1871(明治4)年4月9日
*
・ヴェルサイユ軍のパリ砲撃続く。
*
・ヌイイの戦闘。
9~10日の夜、J・ドンブロウスキ指揮の連盟兵の1隊、アニエールを占領。
J・ドンプロウスキとⅤ・ジャクラール指揮の1隊は、アニエール~クールブヴォワの道路を制するペべコンの城を占領
(12日、ヴィノワはこれの奪回を企図するが、クールブヴォワまで撃退される)。
*
9日夜、ドンプロウスキは、モンマルトルの2個大隊と共に、ヴェルモレルを伴い、アニエールのヴェルサイユ軍を奇襲し追い払い、敵の大砲と装甲車輌のあった鉄道を奪取し、クールブヴォワの側面とヌイイ橋を砲撃。
*
パリはこの成功を知らなかった。
この頃の総司令部は全く退化しており、この作戦の成功はドンブロウスキ個人の判断と働きによるもの。
諸要塞の守備も国民軍の自発性に依っている。
中央の命令はなく、やろうという意志のある者が勝手に行っている状況。
大砲や増援を得たい者は、要塞、パリ市庁、中央委員会、クリュズレの総司令部などのどれかに駆けつけて要求している。
*
・コミューン、国民軍中央委員が設置した各区の小委員会が無分別に諸問題に介入する為、これの廃止を布告。
国民軍中央委員会は、この命令執行を麻痔させる。
*
この時期のパリには、
①文民権力を代表するコミューンと、
②軍事権力としての国民軍中央委員会の、
一種の「二重権力」が形成されている。
26日、委員会がたえず権限の甚だしい侵害を行っており、コミューンは再び解散を決議。
*
3月28日、コミューンに権力を移譲した国民軍中央委員会は、尚もそれを保持し続けようと策動。
軍経理部の支配権を握り、各区の「小委員会」を鼓舞し、独断的な物資徴発、国民軍服役忌避者追及・家宅捜査などを行ない、細かい日常問題に口を出し、コミューンの行政機能・軍事指揮系統を混乱させる。
*
・リゴーの命令により、若干の教会は礼拝を止めさせられ、革命派のクラブが教会を占拠。
*
・馬具工たちが総会を開く。
*
・「諸県への執行委員会声明」、発表。
パリがフランスを支配する意図のないと強調し、「諸君の努力をわれわれの努力に結びつけよ。そうすれば、われわれは勝利を収めるだろう」と呼びかる。
*
パリ・コミューンの中央政府としての地位を否定し、市会的権限にとどまると主張。
ヴェルサイユ側の攻撃への抵抗という差し迫った現実の要請との間にずれがある。
*
「自由なコミューン連合」の中の「自律的コミューン」という主張は、未来社会への針路を示すもの。
ブルジョア的集権国家破壊、疎外状況からの人間性(個体)回復)として、現代的意義を持つと評価する意見もある(桂圭男「パリ・コミューン」岩波新書)。
*
・コミューン、補欠選挙延期を決定。
*
・コミューン綱領起草委員会を設置。
ドレクリューズ、ヴァレス、テイス、クールネ、マロン、ピイオレが入る。この綱領普及の為、コミサール(委員)を地方に派遣する決定。国民軍の被選出代表(代表委員)と、それと司令部との相互関係についての国民軍中央委員会の決定(クリュズレの承認をうけている)の確認。
*
○[コミューン群像:ブノア・マロン(1841~93]
貧農出身。
幼年時代、羊飼い、その後染色工、書店勤務。
1865年5月、インタナショナルパリ諸支部ビューロー入り、ジュネーヴ大会(1866年)代議員。
第2次インタナショナル裁判で、禁錮・罰金判決。
1869年、パリ、ルベー、リール、トゥルコアン、クルーゾのインタナショナル諸支部を組織。
1870年4月、インタナショナルパリ諸支部連合設立に参加。
第3次インタナショナル裁判で、禁固1年と罰金判決。1870年9月4日の革命により釈放。
普仏戦争に関して、インタナショナル総評議会の呼び掛けに基づき起草され、インタナショナルパリ連合が各県支部に呼び掛けたアピールに署名。
20区中央共和委員会の一員として、1870年10月31日と1871年1月22日の蜂起に参加。
第17区助役。
1871年2月、ボルドー国民議会代議士に選挙されるが、間もなく議会をぬける。反動的な気分を持つ区長・代議士グループは、パリ住民の広範な層に人気のあるマロンを利用して、3月18日の革命を非難
する宜言に彼の署名を付けるが、マロンは出版物でこの文書とは無関係である事を示す。
3月26日、パリ・コミューン議員選出(第17区)。労働交換委員会委員、第17区区長。
公安委員会設置に反対投票し、「少数派」の宣言に署名。
1871年5月の最後の諸戦闘に積極的に参加。
コミューン弾圧後、スイスに亡命、欠席裁判で死刑判決。
マロンは左派ブルードン主義者に属し、バクーニン主義者と接近、スイスでは、給評議会とマルクスに反対するバクーニン主義者の闘争を支持。
1880年の恩赦後、帰国し、改良主義的傾向をもつ歴史・理論雑誌「ルヴュー・ソシアリスト」を創刊、日和見主義的ポシピリストの党の指導者になる。
パリ・コミューンについての著書「フランスのプロレタリアの三度目の敗北」「社会主義の歴史」を発行。
*
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○[コミューン群像:アルフレド・エドゥアール・ビイオレ]
画家。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍第103大隊に勤務、
1871年1月~、色々なクラブや集会で演説、第14区では非常に人望がある。
3月15日、国民軍中央委員に選出。3月19日付の中央委員会の人民への呼び掛け(「パリの人民は、自分のうえにおしつけられようとしたくびきをふり切った」)に署名。
3月26日、第14区パリ・コミューン委員に選出。3月29日~公共事業委員会委員、4月21日~財政委員会委員。
4月9日のコミューン会議で、宗教教団員が指導する全学校閉鎖とこれらを非宗教学校に取り替えること、コミューン綱領を起草し、地方に普及させるとの提案を提出。
4月17日提出のその綱領草案で、パリ・コミューンが全フランスを支配することに反対する。
5月12日、軍服発注を私的請負業者にではなく、職業組合に任せる事に賛成、「これは社会主義への道での最初の重大な一歩となる」と言明。
公安委員会設置に賛成し、新ジャコバン派に近い「多数派」の有力な活動家として、5月12日に公安委員に選出。
5月1日、各区区役所に中央警察委員部をこ置くとの公安委員会委員としてのビイオレの命令が公布。
ビイオレはコミューンが「もっとも重要な立法問題、社会経済問題」をとり上げる事ができるように、全権力を委員会に集中しなければならないと考える。
5月20日、軍事行動を中止し、コミューンとヴェルサイユ政府との協定を結ぶという問題について商工業および労働全国同盟と会談を始める。
5月21日、ヴェルサイユ軍パリ侵入とのドンブロウスキの至急便を受け取り、コミューンの会議でそれを読み上げる。
5月25日~地下に逃亡、6月3日逮捕、第3軍法会議により要塞地流刑の判決。1875年3月逃亡するが逮捕される。1875年6月ニュー・カレドニアに送られ、その地で没。
*
・コミューン議会、会議欠席者から手当をとり上げると議決。
*
この頃、議会を欠席する議員が増える。
3月30日、4月4日、5日の会議は、数時間後には定足数を割り込むほどの状況。
リサガレーは、「研究の不足」、「重大な責任を理解」していない議員が多い、「多くの者が何の準備もなしに出席し、意見の対立があるとすぐ投票に移ろうとする。市庁はコルドリー街の労働者組織の会議に似ていた。前日の決定はもう忘れられているのである。」、と記す。
*
・酒保の女商人M・ラシュ-ズの英雄主義について書いた、第6大隊の国民兵75名の手紙が「官報」に掲載。
*
4月3日の戦闘で、「一日中戦場にとどまり、あられのようにとんでくる弾丸のもとで、負傷者をだきおこし、包帯をまきながら、最大の勇気を発揮した」。
*
*
to be continued
2009年8月9日日曜日
2009年7月1日水曜日
1871(明治4)年4月8日 パリ・コミューンとヴェルサイユとの停戦を呼掛ける調停派の活動
1871(明治4)年4月8日
*
・コミューン、バリケード構築委員会設置についての決定を採択。
*
・フリー・メーソン、ヴェルサイユとコミューンとの武装闘争中止を呼び掛ける。
ティエールは、休戦にも特赦にも同意せず、共和政と市条令についての漠然とした約束と調子のいい言葉を口にするにとどまる。
*
■調停派のこれまでの活動纏め。
調停派:ことは、そもそも恐るべき誤解から始まったと信じている人々。
*
①4月4日、工業家と商人が、「共和政の維持と解放、パリ自治体の自主的権利の承認」というプログラムをもって、産業組合会議全国連合を創設。
*
②学生街では教授、医師、弁護士、技師、学生らが、世俗的・民主的な共和政、自律的コミューン、コミューンの連盟を要求し、ティエールへの公開状を街に掲げる。
「貴下は反乱だと信じておられるが、明確で誰もが抱くようになっている信念に直面しているのだ。
パリの大多数の市民は、議論の余地なきものとして、また最高の権利として共和政を欲している。
パリは議会のすべての振舞いのなかに、王朝を再建しようという下心を読みとったのである」。
*
③フリー・メーソンは、「貴重な血を流すのをやめよ」との訴えをヴェルサイユとコミューンに送る。
4月末、フリー・メーソンはパリ・コミューンの側に立つと決定。
*
④幾人かの元区長・助役が、パリ諸権利共和主義同盟を創設し、共和政承認とパリの自治権、パリ市守備を国民軍のみに託すること、コミューン議会が全議決を要求。
クレマンソー、ロクロワ、フロケなどヴェルサイユ国民議会に辞表を出したパリ選出代議士が、この区長らに合流。
*
⑤共和政確立、パリの権利の承認という点で一致する他の諸グループも形成。
殆んどのコミューン派の新聞がこのプログラムを掲載し、急進派新聞もこれを受け入れる。
*
ルイ・ブランの策動
この日(8日)、これに対し、ヴェルサイユ国民議会に残ったパリ選出代議士ルイ・ブランが、パリを悩まそうとの目的で、この急進派に語りかける。
「同僚の名において、歴史を滑稽に作り変えてしまっているといえる、偽善に満ちた調子の、そしてまた彼がそれを通じて自分のひからびた心を覆いかくしているような、くだくだしたセンチメンタルな文章で書いている。」と、リサガレーはこれを皮肉る。
*
ルイ・ブランは、「多数の者の誰一人とて共和政の原則を問題した者はいない。
・・・蜂起に参加した者についていえば、外国軍隊の占領という災禍に国内の不和という災禍を加えることによって、その災禍を深刻にし、長びかせるということだけを考えて身をおののかせるべきであろうと、われわれは彼らに言おう」と、書く。
*
ティエールの組合連合代表(調停派)への回答。
(ティエール)「蜂起側が最初に武装を解いたとしても、議会側は武装を解くわけにはいかぬ。」。
(調停派)「しかし、パリは共和政を望んでいる。」
(ティエール)「共和政は存在している。すなわち私の名誉にかけて、私が権力をとる限り共和政は倒れることはない。」。
(調停派)「パリは自治体の自主的権利を欲する。」
(ティエール)「議会はその権利をすべての地方自治体に与える法律を準備している。パリの権利はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。」。
代表は全般的特赦と軍隊廃止の妥協案を読みあげ、ティエールは彼らの読むに任せ、表面上は反対せずにいたので、代表は和解の基礎を発見したと確信してパリに戻る。
*
ヴェルサイユ国民議会は全地方自治体に首長を選挙する権利を承認したところであったが、ティエールは、この権利は人口2万人以下の都市には認めないように要望。
議員たちは、投票済と主張するが、ティエールは、共和政の下での秩序維持は難かしいことだから、それだけ権力強化が必要と固執し、辞職すると脅迫し、再議決を強要。
*
・この日、ピエール・ドニ(ブルードン主義者)が、「ル・クリ(デュ・プープル)」紙上に、ヴェルサイユおよびフランスとの協定案を公表。
「パリ・コミューン」とは何かの一つのイメージを示す。
*
「第一条。
パリは今や自由都市である。
フランス政府は一八七一年三月一八日に遂行されたコミューン革命の正統性を承認する。フランス政府は将来にわたって、この都市にたいする権力的干渉をいっさい断念する・・・。
*
第二条。
パリの市域は、コミューン自由権の享受を拒むセーヌ県内諸市町村を除くところのセーヌ県を包含する。
この市域にはパリ・コミューンと連盟関係を結び、パリ・コミューンの利点を享受したい旨表明する隣接諸県のあらゆるコミューンが付け加わりうる。
パリ・コミューンはフランスのその他の地域における蜂起による挑発を自ら禁じるが、しかしコミューン思想を模範および宣伝手段を通じて普及させる権利を留保する。
政府の側では、こうした普及にたいする妨害を自らに禁じる・・・。
*
第三条。
パリおよび連盟関係にある諸コミューンはフランスの都市であり続ける・・・。
パリはフランスの一般諸経費のうちの分担分を、ただし要塞への兵器配備、鉄道・道路ないし航行路のための支出、教育、海軍、公共事業にかんしてのみ、支払う。しかしパリは、内務省予算、大蔵省予算・宗教予算についてはまったく分担しない・・・。
戦争が起きた場合にはパリはそのために動員・編成され、パリの大砲で装備した国民衛兵の割当兵員を提供する。
*
第四条。
パリは立法議会に代表者を送る。
パリは、立法議会がコミューン憲法と矛盾しない限りにおいて、その議会の議決および勧告を受け入れる。
パリは、投票を通じて表明される利害関係や要求に応じてその条文を修正することを条件として民法の総則を受け入れる。
*
第五条。
パリは、フランス政府の干渉をいっさい受けることなく、コミューン制度にもとづいて自ら行政・統治にあたる。
パリは、パリのあらゆるレヴェルの公務員および司法官を選挙によって選ぶ。
パリは単独の予算を所有する。
パリは、都市の防衛および治安を任務とする国民衛兵以外の軍隊をもたない・・・。
*
第七条。・・・外国からパリに向けて送られてくる商品のフランス内部の通過は無税である・・・。
*
第九条。
・・・(政府は)コミューンに派遣される一名の代表によって代表される・・・。
*
第一二条。
パリ、フランスおよびヨーロッパのために、またそれらの名誉と安全のみを目的として、誠意にもとづいて取り決められた本協定を、契約当事者双方は忠実に遵守することを誓う。
本協定は、やがて平和的な合州国連邦を形成するに至ることを署名者が期待しており、かつ、パリ・コミューンがその保護の下に身を置く、友好的諸政府・共和国に伝達される。」
*
・アルジェリア。蜂起拡大。新しい闘士たちが武装闘争に参加。
*
・ロンドン。クラーケンウェル・グリーンにおけるコミューン支持のデモと集会。
インタナショナル総評議会はパリの労働者同職組合のために、基金募集開始。
*
*
to be continued
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・コミューン、バリケード構築委員会設置についての決定を採択。
*
・フリー・メーソン、ヴェルサイユとコミューンとの武装闘争中止を呼び掛ける。
ティエールは、休戦にも特赦にも同意せず、共和政と市条令についての漠然とした約束と調子のいい言葉を口にするにとどまる。
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■調停派のこれまでの活動纏め。
調停派:ことは、そもそも恐るべき誤解から始まったと信じている人々。
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①4月4日、工業家と商人が、「共和政の維持と解放、パリ自治体の自主的権利の承認」というプログラムをもって、産業組合会議全国連合を創設。
*
②学生街では教授、医師、弁護士、技師、学生らが、世俗的・民主的な共和政、自律的コミューン、コミューンの連盟を要求し、ティエールへの公開状を街に掲げる。
「貴下は反乱だと信じておられるが、明確で誰もが抱くようになっている信念に直面しているのだ。
パリの大多数の市民は、議論の余地なきものとして、また最高の権利として共和政を欲している。
パリは議会のすべての振舞いのなかに、王朝を再建しようという下心を読みとったのである」。
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③フリー・メーソンは、「貴重な血を流すのをやめよ」との訴えをヴェルサイユとコミューンに送る。
4月末、フリー・メーソンはパリ・コミューンの側に立つと決定。
*
④幾人かの元区長・助役が、パリ諸権利共和主義同盟を創設し、共和政承認とパリの自治権、パリ市守備を国民軍のみに託すること、コミューン議会が全議決を要求。
クレマンソー、ロクロワ、フロケなどヴェルサイユ国民議会に辞表を出したパリ選出代議士が、この区長らに合流。
*
⑤共和政確立、パリの権利の承認という点で一致する他の諸グループも形成。
殆んどのコミューン派の新聞がこのプログラムを掲載し、急進派新聞もこれを受け入れる。
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ルイ・ブランの策動
この日(8日)、これに対し、ヴェルサイユ国民議会に残ったパリ選出代議士ルイ・ブランが、パリを悩まそうとの目的で、この急進派に語りかける。
「同僚の名において、歴史を滑稽に作り変えてしまっているといえる、偽善に満ちた調子の、そしてまた彼がそれを通じて自分のひからびた心を覆いかくしているような、くだくだしたセンチメンタルな文章で書いている。」と、リサガレーはこれを皮肉る。
*
ルイ・ブランは、「多数の者の誰一人とて共和政の原則を問題した者はいない。
・・・蜂起に参加した者についていえば、外国軍隊の占領という災禍に国内の不和という災禍を加えることによって、その災禍を深刻にし、長びかせるということだけを考えて身をおののかせるべきであろうと、われわれは彼らに言おう」と、書く。
*
ティエールの組合連合代表(調停派)への回答。
(ティエール)「蜂起側が最初に武装を解いたとしても、議会側は武装を解くわけにはいかぬ。」。
(調停派)「しかし、パリは共和政を望んでいる。」
(ティエール)「共和政は存在している。すなわち私の名誉にかけて、私が権力をとる限り共和政は倒れることはない。」。
(調停派)「パリは自治体の自主的権利を欲する。」
(ティエール)「議会はその権利をすべての地方自治体に与える法律を準備している。パリの権利はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。」。
代表は全般的特赦と軍隊廃止の妥協案を読みあげ、ティエールは彼らの読むに任せ、表面上は反対せずにいたので、代表は和解の基礎を発見したと確信してパリに戻る。
*
ヴェルサイユ国民議会は全地方自治体に首長を選挙する権利を承認したところであったが、ティエールは、この権利は人口2万人以下の都市には認めないように要望。
議員たちは、投票済と主張するが、ティエールは、共和政の下での秩序維持は難かしいことだから、それだけ権力強化が必要と固執し、辞職すると脅迫し、再議決を強要。
*
・この日、ピエール・ドニ(ブルードン主義者)が、「ル・クリ(デュ・プープル)」紙上に、ヴェルサイユおよびフランスとの協定案を公表。
「パリ・コミューン」とは何かの一つのイメージを示す。
*
「第一条。
パリは今や自由都市である。
フランス政府は一八七一年三月一八日に遂行されたコミューン革命の正統性を承認する。フランス政府は将来にわたって、この都市にたいする権力的干渉をいっさい断念する・・・。
*
第二条。
パリの市域は、コミューン自由権の享受を拒むセーヌ県内諸市町村を除くところのセーヌ県を包含する。
この市域にはパリ・コミューンと連盟関係を結び、パリ・コミューンの利点を享受したい旨表明する隣接諸県のあらゆるコミューンが付け加わりうる。
パリ・コミューンはフランスのその他の地域における蜂起による挑発を自ら禁じるが、しかしコミューン思想を模範および宣伝手段を通じて普及させる権利を留保する。
政府の側では、こうした普及にたいする妨害を自らに禁じる・・・。
*
第三条。
パリおよび連盟関係にある諸コミューンはフランスの都市であり続ける・・・。
パリはフランスの一般諸経費のうちの分担分を、ただし要塞への兵器配備、鉄道・道路ないし航行路のための支出、教育、海軍、公共事業にかんしてのみ、支払う。しかしパリは、内務省予算、大蔵省予算・宗教予算についてはまったく分担しない・・・。
戦争が起きた場合にはパリはそのために動員・編成され、パリの大砲で装備した国民衛兵の割当兵員を提供する。
*
第四条。
パリは立法議会に代表者を送る。
パリは、立法議会がコミューン憲法と矛盾しない限りにおいて、その議会の議決および勧告を受け入れる。
パリは、投票を通じて表明される利害関係や要求に応じてその条文を修正することを条件として民法の総則を受け入れる。
*
第五条。
パリは、フランス政府の干渉をいっさい受けることなく、コミューン制度にもとづいて自ら行政・統治にあたる。
パリは、パリのあらゆるレヴェルの公務員および司法官を選挙によって選ぶ。
パリは単独の予算を所有する。
パリは、都市の防衛および治安を任務とする国民衛兵以外の軍隊をもたない・・・。
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第七条。・・・外国からパリに向けて送られてくる商品のフランス内部の通過は無税である・・・。
*
第九条。
・・・(政府は)コミューンに派遣される一名の代表によって代表される・・・。
*
第一二条。
パリ、フランスおよびヨーロッパのために、またそれらの名誉と安全のみを目的として、誠意にもとづいて取り決められた本協定を、契約当事者双方は忠実に遵守することを誓う。
本協定は、やがて平和的な合州国連邦を形成するに至ることを署名者が期待しており、かつ、パリ・コミューンがその保護の下に身を置く、友好的諸政府・共和国に伝達される。」
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・アルジェリア。蜂起拡大。新しい闘士たちが武装闘争に参加。
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・ロンドン。クラーケンウェル・グリーンにおけるコミューン支持のデモと集会。
インタナショナル総評議会はパリの労働者同職組合のために、基金募集開始。
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to be continued
2009年6月26日金曜日
リサガレー、ルイズ・ミシェルの描くコミューン市民、女性たち
パリ・コミューンにおける市民の戦いの様相を、リサガレーとルイズ・ミシェルの著作の中からピックアップしてみた。
ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」より
ヌイイ戦線において、
「フェルナンデス、ダンゲ夫人、マリアーニがきていた。私たちは(ドンブロウスキの)参謀部の正面、ぺロネのバリケードのそばで移動救護班をやっていた。軽傷者は残り、重傷者は医師の決定するところにしたがって、大きな救護施設に運ばれた。しかし最初の手当でよくなるものもいくらかいた。」
*
「マイヨー門はなおも、勇敢さで鳴る少数の砲兵たちによってもちこたえられていた。老人や青年、ときには子供までがその任にあたっていた。」
*
「コミューンの軍隊にはまた、酒保の女性、看護婦、女性兵士が数多くいた。彼女たちもコミューンの戦士なのだ。
名前のわかっている女性は少ししかいない。第六六大隊の酒保のラシェーズ、コミューン狙撃兵ヴィクトリーヌ・ルーシー、決死隊の酒保の女性、コミューンの救護班にいるマリアーニ、ダンゲ、フェルナンデス、マルヴィナ・プーラン、カルチェ。
監視委員会の女性たち、ポワリエ、エクスコフォン、ブラン。
コルドリー街と学校の女性たち、ルメル、ドミトリエフ、ルルー。
パリの戦いがはじまるまでは教育を組織し、パリの戦いでは勇敢に戦った女性たち、アンドレ・レオ、ジャクラール、ペリエ、ルクリュ、サピアなどの夫人たち。
こういった女性たちはすべてコミューンの軍隊の一員であり、かなりの数にのぼった。」
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「ルイズ・ミシェルの生涯」はコチラ
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コチラにも婦人たちの活動があります。
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少年たちの様相については、「血の週間」での出来事に関するユゴーの感動的な詩があります。これはのちほど紹介します。
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ルイズ・ミシェルのもの(上下)

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リサガレーのもの(上下)

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下は磯見辰典「パリ・コミューン」より借用
*下は磯見辰典「パリ・コミューン」より借用
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リサガレー「パリ・コミューン」より
①市民兵士たち
「指揮官は上っ張りを着て、ほこりをかむり、袖章は茶色くこげている。兵士たちは、白髪の者もプロンドの頭の者もおり、六月蜂起に参加したことのある老人もおれば、その思想の被後見人ともいうべき若者もいた。しばしば父親のかたわらに息子もいっしょに行進していた。」
*
②女性たち
「隊列に手を振り、あるいはその後に従って歩く女、これこそ勇敢な本当のパリジェンヌである。
・・・今や街路を掌握しているのは、がっしりして献身的また悲劇的な、愛することと同じように死場所を求める、八九年(フランス大革命)以来民衆の胸のうち深くを生き生きと脈動する、純粋で高潔な鉱脈から生まれ出た女たちである。労苦を共にしてきた妻たちは、また夫と共に死のうと思っている。
タイムズの特派員は、「フランス国民が女性からだけで成っていたとしたら、どんなにか恐るべき国民だったことだろう!」と書いている。」
*
「妻は夫をひきとめることをせず、その反対に戦闘に押しやり、いつも仕事場に持っていくように、肌着やスープを聖域に運ぶ。
多くの者がそのまま帰ろうとはせず、銃をとる。
四月四日、シャティヨンの高台で彼女らは砲撃をおこなう。質素な身なりの酒保係たちも忙しく働いていた。
四月三日、ムードンの第六六大隊でラシェーズという女性は殆んど一人で、医師もないまま負傷者を看護して、一日中戦場に踏みとどまっていた。」
*
「戦いから戻ると彼女たちは献身の合図を打ちならし、第一〇区の区役所に委員会を作って集まり、感動的な宣言を掲示した。「勝利かしからずんば死以外にありません。・・・」」。
*
「高貴の生れで教養があり裕福で、ディミトリエフと呼ばれていた若い女性は、フランス大革命の時のテロワニュの如き働きをした。
行動において心において民衆そのものであったかのルイズ=ミシェルは、第一二区の小学校教師である。彼女を慕う小さい子供たちにはやさしく我慢強かったこの母親も、民衆の大義のためには、獅子の如くになった。彼女は砲撃下に負傷兵を看護する野戦看護隊を組織した。
彼女らはまた病院におもむき、親愛なる同志たちを気むずかしい修道女の手に渡すまいとし、瀕死の人たちを、共和国と希望について語りかけるやさしい声のささやきで元気づけたのであった。」
*
③子供たち
「・・・子供たちも大人たちに負けない働きをした。勝利したヴェルサイユ軍は六六〇人の子供を捕えているし、多くが街頭の戦闘で死亡している。彼らは諸大隊について塹壕に行き、また要塞にも行き、大砲の後について離れなかった。
マイヨー門の数人の砲手は一三歳から一四歳の子供であった。彼らは広々とした何のさえぎるものもない戦場で、驚くべき勇敢さを発揮した。」。
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リサガレー「パリ・コミューン」より
①市民兵士たち
「指揮官は上っ張りを着て、ほこりをかむり、袖章は茶色くこげている。兵士たちは、白髪の者もプロンドの頭の者もおり、六月蜂起に参加したことのある老人もおれば、その思想の被後見人ともいうべき若者もいた。しばしば父親のかたわらに息子もいっしょに行進していた。」
*
②女性たち
「隊列に手を振り、あるいはその後に従って歩く女、これこそ勇敢な本当のパリジェンヌである。
・・・今や街路を掌握しているのは、がっしりして献身的また悲劇的な、愛することと同じように死場所を求める、八九年(フランス大革命)以来民衆の胸のうち深くを生き生きと脈動する、純粋で高潔な鉱脈から生まれ出た女たちである。労苦を共にしてきた妻たちは、また夫と共に死のうと思っている。
タイムズの特派員は、「フランス国民が女性からだけで成っていたとしたら、どんなにか恐るべき国民だったことだろう!」と書いている。」
*
「妻は夫をひきとめることをせず、その反対に戦闘に押しやり、いつも仕事場に持っていくように、肌着やスープを聖域に運ぶ。
多くの者がそのまま帰ろうとはせず、銃をとる。
四月四日、シャティヨンの高台で彼女らは砲撃をおこなう。質素な身なりの酒保係たちも忙しく働いていた。
四月三日、ムードンの第六六大隊でラシェーズという女性は殆んど一人で、医師もないまま負傷者を看護して、一日中戦場に踏みとどまっていた。」
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「戦いから戻ると彼女たちは献身の合図を打ちならし、第一〇区の区役所に委員会を作って集まり、感動的な宣言を掲示した。「勝利かしからずんば死以外にありません。・・・」」。
*
「高貴の生れで教養があり裕福で、ディミトリエフと呼ばれていた若い女性は、フランス大革命の時のテロワニュの如き働きをした。
行動において心において民衆そのものであったかのルイズ=ミシェルは、第一二区の小学校教師である。彼女を慕う小さい子供たちにはやさしく我慢強かったこの母親も、民衆の大義のためには、獅子の如くになった。彼女は砲撃下に負傷兵を看護する野戦看護隊を組織した。
彼女らはまた病院におもむき、親愛なる同志たちを気むずかしい修道女の手に渡すまいとし、瀕死の人たちを、共和国と希望について語りかけるやさしい声のささやきで元気づけたのであった。」
*
③子供たち
「・・・子供たちも大人たちに負けない働きをした。勝利したヴェルサイユ軍は六六〇人の子供を捕えているし、多くが街頭の戦闘で死亡している。彼らは諸大隊について塹壕に行き、また要塞にも行き、大砲の後について離れなかった。
マイヨー門の数人の砲手は一三歳から一四歳の子供であった。彼らは広々とした何のさえぎるものもない戦場で、驚くべき勇敢さを発揮した。」。
ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」より
ヌイイ戦線において、
「フェルナンデス、ダンゲ夫人、マリアーニがきていた。私たちは(ドンブロウスキの)参謀部の正面、ぺロネのバリケードのそばで移動救護班をやっていた。軽傷者は残り、重傷者は医師の決定するところにしたがって、大きな救護施設に運ばれた。しかし最初の手当でよくなるものもいくらかいた。」
*
「マイヨー門はなおも、勇敢さで鳴る少数の砲兵たちによってもちこたえられていた。老人や青年、ときには子供までがその任にあたっていた。」
*
「コミューンの軍隊にはまた、酒保の女性、看護婦、女性兵士が数多くいた。彼女たちもコミューンの戦士なのだ。
名前のわかっている女性は少ししかいない。第六六大隊の酒保のラシェーズ、コミューン狙撃兵ヴィクトリーヌ・ルーシー、決死隊の酒保の女性、コミューンの救護班にいるマリアーニ、ダンゲ、フェルナンデス、マルヴィナ・プーラン、カルチェ。
監視委員会の女性たち、ポワリエ、エクスコフォン、ブラン。
コルドリー街と学校の女性たち、ルメル、ドミトリエフ、ルルー。
パリの戦いがはじまるまでは教育を組織し、パリの戦いでは勇敢に戦った女性たち、アンドレ・レオ、ジャクラール、ペリエ、ルクリュ、サピアなどの夫人たち。
こういった女性たちはすべてコミューンの軍隊の一員であり、かなりの数にのぼった。」
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「ルイズ・ミシェルの生涯」はコチラ
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コチラにも婦人たちの活動があります。
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少年たちの様相については、「血の週間」での出来事に関するユゴーの感動的な詩があります。これはのちほど紹介します。
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ルイズ・ミシェルのもの(上下)
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リサガレーのもの(上下)
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2009年6月10日水曜日
1871(明治4)年4月7日 ドンブロウスキ、司令官就任
1871(明治4)年4月7日
*
・仏、ヴェルサイユ軍、ヌイイにむかう橋・道路を占領し、ヌイイの旧庭園まで進む。
朝、ヴェルサイユ軍はヌイイのバリケードと街路を砲撃。4時半頃、砲撃が止むと、ヴェルサイユ兵は一団となって橋に進出。連盟兵はそれを阻止しようとして将軍2人を殺傷するが、数を誇るヴェルサイユ兵はヌイイの旧庭園まで進出。
*
・ポーランド人ヤロスラフ・ドンブロウスキ、ベルジュレに代わってパリ市総司令官(パリ防塞地区指揮官)に就任。前線を駈け廻り、逃走する兵士を集めて、戦闘に赴かせ、ドンプロフスキは、数時間のうちに勇気と軍事的能力を認められ、兵士たちの人気を博す。
*
参謀部は、ベルジュレをドンブロウスキと交替させる執行委員会決定に抗議し、国民軍もいくらかの不信の念を表明するが、ヴァイヤン、ドレクリューズがドンプロウスキを擁護し、執行委員会は彼がどんな人物かをパリに紹介。コミューンは彼のことを正確に知らないので、彼についての伝説を作り上げるが、実際には彼はすぐにその伝説を凌ぐ才能を発揮する。
*
ドンブロウスキともう1人の有能なポーランド人将校ヴロブレフスキは、防御だけにとどまらず、ときどき攻撃を行い、敵に打撃を与え、敵陣地を占領することさえあるが、彼らの努力も、最高指導部の無能の為に実を結ぶことがない。
パリには火薬や弾丸の莫大な貯蔵があり、猛砲撃を浴びているヌイイ固守には、砲兵の応戦だけでも可能であるのに、クリュズレは、弾薬濫費として叱責。250人で重要陣地を守備するドンブロウスキが援兵を要求しても、僅か300人が派遣されたに過ぎない。4月17日、彼は絶望的な抵抗の後、若干の重要地点において後退を余儀なくされ、25日には、ヴェルサイユ軍の圧迫に耐え得ず、遂にヌイイから撤退。
*
クリュズレは、ベルジュレを虚栄的な軍事活動を行なった命令不服従の廉で糾弾、逮捕状態のまま12日の会議決定により、ランヴィエ、プロト、ランジュヴァンで構成される委員会により調査されることになる。
*
人々は、戦闘がもちこたられる事を希望するが、ヴェルサイユ軍は、ヌイイ、ルヴァロワ、アニエール、ブーローニュの森、イシー、ヴァンヴ、ビセートル、クリシー、パッシー、ピノー門、テルヌ、グラン・ダルメ通り、シャン・ゼリゼ、凱旋門、サン・クルー、オートイユ、ヴォージラール、マイヨー門を一斉に攻撃。
*
「ドンブロウスキーはわずか二、三千、ときにはそれを下まわる兵を率いて、たえず襲撃してくる正規軍の一万以上の兵に応戦していた。・・・
ドンブロウスキが参謀部をおいていた建物の近くの、ペロネのバリケードでは、数夜にわたってヴェルサイユの砲弾の嵐が吹きあれ、まるで地震のようで、大海が空からふってくるかと思われるほどだった。」(「ミシェル・ルイーズの日記」)。
*
○[コミューン群像:ヤロスラフ・ドンブロウスキ]
ジトミールで貴族出身の官吏の家庭に生まれる。
1855年ペテルブルクのコンスタンチン士官学校卒業後、カフカーズに派遣。1859~61年ペテルブルクの陸軍大学で学び、ここでロシアやポーランドの革命家たちと接近。
62年2月からワルシャワで勤務、蜂起準備をするポーランドの革命家たちの地下活動に参加。62年5月から中央国民委員会委員となり革命家たちの軍事組織指導者の1人となる。62年8月、逮捕され、64年ポーランド蜂起当時は銃殺判決をうけているが、のち15年の徒刑に軽減。
64年12月モスクワで脱獄、妻と共に国外脱出。65年パリに行き、ポーランドの革命的亡命者団体の活動に参加。逮捕されるが、1870年7月釈放。
共和制宣言後フランス軍に入り、対ドイツ戦争に参加する積りであったが逮捕され、ガリバルディの仲介により釈放。71年2月リヨンに行く。
3月18~21日パリに戻り、国民軍中央委員会委員と軍事情勢を討議。ドンブロウスキは直ちにヴェルサイユを占領し、ティエール政府を逮捕し、国民議会を解散し、新しい選挙を行う事に賛成する。
4月2日、志願して国民軍に入り、第2軍団長に任命。4月7日から将軍としてパリ防塞地区司令官、4月末からコミューン第1軍を指揮し、5月5日からセイヌ右岸軍事行動司令官に任命。
事実上、最高司令官として、パリ市外とヴェルサイユ軍侵入後はパリ市内とで、ヴェルサイユ軍に対する戦闘行動を指揮。5月23日、バリケード戦で致命傷を受け没す。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。
*
・コミューン執行委員会、勝手気ままの逮捕を止めさせる措置についての決定。
*
軍事代表委員クリュズレ、妻帯者を含む19~40歳の全市民の動員(4月4日付法令の改訂)決定。クリュズレは、築城専門家たちが陸軍省に出頭するよう呼びかける。
*
to be continued
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・仏、ヴェルサイユ軍、ヌイイにむかう橋・道路を占領し、ヌイイの旧庭園まで進む。
朝、ヴェルサイユ軍はヌイイのバリケードと街路を砲撃。4時半頃、砲撃が止むと、ヴェルサイユ兵は一団となって橋に進出。連盟兵はそれを阻止しようとして将軍2人を殺傷するが、数を誇るヴェルサイユ兵はヌイイの旧庭園まで進出。
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・ポーランド人ヤロスラフ・ドンブロウスキ、ベルジュレに代わってパリ市総司令官(パリ防塞地区指揮官)に就任。前線を駈け廻り、逃走する兵士を集めて、戦闘に赴かせ、ドンプロフスキは、数時間のうちに勇気と軍事的能力を認められ、兵士たちの人気を博す。
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参謀部は、ベルジュレをドンブロウスキと交替させる執行委員会決定に抗議し、国民軍もいくらかの不信の念を表明するが、ヴァイヤン、ドレクリューズがドンプロウスキを擁護し、執行委員会は彼がどんな人物かをパリに紹介。コミューンは彼のことを正確に知らないので、彼についての伝説を作り上げるが、実際には彼はすぐにその伝説を凌ぐ才能を発揮する。
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ドンブロウスキともう1人の有能なポーランド人将校ヴロブレフスキは、防御だけにとどまらず、ときどき攻撃を行い、敵に打撃を与え、敵陣地を占領することさえあるが、彼らの努力も、最高指導部の無能の為に実を結ぶことがない。
パリには火薬や弾丸の莫大な貯蔵があり、猛砲撃を浴びているヌイイ固守には、砲兵の応戦だけでも可能であるのに、クリュズレは、弾薬濫費として叱責。250人で重要陣地を守備するドンブロウスキが援兵を要求しても、僅か300人が派遣されたに過ぎない。4月17日、彼は絶望的な抵抗の後、若干の重要地点において後退を余儀なくされ、25日には、ヴェルサイユ軍の圧迫に耐え得ず、遂にヌイイから撤退。
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クリュズレは、ベルジュレを虚栄的な軍事活動を行なった命令不服従の廉で糾弾、逮捕状態のまま12日の会議決定により、ランヴィエ、プロト、ランジュヴァンで構成される委員会により調査されることになる。
