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2017年1月8日日曜日

長承4/保延元(1135)年 海賊追討使となった平忠盛(40)が海賊を鎮撫し凱旋 その功績により長男清盛(18)が従四位下に叙任 「忠盛朝臣、海賊七十人を虜にし、検非違使に渡す。・・・人皆見物す。日高禅師賊首たり。この中多くはこれ賊にあらず。ただ忠盛の家人にあらざる者を以て、賊虜と号して進むと云々」(「長秋記」8月19日条)

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長承4/保延元(1135)年
この年
・オーストリア最初のシトー派修道院ハイリゲンクロイツ修道院、設立。
バーベンベルク家オーストリア辺境伯レオポルト3世(神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世妹アグネスと結婚、ウィーンの街を獲得)。
962年神聖ローマ皇帝として戴冠したザクセン朝オットー1世は、マジャール人に荒廃させられた帝国南東部の再建と防衛のために、辺境伯領(マルク)を設置。その一つがオーストリア辺境伯領。
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・頃、イングランド、ギルバート会設立(女子修道会として有名)。
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・アンジュー伯ジョフロア(ヘンリー1世娘マティルダ夫)、ノルマンディーを征服。
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・ギョーム・ド・サンチエリ(50、ランス司教区ベネディクト会サンチエリ修道院長、1085~1148)、シトー会士となる(シニィ のシトー会修道院)。クレルヴォー修道院長ベルナールと深い親交。
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・レオン・カスティリャ王アルフォンソ7世、レオンのコルテスで皇帝即位を宣言。
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・ヴェローナにコムーネ成立。
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・アンティオキア総大司教ベルナール・ド・ヴァランス、没(位1099~1135)。アンティオキア候ボエモン2世娘コンスタンス(8又は9)とレイモン・ド・ポワティエとの結婚の契機となる。
経緯:
ボエモン2世妻アリックス、姉エルサレム王妃メリザンドに懇願し蟄居先ラタキアからアンティオキアに復帰、アンティオキアを意のままに治める。
ベルナール総大司教没し、マミストラ大司教ラウル・ド・ドムフロン総大司教就任(ドムフロン出身のラウル、ノルマン人)後、横暴ぶりを発揮して教会参事会員を投獄、アリックスを操りアンティオキア候のように振舞う。
アンティオキア諸侯、エルサレム王フルク5世に相談、コンスタンスの婿にレイモン・ポワティエ(30才過ぎ、アキテーヌ公ギョーム9世次男、アンティオキア候1136~1149)に白羽の矢を立てる。
聖ヨハネ修道騎士団ジェラール・ジェベロンをイングランド・ヘンリ1世宮廷にいるレイモンに派遣。レイモン、結婚を承諾、アンティオキアへ。 
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・北シリアのアレッポに政庁をおくイスラム太守ザンギと子ヌール・アッディン、アンティオキア候領の東半分を奪回。
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・アッバス朝アル・ムスタルシド、没(位1118~1135)。アル・ラシード、即位(位1135~1136)。  
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1月
・ダマスカスのアターベク、イスマーイール、アレッポのザンギーに救援を求める。
ダマスカス人は、ザンギーの背信行為(1129年末、ブーリの息子サヴィンを呼出し捕虜とする)を忘れられず、イスマーイール母ズムッルド妃に訴える。
30日、母ズムッルド妃は息子を殺害、もう1人の息子マフムードを擁立。ダマスカスに進軍するザンギーを迎撃。何度かのこぜりあいのあと休戦。
(3年後、この妃はザンギーに、結婚してダマスカスを占領してくれと頼むことになる)
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1月5日
・平清盛、正五位下叙任。
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1月16日
・頼長(16)、実能と同宿の二条烏丸邸が焼亡、この後、大炊御門高倉邸に移居
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1月25日
・藤原宗忠の日記『中右記』のこの日条。
左大臣で、陣定を指導する宗忠が、大夫史の小槻政重に対して、「平将門の乱によって、坂東八ヵ国は、二ヵ年分の公事を済ませればよいことになっているが、そのことを命じた官符はあるのか」と尋ねた。それに対し、政重は、「その官符はもとからありません。国司が任期ごとに申請し、先例によって免じられてきたのです」と答えた。
(任期の半分を納めるという先例は将門の乱を起点としている)。
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2月
・千葉常重、相馬御厨下司職を嫡男・常胤(18)に継承。
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2月8日
・頼長(16)、右大将を兼ねる。
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2月21日
・夜、大風で気比社の宮殿が倒れたと伝える。
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3月
・バンベルグ帝国議会、シュヴァーベン大公フリードリヒと皇帝ロタール3世、和解。
シュヴァーベンはバイエルン大公ハインリヒ尊大公とフリードリヒの争いで荒廃。
フリードリヒ、重要都市ウルム(シュトゥットガルト南東75Km、アウクスブルク西50Km)を攻略。
ロタール3世とホーエンシュタウフェン家兄弟は私闘(フェーデ)終結を悟る
(ホーエンシュタウフェン家兄弟は王位要求を断念・皇帝に降伏を決意。ロタール3世は兄弟を没落させない方が得策と考える)。
シュヴァーベン大公フリードリヒ、和平請願を繰り返し、ケルン大司教、マインツ大司教、レーゲンスブルク司教、シュパイエル司教が仲介、最後は、皇后リケンツァが仲介者。
バンベルク帝国議会でフリードリヒが皇帝の前に跪き降伏と服従を誓約。
ロタール3世は追放刑を赦し昔の資産を承認。
1135年聖ミカエル祭、コンラート3世との和解成立。ベルナールが和解に貢献(教皇特使として和解を勧告)。
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3月11日
・興福寺僧徒と争った東大寺の僧を罰して移郷させる。
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3月29日
・六宮道恵(4、鳥羽上皇と美濃局の子)、覚猷大僧正正弟子となる(「長秋記」)。
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月末
・ザンギー、ダマスカスを去る。帰路、マアッラなどフランクの要塞4つを奪回。
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4月8日
・平忠盛(40、清盛の父)を海賊追討使とする。
選任の経緯
当初、宣旨が国司に出され、それを受けて国司が国内の武勇の士に下知し、追捕を行うものとされたが、これでは海賊は鎮まらないという意見が出され、改めて審議がなされた。
海賊の首領たちは所々の荘園の住人なので、その荘園の本所(ほんじよ)に命じて召進することが議されたり、あるいは海賊の首領の一族が在京しているのでこれに命じて尋ね召すことなどが提案されたが、結局、備前守平忠盛か検非違使源為義かのいずれかを追討使に派遣するのがよいとされた。
公卿の多くは「西海に勢有る」(「長秋記」)として忠盛を推薦したところで、院の指示を仰ぐこととされた。
意見を聞いた院は、「為義を派遣すると路次の国々は滅亡する」(「中右記」)ので、「便宜」のある忠盛が望ましいと指示し、忠盛派遣に決定した。
この場合の「便宜」は、忠盛が以前から西海の海賊追討を行ってきたことや、西国の受領を歴任して家人が多く西海に存在することなどを意味するもの。
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4月27日
・「保延」に改元。
「天下疫疾飢饉の者、道路に充満す」という事態となっているため。
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5月17日
・待賢門院扇紙合、女院女房美濃局参加。
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5月18日
・上皇による仁和寺修理の供養。勧賞として修理を担当した若狭守藤原公信を重任(「中右記」)。*
5月25日
・内裏で最勝講。若狭守藤原公信、左方堂童子を務める(「長秋記」)。
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6月
・ダマスカス、スルタン・マスウード、バグダードのカリフ、アル・ムスタルシドを破り、捕虜に。2ヶ月後、惨殺。
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6月6日
・ピサ 教会会議。ベルナール出席。
ミラノ司教選挙にからむ紛争解決。対立教皇アナクレトゥスを破門。
ベルナール、ミラノ訪問、歓迎を受け、提供されたミラノ司教職を固持。

ピサ、海洋国家アマルフィ(11世紀初頭に全盛期)攻撃、市内掠奪。
アマルフィは最終的な没落を迎える。1137年にも襲撃・略奪。
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8月
・平忠盛、海賊を鎮撫し凱旋。
首領日高禅師源智(ひだかぜんじげんち)ら海賊70余を連行、内28名を人目の付く河原で検非違使に引き渡し、残り40人は人目に付かないところで引き渡したという。「中右記」は、忠盛は西国在地武士で忠盛の家人ではない者を捕虜の賊に仕立てたと推測。
こうして忠盛は院に仕え、西海の海賊の追討使に任じられたり、西国の受領となって、勢力を広げ、その地位と職権を利用しつつ、地方の武士との間に広範な主従関係を築いていった。

「忠盛朝臣、海賊七十人を虜にし、検非違使に渡す。・・・人皆見物す。日高禅師賊首たり。この中多くはこれ賊にあらず。ただ忠盛の家人にあらざる者を以て、賊虜と号して進むと云々」(「長秋記」8月19日条)。
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8月21日
・忠盛の海賊追討の功績により、長男清盛(18)が従四位下に叙任。
武家出身としては異例の抜擢。
翌年4月、中務大輔に任官。
また、右馬允(うまのじよう)平維綱(これつな)が右兵衛尉に任じられた。

これまでの清盛は白河院や祇園女御との関係から叙位・任官されてきたのであるが、ここに初めて忠盛との関係において叙任され、忠盛の嫡子としての立場が窺える。
また従四位下の位階は五位から四位への厚い壁を突破したものであって、ここに院近臣(いんのきんしん)で武家の平氏の家嫡という清盛の立場は確立した。

右兵衛尉に任じられた維綱は、鷲尾を称する忠盛の家人で、清盛の異母弟家盛の乳父。
忠盛は後妻の藤原宗兼の娘との間に家盛と頼盛の二人の子を儲けていた。
維綱の任官はこの時の追討の中心になって活動したことによるものとも考えられるが、家盛が前年3月11日に六位の蔵人になっており、維綱は家盛を補佐すべく在京して、海賊の追討には赴かなかったと考えられる。
従って、第一の家人である家貞が海賊追討の中心にあったと考えられる。家貞は前年に左衛門尉になっているので、もはや昇進の余地はなく、第二の家人である維綱が兵衛尉に任じられたものと見られる。

追討の中心となった家貞は、のちに清盛の手足となって働いており、その活動の場は西海にあったという。
『保元物語』には「清盛が郎等平兵衛尉家貞、鎮西に有けるが、この合戦の事を聞て急ぎ馳上(はせのぼり)たりける」と記されており、鎮西にあったために保元の乱には駆けつけることができなかったとある。
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・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世(40)、カープア地方の再度の反乱鎮圧。カープア候国を廃し、王国に併合。
アリーフェ伯ライヌルフスの領地没収。ボイアーノ伯フゴの領地没収、リカルドゥス息子ロベルトゥスに与える。伯アレクサンデルの領地没収、ロゲリウス2世義理の息子伯アダムに与える。

カープアの大集会。ロゲリウス2世召集。カープア候に3男アンフススを任命(位1135~1144)。1135年末迄にロゲリウス2世はナポリを除く対立教皇アナクレトゥス2世より認められた全ての領地を支配下に置く。
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9月29日
・ミュールハウゼン、ホーエンシュタウフェン家コンラート3世とロタール3世、和解。叙任権闘争以来、半世紀にわたる「ドイツの内戦」終了。
コンラート3世、王位を捨て、ザリエル朝からの遺産として要求していた領地と権利を放棄。
ロタール3世、フリードリヒとコンラート3世の全ての封土を回復、コンラート3世を「帝国旗手」任命。 
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10月9日
・小六条殿での鳥羽上皇の孔雀経御修法が結願。布施として馬2疋、三河守・越前守が引く。
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11月
・クレルヴォー修道院長ベルナール、クレルヴォーに帰る。
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12月
・上皇の寵妃藤原得子、鳥羽上皇の子を産む。叡子(としこ)内親王。誕生直後に皇后泰子(藤原忠実の娘)の養女とされる。この提携により、得子・泰子(摂関家)と待賢門院の対立が次第に鮮明になっていく。
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12月1日
・イングランド王ノルマンディー公ヘンリ1世(67)、ノルマンディで没(1068~1135、位1100~1135)。
娘マティルダ(33、通称モード、ハインリヒ5世未亡人、アンジュー伯ジョフロワ妃)を相続者に指名。
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12月2日
・越前守高階盛章、宣旨により重任の功として気比社の神殿・雑舎などを造る。
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12月26日
・イングランド、ヘンリ1世甥でブロア伯息子エチエンヌ(英名スティーヴン)が即位
(ヘンリ1世妹アデラの息子(母アデールはウィリアム征服王娘)、ウィリアム征服王孫、位1135~1154)。
ヘンリ1世娘マチルダとの間に王位継承をめぐる内乱が勃発(1135~1152)。

ヘンリ1世は娘のマティルダ(神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世未亡人)を相続人に指名。従って彼女の再婚相手アンジュー伯ジョフロワ(ジェフリー)がイングランドとノルマンディーを手中にする筈。しかし、マティルダと同じくウィリアム征服王孫ブロワ伯スティーブンがイングランド上陸、イングランド王と称す。

残された1人娘マチルダはイギリス貴族に人気がなく、イギリス諸侯の宿敵アンジュー伯の妻。そこで、ヘンリ1世甥・ウィリアム征服王孫、ブロア伯シアボールド弟のスティヴンが動く。
ノルマンディにいたスティヴンは、直ちにイギリスに向かいケント州の港に上陸、ドーバーへ前進するが、ここを守るヘンリ1世庶子グロスター伯ロベールはスティヴンを締め出す。
やむなく、スティヴンはカンタベリーへ行っく、ここでもグロスター伯家臣から入場を拒否される。
次に、スティヴンは、ロンドンへ前進、ここで市民の歓迎を受けてロンドンへ入場、イギリス王に即位。

スティーヴン、王位推戴の代償に教会・諸侯の大幅な自由行動と自由裁量を承認。王権を全面的に家臣との契約の基礎の上に置き、家臣は了解事項を王が遵守する限り王に忠誠を遵守(条件付忠誠宣誓)。

第1期(1135~1139):
王権を維持、統治に成功。家臣との種々の約束の矛盾がでて不信と反乱を招く。
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2017年1月3日火曜日

長承3(1134)年 「今年以後、天下飢饉」 勝光明院・宝蔵造営 藤原頼長(15)正二位、権大納言、皇后官大夫 女御藤原泰子(40)に皇后宣下 得子が鳥羽上皇の寵愛を受けるようになる 兵衛尉平家貞、左衛門尉となる

若冲 《動植綵絵 群鶏図》
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長承3(1134)年
この年
・洪水・飢餓・疫病流行。
陰惨な事件が多発。「今年以後、天下飢饉」。
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・国王のコレクション
鳥羽院は、大治4(1129)年7月の白河院没後すぐに鳥羽や白河・京の御所の蔵に封を付けさせて宝物の分散を防ぐ。
鳥羽離宮に田中殿(たなかどの)御所を造営し、この年・長承3年(1134)に勝光明院(しようこうみよいん)と付属する宝蔵を設け、ここに「顕密の聖教、古今の典籍、道具語法、弓剣管絃の類」の「皆是れ往代(おうだい)の重宝なり」と称される宝物が収納された。
この宝蔵は、宇治の平等院宝蔵や延暦寺の前唐院蔵にならって列島内外のコレクションを納めたもので、王権を飾ることに腐心した。弘法大師が大陸で描いたという八幡神の「御影」が高雄寺に安置されていたが、寺が荒廃したのでこの宝蔵に安置したという(『古事談』)。
また、久安2年(1146)8月23日、宝蔵を見た鳥羽院は、宝物の目録を作成させている(『本朝世紀』)。

■荘園集中とコレクション
白河院とは違って鳥羽院は一度も荘園整理令を発したことがなく、白河院政の後半に諸国の荘園の寄進を認めるようになった傾向のままに、寄進を受け入れ、荘園には国役(くにやく)免除や国使不人(ふにゆう)などの特権を与えていった。
院のもとに集められた荘園は、御願寺の六勝寺や、后妃の待賢門院と美福門院、皇女の八条院などの女院に譲られてその所領とされ、時代の文化はこの富の上に築かれた。
これらの荘園の目録は国王のコレクションの書き上げの性格を有していた。

■鳥羽院の性格を物語る『古事談』僧行の部に載る話
鳥羽院護持僧の鳥羽僧正覚猷(かくゆう)は、死期近くに遺産の処分をするよう弟子たちから求められ、「処分は腕力によるべし」と紙に書いていた。
これを伝え聞いた院は、自らも覚猷の弟子たるを自認していたので、弟子を呼び寄せて遺財を書き上げさせ、それらをすべて我がものとした後、弟子らに分配したという。
時代は腕力が物を言う時代に突入していたことを象徴的に物語り、また院のコレクション癖もよく示している。

