与え、日野沢と石間から矢納挟撃をさせる。嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する。
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・この日、上日野沢村小隊長村竹茂市、新井周三郎より指揮権を剥奪され後任を柴岡熊吉とされる。しかし、4日周三郎が重傷に陥ると、そこに駆けつけ本営まで護送。その後、信州転戦組に加わり12月9日の軍壊滅まで従軍。
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・秩父困民党の衝撃波。
この日、横浜本署、八王子警察署(署長平田東馬警部)に警官40を急派。また、豆州・駿州・遠州・上州・信州へ広がる。
上州・信州の一部は秩父に加わり、飯田の愛国正理社・田原自由党は戦闘準備。11月下旬、豆州君沢郡・田方郡、駿州駿東郡東部など蜂起前夜の様相。
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・この日は天長節。東京では祝賀式のあと、日比谷の鹿鳴館で政府高官による華やかな夜会。
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(見出し)「紅の幕は切って落されたり 天長の佳節 鹿鳴館の夜会」
(記事)「井上伯には、其北方と共に主人となりて、夜会の盛宴を鹿鳴館に張られたり、
・・・庭上の音楽は園外の烟火と相応じ、満堂の燭光は晝よりも明らかに、週廓の球燈は球を貫ぬくかと疑われたり、挿花の風流なる、粧師の閑雅なる、實に宏麗と清逸とを併せ、中々の見物なりき。取分きて勝れて見えたるは、御息所を始めとし参らせ、北の方奥方娘君たちの御出立と云ひ、御振舞の優にやさしくあり、自ら気高くもありて、能く内外の交際に慣れ玉ひたる様の迥(ハル)かに去年に勝れて、實にも斯る會場の光を増すことの、外国の貴婦人にも劣り玉はざるぞ貴かりけれ。
主人の井上伯御夫妻は、平素ながら内外の来賓に遣る方なくもてなし、・・・舞踏と立食とに何れも歓を盡し、楽を極めて夜の深行くも知らず、十二時頃に至りて散ぜられたり。尤も横濱の来賓の為とて、別仕立の汽車を用意せられてありぬ」(11月5日「東京日々新聞」 改行を施す)
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鹿鳴館跡の碑
(現、日比谷公園南側 大和生命ビル前)
(現、日比谷公園南側 大和生命ビル前)
2009年12月12日土曜日
明治17(1884)年11月3日 田代栄助、皆野村に進出 東京憲兵隊、寄居を出て親鼻の渡しで銃撃戦
明治17(1884)年11月3日
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●田代栄助、皆野村に進出。
大宮郷本営の田代栄助は、甲乙両隊の独断専行に不満を抱き、荻原勘二郎の「寄居、熊谷警察署及ビ電信、鉄道ハ己ニ破却シ、中山街道恰モ人ナキガ如シ」との報告にも「心窃ニ疑フ」が、「部下ノ衆、之ヲ聞キ、大ニ勢ヲ得、命ヲ待タズシテ出発」したので、前進を決意し、午前9時頃、井上伝蔵・宮川津盛ら側近と護衛数10名を率い皆野村に向い、正午頃、乙隊の本営「角屋」に入る。
*
栄助は、ここに主力の集中する事を決意し、群馬県から来援の新井貞吉と、自分の倅八作に対し、大宮郷に残置した兵力を纏めて皆野に連れてくるよう命じる。
2人は急いで大宮郷に戻り、この夜は妙見の森(秩父神社のこと)で夜を明かす。4日朝、入方(荒川上流地域)の大滝村で困民軍の背後を脅かす動きのあることが伝えられ、貞吉と八作は、大宮郷の残置兵力は後方の固めのためこのまま置く必要があると判断し、2人だけで皆野に戻り栄助に報告。栄助は、「大滝ノ方ハ構ハズト置ケ」と、やはり大宮郷の兵力の皆野村進出を指示。
*
●皆野村での高利貸し打毀し、軍用金徴収、狩り出し。
皆野村ではまず、高原耕地の高利貸金子利吉を打毀す。
軍用金は、柴岡熊吉が質屋兼荒物商金子谷蔵方から80円を徴収し、上州の横田周作や「東京の先生」千本松吉兵衛らが、大店の升屋から50円、その裏の家から30円を徴収し総理に提出。
金崎村聯合(金崎村・大淵村・下日野沢村・金沢村・矢納村)に対し聯合戸長役場を通じ、根こそぎ動員を働きかる。
金沢村の学務委員若林寿一(56)は、午後7時頃、「学務上ノ用」があって村の用掛宅に向う途中、抜刀の困民党兵士8人に脅迫されて狩りだされる。親鼻の警備につくと、そこには坂本宗作指揮の300人ほどが陣を張っていた(「若林寿一訊問調書」)。
狩り出しにより、3日午後から夜にかけて、皆野の困民軍兵士は2千人になり、通りは「通り切レヌ程」の賑いをみせ、「大勢ニテ只ガヤガヤ致シ居り」という状況となる(「新井寅吉訊問調書」)。
*
・午前9時30分、東京憲兵隊第1陣(春田少尉・隈元少尉)の1小隊、寄居着。
別に第2陣内田少尉指揮の1小隊は1時48分、第3陣小笠原大尉・影山少尉指揮の1小隊は4時48分に、浦和に到着し、この日中に川越・熊谷方面進出。
*
「之ヲ以テ吾ガ隊ノ士気昨日ニ倍セリ、然レドモ這(コレ)ハ憲兵ヲ見テ発揮シタルニ非ラズ、利銃ヲ携フルヲ以テナリ、何ントナレバ当時万ヲ以テ数フル兇徒、十中ノ八、九ハ猟銃ヲ携へ、吾ガ警察ニ銃器ナク、頗ル防禦ニ苦ミタルガ故ナリ」(「桶川警察署巡査粕谷清五郎出張復命書」)。
*
江夏警部長、吉田県令、春田憲兵少佐、寄居町で今後の作戦を協議。
*
賊状判断。
「一 暴徒之員数ハ概ネ千五、六百名計ナラント推測ス、尤モ内決死ノ党ハ百名或ハアルヤナキヤ
一 銃砲ハ古流ニシテ百四、五十挺モアルナラン
一 賊ハ大宮郷ニ於テ徒類ヲ二分シ、一ハ名栗、飯能、所沢ヲ経、一ハ小川、松山ヲ経、川越町ニ相合シ、本県庁署ヲ襲撃シ、東京府下ニ進行シ、暴発セントスルノ見込
一 暴徒ノ主魁トナリタルモノハ、自由党員又ハ博徒及ビ三百代言ノ輩ナリ
一 群馬県下南甘楽郡ノ人民ヲ煽動シ、己レノ徒ニ加ヒ、連絡ヲ固クシ、同所監獄署ヲ攻撃シ、同党員ノ縲絏ニ困ムモノヲ奪去ルノミナラズ、囚徒ヲ同徒ニ入レ、同県庁ニ乱入強奪ヲ究メントスル」
*
鎌田警部は、「彼暴徒ハ、皆知ル所ノ如ク本県庁ニ強願スル目的ナラントセバ、必ズ寄居・児玉ノ方面而巳進行スベカラズ、小川・飯能等ノ間道ヲ進行スベキハ勿論ナリ」と説明、これらに基いて「寄居ヨリ憲兵ヲ以テ山中ニ進軍シ、賊徒大宮郷ヨリ逃走スル者ヲ捕獲ノ為メ、小川、越生、飯能ニ手配スル」との作戦計画をたてる。
寄居に集合した巡査192人を、この計画に基いて諸口に配置。
矢那瀬口:巡査30、飯能口:巡査35、小川口:巡査30、越生:巡査30、寄居:巡査30(他に町警備に22)、八幡山口:巡査30。
*
・午後2時40分、隈元少尉率いる憲兵隊3半隊と警官40名、偵察のため寄居発。皆野に進む途上、午後4時頃、憲兵・警官が対岸の金崎にさしかかると、親鼻の渡しで三山の銃砲隊(予備兵卒の青年が指揮)が射撃。
隈元少尉は試みに応戦後、本野上に引上げ、日没後、秩父の関門矢那瀬に退き、ここを警備。
*
憲兵第1陣1個小隊の3半隊(1個小隊の3/5の兵数)は、警部補重信常潔(26、警察本署・鹿児島県士族)・同福永政布(31、熊谷警察署・栃木県士族)、同坪山需(28、大宮郷警察署・福井県士族)、収税属兼警部補川上四郎助ら若手警部補指揮の巡査30名による警官隊の誘導で、秩父本道を進撃、午後2時30分頃、金崎村・皆野村間の親鼻の渡し場に近づくと、金崎村は暴徒に組したとみえて「人家皆戸ヲ閉テ男子ヲ見ズ」で、荒川対岸の皆野村方向には「白鉢巻ノ暴徒奔走スル」のが望見される。
*
困民軍は官兵の動きを、荒川沿いの藤谷淵村を進行中から捕捉。
「十一月三日正午頃、暴徒二十四、五人、村境字人打破崩新道ノ辺迄押来り、憲兵ノ荒川ヲ隔ツル藤谷淵村ヲ進行スルヲ見テ、一時皆野村迄引返」す。
報告を受けた菊池貫平は、親鼻の渡し場に布陣する困民軍に応戦準備を命じる。
対岸の金崎村に官兵が現れるや、「鬨ノ声ヲ挙ゲツ、親鼻津頑ヨリ荒川ヲ隔テ猟銃ヲ雨注」する。
「此日皆野ニ於テハ猟手七、八十人許リアリシモ、諸所ニ配置シテ親鼻ノ戦線ニアリシハ約五十人」という(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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このとき困民軍全般を指揮は参謀長菊池貫平がとるが、射撃の直接指揮は三山村の予備兵卒大河原三代吉(24)がとる。彼は、常備兵役満期の際に支給された軍服を着用し、銃隊50余を散開させ、「火縄銃ハ遠見ニ達セザルヲ以テ、敵ノ接近スル場合ニ於テ連発スベキ事」を指示し、荒川対岸に憲兵を見るや発砲を号令。三代吉は、事件後兇徒聚衆の罪で重禁錮3年6ヶ月に処せられる。
他にも、「銃砲隊ノ大将ハ下日野沢村加藤団蔵ナリ」と言う者もあり、銃撃戦指揮は1人ではなかったようである。
*
一方の官兵側は親鼻の渡船場近くまで進むと、「暴徒数百入喊声ヲ発シ、数十ノ鳥銃」を射撃。
警官隊はピストルで応射し、憲兵も散開してスペンセル銃で応戦しようとするが、携行した弾薬が西南戦争当時製造のもので、引鉄を引いても弾が出ない。このため幹部が携帯する短銃で応戦するも、「弾丸賊軍ニ達セズ、却テ賊丸ニ沮(ハバ)メラレ、該川ヲ渉ル事能ハズ、則チ数十分ニシテ戦止メ」本野上村に退き、篝火を焚いて賊を牽制し、夜のうちに矢那瀬と象ケ鼻の渡船場まで後退。
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憲兵隊は、早速東京から新式村田銃(明治13年製造)180挺と弾薬9千発を取り寄せ、4日中に各所に配置の憲兵に配付。配分にあたった郡書記は「兵壮機鋭、殊ニ愉快ヲ覚ユタリ」と言う。
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●田代栄助、皆野村に進出。
大宮郷本営の田代栄助は、甲乙両隊の独断専行に不満を抱き、荻原勘二郎の「寄居、熊谷警察署及ビ電信、鉄道ハ己ニ破却シ、中山街道恰モ人ナキガ如シ」との報告にも「心窃ニ疑フ」が、「部下ノ衆、之ヲ聞キ、大ニ勢ヲ得、命ヲ待タズシテ出発」したので、前進を決意し、午前9時頃、井上伝蔵・宮川津盛ら側近と護衛数10名を率い皆野村に向い、正午頃、乙隊の本営「角屋」に入る。
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栄助は、ここに主力の集中する事を決意し、群馬県から来援の新井貞吉と、自分の倅八作に対し、大宮郷に残置した兵力を纏めて皆野に連れてくるよう命じる。
2人は急いで大宮郷に戻り、この夜は妙見の森(秩父神社のこと)で夜を明かす。4日朝、入方(荒川上流地域)の大滝村で困民軍の背後を脅かす動きのあることが伝えられ、貞吉と八作は、大宮郷の残置兵力は後方の固めのためこのまま置く必要があると判断し、2人だけで皆野に戻り栄助に報告。栄助は、「大滝ノ方ハ構ハズト置ケ」と、やはり大宮郷の兵力の皆野村進出を指示。
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●皆野村での高利貸し打毀し、軍用金徴収、狩り出し。
皆野村ではまず、高原耕地の高利貸金子利吉を打毀す。
軍用金は、柴岡熊吉が質屋兼荒物商金子谷蔵方から80円を徴収し、上州の横田周作や「東京の先生」千本松吉兵衛らが、大店の升屋から50円、その裏の家から30円を徴収し総理に提出。
金崎村聯合(金崎村・大淵村・下日野沢村・金沢村・矢納村)に対し聯合戸長役場を通じ、根こそぎ動員を働きかる。
金沢村の学務委員若林寿一(56)は、午後7時頃、「学務上ノ用」があって村の用掛宅に向う途中、抜刀の困民党兵士8人に脅迫されて狩りだされる。親鼻の警備につくと、そこには坂本宗作指揮の300人ほどが陣を張っていた(「若林寿一訊問調書」)。
狩り出しにより、3日午後から夜にかけて、皆野の困民軍兵士は2千人になり、通りは「通り切レヌ程」の賑いをみせ、「大勢ニテ只ガヤガヤ致シ居り」という状況となる(「新井寅吉訊問調書」)。
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・午前9時30分、東京憲兵隊第1陣(春田少尉・隈元少尉)の1小隊、寄居着。
別に第2陣内田少尉指揮の1小隊は1時48分、第3陣小笠原大尉・影山少尉指揮の1小隊は4時48分に、浦和に到着し、この日中に川越・熊谷方面進出。
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「之ヲ以テ吾ガ隊ノ士気昨日ニ倍セリ、然レドモ這(コレ)ハ憲兵ヲ見テ発揮シタルニ非ラズ、利銃ヲ携フルヲ以テナリ、何ントナレバ当時万ヲ以テ数フル兇徒、十中ノ八、九ハ猟銃ヲ携へ、吾ガ警察ニ銃器ナク、頗ル防禦ニ苦ミタルガ故ナリ」(「桶川警察署巡査粕谷清五郎出張復命書」)。
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江夏警部長、吉田県令、春田憲兵少佐、寄居町で今後の作戦を協議。
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賊状判断。
「一 暴徒之員数ハ概ネ千五、六百名計ナラント推測ス、尤モ内決死ノ党ハ百名或ハアルヤナキヤ
一 銃砲ハ古流ニシテ百四、五十挺モアルナラン
一 賊ハ大宮郷ニ於テ徒類ヲ二分シ、一ハ名栗、飯能、所沢ヲ経、一ハ小川、松山ヲ経、川越町ニ相合シ、本県庁署ヲ襲撃シ、東京府下ニ進行シ、暴発セントスルノ見込
一 暴徒ノ主魁トナリタルモノハ、自由党員又ハ博徒及ビ三百代言ノ輩ナリ
一 群馬県下南甘楽郡ノ人民ヲ煽動シ、己レノ徒ニ加ヒ、連絡ヲ固クシ、同所監獄署ヲ攻撃シ、同党員ノ縲絏ニ困ムモノヲ奪去ルノミナラズ、囚徒ヲ同徒ニ入レ、同県庁ニ乱入強奪ヲ究メントスル」
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鎌田警部は、「彼暴徒ハ、皆知ル所ノ如ク本県庁ニ強願スル目的ナラントセバ、必ズ寄居・児玉ノ方面而巳進行スベカラズ、小川・飯能等ノ間道ヲ進行スベキハ勿論ナリ」と説明、これらに基いて「寄居ヨリ憲兵ヲ以テ山中ニ進軍シ、賊徒大宮郷ヨリ逃走スル者ヲ捕獲ノ為メ、小川、越生、飯能ニ手配スル」との作戦計画をたてる。
寄居に集合した巡査192人を、この計画に基いて諸口に配置。
矢那瀬口:巡査30、飯能口:巡査35、小川口:巡査30、越生:巡査30、寄居:巡査30(他に町警備に22)、八幡山口:巡査30。
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・午後2時40分、隈元少尉率いる憲兵隊3半隊と警官40名、偵察のため寄居発。皆野に進む途上、午後4時頃、憲兵・警官が対岸の金崎にさしかかると、親鼻の渡しで三山の銃砲隊(予備兵卒の青年が指揮)が射撃。
隈元少尉は試みに応戦後、本野上に引上げ、日没後、秩父の関門矢那瀬に退き、ここを警備。
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憲兵第1陣1個小隊の3半隊(1個小隊の3/5の兵数)は、警部補重信常潔(26、警察本署・鹿児島県士族)・同福永政布(31、熊谷警察署・栃木県士族)、同坪山需(28、大宮郷警察署・福井県士族)、収税属兼警部補川上四郎助ら若手警部補指揮の巡査30名による警官隊の誘導で、秩父本道を進撃、午後2時30分頃、金崎村・皆野村間の親鼻の渡し場に近づくと、金崎村は暴徒に組したとみえて「人家皆戸ヲ閉テ男子ヲ見ズ」で、荒川対岸の皆野村方向には「白鉢巻ノ暴徒奔走スル」のが望見される。
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困民軍は官兵の動きを、荒川沿いの藤谷淵村を進行中から捕捉。
「十一月三日正午頃、暴徒二十四、五人、村境字人打破崩新道ノ辺迄押来り、憲兵ノ荒川ヲ隔ツル藤谷淵村ヲ進行スルヲ見テ、一時皆野村迄引返」す。
報告を受けた菊池貫平は、親鼻の渡し場に布陣する困民軍に応戦準備を命じる。
対岸の金崎村に官兵が現れるや、「鬨ノ声ヲ挙ゲツ、親鼻津頑ヨリ荒川ヲ隔テ猟銃ヲ雨注」する。
「此日皆野ニ於テハ猟手七、八十人許リアリシモ、諸所ニ配置シテ親鼻ノ戦線ニアリシハ約五十人」という(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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このとき困民軍全般を指揮は参謀長菊池貫平がとるが、射撃の直接指揮は三山村の予備兵卒大河原三代吉(24)がとる。彼は、常備兵役満期の際に支給された軍服を着用し、銃隊50余を散開させ、「火縄銃ハ遠見ニ達セザルヲ以テ、敵ノ接近スル場合ニ於テ連発スベキ事」を指示し、荒川対岸に憲兵を見るや発砲を号令。三代吉は、事件後兇徒聚衆の罪で重禁錮3年6ヶ月に処せられる。
他にも、「銃砲隊ノ大将ハ下日野沢村加藤団蔵ナリ」と言う者もあり、銃撃戦指揮は1人ではなかったようである。
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一方の官兵側は親鼻の渡船場近くまで進むと、「暴徒数百入喊声ヲ発シ、数十ノ鳥銃」を射撃。
警官隊はピストルで応射し、憲兵も散開してスペンセル銃で応戦しようとするが、携行した弾薬が西南戦争当時製造のもので、引鉄を引いても弾が出ない。このため幹部が携帯する短銃で応戦するも、「弾丸賊軍ニ達セズ、却テ賊丸ニ沮(ハバ)メラレ、該川ヲ渉ル事能ハズ、則チ数十分ニシテ戦止メ」本野上村に退き、篝火を焚いて賊を牽制し、夜のうちに矢那瀬と象ケ鼻の渡船場まで後退。
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憲兵隊は、早速東京から新式村田銃(明治13年製造)180挺と弾薬9千発を取り寄せ、4日中に各所に配置の憲兵に配付。配分にあたった郡書記は「兵壮機鋭、殊ニ愉快ヲ覚ユタリ」と言う。
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2009年12月6日日曜日
明治17(1884)年11月3日 秩父困民軍自壊の道 困民党、大宮郷を出る 皆野村占領
明治17(1884)年11月3日 秩父困民軍自壊の道
*
(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領、一種のコミューン状況が現出。困民軍は田代栄助の指揮の下に高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走り、ついで埼玉県警トップの江夏警部長(県警本部長)も現地に入り陣頭指揮を行う。
そして遂に憲兵隊出動の決定が下る。
**
*
11月3日
*
▼困民軍崩壊の道を歩み始める。
この日以降、官憲侵攻を伝える虚報に惑わされ内部に混乱が生じる。
栄助の指示を待つ事なく、誤報によって、加藤織平・新井周三郎率いる甲隊は、武の鼻の渡しを離れ下吉田村へ出発。
また、菊池貫平・飯塚森蔵指揮の乙隊は、大野原村愛宕神社を措いて皆野村に向かう。
栄助は、加藤織平・菊池貫平に不快を感じながら、乙隊の後を追って皆野へ至り角屋に入る。
栄助は、3日午後3時頃、皆野を出て、4日午前10頃、角屋へ戻るまで、20時間近く戦列を離れる。
*
*
・憲兵隊第一陣出動。
午前1時40分、東京憲兵隊四ツ谷分屯署長隈元憲兵少尉の1個小隊(70名程度)、上野発。春田憲兵少佐同伴。浦和で吉田県令が乗車。午前4時、熊谷着。午前9時30分、寄居町に進出。
*
・「午前四時ヨリ当店兵食ノ焚出シヲナス」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
*
・午前4時頃、群馬県に近い矢納村より「憲兵隊及び巡査大勢来り、矢納村ニ於テ夕飯ヲ喫シ居レリ、多分払暁迄ニ当郷へ繰込ミ相成ベシ」との伝令(憲兵隊は誤報、群馬県警偵察隊のこと)。
栄助は、甲乙丙3隊各600程度を編成(鉄砲隊も250を3分)。
①甲隊(副総理加藤織平・甲大隊長新井周三郎・大野苗吉指揮)は荒川の竹の鼻渡し場を固めて小鹿野・吉田方面に備える。
②乙隊(参謀長菊池貫平・乙大隊長飯塚森蔵指揮)は大野原村に進出、愛宕神社に陣を取り皆野方面に備える。
③丙隊(落合寅市指揮)は予備隊として大宮郷に控える。
総理田代栄助は、会計長井上伝蔵・会計副長宮川津盛・軍用金集方柴岡熊吉・小荷駄方小柏常次郎・伝令使門平惣平ら幹部と大宮に。
*
この時、田代栄助は、「竹槍ヲ除キ鉄砲隊及ビ抜刀隊へ手当トシテ一人ニ付金壱円」の割合で、飯塚森蔵と落合寅市に各500円、門平惣平300円、新井周三郎100円を分配(「田代栄助訊問調書」)。
また、買い集めた弾薬は大宮郷に留め置き、「何レノ口ヨリ受取リニ来ルモ、渡方ニ差支ナキ様」にする(「新井庄蔵訊問調書」)。
*
