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2010年1月31日日曜日

昭和13年(1938)3月17日~26日 スペイン戦線、アラゴンの村々が陥落。 総動員法、貴族院通過。 日本軍、台児荘で包囲される。 電力国家管理関係法成立。

昭和13年(1938)3月17日~26日
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この月の
スペイン戦線の状況についてはコチラ
ドイツのオーストリア侵略過程はコチラ
をご参照下さい。
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3月17日
・イタリアのファシスト使節来日
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3月17日
・フランス下院、ブルム内閣信任。369対176。
ブルム政府は国境再開を要請するネグリンに同意。しかし、それ以上の支援措置はとらず。
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3月17日
・スペイン、アラゴン戦線。フランコ軍がアラゴンのカスペを陥落。
16日、フランコ軍のバロン、ムニョス・グランデス、パウティスタ・サンチェス指揮の3個師団がカスぺを包囲。南部では、アランダが共和国戦線を突破し、モンタルパンを占領。
17日、国際義勇軍各旅団が奮戦するもカスぺが陥落。英国人大隊指揮官サム・ワイルドらは、捕虜になるところを危うく逃がれる。フランコ軍は、アラゴン進出8日間で東100kmに進み、エプロとグァダルーぺ河畔で再編成の為の休息をとる。
攻勢再開は22日。
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3月17日
・ソ連、バレエ振付師ヌレエフ、誕生。
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3月17日
・ポーランド、リトアニアに領土要求放棄を求める最後通諜を出す。
19日、リトアニアは、ポーランドに譲歩し国境を再開。
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3月18日
・英米両国の石油会社、従業員の昇給をメキシコ政府より求められるが拒絶。
メキシコ政府、両国石油会社の資本を接収し国有化。
英は国交断絶。米は銀購入停止。
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・メキシコのカルデナス、「石油産業国有化に関する布告」発表。
スタンダード,シェルの抵抗を押しきり石油関係17社没収。油田国有化。収容資産管理の石油行政審議会(CAP)設立。
米国はメキシコ銀の買い付け拒否でこれに対抗。
米国石油資本は軍事介入を要請するが、ルーズベルトは拒否。
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3月18日
・ソ連、ドイツによる脅威を受けた場合、国際連盟の枠内で仏ソ条約履行方法・手段の打合せ提案。英仏とも冷淡。
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3月20日
・「死なう団盟主」江川桜堂、没。団員4人殉死。
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3月21日
・アメリカ、バネー号賠償金として221万4,000ドルを日本に要求。日本承認。
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3月22日
・スペイン、フランコ軍がアラゴンへの攻勢を再開。
サラゴーサ、ウエスカ、ビーナなど革命的な村々が陥落。
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フランコ軍のソルチャーガとモスカルド両将軍は、ウェスカ~サラゴーサの150kmの戦線で5つの攻撃を開始、ウェスカ、タルディエンタ、アルクピエーレが陥落。翌日、ヤグニはエプロ河を渡河しピーナを占領。アラゴンの全ての村々が陥落。
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3月23日
・メキシコ、石油会社国有化に関して、列強の威嚇の対抗するカルデナス政府支持の大デモ。
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3月24日
・国家総動員法、政府原案通り貴族院通過、可決成立。
第1条で「国家総動員とは戦時に際し国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的物的資源を統制運用するを謂う」と規定
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3月25日
・東京の飛行館、文学座第1回公演。森本薫「みごとな女」ほか上演、~3月26日。
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3月25日
・日米漁業協定が成立。アラスカ沖サケ漁が禁止。
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3月25日
・スペイン、アラゴンを制圧したフランコ軍は、カタロニアへ侵攻するが難渋する。
しかし、南アラゴンではフランコ軍は地中海への進撃を準備(共和国を分断する作戦)。
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25日、フランコ軍のヤグエがフラーガを奪取し、カタロニアに侵攻するが、レリダでは共和国軍エル・カンぺシーノ師団が、1週間に亘り抵抗。
北方では、モスカルドがパルバストロに入り、更に北ではソルチャーガの部隊が、ピレネー山脈の谷あいで共和国砲兵隊や飛行機のたやすい攻撃目標となり行動の自由を失う。
南方では、アランダ、ガルシア・エスカメス、ベルティ、ガルシア・バリーニョが、空軍力の援護のもとに南アラゴンの高原を突進し地中海への進撃を準備。
ドイツは、歩兵掩護の為の戦闘機利用について多くを学ぶ。
バルセロナのネグリン政府では、国防相ブリエトとそれに影響をうけた外相ヒラールの敗北主義的言動が目立つようになる。
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3月26日
・日本軍、台児荘で包囲される(~4月6日敗退)。
第10師団歩兵33旅団瀬谷少将の支隊、中国軍に包囲。救援の第5師団歩兵21旅団坂本順少将の支隊も包囲。4月6~7日、退却。
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3月26日
・「電力管理法」「日本発送電株式会社法」などの電力国家管理関係法、成立。4月6日、公布。翌14年4月1日より電力管理が始まる。
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各電力会社から一定規模以上の発電・送電施設を現物出資させ、日本発送電株式会社を設立、それを国家管理下におこうというもの。
会社所有は民間資本に任せるが、経営は国家が行なうというこの法律は、企業経営の自由、ひいては資本主義そのものを否定するものとして財界・実業家たちを恐れさせる。
電力統制は、昭和16年には配電部門に及び、国家総動員法に基づく「配電統制令」により、地域別に統合された9配電会社設立命令が出される。
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前年10月13日、電力調査会官制が公布され、同18日に第1回調査会が開催される。
委員は、鉄道次官、貴衆両院議員、学識経験者、財界、5大電力の社長(反対派)など35名。
委員会への諮問事項は、「電力の国家管理をなし、国防の充実、国民年活の安定を図り、戦時体制に順応して生産力の拡大に備え、国防の充足、動力の動員を整え、産業計画遂行の円滑を期するは刻下喫緊の要務なり・・・。よってこれが急速実施に関する具体的方策を問う」というもの。
この年(昭和13年)1月25日、電力管理関係法律案、衆議院に上程され即日委員会に移され、1月31日から委員会の議事に入る。
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①思想問題:
「問 本案は、レーニンの電力国営思想、ドイツの、社会主義のワイマール憲法のもとの電力事業社会化法案、それから、コールのソーシャリゼーション等に類するイデオロギーをもとにしたもの、少なくとも国家社会主義の実現を期するもので、純粋な経済問題とは思われないがどうだ。
答 一君万民の大義を政治上、産業経済上、徹底させるというほか、われわれの持つべきイデオロギーはあり得ない。本案は電気というような普遍的基礎的なものを取り上げて、これを一部でなく全国民に及ぶよう処置しようという趣旨であって、あらゆる産業を統制管理し、社会化しようとする第一歩であるなどというのはとんでもない誤解である。」 
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②国防問題:
「問 本案は時局に即した臨時の戦時立法とすべきものではないか。
答 わが国の立国の条件に照らし、存立に欠くべからざる恒久的な方策であって、戦時目当ての臨時立法ではない。しかし、現時急迫しておる時局の要求に応じても、最も適切な効果を発揮することは期待しておる。」 
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③公益法人電気協会の反対運動:
「問 東電社長小林一三氏が、昭和一〇年六月二九日、『東洋経済新報』誌上に、「水力電気のごとき国家百年の大計と終始すべき性質のものは、必ずしもその建設費に対する利潤のみを考えて事業化するということよりも、道路または港湾のごとき一国産業の基礎工程に処し、必要不可欠の設備の一つとして考えてみる時代がきたのではないか、電力界へまさに革命の機運がきたのではないか」と述べ、また東邦電力の松永社長も少なくとも発送電は一元的に総合運営すべき旨の論文を発表しておるにかかわらず、同じ趣旨に成るものとして当然賛成すべき本法案に反対の急先鋒となっていることこそ不可解であるが、更に池尾氏を会長とする電気協会は総力を挙げて猛反対を続け、時局に対する非協力の態度にあけくれておるのは、一部の私利のために公器を弄ぶものと思われる。監督官庁としての見解いかん。
答 事についての賛否の表明は自由であろうが、電気協会は公益法人であるから、その行動は公益を目的とすべきで、一部のため本分を逸脱せりと認めるに至らば、適当の処置をとる考えである。」
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④発送電、配電の一元化:
「問 本案の目的達成のためには発送電だけでは足りない。配電まで一元的に管理するを必要としないか。
答 電気事業法を改正することとして、配電の末端まで管理の精神が流れるよう、しばらく推移をみることとしたのであるが、たって配電まで管理せよという趣旨であるならば今からでも用意はあると答えた所、決してそれには及ばないと、あわてて質問を打ち切った。」 
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⑤強制出資:
「問 現物出資を強制し、その対価に将来、無価値となるかも知れぬ新会社の株券を交付するのは横領といわれても仕方がない。違憲立法ではないか。
答 所有権は法令の制限内で自由とは憲法、民法の明定する処であって、本法律により出資を強制してもなんら違憲ではない。
また、現物出資に対しては株券を交付するこそ当たり前のことである。その上、請求あらば現金で買い取るという特別配慮までしてあるので横領とは当たらないも甚しい。
新会社の株式が無価値となる懸念があるかどうかは、発送電会社法案の参考資料として収支目論見が出してあり充分御審議を煩わしたい。」 
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⑥外債問題:
「問 インデンテュア(外債の約定書)によると、担保物件の移転は承諾なしにはできないことになっておる。本案が担保設備を強制出資させるということは、このインデンテュアの違反である。
少なくとも必要の場合は繰り上げ償還を覚悟しなければならないが、どうか。
答 担保物件の移転が国の法律による強制の場合には、例外として可能だとするインデンテュアの例もある。本案では設備を移転しても担保はそのまま続けることにし、更に発送電会社、更に必要あらば政府が支払いを保証することにしてあるのだから、当然債権者保護は大きく加重され、問題が生じょうとは想像も及ばない。万一の場合の償還は考えてある。」 
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⑦料金、購入電力量、新会社収支の目論見書:
「問 目論見書の案によると、燃料石炭価をトン一四円平均とみてあるが、今、平均二〇円くらいが至当と思う。したがって料金の算定はずさんだといわねばならない。
更に新会社の収支見積りにも不安と思われる点が指摘される。
答 燃料炭は火力発電所の所在条件のいかんによって値段が違う。本州、中部一七円、九州六円、北海道七円が実際現状であるが、多少先高を見越し、消費量と消費地とを勘案し、平均一四円と算出した。これは算術平均ではない具体的なもので部分的な材料によったものではない。
なお、今後は、全国の所要量を一手で買入れることになり、従来よりも有利と予想しておる。
また新会社の収支については、一元的運営の利益、政府の資金援助、それから経営の合理化等で、現在よりよくなるとも悪くなることは想像できないけれど、卸売料金に政策を加味する場合も考え、六分配当に心配のないよう政府が保証を与えることにしておる。
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⑧新会社の設立総会について:
「問 現物出資によって株主となる現在の電気事業者は、おおむね本案の反対者である。新会社の成立を希望しないものである。
だから創立総会の折に多数決で反対したら、会社が不成立に終る心配はないか。また成立しても、本法案の規定によって、株式の買戻しを請求されたら、払込み資本のなくなる幽霊会社同様のものになりはしないか。
答 本法案は会社を創立するための公法であるから、その設立を否認するような行為は許されないし想像もしていない。かりにやっても無効との見解である。
また現物出資者以外、一般公募の一億円の株主もあることである。買戻しを求められた株主は新たに買主を作れば問題はない。
当初は反対しても、一度法律となると、いさざよく協力態度に出ることは反対者もいっている位だから、政府として、あえて原案執行というような侮辱的な条項は規定をすることを差し控えたのである。」
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2010年1月15日金曜日