・遁世の志
貴族や武士に「家」が生まれ、その地位や家産が子孫に継承される動きの中で、家から逃れ、仏門修業の道に入る遁世の動きがあった。
三善為康の往生伝『後拾遺往生伝』は、遁世後に往生した人々の伝記を記している。
そのうちの左馬大夫藤原貞季は白河院に仕え滝口の武士となり、馬允(うまのじよう)に任じられて五位に叙されると、その後は後生の事をのみ営むようになり、雲林院(うりんいん)に塔婆を建てて行を積んで、長承3年(1134)に往生を遂げた。
浄土への往生を求める動きが人々の心を捉えるようになっていた。そうした遁世の志は、摂関時代に結社を結んで浄土への往生を求めてきた文人たちには、世人の詩文への関心の衰えもあり、出世の望みも絶たれていたので、ことに強い。
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・この年、信濃国の御厨神人が同国在庁官人に殺害されたことを伊勢神宮が訴える事件が起こる。
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・この年、頼長(15)の乳母備後が没し、頼長は、臨終の床に見舞う。
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・ベルナール、パルテナイでアキテーヌ公ギョーム10世と会談。アキテーヌの離教に終止符をうつ。
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・ブランデンブルク辺境伯領、設置。
アスカニア家熊公アルプレヒト(34)をブランデンブルク辺境伯に任命(1100?~1170、位 1134~1170)。
ブランデンブルク:
北ドイツのエルベ川西岸からオーデル川流域一帯(現在は一部ポーランド、大部分は東ドイツ)。
アスカニア家アルブレヒトが皇帝ロタール1世からこの地に封ぜられ辺境伯となる。
以後、同家によって農地開拓・キリスト教布教が進められる。1320年同家断絶後、ヴィッテルスバハ家(1324~73)・ルクセンブルク家(1373~1415)がこれを継ぐ。
1415年ホーエンツォレルン家フランケン系のフリードリヒ6世(辺境伯としては1世)が任ぜられ,以後ホーエンツォレルン家の所領地となる(但し、この時点で選帝侯となり、正確には辺境伯ではなくなる、後のプロイセン王国の基礎となる)。
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・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世(39)、カープア地域の反乱鎮圧。
反乱諸侯(カープア候ロベルトゥス2世、アリーフェ伯ライヌルフス)。
カープア候ロベルトゥス2世、ロゲリウス2世の提案を拒否。ロゲリウス2世、尚書グアリヌスをカープア候国における王の代理」に任命。
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・イングランド、スティーヴン・ハーディング、没。シトー会創設者の1人、シトー会会則「慈愛の憲章」起草者。
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・聖ノルベール(54)、没(クサンテンのノルベルト、1080頃~1134)。
有名な説教家。プレモントレ修道会創始者(1120北フランスで創設)、マグデブルク大司教(位1126~1134)。
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・テンプル騎士団ユーグ・リゴー、バルセロナ再訪。新領主レーモン4世とカタロニア騎士24人の協力を得る。
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1月
・この月、藤原頼長(15)、朝覲行幸に供奉。
その賞として5日に正二位に進み、翌2月22日に権大納言に任ぜられる。
また、泰子の立后とともに皇后官大夫を兼ねて皇后宮の諸事をも沙汰する。
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2月17日
・六条殿、焼失。
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3月19日
・鳥羽上皇の女御藤原泰子(40)に皇后宣下。越前守高階盛章を皇后宮職の権大進に任じる(「中右記」)。
多年摂政・関白の座を占め、独自の立場を築いていた忠通も、父・忠実の政界復帰、更に泰子の院参を始めとする父の積極的な政界進出には警戒心を強めていた。ことに上皇「夫人」をもって立后した例は未だ聞かずと世人にも非難された泰子の立后には、反対の態度を隠さなかった。
『長秋記』は、立后について諸事を指図すべき関白が全く手をこまねいて沙汰しないと忠実を嘆かせ、また上皇もあまり気乗りしない様子であったが、忠実が申し請い、ついには上皇第一の近臣藤原家成を動かしてようやく立后の恩許を得たと伝えている。
政治色の濃い入内であり、立后もまた忠実にとって是非とも必要であった。
こうしてこの日、泰子は皇后となり、同日の宮司任命において、正二位権大納言頼長が皇后官大夫に任ぜられた。忠実の推挙によるものと思われる。
ここに色々な問題を起した泰子入内の一件も漸く落着した。
この後、泰子(のちの高陽院)は鳥羽院と忠実ないし頼長とを結ぶ重要な絆となり、忠実父子の政治的立場を補強して、直接・間接に頼長を庇護する立場に終始した。
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同日
・令子内親王、太皇太后となる。
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5月
・「天下飢饉」
この月の長雨に始まり「風損水損」が続き、秋には「大咳病」となり、翌年には悲惨を極め、疾疫・飢饉により餓死者が「道路に充満す」という事態となり、保延と改元され、大規模な賑給(しんごう、弱者救済)実施により貧窮者に食料が施された。
しかし、翌2年も「世間多く道路に小児を棄つ、大略天下飢餓」という状況(『百練抄』)。
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6月4日
 ・デンマーク、エーリック2世がニールス王に反逆、王位に就く。
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6月7日
・藤原長実没により、本邸の二条万里小路第は娘得子(17)に伝領(源師時「長秋記」同日条)。
この邸宅は長実が生前、鳥羽上皇(33)に御所として提供。
越後尼公(師時の姉妹の方子、得子の母)が語った言として、この年には、得子は鳥羽上皇の寵愛を受けるようになったとある(長承3年8月14日条)。  
崇徳天皇(16)の怒りを買い、得子の兄弟・一族縁者は、昇殿や国守の任を停止され、財産没収の厳罰を蒙る。母待賢門院璋子から怨みつらみを訴えられたことにもよる。
得子には崇徳への恨みが生じ、鳥羽・崇徳の親子関係にも亀裂を生じさせる。
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6月14日
・大風雨で四条大橋が崩れ、祇園御霊会の神輿1基が鴨川に墜落。
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6月17日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、ムラービト朝バレンシア総督イブン・ガーニヤに待ち伏せに遭い敗北(9月8日没)。
戦死者:ベアルンのサンテュール5世、ナルボンヌのエムリ2世、ベルトラン・ド・ラン。
捕虜:レスカール司教ギー(バレンシアに連行、キリスト教棄教するよう拷問、身代金金貨3千枚で釈放)。
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9月8日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、サラゴサで没(武人王、位1104~)。弟ラミーロ2世(修道士)、即位(位~1137)。
1136年ラミーロ2世結婚。
1137年娘ペトロニーラ誕生、バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール4世と婚約、退位。
アルフォンソ1世没後の動きの中でアラゴン・ナバーラ王国は3分裂。
①バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール4世、アラゴンとサラゴーサをカタルーニャと合併。
②カスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、ナヘラとラ・リオーハを併合。
③ナバーラ、エル・シッド孫ガルシーア・ラミーレス5世(ガルシーア・サンチェス3世曾孫)の許で独立。
アラゴンはレオンと友好関係継続、ナバーラはレオンとアラゴンと戦い続ける。
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12月
・越前の今立郡河和田荘(旧今立郡河和田村の一部)、立券が命じられる。
平安末期、中下級貴族藤原周衡の娘周子が待賢門院に寄進、これに中納言従二位源雅定の位田を混合して、立券が命じられる。
源雅定は待賢門院に奉仕する村上源氏の一族で、中院流の祖源雅実の子、越前の今北東条と足羽位田がその家領。当荘は侍賢門院の御願寺法金剛院の懺法堂領とされ、年貢は8丈絹50疋と綿500両。
*
・末、カープア地域で再度反乱。
反乱参加者:カープア候ロベルトゥス2世、アリーフェ伯ライヌルフス、ナポリ公セルギウス7世(位1120/3~1137)、ピサの町。
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閏12月
・兵衛尉平家貞(忠盛の昇殿に際し殿上の中庭に控えていた忠盛第一の家人)、海賊追捕の賞により左衛門尉となる。
家貞は忠盛の昇殿に際して中庭に控えていたという殿上の闇討ち事件の逸話に登場する忠盛第一の家人(けにん)。
*
閏12月1日
・日蝕。山僧12人、御前で薬師経読経。定海法印祈祷。
*
閏12月14日
・鳥羽上皇の白河新御所での孔雀経御修法が結願。布施としての馬2疋を越前守・三河守が引く。*
閏12月15日
・藤原周子の寄文と国司庁宣の旨により、左衛門督家の位田を越前今立郡河和田荘に加え立券混合するよう、待賢門院庁から越前国在庁官人と河和田荘司田堵宛の下文出る。
*
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2016年12月27日火曜日

長承2(1133)年 平忠盛の日宋貿易への関与(肥前国神崎荘、大宰府を排除) 藤原頼長(14)、従二位、春日祭上卿を勤む、徳大寺実能の女幸子(22)と婚姻 源義業の子昌義、佐竹冠者と称す(佐竹氏の由来) 法然誕生 藤原泰子(39)、鳥羽上皇(31)に入内 

北の丸公園
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長承2(1133)年
この年
・平忠盛の日宋貿易への関与
この年、忠盛は、王家の直轄領である肥前国神崎荘(現佐賀県神埼市)を預かる立場を利用して日宋貿易に関与。

忠盛は肥前国の神崎荘を知行したことから、ここに下ってゆき、入港する唐船との間で交易を行っていたものらしい。
この神崎荘は後院領(ごいんりよう)という、院の直接の管轄下にある荘園であり、忠盛はその特権を利用して日宋貿易を進めたものと見られる。

忠盛は神崎荘の位置に目を付けて、その知行を望んだものと考えられるが、それはこれ以前に忠盛が越前守に任じられたことが契機となって、さらに博多への進出となったものと見られる。
宋の商人は通常は博多にやってきて貿易を行ったが、時に日本海を回って、越前の敦賀にきて交易をすることもあった。越前守はその敦賀での交易の管轄者であり、忠盛はそこでの貿易の利に目をつけたことから、さらに本格的に取引を行うべく、博多に足がかりを求めたのであろう。

ただ、博多での貿易を管轄する大宰府を知行したのは公卿クラスの貴族であったから、それは望むべくもなく、そこで後院領の神崎荘の年貢を保管し、積み出す倉敷が、博多に置かれていることに目を付け、ここを根拠地に貿易を行ったものと考えられる。

なお神崎荘は忠盛が亡くなった跡には藤原信西が知行するが、信西は『通憲(つうけん)入道蔵書目録』にうかがえるように膨大な中国の書籍を収集しており、遣唐使として中国に派遣されることを夢見て、中国語を話せるように勉強したという逸話も残されている。日宋貿易と神崎荘の知行は深く関わっていた。
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・金の入手
宋の商人と貿易を有利に行うためには、商人らの求めに応じた輸出品が必要とされるが、その最たるものが金であった。
信西と並ぶ「大学生(だいがくしよう)」藤原頼長は父忠実から奥州の荘園を講られると、年貢の金の増額を要求するとともに、他方で宋の商人に必要な書物の目録を渡して、宋から書物の購入を図っている(『台記』)。

平氏の場合は、その勢力基盤である伊勢で水銀を産出し、近くの志摩で真珠を産出するなど、輸出品には事欠かなかったが、さらに金を入手すべく動いたことであろう。
経盛(つねもり)を産んだのは源信雅の娘であるが、信雅は天承元年(1131)から保延元年(1135)まで陸奥守になっており、金が公領の年貢や産物の形で入手できたことを考えると、その金も平氏の手を通じて日宋貿易に役立てられたと見られる。
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・源為義は実父の義親が平正盛によって追討されたために、祖父義家の養子として成長し、検非違使に任じられ、この頃には畿内周辺に勢力を広げていた。
この年、為義の郎等が丹波国で多くの人を殺したという噂が流れている(『長秋記』)。
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・この年前後、藤原俊成、「丹後守為忠朝臣家百首」に出詠、歌人としての活動を本格的に始める。
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・教皇イノセント2世とベルナールの仲介で、ピサとジェノヴァの和解成立。
イノセント2世とベルナール、フランスよりイタリアに到着、ドイツ王ロタール3世と合流。
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・ムワッヒド朝アブド・アル・ムーミン、「カリフ」宣言。
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・グラナーダ、ムラービト朝ターシュフィーン・イブン・アリー、イダニャ・ア・ペリャ攻撃、後、放棄。
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・ムラービト朝コルドバ総督イブン・ガヌーナ、キリスト教徒掠奪部隊に敗れコルドバ総督を更迭。
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・カスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、グアダルキビール川を下りアンダルシーアに掠奪遠征。へレース・デ・ラ・フロンテーラを掠奪・破壊、セビーリャに進軍。カディスまで前進。セビーリャでムラービト朝を追放、スペイン・イスラム国を樹立、国王に最後のサラゴーサ王アブド・アル・マリク(サイーフ・アッ・ダウラ)擁立に合意。
最後のサラゴーサ王アブド・アル・マリク(1131年アルフォンソ7世に臣従) とトレード軍事総督ロドリーゴ・フェルナンデスを伴う。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、サラゴーサで建造した艦隊によりメキネンサ攻略(エブロ河畔)。後、フラーガ包囲開始。
フラーガ包囲従軍;
ベアルンのサンテュール5世、ナルボンヌのエムリ2世、ロベール・ビュルデー、ベルトラン・ド・ラン、ローダ司教、ハーカ司教、レスカール司教。ロベール・ビュルデー、ムラービト朝援軍を撃退。
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・イングランド、ヘンリ1世、カーライルに新しい司教座を設置。
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1月
・ダマスカス、スルタン・マスウード(マフムードの弟)、即位。
前のスルタン・マフムード(26)没後。カリフ、アル・ムスタルシドが権力誇示。
マフムード没後、ダマスカスは王位継承の争い。
アレッポのザンギー、ダマスカスに進軍。
バグダードのカリフ、アル・ムスタルシドとティグリス川の町タクリート郊外で戦う。
ザンギーは危機をタクリート要塞司令官アイユーブに救われる(アイユーブ息子がサラアーフッディーン、後のサラディン)。
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1月2日
・藤原頼長(14)、従二位。
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1月13日
・東大寺領黒田荘と興福寺領長瀬荘が争う。
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1月27日
・越前国司高階盛章に宛てて、参議藤原成通の越前大野郡泉郷の私領を醍醐寺円光院領として牛原荘に毎年300石を弁済する旨の官宣旨が出る。
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1月29日
・鳥羽上皇の封戸から若狭65戸・越前48戸を割いて金剛峯寺に施入するとの太政官符出る。
8月22日、この太政官符により、民部省が若狭国司藤原信輔・越前国司高階盛章に宛てて、金剛峯寺に封戸を施入する旨の符を出す。
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2月
・この月、安房守が(『中右記』)、押領使の兼任と随兵の設置を諸国条事で申請し、「恒例」として許可された。坂東の国司が押領便の兼帯と随兵の設置を諸国条事で申請し、先例に基づいて許可されることが恒例化していた。
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2月9日
・春日祭使出発。若狭守藤原信輔ら院殿上人12人が同行(「中右記」)。
頼長(14)、春日祭上卿を勤む
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2月16日
・待賢門院御願の塔を石清水に建立供養。
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2月27日
・源義業(57)、没。義光嫡男。常陸大掾氏の娘と結婚、常陸での勢力を強める。
この年、義業の子昌義、「佐竹冠者」と称し、常陸久慈郡佐竹郷の馬坂城を奪い本拠とする。
この地名が「佐竹氏」の名の由来となる。昌義は常陸七郡を平定、常陸に佐竹氏の基盤を定着させる。
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3月5日
・ヘンリー2世、フランスのル・マンで誕生(1133~1189、位1154(21)~1189、妻アリエノール)。母ヘンリー1世娘マティルダ、父アンジュー伯ジョアフリー。
ヘンリ1世、1127年の娘マティルダの時と同様、貴族達にヘンリ2世への臣従の誓いをさせる。
「プランタジネット」は、父ジョアフリーがトレードマークにするエニシダの枝の語が縮まったもの。
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3月18日
・平等院多宝搭、建立。
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3月30日
・ドイツ王ロタール3世と教皇イノセント2世、ローマに入城(ベルナール、教皇に同行してローマ入り)。
ロタール3世はアヴェンティン、教皇イノセント2世はラテラノ宮を占拠。
対立教皇アレクレート2世、サン・ピエトロ寺院、クレッシュンティウス城、ローマ市内の大部分を占領。
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4月7日
・浄土宗開祖となる法然上人、誕生。
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5月28日
・金剛峯寺、若狭・越前の封戸施入の1月29日付太政官符の請文を出す。
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6月
・バグダードのカリフ、アル・ムスタルシド、ザンギーのモースルを包囲。3ヶ月後退却。カリフの権威は落ちる。
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6月4日
・ロタール3世、コンスタンティヌス教会で教皇イノセント2世より皇帝戴冠。
ロタール3世とイノセント2世、「辺境伯夫人マティルダ自由所有地条約」締結。
教皇は100マルクの年税取得。
皇帝は土地を自由に使用。教皇とロタールの死後は土地をローマ教会私有財産。
イノセント2世、ロタールに「ドイツ王国での帝国教会領支配と帝国教会からの奉仕」を確認。
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6月9日
・六宮道恵(1、鳥羽上皇・美濃局の子)、待賢門院御所参入(「長秋記」)。
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6月11日
・石清水別当光清、娘の待賢門院美濃局のために観音堂建立を発願。
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6月19日
・藤原頼長(14)、閑院流藤原氏の徳大寺内大臣実能(徳大寺実能)の第一女幸子(22)と婚姻
(長子誕生はその5年後、側室源信雅娘の所生)。

この日、実能は藤原顕頼(あきより)の二条烏丸邸を借り、ここに頼長を迎えて聟取の儀を行い、上皇・女院・皇后はそれぞれ贈物をしてこれを祝福した。
ついで27日、露顕(ところあらわし、披露)の儀を行い、7月13日、頼長は「別家」ののち初めて賓客を招いて饗応し、さらに翌年2月には自邸において作文和歌始を行った。
これより頼長は引続いて二条烏丸邸に実能らと同宿していたが、長承4年正月、火災に遭ったため、実能の大炊御門(おおいみかど)高倉邸に移り、実能はその東方の舎屋に居住し、頼長は西方の舎屋を居所とした。
実能は白河院政期の権臣公実の男であるが・この閑院流藤原氏は公成以来白河・鳥羽・崇徳3帝の外戚として急速に繁栄を来たした家柄で、実能もまた待賢門院の同母兄にあたるのである。

この結婚については、『長秋記』の記述から推すと、実能の方がこの聟取に積極的であったようである。
年少の頼長は恐らく父忠実の指示に従っただけであろうが、忠実も院政開始以来繁栄を誇っている閑院流の女子を要ることに反対ではなかったと考えられる。

しかしこの後、例えば忠実・頼長の推挙によって実行・実能兄弟が相並んで太政大臣・内大臣に昇進した経緯や、頼長失脚後の実能らの冷淡な態度をみると、両家の結合はほとんど一方的に実能らの勢力伸長に利用される結果に終ったと言える。

頼長は幸子を嫡室として終生これを敬重したが、一子をも挙げることができず、側室との間に教子を得るに止まった。
保延4年源師俊の女および源信雅の女にそれぞれ男子(兼長および師長)を得、同6年には民部大夫為宗の女に女子の、永治元年(1141)および久安元年(1145)にも師俊の女にそれぞれ男子(隆長、範長はんちよう)の誕生をみた。

嫡室藤原幸子
久安4年、養女多子の入内に先だって名を幸子と定め、従三位に叙せられた。
仁平元年(1151)、頼長の内覧宣下にともない政所を設け、こののちは北政所の称を用いた。
久寿2年(1155)4月ごろから病を得、漸次病状が悪化したので、陰陽師の占いに従って居所を変えるため、5月13日、それまで頼長と同居していた高陽院御所土御門殿から実弟公親の一条富小路宅に移ったが、6月1日、そこで没した(「台記」)。行年44。
葬礼は公親宅から出して北山の菩提樹院に葬ったが、頼長は「内覧の人此の如きの事歩行の例未だ曾つて聞ず」との批難がましい評言をうけながらも、歩行してこの葬列に従い、「諸事式法に任せて更に省略なし」といわれる程丁重にこれを葬った。また頼長は翌保元元年5月21日、法成寺阿弥陀堂において盛大な一周忌法会を営み、さらに6月1目にも同阿弥陀堂で正忌法要を修した。1日の法会は、表向きは皇后多子の催すものとされているが、実質的には頼長の沙汰とみてよいであろう(「兵範記」)。
幸子には所生がなく、妾腹の兼長・隆長2子を養子としている。
*
6月29日
・藤原泰子(39)、鳥羽上皇(31)に入内。
前の年、忠実が政界に復帰すると、この年、忠実失脚の直接の原因となった娘勲子(泰子と改める)の入内問題が決着する。彼女は39歳で鳥羽上皇よりも8歳年上。
この勲子改め泰子が、上皇の配偶者として皇后の地位を得たことは異例であったが、それだけに、上皇と忠実との協調関係を示す象徴的な婚姻とみることができる。

また、鳥羽上皇には、この時期、もう一人の女性との新たな関係が進行していた。それが、待賢門院から上皇の心を離してしまうことになる院近臣藤原長実の娘得子(のちの美福門院)。
6月19日、東三条邸において泰子の院参定が行われ、29日、泰子は忠実に伴われて東三条邸から修造したばかりの土御門殿に入り、夕刻上皇の御幸を迎えた。
この院参は政治的な色彩の濃いもので、宮廷各方面に微妙な影響を与えた。
白河法皇の猶子として入内した待賢門院もこれに対して強い不満と動揺をかくし得なかった。女院が腹心の源師時(もろとき)にその心境を洩したところによると、女院自身はこの院参を予想してはいたが、実は故法皇は閉眼のみぎり、将来とも泰子の入内(院参)があってはならぬと遺言したのであって、いまたちまちその遺命に背くことになったのは嘆かわしいことであると語っている(「長秋記」長承2年6月2日)。
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夏の始め
・トゥール大司教ヒルデベルトゥス(78)、没(1055~1133)。
フランスの高位聖職者、後継大司教に関してルイ6世(肥満王)と争い教皇の介入を招く。
ベルナール、ブロワで教皇特使としてトゥール司教選挙の紛争を決着。
1055年ラヴァルダンで誕生。1096年(41)~1025年ル・マン司教。1025年(70)~1133年トゥール大司教(トゥールはアンジュー伯領)。
最も高名なラテン語詩人(11世紀の詩はシャルトルのフルベルトゥスから始まりル・マンのヒルデベルトゥスで終る。第2のホメロスと呼ばれる。古いローマの栄光を讃えるエレギア:「12世紀の古典主義」の高い水準を示すもの)。
1031年頃、巡礼の誓いを立てたアンジュー伯ジョフロワに巡礼より統治を薦める。
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7月19日
・藤原長実(59)、没。溺愛する未婚の娘得子(16)を案じつつ。
家柄は、末茂流という藤原北家でも傍流に属し、摂関期には受領にはなるが、とても公卿にはのぼれず、だいたい四位か五位がいいところという程度であった。
ところが得子の祖父顕季が、白河院の乳母子(顕季の母親子が白河院の乳母)であった関係から、院近臣として急速に台頭した。
顕季は、白河院の外戚であった閑院流藤原氏の実季の養子として、朝廷に出仕し、30年にわたって讃岐・丹波・尾張・伊予・播磨・美作の国守を歴任する。白河院政開始と同時に、院別当となり、院に経済的奉仕を行い、ついに長治元年(1104)、従三位にのぼって公卿に列した。

