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2016年9月24日土曜日

天正3年(1575)4月1日~4月30日 信長、石山本願寺を圧迫 顕如は籠城体制をとる 高屋城の三好康長降伏(信長は赦免し河内南半国を与える) 本願寺の孤立化 武田勝頼の三河進出 長篠合戦までの経緯 [信長42歳]

千葉 大山千枚田 2016-09-16
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天正3年(1575)4月
・北条氏の小山氏攻め開始(前年11月の下総関宿城攻略に続いて)。
北条氏政、祇園城(小山秀綱、栃木県小山市)西方の支城榎本城(下都賀郡大平町)を攻撃。やがて落城。小山氏は常陸太田の佐竹義重などを頼るが、祇園城も陥落。
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4月1日
・京都所司代村井貞勝、丹羽長秀と共に徳政として公家の本領を還付することを命じられる(「信長公記」)。
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4月1日
・信長、公家の失った旧所領還付命令(「主上・公家・武家ともに御再興」)。(「信長公記」巻8)
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4月3日
・相国寺にて鞠会。村井貞勝、配膳役を命じられる (宣教卿記)。
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4月4日
・明智光秀2千余、河内へ出陣(「兼見卿記」1)。
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4月5日
・武田勝頼2万7千、甲府出陣。
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4月5日
・家康、武田勝頼に内通した近臣大賀弥四郎を岡崎で処刑。
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4月6日
・信長1万余、京都進発、本願寺攻めに向かう。八幡(京都府八幡町)に布陣。
7日、本願寺に協力する河内・和泉の勢力を潰すため河内の若江に布陣。
8日、三好康長・遊佐信教の高屋城(羽曳野市)攻撃。信長自身は駒ヶ谷山(羽曳野市)より戦況を見物。
12日、高屋城攻めは部将に任せ、信長は摂津住吉へ。
13日、摂津天王寺着。畿内のほぼ全信長軍10万余が天王寺・住吉・遠里小野周辺に布陣。根来衆も信長方につく。
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4月6日
・村井貞勝、吉田兼和の訪問を受ける(兼見卿記)。
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4月7日
・本願寺顕如、北陸道(越前・加賀)門徒中へ、信長の「破却宗旨之企」により石山に籠城したので兵粮米の遅滞無き搬送を命令し、「仏法擁護再興」の機会であると通達(「浄光寺文書」)。
越前を支配する門徒衆にとり、信長の侵攻にそなえるため、この要請には応じられる状況にはない。
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4月8日
・村井貞勝、中山孝親・甘露寺経元より、債務の破棄を示した「寄破(きは)文書目録」を提出される。
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4月11日
・仏、ラ・ロシェル市長ら9人のユグノー教徒代表、和平交渉のためアンリ3世と接見。
王妃、カトリーヌ、ダランソン公、ナヴァール王同席。
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4月14日
・信長、石山本願寺に迫り、農作物を荒らす。
16日、摂津遠里小野(住吉区)に移り農作物を荒らす。
17日、堺近くの三好党の十河因幡守・香西越後守(元亀3年4月より信長に敵対)の和泉新堀城(堺市新堀町)攻撃。
19日、新堀城、落城。十河因幡守以下170が討死。香西越後守処刑。蓮如が開いた堺の信証院も焼亡。松井友閑を通じて高屋城の三好康長降伏(長慶の叔父、信長はこれを赦免、後、河内南半国を与える)。塙直政に命じて河内国内の城を破却。河内一帯の三好党全滅(本願寺の孤立化)
21日、信長、京都へ引上げ。
27日、京都発。
28日、岐阜帰還。

「高屋に楯籠る三好笑岩(康長)、友閑(村井)を以て御侘(詫)言、御赦免候なり。塙九郎左衛門(直政)仰せ付けられ河内国中、高屋の城初めとして悉く破却、大坂一城の落去幾程あるべからず。」(「信長公記」巻8)。

しかし、①大坂石山城の本願寺、②丹波八上城(兵庫県多紀郡篠山町八上新高城山)の波多野秀治は頑強に織田軍団の進路を阻む。
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4月16日
・村井貞勝、徳政令に応じない者に対し、明日出頭することを命じる(宣教卿記)
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4月17日
・村井貞勝、徳政令に応じない者を出頭させ、応じるように厳重に申し渡す。
設永の徳政令を受けて、前権大納言中山孝親、蔵人頭左中弁中御門宣教らは、それぞれ借状を回収していった。
さらに4月7日、権大納言勧修寺晴右の屋敷に中山たちが集まり、「寄破文書目録」なるものを作成、翌日貞勝に提出した。
11日には、勧修寺邸での会合に信長の奉行として朝山日乗が加わり、借状を渡さない者に対する対策について相談があった。
貞勝に加えて、丹羽長秀が担当とされたようで、16日、2人の下代の者たちが、借状を渡さない者に対し、翌日に貞勝のもとに出頭するよう命令を出した。
そして、この日(17日)の申し渡しとなった。
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4月18日
・村井貞勝、中御門宣教ら公家衆の訪問を受け、酒宴を催す(宣教姻記)。
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4月21日
・武田勝頼、三河足助に出て奥三河各所で行動。
医王寺山に本陣を置き家康に属する長篠城500(山家三方衆奥平信昌(21)、元作手城主奥平貞能の子)包囲。更に南方のニ連木城(豊橋市)・牛久保城(豊川市)をも攻撃。
山家三方衆:奥三河山間の三所の土豪の総称。
奥平:天正1年8月武田から家康に寝返る。人質は処刑される。
奥平信昌:のち美濃加納藩10万石、京都所司代。
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4月27日
・信長、大和国十市郷を3分割し塙直政・松永久通・十市遠長と十市後室が支配することを命令した「朱印」を発給。
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4月29日
・村井貞勝、吉田兼和の訪問を受ける(兼見卿記)。
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4月30日
・村井貞勝、堀某より、代官職を懇望される(宣教卿記)。
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■長篠合戦までの経緯
永禄11年(1568)、家康と信玄は連絡をとって、東西から今川氏真の領国(遠江と駿河)に侵入。
翌12年、氏真が家康に降伏し、旧今川領は家康と信玄が折半するが、駿河から遠江へ領国拡張を狙う信玄と、遠江経営を目指して、三河の岡崎から遠江の浜松へ居城を移した家康との関係は急速に悪化、翌元亀元年(1570)には敵対するにいたる。
翌2年(1571)、信玄は徳川領に侵入開始。まず遠江の高天神城を攻め、ついで三河の足助城(現、愛知県東加茂郡足助町)を落とした。

翌3年には遠江の二俣城(現、静岡県天竜市二俣町)を落とし、12月22日、浜松城の北にある三方ケ原で徳川・織田軍と戦う。
三方ケ原合戦について、『信長公記』巻5には、「十一月下旬に二俣城が包囲されたとの情報で、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を派遣したが、間に合わなかった。信玄は二俣城を落とした勢いに乗じて、堀江城(現、静岡県浜松市舘山寺町)に攻め寄せた。そこで家康も浜松城から出撃した」とある。
三方ケ原合戦は徳川・織田軍の大敗北となり、織田軍では平手汎秀が討死した。このことはのちに佐久間信盛の断罪状にあげられることになる。水野信元は、三河刈谷城(現、愛知県刈谷市)城主で家康の叔父、当時は信盛の与力(より有力な武将に配属された武士)であった。

翌天正元年(1573)、信玄は野田城(現、愛知県新城市)を落としたが、ここで病状が悪化し、帰国の途中死去した。跡を継いだ勝頼は、遠江と三河に軍を派遣して威勢を示した。

家康は8月、それまで武田氏に属していた奥三河の作手(つくで)城(亀山城。現、愛知県南設楽郡作手村)の城主、奥平貞能・信昌(当時は貞昌)父子を調略で味方につけた。家康は山間の一土豪にすぎぬ奥平氏に所領の安堵(現有利権の確認)、新恩の加増(新利権の追加)ばかりか、長女を貞昌に嫁がせる約束までした(長篠合戦の翌年に実行)。
この頃、武田氏の勢いになびく土豪が多い中で、奥平氏が家康のもとに走ったのは、この破格の待遇ゆえのことと推測できる。
さらに家康は、武田氏の土豪菅沼正貞の居城、長篠城を攻めて開城させた。
家康が打ったこれらの布石が、結果的に、長篠合戦の勝利につながることになる。

翌天正2年(1574)正月、勝頼は美濃の明智城(現、岐阜県恵那郡明智町)を攻めた。信長は尾張・美濃の兵を派遣し、自身も出動したが間に合わなかった。

二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其日はみたけ(現、岐阜県可児郡御嵩町)に御陣取。次日高野に至って御居陣。翌日馳向はるべきの処、山中の事に候の間、嶮難節所の地にて互に懸合ならず候。山々へ移り御手遣ひ(手勢を率いて直接戦闘を指揮すること)なさるべき御諚(ごじよう)半(なかば)の処、城中にていゝばさま右衛門(美濃の土豪、飯羽間氏)謀叛候て、既に落居是非に及ばず。(『信長公記』巻7)

さらに勝頼は、6月、徳川方の小笠原氏の守る高天神城を落とした。信長は援軍を率いて出動するが、またも間に合わなかった。

六月十九日、信長公御父子、今切(いまき)れの渡り(浜名湖の南端)御渡海あるべきの処、小笠原与八郎(長忠)逆心を企て、総領の小笠原を追出し、武田四郎(勝頼)を引入れたるの由、申し来り候。御了簡(りようけん)なく、路次より吉田城(現、愛知県豊橋市。家康の重臣、酒井忠次の居城)迄引帰へさせられ候。(『信長公記』巻7)

ここには小笠原長忠が総領を追い出したとあるが、実際には長忠自身が当主で、家康の援軍が来ないため開城した。開城後、城兵の一部は浜松へ退去し、一部は長忠とともに勝頼に仕えた。勝頼滅亡後、長忠は北条氏のもとに走ったが、信長の命で殺される。

家康の家臣、大須賀氏の家譜『大須賀記』には高天神城は5月12日に包囲され、6月17日に開城したとあり、また、興福寺多聞院院主の日記『多聞院日記』には京都で急報を受けた信長が5月16日に岐阜へ向かったとあり、時間的に救援が間に合ったと推測できる。
家康は高天神城から30kmの浜松城に留まって、救援に出動しなかった。単独で出動して武田軍と戦う自信がなかった。逆に、明智城と高天神城を奪ったことで、勝頼は自信をつけたと思われる。
これが、翌年(1575)5月の長篠合戦の伏線になる。

天正3年(1575)2月、家康は、奥平信昌を長篠城城主とし、一族の松平景忠らを加勢として守りを固めた。
3月には信長が家康へ兵粮を送り、家康はその一部を長篠城に入れた。同時に信長は、佐久間信盛を諸城の視察に派遣した。信盛は、長篠城および周辺の地理を検分したと思われる。長篠合戦の下準備は着々と整えられた。
3月下旬、勝頼は大軍を率いて足助に進出、作手をへて、家康に奪回された野田城を攻め、さらに吉田方面に出た。
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2016年9月15日木曜日

天正3年(1575)1月1日~3月31日 信長、諸国に道普請を命じる。大津~山中路・北白川経由~京都への新道が建設 信長、京都の都市貴族に徳政令を発布 この時点での本願寺包囲体制: 荒木村重-長岡藤孝-原田直政 [信長42歳]

日比谷公園 2016-09-09
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天正3年(1575)
この年
信長42歳、光秀48歳、秀吉40歳、家康34歳
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・この年の頃、信長やその軍勢は泣く子も黙るほどに恐れられていた。
「この時分は、みなみな子供まで泣き申しそうろうに、上総殿の衆と申しそうらえば、子供泣きやみ申しそうろうほどに恐がり申しそうろう、」
(この天正三年ころは、子どもが泣いていても、信長の軍勢が来たといえば、泣きやむほどにみな怖がった。)」
上賀茂社の社司、岡本保望の覚え書(『岡本保望上賀茂神社興隆覚』)元和7年(1621)
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・ロシア、ボリス=ゴドウノフ妹イリーナ、イワン4世(雷帝)次男フョードル(後継皇帝)と結婚。
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・スペイン、フェリペ2世、2度目の破産宣言。
フランス内紛に介入する余裕なし。
王室に関する全支払停止(兵士への給与支払も停止)。
広大な帝国維持のために巨額が必要 (全属僚地に軍隊駐在)。とりわけネーデルランド統治には果てしなく金が必要。
フェリペ2世治世中、国庫支払停止措置は4回、公債額は13倍に膨れ上がる。
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・ベーメンの新教徒、「チェコ人の信仰告白」発表。
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・頃、アメリカ銀のフランスへの流入、急増。
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・フランス、アンブロワーズ・パレ、「著作集」発禁。
パリ大学医学部の権威が彼の実証主義を攻撃。外科医仲間の羨望。
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・フランス、新教徒・陶工ベルナール・パリッシー、地質学・鉱物学・博物学一般に関する公開講演会。10年続く。
第1回出席者は34名。後、外科医アンブロワーズ・パレなど一流の医学者・法曹学者・文学者・貴族が参加。
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・ノストラダムス弟ジャン・ド・ノートルダム、「古プロヴァンス詩人列伝」。熱心なカトリック。
1561年エセックスの乱で新教徒迫害のため投獄。1590年没。
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1月
・信長、諸国に道普請を命じる。
この時、大津~山中路・北白川経由~京都への新道が建設。道幅は3間と決められる。
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1月1日
・毛利輝元・小早川隆景、三村元親の将三村正政を備中国吉城に攻め、この日落とす。
2日、小早川隆景、備中成羽に進出。
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1月3日
・京都の宮医師坂光国(62)、歿。
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1月10日
・信長、洛中洛外寺社・本所雑掌中へ、荘園年貢の押妨・不納をやめぬ荘園代官は、補任状で宛行われていても改易し「順路之輩」を代官に任命すると布告(「立入宗継文書」、「実相院文書」)。
荘園にまつわるいくつもの領主権益(代官、高利貸し、土豪)の実態把握とこれを「一職」に統一した知行の対象とする信長の意図。
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1月10日
・仏、ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、ニーム(アヴィニョン西方45km)で「ユニオン協定」作成。
半ば独立的で共和国の形態 の「ラングドック共和国」成立(ダンヴィル伯が支配、ダンヴィル伯はコンデ公の権力下)。
アンリ3世、「ユニオン協定」を承認、アヴィニョンから退去、ラングドック地方の離脱と王権の敗北を確認。
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1月11日
・柴田勝家、高野山金剛峰寺へ、大和宇智郡に進出した根来寺に撤収を説得している、芳知平三郎左衛門尉も旧冬に信長へ礼問してきたことに触れ、金剛峰寺と根来寺が早々に「御無事」を実現することが重要であると指示(「興山寺文書」)。
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1月11日
・上杉謙信(46)、故長尾政景2男喜平次を養子にして加冠、景勝と名乗らせる。
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1月11日
・毛利輝元、但馬の山名韶熙・山名氏政父子と和睦。
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1月13日
・村井貞勝、上洛する。
中御門宣教・正親町季秀・広橋兼勝の訪問を受け、二十疋を贈られる(宣教卿記)。
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1月22日
・筒井順慶属城長井城、大和国人により攻略。
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1月22日
・宇喜多直家、浦上宗景に背き、宗景方三浦貞広と戦い敗れる。
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2月
・北條氏政、下野小山城(小山秀綱)を攻略。北条家の副将格北条氏照を配す。
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2月6日
・村井貞勝、光秀・矢部家定とともに、信長の使者として参内。鶴十羽を献上(御湯殿上日記)。
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2月8日
・足利義昭、紀伊より備後鞆に移る。
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2月13日
・村井貞勝、光秀とともに、嵯峨清涼寺に禁制を掲げる(清涼寺文書)。
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2月14日
・島井宗叱、牛黄円を大友宗麟に調達する。
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2月14日
・武田勝頼、信濃佐久郡の市川豊後守に木綿や塩などの領内自由通行の過所を与える。
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2月15日
・村井貞勝、山中路(やまなかみち、上京~北白川の間、巾3間)の新道造営を命じられる(「兼見卿記」)
16日、山中路の新道造営開始(「兼見卿記」)。
19日、貞勝、普請奉行を吉田社に遣わし、吉田兼和に、26日の信長入京までに新道を完成させるよう命令(「兼見卿記」)。
貞勝は、京都近郊の村に普請の仕事を割り当てた。吉田社のある吉田郷等十ヵ郷には、山中路600間分が割り当てられた。吉田兼和は、貞勝との縁故を頼ってこうした負担を逃れようとしてきたし、今回も免除を願い出たが、許可されなかった。
25日、貞勝、吉田兼和より、路次普請完了の連絡を受ける(「兼見卿記」)。
白川衆が担当した部分は、工事が遅れがちのため、吉田郷の人足は、その50間分を手伝った。
但し、橋を架けるところで、白川郷と山中郷との紛争があった。兼和は白川郷を手伝ったついでにこの紛争調停も行った。材木は山中郷、人足は白川郷が負担するという形で折り合いがついた。
信長の上洛は、予定より遅れた。
27日、貞勝、新道を乗馬で見回る(兼見卿記)。
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2月15日
・井伊直政(後、徳川四天王の1人)、家康に仕える。
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2月15日
・仏、アンリ3世、ランスで王の神聖式挙行。
ランス大司教ギーズ枢機卿ルイ・ド・ギーズ(ギーズ公アンリ弟、20、1555~1588)が聖別。
16日、ランスでルイーズ・ド・ヴォーデモン(ギーズ一族の分枝)と結婚。
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2月16日
・上杉謙信(46)、「上杉家軍役帳」を作成、諸将の軍役を定める。
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2月21日
・村井貞勝、公家の子3人に親王宣下があり、警固を命じられる。自ら参内して務める(「御湯殿上日記」)
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2月27日
・信長、岐阜発。垂井泊。京都へ。
29日、佐和山城(丹羽長秀守備)着。
3月2日、永原着。
3日、相国寺に寄宿。
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2月28日
・家康(34)、元三河作手城主奥平貞能の子信昌(天正1年8月、徳川方についた時、家康娘を妻に迎える)を長篠城主とし、翌3月信長から送られた兵糧米2千俵のうち300俵を籠城用として与え、勝頼への守備を厳しくする。
加勢として一族の三河御油領主松平景忠・伊忠をつかわす(監視役でもある)。
3月、長篠城改修命ず。
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3月
・信長、家康に兵糧を送る。家康はその一部を長篠城に入れる。
また、信長は佐久間信盛を諸城視察に派遣。後の長篠合戦への下準備を整える。
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・信長、美濃~京都間の中山道改修。
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・信長、摂津住吉郡平野庄へ、従来通り蔵納に相違が無い、陣取・放火・濫妨・狼藉・伐取竹木を停止すると安堵。
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・信長、養女を大納言二条昭実に嫁がせ二条家と縁類となる。
翌年4月、一条川端の報恩寺を接収、二条家に贈与。空家になった二条家旧宅に改造を加え自身の京屋敷とする。
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・信長、春日神社の神鹿を京都に拉致するデモンストレーション。興福寺・春日社の権威を否定し、それを衆人に明らかにする狙い。
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・石山の門徒衆、淀川・神埼川に挟まれる大和田に砦を築き、尼崎に布陣する荒木村重に対峙。
荒木はこの挑発にのり大敗。荒木は十三の渡しに門徒衆を誘き出しこれを破り、大和田と天満の砦を奪う。
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・毛利氏、信長に対抗するため河野氏に援軍を要請。忽那通著・通恭等、丹氏の守る福山城を攻略。
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3月1日
・信長、村井貞勝・丹羽長秀に命じて徳政を発し、人手に渡っている公家衆の本領を持主に還付する措置をとる(「信長公記」では4月朔日)。
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3月1日
・村井貞勝、中御門宣教・甘露寺経元・正親町季秀の訪問を受ける(「宣教脚記」)。
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3月3日
・信長、京都に入る(「兼見卿記」「御湯殿上日記」)。
4日、信長、宿所(相国寺)に集まった公家たちに、今日は対面しないことを伝える(「兼見卿記」)
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3月4日
・伊達実元、陸奥二本松城主畠山義継攻撃をはかるが、蘆名盛隆が調停に乗り出す。
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3月6日
・武田勝頼(30)、高野山成慶院に信玄の位牌を建てる(使者山県昌景)。
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3月6日
・大友義鎮(宗麟)、五条某へ、毛利氏との対峙にあたり浦上宗景・村上元吉と加勢の田原親賢を赤間関に出陣させたので合流するよう指示(「筑後五条頼長所蔵文書」)。
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3月7日
・北条氏政、小田原城下板橋の善左衛門・善七郎に分国石切の統領を安堵。
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3月8日
・信長、河内高屋城の三好康長を攻める。
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3月13日
・宇喜多直家の将大森義臣、浦上宗景の兵と備前辛川に戦う。
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3月14日
・信長、京都の都市貴族に徳政令を発布(門跡・公家衆の借銭・借米を帳消し)、寺社門跡と公家衆の所領回復を命じる。
但し、他への寄進地・沽却(売却)地・不知行(他人の横領)地も全て「棄破」(無効)とされ、旧主の証文を返却するよう指示。