昭和13年(1938)3月16日 社会大衆党西尾末広、総動員法賛成演説「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、・・・」で除名処分  イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃

昭和13年(1938)
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この月の
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3月16日
・香港、フィッチ「南京に残留した米人の目撃談」(「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」)。
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3月16日
国家総動員法案、法案委員会で可決。
衆議院本会議に緊急上程、小川委員長の報告、各派6名の討議の後、付帯決議を付して無修正可決、貴族院に送付。4月1日公布。5月5日施行。
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近衛は、「一朝有事の際に、或は緊急勅令とか、或は非常大権の発動に依りまして、総動員の実施を行うというよりは、予めその大綱だけでも議会の御協賛を得て、法律として制定しておく方が、むしろ立憲の精神に適う」という論法で成立を急ぐ。
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当初、近衛首相が欠席し、激しい反発があり、答弁に立つ塩野季彦法務大臣らはシドロモドロで立ち往生。3月2日、病気をおして登院した近衛首相が「協力と理解」を率直に求め、議会の空気も和らぐが、翌3日には「黙れ事件」で混乱。
結局、近衛が「支那事変に直接これを用いるものではない」と言明し、13日、政友会・民政党は折れて同意する方向に傾く。
3ヶ月でこの約束は反故に。
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付帯決議
「一、本法のごとき広汎なる委任立法は全く異例に属す。本法を濫用して人心の安定を脅威し、産業の発達を阻害せざるよう厳に戒心すべし 
二、本法の制定とともに政府は進んで世界の平和を実現し、文運の進歩に貢献するため速かに外交機能を刷新し新たに対外国策を確立すべし」。
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立案した企画院総裁(第2次近衛内閣)星野直樹、
統制法規として、世界に類例のない徹底したものだ。この法律で何と何が統制できるかと考えるよりも、この法律で統制できないものがあるなら、それをさがした方がはるかに早いだろう」(高梨正樹編「目撃者が語る昭和史(第5巻)日中戦争」「国家総動員法の製作者」)。
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▽「総動員法」の新聞統制
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1月26日「読売新聞」がスクープした「発売、頒布禁止の行政処分を二回以上受けた新聞や出版物は発行停止処分にする」という項目は、国会に提出された法案からは削除されており、新聞界はホッとする。
提出法案第20条は、
「政府は戦時に際し国家総動員上必要ある時は勅令の定むる所により、新聞紙その他の出版物の掲載につき制限、又は禁止を為すことを得。又政府は前項の制限又は禁止に達反したる新聞紙その他の出版物にして国家総動員上支障あるものの発売および頒布を禁止し、これを差押うることを得」とある。
政府は、この第20条について新聞側から批判され、「これは単に法案を作っただけで必要のない限り実施をさけたい」と弁明し、「抜かざる伝家の宝刀」と申し開きをする。ここに大きな落とし穴があった。
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「【第一六条の三】政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは・・・事業の開始、委託、共同経常、譲渡、廃止もしくは休止又は法人の目的変更、合併もしくは解散に関し必要なる命令をなすことを得」
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「【第一八条】政府は・・・同種もしくは異種の事業の事業主又はその団体に対し、当該事業の統制又は統制のためにする経営を目的とする団体又は会社の設立を命ずることを得」。
「新聞連盟」や「一県一紙」による新聞の統廃合に導かれる。
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・衆議院本会議、社会大衆党幹事西尾末広、国家総動員法案の賛成演説
「ヒトラーの如く、スターリンの如く大胆に」と近衛首相を激励、政民両党がこれを問題とする。
「国家総力戦に備えるため」、「戦時社会政策の徹底、労働政策の確立」を、とくに要望。懲罰委員会に付され、23日、除名(翌年、補欠選で復帰)。除名に反対したのは尾崎行雄のみ。
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「私は、社会大衆党を代表して、本法案に五個条の希望条項を付して、賛成の意を表したいと思うのであります。・・・
いまや世界は、個人主義より相互主義へ、自由主義より統制主義へと進展しつつあるが、各個人の自由をある程度制限することによって、全体の発展をはかり、その部分としての個人的自由を合理化し、かつ増大せんとする方向に向かいつつあることは、われわれのハッキリ認識するところであります。
・・・数年前よりわが国には、われわれが現実に見るごとき、大多数の有色人種が、白色人種の優越感によって支配されている現状に顧みまして、また東洋の平和確立のために、実力的に戦い得るのは、わが日本を措いては他にないという信念にもとづきまして、この日本の歴史的使命達成のために、敢然立って邁進すべしとの意見が、たかまり来たったのであります。われわれはこの歴史的使命をはっきりと認識しなければならぬ。・・・
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・・・それは去る三月十四日は、五個条の御誓文の七十年目に当るのであります。”わが国未曾有の変革をなさんとし″と御誓文の冒頭に仰せられているのであります。まことにしかり、今日においても、わが国は未曾有の変革をなさんとしている。・・・この精神を近衛首相はじっかりと把握いたされまして、もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を進むべきであろうと思うのであります。今日わが国のもとめているものは、確信に満ちた政治の指導者であります」
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西尾の声は、「近衛首相に共産主義をやれというのか」「スターリンはそんなに偉い政治寓なのか」などの怒号と机を叩く音で聞こえなくなったという。
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西尾は席に戻ってようやく周囲の騒ぎで自分の演説が大問題になっていることに気付く。そこで弁明のために再登壇し、「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく」のくだりをすべて削除すると申し出るが、政友会・民政党が承服せず、議長が西尾を懲罰することで収拾。
この時、尾崎行雄が西尾の後で登壇し、「そこで私も言おう。近衛首相は自信をもって、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を国民に示して指導せられたい。・・・西尾君はこの言葉を取り消したが、私は取り消さない。西尾君を除名する前に、私を除名せよ」と応援演説。結果的には西尾だけが除名。
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桐生悠々「西尾氏の除名」(「他山の石」4月5日号)。
「無理が通れば道理が引込む、単に日本のみならず、世界を挙げて、今ファッショ的なる暴力横行の時代に、西尾氏が揚足を取られて、我衆議院から除名されたのは決して驚くに足らず、寧ろ必至的の結果であるが、さりとは余りに子供らしく唯噴飯を禁じ得ない」。
「朝・毎・読」は、この間題も真正面から取り上げず沈黙。
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3月16日
・スペイン、イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃。
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サラマンカ駐在ドイツ大使シュトーラーは、爆撃の効果は「恐るべきもの」で、「市内のあらゆる地域が影響をうけ、軍事目標をねらったという証拠は全くなかった」と述べる。
夜10時頃の第1回目空襲は、ハインケル水上飛行機6機が、上空400mを時速80マイルで横断。
その後、18日午後3時まで、3時間間隔で17回の空襲があり、約1,300が死亡、2千人が負傷。
チアノは、空襲指令はムッソリーニから直接与えられ、「フランコはそれについて何も知っていない」という。
19日、フランコは、「海外での紛糾」を恐れ空襲停止を要求。しかし、ムッソリーニは、かつての彼の将軍ドウエットと同様、飛行機のもたらす恐怖によって戦争に勝てるとの考えを変えないでいた。
ロンドンでは、いくつか抗議集会が開かれ、ジョージ・パーカーは詩「スぺインのためのエレジー」を発表。
コーデル・ハルは、「合衆国の全国民を代表して」嫌悪の念を表明。
しかし、共和国各都市に対する無差別爆撃は、戦争終結まで続く。
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2010年1月3日日曜日