得子の父長実も、父の築いた基盤をもとに、院近臣として活躍する。
保安3年(1122)従三位にのぼって公卿となり、大治4年(1129)4月、白河法皇没の直前に参議になる。それまでに30年にわたって受領を歴任し、参議として1年、権中納言として4年で没した。

宗忠『中右記』には、「才知に非ず、英華に非ず、年労に非ず、戚里に非ず。世間頗る傾く気有るか。但し本より大幸人也。天これを与ふるか。若くは是れ故白河院御骨を懸け奉る賞か」とその権中納言昇進を酷評されている。

この翌年、長実一族が処分される出来事が起こる。
得子の兄長輔(ながすけ)が昇殿を停止され、備後守と伯耆守であった兄2人も国務を止められ、更に姉も屋地・荘園・資材・雑具を収公され、そのほか一家眷属がそれぞれ財産を没収された。
この事件は、待賢門院が鳥羽上皇に働きかけた結果であると思われる。
崇徳天皇はまだ16歳なので、父の意志に反したこのような厳しい処分を行いえたとは考えにくい。鳥羽上皇は反発を感じても、自分の皇子は全てこの女院が生んでいるので、従わざるを得なかったのだろう。
待賢門院と得子では、格が違いすぎた。また、この時点では、鳥羽上皇と得子の関係が、すぐさま上皇の心を待賢門院から離反させることにはならなかった。
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7月21日
・延暦寺西塔の学徒と中堂の僧が闘う。
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8月13日
・鳥羽上皇領肥前神崎荘伊倉の港に宋の商船(周新という者の船)来航。
太宰府臨検の下に貿易。
荘園預所の平忠盛、院宣を請い(自作?)、本荘が管理すべきと太宰府関与排除。批判される。

平忠盛、自分が作った下文を院宣と偽り、宋の交易船と太宰府の官人の交易を中止させる(「長秋記」)。

『長秋記』この条
この日、院近臣の大宰権帥藤原長実からの相談を受けた中納言源師時は、その訴えを聞いた。
鎮西に唐船が来航したので例によって大宰府の官人(府官)が交易をしようとしたところ、備前守平忠盛が下文(くだしぶみ)を成して院宣であると号し、宋人の周新の船が来着したのは神崎荘領であるから、府官がこれに関与してはならない、と遮ったという。

宋の商人が来航すると、府官が博多に赴いて持参した物資を買い取るのが例であったが、忠盛が、これを阻止した。
肥前の神崎荘は院が直営する後院領であり、有明海に臨む大荘園であったから、唐船はここに入港したとも考えられるが、博多には神崎荘の年貢を保管し積み出す倉が置かれていて、忠盛はここに到来した宋商と取引を行っていたものと見られる。

忠盛が日宋貿易を推進したのは、貿易の利を求める動機とともに、院の宝物収集に応じ、大陸から入ってくる宝物を院に進呈して歓心をかうことを考えてのものであった。

宋船は院領の神崎荘領に来着したので太宰府は関与してはならないとする(有明海の神崎荘か博多の神崎荘所領かは不明)。
忠盛は鳥羽院院司で、後院領(院が直接管轄する荘園)神崎荘を知行。
私貿易を展開するため大宰府の干渉を排除。
保安4年(1123年)忠盛は越前守になり、敦賀での貿易の経験から貿易の利に着目し、神崎荘の知行を望む。

寛平6年(894)遣唐使廃止以降、太宰府が大陸・朝鮮半島との貿易の管理を行う。商船が博多に入港すると朝廷から唐物使が派遣され、朝廷による舶来品買い付けが行われ、その後、民間人が交易を行うシステム。
京の貴族には、自ら太宰府に使いを派遣し、唐物使の取引が終わる前に舶来品を買いあさる者もいるほど唐物は人気があり、貿易の利益は大きい。11世紀頃は唐物使による官営貿易は形骸化し、太宰府の役人が私貿易を行う。更に、院政期には、九州沿岸の荘園領主が宋船を自領に招き入れ、直接交易を行うようになる。
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8月28日
・地震あり。この年、地震多発。
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9月
・鳥羽院の優柔不断な性格を物語るエピソード。
『長秋記』長承2年(1133)9月15五日条に見える源雅定(まささだ)の検非違使別当の辞任の理由。

雅定は別当辞任を申し出た理由として、「往々所々の殺害の事」が絶えないことをあげて、これは身の不肖によるものであると述べつつも、近日になって重犯が頻発しているのにもかかわらず、上皇から指示が全くないことを問題にしている。
白河とは異なって、鳥羽は周囲の状況を考えながら裁断を容易に下そうとはしなかった。そのために政治は成り行きに任されてゆき、諸国所々での殺害事件も絶えないまま放置されることになった。
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9月21日
・越前大野郡牛原荘の役夫工作料米を免除の越前国司庁宣、越前国府留守所に宛てて出る。
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・皇帝ロタール3世、ドイツに帰国。
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12月末
・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世(38)、アプーリアの反乱鎮圧。
アンドリア伯ゴフレドゥス、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥス、投獄。タンクレドゥス弟アレクサンデル、逃亡。アレクサンデル息子2人(ロベルトゥスとゴフレドゥス)投獄。タンクレドゥス家臣ロゲリウス、絞首刑。敵側についた町(ビシェッリエ、トラーニ、トロイア、メルフィ、アスコリ)の城壁破壊し、トロイア、メルフィ、アスコリの裁判官、絞首刑。
ロゲリウス2世、アプーリア地方を王家の直接の支配下に置く(長男ロゲリウスをアプーリア公、次男タンクレドゥスをバーリ候(後、ターラント候)に任命。1134年4月姉妹ユディクタ夫ロベルトゥス・デ・バスンヴィラにコンヴェルサーノ伯領を与える)。
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・アラゴン王アルフォンソ1世武人王、メキネンサ奪取。
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2016年12月23日金曜日

天承2/長承元(1132)年  鳥羽上皇による得長寿院(白河千体観音堂)の落慶供養。 備前平忠盛(37)はその造営の功により昇殿を許される。 「未曾有の事」(宗忠) 貴族の激しい嫉妬 「殿上闇討」(『平家物語』」巻1) 院近臣藤原家成の富力と鳥羽院の寵愛 藤原頼長(13)正三位・権大納言、読書始 

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天承2/長承元(1132)年
この年
・鳥羽上皇と美濃局(石清水別当光清の娘)に皇子(六宮)誕生。のち道恵法親王(四天王寺別当・園城寺長吏)。
この頃、同じ待賢門院女房の三条局(参議藤原家政女)も、鳥羽院の寵愛を受けて姫宮を生む。
六宮道恵:
長承2(1133)待賢門院御所参入。保延元年(1135)覚猷大僧正正弟子となる(4)。保延4年(1138)6月証金剛院にて出家(7)。保元3年(1158)1月14日四天王寺別当(27)。永暦元年(1160)10月3日親王宣下。同年11月園城寺長吏。永万2年(1166)正月21日四天王寺別当に還補。仁安3年(1168)4月25日没(37)。

美濃局との子:
長承3年(1134)七宮の覚快法親王(天台座主)誕生。他に、姫宮として高陽院姫宮。
*
・ウェールズ、マドッグ・アプ・マレディス、ポウィス支配(位1132~1160)。イングランド勢力と手を結ぼうとして躓く。
*
・クリュニー修道院、第3クリュニー大聖堂完成。ブルゴーニュ・ロマネスクの代表。
*
・クリュニー修道院長尊者ピエール、修道会総会で一連の改革提案。総会には本院に修道司祭200、修道士1200参加。
*
・「反ロゲリウス2世同盟」、参加者増加。
カンパーニア(カープア候ロベルトゥス2世、ナポリ公セルギウス7世、アリーフェ伯ライヌルフス、ベネヴェントの町)。
アプーリア(ヴェノーサ、アスコリ、メルフィ、ビシェッリエ、トラーニ)。
支配地域(アプーリア南部(反乱1131~1133)。カープア候国とベネヴェント地域(反乱1131~1135))。
*
・テンプル騎士団ユーグ・リゴー、ロベール・ル・セネシャル(1136第2代総長就任、ロベール・ド・クラン)、バルセロナに持領を与えられ、モール人と戦い勝利。
*
1月
・越前白山麓平清水に住む勝義大徳、没。
*
3月13日
・鳥羽上皇、得長寿院(白河千体観音堂)の落慶供養。
備前平忠盛(37)、その造営の功により昇殿を許される。

平忠盛:
伊勢平氏の棟梁。平正盛の子。平清盛・平家盛・平経盛・平教盛・平頼盛・平忠度らの父。
平忠盛(37)、鳥羽院御願の千体観音堂(得長寿院。中央に丈六の観音像を安置、左右に観音像500体。御堂は33間。清盛はこれを倣い蓮華王院を建造)を造営、その功により内裏清涼殿への昇殿を許され殿上人となる。
宣旨の10日後、藤原宗忠は「未曾有の事」と日記に記す。
貴族の激しい嫉妬。「殿上闇討」(「平家物語」)。
この年11月23日、忠盛は、豊明の節会(新嘗祭最終日に行われる宴会)で貴族達が自分に危害を加えようとしているのを知り、銀箔を張った木刀を懐に忍ばせて襲撃者を牽制するが、天皇の前で舞を披露している最中に「伊勢平氏はすがめなりけり」と嘲笑される。

 しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願(ごがん)得長寿院を造進して、三十三間の御堂(みどう)をたて、一千一躰の御仏(おんほとけ)をすゑ奉る。供護は天承元年三十三日なり。勧賞(けんじよう)には闕国(けつこく)を給ふべき由仰せ下されける。境節(おりふし)但馬国のあきたりけるを給(たび)にけり。上皇(しようこう)御感(ぎよかん)のあまりに内(うち)の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。雲の上人(うえびと)是を猜(そね)み、同じき年の十二月二十三日、五節豊明(ごせつとよのあかり)の節会(せちえ)の夜(よ)、忠盛を闇打にせむとぞ擬(ぎ、議)せられける。 

 忠盛を刺そうとしだ公卿たちの計画は、忠盛の耳に入っていた。
のちの面倒を考えた忠盛は、豊明の節会の夜の昇殿にあたって、銀箔を貼った木刀を大きい鞘巻(鍔ない刀)にこめて、束帯の下に無造作に見えるよう携帯。

「束帯のしたにしどけなげにさし、火のほのぐらき方(かた)にむかつて、やはら此(こ)の刀をぬき出(いだ)し、鬢(びん)にひきあてられけるが氷なんどのやうにぞみえける。諸人目をすましけり。」

燭(しよく)のあかりを取り包む闇。火かげに一閃、銀の光。
そして、あかりのわずかに届く殿上の中庭には、忠盛の郎等、「薄青の狩衣(かりぎぬ)のしたに萌黄威(もえぎおどし)の腹巻」を着て、弦袋(弓の替え弦を入れる袋)をつけた太刀を脇に挟んだ左兵衛尉家貞が、かしこまって控えている。

「五節豊明の節会の夜」は、4日にわたる新嘗祭の最後の日の夜。五節の舞姫が加わって酒宴となり、朗詠、今様、乱舞の催しがある。一座の空気がにぎやかに、はんなりと保たれているのはしばらくのあいだで、やがて猥雑に落ちていく(本文に十二月二十三日とあるのは十一月二十三日とあるべきところ。語調でこうなってしまったのか)。

忠盛が名ざしを受けて御前で一さし舞を披露し、無事に舞い収めると、人々は突然、拍子を変えて、「伊勢平氏(へいじ)はすがめなりけり」と囃(はや)し立てた。平氏が伊勢の国に長く住みついていたことと、忠盛が片方の目だけ細く「すが目」だったこととを酢瓶(すがめ)の瓶子(へいじ)に言いかけた。

忠盛は、紫宸殿の後で殿上人が見ているところで主殿司(とのもづかさ)を呼び、刀をあずけて退出。
五節後、殿上人は、忠盛が武士を殿上の小庭に召し、刀を持って節会の座に列席したと訴え。
鳥羽上皇の質問に対して忠盛は、人々が何か計略していると伝え聞いた家来が来ていたとしたら、いたしかたのない事、刀は主殿司に預たのでそれを調べてほしいと答える。刀は木刀に銀箔を貼り付けた物。
鳥羽上皇は、刀を帯びているように見せ、後日の訴訟に備えて木刀にしていた用意深さは感心、家来の件は武士の家来の常の事で、忠盛の罪ではない、と褒める。

忠盛は貴族たちの反発を上手にかわし、これを契機に平氏は貴族との交わりをもつようになったというのが『平家物語』の意図するところで、この昇殿は平氏による武家政権への階梯の第一歩となった。

この話はどこまで事実を伝えているのか。
11月21日に殿上の淵酔があり、殿上人は待賢門院や中宮の方に参じたことは見えている。
但し、貴族の日記には特別な記事は見えない。
未発に終わったので記されていないことも推測されるが、誇張されて創作されたものと見るべきで
あろう。
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閏4月4日
・高階盛章を越前守に任じる(「中右記」)。
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閏4月16日
・疫病流行により、諸国に丈六(じようろく)観音像を図絵し、経供養を行うように命じる。
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5月
・摂津国の橘御園(たちばなのみその)に居住する源光基(みつもと)が殺害される。
70歳余の母の尼、妻子ら10余人が殺される。
犯人は園の下司(げし)の成美(なりざね)なる人物であったという。
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6月
・カスティーリャ・レオン王国トレード軍事総督ロドリーゴ・ゴンサーレス・デ・ラーラ伯、セビーリャ周辺を襲撃。セビーリャ総督ウマル、キリスト教徒部隊に追いつくがアサレーダで敗戦。
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7月
・院近臣藤原家成の富力。
この月の京中の焼亡に際し、院御所2宇・御倉11宇とならんで、隣接の播磨守家成宅2宇・倉10宇が焼けたことを特記している『中右記』の記述にも窺われる。 
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8月
・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世、アプーリア反乱軍を鎮圧。夏、バーリを占領。
バーリ候グリモアルドゥス・アルファラニテースを投獄、バーリ候国をノルマン・シチリア王国に併合、次男タンクレドゥスにバーリを与える。
反乱鎮圧後、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥスとアンドリア伯ゴフレドゥスの領地を没収。  
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8月4日
・天文博士兼時、彗星見るという。気頗る天に亘る。7、8夜見える。
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8月11日
 ・「長承」に改元。
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8月25日
・醍醐寺円光院領越前大野郡牛原荘の引出物を免除する旨の留守所宛ての庁宣が出る。
9月23日、醍醐寺円光院に、越前大野郡牛原荘の四至を応徳3年当時に戻し、国郡の牢篭を停止する旨、及び前国守藤原顕能が責め取った引出物の絹を返却するよう越前国司高階盛章に命じる旨の官宣旨出る。
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8月25日
・寅刻、彗星、北方に見ゆ。長さ3尺、白色、尾は西を指し觜度にあり。近く敷星に入る。
27日寅刻、彗星婁第三星と近し。3丈。光芒盛ん。戌亥を指す。
28日に南行、光芒衰微。1丈。光芒気奎宿に相見える。
29日夜同座にあり南行。下司空星と並ぶ。芒角減少し2、3尺。以後見えず。(「中右記」)
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9月
・鳥羽院の近臣家成への寵愛
家成への鳥羽院の寵愛のほどを知ったことから、摂関家の忠実は他人を決して入れない方針を破って宇治の経蔵に家成を入れている。
『続古事談』の話。
「鳥羽院、宇治に御幸(みゆき)ありて経蔵ひらきて御覧じけるに、此経蔵はよの常の人いる事なきに、富家殿(ふけどの、忠実)御前に候給て、播磨守家成時の花にてありければ、御気色(みけしき)にかなはむとやおぼしけん、召入られけり。」
『中右記』は宇治の平等院に御幸した鳥羽院が経蔵に入った際に従ったのは、「大殿、関白殿、三位中将」の忠実父子と「家成朝臣」だけであったと記す。家成が「院第一の寵人」であったことによるものではあったが、院が家成を経蔵に入れたかったのはそれだけでなく、その経蔵にならって鳥羽に宝蔵を造営する計画があったから。
長承3年、家成は播磨を知行してその宝蔵を造営しており、家成は院の好みによく応じて奉仕したのであった。
*

・ドイツ王ロタール3世、イタリア遠征(1132~1133)。
ロタール3世、娘婿バイエルン大公ハインリヒ尊大公にイタリア遠征中の帝国行政を委任、シュヴァーベン大公フリードリヒとの戦いを督促。
ハインリヒ尊大公はフリードリヒとの戦いを拒否し和平提案するが、和平成立せず。
ロタール3世・ハインリヒ尊大公間の亀裂により、ロタール3世イタリア遠征に騎士1500しか集まらず、イタリアで侮辱・嘲笑を受ける。
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・秋、アプーリアで再度ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世に対する反乱。
反乱参加者は、領地を奪われたコンヴェルサーノ伯ゴフレドゥスタンクレドゥスとアンドリア伯ゴフレドゥス、タンクレドゥス兄弟アレクサンデル、バーリを含むアプーリア諸都市。
*
10月7日
・白河九体丈六新阿弥陀供養あり。勧賞として若狭守藤原信輔を従四位上に昇叙(「中右記」)。
*
10月7日
・藤原頼長(13)正三位。
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10月13日
・鳥羽上皇、高野山参詣に出発。若狭守藤原信輔・越前守高階盛章ら殿上人13人が従う。
17日、上皇、高野山で伝法・密厳両院を供養。

忠盛は家成とともに鳥羽院の近くに仕え、この高野詣(こうやもうで)では殿上人として
「播磨守家成、備前守忠盛」の名が見える。 その他、長承2年7月の院の上御方(うえのおんかた、のちの美福門院)の家司(けいし)にも
ともに選ばれている。
保延2年2月の院庁下文にも別当として播磨守家成、美作守忠盛の名がある(『平安遺文』)。 このような関係もあって、清盛も家成の家に出入りしていた。 『延慶本平家物語』は、後年の鹿ヵ谷事件で捕まった西光が清盛に向かって次のように痛罵
したと語っている。 「殿は故刑部卿(ぎようぶきよう)忠盛の嫡子にて渡らせ給しかども、十四、五歳までは叙爵を
だにもし給ず。冠をだにも給らせ給はで、継母の池(いけ)の尼公(あまぎみ)のあはれみて、
藤中納言家成卿の許へ時々申より給し時は、あれは六波羅のふかすみの高平太(たかへいた)
の通るはとこそ京童(きようわらは)は指を指して申しか。」 前段の「十四、五歳までは叙爵をだにもし給ず」とあるのは明らかな間違いであるが、
「継母の池の尼公」の指示で家成の邸宅に出入りしたという点は注目できる。
家成は池の尼公の従兄弟にあたり、清盛は富と権勢を有する家成の邸宅に継母の紹介で
出入りしたらしい。
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11月23日
・殿上闇討。五節豊明の節会、平忠盛闇討ちの噂、忠盛の機転(「平家物語」巻1)。
3月13日の項に既述。
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12月
・エルサレム王フルク5世、ヤーファ奪回の為の兵を集結。
この頃、ダマスカスのアターベク、イスマーイール(ブーリ息子)、暗殺教団よりバニヤースの砦を奪回。
フルク5世妻メリザンドと青年騎士ユーグ・ド・ピュイゼの噂が流布し、ユーグは危険を感じてエジプトに亡命。エジプト軍の支援のもとにヤーファを占領したため。
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12月5日
・頼長(13)の読書始の儀式
表向きの学始めである読書始(ふみはじめ)の儀式はこの日、関白忠通の近衛室町邸において行われた。書物は『史記五帝本紀』が用いられ、師には式部大輔藤原敦光(あつみつ)が選ばれた。
『中右記』によれば、
まず頼長が所定の座につき、次に敦光が「師匠の座」につく。次に頼長が書をひらく。次に敦光が書をひらいて「史記の集解(しつかい)の序」と読み上げる。頼長がこれにならって復唱する。儀式の中心はこれで終り、敦光は祿を給わって退席し、つづいて頼長も退席する。次に座を改めて頼長・敦光を始め参列の公卿・殿上人らによって宴が催される。
このように読書始の儀は全く形式的な儀礼である。