厳密には、この時の信長の徳政令は、
「諸門跡・諸公家衆借物方、同預状、或(あるいは)祠堂銭(しどうせん)幷(ならびに)替銭由緒之族(やから)、或商売之下銭之事、任徳政之新法畢、仍状如件。
          三月 日                      信長(朱印)
          雑掌中                             」
とあり、『中山家記』3月14日条に収められている。
文面を見ると、この段階では、借金帳消しにとどまっており、領地を取り戻すことには触れられていない。

その後、『多聞院日記』4月10日条には、
「京ヨリ連宗下、二条殿へ去廿八日ニ信長ヨリ祝言之、京都公家領ハ百年以来地発(じおこし)也、善政也云々」
とある。
「地発」は、地徳政、つまり土地にも適用される徳政であるという。信長の徳政は、その後、土地関係にまで広がり、多聞院英俊は、この政策を「善政」と評価している。 
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3月16日
・今川氏真、上洛、信長と京都相国寺で対面。
20日、相国寺内で蹴鞠。信長の見物するなか、今川氏真、三条父子、藤宰相父子、飛鳥井父子、広橋、五辻、庭田、烏丸が披露。
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3月19日
・村井貞勝、伏見荘三淵藤英跡のことで参内(「御湯殿上日記」)。
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3月20日
・龍造寺隆信、三池鎮実の拠る三池城を攻め落とす。
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3月22日
・信長、長岡藤孝に宛てた朱印状。この秋の本願寺攻撃のために、丹波2郡(舟井郡・桑田郡)の国衆を藤孝に配属。
(実際には、この秋は本願寺と講和。この年4月に本願寺と懇意な三好慶長が降伏し、彼の仲介で講和成立)

「来たる秋、大坂合戦申し付け候。しからば、丹州舟井・桑田両郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数等別して相催し、粉骨を抽かるべく候」(『細川家文書』)
*
3月23日
・信長、松永久秀から大和守護職を取り上げ、代わって原田(塙)直政を任じる(「多聞院日記」)。対本願寺作戦の一環。

「去る二十三日に塙九郎左衛門尉(直政)当国の守護に相定めおわんぬ云々」(「多聞院日記」)
この時点での本願寺包囲体制:
荒木村重(摂津)-長岡藤孝(東丹波・山城西岡)-原田直政(南山城・大和)。
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3月28日
・村井貞勝、信長養女が二条昭実に入輿するにつき、警固役を務める(宣教卿記)。
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3月下旬
・武田勝頼、三河足助口に侵入。
織田信忠、尾張衆を率いて出陣。出陣前に「出羽介」に任官。
勝頼は、作手に経て、家康に奪回された野田城を攻撃、更に吉田方面に出たあと、方向を転じて5月11日長篠城を包囲。
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2016年8月21日日曜日

天正2年(1574)10月1日~12月31日 荒木村重が摂津を統一(伊丹親興逃亡)し有岡城(伊丹城から改名)を居城とする 越前「一揆内一揆」(反大坂領国の抵抗)激発 [信長41歳]

中の島@京都・宇治川 2016-08-16
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天正2年(1574)
10月
・明知光秀、高島城の三好康長を攻める。
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・越前、府中辺の郡司七里頼周の配下、南条郡三尾河内に赴き指出を徴収。
指出は、在地のこれまでの年貢額などを報告させ、年貢納入を誓約させることであり、下間頼照ら本願寺坊官による越前農民支配は戦国大名朝倉氏と変わらないことを示す。
12月、三国滝谷寺が寺領の年貢・地子の指出を提出。
閏11月~12月、下間頼照、大野洞雲寺・越知山大谷寺・大野鍬掛洪泉寺・吉田郡昌蔵寺の寺領を安堵。これら寺社知行高の指出を踏まえてのこと。
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・アンリ3世愛人マリー・ド・クレーヴ(コンデ公アンリ夫人)、分娩中に没。
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10月3日
・オラニエ公ウィレム、スペイン軍包囲破りライデン(レイデン)市を救出
(ボアソ提督指揮救援艦隊、ライデン到着、スペイン軍、ライデンの包囲を解き撤退)。
スペイン軍、以降、ホラント州の町を攻撃しなかった。
ホラント州・ゼーラント州の人々、ライデンへの感謝の印にライデン大学設立。
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10月11日
・越前鉢伏城守備の専修寺賢会支配下の坊主衆である善覚・老原・勝秀など、逃亡。坊主衆の不満の表れ。
顕如は坊官池尾を越前に派遣、20日、池尾は北ノ庄に到着、一家衆・坊主衆・惣門徒衆に宛てた顕如の書状を披露。賢会も北ノ庄に赴き、門徒説諭のため3日間これを広めたと云う。
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10月24日
・大塩円宮寺に寺宝として伝えられている惣門徒宛の顕如書状(「増補南越温故録」)。
今度の錯乱は惣門徒の尽力で静まったが、今こそ「馳走」することが仏法興隆であり、忠節を尽くすことが真実の報謝であるとする。具体的な内容は「委細七三(七里三河守頼周)申すべく候なり」と末尾に記され、府中辺の門徒に対しては郡司七里頼周から伝えることになっている。
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10月27日
・秀吉、長浜町民に年貢諸役を免除(河路文書)。
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10月29日
・秀吉、近江国友村の藤二郎へ国友村河原「代官職」を申し付ける旨を通達(「国友共有文書」)。
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11月
・信長、尾張領内の道普請命ず。後、美濃・近江・若狭・畿内にも道路修復実施させる
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・真田信綱、四阿山別当職を安堵する。
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・ガスパル・コエリュ、大村純忠に、全家臣を改宗させ、寺院を教会に変え、寺社破壊を約束させる(フロイス「日本史」10)。
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・ラングドック総督ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、アンリ3世に叛乱、「地方三部会」をモンペリエに召集。
4日、アンリ3世、ダンヴィル伯の地方三部会に対抗してアヴィニョンに「地方三部会」召集。
16日、リヨンよりアヴィニョンに移動。
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11月7日
・柴田勝家、山城山科七郷名主・百姓中へ、山科七郷は往古より「御大裏様」の「御役人」として様々な雑公事・陣詰夫役などは一切賦課されないことになっていたことを信長が聞き入れられた、勝家は病気のため金森長近・飯尾尚清が従来の如く負担を免除するという信長の命令を通達(「沢野井文書」)。
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11月10日
・信長、大和法隆寺へ、「西東諸式」混合の現状を指摘、「各別」とする旨を命令。「東之寺領」は散在しているがこれを安堵する、「西寺」が「段銭」以下を「恣令取沙汰」ていることを厳禁する、違反者には「成敗」を加えると通達(「法隆寺文書」)。
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11月10日
・島井宗叱、大友宗麟に軍用金を用立てる。
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11月13日
・信長、上洛。
大和方面と伊丹親興反乱平定にあたる。
織田軍、大和岡周辺へ進撃し放火。
秀吉、夕刻に奈良へ到来。(「多聞院日記」2)。
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11月15日
・荒木村重、摂津統一。
信長に属した荒木村重、摂津三守護の最後・伊丹城伊丹親興を襲い、親興を逃亡させる。
摂津統一を果たし、居城を有岡城(伊丹城から改名)に定める。

元亀1(1570)6月、池田家中の混乱から当主勝正出奔。実力者荒木は勝正弟重成を立てるが実権は掌握。
池田・和田の守護間の争いから翌年8月郡山の戦いが起こり、和田惟政は戦死。
元亀4年3月、惟政後継者惟長は高山重友(右近)に高槻城を奪われる。蔭に荒木の謀略。
荒木は義昭討伐のために上京した信長を逢坂で迎え忠誠を誓う。
義昭追放後、信長は荒木に伊丹城攻略を命じる。

村重、池田城獲得。
この年、池田知正派18人、村重舅・北河原三河守長勝を謀殺し、池田城への招待状を茨木城に送る。北河原長勝嫡男・金勝、茨木城に逃げ込む。暗殺計画を察知した村重は逆に18人を殺害、池田城を攻め取る。池田知正は三好三人衆を頼って落ち延びる。
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11月16日
・織田軍、奈良より退却(「多聞院日記」2)。
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11月18日
・北條氏政、小田氏治に羽生城攻略と関宿城の明日開城を伝える
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11月21日
・後の京都大徳寺56世住持江月宗玩、誕生。父は堺の豪商津田宗及。
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11月28日
・大友義統、三苫宮内少輔の軍労を賞す。
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閏11月11日
・丹羽長秀、近江犬上都にて、罪科人明蔵主の捕縛を命じる。
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閏11月19日
・古河公方家重臣簗田晴助・持助父子、北条氏政に攻められ、下総関宿城(千葉県野田市)を開城。
12月16日、氏政、簗田持助を赦し水海城に入れる。北条氏の次の標的は下野祇園城(小山市、小山秀綱)。
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閏11月19日
・上杉謙信、武蔵羽生城(埼玉県羽生市)を破却し、騎西城に放火。この日、厩橋城入り。12月、帰国。
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閏11月19日
・越前「一揆内一揆」(反大坂領国の抵抗)激発。
国人衆・門徒衆の本願寺の坊官支配への不満爆発。
豊原寺の坊官下間頼照(守護代)、河合庄の国人衆ら3千に襲撃される。若林長門守が出撃して国人衆を破る。
一揆を迎え討つ長門守は、戦功あれば「凡下ナラバ侍ニナシ、武士ナラバ直ニ恩賞ヲ与フベシ」と檄を飛ばす(「朝倉始末記」)。
凡下(一般庶民)の解放意欲を歪めた形で利用しようとする本願寺坊官は、戦国大名となんらの違いもない。
12月、国人衆(足羽郡本郷の鑓講一揆)700、北庄の館の下間和泉守(足羽郡司)を襲撃、大敗し100余が討たれる。
越前はこの内部対立に加え、信長の侵攻に備えるという内憂外患に直面。

これより先、「まず大坊主衆を誅すべし」と「十七講」が一揆指導層に抵抗。
事前に発覚し、指導者道場坊主・門徒たちは大坊主・和田本覚寺(福井市)により謀殺。

賢会の在番中の鉢伏城から一族諸江氏への書状。
法敵信長打倒の揺らぎない思いを述べ、「いつかたにても聊爾ニ(軽率に)物を仰事候まじく候」、「少も悪口候ば、その身のたおれのもといにて候」と述べる。密告されて失脚するかもしれないという恐怖政治。

信長の侵攻に対抗する為、本願寺の統制下に置かれた軍事力をもつ領国を形成する事が課題。
その為、一方で、朝倉以来の領国統治制度である郡司制度を継承して郷村を支配し、朝倉氏旧家臣の支配を認めてその軍事力を掌握しようとする。
従って、この支配体制から自立的な一揆には、首導者を殺害するなどして一揆の自立性を奪う(戦国大名の百姓支配を踏襲)。
他方、戦国大名の支配と異なる点は、門徒に支えられているということ。門徒掌握は、道場坊主から門徒を切り離し、一家衆・大坊主の支配下に置こうとする。しかし門徒は村を単位にあたかも知行地のごとく与えられており、この意味では門徒支配も領国支配の論理が貫徹している。
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閏11月20日
・毛利輝元・小早川隆景、備中松山城主三村元親が背いたため出兵、備中小田に着陣。
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閏11月22日
・丹羽長秀、若狭遠敷郡の鉄屋に若狭の鉄屋職を安堵(「金屋鋳物師文書」)。
長秀の若狭支配。
初めのうちは、守護武田氏の若狭国衆支配権がある程度は認められているが、次第に長秀の力が浸透し、武田氏もその下に組み入れられて行く。しかし、若狭支配が進んでも、長秀は居城佐和山から移動しなかったと思われる。
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閏11月25日
・信長、尾張国中の道路・橋、潅漑用水道の修理を命令。篠岡八右衛門・坂井利貞・河野氏吉・山口太郎兵衛の4人宛てに朱印状が発せられる(『坂井遺芳』)。
尾張一国への命令に見えるが、『信長公記』によれば、「去年月迫(げつぱく=歳末)に国々道を作るべきの旨」を、この4人を奉行として、分国中に触れたとある。
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12月1日
・沢庵、誕生。父は但馬出石城主山名祐豊の重臣秋庭綱典。
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12月12日
・オスマン朝スルタンのセリム2世(50)、没。
15日、第12代スルタン、ムトラ3世(28)、即位。
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12月20日
・龍造寺家の鍋島直茂、西肥前の須古城を攻め落とす。城主平井経治は自刃。
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12月21日
・村井貞勝、明智光秀とともに、賀茂社に対し、社領境内および所々散在の地を安堵する(賀茂別雷神社文書)。
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12月22日
・ヴィランヌーヴ・レ・ザヴィニョン(アヴィニョン西郊の町)で「地方三部会」開催。
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12月24日
・松永久秀(65)、「落髪」して「道意」と号す。
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12月26日
・アヴィニョン、ロレーヌ枢機卿(49、ギーズ公フランソワ弟、メアリー・スチュアート叔父)、病没。
ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、アヴィニョンから目と鼻の先のリヴロン城塞に立て籠もる。
リヴロンからコンタの掠奪に出撃、カマルグのエーグ・モルトやサン・ジル(アヴィニョン近く)を奪う。
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2016年8月13日土曜日

天正2年(1574)8月1日~9月30日 越前一揆勢、織田軍再侵攻に備え防禦を固める 長島一向一揆平定(第3次伊勢長島一向一揆掃討戦終結) 騙し討ち虐殺 一揆衆の捨身の斬り込みにより信長の庶兄ら討死 [信長41歳]

根津美術館 2016-08-04
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天正2年(1574)
8月
・富山城、3月再び落城。
8月には越中の一向一揆は謙信に降伏。神保家もまた上杉方に復したようである。
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・秀吉、近江国友村の鉄砲鍛冶の藤二郎へ、国友村内に100石を扶助するので鉄炮生産は従来の如き旨を通達(「国友共有文書」)。
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・この月以降、越前一揆勢、織田軍の再侵攻に備え、南条郡・敦賀郡の境目で防禦を固める。