昭和13年(1938)3月8日~15日 第2次ブルム内閣成立 北支那方面軍第2軍南進 ブハーリン処刑 

昭和13年(1938)
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この月の
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3月8日
・衆院、48億5千万円の臨時軍事費を可決。
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3月8日
・巨人球団、召集された沢村、三原を補うために川上哲治、千葉茂ら7人の入団を発表。
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3月9日
・スペイン、アラゴンに対するフランコ軍の大攻撃「電撃作戦」。共和国側の戦線崩壊。
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3月9日
・オーストリアのシューシュニク首相、3月13日にオーストリア独立維持の国民投票実施を企てるが、3月11日、ヒトラーはシュシュニック辞任を求める最後通牒を出す。
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3月10日
・北支那方面軍第1軍、各兵団を警備任務に移行させ、山西省内新占領地での掃蕩作戦を実施
(本稿末尾に方面軍編成を記載)
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3月10日
・フランス、第4次ショータン内閣総辞職。
社会・共産両党の支持を失い辞職。ルブラン大統領はブルムに組閣依頼。挙国一致内閣構想。
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3月10日
・スペイン、叛乱軍ソルチャーガ将軍のナバラ軍、ベルチーテ占領。第15国際旅団は辛くも脱出。
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3月11日
・中華民国臨時政府、旧通貨整理弁法・取締擾乱金融弁法を公布。連銀発行貨幣を国弊とする金融体制確立を目指す。
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3月11日
・「公立中等学校は何れも有閑階級の子弟や金持の指定に独占されることになって、貧乏人には何等の恩恵にはならぬことになる」(鈴木庫三「日記」)。
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3月11日
・オーストリア、ドイツより人民投票延期の最後通諜を受けシュシュニック首相辞職。アルトゥール・ザイス・インクボルト(ナチス)がオーストリア首相就任。独政府に秩序回復のため軍の派遣要請。
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3月11日
・オーストリア軍事占領命令、ドイツ軍に発せられる。
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3月12日
・日本銀行、政府保証興業債券を抵当とする貸付利子及びこれを保証とする手形割引歩合を最低日歩9厘5毛に、満州国国債を保証とする手形割引歩合を最低日歩1銭に優遇。
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3月12日
・ドイツ軍、対オーストリア侵入開始。機械化部隊はリンツ付近で立ち往生、入城式に辛くも間に合う。ヒトラー、オープンカーでオーストリア入り。夜、ウィーンだけでも6万4千人がナチスにより逮捕。
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3月12日
・フランス、第2次ブルム内閣(社会党・急進社会党)成立。社会党11、急進党9入閣。1ヶ月足らずで上院の反対に直面し総辞職。
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・社会党全国協議会、ブルムの挙国一致内閣構想支持。6575対1684。共産党中央委員会も支持。
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・午後、ブルムは、野党議員を集め挙国一致内閣構想を説明。152対5で否決
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3月13日
北支那方面軍第2軍司令官西尾寿造中将、第10師団瀬谷支隊(瀬谷啓少将)と第5師団坂本支隊(坂本順少将)に南進命令
(第10師団に「大運河以北の中国軍撃滅」を、第5師団に「沂州攻略後 嶧県付近で第10師団の作戦に協力」を下命)。
しかし、中国軍の攻撃を受け苦戦。18日、瀬谷支隊、謄県を攻略するが、第5戦区軍は激しく抵抗。24日、瀬谷支隊、台児荘攻略失敗。27日、瀬谷支隊(歩兵6個大隊、野砲兵3個大隊)は台児荘に再度突入、29日、沂州を攻撃中の坂本支隊も台児荘に増援、
しかし戦況は進展せず。4月6日、瀬谷支隊が、7日、坂本支隊が、優勢な中国軍に包囲され台児荘を撤退
中国側は「台児荘の勝利」を宣伝。
瀬谷啓少将(22期)は予備役に退く。徐州周辺に中国軍約40万が集結している事が判明し、4月7日、徐州作戦下命。
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この年(昭和13年)初頭、陸軍中央は、占領地を確保して持久策をとる不拡大方針を固め、2月中旬、日本軍はその方針に沿って平定作戦を実施。
しかし、第一線の中国軍はその後も増強され、第5戦区軍約20万が展開する山東方面は「連夜襲撃ヲ受ケ第一線ハ漸ク奔命ニ疲ルルノ徴ヲ認ム」状況であり、参謀本部は第2軍の「眼前の敵を追ひ払ふ」南進作戦を認可。
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3月13日
・近衛首相が、総動員法は「支那事変に直接これを用いるものではない」と言明し、政友会、民政党は同意する方向に傾く。
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3月13日
ドイツ、オーストリアを併合
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3月14日
・仏、新外相ポール・ボンクール(穏健派)、チェコ駐パリ大使を呼びフランスはチェコとの同盟条約から生じる諸義務を履行する言質を与える。又、ピレネー山脈越しにスペイン共和国への兵器密輸黙認。
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この頃、パリではドイツとの戦争は不可避と思われている。
マシグリ外務省政治局長も対スペイン不干渉は茶番と公言し、コメール外務省情報局長は、「我々はオーストリアのうらみをスペインではらすだろう」とも発言。
15日、フランス国防委員会の会合で、ブルム首相はフランコに対する最後通牒を提案。
内容は、「二十四時間以内に貴下が外国部隊の支持を放棄しないならば、フランスは・・・フランスにとって有益だと思われる、あらゆる介入手段を用いる権利を留保するものである。」というもの。
しかし、国防軍参謀総長ガムラン将軍は、参謀本部はフランス南西部に対し別個の動員計画を持たないと指摘。
ダラディエは、スペインへの直接介入は世界戦争を惹起すると主張。
外務省主任書記官レジェは、介入は必ずドイツ、イタリアの開戦理由となり、イギリスはフランスの政策から遊離するであろうと批評。
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3月15日
・ソ連、ブハーリン処刑
元中央委員ニコライ・ブハーリン(50)、アレクセイ・ルイコフ(57)らが死刑判決。即日処刑。
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3月15日
・バルセロナで大衆20万デモ。ネグリンに反対する閣僚追放要求、国防相ブリエトを攻撃
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3月15日
・ウィーン、ヒトラー、ホーフブルク宮バルコニーから演説。
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■北支那方面軍編成
(軍司令官寺内寿一大将、参謀長岡部直三郎)。
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●方面軍直轄兵団
第114師団(末松茂治中将、参謀長磯田三郎大佐(宇都宮))、
歩兵第127旅団(秋山光三郎少将)、
歩兵第128旅団(奥保夫少将)。
支那駐屯兵団(山下奉文少将、3月12日支那駐屯混成兵団を改編)
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●第1軍
(司令官香月清司中将、参謀長飯田祥次郎少将)。
・第14師団(3月30日編入、司令官土肥原賢二中将、参謀長佐野忠義大佐(宇都宮))、歩兵第27旅団(豊嶋房太郎少将)、歩兵第28旅団(酒井隆少将)。
・第20師団(川岸文三郎中将、参謀長杵村彦蔵大佐(龍山))、歩兵第39旅団(関原六少将)、歩兵第40旅団(上月良夫少将)。
・第108師団(下元熊彌中将、参謀長鈴木敏行大佐(弘前、5月15日まで))、歩兵第25旅団(中野直三少将)、歩兵第104旅団(苫米地四楼少将)。
・第109師団(山岡重厚中将、参謀長落合甚九朗大佐(金沢))、歩兵第118旅団(本川省三少将)、第31旅団(谷藤長英少将)。
・第16師団(4月12日より第2軍へ転属、中島今朝吾中将、参謀長中沢三夫大佐(京都))、歩兵第19旅団(草場辰巳少将)、第30旅団(篠原次郎少将)。
・配属部隊:野戦重砲兵第2旅団(平田健吉少将)。独立混成第3旅団(佐々木到一中将)。独立混成第4旅団(河村薫少将)。
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●第2軍
(司令官西尾寿造中将、参謀長鈴木率道少将)
・第5師団(板垣征四郎中将、参謀長桜田武大佐(広島))、歩兵第9旅団(国崎登少将)、歩兵第21旅団(坂本順少将)。
・第10師団(磯崎廉介中将、参謀長梅村篤郎大佐(姫路))、歩兵第38旅団(田崎栄次郎少将、3月1日瀬谷啓少将と交代)、歩兵第8旅団(長瀬武平少将)。
・独立混成第5旅団(秦雅尚中将)。混成第3旅団(田村元一少将)。混成第13旅団(吉沢忠勇少将)。
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●航空兵団
(徳川好敏中将)
・第1飛行団(儀峨徹二少将、3月9日寺倉省三少将と交代)。
・第3飛行団(値賀忠治少将)。
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「★昭和13年記インデックス」  「★南京戦インデックス」をご参照下さい
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2009年12月12日土曜日

昭和13年(1938)3月 スペインのフランコ軍、アラゴンへ大攻勢、共和国側の戦線崩壊 イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃 

1936年7月のフランコ叛乱軍蜂起以来19ヶ月、共和国側は危機に直面している。
ドイツ、イタリアは空軍部隊などを投入。イギリス、フランスは不干渉政策を維持。
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昭和13年(1938)3月9日
アラゴンに対するフランコ軍の大攻撃「電撃作戦」。共和国側の戦線崩壊。