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人々は、戦闘がもちこたられる事を希望するが、ヴェルサイユ軍は、ヌイイ、ルヴァロワ、アニエール、ブーローニュの森、イシー、ヴァンヴ、ビセートル、クリシー、パッシー、ピノー門、テルヌ、グラン・ダルメ通り、シャン・ゼリゼ、凱旋門、サン・クルー、オートイユ、ヴォージラール、マイヨー門を一斉に攻撃。
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「ドンブロウスキーはわずか二、三千、ときにはそれを下まわる兵を率いて、たえず襲撃してくる正規軍の一万以上の兵に応戦していた。・・・
ドンブロウスキが参謀部をおいていた建物の近くの、ペロネのバリケードでは、数夜にわたってヴェルサイユの砲弾の嵐が吹きあれ、まるで地震のようで、大海が空からふってくるかと思われるほどだった。」(「ミシェル・ルイーズの日記」)。
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○[コミューン群像:ヤロスラフ・ドンブロウスキ]
ジトミールで貴族出身の官吏の家庭に生まれる。
1855年ペテルブルクのコンスタンチン士官学校卒業後、カフカーズに派遣。1859~61年ペテルブルクの陸軍大学で学び、ここでロシアやポーランドの革命家たちと接近。
62年2月からワルシャワで勤務、蜂起準備をするポーランドの革命家たちの地下活動に参加。62年5月から中央国民委員会委員となり革命家たちの軍事組織指導者の1人となる。62年8月、逮捕され、64年ポーランド蜂起当時は銃殺判決をうけているが、のち15年の徒刑に軽減。
64年12月モスクワで脱獄、妻と共に国外脱出。65年パリに行き、ポーランドの革命的亡命者団体の活動に参加。逮捕されるが、1870年7月釈放。
共和制宣言後フランス軍に入り、対ドイツ戦争に参加する積りであったが逮捕され、ガリバルディの仲介により釈放。71年2月リヨンに行く。
3月18~21日パリに戻り、国民軍中央委員会委員と軍事情勢を討議。ドンブロウスキは直ちにヴェルサイユを占領し、ティエール政府を逮捕し、国民議会を解散し、新しい選挙を行う事に賛成する。
4月2日、志願して国民軍に入り、第2軍団長に任命。4月7日から将軍としてパリ防塞地区司令官、4月末からコミューン第1軍を指揮し、5月5日からセイヌ右岸軍事行動司令官に任命。
事実上、最高司令官として、パリ市外とヴェルサイユ軍侵入後はパリ市内とで、ヴェルサイユ軍に対する戦闘行動を指揮。5月23日、バリケード戦で致命傷を受け没す。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。
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・コミューン執行委員会、勝手気ままの逮捕を止めさせる措置についての決定。
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軍事代表委員クリュズレ、妻帯者を含む19~40歳の全市民の動員(4月4日付法令の改訂)決定。クリュズレは、築城専門家たちが陸軍省に出頭するよう呼びかける。
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to be continued
2009年5月24日日曜日
1871(明治4)年4月6日 ヴェルサイユ軍、モン・ヴァレリアンから砲撃
磯見辰典「パリ・コミューン」(白水社)所収を借用
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■1871(明治4)年4月6日*
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・ヴェルサイユ軍、新たに強力な大砲を装備したモン・ヴァレリアンから、クールプヴォアに対し砲撃開始。
ヴェルサイユ軍は、進攻しクールプヴォア村占領。
6時間の戦闘後、国民衛兵は、マイヨー市門に据えた砲兵の掩護の下に、ヌイイ橋の大きなバリケードに拠って抵抗を続ける。
*
・コミューンの死者の為の長い葬列。36の柩。幾十万の列席者。ドレクリューズの短かい演説。
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○[コミューン群像:シャルル・ドレクリューズ]
フランス大革命に参加したブルジョア豪族出身。高等教育をうける資金がなく事務員として働く。
1830年12月から革命運動に参加。
1848年革命にも参加。ヴァランシェンヌで共和制を宣言、ノール県臨時政府コミサールになる。
1848年11月パリで新聞『ラ・レヴォルシオン・デモクラティク・エ・ソシアル』を創刊、小ブルジョア的社会主義者、民主主義者の見解を表明。
革命活動の為に、禁錮刑をうけギアナに流刑。
1868年、共和主義的、民主主義的新聞『ル・レヴェイ』創刊。再び弾圧をうけ、1870年ベルギーに亡命。
第2帝政崩壊後パリに戻り、新聞発行を再開し、国防政府に反対する。
1870年10月31日、11月5日の蜂起に参加、第19区区長に選出。
共和連盟で重要な役割を演じ、1871年1月22日、コミューンを作るよう呼び掛ける。1月22日の民衆行動弾圧後、逮捕され、彼の新聞は閉鎖。
2月、国民議会にパリから代議士として選ばれ、議会で国防政府閣僚を裁判にかけるよう要求。
3月26日、パリ・コミューン議員として第19、11区から選ばれ(第11区代表を選ぶ)、国民議会代議士権を放棄。
3月29日から渉外委員部委員、4月4日から執行委員会委員、4月21日から軍事委員部委員。病気の為に、公安委員会設置投票には参加していないが、5月9日、公安委貝に選ばれ、5月10日陸軍省所属市民代表委員となる。
コミューン軍隊強化及び、「五月の一週間」の時期のバリケード闘争の組織に重要な役割を演じる。
5月22日のアピールでは、連盟兵に「革命戦争」を呼び掛ける。
5月25日、シャトー・ドー広場のバリケードで戦死。
*
・午前10時、パリ第11区小委員会決定により、第137大隊の国民軍兵士、ラ・ロケット監獄からギロチンを持ち出し、プルヴァール・ヴォルテールで焼却。
「憎むべき堕落した政府」によって新しいギロチンが造られたことを知った彫刻家カバレッロの勧めに応じて、第9区小委員会は、フォリー・メリクール通りの仕事場の中にある「王政時代のいまわしい道具」を第137大隊国民兵によって押収させる。
ギロチンは市庁舎の前のヴォールテール像の下でばらばらにされて火をつけられる。
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・コミューン、4月10日をコミューン補欠選挙期日と決定。
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・コミューン、勤務拒否の国民軍兵士に対する措置の法令採択。
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・コミューン、マルセイユの革命運動指導のため代表4人の派遣決定。
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・コミューン、ドンプロフスキ将軍をパリ市総司令官(パリ防塞地区指揮官)に任命するというコミューン執行委員会の法令。
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・パリはただ自己のみを防衛しているとのヴェルサイユ政府の中傷に反駁して、各県に宛ててコミューン執行委員会のアピール。
「パリは自分たちのためというよりも、いま、諸君のためにたたかい、奮闘しているのである。諸君の努力がわれわれの努力と結合すれば、われわれは勝利するであろう。われわれは法と正義の代表者だからである」。
*
・国民軍諸大隊の隊長選挙。
水兵と元兵士に対し国民軍大隊に入隊せよと呼び掛け。元政治犯の集会、彼らによる国民軍特別大隊編成の問題を討議。ペール・ラシェーズ基地で、4月3~5日の戦闘で倒れた国民軍兵士埋葬式。
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・ギュスターヴ・クールベ、「官報」に、パリ美術家達に対し、コミューンを支持し、その才能を捧げ、博物館を開き、展覧会の準備をしようと呼びかけるアピール発表。
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・ヴェルサイユ。
ティエール政府命により、歩兵2軍団・騎兵1軍団(9箇師団と若干の部隊からなる部隊)及び3箇師団その他の部隊からなる予備軍を編成。
ヴィノワ将軍更迭。マクマオン元帥(プロシアでの捕虜より帰還)、ヴェルサイユ軍総司令官に就任。
外相ジュール・ファーブル、正規軍兵力増強のため捕虜の大量送還をプロシア政府と交渉。ヴェルサイユ軍兵力5万千、コミューン連盟軍とほぼ同数。
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・マルクス、ヴィルヘルム・リープクネヒトに宛てて手紙。「どうもパリの人たちは負かされそうです」。
「これは彼らの罪ではなく、じつさいは度はずれた正直さからおこった罪なのです。中央委員会と、その後はコミューンも、怪物ティエールに、敵勢力を結集する時間をあたえたのです」。
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to be continued
2009年5月8日金曜日
1871(明治4)年4月5日 ヴェルサイユ軍のパリ砲撃
■1871(明治4)年4月5日
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・連盟兵諸大隊、クルプヴォアの村、ヌイイの橋、パリ西部の諸堡を占領。南方の諸堡の前面にある塹壕線の設置。
シャティヨン台地の戦闘で連盟兵敗北。
*
・この日以降、ドイツ軍がパリに向けて据付けた南部・西部の砲台は、ヴェルサイユ軍が使う。
モン・ヴァレリアン、ムードン、ブランボリオンの砲台はこの方面に絶え間なく霞弾を浴びせ、シャン・ゼリゼ地区は砲撃をうけて全域が破壊される。
*
[この頃のコミューン側の職業軍人]
フルーランスとデュヴァルは戦死(処刑)、チプリアニは捕虜になり、残りはクリュズレ、ドンプロウスキー兄弟、ヴロブレスキー、ロッセル、オコロヴィック、ラ・セシリア、エクトール・フランス、パリに留まった何人かの下士官・正規軍兵士・海兵隊員たち。
海兵隊員には、幾人かの将校(リュリエと同じ時に来た海軍少尉候補生コワニエ、遠洋航海船長のプリュッセなど)がいる。
*
・コミューン、ヴェルサイユでのコミューン戦士虐殺に関連して、パリで報復的弾圧を行えとパリ市民によびかけ。
ヴェルサイユ政府との共謀が暴露された人物を裁判にかけ、逮捕し、弾劾裁判所を設立し、これらの法廷の判決によって、人質として宣告された者を投獄し、ヴェルサイユでコミューン戦士1名銃殺につき、人質3名を処刑する法令を採択(翌6日「人質に関する布告」として公布、実施されず)。
*
人質についての布告の起草。
「第一条、ヴェルサイユ政府との共犯者として告発されたものはすべて、ただちに有罪および投獄の宣告を受ける。
第二条、告発陪審院が訴えられたものの罪状を知るために二十四時間以内に創設される。
第三条、告発陪審院は二十四時間以内に判決を下す。
第四条、陪審員の決議によって拘留された被告人はすべて、パリ住民の人質となる。
第五条、捕虜あるいはパリ・コミューンの正規な政府の同調者が処刑された場合にはすべて、ただちに、第四条によって留置され、くじ引きで決められた人質のうちその三倍の人数の人質を処刑する。
第六条、捕虜はすべて告発陪審院の前に召喚され、陪審院はただちに釈放されるべきものか、人質として拘留されるべきものかを決定する。」
*
(実行はされないが、)コミューンの悪名を天下に宣伝する逆効果。
ヴェルサイユ(ティエール)はパリに抑留されている人質の生命の危険など眼中にない。
後に、パリ側がヴェルサイユに抑留されているプランキ(10月31日事件の首謀者として欠席裁判で死刑宣告されていたブランキは、3月18日の直前ティエール政府によって、捕縛された)を釈放させようとして、パリに抑留しているパリ大司教ダルボア他3名の要人とプランキとの(捕虜)交換を申出でるが、ティエールがこれに耳をかさず。5月末、ヴェルサイユ軍がパリに侵攻し殺戮が始まると、ダルボア他数名は報復的に銃殺され、コミューンに汚点を残す。
*
・コミューンに敵対的な新聞の発行停止(戦士処刑への報復措置)。
*
・中央委員会の新たな掲示。
「内戦は彼らの救いの最後のチャンスなのだ。彼らは内戦を始めようとしている。彼らが千度も呪われ、破滅せんことを願う。パリ市民諸君、われわれは再びあの崇高な英雄主義と至高の美徳の偉大な日々にいまや際会しているのだ・・・」
*
・医科大学の大階段講堂に集合した芸術家400人によって、パリ芸術家「連合」議長に選ばれたクールベの演説。
「わたしは芸術家諸君に訴える・・・
パリは母のように芸術家を育て、芸術家に才能をあたえた・・・
偉大な都市パリは、今や封建制度の埃を払い落したばかりである。人間は自分自身を治め、「連合」は理解されるであろう。そしてパリは歴史が今後しるすであろう栄光の最大の部分を獲得することであろう・・・」。
クールベは博物館を再開し、国際美術展覧会開催を提案。
*
・第2区小委員会、「区の浄化と新しい自由の祝聖のため」ギロチンを押収し、それを区役所前広場で燃やす。
*
・外交委員会代表委員パスカル・グルッセ、フランス駐在外交代表に対し、パリ・コミューン政府の成立と、政府がパリ人民と他国人民とを結びつける「友情のきずなを強めること」を望んでいること、を伝える覚書手交。
ドイツ司令部に対し、コミューンはドイツとの平和条約遵守に配慮している、ドイツ軍をセイヌ県及び「パリ・コミューンの領土にはいる」諸稜堡から撤退させる問題についての手紙を手交。
*
フランスで信任状を持つ殆ど全ての外交官が、3月18日の事件以後、ヴェルサイユに移転。
イギリス大使ロード・ライオンズは、パリに留まるが、コミューンに対する敵対的態度は隠さず。
ロシア全権代表ゲ・エヌ・オークネフも、コミューンに対し極めて敵対的態度をとる。
アメリカ合衆国大使ウォッシュバーンは、ワシントンへの報告ではコミューンの行動を中傷しながら、コミューン活動家達と話す時はコミューン綱領に共感していると請け合う(但し、最後の戦闘の頃、ウォッシュバーンは、その背信的行動によって、コミューンの壊滅を早める)。
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・国民軍中央委員会、パリの革命の社会的本質と中央委員会の役割・任務に関する呼び掛け。
陸軍省、国民軍中央委員会承認の下に、軍隊指揮官として専門知識をもつ高級将校を、軍事代表委員によって臨時に任命するよう命令。
*
・調停者(教授・医師・弁護士・学生等から成る)、国民議会に対し請願(①教会より分離した民主共和制の承認、②大都市から市長選挙権を剥奪しないようにしてほしい)。
調停運動は、全国商工会議所連盟及びパリ市権利擁護同盟を通じて行なわれる。
*
全国商工会議所連盟(商工会議所50・商工業者7千)の声明:
意見不一致は誤解の産物であり、第三者の善意ある介入によってこの誤解を一掃できる。
コミューンと国民議会との和解の基礎原則は、
①共和制確立(「共和制なくしては干渉と窮乏のみがわれわれの運命である」)、
②民主的基礎におけるパリ市政の自由の組織(但し、それは、「フランスの一般的利益に関する政治権力の権限を侵そうとするものではない。」)、である。
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ティエールの調停団体代表者への回答。
自分が政権にいる限り、共和制存続を保証する。パリ市政の自由は、他の諸都市と同様に、国民議会の作成した法律に従う。
いずれにせよ、軍隊は、パリに入城しなければならぬ、パリとの交渉はパリが屈服し、武器を棄て、ヴェルサイユ軍を迎え入れた後においてのみ可能である。
*
to be continued
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・連盟兵諸大隊、クルプヴォアの村、ヌイイの橋、パリ西部の諸堡を占領。南方の諸堡の前面にある塹壕線の設置。
シャティヨン台地の戦闘で連盟兵敗北。
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・この日以降、ドイツ軍がパリに向けて据付けた南部・西部の砲台は、ヴェルサイユ軍が使う。
モン・ヴァレリアン、ムードン、ブランボリオンの砲台はこの方面に絶え間なく霞弾を浴びせ、シャン・ゼリゼ地区は砲撃をうけて全域が破壊される。
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[この頃のコミューン側の職業軍人]
フルーランスとデュヴァルは戦死(処刑)、チプリアニは捕虜になり、残りはクリュズレ、ドンプロウスキー兄弟、ヴロブレスキー、ロッセル、オコロヴィック、ラ・セシリア、エクトール・フランス、パリに留まった何人かの下士官・正規軍兵士・海兵隊員たち。
海兵隊員には、幾人かの将校(リュリエと同じ時に来た海軍少尉候補生コワニエ、遠洋航海船長のプリュッセなど)がいる。
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・コミューン、ヴェルサイユでのコミューン戦士虐殺に関連して、パリで報復的弾圧を行えとパリ市民によびかけ。
ヴェルサイユ政府との共謀が暴露された人物を裁判にかけ、逮捕し、弾劾裁判所を設立し、これらの法廷の判決によって、人質として宣告された者を投獄し、ヴェルサイユでコミューン戦士1名銃殺につき、人質3名を処刑する法令を採択(翌6日「人質に関する布告」として公布、実施されず)。
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人質についての布告の起草。
「第一条、ヴェルサイユ政府との共犯者として告発されたものはすべて、ただちに有罪および投獄の宣告を受ける。
第二条、告発陪審院が訴えられたものの罪状を知るために二十四時間以内に創設される。
第三条、告発陪審院は二十四時間以内に判決を下す。
第四条、陪審員の決議によって拘留された被告人はすべて、パリ住民の人質となる。
第五条、捕虜あるいはパリ・コミューンの正規な政府の同調者が処刑された場合にはすべて、ただちに、第四条によって留置され、くじ引きで決められた人質のうちその三倍の人数の人質を処刑する。
第六条、捕虜はすべて告発陪審院の前に召喚され、陪審院はただちに釈放されるべきものか、人質として拘留されるべきものかを決定する。」
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(実行はされないが、)コミューンの悪名を天下に宣伝する逆効果。
ヴェルサイユ(ティエール)はパリに抑留されている人質の生命の危険など眼中にない。
後に、パリ側がヴェルサイユに抑留されているプランキ(10月31日事件の首謀者として欠席裁判で死刑宣告されていたブランキは、3月18日の直前ティエール政府によって、捕縛された)を釈放させようとして、パリに抑留しているパリ大司教ダルボア他3名の要人とプランキとの(捕虜)交換を申出でるが、ティエールがこれに耳をかさず。5月末、ヴェルサイユ軍がパリに侵攻し殺戮が始まると、ダルボア他数名は報復的に銃殺され、コミューンに汚点を残す。
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・コミューンに敵対的な新聞の発行停止(戦士処刑への報復措置)。
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・中央委員会の新たな掲示。
「内戦は彼らの救いの最後のチャンスなのだ。彼らは内戦を始めようとしている。彼らが千度も呪われ、破滅せんことを願う。パリ市民諸君、われわれは再びあの崇高な英雄主義と至高の美徳の偉大な日々にいまや際会しているのだ・・・」
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・医科大学の大階段講堂に集合した芸術家400人によって、パリ芸術家「連合」議長に選ばれたクールベの演説。
「わたしは芸術家諸君に訴える・・・
パリは母のように芸術家を育て、芸術家に才能をあたえた・・・
偉大な都市パリは、今や封建制度の埃を払い落したばかりである。人間は自分自身を治め、「連合」は理解されるであろう。そしてパリは歴史が今後しるすであろう栄光の最大の部分を獲得することであろう・・・」。
クールベは博物館を再開し、国際美術展覧会開催を提案。
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・第2区小委員会、「区の浄化と新しい自由の祝聖のため」ギロチンを押収し、それを区役所前広場で燃やす。
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・外交委員会代表委員パスカル・グルッセ、フランス駐在外交代表に対し、パリ・コミューン政府の成立と、政府がパリ人民と他国人民とを結びつける「友情のきずなを強めること」を望んでいること、を伝える覚書手交。
ドイツ司令部に対し、コミューンはドイツとの平和条約遵守に配慮している、ドイツ軍をセイヌ県及び「パリ・コミューンの領土にはいる」諸稜堡から撤退させる問題についての手紙を手交。
*
フランスで信任状を持つ殆ど全ての外交官が、3月18日の事件以後、ヴェルサイユに移転。
イギリス大使ロード・ライオンズは、パリに留まるが、コミューンに対する敵対的態度は隠さず。
ロシア全権代表ゲ・エヌ・オークネフも、コミューンに対し極めて敵対的態度をとる。
アメリカ合衆国大使ウォッシュバーンは、ワシントンへの報告ではコミューンの行動を中傷しながら、コミューン活動家達と話す時はコミューン綱領に共感していると請け合う(但し、最後の戦闘の頃、ウォッシュバーンは、その背信的行動によって、コミューンの壊滅を早める)。
*
・国民軍中央委員会、パリの革命の社会的本質と中央委員会の役割・任務に関する呼び掛け。
陸軍省、国民軍中央委員会承認の下に、軍隊指揮官として専門知識をもつ高級将校を、軍事代表委員によって臨時に任命するよう命令。
*
・調停者(教授・医師・弁護士・学生等から成る)、国民議会に対し請願(①教会より分離した民主共和制の承認、②大都市から市長選挙権を剥奪しないようにしてほしい)。
調停運動は、全国商工会議所連盟及びパリ市権利擁護同盟を通じて行なわれる。
*
全国商工会議所連盟(商工会議所50・商工業者7千)の声明:
意見不一致は誤解の産物であり、第三者の善意ある介入によってこの誤解を一掃できる。
コミューンと国民議会との和解の基礎原則は、
①共和制確立(「共和制なくしては干渉と窮乏のみがわれわれの運命である」)、
②民主的基礎におけるパリ市政の自由の組織(但し、それは、「フランスの一般的利益に関する政治権力の権限を侵そうとするものではない。」)、である。
*
ティエールの調停団体代表者への回答。
自分が政権にいる限り、共和制存続を保証する。パリ市政の自由は、他の諸都市と同様に、国民議会の作成した法律に従う。
いずれにせよ、軍隊は、パリに入城しなければならぬ、パリとの交渉はパリが屈服し、武器を棄て、ヴェルサイユ軍を迎え入れた後においてのみ可能である。
*
to be continued
2009年4月24日金曜日
1871年4月4日 デュヴァル銃殺 マルセイユ・コミューン崩壊 パリ・コミューン(14)
■1871(明治4)年4月4日
・日本、「戸籍法」制定・公布。民部省起案。翌5年2月~実施。壬申戸籍。明治6年3月、全国の戸籍簿3万1千冊が完成。
*
市街地で4~5町、村部で7~8村を基準に区を設け、戸籍事務を行う為に戸長を置く。
*
[福井藩の例]
6月、福井藩は、村方の郷を区に改め、郷長を戸長とし、里長を廃止。
また、同法では、士族卒農工商の別なく居住地の順に戸籍編制する為、福井城下は、町方12区と士族卒の町を合わせ、新たに8区に編制。これにより3人の坊長が戸長と改称され、族長が廃されて新たに5人の士族戸長が任命される。武生・三国の市街地も夫々1区となり、福井藩は16区16戸長となる。
*
4月4日 パリ
・砲・食糧もなく、コミューン軍は退却。
デュヴァルはヴェルサイユ軍の捕虜となり、ヴェルサイユ軍総司令官ヴィノアの命令でその面前で銃殺。ティエール軍はシャティヨンとクラマールを占領。捕虜虐殺。
*
[経緯]
ヴェルサイユ側ヴィノワ将軍はヴェルジェ師団の1旅団を、ムードンのファロン将軍への増強部隊として派遣。
ペショ旅団は、ペレ師団・デロージャ旅団に支援のもとにシャティオン保塁を攻撃。ペショ旅団第70混成連隊が正面に殺到し、側面のデロージャの第109連隊は連盟軍の背後に回る。ペレ将軍が生命を保証する投降勧告を出し、午後5時頃、保塁守備隊は降伏。
ヴェルサイユへの連行途中、ヴィノア将軍は将校全員の射殺を命令。
護送部隊長が、投降の際に助命の約束を与えたことを述べると、ヴィノアは、「指揮官は誰か?」と尋ねる。デュヴァルが名乗り出て、次いでデュヴァルの参謀長と義勇兵指揮官が名乗り出る。ヴィノアの命令により、デュヴァルと将校2名は銃殺処刑される。
*
ヴェルサイユでは、官吏やその家族、社交界の貴婦人たちが道路にとび出し、捕虜に対して、唾を吐きかけ、拳骨や棒や日傘で殴りつけ、捕虜の帽子や上衣を剥ぎとり、「人殺し!」 「ギロチンへ送れ!」などと叫ぶ。
捕虜たちはサトリーの軍用倉庫に投げ込まれる。
捕虜の証言。「最後にわれわれはサトリーへ連行され、千六百八十五人の者がそこの軍用倉庫におしこめられた。疲労と飢餓でへトへトであったが、狭い所にぎっしりつめられ、横になる場所もなく、二日二晩立ったままで、ときどき交代で湿った藁の上に横になるだけであった。ロに入れるものといっては、パンと、番兵がその辺のどぶ池からすくってくる臭い水だけであった。」。
*
多くの捕虜処刑の証言。
ある警察隊将校は殺された5人の国民軍兵士の死体を見たと言い、別のひとりは、ヴェルサイユへの行進を拒んだ18人の捕虜が射殺されたと伝える。
ガリフェ将軍はシャトゥーの広場で連盟兵を銃殺し、住民たちに向かって、「戦争はパリの悪党どもによって宣せられた・・・昨日、一昨日、今日、彼らは私の部下を殺した。・・・私がこの暗殺者たちに宣するのは、休戦も慈悲もない戦争である・・・今朝私は手本を示さねはならなかった。」と宣言。
*
・ヴァンヴとイッシーの要塞は、デロジャおよびラ・マリウーズ将軍の軍隊を撃退。
*
・コミューン、国民軍経理部を、国民軍中央委員会管轄下に移譲する決定。
*
・軍事代表委員クリュズレ将軍が総司令官(桂圭男著書では「総司令官格の「陸軍省代表」」)になる。衛兵、特に司令部再組織を望む。
歩兵中隊創設。
ドンプロウスキー(1838~71年、旧ポーランド士官、フランスに亡命)、ウロプレスキー、ラ・セシリアなど優秀な将校を補佐役に据える。
17~25歳の独身男子市民を召集(重大な過失。確信を持つ古い革命家を除外することになる。中小ブルジョアジーの服役忌避者・逃亡者を発生させる)。
コミューン軍の完全な再編成ができるまで防禦態勢に留まる事を望む。
軍隊移動はパリ防塞地区指揮官ベルジュレ将軍命によってのみ行われると決定。
コミューン砲艦隊指揮官、水兵達に勤務につけとアピール。
*
[その後の総司令官の異動]
4月末、クリュズレはその無能さによって、罷免され逮捕される。後任はクリュズレの参謀長ロセル。しかし、ロセルは元職業軍人ということで猜疑の目で見られ就任後10日で罷免され、老革命家ドレクリューズに代る。ドレクリューズは民衆に尊敬される人物であるが軍事的は素人。
*
・パリで「調停派」が再び活動、パリ権利擁護共和主義同盟を組織(国民議会から離脱した議員3名、パリに残る区長若干、その他自由主義者若干)。
*
彼らは議会とティエールの責任を確認。各地(パリと地方)で民主主義的・非宗教的共和政を求める請願や声明の署名が行なわれ、内戦終結が要求される。
*
「内乱を避けることはついに不可能であった。
パリの権利を承認しようとしないヴェルサイユ国民議会の態度が、運命的に流血を不可避ならしめた。今日となっては、すべての市民を死物狂いにさせている闘争がその運命的結果として、共和制とわれわれの自由の喪失をともなわないように努力することが肝腎である。
それで大多数のパリ市民を一つの考えによって統一する明確な綱領を作成して、理解の混乱と努力の分裂を防ぐ必要がある
・・・われわれは次の綱領を採用した、それは、われわれの確信によれば、パリ市民の欲するところを表現したものである。
すなわち共和制の承認、良心の自由と警察・財政・厚生・教育の自治管理をともなう、自由に選挙された市会によるパリの自治的権利の承認がそれである。パリの警備は、兵役の能力あるすべての選挙人によって構成された国民衛兵のみに委ねられるであろう。」。
最後に、和解達成の為の精力的な努力の必要を強調し、それのみが和平を回復し、共和制を救い得るであろうと結ぶ。
*
・フルーランス、デュバル虐殺の報復として、パリ大司教ダルボア、マドレーヌ教会司祭ドゲリーその他の司祭や僧侶を人質として逮捕。保安委員会、反動新聞3紙を発行停止。
*
・パリ第3区区長、学校・軍隊に対し、16~20歳の青年の中から、体操教師養成の特別無料学校開校を公告。
*
・パリに少女用職業学校を開講。職業教育とともに、将来の手工業婦人の一般教育も予定する。
*
・パリ~ヴェルサイユ間の鉄道その他一切の交通断絶。
*
・コミューン兵士、イエズス会経営サント・ジュヌヴィエーヴ学校攻撃。神父8・修士4・使用人7名を留置。教会は、パンテオン(偉人たちの記念殿堂)となる。
*
校長デュクードレ神父はコンシェルジュの独房に、他のものは拘置所の大部屋に入れられる。6日に彼らはコンシェルジュからマザの監獄に移される。彼らと共に移動させられた人質にはパり大司教ダルポワ、元議長ボンジャンら民間人も多い。13日にはセーヴル通りのイエズス会本部で捕えられたイエズス会員も連行される。4月初めに始まった人質逮捕は5月に入っても続く。
*
・連盟兵捕虜、ヴェルサイユに到着、中に世界的に有名な地理学者エリゼ・ルクリュがいる。捕虜への侮辱。
*
・マルセイユ・コミューン崩壊
マルセイユでは、この日早朝、政府軍が、市内に突入、人民のデモへ発砲。市街でバリケード戦。県庁奪回。マルセイユ・コミューン崩壊。コミューン戦士の大量逮捕と銃殺。
*
▽[マルセイユ・コミューンの経緯]
マルセイユの3月23日のコミューンは、マルセイユ地区の露天鉱における1867、68年の大ストライキ、1870年8月8日の暴動など先立つ運動と考えあわせる必要がある。
*
1870年8月8日、「先進的」共和主義者ガストン・クレミューが指導し群集が市庁舎を占拠、コミューン成立。
しかし、勢力を回復した警察が、にわかに消極的になった群集を追い散らし、クレミューと彼の仲間は見捨てられ降伏。
9月5日、労働者が市民衛兵3個中隊を編成、市民衛兵は、「正式の」市や県に対して、第2の権力、蜂起の常備兵力を代表する。
9日マルセイユのアルハンブラ公会堂において、無政府主義的傾向のインターナショナル派パステリカが、南仏統治の組織と、労働者を支柱とする国民総動員と人民武装を命ずる地方執政府の組織を要求。
28日、南仏同盟は最初の会合を開き、この計画を支持。
以後、数ヶ月間、マルセイユは殆ど自立的な政府、国家の中の国家を持つことになる。
最も積極的なメンバーは、1793年の意味での公安委員会への道を、南仏同盟(革命的コミューン)としてのこの連合体の中に中に見出す。
11月1日、革命的コミューンを宣言。ガンベッタは中央集権主義者としてそれに抵抗し、特別行政官をマルセイユに任命。市民衛兵と国民衛兵の正面きっての戦い(内戦)が勃発しようとする3日、市民衛兵は、勝利の確信がなく屈服。
9月5日以後占拠している県庁を明け渡し、最初のマルセイユ・コミューンは瓦解し、社会主義的傾向をもつ南仏同盟(ガンべッタはフランス南東部の知事たちに宛てた回状の中で非合法であると声明する)も消滅。
*
この年1871年3月22日夜、ガストン・クレミューは聴衆1千人超に対しヴェルサイユを激しく非難。「諸君、家に帰り、諸君の銃を取りたまえ。攻撃のためではなく、諸君の身を護るために・・・」。
知事、市長、駐屯部隊司令官エスピヴァン将軍は、衛兵の「善良分子」による一大示威運動を計画し、23日朝、太鼓で召集を告げるが、秩序派国民衛兵は集結せず、アンドゥームとラ・ベル=ド=メー地区の衛兵が大勢駆け付ける。
10時~12時、ベルズュンス散歩道に、ガリパルディー派、市民衛兵、義勇兵などが民衆の大隊に加わる。
午後、大群集が「パリ万歳」を叫び県庁に乱入、プーシュ=デュ=ローヌ県知事コニエ提督を逮捕。クレミュー、靴屋マリエル、人足エチエンヌ、組立工ギラールら委員6人からなる委員会設置され、やがて委員の数は市議会・国民衛兵クラブの代表者を加え12人に達し、委員会は地方権力を掌握する。
委員会は、マルセイユにおいて、全市民は自ら自治を行ない、市民の地域的関心は県或いは地方(レジヨン)にまで拡大される、と宣言。
*
マルセイユ・コミューンの運命はパリ・コミューンの運命のパロディーとなり、その縮図的な予告となる。
クレミュー指導する委員会は、県議会でもあるコミューン議会を普通選挙で選ぶことによって、また、知事の職務を果す市長と県の軍事的指揮権をもつ衛兵連隊長を任命することによって、委員会の地位を早く正常化しようと望む。
「われわれは、コミューンの自治と共に、行政の地方分権化を望む」という布告が出されるが、この声明も「単一不可分の共和国万歳!」という呼びかけで終る。
委員会は、2、3日間、市行政を担当しようとして、市中に溢れる東部方面軍の敗残兵、義勇兵、遊動隊、ガリパルディー派、ポーランド人志願兵などの軍隊の問題に専念する。
この間、エスピヴァン将軍はティエールを真似て、信頼のおける軍隊と、彼に従う官僚を、郊外のオバーニュの町に撤退させ、反撃の準備をする。
市当局は和解を画策し、人々は混乱する。
27日、市当局の代表者が委員会から退き、委員会の孤立が深まる。
28日、パリのコミューン代表者がに到着するが状況立て直しできず。パリのコミューン代表はクレミューを攻撃し、クレミューは委員会から退く。しかし彼らは、衛兵大隊を整理したり、街頭に分散している兵士を集結させることさえせず、4月5日の選挙を告示するだけで満足している。
*
選挙は4月5日午後6時実施のため、エスピヴァン将軍は「クーロンヌ号」「マニャニーム号」乗員と指揮下の全軍隊を結集させ、4日、マルセイユを砲撃。
しかし、兵士たちは、黒旗を先頭にした非武装デモ隊が、「パリ万歳」と叫びながら進むのに出会うと、砲兵や、空砲の他に2発発射したばかりの大砲と共に、群衆に引きずられて行く。
エスピヴァンは反対側のサン・ニコラ要塞から、コミューンの拠点県庁を砲撃。
ランデック、メジー、カンレ・ド・タイヤックらパリの代表委員はガストン・クレミューと共にエスピヴァンに会い、無防備の人々への殺戮に抗議すると、エスピヴァンは、部下の反対を押し切り、ガストン・クレミューとパリの代表委員たちを逮捕。しかし、すぐに釈放されるや、「コミューン万歳!」と叫び、群衆や、人民と交歓する兵士の間を通って立ち去る。
エスピヴァンは反動派や猟兵を窓の背後に隠れさせておき、サン・ニコラ要塞の大砲に掩護させ、7時間にわたり銃撃戦を展開。夕方、水兵たちは守備隊が放棄した県庁を占領。正規軍側損害、死者30・負傷者50。反乱側犠牲者150超(砲撃による犠牲者、その場で銃殺された人を除く)。
*
5日、エスピヴァン将軍は、麾下部隊と市中を行進し、「キリスト万歳!」「サクレ=クール万歳!」を叫んでノートルダム・ド・ラ・ガルドに参詣。冷たい野次が彼を迎える。
*
エスピヴァンからヴェルサイユへの報告。
「一八七一年四月五日、マルセイユ。
師団長より陸軍大臣へ。
本官は麾下の軍隊を率い、かくかくたる勝利をもってマルセイユ市への入城を飾りました。本官は大いなる歓呼をもって迎えられました。
司令部は現在、県庁におかれています。革命委員会の代表委員たちは昨日朝、個々に町を退去しました。
エックスの裁判所の検事総長は、本官のもっとも献身的なる協力者でありますが、フランス全土にわたり拘引状を発しております。われわれは五百人を捕虜としました。本官はこれらの者をシャトー・ディフに送りこみます。
現在マルセイユは完全に平静であります。 エスピヴァン将軍」
*
マルセイユの蜂起を支持する運動やその反響。
4月4日、労働者パルパルーによるエックスにおける蜂起の企て、5月ドラギニァンに短命のコミューンを引きおこすヴァール県の革命的動揺など。
*
・リモージュ、ヴェルサイユ政府支援の軍隊派遣に対し労働者たちが蜂起。コミューン宣言の試み、弾圧。
*
この日、この地に駐屯の戦列歩兵連隊がヴェルサイユ軍増強の為に出動命令をうける。彼らを駅まで送った群衆は、パリの殺戮に加わらないよう兵士たちに誓わせ、彼らはこれを誓い、人々に武器を渡し兵営に引き返す。兵営では、将校の前で町中が兵士たちに喝采を送る。
しかし、当局側は市庁舎に集まり、市長が弾圧に乗り出す。市長は胸甲騎兵に、服従拒否の分遣隊掌握と群衆鎮圧を命じ、戦閥が始まる。
結果、秩序派は武力で勝利。但し、胸甲騎兵の連隊長・中隊長が死亡。
*
リモージュの労働組合は、パリのコミューン成立後、代表をパリに送り、コミューン委員のリモージュへの派遣を希望するが、コミューン執行委員会は、それは不可能と回答。
パリのコミューン指導者には運動を全国的規模に展開する計画も熱意もない。
*
パリの革命に呼応して起った地方都市の運動は、分権的コミューンを信奉する急進主義にのめりこみ、ブルジョア国家権力の反撃を許し、4月初め迄に、ティエールの思惑通りに、パリは地方から遮断され、孤立する。
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to be continued
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・日本、「戸籍法」制定・公布。民部省起案。翌5年2月~実施。壬申戸籍。明治6年3月、全国の戸籍簿3万1千冊が完成。
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市街地で4~5町、村部で7~8村を基準に区を設け、戸籍事務を行う為に戸長を置く。
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[福井藩の例]
6月、福井藩は、村方の郷を区に改め、郷長を戸長とし、里長を廃止。
また、同法では、士族卒農工商の別なく居住地の順に戸籍編制する為、福井城下は、町方12区と士族卒の町を合わせ、新たに8区に編制。これにより3人の坊長が戸長と改称され、族長が廃されて新たに5人の士族戸長が任命される。武生・三国の市街地も夫々1区となり、福井藩は16区16戸長となる。
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4月4日 パリ
・砲・食糧もなく、コミューン軍は退却。
デュヴァルはヴェルサイユ軍の捕虜となり、ヴェルサイユ軍総司令官ヴィノアの命令でその面前で銃殺。ティエール軍はシャティヨンとクラマールを占領。捕虜虐殺。
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[経緯]
ヴェルサイユ側ヴィノワ将軍はヴェルジェ師団の1旅団を、ムードンのファロン将軍への増強部隊として派遣。
ペショ旅団は、ペレ師団・デロージャ旅団に支援のもとにシャティオン保塁を攻撃。ペショ旅団第70混成連隊が正面に殺到し、側面のデロージャの第109連隊は連盟軍の背後に回る。ペレ将軍が生命を保証する投降勧告を出し、午後5時頃、保塁守備隊は降伏。
ヴェルサイユへの連行途中、ヴィノア将軍は将校全員の射殺を命令。
護送部隊長が、投降の際に助命の約束を与えたことを述べると、ヴィノアは、「指揮官は誰か?」と尋ねる。デュヴァルが名乗り出て、次いでデュヴァルの参謀長と義勇兵指揮官が名乗り出る。ヴィノアの命令により、デュヴァルと将校2名は銃殺処刑される。