これとは別に頼長は藤原令明(よしあきら)について「幼少の時私(ひそ)かに孝経を習」った由を日記(康治2年8月28日)に記している。

自覚的または本格的な勉学を始めたのは、どちらかと言えばおそい方であったらしく、康治2年9月の日記にそれまでに学んだ書目を列記したなかで、最も早いものが保延2年17歳の時の『蒙求(もうきゆう)』であることはそれを示している。

頼長が成年ののちみずから述懐しているように、彼は生れつき学を好んだわけではなく、少年の日には父の命をきかずに学業を擲って鷹を臂(ひじ)にし、馬に鞭って山野を駆けめぐり、ついに誤って傷をこうむり、危うく一命を失う程の目にあい、それより心を改めて学業に励んだのであるという。
この大怪我も一つの動機となったであろうが、他面宮廷出仕に伴って漸次学問の必要を自覚するようになり、その上に物事に徹するかれの天性も加わって、あの驚くべき勉学振りとなったものと思われる。
*
12月25日
・頼長(13)、秋除目(定期の任官式)で参議を経ずに権中納言に直任される。
同2年2月春日祭の上卿(じようけい、公事奉行の公卿)を無事に勤める。
*
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2016年12月17日土曜日

大治6/天承元年(1131) 九条兼実誕生 平頼盛誕生 藤原忠実、11年ぶりに政界復帰、鳥羽上皇に再出仕 嫡男忠通と不和になる 藤原頼長(12)、従三位となる 

鎌倉 円覚寺にて
*
大治6/天承元年(1131)
この年
・九条兼実、誕生。
摂政関白藤原忠通3男。異母兄基実・基房は先に摂政関白の位につく。母は藤原仲光の娘加賀局(兼実の他に男子4人を儲ける。「愚管抄」作者・比叡山延暦寺天台座主慈円は末子)。   
*
・平頼盛、誕生(1131又は32又は33年)。
平忠盛5男。母池禅尼藤原宗子。妻八条院乳母宰相局娘・大納言局(俊寛姉妹)。八条院に出仕。鳥羽院判官代。
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・ホルシュタイン伯にシャウエンブルク家シャウムブルクのアドルフ2世、即位(位1131~1164)。
1143年リューベック建設。
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・ケルン大司教フリードリヒ1世フォン・ケルンテン、没(位1099~1131)。
ブルーノ2世フォン・ベルク、即位(位1131~1137)。
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・アリックス、2度目の反乱。
ボードワン2世没後、アンティオキア候国奪還を計画
(ボエモン2世妻、エルサレム王ボードワン2世次女。1130年、夫ボエモン2世戦死後、アンティオキア候国確保を意図、父エルサレム王ボードワン2世に攻められ、1130年よりラタキアに蟄居)。
*
・エルサレム王フルク5世、アンティオキアに赴きコンスタンス(ボエモン2世娘、後継者)をアリックスより守る。
フルク5世、エルサレム王国を北上、ベイルート到着。
トリポリ伯ポンス、フルク5世のトリポリ伯国通過拒否(エルサレム王臣下、フルク5世妹セシル・ダンジュー夫、アリックスと同盟)。
フルク5世、ベイルートより海路アンティオキアに向う。アンティオキア市民、フルク5世を支持。
トリポリ伯ポンス、公然とフルク5世に叛逆、シャテル・ルージュとアルシカン(アルゼガン)に籠城。
フルク5世、アンティオキアより出陣、トリポリ伯ポンスに勝利(トリポリ伯ポンス、フルク5世に服従)。
フルク5世、エルサレム帰国。アンティオキア候国を宮中伯ルノー・マゾイエに委ねる。
*
・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世に対する「大反乱」勃発。
有力諸侯(バーリ候グリモアルドゥス・アルファラニテース、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥス、アンドリア伯ゴフレドゥス)、「反ロゲリウス2世同盟」結成。
*
・アベラール、アフジャントゥイユ修道院を追放されたエロイーズをパラクレ修道院に住まわせる。
*
・教皇イノセント2世、ランス教会会議を召集。ベルナール出席。
1131年のベルナール(教皇イノセント2世支持活動)。シャルトルで教皇と会見。
ル・パラクレ修道院長エロイーズ(アベラール妻)を訪問。ピカルディ→フランドル→リエージュ→ドイツ(ドイツで司教叙任権を手中にしようとしたロタール3世に対抗)。ランス教会会議出席。
年末、ポワティエでアキテーヌ公ギョーム10世に説得、失敗。
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・バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世、没(位1096~)。
息子ラモン・ベレンゲール4世、即位(位~1162)。
*
・ムラービト朝カラトラーバ城代ファラジュ、カスティーリャ・レオン王国モーラ城代ムーニョ・アルフォンソを待ち伏せ攻撃、捕縛。
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・カスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、サラゴーサ王国最後の王アブド・アル・マリクを家臣とする。トレードとエストレマドゥーラ地方所領を授封。
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・ポルトカレ伯爵エンリケ・デ・ボルゴーニャ息子ドン・アフォンソ・エンリケス、ポルトカレ周辺の貴族たちの支持を集め、ポルトカレ伯領の自立的傾向が強まる。
この年、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケスはコインブラに軍を進め、レコンキスタに参加。
コインブラに定着して南部の領土拡大に専念し始め、彼の周辺に下層貴族としての騎士階層が形成され、レコンキスタの中心部隊となる。
これら騎士階層は北部の貴族の次男・3男にコインセーリョ(イベリア半島独特の自治共同体)からの平民騎士がとり込まれたもの。
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・ウェールズ、シトー派修道院建設開始(建設期間1131~1201)。
*
1月2日
・藤原頼長(12)、従四位下叙任。22日、伊予権守兼任。
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1月5日
・平清盛、従五位上に叙任。
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1月29日
・「天承」に改元。
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3月
・教皇イノセント2世、ドイツ王ロタール3世をリエージュ(リュッティヒ)に訪問、同盟成立。
イノセント2世、会談後フランスに帰国。
ドイツ王ロタール3世、イタリア遠征迄のドイツ国内対策。
①マクデブルク大司教ノルベルト・フォン・クサンテン(51、プレモントレ修道会創立者)の反乱鎮圧。
マクデブルク:ザクセン都市、ベルリン西南西100km、ライプチヒ西北西100km。
②貴族殺害・財産略奪の罪でハレ市民を処刑。
ハレ:ザクセン都市、ライプチヒ西北30Km。
③ヴィンツェンブルクのベルンハルトを王の勧告に背いた廉で追放。
④自分と妻の親族を高位につける。
ルートヴィヒ:テューリンゲン方伯(ザクセン南隣、ヘッセン東隣)。コンラート・フォン・ヴェティン:マイセン辺境伯(ライプチヒ西75km)。
コンラート・フォン・プレッツカウ:ノルトマルク伯(1134年、熊公アルプレヒト就任)。
⑤南ドイツ:バイエルン大公ハインリヒ尊大公とレーゲンスブルク司教との争いを仲裁。
シュトラスブルク司教ブルーノを罷免。
ケルン新任大司教ブルーノ2世フォン・ベルクに封土授与。
アーダルベルト・フォン・トリーアには封土拒否。
⑥ホーエンシュタウフェン家兄弟との争いは決着せず。
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5月
・ダマスカスのアターベク、ブーリ・イブン・トゥグティギン、暗殺教団に刺される。
13ヶ月後の1131年6月、没。
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7月8日
・鳥羽阿弥陀堂の落慶供養。
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8月15日
・女院主典代茂通、月奏と近江・越前両国寺御堂末寺下文を権中納言・皇后宮権大夫源師時の許に持参(「長秋記」)。
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8月17日
・正四位下藤原頼長を越前守に任じる。
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8月21日
・エルサレム王ボードワン2世、没(位1118~1131)。
娘メリザンド、娘婿フルク5世、孫ボードワン3世(1130年8月以前に誕生)に統治全権を委ねる。
フルク5世治世下、フランク間の反目は最高潮に。
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9月5日
・越前守藤原顕頼、鳥羽上皇に馬20疋を進上(「長秋記」)。
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9月14日
・フルク5世(36)とメリザンド、エルサレム王・女王、即位。
建設中のエルサレム聖墓教会で戴冠式。エルサレム王国の全盛期。
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10月25日
・ルイ6世長男フィリップ、事故で急死。
サン・ドニ修道院で修行中のルイ7世(フィリップ弟の小ルイ、9)、王位後継者となる。
10月25日ランスで臣下より「臣従の誓い」を受ける。
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11月17日
・藤原忠実、11年の籠居を棄てて鳥羽上皇に再出仕、政界復帰。嫡男忠通と不和になる。
この日、忠実は鳥羽上皇の召をうけ、関白忠通・頼長の二子を従えて初めて院御所に参入。
続いて、21日、随身として左右近衛府生(ふしよう)各1人・同近衛舎人(とねり)各4人を給わる。
内(ない)昇殿・牛車(ぎつしや)・勅授の宣旨は、寵居以前に給わっていたので改めて宣下のことはなく、院昇殿も、その都度上皇の召によって御前に参上するのであるから、ことさら院宣を下す必要はないとされた。
更に翌2年正月14日には、文書内覧の院宣をもこうむるに至る。
これには天皇の宣旨を下すべきであるが、元来忠実の内覧は中絶したものに過ぎず、また内覧の再宣下は先例がないから、便宜院宣によって仰せ下したという。
これら一連の忠実に対する処遇には、失脚以前の状態に戻すという復権の意図が強く打ち出されており、鳥羽院政開始の初頭にあたって、忠実に対する白河法皇の処置を全面的に否定したもので、こののち同院政の性格の一面を形づくる出発点ともなった。
こうして忠実は完全に政界に復帰し、摂関家の実権を握って鳥羽上皇に奉事し、その信任を得た。

父忠実と子忠通・頼長。
忠通は父忠実の失脚によって保安2年(1121)に関白に就任して以来、白河院政のもとで院近臣と変わらぬように、院に忠実な態度をとっていた。しかし、白河法皇の死によって、大殿忠実が政界に復帰すると、忠実と忠通との亀裂が、しだいに大きくなってい。
失脚のとき、43歳であった忠実、24歳であった忠通、そして忠実の二男頼長はまだ乳呑み児であった。それが10年後になると、頼長は元服も間近という年齢に達していた。忠通・頼長兄弟は、年齢差は23歳、まるで父と子であった。忠通には長く男子が誕生しなかったため、忠実の命令で、天治2年(1125)、6歳の頼長が忠通の養子となった。そして頼長は忠実の近く、つまり宇治で成長したと考えられる。
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12月4日
・ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム、没。
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12月22日
・源有仁(29)、右大臣(従一位右大将)となる。
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12月24日
・藤原頼長(12)、従三位。
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2016年10月23日日曜日

大治5年(1130) 藤原頼長(11歳)、昇殿、元服、五位右近衛権中将、崇徳天皇朝覲行幸に供奉、春日祭に近衛府使を勤任 平忠盛、正四位下(「人々耳目を驚かす」) 南宋に朱子(朱熹)誕生 

横浜 山下公園 2016-10-14
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大治5年(1130)
この年
・平清盛、「兵衛の労」により従五位上に叙任。
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・この前後、鳥羽院は、院宣により側近の園城寺覚宗を検校に任じ越前の平泉寺(白山信仰の越前での中心)の社務を執行させる。
ほぼ同時期、加賀馬場の白山宮でも、神主職の上に検校職を設置して側近の信縁を補任。

白山信仰は原始的山岳信仰に由来するが、平安初期の密教展開の中でそれと習合していく。
「白山之記」(長寛3年(1165)頃成立)によれば、天長9年(832)白山に登拝する加賀・越前・美濃の3馬場が開けており、この頃、宗叡(809~84)が越前白山で苦行を行なう(「三代実録」元慶8年3月26日条)。
9世紀初に越前馬場が成立。
「法華験記」(11世紀中頃成立)には、立山・白山などの霊所で祈願した越中の海運法師の説話や泰澄伝承が登場し、天喜年間(1053~58)日泰上人が越前白山の竜池の水を汲む。
こうした密教験者の活動の中で、白山の山岳信仰は仏教と習合し、やがて本地垂迹説により教理的に体系化されていく。
白山での験者の修行の場は殆どが「越前白山」と記され、白山信仰の仏教化は3馬場の中でも越前馬場によって主導される。

白山の構成(「白山之記」):
最高峰の御前峰に白山妙理大菩薩を、その北の大汝峰に高祖太男知大明神、南の別山に別山大行事を祀り、夫々の本地は十一面観音・阿弥陀・聖観音とされる。夫々の山上には宝殿が設けられ、末代上人の勧進により、鳥羽院や越前国足羽の住人の願となる鰐口や錫杖が安置される。末代は富士上人とも号し、富士山に数百回登山して山上に大日寺を構えた験者で、鳥羽院の信任厚い人物(「本朝世紀」久安5年4月16日条)で、白山信仰の仏教化に積極的に関わり、鳥羽院と白山とを結びつける。
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・グラナーダのムラービト朝イスラム・スペイン支配者ターシュフィーン・イブン・アリー、アセーカ(トレードとオレーハ間のキリスト教徒前哨基地)攻撃。城代テーリョ・フェルナンデス伯、マラケシュ(アフリカ)に送られ没。ターシュフィーン、アセーカ城を占有せず、キリスト教徒ガウセルモ・デ・リーバスがイスラム教徒襲撃の根拠地として利用。
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・ムワッヒド創始者イブン・トゥーマルト(48)、没(1082頃~1130)。ムワッヒド朝弟子アブド・アル・ムーミンが後継(位1130~1163)。
ムワッヒド朝1130~1248。1133年アブド・アル・ムーミンがカリフと宣言。1145年迄、ムワッヒドは山岳地帯に閉じこもり、ゲリラ活動がムラービト朝を衰退させる。
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・ミラノのコンスル23人。住民中の諸階層から一定の割合でコンスルを任命。
*
・ランスとクレルモンの教区会議、「騎馬試合」を禁止。騎士の無駄殺しは避ける。
*
・イングランド、財務府文書(財務府行政手続きの成文化)。
*
・この年、テンプル騎士団。
最初の「会則」制定。1128年ベルナールが制定に協力。「2種類の戦士」で構成、服装・武器・地位で区別。
総長ユーグ・ド・バイヤン、東方帰還に先立ちフランス中部に「フランス管区」を設置、同僚パイヤン・ド・モンディディエを管区長に任命。
ユーグ・リゴー、南仏~バルセロナに移り活動。プロヴァンス伯(バルセロナ領)レーモン3世を修道騎士に迎える。
ベルナール「新しい騎士たちを称えてーーテンプル騎士修道会について」。ユーグ・ド・バイヤンと騎士修道会への賞賛。
*
・教皇インノチェンツォ2世、聖ヨハネ騎士団に軍旗を与える。
*
1月
・シュパイエル落城。
降伏に際してシュヴァーベン大公フリードリヒ妻アグネスはドイツ王ロタール3世により釈放。直後、反ロタール3世のニュルンベルク、ドイツ王ロタール3世に降伏。
*
1月3日
・藤原頼長(11)、関白忠通に伴われてその昇殿の儀を遂げる。
忠実が宇治より出京して実際の指図をとる。まず名字を選定し、三所に皇する名簿(みようぶ)を清書。名字は式部大輔藤原敦光の選申(せんしん)した隆平・師長・頼長の三つのうちから選ばれた。
*
1月7日
・平忠盛、院の御給(ごきゆう)により正四位下に叙さる。「人々耳目を驚かす」。
*
2月
・プレ・ド・バイユの戦い。
カッパドキアのエミール、ガジ、アンティオキア候ボエモン2世に勝利。ボエモン2世、戦死。
ボエモン2世:22才前後、在位4年間、ボエモン1世(ロベール・ギスカール長男)息子。
アンティオキア候国アリックス(ボエモン2世妻、エルサレム王ボードワン2世次女)、ボエモン2世との娘コンスタンスが相続するのが我慢ならず、アレッポのイマード・アッディーン・ザンギー(47)にアンティオキアの領土保全依頼。
ザンギーへの使者、途中で捕縛され、エルサレム王ボードワン2世の許で処刑。
ボードワン2世、アンティオキアを襲い、アリックスをタラキア港に流す。
*
2月13日
・教皇ホノリウス2世、没(位1124~1130、イモラ出身)。
14日、教皇イノセント(イノケンティウス)2世、即位(位1130~1143、ローマ出身、フランジパニ派、少数派)。

教会分裂発生(1130~1138)。
ピエレオーニ派、ローマ占領に成功。
教皇イノセント2世、フランスに逃亡(即位後8年間(1139年迄)ローマに入れず)。
対立教皇アナクレトゥス2世(位1130~1138)。
アナクレトゥス2世没により最終決着。 
*
2月21日
・女御藤原聖子(9)に中宮宣下。
*
2月26日
・正五位下行諸陵頭兼算博士三善為康に越前権介を兼任させる旨の、越前国司宛ての官符出る。
*
3月13日
 ・東大寺諸荘文書并絵図等目録が作られる。
*

・春、ロゲリウス2世、サレルノ攻撃、町の城全部を管理下に置く。
後、アマルフィの城の管理権を入手。トロイアとメルフィに新しい城を再建。
*
4月19日
・頼長(11)、元服・叙爵(五位下に叙せられる)。
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6月11日
・千葉常重、「正六位上行下総権介平朝臣経繁」の署名で、所領の相馬郡布施郷を伊勢皇太神宮に寄進(相馬御厨)、その下司職への就任が認められる(伊勢内宮の権威によって国衙権力の介入を防ぐ)。
常重とその子孫は得分として「加地子」を取る権利を得、伊勢内宮禰宜・荒木田元親とその子孫と口入神主の権禰宜・荒木田延明への上納が義務づけられる。
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6月23日
・頼長、この日の小除目(こじもく、臨時の小規模な任官式)においてが侍従に任ぜられ初めて官を得る。
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7月10日
・上皇御所大炊殿など、焼失。
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8月以前
・エルサレム王国、フルク5世とメリザンドの長男ボードワン3世、誕生(~1163、位1143~1163)。
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8月4日
・頼長(11)、この日に故白河院一周忌後初めての上皇・女院の御幸(ごこう)に供奉し、同月23日には早くも右近衛権少将(うこのえごんのしようしよう)に転じる。
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9月
・この月、遠江守が、押領使の兼任と随兵の設置を諸国条事で申請し「恒例」として許可される。
坂東の国司が押領使の兼帯と随兵の設置を諸国条事で申請し、先例に基づいて許可されることが恒例化していた
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・対立教皇アナクレトゥス2世とロゲリウス2世、ベネヴェントで会見、ミニャーノ条約締結。
対立教皇アナクレトゥス2世、シチリア、カラーブリア、アプーリアの王位を承認(王国へ格上げ)。
カープア候領、ナポリの所領を承認。ベネヴェントの守護者の地位を与える。ロゲリウス2世とその後継者が王国の大司教により戴冠されることを承認。
ロゲリウス2世、対立教皇アナクレトゥス2世に臣従礼、忠誠誓約、軍事援助約束、年貢600スキファティ支払い。
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・ルイ6世、エタンプ教会会議。
クレルヴォーのベルナール、教皇イノケンティウス2世支持を表明。
教会会議後、ヘンリ1世を訪問、イノケンティウス2世の支持を求める。
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9月15日
・ [南宋の建炎4年8月11日]朱子学の租、儒者の朱子(朱熹)、誕生。
この年、金に捕われている秦檜、南宋に送り返される。
1127年、金は北宋を滅ぼし華北を支配下に入れ、更に南下して南宋を圧迫するが、間もなく兵を引く。
金国内には、中国全土の征服を主張する強硬派と、黄河以北を確保し南宋との関係改善を主張する和平派が対立。
和平派は和平工作として秦檜を送り返す。