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攻撃軍の指揮はダビラ、ビゴンが副指揮官。ソルチャーガ、モスカルド、ヤグエ、アランダ、ベルティ(イタリアの将軍)が各軍団を指揮、ガルシア・エスカメスとガルシア・バリーニョ率いる各師団が予備軍を構成。
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9日、一斉砲爆撃の後、攻撃が開始される。共和国の最精鋭部隊も、テルエル以後は疲労し、物資は使い果され、兵の半分がライフル銃さえ持たずに戦場に赴く有様。
初日に、アラゴン戦線は数地点を突破される。ヤグエは、エプロ河右岸沿いに下流へ進撃。
10日、ソルチャーガのナバーラ部隊がベルチーテを征服。
第15国際旅団は、死の町ベルチーテから最後に脱出。この時、アメリカ人メリマン少佐と旅団付人民委員ドーランが戦死。英国人マルカム・ダンパーがメリマンの、ジョニイ・ゲイツ(24、鉄鋼労働組合指導者)がドーランの後を継ぐ。ミルトン・ウォルフ(ブルックリンの美学専攻の学生)はリンカン大隊の指揮を受け継ぐ。
英国人大隊の人民委員ウォーリイ・タブセル(共産党批判者)も、ベルチーテ周辺で殺されるが、彼は背中を撃たれたと云われる。
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ベルティ塵下のイタリア兵は、ルディーリャで抵抗に遭遇するものの、黒矢部隊を先頭に戦線を突破。ロホは防御の中心をカスベに決め、そこに国際義勇軍旅団の全部が集結。しかしこの間にも、イタリア軍が隣のアルカニュイスに接近。共和国部隊の敗走は決定的なものに思われる。
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同じく9日、ファランへ党の労働憲章が発布。
労働時間と労働条件が規制され、最低賃金が保証され、これに社会保険、家族手当、有給休暇が増加される。農業労働者の貸金は引上げられ、農民の各家族には、基本的な必要を満たすに十分な一定区画の土地が与えられる。小作農民は、立ち退き強制に対し保護を受ける。
しかし、これらの殆どは単なる抱負にとどまる。
憲章で完全に適用された唯一の項目は、私有財産の尊重を規定したものと、生産を撹乱する行為を叛逆罪と見做すという脅し。
国内の経済生活は、「垂直的」シンディケートという組織によって統制され、その役員は全てファランへ党員とされる。そして彼らが、各地域の地方共同団体、農業、船舶、商工業、公共国民施設、文化の5つの全国的会議所へ、そして最終的には、1つの組合国家会議へ上ってゆくハイラーキイに指図を与えることになる。
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更に、4月、新聞法が発布され、国家が新聞の全機構の支配権を掌握。
登録された新聞と雑誌だけが発行を許され、登録したジャーナリストだけが、この仕事に従事することを許可される。
既に迎合的になっていた新聞記者は、さまざまな等級のジャーナリストに分けられた正規の最低俸給表を見ても抗議もなくこの法律を受け入れる。
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3月14日
・フランス、第2次ブルム内閣の新外相ポール・ボンクール(穏健派)、チェコ駐パリ大使を呼びフランスはチェコとの同盟条約から生じる諸義務を履行する言質を与える。
又、ピレネー山脈越しにスペイン共和国への兵器密輸を黙認
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この頃、パリではドイツとの戦争は不可避と思われている。
マシグリ外務省政治局長も対スペイン不干渉は茶番と公言し、コメール外務省情報局長は、「我々はオーストリアのうらみをスペインではらすだろう」とも発言。
15日、フランス国防委員会の会合で、ブルム首相はフランコに対する最後通牒を提案。内容は、「二十四時間以内に貴下が外国部隊の支持を放棄しないならば、フランスは・・・フランスにとって有益だと思われる、あらゆる介入手段を用いる権利を留保するものである。」というもの。
しかし、国防軍参謀総長ガムラン将軍は、参謀本部はフランス南西部に対し別個の動員計画を持たないと指摘。
ダラディエは、スペインへの直接介入は世界戦争を惹起すると主張。外務省主任書記官レジェは、介入は必ずドイツ、イタリアの開戦理由となり、イギリスはフランスの政策から遊離するであろうと批評。
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3月15日
・バルセロナでネグリン首相に反対する閣僚追放要求。国防相ブリエトを攻撃。
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3月16日
イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃
サラマンカ駐在ドイツ大使シュトーラーは、爆撃の効果は「恐るべきもの」で、「市内のあらゆる地域が影響をうけ、軍事目標をねらったという証拠は全くなかった」と述べる。
夜10時頃の第1回目空襲は、ハインケル水上飛行機6機が、上空400mを時速80マイルで横断。その後、18日午後3時まで、3時間間隔で17回の空襲があり、約1,300が死亡、2千人が負傷。
チアノは、空襲指令はムッソリーニから直接与えられ、「フランコはそれについて何も知っていない」という。
19日、フランコは、「海外での紛糾」を恐れ空襲停止を要求。しかし、ムッソリーニは、かつての彼の将軍ドウエットと同様、飛行機のもたらす恐怖によって戦争に勝てるとの考えを変えていない。
ロンドンでは、いくつか抗議集会が開かれ、ジョージ・パーカーは詩「スぺインのためのエレジー」を発表。コーデル・ハルは、「合衆国の全国民を代表して」嫌悪の念を表明。
しかし、共和国各都市に対する無差別爆撃は、戦争終結まで続く。
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3月17日
・フランコ軍がアラゴンのカスペを陥落。
16日、フランコ軍のバロン、ムニョス・グランデス、パウティスタ・サンチェス指揮の3個師団がカスぺを包囲。南部では、アランダが共和国戦線を突破し、モンタルパンを占領。17日、国際義勇軍各旅団が奮戦するもカスぺが陥落。英国人大隊指揮官サム・ワイルドらは、捕虜になるところを危うく逃がれる。
フランコ軍は、アラゴン進出8日間で東100kmに進み、エプロとグァダルーぺ河畔で再編成の為の休息をとる。攻勢再開は22日。
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3月22日
・フランコ軍がアラゴンへの攻勢を再開。サラゴーサ、ウエスカ、ビーナなど革命的な村々が陥落。
フランコ軍のソルチャーガとモスカルド両将軍は、ウェスカ~サラゴーサの150kmの戦線で5つの攻撃を開始、ウェスカ、タルディエンタ、アルクピエーレが陥落。翌日、ヤグニはエプロ河を渡河しピーナを占領。アラゴンの全ての村々が陥落。
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3月25日
・アラゴンを制圧したフランコ軍は、カタロニアへ侵攻するが難渋する。
しかし、南アラゴンではフランコ軍は地中海への進撃を準備(共和国を分断する作戦)。
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25日、フランコ軍のヤグエがフラーガを奪取し、カタロニアに侵攻するが、レリダでは共和国軍エル・カンぺシーノ師団が、1週間に亘り抵抗。北方では、モスカルドがパルバストロに入り、更に北ではソルチャーガの部隊が、ピレネー山脈の谷あいで共和国砲兵隊や飛行機のたやすい攻撃目標となり行動の自由を失う。
南方では、アランダ、ガルシア・エスカメス、ベルティ、ガルシア・バリーニョが、空軍力の援護のもとに南アラゴンの高原を突進し地中海への進撃を準備。ドイツは、歩兵掩護の為の戦闘機利用について多くを学ぶ。
バルセロナのネグリン政府では、国防相ブリエトとそれに影響をうけた外相ヒラールの敗北主義的言動が目立つようになる。
4月6日に内閣改造。
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1938年3月~7月のスペイン戦線
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2009年12月6日日曜日