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ヴェルサイユでは、官吏やその家族、社交界の貴婦人たちが道路にとび出し、捕虜に対して、唾を吐きかけ、拳骨や棒や日傘で殴りつけ、捕虜の帽子や上衣を剥ぎとり、「人殺し!」 「ギロチンへ送れ!」などと叫ぶ。
捕虜たちはサトリーの軍用倉庫に投げ込まれる。
捕虜の証言。「最後にわれわれはサトリーへ連行され、千六百八十五人の者がそこの軍用倉庫におしこめられた。疲労と飢餓でへトへトであったが、狭い所にぎっしりつめられ、横になる場所もなく、二日二晩立ったままで、ときどき交代で湿った藁の上に横になるだけであった。ロに入れるものといっては、パンと、番兵がその辺のどぶ池からすくってくる臭い水だけであった。」。
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多くの捕虜処刑の証言。
ある警察隊将校は殺された5人の国民軍兵士の死体を見たと言い、別のひとりは、ヴェルサイユへの行進を拒んだ18人の捕虜が射殺されたと伝える。
ガリフェ将軍はシャトゥーの広場で連盟兵を銃殺し、住民たちに向かって、「戦争はパリの悪党どもによって宣せられた・・・昨日、一昨日、今日、彼らは私の部下を殺した。・・・私がこの暗殺者たちに宣するのは、休戦も慈悲もない戦争である・・・今朝私は手本を示さねはならなかった。」と宣言。
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・ヴァンヴとイッシーの要塞は、デロジャおよびラ・マリウーズ将軍の軍隊を撃退。
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・コミューン、国民軍経理部を、国民軍中央委員会管轄下に移譲する決定。
*
・軍事代表委員クリュズレ将軍が総司令官(桂圭男著書では「総司令官格の「陸軍省代表」」)になる。衛兵、特に司令部再組織を望む。
歩兵中隊創設。
ドンプロウスキー(1838~71年、旧ポーランド士官、フランスに亡命)、ウロプレスキー、ラ・セシリアなど優秀な将校を補佐役に据える。
17~25歳の独身男子市民を召集(重大な過失。確信を持つ古い革命家を除外することになる。中小ブルジョアジーの服役忌避者・逃亡者を発生させる)。
コミューン軍の完全な再編成ができるまで防禦態勢に留まる事を望む。
軍隊移動はパリ防塞地区指揮官ベルジュレ将軍命によってのみ行われると決定。
コミューン砲艦隊指揮官、水兵達に勤務につけとアピール。
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[その後の総司令官の異動]
4月末、クリュズレはその無能さによって、罷免され逮捕される。後任はクリュズレの参謀長ロセル。しかし、ロセルは元職業軍人ということで猜疑の目で見られ就任後10日で罷免され、老革命家ドレクリューズに代る。ドレクリューズは民衆に尊敬される人物であるが軍事的は素人。
*
・パリで「調停派」が再び活動、パリ権利擁護共和主義同盟を組織(国民議会から離脱した議員3名、パリに残る区長若干、その他自由主義者若干)。
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彼らは議会とティエールの責任を確認。各地(パリと地方)で民主主義的・非宗教的共和政を求める請願や声明の署名が行なわれ、内戦終結が要求される。
*
「内乱を避けることはついに不可能であった。
パリの権利を承認しようとしないヴェルサイユ国民議会の態度が、運命的に流血を不可避ならしめた。今日となっては、すべての市民を死物狂いにさせている闘争がその運命的結果として、共和制とわれわれの自由の喪失をともなわないように努力することが肝腎である。
それで大多数のパリ市民を一つの考えによって統一する明確な綱領を作成して、理解の混乱と努力の分裂を防ぐ必要がある
・・・われわれは次の綱領を採用した、それは、われわれの確信によれば、パリ市民の欲するところを表現したものである。
すなわち共和制の承認、良心の自由と警察・財政・厚生・教育の自治管理をともなう、自由に選挙された市会によるパリの自治的権利の承認がそれである。パリの警備は、兵役の能力あるすべての選挙人によって構成された国民衛兵のみに委ねられるであろう。」。
最後に、和解達成の為の精力的な努力の必要を強調し、それのみが和平を回復し、共和制を救い得るであろうと結ぶ。
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・フルーランス、デュバル虐殺の報復として、パリ大司教ダルボア、マドレーヌ教会司祭ドゲリーその他の司祭や僧侶を人質として逮捕。保安委員会、反動新聞3紙を発行停止。
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・パリ第3区区長、学校・軍隊に対し、16~20歳の青年の中から、体操教師養成の特別無料学校開校を公告。
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・パリに少女用職業学校を開講。職業教育とともに、将来の手工業婦人の一般教育も予定する。
*
・パリ~ヴェルサイユ間の鉄道その他一切の交通断絶。
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・コミューン兵士、イエズス会経営サント・ジュヌヴィエーヴ学校攻撃。神父8・修士4・使用人7名を留置。教会は、パンテオン(偉人たちの記念殿堂)となる。
*
校長デュクードレ神父はコンシェルジュの独房に、他のものは拘置所の大部屋に入れられる。6日に彼らはコンシェルジュからマザの監獄に移される。彼らと共に移動させられた人質にはパり大司教ダルポワ、元議長ボンジャンら民間人も多い。13日にはセーヴル通りのイエズス会本部で捕えられたイエズス会員も連行される。4月初めに始まった人質逮捕は5月に入っても続く。
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・連盟兵捕虜、ヴェルサイユに到着、中に世界的に有名な地理学者エリゼ・ルクリュがいる。捕虜への侮辱。
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・マルセイユ・コミューン崩壊
マルセイユでは、この日早朝、政府軍が、市内に突入、人民のデモへ発砲。市街でバリケード戦。県庁奪回。マルセイユ・コミューン崩壊。コミューン戦士の大量逮捕と銃殺。
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▽[マルセイユ・コミューンの経緯]
マルセイユの3月23日のコミューンは、マルセイユ地区の露天鉱における1867、68年の大ストライキ、1870年8月8日の暴動など先立つ運動と考えあわせる必要がある。
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1870年8月8日、「先進的」共和主義者ガストン・クレミューが指導し群集が市庁舎を占拠、コミューン成立。
しかし、勢力を回復した警察が、にわかに消極的になった群集を追い散らし、クレミューと彼の仲間は見捨てられ降伏。
9月5日、労働者が市民衛兵3個中隊を編成、市民衛兵は、「正式の」市や県に対して、第2の権力、蜂起の常備兵力を代表する。
9日マルセイユのアルハンブラ公会堂において、無政府主義的傾向のインターナショナル派パステリカが、南仏統治の組織と、労働者を支柱とする国民総動員と人民武装を命ずる地方執政府の組織を要求。
28日、南仏同盟は最初の会合を開き、この計画を支持。
以後、数ヶ月間、マルセイユは殆ど自立的な政府、国家の中の国家を持つことになる。
最も積極的なメンバーは、1793年の意味での公安委員会への道を、南仏同盟(革命的コミューン)としてのこの連合体の中に中に見出す。
11月1日、革命的コミューンを宣言。ガンベッタは中央集権主義者としてそれに抵抗し、特別行政官をマルセイユに任命。市民衛兵と国民衛兵の正面きっての戦い(内戦)が勃発しようとする3日、市民衛兵は、勝利の確信がなく屈服。
9月5日以後占拠している県庁を明け渡し、最初のマルセイユ・コミューンは瓦解し、社会主義的傾向をもつ南仏同盟(ガンべッタはフランス南東部の知事たちに宛てた回状の中で非合法であると声明する)も消滅。
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この年1871年3月22日夜、ガストン・クレミューは聴衆1千人超に対しヴェルサイユを激しく非難。「諸君、家に帰り、諸君の銃を取りたまえ。攻撃のためではなく、諸君の身を護るために・・・」。
知事、市長、駐屯部隊司令官エスピヴァン将軍は、衛兵の「善良分子」による一大示威運動を計画し、23日朝、太鼓で召集を告げるが、秩序派国民衛兵は集結せず、アンドゥームとラ・ベル=ド=メー地区の衛兵が大勢駆け付ける。
10時~12時、ベルズュンス散歩道に、ガリパルディー派、市民衛兵、義勇兵などが民衆の大隊に加わる。
午後、大群集が「パリ万歳」を叫び県庁に乱入、プーシュ=デュ=ローヌ県知事コニエ提督を逮捕。クレミュー、靴屋マリエル、人足エチエンヌ、組立工ギラールら委員6人からなる委員会設置され、やがて委員の数は市議会・国民衛兵クラブの代表者を加え12人に達し、委員会は地方権力を掌握する。
委員会は、マルセイユにおいて、全市民は自ら自治を行ない、市民の地域的関心は県或いは地方(レジヨン)にまで拡大される、と宣言。
*
マルセイユ・コミューンの運命はパリ・コミューンの運命のパロディーとなり、その縮図的な予告となる。
クレミュー指導する委員会は、県議会でもあるコミューン議会を普通選挙で選ぶことによって、また、知事の職務を果す市長と県の軍事的指揮権をもつ衛兵連隊長を任命することによって、委員会の地位を早く正常化しようと望む。
「われわれは、コミューンの自治と共に、行政の地方分権化を望む」という布告が出されるが、この声明も「単一不可分の共和国万歳!」という呼びかけで終る。
委員会は、2、3日間、市行政を担当しようとして、市中に溢れる東部方面軍の敗残兵、義勇兵、遊動隊、ガリパルディー派、ポーランド人志願兵などの軍隊の問題に専念する。
この間、エスピヴァン将軍はティエールを真似て、信頼のおける軍隊と、彼に従う官僚を、郊外のオバーニュの町に撤退させ、反撃の準備をする。
市当局は和解を画策し、人々は混乱する。
27日、市当局の代表者が委員会から退き、委員会の孤立が深まる。
28日、パリのコミューン代表者がに到着するが状況立て直しできず。パリのコミューン代表はクレミューを攻撃し、クレミューは委員会から退く。しかし彼らは、衛兵大隊を整理したり、街頭に分散している兵士を集結させることさえせず、4月5日の選挙を告示するだけで満足している。
*
選挙は4月5日午後6時実施のため、エスピヴァン将軍は「クーロンヌ号」「マニャニーム号」乗員と指揮下の全軍隊を結集させ、4日、マルセイユを砲撃。
しかし、兵士たちは、黒旗を先頭にした非武装デモ隊が、「パリ万歳」と叫びながら進むのに出会うと、砲兵や、空砲の他に2発発射したばかりの大砲と共に、群衆に引きずられて行く。
エスピヴァンは反対側のサン・ニコラ要塞から、コミューンの拠点県庁を砲撃。
ランデック、メジー、カンレ・ド・タイヤックらパリの代表委員はガストン・クレミューと共にエスピヴァンに会い、無防備の人々への殺戮に抗議すると、エスピヴァンは、部下の反対を押し切り、ガストン・クレミューとパリの代表委員たちを逮捕。しかし、すぐに釈放されるや、「コミューン万歳!」と叫び、群衆や、人民と交歓する兵士の間を通って立ち去る。
エスピヴァンは反動派や猟兵を窓の背後に隠れさせておき、サン・ニコラ要塞の大砲に掩護させ、7時間にわたり銃撃戦を展開。夕方、水兵たちは守備隊が放棄した県庁を占領。正規軍側損害、死者30・負傷者50。反乱側犠牲者150超(砲撃による犠牲者、その場で銃殺された人を除く)。
*
5日、エスピヴァン将軍は、麾下部隊と市中を行進し、「キリスト万歳!」「サクレ=クール万歳!」を叫んでノートルダム・ド・ラ・ガルドに参詣。冷たい野次が彼を迎える。
*
エスピヴァンからヴェルサイユへの報告。
「一八七一年四月五日、マルセイユ。
師団長より陸軍大臣へ。
本官は麾下の軍隊を率い、かくかくたる勝利をもってマルセイユ市への入城を飾りました。本官は大いなる歓呼をもって迎えられました。
司令部は現在、県庁におかれています。革命委員会の代表委員たちは昨日朝、個々に町を退去しました。
エックスの裁判所の検事総長は、本官のもっとも献身的なる協力者でありますが、フランス全土にわたり拘引状を発しております。われわれは五百人を捕虜としました。本官はこれらの者をシャトー・ディフに送りこみます。
現在マルセイユは完全に平静であります。 エスピヴァン将軍」
*
マルセイユの蜂起を支持する運動やその反響。
4月4日、労働者パルパルーによるエックスにおける蜂起の企て、5月ドラギニァンに短命のコミューンを引きおこすヴァール県の革命的動揺など。
*
・リモージュ、ヴェルサイユ政府支援の軍隊派遣に対し労働者たちが蜂起。コミューン宣言の試み、弾圧。
*
この日、この地に駐屯の戦列歩兵連隊がヴェルサイユ軍増強の為に出動命令をうける。彼らを駅まで送った群衆は、パリの殺戮に加わらないよう兵士たちに誓わせ、彼らはこれを誓い、人々に武器を渡し兵営に引き返す。兵営では、将校の前で町中が兵士たちに喝采を送る。
しかし、当局側は市庁舎に集まり、市長が弾圧に乗り出す。市長は胸甲騎兵に、服従拒否の分遣隊掌握と群衆鎮圧を命じ、戦閥が始まる。
結果、秩序派は武力で勝利。但し、胸甲騎兵の連隊長・中隊長が死亡。
*
リモージュの労働組合は、パリのコミューン成立後、代表をパリに送り、コミューン委員のリモージュへの派遣を希望するが、コミューン執行委員会は、それは不可能と回答。
パリのコミューン指導者には運動を全国的規模に展開する計画も熱意もない。
*
パリの革命に呼応して起った地方都市の運動は、分権的コミューンを信奉する急進主義にのめりこみ、ブルジョア国家権力の反撃を許し、4月初め迄に、ティエールの思惑通りに、パリは地方から遮断され、孤立する。
*
to be continued
*
2009年4月2日木曜日
1871年4月3日 フルーランス虐殺 パリ・コミューン(13)
■1871年4月3日
・仏、ベルジュレ、ウード、デュヴァル指揮の連盟兵3~4万、ヴェルサイユへ出撃。
最初は、コミューン軍が部分的に成功(リュエイユ、シャトゥー、ヴェルサイユから5マイルのプージヴァルを占領)。ブーランジェがブージヴァル占領。
*
・ベルジュレ縦隊が、ビュトーからビュザンヴアルに向かっている時、モン・ヴァレリアン堡塁が砲弾や霰弾を浴びせかける。「裏切りだ!裏切りだ!」と叫び声。
しかし、フルーランス指揮部隊(右翼担当)はルイユまで前進し、ランヴィエはムードンに達する。
デュヴァル第3縦隊(左翼担当)は森の中を前進しないという過ちを犯して、直接ヴィラクープレーに向い、そこで強力な敵陣に衝突。弾薬は少なく、砲はない、それ以上の前進は不能。
10時頃、ヴェルサイユ軍(デロジャ旅団、ペレ師団)が逆襲。連盟兵は潰走。フルーランスは憲兵に虐殺され、翌日、デュヴァルと指揮官2人はヴィノワの命令により銃殺。
*
[経過]
午前6時30分、連盟軍はベルジェールの交差路に達する。砦の砲8門が砲撃。連盟軍は混乱。負傷者30名出るが、攻撃は続行。この第1軍右翼の第2軍はナンテールへ進攻中。モン・ヴァレリアン砦からの砲撃は続くが、連盟軍は野や溝を越えて接近。
10時5分、ロシュネルはヴィノワ将軍に避難を報告。
11時以降、砦の砲撃は不活発になる。
ヴィノワの命によりガリフェが騎馬隊2連隊と新政府側サン・ジェルマン国民軍をマルリー及びシャトゥーに向かって移動させる。
連盟軍は既にセーヌ対岸沿いに進んでおり、モン・ヴァレリアンの砲撃はそこまでは届かない。
ガリフェは、シャトゥーから増援を求め、現在対岸の連盟軍は3千で、攻撃を急いでいないようだと報告。
連盟軍から武装兵士3名が渡河、捕虜となるや、彼らの扇動による軍の謀反を恐れガリフェはこの3名を処刑。
*
連盟軍本隊はなお南下し、ヴェルサイユまで5マイルのプージヴァルまで進むが、ヴィノワ将軍が補強部隊を率いて移動してきた為、ここで進軍が止まる。
ヴィノワが率いる予備軍団の第114連隊はプーランジェ大佐が指揮し、兵1400で兵7~8千のフルーランス軍と戦う。第113連隊が来援し、元プロシア軍基地であったラ・ジョンシェールの丘の上の砲台から砲撃が開始。連盟軍は後退し、午後の早い時間にプーランジェはプージヴァルを占領。兵士は家々を探索し、隠れていた連盟軍兵士を射殺。
デュ・プルイユ将軍の騎兵師団はジェンヌヴィリエ半島を退却する連盟軍を追跡し、第2軽騎兵連隊隊長ドゥマレがフルーランスを捕え殺害。副官アミカル・シプリアノによると、フルーランスは力尽きてある居酒屋で眠りこんでいたところを捕えられ、隊長によって斬首。
この戦闘では、モン・ヴァレリアンの指揮官ははコミューン側に寝返っており、攻撃を妨害しない事になっていたが、実際にはモン・ヴァレリアンは激しい砲撃を行う。
*
コミューン軍左翼のデュヴァルの軍は、シャティオンから進んでヴェルサイユに近づきヴィラクープレに達する。慌てて迎撃体制をとるデロージャ軍をペショ旅団が支援。デュヴァルは大砲を持たず、敵の砲撃を避けてシャティオンまで後退。連盟軍捕虜50、ヴェルサイユ軍死傷者13。
*
ウード指揮する中央軍はムードンまで快調に前進。ムードン守備の憲兵隊は、旧プロシア軍砲台からの砲撃援護を受けながら、弾薬追加を要請するほど射ちまくる。
ウードは辛うじてムードンの城館から彼らを追い出すが、憲兵隊は砲台からの援護で何とか村を持ちこたえる。
この時、ラ・マリューズ旅団海兵隊、陸戦隊、歩兵部隊併せて約9千の援軍が到着、城館は奪回され、連盟軍はパニック状態に陥り、イシーに後退。
午後4時10、ヴィノワは戦いの終わりを報告。
連盟軍は、デュヴァルの軍数千がシャティオンの保塁に、ベルジュレは1万人と共にアスニエールに、大多数の兵はウードのいるイシーの村に集結。
9時、ティエールは電報を各地に打って勝利を告げる。
*
○[コミューン群像:ギュスターヴ・フルーランス]
アカデミー会員・生理学者ピエール・フルーランスの家庭に生まれる。
コレージュ・ド・フランス教授。人類学と生理学について「人間の歴史」(1863年)「人間の科学」(1865年)出版。無神論的、唯物論的見解の為に教育から追放。
1866~67年、クレテ島のトルコ支配からの解放する闘争に参加、クレテ国民議会代議士に選ばれる。
68年、パリに戻り、共和主義運動の中でプランキ主義者と接近、新聞「ラ・マルセイエーズ」に一連の論文を発表。
ピエール・ボナパルト公爵に暗殺された共和主義的ジャーナリスト、ヴィクトル・ノアールの葬式での反政府デモ(70年1月12日)に参加。
2月7~8日のデモで共和制宣言を呼び掛け逮捕、流刑判決。イギリスに亡命し、マルクスとその家族を知り、第1インタナショナル加入を認められる。
9月、パリに戻る。10月31日、71年1月22日の蜂起に参加。逮捕されるが釈放。2月出版の著書「パリは売られた」で、支配層の売国的行動を暴露。
3月18日の革命に参加、26日、2区(第19、20区)から当選。29日からコミューン軍事委員会委員、大佐、その後国民軍将軍になる。4月3~4日ヴェルサイユ進撃の際、憲兵に逮捕され虐殺。
*
・コミューン、軍事行動のためにコミューンの補欠選挙延期。
*
・コミューン、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員に任命、執行委員会の構成を変更。信教の自由宣言。
クリュズレは軍事委員会代表として執行委員会委員であるが、執行委員会で、出撃したデュヴァル、ベルジュレ、ウードに代わってドゥレクリューズ、クールネ、ヴェルモレルが委員に就任した際、陸軍省に派遣される軍事代表委員となり、ロセルと交替するまでその任にある。
*
・保安委員会、ティエールの財産没収、ティエールの家の取り壊しを布告。
*
・中央委員会、社会主義的宣言を発表。コミューン乗り越えの試み。
「労働者諸君、間違ってはならない。これは偉大な闘争である。寄生と労働、搾取と生産が戦っているのだ。
もし諸君が、無知のなかにむなしい日々をすごし、貧困のなかに身を埋めることを耐えがたく思うならば、もし諸君が、諸君の子供たちが工場や戦闘のために仕込まれた動物のごときものでなく、人間であることを望むならば、もし諸君が、諸君の娘たちを思うように養育し監督することができず、彼女たちが金持ちの貴族の腕のなかで快楽の道具となることをもはや望まないのならば、最後に、もし諸君が正義の支配を望むならば、労働者諸君、起ち上がれ!」
*
・マルセイユ。夜遅く、政府軍、市内へ進撃。
*
・マルクス、「タイムズ」・「デイリー・ニューズ」紙に手紙、「パリの反乱はロンドンからマルクスがあやつっている」という報道に反駁。
to be continued
・仏、ベルジュレ、ウード、デュヴァル指揮の連盟兵3~4万、ヴェルサイユへ出撃。
最初は、コミューン軍が部分的に成功(リュエイユ、シャトゥー、ヴェルサイユから5マイルのプージヴァルを占領)。ブーランジェがブージヴァル占領。
*
・ベルジュレ縦隊が、ビュトーからビュザンヴアルに向かっている時、モン・ヴァレリアン堡塁が砲弾や霰弾を浴びせかける。「裏切りだ!裏切りだ!」と叫び声。
しかし、フルーランス指揮部隊(右翼担当)はルイユまで前進し、ランヴィエはムードンに達する。
デュヴァル第3縦隊(左翼担当)は森の中を前進しないという過ちを犯して、直接ヴィラクープレーに向い、そこで強力な敵陣に衝突。弾薬は少なく、砲はない、それ以上の前進は不能。
10時頃、ヴェルサイユ軍(デロジャ旅団、ペレ師団)が逆襲。連盟兵は潰走。フルーランスは憲兵に虐殺され、翌日、デュヴァルと指揮官2人はヴィノワの命令により銃殺。
*
[経過]
午前6時30分、連盟軍はベルジェールの交差路に達する。砦の砲8門が砲撃。連盟軍は混乱。負傷者30名出るが、攻撃は続行。この第1軍右翼の第2軍はナンテールへ進攻中。モン・ヴァレリアン砦からの砲撃は続くが、連盟軍は野や溝を越えて接近。
10時5分、ロシュネルはヴィノワ将軍に避難を報告。
11時以降、砦の砲撃は不活発になる。
ヴィノワの命によりガリフェが騎馬隊2連隊と新政府側サン・ジェルマン国民軍をマルリー及びシャトゥーに向かって移動させる。
連盟軍は既にセーヌ対岸沿いに進んでおり、モン・ヴァレリアンの砲撃はそこまでは届かない。
ガリフェは、シャトゥーから増援を求め、現在対岸の連盟軍は3千で、攻撃を急いでいないようだと報告。
連盟軍から武装兵士3名が渡河、捕虜となるや、彼らの扇動による軍の謀反を恐れガリフェはこの3名を処刑。
*
連盟軍本隊はなお南下し、ヴェルサイユまで5マイルのプージヴァルまで進むが、ヴィノワ将軍が補強部隊を率いて移動してきた為、ここで進軍が止まる。
ヴィノワが率いる予備軍団の第114連隊はプーランジェ大佐が指揮し、兵1400で兵7~8千のフルーランス軍と戦う。第113連隊が来援し、元プロシア軍基地であったラ・ジョンシェールの丘の上の砲台から砲撃が開始。連盟軍は後退し、午後の早い時間にプーランジェはプージヴァルを占領。兵士は家々を探索し、隠れていた連盟軍兵士を射殺。
デュ・プルイユ将軍の騎兵師団はジェンヌヴィリエ半島を退却する連盟軍を追跡し、第2軽騎兵連隊隊長ドゥマレがフルーランスを捕え殺害。副官アミカル・シプリアノによると、フルーランスは力尽きてある居酒屋で眠りこんでいたところを捕えられ、隊長によって斬首。
この戦闘では、モン・ヴァレリアンの指揮官ははコミューン側に寝返っており、攻撃を妨害しない事になっていたが、実際にはモン・ヴァレリアンは激しい砲撃を行う。
*
コミューン軍左翼のデュヴァルの軍は、シャティオンから進んでヴェルサイユに近づきヴィラクープレに達する。慌てて迎撃体制をとるデロージャ軍をペショ旅団が支援。デュヴァルは大砲を持たず、敵の砲撃を避けてシャティオンまで後退。連盟軍捕虜50、ヴェルサイユ軍死傷者13。
*
ウード指揮する中央軍はムードンまで快調に前進。ムードン守備の憲兵隊は、旧プロシア軍砲台からの砲撃援護を受けながら、弾薬追加を要請するほど射ちまくる。
ウードは辛うじてムードンの城館から彼らを追い出すが、憲兵隊は砲台からの援護で何とか村を持ちこたえる。
この時、ラ・マリューズ旅団海兵隊、陸戦隊、歩兵部隊併せて約9千の援軍が到着、城館は奪回され、連盟軍はパニック状態に陥り、イシーに後退。
午後4時10、ヴィノワは戦いの終わりを報告。
連盟軍は、デュヴァルの軍数千がシャティオンの保塁に、ベルジュレは1万人と共にアスニエールに、大多数の兵はウードのいるイシーの村に集結。
9時、ティエールは電報を各地に打って勝利を告げる。
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○[コミューン群像:ギュスターヴ・フルーランス]
アカデミー会員・生理学者ピエール・フルーランスの家庭に生まれる。
コレージュ・ド・フランス教授。人類学と生理学について「人間の歴史」(1863年)「人間の科学」(1865年)出版。無神論的、唯物論的見解の為に教育から追放。
1866~67年、クレテ島のトルコ支配からの解放する闘争に参加、クレテ国民議会代議士に選ばれる。
68年、パリに戻り、共和主義運動の中でプランキ主義者と接近、新聞「ラ・マルセイエーズ」に一連の論文を発表。
ピエール・ボナパルト公爵に暗殺された共和主義的ジャーナリスト、ヴィクトル・ノアールの葬式での反政府デモ(70年1月12日)に参加。
2月7~8日のデモで共和制宣言を呼び掛け逮捕、流刑判決。イギリスに亡命し、マルクスとその家族を知り、第1インタナショナル加入を認められる。
9月、パリに戻る。10月31日、71年1月22日の蜂起に参加。逮捕されるが釈放。2月出版の著書「パリは売られた」で、支配層の売国的行動を暴露。
3月18日の革命に参加、26日、2区(第19、20区)から当選。29日からコミューン軍事委員会委員、大佐、その後国民軍将軍になる。4月3~4日ヴェルサイユ進撃の際、憲兵に逮捕され虐殺。
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・コミューン、軍事行動のためにコミューンの補欠選挙延期。
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・コミューン、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員に任命、執行委員会の構成を変更。信教の自由宣言。
クリュズレは軍事委員会代表として執行委員会委員であるが、執行委員会で、出撃したデュヴァル、ベルジュレ、ウードに代わってドゥレクリューズ、クールネ、ヴェルモレルが委員に就任した際、陸軍省に派遣される軍事代表委員となり、ロセルと交替するまでその任にある。
*
・保安委員会、ティエールの財産没収、ティエールの家の取り壊しを布告。
*
・中央委員会、社会主義的宣言を発表。コミューン乗り越えの試み。
「労働者諸君、間違ってはならない。これは偉大な闘争である。寄生と労働、搾取と生産が戦っているのだ。
もし諸君が、無知のなかにむなしい日々をすごし、貧困のなかに身を埋めることを耐えがたく思うならば、もし諸君が、諸君の子供たちが工場や戦闘のために仕込まれた動物のごときものでなく、人間であることを望むならば、もし諸君が、諸君の娘たちを思うように養育し監督することができず、彼女たちが金持ちの貴族の腕のなかで快楽の道具となることをもはや望まないのならば、最後に、もし諸君が正義の支配を望むならば、労働者諸君、起ち上がれ!」
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・マルセイユ。夜遅く、政府軍、市内へ進撃。
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・マルクス、「タイムズ」・「デイリー・ニューズ」紙に手紙、「パリの反乱はロンドンからマルクスがあやつっている」という報道に反駁。
to be continued
2009年3月20日金曜日
1871年4月1~2日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(12)
■1871年4月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(12)
*
1871年4月1日
・婦人たち700~800人がコンコルド広場に集まり、ヴェルサイユに赴こうとする。
「一八七一年四月一日、私をみかけて驚いた隣の婦人が私に、コンコルド広場における女性集会の開催を報せた新聞を読んだかとたずねた。彼女らは流血を止めさせにヴェルサイユまで出かけようというのである。
私は母に集会に出かけることを告げ、子供たちに接吻して広場にむかった。
一時半にコンコルド広場で行進に加わった。七、八百人の女性が参加していた。ヴェルサイユへ行って、パリのしようとしていることを説明するのだと話している女たちがいるかと思えば、百年前にもパリの女たちがヴェルサイユに行って、当時の言い方にしたがえばパン屋とパン屋のかみさんとパン屋の小僧をパリにつれもどしたときのことを話している女たちもいた。
私たちはこうしてパリのヴェルサイユ門まで行進した。そこで私たちはフリー・メーソンの使者たちがもどってくるのに出会った。
この遠征を組織した市民S・A夫人がすっかり疲れきって、どこかで集会を開こうと提案した。
そこで私たちは、ラガッシュ・ホールにむかった。遠征をさらにつづけるために別の市民をこの会場で指揮者に選ばなければならなくなった。ここまでの長い行進でS・A夫人は疲労し、両足の苦痛に耐えかねていたのである。
私が彼女の後任に指名され、撞球台の上にのばらされた。そこで私は、もうヴェルサイユにむかうほどの人数はいないが、コミューンの歩兵中隊の負傷者の看護なら十分まにあうからそちらに行こうと自分の考えを述べた。他の人たちも私の意見に賛成してくれたので、私たちは翌日出発することになった。だがじっさいに出発したのは数日後だった。市民S・A夫人も、国民衛兵の参謀部まで私たちと一緒に来ることができた。」
その後、彼女らはイシ要塞で2週間野戦救護看護婦として働く。・・・(「ベアトリックス・エクスコフォンの手記」(ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」所収)。
*
4月2日
・仏、ヴェルサイユ軍、パリ攻撃開始。
パリに向い北西方向に進出。国民軍と戦闘。圧倒的に優勢な兵力により、パリ西郊クールプヴォアとパリ進撃に有利な諸陣地を占領。
国民軍の悲惨な結果。国民軍、政府軍主任軍医バスキエ殺害。ヴェルサイユ軍、報復で連盟兵捕虜を殺害。
*
3月18日の革命初期に、ヴェルサイユへ逃亡したティエール政府の軍隊は2万7千未満、その後、予備軍を呼び寄せ4万に増やす。3月末、ヴェルサイユ軍司令部とドイツ占領軍司令部とで協定が結ばれ、ヴェルサイユ派は8万にまで軍隊を増加させ、その後、主として帰還したフランス軍捕虜によって13万にまで増加させる。
*
朝、ヴェルサイユ側では、モン・ヴァレリアンの砲台からヌイイ大通りに向かって砲撃。同時に警官隊、歩兵部隊、騎兵隊がクールブヴォワとヌイイに向かって進軍。
前日夜11時、ティエールは軍事会議を召集し、翌日早朝にデュ・バライユ将軍による敵兵力偵察を決定し、将軍はまだ暗闇の中をパリ南方のパトロールに出発。
ティエールは、この時、別にヴィノワ将軍率いる1歩兵部隊を誰にも知らさずに派遣。
7時前後、2部隊を編成し作戦展開のためモン・ヴァレリアンの北に集結。
①プリア師団第74混成連隊と海兵連隊及び陸戦隊で、ヴィノワ将軍と行動を共にする。
②ドーデル旅団第113、114連隊。支援を命じられたガリフェの騎兵隊と砲兵中隊の半分を加え、総兵力は約9千。
ヴィノワは既にクールプヴォワの円形交差路から100ヤード足らずの地点に進出。
*
パリ側では、この朝、ベルジュレの命令によって連盟軍10箇大隊が偵察に出発。
*
ヴェルサイユ側は、第113連隊をガリフェ軍と合流させ、クールプヴォワの交差路を北から包囲攻撃させる計画を立てるが、攻撃前、軍の主任軍医パスキエ博士が本隊から離れ連盟軍の中に迷い込み、捕えられて射殺される事件が起こる。
ガリフェ将軍が砲兵隊に発砲を命じるが、誰もそれに従わず、敵の砦からの最初の砲撃で、第113連隊の兵士たちが前進を止め逃亡する者も出る。ガリフェが馬から下り、幕僚と共に連発ピストルを抜いて砲兵を叱咤し、ようやく砲撃が始まる。
*
ガリフェ隊の砲声を聞き、ヴィノワ将軍も砲撃を命令。
クールプヴォワ砦の連盟軍は混乱。
第74混成連隊がバリケードに接近した時、隣接する民家から一斉射撃が起こり、兵士は混乱し、将校をおきざりにして逃亡。非常事態のためヴィノワ将軍は、温存しておいた海兵隊の出撃を命じる。
しかし、バリケードの連盟兵は数において劣り、側面砲撃に脅威を感じ、セーヌを渡河して退却。
ヴィノワ軍は容易にここを占拠して捕虜30名ほどを得て、更にヌイイ橋まで殆ど抵抗なしに進出してこれを占領。
ティエールから前進禁止命令が届き、午後1時15分、ヴィノワ将軍は偵察行終了。パスキエ博士を含めて3名戦死、21名負傷。
*
ヴィノワ将軍に命じられプーランジェ大佐指揮下の第114連隊は捕虜の内5名を射殺。外科医パスキエを殺したとされるサン・タントワーヌ郊外地区の床屋ルイ・ベーム(22)、連盟軍に寝返った兵士2名、国民軍兵士2名が犠牲となる。
*
・パリに召集太鼓。午後3時、モンマルトル、ベルヴィルから5万人集合、「ヴェルサイユへ!」と叫ぶ。
*
・ロセル、ベルジュレと中央委員会の命令に従い、逮捕され警視庁留置所に監禁される。ついで、リゴーとコミューンの命令によって釈放。
○[コミューン群像:ルイ・ナタニエル・ロセル(1844~71)]
工兵大尉、中佐として、普仏戦争に参加。メス要塞包囲の際、バーゼン元帥に対し、守備隊をたちあがらせようとするが失敗。メス降服後、国外逃亡。その後トゥールに赴き、国防政府のトゥール代表団長ガンペックの命令に服す。ネヴェール軍工兵指揮官に任命される。
3月19日、パリ蜂起を知り、辞職声明をだし、この中で、フランスを敗北に導いた「降服将軍たち」を非難。
3月20日パリ到着。
23日、国民軍中央委員会は彼を、第17軍団司令官に任命。
4月初め、軍事省参謀総長、4月中旬、軍法会議議長、30日、コミューンの軍事代表委員。
この地位で積極性を発揮(コミューン軍隊を再組織しようと努め、ヴェルサイユ軍に対する大規模進撃計画を作成)。
5月9日、イシ壁の陥落後辞職(コミューン議員たちへの公開状で、前線での失敗の貴任は彼らにあるとする)。コミューン命令によって逮捕されるが隠れる。
6月8日、警察に逮捕され、軍法会議で銃殺判決を受け、1871年11月28日執行。
*
ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」で紹介されているロセルの文章。
「この章を終わるにあたって、ロッセルの文章を二つ引用しておこう。
最初のものは彼がコミューンの軍隊にはいる以前のもので、彼のコミューンにたいする評価がうかがわれる。これは七一年三月十九日、ヌヴェールのキャンプからヴェルサイユの陸軍大臣である将軍にあてた手紙の一節である。
「この国では二つの党派が争っております。私はためらうことなく、講和条約に署名しなかった側、その戦列に降伏の責を負うべき将軍たちをもたぬ側に与するものです」。
第二のものは、正規軍について、死の直前に自分の弁護士アルベール・ジョリーに言いのこしたものである。
「あなたは共和主義者です。もし今すぐにあなたが軍隊を再編成しなければ、軍隊が共和国を崩壊させるでしょう。私は兵士の公民権のために死ぬのです。少なくともこのことだけは私を信じてください。」」
*
・パリの2つの権力の妥協。
クリュズレが軍事代表委員ウードの補佐となり、ベルジュレ、ウード、デュヴァルが合議の上で衛兵の総指揮にあたる。
*
・教会と国家の分離に関する布告(2日起草、3日布告)。
「パリ・コミューンは、信仰の自由は諸々の自由のうち第一に位することにかんがみ・・・左のことく布告する-
第一条、教会は国家から分離される。
第二条、宗教予算は廃止される。
第三条、宗教団体に属するいわゆる譲渡不能の財産は、動産であると不動産であるとを問わず、国有財産と宣言される。」
*
・行政機関・公共業務における俸給最高額(6千フラン)を定める布告。
*
・住民に対する呼び掛け。
「王党派の陰謀家どもが攻撃を加えてきた。われわれが穏和な態度を示しているにもかかわらず、彼らは攻撃を加えてきた・・・
パリの住民によって選出されたわれわれの義務は、この偉大な都市を犯罪的攻撃者から防衛することである。われわれは諸君の助力をえて、この都市を防衛するであろう。執行委員会。」
*
・夕方、パリ要塞から執行委員会に宛てた電報が掲示。
「わが軍は士気旺盛。戦列歩兵の兵士は、上級将校を除き誰れひとり交戦を望まない、と言明する。」
*
・ペルジュレはコミューン議会においてモン・ヴァレリアンの砲列は連盟軍に対して火を吹くことはないであろうと言明。
クリュズレは友愛の感情がヴェルサイユ軍のあらゆる抵抗を排除するであろうと主張。
*
・コミューン執行委員会の国民軍に対する檄。
「このような犯罪的侵略者たちから、偉大な都市を防衛することはわれわれの義務である。諸君の援助によってまもりぬこう」。
*
・コミューン、ティエールとヴェルサイユ政府閣僚5人を裁判にかけ、彼らが「内乱を組織し、開始し、パリを攻撃し、国民軍兵士、戦列軍兵士、婦人、子供たちを殺傷した」ために、彼らの財産を差押えるという法令を採択。
ヴェルサイユ軍に対する戦闘で倒れた市民の家族を、コミューンの養子にする法令を採択。
*
・ベルジュレ、ウード、デュヴァルがヴェルサイユ攻撃計画を作成し、クリュズレがそれを実行。
3つの縦隊(ルイユに対する牽制攻撃、ムードンからの集中攻撃、シャティヨン高地からの別な攻撃)で構成。第1縦隊が敵兵カの一部をルイユに引き寄せている間に、敵は合流した第2、3の縦隊によって分断され、包囲される筈。
*
・連盟兵、ヴェルサイユ進撃にうつれと要求。国民軍諸大隊、命令なしにパリ西方防備強化の為に活動。
コミューン軍事評議会、ヴァンドーム広場で軍事会議。3日朝のヴェルサイユ進撃開始を決定。午後5時、デュヴァル軍、シャンティオンに向う。
*
・マルセイユ。
臨時県委員会、市会を解散し、マルセイユの革命的コミューン選挙4月5日実施とする法令(法令は、「パリとヴェルサイユとの選択にあたって、マルセイユはパリを支持した」と述べる)。
家賃滞納分の部分的免除の法令。
反動勢力は攻勢に転じ、政府軍指揮官エスピヴァン将軍はマルセイユ市とブーシュ・デュ・ローヌ県を戒厳状態におき、国民軍兵士が武器をもって集会をすることを禁じる。
*
4月2日
・ロンドン。K・マルクス、コミューンの社会改革実行こ賛成を求めたL・フランケルの手紙を受取る。
to be continued
*
1871年4月1日
・婦人たち700~800人がコンコルド広場に集まり、ヴェルサイユに赴こうとする。
「一八七一年四月一日、私をみかけて驚いた隣の婦人が私に、コンコルド広場における女性集会の開催を報せた新聞を読んだかとたずねた。彼女らは流血を止めさせにヴェルサイユまで出かけようというのである。
私は母に集会に出かけることを告げ、子供たちに接吻して広場にむかった。
一時半にコンコルド広場で行進に加わった。七、八百人の女性が参加していた。ヴェルサイユへ行って、パリのしようとしていることを説明するのだと話している女たちがいるかと思えば、百年前にもパリの女たちがヴェルサイユに行って、当時の言い方にしたがえばパン屋とパン屋のかみさんとパン屋の小僧をパリにつれもどしたときのことを話している女たちもいた。
私たちはこうしてパリのヴェルサイユ門まで行進した。そこで私たちはフリー・メーソンの使者たちがもどってくるのに出会った。
この遠征を組織した市民S・A夫人がすっかり疲れきって、どこかで集会を開こうと提案した。
そこで私たちは、ラガッシュ・ホールにむかった。遠征をさらにつづけるために別の市民をこの会場で指揮者に選ばなければならなくなった。ここまでの長い行進でS・A夫人は疲労し、両足の苦痛に耐えかねていたのである。