秦檜は、翌1131年、高宗の信任を得て宰相となり(1131)、金と和平を結び現状維持を主張、和平交渉を進める。
以後、南宋国内でも岳飛ら主戦派と秦檜ら和平派の対立が激化。
岳飛(1103~41)は、河南省の農民の子に生まれ、北宋末、金が南下すると義勇軍に応募、金との戦いに軍功をたて一兵卒から将軍にまで昇進(余りに早い昇進、武将としては珍しく学問があったことから諸将の反感をかう)。
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9月20日
・エルサレム王ボードワン2世、アンティオキア候国摂政就任。ボードワン2世、アンティオキア包囲。町の有力者、ボードワン2世・娘アリックス間を取持つ。ボードワン2世、娘アリックスのアンティオキアの全権利を剥奪、孫娘コンスタンスの摂政に就任。
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9月28日
・中宮大夫藤原宗忠、大原吉次を若狭・能登などの目代に推薦(「長秋記」)。
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10月
・ヴュルツブルクの宮廷会議。ドイツ王ロタール3世、教皇イノセント2世支持決定。
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・頼長(11)、近衛将として初めて崇徳天皇朝覲(ちようきん)行幸(天皇が父皇・母皇に謁するための行幸)に供奉。
同月5日、五位のまま右近衛権中将に昇進。五位中将は、藤原師通以来摂関家の嫡流を象徴する地位。
13日、関自邸から参内して初めて著陣(ちやくじん)の儀を行う。その次第は大略寛治2年(1088)に行われた父忠実の著陣の儀に倣った。
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10月5日
・藤原長実(56)、参議就任後1年で権中納言に昇進。異例の昇進で、且つ長実は「非才智、非英華、非年労、非戚里」(「中右記」同日条)で、「世間頗有傾気歟」となる。
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11月
・ルイ6世、16年間かかってマルル城主トマを鎮圧、王領地平定。
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11月9日
・頼長(11)、この月の春日祭に、近衛府使を勤任して奈良に赴く。
8日、東三条邸において出立(でたち)の儀を行い、つづいて土御門皇居に参入して春日社参向の由を奏し、畢(おわ)って関白の近衛室町邸に退いて装束を改めた上出発し、その夜は淀の宿所に泊る。
翌9日未明、宿所を出て舟に乗り、木津において舟をすて、陸行して夕刻梨原に着き、それより社頭に参向し、祭儀を終えて同夜は梨原に泊る。
翌日辰の初め(午前7時コロ)、宿所を発って往路を引きかえし、夜に入ってから東三条邸に帰着して還立(かえりだち)の儀を行い、初めての春日祭使の勤仕を無事にすませる(「中右記」)。
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11月27日
・鳥羽院、熊野に向かい院政を行うことを神に告げその納受(のうじゆ)を祈る。
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12月
・源義清(義光の子)、初めて甲斐に入部。子の清光の次男信義が武田氏の始祖。
既に入部の嫡男清光が常陸那珂郡武田郷(勝田市)で乱暴を働き、常陸を追われ甲斐八代郡市河荘(山梨県市川三郷町)に配流という。
但し、市河荘の役人として一族郎党引き連れての大移動。
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12月25日
・ノルマン・シチリア王国建国。
ノルマンディー公ロジェール2世(37)、自らシチリア王と宣言(位1130~1154)、パレルモ大司教が戴冠。

長い戦いの始まり:
10年戦争と呼ばれる諸侯の反乱、教皇インノケンティウス2世との対立。皇帝軍の南下。

ロジェール2世。
ルッジェーロ、ロゲリウス、35、1195~1154。カラーブリア・シチリア伯位1105~1127。アプーリア公位1127~1130。ノルマン・シチリア王位1130~1154。1130~1140、南イタリアで苦しい戦い、1140年、南イタリアの「唯一の支配者」となる。支配地域(シチリア、カラーブリア、アプーリア公国、ナポリ公国、ナポリ公国、ターラント候国)。 
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2016年10月5日水曜日

大治4年(1129)6月~12月 白河法皇(77)没 「威は四海に満ち、天下帰服す・・・聖明の君、長久の主・・・理非決断、賞罰分明、愛憎掲焉、貧富顕然なり、男女の殊寵多きによつて、すでに天下の品秩を破るなり。」(『中右記』) 院近臣藤原家成、「挙げて天下の事一向家成に帰す」といわれる 平忠盛、鳥羽殿の御厩預の地位をそのまま元のごとく命じられる

皇居東御苑 2016-10-04
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大治4年(1129)
6月2日
・アンジュー伯フルク5世(34、フルク・ダンジュー)とエルサレム王ボードワン2世娘メリザンド、結婚。ボードワン2世、フルク5世にアッカとティルスを与える。

フルク5世:1095~1143。アンジュー伯在位1109~1128。エルサレム王在位1131~1143。初婚エランブール・デュ・メーヌ。息子ジョフロワ・ル・ベル(美男、18、1113~1151、ヘンリ2世父)。娘マチルダ(ヘンリ1世息子ウィリアム妻)。再婚エルサレムのメリザンド(位1131~1152)。息子エルサレム王ボードワン3世(位1143~1163)。息子エルサレム王アモーリ1世(位1163~1174)。

エルサレム王ボードワン2世、フルク5世とダマスカス遠征、大洪水のため失敗。
暗殺教団イスマイル派とキリスト教徒が同盟して遠征。
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6月26日
・以前より殺生を禁止してきた白河法皇、角殿西門外に魚網を集め、焼却させる。
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7月
・ドイツ王ロタール、シュパイエル(マインツ南75km、1127年シュヴァーベン大公フリードリヒが占領)の2度目の攻囲開始。
フリードリヒ妻アグネスが市民を奮起させて籠城指揮、奮戦。
1130年1月バイエルン大公ハインリヒ尊大公、救援に駆けつけたフリードリヒを撃退。
シュパイエル、兵糧の底がつきあらゆる権利と自由の保障を条件に降伏。
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7月7日
・白河法皇(77)、没(誕生:天喜1(1053)/06/20)。鳥羽院政が始る。  

白河法皇は生前、「わが崩後、茶毘礼(だびれい)を行ふべからず。早く鳥羽の塔中石間に納め置くべきなり」(『長秋記』)と命じていた。遺骸を火葬にはせず、鳥羽の三重塔のもとに葬れという。その三重塔は、天仁2年(1109)に自らの墓所にするようにと建立させてあった。

しかし、死の半年前、茶毘に付すなとの命令は撤回された。
法皇が亡くなったのは、京中の院御所、三条烏丸第であったが、遺骸は葬儀の日、京都の北西郊外にある香隆寺(こうりゆうじ)近く、現在の衣笠山東麓に運ばれ、茶毘に付された。
そして、遺骨は一時香隆寺に納められ、2年後の天承元年(1131)、法皇の遺言どおりに鳥羽の三重塔に納められた。

「後三条院の崩後、天下の政をとること五十七年<在世十四年、位を避るののち三十三年>、意に任せ、法に拘はらず、除目・叙位を行なはせ給ふ、古今いまだあらず。・・・威は四海に満ち、天下帰服す・・・聖明(せいめい)の君、長久(ちようきゆう)の主・・・理非決断、賞罰分明、愛憎掲焉(けちえん)、貧富顕然なり、男女の殊寵(しゆちよう)多きによつて、すでに天下の品秩(ひんちつ)を破るなり。」(宗忠『中右記』)。
「律令」に象徴される古代的政治秩序からの決別。「専制性」。

「すでに天下の品秩を破るなり(天下の秩序を崩した)」とは;
この院政による新儀として、①受領功、万石万疋進上の事、②十余歳入、受領に成す事、③三十余国定任(じようにん)の事、④我が身より始めて子三、四人を同時に受領に成すの事、⑤神社仏事封家(ふけ)の納、諸国の吏(り)全く弁済すべからざるの事、⑥天下の過差、日を逐って倍増、金銀錦繍(きんしゆう)下女の装束に成るの事、⑦御出家の後、御受戒無きの事、の七つをあげている。
①は、受領功として米万石・絹万疋を納めることで受領に任じられる傾向が定着したことを意味し、②のように十余歳で受領に任じられたり、④のように自身の他に子が3、4人も同時に受領になる貴族があらわれ、③のごとく、三十余国が院から知行国に配分されるようになって、受領の地位が完全に利権化するようになったという。
受領から納められた①の万石・万疋は、院に関わる御願寺(ごがんじ)や殿舎の造営費用にあてられ、院の周辺のセレモニーに費やされた結果、⑤のように、諸国の受領が神社や仏事の費用に必要な封戸(ふこ)の納入を全くしなくなっていた。そのため⑥の天下の過差(贅沢)は、日を追って倍増し、金銀錦繍の装束で飾られた風俗が広がった。
6月14日の祇園御霊会(ごりようえ)には院・新院・天皇・女院の殿上人から華麗な馬長(うまおさ)が寄せられており、それを「金銀錦繍風流の美麗」「天下の過差、勝計すべからず」と『中右記』は記している。

こうした晩年の白河院の傾向を鳥羽院はそのまま継承した。
当初は白河への反発から、白河に仕えて自分に冷たくあたっていた藤原顕盛(あきもり)などを退けたり、白河に退けられて宇治に隠居していた摂関家の忠実を復帰させるなどしたが、それは白河の路線を否定したわけではない。白河に仕えていた院北面などはそのまま鳥羽院の北面に任じられており、院庁の別当もほとんど継承されている。

「よろづの御政、御心のままなる」という専制的な性格も変わらなかった(『今鏡』)。
『愚管抄』は鳥羽が幼い時に遊び相手の滝口を弓で射たと述べてお。、祖父に似て武を好む素質は十分に備わっていた。ただ甘やかされて育った影響もあったためか、祖父のような凡帳面な性格ではなかったようである。
『今鏡』は鳥羽との比較において、白河院が「おはします所、きらきらと掃き拭ひ」、文を御厨子(みずし)の中に整理して置くなど、極めて凡帳面な性格でたったことを語っているのに、これに対応する鳥羽の性格に触れていない。
その文脈からして大雑把な性格だったらしく、白河の「理非決断」とは対照的であったと考えられる。

白河院~後白河院の院の専制性の共通点:
①院の仏事・法要への執心。「顕密体制」を外護する権力としての王権の位置を明確化する結果となる。
②叙任・除目における院の専権が、律令制的位階制・官職秩序を相対化・解体。
③律令法の形骸化。律令制に拘束された天皇では果せぬ機能。

平忠盛、白河院の仏事では院庁(いんのちよう)の「判官代(ほうがんだい)」の筆頭としてその名が見える(『中右記』)。
鳥羽上皇は、前政権の近臣の多くを退けるが、忠盛は御厩預を命じられ、待賢門院や祇園女御への成功により鳥羽院政最初の叙位で正四位下に叙せられ、引き続き院近臣として重用され続ける。鳥羽上皇領の肥前神崎荘を根拠地に日宋貿易を経営する。
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8月2日
・平忠盛、鳥羽殿の御厩預(みまやあずかり)の地位をそのまま元のごとく命じられ、さらに北面の輩が結番(けちばん)して院に伺候することについても、検非違使の藤原実行とともに協議して決めるように命じられる(『長秋記』)。院中を警備し、牛馬の管理を行ぅことを引き続き命じられた。
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8月3日
・白河に三重塔が造られ、九体の仏像が安置されることになった。
仏像造立は平忠盛が請負い、12月28日の白河の塔供養では待賢門院の祈りによって塔十基を造進した。
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8月4日
・「挙げて天下の事一向家成に帰す」といわれた院近臣藤原家成は、鳥羽殿預(あずかり)という地位を与えられ(『長秋記』大治4年8月4日条)、家成に対する鳥羽院の信任は厚かった。
その職能は鳥羽殿の納殿や御倉町を管理する「納殿並御蔵沙汰人」の上に立つ存在で、白河法皇死直後まで得子の父藤原長実が同様の地位にあり、それを家成が引き継いだと考えられている。

保安3年(1123)正月に六位の蔵人として鳥羽天皇に奉仕したのを手始めに、若狭守、加賀守と続けて鳥羽院分で受領に任じられ、大治元年の従五位上から同四年の従四位上までの叙位もすべて鳥羽の院分によるもの。
鳥羽院政が始まると、大治4年10月に正四位下に叙せられ、左馬頭になって左馬寮も知行し、さらに讃岐・播磨守になって、長承元年(1132)に白河に九体新阿弥陀堂(くたいしんあみだどう)を造進して重任の宣旨が下されている。
また、9月には嫡子・隆季を但馬守に任じて但馬を知行し、同3年には左馬頭から左京大夫(だいぶ)に移って、保延2年(1136)には娘婿・藤原忠雅を美濃守に任じて美濃を知行し、計3ヶ国と1官司を知行するに至る。
そして保延3年に播磨守を辞して子の家明を越後守になすとともに、自らは公卿となった。受領は5ヶ国の歴任で公卿となるのが通例で、家成は4ヶカ国と1ヶカ国の重任なので、その適用を受けた。『二中暦(にちゆうれき)』の「一能暦(いちのうれき)」は「徳人(とくにん)」として家成をあげており、広く知られた富裕者であった。
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9月
・メルフィの大集会。
ロゲリウス2世、全伯・司教・大修道院長を召集(カラーブリア、アプーリア、サレルノ、アブルッツィ、ルカーニア、カンパーニア)。
ロゲリウス2世、アプーリア・カラーブリアの全ての伯に主君であると認めさせる(全伯にアプーリア公公位継承を承認させる)。
家臣より「戦う権利」を奪う。
公国内に平和宣言、平和侵害者に対する裁判権を独占。
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・暗殺教団の保護者・ダマスカス宰相アル・マズダガーニ、ブーリ・イブン・トゥグティギンの命令によりダマスカス城内で殺害。暗殺教団がエルサレム王ボードワン2世にダマスカスを開城する陰謀露見し、直ちに暗殺教団狩りが始まる。
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9月1日
・日蝕符合し、陰陽頭に給録。
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11月11日
・源為義らを派遣して興福寺僧徒の騒擾を鎮圧させる。
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12月
・末、対立王コンラート3世、ドイツに帰国(イタリア遠征1128~1129)。
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12月28日
・藤原頼長、内裏および鳥羽院・待賢門院三所の昇殿を許され、翌大治5年正月3日、関白忠通に伴われその昇殿の儀を遂げた。
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2016年9月29日木曜日

大治3年(1128)~大治4年(1129)4月 平教盛誕生 藤原清衡(73)没 西宮歌合・南宮歌合 崇徳天皇(11)元服 平清盛(12)従五位下叙任、左兵衛佐任官、石清水臨時祭の舞人を勤める 藤原聖子(8)が崇徳天皇に入内 平忠盛、山陽・南海道の海賊追補使に任命 頼長(10)、白河法皇以下三院に初めて謁す

鎌倉 英勝寺 2016-09-27
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大治3年(1128)
この年
・平教盛(のりもり)、誕生。平忠盛4男。母、太皇太后宮権大夫藤原家隆娘・待賢門院女房
淡路守、大和守、伊勢守(越中?)、常陸介、能登守、丹波権守、従二位、中納言。
安元2年3月、後白河法皇の五十の賀に宴遊用船を造営。
6月、鹿ヶ谷事件で配流の娘婿藤原成経に援助。
治承4年(1180)以仁王追討軍(実戦不参加)。6月、福原遷都で邸を後白河法皇内裏とする。
治承5年閏2月、清盛没で十一面観音継承。
寿永4年3月、壇ノ浦で平経盛と組み合って入水自殺。
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・エルサレム王ボードワン2世、フランス王ルイ6世に娘メリザンドの夫を求めるべく使者2人派遣。エルサレム王はアンジュー伯フルク5世(1120年エルサレム巡礼)を指名、フルク5世は結婚承諾。
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・アンジュー伯フルク5世、息子ジョフロワ(18)にアンジュー伯領を譲位、エルサレム巡礼に出発。アンジュー伯ジョフロワ・ル・ベル、即位(美男、1113~1151、位1128~1151)。