昭和13年(1938)3月13日 ドイツ、オーストリアを併合

昭和13年(1938)3月13日 ドイツ、オーストリアを併合
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この日、オーストリア新首相アルトゥール・ザイス・インクボルト(ナチス)がドイツとの合邦宣言。
オーストリアのユダヤ人と反ナチス勢力への迫害始まる。
財閥当主ルイス・ロスチャイルド、ナチスによるユダヤ人狩りで捕われる。
4月10日の国民投票、投票者の99.75%がドイツとの併合に賛成表明。
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1月6日にはジークムント・フロイトは、イギリスに亡命(1939年9月23日、没)。
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■ヒトラーによるオーストリア強奪の道のり
1936年7月、ヒトラーはドイツ参謀本部に対しオーストリア占領の為の軍事計画立案(「ケース・オットー」)を命令。
更に、1937年11月5日、ヒトラーは彼の将来計画を3軍司令官に打ち明ける。東ヨーロッパ(ポーランド、白ロシア、ウクライナ)に「生活圏」を持つこと、その為には大きな戦争を覚悟せねばならない、またその為にこれらの地域の住民を絶滅することになるだろうという。
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一方、ナチ党オーストリア支部によるドルフュス首相暗殺以来、ナチ党によるオーストリア政府破壊工作は継続されている。
オーストリア政府と親密な関係を維持し、オーストリアのナチ党を合法的団体として政府に公認させるよう訓令を受けている駐オーストリア大使パーペンはオーストリアの政治機構内部で工作を続け、多数のオーストリアの著名人は、彼の圧力と陰謀に屈している。
ウィーンの観光事業は情勢不安によって妨げられ、テロリストの暗躍と爆弾による暴力行為がオーストリアの生命を脅かしている。
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ヒトラーは、この年1月~2月、ドイツ外務省・国防軍首脳で大幅な人事異動を敢行。戦争政策の反対者の多くが失脚。
ついで、1月末、自身の結婚問題(元街娼と結婚)で将校団の支持を失った陸相ブロンベルクを退け、次に1938年2月4日、陸軍司令官フリッチュを罷免し、自ら軍の最高指揮権を掌握。但し、フリッチュへの陰謀により国防軍内に反ヒトラーグループが結成される。
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そして、2月12日、ヒトラーはオーストリア首相フォン・シュンュニクをベルヒテスガーデンに呼びつけ脅迫。外相グイド・シュミットを伴ったシュシュニクはヒトラーに屈する
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この日午前11時、ヒトラーはオーストリアの国境防備問題を取り上げ、戦争か平和かの選択を脅迫。
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ヒトラー
「私はただ命令を下せばいいのだ。そして、一夜にして国境を守る笑うべき案山子どもは、すべて消え去るであろう。貴下は半時間も私を支え得るとは、本気で思ってはいまい。・・・一夜明ければ恐らく私は突然ウィーンにはいっているだろう。・・・そうなって貴下は、はじめて事態の重大さを経験するだろう。私はオーストリアをそんな目に会わせたくない。そうなればそれは多数の犠牲者を出すだろう。軍隊の後から突撃隊が、そしてさらに軍隊がつづくだろう!・・・貴下はオーストリアを第二のスペインにしたいのですか?・・・」
シュシュニク
「私は必要な調査をして、ドイツ国境に沿う一切の防備施設の構築を停止させましょう。貴下がオーストリアに進入できることを、もちろん私は知っています。しかし総統閣下、われわれが望むと否とにかかわらず、それは流血につながるものとなるでしょう。われわれは世界で孤立しているのではないのです。それは恐らく戦争を意味するものです」
ヒトラー
「・・・この背後にあるものは、苦痛と流血だけです。貴下はそれに対する責任を負いますか、シュシュニクさん?世界じゅうでだれか私の決心を妨げる者がいるなどと考えてはいけませんよ!・・・」。
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その後、形式的な昼食の後、リッペントロップとパーペンから最後通牒を示される。
条件は、①オーストリア・ナチ党のザイスインクワルトをオーストリア政府治安相に任命すること、
②拘禁中の全オーストリア.ナチ党員の大赦、
③政府の作った祖国戦線の中に、オーストリア・ナチ党を正式に編入することなど。
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その後、ヒトラーはオーストリア首相と会見。
ヒトラーは、「繰り返して言うが、これは本当に最後のチャンスである。三日以内にこの協定が実行されることを期待する」と述べる。
午後11時、シュシュニクは「議定書」に署名。
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2月18日、オーストリアの内閣改造。シュシュニク首相、ザイス・インクボルト(オーストリア・ナチス指導者)を内相兼警察長官に任命。
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2月19日、拘留中のナチス党員が釈放される。ヒトラー、ナチスの活動の自由拡大を認めさせる。
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2月24日、シュシュニクの議会演説。ドイツとの協定を歓迎する一方で、オーストリアの独立を強調し特別の条件以上には絶対に踏み出ないと述べる。
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3月3日、シュシュニクはローマ駐在オーストリア陸軍武官を通じムッソリーニに対し、国内での政治的地位強化のため国民投票を行なう意志があると秘密裡に通知する。
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翌3月4日、ムッソリーニは、情勢は好転するだろう、間もなくローマとロンドン間に緊張緩和が訪れ、これが現在の圧力を軽くすると保証するが、国民投票については、「それは間違っている。もし結果が満足であっても、国民はそれを正しいものだと言わないだろう。もし結果が悪ければ、政府は窮地に陥るだろう。そしてもし結果がどっちつかずであれば、全くむだなことである」と警告。
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しかし、3月9日、シュシュニクは13日(次の日曜日)に国民投票を行なうと公表。
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3月11日朝5時半、シュシュニクはウィーンの警察本部から、「ザルツブルクのドイツ国境は一時間前に閉鎖された。ドイツの税関吏は引き揚げた。鉄道の連絡は遮断された」との電話を受ける。
続いてミュンヘンの総領事から、同地のドイツ軍団の動員、想定目的地はオーストリアであると連絡が入る。
更に朝遅く、内相ザイス・インクワルト(オーストリア・ナチス指導者、2月18日内相就任)がやって来て、ゲーリング元帥から電話があり、1時間以内で国民投票を取り消すよう命令があり、その時間内に返事がなければ、ザイス・インクワルトが電話を妨害されたと見なし、相応の行動を起こすという、と伝える。
シュシュニクは、警察と軍隊は頼りにならぬと報告されていたので、ザイス・インクワルトに国民投票延期を伝える。
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その15分後、ザイス・インクワルトはゲーリングからの返事のメモをシュシュニクに渡す。
「事態は、首相が即時辞職し、二時間以内にザイス・インクワルト博士が首相に任命された場合にのみ救われる。もしこの時間内に何事もなされなければ、ドイツ軍のオーストリア侵入がつづくであろう」という。
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シュシュニクは辞表提出の為ミクラス大統領を訪ねると、この時、イタリア政府は何の助言もできないと通知が入る。内相アルトゥール・ザイス・インクボルトが首相に就任。
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3月11日、ヒトラーはオーストリア軍事占領命令を発令、「オットー」作戦が開始される。
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この日、オーストリアのミクラス大統領は、ザイス・インクワルトやオーストリア・ナチ指導者たちと終日戦う。
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ヒトラーとムッソリーニへの特使フィリップ・オブ・ヘッセ公との電話の内容(ニュールンベルク裁判の証拠資料)。
ヘッセ
「・・・ムッソリーニは、すべてを非常に好意的に受け入れました。・・・彼はオーストリアから情報を得ていました。フォン・シュシュニクが情報を知らせたのです。そのとき彼は、それ(イタリアの干渉)は全然不可能であり、それは虚勢であり、そのようなことはできるものではない、と言いました。そこで彼(シュシュニク)は、不幸にしてこのように取り極められたのだが、もうそれを変更することはできないと告げられました。それからムッソリーニほしオーストリアは自分には重要なものほないと言いました。」
ヒトラー
「それじゃ、どうかムッソリーニに、私はこのことについては決して彼を忘れないと伝えてくれ給え。」・・・
「断じて、断じて、断じて何事が撃しろうとも、私はまだ彼と全く別の協定を結ぶ用意がある。」・・・
「オーストリア問題が片づき次第、万難を排して彼と行動を共にするーーどんなことがあっても。」・・・
「・・・私はどんな協定でもする。・・・どうか彼に伝えてもらいたいーー私が彼に非常に感謝しているということを。・・・」・・・
「どんなことが起ころうとも、私は決して忘れない。もし彼が援助を必要とするか、あるいは危険に陥った場合でも、どんなことが万一起ころうとも、たとえ全世界が彼の敵になっても、私は絶対に彼から離れないと信じてよい。」
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3月12日(土曜)夜、ウィーンのナチ党は、ヒトラーを迎える炬火行列を計画するが、戦車の故障のためドイツ軍はリンツ付近で立ち往生し、この時点で一兵も到着できず。リンツ~ウィーン間は立往生の重装備車で塞がれてしまう。
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この夜、ウィーンだけでも6万4千人がナチスにより逮捕される。
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ヒトラー自身は自動車でリンツを通り、交通混雑を見て激怒。軽戦車だけは混乱から離脱して翌日曜朝早く、離れ離れでウィーンに辿り着き、装甲車と機械化重砲は貨物列車に積み込まれ入城式にやっと間に合う時間に到着。
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ヒトラーは、将軍たちを叱るが、将軍たちはヒトラーが罷免された総司令官フォン・フリッチュ将軍の言葉に耳を傾けなかったこと、ドイツは未だ大戦争を遂行する状態にないという将軍の警告を聞かなかったことを想起させる。
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3月13日(日曜日)、公式式典と閲兵式。この日、多数のドイツ部隊とオーストリア・ナチ党員がウィーンを占領し、ヒトラーはオーストリア共和国消滅とその領土のドイツ帝国への併合を宣言。
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3月18日、ソ連はドイツによって重大な脅威を受けた場合、国際連盟の枠内で仏・ソ条約を履行する方法と手段をの協議を求めるが、フランスやイギリスはこの提案に冷淡。
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2009年11月14日土曜日

昭和13年(1938)3月1日~7日 要注意執筆者リスト作成 石川達三「生きてゐる兵隊」頒布禁止 第3次モスクワ裁判 「黙れ」事件 第3次改正朝鮮教育令 華北平定作戦、ほぼ終了 