「三日、午前七時頃兇徒等大概兵粮ヲ喫シ終り、追々皆野村へ進軍ス、又隊ヲ分ケ竹ノ鼻口エ固ムルアリ、或ハ入方へ人足ヲ駆リニ行アリ、或ハ名栗村ノ方吾野ノ方へ人足ヲ集ニ行アリ、兇徒等追々繰出セシニツキ市中稍々静カナリ、然レドモ秩父神社境内ヨリ市中所々ニ残徒共未ダ散在セリ、該党幹事二名帳元へ来り、皆野村ニテ官兵卜接戦ノ時ハ本店ニテ兵粮ノ焚出シヲ依頼スルトテ、金拾五円ヲ其手当トシテ預ケ置ケリ、其後二、三時間ヲ過ギテ、最早其義ニ及バズトテ、金員ヲ取戻シニ来レリ」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
*
大宮郷を中心とする守備体勢をとり、挙兵の長期維持を企図する消極的戦略に見える。
しかし、甲隊(加藤織平・新井周三郎)は下吉田へ、乙隊(菊池貫平・飯塚森蔵)は皆野に向う。
*
・午前5時、川越警察署長岡田警部は、県庁笹田少書記官に川越士族募集申請。笹田は50名程度の士族巡査臨時募集指示。3時間程で52名が応募。この日中に飯能(45名)、小川口(7名)に向う
*
・午前6時、埼玉県首脳部、内務卿に対し警視庁巡査70名の浦和派遣を要請、却下される。中央は川越を重視する。
*
東京鎮台参謀高井少佐は、笹田書記官に対し、「内務卿ハ川越地方ノ事最モ懸念ナリ、一端此ニ及プトキハ害又少々ニアラズ、注意スべキ事云々 スデニ派遣スべキ(鎮台兵ノ)隊名モ定マリ居レリ」と語る。
*
・午前7時、甲・乙隊、大宮郷を出る。
*
・午前8時20分、埼玉県令(知事)吉田清英(44)、兵事課長二等属村田譲吉と共に寄居町に進出、現地の直接指揮に当たる。
*
吉田清英:
鹿児島県士族、埼玉県令。明治元年、初め鎮撫使西園寺公望に随い山陰道を進むが、江戸進攻にあたっては北陸道を進撃、越後の長岡城攻撃での武功を認められ、「北陸道総大小荷駄方」(兵站軍需品の大荷駄(兵器・弾薬)と小荷駄(糧株・医薬品)の調達・輸送の総指揮)に任ぜられる。
その後、東京府、酒田県(山形県の一部)勤務を経て、9年埼玉県権参事、15年3月書記官、白根県令病没後、県令に就任。県令退職後は本庄町に住んで蚕糸業の発展に尽す。
*
・午前9時、竹の鼻の甲隊(織平・周三郎)、憲兵隊・巡査が吉田村に入るとの情報(誤報)に、荒川を渡り前日と逆のコースで小鹿野峠を越える。
下小鹿野村で高利貸高橋金平を襲い、小鹿野には自衛組織が出来ているためこれを避け、東に向かい午後4時、下吉田村入り。ここでも高利貸須藤弥平を脅迫して400円を奪い、午後6時頃大田村入りし、高利貸富田儀一郎を襲い、野巻村~大淵村に入る(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
午後11時頃、昼に襲った下吉田の高利貸須藤弥平を再度襲う。
東京憲兵隊70余が矢納入りとの情報で、新井周三郎は島崎嘉四郎と新井悌次郎に夫々250を与え、日野沢と石間から矢納挟撃をさせる。嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する。
*
この日、下吉田村で狩り出し、甲隊は1千人以上に膨れる。
井上耕地で「暴徒」の一手の大将とみられる竹内牧太郎(25、下吉田村)と飯塚健次が、貴布禰神社の前で呼びかけ。
「吾輩既ニ国ノ為ニ兵端ヲ開キ、戸長役場又大宮警察署及裁判所ヲ破壊シ、其書類ヲ焼キ棄タリ、官衙ヲ毀損スル既ニ政府ニ抗スルナリ、軍敗レバ必ズ厳刑ニ処セラルベシ、衆此意ヲ得テヨク力ヲ尽シ、必勝ヲ期セヨ」と呼びかけ、小旗を振って「後レテハ卑怯ナルゾ、進メヤ進メ」と号令、「エイエイヲゝ」と鯨波をつくって押し出す。
この時の竹内・飯塚について、田中千弥「秩父暴動雑録」には、「三日、竹内牧太郎・飯塚健次等井上ニ来り、父母妻子へ暇乞ヲナシ」とあり、役割表に名を連ねていない一般農民兵のこの蜂起にかける気概が窺える。
*
・乙隊(貫平・森蔵)は、熊谷に一揆起こり寄居・野上警察署破壊、熊谷まで遮るものなしとの誤報を信じ大野原を出発。黒谷村を経て、9時頃、皆野に侵入、県警の本部であった角屋に本陣をおく。
沿道では狩り出しを行い、裕福な家からは金銭・刀剣を強奪。午前10時、栄助一行も皆野の本陣に到着。皆野に集まった銃砲隊は70~80名で、ここから対岸に渡る3つの渡し場に抜刀隊と共に配置される。
*
●皆野占領
皆野村は戸数381戸、人口1,800余。1日夜、警察本部は撤退。
戸長役場の記録による皆野村襲撃の様子。
「十一月三日午前七時頃、三人ノ暴徒、羽織袴ヲ着シ、白木綿ノ鉢巻ニテ脇差及ビ槍ヲ携帯シ釆リテ、交番所及ビ民家二戸ヲ破壊シタリ、暫時ニシテ一人ハ車ヲ雇ヒ大宮郷ニ向テ走駆セリ、蓋シ大宮郷ニ屯集セシ暴徒ヨリ斥候トシテ来りタル者ナラン、他ノ二人ハ字親鼻ニ於テ飲食セリ
午前九時頃、暴徒凡ソ四、五百人、真先ニ白旗ヲ立テ、各銃砲・槍・長刀等ヲ携帯シ、螺貝ヲ吹キ、鬨声ヲ発シ寄セ来レリ、其中ニ羽織袴ヲ着シタル者凡ソ百五、六十人アリテ、各方尺ノ白布ニ甲又ハ乙ノ字ヲ記シ、之ヲ襟ニ挿シタリ、其中巨魁卜認ムベキ者ハ手ニ之ヲ携へタリ、村内へ侵入スルヤ否、抜刀ニテ五人乃至十人位ヅツ財揮アル名ノ家宅ニ押入り、焚出シヲ命ジ、応ゼザレバ斬殺ス、或ハ火ヲ放ツベシト脅迫ヲ極メタリ、同時ニ旅人宿野口タツ方ヲ本陣トシ、総理又ハ小隊長トモ認ムベキ者此ニ居レリ、同日午後三時頃ニ至リタル時ハ暴徒等凡ソ二千余人アリ、総理指揮シテ之ヲ三分シテ、親鼻・栗谷瀬及ビ大浜ノ三波船場ヲ守ラシメタリ、
是ヨリ先キ暴徒等ハ抜刀ニテ毎戸ニ押入リ、出ザル者ハ打殺ス、或ハ焼払フト脅迫セリ、而シテ村内ノ男丁ハ既ニ逃避シ、其僅ニ家ニ在ル者ハ、炊場ニ助力スルヲ口実トシ、免ルルヲ得タリ、又戸島ノ宅ニ入り金ヲ出サシメ、其他民家ニ於ケルモ、或ハ金銭、或ハ刀槍・銃砲、或ハ衣類・雑器等ヲ強奪セリ」(「秩父暴動被害諸村概況皆野村」)。
*
●11月3日の狩り出し
3日は、東方の各村に別動隊を派遣し、①芦ケ久保村~南川村~坂石村、②山田村~栃谷村~定峰村の2ルートで人足狩りだしを行う。
①は正丸峠を越え、午後5時頃、18名が坂石村に進出し聯合戸長役場に押しかける。久保新平戸長に1戸1名の差し出しを迫り、これを各村に触れさせ、戸長宅で白米5升を焚き出させて食い、残った飯を握り飯しにさせる。
また、戸長宅の合薬200匁を奪い、各戸を脅して50~60人を集める。しかし、午後7時頃、川越警察署長岡田警部率いる臨時徴募の士族巡査隊の接近を知り、正丸峠に引き返す。
②では、午前9時頃、30人ほどが抜刀・槍・銃砲を構え、山田村を襲い、聯合戸長役場に押しかける。そこには誰も居ないため、橋本又太郎戸長宅に押しかけ、表と裏を8~9人ずつが取り囲み、重立ち6人が家の中に入り人足差出を迫る。
「今回我々自由党員ニテ発起セシ旨趣、政府ノ政事甚ダ酷ニシテ、追々人民ニ労苦ノ増ル事勢見ルニ不忍、故ニ斯ル大事ヲ相醸シ、各村毎戸同盟出頭セシモ、当聯合部内村々ニ限り、今ニ同盟出頭スルモノ無之ニ付、速ニ同盟シ、刀カ銃砲等携帯シ、一同出頭致候様可成事、万一意ニ不応トキハ、己ニ昨夜大宮郷ニ於テ放火セシ如ク、戸長自宅ヲ首メトシ、全村放火ニ可及、又返答ノ次第ニヨリ直チニ伐殺スベシ」。
しかし、戸長が不在のため、諦めて三沢村方向に立ち去る。その後、午後7時頃、再び来て、「人夫督促ノタメ立越タルニ付、速ニ一同出頭スベク、万一違背スルニ於テハ伐殺シ、又ハ放火ニ及ブ」と民家を個々に触れて図り、洋銃1挺(価1円)、脇差2本(価60銭)などを奪って引き揚げる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領、一種のコミューン状況が現出。困民軍は田代栄助の指揮の下に高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走り、ついで埼玉県警トップの江夏警部長(県警本部長)も現地に入り陣頭指揮を行う。
そして遂に憲兵隊出動の決定が下る。
**
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11月3日
*
▼困民軍崩壊の道を歩み始める。
この日以降、官憲侵攻を伝える虚報に惑わされ内部に混乱が生じる。
栄助の指示を待つ事なく、誤報によって、加藤織平・新井周三郎率いる甲隊は、武の鼻の渡しを離れ下吉田村へ出発。
また、菊池貫平・飯塚森蔵指揮の乙隊は、大野原村愛宕神社を措いて皆野村に向かう。
栄助は、加藤織平・菊池貫平に不快を感じながら、乙隊の後を追って皆野へ至り角屋に入る。
栄助は、3日午後3時頃、皆野を出て、4日午前10頃、角屋へ戻るまで、20時間近く戦列を離れる。
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・憲兵隊第一陣出動。
午前1時40分、東京憲兵隊四ツ谷分屯署長隈元憲兵少尉の1個小隊(70名程度)、上野発。春田憲兵少佐同伴。浦和で吉田県令が乗車。午前4時、熊谷着。午前9時30分、寄居町に進出。
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・「午前四時ヨリ当店兵食ノ焚出シヲナス」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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・午前4時頃、群馬県に近い矢納村より「憲兵隊及び巡査大勢来り、矢納村ニ於テ夕飯ヲ喫シ居レリ、多分払暁迄ニ当郷へ繰込ミ相成ベシ」との伝令(憲兵隊は誤報、群馬県警偵察隊のこと)。
栄助は、甲乙丙3隊各600程度を編成(鉄砲隊も250を3分)。
①甲隊(副総理加藤織平・甲大隊長新井周三郎・大野苗吉指揮)は荒川の竹の鼻渡し場を固めて小鹿野・吉田方面に備える。
②乙隊(参謀長菊池貫平・乙大隊長飯塚森蔵指揮)は大野原村に進出、愛宕神社に陣を取り皆野方面に備える。
③丙隊(落合寅市指揮)は予備隊として大宮郷に控える。
総理田代栄助は、会計長井上伝蔵・会計副長宮川津盛・軍用金集方柴岡熊吉・小荷駄方小柏常次郎・伝令使門平惣平ら幹部と大宮に。
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この時、田代栄助は、「竹槍ヲ除キ鉄砲隊及ビ抜刀隊へ手当トシテ一人ニ付金壱円」の割合で、飯塚森蔵と落合寅市に各500円、門平惣平300円、新井周三郎100円を分配(「田代栄助訊問調書」)。
また、買い集めた弾薬は大宮郷に留め置き、「何レノ口ヨリ受取リニ来ルモ、渡方ニ差支ナキ様」にする(「新井庄蔵訊問調書」)。
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「三日、午前七時頃兇徒等大概兵粮ヲ喫シ終り、追々皆野村へ進軍ス、又隊ヲ分ケ竹ノ鼻口エ固ムルアリ、或ハ入方へ人足ヲ駆リニ行アリ、或ハ名栗村ノ方吾野ノ方へ人足ヲ集ニ行アリ、兇徒等追々繰出セシニツキ市中稍々静カナリ、然レドモ秩父神社境内ヨリ市中所々ニ残徒共未ダ散在セリ、該党幹事二名帳元へ来り、皆野村ニテ官兵卜接戦ノ時ハ本店ニテ兵粮ノ焚出シヲ依頼スルトテ、金拾五円ヲ其手当トシテ預ケ置ケリ、其後二、三時間ヲ過ギテ、最早其義ニ及バズトテ、金員ヲ取戻シニ来レリ」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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大宮郷を中心とする守備体勢をとり、挙兵の長期維持を企図する消極的戦略に見える。
しかし、甲隊(加藤織平・新井周三郎)は下吉田へ、乙隊(菊池貫平・飯塚森蔵)は皆野に向う。
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・午前5時、川越警察署長岡田警部は、県庁笹田少書記官に川越士族募集申請。笹田は50名程度の士族巡査臨時募集指示。3時間程で52名が応募。この日中に飯能(45名)、小川口(7名)に向う
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・午前6時、埼玉県首脳部、内務卿に対し警視庁巡査70名の浦和派遣を要請、却下される。中央は川越を重視する。
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東京鎮台参謀高井少佐は、笹田書記官に対し、「内務卿ハ川越地方ノ事最モ懸念ナリ、一端此ニ及プトキハ害又少々ニアラズ、注意スべキ事云々 スデニ派遣スべキ(鎮台兵ノ)隊名モ定マリ居レリ」と語る。
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・午前7時、甲・乙隊、大宮郷を出る。
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・午前8時20分、埼玉県令(知事)吉田清英(44)、兵事課長二等属村田譲吉と共に寄居町に進出、現地の直接指揮に当たる。
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吉田清英:
鹿児島県士族、埼玉県令。明治元年、初め鎮撫使西園寺公望に随い山陰道を進むが、江戸進攻にあたっては北陸道を進撃、越後の長岡城攻撃での武功を認められ、「北陸道総大小荷駄方」(兵站軍需品の大荷駄(兵器・弾薬)と小荷駄(糧株・医薬品)の調達・輸送の総指揮)に任ぜられる。
その後、東京府、酒田県(山形県の一部)勤務を経て、9年埼玉県権参事、15年3月書記官、白根県令病没後、県令に就任。県令退職後は本庄町に住んで蚕糸業の発展に尽す。
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・午前9時、竹の鼻の甲隊(織平・周三郎)、憲兵隊・巡査が吉田村に入るとの情報(誤報)に、荒川を渡り前日と逆のコースで小鹿野峠を越える。
下小鹿野村で高利貸高橋金平を襲い、小鹿野には自衛組織が出来ているためこれを避け、東に向かい午後4時、下吉田村入り。ここでも高利貸須藤弥平を脅迫して400円を奪い、午後6時頃大田村入りし、高利貸富田儀一郎を襲い、野巻村~大淵村に入る(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
午後11時頃、昼に襲った下吉田の高利貸須藤弥平を再度襲う。
東京憲兵隊70余が矢納入りとの情報で、新井周三郎は島崎嘉四郎と新井悌次郎に夫々250を与え、日野沢と石間から矢納挟撃をさせる。嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する。
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この日、下吉田村で狩り出し、甲隊は1千人以上に膨れる。
井上耕地で「暴徒」の一手の大将とみられる竹内牧太郎(25、下吉田村)と飯塚健次が、貴布禰神社の前で呼びかけ。
「吾輩既ニ国ノ為ニ兵端ヲ開キ、戸長役場又大宮警察署及裁判所ヲ破壊シ、其書類ヲ焼キ棄タリ、官衙ヲ毀損スル既ニ政府ニ抗スルナリ、軍敗レバ必ズ厳刑ニ処セラルベシ、衆此意ヲ得テヨク力ヲ尽シ、必勝ヲ期セヨ」と呼びかけ、小旗を振って「後レテハ卑怯ナルゾ、進メヤ進メ」と号令、「エイエイヲゝ」と鯨波をつくって押し出す。
この時の竹内・飯塚について、田中千弥「秩父暴動雑録」には、「三日、竹内牧太郎・飯塚健次等井上ニ来り、父母妻子へ暇乞ヲナシ」とあり、役割表に名を連ねていない一般農民兵のこの蜂起にかける気概が窺える。
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・乙隊(貫平・森蔵)は、熊谷に一揆起こり寄居・野上警察署破壊、熊谷まで遮るものなしとの誤報を信じ大野原を出発。黒谷村を経て、9時頃、皆野に侵入、県警の本部であった角屋に本陣をおく。
沿道では狩り出しを行い、裕福な家からは金銭・刀剣を強奪。午前10時、栄助一行も皆野の本陣に到着。皆野に集まった銃砲隊は70~80名で、ここから対岸に渡る3つの渡し場に抜刀隊と共に配置される。
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●皆野占領
皆野村は戸数381戸、人口1,800余。1日夜、警察本部は撤退。
戸長役場の記録による皆野村襲撃の様子。
「十一月三日午前七時頃、三人ノ暴徒、羽織袴ヲ着シ、白木綿ノ鉢巻ニテ脇差及ビ槍ヲ携帯シ釆リテ、交番所及ビ民家二戸ヲ破壊シタリ、暫時ニシテ一人ハ車ヲ雇ヒ大宮郷ニ向テ走駆セリ、蓋シ大宮郷ニ屯集セシ暴徒ヨリ斥候トシテ来りタル者ナラン、他ノ二人ハ字親鼻ニ於テ飲食セリ
午前九時頃、暴徒凡ソ四、五百人、真先ニ白旗ヲ立テ、各銃砲・槍・長刀等ヲ携帯シ、螺貝ヲ吹キ、鬨声ヲ発シ寄セ来レリ、其中ニ羽織袴ヲ着シタル者凡ソ百五、六十人アリテ、各方尺ノ白布ニ甲又ハ乙ノ字ヲ記シ、之ヲ襟ニ挿シタリ、其中巨魁卜認ムベキ者ハ手ニ之ヲ携へタリ、村内へ侵入スルヤ否、抜刀ニテ五人乃至十人位ヅツ財揮アル名ノ家宅ニ押入り、焚出シヲ命ジ、応ゼザレバ斬殺ス、或ハ火ヲ放ツベシト脅迫ヲ極メタリ、同時ニ旅人宿野口タツ方ヲ本陣トシ、総理又ハ小隊長トモ認ムベキ者此ニ居レリ、同日午後三時頃ニ至リタル時ハ暴徒等凡ソ二千余人アリ、総理指揮シテ之ヲ三分シテ、親鼻・栗谷瀬及ビ大浜ノ三波船場ヲ守ラシメタリ、
是ヨリ先キ暴徒等ハ抜刀ニテ毎戸ニ押入リ、出ザル者ハ打殺ス、或ハ焼払フト脅迫セリ、而シテ村内ノ男丁ハ既ニ逃避シ、其僅ニ家ニ在ル者ハ、炊場ニ助力スルヲ口実トシ、免ルルヲ得タリ、又戸島ノ宅ニ入り金ヲ出サシメ、其他民家ニ於ケルモ、或ハ金銭、或ハ刀槍・銃砲、或ハ衣類・雑器等ヲ強奪セリ」(「秩父暴動被害諸村概況皆野村」)。
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●11月3日の狩り出し
3日は、東方の各村に別動隊を派遣し、①芦ケ久保村~南川村~坂石村、②山田村~栃谷村~定峰村の2ルートで人足狩りだしを行う。
①は正丸峠を越え、午後5時頃、18名が坂石村に進出し聯合戸長役場に押しかける。久保新平戸長に1戸1名の差し出しを迫り、これを各村に触れさせ、戸長宅で白米5升を焚き出させて食い、残った飯を握り飯しにさせる。
また、戸長宅の合薬200匁を奪い、各戸を脅して50~60人を集める。しかし、午後7時頃、川越警察署長岡田警部率いる臨時徴募の士族巡査隊の接近を知り、正丸峠に引き返す。
②では、午前9時頃、30人ほどが抜刀・槍・銃砲を構え、山田村を襲い、聯合戸長役場に押しかける。そこには誰も居ないため、橋本又太郎戸長宅に押しかけ、表と裏を8~9人ずつが取り囲み、重立ち6人が家の中に入り人足差出を迫る。
「今回我々自由党員ニテ発起セシ旨趣、政府ノ政事甚ダ酷ニシテ、追々人民ニ労苦ノ増ル事勢見ルニ不忍、故ニ斯ル大事ヲ相醸シ、各村毎戸同盟出頭セシモ、当聯合部内村々ニ限り、今ニ同盟出頭スルモノ無之ニ付、速ニ同盟シ、刀カ銃砲等携帯シ、一同出頭致候様可成事、万一意ニ不応トキハ、己ニ昨夜大宮郷ニ於テ放火セシ如ク、戸長自宅ヲ首メトシ、全村放火ニ可及、又返答ノ次第ニヨリ直チニ伐殺スベシ」。
しかし、戸長が不在のため、諦めて三沢村方向に立ち去る。その後、午後7時頃、再び来て、「人夫督促ノタメ立越タルニ付、速ニ一同出頭スベク、万一違背スルニ於テハ伐殺シ、又ハ放火ニ及ブ」と民家を個々に触れて図り、洋銃1挺(価1円)、脇差2本(価60銭)などを奪って引き揚げる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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2009年11月14日土曜日
明治17(1884)年11月1日~ 坂本宗作らの遊撃隊の活動
明治17(1884)年11月1日~ 坂本宗作らの遊撃隊の活動
*
今回は、11月3日以前の困民軍遊撃隊の活動について。
*
①作本宗作隊
*
・坂本宗作(乙隊の伝令使)は、上吉田村~巣掛峠に向う主力と別れ、別働隊50~60名を率い2日午前2時、日尾村入り。各村々の駆出しのためこの頃200名となる。
日尾村和田の聯合戸長役場で人足駆出しと公証簿の焼き捨て(この日午前5時頃参加した「酉番」は4日の石間の戦いで群馬の警部を斬り、後死刑になる)。高利貸し焼討ちせず、鍵を出させて土蔵を開ける。次の藤倉村も同様。日尾村聯合からは100名ほどが出て、ゲリラ隊は300に膨れ上がり、昼頃、本隊の後を追って大宮入り。
*
戸長役場では筆生の関口俊平(製糸工場日尾盟社社長、51)が宿直。彼は、村の重立ちを集め、こうなったら一命にはかえ難いから要求通りにする方針を定める。
戸長も、蜂起目的についてある程度共感し、「近頃は追々不景気ヲ来シ、百姓困窮ニ相成り、如何ニモ難渋ニ付、先ソノ高利貸ヲナスモノノ家ヲ破壊シ、夫ヲ防ギニ来ル者ヲ打払ヒ、百姓ハ楽ニナル」と言うので、この村では役場が農民に出ろという形になる。
戸長役場に対する人足の要求は、3ヶ条。
「一、聯合村中、一戸ニ付一人ノ人足ヲ差出スべシ。