木ノ芽峠の観音丸砦に総指揮官の下間頼照勢(「信長公記」巻8では今城・火燧ケ城)、鉢伏砦に一家衆の大町専修寺・丹生郡西光寺・南条郡正闡坊(府中陽願寺)・今少路(丹生郡常願寺)・足羽郡照護寺勢、鷹打嶽に和田本覚寺勢(鑓講衆・北庄衆)、虎杖砦に下間和泉勢、柚尾(湯尾)砦に七里頼周勢が篭もる。
海岸沿いの敦賀郡杉津口は若林・府中坊主衆・堀江衆らが守る(「朝倉始末記」)。
「信長公記」によると、これ以外にも阿波賀三郎兄弟が鉢伏砦で、石田西光寺が鷹打岳で、大塩円宮寺勢・加賀衆が杉津口で守備につく。
但し、内部対立や大軍侵攻の恐怖から一揆勢は多数が結集せず、逃亡も相次ぎ、守備全面には本願寺坊官や宗主一族の一家衆が出る。

鉢伏砦の守備勢:
専修寺賢会の下に、直属門徒勢と大野衆(教願・萩野)や南条郡の円宮寺勢・専光寺(三門徒系か)勢・莇生田勢ら僅か100余人。
11月5日付の賢会最後の書状に、「惣別鉄炮之者共、(砦の)門徒衆いやがり候間、無用にて候」と記され、次々と逃亡・脱落した者の名が記され、賢会は「我々ハ捨物候哉」と絶望的状況下できたるべき信長軍に対峙し続ける(「専修寺賢会書状」)。
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8月1日
・家康(33)、小笠原氏秀の旧城・遠江馬伏塚城を修築、大須賀康高を守将とし高天神城の武田勢に備える。
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8月1日
・秀吉、伊勢大神宮御師上部大夫に、国友の地を寄進。
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8月2日
・織田軍(柴田勝家ら)、夜陰と風雨に紛れて大鳥居城脱出の一揆勢1千を殺害(「信長公記」巻7)。
「八月二日の夜、以(もつて)の外(ほか)風雨候。其紛(まぎ)れに、大鳥居篭城の奴原(やつばら)夜中にわき出て退散候を、男女千ばかり切捨てられ候」(「信長公記」)。
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8月3日
・信長軍、脱出する大鳥居籠城の一揆勢を攻撃。撫斬り1千。一揆勢、願証寺に逃亡。
12日、篠橋(しにはせ)城の一揆勢1千余、申し出通り願証寺に追込まれる。
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8月3日
・信長、摂津に出陣している細川藤孝に宛てて、
「端(はし)の一揆の楯籠る所は崩れ出し候間、追討ちに首数多見来(けんらい)候。長島一所の相究り候。いよいよ詰(つめ)の陣申付け候条、近目落居(らつきよ)たるべく候」と、
大鳥居の門徒衆を数多く斬首したことを書き送る。
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8月5日
・信長、細川藤孝へ、
「南方(摂津・河内)之一揆等、所々の味方中へ相働くべきの由、その沙汰不実に候。然りとこざと雖も(一揆方が)罷り出ずるに於いては、何時によらず係け合い(対戦して)、大坂を根切之覚悟専用に、様子は明智に相談ぜらるべき事、肝要の候。尾・勢の中に一揆の由に候。尋ね出し、悉く楯切りに申し付け候。長島一城の北入り候間、弥(いよい)よ取り巻き、詰め寄り候」。城内兵粮は欠乏し「落居」は間近い、長島陥落後は直ちに上洛し石山本願寺との戦線を「平均」(平定)する予定であると通知(「細川家文書」)。
武家に反抗する民衆(とりわけ門徒に対しては)、大坂でも長島同様根絶やしを指示。
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8月7日
・信長、河尻秀隆へ、
「河うち敵城ども・・・男女悉撫切りに申し付け候。・・・身をなけて死候者も多く候由、申候。・・・(願証寺から)色々わひに音参し候。なかなか取上げまじ」。
根切方針を通達。
伊勢長島方面鎮定後、摂津方面の河尻秀隆陣所を視察する予定、上杉謙信が越後より信濃へ「出張」することは無いという見通し、陸奥より「鷹共」が献上されたので一覧するために5日に岐阜城へ帰還し8日に長島陣所へ帰陣すると通達。(「富田仙助氏所蔵文書」)。
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8月12日
・信長、「八月十二日、しのはせ(篠橋砦)籠城の者、長嶋本坊主にて御忠節仕るべきの旨堅く御請申すの間、一命たすけ長嶋へ追入れらる」(「信長公記」7)。篠橋を助命し長島に入城させが、籠城者を増やし兵糧を早く消耗させるため。
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8月17日
・信長、長島に出陣。細川藤孝へ書状を送る。
一向一揆・三好氏らの摂津進撃報告に対して、些細な事でも各自相談の上で「手当」するべき、進撃が事実であれば期日以前でも出陣すべきである。伊勢長島方面の戦況については、「この表(長島)の事、篠橋落居以来弥(いよい)よ押詰め、長嶋構は江河(ごうか)一重の為躰(ていたらく)の候。色を易(か)へ、様を易へ、詫言仕(つかまつ)り候。然りと雖も火急ニ相果(あいはたす)べき事候の条、承引(しよういん)無く候。これに依り、(本願寺の決起が)方々成り立たず、(織田方の)調略等は相計らうべく候」。
篠橋を落としてから、ますます信長方の追い込みが激しくなって、長島の構えは川と海の一重になった。長島からいろいろと講和を求めてくるが、完全に絶滅させるために承諾しない。本願寺顕如は伊勢長島一向一揆との関係を「迷惑」していると通知してきている、この状況であれば各個撃破の「調略」は可能なので、摂津方面の作戦も明智光秀と相談して油断無く遂行することを命令。(「細川家文書」)。
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8月26日
・上杉謙信、厩橋城に援軍を送る。
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月末
・武田勝頼、再度遠江侵入。
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9月
・長嶋の飢餓が深刻化。
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・下間頼照、朝倉氏旧臣三輪藤兵衛の知行分を「義景御時の如く」安堵。
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9月1日
・ボアソ提督指揮ゼーラントのシー・ベガーズ800、ライデン救援に出発。更に、兵士2500と大砲10門を載せた船200隻が用意される。
ライデンは海岸から15マイル、はじめの5マイルは海水が十分侵入。先は、スペイン軍守備の堤防を奪取・破壊、海水を入れ船を前進。10月3日ライデン到着。
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9月6日
・アンリ3世、リヨンに入城。
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9月7日
・武田勝頼、天竜川に達する。家康と対峙するが洪水のため信濃伊那に戻る。
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9月10日
・最上義光と伊達輝宗が和睦。
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9月11日
・秀吉、近江竹生島宝厳寺衆中へ浅井郡早崎郷のうち300石を寄進。
浅野長吉(長政)に伊香総持寺郷の内120石を宛行う。(「竹生島文書」)
この頃、石田三成と観音寺で出合う。「三成三碗の才」。
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9月18日
・明知光秀・佐久間信盛・細川藤孝ら、河内飯盛山下堀溝に本願寺宗徒を破る。
19日、佐久間信盛、三好党の拠点河内高屋城下に迫り、城下を焼き払う。
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9月25日
・長島一揆、和を乞い屈伏。信長は篭城者全員退城を条件に、降伏を容れる。
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9月29日
・長島一向一揆平定
3万の一揆勢・長島願証寺、降伏。
石山より客将三位法橋頼旦・佐尭上人(14)助け抗戦。佐尭・三位法橋討死。
信長庶兄信広・弟秀成・叔父津田信次・従兄弟織田信成・同仙千代討死。

信長は龍城者全員の退城を条件に「詫言」を許す。長島から多くの門徒衆が舟に乗って投降してきた。
ところが、舟が岸に着く直前、堤に伏せていた織田軍の鉄砲隊が一斉射撃(「鉄炮を揃へうたせ」)。その数は弓隊を合わせて3千挺であった(『信長記』巻7)。
門徒衆は、なすすべもなく射殺され、岸に着いた者は次々に斬り殺された(「際限なく川へ切りすて」)。
まったくの編し討ちであり、情け容赦のない虐殺である。

「九月廿九日、御侘言申し、長嶋明退(あけの)き候。余多(あまた)の舟に取乗り候を、鉄砲を揃へうたせられ、際限なく川へ切りすてられ候。」

この仕打ちに激怒した門徒衆700~800人は素っ裸になって、抜刀したまま織田軍の陣地に斬り込んだ。この死に物狂いの反攻にあって、信長の兄の信広と弟の秀成が討死し、叔父の津田信次とその配下が討たれた。
血路をひらいた300余人は、織田方の小屋に乱入して、そこで身支度をととのえて、多芸山や北伊勢口方面へとちりぢりに逃げ、さらに大坂の石山本願寺に逃れていったという。

「其中に心ある者ども、はだかになり、抜刀(ぬきがたな)ばかりにて七、八百ばかり切り懸り、伐り崩し、御一門を初め奉り歴々数多討死。小口(こぐち=戦場の要所)へ相働き留守のこやこや(小屋々々)へ乱れ入り、思程(おもうほど)支度仕候て、それより川を越し多芸山・北伊勢ロへちりちりに罷退(まかりの)き、大坂へ迯(にげ)入るなり。」

降伏を拒否した屋長島と中江へは、幾重もの柵がめぐり、1人の脱出も封じたうえで四方から火が放たれた。この「焼きころし」の犠牲者は2万人という。

「中江城・屋長嶋の城両城にこれある男女二万ばかり幾重も尺(さく=柵)を付け、取籠め置かせられ候。四方より火を付け焼ころしに仰付けられ、御存分に属(しよく)し(積年の恨みを晴らし)、九月廿九日岐阜御帰陣なり。」(「信長公記」巻7)。

この戦いは、信長にとって後味の悪いものであった。
9月29日、身内・腹心を多く死なせてしまった。
しかも、だまし討ちに失敗したあげくの失態であった。
2万人の敵を焼き殺したといって、快哉を叫ぶ気にはなれなかったようだ。これまで、姉川の戦い、長篠の戦い、越前一揆殲滅戦などの戦いの後には、周囲の大名たちにさかんに戦捷を誇示していたが、この長島の殲滅戦に関しては、そうした文書が一通も見られない。

その後1ヶ月余、長島に駐屯した前野長康(木下秀吉配下)、「島内は数千のおびただしき体骸骨、甍(いらか)を敷きたるが如く、栄地の凶徒輩、念仏修行の道場にこと寄せ、悪態の始末なり」(「武功夜話」巻5)。

翌年天正3(1575)年初、信長、柴田勝家に長島城修築を命じる。
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9月29日
・信長、岐阜城へ凱旋。
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2016年8月10日水曜日

天正2年(1574)7月1日~30日 「一揆持ちの国」となった越前の新たな対立 信長の第3次伊勢長島一向一揆掃討戦(7月13日~9月29日) 「今度は諸口より取詰め、急度御対治(たいじ)なさるべきの御存分にて、・・・」(信長公記) [信長41歳]

根津美術館 2016-08-04
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天正2年(1574)
7月
・ポルトガル船より、大友宗麟に贈る虎4匹、博多津より陸揚げ。
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・「一揆持ちの国」となった越前の新たな対立。
本願寺派遣の支配者と在地の坊主衆との対立。
坊主衆と農民の対立。
「一揆持」の国から本願寺領国化へ転換、これに対する不満。

7月14日、和田本覚寺は、不満分子の「十七講」主の志比荘の林兵衛が盆の念仏参りに北ノ庄に来たところを喧嘩に事寄せて殺害。
更に、丹生郡天下村の川端、吉田郡河合の八杉、坂井郡本庄の宗玄など一揆指導者を襲撃、殺害(「朝倉始末記」)。
同年閏11月、豊原寺の下間頼照を討とうとした河合荘の者たちは坊官若林勢に討たれ、12月には足羽郡の東郷安原村の「鑓講衆」が蜂起し下間和泉に討たれる(「朝倉始末記」)。
志比衆や八杉氏や河合荘の人々は、越前一揆の主要勢力をなした者たち。

一揆は、①村・地域を単位に形成される「国中の一揆」と②門徒組織を単位とする本願寺派門徒一揆との組織原則を異にする2つの一揆から構成される。
「朝倉始末記」によれば、一揆勢には国中年貢の半分免除だけが与えられ、本願寺は知行を望む大坊主・坊主に対して門徒の助力をもって賄えと指令したので、大坊主・坊主達は武士・百姓を弟子(門徒)とし配下とする。本願寺一家衆で一揆指導者の1人専修寺賢会の門徒は、「当寺坊主衆」と称する何人かの坊主衆が抱える門徒が、広い意味で専修寺門徒とされる。
また一家衆・大坊主には所領が与えられ、専修寺賢会は川北(九頭竜川以北)・川西(同以西)の村から代物として銭や絹綿を徴収。一揆勢は、本願寺派遣の坊官と越前大坊主の統制に反発、坊主達が百姓・下部や下人の如く扱うこと、一揆が切り取った国を本願寺派遣の「上方ノ衆」が支配することに不満をもち、十七講の人々の間には大坊主討つべしの声が高まる。
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・ユグノーの牧師達、1573年12月に引き続き2度目の大集会開催、都市に関する行政的な自治権要求。
ラ・ロシェルとモントーバンが独立した都市となる(2都市は小さな共和国を形成、王国内の他のユグノー共同体を連帯)。分離主義が確立、王国内に「第二の国家」が誕生。

フランス国内の情勢。
<平和な地方>
ノルマンディ、モンゴメリー処刑後、平和が継続。
フランス北部と東部、ギーズ一族の支配下で平和が継続。
<ユグノー勢力が強い地方>
アングレームとポワトゥー、ラ・ロシェルの市民と牧師が反乱の火勢を強める。
ガスコーニュ、ラ・ヌーが臨戦態勢を取らせる(カトリーヌ、7万リーヴルで7~8月の2ヶ月間平和を購入)。
ドーフィネ、ユグノー指導者レディギエールの号令のもとに抵抗を繰り返す 。
スダン(ベルギー国境近辺)、コンデがフォン・ナッサウやドイツのルター派大公とジャンパーニュ・ブルゴーニュへの侵略を準備。
<ラングドック>
総督ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、ユグノーと提携。
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7月2日
・筒井順慶、大和国興福寺大乗院「新御所」へ誓紙提出を要請。3日、提出。(「多聞院日記」2)。
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7月13日
・~9月29日 (第3次)伊勢長島一向一揆掃討戦
信長9万、長島征伐出陣(畿内の明智、越前の押さえ羽柴、武田に備える河尻・池田以外の全兵力)。
尾張津島に陣を進める。五明、加路戸、殿名に野陣を進め、本格的な攻略戦へ。
長島、端城を攻略され本城に追いつめられる。

長嶋の地理;
「抑(そもそも)尾張国河内長嶋と申すは隠れなき節所(要害の地)なり。濃州より流出る川余多(あまた)あり。岩手川・大滝川・今洲川・真木田川・市の瀬川・くんぜ川・山口川・飛騨川・木曽川・養老の滝、此外山々の谷水の流れ末にて落合ひ、大河となつて、長嶋の東北西五里・三里の内、幾重共なく引廻し、南は海上漫々として、四方の節所申すは中々愚なり。これに依つて隣国の侫(ねい)人・凶徒等相乗り住宅し、当寺(願証寺)崇敬す」(「信長公記」巻7)。

伊勢長島攻めは、①元亀2(1571)年、②天正1(1573)年についで3度目。
また、元亀1年11月には信長が志賀の陣の最中に、長島一揆が小木江城(愛知県海部郡立田村)を攻撃、弟信興が戦死。
信長政権の基盤東海地方に食込む一向一揆の徹底的制圧を目的にし、北国・畿内を後回しにしても取り掛かる。

信長の作戦:
長島を完全包囲し、兵糧攻めをしながら村落一つ一つ潰す作戦。
既に尾張熱田~矢田川原まで40町余に鹿垣を築く。
桑名方面は、滝川一益・木下秀長を西別所周辺に1年近く滞陣させ石山との交通を遮断。
特に海路からの補給遮断のため、滝川一益の伊勢水軍と九鬼嘉隆の九鬼水軍を信雄の指揮下におく。大型船(安宅船)を入れて600隻余。徹底した海上封鎖戦法と一揆拠点分断封鎖により、篠橋・大鳥居・中江・長島ら5拠点に追込む。

殲滅(根切り、撫で切り)方針:
既に伊勢・志摩を抑えている信長にとって、良港でもない長島は伊勢湾~尾張・美濃に通じる河川交易の邪魔。
また、越中・越前・越後に進出する場合には背後を脅かす存在。
加えて、武家の論理(長袖者、民衆蔑視)、見せしめと年来の鬱憤解消。

「先年、信長公志賀御陣、浅井・朝倉と御対陣半(なかば)、御手塞(ふさがり)と見及び申し一揆蜂起せしめ、既に日を逐つて攻め申し、織田彦七(信興)御腹めされ、緩怠の条々勝(あげ)て計ふべからず。日比(ひごろ)御鬱憤候つれ共、信長天下の儀仰付けらるるに依つて御手透き御座なく、御成敗御延引なされ、今度は諸口より取詰め、急度御対治(たいじ)なさるべきの御存分にて、」(「信長公記」)。
*
7月14日
・信長、3手に分けて攻撃。
一揆勢、小木江村封鎖を試みるが中筋の織田勢がこれを突破。
篠橋(長島町、木曽川敷内)へは木下秀長・浅井新八が攻撃。
一揆勢、こだみ崎(弥富町大字コタミ)河口に船を集め、対岸を進む織田勢を堤上で迎撃しようとするが、丹羽長秀がこれを撃破。
その他、前ヶ洲・海老江島・加路戸・いくいら島(いずれも長島東方)の拠点も、焼き払われる。信長、五明(弥富町五明)に進軍、野営。