ジョフロワ:
アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌを合併した大アンジューを譲位。父同様の戦闘を進めサブレ・アンボワーズ・コンデ・セグレの領主達の謀反を抑え、アンジューの領主達はアンジュー伯の下に団結同調。プランタジネットと仇名される最初の人物。
イングランド・ノルマン王家との関係。
1113年アンジュー伯フルク5世、ヘンリ1世と和解。
1119年ヘンリ1世息子 ウィリアム・エシリングとアンジュー伯フルク5世娘マティルダ結婚。
1120年ヘンリ1世息子ウィリアム・エシリング、白舟号の遭難で没。
1128年ヘンリ1世娘マティルダ(29、皇帝ハインリヒ5世未亡人)と結婚。
1133年ジョフロワとマティルダの息子ヘンリ2世(位1154(21)~1189)、誕生。
1135年12月2日ヘンリ1世、没。スティーブンとマティルダの内戦(1135~1152)。マティルダ夫アンジュー伯ジョフロワはノルマンディ征服に専念。
1136年ジョフロワ、ノルマンディー侵入、リジューまで軍を進めるが、掠奪の為の無意味な戦闘で致命的敗北。
1137年スティーブン、ノルマンディー到着、マティルダ・ジョフロワと停戦締結(実質はマティルダ・ジョフロワの敗北)。
1138年初頭アンジュー伯ジョフロワとマティルダ、停戦破棄、ロバート・オフ・グロスターと同盟締結。ノルマンディー 全地方、マティルダ=アンジュー伯ジョフロワの権威を認める。
1139年9月マティルダとロバート、イングランド上陸。
1141年アンジュー伯ジョフロワ、ノルマンディー征服開始(1141~1144)。最初にバス・ノルマンディ(コンタン半島~クータンス~カン)征服。後、オート・ノルマンディー(ルーアン周辺)征服。
1144年1月19日ルーアン降伏。ノルマンディー公の称号獲得。数ヶ月後、フランス王ルイ7世にノルマンディ公として臣従の誓い。
1144~1150ノルマンディーを賢明な手腕で統治(イングランドの混乱に巻き込まれるのを避け、大陸でのプランタジネット家の強化に専念)。
1150年ノルマンディーを息子ヘンリ2世に譲位。
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・ムラービト朝アミールのアリー・イブン・ユーフス息子ターシュフィーン・イブン・アリー、グラナーダでイスラム・スペイン支配開始(支配期間1128~1138)。トレード攻撃(トレード東オレーハ、南カラトラーバに根拠地、トレードを孤立させようとする)。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、モリーナとカスティルヌエボを征服(サラゴーサ南、モンレアル西)。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ12世、バレンシア包囲、失敗。
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・ポルトガル王アルフォンソ1世、即位(1128~1185)。ポルトガル王国創設。カスティーリャ・レオン女王ウラーカ(位1009~1026)治世の内乱を利用して独立国になる。
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1月14日
・テンプル騎士団、教皇ホノリウス2世に正式「騎士修道会」として認可。
シャンパーニュ伯領首府トロワの会議。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しい騎士たち」。中心人物はシャンパーニュ関係者、創設者ユーグ・ド・バイヤン(会員9名)、有力後援者シトー会総長ハーディング、クレルボー修道院長ベルナール。
トロワ会議後、テンプル騎士団、欧州各地を廻り会員募集・所領取得活動開始。総長ユーグ・ド・バイヤン、ノルマンジーに赴き滞在中の英王ヘンリー1世と会見、多額の金品を贈られる。英に渡り、ヘンリー1世娘マチルダ(国王代理)よりロンドンのテンプル城館(ロンドンの本拠とする)の寄進を受け、各地の荘園・多額の金品を贈られる。ノルマン系イギリス貴族から多くの修道騎士団を徴募。のち中部フランスを歴遊。
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2月18日
・ダマスカスのアターベク、トゥグティキン、没。宰相アル・マズダガーニはエルサレムと連絡をとり、暗殺教団は暗躍する。
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5月28日
・源為義、新院御所警護の武者所の武士を殺害した犯人を捕らえる。
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6月
・ロゲリウス2世、サレルノとブリンディジを結ぶ線以南の地域を支配下に置く。
「反ロゲリウス2世同盟」、北から侵攻開始、戦闘交える前に解散。
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6月17日
・ヘンリ1世娘マチルダ(26、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世寡婦)、アンジュー伯ジョフロア・プラタジュネ(16)と再婚。
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6月25日
・ポルトガル、サン・マメーデの戦い。サン・ジョアンの日、故エンリケ・デ・ボルゴーニャとテレサの子アルフォンソ・エンリケス、領内貴族の意向を無視してサンティアゴ大司教と和平を結んだテレサに反発、ポルトカーレ貴族を率いてテレサ軍を破る。
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6月28日
・ザンギー、スルタンよりモースルとアレッポの統治を委ねられ(アターベク)、アレッポに入城。
アレッポの故リドワーン王娘(イルガジとバラクの未亡人)と結婚。
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6月29日
・コンラート3世、イタリア遠征(1128~1129)。
モンツァとミラノでミラノ大司教アンセルムよりイタリア王に戴冠。
ミラノ、ドイツ王ロタール3世のイタリア王自称に憤慨、コンラート3世を友好的に受け入れ。
ミラノ大司教アンセルムは大司教の権利・義務に関して教皇庁と係争中、コンラートのイタリア王即位を歓迎。
イタリア諸都市(パヴィア、ノヴァーラ、ブレシャ、クレモナ、ピアチェンツァ)がミラノへの反感からコンラート3世の敵に廻る。
教皇ホノリウス2世、コンラート3世とミラノ大司教アンセルムを破門。パヴィア教会会議で教皇使者クレマのヨハンがコンラート3世破門を繰り返す。
この時点よりミラノ市民の熱意が減退。欺かれたコンラート3世は少数の供とパルマに向う。
1129年末、コンラート3世は資金不足もありドイツに帰国。
イタリア遠征失敗。
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7月13日
・藤原清衡(73)、没(誕生:天喜4(1056))。藤原3代にわたる栄華の基礎を築く。
嫡子の惟常(基衡とは異母兄)と基衡の間で後継争い。
翌大治4年、双方ので合戦、基衡は惟常を襲撃、これを討ち、藤原氏2代目の統領となる。
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7月27日
・フランドル伯ギョーム・クリトン、没(ノルマンディーのギョーム、位1127~1128)。アルザス家アルザスのティエリー、フランドル伯即位(ティエリー・ダルザス、位1128~1168)。
妻シビル・ダンジュー:アンジュー伯フルク5世と最初の妻アランブルジュ・デュ・メーヌの娘。
1157年、再婚の夫フランドル伯ティエリー・ダルザスとエルサレム巡礼。エルサレムで父フルク5世の思い出に感動、聖ラザロ修道院に入り、夫ティエリーにフランドルに戻ることを拒否。1165年没。
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8月22日
・教皇ホノリウス2世とロゲリウス2世、ベネヴェントで会見。
ロゲリウス2世、アプーリア公の「地位」が公式に認知され公国内の諸侯達への宗主権が合法化、秋迄にアプーリア公国を完全に鎮圧。
教皇ホノリウス2世、ロゲリウス2世の破門を解除、アプーリア公に任命。
ロゲリウス2世、教皇ホノリウス2世に臣従礼と忠誠宣誓、カープア候の独立尊重を誓う。
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8月29日
・西宮広田神社で「西宮歌合」。神祇伯源顕仲が一族を中心に催す歌合。藤原長実や彼の同母弟顕輔、長実の姉妹より生まれた三条公教が参加。
9月21日「南宮歌合」、広田神社の境外摂社・南宮の門妙社で行なわれ、参加者16人中11人は「西宮歌合」の参加者。
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10月21日
・法皇、上皇が石清水八幡宮に行き、一切経を供養する。
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10月22日
・白河法皇の八幡一切経供養願文に殺生禁断のため越前など11ヶ国の土産の魚類をやめるようにとあり。
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12月
・藤原忠通、太政大臣となる。
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大治4年(1129)
この年
・駿河国の御厨(みくりや)供祭(くさい)物押奪によって伊勢神宮が官使・国使(くにのつかい)を訴える事件が起こる。
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・シエナとフィレンツェとの間に最初の戦いが起こる。他方、フィレンツェはピサに接近、海への出口を確保。この同盟により、ピサは背後の憂いを除き、脅威であるミラノに備えることができた。
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・ベルナール、シャロン・スール・マルヌ教会会議に参加
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1月
・源雅兼に越前権守を重任させる。
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1月1日
・崇徳天皇(11)、元服。
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1月6日
・平清盛(12)、元服して間もなくこの日、従五位下に叙任、直後(24日)に左兵衛佐(さひょうえのすけ)に任官。
6日に「斎院の御給」により従五位下(じゅごいのげ)に叙せられた(白河法皇の皇女恂子(じゆんし)内親王の御給の適用によってのこと)。それまでは院の非蔵人であった。
従五位下に叙されたことについては、宗忠の日記『中右記』は当日の記事に載せておらず、父の忠盛が従四位下になったことを特筆している。宗忠にとっては目立つほどのものではなかった。
但し、24日の任官(左兵衛佐)は破格のものであった。

武門の子としては破格の待遇
(武士が衛府に任官(督・佐・尉の3官)する場合、三等官の尉に任官が普通。家格上昇後の平家嫡男重盛でも左衛門尉から始まる。清盛の任官は二等官の佐から)。
藤原宗忠は「この春給爵、十年(ととせ)、傭前守忠盛の男、人、耳目を驚すか」(『中右記』)と記す。春に五位になったばかりで、十歳の若さで左兵衛佐になったことに驚きを示している。通常ならば四等官の兵衛尉から任官が始まるからである。

この年3月16日石清水臨時祭で舞人に選ばれる。この時、清盛乗馬の口取りは白河法皇養子の内大臣源有仁の随身が務める。
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1月9日
・摂政忠通(33)の娘の藤原聖子(8)が崇徳天皇に入内。16日、女御とする。
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3月
・備前守平忠盛、白河法皇院宣により山陽・南海道の海賊追補使に任命、数十艘の船で瀬戸内海を荒らす海賊鎮圧に当たる。
但し、討伐の首尾は不明。一説では、瀬戸内の海賊(在地武士)を自己の勢力下に治める為、海賊の脅威を喧伝し追討院宣を要求したともいわれる。しかし、瀬戸内海の海賊追討使に任命されるほど、忠盛及び平氏勢力が西国一帯に浸透している事実は重要。
忠盛は白河法皇没後も、引き続き鳥羽上皇の近習として奉仕。藤原顕季の孫で鳥羽院第一の寵臣家成との連携を深める。
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3月16日
・石清水の臨時祭。備前守平忠盛の子兵衛佐平清盛(12)が初めて石清水臨時祭の舞人を勤める。
付き従う雑色(蔵人所・院御所・その他武家で雑役をする職)の装束が美しく贅沢で、内大臣源有仁の随身(貴人外出の時、護衛した武官)・府生重近が平清盛の乗る馬の口取りを勤めており人々の耳目を驚かす(「中右記」同日条)。
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4月5日
・藤原長実(55)、参議就任。宮廷行事(賀茂祭=葵祭)に当たり、参議5人の内、服喪中3人・病中1人、更に、参議に次ぐ蔵人頭2人も服喪中のため、散三位(位階は三位だが太政官の職についていない者)から繰り上げ昇進させることになり、長実が就任。
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4月10日
・藤原忠通、太政大臣辞職。
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4月19日
・頼長(10)、白河法皇以下三院に初めて謁す
この日、菖蒲若(あやわか)と称していた頼長(10)は、兄摂政忠通の子として、兄に伴われて白河・鳥羽両院および待賢門院(璋子)に初めて参入し、三院に謁して手本などの贈物を給わった。
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2016年9月18日日曜日

大治2年(1127) 白河法皇が藤原忠実の証菩提院領を没収 大治の荘園整理令 中世的土地制度=荘園公領制が確立した大きな画期 祇園祭はいよいよ盛んになる 「凡そ天下の過差、勝げて計ふ可からず。金銀錦繍、風流美麗、記し尽くす可からず。両院、按察中納言の三条室町の桟敷に於いて御見物すと云々」 雅仁親王(のち後白河天皇)誕生

千葉 大山千枚田 2016-09-16
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大治2年(1127)
この年
・白河法皇、藤原忠実が失脚中のこの年、忠実が集積した堀河中宮領を継承した証菩提院領を没収。
忠実は、白河法皇没後、鳥羽院政期に復権し、荘園の集積を再開、安定した摂関家領を確立する。
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・ヘンリ1世、貴族達にマティルダへの臣従を誓わせる。
1133年、貴族達に生まれたばかりのヘンリ2世への臣従の誓わせる。
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・バイエルン大公ハインリヒ尊大公、バイエルンの有力者を召集、ラント平和令を誓約させ掌握。
平和令違反者の城を攻め落とし、敵意をいただいていたレーゲンスブルク司教フリードリヒを屈伏させる。
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・ドイツ騎士団の起源。
あるドイツ人夫妻がドイツ人巡礼の為にエルサレムにドイツ館と呼ばれる病院を開く。
この病院がドイツ騎士団の起源と云われる「エルサレムの聖母マリアドイツ病院兄弟団」の前身考えられている。
1143年の教皇文書によるとヨハネ騎士団に所属。

公式記録では、1190年第3次十字軍中に、アッコンでリューベックとブレーメンの市民の作った野戦病院がシュバーベン公フリードリッヒの保護を受け、正式病院に昇格、同年エルサレム王ギー・ド・リュジニャンからも承認を受ける。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、アアイサラ征服(エブロ河サラゴーサ下流)。
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・ペルシャ湾バスラ港司令官イマードゥッディーン・ザンギー(44、ゼンギー)、スルタン・マフムードに命ぜられバグダードのカリフ(アル・ムスタルシド)の反乱鎮圧。
(イラク北部イマード・アッディーン・ザンギー(44、ゼンギー)、モースルにザンギー朝建国(位1127~1146)。セルジュク・トルコより自立。十字軍の侵略への反攻開始。)
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・南宋の建国。
徽宗9子で欽宗弟の康王、靖康の変の際に河北にいて難を逃れ、北宋滅亡後、河南の応天府(現、商邱)宋を復興(南宋初代皇帝高宗(1107~87、位1127~62))。
高宗は金の追撃を受け、南に逃げ長江を渡り、江南に拠って金を防ぎ、江南の諸勢力・反乱を平定して南宋の基礎を確立、都を臨安(現、杭州)に定める(1138)。
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1月20日
・淡路守藤原信輔を若狭守に、若狭守藤原家成を加賀守に任じる(「中右記」)。
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2月15日
・久我家の祖源顕房の子・村上源氏の祖源師房の孫・久我雅実(69)、没。
源氏初の太政大臣など歴任。雅実1男顕通(あきみち)も正二位権大納言に至り、久我大納言と称されるが、保安3(1122)年4月、父に先だち没。
2男の雅定(まささだ、1094~1162)が後継。正二位右大臣に昇る。応保2(1162)年5月27日没(69)。
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3月2日
・フランドル伯シャルル(善良、デンマークのシャルル)、殺害(位1119~1127)。
ギョーム・クリトン(ノルマンディーのギョーム、元ノルマンディー公ロベール息子クリトー)、即位(1127~1128)。
ノルマンディー公領奪還開始と思われるが、フランドル内の反対者を攻撃中に戦死、ヘンリ1世最大の悩みが消える。
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5月19日
・大治の荘園整理令。
寛徳以後の新設荘園を停止し、公民が荘園に逃れて課役を免れることを禁じる。
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5月29日
・ハインリヒ尊大公(27、傲岸公、ヴェルフェン家)、ゲルトルーデ(14、ドイツ王・ザクセン大公ロタール3世娘、1113?~1143)と結婚。
ロタール3世、ハインリヒ尊大公をザクセン大公に任命。
ハインリヒ尊大公、ロタール3世とホーエンシュタウフェン家との私闘で全面的に岳父を支援。 

ドイツ王ロタール3世とシュヴァーベン大公フリードリヒ(ホーエンシュタウフェン家)との私闘:
ロタール3世陣営(バイエルン大公ハインリヒ尊大公(ロタール3世娘婿)、ボヘミア大公ソビエスラヴ)。
フリードリヒ陣営(弟フランケン大公コンラート3世、ケルン大司教フリードリヒ1世、アーヘン、ニュルンベルク)。
ロタール3世、ボヘミア大公ソビエスラヴの支援軍数千と共にニュルンベルク(バイエルン地方)攻囲。
3ヶ月後、ソビエスラヴ支援軍が勤務期間終了、引き上げ。
シュヴァーベン大公フリードリヒ、ニュルンベルクを救援。
ロタール3世、ニュルンベルク→バンベルク→ヴュルツブルクに後退。
フリードリヒはシュパイエル(マインツ南75km)占領、シュパイエル司教放逐。
バイエルン大公ハインリヒ尊大公は後退し、フリードリヒに和平提案、招請に応じたフリードリヒをツヴィーファルテン大修道院で夜襲。救援軍が到着し失敗。
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6月14日
・院政期、祇園祭はいよいよ盛んになる。
『中右記』大治2年6月14日条には、
「祇園御霊会、四方の殿上人、馬長童(うまおさわらわ)・巫女・種女(たねめ)・田楽、各数百人、此の外、祗園所司僧・随身数十人供奉す。舞人十人を唐鞍に乗らしむ。凡そ天下の過差(かさ、分不相応なぜいたく)、勝(あ)げて計(あぞ)ふ可からず。金銀錦繍、風流美麗、記し尽くす可からず。両院(白河院と鳥羽院)、按察中納言の三条室町の桟敷に於いて御見物すと云々」
とあって、その華麗な様相を描き出している。

院政期には都市民は都市の中で、「在地」と呼ばれる一種の共同体を築くまでに成長していた。
一方、院政期になると、院は都市民の主催する祭りを積極的に取り込んでいくことによって、都市民に対する支配を強めていった。
賀茂祭や祗園御霊会などの祭りは、次第に大きな存在になってきた都市民にとっては楽しみの場であり、一方、民衆のエネルギーを警戒する朝廷は、祭りの場に介入することによって彼らを統制していこうとした。
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7月25日
・アプリア公ウイリアム(ギョーム、グリエルモ)、没(位1111~1127)。
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8月
・ロジェール2世(32、ロゲリウス2世)、メッシーナの約束(1125年)に従いアプーリア公を確保(1095~1154、カラーブリア・シチリア伯位1105(10才)~1127、アプーリア公位1127(32)~1130、ノルマン・シチリア王位1130(35)~1154)。
8月初め、ロジェール2世、アプーリア公国首都サレルノ到着。サレルノとアマルフィ町から新しい領主として認められ、アリーフェ伯ライヌルフスより臣従礼(オマージュ)を受ける。
後、ベネヴェンに行きその地域の小領主より主君として認められる。更に、次の都市(メルフィ、トロイア、レッジョ)を自らの支配下に置く。
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8月14日
・後冷泉天皇の中宮(のち皇后)で四条宮と呼ばれた太皇太后藤原寛子(92、父は摂政藤原頼通)、没。
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9月11日
・鳥羽上皇第4皇子雅仁親王(のち後白河天皇)、誕生。母待賢門院璋子。乳母、藤原朝子(後に藤原信西妻)。
11月14日親王宣下。
崇徳上皇の同母弟。崇徳天皇のあと、皇位が異母弟の近衛天皇に移った時点で、雅仁親王は皇位から遠い存在となり、皇室内部でも影の薄い立場に置かれた。

■白河・鳥羽の確執と雅仁親王の運命
白河法皇は、堀河天皇没後、ただちに皇孫宗仁親王(5歳、鳥羽天皇)を皇位につけ、絶大な専制的権力を発揮しはじめた。
その頃、法皇は藤原公実の女の璋子(後の待賢門院)を養女として育てていたが、この璋子は18歳のときに、2歳若い鳥羽天皇の中宮となる。彼女は入内の翌年元永2年(1119)に第一皇子顕仁(後の崇徳天皇)を生むが、この皇子は実は白河法皇の子であるとの、もっぱらの噂が流れていて、法皇も実際にこの皇子をこよなく寵愛した。
『古事談』によれば、鳥羽天皇自身もそのことを承知で、顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んだという。
『今鏡』には白河院在世中、白河・鳥羽と中宮の3人が、三条室町殿に一緒に住み、外出にも3人が一つの車で御幸することがあったとある。白河法王は、鳥羽の妃となった璋子をいつまでも手放しがたく、いつくしんだと推測できるし、さきの噂も真実を伝えるものであったとも考えられる。
ともあれ、璋子は美人の評判高く、はじめは鳥羽天皇に愛され、その間に5皇子・2皇女をもうけた。

白河法皇は鳥羽天皇の思惑には頓着せず、顕仁親王が5歳になったとき、鳥羽天皇(21)を退位させ、親王を皇位につけた(崇徳天皇)。
この頃から、白河法皇と鳥羽上皇の間にわだかまりの萌芽が生じはじめた。

雅仁親王が第4皇子として生まれたのは、この4年後のこと。
このとき白河法皇は、待賢門院の平産を祈り、仏像を造り、経を供養した。待賢門院が生んだ第2皇子(通仁親王)は生まれた時から眼が見えなかったといわれ、第3皇子(有仁親王)は筋骨に欠陥があって、「なえ君」といわれていたため、今度こそは健全な皇子をと願った。

こうした中で、第4皇子は健全な御子として生まれた。右大臣中御門宗忠は『中右記』に、「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」としている。
まだ白河法皇の在世中で、待賢門院(これより3年前天治元年に中宮璋子に院号宣下があり女院となる)は宮廷内に権勢を振っていて、雅仁親王はめぐまれた環境のもとに誕生した。しかも、第1皇子はその出生に疑惑があり、第2・第3皇子はともに身体に障害があるので尚更のことである。

ところが2年後、白河法皇が没し鳥羽上皇の院政が始まると、白河法皇の為政に不満をもち、批判的であった鳥羽上皇は、ことごとく前代の為政方針を改めることに努めた。そうした情況の中で、とくに白河法皇との因縁の深い待賢門院は、次第に疎外されるようになった。

鳥羽上皇は、あらたに前関白藤原忠実の女の泰子(高陽院)を入内させて皇后とし、さらに藤原長実の女で、美貌と才媛を誇る得子(美福門院)を寵愛するようになった。とくに泰子の父忠実は白河法皇の晩年に法皇と対立して関白の座を追われた人物で、この泰子の入内については法皇が遺言で強く反対したところであったが、鳥羽上皇はその遺言を全く無視して彼女を後宮に入れた。

この頃から、上皇と待賢門院との不和は顕著となり、上皇は、待賢門院及び崇徳天皇をめぐる勢力に対して警戒心を強めていった。

院政の主となった鳥羽上皇も、白河法皇に劣らず、次第に専制的権力を発揮しはじめ、待賢門院の宮廷内における勢力が失われ、その所生の諸皇子たちの立場にも暗い影がさしはじめる。
雅仁親王4歳の大治4年(1129)、弟の第5皇子(本仁親王)が生まれたが、この皇子は5歳のとき剃髪して仏門に入り、法名は覚性、紫金台寺御室と号している。この第5皇子の仏門入りも、待賢門院の勢力凋落と関係があろう。

こうした中で、雅仁親王は、保延5年(1139)、12歳で元服し、二品に叙された。
ところが、この同じ年、美福門院得子が、皇子躰仁(なりひと)親王を生み、しかも生後わずか3ヶ月で、この皇子の立太子の儀が行われた。ここで事情が急変した。鳥羽上皇は、その寵愛する美福門院の生んだ皇子に皇統を与えるという方向に動いた(上皇は皇后泰子に皇子誕生を期待していたが、皇女しか生まれなかったという事情があり、躰仁親王の立太子が順調に実現したものともいわれているが)。