私が彼女の後任に指名され、撞球台の上にのばらされた。そこで私は、もうヴェルサイユにむかうほどの人数はいないが、コミューンの歩兵中隊の負傷者の看護なら十分まにあうからそちらに行こうと自分の考えを述べた。他の人たちも私の意見に賛成してくれたので、私たちは翌日出発することになった。だがじっさいに出発したのは数日後だった。市民S・A夫人も、国民衛兵の参謀部まで私たちと一緒に来ることができた。」
その後、彼女らはイシ要塞で2週間野戦救護看護婦として働く。・・・(「ベアトリックス・エクスコフォンの手記」(ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」所収)。
*
4月2日
・仏、ヴェルサイユ軍、パリ攻撃開始。
パリに向い北西方向に進出。国民軍と戦闘。圧倒的に優勢な兵力により、パリ西郊クールプヴォアとパリ進撃に有利な諸陣地を占領。
国民軍の悲惨な結果。国民軍、政府軍主任軍医バスキエ殺害。ヴェルサイユ軍、報復で連盟兵捕虜を殺害。
*
3月18日の革命初期に、ヴェルサイユへ逃亡したティエール政府の軍隊は2万7千未満、その後、予備軍を呼び寄せ4万に増やす。3月末、ヴェルサイユ軍司令部とドイツ占領軍司令部とで協定が結ばれ、ヴェルサイユ派は8万にまで軍隊を増加させ、その後、主として帰還したフランス軍捕虜によって13万にまで増加させる。
*
朝、ヴェルサイユ側では、モン・ヴァレリアンの砲台からヌイイ大通りに向かって砲撃。同時に警官隊、歩兵部隊、騎兵隊がクールブヴォワとヌイイに向かって進軍。
前日夜11時、ティエールは軍事会議を召集し、翌日早朝にデュ・バライユ将軍による敵兵力偵察を決定し、将軍はまだ暗闇の中をパリ南方のパトロールに出発。
ティエールは、この時、別にヴィノワ将軍率いる1歩兵部隊を誰にも知らさずに派遣。
7時前後、2部隊を編成し作戦展開のためモン・ヴァレリアンの北に集結。
①プリア師団第74混成連隊と海兵連隊及び陸戦隊で、ヴィノワ将軍と行動を共にする。
②ドーデル旅団第113、114連隊。支援を命じられたガリフェの騎兵隊と砲兵中隊の半分を加え、総兵力は約9千。
ヴィノワは既にクールプヴォワの円形交差路から100ヤード足らずの地点に進出。
*
パリ側では、この朝、ベルジュレの命令によって連盟軍10箇大隊が偵察に出発。
*
ヴェルサイユ側は、第113連隊をガリフェ軍と合流させ、クールプヴォワの交差路を北から包囲攻撃させる計画を立てるが、攻撃前、軍の主任軍医パスキエ博士が本隊から離れ連盟軍の中に迷い込み、捕えられて射殺される事件が起こる。
ガリフェ将軍が砲兵隊に発砲を命じるが、誰もそれに従わず、敵の砦からの最初の砲撃で、第113連隊の兵士たちが前進を止め逃亡する者も出る。ガリフェが馬から下り、幕僚と共に連発ピストルを抜いて砲兵を叱咤し、ようやく砲撃が始まる。
*
ガリフェ隊の砲声を聞き、ヴィノワ将軍も砲撃を命令。
クールプヴォワ砦の連盟軍は混乱。
第74混成連隊がバリケードに接近した時、隣接する民家から一斉射撃が起こり、兵士は混乱し、将校をおきざりにして逃亡。非常事態のためヴィノワ将軍は、温存しておいた海兵隊の出撃を命じる。
しかし、バリケードの連盟兵は数において劣り、側面砲撃に脅威を感じ、セーヌを渡河して退却。
ヴィノワ軍は容易にここを占拠して捕虜30名ほどを得て、更にヌイイ橋まで殆ど抵抗なしに進出してこれを占領。
ティエールから前進禁止命令が届き、午後1時15分、ヴィノワ将軍は偵察行終了。パスキエ博士を含めて3名戦死、21名負傷。
*
ヴィノワ将軍に命じられプーランジェ大佐指揮下の第114連隊は捕虜の内5名を射殺。外科医パスキエを殺したとされるサン・タントワーヌ郊外地区の床屋ルイ・ベーム(22)、連盟軍に寝返った兵士2名、国民軍兵士2名が犠牲となる。
*
・パリに召集太鼓。午後3時、モンマルトル、ベルヴィルから5万人集合、「ヴェルサイユへ!」と叫ぶ。
*
・ロセル、ベルジュレと中央委員会の命令に従い、逮捕され警視庁留置所に監禁される。ついで、リゴーとコミューンの命令によって釈放。
○[コミューン群像:ルイ・ナタニエル・ロセル(1844~71)]
工兵大尉、中佐として、普仏戦争に参加。メス要塞包囲の際、バーゼン元帥に対し、守備隊をたちあがらせようとするが失敗。メス降服後、国外逃亡。その後トゥールに赴き、国防政府のトゥール代表団長ガンペックの命令に服す。ネヴェール軍工兵指揮官に任命される。
3月19日、パリ蜂起を知り、辞職声明をだし、この中で、フランスを敗北に導いた「降服将軍たち」を非難。
3月20日パリ到着。
23日、国民軍中央委員会は彼を、第17軍団司令官に任命。
4月初め、軍事省参謀総長、4月中旬、軍法会議議長、30日、コミューンの軍事代表委員。
この地位で積極性を発揮(コミューン軍隊を再組織しようと努め、ヴェルサイユ軍に対する大規模進撃計画を作成)。
5月9日、イシ壁の陥落後辞職(コミューン議員たちへの公開状で、前線での失敗の貴任は彼らにあるとする)。コミューン命令によって逮捕されるが隠れる。
6月8日、警察に逮捕され、軍法会議で銃殺判決を受け、1871年11月28日執行。
*
ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」で紹介されているロセルの文章。
「この章を終わるにあたって、ロッセルの文章を二つ引用しておこう。
最初のものは彼がコミューンの軍隊にはいる以前のもので、彼のコミューンにたいする評価がうかがわれる。これは七一年三月十九日、ヌヴェールのキャンプからヴェルサイユの陸軍大臣である将軍にあてた手紙の一節である。
「この国では二つの党派が争っております。私はためらうことなく、講和条約に署名しなかった側、その戦列に降伏の責を負うべき将軍たちをもたぬ側に与するものです」。
第二のものは、正規軍について、死の直前に自分の弁護士アルベール・ジョリーに言いのこしたものである。
「あなたは共和主義者です。もし今すぐにあなたが軍隊を再編成しなければ、軍隊が共和国を崩壊させるでしょう。私は兵士の公民権のために死ぬのです。少なくともこのことだけは私を信じてください。」」
*
・パリの2つの権力の妥協。
クリュズレが軍事代表委員ウードの補佐となり、ベルジュレ、ウード、デュヴァルが合議の上で衛兵の総指揮にあたる。
*
・教会と国家の分離に関する布告(2日起草、3日布告)。
「パリ・コミューンは、信仰の自由は諸々の自由のうち第一に位することにかんがみ・・・左のことく布告する-
第一条、教会は国家から分離される。
第二条、宗教予算は廃止される。
第三条、宗教団体に属するいわゆる譲渡不能の財産は、動産であると不動産であるとを問わず、国有財産と宣言される。」
*
・行政機関・公共業務における俸給最高額(6千フラン)を定める布告。
*
・住民に対する呼び掛け。
「王党派の陰謀家どもが攻撃を加えてきた。われわれが穏和な態度を示しているにもかかわらず、彼らは攻撃を加えてきた・・・
パリの住民によって選出されたわれわれの義務は、この偉大な都市を犯罪的攻撃者から防衛することである。われわれは諸君の助力をえて、この都市を防衛するであろう。執行委員会。」
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・夕方、パリ要塞から執行委員会に宛てた電報が掲示。
「わが軍は士気旺盛。戦列歩兵の兵士は、上級将校を除き誰れひとり交戦を望まない、と言明する。」
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・ペルジュレはコミューン議会においてモン・ヴァレリアンの砲列は連盟軍に対して火を吹くことはないであろうと言明。
クリュズレは友愛の感情がヴェルサイユ軍のあらゆる抵抗を排除するであろうと主張。
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・コミューン執行委員会の国民軍に対する檄。
「このような犯罪的侵略者たちから、偉大な都市を防衛することはわれわれの義務である。諸君の援助によってまもりぬこう」。
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・コミューン、ティエールとヴェルサイユ政府閣僚5人を裁判にかけ、彼らが「内乱を組織し、開始し、パリを攻撃し、国民軍兵士、戦列軍兵士、婦人、子供たちを殺傷した」ために、彼らの財産を差押えるという法令を採択。
ヴェルサイユ軍に対する戦闘で倒れた市民の家族を、コミューンの養子にする法令を採択。
*
・ベルジュレ、ウード、デュヴァルがヴェルサイユ攻撃計画を作成し、クリュズレがそれを実行。
3つの縦隊(ルイユに対する牽制攻撃、ムードンからの集中攻撃、シャティヨン高地からの別な攻撃)で構成。第1縦隊が敵兵カの一部をルイユに引き寄せている間に、敵は合流した第2、3の縦隊によって分断され、包囲される筈。
*
・連盟兵、ヴェルサイユ進撃にうつれと要求。国民軍諸大隊、命令なしにパリ西方防備強化の為に活動。
コミューン軍事評議会、ヴァンドーム広場で軍事会議。3日朝のヴェルサイユ進撃開始を決定。午後5時、デュヴァル軍、シャンティオンに向う。
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・マルセイユ。
臨時県委員会、市会を解散し、マルセイユの革命的コミューン選挙4月5日実施とする法令(法令は、「パリとヴェルサイユとの選択にあたって、マルセイユはパリを支持した」と述べる)。
家賃滞納分の部分的免除の法令。
反動勢力は攻勢に転じ、政府軍指揮官エスピヴァン将軍はマルセイユ市とブーシュ・デュ・ローヌ県を戒厳状態におき、国民軍兵士が武器をもって集会をすることを禁じる。
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4月2日
・ロンドン。K・マルクス、コミューンの社会改革実行こ賛成を求めたL・フランケルの手紙を受取る。
to be continued
2009年3月8日日曜日
1871年4月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(11)
■1871年4月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(11)
*
1871年4月(日付なし)
・日本、仮名垣魯文「牛店雑談安愚楽鍋」出版。
*
・2鎮台、2本営、4分営とする。一揆反乱鎮圧目的。
*
・神田孝平・津田真道、条約改正案を外務卿に提出。改正延期提言。
*
・大阪府、大貧院を開設。
*
・ヴァーグナー、ベルリンで「オペラの使命」講演。バイロイト計画への援助を皇帝ヴィルヘルム1世に働きかけるようビスマルクに依頼。
*
・ランボー、シャルルヴィルの新聞「プログレ・デ・ザルデンヌ(アルデンヌ進歩誌)」に就職、すぐに休刊となる。
*
4月1日
・片岡健吉・伴正順、渡英のため高知出発。
*
4月1日
・仏、コミューン、国家公務員の高い俸給を廃止し、コミューン勤務員の最高給与額を1年6千フラン以下にする決定。
*
年間6千フランの俸給は熟練労働者の貸金と同じ。この措置により、腐敗した官吏や出世主義者が国家機構に入る道を塞ぐ。コミューン機関には、革命に対し無欲な奉仕の模範を示す労働者や革命的知識人の代表が入る。
*
・ブルジョア地区コミューン議員8人が辞職し、議員5人が二重当選しているので、補欠選挙を4月5日に行う決定。
*
・ドイツの捕虜になっている国民軍兵士の家族に手当支払いを継続し、国民軍兵士諸部隊の自発行動について保安委員会に検討を委任する決定。
*
・コミューン議会の混乱。潜在する中央委員会との紛争深刻化。
アシが、中央委員会の支持を受け、コミューンの権限は市政問題に関わるものに限られると主張。プランキ派とジャコバン派が介入しアシを逮捕。
*
執行委員会は、国民軍総司令官職廃止・プリュネル解任と、ウードを軍事代表委員に、ベルジュレを国民軍参謀長に、デュヴァルを警視庁軍司令官に任命する決定。
*
パリから食料・兵器の搬出を禁止し、あらゆる種類の商品を搬入する決定。
*
・教育委員会、コミューン議員及び教育委員会委員のE・グビル博士を国民教育局代表委員に任命。
*
・内務及び保安委員会、ジャック・ヴァンサンを国立図書館代表委員に任命しその保管を委ねる。
*
・軍事委員会、余分の銃を市民たちに分配すると命令。
*
・労働交換委員会、各区役所で労働の需要・供給を登録し、パリの失業を一掃する為、労働交換委員会と連絡する専門下級委員会を、関連のある人々によって選挙すると決定。
未完了の建設・修理活動の状態とその終了時期を解明する為、インタナショナルパリ支部連合評議会委員4人からなる下部委員会を任命することを決定。
*
・コミューン議員、「新教育」協会代表団と会合。
代表団は、社会的地位に拘らず、全市民の児童の社会教育施設を開校し、学校を教会から分離し、児童の無料義務教育を要求する請願書を手交。
教育問題は基本的問題であり、「この解決がなければ早急に重大な改革は遂行できないであろう」と、請願書は述べている。
コミューン議員達は、急激な教育改革が必要と声明。
*
・石切工と石工の全体集会。
*
・コミューンに敵対的な論文を掲載した為、2つの反革命新聞を押収。
*
・国民軍司令部は、諸大隊に、パリの南西部、西部、北西部に布陣し、大砲を配置するよう命令。
*
・フリー・メーソンの総会。
*
・ヴェルサイユ。国民議会で、ティエールはパリに対して戦闘を行ったヴェルサイユ軍を称賛。
ティエールは、パリ攻撃を決定。3月末、プロイセン兵6,500が集結。
*
・正午過ぎ、連盟軍が進出。兵力は、ヌイイに800、クールプヴォワに500、ナンテールに200~300。
*
午後5時50分頃、ナンテール市長から連盟軍の脅威に晒されているとの報告あり、ガリフェ将軍が騎馬隊をもって赴き、示威行動。連盟軍は町を引き渡す。
*
・マルセイユ。国民軍代表者会議。
市会解散と、臨時県委員会を支持し、国民軍各大隊の代表1名ずつをこの委員会に入れる決議。
マルセイユの共和派は臨時県委員会を支持。
*
・アルジェリア。民主的傾向のフランス移民達が、ティエール政府への反対行動を行う。
*
オラン市国民軍集会(参加者約1万)は、アルジェリアでの軍事政権復活反対する抗議。
「共和国万歳! パリの国民軍万歳!」のスローガンの行動綱領を採択、また、パリの国民軍中央委員会にならって、オラン国民軍指導委員会織の決議。
夫々のコミューンが、白分達の国民軍評議会と将校達を選出する権限について宣言(人民と同盟を結ぶようにという軍隊の呼び掛けと、パリの国民軍との連帯の呼び掛けを含む)。
*
4月1日
・ベルリン。全ドイツ労働者同盟の新聞「アギタートル」の主張。
*
「フランスに爆発した社会革命の作用は、克服することのできない力であらわれている・・・。
階級的憎悪が国民的憎悪よりもはるかに強いということがたしかになった。フランスのブルジョアジーは、またもや自国の労働者たちの勝利をゆるすよりも、パリに敵がいることを選んでいるのである・・・。
有産者階級はよろこんでドイツの血を流させ、この代価によってフランスにひるがえった赤旗をひきさこうとしているのである」。
*
4月1日
・ウィーン、社会民主党の新聞「ゾツィアル・デモクラート」、コミューンにE・ヴァイヤンのような優れた革命家達が参加していると指摘し、この事実は「フランスにおけるインタナショナルの事業の、終局的な成功の保障」となると強調。
*
4月1日
・プラハ。新聞「デルニク」、「政治的労働者新聞」という肩書と、「労働者階級の目的のための意識的な闘争の事業に活動をささげよう」という題名をつけて発行される。論文「パリの蜂起」を発表し、パリの3月18日の革命について共感を示す。
to be continued
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1871年4月(日付なし)
・日本、仮名垣魯文「牛店雑談安愚楽鍋」出版。
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・2鎮台、2本営、4分営とする。一揆反乱鎮圧目的。
*
・神田孝平・津田真道、条約改正案を外務卿に提出。改正延期提言。
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・大阪府、大貧院を開設。
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・ヴァーグナー、ベルリンで「オペラの使命」講演。バイロイト計画への援助を皇帝ヴィルヘルム1世に働きかけるようビスマルクに依頼。
*
・ランボー、シャルルヴィルの新聞「プログレ・デ・ザルデンヌ(アルデンヌ進歩誌)」に就職、すぐに休刊となる。
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4月1日
・片岡健吉・伴正順、渡英のため高知出発。
*
4月1日
・仏、コミューン、国家公務員の高い俸給を廃止し、コミューン勤務員の最高給与額を1年6千フラン以下にする決定。
*
年間6千フランの俸給は熟練労働者の貸金と同じ。この措置により、腐敗した官吏や出世主義者が国家機構に入る道を塞ぐ。コミューン機関には、革命に対し無欲な奉仕の模範を示す労働者や革命的知識人の代表が入る。
*
・ブルジョア地区コミューン議員8人が辞職し、議員5人が二重当選しているので、補欠選挙を4月5日に行う決定。
*
・ドイツの捕虜になっている国民軍兵士の家族に手当支払いを継続し、国民軍兵士諸部隊の自発行動について保安委員会に検討を委任する決定。
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・コミューン議会の混乱。潜在する中央委員会との紛争深刻化。
アシが、中央委員会の支持を受け、コミューンの権限は市政問題に関わるものに限られると主張。プランキ派とジャコバン派が介入しアシを逮捕。
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執行委員会は、国民軍総司令官職廃止・プリュネル解任と、ウードを軍事代表委員に、ベルジュレを国民軍参謀長に、デュヴァルを警視庁軍司令官に任命する決定。
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パリから食料・兵器の搬出を禁止し、あらゆる種類の商品を搬入する決定。
*
・教育委員会、コミューン議員及び教育委員会委員のE・グビル博士を国民教育局代表委員に任命。
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・内務及び保安委員会、ジャック・ヴァンサンを国立図書館代表委員に任命しその保管を委ねる。
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・軍事委員会、余分の銃を市民たちに分配すると命令。
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・労働交換委員会、各区役所で労働の需要・供給を登録し、パリの失業を一掃する為、労働交換委員会と連絡する専門下級委員会を、関連のある人々によって選挙すると決定。
未完了の建設・修理活動の状態とその終了時期を解明する為、インタナショナルパリ支部連合評議会委員4人からなる下部委員会を任命することを決定。
*
・コミューン議員、「新教育」協会代表団と会合。
代表団は、社会的地位に拘らず、全市民の児童の社会教育施設を開校し、学校を教会から分離し、児童の無料義務教育を要求する請願書を手交。
教育問題は基本的問題であり、「この解決がなければ早急に重大な改革は遂行できないであろう」と、請願書は述べている。
コミューン議員達は、急激な教育改革が必要と声明。
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・石切工と石工の全体集会。
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・コミューンに敵対的な論文を掲載した為、2つの反革命新聞を押収。
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・国民軍司令部は、諸大隊に、パリの南西部、西部、北西部に布陣し、大砲を配置するよう命令。
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・フリー・メーソンの総会。
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・ヴェルサイユ。国民議会で、ティエールはパリに対して戦闘を行ったヴェルサイユ軍を称賛。
ティエールは、パリ攻撃を決定。3月末、プロイセン兵6,500が集結。
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・正午過ぎ、連盟軍が進出。兵力は、ヌイイに800、クールプヴォワに500、ナンテールに200~300。
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午後5時50分頃、ナンテール市長から連盟軍の脅威に晒されているとの報告あり、ガリフェ将軍が騎馬隊をもって赴き、示威行動。連盟軍は町を引き渡す。
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・マルセイユ。国民軍代表者会議。
市会解散と、臨時県委員会を支持し、国民軍各大隊の代表1名ずつをこの委員会に入れる決議。
マルセイユの共和派は臨時県委員会を支持。
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・アルジェリア。民主的傾向のフランス移民達が、ティエール政府への反対行動を行う。
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オラン市国民軍集会(参加者約1万)は、アルジェリアでの軍事政権復活反対する抗議。
「共和国万歳! パリの国民軍万歳!」のスローガンの行動綱領を採択、また、パリの国民軍中央委員会にならって、オラン国民軍指導委員会織の決議。
夫々のコミューンが、白分達の国民軍評議会と将校達を選出する権限について宣言(人民と同盟を結ぶようにという軍隊の呼び掛けと、パリの国民軍との連帯の呼び掛けを含む)。
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4月1日
・ベルリン。全ドイツ労働者同盟の新聞「アギタートル」の主張。
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「フランスに爆発した社会革命の作用は、克服することのできない力であらわれている・・・。
階級的憎悪が国民的憎悪よりもはるかに強いということがたしかになった。フランスのブルジョアジーは、またもや自国の労働者たちの勝利をゆるすよりも、パリに敵がいることを選んでいるのである・・・。
有産者階級はよろこんでドイツの血を流させ、この代価によってフランスにひるがえった赤旗をひきさこうとしているのである」。
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4月1日
・ウィーン、社会民主党の新聞「ゾツィアル・デモクラート」、コミューンにE・ヴァイヤンのような優れた革命家達が参加していると指摘し、この事実は「フランスにおけるインタナショナルの事業の、終局的な成功の保障」となると強調。
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4月1日
・プラハ。新聞「デルニク」、「政治的労働者新聞」という肩書と、「労働者階級の目的のための意識的な闘争の事業に活動をささげよう」という題名をつけて発行される。論文「パリの蜂起」を発表し、パリの3月18日の革命について共感を示す。
to be continued
2009年2月22日日曜日
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(10)
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(10)
*
3月30日追加
・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
マルセイユのコミューンからパリのコミューンへの手紙。マルセイユ・コミューン蘇る(4月4日大弾圧)。
「われわれは各大都市の選挙によって選ばれた市会に、行政上および市政上の諸特権をゆだねることによって、コミューンの自治とともに、行政の地方分権化を要求する。
県知事の制度は自由にとって有害である。
われわれは全国的な国民衛兵の連合によって共和国の強化を望むものである。
しかしながら、われわれは、何よりもそして何にもまして、マルセイユの望むところを望むものである。」
-----------------------------------------------
3月31日
・仏、コミューン、コミューンの議員に1日15フランの俸給を与える決定。
労働者団体と商工業会議所に、商業手形支払期間の問題についての提案を呼び掛ける事を決定。
*
・中央委員会とコミューンの最初の衝突。
自己の権威確立を決定した中央委員会は、軍事代表委員クリュズレに国民衛兵再組織を委任。
クリュズレ、セイヌ県砲兵隊中央委員会の活動について、砲兵部隊組織について、コミューンの軍事委員会と協力してパリ防衛計画を完成することについて、報告提出(コミューン執行委員会は報告を承認、法令の効力をもつことになる)。
*
○[コミューン群像:ギュスターヴ・ポール・クリュズレ]
将校の家庭に生まれ、軍隊に勤務。1848年6月蜂起弾圧に参加。クリミヤ戦争従軍、アルジェリアのフランス軍に勤務し、先住民統治の為の「アラヴ局」将校。1858年、不正商取引により起訴、退職。ニューヨークに移住。ガリパルディ軍に参加。
1861年、再びアメリカに行き、北軍に従軍、将軍になり、南軍の欠席裁判で死刑判決。戦後ヨーロッパに戻り、アイルランドのフェニアン党運動に参加。
フランスに帰国後、反対派新聞に寄稿し、軍隊についての論文の為に禁銅判決。監獄でヴァルランを知る。出獄後、再度ニューヨークに行き、インタナショナル支部に入る。
フランス帝政崩壊後帰国、パリ20区中央共和委員会に入り、国防問題を担当、
1870年9月15日付アピールに署名。9月17日リヨンに派遣、ローヌ県革命軍司令官になる。9月28日の行動には、ミハイル・バクーニンと共に参加。11月1~4日のマルセイユの民衆行動にも参加し、国防軍司令官及び南部連盟軍総司令官に任命。
パリに戻り、71年3月30日、国民軍中央委員会により、陸軍省に代表委員として派遣される。4月2日から軍事代表委員、4月3日から陸軍省代表委員(マルクス派のインタナショナル会員はこれに反対)。4月16日、第1、18区コミューン議員に選出(第18区の委任状を選択)。
コミューン軍を指揮し、国民軍を年齢別に行軍大隊と予備大隊とに分ける事など組織的措置を行う。公安委員会設置に反対。4月30日、イシ堡放棄の廉で軍事代表委員を罷免され逮捕。5月21日、コミューン会議での釈明が認められ釈放。
ヴェルサイユ軍のパリ侵入後、5ヶ月間市内に潜入、その後スイスに亡命、様々な新聞に執筆。インタナショナルハーグ大会諸決定に反対。1871年8月リヨンの軍法会議は要塞地域流刑判決を、72年8月パリの軍法会議は死刑判決を下す。
1880年恩赦後、帰国。社会主義的諸新聞に寄稿し、警察の迫害を受ける。1884年、社会主義者として代議士に選出、その後再選。1889年、第2インタナショナルパリ大会召集組織委員会委員。のちフランスの社会主義者やマルクス主義に反対、エドゥアール・ドリュモンの反ユダヤ主義運動に参加。
*
・コミューンの代表たち、行政上の地位を獲得。テイスは郵政省を掌握、等々
*
・穏和派議員、チラールに従い、コミューンを離れる。
*
・交換・労働・工業委員会の初会合。
フランケルが計画提出。パン屋の夜業禁止(4月27日決定)についての検討と、工場主が放棄した工場が、自由な組合に結集した労働者によって管理されること、を望む(4月16日布告)。
*
・司法委員会、コミューン議員プロトーに、緊急の民事・刑事問題の全てを担当し、「市民の個人的自由を防術するため、いっさいの必要な措置をとること」を委ねると決定。
*
・パンテオン広場でパリ第5区国民軍諸団体の行進。国民軍兵士代表が、コミューン議員のところに派出され、「未来の旗」(赤旗)を贈る。
*
・コミューン兵(連盟兵)とヴェルサイユ兵、クルブヴォア地区(パリの郊外)において交戦。
*
・第3区の「ニコラ・デ・シャン」教会に本部をおくコミューン的クラブ、このクラブの例にならい、全教会に「民衆の政治教育」の為に、自治体のクラブを開くよう呼びかける。
*
・アルジェリア。モクラニ、宗教団体ラフマニイア教主アル・ハッダードと息子シ・アジズと植民者に対する共同行動について会談。フランス軍、反乱民衆に対し懲罰行動。諸都市の民主的傾向のフランス移民は、ヴェルサイユ政府および軍当局に対し行動。
*
・ベルリン。「ゾツィアル・デモクラート」、ドイツのプロレタリアへの呼び掛け掲載。
「現在の情勢におけるドイツ労働者の義務は、フランスの兄弟たちにできるかきりの援助をあたえることである。そして現在われわれは、ただ新聞紙上の中傷を反駁し、ドイツの人民が、彼らの願望のなかに人類を解放し、搾取を絶滅しようとする気高い闘争をみとめさせることだけしかできないとしても、これは大きい成果となるであろう・・・
われわれがブルジョア新聞の嘘をぱくろすることができれば、ブルジョアジーはその計画 - ドイツの兵器の力によって、フランスの労働者階級の解放をゆるさないように - することはできなくなるであろう」
*
・ナルボンヌ。政府軍、市役所占領。コミューン崩壊。
to be continued
*
3月30日追加
・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
マルセイユのコミューンからパリのコミューンへの手紙。マルセイユ・コミューン蘇る(4月4日大弾圧)。
「われわれは各大都市の選挙によって選ばれた市会に、行政上および市政上の諸特権をゆだねることによって、コミューンの自治とともに、行政の地方分権化を要求する。
県知事の制度は自由にとって有害である。
われわれは全国的な国民衛兵の連合によって共和国の強化を望むものである。
しかしながら、われわれは、何よりもそして何にもまして、マルセイユの望むところを望むものである。」
-----------------------------------------------
3月31日
・仏、コミューン、コミューンの議員に1日15フランの俸給を与える決定。
労働者団体と商工業会議所に、商業手形支払期間の問題についての提案を呼び掛ける事を決定。
*
・中央委員会とコミューンの最初の衝突。
自己の権威確立を決定した中央委員会は、軍事代表委員クリュズレに国民衛兵再組織を委任。
クリュズレ、セイヌ県砲兵隊中央委員会の活動について、砲兵部隊組織について、コミューンの軍事委員会と協力してパリ防衛計画を完成することについて、報告提出(コミューン執行委員会は報告を承認、法令の効力をもつことになる)。
*
○[コミューン群像:ギュスターヴ・ポール・クリュズレ]
将校の家庭に生まれ、軍隊に勤務。1848年6月蜂起弾圧に参加。クリミヤ戦争従軍、アルジェリアのフランス軍に勤務し、先住民統治の為の「アラヴ局」将校。1858年、不正商取引により起訴、退職。ニューヨークに移住。ガリパルディ軍に参加。
1861年、再びアメリカに行き、北軍に従軍、将軍になり、南軍の欠席裁判で死刑判決。戦後ヨーロッパに戻り、アイルランドのフェニアン党運動に参加。
フランスに帰国後、反対派新聞に寄稿し、軍隊についての論文の為に禁銅判決。監獄でヴァルランを知る。出獄後、再度ニューヨークに行き、インタナショナル支部に入る。
フランス帝政崩壊後帰国、パリ20区中央共和委員会に入り、国防問題を担当、
1870年9月15日付アピールに署名。9月17日リヨンに派遣、ローヌ県革命軍司令官になる。9月28日の行動には、ミハイル・バクーニンと共に参加。11月1~4日のマルセイユの民衆行動にも参加し、国防軍司令官及び南部連盟軍総司令官に任命。
パリに戻り、71年3月30日、国民軍中央委員会により、陸軍省に代表委員として派遣される。4月2日から軍事代表委員、4月3日から陸軍省代表委員(マルクス派のインタナショナル会員はこれに反対)。4月16日、第1、18区コミューン議員に選出(第18区の委任状を選択)。
コミューン軍を指揮し、国民軍を年齢別に行軍大隊と予備大隊とに分ける事など組織的措置を行う。公安委員会設置に反対。4月30日、イシ堡放棄の廉で軍事代表委員を罷免され逮捕。5月21日、コミューン会議での釈明が認められ釈放。
ヴェルサイユ軍のパリ侵入後、5ヶ月間市内に潜入、その後スイスに亡命、様々な新聞に執筆。インタナショナルハーグ大会諸決定に反対。1871年8月リヨンの軍法会議は要塞地域流刑判決を、72年8月パリの軍法会議は死刑判決を下す。
1880年恩赦後、帰国。社会主義的諸新聞に寄稿し、警察の迫害を受ける。1884年、社会主義者として代議士に選出、その後再選。1889年、第2インタナショナルパリ大会召集組織委員会委員。のちフランスの社会主義者やマルクス主義に反対、エドゥアール・ドリュモンの反ユダヤ主義運動に参加。
*
・コミューンの代表たち、行政上の地位を獲得。テイスは郵政省を掌握、等々
*
・穏和派議員、チラールに従い、コミューンを離れる。
*
・交換・労働・工業委員会の初会合。
フランケルが計画提出。パン屋の夜業禁止(4月27日決定)についての検討と、工場主が放棄した工場が、自由な組合に結集した労働者によって管理されること、を望む(4月16日布告)。
*
・司法委員会、コミューン議員プロトーに、緊急の民事・刑事問題の全てを担当し、「市民の個人的自由を防術するため、いっさいの必要な措置をとること」を委ねると決定。
*
・パンテオン広場でパリ第5区国民軍諸団体の行進。国民軍兵士代表が、コミューン議員のところに派出され、「未来の旗」(赤旗)を贈る。
*
・コミューン兵(連盟兵)とヴェルサイユ兵、クルブヴォア地区(パリの郊外)において交戦。
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・第3区の「ニコラ・デ・シャン」教会に本部をおくコミューン的クラブ、このクラブの例にならい、全教会に「民衆の政治教育」の為に、自治体のクラブを開くよう呼びかける。
*
・アルジェリア。モクラニ、宗教団体ラフマニイア教主アル・ハッダードと息子シ・アジズと植民者に対する共同行動について会談。フランス軍、反乱民衆に対し懲罰行動。諸都市の民主的傾向のフランス移民は、ヴェルサイユ政府および軍当局に対し行動。
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・ベルリン。「ゾツィアル・デモクラート」、ドイツのプロレタリアへの呼び掛け掲載。
「現在の情勢におけるドイツ労働者の義務は、フランスの兄弟たちにできるかきりの援助をあたえることである。そして現在われわれは、ただ新聞紙上の中傷を反駁し、ドイツの人民が、彼らの願望のなかに人類を解放し、搾取を絶滅しようとする気高い闘争をみとめさせることだけしかできないとしても、これは大きい成果となるであろう・・・
われわれがブルジョア新聞の嘘をぱくろすることができれば、ブルジョアジーはその計画 - ドイツの兵器の力によって、フランスの労働者階級の解放をゆるさないように - することはできなくなるであろう」
*
・ナルボンヌ。政府軍、市役所占領。コミューン崩壊。
to be continued
2009年2月12日木曜日
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(9)
前回(3月29日)の追加
○[コミューン群像:シャルル・ロンゲ(1833~1903)]
商人の家庭に生まれる。1860年代初めからパリで、雄弁家、ジャーナリスト、共和主義的諸新聞の寄稿家として有名になる。長く小プルジョア的社会主義(ブルードン主義)の影響を受ける。
1865年5月編集していた新聞「ラ・リヴ・ゴーシュ」の禁止後、ベルギーに行き、6月23日からこの新聞発行を再開。1865年秋、リュージュでの国際学生大会に出席。警察から逃れる為ロンドンに移住しインタナショナルフランス人支部に入る。
1866年1月9日、総評議会員に選ばれ、1月16日、ベルギー担当通信書記に任命される。マルクスの要請により、ブリュッセルで(1866年)、国際労働者協会創立宣言の新訳を準備発行、初版(パリ版)の誤謬・歪曲を修正。1866年夏、フランスへの旅行中逮捕され8ヶ月投獄。
1867年10月28日、パリで、ジョヴァンニ・ガリパルディ支持、フランス軍のローマ法王援助抗議のデモに参加して逮捕される。
1870年9月4日革命後、20区中央共和委員会委員になり、国民軍第248大隊長になる。この大隊が10月31日蜂起に参加した為罷免される。
1871年3月27日~5月21日パリ・コミューン『官報』編集長。4月16日の補欠選挙で、第16区のコミューン議員に選出され、27日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、コミューンの「少数派」宣言に署名。コミューン敗北後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
第1インタナショナル・ロンドン協議会(1871年9月)、ハーグ大会(1872年9月)の代議員。マルクスの方針を支持。コミューンの経験に基づき、社会主義変革を実現するには、団結したプロレタリア党が必要であると主張。
その後、改良主義的見解に戻り、ポシビリスト(最大限綱領主義者)に接近。1880年恩赦後、フランスに帰国。1868年、市参事会員に選出される。
1872年からマルクスの長女イェンニーの夫。
*
-------------------------------------------------------
3月30日
・仏、家賃、及び公設質屋に預けられた物品の販売に関する布告(3月29日署名、3月30日公布)。
*
未納家賃支払い免除措置。
「パリ・コミューンは・・・布告する---
第一条、借家人に対し、一八七〇年一〇月、一八七一年一月および四月期限の家賃の全般的延期が行なわれる。
第二条、借家人が過去九ヵ月間に支払った全金額は、将来の支払分から控除されるであろう。・・・」。(パリでは家賃は、3ヶ月毎に先払いで支払われる。家賃の支払いの9ヶ月間(1870年10月1日~1871年7月1日)停止すつ事で、パリ住民は、総額4億フランの負債を免れる。戦争と龍城の犠牲は勤労市民だけでなく、資産家・家主も負わねばらぬという原則に立脚。唯一の欠点は、全借家人にこれが適用された為、投機業者などこの間に利益を稼いだ者の家賃支払も免除されるという点。
*
「パリ・コミューンは布告する-単独条項。公設質屋に預けられた物品の販売は一時中止される。」
*
・コミューン選挙委員会、被選出議員(全選挙民の投票数の1/8未満も含め)を確認し、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」ことに基づき外国人でインタナショナル会員レオ・フランケルの選出を確認。
*
・コミューンの決定。
コミューン議員テイスを郵政局長に、コミューン議員ベレーをフランス銀行代表委員に任命。コミューン議員が各区の行政権力を持ち、公民的行為の遂行権限を持つと決定。
保険会社の帳簿・金庫の没収についての決定。
コミューン諸委員会に広範な全権を与える決議。
パン焼業者の手持現金を、ヴェルサイユに送付させないように没収する決定。
反革命新聞「フィガロ」発行停止。
*
日常業務の一般的管理のため常任執行委員会を任命、その下に9専門委員会を組織(4月20日~この常任執行委員会は廃止、専門委員会代表者会議がこれに代わる)。
専門委員会の活動は、コミューン議員中から任命された1、2名の代表がこれを管理。
郵便業務管理は指物師テイス、造幣廠管理は青銅匠カムラン、病院管理は老革命家トレリアール、財政業務ジュールドとヴァルラン。
*
・パリ第20区中央委員会、コミューン諸法令を完全に承認すると声明。セイヌ県砲兵隊中央委員会はコミューン参加を声明。
*
・国民軍中央委員会、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員として派遣し、国民軍を再編し、適当な指導機関をつくる任務を与える。国民軍、パンテオン(フランスの偉人を合祀するパリの寺院)上に赤旗を掲げる。