一、右人足ハイヅレモ刀剣銃器ヲ携フルヲ要ス、所有ナキ者ハ何カ凶器ヲ携フベシ。
一、白木綿ヲ以テ票示ヲナスべシ。」。
公証薄焼き捨ても、白刃をきらめかせての脅迫であり、関口はこれも見逃す。
次に、関口の隣家の高利貸に案内しろと言われ、行ってみると主人はいない。しかし、1,000円近い貸金証書は近所の人が差出したので関口は放火をお許し願いたいと交渉、農民が土蔵打ち毀しを始めたので、女房から鍵を借りて開けさせる。
*
・約300に膨れ上がった坂本宗作隊は、2日午後、小鹿野町に入り、前夜本隊が打毀した高利貸の加藤恒吉(常盤屋)・柴崎佐平(山二)の家を襲う。
その後、この隊は小鹿坂峠を越えて、大宮郷の本隊に合流。
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「午後二時、西方ヨリ暴徒二、三百名、北ノ方巣掛峠ヲ越テ二百余名、各猟銃・刀槍及竹槍等ヲ携へ、小鹿野町へ繰込ミ、柴崎佐平・加藤恒吉ノ宅ヲ再ビ毀シ、倉庫ヲ開キ、雑品ヲ道路ニ焼ク、勢甚ダ猖獗ナリ、男子ヲ見レバ脅迫シ、賊ノ隊伍へ加へントス、故ニ人民若トナク老トナク遁逃シテ家々皆婦女子ナリ、暴賊其機ニ乗ジ横恣極マルナシ」(「小鹿野町へ暴徒乱入ノ状況」)
*
②高岸善吉隊。
*
高岸善吉(乙隊、下吉田村小隊長)は、小鹿野町襲撃後、飯田村小隊長の犬木寿作と共に、数10名を率い飯田村~三山村に進み、商店2軒を打毀す。
この時、打毀された1軒の主人は精神に異常をきたし、戸長役場の用事で通りかかった無関係の村民を、刀で刺殺(「秩父暴動雑録」)。
その後、更に志賀坂峠の手前の河原沢村まで進み、ここでは2軒から20円ずつを奪い、同じ道を引き返し、往きに呼びかけておいた犬木寿作の飯田村(戸長役場を通じて呼掛け挙村参加となる)で200名ほどを加え、本隊の後を追って大宮郷に向う。
*
③今井幸三郎隊
*
今井幸三郎(36、秩父郡三山村、飯田村聯合戸長役場で高岸善吉隊に加わる)は、河原沢村で人足狩り出しを行い、反転して小鹿野町に入る。
ここで高岸善吉の指示で150人を率い、薄村・小森村・贅川村で狩り出し、白久村では現金20円と刀剣1振を掠奪、大滝村で酒食を出させ20円を奪う。大滝村で3日の夜明けとなるが、手勢に与える糧食が得られず、「衆飢餓ヲ訴へ」離散となる。
取り残された今井幸三郎は山中を放浪するが、6日藤倉村で見張番に発見され、憲兵に引渡される(「今井幸三郎裁判言渡書」)。
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④宮川寅五郎隊
*
1日夜小鹿野町襲撃後、②の高岸善吉・大木寿作等と三山村に行き、ここで隊を二分。
宮川寅五郎・犬木寿作らは、薄村戸長役場に押しかけ「村吏ヲ斬殺ス」と脅かして村民募集と炊きだしを迫る。
2日朝、小森村に進み109円70銭を強奪、続いて同村戸長役場で村民募集を迫る。次に贅川村に進み、磯田忠吉を脅して刀4本・小銃2挺を奪う。
上田野村戸長役場では村民募集を迫り、午後5時頃大宮郷に引揚げる。掠奪した金員のうち80円を田代栄助に、5円を犬木寿作に渡す。
ここで、寅五郎は田代栄助から4円40銭を貰い、この夜土地の事情に明るい堀口幸助の案内で再び荒川上流に向い、上田野村の高利貸三上重左衛門方に押しかけ、抜刀して貸金証書と軍用金の差し出しを迫る。
重左衛門は「手元ニ所持セズ、家族ノ出先ヨリ持参スベシ」と言うので、組合の者3名を重左衛門に随行させ、4名を人質とするが、同人は戻らず。
寅五郎は、「自由党屯所宮川寅五郎」と書いた旗を作り、これを押し立ててその夜は大宮郷に引き揚げる。
翌3日も、寅五郎は三上方に上るが、大宮郷からの使いが「田代栄助等皆野村ニ進発シ、指揮スル者無之、速ニ来会セヨ」と伝えると、周囲の者は態度を一変して寅五郎に反くようになり、午後7時頃、寅五郎は戸長三上薗次らに捕えられる。
*
宮川寅五郎:
浜松生れ、無籍の目稼業、40歳。この年9月以降、上吉田村に流寓、加藤織平らの勧めで困民党の運動に加わり、蜂起の際は「軍用金徴収方」。
*
「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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次回より、11月3日以降の困民軍崩壊過程に移ります。
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今回は、11月3日以前の困民軍遊撃隊の活動について。
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①作本宗作隊
*
・坂本宗作(乙隊の伝令使)は、上吉田村~巣掛峠に向う主力と別れ、別働隊50~60名を率い2日午前2時、日尾村入り。各村々の駆出しのためこの頃200名となる。
日尾村和田の聯合戸長役場で人足駆出しと公証簿の焼き捨て(この日午前5時頃参加した「酉番」は4日の石間の戦いで群馬の警部を斬り、後死刑になる)。高利貸し焼討ちせず、鍵を出させて土蔵を開ける。次の藤倉村も同様。日尾村聯合からは100名ほどが出て、ゲリラ隊は300に膨れ上がり、昼頃、本隊の後を追って大宮入り。
*
戸長役場では筆生の関口俊平(製糸工場日尾盟社社長、51)が宿直。彼は、村の重立ちを集め、こうなったら一命にはかえ難いから要求通りにする方針を定める。
戸長も、蜂起目的についてある程度共感し、「近頃は追々不景気ヲ来シ、百姓困窮ニ相成り、如何ニモ難渋ニ付、先ソノ高利貸ヲナスモノノ家ヲ破壊シ、夫ヲ防ギニ来ル者ヲ打払ヒ、百姓ハ楽ニナル」と言うので、この村では役場が農民に出ろという形になる。
戸長役場に対する人足の要求は、3ヶ条。
「一、聯合村中、一戸ニ付一人ノ人足ヲ差出スべシ。
一、右人足ハイヅレモ刀剣銃器ヲ携フルヲ要ス、所有ナキ者ハ何カ凶器ヲ携フベシ。
一、白木綿ヲ以テ票示ヲナスべシ。」。
公証薄焼き捨ても、白刃をきらめかせての脅迫であり、関口はこれも見逃す。
次に、関口の隣家の高利貸に案内しろと言われ、行ってみると主人はいない。しかし、1,000円近い貸金証書は近所の人が差出したので関口は放火をお許し願いたいと交渉、農民が土蔵打ち毀しを始めたので、女房から鍵を借りて開けさせる。
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・約300に膨れ上がった坂本宗作隊は、2日午後、小鹿野町に入り、前夜本隊が打毀した高利貸の加藤恒吉(常盤屋)・柴崎佐平(山二)の家を襲う。
その後、この隊は小鹿坂峠を越えて、大宮郷の本隊に合流。
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「午後二時、西方ヨリ暴徒二、三百名、北ノ方巣掛峠ヲ越テ二百余名、各猟銃・刀槍及竹槍等ヲ携へ、小鹿野町へ繰込ミ、柴崎佐平・加藤恒吉ノ宅ヲ再ビ毀シ、倉庫ヲ開キ、雑品ヲ道路ニ焼ク、勢甚ダ猖獗ナリ、男子ヲ見レバ脅迫シ、賊ノ隊伍へ加へントス、故ニ人民若トナク老トナク遁逃シテ家々皆婦女子ナリ、暴賊其機ニ乗ジ横恣極マルナシ」(「小鹿野町へ暴徒乱入ノ状況」)
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②高岸善吉隊。
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高岸善吉(乙隊、下吉田村小隊長)は、小鹿野町襲撃後、飯田村小隊長の犬木寿作と共に、数10名を率い飯田村~三山村に進み、商店2軒を打毀す。
この時、打毀された1軒の主人は精神に異常をきたし、戸長役場の用事で通りかかった無関係の村民を、刀で刺殺(「秩父暴動雑録」)。
その後、更に志賀坂峠の手前の河原沢村まで進み、ここでは2軒から20円ずつを奪い、同じ道を引き返し、往きに呼びかけておいた犬木寿作の飯田村(戸長役場を通じて呼掛け挙村参加となる)で200名ほどを加え、本隊の後を追って大宮郷に向う。
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③今井幸三郎隊
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今井幸三郎(36、秩父郡三山村、飯田村聯合戸長役場で高岸善吉隊に加わる)は、河原沢村で人足狩り出しを行い、反転して小鹿野町に入る。
ここで高岸善吉の指示で150人を率い、薄村・小森村・贅川村で狩り出し、白久村では現金20円と刀剣1振を掠奪、大滝村で酒食を出させ20円を奪う。大滝村で3日の夜明けとなるが、手勢に与える糧食が得られず、「衆飢餓ヲ訴へ」離散となる。
取り残された今井幸三郎は山中を放浪するが、6日藤倉村で見張番に発見され、憲兵に引渡される(「今井幸三郎裁判言渡書」)。
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④宮川寅五郎隊
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1日夜小鹿野町襲撃後、②の高岸善吉・大木寿作等と三山村に行き、ここで隊を二分。
宮川寅五郎・犬木寿作らは、薄村戸長役場に押しかけ「村吏ヲ斬殺ス」と脅かして村民募集と炊きだしを迫る。
2日朝、小森村に進み109円70銭を強奪、続いて同村戸長役場で村民募集を迫る。次に贅川村に進み、磯田忠吉を脅して刀4本・小銃2挺を奪う。
上田野村戸長役場では村民募集を迫り、午後5時頃大宮郷に引揚げる。掠奪した金員のうち80円を田代栄助に、5円を犬木寿作に渡す。
ここで、寅五郎は田代栄助から4円40銭を貰い、この夜土地の事情に明るい堀口幸助の案内で再び荒川上流に向い、上田野村の高利貸三上重左衛門方に押しかけ、抜刀して貸金証書と軍用金の差し出しを迫る。
重左衛門は「手元ニ所持セズ、家族ノ出先ヨリ持参スベシ」と言うので、組合の者3名を重左衛門に随行させ、4名を人質とするが、同人は戻らず。
寅五郎は、「自由党屯所宮川寅五郎」と書いた旗を作り、これを押し立ててその夜は大宮郷に引き揚げる。
翌3日も、寅五郎は三上方に上るが、大宮郷からの使いが「田代栄助等皆野村ニ進発シ、指揮スル者無之、速ニ来会セヨ」と伝えると、周囲の者は態度を一変して寅五郎に反くようになり、午後7時頃、寅五郎は戸長三上薗次らに捕えられる。
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宮川寅五郎:
浜松生れ、無籍の目稼業、40歳。この年9月以降、上吉田村に流寓、加藤織平らの勧めで困民党の運動に加わり、蜂起の際は「軍用金徴収方」。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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次回より、11月3日以降の困民軍崩壊過程に移ります。
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2009年11月3日火曜日
明治17(1884)年11月1日~ 群馬県警の対応
明治17(1884)年11月1日~群馬県警の対応
*
しばらく中断してましたので、・・・。
(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領、一種のコミューン状況が現出する。困民軍は田代栄助の指揮の下に高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走り、ついで埼玉県警トップの江夏警部長(県警本部長)も現地に入り陣頭指揮を行う。
そして遂に憲兵隊出動の決定が下る。
一方の困民軍は翌3日になると自壊の道を歩むことになりますので、この2日というのは蜂起の分水嶺ともいうべき時に相当します。
**
**
今回は、蜂起のあった埼玉県の隣県で、ここからも小柏常次郎などの参加者を出した群馬県側の県警の対応について。
*
*
1日午前中、群馬・埼玉県境の鬼石町で、「武州秩父郡ニ於テ暴徒蜂起シ、頻リニ刀槍及ビ銃器ヲ集メ、諸方ノ人民ヲ教唆或ハ脅迫シ乍ら数百人卜成り、本県管内ニ侵入スルノ説」が流れ、「人心洶々」となる。
この日、鬼石町巡査派出所の巡査は、藤岡警察署に対し「秩父郡ニ於テ暴徒蜂起シ、群馬県南甘楽郡保美濃山村辺ヲ横行」と急報を発し、午後には藤岡警察署高山警部が巡査6~7名を率い鬼石町に進出。
夜、「事ヲ好ムノ徒」は、「街上ニ材木・大石・巨縄ヲ列シ、往来ヲ妨害」し、戸長はこれを取り除くための人夫を動員。
*
群馬県警は、この年5月の群馬事件参加者の動静に神経をとがらせ、富岡警察署長には「上丹生村事件ノ被告人ニテ目下保釈帰宅致居候者共ノ挙動」に厳重注意を指令。
しかし、保美濃山近辺に集合したのは、秩父に向う暴徒と判明。
*
群馬県の岩鼻監獄には政治犯が収容され、また近くに火薬庫もあり、群馬県警警部長河野忠三は、秩父蜂起を知り「暴徒ハ第一ニ鬼石ヲ衝ク」と判断する(河野は、第2代埼玉県令(明治6年6月~15年3月)白根多助の三男、のち奈良県知事などを勤める)。
*
この日は三条太政大臣が邑楽郡を通過するため、群馬県警主力は館林方面に集中しているが、河野警部長は鬼石に現地本部を設け、自らそこに進出し、警部巡査100余を指揮。
*
翌2日、警官は増援されるが「暴徒西南ニ充満シ、益々猖獗」の風説が流れ、鬼石町は「人民家財ヲ取纏ムル等甚ダ騒然」となる。
*
保美濃山村聯合(保美濃山村・譲原村・坂原村)は、「南ハ秩父郡矢納村・石間村・上日野沢村等、暴徒巣窟之地ニ接シ、纔(ワズカ)ニ神流川ノ一川ヲ隔ツルノミ」であり、1日午前6時には「秩父郡ノ暴徒、同郡石間村・矢納村地内城峯山ニ集合シ、夫ヨリ手ヲ分ッテ各所ノ戸長役場及ビ富家へ押入リ、公証割印簿・証書類・其他必要ノ書類焼捨ツル説」が伝わり、戸長新井村二は、用掛ら15名を戸長役場に詰めさ警戒。
*
2日正午、戸長は聯合村内の伍長など重立ちを集め、「今般埼玉県下秩父郡ニ於テ暴民等蜂起シ、其模様ハ南甘楽郡ヨリ多胡郡ヲ連ネ、国事犯ニ関スル挙動アル難斗(ハカリガタシ)、困民党ノ集合卜誤り、妄ニ加盟致シ候者有之トキハ、日ナラズシテ後悔ニ及ブベクハ勿論ナリ、依テ心得違ヒノ者無之様」訓示シ、「伍長ニ於テ人民ヲ改メ、他出ヲ禁ジ」「万不得止他出ノ節ハ、村吏及ビ伍長ノ承諾ヲ得ルコト」「御用人夫トシテ出向スル者卜雖モ、戸長役場ヨリ旅行券ヲ受クルコト」を指示シ、外出を厳重に規制。
*
鬼石町は「秩父郡ニ突出シ、三面皆賊地ニシテ居守尤モ不便」であり、4日未明、警部長は「防禦傍賊状偵察」のため、警部巡査30余を児玉郡太駄口に、27名を南甘楽郡保美濃山口に派遣し、秩父郡上日野沢村での合流を指。
しかし、保美濃山口の隊は、進路の都合で途中で二分し、一手は秩父郡矢納口に、一手は同郡太田部村に向う。
4日午後、この二手は上日野沢村と石間村の半納で困民軍の襲撃を受け、半納では隊長柱野警部補が戦死、巡査2人が重傷を負い、鬼石町に逃げ帰る。また、矢納村では前川彦六巡査が捕われ、困民軍の信州転進組に連行される(7日、十石峠で惨殺)。
*
3日、群馬県警は鉄砲100挺と弾薬の借用を大迫警視総監に申し入れると、警視総監は「内務卿ノ命アレバ御用立申スベシ」と回答。
そこで、内務卿に対し手配方申請するが、回答は「巡査ニ銃器ヲ渡サシムル儀ハ不相成、兵備ヲ要スルナラバ高崎官庁へ請求スベシ」とし、警察官の銃器使用は許可されず。
*
そのため群馬県は、高崎分宮に鎮台兵出動を要請し、6日には東京からスペンセル銃、ピストル、弾薬を購入(但し、現地警官に配備しないうちに事件は終わる)。
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4日、出動要請を受けた高崎分宮の鎮台兵が藤岡町と岩鼻へ各1個中隊が出動。この夜、秩父新道を児玉・八幡山町に進んだ困民軍が、途中の河内村で民家に放った火は、鬼石町からも見え、また鯨声も聞え、藤岡町の鎮台兵はこの夜、保美濃山村の渡般場へ、翌5日には鬼石町に進出。
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その後、困民党の信州転進組が山中谷に現われると、この中隊は万場町から十石峠手前の白井まで進軍するが、困民軍との戦いはなく終息する。
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しばらく中断してましたので、・・・。
(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領、一種のコミューン状況が現出する。困民軍は田代栄助の指揮の下に高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走り、ついで埼玉県警トップの江夏警部長(県警本部長)も現地に入り陣頭指揮を行う。
そして遂に憲兵隊出動の決定が下る。
一方の困民軍は翌3日になると自壊の道を歩むことになりますので、この2日というのは蜂起の分水嶺ともいうべき時に相当します。
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今回は、蜂起のあった埼玉県の隣県で、ここからも小柏常次郎などの参加者を出した群馬県側の県警の対応について。
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1日午前中、群馬・埼玉県境の鬼石町で、「武州秩父郡ニ於テ暴徒蜂起シ、頻リニ刀槍及ビ銃器ヲ集メ、諸方ノ人民ヲ教唆或ハ脅迫シ乍ら数百人卜成り、本県管内ニ侵入スルノ説」が流れ、「人心洶々」となる。
この日、鬼石町巡査派出所の巡査は、藤岡警察署に対し「秩父郡ニ於テ暴徒蜂起シ、群馬県南甘楽郡保美濃山村辺ヲ横行」と急報を発し、午後には藤岡警察署高山警部が巡査6~7名を率い鬼石町に進出。
夜、「事ヲ好ムノ徒」は、「街上ニ材木・大石・巨縄ヲ列シ、往来ヲ妨害」し、戸長はこれを取り除くための人夫を動員。
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群馬県警は、この年5月の群馬事件参加者の動静に神経をとがらせ、富岡警察署長には「上丹生村事件ノ被告人ニテ目下保釈帰宅致居候者共ノ挙動」に厳重注意を指令。
しかし、保美濃山近辺に集合したのは、秩父に向う暴徒と判明。
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群馬県の岩鼻監獄には政治犯が収容され、また近くに火薬庫もあり、群馬県警警部長河野忠三は、秩父蜂起を知り「暴徒ハ第一ニ鬼石ヲ衝ク」と判断する(河野は、第2代埼玉県令(明治6年6月~15年3月)白根多助の三男、のち奈良県知事などを勤める)。
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この日は三条太政大臣が邑楽郡を通過するため、群馬県警主力は館林方面に集中しているが、河野警部長は鬼石に現地本部を設け、自らそこに進出し、警部巡査100余を指揮。
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翌2日、警官は増援されるが「暴徒西南ニ充満シ、益々猖獗」の風説が流れ、鬼石町は「人民家財ヲ取纏ムル等甚ダ騒然」となる。
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保美濃山村聯合(保美濃山村・譲原村・坂原村)は、「南ハ秩父郡矢納村・石間村・上日野沢村等、暴徒巣窟之地ニ接シ、纔(ワズカ)ニ神流川ノ一川ヲ隔ツルノミ」であり、1日午前6時には「秩父郡ノ暴徒、同郡石間村・矢納村地内城峯山ニ集合シ、夫ヨリ手ヲ分ッテ各所ノ戸長役場及ビ富家へ押入リ、公証割印簿・証書類・其他必要ノ書類焼捨ツル説」が伝わり、戸長新井村二は、用掛ら15名を戸長役場に詰めさ警戒。
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2日正午、戸長は聯合村内の伍長など重立ちを集め、「今般埼玉県下秩父郡ニ於テ暴民等蜂起シ、其模様ハ南甘楽郡ヨリ多胡郡ヲ連ネ、国事犯ニ関スル挙動アル難斗(ハカリガタシ)、困民党ノ集合卜誤り、妄ニ加盟致シ候者有之トキハ、日ナラズシテ後悔ニ及ブベクハ勿論ナリ、依テ心得違ヒノ者無之様」訓示シ、「伍長ニ於テ人民ヲ改メ、他出ヲ禁ジ」「万不得止他出ノ節ハ、村吏及ビ伍長ノ承諾ヲ得ルコト」「御用人夫トシテ出向スル者卜雖モ、戸長役場ヨリ旅行券ヲ受クルコト」を指示シ、外出を厳重に規制。
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鬼石町は「秩父郡ニ突出シ、三面皆賊地ニシテ居守尤モ不便」であり、4日未明、警部長は「防禦傍賊状偵察」のため、警部巡査30余を児玉郡太駄口に、27名を南甘楽郡保美濃山口に派遣し、秩父郡上日野沢村での合流を指。
しかし、保美濃山口の隊は、進路の都合で途中で二分し、一手は秩父郡矢納口に、一手は同郡太田部村に向う。