結婚して、17歳で1子をもうけるが妻に先立たれ、上臈播磨局を寵愛。
政界中枢から外れており、10代から今様に親しむ。仏教音楽にも傾倒し、高僧を師に声明(しょうみょう)を修行。器楽では笛を得意とする。
第四皇子は通常「四の宮」と呼ばれるが、今様に耽溺するあまり「今宮」と仇名され「遊芸の親王」の名をほしいままにする。異母弟近衛院の没後、継母美福門院推挙により、29歳で突然即位。
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10月20日
・源義光(73)、三井寺にて没。
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11月
・秋~冬、教皇ホノリウス2世、反ロゲリウス2世同盟結成。
11月か12月、ホノリウス2世、ロゲリウス2世破門。

反ロゲリウス2世同盟への参加者(カープア候ロベルトゥス2世、アリーフェ伯ライヌルフス、アリアーノ伯ロゲリウス、バーリ候グリモアルドゥス・アルファラニテース、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥスとその兄弟、アンドリア伯ゴフレドゥス、トロイアの町)。
ロゲリウス2世、買収工作うまくいかず、反ロゲリウス派諸侯・都市の少ない旧ターラント候国地域より制圧開始。
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11月15日
・五節舞。
左京大夫藤原経忠は綿150両を出す(子の若狭守藤原信輔が若狭に課す)。越前守平忠盛は綿50両を出す(「中右記」)。
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12月15日
・日吉(ひえ)社領の新設をめぐって、藤原清衡が陸奥国守良兼と争う。
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12月18日
・フランケン大公コンラート3世(34)、兄フリードリヒと何人かの諸侯の同意を得てドイツ国王の称号を名乗る(1093~1152、1115~1152フランケン大公、1127~1135対立王、1138~1152ドイツ王→ホーエンシュタウフェン朝創始者、ホーエンシュタウフェン家シュヴァーベン大公フリードリヒ弟)。
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12月20日
・藤原顕能を越前守に任じる(「中右記」)。
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12月27日
・私領寄進状「僧永真所領寄進状」。
開発本領主永真が、越前大野郡内の後の泉荘の基礎となる所領を参議従三位藤原宗輔(「中右記」著者宗忠の弟、母は左大臣源俊房の娘。のち太政大臣)に寄進。
開発所領の権門勢家への寄進(開発所領に対する政治的・法的保障の獲得)。

後三条天皇治政(3年余)・白河天皇・上皇治政(57年)は、たび重なる荘園整理令発布と記録荘園券契所(記録所)の活発な活動によって、中世的土地制度=荘園公領制が確立した大きな画期(承保2年(1075)~大治2年で主要なもののみでも十数回)。

後三条天皇親政期の延久の荘園整理令の骨格は、
①寛徳2年(1054)以後の新立荘園の停止、②公田加納の停止、③坪付の定まらない荘園の整理、④往古の荘園のうち券契の不明のものや国衙行政に支障のあるものの停止。
②③については、各国衙レベルで国司が厳しく追及、その過程で④券契(公験)の整備が進み、全体を通じて荘園・公領の分離と夫々の領域の明確化が進展する。
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2016年8月30日火曜日

天治3/大治元年(1126) 公田官物率法の成立とそのベースとなる土地制度整備 藤原清衡、中尊寺金堂と三重搭の落慶供養

鎌倉 大巧寺 2016-08-25
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天治3/大治元年(1126)
この年
・頃(時期不詳)、フランケン大公コンラート3世、パレスティナ巡礼。
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・ゴスラー帝国会議。ドイツ国王ロタール3世、聖霊降臨祭後、シュヴァーベン大公フリードリヒ打倒の帝国軍を決議。
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・末、ヴェルフェン家バイエルン大公ハインリヒ黒大公、没。息子ハインリヒ尊大公(26)、世襲。
尊大公(傲岸公)ハインリヒ:
1127年、国王ザクセン大公ロタール3世娘ゲルトルートと結婚、ザクセン大公領も受領し岳父ロタール3世を支持。
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・ノルベルト・フォン・クサンテン(46)、マクデブルク大司教に就任(位1126~1134)。
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・チェコ、クルシュナー山のフルメッツの戦闘。
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・アキテーヌ候ギョーム9世(54)、没(1072~1126、位1087~1126)。ギョーム10世(27)、相続(1099~1137、位 1126~1137)。
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・カスティーリャ・レオン女王ウラーカ、没(位1009~1026)。初婚のガリシア伯レーモンとの間の息子アルフォンソ7世、即位(位1126~1157)。
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・ポルトガル、この年即位のカスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、ガリシア統治権をサンティアゴ大司教に委ねる。しかし、フェルナン・ロペスもテレサもサンティアゴ大司教への忠誠を拒否。翌1157年サンティアゴ大司教はポルトカーレを焼き討ち。
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1月7日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世武人王、グラナーダ城壁下に迫る。 
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1月22日
・「大治」に改元。
*
2月
・「源某若狭国所領処分状案」。
若狭の私宅を中心とする所領(開発所領、遠敷郡中手東郷・中手西郷・大飯郡青郷6ヶ所)が、丹生二郎隆清に譲られていることを示す文書。
翌3月、二郎隆清が領知する若狭国遠敷郡恒枝名田坪付帳が作られる。
「大開墾の時代」と云われる郡郷制改編・荘園公領制成立の一端を示す。

国内支配権を委任された受領達は、収取物の一定額の上納分以外は私腹にまわすが、やがて非法な収取、郡司・百姓らに対する苛酷な支配に繋がる。
そして、それは、郡司・百姓らの激しい憤激と抵抗を呼び起す(永延2年(988)「尾張国郡司百姓等解文」)。
天延2年(974)~永承7年(1052)、国司苛政上訴闘争と名付けられる郡司・百姓らの抵抗運動噴出(坂本賞三)。

この結果、中央政府の政策は緩やかに転換。

①収取体系面の改革:
公田官物率法の成立
公田と認定した土地に対し定率租税を賦課する制度。
「人」から「土地」への賦課原則の大転換。
11世紀中葉~12世紀初頭「段別3斗」定率がほぼ全国的に成立。
調・庸・雑物の系譜の賦課物は臨時雑役という税制体系に統合。
臨時雑役の内、伊勢神宮や内裏の造営、大嘗会挙行など国家的大事は、一国平均役という名の賦課が荘園・公領を問わずに賦課される。

②行政機構・土地所有面の改革:
郡郷制改編
①の税賦課体制を実現する土台としての公田確定を含む土地制度整備。
領主的開発を背景に、領主的土地所有を公認しながらこれを国家的支配(収取体系)の下に再編成する措置。
律令制地方行政機構(郡―郷の支配・管轄関係)を形骸化し、郡・郷・院・別名などを夫々独立所領(所有単位)として公認し収取の単位ともする改革)。
11世紀中葉、荘園整理と大田文(土地台帳)作成を一国別に確定してゆく。

①は、受領の国内支配の恣意性に制約を加え、上へは中央国家の財政的基盤を安定させ、下へは在地社会に芽生えた私的・中世的土地所有に法的保障を与えることとなる。
②は、在庁官人層や田堵・負名上層ら新興の国内支配層に土地開発と所有のための安定的な政治的・経済的枠組みを提供し、これらを中央国家の直接の支配体制下に組み込む結果をもたらす。
*
2月2日
・白河法皇、東殿に移る。水火童が左右に列立、水童に越前守平忠盛が付く(「永昌記」)。
*
3月10日
・アンスールの戦い。ルセーナ近傍。
アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、ムラービト朝セビーリャ総督アブー・バクルに勝利。
勝利後、マラガの海岸でアンダルシーア遠征を終了、サラゴーサに戻る。
サラゴーサに帰る際に1万人ほどのキリスト教徒をエブロ河流域に連れて帰り定住させる(移住せずアンダルシアに残ったキリスト教徒はムラービト朝より報復される)。
*
3月10日
・千葉常兼(良文流平氏7代当主)、大椎城で病没。弟の相馬五郎常晴が家督を継承。常兼の嫡男常重は大番役として留守のため(?)。
*
3月24日
・藤原清衡、中尊寺金堂と三重搭の落慶供養を行う。建築期間20年。
*
6月
・故千葉常兼の嫡男・常重、帰国。
この年中に上総国大椎から千葉庄へと移住。猪鼻城(池田郷猪鼻山)を本拠とする。
*
7月1日
・彗星北方に見ゆ。
*
10月
・グラナーダのキリスト教徒指導者、サレとメクネスに追放。
*
・エルサレム王ボードワン2世次女アリックス、アンティオキア候ボエモン2世(ボエモン1世息子)と結婚。
ロベール・キスカール長男ボエモン1世、第1回十字軍に参加しアンティオキア候即位。
1111年タラントで没。
アンティオキア公国を甥タンクレード、タラント公国を息子ボエモン2世に。
*
11月7日
・待賢門院を呪詛した疑いで、乗実と妙心が配流。
*
11月26日
・アレッポとモースルの統治者アル・ボルソキ、暗殺教団により暗殺。
数ヶ月後、後継の息子も暗殺。
アレッポは無政府状態となる。
*
12月10日
・北宋、滅亡(靖康の変)[北宋の靖康1年11月25日][金の天会4年11月25日]
金に包囲攻撃されていた開封が陥落。
翌1127年、徽宗・欽宗・后妃・皇族・官僚・技術者など数千人が捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去られ、宋は160年余りで滅亡。
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2016年8月20日土曜日

天治2年(1125) 従五位下藤原家成(19)を若狭守に任じる 藤原頼長(6)が兄忠通の猶子となる

京都、宇治、平等院 2016-08-17
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天治2年(1125)
・源義国、下野国細谷冠稲荷神社創建か。                       
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・平経盛(つねもり)、誕生。平忠盛3男。母、陸奥守源信雅娘。
安芸守、常陸介、伊賀守、若狭守、讃岐権守、備中権守、正三位、参議、修理大夫。保元の乱では御所西南陣で守護。壇ノ浦で没か?
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・ヘンリ1世甥(妹アデラの子)ブロワ伯(フランス)スティーヴン(エティエンヌ)、マティルダ(ヘンリ1世妻エディス・マティルダ妹メアリーの娘)と結婚。
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・フィレンツェ、フィエーゾレを征服。
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・シェーナ、コンスル制成立。
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・頃、イルネリウス(65)、没(1060頃~1125頃)。法律を修辞学か独立させ、「ローマ法全」に依拠した独立の科目としての地位を与えた。
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・頃、カラーブリア・シチリア伯ロゲリウス2世とアプーリア公グリエルモ(ウィレルムス)、メッシーナで会見。
アプーリア公に嫡子が生まれなかった場合、ロゲリウス2世が「アプーリア公位継承者」と取り決め。
アプーリア公ウィレルムス:
ロベール・ギスカール孫、ロゲリウス・ボルサ息子、位1111~1127。名目上、ロゲリウス2世の主君、実質的、ロゲリウス2世の庇護下にある弱小の君主(ロゲリウス2世、しばしば軍事的援助と引き替えに領地の割譲受ける)。 
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・神聖ローマ帝国のフランケン朝断絶。
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・第2代トレード大司教ライムンド、就任(任1125~1152)。
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・エルサレム王ボードワン2世、アンティオキアを守り娘イヴェット(5)取戻す。
捕虜となったボードワン2世釈放の人質(末娘イヴェット他子供10人)。
ボードワン2世、トルコに敵対するエミールと協定締結、アジャス(アンティオキア北方)で敵を 撃破。戦利品で身代金を払い人質を解放、エルサレムに凱旋。
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・アンジュー伯フルク5世妻エランビュルジュ(エランブール・デ・メーヌ)、没(結婚期間1109~1125)。1129年フルク5世、エルサレムのメリザンドと再婚。
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・宋、新興の金と同盟、宿敵遼を挟撃し宿願の燕雲16州の回復を図るが、かえって金の華北侵入を招き、この年、金軍は首都開封に迫る。
徽宗は、「己を罪する詔」を出し、全国に勤王軍を募るとともに、子の欽宗(位1125~27)に譲位。
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・遼、滅亡。
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1月
・アレッポのカーディー、イブン・アル・ハシャーブ、モースル新総督アル・ボルソキにアレッポ救援依頼。
この月、モースル軍がアレッポに到着するや、フランク軍はアレッポ包囲を解いて逃亡。
アレッポとモースルの統合は、以降の対フランク反撃の核となる。
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1月28日
・従五位下藤原家成(19)を若狭守に任じる。父家保(白河院の側近)が後見役。
正四位下右大弁源雅兼に越前権守を兼任させる。
この時点で若狭は鳥羽院の院分国(実際は、家保の知行国保持を覆う隠れ蓑としての院分国)。
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4月23日
・藤原頼長(6)、兄忠通の猶子となる。摂関家存続の安全牌として。
『中右記目録』天治2年(1125)4月23日の条に、「大殿(忠実)の若君、摂政殿(忠通)の御子と成りたまう」とある。この「大殿の若君」が頼長。
しかし、この関係は形式的なもので、実際には頼長は生涯にわたり、父忠実の寵愛と庇護のもとに成長してゆく。
そして、兄忠通との宿命的関係は、このような「父子の約」む結ぶという形で始まる。
頼長は、摂関家の庶子に生れ、父忠実の失脚に遭遇するが、幼少期には世人の注目も惹かずに平穏に過している。
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5月23日
・ザリエル朝最後のドイツ王ハインリッヒ5世(44)、没(1081~1125、位1106~1125)。
後継皇帝にシュヴァーベン大公フリードリヒ指名。
遺言による相続人。
①妻マティルダ(23、1102~1167、ヘンリ1世娘、1128年アンジュー伯ジョフロワと再婚、ヘンリ2世母。1135年ヘンリ1世没後イングランド王を巡りスティーヴンと内戦)。
②甥ホーエンシュタウフェン家シュヴァーベン大公フリードリヒ(35、1090~1147)。
③フランケン大公コンラート(コンラート3世、フリードリヒ弟、32、1093~1152)。
フリードリヒとコンラートはハインリヒ5世姉アグネスの子。
ハインリヒ5世埋葬に参集した聖俗有力諸侯、8月24日マインツで国王選挙の為の集会開催決定。  
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6月11日
・アザスの戦い。イェルサレムのボードゥアン2世とブルキス・ダマスクス。
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8月
・アレッポのカーディー、イブン・アル・ハシャーブ、暗殺教団により暗殺。
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8月24日
・マインツ、諸侯、国王選挙の為に参集。出席者数約6万人。マインツ大司教アーダルベルト(ロタール派で反フリードリヒ)が召集。
30日、マインツ国王選挙、ザクセン大公ロタール3世(50、ロタール・フォン・ズップリンブルク)をドイツ国王選出。新興ホーエンシュタウフェン家に対抗し勝利。
9月13日、アーヘンでドイツ国王即位。

ロタール3世(1075~1137、ザクセン大公1106~1127、ドイツ王1125~1137、皇帝1133~1137):
1106年ハインリヒ5世がマグヌス・ビッルング没後ザクセン大公に任命。
1111年以降、反ハインリヒ5世の指導的立場。1111年反乱。1115年反乱。
1123年皇帝ハインリヒ5世授封を無視してマイセン辺境伯・ラウジッツ辺境伯を任命。

選挙経緯:
国王候補
①ホーエンシュタウフェン家フリードリヒ。
②オーストリア辺境伯レオポルド3世(アグネス(フリードリヒ母)が再婚)。
③ザクセン大公ロタール・フォン・ズップリンブルク。
マインツ大司教アーダルベルトの策謀
(ヴェルフェン家バイエルン大公ハインリヒ黒大公がロタール3世を支持、ホーエンシュタウフェン家フリードリヒ敗退)。

アーダルベルト・フォン・ザールブリュッケン:
マインツ大司教、ザールブリュッケン伯。ハインリヒ5世宰相だったが皇帝と帝室の敵となる。
1111年ロタール3世とハインリヒ5世に反乱。
1115年ハインリヒ5世に再度反乱、ヴェルフェスホルツの戦いで勝利。
1119年ハインリヒ5世、マインツを攻囲。

ロタール:
帝国と世継ぎを犠牲にしてドイツ国王を入手。召し上げた封土は国王個人所有にしないで帝国に帰属。
教会即ち教皇特使やアーダルベルトの要求に従う(ヴォルムス条約で得た有利な条件を放棄)。
ホーエンシュタウフェン家フリードリヒとコンラートに多数の帝国領地返還を要求。拒否。
1125年クリスマス、シュトラスブルクでフリードリヒの有罪判決。
次のゴスラー帝国会議で聖霊降臨祭後フリードリヒ打倒の帝国軍を決議。

シュタウフェン家は選挙結果に不満を抱き10年に渡り内乱が続く。
1127年以降コンラートが対立王として起ち、ニュルンベルク、エルザスを巡り争うが、結局ロタール3世に服従。
ロタール3世には息子がいなく、バイエルン公のヴェルフェン家ハインリヒ傲慢公に一人娘ゲルトルートを嫁がせ、後継ぎに指名し、バイエルン公領での影響力を強める。
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9月2日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世(騎士4千・歩兵1万5千)、アンダルシーアに進発
(ムラービト朝打倒を決意したグラナーダ地方のキリスト教徒がアルフォンソ1世にグラナーダ征服を要請)。
サラゴーサ →テルエル→バレンシア→ムルシア→グアディク→グラナーダ(攻略失敗)→カブラ→アンスール→マラガ。
キリスト教徒約1万人をエブロ河流域に連れて帰り定住させる。
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11月9日
・法皇ら、熊野に参詣。
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12月5日
・京都で大火。
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12月25日
・ドイツ国王ロタール3世、シュトラースブルクでシュヴァーベン大公フリードリヒに有罪判決。
フリードリヒ岳父ヴェルフェン家バイエルン大公ハインリヒ黒大公はロタール3世側。
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2016年7月26日火曜日

保安4年(1123)~保安5/天治元年(1124) 鳥羽天皇(21)譲位、顕仁親王(5)践祚、崇徳天皇(第75代天皇)即位 白河院政の最終仕上げ 天台の大衆らが京に乱入 越前守平忠盛・左衛門尉源為義と合戦 衆徒の要求を容れず