昭和13年(1938)
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3月
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日付なし
・「日満支鉄鋼増産計画」、立案。
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・今村均、中将昇進。
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・内務省警視局図書課、要注意執筆者リスト作成(岡邦雄・戸坂潤・宮本百合子・中野重治・林要・鈴木安蔵・堀真琴の7名)。雑誌出版各社に掲載の自粛を求める。都下の約30の代表的出版社の編集関係者を集めた「出版懇話会」の席上。
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・大阪憲兵隊の特高課長、大阪のキリスト教牧師達に、天皇とキリスト教の神との関係、勅語とバイブル、神社参拝などにつき12項目の質問状を発して回答を求める。
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・日銀引受けによる赤字公債発行の増加により、日銀は日銀券発行限定を拡大する措置をとる。
この月、正貨準備によらない保証準備発行限度を、従来の10億円から17億円に、11月には22億円に拡大。インフレを惹起。
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小林秀雄(35)、「野上豊一郎の「翻訳論」」(「東京堂月報」)、「雑記(今月は「知識階級は・・・)」(「文学界」)。 「文藝春秋」特派員として中国へ渡る
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・「新聞匿名月評-死刑宣告の新聞」(「文藝春秋」3月号。総動員法に対する新聞の態度を批判。
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「新聞は頗る不明瞭な態度をとった。肯綮に値する社説等を開陳するでもなし、反対論の焦点を衝くでもなし、例によって他力本願、ニュース本位・・・果たして悪法なりとすれば、社会の木鐸ならば率先警鐘を乱打、義勇消防隊として花々しく現場へ馳せ参ずべきものとす。それが出来ないのは、現代新聞の一大悲哀といわねばならぬ。徒に時流に媚び、奥歯に物のはさまったような、観測しか下し得ない」
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・石川達三「生きてゐる兵隊」(「中央公論」3月号)、新聞紙法違反で2月28日発売と同時に頒布禁止処分。
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37年12月の南京攻略戦に中央公論特派員として従軍。石川と雨宮編集長は警視庁に連行、8月4日起訴、9月5日、東京区裁判所、石川と編集人雨宮庸蔵に禁固4ヶ月(執行猶予3年)、発行人牧野武夫に罰金400円。雨宮は退社し、昭和14年5月より国民学術協会主事となる。
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作品は、ある小隊の兵数人を登場させるフィクションの体裁をとるが、第16師団の行動と一致点が多く、実質的にはノンフィクションである。
作者は執筆動機は、「戦争というものの真実を国民に知らせること」にあったと法廷で述べ、判事が「日本軍人に対する信頼を傷つける結果にならぬか」と質すと、「それを傷つけようと思ったのです」と答える。
勇敢・温情の西沢連隊長が、「数千の捕虜をみなごろしにするだけの決断を持っていた」とか、南京城内掃蕩戦で「本当の兵隊だけを処分することは次第に困難になって来た」とか、兵士たちの暴行が、軍上層の黙認ないし奨励のもとに成りたっていることを示唆している。
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なぜか陸軍は石川に対して寛容で、保釈中に、石川が武漢作戦への従軍を願い出ると、陸軍省報道部はこれを許可、その成果である「武漢作戦」は、「中央公論」14年1月号に掲載。
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・萩原朔太郎「日本への回帰」
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・映画「阿部一族」(東宝、熊谷久虎)、映画「泣虫小僧」(東京発声、豊田四郎)上映。
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・オーストリアでドイツのライヒスマルクが法定通貨となり、オーストリア中央銀行はライヒスバンクに接収される。
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月初め
・スペイン、アサーニャ大統領、閣議招集。バルセロナのフランス大使に促され和平交渉提案。左翼諸党は激しく反撥。
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3月1日
・中華民族解放行動委員会(通称第3党)、漢口で第3次臨時代表大会を開く。
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3月1日
・中国連合準備銀行に対する日本銀行団の1億円借款、基本契約調印(決定は3月7日)。
満州国政府代表青木経済部金融司長と、満鉄国債引き受けシンジケート団代表興銀上山理事による。10日、中国連合準備銀行、開業。
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3月1日
・参謀本部河辺作戦課長、更迭。陸軍省軍務局軍事課高級課員稲田正純中佐に交代。
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稲田中佐の新しい作戦指導要綱。
徐州・漢口・広東への進攻作戦により中国軍主力を撃退し、傀儡政権育成と和平工作強化を進めるというもの。軍事的拡大を土台にして和平の為の新たな舞台を作り、日中戦争の早期解決を図るもの。稲田は、自らこれを「積極作戦という逆手」と称す。
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3月1日
・綿糸配給統制規則公布。最初の配給切符制
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3月1日
・京都の市内タクシーがメーター制を採用。/11月全国で実施。
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3月1日
・日本銀行、北京駐在参事・上海駐在参事を設置。
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3月2日
・国民健康保険法案、貴族院を通過。
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3月2日
・ソ連で第3次モスクワ裁判。~13日。
計18人。ブハーリン、ルイコフ、ヤーゴダ処刑(~3月15日)。ラコフスキー禁錮。
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3月2日
・ドイツ、ニーメラー牧師の裁判終結。ザクセンハウゼン強制収容所送りとなる。
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3月3日
「黙れ」事件
下記をご参照下さい(1)(2)
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3月4日
・朝鮮、第3次改正朝鮮教育令公布。
普通学校・高等普通学校・女子高等普通学校を廃止し内地同様の学校体系に一本化。朝鮮語の授業が必修から選択(随意科目=事実上廃止)になる。
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3月4日
・陸軍省副官通達。軍慰安所従業婦等募集に関する件(慰安婦募集につき憲兵・警察との連携指示)。陸軍省関与の証明
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3月5日
・排日運動が再燃し不穏な情勢の威海衛に、陸戦隊が上陸。11日、平静になるが、12日以降数回にわたりゲリラが来襲。
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3月5日
華北平定作戦、ほぼ終了
第5師団片野支隊、湯頭鎮を占領。6日、第20師団、禹門・蒲州を占領。第14師団石黒支隊、曲沃を攻略。7日、第20師団金岡快速部隊、匳河に進出、黄河対岸の潼関(陝西省の東端)砲撃を開始。8日、第14師団酒井支隊、平陸・丙城を攻略。黄河北岸を平定。第2軍、第10師団瀬谷支隊に南進を下命。
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掃蕩作戦は3月初旬には終わるが、第2軍は第10師団に対し、占領地を越え腠県南方まで中国軍を追撃するよう指示。台児荘~徐州への道を開く
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3月5日
・満鉄、華北全線鉄道管理開始。
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3月5日
・駐蒙憲兵隊編成。
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3月5日
・庭野日教、霊友会から別れて大日本立正佼正会開教
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3月6日
・朝日新聞社、「皇紀二千六百年記念行事」として「日本青年道場建設」構想を打ち出す。
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橿原神宮外苑に体育施設・国史資料館・宿舎を建設。朝日は、資金集め・「建国奉仕隊」(工事の手伝い)を呼びかけ。この年10月23日、奉仕隊1万人を動員、上野社長以下朝日社員約400が加わり作業。奉仕隊は、全国から507日間に121万人以上に達したという。
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3月7日
・商工省、石油販売取締規則公布。5月1日よりガソリン等切符販売制
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2009年11月1日日曜日