①中央(早尾口(愛知県佐織町早尾)):
信長指揮。馬廻り、丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・木下長秀(秀長)・不破光治・同勝光・丸毛長照・同兼利・佐々成政・市橋九郎左衛門・前田利家・中条将監・河尻秀隆・津田信広・飯尾隠岐守ら。
②右備え(香取口(三重県多度町香取)):
佐久間信盛・柴田勝家中心に蜂屋頼隆・稲葉良通・貞通が加勢。
③左備え(市江口(愛知県佐屋町・弥富町間)):
信忠、尾張(梁田広正・池田恒興・長谷川丹波守・和田新助ら)・美濃(齋藤新五郎(加茂郡加治田城)・森長可(17、可成の子、可児郡兼山城)・坂井越中守(坂井政尚の子)・佐藤秀方(鉈尾山城)ら)の兵、連枝衆(津田秀成・長利・信成・信次)。
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7月15日
・伊勢海賊大名九鬼義隆の大安宅船、滝川一益・水野守隆・伊藤三丞らの安宅船、島田秀満・林秀貞の囲船を中心とした船団、蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸(いずれも尾張・伊勢の湾岸地域)の兵を乗せて到着、攻撃開始。
織田信雄も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井(伊勢中南部)の兵を大船に満載して参陣。
織田勢は長島に通じる諸口より攻め上る。
一揆勢は妻子を引き連れ長島に逃げ込む。信長・信忠は殿名(桑名町殿名)に本陣をおく。

篠橋・大鳥居(三重県多度町大鳥居)・屋長島(桑名市)・中江(桑名市福島)・長島5ヶ所に籠る一揆勢に対し、津田信広・同信成・同長利・氏家直通・安藤守就・飯沼勘平・浅井新八・水野信元・横井雅楽守が篠橋口へ向かい、大鳥居には柴田勝家・稲葉一鉄・同貞通・蜂屋頼隆が今島(桑名市今島)に陣を取り、川手から大船を寄せて攻撃。坂手の郷(長島町上坂手・下坂手)には押えとして佐久間信盛父子が江州衆と共に布陣。長島の東推付の郷(島町押付)には市橋長利・不破勝光・丹羽長秀が布陣、加路戸島口には織田信包・林秀貞・島田秀満ほか尾張衆船団100艘が海上か
ら攻撃。南の大島口からは信雄・信孝と桑名衆が伊勢の大船団を率い攻める。

信長はこれまでの敗戦から、長島攻撃には水軍が欠かせないことを学んでいた。九鬼嘉隆・滝川一益は当然といえるが、北畠家の継嗣である信雄や尾張の水野守隆も船団を率いている。島田秀満・林秀貞の名まであがっているのは、軍勢を渡す奉行でも務めたものだろうか。

織田軍は篠橋・大鳥居2砦に攻撃を集中。
「諸手大鳥居・しのはせ取寄り、大鉄砲を以て塀・櫓打崩し、攻められ候の処に、両城迷惑致し、御赦免の御詫言申し候といへども、迚(とて)も程あるべからずの条、侫人懲(こらしめ)のため干殺(ほしごろし;餓死)になされ、年来の緩怠(かんたい)・狼藉御鬱憤を散ぜらるべきの旨にて、御許容これなき処に、」(「信長公記」)。

「九鬼右馬允(嘉隆)あたけ(安宅)船、滝川左近(一益)・伊藤三丞・水野堅物、是等もあたけ舟、嶋田所助・林佐渡守両人も囲舟を拵へ、其外浦々の舟をよせ、…」(「信長公記」巻7)。

「大鉄砲を以て塀・櫓打崩し(艦砲射撃)」。
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7月17日
・信長、長島より荒木村重・高山右近に中嶋を攻撃させる(長島への援軍牽制のため)。
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7月18日
・仏、前年ポーランド国王となったシャルル9世弟アンリ・ド・ヴァロア、フランスに帰国。アンリ3世として即位。
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7月20日
・信長、高田専修寺・朝倉景健・堀江景忠・大井四郎・細呂木某・嶋田某・実乗坊・了実坊へ、「越州出馬之刻」における忠節を賞し、知行は望みの通りに宛行う旨を通達(「法雲寺文書」)。
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7月20日
・荒木村重・高山友祥、石山本願寺出城の摂津中島城を攻撃し一向一揆を撃破(荒木村重軍の過半が討死(「多聞院日記」2)。
23日、信長、荒木村重へ中島城攻略を賞し、荒木側の損害は「これまた苦しからず候。古今に習いあり候」。
伊勢国長島方面の戦況は一揆の包囲網を縮小し「落居」は間も無いと通知(「徳富猪一郎氏所蔵文書」)。
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7月22日
・筒井順慶、十市遠長と「入魂誓紙」を交換、同盟締結(「多聞院日記」2)。
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7月23日
・信長、河尻秀隆(荒木村重と共に攝津中嶋城攻撃中)へ、
「種々(長島)一揆共、(降伏を)懇望仕り候へども、この刻(みぎり)、根切るべき事に候の間、その咎を免さず候」「この方に候へども、心はその方の事のみ案じ入り候」(「玉証鑑」)。
皆殺しの決意、自分は長島にいるが石山攻めが気懸かりと述べる。
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7月27日
・北条氏政、関宿城を攻めるが、上杉謙信が武蔵に侵入し鉢形・松山・忍城を攻める。
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7月28日
・上杉勢、越中を制圧、加賀に兵を進める。
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7月29日
・信長の弟半左衛門秀成、長島一向一揆と交戦中に討死。
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7月29日
・信長、京都の鳥羽辺りに布陣する明智光秀へ、
「篠橋と云う所、大鳥居此両所、昨今、弥(いよいよ)執巻(とりまき)候。両所ながら兵糧一円になきこと、慥(たしか)に相聞へ候。五三日(ごさんにち)迄ハ相(あい)延ぶべからず、落居らるべく候。・・・これさえ攻め崩し候へば、根本の長島同前に候。長島の事も存の外、雑人原(ざつにんばら)北(にげ)入り候て、正体なき事、推量の外にて候。はや城中に男女の餓死のことの外多き由に聞え候。彼此れ以って爰許(ここもと)の隙、近日明くべく候の間、やがて開陳すべく候」(「細川家文書」)。
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7月晦
・細川藤孝、織田側の河内若江城などに攻撃を仕掛けてきた遊佐信教・三好康長らを撃退(「細川家文書」)。
石山本願寺と協力関係にある河内高屋城三好康長と門徒衆、信長方三箇城を攻撃。
信長は細川藤孝を河内に送る。
長島攻略の目途が立つと、佐久間信盛・明智光秀を河内に送り、飯盛山付近で三好康長を破る。
更に、佐久間らは長躯して萱振城を落とし、9月18日、高屋城下を焼払う。
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2016年7月31日日曜日

天正2年(1574)5月1日~6月30日 伏見城の三淵藤英と槇島の細川信良が追放される 秀吉による長浜城・城下町建設 武田勝頼が徳川方の高天神城陥落 越前が加賀と同じく「一揆持」の国となる [信長41歳]

皇居東御苑 2016-07-28
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天正2年(1574)
5月1日
・北条氏政、上杉勢の関東における前線基地上野厩橋城に進軍。
東上野の由良氏が北条氏に従う。
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・信長、伏見城の三淵藤英と槇島の細川信良を追放。
三淵藤英は細川藤孝の実兄。将軍義昭に最後まで忠誠を尽くし、二条城に信長軍の攻撃を受け降伏。しかし、伏見城を安堵され淀城攻撃にも参加する。
その後、信長の逆鱗に触れ(詳細不明)伏見城を追われ、子秋豪と共に明智の坂本城に預けられ7月6日親子共切腹。
細川信良は細川家嫡流。槇島追放後は僅かな知行に甘んじる。
伏見城破却後、塙直政を山城守護に補し、槇島城に駐留する。

山城の支配体制:
①京都(村井貞勝)、
②西岡(細川藤孝)、
③北山城(明智光秀)、
④南山城(塙直政)。
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5月5日
・賀茂祭(葵祭)。
信長、自身の馬を競馬神事に参加させる(信長公記)。
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5月8日
・武田勝頼2万4千、遠江侵入。
12日、高天神城(小笠原長忠、静岡県小笠郡大東町)包囲。小笠原長忠は浜松(高天神城30km)の家康に救援要請、家康は在京中の信長に対して救援を求める。家康は浜松に留まる。
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5月11日
・伊達輝宗、最上義光・義守・義時の内紛に介入、最上領に侵入。
20日、輝宗、最上義光と出羽村山郡千石で戦う。
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5月15日
・信長、京都で勝頼の遠江出陣知る。
16日、京都発。大和へ下国。
28日、岐阜城に下向。
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5月17日
・秀吉、河内の遊佐盛へ、保田知宗(紀伊在田郡八幡山城主)に人質提出督促を命令(「寸金雑録」)。
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5月19日
・真田幸隆(62)、没。幸隆の嫡子信綱が家督を継ぐ。
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5月20日
・信長、秀吉に、若狭・丹後の船を敦賀郡先端の立石浦に着ける準備をさせる。越前(一向一揆)侵攻の準備。
この月、越前織田の朝倉兵庫が謀反。
七里頼周・本覚寺・専授寺が兵を率い攻撃、朝倉兵庫は秀吉が敦賀の立石浦より救援のために遣わした船に乗って逃れる。
一揆勢は、大谷寺・永平寺など国内の非本願寺派寺社を次々と焼き討ちという。
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5月23日
・村井貞勝、明智光秀とともに、賀茂社中に、結鎮(みけち)銭代米を安堵する(賀茂別雷神社文書)。

賀茂別雷(わけいかずち)神社は上賀茂神社の正式名で、起源は7世紀天武天皇の時といい、平安時代初期には賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)が分かれている。
賀茂別雷神社は賀茂六郷を神領として保ち、そのほか東は三河、北は能登、西は周防・伊予にまで社領を持っていた。しかし、戦国時代になると、現地の武士たちに押領されて実質的にそれらの社領は失われていく。賀茂六郷にしても、大徳寺の塔頭や新興商人である土倉などが名主職・作職の権利を買い取っていき、次第に追いこまれていった。

元亀3年頃のものと思われる大徳寺宛ての信長の朱印状
「賀茂境内の当寺買得分の儀、相違あるべからざるの由、今度重ねて朱印を進ぜ候。これに依りて使僧を差し下され候。殊に銀子百両御懇情に候。猶(松井)友閑申すべく候。恐惶敬白
六月廿三日                                  信長
大徳寺尊答

大徳寺と賀茂別雷神社との間に、土地の権利をめぐって争いがあり、信長の裁決を必要とした。
有利な裁決を得るために、大徳寺から百両の銀子が信長に届けられ、それに対する礼状。
この後、文面にある通り、同日付の松井友閑副状が大徳寺宛てに発せられる。
さらに2日後、上賀茂神社にも申し伝えられている。
現地で事を処理する奉行は、塙直政と木下秀吉。
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5月25日
・上杉謙信、西上野の武田方属城を攻略、由良成繁・国繁と戦う。
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5月25日
・仏、ガブリエル・ド・モンゴメリー、ドンフロンの包囲戦でマティニョン元帥に捕らえられ、「反逆罪」でパリ・クレーヴ広場で斬首。
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5月26日
・~10月、スペイン軍、ライデン包囲再開。
ライデン、ルイの来援で包囲が解けてる間に補給を怠る。飢餓・疫病、6~8千病死。
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5月29日
・仏、懺悔火曜日の陰謀の罪でダランソン公フランソワ(シャルル9世弟)に仕える貴族ラ・モール伯(マルゴの愛人、プロヴァンス地方出身伯爵)、ココナス(ヌヴェール公爵夫人の愛人、イタリア出身伯爵、フェリペ2世の諜報工作員)、逮捕、処刑。
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5月30日
・仏、シャルル9世(24)、没。
ポーランド国王ヘンリク(23、シャルル9世弟ダンジュー公アンリ・ド・ヴァロア)、アンリ3世として即位するため密かにポーランドを去る(6月19日)。
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6月1日
・房総の里見義堯(63)、本拠久留里城で病歿。
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6月1日
・信長、上杉謙信に豪華な京の風俗画「洛中洛外図屏風」を贈る(異説あり)。
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6月5日
・信長、武田勝頼の高天神城(静岡県城東村)包囲中の報うける。
尾張の佐治左馬允へ、「遠州在陣衆」の兵粮米を「商買之八木船」で搬送するので商人へ順路等の連絡を命令(「反町十郎氏寄贈武家文書展覧会解題目録」)。
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6月6日
・秀吉、新しい今浜城と城下町の建設にとりかかる。
この日、平方の名主・百姓に、8日の長浜域普請の人足役を課す。
7日、下八木郷に命じ、9日の城普請の人足を課す。
7月16日、唐川、布施、高田(伊香郡)へ、長浜城築城の人足、1軒に1人課す。
8月22日、長浜町人宛書状。
小谷より、徳勝寺、妙法寺、善隆寺、願養寺、浄琳寺、城の鬼門の守護として知書院を移転させる。城下町を49町に分割、これを10組に分け、町年寄を決め世襲とする(長浜10人衆)。この10人から3人づつ互選して自治させる(長浜3年寄)。

長浜城:
3層の天守閣は小谷城鐘丸を移築。天秤楼は新築、石垣等その他の城楼は小谷城より移築。小谷より、大谷市場・伊部・郡上・呉服の商人を移住させる。 

天文年間、近江六角氏が城下石寺新市を楽市として、旧座商人をはじめ新儀商人・手工業者招致に努めるが、秀吉はこの方向で城下町経営を一段と進める。
長浜築城に際し、城下に新しく町を区画し、近在の市場聚落小谷町民(浅井氏城下)を移住させ、町場の年貢・諸役を免除し、領分内散在の商工人や「よそのりやうちのもの」に対しても来住を奨励。
しかし「われわれりやうぶんのざいゝゝの百しやうを町へよびこし申候事」は「くせ事」とし、領分内百姓の町人化は厳しく禁じる。
在=農村の百姓と町のまち人とをはっきり身分的に分離し、百姓の町人化は厳禁する。農民を土地に緊縛し、中世社会の経済発展の生みだした商工人を農村から引離して、城下町に集住させ直接の統制下において、新しい領主経済発展の担い手たらしめようとする、後年秀吉によってほぼ完成されたといえる農商分離政策の基本的志向は明確に打出されている。
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6月9日
・信長、美濃の根尾右京亮・根尾市助・根尾五郎兵衛へ、高天神城救援出陣に際し、「越州一揆」蜂起がありえるため防御を堅固にすべきと命令(「高尾宗豊氏文書」)。
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6月10日
・武田勝頼2万5千、小笠原長忠の遠江高天神城を総攻撃、塔尾曲輪を落とす。
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6月11日
・村井貞勝、伊勢内宮の仮殿遷宮について、神宮伝奏柳原資定より尽力を依頼される(柳原家記録)。
16日、再度柳原資定より、神宝や装束調製の命令を催促される(柳原家記録)。
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6月12日
・信長、信忠・佐久間信盛を遠江高天神城救援に向かわせる。
14日、信長、嫡男信忠殿と共に高天神城救援に向け岐阜城出陣。
17日、三河吉田城(徳川家家老酒井忠次、豊橋)着陣。
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6月17日
・カトリーヌ使者シェムロー、ポーランド王アンリの許に到着。
19日未明、ポーランド王アンリ、秘かに王宮脱出。ウィーン→ベネツィア→サヴォイア→フランス(リヨン)。 
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6月18日
・高天神城陥落
武田勝頼、徳川方の遠江の高天神城(織田信忠(17)後詰め)猛攻。小笠原長忠は投降し開城。
高天神城は天正9年まで勝頼の侵攻拠点としてその機能を果たす。
城兵の一部は浜松に退去、一部は長忠と共に勝頼に仕える。
勝頼滅亡後、長忠は北条氏の許に走るが、信長の命で殺害。
9月、(高天神城攻略の恩賞として)勝頼、信濃の金山衆に遠江の榛原郡内300貫文を宛行う。
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6月18日
・信長、遠江今切の渡し(浜名湖の渡し)に着陣、高天神落城の報に吉田城に引き返す。家康に黄金を皮袋2つ分寄贈。
21日、岐阜に戻る。
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6月23日
・信長、九鬼嘉隆に命じ、長島一向一揆に対し安宅船により海上封鎖させる。
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6月29日
・信長、上杉謙信へ全7ヶ条の「覚」を発す。
謙信からの来秋の信濃・甲斐方面への出撃要請を承諾、9月上旬頃の出陣を予定(詳細は協議の上で決定)、武田勝頼は若輩ではあるが「信玄掟」を遵守しており表裏もあるので油断は出来ない、など。
また、信長の戦略は、大坂表は畿内軍勢に委任し、「東国」へは近江・尾張・美濃・三河・遠江の軍勢で出撃(「上方之行」と「東国」の件は「懸組」ではない)とする。詳細は山崎専柳斎が伝達。(「上杉文書」)。
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6月30日
・オラニエ公ウィレム、スペイン軍のライデン占領を阻止するため堤防を設けることを提案。
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6月下旬
・越前一揆勢、信長より木ノ芽城守備の阿閉貞征を攻撃、本願寺門徒の武装講集団鑓講や北ノ庄勢の奮闘により貞征は城を捨てて退去。
一揆は、越前嶺北地域を支配下に収めほぼ越前全域を制圧、越前は加賀と同じく「一揆持」の国となる(「信長公記」)。
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2016年6月19日日曜日