4日午後、この二手は上日野沢村と石間村の半納で困民軍の襲撃を受け、半納では隊長柱野警部補が戦死、巡査2人が重傷を負い、鬼石町に逃げ帰る。また、矢納村では前川彦六巡査が捕われ、困民軍の信州転進組に連行される(7日、十石峠で惨殺)。
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3日、群馬県警は鉄砲100挺と弾薬の借用を大迫警視総監に申し入れると、警視総監は「内務卿ノ命アレバ御用立申スベシ」と回答。
そこで、内務卿に対し手配方申請するが、回答は「巡査ニ銃器ヲ渡サシムル儀ハ不相成、兵備ヲ要スルナラバ高崎官庁へ請求スベシ」とし、警察官の銃器使用は許可されず。
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そのため群馬県は、高崎分宮に鎮台兵出動を要請し、6日には東京からスペンセル銃、ピストル、弾薬を購入(但し、現地警官に配備しないうちに事件は終わる)。
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4日、出動要請を受けた高崎分宮の鎮台兵が藤岡町と岩鼻へ各1個中隊が出動。この夜、秩父新道を児玉・八幡山町に進んだ困民軍が、途中の河内村で民家に放った火は、鬼石町からも見え、また鯨声も聞え、藤岡町の鎮台兵はこの夜、保美濃山村の渡般場へ、翌5日には鬼石町に進出。
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その後、困民党の信州転進組が山中谷に現われると、この中隊は万場町から十石峠手前の白井まで進軍するが、困民軍との戦いはなく終息する。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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2009年10月2日金曜日
明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き(3) 埼玉県警トップの陣頭指揮。 憲兵隊出動決定。
明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き(3)
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(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領し、高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走ることになる・・・。この辺から、本日の展開が始まる。
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10月31日、笹田少書記官(副知事)、江夏警部長(県警本部長)、鎌田警部(国事担当)ら県首脳は、奥州視察を終え埼玉県下を経て帰京する三条太政大臣一行警護のため行田町に出張し、沿道に多数の警官を配置して厳重な警備に当っている。
午後6時、鎌田警部は、寄居警察署長石井警部の急報に接して、警部長に対し「護衛巡査ノ内五十名ヲ寄居町ニ派遺シ、而シテ其補欠ハ幸手其他各署ヨリ募ラバ可ナラン」と申し出るが、警部長は、翌日の警護を重視して進言を容れず、鎌田警部に現地出張を命じる。
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鎌田警部は、田代刑事を伴い人力車で寄居に向う。
途中、熊谷警察署に立寄ると、山室署長(警部)は既に巡査を率い寄居町に向っていた。鎌田警部は、同署詰の福永警部補と巡査5名に随行を命じ、人力車で寄居に急ぐ。
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午後10時、一行は寄居警察署に到着、石井警部から、「風布村ノ山中ニ近村貧民三、四百名、白布ノ鉢巻襷ニテ装ヒ、兇器ヲ携へ集合、時々狼烟ヲ揚ゲ、又ハ発砲スル等、其挙動甚ダ容易ナラザルヨリ、今巡査ヲ出シテ視察中ナリ」との報告を受ける。
*
この直後、皆野村の大宮郷警察署長斉藤勤吉警部(埼玉県出身)からの伝令が、「斉藤警部、坪山警部補ハ皆野辺ニ在り、暴徒ノ風布村ヨリ下吉田村ニ行ク者ノ内十六名ヲ揃へタリ」と伝えてくる(風布村大野福次郎らの捕縛)。
ここにおいて鎌田警部は、秩父困民党の本格的蜂起と判断、「巡査ノ繰出方ヲ請求スル」ため、福永警部補を行田の警部長のもとに派遣する。また、「皆野ハ秩父ノ要地タリ、我先ヅ之ニ拠ラザレバ彼必ズ之ヲ取ラン、果シテ然ラバ我之ヲ取ル甚ダ困ムベシ」と判断し、吉峰警部に巡査14名を指揮させて皆野に向わせる。
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深夜、行田で鎌田警部からの報告を聞いた江夏警部長(県警本部長)は、翌日の太政大臣一行警護を笹田書記官に托し、勝田警部(警察本署詰、埼玉県士族、35歳)を従え直ちに寄居に向う。
途中熊谷警察署に立寄り、1日午前1時25分、浦和の警察本署(県警本部)に残留の竹部警部に電報を打ち、警察本署と岩槻・所沢・大和田・飯能の各警察署(分署)に対し、署長を除く警察官全員の寄居向け出動を命令。
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午前5時40分、江夏警部長は寄居警察署に到着。
午前6時、本野上分署応援に赴いている小川分署長深滝警部補から、午前6時30分、小鹿野分署長太田亀次郎(埼玉県士族、27歳)から「只今切迫ノ模様アリテ俄然蜂起スベキヤモ知レズ」との報告が入る。
江夏警部長は「尋常負債党ノ比ニアラザルモノ」と判断、これを笹田少書記官に報告、警部長自ら皆野村へ、場合によっては下日野沢村へ進山するかも知れないと付け加える。次に、鎌田警部に対し皆野への先行を命じる。
*
1日正午、鎌田警部は福永警部補・田代刑事・巡査5名を率い寄居を出発、皆野の手前の親鼻の渡船場で荒川を渡った時、吉峰警部が下吉田村戸長役場から差向けた伝令に会う。
*
鎌田警部は、「彼多衆ニシテ党類次第ニ加ハリ、其勢猖獗、我隊ハ少数甚ダ危急ナリ、早ク援兵巡査ヲ請フ」との報告を聞き、自ら下吉田の吉峰警部ら救援を決意。
午後3時頃、鎌田警部は皆野村に入り、旅館「角屋」を現地警察本部とし、警郡長への報告に巡査1名を寄居へ派遣し、下吉田村に向う。
荒川を渡り野巻村に入った時、大宮郷警察署の金子巡査が、半纏姿で下吉田から逃げ帰ってくるのに行きあい、吉峰警部らが困民軍の攻撃により四散した事を知る。ここで鎌田警部は、劣勢での深入りの非を悟り、皆野村で増援来着を待つ事にする。
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一方、寄居警察署では午後2時頃までに警察官約40名が集合、江夏警部長は勝田・石井・山室3警部と巡査全員を率い皆野に向う。皆野近くで、本野上分署長雨宮警部補に出会い、下吉田村での吉峰警部らのと戦い、「互ニ死傷アリ」との報告を受け、「皆愕然色ヲ失ッタ」が、急いで薄暮皆野村の現地本部「角屋」に入る。
*
江夏警部長は、鎌田警部から「沿道皆賊軍ニ応ジ、道路梗塞シ進ム能ハズ」との報告を聞き、皆野守備のため国神の金比羅坂・黒谷境・荒川渡船場の3ヶ所に警官隊を配置。
この頃、下吉田村から逃げてきた深滝警部補ら巡査数名が、「創ヲ被り、剣ニ扶ケラレテ」辿りつき、「賊軍猖獗、勢当ルベカラズ」と報告。
この夜、小鹿野町に向う困民軍が高利賃の家を放火し、その火焔は皆野からも望見され、「皆野モ又終夜騒然タリ(鎌田冲太「秩父暴動実記」)という状況。
*
動員発令による県下各署から巡査は、午後8時まで70余名になるが、賊状が判明してくると、江夏警部長は警察力の不足を痛感し、午後10時、県庁の笹田書記官に対し、三条太政大臣一行警備から帰署したばかりの警部巡査を含め、県下全警察官の皆野参集を要請。
当時秩父郡内には、登録銃だけでも軍銃293挺、猟銃2,025挺あり、困民軍はかなりの数の銃器を装備していると考えら、2日午前3時、江夏警部長は「特(ヒト)り警察ノカヲ以テ鎮圧シ得ベキトハ認メ難シ」と判断し、憲兵派遣要請を決め、特使として野村警部(警察本署詰、27歳、山口県士族)を県庁に派遣する事にする。
*
次に江夏警部長は、皆野撤退について協議。
山室(熊谷警察署長、30歳、宮崎県士族)、勝田(警察本署詰、35歳、埼玉県士族)、大西(警察本署詰、36歳、山口県士族)は「一旦退守」を主張。鎌田警部は「当地ハ枢要ノ地ニシテ・・・頑守セザルベカラズ」と反対するが、江夏警部長は最終的に、「明朝皆野ヲ発シ一旦寄居ニ退守」と決断。この間にも暴徒の情報が入り、「彼已ニ小鹿野ニ侵入シ、乱暴ノ後兵ヲ二分シ、一ハ大宮郷こ、一ハ皆野ニ襲ヒ来ラン」と予想され、鎌田警部の提案により直ちに撤退すると決定。
*
江夏警部長は鎌田警部に後事を托し、2日午前3時、警部巡査主力を率い皆野を出発。午前7時、寄居警察署に入り、寄居守備のため象ケ鼻・折原・鉢形の各渡船場に警官隊を配置。
殿軍の鎌田警部は、皆野周辺の渡船場警備にあたっている菅野・安岡・福永ら警部補指揮の警官隊を取纏め、負傷巡査を助けて皆野を出発、夜明けに本野上分署に入り、午前9時、寄居に戻る。
*
この頃、埼玉県の吉田県令は地方官会議のため上京中で、笹田少書官(副知事)と警察本署(県警本部)竹部警部が留守をあずかっている。
*
1日深夜、皆野の江夏警部長からの巡査の至急増派要請を受け、竹部警部は、草加など12警察署(分署)に対し埼玉県警総動員命令を発す(「其署巡査内勤外勤ヲ論ゼズ、尋常事務ハ措キ、一名ニテモ多ク、二人挽車ニテ昼夜兼行、寄居警察へ派遣」命令をを飛脚と警馬(警察専用の伝令馬)で伝える。
*
一方、皆野で憲兵派遣要請特使に任命されたた野村警部は、2日午前6時15分、熊谷電信分局から県庁の笹田少書記官あて電報を発す。
「暴徒千人ニ及プ、勢力益々加ハル、至急皆野村へ向ケ憲兵派遣方御請求アリタシ、右警部長ノ命ニ依り上申ス、委細ハ後刻帰庁申上ル 熊谷警察署ヨリ 野村警部 埼玉県庁 笹田少書記官」。
*
午前7時、笹田少書記官はこの電報を受け取るが、「昨日来ノ報道ヲ見ルニ、警部巡査ガ鎮圧ニ尽シタル事分明ナラズ、・・・故ニ憲兵ヲ請フ事尚ホ早シ」と判断し、在京の吉田県令に対し、午前9時40分、「暴徒千人ニ及ビ勢力益々加ハルニヨリ、憲兵派遣方請求ノ儀警部長ヨリ申来りタレドモ、憲兵ヲ求ムルニハ尚ホ早カルベシト存ジ、先ヅ他ノ署巡査ヲ繰出ス事ニ取計ヒ置タリ、憲兵ヲ請求スル場合ニ至レバ尚申上ベシ、・・・」と報告。
しかしその直後、県庁に帰った野村警部から、「暴徒勢力益加ハリ、銃砲ヲ以テ進ミ来ル、已ニ昨日下吉田村ニ於テ警部巡査ニ抗敵ス、巡査死傷アリ、彼レハ砲発進ミ来り、我ハ抜刀之レヲ拒グノミ、徒ラニ死地ニ陥ルノ外術ナシ、・・・」との報告があり、続いて、寄居に後退した江夏警部長から、「兵隊ノ出張片時モ早クアリタシ、小官始メ今朝一同寄居へ打揚ゲタリ、増員ノ為メ各署ヨリ募ル巡査、早ク出張ノ取計アリタシ」との電報が届く。
笹田少書記官は「警察予防ノ策尽キタリ」と判断し、午前11時過ぎ、内務卿山県有朋に対し憲兵出動を要請。
この時の笹田少書記官の判断。
「敢テ警部巡査ヲ以テ鎮圧セントスレバ、虚シク時日ヲ延シ、波及モ亦甚カルベシ、且ツ秩父一郡ハ山間ノ僻地ニシテ、猟銃殊ニ多ク、暴徒加ルニ随ヒ銃器従テ加ル、嘯聚日ヲ追ヒ、遂ニ拒グ可カラザルノ勢ニ到ルモ計り難シ、又群馬県南甘楽郡ニ於テ既ニ小民蜂起セシ事ハ、昨夜同県警部長警報アリ、該地卜秩父郡ハ偶々過激党ノ在ルアリ、気脈相通ジテ以テ不軌ヲ謀ルトキハ、或ハ尋常一撥ノ類ニアラザルベシ、且ツ茨城暴挙近ニアリ、輩下地勢亦遠キニアラズ、若シ他ニ影響スル事甚シキニ至レバ容易ナラザル事態ナリ、寧ロ兵力ヲ以テ速ニ鎮定スルニ如カズ(「埼玉県少書記官笹田黙介記「秩父郡暴徒処分頴未」)。
*
また、笹田少書記官は、憲兵出動の早期実現のため野村警部を内務省に派遣、野村警部は内務省に秩父の情況を報告し、更に山県内務卿の自宅を訪問して憲兵の早期出動を要請。
更に、笹田少書記官は、上京中の吉田県令に憲兵派遣申請の爾後報告を行い、憲兵の早期出動につき奔走方を要請。
夜8時50分、清浦警保局長から憲兵出動の連絡が入る。「憲兵一小隊春田少佐是ヲ率ヒ、同夜十一時発本庄駅マデノ別仕立汽車ニテ派遣ス 十一月二日午後八時五十分 清浦警保局長」。
*
これより先、笹田少書記官は川越士族を臨時巡査に起用する事を検討するが、川越士族がこれに応ずるかどうか疑問があった。
そこで、笹田少書記官は、前夜、大迫警視総監から「巡査ハ内務卿ヨリ達アレバ直チニ差出ス」との電報が届いていたこともあり、警視庁巡査100名の応援を得て、手薄なな小川・川越方面の警備に振向けるため、2日午後3時20分、警視総監あてに巡査100名程の応援要請。
しかし、大迫警視総監からは、埼玉県への巡査派遣について内務卿の意向を伺ったところ、憲兵出動となったのでその儀に及ばずということなので、巡査派遣はしないとの返事。
笹田少書記官は、警視庁巡査応援を諦めず、再度警視総監に巡査派遣を要請。警視総監は、「内務卿ノ御達アレバ直ニ差出ス」ので、直接内務卿の意向を伺って欲しいと回答。
そこで、笹田少書記官は、内務卿に対し、警視庁巡査100名派遣指示を要請するが、これは黙殺され実現せずに終わる。
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(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領し、高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走ることになる・・・。この辺から、本日の展開が始まる。
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10月31日、笹田少書記官(副知事)、江夏警部長(県警本部長)、鎌田警部(国事担当)ら県首脳は、奥州視察を終え埼玉県下を経て帰京する三条太政大臣一行警護のため行田町に出張し、沿道に多数の警官を配置して厳重な警備に当っている。
午後6時、鎌田警部は、寄居警察署長石井警部の急報に接して、警部長に対し「護衛巡査ノ内五十名ヲ寄居町ニ派遺シ、而シテ其補欠ハ幸手其他各署ヨリ募ラバ可ナラン」と申し出るが、警部長は、翌日の警護を重視して進言を容れず、鎌田警部に現地出張を命じる。
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鎌田警部は、田代刑事を伴い人力車で寄居に向う。
途中、熊谷警察署に立寄ると、山室署長(警部)は既に巡査を率い寄居町に向っていた。鎌田警部は、同署詰の福永警部補と巡査5名に随行を命じ、人力車で寄居に急ぐ。
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午後10時、一行は寄居警察署に到着、石井警部から、「風布村ノ山中ニ近村貧民三、四百名、白布ノ鉢巻襷ニテ装ヒ、兇器ヲ携へ集合、時々狼烟ヲ揚ゲ、又ハ発砲スル等、其挙動甚ダ容易ナラザルヨリ、今巡査ヲ出シテ視察中ナリ」との報告を受ける。
*
この直後、皆野村の大宮郷警察署長斉藤勤吉警部(埼玉県出身)からの伝令が、「斉藤警部、坪山警部補ハ皆野辺ニ在り、暴徒ノ風布村ヨリ下吉田村ニ行ク者ノ内十六名ヲ揃へタリ」と伝えてくる(風布村大野福次郎らの捕縛)。
ここにおいて鎌田警部は、秩父困民党の本格的蜂起と判断、「巡査ノ繰出方ヲ請求スル」ため、福永警部補を行田の警部長のもとに派遣する。また、「皆野ハ秩父ノ要地タリ、我先ヅ之ニ拠ラザレバ彼必ズ之ヲ取ラン、果シテ然ラバ我之ヲ取ル甚ダ困ムベシ」と判断し、吉峰警部に巡査14名を指揮させて皆野に向わせる。
*
深夜、行田で鎌田警部からの報告を聞いた江夏警部長(県警本部長)は、翌日の太政大臣一行警護を笹田書記官に托し、勝田警部(警察本署詰、埼玉県士族、35歳)を従え直ちに寄居に向う。
途中熊谷警察署に立寄り、1日午前1時25分、浦和の警察本署(県警本部)に残留の竹部警部に電報を打ち、警察本署と岩槻・所沢・大和田・飯能の各警察署(分署)に対し、署長を除く警察官全員の寄居向け出動を命令。
*
午前5時40分、江夏警部長は寄居警察署に到着。
午前6時、本野上分署応援に赴いている小川分署長深滝警部補から、午前6時30分、小鹿野分署長太田亀次郎(埼玉県士族、27歳)から「只今切迫ノ模様アリテ俄然蜂起スベキヤモ知レズ」との報告が入る。
江夏警部長は「尋常負債党ノ比ニアラザルモノ」と判断、これを笹田少書記官に報告、警部長自ら皆野村へ、場合によっては下日野沢村へ進山するかも知れないと付け加える。次に、鎌田警部に対し皆野への先行を命じる。
*
1日正午、鎌田警部は福永警部補・田代刑事・巡査5名を率い寄居を出発、皆野の手前の親鼻の渡船場で荒川を渡った時、吉峰警部が下吉田村戸長役場から差向けた伝令に会う。
*
鎌田警部は、「彼多衆ニシテ党類次第ニ加ハリ、其勢猖獗、我隊ハ少数甚ダ危急ナリ、早ク援兵巡査ヲ請フ」との報告を聞き、自ら下吉田の吉峰警部ら救援を決意。
午後3時頃、鎌田警部は皆野村に入り、旅館「角屋」を現地警察本部とし、警郡長への報告に巡査1名を寄居へ派遣し、下吉田村に向う。
荒川を渡り野巻村に入った時、大宮郷警察署の金子巡査が、半纏姿で下吉田から逃げ帰ってくるのに行きあい、吉峰警部らが困民軍の攻撃により四散した事を知る。ここで鎌田警部は、劣勢での深入りの非を悟り、皆野村で増援来着を待つ事にする。
*
一方、寄居警察署では午後2時頃までに警察官約40名が集合、江夏警部長は勝田・石井・山室3警部と巡査全員を率い皆野に向う。皆野近くで、本野上分署長雨宮警部補に出会い、下吉田村での吉峰警部らのと戦い、「互ニ死傷アリ」との報告を受け、「皆愕然色ヲ失ッタ」が、急いで薄暮皆野村の現地本部「角屋」に入る。
*
江夏警部長は、鎌田警部から「沿道皆賊軍ニ応ジ、道路梗塞シ進ム能ハズ」との報告を聞き、皆野守備のため国神の金比羅坂・黒谷境・荒川渡船場の3ヶ所に警官隊を配置。
この頃、下吉田村から逃げてきた深滝警部補ら巡査数名が、「創ヲ被り、剣ニ扶ケラレテ」辿りつき、「賊軍猖獗、勢当ルベカラズ」と報告。
この夜、小鹿野町に向う困民軍が高利賃の家を放火し、その火焔は皆野からも望見され、「皆野モ又終夜騒然タリ(鎌田冲太「秩父暴動実記」)という状況。
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動員発令による県下各署から巡査は、午後8時まで70余名になるが、賊状が判明してくると、江夏警部長は警察力の不足を痛感し、午後10時、県庁の笹田書記官に対し、三条太政大臣一行警備から帰署したばかりの警部巡査を含め、県下全警察官の皆野参集を要請。
当時秩父郡内には、登録銃だけでも軍銃293挺、猟銃2,025挺あり、困民軍はかなりの数の銃器を装備していると考えら、2日午前3時、江夏警部長は「特(ヒト)り警察ノカヲ以テ鎮圧シ得ベキトハ認メ難シ」と判断し、憲兵派遣要請を決め、特使として野村警部(警察本署詰、27歳、山口県士族)を県庁に派遣する事にする。
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次に江夏警部長は、皆野撤退について協議。
山室(熊谷警察署長、30歳、宮崎県士族)、勝田(警察本署詰、35歳、埼玉県士族)、大西(警察本署詰、36歳、山口県士族)は「一旦退守」を主張。鎌田警部は「当地ハ枢要ノ地ニシテ・・・頑守セザルベカラズ」と反対するが、江夏警部長は最終的に、「明朝皆野ヲ発シ一旦寄居ニ退守」と決断。この間にも暴徒の情報が入り、「彼已ニ小鹿野ニ侵入シ、乱暴ノ後兵ヲ二分シ、一ハ大宮郷こ、一ハ皆野ニ襲ヒ来ラン」と予想され、鎌田警部の提案により直ちに撤退すると決定。
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江夏警部長は鎌田警部に後事を托し、2日午前3時、警部巡査主力を率い皆野を出発。午前7時、寄居警察署に入り、寄居守備のため象ケ鼻・折原・鉢形の各渡船場に警官隊を配置。
殿軍の鎌田警部は、皆野周辺の渡船場警備にあたっている菅野・安岡・福永ら警部補指揮の警官隊を取纏め、負傷巡査を助けて皆野を出発、夜明けに本野上分署に入り、午前9時、寄居に戻る。
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この頃、埼玉県の吉田県令は地方官会議のため上京中で、笹田少書官(副知事)と警察本署(県警本部)竹部警部が留守をあずかっている。
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1日深夜、皆野の江夏警部長からの巡査の至急増派要請を受け、竹部警部は、草加など12警察署(分署)に対し埼玉県警総動員命令を発す(「其署巡査内勤外勤ヲ論ゼズ、尋常事務ハ措キ、一名ニテモ多ク、二人挽車ニテ昼夜兼行、寄居警察へ派遣」命令をを飛脚と警馬(警察専用の伝令馬)で伝える。