昭和13年(1938)3月3日 「黙れ」事件(2) 佐藤賢了の戦後の言い訳

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今回は、当事者佐藤賢了の戦後における言い訳について。
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■佐藤賢了(明治28年~昭和50年):
石川県出身。大正6年陸軍士官学校卒業、砲兵少尉任官。14年陸軍大学卒業、約3年間アメリカ駐在。その後、軍務局国内班長、新聞班長。「黙れ事件」後、17年には軍務局長、東條首相の腹心として勢力を振るう。第37師団長としてタイに駐在中に終戦。東京裁判ではA級戦犯として終身禁固刑。31年釈放。
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□佐藤賢了の証言(東京12チャンネル報道部編「証言 私の昭和史」2 昭和44年)。
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「・・・
---法案が議会に提出された時の審議の模様は・・・。
佐藤 まず本会議に出されまして(昭和一三(一九三八)年二月二四日)その時の質問の第一陣に立ったのが牧野良三議員でした。牧野さんは、ジェスチュアたっぷりにですね、違憲論をひっさげて・・・。
---ああ、憲法違反であると。
佐藤 ええ、憲法違反だとして堂々の論陣を張りました。私も思わず拍手しました。
---そうですか。やはりデモクラシーの立場からいえば、憲法違反は当然でしょうねえ。
佐藤 ええ、それは議会の賛成を得なきゃならないことを、政府の命令一本でどしどしやるんですから、これは政府が議会に白紙委任状を出せというものだと、これは当然起る議論であります。それに対して、総理大臣が立ってですね、そしてこの違憲論を堂々と受けて立たれたら、非常によかったと思うのであります。
ところが近衛さんは、少し都合が悪いと出てこない。われわれは「近衛公のメンス」といったものです。大事な時に議場に出ておられないので、そこで滝法制局長が答弁に立とうとすると、「総理大臣が答弁しろ! 国務大臣が出ろ!」というわけで、議場騒然と・・・。
---それは当然でしょうね。
佐藤 ええ、これはもう騒然。だから、政府側としては第一歩からつまずいたわけで、なっちゃいない状態でありました。
・・・
*
---では、「黙れ!」の模様を伺うことにいたしましょう。その前後のことを、かいつまんでお話しいただけませんか。
佐藤 ちょうど今ごろのように、ぽかぽかと春を身近に感じまして、委員の出席も少ないし、政府側の代表の役目を務める塩野司法大臣のごときは、こっくりこっくり舟をこいでおる時にですね、板野友造議員(政友)が立って、「この法案は、若い官僚や軍人達の作ったもので、大臣はわかっちゃいないんだ。だから、だれでもいい、わかっている人が出て説明してくれ」といった。議員の方からだれでもいいから説明せよというんですから、これは私にとっては”渡りに舟”で、そこでバネ仕掛けの人形のようにとび立って、説明に出たわけなんです。
---どのくらい説明されました。
佐藤 三〇分くらいやったです。今までは空理空論でさっぱり本論に入らないんで、私は実務を例に引いて、まあ私の口からいうのもおかしいが、とうとうとやったですな。とにかく三〇分も説明員の説明を、議員が黙って聞くというようなことは、めったにないことなんです。
ところがそこへ、やにわにですね、宮脇長吉議員(政友)が立って、「委委員長、この者にどこまで答弁させるんですか」ということをいわれたんで、そこで私は「やめろとおっしゃるなら、やめます。続けろとおっしゃるなら、続けます」というて、私は神妙に自分の席へ帰ったんです。そうすると、「説明を続けさせようか、やめさせようか」と小川郷太郎季員長は委員会にはかったわけです。
そしたら、「やらせ! やらせ!」というわけで、社会大衆党の人達までも大いに声援してくれたように記憶しています。それで小川委員長から「続けろ」といわれましたので、私が立って、再びその説明を始めますと、また宮脇議員が立ってガナリたてた。そこで思わず「黙れ! 長吉」といおうとしたのを場所がらを考えて、「長吉」の二字は飲みこんだようなわけで。
---結局、「黙れ!」って。
佐藤 「黙れ!」だけ。
---なるほど。しかし相当、興奮されたんでしょう。
・・・
その説明員にね、「黙れ」といわれた時の議場内の模様はいかがでしたですか。
佐藤 議場は、もう大混乱です。
・・・
*
---どうですか、その時のお気持は。今、振り返ってごらんになって。
佐藤 若気の至りで、まことに申しわけないと思っております。
---で、やはり多少は謹慎されましたか。
佐藤 ええ、自発的に登院停止をいたしまして、謹慎しておりました。
---直接のおしかりというものはなかったんですか。
佐藤 いや、おしかりはなかったですね。(・・・)      」(聞き手 三国一朗)
*
*
*
□佐藤賢了の証言(「総動員法問答事件」(「昭和の35大事件」文藝春秋臨時増刊昭和30年8月5日発行))。
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「・・・
総動員法案の紛糾が予想されたので、近衛首相に、成る可く此の法案の審議に出席せぬよう進言した人があったと云う事である。
・・・
だから総動員法案が本会議に上程された際近衛首相は出席して居なかった。質問の第一陣に立ったのは牧野良三議員である。
・・・
・・・肝腎の首相が居らず、広田外相が代って立ち、事は憲法上の重大問題だから、法制局長官をして答弁せしめる旨を答えたから、議場はおさまる筈が無い。忽ち混乱に陥り、休会が宣せられた。
・・・
議場に在った私も大に政府の不誠意に憤慨した。而も政府は爾後の審議に当り、総動員法案は法律問題であるからと云うので、塩野司法大臣を質問の矢面に立てた。
・・・
其後も政府側は押され勝ちで、議会側の反対気勢は日に日に昂まった。
*
・・・委員会の総動員法案審議は、本会議における政府側の不手際に引き続いて、反対論は議場を圧するものがあった。
反対論の主なるものは本会議以来の違憲論と、本法は国民を犬猫同様に扱わんとするもので、日本人の忠誠心を無視するものだといったような類で、水掛論的悪口であったが、政府の不用意な答弁から法の実質に触れるやっかいな問題がおこった。
政府は、反対気勢を緩和する意味で、本法は支那事変に発動する意志は無く、さらに大なる戦争を予想して準備のために制定するものだとの意味の答弁をした。
私(佐藤)は直ちに滝法制局長官に、
『あんな答弁をしては困る。現在の情勢でも一部の発動は予期されるし、将来大戦争がおこらんでも、支那事変だけでも全面発動の必要がおこるかも知れぬから、答弁を訂正してもらいたい』とネジ込んだ。
君、法案が通りさえすれば、必要がおこれば何時でも発動すりゃいいんだよ。答弁なんかに拘泥する必要はない。通しさえすればそれでいいんだ
・・・
*
日は忘れたが二月末の或日板野議員が実施規定削除論を強調した後、
「此の法案は若い軍人や官僚達の起案したもので、政府諸公は分っちゃ居ないから、適切な答弁が出来ないのであろう。誰でもよいからに分った人が説明して呉れ。」と云った。之に応じて私はバネ仕掛けの人形のように立ち上った。
私は当時陸軍省軍務課の政策班長で中佐であり、政府委員の資格が与えられて居らず、説明員であった。説明員は議員の質問に応じて自ら進んで答弁の資格を有せず、国務大臣や政府委員の指示に依り、且つ委員会の同意があって始めて或る限定された事項の説明が出来るだけであった。
・・・
*
・・・私は実務を例証しっつ滔々(?)と説いた。・・・議員もよく傾聴して呉れた。三十分近く長広舌を振って、愈々問題の核心に這入ろうとした時、宮脇長吉議員が立って、
「委員長ッ此の説明員に何処まで発言を許すのか」と喰ってかかった。私は、
「誰でもよいから脱明して呉れとの要請に応じて説明して居るが、止めろと云うなら止めます」と述べた。
小川郷太郎委員長は説明を継続さすべきや否やを委員会にはかったところ、殆んど全員が継続に一致したので、委員長の指示に依り私は説明を再開した。
すると宮脇氏が更に立ち上って、私の発言を妨害したので、勘忍袋の緒が切れ、
「黙れ長吉ッ」
とドナリツケた。但し場所柄に気が附き、「長吉ッ」だけは辛うじて呑み込んだ。
委員会は混乱し、休憩が宣せられた。
私は杉山陸軍大臣に叱られ、また塩野司法大臣(其時の委員会出席大臣)に御詫びして、爾後自発的に登院を遠慮した。此の事件の後法案の審議は極めて順調に進み、成立した。だから、総動員法の成立には怪我の功名とも謂われた。
・・・
*
・・・宮脇氏は私が士官学校の生徒の時工兵の区隊長であった。
あの時宮脇氏が私の発言を妨害したのには理由がある。私が初からウッセキして居った不平不満をプチマケたから、説明と云うよりも寧ろ大声叱咤するが如くであったそうだから、宮脇氏が「小僧生意気だッ」と思ったのも無理は無かった。・・・」
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*
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□前回取り上げた「国民新聞」記者木道茂久の証言
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「決して偶発的な失言などではなく、倣慢無礼な佐藤の一言は陸軍の政治上の態度を端的に表現したもの」
「佐藤は単に一説明員に過ぎないのに、その態度は倣慢不遜、政党などあたまからなめてかかったような口吻、あたかも小学校の先生が頭ごなしにものわかりのわるい生徒を教えるような態度であった。質問者の宮脇長吉(政友会)、板野友造(同)らの間から『そんなことはわかっている。われわれは君の説明を聞きにきたのではない。やめろ、やめろ』と中止を求めた。佐藤は耳を貸さず、強引に説明を続けた。委員会は騒然として、宮脇は立ち上がって委員長に説明のストップを要求した。腹を立てた佐藤は『黙れー!』と叫んで、委員会は大混乱に陥った。顔面蒼白となった佐藤はいつの間にか退席した」
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宮脇長吉議員というのは、先ごろ亡くなられた鉄道作家宮脇俊三さんのお父さんだということです。
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2009年10月25日日曜日

昭和13年(1938)3月3日 「黙れ」事件(1)