天正2年(1574)3月1日~4月30日 信長が上杉謙信に加納永徳筆『(上杉本)洛中洛外図屏風』を贈る 秀吉の長浜城入城 信長、蘭奢待を切り取る 本願寺顕如が和約を破棄して再度挙兵(畿内の反信長の残党がこれに呼応する) [信長41歳]

鎌倉 明月院 2016-06-14
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天正2年(1574)
3月
・第2次巡視中のカプラル、入京、再び信長に謁見。
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・毛利輝元、安国寺恵瓊を使者として備前岡山城宇喜多直家を誘引。
直家は毛利氏と結んで浦上氏と断交。
毛利氏と対抗した浦上氏は、織田氏と結ぶ。
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・この頃、信長が上杉謙信に加納永徳筆『(上杉本)洛中洛外図屏風』を贈るという説がある。
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・北條氏、 羽生城を攻める
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・武田家臣天野景貫、犬居谷で家康を破る。
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・伊予、鷺森城主壬生川通国、黒川通長を万福寺の猿楽に招くが、宴後に斬殺。
鷺森城主となった家臣桑原泰国、仇の黒川通長が逃げ込んだ榎木城を攻め、自害させる。
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・スペイン軍、ルイ(オラニエ公ウィレム1世弟)を迎撃するためライデンの包囲を中断。
ルイと弟ヘンドリック、マース河畔でスペイン軍に迎撃され戦死。
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3月5日
・信長、佐久間信栄へ、近江甲賀郡地侍の降伏出頭の報告を受けて、その恭順を承認し、六角義賢・六角義治父子の籠もる石部城に対して付城を構築して攻撃を継続するよう命令(「山中文書」7)。
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3月5日
・武田信虎(81)、高遠で病没。
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3月6日
・足利義昭、河野通直(伊予守)に京都奪還への協力を求める。
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3月7日
・村井貞勝、以前通り、沢野井左馬助に夫役を安堵する(沢野井文書)。
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3月8日
・十市遠長、興福寺妙徳院へ入る。
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3月8日
・柴田勝家、夕刻に京都宇治に到着。
9日夕刻、大和多聞山城番替として着任。多人数のため、少々軍勢が興福寺に陣取る。
10日、興福寺へ使者を派遣、「ナラ中ノ成敗」を通達。(「多聞院日記」2)。
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3月8日
・筒井順慶・高田某・岡某・箸尾為綱ら大和国人衆、上洛。
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3月12日
・信長、岐阜発。佐和山に逗留。
16日、永原宿泊。
17日、志那から坂本へ琵琶湖を渡る。初めて相国寺泊。東大寺所蔵「蘭奢待」を所望する旨を正親町天皇へ奏聞。
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3月13日
・六角義賢・六角義治父子、近江石部城を脱出。
*
3月13日
・筒井順慶、信長を迎えるためにこの朝に上洛(「多聞院日記」2)。
*
3月17日
・柴田勝家、信長上洛に際し十市遠長を同行して上洛(「多聞院日記」2)。
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3月18日
・信長、従三位・参議勅定。
信忠・信雄・信孝・信包・家康、従五位上。柴田・佐久間・林・滝川・明智・丹羽・稲葉・伊賀・蜂屋、羽柴従五位下。大内義隆は従二位だが官は兵部卿・太宰大弐、六角当主は権中納言・参議。
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3月19日
・秀吉、長浜城入り。農民と農地耕作権保障基準についての条規を定める。
「在々所々、作職等のこと、去年、作毛の年貢を納所候ともがら、相乞うべきこと」。
実際に耕作し年貢を負担している者が誰かが、「作職」=農民と農地の関係=耕作権(農地所有権)と決める基準。去年誰が耕作し年貢を納めたかを確認することが第1歩だとする。

前の年に年貢を納めた者をその土地の作職所持者とすると令する事は、新しい一職支配の領有権の下での百姓=農民身分確定の意図を明確にしたもの。
中世的権利関係からして本年貢納入責任者は一般には名主層であるから、有力名主層=小領主層が、その領主化の途を否定されて、作職所持者として農民身分に格付けされることを示すものでもある。
*
3月20日
・秀吉、竹生島の材木を受取る。
*
3月20日
・足利義昭、武田勝頼・上杉謙信・北条氏政に和睦させ、家康と本願寺顕如に帰洛の準備を尽力させる。
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3月21日
・筒井順慶、京都より大和へ下向。
23日、筒井順慶の妻と母が人質として上京。(「多聞院日記」2)
*
3月22日
・秀吉、長浜城入城の時の触状、在所掟を出す。
*
3月22日
・塙直政、奈良に下向、蘭奢待の存在を確認。
その後、天皇の了解と東大寺への受け入れを依頼。正親町天皇は、これを憤り、口を極めて信長の理不尽を罵倒。
23日、塙直政、大和多聞山城に在番(「多聞院日記」2)。
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3月24日
・信長、蘭奢待拝領希望を禁裏奏聞。
26日、勅許。勅使日野輝資・飛鳥井大納言を奈良に派遣、東大寺へ蘭奢待切り取り院宣が下された旨を伝えさせる。東大寺僧衆は蘭奢待開封を認める。
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3月24日
・信長、相国寺茶会。堺衆を招く。
茶会の後、宗久・宗及・宗易(利休)のみ、書院で千鳥の香炉を拝見。
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3月26日
・秀吉、野村と三田村との井水相論を裁く(三田共有文書)。
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3月27日
・信長出迎えのため大和国神人は100人、地下衆は1町より10人ずつ肩衣・袴の装束で木津に出向く。
信長、原田直政・菅谷長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・津田某らの奉行衆を従え、軍勢3千余を率い大和国多聞山城へ到着、奈良中僧坊以下へは陣取りを厳重に禁止。筒井順慶、大和国多聞山城で信長に夕飯を振る舞う。
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3月28日
・信長、正倉院に入り、勅使立会いのもとに御物の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を運び出してその一部5.5cmほどを切り取る。切り取りの奉行は9名、柴田勝家・丹羽長秀・松井友閑など。荒木村重も随行(正倉院へは名代を派遣、信長自身は多聞山城で到着を待つ)。
「自らを将軍に擬するパフォーマンス」(今谷明)。
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3月28日
・村井貞勝、明智光秀とともに、法金剛院に所領を安堵する(法金剛院文責)。
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4月
・武田勝頼、足助城陥落。一旦甲府に戻る。
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・家康、犬居城包囲。勝頼の美濃攻め中に失地回復謀るも失敗。
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・北条勢と上杉勢、利根川を挟んで対峙。上杉勢は成果なく越後へ帰国。
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・オランダ独立戦争、ドイツから進攻したルートヴィッヒ・フォン・ナッサウ戦死
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4月1日
・信長、朝早々に奈良を出立。
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4月1日
・越前一向一揆勢、朝倉信鏡(景鏡?)の篭る平泉寺を攻撃、村岡山に築城。一揆勢の攻撃に朝倉信鏡(景鏡?)討死。6千坊を有する北陸の大古刹平泉寺は全焼。

南袋(勝山市域のうち九頭竜川以南の地)・北袋(同九頭竜川以北の地)・七山家(同滝波川上・中流域の地)の一揆勢は、七山家に通じる谷の入口の村岡山に平泉寺勢が城を築くと、「此山中ノ田畠、悉カリ(刈)田トナルベシ、左様ナラバ、山中ノ難儀ナリ」(「朝倉始末記」)という理由から、先手を打って七山家一揆を中心として村岡山に築城。
本願寺派遣の坊官・大坊主の指令ではなく、自らの作物を守ろうとする一揆独自の判断で行われる。
平泉寺や信鏡(景鏡?)は村岡山の一揆勢を攻撃するがて一揆の抵抗は強く、多くの僧兵が戦死。
本覚寺の支援軍が直接平泉寺を攻撃したため、平泉寺は焼かれ衆徒は壊滅し信鏡(景鏡?)は戦死。

本願寺は若林長門守を越前に送り仕置きさせ、家臣下間筑後法橋頼照を守護代として豊原寺におき、下間和泉守を足羽郡司として北ノ庄に、杉浦玄任法橋を大野郡司として一乗谷に、七里頼周を府中において支配させる(「朝倉始末記」6)。

この前後、越後高田の本誓寺超賢は門徒30人・米1500石を、越中射水郡門徒衆は米150石を石山に送る。加賀同様に越前も本願寺支配となり、北国からの人員補給・兵糧搬入が容易となる。
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4月2日
・顕如挙兵
本願寺顕如、前年の和約を破棄し石山本願寺に依り再度挙兵、信長属城を降す。
摂津を追われた前攝津守護池田勝正、讃岐の香西越後守、雑賀の鈴木孫一らが加わる。
本願寺勢、信長の再来襲に備えて雑賀衆を頼む。
本願寺に呼応した三好康長・遊佐信教ら、河内高屋城に篭る。
石山本願寺門徒勢、中之島織田方砦急襲、奪取。

前年6月、河内守護代遊佐信教、河内・紀伊守護畠山昭高を殺害、河内高屋城(羽曳野市)占領。阿波の三好康長や松永久秀に従っていた大和衆を入城させ、本願寺と連絡をとり信長に敵対。
畿内の反信長の残党が高屋城に拠った。

この時の本願寺・高屋城の挙兵には、足利義昭もかなり関係している。
義昭は、若江城から堺に移った後、毛利氏や信長の帰京の勧めを拒否して、紀伊の由良に蟄居していた。義昭は由良から頻繁に諸国の大名たちに御内書を送り、軍を出して信長を討つよう扇動していた。大坂・高屋方面では、側近の一色藤長がさかんに連絡をとっている(『根岸文書』)。
本願寺挙兵の3日前、信長は奈良東大寺で名香蘭奢待を切り取っているから、それを聞いた義昭が憤慨して、決起を促したのかもしれない。
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4月3日
・信長、本願寺顕如挙兵に対し即時軍勢を派遣し、苅田および放火を実行させる。
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4月4日
・信長、相国寺茶会。堺衆のうち宗及・利休のみ蘭奢待を扇に添えて与えられる。
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4月11日
・筒井順慶軍、信長命により石山本願寺攻略のため河内へ出陣。
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4月12日
・織田(畿内)軍、下八尾・住吉・天王寺に着陣、本願寺を攻め、高屋城にも軍を向ける。高屋城将遊佐信教を討つ。決定的な戦いにならず、28日、撤兵。
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4月13日
・信長、六角(佐々木)承禎の甲賀の最後の拠点近江石部城を攻撃、陥落。
13日、承禎、石部から逃亡。石部に佐久間信盛の手勢が入る。
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4月13日
・上杉謙信、利根川を挟んで北条氏政と対峙。由良成繁の金山城を攻め、武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)、忍・騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)領内に放火。
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4月14日
・足利義昭、島津義久・喜入季久へ、信長と不和になり紀伊に滞在している旨を通知。「諸口調略」に関し江月斎を派遣し指令を下す。詳細は一色藤長・真木島昭光に伝達させる(「旧記雑録後編」)。
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4月14日
・柳生宗厳(柳生但馬)父子、筒井順慶と敵対する十市遠長と入魂にする(「多聞院日記」2)。
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4月14日
・カルヴァン派軍隊、モオ・ケルヘイドでアルバ公後継でフランドル統治のエクアンサンに敗北。ナッサウ公ルイ戦死。
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4月20日
・二条晴良、「源氏物語」秘訣を三条西実澄から伝授される。
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4月21日
・奈良にで夜に地震発生(「多聞院日記」2)。
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4月21日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ(55)、没。
後継の長男フランチェスコ大公は、コジモ後妻カーミラ・メディチを修道院に送る。
1568/2/4修道院をでる。1590/5/30、43歳で没。
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4月25日
・信長、島田秀満・山岡景佐へ、大和東大寺八幡宮社人・大仏殿寺人は先規に任せて諸役以下を免除する命令(「薬師院文書」)。
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2016年6月10日金曜日

天正2年(1574)1月1日~2月28日 武田勝頼が美濃の明智城を陥落 信長はこれを救援できず 越前一向一揆(越前は「悉大坂(石山本願寺)ノ手ニ」「一統」され「一揆持」の国となる) フランスで第5次ユグノー戦争始まる [信長41歳]

小石川後楽園 2016-06-06
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天正2年(1574)
この年
信長41歳、光秀47歳、秀吉39歳、家康33歳
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・秀吉、筑前守を名乗る。石田三成、大谷吉継(16)を召抱える。
春、秀吉、今浜に築城し長浜と改名。
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・中国の海賊リ・マ・ホンの大船隊、フィリピンを攻撃、パンガシナン地方を一時支配。
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・キューバ、ユグノー教徒の襲撃、78年にかけて続く。トリニダー、バラコア、レメディオス、バヤモの町が襲われる。
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・ポルトガルのユダヤ人(マラーノ)、ボルドーに亡命。
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1月
・~2月、津田宗及、岐阜城に滞在。信長自らご飯のおかわりを与えるなどして歓待。
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・信長、以前焼き払った京都上京中へ、復興建築が開始されたため織田軍の寄宿を禁止し、市中再興を努める旨を通達(「京都上京文書」)。
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・信長、唐人の座(唐物を商う座)・軽物座を足羽郡三か荘のほか三国湊にも認め、役銭として絹1疋を徴収する特権を認める。また、前年には足羽郡北庄の橘屋に同郡の三か荘における軽物座を先規どおり安堵している。
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・信長、美濃分尾城(岐阜県海津市平田町、長島上流20km、木曾・長良・大榑・揖斐4河川に囲まれた高須輪中の要地)の拠点固めに着手。
守将高木貞久(駒野城主、海津市南濃町、高瀬輪中対岸)。
川内世界(長島一揆)解体のための軍事的楔。
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・霧島山噴火。天地震動す。
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1月1日
・信長、岐阜城で諸将の参賀を受ける。
祝賀の後、馬廻衆の酒宴で、朝倉義景、浅井久政・長政父子の首を漆で固めて金泥などで彩色したものを飾り酒の肴にする(と言われている)

実際には髑髏を盃にするようなことはしていない。
「薄濃(はくだみ)」(漆塗りして金粉で色付けした)髑髏を7年間、安置して祀れば、8年目に髑髏に魂が甦り、神通力を与えるという、中世に大流行した真言立川流(しんごんたちかわりゆう)の秘儀によったもの。
この真言立川流は、淫教・邪教として真言宗から否定されるが、民間信仰として広がり、髑髏を祀って、その霊魂を供養するという風習が残った。
信長は、彼らの髑髏を祀り、その霊力を受けて活力としたい、という思いがあったと思われる。
時代の先取性がある反面、こうした土着信仰を信じていたところに信長という人物の不可解さと面白さがある。
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1月3日
・覚恕(天台座主)、没(異説1592年)
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1月5日
・家康、正五位叙任。
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1月6日
・信長、幸若の八郎九郎(義重)に越前国内に100石を安堵。詳細は長俊が申すとする。新知配分は長俊の差配。
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1月8日
・信長に背いたのを赦された松永久秀、礼のため岐阜に参上。
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1月9日
・上杉謙信(45)、西上野の経略のため、信長・家康に甲斐・信濃への出兵を要請。
26日、関東出陣の触れ。
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1月11日
・明智光秀、松永久秀降参後の大和多聞山城に入る。
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1月12日
・信長、陶工加藤景茂(加藤市左衛門尉)へ、「瀬戸焼物釜」(竃)は加藤景茂が尾張国瀬戸でだけ使用することを許可し、他所の陶器の竃は一切許可しないことを通達(「加藤彦四郎氏所蔵文書」)。
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1月18日
・越前門徒の初めての決起。
越前の有力地侍元朝倉家重臣富田長秀(長繁、越前府中城将)、越前守護代(元朝倉家重臣)桂田長俊(前波長俊)と対立。
志比衆・大野衆(吉田郡志比庄・大野郡)の一揆。

19日、坂井郡・足羽郡の一揆も引き連れ、総勢3万3千で桂田長俊の一乗谷(福井市城戸ノ内町)に攻め込み、一族殺害。次に、富田長繁は鳥羽(鯖江)城主魚住景固を討ち滅ぼす。
20日、桂田長俊の桂田館落城。桂田長俊殺害。
21日、富田勢は3万に増え北ノ庄織田奉行所包囲。安居景健・織田(元朝倉)景胤の仲裁により、和約を結び、織田方3奉行津田元秀・木下祐久・明智光秀、岐阜へ戻る。

信長の権威を背景に、越前国内で朝倉氏と同じ地位に立とうとし、新知配分を差配した長俊に対して、元同輩の国侍達が反感。
長俊と同じ時に朝倉氏を裏切って信長方となり、10月の北伊勢合戦で与力毛屋猪介が奮戦して手柄を挙げた富田長繁は、長俊が信長に長繁や与力の給地を削るよう求めたことを聞いて長俊を討つことを決意、国中一揆を味方にすべく働きかけを始める(「朝倉始末記」)。