*
・インターナショナル派フランケル、マルクスに宛てて、達成された革命は「未来のあらゆる革命の起る余地を奪うだろう。なぜなら、社会の領域において要求すべきものはもはやなくなるであろうから」と書く。
*
○[コミューン群像:レオ・フランケル]
宝石工。60年代末から労働者運動に参加。インタナショナルパリ諸支部連合評議会委員、パリ在住ドイツ労働者支部を組織。
1870年7月、インタナショナルパリ組織裁判事件で禁錮・罰金判決。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍に勤務。1月22日蜂起に参加。3月18日蜂起指導者の1人。3月26日コミューン議員に当選(第13区)。3月29日から労働・工業・交換委員会委員、4月5日から財政委員会委員。4月20日から労働・工業・交換委員会代表委員、執行委員会委員。労働者、事務員の労働保護、失業一掃のためにコミューンの政策を指導。4月28日コミューン会議で、パン焼工場の夜業禁止法案審議にあたり、「われわれは自治体の諸問題を擁護するためだけでなく、社会的改革を実施するためにもここにいるのである」と述べる。コミューンの注文を受けている裁縫工場主たちが、労働者を搾取している事を暴露し、今後は注文を労働者団体に与えるよう提案し、「三月一八日の革命が、もっぱら労働者階級によって遂行されたということをわれわれは忘れてはならない。平等を原則とするわれわれが、この階級のためになにもしないならば、わたしはコミューンの存在に意義をみとめない」と強調。
コミューンに入った僅かなマルクス主義者の1人で、マルクスと文通し、労働者立法問題でマルクスと相談。公安委員会設置に賛成するが、5月15日コミューンの「少数派」宣言には署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン弾圧後、イギリスに亡命。軍法会議(欠席裁判)で死刑判決。
ロンドンで、インタナショナル総評議会に補充され、オーストリア・ハンガリー担当通信書記になる。ロンドン協議会(1871年)、ハーグ大会(1872年)の代議員。バクーニンとギヨームの除名に賛成。1875年ドイツに移住、更にオーストリア・ハンガリーに移住。ハンガリー総労働者党創立者の1人(1880年創立)。社会主義宣伝の為に3度裁判にかけられる。1883年オーストリアに移住し、1889年からパリに居住。第2インタナショナル創立に参加、第1回パリ大会(1889年)で議長。ブリュッセル大会(1891年)とチューリヒ大会(1893年)代議員。
*
○[コミューン群像:アルペール・プレデリク・フェリクス・テイス(1839~81)]
労働者、金属切断工。1867年、製鋼工ストライキに参加。製鋼工協会を代表してインタナショナル・ブリュッセル大会(1868年)代議員。パリの職業組合を連合会議所に団結する発起人。インタナショナル第3次裁判(1870年)で禁固2年・罰金判決をうける。
1870年9月4日革命後、国民軍第152部隊に勤務。20区中央共和委員会委員。同職組合連合会議所の指導者。ドイツ軍のパリ攻囲中、労働組合とインタナショナル諸支部を政治闘争に組織的に参加させる。
1871年3月26日、同時に2区(第21、18区)からコミューン議員に選出される。3月30日郵便局長に任命され、通信事務を整え、高級事務員のサボタージュを粉砕。4月5日から財政委員会委員。4月3日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、「少数派」宣言に署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン崩壊後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
1871年8月8日、インタナショナル総評議会員に選ばれ、会計係になる。ロンドン協議会(1871年9月)の代議員として、コミューン経験にもとづく労働者階級の政治行動についての決議を支持。1871年秋、マルクス参加の下にロンドンにつくられた「社会調査サークル」の一員。セクト主義的冒険主義的な「一八七一年、ロンドン在住フランス人支部」が、テイスを総評議会反対闘争に引き入れようとするが失敗。1880年恩赦でフランスに帰国、社会主義運動に参加。
*
・連盟軍50、イシ砦を通り、ムードンの東方クラマール(シャティオンとともにヴァンヴ砦の前哨地)に出現。彼らは住民たちに直接選挙を実施させる。
*
・ヴェルサイユ軍が偵察。ヌイーの橋上でサーベルをかざすド・ガリフェ将軍は、部下を従えず、連盟兵にとり囲まれるが、釈放される。
*
・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
to be continued
○[コミューン群像:シャルル・ロンゲ(1833~1903)]
商人の家庭に生まれる。1860年代初めからパリで、雄弁家、ジャーナリスト、共和主義的諸新聞の寄稿家として有名になる。長く小プルジョア的社会主義(ブルードン主義)の影響を受ける。
1865年5月編集していた新聞「ラ・リヴ・ゴーシュ」の禁止後、ベルギーに行き、6月23日からこの新聞発行を再開。1865年秋、リュージュでの国際学生大会に出席。警察から逃れる為ロンドンに移住しインタナショナルフランス人支部に入る。
1866年1月9日、総評議会員に選ばれ、1月16日、ベルギー担当通信書記に任命される。マルクスの要請により、ブリュッセルで(1866年)、国際労働者協会創立宣言の新訳を準備発行、初版(パリ版)の誤謬・歪曲を修正。1866年夏、フランスへの旅行中逮捕され8ヶ月投獄。
1867年10月28日、パリで、ジョヴァンニ・ガリパルディ支持、フランス軍のローマ法王援助抗議のデモに参加して逮捕される。
1870年9月4日革命後、20区中央共和委員会委員になり、国民軍第248大隊長になる。この大隊が10月31日蜂起に参加した為罷免される。
1871年3月27日~5月21日パリ・コミューン『官報』編集長。4月16日の補欠選挙で、第16区のコミューン議員に選出され、27日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、コミューンの「少数派」宣言に署名。コミューン敗北後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
第1インタナショナル・ロンドン協議会(1871年9月)、ハーグ大会(1872年9月)の代議員。マルクスの方針を支持。コミューンの経験に基づき、社会主義変革を実現するには、団結したプロレタリア党が必要であると主張。
その後、改良主義的見解に戻り、ポシビリスト(最大限綱領主義者)に接近。1880年恩赦後、フランスに帰国。1868年、市参事会員に選出される。
1872年からマルクスの長女イェンニーの夫。
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3月30日
・仏、家賃、及び公設質屋に預けられた物品の販売に関する布告(3月29日署名、3月30日公布)。
*
未納家賃支払い免除措置。
「パリ・コミューンは・・・布告する---
第一条、借家人に対し、一八七〇年一〇月、一八七一年一月および四月期限の家賃の全般的延期が行なわれる。
第二条、借家人が過去九ヵ月間に支払った全金額は、将来の支払分から控除されるであろう。・・・」。(パリでは家賃は、3ヶ月毎に先払いで支払われる。家賃の支払いの9ヶ月間(1870年10月1日~1871年7月1日)停止すつ事で、パリ住民は、総額4億フランの負債を免れる。戦争と龍城の犠牲は勤労市民だけでなく、資産家・家主も負わねばらぬという原則に立脚。唯一の欠点は、全借家人にこれが適用された為、投機業者などこの間に利益を稼いだ者の家賃支払も免除されるという点。
*
「パリ・コミューンは布告する-単独条項。公設質屋に預けられた物品の販売は一時中止される。」
*
・コミューン選挙委員会、被選出議員(全選挙民の投票数の1/8未満も含め)を確認し、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」ことに基づき外国人でインタナショナル会員レオ・フランケルの選出を確認。
*
・コミューンの決定。
コミューン議員テイスを郵政局長に、コミューン議員ベレーをフランス銀行代表委員に任命。コミューン議員が各区の行政権力を持ち、公民的行為の遂行権限を持つと決定。
保険会社の帳簿・金庫の没収についての決定。
コミューン諸委員会に広範な全権を与える決議。
パン焼業者の手持現金を、ヴェルサイユに送付させないように没収する決定。
反革命新聞「フィガロ」発行停止。
*
日常業務の一般的管理のため常任執行委員会を任命、その下に9専門委員会を組織(4月20日~この常任執行委員会は廃止、専門委員会代表者会議がこれに代わる)。
専門委員会の活動は、コミューン議員中から任命された1、2名の代表がこれを管理。
郵便業務管理は指物師テイス、造幣廠管理は青銅匠カムラン、病院管理は老革命家トレリアール、財政業務ジュールドとヴァルラン。
*
・パリ第20区中央委員会、コミューン諸法令を完全に承認すると声明。セイヌ県砲兵隊中央委員会はコミューン参加を声明。
*
・国民軍中央委員会、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員として派遣し、国民軍を再編し、適当な指導機関をつくる任務を与える。国民軍、パンテオン(フランスの偉人を合祀するパリの寺院)上に赤旗を掲げる。
*
・インターナショナル派フランケル、マルクスに宛てて、達成された革命は「未来のあらゆる革命の起る余地を奪うだろう。なぜなら、社会の領域において要求すべきものはもはやなくなるであろうから」と書く。
*
○[コミューン群像:レオ・フランケル]
宝石工。60年代末から労働者運動に参加。インタナショナルパリ諸支部連合評議会委員、パリ在住ドイツ労働者支部を組織。
1870年7月、インタナショナルパリ組織裁判事件で禁錮・罰金判決。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍に勤務。1月22日蜂起に参加。3月18日蜂起指導者の1人。3月26日コミューン議員に当選(第13区)。3月29日から労働・工業・交換委員会委員、4月5日から財政委員会委員。4月20日から労働・工業・交換委員会代表委員、執行委員会委員。労働者、事務員の労働保護、失業一掃のためにコミューンの政策を指導。4月28日コミューン会議で、パン焼工場の夜業禁止法案審議にあたり、「われわれは自治体の諸問題を擁護するためだけでなく、社会的改革を実施するためにもここにいるのである」と述べる。コミューンの注文を受けている裁縫工場主たちが、労働者を搾取している事を暴露し、今後は注文を労働者団体に与えるよう提案し、「三月一八日の革命が、もっぱら労働者階級によって遂行されたということをわれわれは忘れてはならない。平等を原則とするわれわれが、この階級のためになにもしないならば、わたしはコミューンの存在に意義をみとめない」と強調。
コミューンに入った僅かなマルクス主義者の1人で、マルクスと文通し、労働者立法問題でマルクスと相談。公安委員会設置に賛成するが、5月15日コミューンの「少数派」宣言には署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン弾圧後、イギリスに亡命。軍法会議(欠席裁判)で死刑判決。
ロンドンで、インタナショナル総評議会に補充され、オーストリア・ハンガリー担当通信書記になる。ロンドン協議会(1871年)、ハーグ大会(1872年)の代議員。バクーニンとギヨームの除名に賛成。1875年ドイツに移住、更にオーストリア・ハンガリーに移住。ハンガリー総労働者党創立者の1人(1880年創立)。社会主義宣伝の為に3度裁判にかけられる。1883年オーストリアに移住し、1889年からパリに居住。第2インタナショナル創立に参加、第1回パリ大会(1889年)で議長。ブリュッセル大会(1891年)とチューリヒ大会(1893年)代議員。
*
○[コミューン群像:アルペール・プレデリク・フェリクス・テイス(1839~81)]
労働者、金属切断工。1867年、製鋼工ストライキに参加。製鋼工協会を代表してインタナショナル・ブリュッセル大会(1868年)代議員。パリの職業組合を連合会議所に団結する発起人。インタナショナル第3次裁判(1870年)で禁固2年・罰金判決をうける。
1870年9月4日革命後、国民軍第152部隊に勤務。20区中央共和委員会委員。同職組合連合会議所の指導者。ドイツ軍のパリ攻囲中、労働組合とインタナショナル諸支部を政治闘争に組織的に参加させる。
1871年3月26日、同時に2区(第21、18区)からコミューン議員に選出される。3月30日郵便局長に任命され、通信事務を整え、高級事務員のサボタージュを粉砕。4月5日から財政委員会委員。4月3日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、「少数派」宣言に署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン崩壊後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
1871年8月8日、インタナショナル総評議会員に選ばれ、会計係になる。ロンドン協議会(1871年9月)の代議員として、コミューン経験にもとづく労働者階級の政治行動についての決議を支持。1871年秋、マルクス参加の下にロンドンにつくられた「社会調査サークル」の一員。セクト主義的冒険主義的な「一八七一年、ロンドン在住フランス人支部」が、テイスを総評議会反対闘争に引き入れようとするが失敗。1880年恩赦でフランスに帰国、社会主義運動に参加。
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・連盟軍50、イシ砦を通り、ムードンの東方クラマール(シャティオンとともにヴァンヴ砦の前哨地)に出現。彼らは住民たちに直接選挙を実施させる。
*
・ヴェルサイユ軍が偵察。ヌイーの橋上でサーベルをかざすド・ガリフェ将軍は、部下を従えず、連盟兵にとり囲まれるが、釈放される。
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・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
to be continued
2009年2月2日月曜日
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・(8)
3月28日
・仏、グレーヴ広場、国民軍中央委員会、コミューン成立宣言。
選挙結果とコミューン議員選出についての発表。
市庁舎で最初のコミューン会議、司会は最長老議員シャルル・ベレー。
国民軍とその中央委員会の、祖国及び共和国に対する功績についての決定採択。
国民軍中央委員会、コミューンへの権力移諸についてパリ住民へアピール。
*
市庁舎の正面入口には女神「共和国」の胸像が、赤いスカーフを首に巻き赤い旗にとり囲まれている。市庁舎の屋根にも赤旗が翻り、グレーヴ広場の台の側にも赤旗・三色旗がぎっしりと立っている。台の前に着剣をした国民軍兵士が整列し、「ラ・マルセイエーズ」「出陣の歌」が起こる。祝砲が響き、大革命のときの流行帽フリージア帽が波を打つ。やがて中央委員会委員や選出されたコミューン議員が壇上に登り、中央委員会代表ランヴィエが、コミューン成立を宣言。
*
社説「祭り」(「人民の叫び」30日付)。
「コミューンが宜言された。
コミューンは、勝ち誇り、最高の権威をもち、武器を手にして、投票箱から誕生した。パリの人民に選ばれた議員たちが市庁舎の古い建物に入っていった。この建物はサンテールの太鼓と一月二二日の銃声を聞いたのだ。市庁舎前の広場には国家の名誉とパリの尊厳のために犠牲となった人々が流した血が、この祭りの日に勝ちほこって進む大隊の足下に舞い上る埃で消されたばかりである。・・・
コミューンは革命的で愛国的な平和で陽気な、祭りの一日に宣言される。・・・それは九二年の人々が眺めた日々に価する日であり、また帝政の二〇年と敗北と裏切りの六ヵ月を慰める。・・・
武器を手に立ちあがったパリの人民は、このコミューンを歓呼して迎えた。コミューンは、パリの人民を開城の屈辱とプロシアの勝利という侮辱から救い出した。コミューンはかつてパリを勝利に導いたごとく、やがてパリに自由をあたえるだろう。・・・
コミューンが宣言された。
今日は思想と共和国の結婚の祭典だ。
明日は、市民兵諸君、昨夜歓呼で迎えられて結婚したコミューンに子供を生ませるため、常に誇らかに、自由を保持しつつ、仕事場や、帳場にある諸君の持場に帰らなければならない。
勝利の詩の後には、労働の散文がやってくる。」
*
中央委員会の声明。
「本日、われわれは、最も雄大な人民集会をもつことができた、われわれの眼をこのように見はらせ、われわれの心をこのように感動させたものはない。
パリはその革命に挨拶と歓呼を送った。パリは歴史に新しい頁を開き、その力強い名前を書きこんだ。
・・・二十万の自由人がその自由を宣言し、新制度を布告した。われわれの周囲を徘徊しているヴェルサイユのスパイどもは、帰ってその主人に報告するがいい、祖国のために死ぬことを誓いつつその主権を取戻した人民の偉大なる姿を。
・・・帝政の前に二十年間無力だったフランスは、自由と勤勉とによって過去の専制と無力からよみがえらなければならぬ。本日選ばれた人々は全力をあげて諸君の自由を保証し、これを永久的なものたらしめるであろう。
・・・信頼をもって諸君のコミューンの周囲に結集せよ、なさねばならぬ改革に協力することによって、その事業を容易ならしめよ、そのときこそ諸君は、確実に次の目標である世界共和国の理想に達することができよう。」。偉大な勝利の日、偉大な幻想の日。
*
コミューン内部でも「パリ・コミューン」について3つの解釈が共存。
①コミューンは、市政の独立・自由の表現であるという考えで、政府・議会の介入を拒み自治性を確立するという点で、パリ・ブルジョワの長年の夢の実現。
②コミューンを1792、93年の革命的独裁の継続として捉える理解で、プランキストやジャコバン派が抱くコミューンの理想像。
③インターナショナルの連邦主義者たちの考えで、コミューンを労働者階級の渇望に応ずる新しい社会秩序の基盤として意味付ける。
*
・パリ、証券取引所、再開。
*
・アルジェリア、フランス住民の民主的部分の代表者達、「もっとも断固としてパリ・コミューンに参加する」と声明。
*
・マルセイユに到着したパリの国民軍中央委員会代表団の発意に基づき、反革命勢力を攻撃開始。
*
・サン・テティエンヌ。政府軍、市役所占拠。コミューン崩壊。
*
・ルアン。ドイツ政府代表とティエール政府全権と協定締結。
ティエール政府がヴェルサイユおよびセイヌ・エ・オアズ県における軍隊増強(4⇒8万)、臨時に、国民議会によって樹立された政府の権力と秩序とが、パリに完全に回復されるまでの間許可する。
ヴェルサイユ軍補充の為、ドイツからフランス軍捕虜の送還再開。
*
・ロンドン。インタナショナル総評議会、マルクス、評議会員セライエがパリ支部連合評議会の手紙の件でパリに派遣された、総評議会代表団が22日のウェリントン・ミュージック・ホールの集会に出席し、「パリの労働者たちの現在の闘争にたいする共感」の決議が、満場一致で採択されたことを報告。
*
・ブリュッセル、平和条約締結について、フランスとドイツの交渉開始。ドイツ代表団は、フランスの国内情勢を利用して、暫定平和条約の条件改悪を目論む。
*
・モスクワ、チャイコフスキー「弦楽四重奏曲第1番第2楽章(アンダンテ・カンタービレ)」初演。
*
3月29日
・仏、パリ・コミューン最初の評議会。議長は最年長のベレー。若干の決議。議会の非公開(これは抗議を呼び、議会と、人民、衛兵大隊、地区、地区集会、クラブなどとの連帯が弱まる)、毎週、執行部を選挙すること(最初の選挙では、議長ルフランセ、書記リゴーとフェレ、補佐ベルジュレとデュヴァル。その結果、指導的役割はプランキ派とブルードン派が分け合うことになる)、コミューンが行なう公共事業を定める布告、など。
*
・パリ・コミューン評議会において、アシは中央委員会の名において、同委員会が保有する権限をコミューンに譲渡する(中央委員会は消滅するのではなく、組織を残したままで、国民衛兵を指揮する事を望む)。ウードが、選出された議会を公式に「パリ・コミューン」と呼ぶ提案、可決。
*
・パリ・コミューン評議会、旧各省に対応する9委員会に分割。財政・軍事・労働・教育・保安など。
*
①軍事委員会。国民軍の訓練・武装、被服、軍に関する法令起草、保安委員会との協力によるコミューン防衛強化を任務とする。既にコミューン成立に重大な成果を収めている国民軍連盟中央委員会との権限分担という複雑な問題を抱える。中央委員会は任務完了宣言したものの、ヴェルサイユとの軍事的緊張の高まりの中で、なお存続する。
パンディ、ウード、ベルジュレ、デュヴァル、シャルトン、フルーランス、ランヴィエが委員。⇒改造後ドゥレクリューズ、トリドン、アヴリアル、ランヴィエ、アルノルド。
*
②保安委員会。警察、公安を任務とし、委員はリゴー、フェレ、アシー、クールネ、ウーデ、シャレン、ジェラルダン。⇒改造後クールネ、ヴェルモレル、フェレ、上フンケ、A・デュポン。
*
③司法委員会。裁判を民主的社会制度にする任務をもち、司法諸制度・諸手続きを法令によって規則化する段階ま進める必要がある。この委員会は「臨時」の性格を帯び、実際に司法権に関しては、コミューンがとった法的な処置が、全体として司法権であるという事態が起こる。
委員はプロト、ランク、メイエ、ヴェルモレル、ルドロワ、バビック。⇒改造後ガンボン、ドゥリュール、クレマンス、ランジュヴァン、デュラン。
*
④財務委員会。パリ市の予算監査、家賃問題、支払期日問題、フランス銀行、予めコミューンによって許され査証された資金の各委員会への分配等に責任をもつ。
委員はジュールド、ヴァルラン、Ⅴ・クレマン、レジュール、ペスレー。⇒改造後べスレ、ピリオレ、Ⅴ・クレマン、ルフランセ、F・ピア。
*
⑤糧食委員会。首都の糧食の調達、新立法を待つ間の入市税取りたて。
委員はドゥルール、シャンピー、オスタン、J・B・クレマン、パリゼル、E・クレマン、H・フォルテュネ。⇒改造後ヴァルラン、パリゼル、E・クレマン、Art・アルヌー、シャンピー。
*
⑥労働・工業・交易委員会。コミューンの公益事業、労働者と雇用主との関係、商法改正、職業教育等の問題を扱う。労働とサラリーを均衡させる手段を探りながら、国家的産業を発達させ、パリを生産の一大中心地にする義務がある。さらに社会主義的理論の普及につとめながら社会革命の道を開拓する重大な任務を負う。委員には連邦主義者が多い。
マロン、フランケル、ティズ、デュポン、アヴリアル、ロワゾー・パンソン、ジェラルダン、ピユジェ。⇒改造後ティズ、マロン、セライリエ、ロンゲ、シャレン。
*
○「労働および交換委員会」(委員長レオ・フランケル)の任務:
「コミューンの社会事業ならびに男女労働者の労働事情に関連して実行すべき諸種の方策を研究し、商業取引規則、関税率等を再検討し、諸種の直接税および間接税を改正し、労働および交換の統計的研究を行なう」。この委員会の発起に基づき公布された労働立法の例。罰金その他の名目により、労賃より控除を行なうことを禁じる、コミューンの請負事業における労働者の最低賃銀を定める、入札は労働者の生産協同組合に優先権を認める、パン焼労働者の夜業を禁止。
*
⑦公共事業委員会。市行政の監督し、郵便、電報、道路行政、鉄道、福祉の責任を負う。
委員はビリオレ、マルトゥレ、モルティエ、ラストゥール。⇒改造後オスタン・ヴェジニエ、ラストゥール、Ant・アルノー、ポティエ。
*
⑧教育委員会。教育改革に関わり、教育を無料化・義務化、宗教から切り離し、リセにおける奨学金付与を容易化、労働者階級の子弟に高等教育への道を開く等の問題の検討。
委員は教育関係者が多く、ヴァイアンを中心に、ヴァレス、グーピル、ルフェーヴル、ウルベン、A・ルロワ、ヴェルデュル、ドウメ、ロシネ、ミオ。⇒改造後クールベ、ヴェルデュール、ミオ、ヴァレス、J・B・クレマン。
*
⑨渉外関係委員会。対外関係を扱う。特にフランス各地のコミューンとの連盟を目指し、またプロシアなどの外国とも友好関係を結ぶ活動。
委員はP・グルーセ、ランク、ドゥレクリューズ、U・パラン、Art・アルヌー、Ant・アルノー、Ch・ジェラルダン。⇒改造後メイエ、Ch・ジェラルダン、アムールー、ジョアナール、ウルベン。
*
・パリ・コミューン評議会、執行委員会設置。コミューンの布告や他委員会の決定を執行させる任務。様々な対立の為4月20日に改選。
メンバは、ウード、トリドン、ヴァイアン、ルフランセ、デュヴァル、F・ピア、ベルジュレ、リゴー、モルティエ、パラン、バンディが選出されるが、様々な対立により、4月20日に改組。
*
・コミューンの最初の呼び掛け。
コミューンの任務とその最初の諸法令(徴兵を廃止し常備軍を武装人民に変えること、家賃支払延期について、質入れ品物の売却停止について、ヴェルサイユ政府の命令・指示の無効宣言など)について。
*
徴兵・旧軍隊廃止。1866年、第1インタナショナルのジュネーヴ大会で提起された民主的変革綱領の最重要項目。軍隊は、人民から遊離し、勤労者の利益に反対、支配階級の特権を擁護し、革命的行動を弾圧し、略奪戦争を遂行する為に利用される。コミューンは反人民的な常備軍を廃止し、それを全人民の武装(勤労者からなる国民軍)によって取り替える。
*
貧民は、質物の無償受け出しを要求。財政委員ジュールドは財政への影響大のため反対。5月6日応急措置。
*
「現存する唯一の権力であるパリ・コミューンは、以下のごとく布告する。
一、種々の公務の従業員は以後、ヴェルサイユあるいはその同調者から発せられる命令および通達を無効とみなすこと。
二、この政令に従わない官吏あるいは従業員は直ちに解雇されるであろう。
コミューンを代表して 議長 ルフランセ。 補佐 ラン、ヴァイヤン。」
*
貼り出された宣言。
「諸君が後を追おうとさえしなかった犯罪者どもが、今日、諸君の寛大さを悪用して、市の城門附近に王政的陰謀の策源地を組織しようとしている。彼らは内戦を起そうとしている。彼らはあらゆる買収運動を行なっている。彼らはあらゆる共犯者と手をにざる。彼らは外国の援助さえあえて哀願するほどである。われわれはこの憎むべき策謀を、フランスと世界の審判に訴える・・・」
*
・チラールとコミューンの数人の議員(グルーセ、ジュールド、リゴー)との間に激しい対立。チラールは議場を去り数日後に辞職。
*
・国民軍、5つの保険会社の店舗を占拠、これら会社の帳簿・金庫を封印。
*
・政治的展望の薄明りの中を出来るだけ遠く見通そうとするロンゲの論説(「官報」29日付)。
*
「コミューンの権限。
われわれがこの文章を書いているこの時に、中央委員会は、事実上は別として法律上はその地位をコミューンに譲っているだろう。
中央委員会は、必要に迫られて付託された異状な委託をなし遂げたので、みずからその特殊な任務に立ち帰えるだろう。その任務こそ中央委員会の存在理由であり、それが権力によって暴力的に否認されたので、都市の武装した代表として都市と共に戦って勝利をおさめるか、または滅びることをよぎなくされた。
政府の専横に対して正当かつ合法的に蜂起した市政の自由の表現である中央委員会の唯一の使命は、委員会がかちとった根源的な権利が奪い取られるのを万難を排して防ぐことであった。投票の翌日に、中央委員会はその義務を完了したということができる。
選出されたコミューンについていえば、・・・何よりもまずその委託の性格を決定し、その権限を定めなければならないであろう。フランスのために国民議会にあたえられる、かくも広範で、かくも錯綜した憲法制定の権力を、コミューンは自分自身のために、すなわちコミューンはその表現にすぎない都市のために行使しなければならないであろう。
さらに、われわれの選出議員の最初の仕事は、彼らの憲章、かつて中世のわれわれの祖先たちが彼らのコミューンと呼んだあの証書の、討議と起草になるであろう。この仕事がおわれば、市の自治についての法令を、それがいかなるものであるにせよ、中央権力に承認させ保証させる手段を考えなければならないであろう。・・・
権力の侵害に対しては、パリ・コミューンは、自ら侵害をもって応えるには及ばないであろう。フランスのすでに解放された他のコミューンと連合して、パリ・コミューンはその名において、またリヨンやマルセーユの、そしてやがてはおそらく十大都市の名において、それらコミューンを国家に結びつけるべき契約条項を検討し、それらのコミューンが署名に応じる最終的な協定を作成しなければならないであろう。
この最終的な協定はどのようなものになるだろうか。第一に・・・自治、すなわち回復された市町村の主権の保証が含まれねばならないだろう。
第二に、それはコミューンと国家的統一体の代表者たちとの自由な交流関係を確立しなければならない。
最後に、それは議会に対し・・・将来において都市の代表が農村の代表のなかに吸収され、溺れてしまうようなことが二度とおこらない・・・ような選挙法の発布を強制しなければならないだろう。」
*
・インタナショナルパリ支部連合評議会、コミューンとの連絡委員会の選出。インタナショナル定期大会の5月15日パリ開催を決定。
*
・マルセイユ。国民軍集会、パリの模範にならい、国民軍連盟結成を決定。
*
・ヴェルサイユ。ティエール、オルレアン派副提督ゲイドン伯爵をアルジェリアの総督に任命。
*
・ブタペシュト。ルーマニア人の新聞「アルピナ」、パリで「革命家たちが、その敵どもにたいして、民主主義と共和制を強化確保する目的をたてている」という報道を掲載。
to be continued
・仏、グレーヴ広場、国民軍中央委員会、コミューン成立宣言。
選挙結果とコミューン議員選出についての発表。
市庁舎で最初のコミューン会議、司会は最長老議員シャルル・ベレー。
国民軍とその中央委員会の、祖国及び共和国に対する功績についての決定採択。
国民軍中央委員会、コミューンへの権力移諸についてパリ住民へアピール。
*
市庁舎の正面入口には女神「共和国」の胸像が、赤いスカーフを首に巻き赤い旗にとり囲まれている。市庁舎の屋根にも赤旗が翻り、グレーヴ広場の台の側にも赤旗・三色旗がぎっしりと立っている。台の前に着剣をした国民軍兵士が整列し、「ラ・マルセイエーズ」「出陣の歌」が起こる。祝砲が響き、大革命のときの流行帽フリージア帽が波を打つ。やがて中央委員会委員や選出されたコミューン議員が壇上に登り、中央委員会代表ランヴィエが、コミューン成立を宣言。
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社説「祭り」(「人民の叫び」30日付)。
「コミューンが宜言された。
コミューンは、勝ち誇り、最高の権威をもち、武器を手にして、投票箱から誕生した。パリの人民に選ばれた議員たちが市庁舎の古い建物に入っていった。この建物はサンテールの太鼓と一月二二日の銃声を聞いたのだ。市庁舎前の広場には国家の名誉とパリの尊厳のために犠牲となった人々が流した血が、この祭りの日に勝ちほこって進む大隊の足下に舞い上る埃で消されたばかりである。・・・
コミューンは革命的で愛国的な平和で陽気な、祭りの一日に宣言される。・・・それは九二年の人々が眺めた日々に価する日であり、また帝政の二〇年と敗北と裏切りの六ヵ月を慰める。・・・
武器を手に立ちあがったパリの人民は、このコミューンを歓呼して迎えた。コミューンは、パリの人民を開城の屈辱とプロシアの勝利という侮辱から救い出した。コミューンはかつてパリを勝利に導いたごとく、やがてパリに自由をあたえるだろう。・・・
コミューンが宣言された。
今日は思想と共和国の結婚の祭典だ。
明日は、市民兵諸君、昨夜歓呼で迎えられて結婚したコミューンに子供を生ませるため、常に誇らかに、自由を保持しつつ、仕事場や、帳場にある諸君の持場に帰らなければならない。
勝利の詩の後には、労働の散文がやってくる。」
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中央委員会の声明。
「本日、われわれは、最も雄大な人民集会をもつことができた、われわれの眼をこのように見はらせ、われわれの心をこのように感動させたものはない。
パリはその革命に挨拶と歓呼を送った。パリは歴史に新しい頁を開き、その力強い名前を書きこんだ。
・・・二十万の自由人がその自由を宣言し、新制度を布告した。われわれの周囲を徘徊しているヴェルサイユのスパイどもは、帰ってその主人に報告するがいい、祖国のために死ぬことを誓いつつその主権を取戻した人民の偉大なる姿を。
・・・帝政の前に二十年間無力だったフランスは、自由と勤勉とによって過去の専制と無力からよみがえらなければならぬ。本日選ばれた人々は全力をあげて諸君の自由を保証し、これを永久的なものたらしめるであろう。
・・・信頼をもって諸君のコミューンの周囲に結集せよ、なさねばならぬ改革に協力することによって、その事業を容易ならしめよ、そのときこそ諸君は、確実に次の目標である世界共和国の理想に達することができよう。」。偉大な勝利の日、偉大な幻想の日。
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コミューン内部でも「パリ・コミューン」について3つの解釈が共存。
①コミューンは、市政の独立・自由の表現であるという考えで、政府・議会の介入を拒み自治性を確立するという点で、パリ・ブルジョワの長年の夢の実現。
②コミューンを1792、93年の革命的独裁の継続として捉える理解で、プランキストやジャコバン派が抱くコミューンの理想像。
③インターナショナルの連邦主義者たちの考えで、コミューンを労働者階級の渇望に応ずる新しい社会秩序の基盤として意味付ける。
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・パリ、証券取引所、再開。
*
・アルジェリア、フランス住民の民主的部分の代表者達、「もっとも断固としてパリ・コミューンに参加する」と声明。
*
・マルセイユに到着したパリの国民軍中央委員会代表団の発意に基づき、反革命勢力を攻撃開始。
*
・サン・テティエンヌ。政府軍、市役所占拠。コミューン崩壊。
*
・ルアン。ドイツ政府代表とティエール政府全権と協定締結。
ティエール政府がヴェルサイユおよびセイヌ・エ・オアズ県における軍隊増強(4⇒8万)、臨時に、国民議会によって樹立された政府の権力と秩序とが、パリに完全に回復されるまでの間許可する。
ヴェルサイユ軍補充の為、ドイツからフランス軍捕虜の送還再開。
*
・ロンドン。インタナショナル総評議会、マルクス、評議会員セライエがパリ支部連合評議会の手紙の件でパリに派遣された、総評議会代表団が22日のウェリントン・ミュージック・ホールの集会に出席し、「パリの労働者たちの現在の闘争にたいする共感」の決議が、満場一致で採択されたことを報告。
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・ブリュッセル、平和条約締結について、フランスとドイツの交渉開始。ドイツ代表団は、フランスの国内情勢を利用して、暫定平和条約の条件改悪を目論む。
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・モスクワ、チャイコフスキー「弦楽四重奏曲第1番第2楽章(アンダンテ・カンタービレ)」初演。
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3月29日
・仏、パリ・コミューン最初の評議会。議長は最年長のベレー。若干の決議。議会の非公開(これは抗議を呼び、議会と、人民、衛兵大隊、地区、地区集会、クラブなどとの連帯が弱まる)、毎週、執行部を選挙すること(最初の選挙では、議長ルフランセ、書記リゴーとフェレ、補佐ベルジュレとデュヴァル。その結果、指導的役割はプランキ派とブルードン派が分け合うことになる)、コミューンが行なう公共事業を定める布告、など。
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・パリ・コミューン評議会において、アシは中央委員会の名において、同委員会が保有する権限をコミューンに譲渡する(中央委員会は消滅するのではなく、組織を残したままで、国民衛兵を指揮する事を望む)。ウードが、選出された議会を公式に「パリ・コミューン」と呼ぶ提案、可決。
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・パリ・コミューン評議会、旧各省に対応する9委員会に分割。財政・軍事・労働・教育・保安など。
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①軍事委員会。国民軍の訓練・武装、被服、軍に関する法令起草、保安委員会との協力によるコミューン防衛強化を任務とする。既にコミューン成立に重大な成果を収めている国民軍連盟中央委員会との権限分担という複雑な問題を抱える。中央委員会は任務完了宣言したものの、ヴェルサイユとの軍事的緊張の高まりの中で、なお存続する。
パンディ、ウード、ベルジュレ、デュヴァル、シャルトン、フルーランス、ランヴィエが委員。⇒改造後ドゥレクリューズ、トリドン、アヴリアル、ランヴィエ、アルノルド。
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②保安委員会。警察、公安を任務とし、委員はリゴー、フェレ、アシー、クールネ、ウーデ、シャレン、ジェラルダン。⇒改造後クールネ、ヴェルモレル、フェレ、上フンケ、A・デュポン。
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③司法委員会。裁判を民主的社会制度にする任務をもち、司法諸制度・諸手続きを法令によって規則化する段階ま進める必要がある。この委員会は「臨時」の性格を帯び、実際に司法権に関しては、コミューンがとった法的な処置が、全体として司法権であるという事態が起こる。
委員はプロト、ランク、メイエ、ヴェルモレル、ルドロワ、バビック。⇒改造後ガンボン、ドゥリュール、クレマンス、ランジュヴァン、デュラン。
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④財務委員会。パリ市の予算監査、家賃問題、支払期日問題、フランス銀行、予めコミューンによって許され査証された資金の各委員会への分配等に責任をもつ。
委員はジュールド、ヴァルラン、Ⅴ・クレマン、レジュール、ペスレー。⇒改造後べスレ、ピリオレ、Ⅴ・クレマン、ルフランセ、F・ピア。
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⑤糧食委員会。首都の糧食の調達、新立法を待つ間の入市税取りたて。
委員はドゥルール、シャンピー、オスタン、J・B・クレマン、パリゼル、E・クレマン、H・フォルテュネ。⇒改造後ヴァルラン、パリゼル、E・クレマン、Art・アルヌー、シャンピー。
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⑥労働・工業・交易委員会。コミューンの公益事業、労働者と雇用主との関係、商法改正、職業教育等の問題を扱う。労働とサラリーを均衡させる手段を探りながら、国家的産業を発達させ、パリを生産の一大中心地にする義務がある。さらに社会主義的理論の普及につとめながら社会革命の道を開拓する重大な任務を負う。委員には連邦主義者が多い。
マロン、フランケル、ティズ、デュポン、アヴリアル、ロワゾー・パンソン、ジェラルダン、ピユジェ。⇒改造後ティズ、マロン、セライリエ、ロンゲ、シャレン。
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○「労働および交換委員会」(委員長レオ・フランケル)の任務:
「コミューンの社会事業ならびに男女労働者の労働事情に関連して実行すべき諸種の方策を研究し、商業取引規則、関税率等を再検討し、諸種の直接税および間接税を改正し、労働および交換の統計的研究を行なう」。この委員会の発起に基づき公布された労働立法の例。罰金その他の名目により、労賃より控除を行なうことを禁じる、コミューンの請負事業における労働者の最低賃銀を定める、入札は労働者の生産協同組合に優先権を認める、パン焼労働者の夜業を禁止。