シリーズ「南京戦」を昭和13年2月末の記述で終えました。
続きは、「昭和13年記」「昭和14年記」・・・という具合に続けて行こうかというのが、現在の気持です。
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昭和13年記の第一回は、3月からの「年表」入る前に、いわゆる「黙れ」事件について書きます。
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昭和13年3月3日、国家総動員法委員会審議の場で、陸軍省軍務局課員佐藤了賢中佐が、説明員にも拘らず法の精神や自分の確信を説き、30分に亘り討議。これに対し、制止するようヤジがとび、宮脇長吉議員に対し、「黙れ」と怒鳴る。翌4日、杉山陸相の陳謝、本人処分はなしで決着を見る。
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今回は、昭和13年3月からの「年表」入る前に、この「黙れ」事件について。
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●国家総動員法のこれまでの経緯
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昭和12年6月4日に第1次近衛内閣が成立。
1ヶ月後には盧溝橋で戦端が開かれ、現地軍の独走により戦線は拡大。
昭和12年9月の臨時議会に対し、陸軍の要望に応え国家総動員法提出の動きがあるが、近衛は、軍需工業動員法発動と3つの戦時統制法だけに抑える。
その後、近衛は陸軍の要望を抑えることができなくなり、12年11月9日、国家総動員法立案着手の内閣訓令を発す。
「いよいよ国民精神を昂揚して、国力発揮の源泉を振作するとともに、生産力の拡充、需給の調節、配給の適正、国際収支の均衡をはかり、依ってもって総合国力の拡充運用に違算なきを期するため、政府は企画院をして国家総動員の中枢たらしめ、当面の事変に対処するとともに、事変後における国力の飛躍的増進に備えんとするものである。当務者は政府の意を体し、それぞれ努力すべし」
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こうして、企画院(総裁滝正雄、次長青木一男を)は、陸軍の圧力の下に、秘密のうちに立案を進め、1月下旬、成案。
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概要は、戦時事変に際し国防目的達成のために、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう、人的及び物的資源を統制運用せんとするもの。
統制の及ぶ総動員物資には、兵器、艦艇、弾薬その他直接軍用物資、被服食糧、飲料、医薬品、医療機械器具、その他の衛生用物資、船舶、航空機、車両、馬その他の輸送用物資、一切の通信用物資、土木建築用及び照明用物資、燃料及び電力が含まれ、更にこれらの物資の生産、修理、配給、保存に必要な一切の物資、その他勅令をもって指定する総動員必要物資にわたる。
また統制をうける総動員業務には、上記の総動員物資の生産、修理、配給、輸出入保管についての業務をはじめ、総動員に必要な運輸、通信、金融、衛生、救護、教育、訓練、試験、研究、情報、啓発宣伝、警備、及び勅令をもって指定する一切の業務に及び、その上、国民徴用、労働及び労働条件、労働争議の統制、輸出入統制、会社設立及び経営の一切についての統制、さらに新聞紙その他出版物の統制、集会の禁止、教育研究の統制に及び、これに違反する者には罰則をもってのぞむというもの。
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第2次近衛内閣の企画院総裁星野直樹は、総動員法を評して
「統制法規として世界に類例のない徹底したものだ、この法律で何と何が統制できるかと考えるよりも、この法律で統制できないものがあるなら、それをさがした方がはるかに早いだろう」という。
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また、元老西園寺公望は、原田熊男に対し、「この法案が憲法無視の悪法であることは明らかである、こんなものは通過しない方がよい」と厳しく語る。
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●この頃の政党の状況。
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①政友会:
前総裁鈴木喜三郎没後、後任を決められず、代行委員4人(鳩山一郎、前田米蔵、中島知久平、島田俊雄)が運営。
前田・中島は、早くから親軍的傾向を示し、民政党の永井柳太郎らと呼応して親軍新党工作を進めている。これに久原房之助、秋田清、内田信也、山崎達之輔ら領袖が加担し、更に政友会解党論を唱える東北長老組の東武、山村竹治らもこれと気脈を通じている。
わずかに自由主義の立場から陸軍に反省を試みようとするのは、鳩山一郎らのグループのみ。
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②民政党:
親軍派永井柳太郎が党内勢力を持たず、動揺は政友会ほど深刻ではない。
俵孫一、富田幸次郎らを中心とする常盤会メンバーの政民合同論が有力で、この間にあって、総裁町田忠治は軍部との妥協と政友会との提携をのぞむという日和見主義に終始。
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③無産政党を自称する社会大衆党:
昭和12年5月31日の林内閣による解散に伴う総選挙で36議席を獲得し、その年11月15日の第6回全国大会ではファシズムへの指向を示す新綱領を採択。
社会大衆党は総動員法成立に向けて陸軍に協力する姿勢を示す。
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法案提出に際し、政府は慎重に、予め両院各派に原案を提示し、滝企画院総裁に説明させ、一方、近衛は、内閣参議として閣内にある町田忠治、前田米蔵の両党首脳に両党との斡旋を依頼。
しかし、2月の衆議院委員会では、支那事変に適用しないのなら今にわかに提案する必要がない、委任命令が多いのは憲法に抵触するのではないか、など重要な疑義が提起され、ことに集会禁止、新聞発行停止に関する条項には最も反対が強く、更に本法の発動・適用を官僚に一任するのは危険との非難が起る。
このような状況下、近衛は町田、前田両参議の忠告により、企画院総裁滝正雄、内閣書記官長風見章、法制局長官船田中に法案再検討を命じ、その結果、集会禁止、新聞紙発行停止に関する条項とその罰則を削除し、更に発動適用については両院議員をふくむ総動員審議会という諮問機関の意見を聞くという修正を施し、2月24日、ようやく本会議に上程。
本会議上程にあたっては近衛が提案理由を説明する予定であったが、21日夜から風邪のため発熱したので、外相広田弘毅が代ってこれにあたる。
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●新聞界の反応:
1月26日「読売」が第2夕刊で総動員法の内容をスクープ。第1面の3/4に「国家総動員法要綱、物心両面一切に亘り高度統制原則確立」(7段見出し)と大々的に報じる。
2月8日、新聞の親睦団体「二十一日会」は、帝国ホテルに末次信正内相、富田健治警保局長ら内務省幹部を呼び、国家総動員法の新聞関係について質す。「朝日」は緒方竹虎・野村秀雄、「東京日日」は阿部賢一・高田元三郎、「読売」は柴田勝衛らが出席、他に「国民」「報知」「中外」「同盟」も出席。
「二十一日会」側は、
一、国家総動員法から、新聞、出版関係条項を削除する。
二、これが不可能な場合は根本的な修正を加え、少なくとも二回以上の発禁で発行停止などという非常識な条項を削除する。
などを要求したが、話し合いはもの別れに終わる。
「二十一日会」は、各社2人の実行委員を決め、9日に近衛首相、10日に企画院を訪れて申し入れる。
しかし、先に述べたように正式の提出法案には、「発売、頒布禁止の行政処分を二回以上受けた新聞や出版物は発行停止処分にする」との項目は削除されており、新聞界は胸をなでおろす。
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質問第一陣の斎藤隆夫は、憲法の大精神に違反すると大上段から反撃。
滝や船田が答弁に立つが政党はこれを拒否し、国務大臣の答弁を要求。議場は大混乱となり、議長小山松寿はやむなく休憩を宣言。
政府は院内で閣議を開き、対策を協議し、町田や議長小山らの申し入れもあり、憲法問題については司法大臣塩野季彦が内閣を代表して答弁することになり、議事は再開。
第二陣の牧野良三も、委任勅令違憲論、非常大権干犯論で攻撃、塩野ら国務大臣の答弁はしどろもどろの有様。
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第2日は質問者を制限して本会議を切り抜けるが、2月28日からは45名の委員会の審議に付され形勢は険悪となる。
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3月2日、近衛は病気をおして登院。
この日の質問者は民政党の桜井兵五郎で憲法論によって近衛に迫る。
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桜井:本案は、憲法が最も戒めている立法事項を、極めて広汎にわたって勅令に委任している、これは憲法の大精神に背くものである、このように考えると、どうもその裏に何らかの意図が含まれているのではないかと推測できる。
*
近衛:この法案は、憲法上その他の角度から見て、極めて問題の多い法案であり、できるだけの論議をつくされることを希望する。総動員は国民の協力を必要とするものであり、真に国民がこの総動員を理解しなければ、完全な運用はできないので、真剣に論議することは、この法案に対し国民の真の理解認識を深めしめる上に有効と考える。
国民の権利自由に関する事柄を、広汎にわたって勅令に委任するのは、憲法の精神に反するという指摘について・・・。
「これにつきましては、過日来当局よりしばしばご説明申上げたと存じますが、要するに今後の戦争がどういう形をとって現れるか、また相手の国がどういう国であるかというようなことは、今日より予測することは困難でありまして、これに対してはその時々の事情に応じまして、迅速適切なる処置をとらなくてはならぬと思うのであります。
そういう意味から申しましても、この戦局の千変万化する局面の変化に応ずるがためには、具体的に法律の上にあらかじめこれを規定しておくことは、おそらく不可能ではないか、またあらかじめこれを法律に規定しておくということは、一面から見ますと総動員の計画を外国に知らしめるという結果となります故、かくの如き広汎なる勅令委任の形となったことは、やむをえないのではないかと考えます。
この法律を立案するにあたって、背後に何か恐るべき一種の思想が存在しているかの如きで心配があるように考えます。議会を否認するとか、憲法を無視するとかいう思想が、よこたわっているが如くで心配があるかのようであります。
しかし現代戦争の特質とも申すべき国力と国力の戦い、一国の人的物的資源を動員しましての最大能力を、発揮せしめるということが、ヨーロッパ戦争の当時から各国でみとめられ、我国におきましても総動員法の制定ということは、十数年前から資源局におきまして立案に取りかかっておったのであります。
今日卒然として、一種のファッショ・イデオロギーと申しますか、そういう風潮にのって、突然生まれてきたのではないのであります。
かつこの法律は主として戦争にのみ適用されるので、先日のナチス・ドイツの授権法等をご引例になりまして、色々ご説があったようでありますが、戦時のみ適用されるこの法律は、平時に通用されるナチスの法律とは本質において異なるものであると考えております。
要するに一朝有事の際に、或は緊急勅令とか、或は非常大権の発動によりまして総動員の実施を行うというよりは、あらかじめ大綱だけでも議会の協賛をえて、法律として制定しておくという方が、むしろ立憲の精神にかなうのではないかという風に考えております。
申すまでもなく我国の政治の衝にあたり、この国政の運用を致して参る根本の精神は、どこまでも憲法の条規によって議会を尊重し、あくまでも憲法の範囲内において行って参らなければならぬことは、申すまでもないのであります。」
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近衛の病気をおしての答弁に政友会・民政党側に好感を与え、反対の空気は緩和される。
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「筆者はたまたまこの委員会を傍聴していたので、当時の雰囲気といきさつをいまもなまなましく記憶しているが、あれは決して偶発的な失言などではなく、倣慢無礼な佐藤の一言は、陸軍の政治上の態度を端的に表現したものであり、委員会の空気は当時における軍部ファシズムと、政党内部に残存した自由主義との対立相剋の集中的表現であった。
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委員長は民政党の財政通小川郷太郎であったが、陸軍と政党の対立の間に立って、その立場の苦しさをそのまま表現するような議事さばきであった。
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質問に立っていたのは大阪選出の政友会代議士板野友造であった。この気骨ある自由主義者は政府委員のアイマイな答弁にごまかされず、しっように食いさがった。
板野に代って立ったのは同じ政友会の宮脇長吉であった。宮脇は元蔵相三土忠造の実弟で、海軍将校の出身であるが、その追及は気魄にみちみちたものであった。宮脇の質問に対して答弁に立った佐藤は一説明員であるのに、この態度は倣慢不遜、政党などあたまからなめてかかったような口吻、あたかもものわかりのわるい生徒に小学校の先生が頭ごなしにいいきかせるようなものであった。
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果然、質問者宮脇や板野らの間から、「そんなことはわかっとる、われわれは君の法案説明をききにきたのではない、やめろ、やめろ」という妨害が入った。それでも佐藤は強引にその独善的な説明をつづけた。委員会はますます騒然とし、宮脇は立ちあがって説明を阻止するよう委員長の小川に要求した。こうしてついに佐藤は「だまれ」と叫んで委員会は蜂の巣をついたような混乱におち、蒼白となった佐藤はいつのまにか退席した。
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この間の委員長小川の態度は不見識をきわめ、佐藤や陸相の陳謝をもとめることもなくウヤムヤのうちに散会となってしまった。」(元国民新聞記者・北陸新聞編集局長木道茂久「国家総動員法の製作者」(「人物往来」昭和31年2月))。
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