富田・桂田の対立を利用して、朝倉遺臣と本覚寺らの門徒が連合、加賀の援助のもとに惣国一揆を形成、最初に桂田、次いで富田と2大勢力を滅ぼし、門徒領国を樹立。
しかし、本願寺が下間頼照を守護として派遣、杉浦玄任・下問頼俊・七里頼周などの坊官を大野・足羽・上郡などの郡司に配置して支配体制を固めると、在地諸勢力はこれに反発し、「十七講」、「鑓講ノ衆」など本願寺領国に反抗する一向一揆が蜂起。
文明・長享の一揆から大小一揆にいたる総過程を、越前では短時日のうちに経験しながら、本願寺領国の内部矛盾を露呈し、1575(天正3)年には信長の再度の侵攻の前に崩壊。
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1月19日
・秀吉(38)、敦賀へ出陣。一向一揆に備える。(「信長公記」)。
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1月23日
・秀吉、竹生島神社に浅井長政の預けた材木の引き渡しを求める。
*
1月27日
・この日、越前桂田長俊討たれるの報、奈良に伝わる。
信長に背くものではないとされ、2月18日、富田長繁が信長の許に出頭、越前国侍も信長に人質を出し、騒動は収まるかにみえる(「尋憲記」)。
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1月27日
・武田勝頼、美濃岩村へ侵攻。その後、明智城を攻撃(「信長公記」巻7)。

武田勝頼3万、東美濃岩村口に出陣、小城18を攻略(岩村城は既に武田方、宿将秋山信友が守備)。
27日、岩村南西の明智城も陥落。明智守将遠山友信が勝頼に通じ城中に武田軍を入れる。出陣した信長父子は引き上げるが、東美濃回復の布石として、神箟城(瑞浪市)を修復して河尻秀隆を、小里城(瑞浪市)に池田恒興を入れ置く。
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1月28日
・越前一揆勢、加賀より七里頼周を大将として招き(「朝倉始末記」)、長繁と袂分かち自立した本願寺の軍事力であることを明確にする。
一方、府中の富田長繁は、南条郡慈眼寺に屋銭を徴収するなどの乱妨狼藉を禁止し、代官などの非法があれば土民であっても直訴せよという制札を下して人々の支持を得ようとし、府中町人と三門徒寺院(横越証誠寺・鯖江誠照寺・中野専照寺)に知行を約束して味方につける。
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2月
・北条勢、下総関宿城(簗田氏)を包囲する軍勢とは別に、簗田氏支城水海や反北条勢力の諸城攻略のため北条氏繁(綱成嫡男)が活発に動く。
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2月初
・越前吉田郡河合の八杉を指導者とする一揆が乙部勘解由左衛門を攻撃。
西庄(丹生郡)の一揆が丹生郡三留の朝倉孫六を討つ。
河北(坂井郡)の一揆は黒坂与七を攻め滅ぼす。

一揆が黒坂一族の首を七里頼周の許に持参、頼周は勝手に武士を殺すことは言語道断として、首持参者を成敗(「朝倉始末記」)。
一揆は武士支配に抵抗する農民一揆としての性格を持つが、武士も含め反信長勢力糾合を図ろうとする本願寺の意図とは矛盾する。
この頃、丹生郡末野村立神清右衛門や府中の商人板屋を一揆が「理不尽」に討ち果たしたことを訴える文書も伝わっているが、これも一揆が本願寺の統制を離れて支配層を攻撃した例とみなしうる。
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2月1日
・信長、武田勝頼が攻囲の美濃明智城へ尾張衆・美濃衆から編制された援軍を派遣(「信長公記」巻7)。
4日、佐久間信盛、明智城救援に出陣(「荻野由之氏旧蔵文書」)。
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2月1日
・信長、美濃吉村名字中・木村十兵衛・田中真吉・西松忠兵衛へ、高木貞久に美濃今尾城を守備させるので協力を命令(「高木文書」)。
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2月3日
・信長、岐阜を訪ねた津田宗及に秘蔵の茶器を披露する茶会を催す。
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2月5日
・上杉謙信、沼田城に入る。家康と呼応して武田勝頼を討伐しようする。
3月、信長はこれに警戒して加納永徳筆「洛中洛外図屏風」一双を謙信に贈り機嫌をとる(という説あり)。
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2月5日
・信長父子、出陣。御嵩(可児郡御嵩町)に陣取る。
この日、武田勝頼、飯羽間右衛門の内応により明智城攻略。
6日、信長父子、山中行軍。
24日、信長、岐阜へ戻る。明智救援は空しく終わり、神篦(瑞浪市)に河尻秀隆を、小里城(瑞浪市)に池田恒興を入れおく。
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2月7日
・トレド、ペルー鉱山開発に関する包括的政令を発する。
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2月8日
・徳川家康(33)次子於義丸(秀康)、誕生。辰刻(午前7~9時)遠江敷智郡宇布見村の郷士、中村源左衛門宅で誕生。正室築山殿の嫉妬を恐れたため。母は築山御前侍女で永見淡路守吉英娘(1547~1619、お万の方・長勝院)。容貌がギギ(魚)に似ていることで兄信康がオギイ丸と呼んだため「於義丸」とする。
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2月10日
・加賀の門徒勢、越前侵入。
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2月11日
・十市遠長、大和九条城を攻撃。
23日、内膳城を攻略、城将藤田左近以下7人を討取る(「多聞院日記」2)。
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2月14日
・越前国中の一揆勢力、七里頼周の指示に応じて敦賀郡・南条郡の一揆2万余、丹生郡と越前海岸辺の一揆3万5千余、大野郡・足羽郡・吉田郡の一揆5万余、南条郡・今立郡の一揆3万3千余、計13万8千余の国中の一揆が長繁攻撃に蜂起(「朝倉始末記」)。
府中城富田長秀(長繁)、兵4千を率い北の庄に進撃、水落~長泉寺山付近で一揆軍と大激戦。
18日、長繁は小林吉隆の裏切りにより敗死。
後、一揆勢は三門徒派寺院や武士の居館を次々と襲う。土橋城(大野郡)の朝倉気鏡、織田城(丹生郡)の朝倉景綱、会津城(坂井郡)の溝江長逸、平泉衆徒(大野郡)、旧守護家(義廉流)斯波氏の流れを汲む鞍谷氏の居館(御所)・千福・真柄・千秋など有力国人衆を攻撃、追放。

信長は朝倉氏を滅ぼしたが、国中の一揆は、朝倉氏が築き信長が継承し武士による戦国大名的支配秩序を解体。

2月上旬、加賀より七里頼周を招請、旧朝倉系降将を次々と攻め滅ぼす。
2月中旬、新道・杣山・葉原・鯖波の南条郡や敦賀勢、八社荘(社荘か)や織田荘・栗屋(厨)・本郷・棗三郷の坂井・丹生郡勢、本覚寺・専修寺率いる北袋・南袋・足羽・志比荘・河北の大野・吉田・足羽郡勢、宅良・三尾河内・真柄・北村の南条・今立郡勢らが、富田長繁や府中三門徒衆らを滅ぼす。
一揆の別動隊の河北一揆は坂井郡金津の武将溝江宗天・長逸父子を攻撃。
加賀より一揆軍指導者として派遣された本願寺坊官杉浦玄任の工作により和平が結ばれかけるが、一揆勢は和平儀式の場に乱入して溝江親子を討ち取る。

2月下旬~4月中旬、杉浦氏を大将として、和田本覚寺や細野の道観兵衛や嶋田将監らの北袋一揆勢、大町専修寺勢、志比荘一揆、若林(本願寺坊官下間頼充被官で当時金沢御坊へ下向)勢、照厳寺ら坂北勢、大野郡北谷一帯の七山家の一揆勢らが平泉寺と朝倉景鏡を攻め滅ぼす。

かくして、越前は「悉大坂(石山本願寺)ノ手ニ」「一統」され「一揆持」の国となる(「信長公記」巻7)。

本願寺、朝倉を裏切って延命した武士支配層を一掃し、越前を加賀と同じ「一向一揆体制」にするため、一向一揆総大将として坊官下間頼照を越前に下向させ、主戦派代表軍師七里頼周(もと石山本願寺の青侍、元亀2年加賀に派遣、主戦派、「加州大将」と呼ばれる)を金沢より越前に移らせる。
本願寺指図により、下間筑後法橋頼照を越前守護(代)・杉浦玄任を大野郡司・下間和泉法橋頼俊(頼照の子)を足羽郡司とする。要職は全て本願寺顕如の指令。
(坂井郡豊原寺を本拠に下間頼照が総大将として差配し、杉浦が大野郡を、下間和泉が足羽郡を、七里頼周が府中以西を分割支配する体制)

「一揆持ち」の理想。
①百姓・下人:領主・主人からの解放。
②在村の道場坊主:門徒勢力の拡張。
③大坊主(一揆の指導):領主権力を奪取しわがものにする。

法王国のしめつけ。越前を加賀と同じく本願寺法王国の拠点化・法王国化する政策(自決自治⇒大坂領国化)。大坂中心の石山戦争体制化。

一揆の暗影 「一揆内一揆」:
①2月半ば、河北一揆の人々、坂井郡国衆黒坂一家の首を白山豊原寺(坂井郡丸岡町)の七里頼国のもとに持参。七里は「我等が下知にあらず。一揆ら、私として武士を殺すこと、言語道断」と激怒し河北一揆の人々を斬殺。加州大将(大坊主)と国中一揆の矛盾。
②別派の地方小教団(和讃門徒又は真宗三門徒派)は富田氏に加勢して一向一揆と対立。この年閏11月以降、一揆内一揆激発。

「越前国、一揆持ちにまかりなる」との一向一揆による織田分国奪取の飛報。

一揆は杣山・真柄・織田荘・志比荘・河口荘などの中世の荘郷を単位とするものと、河北・大野・北袋などのように荘郷よりやや広い地域を単位とするものがみられる。しかし、いずれの場合も一揆は内部では惣代を指導者とする村規模の結合がある。
室町期より荘郷のもとで村が形成されつつあり、朝倉氏時代末には村の指導者として惣代が知られるようになり、村堂を中心とする自立的な集団に成長、このような村が一揆の基礎単位となり13万余いわれる大規模な国中一揆が蜂起。

一揆指導者は北袋一揆の島田将監のような武士もみえるが、坂井郡本庄の宗玄、吉田郡河合の八杉木兵衛、同郡志比の林兵衛、丹生郡天下村の川端などは、惣の農民的指導者で、河合の八杉は、義景の女を教如の室とする為に大坂に送り届けた人物とされ、本願寺門徒と思われる。
七山家一揆の指導者は、伊知地の庵室兵衛、坂口才六左衛門、洞の孫右衛門、山下道場の左近太郎・同掃部太郎・同入道道清、岸陰弥次右衛門とされ(「朝倉始末記」)、有力農民、道場の名を冠する者、隠居でその家屋が道場の役割を果たしたとされる庵室がみえ、彼等も本願寺門徒と思われる。
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2月18日
・秀吉、八幡宮に社領160寄進。
20日、今浜(この春、長浜と改める)の八幡宮に社領160石の寄進。
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2月18日
・ネーデルランド軍、ゼーラントを占領。
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2月20日
・一揆の惣大将・本願寺坊官の下間頼照、坂井郡竜沢寺にの安堵状を発給。
頼照は軍事最高指揮者(惣大将)のみならず、寺領安堵などの政治的支配権も認められている。
「朝倉始末記」は頼照を「守護」と呼ぶ。
6月下旬、木ノ芽城の信長守備兵を退却させ、本願寺・一揆勢が越前嶺北部を支配するようになると、足羽郡司に下間和泉、大野郡司に杉浦玄任、府中辺の郡司に七里頼周が任命される。郡司は郡内の軍事動員に当たる。
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2月21日
・丹羽長秀、若狭西福寺に寺領を安堵。この頃には長秀は若狭支配権を手中にする。
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2月23日
・仏、第5次ユグノー戦争始まる。肉食日(四旬節前の3日間)の陰謀
アランソン公フランソワ、ユグノーと共にシャルル9世・母カトリーヌ襲撃を計画(ユグノーのショーモン・ヴィトリー、シャルル9世・カトリーヌ虐殺後、アランソン公がユグノーを率い一斉蜂起する計画)。
アンリ・ド・ナヴァールとマルゴが背後からアランソン公を操る。
ショーモン・ヴィトリー、共謀者もなく攻撃に不十分な1部隊だけでサン・ジェルマン宮殿前に現れ、国王衛兵に逮捕。失敗に気付いたマルゴ、陰謀を母カトリーヌに通報。母が陰謀情報を得ていることを知ったアランソン公、全てを告白、仲間達を全て売る。
アンリ・ド・ナヴァール、陰謀計画は自分の自由を取り戻す手段、謀反意図はないと弁明。
コンデ公、現場にいなかったため陰謀にも不参加として許される(恩赦を知らずドイツに逃亡、再び新教に帰依。ルートヴィッヒ・フォン・ナッサウやセダン大公と、カトリック王政への雪辱戦を準備開始)。

ガブリエル・ド・モンゴメリー、ノルマンディ諸都市を王権に対して蜂起させ農村地帯での掠奪開始。

カトリーヌ、陰謀関係者として(王権に忠実な)モンモランシー元帥 (フランソア・ド・モンモランシー、モンモランシー大元帥長男、44、1530~1579)とその一族コッセ元帥を逮捕。弟のダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー(モンモランシー大元帥次男、ダンヴィル伯、40、1534~1614)は公然とユグノーの味方となる(モンモランシー家は、代々、分離独立を指向する地方ラングドック総督)。
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2月28日
・越前国中一揆勢、大野郡平泉寺と逃げ込んでいる土橋(朝倉)信鏡(景鏡?)を攻撃。杉浦玄任・下間和泉・若林長門守と、越前の本願寺派有力寺院(大坊主)の本覚寺・専修寺などが一揆を指導。この攻撃は一揆勢大敗に終わる。
4月、平泉寺は焼かれて衆徒は壊滅、信鏡は戦死。
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2016年5月14日土曜日

元亀4年(天正元年)2月、将軍義昭が信長に反旗を翻した際、旧二条城に構築したと言われていた新たな堀が発掘された(各紙報道)。5月14日~16日の発掘調査場所での説明会情報(ツイート)など。





「黙翁日録」
元亀4/天正元年(1573)1月~2月 信長、義昭へ「異見十七ヶ条」発す 将軍義昭、浅井長政・朝倉義景・武田信玄らと信長打倒を画策 信玄、三河野田城陥落させるも長篠に後退 信長、義昭と和睦を画策する傍ら西近江を平定  [信長40歳]
の2月13日の

『兼見卿記』2月17日条にも、義昭より「御城中堀二間を申しつく」と、御所の堀を補強するため人足を出すよう命じられたとある。

に該当すると思われる。

場所は、
「黙翁日録」
京都 三つの二条城,① 旧二条城 聖アグネス教会聖堂
にある
「旧二条城跡」「武衛陣跡」のもう少し南寄り(丸太町通り寄り)にあたる


▼現地見学会の様子をツイートより










2016年5月4日水曜日

元亀4/天正元年(1573)11月1日~12月31日 足利義昭、紀伊由良に蟄居 河内若江城陥落・三好義継自害(三好の嫡流絶える) 信長・本願寺講和 多聞山城の松永久秀、信長に降る [信長40歳]

鎌倉、妙本寺 2016-04-19
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元亀4/天正元年(1573)
11月1日
・武田勝頼、甲斐より駿河を経て大井川を渡り遠江に侵入。掛川・久能に放火、見付に陣を移し浜松城攻略を図る。果せず甲斐に引き揚げ。
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・フェリペ世、騒ぎを収束できないアルバ公を解任。後任ドン・ルイス・デ・レケセンス。
(アルバ公は7月ハーレム市攻略後、アルマーク市を包囲。反乱軍は堤防を決壊させ自らの国土を水の下に沈める。この戦法にスペイン軍はアルマーク市攻略放棄。次にレイデン市包囲)
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11月4日
・信長、上洛。
10日、入洛、妙覚寺宿泊。
「朝倉始末記」によれば、越前国侍も上洛して礼を述べたとある。この時、信長は朝倉景鏡に土橋姓を、朝倉景健に安居姓を、前波長俊に桂田姓を与え、景鏡・景健に本領安堵し、長俊には義景遺領と信長に敵対した朝倉氏家臣の旧領を給与、朝倉氏旧臣魚住景固に丹生郡を支配させたという。長俊は、膨大な礼物を信長に献上。23日信長の茶会において、長俊が献上した馬が津田宗及に与えられる(「津田宗及茶湯日記」)。また、長俊は、府中を領する富田長繁とその与力の毛屋・増井の知行分が多すぎると信長に訴える。
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11月4日
・木下祐久、越前織田剣大明神寺社中へ、信長朱印が下されたが、この旨を無視する動きがあり前波長俊へ説示したと通達、朱印が下された上は疎意無きことを命令(「剣神社文書」)。
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11月5日
・義昭、若江城を出て堺に移動。
9日、紀伊へ向かうため堺を出発。
河内若江城の三好義継の許に身を寄せていた義昭は、信長に対抗できるのは毛利氏しかないと考え安芸下向の意向を示す。毛利氏は信長との全面対決を嫌い安国寺恵瓊に慰留させる。恵瓊は義昭を京都に戻すことで信長と交渉。信長は了承するが、信長からの人質を要求する義昭により交渉決裂。
義昭は行場を失い紀州由良の興国寺へと落ちる。
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11月13日
・信長、和泉堺津引接寺へ織田軍の陣取・寄宿を免許する旨を通達(「正法寺文書」)。
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11月14日
・天下所司代村井定勝、信長の使として、禁裏と親王にみかん等を献上する。禁裏より緞子(どんす)を賜る(御湯殿上日記)。
信長のもとにみかんが届いたので、信長は一部を天皇と誠仁親王に献上した。返礼の緞子は、信長へのもの。信長は、2日後にも天皇・親王にみかんと鯉を献上、19日にも鯛を献上している。
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11月15日
・アスンシオン入植者フアン・ド・ガライ、大西洋岸に向け探検。サンタフェの町を建設。
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11月16日
・信長、佐久間信盛・柴田・丹羽ら率い河内若江表(東大坂市)出陣。松永久秀・久通7千参陣。久秀、三好義継重臣を反逆させるよう説得。三好義継(25)自害(三好の嫡流絶える)、若江城陥落。
主君義継を裏切って織田軍を入れた老臣3人(野間長前・池田教正・多羅尾常陸介)が共同で河内北半国を治める。