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⑦公共事業委員会。市行政の監督し、郵便、電報、道路行政、鉄道、福祉の責任を負う。
委員はビリオレ、マルトゥレ、モルティエ、ラストゥール。⇒改造後オスタン・ヴェジニエ、ラストゥール、Ant・アルノー、ポティエ。
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⑧教育委員会。教育改革に関わり、教育を無料化・義務化、宗教から切り離し、リセにおける奨学金付与を容易化、労働者階級の子弟に高等教育への道を開く等の問題の検討。
委員は教育関係者が多く、ヴァイアンを中心に、ヴァレス、グーピル、ルフェーヴル、ウルベン、A・ルロワ、ヴェルデュル、ドウメ、ロシネ、ミオ。⇒改造後クールベ、ヴェルデュール、ミオ、ヴァレス、J・B・クレマン。
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⑨渉外関係委員会。対外関係を扱う。特にフランス各地のコミューンとの連盟を目指し、またプロシアなどの外国とも友好関係を結ぶ活動。
委員はP・グルーセ、ランク、ドゥレクリューズ、U・パラン、Art・アルヌー、Ant・アルノー、Ch・ジェラルダン。⇒改造後メイエ、Ch・ジェラルダン、アムールー、ジョアナール、ウルベン。
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・パリ・コミューン評議会、執行委員会設置。コミューンの布告や他委員会の決定を執行させる任務。様々な対立の為4月20日に改選。
メンバは、ウード、トリドン、ヴァイアン、ルフランセ、デュヴァル、F・ピア、ベルジュレ、リゴー、モルティエ、パラン、バンディが選出されるが、様々な対立により、4月20日に改組。
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・コミューンの最初の呼び掛け。
コミューンの任務とその最初の諸法令(徴兵を廃止し常備軍を武装人民に変えること、家賃支払延期について、質入れ品物の売却停止について、ヴェルサイユ政府の命令・指示の無効宣言など)について。
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徴兵・旧軍隊廃止。1866年、第1インタナショナルのジュネーヴ大会で提起された民主的変革綱領の最重要項目。軍隊は、人民から遊離し、勤労者の利益に反対、支配階級の特権を擁護し、革命的行動を弾圧し、略奪戦争を遂行する為に利用される。コミューンは反人民的な常備軍を廃止し、それを全人民の武装(勤労者からなる国民軍)によって取り替える。
*
貧民は、質物の無償受け出しを要求。財政委員ジュールドは財政への影響大のため反対。5月6日応急措置。
*
「現存する唯一の権力であるパリ・コミューンは、以下のごとく布告する。
一、種々の公務の従業員は以後、ヴェルサイユあるいはその同調者から発せられる命令および通達を無効とみなすこと。
二、この政令に従わない官吏あるいは従業員は直ちに解雇されるであろう。
コミューンを代表して 議長 ルフランセ。 補佐 ラン、ヴァイヤン。」
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貼り出された宣言。
「諸君が後を追おうとさえしなかった犯罪者どもが、今日、諸君の寛大さを悪用して、市の城門附近に王政的陰謀の策源地を組織しようとしている。彼らは内戦を起そうとしている。彼らはあらゆる買収運動を行なっている。彼らはあらゆる共犯者と手をにざる。彼らは外国の援助さえあえて哀願するほどである。われわれはこの憎むべき策謀を、フランスと世界の審判に訴える・・・」
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・チラールとコミューンの数人の議員(グルーセ、ジュールド、リゴー)との間に激しい対立。チラールは議場を去り数日後に辞職。
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・国民軍、5つの保険会社の店舗を占拠、これら会社の帳簿・金庫を封印。
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・政治的展望の薄明りの中を出来るだけ遠く見通そうとするロンゲの論説(「官報」29日付)。
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「コミューンの権限。
われわれがこの文章を書いているこの時に、中央委員会は、事実上は別として法律上はその地位をコミューンに譲っているだろう。
中央委員会は、必要に迫られて付託された異状な委託をなし遂げたので、みずからその特殊な任務に立ち帰えるだろう。その任務こそ中央委員会の存在理由であり、それが権力によって暴力的に否認されたので、都市の武装した代表として都市と共に戦って勝利をおさめるか、または滅びることをよぎなくされた。
政府の専横に対して正当かつ合法的に蜂起した市政の自由の表現である中央委員会の唯一の使命は、委員会がかちとった根源的な権利が奪い取られるのを万難を排して防ぐことであった。投票の翌日に、中央委員会はその義務を完了したということができる。
選出されたコミューンについていえば、・・・何よりもまずその委託の性格を決定し、その権限を定めなければならないであろう。フランスのために国民議会にあたえられる、かくも広範で、かくも錯綜した憲法制定の権力を、コミューンは自分自身のために、すなわちコミューンはその表現にすぎない都市のために行使しなければならないであろう。
さらに、われわれの選出議員の最初の仕事は、彼らの憲章、かつて中世のわれわれの祖先たちが彼らのコミューンと呼んだあの証書の、討議と起草になるであろう。この仕事がおわれば、市の自治についての法令を、それがいかなるものであるにせよ、中央権力に承認させ保証させる手段を考えなければならないであろう。・・・
権力の侵害に対しては、パリ・コミューンは、自ら侵害をもって応えるには及ばないであろう。フランスのすでに解放された他のコミューンと連合して、パリ・コミューンはその名において、またリヨンやマルセーユの、そしてやがてはおそらく十大都市の名において、それらコミューンを国家に結びつけるべき契約条項を検討し、それらのコミューンが署名に応じる最終的な協定を作成しなければならないであろう。
この最終的な協定はどのようなものになるだろうか。第一に・・・自治、すなわち回復された市町村の主権の保証が含まれねばならないだろう。
第二に、それはコミューンと国家的統一体の代表者たちとの自由な交流関係を確立しなければならない。
最後に、それは議会に対し・・・将来において都市の代表が農村の代表のなかに吸収され、溺れてしまうようなことが二度とおこらない・・・ような選挙法の発布を強制しなければならないだろう。」
*
・インタナショナルパリ支部連合評議会、コミューンとの連絡委員会の選出。インタナショナル定期大会の5月15日パリ開催を決定。
*
・マルセイユ。国民軍集会、パリの模範にならい、国民軍連盟結成を決定。
*
・ヴェルサイユ。ティエール、オルレアン派副提督ゲイドン伯爵をアルジェリアの総督に任命。
*
・ブタペシュト。ルーマニア人の新聞「アルピナ」、パリで「革命家たちが、その敵どもにたいして、民主主義と共和制を強化確保する目的をたてている」という報道を掲載。
to be continued
2009年1月28日水曜日
1871年3月26日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・(7) パリコミューン評議会選挙
1871年3月26日
・仏、パリコミューン評議会選挙。
485,566中225,000投票(485,569中229,167という数値もある)、86評議員中労働者26、国民衛兵中央委員会は候補者推薦せず。ブランキ派9、インター派17、インター派に近い社会主義者11。穏健共和派15、急進共和派6。
*
ブルジョア地区でも、民衆地区より熱意に劣るが、多くの投票が行なわれる。
選挙は、ともかく「合法的」権力の代表者である区長の同意を得ており正規のものとされる。
ブルジョア地区ではパリ市議会を選出する為に投票し、民衆地区では、保守的国民議会・裏切者政府に対抗する共和国新政府を合法的なものにする為に投票する。
*
「人民の叫び」(27日付)が伝える26日午後11時のパリの表情。
「選挙各区の一般的表情(午後11時)
第一区:投票に対する熱意が少ない。現在の市当局者の名前のみが壁に張り出されている。・・・
第二区:サン=ドニ地区。選挙人が大勢集まっている。
第三区:棄権は少ない。ビラが多い。・・・
第四区:棄権は少ない。
第五区:投票者が多い。
第六区:投票者が多い。
第七区:熱意が少ない。
第八区:熱意が少ない。
第九区:ドルオー区役所に大勢の選挙人が集まっている。
第一〇区:投票に熱心である。・・・
第一一区:ダングレーム街に人出が多い。
第一二区:熱意が少ない。
第一三区:棄権は少ない。
第一四区:区役所に大勢集まる。
第一五区:区役所に大勢集まる。
第一六区:現在の市当局者に反対の候補者がいない。熱意が少ない。
第一七区:すべての小地区に選挙人が大勢集まっている。・・・
第一八区:プランキ。
第一九区:ウーデ。
第二〇区:プランキ、ベルジュレ、フルーランス、ランヴィエ。すべて平穏である。」
*
ブルジョワがこの選挙実施の中心的な存在。
*
候補者擁立分類
(1)ブルジョワ団体(妥協派と呼ばれ、ヴェルサイユにもコミューン側にも関係を持つ。分権主義をかざしコミューンの政治的プログラムにも十分対応する理由を持つ)。
①「パリの諸権利の共和合同同盟」:コミュ-ンの活動が続く期間ずっと指導的役割を果たす。
②「共和同盟」:唯一・分割不可能な共和国を目指す。
③「和解」:選挙候補者クレマンソー、ヴィクトル・コンシデラン、ジュール・クラルティ、ロシュフォールを送る。
④「ヨーロッパ均衡」。
*
(2)クラブ。
①「医学校クラブ」:候補者レヴィ、ロジュアール、ヴァルランなどを立てる。
②「パリ二十区委員会」:有名なマニフェストを出す。起源としてはプルードン主義に立脚するが、実際にはブランキスト、ジャコバン派、インターナショナル、中央委員会メンバーも擁す。ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルイリエ、ジュール・ヴァレスの他に88名の候補を全区に立て、殆どを当選させる。
③「インターナショナル・パリ地区連合委員会」。
④「労働者組合連合局」。
*
(3)戦闘的な新聞。
①ユージェーヌ・ヴェルメシュの「ペール・デュシェーヌ」:そのリストは全区のトップにプランキを挙げる。
*
派別分類
①保守派:
現職区長・助役、ロシャール、ティアール、ルフェーヴル、ルロワ、マルモンタなど約15名(議会開始後殆ど辞職)。
②プランキストとジャコバン主義者を含む超革命派:
モルティエ、プロト、ウード、フェレ、プランキストのトリドン、デュヴァルなど約20名。
③ジャコバン派:
ブリュネル、ドゥレクリューズ、フォルテュネ、C・デュポン、デカン、ガンボン、グルーセら約40名(ドゥレクリュース、フェリックス・ピアが指導的位置)。
④インターナショナル派:
アシー、アヴリアル、ベスレー、シャレン、クレマンス、クレマン、ドゥリュール、デュヴァル(ブランキスト)、フランケル、ジェラルダン、ランジュヴァン、ルフランセ、マロン、パンディ、ティズ、ヴァイアン、ヴァルランで約15名。
*
[選挙区別]
第1区(ルーヴル)アダム、ロシャール、メリーヌ、バレ。
第2区(プルス)プレレ、ティアール、シェロン、ロワゾー。
第3区(タンブル)ドゥメ、アルノー、パンディ、ミュラ、デュポン。
第4区(市庁舎)ルフランセ、アルテュール・アルノー、クレマンス、アムールー、ジェラルダン。
第5区(パンテオン)ジュールド、レジェール、トリドン、プランシェ、ルドロワ。
第6区(リュクサンプール)ルロワ、グーピル、ロピネ、ペスレー、ヴァルラン。
第7区(パレ・プールボン)パリゼル、ルフェーヴル、ウルベン、プリュネル。
第8区(エリゼ)ラウル・リゴー、ヴァイアン、アルテュール・アルヌー、アリックス。
第9区(オペラ)ランク、U・パラン、デマレ、E・フェリー、ナスト。
第10区(アンクロ・サン・ローラン)フェリックス・ピア、アンリ・フォルテュネ、ガンボン、シャンピー、バピック、ラストゥール。
第11区(ポバンクール)アシー、アヴリアル、ドゥレクリューズ、モルティエ、ウード、プロト、ヴェルデュール。
第12区(ルイイ)ヴァルラン、フリュノー、ジュレーム、ティズ。
第13区(ゴグラン)レオ・メイエ、デュヴァル、シャルドン、フランケル。
第14区(オヴセルヴァトワール)ピリオレ、マルトゥレ、デカン。
第15区(ヴォージラール)クレマン、J・ヴァレス、ランジュヴァン。
第16区(パシー)マルモンタン、ド・プーティエ。
第17区(バティニョル・モンソー)ヴァルラン、クレマン、ジェテルダン、シャレン、マロン。
第18区(ビュット・モンマルトル)プランキ、ニース、ドゥリュール、クレマン、フェレ、ヴェルモレル、P・グルーセ。
第19区(ビュット・ショーモン)ウーデ、ビュジェ、ドゥレクリューズ、オスタン、J・ミオ。
第20区(メニルモンタン)ランヴィエ、ベルジュレ、フルーランス、プランキ。
*
ブルジョア的各区で選ばれた20人以上の大中ブルジョアジーは、革命家や社会主義者が優勢の議会への参加を拒否しコミューンを離れる(3月末と4月初)。4月16日補欠選挙で、新議員16人が選ばれる(うち6人が労働者)。大中ブルジョアジーが辞任した後、コミューンは、プロレタリア革命家と小ブルジョア民主主義者のブロックになる。
*
中央委員会は大部分の地区で多数の候補者を立てるが議員12名を得たのみ。ベルジュレ、ランヴィエ、ビリオレー、フォルチュネ、バピック、ウード、ジュールド、プランシェ、プリュネル、デュポン、モルチエ、ジョルジュ・アルノー。
*
労働者階級の定義を職人・小工業にまで拡大すれば、コミューン議員25名が労働者階級と関係がある。
*
有名な知識人代表:
画家ギュスターヴ・クールベ、作家ジュール・ヴァレス、革命詩人ウジェーヌ・ポティエ、ジャン・パティスト・クレマン、医者・技師エドワール・ヴァイヤン、歴史家・評論家オーギュスト・ヴェルモレルとギュスターヴ・トリドン、人類学者ギュスターヴ・フルーランスなど。
*
コミューン内革命的諸党派間の不一致。
政治の優位を主張するジャコバン派およびプランキ派の潮流と、経済の優位を主張するブルードン的自由連合派の潮流が対立。前者は多数派を形成し、後者は少数派となる。
*
・ル・クルーゾ、「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士の閲兵式。政府軍との衝突。コミューン宣言。~28日。
運動の先頭に立つのは、市長の労働者デュメ。23日、3千人の集会がヴェルサイユ政府不信任を表明し、「あらゆる誠実なフランス人が、コミューンの独立をめざしているパリを支持するように」呼び掛け。27日、赤旗を掲げて行進する労働者デモ隊が、市役所を占領した政府軍に追い払われる。
*
・アルジュリア。国民軍兵士、知事に対し、自治体支配を国民軍に移譲せよと要求。知事は拒絶。知事退職と国民軍再編を要求する集会。フランス軍諸部隊、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を封鎖。
*
26日付けコミューン「官報」、
「市民諸君、アルジェリアの代表者たちは、彼らを選んだ人々の名において、パリ・コミューンに対する絶対的な同意を表明している。全アルジェリアがコミューンの自由を要求する。軍隊と行政機関という二重の中央集権によって四〇年にわたって圧迫されてきた植民地は、久しい以前から、コミューンの完全な確立が植民地の自由と繁栄を実現する唯一の方法であることを理解してきた・・・」との声明発表。
*
・ベルリン(ラサール派の牙城)。全ドイツ労働者同盟べルリン組織の集会(1千人参加)は、パリその他の大都市の社会革命を、「健康な勤労人民の、退廃的ブルジョアジーにたいする」蜂起として歓迎し、「・・・この革命の勝利によって、ヨーロッパに自由、平等、友愛、平和の樹立を」期待すると声明。
*
3月27日
・仏、26~27日の夜半、国民軍中央委員会、1849年選拳法を遵守すると決定。これによると、選挙民の1/8の賛成投票があれば、コミューン議員選出に十分。コミューン選挙の票数の審査。
*
・この日付け「人民の叫び」に発表された全20区共和主義中央委員会の宣言、コミューンの一般的理念を明らかにしようと努める。
*
「全二〇区中央委員会の宣言 パリは、三月一八日の革命によって、国民衛兵の自発的で勇気ある努力によって、パリの自治、すなわちパリの警察力、治安および財政を組織する権利をとり戻した・・・。
われわれが平和的に達成しようと努めている革命とコミューンの思想の勝利を確かなものにするために、その一般的原理を定め、諸君の代理人が実現し擁護すべきプログラムを明文化することが重要である。
家族が社会の萌芽であるように、コミューンはすべての政体の基礎である。
コミューンは自立的(オートノーム)でなければならない。すなわち、それ独自の能力、伝統、欲求に従って自己を統治し自己を管理し、都市における個人のごとく、政治的、国民的、連合的な集団にあって自己の全面的な自由、個性、完全な主権を保持する法人として存在しなければならない。
最も広範な経済的発展、独立、国民的・地域的安全を確保するために、コミューンは国家を構成する他のコミューンの全部あるいはコミューンの連合体と結びつくこと、すなわち連合することができるし、またそうしなければならない。それを決めるものとして、コミューンは人種と言語の類似、地理的状況、主権と相互関係と利害の共通性をもっている。
コミューンの自立性は、市民に自由を、都市に秩序を保証し、全コミューンの連合は、それぞれのコミューンが全コミューンのカを利用することによって、相互に、それぞれのカ、富、販路、資源などを増大させる。
これこそ一二世紀いらい追求され、道徳、法健、科学によって確認され、ようやく一八七一年三月一八日に勝利をおさめたコミューンの思想である。
この思想は、政治力としては、自由および人民主権と両立しうる唯一のものである共和政を内包する。
話すこと、書くこと、集会を開くこと、団結することの完全な自由。
個人の尊重と個人の思想の不可侵。
常に自己の管理者であり、たえず召集され、表明されることの可能な普通選挙の至上権。
すべての官吏と司法官に適用される選挙の原理。
代理人の貴任、およびその結果として、代理人を常に解任できること。
強制委任、すなわち代理人の権力と任務を明確に定め制限した上での委任。
バリに関しては、この委任は、以下のように規定されうる---
各地区の工業および商業の状況に応じた都市の区画のすみやかな再組織。
全有権者から成る国民衛兵の自立性、全指揮官および参謀本部の任命、三月一八日革命の勝利をもたらした中央委員会が代表する市民的・連合的組織の保持。
警視庁の廃止。コミューンの直接命令の下に置かれる国民衛兵が実施する都市の巡視。
パリについては、市民の自由にとって危険であり、社会経済にとって負担になる常備軍の廃止。
一般的な支出および公共事業の分担部分は別として、パリ市にその予算をすべて自由に処理することを許し、かつ納税者の負担額を法に従い公正に、受けとる便益に応じて割り当てる財政組織。
宗教、劇場、出版物を援助するあらゆる助成金の廃止。
包括的・職業的・非宗教的教育の普及。子供の信仰の自由、利害、諸権利と、家父の自由と諸権利との調整。
広範な調査を即時開始すること。それによって最近フランスを襲った災難において公人に課せられる責任を明らかにし、市の財政、商業、工業などの状態、市が自由にできる資本および諸力、市が使用できる資源を正確に知り、延滞金の支払と信用の再建に必要な、全体的で和解的な清算の資料を提供する。
失業や破産を含む、あらゆる社会的災亨に対するコミューンの保証制度の組織。
貸金制度や恐るべき貧困状態を永遠に解決するため、また流血を伴なう要求とその致命的な結果である内戦の再来を永遠に避けるために、資本、労働用具、販路、信用などを生産者に提供する最も適当な手段を絶えず、熱心に探求すること。
以上が、われわれがあたえる委託であり、また、市民諸君、諸君が選出する議員にあたえることを希望する委託の内容である・・・
全二〇区委員会代表、ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルーリ工、ジュール・ヴアレス」
*
・マルセイユのコミューン。ガストン・クレミューが運動の中心。自然消滅。
*
27日、群衆約1千の示威運動、県庁を包囲、知事・秘書オリヴィエ将軍を捕縛。ガストン・クレミューが、パリを守れ、パリ政府こそ唯一の正当な政府であると叫び、群衆の喝釆を博す。
クレミュー外5名をからなる委員会が組織され、市会および国民衛兵クラブから各3名の代表がこれに参加し、マルセイユの全権力を掌握。軍隊は撤退し、全市街が完全に民衆の手に帰すが、委員たちは、責任の重大さに恐怖し、それ以上の行動に出る勇気はなく、なかには姿を隠して出てこない者も。躊躇し動揺している間に、大衆の情熱は冷め、運動は自然消滅。
*
・トゥールーズ、政府軍、市役所・県庁を占拠。国民軍兵士は撤退。コミューン崩壊。
*
・ヴェルサイユ。国民議会はパリ・コミューン選挙を無効と宜言。
*
・早朝、ヴェルサイユ軍第109連隊とガリフェ将軍指揮下騎馬大隊、パリ南方のプティ・ビセートル、シャティオン、ソーの周辺をパトロール。意外にも連盟兵はなく、僅かな騎兵で保塁に入る。しかし、連盟軍夜襲を恐れ、ティエールがヴェルサイユに戻るよう命令。
*
・アルジェリア。蜂起アルジェリア人に、宗教団体「ラフマニイア会会員」(一種の秘密抵抗団体)も参加。フランスの植民者たちは、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を撤退。フランス軍はこの都市周辺のアルジェリア人村落を焼払う。
to be continued
・仏、パリコミューン評議会選挙。
485,566中225,000投票(485,569中229,167という数値もある)、86評議員中労働者26、国民衛兵中央委員会は候補者推薦せず。ブランキ派9、インター派17、インター派に近い社会主義者11。穏健共和派15、急進共和派6。
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ブルジョア地区でも、民衆地区より熱意に劣るが、多くの投票が行なわれる。
選挙は、ともかく「合法的」権力の代表者である区長の同意を得ており正規のものとされる。
ブルジョア地区ではパリ市議会を選出する為に投票し、民衆地区では、保守的国民議会・裏切者政府に対抗する共和国新政府を合法的なものにする為に投票する。
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「人民の叫び」(27日付)が伝える26日午後11時のパリの表情。
「選挙各区の一般的表情(午後11時)
第一区:投票に対する熱意が少ない。現在の市当局者の名前のみが壁に張り出されている。・・・
第二区:サン=ドニ地区。選挙人が大勢集まっている。
第三区:棄権は少ない。ビラが多い。・・・
第四区:棄権は少ない。
第五区:投票者が多い。
第六区:投票者が多い。
第七区:熱意が少ない。
第八区:熱意が少ない。
第九区:ドルオー区役所に大勢の選挙人が集まっている。
第一〇区:投票に熱心である。・・・
第一一区:ダングレーム街に人出が多い。
第一二区:熱意が少ない。
第一三区:棄権は少ない。
第一四区:区役所に大勢集まる。
第一五区:区役所に大勢集まる。
第一六区:現在の市当局者に反対の候補者がいない。熱意が少ない。
第一七区:すべての小地区に選挙人が大勢集まっている。・・・
第一八区:プランキ。
第一九区:ウーデ。
第二〇区:プランキ、ベルジュレ、フルーランス、ランヴィエ。すべて平穏である。」
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ブルジョワがこの選挙実施の中心的な存在。
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候補者擁立分類
(1)ブルジョワ団体(妥協派と呼ばれ、ヴェルサイユにもコミューン側にも関係を持つ。分権主義をかざしコミューンの政治的プログラムにも十分対応する理由を持つ)。
①「パリの諸権利の共和合同同盟」:コミュ-ンの活動が続く期間ずっと指導的役割を果たす。
②「共和同盟」:唯一・分割不可能な共和国を目指す。
③「和解」:選挙候補者クレマンソー、ヴィクトル・コンシデラン、ジュール・クラルティ、ロシュフォールを送る。
④「ヨーロッパ均衡」。
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(2)クラブ。
①「医学校クラブ」:候補者レヴィ、ロジュアール、ヴァルランなどを立てる。
②「パリ二十区委員会」:有名なマニフェストを出す。起源としてはプルードン主義に立脚するが、実際にはブランキスト、ジャコバン派、インターナショナル、中央委員会メンバーも擁す。ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルイリエ、ジュール・ヴァレスの他に88名の候補を全区に立て、殆どを当選させる。
③「インターナショナル・パリ地区連合委員会」。
④「労働者組合連合局」。
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(3)戦闘的な新聞。
①ユージェーヌ・ヴェルメシュの「ペール・デュシェーヌ」:そのリストは全区のトップにプランキを挙げる。
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派別分類
①保守派:
現職区長・助役、ロシャール、ティアール、ルフェーヴル、ルロワ、マルモンタなど約15名(議会開始後殆ど辞職)。
②プランキストとジャコバン主義者を含む超革命派:
モルティエ、プロト、ウード、フェレ、プランキストのトリドン、デュヴァルなど約20名。
③ジャコバン派:
ブリュネル、ドゥレクリューズ、フォルテュネ、C・デュポン、デカン、ガンボン、グルーセら約40名(ドゥレクリュース、フェリックス・ピアが指導的位置)。
④インターナショナル派:
アシー、アヴリアル、ベスレー、シャレン、クレマンス、クレマン、ドゥリュール、デュヴァル(ブランキスト)、フランケル、ジェラルダン、ランジュヴァン、ルフランセ、マロン、パンディ、ティズ、ヴァイアン、ヴァルランで約15名。
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[選挙区別]
第1区(ルーヴル)アダム、ロシャール、メリーヌ、バレ。
第2区(プルス)プレレ、ティアール、シェロン、ロワゾー。
第3区(タンブル)ドゥメ、アルノー、パンディ、ミュラ、デュポン。
第4区(市庁舎)ルフランセ、アルテュール・アルノー、クレマンス、アムールー、ジェラルダン。
第5区(パンテオン)ジュールド、レジェール、トリドン、プランシェ、ルドロワ。
第6区(リュクサンプール)ルロワ、グーピル、ロピネ、ペスレー、ヴァルラン。
第7区(パレ・プールボン)パリゼル、ルフェーヴル、ウルベン、プリュネル。
第8区(エリゼ)ラウル・リゴー、ヴァイアン、アルテュール・アルヌー、アリックス。
第9区(オペラ)ランク、U・パラン、デマレ、E・フェリー、ナスト。
第10区(アンクロ・サン・ローラン)フェリックス・ピア、アンリ・フォルテュネ、ガンボン、シャンピー、バピック、ラストゥール。
第11区(ポバンクール)アシー、アヴリアル、ドゥレクリューズ、モルティエ、ウード、プロト、ヴェルデュール。
第12区(ルイイ)ヴァルラン、フリュノー、ジュレーム、ティズ。
第13区(ゴグラン)レオ・メイエ、デュヴァル、シャルドン、フランケル。
第14区(オヴセルヴァトワール)ピリオレ、マルトゥレ、デカン。
第15区(ヴォージラール)クレマン、J・ヴァレス、ランジュヴァン。
第16区(パシー)マルモンタン、ド・プーティエ。
第17区(バティニョル・モンソー)ヴァルラン、クレマン、ジェテルダン、シャレン、マロン。
第18区(ビュット・モンマルトル)プランキ、ニース、ドゥリュール、クレマン、フェレ、ヴェルモレル、P・グルーセ。
第19区(ビュット・ショーモン)ウーデ、ビュジェ、ドゥレクリューズ、オスタン、J・ミオ。
第20区(メニルモンタン)ランヴィエ、ベルジュレ、フルーランス、プランキ。
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ブルジョア的各区で選ばれた20人以上の大中ブルジョアジーは、革命家や社会主義者が優勢の議会への参加を拒否しコミューンを離れる(3月末と4月初)。4月16日補欠選挙で、新議員16人が選ばれる(うち6人が労働者)。大中ブルジョアジーが辞任した後、コミューンは、プロレタリア革命家と小ブルジョア民主主義者のブロックになる。
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中央委員会は大部分の地区で多数の候補者を立てるが議員12名を得たのみ。ベルジュレ、ランヴィエ、ビリオレー、フォルチュネ、バピック、ウード、ジュールド、プランシェ、プリュネル、デュポン、モルチエ、ジョルジュ・アルノー。
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労働者階級の定義を職人・小工業にまで拡大すれば、コミューン議員25名が労働者階級と関係がある。
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有名な知識人代表:
画家ギュスターヴ・クールベ、作家ジュール・ヴァレス、革命詩人ウジェーヌ・ポティエ、ジャン・パティスト・クレマン、医者・技師エドワール・ヴァイヤン、歴史家・評論家オーギュスト・ヴェルモレルとギュスターヴ・トリドン、人類学者ギュスターヴ・フルーランスなど。
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コミューン内革命的諸党派間の不一致。
政治の優位を主張するジャコバン派およびプランキ派の潮流と、経済の優位を主張するブルードン的自由連合派の潮流が対立。前者は多数派を形成し、後者は少数派となる。
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・ル・クルーゾ、「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士の閲兵式。政府軍との衝突。コミューン宣言。~28日。
運動の先頭に立つのは、市長の労働者デュメ。23日、3千人の集会がヴェルサイユ政府不信任を表明し、「あらゆる誠実なフランス人が、コミューンの独立をめざしているパリを支持するように」呼び掛け。27日、赤旗を掲げて行進する労働者デモ隊が、市役所を占領した政府軍に追い払われる。
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・アルジュリア。国民軍兵士、知事に対し、自治体支配を国民軍に移譲せよと要求。知事は拒絶。知事退職と国民軍再編を要求する集会。フランス軍諸部隊、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を封鎖。
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26日付けコミューン「官報」、
「市民諸君、アルジェリアの代表者たちは、彼らを選んだ人々の名において、パリ・コミューンに対する絶対的な同意を表明している。全アルジェリアがコミューンの自由を要求する。軍隊と行政機関という二重の中央集権によって四〇年にわたって圧迫されてきた植民地は、久しい以前から、コミューンの完全な確立が植民地の自由と繁栄を実現する唯一の方法であることを理解してきた・・・」との声明発表。
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・ベルリン(ラサール派の牙城)。全ドイツ労働者同盟べルリン組織の集会(1千人参加)は、パリその他の大都市の社会革命を、「健康な勤労人民の、退廃的ブルジョアジーにたいする」蜂起として歓迎し、「・・・この革命の勝利によって、ヨーロッパに自由、平等、友愛、平和の樹立を」期待すると声明。
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3月27日
・仏、26~27日の夜半、国民軍中央委員会、1849年選拳法を遵守すると決定。これによると、選挙民の1/8の賛成投票があれば、コミューン議員選出に十分。コミューン選挙の票数の審査。
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・この日付け「人民の叫び」に発表された全20区共和主義中央委員会の宣言、コミューンの一般的理念を明らかにしようと努める。
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「全二〇区中央委員会の宣言 パリは、三月一八日の革命によって、国民衛兵の自発的で勇気ある努力によって、パリの自治、すなわちパリの警察力、治安および財政を組織する権利をとり戻した・・・。
われわれが平和的に達成しようと努めている革命とコミューンの思想の勝利を確かなものにするために、その一般的原理を定め、諸君の代理人が実現し擁護すべきプログラムを明文化することが重要である。
家族が社会の萌芽であるように、コミューンはすべての政体の基礎である。
コミューンは自立的(オートノーム)でなければならない。すなわち、それ独自の能力、伝統、欲求に従って自己を統治し自己を管理し、都市における個人のごとく、政治的、国民的、連合的な集団にあって自己の全面的な自由、個性、完全な主権を保持する法人として存在しなければならない。
最も広範な経済的発展、独立、国民的・地域的安全を確保するために、コミューンは国家を構成する他のコミューンの全部あるいはコミューンの連合体と結びつくこと、すなわち連合することができるし、またそうしなければならない。それを決めるものとして、コミューンは人種と言語の類似、地理的状況、主権と相互関係と利害の共通性をもっている。
コミューンの自立性は、市民に自由を、都市に秩序を保証し、全コミューンの連合は、それぞれのコミューンが全コミューンのカを利用することによって、相互に、それぞれのカ、富、販路、資源などを増大させる。
これこそ一二世紀いらい追求され、道徳、法健、科学によって確認され、ようやく一八七一年三月一八日に勝利をおさめたコミューンの思想である。
この思想は、政治力としては、自由および人民主権と両立しうる唯一のものである共和政を内包する。
話すこと、書くこと、集会を開くこと、団結することの完全な自由。
個人の尊重と個人の思想の不可侵。
常に自己の管理者であり、たえず召集され、表明されることの可能な普通選挙の至上権。
すべての官吏と司法官に適用される選挙の原理。
代理人の貴任、およびその結果として、代理人を常に解任できること。
強制委任、すなわち代理人の権力と任務を明確に定め制限した上での委任。
バリに関しては、この委任は、以下のように規定されうる---
各地区の工業および商業の状況に応じた都市の区画のすみやかな再組織。
全有権者から成る国民衛兵の自立性、全指揮官および参謀本部の任命、三月一八日革命の勝利をもたらした中央委員会が代表する市民的・連合的組織の保持。
警視庁の廃止。コミューンの直接命令の下に置かれる国民衛兵が実施する都市の巡視。
パリについては、市民の自由にとって危険であり、社会経済にとって負担になる常備軍の廃止。
一般的な支出および公共事業の分担部分は別として、パリ市にその予算をすべて自由に処理することを許し、かつ納税者の負担額を法に従い公正に、受けとる便益に応じて割り当てる財政組織。
宗教、劇場、出版物を援助するあらゆる助成金の廃止。
包括的・職業的・非宗教的教育の普及。子供の信仰の自由、利害、諸権利と、家父の自由と諸権利との調整。
広範な調査を即時開始すること。それによって最近フランスを襲った災難において公人に課せられる責任を明らかにし、市の財政、商業、工業などの状態、市が自由にできる資本および諸力、市が使用できる資源を正確に知り、延滞金の支払と信用の再建に必要な、全体的で和解的な清算の資料を提供する。
失業や破産を含む、あらゆる社会的災亨に対するコミューンの保証制度の組織。
貸金制度や恐るべき貧困状態を永遠に解決するため、また流血を伴なう要求とその致命的な結果である内戦の再来を永遠に避けるために、資本、労働用具、販路、信用などを生産者に提供する最も適当な手段を絶えず、熱心に探求すること。
以上が、われわれがあたえる委託であり、また、市民諸君、諸君が選出する議員にあたえることを希望する委託の内容である・・・
全二〇区委員会代表、ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルーリ工、ジュール・ヴアレス」
*
・マルセイユのコミューン。ガストン・クレミューが運動の中心。自然消滅。
*
27日、群衆約1千の示威運動、県庁を包囲、知事・秘書オリヴィエ将軍を捕縛。ガストン・クレミューが、パリを守れ、パリ政府こそ唯一の正当な政府であると叫び、群衆の喝釆を博す。
クレミュー外5名をからなる委員会が組織され、市会および国民衛兵クラブから各3名の代表がこれに参加し、マルセイユの全権力を掌握。軍隊は撤退し、全市街が完全に民衆の手に帰すが、委員たちは、責任の重大さに恐怖し、それ以上の行動に出る勇気はなく、なかには姿を隠して出てこない者も。躊躇し動揺している間に、大衆の情熱は冷め、運動は自然消滅。
*
・トゥールーズ、政府軍、市役所・県庁を占拠。国民軍兵士は撤退。コミューン崩壊。
*
・ヴェルサイユ。国民議会はパリ・コミューン選挙を無効と宜言。
*
・早朝、ヴェルサイユ軍第109連隊とガリフェ将軍指揮下騎馬大隊、パリ南方のプティ・ビセートル、シャティオン、ソーの周辺をパトロール。意外にも連盟兵はなく、僅かな騎兵で保塁に入る。しかし、連盟軍夜襲を恐れ、ティエールがヴェルサイユに戻るよう命令。
*
・アルジェリア。蜂起アルジェリア人に、宗教団体「ラフマニイア会会員」(一種の秘密抵抗団体)も参加。フランスの植民者たちは、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を撤退。フランス軍はこの都市周辺のアルジェリア人村落を焼払う。
to be continued
2009年1月15日木曜日
1871年3月24~25日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(6)
■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・「未完の黙翁年表」より
*
3月24日
*
・仏、パリ第7区庁舎制圧。ヴェルサイユ議会に対するパリ区長たちの調停の試み、失敗。
*
・国民軍中央委員会、反革命弾圧の為、断固とした処置をとり、パリの軍事権カをウード、プリュネル、デュヴァル将軍からなる軍事評議会に委ねる決定。元国民軍司令官リュリエ逮捕。
*
22、23日は、中央委員会にとって状況は重大になる。
共和主義連合(自由主義的で合法主義的な連合)との間の交渉は失敗。
ブルジョア派大隊は市の中央の一部を占拠し、活発な再組織を実施。
中央委員会支持者、インターナショナル派、監視委員会委員の間に様々な困難と不決断。しかし、この時(24日)、中央委員会は、確信をもって精力的に行動開始、リュリエを無能力者として解任し、代りに3人の活動家を任命。
*
・3将軍は、任命されるやベルヴィルの大隊を派遣して第6区区役所を占領させる。「秩序派大隊」が占拠するされたサン=ラザール駅を遮断するため聖バチニョル高地から道路を監視させる。
最後に、プリュネルは、中央委員会代表者が否応なく、第3、10、12、18区の区長、助役の地位を奪っている間、ベルヴィル住民と共に、第1、2区の区役所を奪取。
*
3将軍の宣言。