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一方、皆野で憲兵派遣要請特使に任命されたた野村警部は、2日午前6時15分、熊谷電信分局から県庁の笹田少書記官あて電報を発す。
「暴徒千人ニ及プ、勢力益々加ハル、至急皆野村へ向ケ憲兵派遣方御請求アリタシ、右警部長ノ命ニ依り上申ス、委細ハ後刻帰庁申上ル 熊谷警察署ヨリ 野村警部 埼玉県庁 笹田少書記官」。
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午前7時、笹田少書記官はこの電報を受け取るが、「昨日来ノ報道ヲ見ルニ、警部巡査ガ鎮圧ニ尽シタル事分明ナラズ、・・・故ニ憲兵ヲ請フ事尚ホ早シ」と判断し、在京の吉田県令に対し、午前9時40分、「暴徒千人ニ及ビ勢力益々加ハルニヨリ、憲兵派遣方請求ノ儀警部長ヨリ申来りタレドモ、憲兵ヲ求ムルニハ尚ホ早カルベシト存ジ、先ヅ他ノ署巡査ヲ繰出ス事ニ取計ヒ置タリ、憲兵ヲ請求スル場合ニ至レバ尚申上ベシ、・・・」と報告。
しかしその直後、県庁に帰った野村警部から、「暴徒勢力益加ハリ、銃砲ヲ以テ進ミ来ル、已ニ昨日下吉田村ニ於テ警部巡査ニ抗敵ス、巡査死傷アリ、彼レハ砲発進ミ来り、我ハ抜刀之レヲ拒グノミ、徒ラニ死地ニ陥ルノ外術ナシ、・・・」との報告があり、続いて、寄居に後退した江夏警部長から、「兵隊ノ出張片時モ早クアリタシ、小官始メ今朝一同寄居へ打揚ゲタリ、増員ノ為メ各署ヨリ募ル巡査、早ク出張ノ取計アリタシ」との電報が届く。
笹田少書記官は「警察予防ノ策尽キタリ」と判断し、午前11時過ぎ、内務卿山県有朋に対し憲兵出動を要請。
この時の笹田少書記官の判断。
「敢テ警部巡査ヲ以テ鎮圧セントスレバ、虚シク時日ヲ延シ、波及モ亦甚カルベシ、且ツ秩父一郡ハ山間ノ僻地ニシテ、猟銃殊ニ多ク、暴徒加ルニ随ヒ銃器従テ加ル、嘯聚日ヲ追ヒ、遂ニ拒グ可カラザルノ勢ニ到ルモ計り難シ、又群馬県南甘楽郡ニ於テ既ニ小民蜂起セシ事ハ、昨夜同県警部長警報アリ、該地卜秩父郡ハ偶々過激党ノ在ルアリ、気脈相通ジテ以テ不軌ヲ謀ルトキハ、或ハ尋常一撥ノ類ニアラザルベシ、且ツ茨城暴挙近ニアリ、輩下地勢亦遠キニアラズ、若シ他ニ影響スル事甚シキニ至レバ容易ナラザル事態ナリ、寧ロ兵力ヲ以テ速ニ鎮定スルニ如カズ(「埼玉県少書記官笹田黙介記「秩父郡暴徒処分頴未」)。
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また、笹田少書記官は、憲兵出動の早期実現のため野村警部を内務省に派遣、野村警部は内務省に秩父の情況を報告し、更に山県内務卿の自宅を訪問して憲兵の早期出動を要請。
更に、笹田少書記官は、上京中の吉田県令に憲兵派遣申請の爾後報告を行い、憲兵の早期出動につき奔走方を要請。
夜8時50分、清浦警保局長から憲兵出動の連絡が入る。「憲兵一小隊春田少佐是ヲ率ヒ、同夜十一時発本庄駅マデノ別仕立汽車ニテ派遣ス 十一月二日午後八時五十分 清浦警保局長」。
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これより先、笹田少書記官は川越士族を臨時巡査に起用する事を検討するが、川越士族がこれに応ずるかどうか疑問があった。
そこで、笹田少書記官は、前夜、大迫警視総監から「巡査ハ内務卿ヨリ達アレバ直チニ差出ス」との電報が届いていたこともあり、警視庁巡査100名の応援を得て、手薄なな小川・川越方面の警備に振向けるため、2日午後3時20分、警視総監あてに巡査100名程の応援要請。
しかし、大迫警視総監からは、埼玉県への巡査派遣について内務卿の意向を伺ったところ、憲兵出動となったのでその儀に及ばずということなので、巡査派遣はしないとの返事。
笹田少書記官は、警視庁巡査応援を諦めず、再度警視総監に巡査派遣を要請。警視総監は、「内務卿ノ御達アレバ直ニ差出ス」ので、直接内務卿の意向を伺って欲しいと回答。
そこで、笹田少書記官は、内務卿に対し、警視庁巡査100名派遣指示を要請するが、これは黙殺され実現せずに終わる。
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2009年9月21日月曜日
明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き (2) 下吉田村戸長役場の戦い
明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き(2)
*
④下吉田村戸長役場の戦い
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11月1日午前11時頃、石間村沢口の加藤織平宅に田代栄助が派遣した柴岡熊吉が、「警察官ハ下吉田村ノ戸島役場ニ於テ中食ヲ致シ居ルニ付至急出張セヨ」と伝える。
高岸善吉が「サー押シテ行クゾ」と声をかけ、加藤織平が「然ラバ是ヨリ一同下吉田ニ進メ」と下知し、一斉に押し出す。
加藤織平は、「シャッポヲ冠リ、其上ニ白ノ鉢巻ヲ為シ、大小二本ノ刀ヲ差シ、袴ヲ穿チ、立縞絹ノ羽織ヲ着シ、其傍ラノモノニ白木綿ノ旗ヲ持タセ、大ノ方ノ刀ヲ抜キ号令ヲ為シ、進マザレバ切ル杯卜申シ」、新井繁太郎は、「鉄砲ヲ携へ、差物ヲ壱本腰ニ挟ミ、白木綿ノ鉢巻ヲ為シ、袴ヲ穿チ、木綿ノ羽織ヲ着シ」といういでたち(「久保平徳松訊問調書」)。
農民兵約100人が上吉田村に向う様子は、午後1時頃、布里の神官田中千弥が吉田川越しに目撃する。
*
下吉田村戸長役場に移った吉峰警部・坪山警部補らは、小鹿野分署(署長太田警部補=埼玉県士族27歳)に救援を依頼し、午後2時頃、太田分署長と巡査5名、小川分署長深滝警部補指揮の警官隊が、下吉田村戸長役場に到着。
ここで幹部らは協議の末、「我軍疲労ノ寡兵、且銃器ナケレバ、先ヅ賊ノ銃器ヲ避ケ、間道ヨリ大宮郷へ退キ、軍備ヲ整へ再ビ攻撃スベシ」(「大宮郷警察署長警部斉藤勤吉経歴書」)と決定する。
*
一方の困民党軍は、織平を先頭に下吉田村往還を進み、下吉田村の手前で二手に分れ、一手は下吉田の北裏に、一手は戸長役場の南裏(八幡山)に向い、約300名で戸長役場を包囲挟撃する態勢をとる。
また、警官隊の退路を遮断するため高岸駅蔵(石間村、44歳)が24~25名を率い、椋神社のすぐ下にある「大日堂」の前に出て、清泉寺台門前に布陣する(「高岸駅蔵訊問調書」)。
戸長役場包囲の部署は、「上日野沢村門平惣平等ノ一隊ハ曲尺ノ手口ニ進ミ、下吉田村井上伝蔵、同村井上善作等ノ一隊ハ新田坂ヨリ進ミ、下吉田村飯塚森蔵等ノ一隊ハ八幡神社ノ境内ニ屯シ、男衾郡西ノ入村新井周三郎、上日野沢村祠掌宮川津盛、長野県南佐久郡北相木村菊池貫平、自余頭ダチタルノ一隊ハ下町ヨリ進ミ、兇徒四面ニ囲繞シ、猶邑衙ヲ砲発ス(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
*
午後3時頃、困民党は北裏の組が猟銃を撃ち、瓦石を投げ、戸長役場に肉迫。
この時、警官隊は小鹿野へ脱出のため、戸長役場裏の急な崖を登り始めたところで、崖上の八幡神社境内から銃火を浴びせられ、警官隊は戸長役場に押し戻される。
吉峰警部は、このままでは銃弾の犠牲になるだけと判断し、「切り抜け」を命令し抜刀して一斉に切り込む。
この勢いに包囲の困民党は道を開いてしまうが、後続の警官隊は殆どが東方に血路を開き、散りじリになって落ち伸びる(鎌田冲太「秩父暴動実記」、「松山警察署長警部吉峰清履歴書」)。
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警官隊負傷は4名。吉峰警部(松山警察署長)、斉藤警部(大宮郷警察署長)、太田警部補(小鹿野分署長)らは東方に斬り抜け、民家に潜伏後、夜を待って大宮郷を経て小川分署に、深滝警部補(小川分署長)、坪山警部補(大宮郷警察署詰)らは、夫々別の経路で皆野村に辿り着く。
尚、清泉寺前の戦いで負傷した大宮郷警察署の神沼芳生巡査(32)は、居残って役場の床下に潜伏し、夜になって役場の小使に変装して脱出、大宮郷警察署に辿り着くが、2日そこも困民軍が襲撃してきたので、一旦知人の家に隠れ、家人に助けられて皆野村に逃げのびる(「林警部の神沼芳生巡査からの聞取書」)。
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また、この時、困民軍は逃げ遅れた青木巡査と、秩父新道工事の県の役人(埼玉県土木課雇の千葉正規)を捕える。
逃げ遅れた青木巡査は、抜剣して抵抗すると、風布村宮下茂十郎(32)が投石、これが青木巡査の前額部に命中し、その場に倒れたところを捕縛される。茂十郎は栄助より青木巡査のサーベル佩用を許されるが、困民軍壊滅後はこの一件により重禁錮3年の刑を受けることになる。
*
青木巡査は、4日、新井周三郎に斬り付け、殉職。千葉は、木戸為三のとりなしにより困民党の為の炊き出しをしていた役場筆生の肥土伊与吉に引渡され解放される。
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*
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④下吉田村戸長役場の戦い
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11月1日午前11時頃、石間村沢口の加藤織平宅に田代栄助が派遣した柴岡熊吉が、「警察官ハ下吉田村ノ戸島役場ニ於テ中食ヲ致シ居ルニ付至急出張セヨ」と伝える。
高岸善吉が「サー押シテ行クゾ」と声をかけ、加藤織平が「然ラバ是ヨリ一同下吉田ニ進メ」と下知し、一斉に押し出す。
加藤織平は、「シャッポヲ冠リ、其上ニ白ノ鉢巻ヲ為シ、大小二本ノ刀ヲ差シ、袴ヲ穿チ、立縞絹ノ羽織ヲ着シ、其傍ラノモノニ白木綿ノ旗ヲ持タセ、大ノ方ノ刀ヲ抜キ号令ヲ為シ、進マザレバ切ル杯卜申シ」、新井繁太郎は、「鉄砲ヲ携へ、差物ヲ壱本腰ニ挟ミ、白木綿ノ鉢巻ヲ為シ、袴ヲ穿チ、木綿ノ羽織ヲ着シ」といういでたち(「久保平徳松訊問調書」)。
農民兵約100人が上吉田村に向う様子は、午後1時頃、布里の神官田中千弥が吉田川越しに目撃する。
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下吉田村戸長役場に移った吉峰警部・坪山警部補らは、小鹿野分署(署長太田警部補=埼玉県士族27歳)に救援を依頼し、午後2時頃、太田分署長と巡査5名、小川分署長深滝警部補指揮の警官隊が、下吉田村戸長役場に到着。
ここで幹部らは協議の末、「我軍疲労ノ寡兵、且銃器ナケレバ、先ヅ賊ノ銃器ヲ避ケ、間道ヨリ大宮郷へ退キ、軍備ヲ整へ再ビ攻撃スベシ」(「大宮郷警察署長警部斉藤勤吉経歴書」)と決定する。
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一方の困民党軍は、織平を先頭に下吉田村往還を進み、下吉田村の手前で二手に分れ、一手は下吉田の北裏に、一手は戸長役場の南裏(八幡山)に向い、約300名で戸長役場を包囲挟撃する態勢をとる。
また、警官隊の退路を遮断するため高岸駅蔵(石間村、44歳)が24~25名を率い、椋神社のすぐ下にある「大日堂」の前に出て、清泉寺台門前に布陣する(「高岸駅蔵訊問調書」)。
戸長役場包囲の部署は、「上日野沢村門平惣平等ノ一隊ハ曲尺ノ手口ニ進ミ、下吉田村井上伝蔵、同村井上善作等ノ一隊ハ新田坂ヨリ進ミ、下吉田村飯塚森蔵等ノ一隊ハ八幡神社ノ境内ニ屯シ、男衾郡西ノ入村新井周三郎、上日野沢村祠掌宮川津盛、長野県南佐久郡北相木村菊池貫平、自余頭ダチタルノ一隊ハ下町ヨリ進ミ、兇徒四面ニ囲繞シ、猶邑衙ヲ砲発ス(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
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午後3時頃、困民党は北裏の組が猟銃を撃ち、瓦石を投げ、戸長役場に肉迫。
この時、警官隊は小鹿野へ脱出のため、戸長役場裏の急な崖を登り始めたところで、崖上の八幡神社境内から銃火を浴びせられ、警官隊は戸長役場に押し戻される。
吉峰警部は、このままでは銃弾の犠牲になるだけと判断し、「切り抜け」を命令し抜刀して一斉に切り込む。
この勢いに包囲の困民党は道を開いてしまうが、後続の警官隊は殆どが東方に血路を開き、散りじリになって落ち伸びる(鎌田冲太「秩父暴動実記」、「松山警察署長警部吉峰清履歴書」)。
*
警官隊負傷は4名。吉峰警部(松山警察署長)、斉藤警部(大宮郷警察署長)、太田警部補(小鹿野分署長)らは東方に斬り抜け、民家に潜伏後、夜を待って大宮郷を経て小川分署に、深滝警部補(小川分署長)、坪山警部補(大宮郷警察署詰)らは、夫々別の経路で皆野村に辿り着く。
尚、清泉寺前の戦いで負傷した大宮郷警察署の神沼芳生巡査(32)は、居残って役場の床下に潜伏し、夜になって役場の小使に変装して脱出、大宮郷警察署に辿り着くが、2日そこも困民軍が襲撃してきたので、一旦知人の家に隠れ、家人に助けられて皆野村に逃げのびる(「林警部の神沼芳生巡査からの聞取書」)。
*
また、この時、困民軍は逃げ遅れた青木巡査と、秩父新道工事の県の役人(埼玉県土木課雇の千葉正規)を捕える。
逃げ遅れた青木巡査は、抜剣して抵抗すると、風布村宮下茂十郎(32)が投石、これが青木巡査の前額部に命中し、その場に倒れたところを捕縛される。茂十郎は栄助より青木巡査のサーベル佩用を許されるが、困民軍壊滅後はこの一件により重禁錮3年の刑を受けることになる。
*
青木巡査は、4日、新井周三郎に斬り付け、殉職。千葉は、木戸為三のとりなしにより困民党の為の炊き出しをしていた役場筆生の肥土伊与吉に引渡され解放される。
*
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2009年8月8日土曜日
明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き(1)
明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き
*
困民党が小鹿野~大宮郷の占領を敢行し、高利貸し打毀しなどを行っている間、官憲側は何をしていたかの纏め。
まずは、深追いした警官隊と困民軍との戦いから。
*
①阿熊渓谷の戦い
11月1日午前1時30分、松山警察署長吉峰警部指揮の警官隊15名は、皆野村の大宮郷警察署長以下の警官隊を援助するため、寄居町を出発。
*
午前3時頃、本野上分署に立寄り、ここで、分署長や寄居から応援の小川分署長深滝警部補指揮の警官隊は、困民軍を求めて下吉田村方向に向ったと聞く。
吉峰警部は、弱体の皆野村に巡査4名を派遣し、自らは主力を率いる。
*
午前5時30分頃、金崎村にさしかかり永保社の被害を聞く。本野上分署長雨宮警部補が永保社を検証中。
*
午前6時30分頃、吉峰警部は、困民軍を追う為、皆野村に引き揚げている斉藤警部の警官隊を呼び寄せ、これと合同して金崎村を出発。このときの警官隊は、吉峰・斉藤両警部と坪山警部補、巡査20名の計23名(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
*
下日野沢村に達した時、困民軍に人質として連行され逃亡して来た平善吉と行きあい、永保社襲撃の困民軍は40~50名で、阿熊村に向ったとき聞く(「松山警察署長吉峰警部履歴書」)。
*
午前11時頃、警官隊は阿熊渓谷に入る。この時、山影で竹法螺の音がして、前方に武装農民の一団(上州の上・下日野村から応援に来た一隊)を見つける。これを追跡すると、農民兵たちは渓谷の左右に逃げ込む。
*
この直後、警官隊は両側の山の斜面から「数十ノ暴徒一時ニ発砲」の銃撃を受ける。
この地は「左右険阻ニシテ、谿間ニ一条ノ狭径アルノミ」で、警官隊の武器はサーベルだけなので、銃撃には対抗の術がない。
このため吉峰警部は「此地ニ於テ賊卜決戦センカ、彼ハ衆ニシテ銃砲、我ハ寡ニシテ刀剣ノミ、故ニ此険阻ノ地ヲ避ケテ、平地ニ出デ決戦スルニ如カズ」と判断し、「抜刀切り込メ」を号令し、斬り込む素振りをして下吉田村に向って谷間の一本道を一目散に駈け下りる。
約1里(約4km)の間は、銃撃を受け、また抜刀で背後に迫る困民軍と接戦を演じ、やっとのことで清泉寺に逃げ込む。
*
この時までに斉藤警部と金子・窪田の両巡査の3名は一行から脱落し、その姿は見えなくなる(「松山警察署長吉峰警部履歴書」)。
*
この警官隊襲撃を指揮したのは、前夜永保杜を襲った新井周三郎、城峰山の陸軍測量師を拘引した柏木太郎吉らで、銃手100名ほどを両山腹に配置し、待伏せ攻撃をかける(「門平惣平裁判言渡書」)。
*
②窪田巡査殺害
一行から遅れた大宮郷警察署長斉藤警部、金子巡査・窪田巡査(残された記録には「脚疾」とある)は、近くの守岩太吉の家に逃げ込み、二階に潜伏。
*
困民党12~13名が同家に押しかけるが、老婆は潜伏する警官を庇い、困民党は戸棚や縁の下を捜索するものの二階には上らず、潜伏の警官は難を逃れる。
*
その後、潜伏の警官は制服・帯剣を脱し、同家より下吉田村戸長役場に向う。
*
しかし、窪田巡査は一行から遅れ、困民党の柏木太郎吉らに発見され捕縛される。
新井周三郎は窪田巡査から、警官出動の情報を聞き出そうとするが、窪田巡査は従わず。怒った周三郎は、午前11時30分頃、窪田巡査を斬首(「大宮郷警察署長警部斉藤勤吉履歴書))。
窪田巡査は21歳、静岡県士族で、この年7月埼玉県巡査になったばかりで、松山警察署の会計係をしていたが、署長の吉峰警部と共に前日寄居警察署の応援に来て、この災厄に遭遇。
*
斉藤警部ら3警官を匿った守岩太吉(37)は、2日後それと知った困民軍の新井周三郎らに連行され、下日野沢村の根古屋橋の傍で惨殺され、大渕村の長楽寺の門前に梟首される。
事件鎮定後吉田県令(知事)は遺族に弔慰金30円を贈って哀悼の意を表す(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
*
③清泉寺の戦い
(阿熊渓谷の入口右手の高台にある。椋神社は阿熊川を隔ててその左手にある)
*
阿熊渓谷で警官隊を駆逐した困民党兵士たちは、一旦、椋神社に引き揚げるが、逃げた警官が清泉寺に退避したのを知り、新井周三郎・柏木太郎吉・門平惣平らは、抜刀で新志坂を攻め上り、警官隊に接戦を挑む。
*
柏木太郎吉は、「余ハ神奈川県士族、イザ腕ノ力ヲ試サン」と名乗り、警官隊に斬り込み、接戦の末斬り倒される。
警官隊は初め寺の門前で瓦石を投げていたが、柏木太郎吉が抜刀して迫って来ると、吉峰警部は遂に「抜刀接戦」を号令。
撃剣の達人石川支巡査(松山警察署)が、柏木太郎吉と対戦し、太郎吉に重傷を負わせるが、自らも右腕などに負傷し、持っていたサーベルは「ガタガタ」になり、使いものにならなくなる。
新井周三郎は、形勢非を判断し、門平惣平に苦悶する太郎吉の首を切り取らせ、椋神社に引き揚げる。
*
困民党側はもう1人、蒔田村の年代道蔵が警官に斬られて戦死。
*
坪山警部補が述べる戦いの様子。
「賊追馳シテ清泉寺前ニ迫ル、我軍礫ヲ投擲シテ賊ノ先駆ヲ防グ、然レドモ賊ハ我軍ノ寡兵ヲ軽侮シ、抜刀シテ我軍ヲ破ントス、因テ部下ノ巡査ニ接戦ヲ命ジ、賊ノ先駆スル三、四名ヲ斫リ、数名ニ負傷セシメケレバ、賊我鋭鋒ヲ怖レ敢テ進ム者ナシ、我軍ハ巡査ノ傷疾スル者四名アルノミ」(「大宮郷警察署在勤警部補坪山需経歴書」)。
*
警官隊は前日から不眠不休の活動が続き、「身体疲労シ且空腹ナルヲ以テ」、午後1時頃、負傷した巡査を介抱して下吉田村戸長役場に移る(「巡査神沼芳生開伸書」)。
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困民党が小鹿野~大宮郷の占領を敢行し、高利貸し打毀しなどを行っている間、官憲側は何をしていたかの纏め。
まずは、深追いした警官隊と困民軍との戦いから。
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①阿熊渓谷の戦い
11月1日午前1時30分、松山警察署長吉峰警部指揮の警官隊15名は、皆野村の大宮郷警察署長以下の警官隊を援助するため、寄居町を出発。
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午前3時頃、本野上分署に立寄り、ここで、分署長や寄居から応援の小川分署長深滝警部補指揮の警官隊は、困民軍を求めて下吉田村方向に向ったと聞く。
吉峰警部は、弱体の皆野村に巡査4名を派遣し、自らは主力を率いる。
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午前5時30分頃、金崎村にさしかかり永保社の被害を聞く。本野上分署長雨宮警部補が永保社を検証中。