鎌倉 本覚寺 2016-07-19
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保安4年(1123)
この年
・金の太祖、遼の天祚帝を追討途中で病没。
後継は弟太宗(位1123~35)、天祚帝を内モンゴル方面に追撃して捕らえ、遼を滅ぼす(1125)。
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・第1回ラテラノ公会議。教皇カリストゥス2世召集、参加:聖職者1千人。
初めて聖職者の独身制度は最も強力な霊的現実性と宣言。「聖職者の結婚はその叙階により無効」。その他の公会議同様、この公会議も聖職者の行状を改めさせず
1123年以降、歴代教皇は聖職者の結婚は無効と主張し続けるが、聖職者は結婚し続け、妻達は家庭を切り盛りし、子供達は祭壇を取り仕切る
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・アンジュー伯フルク5世、典型的強盗騎士モントルイユ・ベレ領主ギロー・ベルレを降伏させる。
大諸侯権力回復の表れ。
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・ベルナール、グルノーブル郊外にグランド・シャルトルーズ(カルトゥジオ会)を訪問。
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・ヴェネツィアのドージェ(元首)ドメニコ・ミキエル指揮ヴェネツィア艦隊(ガレー船40、帆船28、ガレー商船4)、ヤッファに向け出帆(エジプト回教徒軍に攻撃されたため)。
1099年、ヴェネツィア、パレスティナに進出。後、約20年間(1099~1023)ヴェネツィアは、ハンガリのアドリア海西岸(ダルマツィア海岸)進出とアドリア海出口のノルマン人との戦いに追われる。
この二大敵の押さえ込みに成功、パレスティナに目を向ける余裕が出来る
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・皇帝ハインリヒ5世、ザクセン大公ロータル3世とマイセン・ラウジッツ両辺境伯授封で争い敗北。
「内戦の禍はザクセンから殆ど全ドイツ王国に拡がる」(年代記者エッケハルト)。
経緯:
皇帝ハインリヒ5世、グロイッチュ伯ヴィプレヒトをマイセン・ラウジッツ両辺境伯に授封。
ザクセン大公ロータル3世、皇帝を無視して、マイセン辺境伯領をコンラート・フォン・ヴェッティンに、ラウジッツ辺境伯領をアルブレヒト(23、熊公)に授与。激しいフェーデにザクセン大公が勝利。
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・ブレーメン大司教にアーダルベルト2世が即位(位1123~1148)。
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・イブン・トゥーマルト(41、1082頃~1130、ムワッヒド創始者、ベルベル人族長息子)、ティーンマールに逃亡、根拠地とする。
スペイン、エジプト、バグダード、ダマスクスで教育。モロッコ帰国後、マーリク派教義と不徳義を攻撃する説教(ぶどう酒の瓶や楽器を破壊、ヴェールを着用していないアミールの姉妹を馬から引きずり下ろす)。
1023年、弟子(後継者)アブド・アル・ムーミンと共にティーンマールに逃亡(マラケシュ南南西約75Km)、ベルベル人農民の改宗始める。
教義:信仰における理性の使用もコーランの字義通りの解釈も拒否。共同体の一般的合意に従いコーランを寓意的に解釈。自らをアリー(ムハンマド従兄弟、第4代正統カリフ)子孫と主張、1121年よりマフディー(神が信仰を広めるために遣わした不謬の指導者)と名乗る。暫くしてムラービト朝に対する戦争を開始。
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・ボローニャ、コンスル制成立。
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・カンタベリ大司教ランフランクスの「偽造文書」、ローマ教皇庁により却下。
「カンタベリがヨークより上位であること」を証明するための9通の「文書」を偽造。
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・スノリ・ストゥルルソン(1178~1241)、「新エッダ(散文エッダ)」。三部作の一部。北欧神話と古アイスランド語による詩の作法を述べる。
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・ルイ6世とヘンリ1世の戦争再発。ヘンリ1世、皇帝ハインリヒ5世と同盟(1123~1135)。
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1月28日
・鳥羽天皇(21)、白河法皇の意向により、譲位して上皇となり、その子(実際は鳥羽天皇の祖父・白河法皇の子と言われる)顕仁親王(5)、践祚。
2月19日、即位、崇徳天皇(第75代天皇)となる。
法皇と天皇の対立は解消され、専制的な白河院政は、その最終的な仕上げを終える。
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4月
・アスカロン沖の海戦。
ヴェネツィア艦隊がヤッファ到着直前、エジプト軍は包囲を解除。
元首は、エジプト艦隊を追跡。アスカロン沖でエジプト艦隊を奇襲、撃破。南下してエジプト商船隊を襲撃、次に北上し、十字軍と組んでティロス攻略に参加。翌年24年7月ティロス陥落。
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4月18日
・イェルサレム王ボードゥアン2世、オルトク家藩主バラクに捕らえられて幽閉。
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4月24日
・愛宕寺、焼失。
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5月
・越前国敦賀郡、刃傷沙汰から殺人事件発生。
越前守平忠盛は犯人(日吉神人)を検非違使庁に引き渡すが、これに不満の比叡山天台の悪僧らが京都移送中の犯人を奪取。朝廷が延暦寺に張本人の悪僧を禁固させると、大衆は蜂起。
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6月
・バラク、アレッポに凱旋。故リドワーン王娘と結婚。アレッポ周辺の所領を回復する。
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7月15日
・天台の大衆ら、日吉三社の神輿を先頭に西坂本に下向、阻止される。
18日、日吉四社の神輿を加え京に乱入、武士と合戦。多数の死傷者が出て、僧徒は神輿を京都の鴨河原に捨てて遁走。
一方、別動の大衆300が祇園に篭もり、神輿を担ぎ出そうとする。
越前守平忠盛・左衛門尉源為義が派遣され合戦。死者多数。
白河法皇は珍しく毅然たる態度、衆徒の要求を容れず。
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8月22日
・大風洪水。
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9月12日
・越前守平忠盛が東大寺領伊賀国玉瀧本山を押妨した件につき勘文が出る。
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12月20日
・正四位下源雅兼を右大弁兼越前権守に任じる。
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保安5/天治元年(1124)
この年
・スコットランド、アレグザンダー1世(46)、スターリングで没(1078頃~1124、位1107~1124、24代、エドガ弟、マルカム3世息子)。
末弟デイヴィッド(マルカム3世と王女マーガレットの6男)、デイヴィッド1世として即位(44才?、1080頃~1153、位1124~1153、25代)。
「スコットランドを国家と呼ぶに値する国に仕上げた最初の偉大な王」

(デイヴィッド1世治世)青年期をイングランドで過ごす。
1113年ミドランズ伯娘マティルダと結婚、ミドランズ伯爵領を相続(ヘンリ1世の封建的家臣)。
①ノルマン人の登用。ロバート・ドゥ・ブルース(1141没)、国王付秘書ウォルター・フィッツアラン、バーナード・ドゥ・ベイリュール、ドゥ・コーミーン。
②ロウランドに封建制度による土地所有システム導入。
③国王直属官僚制度確立。中央;歳入長官、国璽尚書、最高司令長官、司教上席者。地方:法務官、地方執行官。
④スコットランド史上初のコイン鋳造。度量衡統一。
⑤自由都市の開設。
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・ノルマンディ東部ヴェクサン地方の諸候ムーラン伯ウェーラン、ルイ6世の策動によりヘンリ1世に対して反乱
ムーラン伯軍、居城ブルグテンロールを出て王党派のヴァテビルに向かう。
王党派(ヘンリ1世直属の下級騎士達)はムーラン伯と彼の居城ブルグテンロールの間に布陣してムーラン伯の連絡路を遮断する作戦を採る。
ムーラン伯は直ちに反転して王党派軍へ向かいブルグテンロール近郊で対陣。
王党派は前衛に40弓兵を配し、後衛に下馬した騎士達を配置、左翼の離れたところに騎馬弓兵数十騎を伏せ、全体で100人前後の兵力。
ムーラン伯は100騎以上が全軍乗馬して敵中央へ突撃。すぐに弓兵隊に射竦められ突撃は失敗。そこへ左翼の伏せている騎馬弓兵隊が射撃、ムーラン伯軍は混乱し敗走、ムーラン伯と同盟者25人が捕虜。
ヘンリ1世も行動を開始しムーラン伯領の城を悉く占領。
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・前ノルマンディー公ロベール息子クリトー、アンジュー伯フルクの娘を娶り、アンジュー伯の全面的支援の元でノルマンディー公綱領奪還の行動開始。
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・イングランド、歴史家・修道士エアドマー(60)、没(1064?~1124)。聖アンセルムスの親友、私設秘書。著書:「アンセルムの伝記」「イギリス現代史(1060~1122)」。
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・ルイ6世、ブロワ伯チボーと戦う。
ハインリヒ5世、和を結ぶよう内政干渉。ルイ6世拒否。
ハインリヒ5世、ランスに遠征。
ルイ6世、封臣にランスへの長期遠征召集、ブロワ伯も含め諸侯が国王に軍隊を提供。逼塞していたカペー朝の威信が高まる。
ルイ6世、サン・ドニに赴きシュジェより 「聖(サン)ドニの旗」を受領、軍旗とする(フランス君主制の象徴、「赤色軍旗」)。
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・フランス、シャルトルのベルナール(ベルナルドゥス)、没
哲学者。プラトンの影響を強く受け、特に「ティマイオス」から学ぶところ が大きかったと言われる。1114年よりシャルトル学院を運営、教鞭をとる。

中世のプラトニズム。
中世はプラトンよりアリストテレスに共感(12世紀にプラトンの中世における「主だった復活」が見られ、プラトニズムの流れは細々ながら中世を通じて絶えることはない)。
1156年頃、カタニアのアリスティップス(シチリアのヘンリクス・アリスティップス)がプラトンの「メノン」「パイドン」を翻訳、大きな影響力なし。
12世紀のプラトン的イデア論は主としてシャルトル学派に代表される。

アリストテレスの影響。
中世初期、ボエティウスがギリシア語よりラテン語に翻訳した「オルガノン」の6編の論理学書のみ(実際には「範疇」と命題」のみで、この二つの本は「旧論理学」と呼ばれる)。
1128年以降、「新論理学」はシチリア当局援助の下でギリシア語から翻訳。
1159年、「分析論後書」が既に同化の過程にあり、12世紀の終わりにはアリストテレスの「論理学」は全てヨーロッパ思想に吸収。
1200年頃、「形而上学」がまず簡略版で、次に完全な形であらわれる。
13世紀、アリストテレスの全作品の残りが加わる(1260年頃、残存する全てのアリストテレスの作品が勢揃い)。

アヴェロエスのアリストテレスの注釈の影響。
1210年、新着のアリストテレスの自然哲学書と注釈、パリ管区教会会議で禁止。
1215年、特に「形而上学」が、禁止の再確認。
1231年、教皇、パリで特別委員会がこれらの著作の誤りを全て削除するまで研究を禁止。
1255年、パリ大学学芸修士の科目に新アリストテレスの全作品が指定。アヴェロエスのアリストテレスの注釈は17世紀まで常用。
ダンテは「地獄篇」でアヴェロエスに古代の哲学者に並ぶ地位を与え、「大注釈書の作者」の名を奉じる。 
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・ピカルディのノジャン修道院長ギベール、没(ギルベール・ド・ノジャン、任1104~1124)。著書:「聖者のあかし」、「わが生涯」(自叙伝)。  
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・フィエーゾレ、傭兵に頼りフィレンツェに対し独立を守り戦う。傭兵の初期の例。
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・初代トレード大司教ベルナール・ド・セディラック、没(任1086~1124)。
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・エルサレム王ボードワン2世、聖地の騎士総員集合命じる。集まったのは1,100人。聖地の軍事力の欠陥示す。
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・暗殺教団(シーア派イスマーイール派の分派)設立者アル・ハサン、没
(1090年アラムートに城塞入手。1092年セルジュクトルコ 宰相ニザーム・アル・ムルクの暗殺を皮切りに暗殺活動開始。1099年シリアに地歩を築く)。
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・遼滅亡の直前、遼皇族・太祖から8代目子孫・耶律大石(1087~1143、西遼初代皇帝、位1132~43)、天祚帝が内モンゴルに逃亡したとき、外モンゴルに逃れ、自立して王位につく。
後、西方に移動して西遼を建国。
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2月
・ヴェネツィア、ティール港を封鎖。フランク軍が町の東に布陣。
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閏2月1日
・大地震。余震は8日に至る。
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4月3日
・ 「天治」に改元。
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5月6日
・アレッポのバラク、アレッポ家臣の反乱鎮圧中に戦死。ティール救援に向う寸前の出来事。
バラク没後、息子ティムルタシュが後継。彼はエルサレムのボードワン2世を釈放。逆に彼に包囲されるに至る。
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7月
・以後彗星が見られる。
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7月7日
・ティベリアス領主とヴェネツィア海軍、エジプトからティール(ティルス、ティロス)港を奪取。住民は安全に亡命。アスカロン以北のエルサレム王国の港は全て安全港になる。
ヴェネツィア、「アドリア海の女王」から「東地中海の女王」となる(対抗できるのはジェノヴァ海軍のみ)。
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10月21日
・上皇、高野山に参詣。
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11月24日
・中宮藤原璋子(24)に待賢門院の院号宣下。
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11月26日
・五節参入。越前守平忠盛ら奉仕(「中右記」)。
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12月13日
・教皇カリストゥス2世、没(位1119~1124、ブルゴーニュ出身)。
21日、ホノリウス2世、即位(位1124~1130、イモラ出身)。オスティアのランベルトゥス、ウォルムス協約の交渉担当者。 
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2016年6月15日水曜日

保安2年(1121)~保安3年(1122) 関白藤原忠実の内覧復帰を形式上許し辞任させ、内大臣忠通の内覧を許す。忠通が関白に就任し、以後4代38年間、摂関を勤める 藤原顕隆、参議・中納言に昇任 「天下の政はこの人の一言にあり、威を一天に振るい、白河院と女院(待賢門院璋子)の執行別当を兼ねて天下の万事を知り、富は四海に満つ」(『中右記』)と評される。

鎌倉 明月院 2016-06-14
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保安2年(1121)
この年
・ヘンリ1世、ウェールズ遠征。
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・ソアソン公会議。アベラール(42)、「異端」とされる。
論文「神の単一性と三位一体について」で三位一体の教義の研究に弁証学の学問的蓄積を適用
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・神学者アルベリクス、ランスの学校長に就任(1121~1136)。
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・ポルトガル、ガリシアの大貴族トラヴァス家当主ペドロ・フロイラス、ポルトカーレ領を併合。
ガリシア王再興を図り息子フェルナン・ロペスとポルトカーレ摂政テレサ(エンリケ・デ・ボルゴーニャ未亡人)とを結婚させる。しかし、ポルトカーレ貴族はガリシアの勢力伸長に反発。
*
1月
・ヘンリ1世(53)、ブラバント公娘アデリシア(19)と再婚。
*
・初頭、ミュンスター事件(ザクセンの都市、ハンブルグ南60km)。
ミュンスターの支配と司教座をめぐり皇帝ハインリヒ5世とザクセン公ロータル3世が争う。
内乱がザクセンで再発、ライン地方に拡大。
*
1月17日
・藤原忠実、再び内覧を許される(一旦は内覧復帰を許す形をとる)。
22日、関白藤原忠実の上表(辞任)を許し、内大臣藤原忠通の内覧を許す。
3月5日、忠通は関白に就任。以降、4代38年間、摂関を勤める。  
*
2月
・源俊房(87)、没。
嫡流の俊房一族(源師房長男)は勢いを失い、「村上源氏」宗家の座は弟の顕房一族(源師房次男)に移る。

俊房:
白河・堀河・鳥羽3朝に歴仕、39年間、左大臣。父の後を承け白河天皇の異母弟実仁(さねひと)・輔仁(すけひと)親王の後見的役割を担う。
応徳2(1085)年小一条院(三条天皇皇子)の男源基平の女基子を母とし、後三条天皇の期待を背負う皇太弟実仁親王が病没するや、翌年、白河天皇は父帝の遺志に反して、翌年皇位を皇子善仁親王(たるひと、堀河天皇)に譲り、皇位の嫡々相承に執着。
皇嗣の有力候捕と目される三宮輔仁親王は次第に宮廷より疎外され、洛西仁和寺花園に隠栖。その間、俊房は寛治3(1089)年、女の任子を摂政師実の嫡孫忠実に嫁させ地位安定を図るが、一方、異母弟師忠が女を輔仁親王の室として有仁(ありひと)をもうけさせ、息男師時が輔仁親王と同じく源基平の女を母とする縁によって親王に近侍し、更に息男の醍醐寺僧仁寛(にんかん)が親王の護持僧となるなど、俊房の周辺には三宮と縁の深いものが少なくない。
永久元(1113)年10月、鳥羽天皇暗殺未遂事件で仁寛が捕えられ流罪となり、三宮は蟄居し、俊房・師時父子らは、翌年11月出仕朝命まで閉居とされる。(「中右記」)。
この後、再び出仕して公事に精励するが、その男の師頼・師時らの官位昇進は抑えられる。
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2月26日
・藤原忠実、関白を辞職、宇治に隠居。
忠実の娘泰子が鳥羽天皇への入内を拒否し、「院勘」を蒙り、忠実は宇治に蟄居。
忠通が関白・氏長者となる。
院の専制権力による摂関家分断策。
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3月5日
・藤原忠通、関白となる。
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4月2日
・平正盛、没か?。その家は嫡子忠盛に継承される。この時、清盛は4歳。
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5月2日
・延暦寺僧徒、園城寺金堂などを焼く。
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6月1日
・「白山上人(西因)縁起」できる。
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9月29日
・ヴェルツブルグの会議。「皇帝と王国の争いに関する諸侯の一致した助言」。
王国の諸権利を損ねることなく教会との争いを終結すべき。
ハインリヒ5世が対立的行動を改めず諸侯に攻撃・報復 するならば、諸侯は相互忠誠誓約に従い一致した行動をとる。総平和令違反は死刑。皇帝の破門を取り消すため、教皇に使節派遣。
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保安3年(1122)
この年
・藤原顕隆、参議・中納言に昇任。
為房の次男。白河院蔵人から17歳で堀河朝の蔵人になり、28歳で右少弁になって「世人の耳目を驚かせ」、鳥羽朝では蔵人頭・右大弁になる。
彼は「(関白忠実が失脚した保安元年11月以後)、天下の政はこの人の一言にあり、威を一天に振るい、白河院と女院(待賢門院璋子)の執行別当を兼ねて天下の万事を知り、富は四海に満つ」(『中右記』)と評され、夜ごと院に奏聞することが全て聞き入れられたことから、「夜の関白」と呼ばれた(『今鏡』)。
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・シュジェ(43、シュジェール)、サン・ドニ修道院長就任(1081?~1151、位1122~1151)。
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・クリュニー修道院長ポンス、浪費のかどで罷免。
尊者ピエール(30、ピエール・ド・モンブアシェ、ペトルス・ヴェネラビリス)、クリュニー修道院長就任(1092~1156、位1122~1156)。
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・アリエノール、誕生(1122~1204、アキテーヌ候ギョーム10世娘)。
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・フランス、サヴィニ修道会創立者ヴィタリス、没。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、フラーガ奪取。レリダ征服の第1ステップ。
後、フラーガも失いレリダ征服計画放棄。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、ベルチーテ騎士団を組織。
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・ローマ、ある未知の国のキリスト教徒の国王と公言する者が現れる。
(1世代後、プレスター・ジョンが現れる。1177年、教皇アレクサンデル3世、プレスター・ジョンに返書、教皇庁医者フィリップに託す)。
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・遼、9代天祚帝(てんそ、位1101~25)、同盟した宋と金の挟撃を受け、敗れ、内モンゴルに逃亡。
後、反撃に出るが、捕縛、東北地方奥地に流され1125年没。同年、200年続いた遼は滅亡。
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1月
・始め、教皇カリストゥス2世、皇帝使節と会談。皇帝使節は「教皇が望んだ保証」を全て携えている。
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2月19日
・教皇カリストゥス2世、皇帝に書簡。
「教会」は「キリストのもの」を受け、「皇帝」は「皇帝に属するもの」を持つ。
平和への第一歩(「教権と俗権の分離」の協定への道を開く)。
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4月
・白河法皇、法勝寺で五寸塔三十万基の供養。
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4月8日
・久我雅実の長男・顕通、没。顕通の弟・久我雅定、後継。
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9月
・アレッポのバラク、エデッサ伯ジョスランを奇襲で捕縛。現場を確認に来たエルサレム王ボードワン2世(前のエデッサ伯)もまたバラクにより捕縛。
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9月23日
・ウォルムス平和協定
ドイツ皇帝ハインリヒ5世(41)とローマ教皇カリストゥス2世(教皇特使枢機卿ランベルトゥス)の間で締結。
俗人による聖職叙任権闘争終わる。
相互に特許状を交付。皇帝ハインリヒ5世の破門解除。

皇帝の特許状(ローマ教会宛。教会の自由な選挙・叙階を保障。叙任権闘争中に奪った聖ペテロ所領とレガリアの返還を約束)。
教皇の特許状(ハインリヒ5世個人宛。皇帝の面前で選挙、意見が分かれたときは皇帝の助言に従う。選ばれた聖職者は、皇帝よりレガリアを受け、皇帝に封建的誓約と臣従礼。 

後、皇帝・教皇共にこの協約を破棄、争いは続く。
また、ザクセン公ロタールは以後も皇帝の領内への干渉を許さず独立性を強める。
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12月
・源雅実(顕房の嫡男、久我家の祖)、従一位右大臣より太政大臣に昇る。
源氏の太政大臣補任の初例。
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12月17日
・源有仁(20)、内大臣となる。藤原忠通、左大臣となる。
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