勢いづく織田勢、河内を席巻、堺郊外の長曾根の善龍寺中心の寺内町を制し、善念寺をもとに寺内町を形成していた大ヶ塚に寺内を保障する禁制発給。
大ヶ塚は、石川の支流の梅川と浦川に挟まれた河岸段丘にある天然の要塞。
初め根来寺衆徒の拠点で、善念寺(顕証寺)が本願寺末になることによって、寺内特権を確立。
大ヶ塚近くの大伴も石川と千早川の合流地点にあって、「大伴道場」として寺内特権が認められ、石川左岸に興正寺を中心に開かれた富田林は、「大坂並」という、石山本願寺と同じような寺内特権が保障されていた。
信長の伸張によって寺内特権はしだいに剥奪されていったが、寺内の経済・交易権は保護され、信長の経済圏に組み入れられていく。信長は武力の前に屈する寺内町は、そこにある経済力を収奪するために保護するという政策をとった。
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11月18日
・信長、石山本願寺へ、和議の挨拶として名物茶器「白天目」を贈られたことを謝し、疎意無き旨を通知(「本願寺文書」)。
この和議は、信玄没、浅井・朝倉滅亡、義昭追放の状況下で本願寺側から働きかけたものと思われる。両者を取持ったのは今井宗久か? 講和条件は本願寺安泰、門徒の石山参詣保障。高札は京都に掲げられ3日で撤去されたという。両者共。態勢整えるまでの時間稼ぎ。

11月18日付、信長から本願寺に宛てた書状
「芳墨(ほうぼく)拝閲(はいえつ)せしむ候。さて一種-号白天目ー贈り給わり候。名物の条、連々一覧の望み候梟(けり)。旁(かね)て以って自愛鮮なく候。度々御懇信決然の至り候。随って条目の通り、聊か(いささか)も疎意無く候。委曲は大坂肥前法橋に申し含め候。恐惶敬白。
十一月十八日                              信長 (黒印)
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11月23日
・~24日、信長、妙覚寺で茶会。早速「白天目」を披露。今井宗久が出席。
12月2日、岐阜に戻る。
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11月28日
・信長、正実坊掟運の知行安堵(「建勲神社文書」)。旧幕臣上野豪為の知行安堵(「五十川清氏所蔵文書」)。旧幕臣信濃兵部丞の知行安堵(「国立国会図書館氏所蔵文書」)。12月14日、旧幕臣梅松軒の知行安堵(「佐藤行信氏所蔵文書」)。
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月末
・越前、織田劒社領と桂田長俊の代官が支配する織田荘料所方との間で、織田寺社が料所方に負担する用米を巡り紛争。
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12月
・山中鹿之助ら3千、再び因幡に進入、次々と城を攻略。山名氏も尼子軍に協力。因幡の大半が尼子氏の傘下に入る。
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・信長、摂津富田庄普門寺へ、先規に任せて寺領を安堵し、織田軍の陣取・寄宿を免除。
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・信長、正親町天皇の譲位を「頻りと申し入」れ(伝奏中山孝親の日記)。天皇は、曖昧な返事で先延ばしする。
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・秀吉、浅野長吉(長政)・真野左近らに知行を宛行う。(浅野家文書)
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12月1日
・沢庵和尚、但馬に誕生。
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12月2日
・木下祐久、越前織田庄寺庵給人中・百姓中へ、信長が諸役免除黒印状を下したが、課役徴収する者が存在したため諸役免除をさらに確認(「剣神社文書」)。
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12月5日
・村井貞勝、自邸に中山孝親の訪問を受ける(孝親公記)。
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12月12日
・安国寺恵瓊、国許への書状で「信長の代は3~5年もつ。来年には公家になるだろう。その後『高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え候』。藤吉郎は格別の者(「さりとてハの者にてニて候」)である」と記す。
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12月14日
・信長、旧幕臣梅松軒の知行安堵。山城仁和寺の御室雑掌成多喜御房の知行安堵。
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12月16日
・村井貞勝、明智光秀と共に、策彦周良(さくげんしゆうりよう)に宛て、安弘名(やすひろみよう)が妙智院の直務であることを確認する。
同日、安弘名の小作人に、今井某の言い分を無視して、年貢を妙智院に納めるよう命じる(妙智院文書)。

前年9月、信長が私淑した高僧、天龍寺妙智院住持の策彦周良が、山城葛野郡にある安弘名について訴えた。
安弘名は本来妙智院が直務(直接年貢・諸公事=雑役を徴収すること)していたはずなのに、今井という者が百姓との間に入って、中間搾取をしていたらしい。策彦は、そこを直務に戻してほしいという。塗りの菓子箱・皿・盆が信長に贈られ、信長は満足して礼を述べている(『妙智院文書』)。
信長は、木下秀吉・武井夕庵に命じ、百姓たちが直接妙智院に納めるよう取り計らった。
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12月16日
・仏、ミヨー(フランス中南部)、ユグノーの牧師達の一大集会開催(改革派政治会議開催)。
牧師達の要求にカトリーヌが「応じない」と宣言、時間を稼いだことに対する示威集会。
ユグノー派、「プロテスタント共和国」を構想して軍事組織を強化。
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12月26日
・多聞山城の松永久秀、信長に降る。多聞山城引渡す。
信長は何故、三好義継を攻め滅ぼしたのに、松永久秀を助けたのか。
久秀の畿内における影響力は、まだ利用価値があった。また、多聞山は、西日本随一といわれるほどの豪華な城郭で、中には、天下の至宝と評判される絵画や茶道具などが保管されていた。信長は、多聞山城とともにこれらの宝が失われるのを惜しんだのかもしれない。
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12月26日
・村井貞勝、先に、明智光秀とともに寂光院・三千院の知行を安堵する。
この日、天皇がそれを喜ぶ旨の綸旨が出される(来迎寺文書)。
寂光院・三千院は、皇室とゆかりの深い寺だが衰退の道を辿っていた。
信長は、貞勝・光秀に命じ、その二寺の知行地を安堵させた。正親町天皇は知行地回復を聞いて喜んだ。
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12月28日
・信長、伊達輝宗に書簡。
義昭追放、朝倉討伐について述べ、その後、若狭・能登・加賀・越中は全て信長「分国」とした、「五畿内之儀」・「中国」(毛利領国)は信長「下知」の及ぶ地域となったこと、来年は武田氏に対する軍事行動の予定、更に北条氏「成敗」を予定、協力要請(「伊達家文書」)。
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2016年4月12日火曜日

元亀4/天正元年(1573)9月7日~10月31日 第2次伊勢長島一向一揆戦 北伊勢の一揆をほぼ鎮圧したものの長島には侵入できず失敗 [信長40歳]

鎌倉 妙本寺 2016-04-06
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元亀4/天正元年(1573)
9月7日
・信長、毛利輝元・小早川隆景へ8月10日~28日の軍事行動の詳細を通知(「乃美文書正写」、「武家事紀」)。
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9月7日
・信長、池田恒興へ、木田小太郎「跡職」を息子池田輝政に譲与することを安堵(「池田文書」)。
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9月8日
・家康、長篠城攻略
家康、武田勝頼に属す長篠城開城、城主菅沼正貞。
徳川家中戸田忠次、牧野康成、菅沼定盈に説得される。武田氏は東三河侵略の拠点を失う。
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9月9日
・信長、京極高次に所領を宛行う。(清滝寺文書)
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9月10日
・仏、アンジュー公アンリ、ノートル・ダム寺院でポーランド代表団に誓言
(ポーランドでは、選定諸侯が要求する条件遵守を誓った後、初めて王と見なされる。王が即位時誓言した約束を一つでも破った場合、臣下は王に従う必要がなくなる。王が決定したことでも、貴族議会の承認がなければ実行力を持たない)。
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9月10日
・1570年に信長を狙撃した杉谷善住坊、磯野員昌に捕縛され岐阜へ連行。鋸引きの刑に処せられる。
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9月14日
・細川藤孝、山城松尾社家へ、信長より西岡の地を安堵されたが、それは松尾神社社領でありこれの安堵を通達(「東文書」)。
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9月14日
・天下所司代村井定勝、禁裏より「松の折」を下賜される(御湯殿上日記)。
信長から禁裏への献上、禁裏から信長への下賜・返礼は、だいたい貞勝を通じて行われる。下賜が信長へのものか貞勝へのものか、紛らわしい場合もある。この件は、「むらいにつかわさるる」と『御湯殿上日記』に明記されており、貞勝への下賜である。天皇にしても、貞勝は皇居修理の奉行としてよく知った存在だったはずである。「松のおり」とは、毎年妙心寺から献上されているもののようで、時期から推測すると、松茸を詰めた折であろうか。貞勝は、そのおすそ分けにあずかった。禁裏への季節の物の献上はいろいろとあるが、秋のものとしては、柿や粟が多く見られる(『御湯殿上日記』)。
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9月16日
・前波長俊(越前守護代)、増長新十郎知行分(没収所領)の代官職・若林山奉行に帰山・服部両人を任じる。
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9月20日
・織田信雄、伊勢大湊中へ信長朱印による桑名までの就航命令実行を要求。
塙直政、大湊惣中へ、敵方の伊豆国から大船が大湊に着岸したので津田一安が派遣される、日根野弘就が「足弱」を送った船の件は「曲事」であるので「舟主共」を必ず成敗すること、これらは信長御意なので厳守を通達。(「伊勢市大湊支所保管文書」)
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9月20日
・滝川一益・明智光秀、越前北庄軽物商人中へ、信長が橘屋三郎右衛門尉を軽物座長に指名したので承知すべき、9月23日前に橘屋へ連絡することを通達。連絡が延引した場合は永代軽物座に加入をさせない旨を通知(「橘文書」)。
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9月20日
・遠江武田勢武田信廉隊と榊原康政隊・大須賀康高隊が交戦。
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9月21日
・顕如、武田信玄(没が公表されていない為)に書簡。
「遠三表の御備え如何候哉」(遠江・三河への出陣要請)、「江北越前その外近国いよいよ正体無く候」(浅井・朝倉滅亡後の北近江・越前を憂慮)。(「顕如上人文案」)
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9月23日
・仏、ポーランド代表団、帰国。アンジュー公アンリ、12月10日にはクラクフに到着を約束。アンリの戴冠式の予定は1574年 1月17日。
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9月24日
・信長、北伊勢に向う。大垣泊。
25日、太田(岐阜県海津郡南濃町太田)の小稲葉山に布陣。近江の織田軍兵力(柴田・佐久間・羽柴・丹羽・蜂屋)も北伊勢へ移動。滝川一益を桑名におき、長島を牽制。
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9月26日
・~10月25日、第2次伊勢長島一向一揆戦
信長、桑名の一向一揆に攻撃開始。佐久間信盛・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・丹羽長秀、西別所・坂井(ともに桑名市)の一揆砦陥落、虐殺。
北伊勢の一揆をほぼ鎮圧したものの長島には侵入できず失敗。

北伊勢平定戦:
強襲で攻略した城1、攻撃半ばで交渉に入り開城した領主3、戦う前に人質を出して帰順した領主10。撤収中に追撃され損害大。
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9月末
・秀吉・光秀・一益3人に代わり、木下祐久・三沢秀次・津田元嘉3人が代行者として任に就く。
彼等は北ノ庄の朝倉景行の旧館に居たので「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」(「朝倉始末記」)或は「北庄ノ三奉行」(「總見記」)と呼ばれる。
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10月
・信長、備前天神山城主浦上宗景に備前・美作・播磨3国を安堵。
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・武田勝頼(28)、大軍を率いて遠江に侵入し、浜松城を窺う。
その後駿河に引き返し、諏訪原城を普請する。
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・北畠具教(46)、信長の圧力を受け、大湊衆に長島へ出船要請。
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・スペイン軍、ライデン(オランダ語レイデン)包囲開始。
1573年10月~1573年3月スペイン軍、ルイ迎撃のため包囲を中断。
1574年5月~10月ライデン、守りきる。
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10月6日
・信長軍(柴田勝家・滝川一益)、坂井の片岡城・深谷部の近藤城(桑名市)、陥落。
8日、信長、東別所に本陣。
付近の土豪(伊坂・萱生・赤堀・田辺・桑部・千草・長深の諸土豪及び田辺九郎次郎・中島勘解由左衛門ら)、和を乞う。ただ1人降参しない中嶋将監の白山城(一志郡白山町)には佐久間・羽柴軍を送り開城させる。
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10月8日
・信長、越前称名寺佐々木蔵人へ本知7石を、越前の橋本三郎左衛門尉へ本知6石を、越前の衣料を商う大商人慶松家の小武氏一族に本知10石余を、安堵。
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10月13日
・鳥屋尾満栄、伊勢大湊衆へ、信長からの桑名への廻船命令に10日も遅延し信長は立腹している。桑名陣所の津田一安へ早急に廻船するよう命令(「伊勢市大湊支所保管文書」)。
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10月21日
・信長、山城賀茂惣中へ筒井順慶と相談して松永久秀の多聞山城に付城を構築し、攻略命令(「賀茂郷文書」)。
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10月24日
・信長、伊勢大湊廻船中へ「関東」への所用のため大船1艘派遣するので早々に渡海することを命令。
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10月25日
・引上げる(多度→養老)織田勢に一揆勢3千(大半雑賀鉄砲隊)攻撃、総崩れ。
殿軍の林新二郎(筆頭家老林秀貞の子)隊は壊滅。
信長、大垣城入り。
26日、信長、長島の西の矢田城(桑名市矢田)に滝川一益をおき、岐阜へ戻る。
長島を攻めるための大湊の船が十分に調達できず、長島攻めを諦める。
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2016年3月12日土曜日

元亀4/天正元年(1573)8月16日~9月6日 越前一乗谷攻略 朝倉義景(41)自刃 朝倉家滅亡 近江小谷城攻略 浅井長政(29)自刃 [信長40歳]

上野公園 2016-03-03
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元亀4/天正元年(1573)
8月16日
・信長、多胡宗右衛門尉(近江国土豪)へ、旧領安堵・新知給与は磯野員昌より通達すると約し、更に山々破城を命令(「田胡家由来書」)。
信長、越前河野浦・今泉浦・赤はけへ全3ヶ条の「禁制」下す(「西野文書」)。
木下祐久、木下秀吉の取次を以て越前敦賀郡西福寺は安堵された旨を通達(「西福寺文書」)。
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8月17日
・織田勢、木ノ芽峠越え越前侵入。
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8月18日
・一乗谷城下、平泉寺衆徒に放火され、一族の館・仏閣全焼。
平泉寺僧衆は信長へ忠節を誓い、織田勢に人数を出す。
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8月18日
・信長、府中龍門寺(武生市)着陣。
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8月19日
・ポーランド代表団、パリに入城。ボズナン司教、ラドジヴィル 大公(ポーランド宮廷の最高元帥)他。
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8月19日
・朝倉景鏡、東雲寺、義景に六坊賢松寺への移動勧める。
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8月20日
・越前一乗谷攻略
景鏡が突然裏切り、兵200を六坊賢松寺へ向け、義景主従を囲む。
朝倉義景(41)、自刃。広徳院ら殺害。朝倉家滅亡。

信長に降りた朝倉景鏡・景健・景盛・景泰・溝江長逸・魚住景固など本領安堵・新知行を宛行。
越前全域は前波吉継が守護代として統治。一向一揆を刺激しない布陣。
明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益3人衆をおく。新たに江北においた羽柴秀吉と若狭の丹羽長秀が越前を監視する。

越前は、一向門徒が多く、朝倉氏とも度々戦火を交えるが、織田軍に対抗するため和睦し共同戦線を構築してきた。
信長が引き上げると、朝倉旧臣の勢力争い(特に守護前波吉継と府中の冨田長繁)が勃発、これを引き金にして、越前全土で織田軍と越前一向門徒の凄惨な戦いが展開。
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8月21日
・北条氏政、上野へ進入。
上杉謙信、関東諸将の要請により越中から帰国し、関東出陣準備をすすめる。
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8月22日
・フランス、シャルル9世、アンジュー公アンリを後継者に任命。
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8月23日
・信長、鷲田三郎左衛門尉に当知行に任せて450石を安堵。

これを初見とし、以後10月8日橋本三郎左衛門に6石、大野郡折立称名寺佐々木蔵人に7石の安堵まで、信長朱印状で「本知」支配が武士・寺社に認められる。
信長の支配は、越前内の朝倉氏旧臣・寺社がそれまで支配していた知行分を「本知」として安堵することを原則とする。
この本知安堵の信長朱印状は、明智光秀等3人衆が審査の後、信長に下付が申請。
信長は、本領安堵に際して知行高100石につき黄金8両を徴収、寺社の多くが仏具などを売却してこれを調達と伝えられる(「朝倉始末記」)。
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8月24日
・降伏した朝倉景鏡、府中龍門寺織田本陣に出向く。
義景の首と母・妻・男子である光徳院・少将・愛王の身柄を引き渡す。光徳院と愛王は丹羽長秀により南条郡の帰の里で殺害(「越州軍記」)、5代100年の朝倉氏直系は断絶。
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8月26日
・信長、朝倉氏旧臣の前波吉継(前年服属、のち桂田長俊と改名)を守護代にして越前統治を任せ、江北虎御前山城帰陣。