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午前6時30分頃、吉峰警部は、困民軍を追う為、皆野村に引き揚げている斉藤警部の警官隊を呼び寄せ、これと合同して金崎村を出発。このときの警官隊は、吉峰・斉藤両警部と坪山警部補、巡査20名の計23名(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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下日野沢村に達した時、困民軍に人質として連行され逃亡して来た平善吉と行きあい、永保社襲撃の困民軍は40~50名で、阿熊村に向ったとき聞く(「松山警察署長吉峰警部履歴書」)。
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午前11時頃、警官隊は阿熊渓谷に入る。この時、山影で竹法螺の音がして、前方に武装農民の一団(上州の上・下日野村から応援に来た一隊)を見つける。これを追跡すると、農民兵たちは渓谷の左右に逃げ込む。
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この直後、警官隊は両側の山の斜面から「数十ノ暴徒一時ニ発砲」の銃撃を受ける。
この地は「左右険阻ニシテ、谿間ニ一条ノ狭径アルノミ」で、警官隊の武器はサーベルだけなので、銃撃には対抗の術がない。
このため吉峰警部は「此地ニ於テ賊卜決戦センカ、彼ハ衆ニシテ銃砲、我ハ寡ニシテ刀剣ノミ、故ニ此険阻ノ地ヲ避ケテ、平地ニ出デ決戦スルニ如カズ」と判断し、「抜刀切り込メ」を号令し、斬り込む素振りをして下吉田村に向って谷間の一本道を一目散に駈け下りる。
約1里(約4km)の間は、銃撃を受け、また抜刀で背後に迫る困民軍と接戦を演じ、やっとのことで清泉寺に逃げ込む。
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この時までに斉藤警部と金子・窪田の両巡査の3名は一行から脱落し、その姿は見えなくなる(「松山警察署長吉峰警部履歴書」)。
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この警官隊襲撃を指揮したのは、前夜永保杜を襲った新井周三郎、城峰山の陸軍測量師を拘引した柏木太郎吉らで、銃手100名ほどを両山腹に配置し、待伏せ攻撃をかける(「門平惣平裁判言渡書」)。
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②窪田巡査殺害
一行から遅れた大宮郷警察署長斉藤警部、金子巡査・窪田巡査(残された記録には「脚疾」とある)は、近くの守岩太吉の家に逃げ込み、二階に潜伏。
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困民党12~13名が同家に押しかけるが、老婆は潜伏する警官を庇い、困民党は戸棚や縁の下を捜索するものの二階には上らず、潜伏の警官は難を逃れる。
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その後、潜伏の警官は制服・帯剣を脱し、同家より下吉田村戸長役場に向う。
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しかし、窪田巡査は一行から遅れ、困民党の柏木太郎吉らに発見され捕縛される。
新井周三郎は窪田巡査から、警官出動の情報を聞き出そうとするが、窪田巡査は従わず。怒った周三郎は、午前11時30分頃、窪田巡査を斬首(「大宮郷警察署長警部斉藤勤吉履歴書))。
窪田巡査は21歳、静岡県士族で、この年7月埼玉県巡査になったばかりで、松山警察署の会計係をしていたが、署長の吉峰警部と共に前日寄居警察署の応援に来て、この災厄に遭遇。
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斉藤警部ら3警官を匿った守岩太吉(37)は、2日後それと知った困民軍の新井周三郎らに連行され、下日野沢村の根古屋橋の傍で惨殺され、大渕村の長楽寺の門前に梟首される。
事件鎮定後吉田県令(知事)は遺族に弔慰金30円を贈って哀悼の意を表す(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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③清泉寺の戦い
(阿熊渓谷の入口右手の高台にある。椋神社は阿熊川を隔ててその左手にある)
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阿熊渓谷で警官隊を駆逐した困民党兵士たちは、一旦、椋神社に引き揚げるが、逃げた警官が清泉寺に退避したのを知り、新井周三郎・柏木太郎吉・門平惣平らは、抜刀で新志坂を攻め上り、警官隊に接戦を挑む。
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柏木太郎吉は、「余ハ神奈川県士族、イザ腕ノ力ヲ試サン」と名乗り、警官隊に斬り込み、接戦の末斬り倒される。
警官隊は初め寺の門前で瓦石を投げていたが、柏木太郎吉が抜刀して迫って来ると、吉峰警部は遂に「抜刀接戦」を号令。
撃剣の達人石川支巡査(松山警察署)が、柏木太郎吉と対戦し、太郎吉に重傷を負わせるが、自らも右腕などに負傷し、持っていたサーベルは「ガタガタ」になり、使いものにならなくなる。
新井周三郎は、形勢非を判断し、門平惣平に苦悶する太郎吉の首を切り取らせ、椋神社に引き揚げる。
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困民党側はもう1人、蒔田村の年代道蔵が警官に斬られて戦死。
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坪山警部補が述べる戦いの様子。
「賊追馳シテ清泉寺前ニ迫ル、我軍礫ヲ投擲シテ賊ノ先駆ヲ防グ、然レドモ賊ハ我軍ノ寡兵ヲ軽侮シ、抜刀シテ我軍ヲ破ントス、因テ部下ノ巡査ニ接戦ヲ命ジ、賊ノ先駆スル三、四名ヲ斫リ、数名ニ負傷セシメケレバ、賊我鋭鋒ヲ怖レ敢テ進ム者ナシ、我軍ハ巡査ノ傷疾スル者四名アルノミ」(「大宮郷警察署在勤警部補坪山需経歴書」)。
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警官隊は前日から不眠不休の活動が続き、「身体疲労シ且空腹ナルヲ以テ」、午後1時頃、負傷した巡査を介抱して下吉田村戸長役場に移る(「巡査神沼芳生開伸書」)。
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2009年7月26日日曜日
明治17(1884)年11月2日(4) 大宮郷での軍資金調達 火薬購入と破裂弾製造。
■明治17(1884)年11月2日(4)
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○大宮郷での軍資金調達(蜂起後の戦略転換と軍資金調達)。
当初、
「先ズ郡中ニテ軍用金ヲ整へ、諸方ノ勢卜合シテ埼玉県ヲ打破り、軍用金ヲ備へ、且、浦和ノ檻獄ヲ破り、村上泰治ヲ援ヒ出シ、沿道ノ兵卜合シ、東京ニ上り、板垣公ノ兵卜合シ、官庁ノ吏員ヲ追討シ、圧政ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安欒ナラシム」(田中千弥「秩父暴動雑録」)との構想であったが、
その後、栄助は、
信州組の来援の影響もあり、「兵ヲ挙ゲタル上ハ、警察官及ビ憲兵・鎮台兵ノ抗撃ヲ受クルハ必然ナリ、右ニ抗敵スルニハ金ヲ要スレバ、大宮郷中ニ於テ壱万円ノ金ヲ強奪シ、軍資ニ当テ、当地方ハ東京ニ接近致シ居ル故ニ、直ニ信州へ引揚ゲ、更ニ大兵ヲ挙グルノ目的ナリ」(「田代栄助訊問調書」)と、退守の姿勢をとりつつ、挙兵の長期維持を図るという方針に切り換えたとみられる。
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この為の備えとして、また大兵の維持の為にも、軍資金調達が必要となる。
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前夜の小鹿野町では軍用金集めをせず、初めから目標を大宮郷においていたとみられる。
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栄助は、軍用金徴収について、軍用金集方の井出為吉に命じ、町内の豪家・大店を訪ねさせ、
「今般我等高利貸ヲ潰シ、貧民ヲ救フガ為メ兵ヲ挙ゲタル処、追々警察官及ビ憲兵隊繰出シニ相成タル趣キ、是非戦闘ヲ為サゞレバ貧民ヲ救助スル能ハズ、因テ軍用金無心致シ度、首尾能ク本望ヲ遂ゲタル上ハ悉皆返弁可致、不幸ニシテ戦死シタル場合ニ於テハ、香莫トシテ恵投ニ預りタシ」(「田代栄助訊問調書」)
と口上を述べさせ、献金は本営の郡役所まで持参させることにする。
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栄助は、大宮郷に入った当初は、「群馬県人相馬義広」と仮名を用いていたが、軍用金の受取証を発行するときから本名を使用。
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「(栄助が、松本六蔵と升屋利兵衛に発行した)受取証ヲ見テ、暴徒ノ巨魁ハ当郷字熊木平民農田代栄助ナルヲ知り、人々二度喫驚セリ、且ツ切歯扼腕ヲナス者アリ」(「秩父暴動事件概略」)
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集められた軍用金。
柿原吟三郎500円、逸見藤三郎3円、逸見助五郎20円、井上伴七100円、新井峰吉80円、松本六蔵200円、矢尾利兵衛300円、久保道蔵100円、岡幸八400円、大森喜右衛門800円、根岸藤太郎500円、福島七兵衛100円の計3,103円。
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○火薬購入と破裂弾製造。
桜沢村の「官軍善」木島善一郎は、大宮郷の塩ノ谷薬店からエンサンカリとケイカンセキを購入、これを横瀬村の銃砲鍛冶職の町田代蔵宅へ運び、風布村の宮下沢五郎と破裂薬を製造(「大宮郷警察署長より警察本署雨宮警部宛報告書」)。
この砲弾は4日午後、粥新田峠を越えて坂本村に進出した際、「官軍善」らが携行。その他にも、命じられて火薬購入に奔走したとの証言あり。
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2日夜、蒔田村逸見福二郎は、栄助に命じられ、8円をもらい、25名を引率して秩父神社を出発、田村郷で合薬2貫500目を購入、13名で大宮郷へ運ばせ、次に久長村で3貫目を「強求」して大宮郷へ運搬。福二郎は、困民党の「勢力ヲ逞カラシメ」たとして、重禁錮2年を科せられる。
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3日、白久村贄川村小隊長坂本伊三郎(34、竹細工職人、軽懲役6年)は、「田代栄助ヨリ弾薬購求ノ命ヲ受ケ」、15円を受取り、袴をはき威厳をととのえ、浅見伊八(横瀬村、重禁鍋5年)・新井紋蔵(下日野沢村、軽懲役6年)ら数十人を率い、贄川村に行き、15円分の火薬を購入し大宮郷へ運ばる。
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2日夕方、
信州南佐久郡北相木村に、秩父困民党井出為吉の「出発を促す書簡」が着。自由党員菊池恒之助・井出代吉ら8人が、秩父へ出発。途中挫折。
このうち菊池恒之助のみが貫平の軍と共に信州に戻ってくる。
*
2日夜、
山県・柱野警部指揮の巡査隊、太駄村に入り、鳥羽村戸長役場で夕食。
小柏ダイ・新井チヨらの煽動を聞き、昼夜兼行強行軍にもかかわらず、続いて上州保美濃山に向かい、更に、3日坂原村に向かい、小柏ダイらを保美濃山戸長役場に引致。夜は城峯峠を守備する。
*
小柏ダイ(常次郎妻)・新井チヨ(19、新井蒔蔵妹)、1日夜、恩田宇一の指令により同じ日野沢村黒沢ウラと共に三波川へ鉄砲を借りに行く。
途中、矢納村高牛~鳥羽辺~尾根外の三波川までの未参加部落を訪れ参加を要請。拘留後、各罰金2円・1円50銭・無罪で放免。拘留は4日朝群馬の鬼石町でという説が主流。
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チヨの供述。
「二日、村方ヲ立ツテ、途中、因民党へ加ハレト触レテミヤウト、ダイノ言ニヨリ、
・・・鳥羽ニテ一軒へ立寄り、吉田ノ方へ困民党ガ寄合ツタル故、其方へ出ナケレバ、後カラ多人数参ルカラ出ルヤウニト申シ触レタリ。
・・・戯レニ(高牛ニテ)触レタルトコロ、五人バカリ出テ来ルト申スニ付、飛ンダコトヲ致シタト思ヒ、帰りニ一緒ニ行カウト申シ、態々三波川ニ泊リタル次第ナリ」。
三波川不動尊へのお参りが本当の目的と口裏を合わせる。
また、「飛ンダコトヲシタ」と恐縮しながら、「果シテ後悔セシモノナレパ、再ビ鳥羽へ到り其事ヲ触レル訳ナシ、如何?」と刑事に突っ込まれると、チヨは、「困民党卜申スハ好キ事ニ承り居リタル故、鳥羽ニテモ申セシナリ。飛ンダ事ヲ致セシト申セシハ間違ヒニ有之侯 日歩貸ヲ毀シタル話ハ聞キタレドそ、借リタ金ナドハ返サズトモ良キ訳ダト申ス故悪シキコトトモ心得ズ」と答える。
刑事が、「良キコトト心得シ故、方々フレ歩行キシ訳カ?」と訪ねると、チヨは断乎として「左様ニ御座候」と答える。取調べはここで打ち切り。
*
・2日夜、
堀口幸助、かつて奉公した代書人宅に宿泊、忠告を受け逃亡を決意。翌3日皆野への途中で脱走、4日群馬県緑野郡三波村の知人宅で7、8泊。後、富岡町~故郷渋川駅~曲輪町、21日午後8時横山町で逮捕。
*
・午後8時50分、
清浦警保局長より埼玉県庁へ、憲兵派遣の報入る。
これを受けて、笹田書記官は、本庄から寄居までの憲兵輸送の手配を、大里郡役所に訓電。
「憲兵一小隊春日少佐是ヲ率ヒ同夜十一時発本庄駅マデ別仕立汽車ニテ派遣ス」。
「今夜十二時憲兵百名許り其地へ着スル筈ニ付賄ヒ方手当シ、且ツ其地人力車残ラズ雇上置クベシ」。
*
・秩父事件の初めての新聞報道(「東京横浜毎日新聞」)。
見出し「茨城暴動も概ね縛に就き、負債党の如きも漸く鎮静に帰したりしに、昨日又左の報を得たり」。
掲載電報「多数の人民、埼玉県秩父郡富市村の山中に集合し、各武器を携へ、中には銃砲を携ふるもありて、暴挙に及ばんとする有様なり。」。
多数の人民というのは、茨城暴徒のごとき者か、または負債党のごとき者か、いまのところ不明であると解説。
*
・「秩父暴動雑録」にみるこの頃の動き。
*この日(2日)、上日野沢の小さな高利貸の弟が、前日、駆出されたが逃げ帰る途中と言い、筆者(田中千弥)の家に立寄る。
千弥が聞き取った暴徒の情報。
まず秩父で軍用金を集め、諸方の勢と一緒に埼玉県庁を打破り、浦和監獄から村上泰治を解放し、東京に上る。「板垣公卜兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安寧ナラシムべシ・・・今般ノ一挙ハ専ラ天下泰平ノ基ニシテ、貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル目的ナレバ、金穀銃器ヲ供シテ兵力ヲ助クべシ。」。
4日、近所の部落の役割表に名もない農民2名が、数部落の人足を集め、神社の前で、「我輩既ニ大宮裁判所ノ書類ヲ焼キ其庁ヲ毀テリ、朝廷ヨリ置ク庁ヲ毀ツ、既ニ朝敵ナリ」と、アジ演説し、進めや進めとくり出す。千弥は憤懣やるかたなく「聞腹のたつ蟷螂のじわざかな」。
*
①幹部でもない農民が、自由党の言葉のパターンを使用し、政治的自由民権の概念を語る。
天下の政治を改革し、人民を自由ならしめるとの変革意識が、高利貸征伐という具体的行動に綜合(秩父事件は自由民権運動の発展線上にあるという見方)。
蜂起のスローガンは、農民にとって直接的な要求、負債据置・年賦返済・減租運動から発展した高利貸打毀し・証書と奥印書の焼き捨てであるが、その目標は政治改革に連なり、それに裏打ちされているとの自覚が表明されている。
*
②負債農民が、人民の自由と安楽を語る時、自由党的な枠に止まろうとする幹部の意に反し、社会的意味を帯びざるを得ない。
自由とは最も直接的には借金からの自由、借金からの解放であるが、これを拡大すると徴兵・酒税・印紙税からの自由である。
困民党において、「世直シ」は「世均シ」に発展する。
困民党において、政治的自由民権は社会的自由民権に発展する。
恩田卯一(宇市)と坂本宗作のオルグを受けて参加した上州多胡郡上日野村の新井貞吉は、卯一が、高利貸や銀行をつぶし、「平ラナ世」にするから参加してもらいたいと説いたと述べる。
「金のないのも苦にしやさんすな いまにお金が自由党」。
「雑録」は、「貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル」と云う。
貫平は信州侵入の際、南佐久郡海瀬村で1戸1人の人足を強要した上、「天のその斯の民を生ずる、彼れに厚く、此れに薄きの理なし」と天賦人権の平等を説き、「拙者等は富者に奪ひて貧者に施し、天下の貧富をして平均ならしむと欲するなり」と主張。
「朝野新聞」社説「貧富平等論」は、「社会ノ組織ヲ一変シテ、財産ノ均一ヲハカル」という社会主義と理解し、秩父事件も「経済上弱ヲ扶ケ強キヲ挫ク」主張であったと批判。
*
・投書「百姓の困難」(「土陽新聞」)。
「抑も百姓が明治十二、三年の頃米の十円にも売れし頃は、始めて藩制以来の愁眉を開き、・・・漸く人間の仲間入をなすに至れり。此の時に当て、事を解せざる者は、農家の地位の斯く次第に進むを悪んで、動もすればヤレ百姓が奢るの、田舎が華美に流るるのとて、最少し地租を重くするも可なりとの諭ありけれども、我輩は之れと反対にて、如何に米価が十円に至りしと雖も、農家の税は軽きに非ず、実に他諸税よりも重くして、農家は実に困難なり、と云へり。何となれば、地税は営業税杯と違ひ、其財本に賦課せられたるものなれば、百円の地所を持てば年々必ず二円五十銭を私はざるを得ず。・・・乾損水損の差別なく、初手から定った課税なり。・・・農家が独り此の税に堪へて其業を落さざるものは何ぞ。これ非常の節倹が慣習となって、水を呑み襤褸を衣ても敢て意とせざるの境遇に甘んずるものなればなり。然るを、今論者が農家が僅かに人間の仲聞入をするや否之れを答めて奢侈に流るると云ふは、此れ実に百姓なるものは牛馬同様の者なれば、藁に寝て水で腹を張らせと云ふものなるべし。何と無礼千万な云ひ分ならずや。」
*
*
*
○大宮郷での軍資金調達(蜂起後の戦略転換と軍資金調達)。
当初、
「先ズ郡中ニテ軍用金ヲ整へ、諸方ノ勢卜合シテ埼玉県ヲ打破り、軍用金ヲ備へ、且、浦和ノ檻獄ヲ破り、村上泰治ヲ援ヒ出シ、沿道ノ兵卜合シ、東京ニ上り、板垣公ノ兵卜合シ、官庁ノ吏員ヲ追討シ、圧政ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安欒ナラシム」(田中千弥「秩父暴動雑録」)との構想であったが、
その後、栄助は、
信州組の来援の影響もあり、「兵ヲ挙ゲタル上ハ、警察官及ビ憲兵・鎮台兵ノ抗撃ヲ受クルハ必然ナリ、右ニ抗敵スルニハ金ヲ要スレバ、大宮郷中ニ於テ壱万円ノ金ヲ強奪シ、軍資ニ当テ、当地方ハ東京ニ接近致シ居ル故ニ、直ニ信州へ引揚ゲ、更ニ大兵ヲ挙グルノ目的ナリ」(「田代栄助訊問調書」)と、退守の姿勢をとりつつ、挙兵の長期維持を図るという方針に切り換えたとみられる。
*
この為の備えとして、また大兵の維持の為にも、軍資金調達が必要となる。
*
前夜の小鹿野町では軍用金集めをせず、初めから目標を大宮郷においていたとみられる。
*
栄助は、軍用金徴収について、軍用金集方の井出為吉に命じ、町内の豪家・大店を訪ねさせ、
「今般我等高利貸ヲ潰シ、貧民ヲ救フガ為メ兵ヲ挙ゲタル処、追々警察官及ビ憲兵隊繰出シニ相成タル趣キ、是非戦闘ヲ為サゞレバ貧民ヲ救助スル能ハズ、因テ軍用金無心致シ度、首尾能ク本望ヲ遂ゲタル上ハ悉皆返弁可致、不幸ニシテ戦死シタル場合ニ於テハ、香莫トシテ恵投ニ預りタシ」(「田代栄助訊問調書」)
と口上を述べさせ、献金は本営の郡役所まで持参させることにする。
*
栄助は、大宮郷に入った当初は、「群馬県人相馬義広」と仮名を用いていたが、軍用金の受取証を発行するときから本名を使用。
*
「(栄助が、松本六蔵と升屋利兵衛に発行した)受取証ヲ見テ、暴徒ノ巨魁ハ当郷字熊木平民農田代栄助ナルヲ知り、人々二度喫驚セリ、且ツ切歯扼腕ヲナス者アリ」(「秩父暴動事件概略」)
*
集められた軍用金。
柿原吟三郎500円、逸見藤三郎3円、逸見助五郎20円、井上伴七100円、新井峰吉80円、松本六蔵200円、矢尾利兵衛300円、久保道蔵100円、岡幸八400円、大森喜右衛門800円、根岸藤太郎500円、福島七兵衛100円の計3,103円。
*