「中央委員会の求めによって共和国国民衛兵を臨時に指揮するという重要で困難な任務を担当するに際し、われわれは全市民の間の社会的協調の回復を確立するため、この使命を強力に遂行することを誓う。われわれは秩序を望む
・・・しかし、おとなしい歩哨を殺害し、あらゆる悪弊を許すことによって、すでに失格した体制が擁護する秩序は望まない。暴動を挑発する者どもは、君主制の復活という彼らの目的を達するために、恥ずべき手段を用いることも躊躇しない。彼らは銀行や糧秣庫を差押え、国民衛兵を飢えさせることも躊躇しない。もはや議会主義の時ではない。行動し、共和国の敵を厳しく罰する必要がある。われらと共にあらざる者は、すべてわれらにそむく者である。バリは自由でありたいと望む。反革命はパリをおぴえさせはしない。しかしながら、この大都市は、公共の秩序を乱すものが罰されずにいることを許さない。・・・」。
*
○[コミューン群像:エミール・フランソワ・デジレ・ウード]
パリで医学を学び、同時に印刷所で働く。無神論的な新聞編集者として、プランキ主義的出版物にも寄稿、第2帝政反対闘争に積極的に参加し、たびたび警察の弾圧を受ける。プランキの最も近い協力者で、1868~69年プランキが作った秘密戦闘組織の百人隊長である。1780年8月14日プランキ主義者のラ・ヴィレット監獄襲撃に参加して死刑判決。
1870年9月4日の革命後、国民軍第138大隊長、10月31日の蜂起に参加し、その後一時ベルギーにいく。国民軍中央委員会委員。第20軍団長として、3月18日の革命にめざましい役割を果たす。
3月24日、将軍に任命され、パリの軍隊の3司令官の1人に任命される。26日、パリ・コミューン議員に当選(第11区)。コミューン執行委員会および軍事委員会の委員になる。4月3~4日のコミューン戦士のヴェルサイユ進撃の際、1縦隊を指揮。4月15日から南部戦線諸堡司令官、4月19日からセーヌ左岸諸堡査察総監。5月5日から第2予備旅団指揮官、5月9日、第2次公安委員会委員。
「五月の一週間」の市街戦の積極的な参加者。軍法会議で欠席のまま死刑判決。1871年夏、ロンドンにいく。コミューン亡命者グループのなかで、バクーニン派と、改良主義的トレードユニオンの指導者たちに反対する闘争を支持。のちにスイスにおちつき、新開『レヴァンシュ』を発行。1880年の恩赦ののちフランスに帰国。プランキ主義の組織「中央革命委員会」創立者の1人。
*
○[コミューン群像:ボール・アントワヌ・マグロアール・ブリュネル]
1855~64年将校として勤務(騎兵隊、のちアフリカ狙撃兵部隊)。ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍第107大隊を指揮。プランキ主義者に近い。
70年10月31日、71年1月27~29日の諸蜂起に参加。国民軍将校団会議で総司令官と宣言され、国民軍諸大隊の全体会議についての命令を出すが、失敗し、逮捕、軍法会議による禁錮2年。
2月26日夜~27日、国民軍により釈放され、国民軍中央委員会委員に選ばれる。3月18日、市中心部に前進した国民軍諸部隊を指揮し、18日夜~19日、市庁舎占領、赤旗を掲げる。24日、国民軍兵士を率い、ルーヴル区役所(パリの反革命の中心部の一つ)を占領。同日、将軍、国民軍司令官に任命される。26日、パリ・コミューン議員に選出(第7区選出)。公安委員会設置に賛成投票。国民軍第10軍団長となり、南部戦線の連盟兵第2軍の編成に入り軍事作戦を指揮。イシ堡陥落後、イシ村防衛部隊を指揮し、頑強な戦闘(5月12、13日)の後撤退。必要な補強を受けなかったと主張するが、勝手に自分の戦闘のポストを離れた点で軍法会議にかけられ、ヴェルサイユ軍のパリ侵入まで投獄。
「五月の一週間」の頃は、パリ中心部でコミューン戦士諸部隊を指揮。22日~23日、彼の指揮のもと連盟兵はコンコルド広場でバリケード闘争。ブリュネルの行動は、市街戦の戦術を応用した模範となる。25日、シャトー・ドー広場を巡る戦闘で重傷を負いロンドンへ逃れる。
71年10月2日、欠席裁判で死刑宣告。亡命中は、ダームスの海軍学校で教え、亡命したコミューン戦士たちの会合でも演説する。恩赦ののちフランスに帰国。
*
・中央委員会声明、5綱領を提示。
①唯一の可能にして不可欠の政府としての共和制の維持。
②パリの自治権。
③警視庁の廃止。
④常備軍の廃止、国民衛兵をパリにおける秩序維持の唯一の責任者たらしめる。
⑤国民衛兵のすべての将校を選挙する権利。
*
・パリのインターナショナル派、フランケルの強力な働きかけにより、この日夜の集会においてようやく中央委員会を公然と支持し、選挙候補者を指名し、独自の選挙リストにインターナショナル派候補者の氏名記載を中央委員会に要求することを認める。
*
インターナショナル・パリ支部は、幾度かの集会で、中央委員会及びコミューンと結びつく事へのためらいを表明。
最も大きな影響力をもつインターナショナル派プノワ・マロンは、合法主義者と調停派区長たちの呼びかけを支持し、中央委員会の行動と選挙に関する悲観論をかくさず、自ら革命運動を放棄する。別の有力なインターナショナル派グーレは、インターナショナルは中央委員会にヴァルラン1人を送っているに過ぎず、従ってインターナショナルは何の責任も負わされないことを強調。
*
・「ラ・コミューン」新聞、地方におけるパリ支持の蜂起の動きを伝える。
「パリの事件は、ヴェルサイユのの『反-官報』が、怯えている地方にむかって証明しようと望んでいるような、孤立した行為でも異常な行為でもない。
パリで起っていることは、リヨン、サン=テチエンヌ、マルセイユに反響をよびおこしている。昔のリュテス(現在のパリ)のコミューン革命は、七世紀前に、北部と南部で、すなわちピカルディ-とイール=ド=フランスにおいては自治都市の形式の下に、南仏のいくつかの都市においては共和政の形式の下に、同じようにして発生したコミューン解放に、多くの点で似ている。当時のごとく、同じ火の粉が国中を燃え上らせ、火災は次から次へと絶えずひろがって行く。
北仏の自治体員は小売商人の代表であり、南仏の共和主義者は古代ローマのいくつかの伝統の後継者であったが、今日の革命派は工業の奴隷の代表であるというちがいはあるが・・・」
*
地方の運動は、ばっと燃え上るが、「合法的」権威によって容易に鎮圧される。
パリにおいて、一定の理論的純化を行ない、蜂起的で民衆的なコミューンのイメージに、連合主義原理に従う建設的思想が、どうにか付け加わわる時には、既に遅すぎることになる。
*
パリにおけるコミューン勝利の日が、マルセイユ(4月4日鎮圧)、トゥールーズ(3月27日鎮圧)、サン=テチエンヌ(3月28日鎮圧)、クルーゾーにおけるコミューン運動の終りの時期と一致する(3月27日)。リヨンでは、コミューン運動は既に敗北(3月25日)。
*
・トゥールーズ。「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士のデモ。国民軍将校がコミューン宣言。27日、知事ケラトリが軍隊を率い戻ってきて蜂起者を追い払う。
*
[詳細]
24日、衛兵2千が県庁に向い、知事ケラトリーを弾劾、コミューンを宣言、カピトール(トゥールーズ市庁)の大バルコニーで声明文を読み上げる。トゥールーズ・コミューンは単一不可分の共和国を宣言し、パリ選出議員に対しヴェルサイユ政府とパリ・コミューンの和解を要求し、ティエールに国民議会解散を勧告。委員会は穏和急進主義を代表し、サン=シプリアン地区のプロレタリアートは代表をもたない。27日、3日間の混乱の後、ケラトリーは数百の部下と共に攻撃に移り、難なくカビトールと県庁を再び手に入れる。
*
・ナルボンヌ、武装大衆、市役所占拠。ナコミューン自治宣言。31日、市庁舎奪回。
運動の先頭に立つのは、有名な民主主義者エミール・ディジョン。24日、国民軍兵士が市役所他の政府の建物を占領し、コミューンを宣言。兵器廠を襲い人民に武器を与え、県庁、駅、郵便局などを占拠。政府軍兵士は市外に撤退するが、28日、司令部は、補強部隊を率い軍隊をナルボンヌに入れる。31日、ゼンツ将軍率いるアルジェリア狙撃兵(アラビア人兵士)が街を包囲し、砲撃すると威嚇。ディジョンは市庁舎を明け渡し、外人傭兵が市庁舎を占領。市内のパリケードは破壊され蜂起は鎮圧。
*
・ニーム、コミューンの試み挫折。
*
・夜、サン・テティエンヌ炭鉱地方、市役所選挙。知事射殺。26日、国民軍委員会がコミューン宣言。28日、軍隊が市役所奪還、占領。
*
[詳細]
3月24、25日、国民衛兵を先頭に大群集が市会を襲い、コミューンの自由選挙の組織を担当する臨時民衆委員会のために市会の譲歩を要求。短い乱闘があり、知事を殺害。25日~26日の夜、委員会を設立、29日の為の選挙人を召集。市議会、辞職。「帝政と王政の立法がわれわれから奪い取った自治権と独立を再び獲得すること」を、コミューンの唯一の任務と定める委員会が、召集をかけるが、坑夫も含め誰れも動かない。28日朝、単純な降伏勧告に従い、最後の国民衛兵たちが市庁を明け渡す。
*
・ビチ(ロレーヌ)。フランスの要塞ビチの陥落。ピチ:1870年9月3日、バイエルン軍が包囲。フランス・ドイツとの暫定平和条約締結にもかかわらず、8ヶ月半以上も降服しなかった。
*
・ドイツ政府、ヴェルサイユ軍の8万までの増強をティエール政府に許可。条件は集結後3日以内に、パリに対し軍事行動開始するというもの。
*
ティエールは着々と軍備を充実させる。
25日には、「私は軍隊を再編成しつつある。二、三週間もすれば、われわれはパリを解放するのに充分な兵力をもつことになると思う」とチラールに知らせる。
ルクセンプルグ駐屯部隊を、大砲と共に無傷で取戻し、ラ・マリウズ、ドーデル、ファロン、デロジャがヴェルサイユ周辺を固めている。やがて、指揮官にしっかりと率いられ、巧妙な宣伝によって、パリの共産主義者、略奪者、無政府主義者、唯物論者に対する憎悪を吹きこまれた10万の兵隊をもつことになる。
「区長たちの抵抗は、政府に一〇日間の余裕をあたえた。幾世紀にも価する一〇日間である。じっさいこの一〇日間が政府に防御を組織することを許し、カにカを対抗させることを許したのであった」(ジュール・クラルティ)。
*
3月25日
*
・仏、国民軍中央委員会とパリの一部の代議士・区長の間に、26日にコミューン選挙施行について協定。国民軍中央委員会は選挙アピールを採択。コミューン議会選挙、支障なく進捗。
*
「市民諸君、われわれは、熱烈な和解の願望に導かれ、われわれのあらゆる努力の絶えざる目標であるこの融合の実現を喜び、われわれと戦う人々に友愛の手を心からさしのべた。しかし依然として策動が続けられ、とくに夜間に霰弾砲が第二区の区役所に移されるなど、われわれとしてもその最初の決定を固持せざるをえない。『投票は三月二六日の日曜日に行なわれる。』 もしわれわれが相手の考えを誤解しているのなら、日曜日の一般投票にわれわれと共に参加することによって、誤解を解いてくれることを願うものである。一八七一年三月二五日市庁舎にて 中央委員会委員」
*
「国民衛兵中央委員会は、パリ選出代議士、区長および助役の参加をえて、パリにおける内戦と流血を避けると同時に共和国を強固ならしめる唯一の手段は、直ちに選挙に取りかかることであると信じ、明日の日曜日、全有権者市民を召集する。バリの住民諸君は、現在の状態において、選挙だけが市の平和を保証できる真摯な性格をもつので、諸君がすべて投票におもむくことを命じるものは愛国心であることを理解されたい。投票場は午前八時に開かれ、夜の二一時に閉ざされる。『共和国万歳!』 パリ区長ならびに助役(以下署名)。パリ在住セーヌ県選出議員(・・・・・)。国民衛兵中央委員会(・・・・・)。」
*
・国民軍中央委員会、とばくを禁止。「官報」に、テュイルリ公園と諸博物館を公開の報道。
*
・工業都市クリュゾー市長デュメ、市内のコミューンを代表すると声明。
国民衛兵が中心となり、市役所前広場を占領し、コミューンを宣言。翌日、軍隊到着とともに立消え。
*
・ライブツィヒ。社会民主党新聞「フォルクスシュタート」、ドイツ政府のパリ・コミューンに対する敵対的態度を暴露。
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to be continued
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3月24日
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・仏、パリ第7区庁舎制圧。ヴェルサイユ議会に対するパリ区長たちの調停の試み、失敗。
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・国民軍中央委員会、反革命弾圧の為、断固とした処置をとり、パリの軍事権カをウード、プリュネル、デュヴァル将軍からなる軍事評議会に委ねる決定。元国民軍司令官リュリエ逮捕。
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22、23日は、中央委員会にとって状況は重大になる。
共和主義連合(自由主義的で合法主義的な連合)との間の交渉は失敗。
ブルジョア派大隊は市の中央の一部を占拠し、活発な再組織を実施。
中央委員会支持者、インターナショナル派、監視委員会委員の間に様々な困難と不決断。しかし、この時(24日)、中央委員会は、確信をもって精力的に行動開始、リュリエを無能力者として解任し、代りに3人の活動家を任命。
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・3将軍は、任命されるやベルヴィルの大隊を派遣して第6区区役所を占領させる。「秩序派大隊」が占拠するされたサン=ラザール駅を遮断するため聖バチニョル高地から道路を監視させる。
最後に、プリュネルは、中央委員会代表者が否応なく、第3、10、12、18区の区長、助役の地位を奪っている間、ベルヴィル住民と共に、第1、2区の区役所を奪取。
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3将軍の宣言。
「中央委員会の求めによって共和国国民衛兵を臨時に指揮するという重要で困難な任務を担当するに際し、われわれは全市民の間の社会的協調の回復を確立するため、この使命を強力に遂行することを誓う。われわれは秩序を望む
・・・しかし、おとなしい歩哨を殺害し、あらゆる悪弊を許すことによって、すでに失格した体制が擁護する秩序は望まない。暴動を挑発する者どもは、君主制の復活という彼らの目的を達するために、恥ずべき手段を用いることも躊躇しない。彼らは銀行や糧秣庫を差押え、国民衛兵を飢えさせることも躊躇しない。もはや議会主義の時ではない。行動し、共和国の敵を厳しく罰する必要がある。われらと共にあらざる者は、すべてわれらにそむく者である。バリは自由でありたいと望む。反革命はパリをおぴえさせはしない。しかしながら、この大都市は、公共の秩序を乱すものが罰されずにいることを許さない。・・・」。
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○[コミューン群像:エミール・フランソワ・デジレ・ウード]
パリで医学を学び、同時に印刷所で働く。無神論的な新聞編集者として、プランキ主義的出版物にも寄稿、第2帝政反対闘争に積極的に参加し、たびたび警察の弾圧を受ける。プランキの最も近い協力者で、1868~69年プランキが作った秘密戦闘組織の百人隊長である。1780年8月14日プランキ主義者のラ・ヴィレット監獄襲撃に参加して死刑判決。
1870年9月4日の革命後、国民軍第138大隊長、10月31日の蜂起に参加し、その後一時ベルギーにいく。国民軍中央委員会委員。第20軍団長として、3月18日の革命にめざましい役割を果たす。
3月24日、将軍に任命され、パリの軍隊の3司令官の1人に任命される。26日、パリ・コミューン議員に当選(第11区)。コミューン執行委員会および軍事委員会の委員になる。4月3~4日のコミューン戦士のヴェルサイユ進撃の際、1縦隊を指揮。4月15日から南部戦線諸堡司令官、4月19日からセーヌ左岸諸堡査察総監。5月5日から第2予備旅団指揮官、5月9日、第2次公安委員会委員。
「五月の一週間」の市街戦の積極的な参加者。軍法会議で欠席のまま死刑判決。1871年夏、ロンドンにいく。コミューン亡命者グループのなかで、バクーニン派と、改良主義的トレードユニオンの指導者たちに反対する闘争を支持。のちにスイスにおちつき、新開『レヴァンシュ』を発行。1880年の恩赦ののちフランスに帰国。プランキ主義の組織「中央革命委員会」創立者の1人。
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○[コミューン群像:ボール・アントワヌ・マグロアール・ブリュネル]
1855~64年将校として勤務(騎兵隊、のちアフリカ狙撃兵部隊)。ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍第107大隊を指揮。プランキ主義者に近い。
70年10月31日、71年1月27~29日の諸蜂起に参加。国民軍将校団会議で総司令官と宣言され、国民軍諸大隊の全体会議についての命令を出すが、失敗し、逮捕、軍法会議による禁錮2年。
2月26日夜~27日、国民軍により釈放され、国民軍中央委員会委員に選ばれる。3月18日、市中心部に前進した国民軍諸部隊を指揮し、18日夜~19日、市庁舎占領、赤旗を掲げる。24日、国民軍兵士を率い、ルーヴル区役所(パリの反革命の中心部の一つ)を占領。同日、将軍、国民軍司令官に任命される。26日、パリ・コミューン議員に選出(第7区選出)。公安委員会設置に賛成投票。国民軍第10軍団長となり、南部戦線の連盟兵第2軍の編成に入り軍事作戦を指揮。イシ堡陥落後、イシ村防衛部隊を指揮し、頑強な戦闘(5月12、13日)の後撤退。必要な補強を受けなかったと主張するが、勝手に自分の戦闘のポストを離れた点で軍法会議にかけられ、ヴェルサイユ軍のパリ侵入まで投獄。
「五月の一週間」の頃は、パリ中心部でコミューン戦士諸部隊を指揮。22日~23日、彼の指揮のもと連盟兵はコンコルド広場でバリケード闘争。ブリュネルの行動は、市街戦の戦術を応用した模範となる。25日、シャトー・ドー広場を巡る戦闘で重傷を負いロンドンへ逃れる。
71年10月2日、欠席裁判で死刑宣告。亡命中は、ダームスの海軍学校で教え、亡命したコミューン戦士たちの会合でも演説する。恩赦ののちフランスに帰国。
*
・中央委員会声明、5綱領を提示。
①唯一の可能にして不可欠の政府としての共和制の維持。
②パリの自治権。
③警視庁の廃止。
④常備軍の廃止、国民衛兵をパリにおける秩序維持の唯一の責任者たらしめる。
⑤国民衛兵のすべての将校を選挙する権利。
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・パリのインターナショナル派、フランケルの強力な働きかけにより、この日夜の集会においてようやく中央委員会を公然と支持し、選挙候補者を指名し、独自の選挙リストにインターナショナル派候補者の氏名記載を中央委員会に要求することを認める。
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インターナショナル・パリ支部は、幾度かの集会で、中央委員会及びコミューンと結びつく事へのためらいを表明。
最も大きな影響力をもつインターナショナル派プノワ・マロンは、合法主義者と調停派区長たちの呼びかけを支持し、中央委員会の行動と選挙に関する悲観論をかくさず、自ら革命運動を放棄する。別の有力なインターナショナル派グーレは、インターナショナルは中央委員会にヴァルラン1人を送っているに過ぎず、従ってインターナショナルは何の責任も負わされないことを強調。
*
・「ラ・コミューン」新聞、地方におけるパリ支持の蜂起の動きを伝える。
「パリの事件は、ヴェルサイユのの『反-官報』が、怯えている地方にむかって証明しようと望んでいるような、孤立した行為でも異常な行為でもない。
パリで起っていることは、リヨン、サン=テチエンヌ、マルセイユに反響をよびおこしている。昔のリュテス(現在のパリ)のコミューン革命は、七世紀前に、北部と南部で、すなわちピカルディ-とイール=ド=フランスにおいては自治都市の形式の下に、南仏のいくつかの都市においては共和政の形式の下に、同じようにして発生したコミューン解放に、多くの点で似ている。当時のごとく、同じ火の粉が国中を燃え上らせ、火災は次から次へと絶えずひろがって行く。
北仏の自治体員は小売商人の代表であり、南仏の共和主義者は古代ローマのいくつかの伝統の後継者であったが、今日の革命派は工業の奴隷の代表であるというちがいはあるが・・・」
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地方の運動は、ばっと燃え上るが、「合法的」権威によって容易に鎮圧される。
パリにおいて、一定の理論的純化を行ない、蜂起的で民衆的なコミューンのイメージに、連合主義原理に従う建設的思想が、どうにか付け加わわる時には、既に遅すぎることになる。
*
パリにおけるコミューン勝利の日が、マルセイユ(4月4日鎮圧)、トゥールーズ(3月27日鎮圧)、サン=テチエンヌ(3月28日鎮圧)、クルーゾーにおけるコミューン運動の終りの時期と一致する(3月27日)。リヨンでは、コミューン運動は既に敗北(3月25日)。
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・トゥールーズ。「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士のデモ。国民軍将校がコミューン宣言。27日、知事ケラトリが軍隊を率い戻ってきて蜂起者を追い払う。
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[詳細]
24日、衛兵2千が県庁に向い、知事ケラトリーを弾劾、コミューンを宣言、カピトール(トゥールーズ市庁)の大バルコニーで声明文を読み上げる。トゥールーズ・コミューンは単一不可分の共和国を宣言し、パリ選出議員に対しヴェルサイユ政府とパリ・コミューンの和解を要求し、ティエールに国民議会解散を勧告。委員会は穏和急進主義を代表し、サン=シプリアン地区のプロレタリアートは代表をもたない。27日、3日間の混乱の後、ケラトリーは数百の部下と共に攻撃に移り、難なくカビトールと県庁を再び手に入れる。
*
・ナルボンヌ、武装大衆、市役所占拠。ナコミューン自治宣言。31日、市庁舎奪回。
運動の先頭に立つのは、有名な民主主義者エミール・ディジョン。24日、国民軍兵士が市役所他の政府の建物を占領し、コミューンを宣言。兵器廠を襲い人民に武器を与え、県庁、駅、郵便局などを占拠。政府軍兵士は市外に撤退するが、28日、司令部は、補強部隊を率い軍隊をナルボンヌに入れる。31日、ゼンツ将軍率いるアルジェリア狙撃兵(アラビア人兵士)が街を包囲し、砲撃すると威嚇。ディジョンは市庁舎を明け渡し、外人傭兵が市庁舎を占領。市内のパリケードは破壊され蜂起は鎮圧。
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・ニーム、コミューンの試み挫折。
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・夜、サン・テティエンヌ炭鉱地方、市役所選挙。知事射殺。26日、国民軍委員会がコミューン宣言。28日、軍隊が市役所奪還、占領。
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[詳細]
3月24、25日、国民衛兵を先頭に大群集が市会を襲い、コミューンの自由選挙の組織を担当する臨時民衆委員会のために市会の譲歩を要求。短い乱闘があり、知事を殺害。25日~26日の夜、委員会を設立、29日の為の選挙人を召集。市議会、辞職。「帝政と王政の立法がわれわれから奪い取った自治権と独立を再び獲得すること」を、コミューンの唯一の任務と定める委員会が、召集をかけるが、坑夫も含め誰れも動かない。28日朝、単純な降伏勧告に従い、最後の国民衛兵たちが市庁を明け渡す。
*
・ビチ(ロレーヌ)。フランスの要塞ビチの陥落。ピチ:1870年9月3日、バイエルン軍が包囲。フランス・ドイツとの暫定平和条約締結にもかかわらず、8ヶ月半以上も降服しなかった。
*
・ドイツ政府、ヴェルサイユ軍の8万までの増強をティエール政府に許可。条件は集結後3日以内に、パリに対し軍事行動開始するというもの。
*
ティエールは着々と軍備を充実させる。
25日には、「私は軍隊を再編成しつつある。二、三週間もすれば、われわれはパリを解放するのに充分な兵力をもつことになると思う」とチラールに知らせる。
ルクセンプルグ駐屯部隊を、大砲と共に無傷で取戻し、ラ・マリウズ、ドーデル、ファロン、デロジャがヴェルサイユ周辺を固めている。やがて、指揮官にしっかりと率いられ、巧妙な宣伝によって、パリの共産主義者、略奪者、無政府主義者、唯物論者に対する憎悪を吹きこまれた10万の兵隊をもつことになる。
「区長たちの抵抗は、政府に一〇日間の余裕をあたえた。幾世紀にも価する一〇日間である。じっさいこの一〇日間が政府に防御を組織することを許し、カにカを対抗させることを許したのであった」(ジュール・クラルティ)。
*
3月25日
*
・仏、国民軍中央委員会とパリの一部の代議士・区長の間に、26日にコミューン選挙施行について協定。国民軍中央委員会は選挙アピールを採択。コミューン議会選挙、支障なく進捗。
*
「市民諸君、われわれは、熱烈な和解の願望に導かれ、われわれのあらゆる努力の絶えざる目標であるこの融合の実現を喜び、われわれと戦う人々に友愛の手を心からさしのべた。しかし依然として策動が続けられ、とくに夜間に霰弾砲が第二区の区役所に移されるなど、われわれとしてもその最初の決定を固持せざるをえない。『投票は三月二六日の日曜日に行なわれる。』 もしわれわれが相手の考えを誤解しているのなら、日曜日の一般投票にわれわれと共に参加することによって、誤解を解いてくれることを願うものである。一八七一年三月二五日市庁舎にて 中央委員会委員」
*
「国民衛兵中央委員会は、パリ選出代議士、区長および助役の参加をえて、パリにおける内戦と流血を避けると同時に共和国を強固ならしめる唯一の手段は、直ちに選挙に取りかかることであると信じ、明日の日曜日、全有権者市民を召集する。バリの住民諸君は、現在の状態において、選挙だけが市の平和を保証できる真摯な性格をもつので、諸君がすべて投票におもむくことを命じるものは愛国心であることを理解されたい。投票場は午前八時に開かれ、夜の二一時に閉ざされる。『共和国万歳!』 パリ区長ならびに助役(以下署名)。パリ在住セーヌ県選出議員(・・・・・)。国民衛兵中央委員会(・・・・・)。」
*
・国民軍中央委員会、とばくを禁止。「官報」に、テュイルリ公園と諸博物館を公開の報道。
*
・工業都市クリュゾー市長デュメ、市内のコミューンを代表すると声明。
国民衛兵が中心となり、市役所前広場を占領し、コミューンを宣言。翌日、軍隊到着とともに立消え。
*
・ライブツィヒ。社会民主党新聞「フォルクスシュタート」、ドイツ政府のパリ・コミューンに対する敵対的態度を暴露。
*
to be continued
2008年12月7日日曜日
1871年3月22~23日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・
■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
*
3月22日
*
・仏、中央委員会、第3、4、10、12、17区等の区役所を接収。
ヴェルサイユ政府が地方における刑事犯罪人を多数釈放し、撹乱の目的でパリ市内に潜入させたとの報に、中央委員会は、「掠奪の現場を発見されたる者は射殺さるべし」という布告を発布。
*
・国民軍中央委員会、パリの区長・代議士の反対の為、コミューン選挙を26日に延期すると決定。
国民軍中央委員会と、その渉外代表委員(P・グルッセ)は、21日付けドイツ占領軍当局の手紙に対し回答。
中央委員会はパリの革命が「もっぱら自治体的性格」を持つもので、「ドイツ軍にさからうものではない」と説明。
パリ在住兵士の国民軍編入、新権力の命令をさぼる官公吏の罷免を決定。
選挙民に対し、コミューンの任務をのべたアピール。
*
布告。
「区長や代議士の支持を受けている反動は、われわれに戦争をしかけてきた。われわれは挑戦に応じ抵抗を粉砕しなければならぬ・・・市民諸君、パリは支配を欲しているのではない、自由を欲しているだけである。パリは偉大なる模範となることを望んでいるだけである。何びとにもその意志をおしつけようとするものではないが、また自己の権利を放棄するものでもない。・・・パリは、自分自身の自由を確保することによって、他の者の自由を準備する。」
*
○[コミューン群像:パスカル・グルッセ]
ジャーナリスト兼作家。1860年代末の共和主義運動に積極的に参加。新聞「ラ・マルセイエーズ」「ラ・プーシュ・ド・フェール」に寄稿。
71年3月19日、新聞「ラ・ヌヴェル・レピュプリック」、4月2日から新聞「ラフランシ」発行。3月26日、パリ・コミュ-ン議員(第18区)に選ばれる。3月29日から渉外委員部委員。4月5日から渉外代表委員。4月20日から第2次執行委員会委員。コミューンのジャコバン派-プランキ派の「多数派」に入り、公安委員会設置に賛成投票。コミューン全期間を通じ、対外政策指導者として、パリと地方との強固な連絡構築、ドイツ政府その他ヨーロッパ諸国政府のパリ・コミューン承認実現に努める。
コミューン弾圧後、逮捕、軍法会議でニュー・カレドニア流刑判決。1874年、流刑地から逃亡、イギリスに偽名で居住。1880年、恩赦により帰国。80年代、「各国の生活」「各国の児童の生活の場面」刊行。
*
・ヴァンドーム広場で1千人近くが反革命デモ。反革命派と国民軍との衝突。
反革命分子は、パリの人民権力に対し公然と抵抗を試みる。多くの官庁や役人達は、命令をサボタージュし、高官達はヴェルサイユへ逃亡。28種類の様々な傾向のブルジョア新聞は、中央委員会がパリのコミューン議会(市会)選挙の日どりを決めたことを、非合法と宣言し、ポイコッ卜を呼びかける。
この日、ヴァンドーム広場で、取引所員・反動的評論家・退職将校達がデモ。デモは防塞地区の司令部に向って行進し、中央委員達に激しい侮辱の言葉を浴びせ、彼らを狙撃。デモ行進者は解散を拒否した為、追い払われる。国民衛兵2名殺害・7名負傷。群集側約30名の死傷。
*
反動派が取引所付近を占領、更にサン・ラザール駅から国民衛兵を追い払い、ここを入手。国民衛兵の若干の大隊の支持の下に、区長たちは第2区区役所に籠り、パリとヴェルサイユの調停実現の為の対策を協議。
*
・反動派対策として、ヴァンドーム広場にバリケード構築の命令。市庁舎の警備大隊の兵力は倍加され、反動派が勢力をもつ地区の警戒が厳重になる。
*
・リュクサンプール宮殿に宿営の第69補充連隊、ヴェルサイユへ退去。
*
・リヨン。国民軍代表者会議、パリ支持の諸演説。労働者諸地区の国民軍諸大隊は、市役所前へ集合、革命派がは市役所占拠、知事ヴァランタン逮捕、自治委員会5人を選出。リヨン・コミューン宣言。市役所に赤旗をたてる。市会解散と県知事罷免。~24日。25日朝コミューン消滅。
*
間もなくバリから技師A・ルブランと労働者シャルル・アムールーを団長とする中央委員会代表団が到着。リヨンの国民軍の18大隊(総数24大隊の内)がパリの国民軍との連帯を声明。指導者達はリヨンのコミーンを宣言。市政とコミューン選挙準備の為の臨時委員会が作られるが、この委員会は、指導的官庁を占領せず、労働者団体とも連携せず。僅か1日でリヨン蜂起は弾圧される。リヨンの中小ブルジョアジーは、コミューンのスローガンを支持せず、急進派は労働者に依拠する決心はつかず。4月30日再度蜂起。
*
・マルセイユ。カフェー「エル・ドラード」で集会、パリの政府支持の諸演説。
*
・ロンドン。ウェリントン・ミュージック・ホールで共和派集会。インタナショナル総評議会員セライエの演説。パリの革命との連帯決議。
*
・ライブツィヒ。ドイツ社会民主労働者党機関紙「フォルクスシュタート」、パリの事件を報道、ドイツ人民に対し、ドイツの反動のフランス共和国粉砕の為の戦争再開をさせてはならないとの問題を提起。
*
・ベルリン。全ドイツ労働者同盟機関紙「ソツィアル・ヂモクラート」、パリ労働者の闘争支持を表明。
*
3月23日
*
・仏、国民軍中央委員会アピール、22日に中央委員会は、リヨン、ボルドー、マルセイユ、ルアンその他の都市の代表団を迎えたと報道。泥棒を犯罪の現場で銃殺する命令。
*
・夜、国際労働者協会(インタナショナル)パリ支部連合評議会と労働者協会連合会議所の会議、テイス司会、3月18日の革命の任務をのぺ、コミューン選挙に参加するよう住民に訴える宣言を採択。
*
・パリ諸区長、ティエールの勧告に従い、セッセー提督を国民軍総司令官に、代議士ラングロアを総参謀長に、代議士シェルヘルを砲兵隊司令官に任命すると声明。代表をヴェルサイユに派遣しパリとヴェルサイユ調停の為の提案。ヴェルサイユは、パリ弾圧のため農村での義勇兵部隊組織に関する法案可決。区長らの調停の労は報われず。
*
・一時、約1千人のデモ隊が、「秩序万歳!」を叫びながらラ・ペー街を降りてくる。
最も陰険な反動が立直ろうとしている。ブルジョア派諸大隊は、パリ中心部を強固に固め特に第17区役所とサン=ラザール駅周辺を再び占拠し、そこで通行人を止める。「都市のなかにもう一つの都市があった。」(リサガレー)。
*
・マルセイユ。「パリ万歳!」のスローガンで国民軍兵士のデモ。革命家たちは県庁舎を占拠。勤労者たちの武装。ガストン・クレミユを首長とする臨時ブーシュ・ド・ローヌ県委員会の設置。マルセイユ・コミューンの宣言。選挙布告。
*
・トゥールーズ、市庁舎占拠。翌日、コミューン宣言。27日、市庁舎奪回。
to be continued
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3月22日
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・仏、中央委員会、第3、4、10、12、17区等の区役所を接収。
ヴェルサイユ政府が地方における刑事犯罪人を多数釈放し、撹乱の目的でパリ市内に潜入させたとの報に、中央委員会は、「掠奪の現場を発見されたる者は射殺さるべし」という布告を発布。
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・国民軍中央委員会、パリの区長・代議士の反対の為、コミューン選挙を26日に延期すると決定。
国民軍中央委員会と、その渉外代表委員(P・グルッセ)は、21日付けドイツ占領軍当局の手紙に対し回答。
中央委員会はパリの革命が「もっぱら自治体的性格」を持つもので、「ドイツ軍にさからうものではない」と説明。
パリ在住兵士の国民軍編入、新権力の命令をさぼる官公吏の罷免を決定。
選挙民に対し、コミューンの任務をのべたアピール。
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布告。
「区長や代議士の支持を受けている反動は、われわれに戦争をしかけてきた。われわれは挑戦に応じ抵抗を粉砕しなければならぬ・・・市民諸君、パリは支配を欲しているのではない、自由を欲しているだけである。パリは偉大なる模範となることを望んでいるだけである。何びとにもその意志をおしつけようとするものではないが、また自己の権利を放棄するものでもない。・・・パリは、自分自身の自由を確保することによって、他の者の自由を準備する。」
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○[コミューン群像:パスカル・グルッセ]
ジャーナリスト兼作家。1860年代末の共和主義運動に積極的に参加。新聞「ラ・マルセイエーズ」「ラ・プーシュ・ド・フェール」に寄稿。
71年3月19日、新聞「ラ・ヌヴェル・レピュプリック」、4月2日から新聞「ラフランシ」発行。3月26日、パリ・コミュ-ン議員(第18区)に選ばれる。3月29日から渉外委員部委員。4月5日から渉外代表委員。4月20日から第2次執行委員会委員。コミューンのジャコバン派-プランキ派の「多数派」に入り、公安委員会設置に賛成投票。コミューン全期間を通じ、対外政策指導者として、パリと地方との強固な連絡構築、ドイツ政府その他ヨーロッパ諸国政府のパリ・コミューン承認実現に努める。
コミューン弾圧後、逮捕、軍法会議でニュー・カレドニア流刑判決。1874年、流刑地から逃亡、イギリスに偽名で居住。1880年、恩赦により帰国。80年代、「各国の生活」「各国の児童の生活の場面」刊行。
*
・ヴァンドーム広場で1千人近くが反革命デモ。反革命派と国民軍との衝突。
反革命分子は、パリの人民権力に対し公然と抵抗を試みる。多くの官庁や役人達は、命令をサボタージュし、高官達はヴェルサイユへ逃亡。28種類の様々な傾向のブルジョア新聞は、中央委員会がパリのコミューン議会(市会)選挙の日どりを決めたことを、非合法と宣言し、ポイコッ卜を呼びかける。
この日、ヴァンドーム広場で、取引所員・反動的評論家・退職将校達がデモ。デモは防塞地区の司令部に向って行進し、中央委員達に激しい侮辱の言葉を浴びせ、彼らを狙撃。デモ行進者は解散を拒否した為、追い払われる。国民衛兵2名殺害・7名負傷。群集側約30名の死傷。
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反動派が取引所付近を占領、更にサン・ラザール駅から国民衛兵を追い払い、ここを入手。国民衛兵の若干の大隊の支持の下に、区長たちは第2区区役所に籠り、パリとヴェルサイユの調停実現の為の対策を協議。
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・反動派対策として、ヴァンドーム広場にバリケード構築の命令。市庁舎の警備大隊の兵力は倍加され、反動派が勢力をもつ地区の警戒が厳重になる。
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・リュクサンプール宮殿に宿営の第69補充連隊、ヴェルサイユへ退去。
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・リヨン。国民軍代表者会議、パリ支持の諸演説。労働者諸地区の国民軍諸大隊は、市役所前へ集合、革命派がは市役所占拠、知事ヴァランタン逮捕、自治委員会5人を選出。リヨン・コミューン宣言。市役所に赤旗をたてる。市会解散と県知事罷免。~24日。25日朝コミューン消滅。
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間もなくバリから技師A・ルブランと労働者シャルル・アムールーを団長とする中央委員会代表団が到着。リヨンの国民軍の18大隊(総数24大隊の内)がパリの国民軍との連帯を声明。指導者達はリヨンのコミーンを宣言。市政とコミューン選挙準備の為の臨時委員会が作られるが、この委員会は、指導的官庁を占領せず、労働者団体とも連携せず。僅か1日でリヨン蜂起は弾圧される。リヨンの中小ブルジョアジーは、コミューンのスローガンを支持せず、急進派は労働者に依拠する決心はつかず。4月30日再度蜂起。
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・マルセイユ。カフェー「エル・ドラード」で集会、パリの政府支持の諸演説。
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・ロンドン。ウェリントン・ミュージック・ホールで共和派集会。インタナショナル総評議会員セライエの演説。パリの革命との連帯決議。
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・ライブツィヒ。ドイツ社会民主労働者党機関紙「フォルクスシュタート」、パリの事件を報道、ドイツ人民に対し、ドイツの反動のフランス共和国粉砕の為の戦争再開をさせてはならないとの問題を提起。
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・ベルリン。全ドイツ労働者同盟機関紙「ソツィアル・ヂモクラート」、パリ労働者の闘争支持を表明。
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3月23日