旧臣冨田長繁を府中城主、直前に降伏した朝倉景鏡・景健・魚住景固・溝江長逸も本領安堵。
越前には吉崎道場もあり、一向一揆蜂起の可能性もあるため、ひとまず旧臣に任せて様子を見る。但し、浅井制服後は、越前の押えとして、北近江に秀吉、若狭に丹羽長秀をおく。

守護代前波長俊の支配
長俊の支配権の最も重要なものは、朝倉義景の直接支配地と信長の敵対者から没収した所領に対する管理権。
朝倉氏時代に郡司の支配下に置かれていた敦賀郡・大野郡には支配権が及びにくい。大野郡では9月末に元郡司朝倉景鏡が大野郡から美濃郡上への荷物運送を禁止しており、景鏡の大野郡支配が認められていたとわかる。
長俊の支配権としては、信長朱印により確認された本知における給人・百姓の年貢についての抵抗を排除すること、寺社の末寺・門徒支配を安堵し、末寺領からの本寺への上分米納入について本寺と末寺の交渉を仲介し裁定することなど。

信長、越前井川村・敦賀西福寺・別印村千福氏知行方・惣社大明神並び社家・御廉尾村・滝谷寺・称念寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
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8月27日
・近江小谷城攻略
(~29日)秀吉、小谷城京極丸(長政の本丸と久政の小丸との間の曲輪)を攻撃、浅井久政・長政の連携を遮断。
最初に浅井久政居城(小谷城山王丸曲輪)を攻略。
夜、久政、自刃。秀吉は久政首級を虎御前山の信長へ届ける(「信長公記」巻6)。
28日、浅井長政へ最後の降伏勧告。お市御前と息女預けられる。嫡男万福丸(10)は敦賀へ落延び(後、関が原で処刑)。嬰児の2男は城下の寺院に預けられる。全軍攻撃。
29日、長政(29)、自刃。
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9月
・上杉謙信、水越氏・一揆勢の立て篭もる滝山城を攻略。
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・丹羽長秀、若狭小浜長源寺と遠敷郡滝村に禁制を掲げる(「長源寺文書」)。朝倉滅亡後の若狭の混乱を鎮めるため。

朝倉氏滅亡後に若狭に帰った武田元明は、朝倉氏と結んだことを理由に信長に殺されようとするが、旧臣粟屋勝久・熊谷直之の嘆願により許されたという。しかし元明が旧臣を従え武田氏を再興することは許されず。
武田氏旧臣は信長家臣となり、若狭衆と称されて長秀の与力とされる(長秀が遠敷郡、粟屋勝久・熊谷伝左衛門が三方郡、逸見昌経が大飯郡について大きな勢力を持つが、長秀が若狭衆を与力として軍事的に支配する権限を有しており、若狭衆の所領について支配することがある)。長秀は近江佐和山城を本拠とし、武田氏旧臣など若狭国侍を与力として軍事的に指揮する権限を信長より認められる。

この後も長秀は、柴田勝家滅亡後の天正11年4月末越前転封まで、遠敷郡の西福寺・羽賀寺・長源寺の寺領安堵、遠敷郡金屋の鋳物師に対する金屋職の安堵、小浜の豪商桑村氏の船・家についての課役免除、武田氏旧臣の白井氏に遠敷郡賀茂荘の代官職の安堵などを行う。長秀は遠敷郡統治の権限を持ってことがわかる。
但し、信長より所領・所職として認められた地を持つ国侍は、その地に領主としての支配権を行使している。武田氏有力家臣山県秀政、天正元年12月、遠敷郡谷田寺領を安堵、同8年、税所領常満保福同名の名主職を妙楽寺僧に補任、など。

長秀の農民支配は武田氏時代のありかたを踏襲。丹羽長秀時代の指出と武田氏時代の大永5年(1525)の指出を比較すると、基本的に大永5年の時の分米・本役米・反銭が維持されている。
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9月4日
・織田勢全軍、佐和山城入り。柴田勝家に命じて鯰江城を攻めさせ、六角(佐々木)承禎を追う。
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9月6日
・織田勢、小谷城に羽柴秀吉を入れ、浅井氏旧領の江北3郡支配(「江北浅井跡一職」)を任せ、岐阜凱旋。

この時点で残っている討伐対象となる将軍方の残党。

近江 志賀郡山中 磯貝久次
山城 勝龍寺城 石成友通(いわなりともみち)
    静原山城 山本対馬守
    一乗寺城 渡辺昌
大和 多聞山城 松永久秀・久通
河内 若江城 三好義継
摂津 池田城 池田重成
    伊丹城 伊丹忠親
    川辺郡多田 塩河長満
丹波 桑田郡宇津 宇津頼重
    八木城 内藤如安
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9月6日
・信長、近江竹生島宝厳寺へ、「青葉之笛」「小笛」は返還予定であるが、由来(誰が「寄附」したのか)調査し記録を提出するよう命令。また静御前所持の雷の蒔絵がある小鼓の披見を要求。詳細は磯野員昌が伝達(「竹生島文書」)。
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2016年3月7日月曜日

元亀4/天正元年(1573)8月1日~8月15日 信長、調略により浅井方支城を開城させ、進出してきた朝倉義景軍を攻撃 更に退却する朝倉軍を追撃しこれを壊滅 [信長40歳]

千鳥ヶ淵緑道 2016-03-02
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元亀4/天正元年(1573)
8月
・武田勝頼、三河に馬場信春・小山田信茂・土屋昌次・武田信豊3千、遠江に山県昌景・一条信竜・穴山信君・武田信廉5千を進出させる。
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・北條氏政、上野に出陣。
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・高山右近、荒木村重より高槻城を与えられる。
右近はフロイス、ロレンソらを城に迎え、キリスト教義を学び、その後一貫してキリシタンとしての模範的な歩みを始める。
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8月2日
・長岡藤孝・三渕藤英ら、山城淀城(伏見区淀)攻撃、陥落。岩成友通討死(三好三人衆、もとは義昭の仇敵。2年前に服属、義昭の信頼厚く淀城を預けられ信長に対抗)。他に番頭大炊頭・諏訪飛騨守が籠っていたが、秀吉が調略し内応。
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8月4日
・信長、岐阜へ帰還。
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8月6日
・朝倉義景、軍議での反対を押し切って柳ヶ瀬、さらに木ノ本の田上山まで軍を進める。
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8月8日
・夜、信長、岐阜を出陣。
小谷に近い浅井方小谷城支城山本山城(滋賀県東浅井郡湖北町)阿閉貞征(アツジサダユキ)父子(浅井郡~伊香郡~竹生島を支配する有力な国人領主)、降参の報を受け。
進軍途中で、部将たち(佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、その他美濃・近江の部将たち)の到着を待ち、人数を整え小谷城(浅井郡湖北町)近くまで進む。

「八月八日、江北阿閉淡路守御身方の色を立て、則、夜中信長御馬を出され、其夜御敵城つきがせの城(月ヶ瀬城)あけのき候なり」(「信長公記」巻6)。

山本山城は小谷城の西方約6kmにある。朝倉軍が小谷救援に南下する時に通る、余呉・木ノ本を臨む重要な地点。信長は、最後の決戦の覚悟で岐阜を出陣した。
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8月9日
・浅井方月ヶ瀬城(滋賀県虎姫町月ヶ瀬)月ヶ瀬忠清、城退去、開城。
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8月10日
・信長、佐久間・柴田らを大嶽(オオズク)北方の山田山(540m)に着陣させ、自身はその西麓の高月(伊香郡高月町)に陣をおき、越前への交通を遮断。越前から小谷に進む朝倉軍に備える布陣。

大嶽(495m):
浅井氏の小谷城(390m)に並びそれを見下ろす位置にあり、小谷城にとって大嶽の砦は詰(ツメ)の城(最後の拠点となる城)。前年の対陣の際、朝倉軍はこの山に布陣し信長の挑発に乗らず、信長軍が引き揚げるまで動かず。いま、山頂の砦には朝倉兵500ほどが駐まっている。
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8月10日
・上杉謙信(44)、加賀・越中国境の朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)を攻めるが、一向衆の鉄砲攻撃に苦戦(朝日山城攻め)。
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8月11日
・山本山城に続き、月ヶ瀬城(東浅井郡虎姫町)が開城。この城は、秀吉の兵が守る虎御前山砦(同)南方約2kmにある浅井氏にとって最南の城。
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8月11日
・朝倉義景2万、余呉(伊香郡余呉町)・木ノ本・田部山(ともに同郡木之本町)に着陣。

「朝倉記」によれば、家臣筆頭の朝倉景鏡(ヨシカゲ)を派遣しようとしたところ病気と称し断られ、やむなく自ら出陣。そのほか魚住景固(カゲカタ)にも従軍を拒否され、軍勢は少ない。「信長公記」は「二万ばかり」とあるが、5~6千と推測される。
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8月12日
・大嶽麓の焼尾城守将浅見対馬、浅井から寝返り織田軍を引き入れる。
その夜中、信忠(17)を浅井長政への押さえとして秀吉が守備する虎御前山に送り、自ら大嶽(前線基地)の朝倉勢(斎藤・小林・西方院ら越前衆500)を攻撃、陥落。
大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置き、続いて丁野山(ヨオノヤマ、越前平泉寺の玉泉坊が籠る、木之本町)攻撃。朝倉兵、戦わず降伏退却。
信長は、大嶽・丁野山の降兵を助命、朝倉本陣に放ち、朝倉義景に小谷城周辺が殆ど占領されていることを知らせる。退却・追尾戦に持込む作戦。

朝倉方近江丁野城攻撃の際、信長方は、陣僧を篭城の平泉寺宝光院に派遣、「降伏したなら恩賞を与える」と申し入れ(「朝倉始末記」)。敵との交渉に陣僧が派遣。
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8月13日
・信長、山田山に着陣している部将たちに対し、朝倉本陣は今夜、陣払いをして越前に退く、それを見たならば、すぐに追撃せよ、と指令。
この指令は「再往再三」出されたという。信長には確信があった。信長は、3年前の志賀の陣の時、前年の対陣の時に、朝倉義景の戦い振りを見ている。決断力がなく、一か八かの戦いはできない。身を守る安全地帯がないと知ったならば、越前に引き返す、と確信していた。
追撃こそ敵兵を大勢討ち取って、戦いの帰趨を決定づけるチャンスである。だが、部将たちのいる山田山から朝倉本陣までは約5km。すぐに追撃を始めなければ追いつくことができない。そうした気負いが「再往再三」の催促になった。
そして、信長の予測は当たった。
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8月13日
・夜、信長、田上山に布陣する朝倉義景を破り、退却の朝倉勢追撃。
朝倉軍は北国街道と刀根・疋壇(ヒキタ)経由敦賀方面の二手に分かれて退却。
織田軍は朝倉義景を追って刀根・疋壇を追撃。
朝倉方は刀根で織田軍を止めようとしここで激戦。
朝倉方は守りを破られ、朝倉一族及び主だった侍大将殆ど(朝倉景氏、同景冬、同景遐(カゲトウ)、同道景、山崎吉家、鳥居景近、詫美(タクミ)越後守、青木隼人佑、印牧弥六左衛門など)討死。斎藤龍興(26、前美濃稲葉山城主)討死。
義景、越前府中館に達する。

部将より先に信長が追撃に出る
信長は今夜にも朝倉勢が退却すると読み、先手諸将にその旨を伝え、退却を逃さぬよう再三命じる。
夜、朝倉軍が退却を始めるが、山田山の信長部将はそれに気付かず、信長が先に馬廻りのみ率い、諸将に先んじて朝倉軍を攻撃。
信長が動いたことで朝倉退却を知った部将たちは、後を追い木ノ本近くの地蔵山で信長に追いつく。
信長は諸将(佐久間信盛・滝川一益・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆(ヨリタカ)・羽柴秀吉・氏家直通・安藤守就(モリナリ)・稲葉良通(一鉄)・同貞通・同典通・蒲生賢秀(カタヒデ)・同賦秀(マスヒデ、氏郷)・永原重康(筑前)・進藤賢盛(山城守)・永田景弘(刑部少輔)・多賀常則(新左衛門)・弓徳(キュウトク、久徳)左近・阿閉貞征・同貞大(サダヒロ、孫五郎)・山岡景隆・同景宗・同景猶(カゲナオ))を叱責、佐久間信盛は信長に抗弁、信長の怒りを招き、7年後の追放の一因となる。

信長、佐久間信盛が涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」(我々程の家臣は中々持てない)と「自讃」したことに対して激昂。佐久間信盛へ「其方は男の器用を自慢にて候歟、何を以ての事、片腹痛き申様哉」と言い放ち「御機嫌悪く」なる。(「信長公記」6)
この時の部将の構成
①佐久間信盛--永原重康(筑前)、進藤賢盛(山城守)、山岡景隆・同景宗・同景猶。
②柴田勝家--蒲生賢秀(カタヒデ)・同賦秀(マスヒデ、氏郷)、永田景弘(刑部少輔)。
③滝川一益。
④蜂屋頼隆。
⑤羽柴秀吉--弓徳(キュウトク、久徳)左近、阿閉貞征・同貞大(サダヒロ、孫五郎)。
⑥丹羽長秀--多賀常則(新左衛門)。
⑦美濃三人衆(氏家直通・安藤守就(モリナリ)・稲葉良通(一鉄)・同貞通・同典通)。①佐久間~⑥丹羽は、信長の尾張一国時代からの部将。
⑦美濃斎藤氏の旧臣。蒲生・永原・進藤・山岡氏らは近江国衆(六角・浅井氏の旧家臣で、信長上洛かそれ以降に信長に従う)で、元亀期(1570~73)に尾張以来の部将の「与力」として附属させられる。

信長の本陣を固める「馬廻」
「甫庵信長記」「『当代記」には、「馬廻」として前田利家・佐々成政・戸田勝成・下方(シモカタ)貞清・岡田重善・同重孝・赤座永兼・高木左吉・福富(フクズミ)秀勝・湯浅直宗・土肥助次郎・織田順元(ノブモト)があり、「信長公記」には、この戦いに参加した馬廻として、これらの他に塚本小大膳(コダイゼン)・不破光治・同直光(光治の子)・丸毛光兼・同兼利(光兼の子)・兼松正吉がある。
「馬廻」にはその分限(身分の程度)に著しい差があり、前田利家・佐々成政らは兵100人以上を従える身分であり、兼松正吉・土肥助次郎らは一騎駆けの武士である。

信長、14日朝までに敦賀に入り、16日迄逗留。
17日、木目峠越え、越前へ乱入。
18日、府中竜門寺に進む。

粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・白井勝胤をはじめ、内藤・熊谷・香川・寺井・松宮・畑田氏らの旧武田家臣らは信長を敦賀郡の道口まで出迎え、粟屋勝久らは一乗谷へ出陣し朝倉氏攻撃に加わる(「若州国吉篭城記」)。
この年、将軍義昭没落後、朝倉方の武田信方・山県秀政らは信長方に寝返り、武藤友益・粟屋右京亮は討たれ、大飯郡の彼らの所領は闕所とされる(「信長公記」巻14)。
旧武田家臣は再び信長の下に束ねられ、若狭支配は信長の手中に握られることになっていた。後、信長家臣の丹羽長秀が入部すると旧武田家臣はその「与力」として再編成され、天正3年(1575)越前一向一揆討伐をはじめ、丹羽氏と共に各地を転戦(「信長公記」巻8~11)。若狭支配に旧武田家臣が登用されていく。
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8月14日
・疋田城まで退いた朝倉軍の朝倉景健・景胤・詫美越後、信長軍に切り込み、壊滅。
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中旬
・作手城奥平貞能・信昌父子、家康に奔る。
20日、家康、誓書を与え、本領安堵や信昌に長女亀姫を嫁がせることなどを約す。
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8月15日
・朝倉義景主従、一乗谷着。
16日、朝倉義景、大野郡山田庄の六坊賢松寺(大野市)に退却。柴田と稲葉ら美濃3人衆が追撃。
同日、義景、娘2人と茶入を福島石見守に預け落ち延びさせる。途中、石見守は坂井郡鳴鹿の村人に殺害。

義景の娘2人は加賀に逃れ、姉は比丘尼になり、妹は「河合の郷の八杉木兵衛と云う者、具して、御喝食を大坂へ昇らせ申しけり。今の門跡(教如)の后婦は、義景の息女にて渡らせ給いけるとなり」(『朝倉始末記』五)とあるように、以前の約束どおり顕如の子教如の内室になっている。
この義景の娘が教如の内室になっていたのは、何時までであったのか、死別したのか、離別したのかは、まったく不明。教如が天正8年8月2日に石山本願寺を退去したとき、「御離別されし歟(か)」(『集古雅編』下)とも、「御内室は、安芸仏護寺へ逃れ落ち給う」(『金鍮記』)と江戸期の真宗関係本にあるが、彼女の消息はわからない。
教如は、義景の娘と離別した後であろうか、大納言家の久我通堅(みちかた)の娘(東之督、清福院)を迎えたものの離別している。この離別には、教如の愛妾の「御ふく」(教寿院)が関わっていたと推測される。
これが教如の実母如春(によしゆん)の怒りをかって、教如は本願寺門跡を追われる遠因となる。
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