○火薬購入と破裂弾製造。
桜沢村の「官軍善」木島善一郎は、大宮郷の塩ノ谷薬店からエンサンカリとケイカンセキを購入、これを横瀬村の銃砲鍛冶職の町田代蔵宅へ運び、風布村の宮下沢五郎と破裂薬を製造(「大宮郷警察署長より警察本署雨宮警部宛報告書」)。
この砲弾は4日午後、粥新田峠を越えて坂本村に進出した際、「官軍善」らが携行。その他にも、命じられて火薬購入に奔走したとの証言あり。
*
2日夜、蒔田村逸見福二郎は、栄助に命じられ、8円をもらい、25名を引率して秩父神社を出発、田村郷で合薬2貫500目を購入、13名で大宮郷へ運ばせ、次に久長村で3貫目を「強求」して大宮郷へ運搬。福二郎は、困民党の「勢力ヲ逞カラシメ」たとして、重禁錮2年を科せられる。
*
3日、白久村贄川村小隊長坂本伊三郎(34、竹細工職人、軽懲役6年)は、「田代栄助ヨリ弾薬購求ノ命ヲ受ケ」、15円を受取り、袴をはき威厳をととのえ、浅見伊八(横瀬村、重禁鍋5年)・新井紋蔵(下日野沢村、軽懲役6年)ら数十人を率い、贄川村に行き、15円分の火薬を購入し大宮郷へ運ばる。
*
*
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2日夕方、
信州南佐久郡北相木村に、秩父困民党井出為吉の「出発を促す書簡」が着。自由党員菊池恒之助・井出代吉ら8人が、秩父へ出発。途中挫折。
このうち菊池恒之助のみが貫平の軍と共に信州に戻ってくる。
*
2日夜、
山県・柱野警部指揮の巡査隊、太駄村に入り、鳥羽村戸長役場で夕食。
小柏ダイ・新井チヨらの煽動を聞き、昼夜兼行強行軍にもかかわらず、続いて上州保美濃山に向かい、更に、3日坂原村に向かい、小柏ダイらを保美濃山戸長役場に引致。夜は城峯峠を守備する。
*
小柏ダイ(常次郎妻)・新井チヨ(19、新井蒔蔵妹)、1日夜、恩田宇一の指令により同じ日野沢村黒沢ウラと共に三波川へ鉄砲を借りに行く。
途中、矢納村高牛~鳥羽辺~尾根外の三波川までの未参加部落を訪れ参加を要請。拘留後、各罰金2円・1円50銭・無罪で放免。拘留は4日朝群馬の鬼石町でという説が主流。
*
チヨの供述。
「二日、村方ヲ立ツテ、途中、因民党へ加ハレト触レテミヤウト、ダイノ言ニヨリ、
・・・鳥羽ニテ一軒へ立寄り、吉田ノ方へ困民党ガ寄合ツタル故、其方へ出ナケレバ、後カラ多人数参ルカラ出ルヤウニト申シ触レタリ。
・・・戯レニ(高牛ニテ)触レタルトコロ、五人バカリ出テ来ルト申スニ付、飛ンダコトヲ致シタト思ヒ、帰りニ一緒ニ行カウト申シ、態々三波川ニ泊リタル次第ナリ」。
三波川不動尊へのお参りが本当の目的と口裏を合わせる。
また、「飛ンダコトヲシタ」と恐縮しながら、「果シテ後悔セシモノナレパ、再ビ鳥羽へ到り其事ヲ触レル訳ナシ、如何?」と刑事に突っ込まれると、チヨは、「困民党卜申スハ好キ事ニ承り居リタル故、鳥羽ニテモ申セシナリ。飛ンダ事ヲ致セシト申セシハ間違ヒニ有之侯 日歩貸ヲ毀シタル話ハ聞キタレドそ、借リタ金ナドハ返サズトモ良キ訳ダト申ス故悪シキコトトモ心得ズ」と答える。
刑事が、「良キコトト心得シ故、方々フレ歩行キシ訳カ?」と訪ねると、チヨは断乎として「左様ニ御座候」と答える。取調べはここで打ち切り。
*
・2日夜、
堀口幸助、かつて奉公した代書人宅に宿泊、忠告を受け逃亡を決意。翌3日皆野への途中で脱走、4日群馬県緑野郡三波村の知人宅で7、8泊。後、富岡町~故郷渋川駅~曲輪町、21日午後8時横山町で逮捕。
*
・午後8時50分、
清浦警保局長より埼玉県庁へ、憲兵派遣の報入る。
これを受けて、笹田書記官は、本庄から寄居までの憲兵輸送の手配を、大里郡役所に訓電。
「憲兵一小隊春日少佐是ヲ率ヒ同夜十一時発本庄駅マデ別仕立汽車ニテ派遣ス」。
「今夜十二時憲兵百名許り其地へ着スル筈ニ付賄ヒ方手当シ、且ツ其地人力車残ラズ雇上置クベシ」。
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・秩父事件の初めての新聞報道(「東京横浜毎日新聞」)。
見出し「茨城暴動も概ね縛に就き、負債党の如きも漸く鎮静に帰したりしに、昨日又左の報を得たり」。
掲載電報「多数の人民、埼玉県秩父郡富市村の山中に集合し、各武器を携へ、中には銃砲を携ふるもありて、暴挙に及ばんとする有様なり。」。
多数の人民というのは、茨城暴徒のごとき者か、または負債党のごとき者か、いまのところ不明であると解説。
*
・「秩父暴動雑録」にみるこの頃の動き。
*この日(2日)、上日野沢の小さな高利貸の弟が、前日、駆出されたが逃げ帰る途中と言い、筆者(田中千弥)の家に立寄る。
千弥が聞き取った暴徒の情報。
まず秩父で軍用金を集め、諸方の勢と一緒に埼玉県庁を打破り、浦和監獄から村上泰治を解放し、東京に上る。「板垣公卜兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安寧ナラシムべシ・・・今般ノ一挙ハ専ラ天下泰平ノ基ニシテ、貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル目的ナレバ、金穀銃器ヲ供シテ兵力ヲ助クべシ。」。
4日、近所の部落の役割表に名もない農民2名が、数部落の人足を集め、神社の前で、「我輩既ニ大宮裁判所ノ書類ヲ焼キ其庁ヲ毀テリ、朝廷ヨリ置ク庁ヲ毀ツ、既ニ朝敵ナリ」と、アジ演説し、進めや進めとくり出す。千弥は憤懣やるかたなく「聞腹のたつ蟷螂のじわざかな」。
*
①幹部でもない農民が、自由党の言葉のパターンを使用し、政治的自由民権の概念を語る。
天下の政治を改革し、人民を自由ならしめるとの変革意識が、高利貸征伐という具体的行動に綜合(秩父事件は自由民権運動の発展線上にあるという見方)。
蜂起のスローガンは、農民にとって直接的な要求、負債据置・年賦返済・減租運動から発展した高利貸打毀し・証書と奥印書の焼き捨てであるが、その目標は政治改革に連なり、それに裏打ちされているとの自覚が表明されている。
*
②負債農民が、人民の自由と安楽を語る時、自由党的な枠に止まろうとする幹部の意に反し、社会的意味を帯びざるを得ない。
自由とは最も直接的には借金からの自由、借金からの解放であるが、これを拡大すると徴兵・酒税・印紙税からの自由である。
困民党において、「世直シ」は「世均シ」に発展する。
困民党において、政治的自由民権は社会的自由民権に発展する。
恩田卯一(宇市)と坂本宗作のオルグを受けて参加した上州多胡郡上日野村の新井貞吉は、卯一が、高利貸や銀行をつぶし、「平ラナ世」にするから参加してもらいたいと説いたと述べる。
「金のないのも苦にしやさんすな いまにお金が自由党」。
「雑録」は、「貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル」と云う。
貫平は信州侵入の際、南佐久郡海瀬村で1戸1人の人足を強要した上、「天のその斯の民を生ずる、彼れに厚く、此れに薄きの理なし」と天賦人権の平等を説き、「拙者等は富者に奪ひて貧者に施し、天下の貧富をして平均ならしむと欲するなり」と主張。
「朝野新聞」社説「貧富平等論」は、「社会ノ組織ヲ一変シテ、財産ノ均一ヲハカル」という社会主義と理解し、秩父事件も「経済上弱ヲ扶ケ強キヲ挫ク」主張であったと批判。
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・投書「百姓の困難」(「土陽新聞」)。
「抑も百姓が明治十二、三年の頃米の十円にも売れし頃は、始めて藩制以来の愁眉を開き、・・・漸く人間の仲間入をなすに至れり。此の時に当て、事を解せざる者は、農家の地位の斯く次第に進むを悪んで、動もすればヤレ百姓が奢るの、田舎が華美に流るるのとて、最少し地租を重くするも可なりとの諭ありけれども、我輩は之れと反対にて、如何に米価が十円に至りしと雖も、農家の税は軽きに非ず、実に他諸税よりも重くして、農家は実に困難なり、と云へり。何となれば、地税は営業税杯と違ひ、其財本に賦課せられたるものなれば、百円の地所を持てば年々必ず二円五十銭を私はざるを得ず。・・・乾損水損の差別なく、初手から定った課税なり。・・・農家が独り此の税に堪へて其業を落さざるものは何ぞ。これ非常の節倹が慣習となって、水を呑み襤褸を衣ても敢て意とせざるの境遇に甘んずるものなればなり。然るを、今論者が農家が僅かに人間の仲聞入をするや否之れを答めて奢侈に流るると云ふは、此れ実に百姓なるものは牛馬同様の者なれば、藁に寝て水で腹を張らせと云ふものなるべし。何と無礼千万な云ひ分ならずや。」
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2009年7月13日月曜日
明治17(1884)年11月2日(3) 大宮郷高利貸し打毀し 「秩父大将」田代栄助、奮闘す
■明治17(1884)年11月2日(3)
*
○田中千弥が描く「秩父コミューン」出現の様相。
「郡衙ニ押入り、役員ノ暴徒等、席ヲ陳(ツラ)ネ、田代栄助(秩父暴徒ノ総理ナレバ)秩父大将卜称シ、今日ヨリ郡中ノ政則ヲ出スコト大将ノ権ニ在リ、各其意ヲ体セト、酒肴ヲ設テ、開衙ノ祝宴ヲ為シ、而シテ後、郷中、其他ノ富家ニ、軍用金ヲ課シ、且、男子ハ一戸一名ツゝ、無漏兵役ニ従事スベシ、之レ板垣公ノ命ヲ奉シテ、国ノタメニ義挙ヲ為ス、秩父大将田代栄助君ノ仰ナリト、脅劫(イハセ)シシメテ、許多ノ貨材ヲ掠奪シ、人夫ヲ服事セシメシト云」(田中千弥「秩父暴動雑録」)
*
千弥は、「真ノ自由党ノ主意ハ如何ナル物ナルヲ不知」とし、自由党を「種々ノ妄言ヲ為」すものと否定的に捉えながら、「然シテ種々ノ妄言、国民ノ心ヲ結ビ貧民党ニ混淆シ、板垣氏ノ内命卜偽称シ、遂ニ暴動ヲ起ス、一原因トハナリシ也。」とする。
*
○大宮郷での高利貸し打毀し。
高利貸処分方法に関して、落合寅市・坂本宗作は直ちに打毀しを主張するが、栄助はまず一旦掛合い、応じない場合には打毀す、但し、人家密集の所では放火はしないと申し合わせる。
*
稲葉貞助家打毀しで見せた栄助の怒り。
高利貸側代理人が、柴岡熊吉を介して、50円で打毀し免除を申し入れるが、困民党側の西谷の親分加藤織平が要求1,000円のところを450円で話をつける。
しかし、栄助は、そんなことでは義に背き、死後に汚名を晒す事になると、織平を一蹴。また、稲葉より資産の小さな高利貸にも申し訳がたたぬと言う。織平もこれには反論できず、他の幹部も、栄助を支持する。
*
詳細経緯:
大宮郷最大の高利貸「刀屋」稲葉貞助の使いの2名(黒沢常吉・岩田東右衛門)が、「金円ハ望ニ任ニ付、家屋破壊ヲ免レタシ」と申し入れて来る。
栄助自身も、「刀屋」から、明治15年「地所書入レ」で2回計153円を借りており、「稲葉貞助ナル者ハ、素一ノ貧民ナリ、然ルヲ非道ノ高利ヲ貪り、僅カニ十ケ年間ニ五万ノ金ヲ積ムニ至ル、是レ今日貧民ノ由テ生ズル所以ナリ」と憤慨しており、使者に対し、「貧民ヲ救助スル為メ、我々生命ヲ擲テ尽力スル者ナレバ、現ニ貸付金高ノ内半額ヲ負債主へ与へ、半額ヲ年賦ニ償却セシメ、且軍用金トシテ当金千円差出スニ於テハ家屋ノ破壊ヲ止ムベシ」と申し渡す。
*
この後、栄助は、近くに住む実姉深田イチを訪ね「永訣ヲ告ゲ」たという(「田代栄助裁判言渡書」)。
*
午後8時頃、柴岡熊吉が、稲葉貞助は「金五拾円差出スニ付家屋ノ破壊ヲ免レタシ」と言っていると栄助に報告。
栄助は、「僅カニ五拾円ニテハ到底一般ニ対シ聴置キ難シ」と、交渉破談を決める。
この時、荻原勘二郎から「町内渋谷鉄五郎、浅見亥之助、逸見土用六等ノ家屋ヲ一時ニ破壊シ、続テ稲葉貞助ノ家屋ニ取掛りタル処、岩田東右衛門、黒沢常吉申スニハ「只今田代栄助ニ談判中ニ付破壊ノ儀ハ見合せ呉レ」ト、果シテ然ル事ナル哉」と問い合せが来る。
栄助は、「決シテ我ガ与リ知ル事ニアラズ、併シ同家ニハ誰カ味方ノ者居合セシヤ」と、調べさせると、副総理加藤織平が交渉中ということ。
織平を呼んで事情を聞くと、「先キニ稲葉貞助ノ家屋ハ弥破壊スル事ニ決シ、同家ニ臨ミタル処、金四百五拾円卜証書類一括差出シ、是ニテ勘弁ニ預りタシト歎クニ付、自分一了簡ニテ取計兼、倶ニ相談セント思フ折使ヲ受ケタリ」とのこと。
栄助が、「一等ノ貞助ニ対シ千金ヲ促シ、半額ニ満タザル金ヲ収メ、貞助ノ家屋ヲ破壊セザルニ於テハ、破壊シタル者ニ対スルモ義ニ背キ、死後ノ汚名ヲ如何セン」と述べると、織平もこれに同意。
栄助は、織平・小柏常次郎らを従え稲葉貞助方に赴き、「最初談判ノ内ナラバ兎モ角、己ニ二、三ノ家屋ヲ毀チタル上ハ今更中止スル能ハズ」と言い、織平が受取った450円と証書一括を岩田東右衛門に投げ返し、直ちに打毀しを命じる。この時、3日午前3時頃。
*
20年間に5万円の財産を築いたという稲葉貞助は、11月11日には、いちはやく「賊難御届ケ」を提出。金額は2,284円50で、奪われた「金札」は448円とある(栄助供述の450円か?)。
また、これには、「但シ質物預り品之儀ハ追々取調更ニ御届ケ可仕候也」と付記される。
12月2日の「被奪取品御届」には、栄助が借りていた2件計153円の入っており、ガンドウ1個代金20銭も届けられている。
*
3日午前2時頃、栄助は、坂本宗作・落合寅市に対し、「滝ノ上ノ高利貸高野嘉与吉、高野伊兵衛、同林蔵、同ふさ方へ至り、貸金高悉皆免償主へ与ル様談判ヲ遂ゲ、聞入ザル上ハ家屋ヲ破壊スベシ」と命じる。
実行後、坂本宗作らは、「隣家ノ延焼ヲ防ギ、高野嘉与吉外三戸焼慨シタリ」と栄助に復命(「田代栄助訊問調書」)。
*
矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」が描くこの夜の困民軍動き。(改行を施す)
「午前弐時頃 当郷字上町高利貸渋谷鉄五郎宅ヲ兇徒等打砕ク、此時彼等少シク事ニ齟齬ヲ来タシ、狼狽シテ鉄砲ヲ連発セシ故、事情ヲ知ラザル者実ニ喫驚ス、当店衆中是ニ駭(オドロ)キ居レド、前刻ニ通告セシ事モアリ、又家ヲ出テ或ハ家根へ上り、横道ヲ過ル者ハ胡乱ノ者卜見受次第銃殺ヲナスト沙汰セシ故、詮方ナク一同恟々トシテ蹲踞シ、生キタル心チナク、家内故ニ寂莫タリ、
又暫時ニシテ浅見なを宅ヲ破砕ス、其音響劇シキニヨリ、本店ノ或ル箇所ヲ破壊セラルゝカト戦懐セリ、
午前三時頃、兵ヲ計ルト称シテ本店卜土蔵ノ間、即チ松本六歳氏門内へ、暴徒雲霞ノ如ク、轟々卜大勢込入ル、
又市中ニテ暴徒ノ隊長等従卒へ鉄砲ノ放チ方ヲ教導スルトテ、必至卜大声ヲ発シ、其間ニハ鯨声ヲ屡々揚ゲ、動揺一方ナラズ、
故ニ各家中ニ居ル者ハ実ニ危険ノ至リニテ、詞ヲサへ出ス者罕(マレ)ナリシ」。
*
夜明以降も、高利貸打毀しは続く。
「十一月三日晴天
午前六時、当郷字東横町千歳屋幸吉宅ヲ破砕ス
前夜ヨリ今朝へカケ、市街ニテ破砕ヲ被リシ家左ノ如シ、尤モ孰モ家形ヲ残シタリ、其故ハ家ヲ破壊ナスト無辜ノ隣家マデ多少ノ害ノ及プヲ恐レテナリ、家形ヲ除クノ外ハ目ニ遮ルモノハ火熨斗ノ如キ些細ノ物ニ至ルマデ余サズ破却セリ、実ニ惨憺タル有様ナリ
渋谷鉄五郎 浅見ナヲ 金正庵土用六 同長家 稲葉貞助 宮前藤十郎 千歳屋幸吉
右六戸ノ中、稲葉貞助方ハ実ニ残酷ヲ極メタリ(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)
*
高利貸の中には、初めから要求に素直に応じる者もいる。
加藤織平・井上伝蔵・柴岡熊吉らが井上政吉方で、「是迄他へ貸付アル金円ハ不残四十ケ年賦ニ致シ呉レ」と交渉すると、井上政吉は「四十ケ年賦ニ取極ムル上ハ到底返償ハ無覚束モノニ付、寧ロ貸金証書ヲ返戻致ス」と言って証書数十通を差出したので、これを妙見の森(秩父神社)に持ち帰って焼いたという(「加藤織平訊問調書」)。
*
to be continued
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○田中千弥が描く「秩父コミューン」出現の様相。
「郡衙ニ押入り、役員ノ暴徒等、席ヲ陳(ツラ)ネ、田代栄助(秩父暴徒ノ総理ナレバ)秩父大将卜称シ、今日ヨリ郡中ノ政則ヲ出スコト大将ノ権ニ在リ、各其意ヲ体セト、酒肴ヲ設テ、開衙ノ祝宴ヲ為シ、而シテ後、郷中、其他ノ富家ニ、軍用金ヲ課シ、且、男子ハ一戸一名ツゝ、無漏兵役ニ従事スベシ、之レ板垣公ノ命ヲ奉シテ、国ノタメニ義挙ヲ為ス、秩父大将田代栄助君ノ仰ナリト、脅劫(イハセ)シシメテ、許多ノ貨材ヲ掠奪シ、人夫ヲ服事セシメシト云」(田中千弥「秩父暴動雑録」)
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千弥は、「真ノ自由党ノ主意ハ如何ナル物ナルヲ不知」とし、自由党を「種々ノ妄言ヲ為」すものと否定的に捉えながら、「然シテ種々ノ妄言、国民ノ心ヲ結ビ貧民党ニ混淆シ、板垣氏ノ内命卜偽称シ、遂ニ暴動ヲ起ス、一原因トハナリシ也。」とする。
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○大宮郷での高利貸し打毀し。
高利貸処分方法に関して、落合寅市・坂本宗作は直ちに打毀しを主張するが、栄助はまず一旦掛合い、応じない場合には打毀す、但し、人家密集の所では放火はしないと申し合わせる。
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稲葉貞助家打毀しで見せた栄助の怒り。
高利貸側代理人が、柴岡熊吉を介して、50円で打毀し免除を申し入れるが、困民党側の西谷の親分加藤織平が要求1,000円のところを450円で話をつける。
しかし、栄助は、そんなことでは義に背き、死後に汚名を晒す事になると、織平を一蹴。また、稲葉より資産の小さな高利貸にも申し訳がたたぬと言う。織平もこれには反論できず、他の幹部も、栄助を支持する。
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詳細経緯:
大宮郷最大の高利貸「刀屋」稲葉貞助の使いの2名(黒沢常吉・岩田東右衛門)が、「金円ハ望ニ任ニ付、家屋破壊ヲ免レタシ」と申し入れて来る。
栄助自身も、「刀屋」から、明治15年「地所書入レ」で2回計153円を借りており、「稲葉貞助ナル者ハ、素一ノ貧民ナリ、然ルヲ非道ノ高利ヲ貪り、僅カニ十ケ年間ニ五万ノ金ヲ積ムニ至ル、是レ今日貧民ノ由テ生ズル所以ナリ」と憤慨しており、使者に対し、「貧民ヲ救助スル為メ、我々生命ヲ擲テ尽力スル者ナレバ、現ニ貸付金高ノ内半額ヲ負債主へ与へ、半額ヲ年賦ニ償却セシメ、且軍用金トシテ当金千円差出スニ於テハ家屋ノ破壊ヲ止ムベシ」と申し渡す。
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この後、栄助は、近くに住む実姉深田イチを訪ね「永訣ヲ告ゲ」たという(「田代栄助裁判言渡書」)。
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午後8時頃、柴岡熊吉が、稲葉貞助は「金五拾円差出スニ付家屋ノ破壊ヲ免レタシ」と言っていると栄助に報告。
栄助は、「僅カニ五拾円ニテハ到底一般ニ対シ聴置キ難シ」と、交渉破談を決める。
この時、荻原勘二郎から「町内渋谷鉄五郎、浅見亥之助、逸見土用六等ノ家屋ヲ一時ニ破壊シ、続テ稲葉貞助ノ家屋ニ取掛りタル処、岩田東右衛門、黒沢常吉申スニハ「只今田代栄助ニ談判中ニ付破壊ノ儀ハ見合せ呉レ」ト、果シテ然ル事ナル哉」と問い合せが来る。
栄助は、「決シテ我ガ与リ知ル事ニアラズ、併シ同家ニハ誰カ味方ノ者居合セシヤ」と、調べさせると、副総理加藤織平が交渉中ということ。
織平を呼んで事情を聞くと、「先キニ稲葉貞助ノ家屋ハ弥破壊スル事ニ決シ、同家ニ臨ミタル処、金四百五拾円卜証書類一括差出シ、是ニテ勘弁ニ預りタシト歎クニ付、自分一了簡ニテ取計兼、倶ニ相談セント思フ折使ヲ受ケタリ」とのこと。
栄助が、「一等ノ貞助ニ対シ千金ヲ促シ、半額ニ満タザル金ヲ収メ、貞助ノ家屋ヲ破壊セザルニ於テハ、破壊シタル者ニ対スルモ義ニ背キ、死後ノ汚名ヲ如何セン」と述べると、織平もこれに同意。
栄助は、織平・小柏常次郎らを従え稲葉貞助方に赴き、「最初談判ノ内ナラバ兎モ角、己ニ二、三ノ家屋ヲ毀チタル上ハ今更中止スル能ハズ」と言い、織平が受取った450円と証書一括を岩田東右衛門に投げ返し、直ちに打毀しを命じる。この時、3日午前3時頃。
*
20年間に5万円の財産を築いたという稲葉貞助は、11月11日には、いちはやく「賊難御届ケ」を提出。金額は2,284円50で、奪われた「金札」は448円とある(栄助供述の450円か?)。
また、これには、「但シ質物預り品之儀ハ追々取調更ニ御届ケ可仕候也」と付記される。
12月2日の「被奪取品御届」には、栄助が借りていた2件計153円の入っており、ガンドウ1個代金20銭も届けられている。
*
3日午前2時頃、栄助は、坂本宗作・落合寅市に対し、「滝ノ上ノ高利貸高野嘉与吉、高野伊兵衛、同林蔵、同ふさ方へ至り、貸金高悉皆免償主へ与ル様談判ヲ遂ゲ、聞入ザル上ハ家屋ヲ破壊スベシ」と命じる。
実行後、坂本宗作らは、「隣家ノ延焼ヲ防ギ、高野嘉与吉外三戸焼慨シタリ」と栄助に復命(「田代栄助訊問調書」)。
*
矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」が描くこの夜の困民軍動き。(改行を施す)
「午前弐時頃 当郷字上町高利貸渋谷鉄五郎宅ヲ兇徒等打砕ク、此時彼等少シク事ニ齟齬ヲ来タシ、狼狽シテ鉄砲ヲ連発セシ故、事情ヲ知ラザル者実ニ喫驚ス、当店衆中是ニ駭(オドロ)キ居レド、前刻ニ通告セシ事モアリ、又家ヲ出テ或ハ家根へ上り、横道ヲ過ル者ハ胡乱ノ者卜見受次第銃殺ヲナスト沙汰セシ故、詮方ナク一同恟々トシテ蹲踞シ、生キタル心チナク、家内故ニ寂莫タリ、
又暫時ニシテ浅見なを宅ヲ破砕ス、其音響劇シキニヨリ、本店ノ或ル箇所ヲ破壊セラルゝカト戦懐セリ、
午前三時頃、兵ヲ計ルト称シテ本店卜土蔵ノ間、即チ松本六歳氏門内へ、暴徒雲霞ノ如ク、轟々卜大勢込入ル、
又市中ニテ暴徒ノ隊長等従卒へ鉄砲ノ放チ方ヲ教導スルトテ、必至卜大声ヲ発シ、其間ニハ鯨声ヲ屡々揚ゲ、動揺一方ナラズ、
故ニ各家中ニ居ル者ハ実ニ危険ノ至リニテ、詞ヲサへ出ス者罕(マレ)ナリシ」。
*
夜明以降も、高利貸打毀しは続く。
「十一月三日晴天
午前六時、当郷字東横町千歳屋幸吉宅ヲ破砕ス
前夜ヨリ今朝へカケ、市街ニテ破砕ヲ被リシ家左ノ如シ、尤モ孰モ家形ヲ残シタリ、其故ハ家ヲ破壊ナスト無辜ノ隣家マデ多少ノ害ノ及プヲ恐レテナリ、家形ヲ除クノ外ハ目ニ遮ルモノハ火熨斗ノ如キ些細ノ物ニ至ルマデ余サズ破却セリ、実ニ惨憺タル有様ナリ
渋谷鉄五郎 浅見ナヲ 金正庵土用六 同長家 稲葉貞助 宮前藤十郎 千歳屋幸吉
右六戸ノ中、稲葉貞助方ハ実ニ残酷ヲ極メタリ(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)
*
高利貸の中には、初めから要求に素直に応じる者もいる。
加藤織平・井上伝蔵・柴岡熊吉らが井上政吉方で、「是迄他へ貸付アル金円ハ不残四十ケ年賦ニ致シ呉レ」と交渉すると、井上政吉は「四十ケ年賦ニ取極ムル上ハ到底返償ハ無覚束モノニ付、寧ロ貸金証書ヲ返戻致ス」と言って証書数十通を差出したので、これを妙見の森(秩父神社)に持ち帰って焼いたという(「加藤織平訊問調書」)。
*
to be continued
2009年6月11日木曜日
明治17(1884)年11月2日 秩父困民党、大宮郷を無血占領す(2)
■明治17(1884)年11月2日(2)
*
・午前、皆野を撤退した江夏警部長ら、寄居到着。
*
・午前11時、埼玉県庁笹田少書記官、秩父からの特使到着を待って、内務卿山県有朋宛に憲兵派遣要請電打つ。
「県下秩父郡ノ暴徒既二千人ニ及ビ、抜刀銃器ヲ携へ、同郡小鹿野町ニ火ヲ放チ、大宮郷ニ向ケ押出ス模様アリ、其勢猖獗、為ニ巡査七名死傷セリ。因テ警部巡査ヲ以テ速ニ鎮静シ難ク、遷延久キニ亘レバ他ノ地方ニ波及ノ恐レアルノミナラズ、都下ニ近接セルニ依リ、若シ影響スルコトアリテハ容易ナラザルニ付早ク鎮定シタシ。至急憲兵ヲ御派遣アレ、此段上請ス」。
*
・午後、各地に派遣されていた別動隊が、狩り出しを行う。農民らが続々と大宮郷に入り、大宮郷はこれら農民兵士たちで溢れる。
「午後、暴徒等益々加ハリ、当店前へモ際限ナク蟻集セリ、但シ秩父神社境内ヲ最多数トス、該当ノ総理ハ群馬県人相馬義広(当初栄助が用いた名前)卜云由、使者ヲ以テ慇懃ニ通知シ来リタリ」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
*
・「午後一時交、遁逃セシ巡査ガ、十弐番山ニ潜伏スルト聞キ、暴徒等多人数ニテ捜索ニユク」(矢尾利兵衛「同上」)
*
・午後3時頃、宮川寅五郎、大宮町より荒川上流の入方と呼ばれる広い地域に押しかけ、上流地方まで侵入。
*
・午後3時20分、埼玉県庁笹田少書記官、警視総監宛に警視庁巡査100名応援要請。憲兵派遣決定のため受入れられず。
*
・午後4時頃、田代栄助は側近と共に秩父神社に入る。柴岡熊吉が大宮郷を見て廻り、仮の本陣の地蔵院にいる栄助に「最早町内ニ気遣ヒハ無之」と報告。秩父神社で栄助らは作戦会議。
*
栄助は、加藤織平・宮川津盛・新井周三郎・菊池貫平・井出為吉・高岸善吉・井上伝蔵・坂本宗作・千嶋周作・磯田左馬吉・柴岡熊吉ら幹部と今後の作戦を協議。
高利賃については、「高利貸ヲ喚出シ、是迄取置キタル証書ヲ取返シ、以後高利貸ヲセヌト云フ書面ヲ差出スモノハ其儘存命致サセ、潜伏シテ其場所ニ出ザルモノハ命ヲ絶ツ」と決め指示。
栄助は、「自分等ノ望ヲ達セザル内ハ、警察官及兵隊ヲ向ケラル共、屈セズ戦争ヲナシ、大願成就シテ御処分ヲ請ケルノ覚悟ナリ」と決意を披歴し、一同も同意したという(「柴岡熊吉訊問調書」)。
*
・作戦会議後、秩父神社のすぐ前にある大宮郷戸長役場を襲う。
*
「六、七人抜刀ニテ入来り、地所建物書人割印帳ハ勿論、其他諸書類ヲ可差出旨強迫セシガ、欺イテ割印帳ハ数冊ヲ隠匿シ、其他ノ書類ハ目下必用ナラザルモノゝミヲ出セシ也、幸ヒニ賊之ヲ知ラズシテ其儘受取焼棄シ去レリ」(戸長斉藤安兵衛の記録「秩父暴徒之節書類控」)。
*
・午後4時頃、大宮より武甲山下の村々に150名規模のゲリラ隊が派遣され駆出しを行う。2~3日に大宮に集合した暴徒7~8千(1万とも云われる)に達する(井上幸治著書)。動員数については、下記に諸説をあげる。
*
①横瀬村(大宮郷に隣接):
白木綿の旗を立て、鉄砲・刀・槍を携帯した150名余が戸長役場を囲み、その指揮者が、「此方共ハ自由党員ニシテ、今般困窮人ヲ引連レ、高利貸ノ輩へ懸合中、巡査ノ手当ヲ受ケ、既ニ即死・負傷ヲ受候ニ付、政府へ直訴可致ノ積リ、又高利貸ノ者共片端ヨリ焼払可申、依テ壱戸壱名宛人夫可差出、承諾無之ニ於テハ、当役場ヲ手始メトシテ、村落ノ人家ヲ不残放火ニ可及」(秩父「秩父郡横瀬村聯合戸長若林又右衛門の郡長あて報告書」)と強談。
すぐに「挨拶ニ応ズベシ」と返答すると、困民軍兵士は、「然ラバ我目前ニ於テ、銃器其ノ他長刀ヲ携へ、速ニ大宮郷へ可罷出ノ達状ヲ相認メ、村内へ急報可致」(右前)と要求。
役場はそれに応じて村内に達しを出すと、困民党はそれを確かめて引き揚げる。
役場は、この達しに「一時賊ヲ欺カンガ為メ賊徒ノ求ニ応ジタルモ、容易ナラザル次第ニ付、必ズ不法ノ所業無之様相慎ミ、夜ニ紛レ窃ニ可立戻」と添える。
翌3日午前7時頃、困民党数十名が再び現れ、「当村ノ人夫ハ一卜先繰出シタルモ、夜ニ入テヨリ荒増(アラマシ)立戻リ候ハ如何ナル心得ナルヤ、次第ニ依リテハ放火ニ及ブベシ、因テ再ビ触レ致セ」と要求。役場は再び人足差出しを村内に触れる(「秩父郡横瀬村聯合戸長若林又右衛門の秩父郡長あて報告書」)。
*
②風布村:
地元の石田伝次郎や石田造酒之助ら20人余が入り、「高利ヲ借リン者モ出テ加勢シロ」と狩りだしを行う。結局、「三分ノ二は三十一日ヨリ出デ、三分ノ一ハ二日迄出ズニ居リタリ、此者ハ先ヅ借金ノナキ者ナルガ、二度目ノ催促ニテ二日ニハ残ラズ出タリ」というように、借金の有無に拘わらず挙村参加となる(「風布村宮下牧蔵訊問調書」)。
*
③石間村半納:
30名程が鉄砲を持って入り、「徳川ノ世ニスルカラ加勢ニ出ヨ、徳川ノ世ニナレバ無年貢ニテ三ヶ年作ラセル、出ザルニ於テハ火ヲ掛ル、切ル」と言って狩りだしを行う。結局、「私モ出ル積リナリシガ、家内モ七人アリ、私ガ出ルトキハ跡モ差支ヘル故、壱戸壱人宛出タラバヨイトノ事ニ付、弟ノ広吉ヲ出シ置タルニ・・・村内ニ残り居ル者ハ火縄ヲ拵へ、暴徒ノ方へ送ル様ニト触ガ回リ、夫ヨリ鎮守ノ森ニテ火縄ヲ拵ラへ居タリ」と、挙村参加となる(「石間村半納新井浅次郎訊問調書」)。
*
④金沢村(児玉郡との境の天沢峠の近く):
「大宮郷ノ郡役所ニ押込ムニハ人足ガ必要ナルガ故ニ、白ノ木綿ニテ鉢巻ヲ為シ、竹鎗ヲ持チ出ロ」と言い継ぎがあり、夜12時頃までに、隣の下日野沢村と合わせて70人程が集まる(「木村市太郎訊問調書」)。
*
⑤小鹿野町の南の長留村、その隣の般若村にも同様狩りだしがあり、「壱戸壱名宛」が出ることになる。
*
■動員数に関する証言
①「二日午後六時、暴徒新加入者追々加ハリ、凡ソ三千人余モ見受ケタリ、是ヲ甲乙ノ二隊ニ分チ、当店の表通り及ビ秩父神社境内、並ニ新築ノ学校舎等へ配シ、陣取ヲナス、市中ハ暴徒ノ往来シテ途切レズ、且ツ夜ニ入り兇徒等道々来襲シテ其数ヲ不知(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
*
②たまたま大宮郷で大工仕事をしていて、焚き出しを命じられ、それを手伝い、握り飯を秩父神社に運んだという男の証言。「三日ノ人数ハ、凡ソ三千人モアリタリト思レタリ」((「長浜仙太郎訊問調書」)。
*
③栄助側近の木戸為三。
「問 暴徒ノ惣人員ハ凡ソ幾人程居リシャ
答 一時盛ナル時ニハ凡三千人位ハ居リシモノト見受ケタリ
問 其三千人ノ内、銃砲ヲ携へ居リシモノハ何人程居リシト思フヤ
答 三千人トシテ銃器ヲ携へシモノハ弐百名位ニシテ、其余ハ抜刀隊卜竹鎗ニ御座候」(「木戸為三訊問調書」)。
*
④鎌田警部の見込み。
「暴徒ノ人員ハ、其正確ナル数ハ得テ知ルベカラズト雖、六、七千人ニ下ラザルベシ、最初ハ秩父郡内ニ於テ卅余町村、男衾郡二ケ村、上野国南甘楽郡・多胡郡ニテ数ケ村、信濃国南北佐久両郡内ノ数ケ村ニテ会員二千五、六百人ナリシモ、漸ク強迫随行セシモノ多ク加ハリタルモノゝ如シ、而シテ秩父郡八十四ケ村ノ内十六ケ村ハ暴徒ニ加ハラズト雖モ、六十八町村ハ其一ケ村ニシテ五百人ヲ出シタル所モアリ、少クトモ六十九町村ニシテ五千五、六百人、此外男衾郡、上信ノ数郡内ヨリ出デタルモノヲ合セテ、其人員六千以上タルベキハ素ヨリ論ナキナリ、総理栄助ハ大宮郷ニ集リタル者大凡一万人ナリト申供ス、是元ヨリ其大数ナリト雖、又甚ダ速力ラザルハ、彼是ヲ綜合シテ以テ推知スルニ足レリ」(鎌田沖太「秩父暴動実記」)。
*
⑤「田代栄助裁判言渡書」では、「此日四方ヨリ来集スル者、大凡万ヲ以テ数フ」としている。
*
・午後6時頃、参謀長菊池貫平の発案で、秩父郡役所を本営、大宮小学校を分宮と定める。
栄助は、護衛を郡役所前に整列させ、羽織・袴に大小を差し、幹部を従えて乗り込み、「以後総理ヲ秩父大将卜唱へヨ」「今日ヨリ郡中ノ政則ヲ出スコト大将ノ権ニ在り、各々其意ヲ体セヨ」と宣言、酒肴をもって開衙の祝宴をあげる(「秩父暴動雑録」)。
*
栄助は、正面2階の部屋で指揮。
初め「群馬県人相馬義広」と名乗っていたが、この日、軍用金徴収に対する領収書には本名を使用。
*
*

*大宮郷は現在の秩父市。矢印は一旦困民党幹部が集結した秩父神社。
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to be continued to (3)
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・午前、皆野を撤退した江夏警部長ら、寄居到着。
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・午前11時、埼玉県庁笹田少書記官、秩父からの特使到着を待って、内務卿山県有朋宛に憲兵派遣要請電打つ。
「県下秩父郡ノ暴徒既二千人ニ及ビ、抜刀銃器ヲ携へ、同郡小鹿野町ニ火ヲ放チ、大宮郷ニ向ケ押出ス模様アリ、其勢猖獗、為ニ巡査七名死傷セリ。因テ警部巡査ヲ以テ速ニ鎮静シ難ク、遷延久キニ亘レバ他ノ地方ニ波及ノ恐レアルノミナラズ、都下ニ近接セルニ依リ、若シ影響スルコトアリテハ容易ナラザルニ付早ク鎮定シタシ。至急憲兵ヲ御派遣アレ、此段上請ス」。
*
・午後、各地に派遣されていた別動隊が、狩り出しを行う。農民らが続々と大宮郷に入り、大宮郷はこれら農民兵士たちで溢れる。
「午後、暴徒等益々加ハリ、当店前へモ際限ナク蟻集セリ、但シ秩父神社境内ヲ最多数トス、該当ノ総理ハ群馬県人相馬義広(当初栄助が用いた名前)卜云由、使者ヲ以テ慇懃ニ通知シ来リタリ」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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・「午後一時交、遁逃セシ巡査ガ、十弐番山ニ潜伏スルト聞キ、暴徒等多人数ニテ捜索ニユク」(矢尾利兵衛「同上」)
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・午後3時頃、宮川寅五郎、大宮町より荒川上流の入方と呼ばれる広い地域に押しかけ、上流地方まで侵入。
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・午後3時20分、埼玉県庁笹田少書記官、警視総監宛に警視庁巡査100名応援要請。憲兵派遣決定のため受入れられず。
*
・午後4時頃、田代栄助は側近と共に秩父神社に入る。柴岡熊吉が大宮郷を見て廻り、仮の本陣の地蔵院にいる栄助に「最早町内ニ気遣ヒハ無之」と報告。秩父神社で栄助らは作戦会議。
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栄助は、加藤織平・宮川津盛・新井周三郎・菊池貫平・井出為吉・高岸善吉・井上伝蔵・坂本宗作・千嶋周作・磯田左馬吉・柴岡熊吉ら幹部と今後の作戦を協議。
高利賃については、「高利貸ヲ喚出シ、是迄取置キタル証書ヲ取返シ、以後高利貸ヲセヌト云フ書面ヲ差出スモノハ其儘存命致サセ、潜伏シテ其場所ニ出ザルモノハ命ヲ絶ツ」と決め指示。
栄助は、「自分等ノ望ヲ達セザル内ハ、警察官及兵隊ヲ向ケラル共、屈セズ戦争ヲナシ、大願成就シテ御処分ヲ請ケルノ覚悟ナリ」と決意を披歴し、一同も同意したという(「柴岡熊吉訊問調書」)。
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・作戦会議後、秩父神社のすぐ前にある大宮郷戸長役場を襲う。
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「六、七人抜刀ニテ入来り、地所建物書人割印帳ハ勿論、其他諸書類ヲ可差出旨強迫セシガ、欺イテ割印帳ハ数冊ヲ隠匿シ、其他ノ書類ハ目下必用ナラザルモノゝミヲ出セシ也、幸ヒニ賊之ヲ知ラズシテ其儘受取焼棄シ去レリ」(戸長斉藤安兵衛の記録「秩父暴徒之節書類控」)。
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・午後4時頃、大宮より武甲山下の村々に150名規模のゲリラ隊が派遣され駆出しを行う。2~3日に大宮に集合した暴徒7~8千(1万とも云われる)に達する(井上幸治著書)。動員数については、下記に諸説をあげる。
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①横瀬村(大宮郷に隣接):
白木綿の旗を立て、鉄砲・刀・槍を携帯した150名余が戸長役場を囲み、その指揮者が、「此方共ハ自由党員ニシテ、今般困窮人ヲ引連レ、高利貸ノ輩へ懸合中、巡査ノ手当ヲ受ケ、既ニ即死・負傷ヲ受候ニ付、政府へ直訴可致ノ積リ、又高利貸ノ者共片端ヨリ焼払可申、依テ壱戸壱名宛人夫可差出、承諾無之ニ於テハ、当役場ヲ手始メトシテ、村落ノ人家ヲ不残放火ニ可及」(秩父「秩父郡横瀬村聯合戸長若林又右衛門の郡長あて報告書」)と強談。
すぐに「挨拶ニ応ズベシ」と返答すると、困民軍兵士は、「然ラバ我目前ニ於テ、銃器其ノ他長刀ヲ携へ、速ニ大宮郷へ可罷出ノ達状ヲ相認メ、村内へ急報可致」(右前)と要求。
役場はそれに応じて村内に達しを出すと、困民党はそれを確かめて引き揚げる。
役場は、この達しに「一時賊ヲ欺カンガ為メ賊徒ノ求ニ応ジタルモ、容易ナラザル次第ニ付、必ズ不法ノ所業無之様相慎ミ、夜ニ紛レ窃ニ可立戻」と添える。
翌3日午前7時頃、困民党数十名が再び現れ、「当村ノ人夫ハ一卜先繰出シタルモ、夜ニ入テヨリ荒増(アラマシ)立戻リ候ハ如何ナル心得ナルヤ、次第ニ依リテハ放火ニ及ブベシ、因テ再ビ触レ致セ」と要求。役場は再び人足差出しを村内に触れる(「秩父郡横瀬村聯合戸長若林又右衛門の秩父郡長あて報告書」)。
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②風布村:
地元の石田伝次郎や石田造酒之助ら20人余が入り、「高利ヲ借リン者モ出テ加勢シロ」と狩りだしを行う。結局、「三分ノ二は三十一日ヨリ出デ、三分ノ一ハ二日迄出ズニ居リタリ、此者ハ先ヅ借金ノナキ者ナルガ、二度目ノ催促ニテ二日ニハ残ラズ出タリ」というように、借金の有無に拘わらず挙村参加となる(「風布村宮下牧蔵訊問調書」)。
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③石間村半納:
30名程が鉄砲を持って入り、「徳川ノ世ニスルカラ加勢ニ出ヨ、徳川ノ世ニナレバ無年貢ニテ三ヶ年作ラセル、出ザルニ於テハ火ヲ掛ル、切ル」と言って狩りだしを行う。結局、「私モ出ル積リナリシガ、家内モ七人アリ、私ガ出ルトキハ跡モ差支ヘル故、壱戸壱人宛出タラバヨイトノ事ニ付、弟ノ広吉ヲ出シ置タルニ・・・村内ニ残り居ル者ハ火縄ヲ拵へ、暴徒ノ方へ送ル様ニト触ガ回リ、夫ヨリ鎮守ノ森ニテ火縄ヲ拵ラへ居タリ」と、挙村参加となる(「石間村半納新井浅次郎訊問調書」)。
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④金沢村(児玉郡との境の天沢峠の近く):
「大宮郷ノ郡役所ニ押込ムニハ人足ガ必要ナルガ故ニ、白ノ木綿ニテ鉢巻ヲ為シ、竹鎗ヲ持チ出ロ」と言い継ぎがあり、夜12時頃までに、隣の下日野沢村と合わせて70人程が集まる(「木村市太郎訊問調書」)。
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⑤小鹿野町の南の長留村、その隣の般若村にも同様狩りだしがあり、「壱戸壱名宛」が出ることになる。
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■動員数に関する証言
①「二日午後六時、暴徒新加入者追々加ハリ、凡ソ三千人余モ見受ケタリ、是ヲ甲乙ノ二隊ニ分チ、当店の表通り及ビ秩父神社境内、並ニ新築ノ学校舎等へ配シ、陣取ヲナス、市中ハ暴徒ノ往来シテ途切レズ、且ツ夜ニ入り兇徒等道々来襲シテ其数ヲ不知(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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②たまたま大宮郷で大工仕事をしていて、焚き出しを命じられ、それを手伝い、握り飯を秩父神社に運んだという男の証言。「三日ノ人数ハ、凡ソ三千人モアリタリト思レタリ」((「長浜仙太郎訊問調書」)。
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③栄助側近の木戸為三。
「問 暴徒ノ惣人員ハ凡ソ幾人程居リシャ
答 一時盛ナル時ニハ凡三千人位ハ居リシモノト見受ケタリ
問 其三千人ノ内、銃砲ヲ携へ居リシモノハ何人程居リシト思フヤ
答 三千人トシテ銃器ヲ携へシモノハ弐百名位ニシテ、其余ハ抜刀隊卜竹鎗ニ御座候」(「木戸為三訊問調書」)。
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④鎌田警部の見込み。
「暴徒ノ人員ハ、其正確ナル数ハ得テ知ルベカラズト雖、六、七千人ニ下ラザルベシ、最初ハ秩父郡内ニ於テ卅余町村、男衾郡二ケ村、上野国南甘楽郡・多胡郡ニテ数ケ村、信濃国南北佐久両郡内ノ数ケ村ニテ会員二千五、六百人ナリシモ、漸ク強迫随行セシモノ多ク加ハリタルモノゝ如シ、而シテ秩父郡八十四ケ村ノ内十六ケ村ハ暴徒ニ加ハラズト雖モ、六十八町村ハ其一ケ村ニシテ五百人ヲ出シタル所モアリ、少クトモ六十九町村ニシテ五千五、六百人、此外男衾郡、上信ノ数郡内ヨリ出デタルモノヲ合セテ、其人員六千以上タルベキハ素ヨリ論ナキナリ、総理栄助ハ大宮郷ニ集リタル者大凡一万人ナリト申供ス、是元ヨリ其大数ナリト雖、又甚ダ速力ラザルハ、彼是ヲ綜合シテ以テ推知スルニ足レリ」(鎌田沖太「秩父暴動実記」)。
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⑤「田代栄助裁判言渡書」では、「此日四方ヨリ来集スル者、大凡万ヲ以テ数フ」としている。
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・午後6時頃、参謀長菊池貫平の発案で、秩父郡役所を本営、大宮小学校を分宮と定める。
栄助は、護衛を郡役所前に整列させ、羽織・袴に大小を差し、幹部を従えて乗り込み、「以後総理ヲ秩父大将卜唱へヨ」「今日ヨリ郡中ノ政則ヲ出スコト大将ノ権ニ在り、各々其意ヲ体セヨ」と宣言、酒肴をもって開衙の祝宴をあげる(「秩父暴動雑録」)。
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栄助は、正面2階の部屋で指揮。
初め「群馬県人相馬義広」と名乗っていたが、この日、軍用金徴収に対する領収書には本名を使用。
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*大宮郷は現在の秩父市。矢印は一旦困民党幹部が集結した秩父神社。
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