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・仏、国民軍中央委員会アピール、22日に中央委員会は、リヨン、ボルドー、マルセイユ、ルアンその他の都市の代表団を迎えたと報道。泥棒を犯罪の現場で銃殺する命令。
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・夜、国際労働者協会(インタナショナル)パリ支部連合評議会と労働者協会連合会議所の会議、テイス司会、3月18日の革命の任務をのぺ、コミューン選挙に参加するよう住民に訴える宣言を採択。
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・パリ諸区長、ティエールの勧告に従い、セッセー提督を国民軍総司令官に、代議士ラングロアを総参謀長に、代議士シェルヘルを砲兵隊司令官に任命すると声明。代表をヴェルサイユに派遣しパリとヴェルサイユ調停の為の提案。ヴェルサイユは、パリ弾圧のため農村での義勇兵部隊組織に関する法案可決。区長らの調停の労は報われず。
*
・一時、約1千人のデモ隊が、「秩序万歳!」を叫びながらラ・ペー街を降りてくる。
最も陰険な反動が立直ろうとしている。ブルジョア派諸大隊は、パリ中心部を強固に固め特に第17区役所とサン=ラザール駅周辺を再び占拠し、そこで通行人を止める。「都市のなかにもう一つの都市があった。」(リサガレー)。
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・マルセイユ。「パリ万歳!」のスローガンで国民軍兵士のデモ。革命家たちは県庁舎を占拠。勤労者たちの武装。ガストン・クレミユを首長とする臨時ブーシュ・ド・ローヌ県委員会の設置。マルセイユ・コミューンの宣言。選挙布告。
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・トゥールーズ、市庁舎占拠。翌日、コミューン宣言。27日、市庁舎奪回。
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2008年11月22日土曜日
1871年3月21日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・
■日米和親条約調印の地の石碑(於、開港資料館前の開港広場。撮影は本日08/11/22)
1853(嘉永6)年7月、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が来航。翌年2月、ペリーは再来航、開国交渉が久良岐郡横浜村字駒形(現県庁付近一帯)で行われ、3月31日、日米和親条約12ヶ条調印。
■背景の噴水の後にあるのが、日本最初のプロテスタント教会の横浜海岸教会。
■山下公園、県庁近くの日本大通り、この開港広場、その近辺にスケッチブックを持つ人たちがたくさんいました。
■昨日のエントリの「博徒大刈込み」の項は、長谷川昇「博徒と自由民権---名古屋事件始末記」(平凡社ライブラリ)に100%依拠しました。このアングルで自由民権を見る目は鋭い。平凡社ライブラリには、良知力「青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年」という、面白い本もありました。河野健三さんなんか、腰ぬかしたんじゃないかな。また、大学者古島敏男さんの本も出てました。ご子息は会社の先輩でした。
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■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
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3月21日
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・仏、パリ、プラース・ド・ラ・ブルスにおける「秩序の友」派の反革命デモ、国民軍部隊により解散。
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・国民軍中央委員会、区長を参加させずコミューン選挙を実施する、選挙日を23日に延期するとの声明。コミューンの選挙手続きと議員数の決定。市内の大部分のバリケード撤去の指令。
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・中央委員会、布告。
①公設質屋へ抵当に入れた物品の売却を停止し、
②手形の支払期限を1ヶ月延長し、
③新しい命令あるまで家主がその借家人を追い出すことを禁止。
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「三行(の布告)で、委員会は正義を行ない、ヴェルサイユを打ち、パリを手に入れた。」(リサガレー)
*
*
・旧警視庁の機能を暫定的に担当するデュヴァルの布告、掲示。中央委員会の自覚の高まり。
□「パリは三月十八日以来、人民の政府以外いかなる政府をも有しない、そしてそれこそ最良の政府である。いかなる革命といえども、今日われわれがおかれているがごとき条件のもとで遂行されたものはない。パリは自由市となった。その強力な中央集権はもはや存在しない。
□「パリは三月十八日以来、人民の政府以外いかなる政府をも有しない、そしてそれこそ最良の政府である。いかなる革命といえども、今日われわれがおかれているがごとき条件のもとで遂行されたものはない。パリは自由市となった。その強力な中央集権はもはや存在しない。
・・・パリは左のことを要求する、
(一)パリ市長の選挙、
(二)パリ市二十区の区長・助役および区会議員の選挙、
(三)国民衛兵のすべての責任者の選挙、
(四)パリはフランスから分離する意志を少しももっていない、否、パリはフランスのためにこそ、帝政、国民防衛政府、すべての裏切り、すべての卑劣にたいして抵抗をつづけてきた。それは、ただフランスの姉娘としてフランスに次のことを告げたいためであった、フランスよ、私が頑張り通したように、君も頑張ってくれ、私が闘ってきたように、君も闘ってくれ、と。」
*
(一)パリ市長の選挙、
(二)パリ市二十区の区長・助役および区会議員の選挙、
(三)国民衛兵のすべての責任者の選挙、
(四)パリはフランスから分離する意志を少しももっていない、否、パリはフランスのためにこそ、帝政、国民防衛政府、すべての裏切り、すべての卑劣にたいして抵抗をつづけてきた。それは、ただフランスの姉娘としてフランスに次のことを告げたいためであった、フランスよ、私が頑張り通したように、君も頑張ってくれ、私が闘ってきたように、君も闘ってくれ、と。」
*
○[コミューン群像:エミール・ヴィクトル・デュヴァル]
鋳鉄工、パリの鋳鉄工組合で鋳鉄業の10時間労働闘争を指導。1867年6月インタナショナル加盟。同時にプランキとも連絡をもち、労働者の秘密戦闘組織指導部に入り、68~69年、第2帝政反対の武装蜂起を準備。70年春、鋳鉄工大ストライキに際しこの組合をインタナショナルに加盟させる。
70年9月4日革命時は、獄中にありる(インタナショナルに対する第3次裁判で禁錮刑)。20区中央共和委員会に入り、国民軍第101大隊長に任命され、3月18日革命に参加。国民軍中央委員として重要な役割を演じ、警視庁占領に参加。将軍に任命され、警視庁軍事指揮官となり、その後パリの3人の軍司令官の1人となる。早急なヴェルサイユ攻撃を主張。3月26日、パリ・コミューン議員(第13区)に選ばれる。コミューン軍事委員部及び執行委員会委員。4月3日、コミューン戦士の1縦隊の先頭にたってヴェルサイユに出撃。4日、捕虜となり、裁判抜きで銃殺。
*
鋳鉄工、パリの鋳鉄工組合で鋳鉄業の10時間労働闘争を指導。1867年6月インタナショナル加盟。同時にプランキとも連絡をもち、労働者の秘密戦闘組織指導部に入り、68~69年、第2帝政反対の武装蜂起を準備。70年春、鋳鉄工大ストライキに際しこの組合をインタナショナルに加盟させる。
70年9月4日革命時は、獄中にありる(インタナショナルに対する第3次裁判で禁錮刑)。20区中央共和委員会に入り、国民軍第101大隊長に任命され、3月18日革命に参加。国民軍中央委員として重要な役割を演じ、警視庁占領に参加。将軍に任命され、警視庁軍事指揮官となり、その後パリの3人の軍司令官の1人となる。早急なヴェルサイユ攻撃を主張。3月26日、パリ・コミューン議員(第13区)に選ばれる。コミューン軍事委員部及び執行委員会委員。4月3日、コミューン戦士の1縦隊の先頭にたってヴェルサイユに出撃。4日、捕虜となり、裁判抜きで銃殺。
*
・パリ20区の(中央委員会の)代来者会議、国民軍中央委員会を支持し、コミューン選挙に候補者をたてる決議。
*
*
・「官報」に、国民軍中央委員会の代表委員のの綱領的な論文「三月一八日の革命」を発表。3月18日の革命のプロレタリア的性格が強調され、プロレタリアートが権力掌握する必要がある事が根拠つけられる。
□「首都のプロレタリアは、支配している諸階級のごまかしや裏切りをみて、公共の仕事の管理を自分たちの手ににきり、事態を救わねばならない時がきたことを理解したのである・・・プロレタリアートは、自分たちの権利がたえず脅威にさらされており、自分たちの、当然である願望が、完全に否定されているのをみて、祖国が壊滅し、自分たちのすべての希望がやぶれたことを知り、至上の義務と無条件の権利とが、自分たちの運命を自分たちの手ににぎり、権力をもって勝利を保証することを要求しているのだということを理解したのである」
*
□「首都のプロレタリアは、支配している諸階級のごまかしや裏切りをみて、公共の仕事の管理を自分たちの手ににきり、事態を救わねばならない時がきたことを理解したのである・・・プロレタリアートは、自分たちの権利がたえず脅威にさらされており、自分たちの、当然である願望が、完全に否定されているのをみて、祖国が壊滅し、自分たちのすべての希望がやぶれたことを知り、至上の義務と無条件の権利とが、自分たちの運命を自分たちの手ににぎり、権力をもって勝利を保証することを要求しているのだということを理解したのである」
*
・午後2時、ヴィノワによって発禁にされていた「人民の叫び」8万部が発売再開、成功。
*
*
・パリの反中央委員会勢力の状況。
代議士および区長たち、コミューン選挙をボイコットするようパリ住民へアピール。パリのブルジョア新聞編集者たち、選挙実施反対の声明。
ヴェルサイユの激越な態度は、パリに残る反動勢力を鼓舞し、「フィガロ」紙などパリで発行を継続するヴェルサイユ派の諸新聞は、中央委員会に対する中傷誹誘を始める。中央委員会は言論自由の立場からこれらには干渉を加えず。21日、新聞編集者35名の共同声明発表、公然と選挙ボイコットを煽動。また同日、「秩序の友」と称する反動分子100余が市内を行進し、国民議会万歳!中央委員会を倒せ!と叫ぶ。
*
ヴェルサイユの激越な態度は、パリに残る反動勢力を鼓舞し、「フィガロ」紙などパリで発行を継続するヴェルサイユ派の諸新聞は、中央委員会に対する中傷誹誘を始める。中央委員会は言論自由の立場からこれらには干渉を加えず。21日、新聞編集者35名の共同声明発表、公然と選挙ボイコットを煽動。また同日、「秩序の友」と称する反動分子100余が市内を行進し、国民議会万歳!中央委員会を倒せ!と叫ぶ。
*
・ドイツ第3軍司令官、「現在のパリの司令官」に対し、パリ地区のドイツ軍は、事態が暫定平和条約の諸条件遵守に影響をおよぽさない限り、ドイツ軍の安全を脅かさない限り、「平和的な、まったく受動的な立場を」守るであろうと電報。
*
*
・ヴェルサイユ。ヴェルサイユ軍、モン・ヴァレリアン堡(パリ郊外)再奪取。
国民議会、人民・軍隊に支持を呼び掛けるアピール。ティエール、政府と議会は「情勢をにきった」蜂起者と妥協したパリの政府代表者を裏切者として追求すると威嚇した各県知事への回状。ファーヴル、ヴェルサイユ政府はパリでの権力を復活させ、講和条約の義務を守る意向であるとドイツ占領軍当局へ手紙。
国民議会でのジュール・ファーヴルの演説。
国民議会でのジュール・ファーヴルの演説。
「パリは、国民議会の権利にたいして、血で汚れた強盗の理想をおしっけようとする一群の無頼漢の手中にある。・・・かれらはパリをフランスから切断しようとしている。しかし無頼漢どもよ、忘れるな、われわれがパリを去ったのは、やがて再びそこに帰って、お前たちと決戦を行なわんためであることを。もしわれわれの中の誰かが、ただ暴力と殺人と掠奪をもって権力を奪取したこれらの徒輩の手に陥るならば、彼は、不幸な将軍たちと同じ運命を分かつことを覚悟しなければならぬ。・・・断じて弱気を見せてはならぬ、断じて憐憫の気持をおこしてはならぬ。フランスは、首府を血にまみれさせようとしているこれらの無頼漢の支配には陥らぬであろう。」。
*
*
・ロンドンインタナショナル総評議会、パリの情勢を討議。
パリの連合評議会からの情報に基づき、エンゲルスは、フランスの首都の事件について報告。評議会はマルクス提案に基づき、ロンドンの労働者地区に代表団を送り、集会で、蜂起したパリ市民に共感を表明するよう呼びかけることを決定。
モンマルトルの諸事件を討議。エンゲルスは、運動の人民的性格を指摘、中央委員会には、「有名な」人物は1人もいないとのブルジョア新聞報道を解説し、中央委員会はパリの人民大衆を代表する民主的な機関であると定義し、また、ドイツの占領軍を「闘争からはなしておくことができる」限り、「成功のみこみは大きくなる」と強調し。
*
モンマルトルの諸事件を討議。エンゲルスは、運動の人民的性格を指摘、中央委員会には、「有名な」人物は1人もいないとのブルジョア新聞報道を解説し、中央委員会はパリの人民大衆を代表する民主的な機関であると定義し、また、ドイツの占領軍を「闘争からはなしておくことができる」限り、「成功のみこみは大きくなる」と強調し。
*
・ベルリン。ビスマルク、フランスの捕虜の送還停止を指令。ドイツの反動新開、パリの事態について中傷的論文と、ティエールの反乱鎮圧を援助せよとの呼びかけ発表。
*
*
・ミラノ。民主的な機関紙「ガゼッティーノ・ローザ」、パリの事件を解説し、パリで「偉大な諸原則が宣言されている」、「フランスはヨーロッパの進歩の道をてらす燈台となるであろう」と述べる。
*
to be continued
2008年11月16日日曜日
1871年3月(3)ジャコバンの見果てぬ夢か・・・
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パリ・コミューンは、ナポレオン第2帝政を打倒した共和派に対する民衆派の叛乱であると、私は捉えています。共和派は、民衆を利用(動員)してしか帝政を倒すことはできなかった。しかし、自分たちの目的を達成すると、この貧乏人が邪魔になる。一方、民衆の前には、いつも「パンの問題」が横たわっている。
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3月18日、政府軍の闇討ちを排除した中央委員会(=コミューン)は、自らの存在の定義付け(権力の合法性の理屈付け)に悩みつつ、統治のための布告を徐々に出してゆくが、その布告に貫かれているものが、私の云う「ジャコバンの(見果てぬ)夢」であると、私には思える。ルソー、ヴォルテール、モンテスキューに啓示を与えられ、ロベスピエールやサン・ジュストらが実現しようとして果たせず、1830年、1848年でも果たせなかったもの。
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それは、人間の「自由」「平等」の理想を実現しようという「夢」だと思う。急進共和派、ブランキ派、インター派、また書物には書かれていないが多数の正義派(仁義派と云うべきか)などの人々を内部に抱えながら、更にパンの問題解決を最優先させねばならない人々をも含め、運動を一本にするために、この「夢」を統合概念とする結論に辿り着いたのではないか。
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マルクスなど国外のインター派は、この「内乱」を勉強材料として、更に自分たちの叛乱(内乱)~革命の思想・技術の補強に活用した。そして、・・・「夢」は叶えられたのか?
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しかし、パリのコミューンの人々はまだ幸せである。明治17(1884)年11月の秩父の人々に比べれば。秩父の人々が「パン」のみで闘ったとは考えたくはないが、その時の思想家、民権家、「旦那」衆は、「夢」さえも提示し得なかったのではないか。
秩父の闘いは、近々に「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」としてお目見えするはずです。
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いつかパリに行くことがあれば、コミューン戦士の再期の場所ペール・ラシェーズ墓地(佐伯祐三の墓もある)、民衆の住んだフォーブール・サンタントワーヌ街に行ってみたいと思う。それから、大佛次郎さんの「パリ燃ゆ」、まだ読んでないので読まなきゃ。
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フランス大革命も、「黙翁年表」には未完ながらも分厚くあるが、買ってそのままになっていたミシュレ「フランス革命史」(中公文庫上下)を整理しているので、これが終わったら出現するはず。マチエとルフェーブルの岩波文庫は完了。
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■1871年3月19,20日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
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3月19日
・午前9時~、国民軍中央委員会会議(エドゥアール・モロー司会)、バリ情勢を審議。
・午前9時~、国民軍中央委員会会議(エドゥアール・モロー司会)、バリ情勢を審議。
コミューン選挙についての中央委員会アピールを採択。中央委員の任務を分担。その代表委員を各庁舎に派遣(ヴァルランとジュールドを大蔵省へ、ウードを陸軍省へ、デュヴァルとリゴーを警視庁へ、パスカル・グルーセを外務省へ、グロリエとヴァイヤンを内務省へ、等々)。
「パリ市の自治行政を、ただちに組織するために」、パリ市会(コミューン)選挙を3月22日に行う決定。
セーヌ県の戒厳状態廃止と軍法会議廃止、全ての政治犯に対する恩赦及び全ての政治犯の釈放についての国民軍中央委員会の決定。
出版の自由尊重についての声明。
ドイツとの暫定平和条件を承認。
国民軍中央委員会とパリの区長、代議士代表者との会談。
「パリ市の自治行政を、ただちに組織するために」、パリ市会(コミューン)選挙を3月22日に行う決定。
セーヌ県の戒厳状態廃止と軍法会議廃止、全ての政治犯に対する恩赦及び全ての政治犯の釈放についての国民軍中央委員会の決定。
出版の自由尊重についての声明。
ドイツとの暫定平和条件を承認。
国民軍中央委員会とパリの区長、代議士代表者との会談。
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19日~28日、国民軍中央委員会がパリを統治する最初の政府である。
19日~28日、国民軍中央委員会がパリを統治する最初の政府である。
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中央委員会会議で、デュヴァルが、高級官吏が記録文書、金庫の鍵、金庫を持ち去ったこと、パリ中央部の区やブルジョア派の区長たちが動揺していること、若干の兵士集団がパリから逃亡する噂が流れていることを知らせ、パリの市門を閉じ、パリの出入を取締るべきと提案する。人々は耳をかさず。
デュヴアルは、速やかに攻勢に出て、退却中の政府軍を粉砕、進んでヴェルサイユに進撃し、国民議会を解散、新たに全国的選挙を組織せよと積極論を主張。
モローは、「私は市庁舎に席を占めようなどとは考えたことはない、しかし事態がこうなった以上は、すみやかに選挙を施行し、都市行政を担当し、パリを奇襲から保護しようとするわれわれの意志を明らかにしなければならぬ」「われわれはパリの権利を確保する権限を与えられているだけである、地方もまたわれわれと同様に考えるならば、われわれの例にならうであろう」と、守勢的立場を固持。
中央委員会の大勢は、モローの起草した穏健な声明書の発表に同意。
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中央委員会会議で、デュヴァルが、高級官吏が記録文書、金庫の鍵、金庫を持ち去ったこと、パリ中央部の区やブルジョア派の区長たちが動揺していること、若干の兵士集団がパリから逃亡する噂が流れていることを知らせ、パリの市門を閉じ、パリの出入を取締るべきと提案する。人々は耳をかさず。
デュヴアルは、速やかに攻勢に出て、退却中の政府軍を粉砕、進んでヴェルサイユに進撃し、国民議会を解散、新たに全国的選挙を組織せよと積極論を主張。
モローは、「私は市庁舎に席を占めようなどとは考えたことはない、しかし事態がこうなった以上は、すみやかに選挙を施行し、都市行政を担当し、パリを奇襲から保護しようとするわれわれの意志を明らかにしなければならぬ」「われわれはパリの権利を確保する権限を与えられているだけである、地方もまたわれわれと同様に考えるならば、われわれの例にならうであろう」と、守勢的立場を固持。
中央委員会の大勢は、モローの起草した穏健な声明書の発表に同意。
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「市民諸君! パリ民衆は、平静に、自力にたいする自信に満ち、恐怖に陥らず、挑発に乗らず、共和制を侵害しようとする愚者どもを待った・・・パリとフランスは、協力して、久しい以前からのあこがれである共和国の基礎を築くであろう。いまこそ、侵略と内乱に永久の終止符をうつ時代である。パリ民衆は、自分たちの居住地区にかえって、市会選挙を実行しなければならぬ・・・」
「国民衛兵は、パリとわれわれの権利防衛を組織する義務を遂行した。国民衛兵の献身的勇気と讃嘆すべき冷静さのお陰で、われわれは、われわれを裏切った政府を放逐した。いまやわれわれに委託された任務は履行されたので、われわれは、われわれの権限を人民に返そうと思う、なぜならばわれわれは、人民の圧力で放逐された連中に取って代わろうとするものではないからである。市会選挙を準備し、猶予なくこれを実行せよ。・・・その結果が判明するまで、われわれは人民の名において市庁舎にとどまるであろう。」
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「国民衛兵は、パリとわれわれの権利防衛を組織する義務を遂行した。国民衛兵の献身的勇気と讃嘆すべき冷静さのお陰で、われわれは、われわれを裏切った政府を放逐した。いまやわれわれに委託された任務は履行されたので、われわれは、われわれの権限を人民に返そうと思う、なぜならばわれわれは、人民の圧力で放逐された連中に取って代わろうとするものではないからである。市会選挙を準備し、猶予なくこれを実行せよ。・・・その結果が判明するまで、われわれは人民の名において市庁舎にとどまるであろう。」
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・国民軍諸部隊、公共官衙・国立印刷所を占拠。
前日中央委員会によって、国民衛兵総司令官に任命された前海軍将校リュリエは、疲労困憊してヴェルサイユへ逃散する政府軍隊追撃を怠り、モン・ヴアレリアンのようなバリ~ヴェルサイユ間の最も重要な戦略的重要地点奪取もせず、政府軍粉砕の絶好の機会を失す。
新権力の財源確保の為に不可欠な「フランス銀行」接収を考える者さえいない。
ただ選挙までの期間、暫定的に行政事務を管理する為、諸種の主要官公庁は接収される。ヴァルランとジュールドが大蔵省、デュヴァルとリゴーが警視庁、アッシが市庁舎、エドアール・モローが官報発行当局に赴き、管理することとなる。
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前日中央委員会によって、国民衛兵総司令官に任命された前海軍将校リュリエは、疲労困憊してヴェルサイユへ逃散する政府軍隊追撃を怠り、モン・ヴアレリアンのようなバリ~ヴェルサイユ間の最も重要な戦略的重要地点奪取もせず、政府軍粉砕の絶好の機会を失す。
新権力の財源確保の為に不可欠な「フランス銀行」接収を考える者さえいない。
ただ選挙までの期間、暫定的に行政事務を管理する為、諸種の主要官公庁は接収される。ヴァルランとジュールドが大蔵省、デュヴァルとリゴーが警視庁、アッシが市庁舎、エドアール・モローが官報発行当局に赴き、管理することとなる。
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・大蔵省に派遣された国民軍中央委員会代表ヴァルランとジュールド、ロスチャイルド氏から50万フランを前借りし、これを各区に分配。
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国民衛兵は30スーの日当を待っている。国庫の金庫には500万フラン(金貨)があるが、出納係はヴェルサイユにいる。ヴァルランとジュールドは、合鍵で金庫を開ける合法的権限も支払命令書も持っていない。彼らは、法律や偏見を超越しているロスチャイルドに会い、取引を提案。革命派に金を貸す事で、安全にパリに留まり、事業を監督することが許される。彼は、規定に従って、受取と引き換えに50万フラン(1日分の俸給)を前貸しする。
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・夜、中央委員会の会議。
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・夜、中央委員会の会議。
彼らにとって最大の関心である権力の合法性の問題を巡る大論戦。
2時間の討論の後、代表4名が第2区区役所にいる区長・代議士のもとに派遣され交渉開始。
翌朝午前2時、妥協成立、中央委員会は専ら国民衛兵指揮と治安保持を担当、政治的行動から手を引くことになる。
ヴァルランら強硬派はこの妥協にあきたらず、これを無視しようとする。
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2時間の討論の後、代表4名が第2区区役所にいる区長・代議士のもとに派遣され交渉開始。
翌朝午前2時、妥協成立、中央委員会は専ら国民衛兵指揮と治安保持を担当、政治的行動から手を引くことになる。
ヴァルランら強硬派はこの妥協にあきたらず、これを無視しようとする。
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①区長・代議士を代表するクレマンソーの意見。
大砲が国家の所有に属する以上、国民衛兵がこれを奪還したのは不法であり、中央委員会がこれを指導したのは正当ではない。市民大衆は中央委員会を支持せず、区長および代議士を支持している。政府がパリに対し挑発的行動に出たことは遺憾であるが、パリにはフランスに対立する権利はない。パリは国民議会の権利を承認しなければならぬ。中央委員会が袋路から脱する方法は唯一つしかない、代議士および区長会議に全権を移し、これをもって国民議会との折衝機関たらしめるにある。
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大砲が国家の所有に属する以上、国民衛兵がこれを奪還したのは不法であり、中央委員会がこれを指導したのは正当ではない。市民大衆は中央委員会を支持せず、区長および代議士を支持している。政府がパリに対し挑発的行動に出たことは遺憾であるが、パリにはフランスに対立する権利はない。パリは国民議会の権利を承認しなければならぬ。中央委員会が袋路から脱する方法は唯一つしかない、代議士および区長会議に全権を移し、これをもって国民議会との折衝機関たらしめるにある。
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②代議士ミリエールはクレマンソーを支持し、中央委員会に自制を要求。
「一部の社会革命論者の主張するがごとき方向に進んでゆけば、新たな六月事件は不可避である。社会革命の時期はまだ始まっていない。もし諸君がこのことに思いを致さないならば、諸君自身のみならず全プロレタリアートを破滅に導くこととなろう。進歩は漸進的に行なわれる。今諸君の立っているところから下りよ。今日諸君は勝利者である。明日諸君の蜂起は粉砕されるであろう。現在の事態からできるだけ多くの利益を引出せ、あまり多くのものを獲得しようと望むな。代議士および区長にその地位を譲れ。諸君の信頼は裏切られるようなことはないであろう。」
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「一部の社会革命論者の主張するがごとき方向に進んでゆけば、新たな六月事件は不可避である。社会革命の時期はまだ始まっていない。もし諸君がこのことに思いを致さないならば、諸君自身のみならず全プロレタリアートを破滅に導くこととなろう。進歩は漸進的に行なわれる。今諸君の立っているところから下りよ。今日諸君は勝利者である。明日諸君の蜂起は粉砕されるであろう。現在の事態からできるだけ多くの利益を引出せ、あまり多くのものを獲得しようと望むな。代議士および区長にその地位を譲れ。諸君の信頼は裏切られるようなことはないであろう。」
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③中央委員プルシエは、中央委員会の行き過ぎを戒めるが、代議士・区長に全権を委ねることには反対。
「諸君は、全フランスのコンミュンの自由な連合について語った、しかしわれわれの任務は、まず選挙を行なうことにある。それからいかに発展するかは、人民自身がこれを決定するであろう。われわれの地位を、代議士および区長に譲ることは不可能である。かれらは、人民に信望なく、国民議会において権威を有しない。かれらの協力あるなしにかかわらず、選挙は行なわれるであろう。」
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「諸君は、全フランスのコンミュンの自由な連合について語った、しかしわれわれの任務は、まず選挙を行なうことにある。それからいかに発展するかは、人民自身がこれを決定するであろう。われわれの地位を、代議士および区長に譲ることは不可能である。かれらは、人民に信望なく、国民議会において権威を有しない。かれらの協力あるなしにかかわらず、選挙は行なわれるであろう。」
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④ヴァルラン、「われわれは市会を欲するのみならず、コンミュンの完全な自由、警視庁の廃止、国民衛兵が自らその将校を選出し、自ら組織を管理する権利、合法的国家形態としての共和制の布告、未払家賃の完全な棒引、満期手形に関する合理的法律、軍隊のパリ駐屯禁止を要求する。」
○[コミューン群像:ウジェーヌ・ヴァルラン]
1839年農民家庭に生まれ、第2帝政初め頃、パリに出稼ぎ。製本工として働き組合を組織。64ストライキ禁止法撤廃後、69年、パリの30以上の同職組合が連合会議所を組織。ヴァルランはこれに参画。これより先67年、彼は消費協同組合「主婦会」、68年協同組合的食堂網「釜」(~70)を組織。その間、第1インタナショナルに参加、65年春、パリ・ビューローに選出され、ロンドン協議会に出席。66年ジュネーヴ大会、69年バーゼル大会にも出席。インタナショナル活動の為に、たびたび裁判にかけられるが、68年5月の裁判での弁論は、インタナショナルの歴史・綱領を述べ、欧州各国後・ロシア語に翻訳される。70年9月4日の革命の際はベルギーに滞在。パリに戻り、国民軍第193大隊長に任命される。70年10月8日のデモ、10月31日の蜂起、71年1月22日の蜂起に積極的に参加。国民軍中央委員となる。
3月18日の蜂起後、同時に二つの区(第6、18区)からパリ・コミューン議員に選ばれ、財政委員部委員となる。4月21日から食料委員部委員、5月2日から国民軍供給局長、5月5日から軍事委員部委員となる。公安委員会設置には反対投票をし「少数派」宣言に署名。5月の諸戦闘の頃、第6区及び第15区の防衛を指導、25~27日、軍事問題民間代表委員としてバリケード戦闘を指導。28日ヴェルサイユ軍に逮捕され、裁判なしに銃殺。
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○[コミューン群像:ウジェーヌ・ヴァルラン]
1839年農民家庭に生まれ、第2帝政初め頃、パリに出稼ぎ。製本工として働き組合を組織。64ストライキ禁止法撤廃後、69年、パリの30以上の同職組合が連合会議所を組織。ヴァルランはこれに参画。これより先67年、彼は消費協同組合「主婦会」、68年協同組合的食堂網「釜」(~70)を組織。その間、第1インタナショナルに参加、65年春、パリ・ビューローに選出され、ロンドン協議会に出席。66年ジュネーヴ大会、69年バーゼル大会にも出席。インタナショナル活動の為に、たびたび裁判にかけられるが、68年5月の裁判での弁論は、インタナショナルの歴史・綱領を述べ、欧州各国後・ロシア語に翻訳される。70年9月4日の革命の際はベルギーに滞在。パリに戻り、国民軍第193大隊長に任命される。70年10月8日のデモ、10月31日の蜂起、71年1月22日の蜂起に積極的に参加。国民軍中央委員となる。
3月18日の蜂起後、同時に二つの区(第6、18区)からパリ・コミューン議員に選ばれ、財政委員部委員となる。4月21日から食料委員部委員、5月2日から国民軍供給局長、5月5日から軍事委員部委員となる。公安委員会設置には反対投票をし「少数派」宣言に署名。5月の諸戦闘の頃、第6区及び第15区の防衛を指導、25~27日、軍事問題民間代表委員としてバリケード戦闘を指導。28日ヴェルサイユ軍に逮捕され、裁判なしに銃殺。
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・ヴェルサイユ、この日の国民議会。
クレマンソー、パリ選出議員ルイ・ブランら、国民軍連盟中央委員会に対する批判派の調停に奔走。
クレマソソーやルイ・ブランその他パリ出身代議士は、22日に予定のコミューン選挙を阻止する為、国民議会に対してパリの新市制に関する提案審議を要請。ティエールは、この提案の緊急性を認めず、「強盗や殺人者の党を譲歩によって懐柔させることはできない」と答える。
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クレマンソー、パリ選出議員ルイ・ブランら、国民軍連盟中央委員会に対する批判派の調停に奔走。
クレマソソーやルイ・ブランその他パリ出身代議士は、22日に予定のコミューン選挙を阻止する為、国民議会に対してパリの新市制に関する提案審議を要請。ティエールは、この提案の緊急性を認めず、「強盗や殺人者の党を譲歩によって懐柔させることはできない」と答える。
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ジュール・ファーヴルの演説。
「パリは、国民議会の権利にたいして、血で汚れた強盗の理想をおしつけようとする一群の無頼漢の・・・しかし無頼漢どもよ、忘れるな、われわれがパリを去ったのは、やがて再びそこに帰って、お前たちと決戦を行なわんためであることを。・・・断じて弱気を見せてはならぬ、断じて憐憫の気持をおこしてはならぬ。フランスは、首府を血にまみれさせようとしているこれらの無頼漢の支配には陥らぬであろう。」
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「パリは、国民議会の権利にたいして、血で汚れた強盗の理想をおしつけようとする一群の無頼漢の・・・しかし無頼漢どもよ、忘れるな、われわれがパリを去ったのは、やがて再びそこに帰って、お前たちと決戦を行なわんためであることを。・・・断じて弱気を見せてはならぬ、断じて憐憫の気持をおこしてはならぬ。フランスは、首府を血にまみれさせようとしているこれらの無頼漢の支配には陥らぬであろう。」
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・ヴェルサイユ。
ティエール、唯一の「合法的権力」ヴェルサイユ政府の命令だけを遂行するように各県知事へ指令。セセ提督をセーヌ県国民軍司令官に任命。
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・ティエール政府、「四万の軍隊は秩序整然とヴェルサイユに集結した」と発表。実際は、正規軍4万の内ヴェルサイユに引上げたのは戦意を欠いた2万2千のみ。
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ティエール、唯一の「合法的権力」ヴェルサイユ政府の命令だけを遂行するように各県知事へ指令。セセ提督をセーヌ県国民軍司令官に任命。
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・ティエール政府、「四万の軍隊は秩序整然とヴェルサイユに集結した」と発表。実際は、正規軍4万の内ヴェルサイユに引上げたのは戦意を欠いた2万2千のみ。
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・マルセイユ、リヨン、ボルドーなど地方都市でコミューン成立。
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・アルジジェリア、反乱したアラビア人に、モクラニの弟、アーマド、プーメズラグの指揮する諸部隊が参加。
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・アルジジェリア、反乱したアラビア人に、モクラニの弟、アーマド、プーメズラグの指揮する諸部隊が参加。
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・ロンドン、マルクスとエンゲルス、パリの18日の諸事件について知る。
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3月20日
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・中央委員会、区長・代議士のパリ市庁舎接収を拒否。前夜の妥協を受け入れず。中央委員会は再び非妥協派が大勢を占めるに至る。
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・中央委員会、刑事犯罪に対する措置についての呼びかけを採択。
質入れ物品の売却についてのティエール政府の決定を撤回。
商業手形支払期限1ヶ月延期。
家賃不払い居住者を、家主が追いだすことを禁止する事など決定。
ドイツとの平和条件遵守の意向と、戦争賠償金の大部分を、戦争犯罪人に支払わせるぺきとの声明。
21日以後、国民軍兵士の給料を、規則正しく支払うことを決定。
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・中央委員会、刑事犯罪に対する措置についての呼びかけを採択。
質入れ物品の売却についてのティエール政府の決定を撤回。
商業手形支払期限1ヶ月延期。
家賃不払い居住者を、家主が追いだすことを禁止する事など決定。
ドイツとの平和条件遵守の意向と、戦争賠償金の大部分を、戦争犯罪人に支払わせるぺきとの声明。
21日以後、国民軍兵士の給料を、規則正しく支払うことを決定。
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・国民軍中央委員会代表ヴァルランとジュールド、フランス銀行で100万フランを受取り、これを各区に分配。
総裁ルーランが、ヴァルランとジュールドに100万フランを前貸し。中央委員会はその日暮らしをする事になる。100万フランがなくなると、もう少し強い圧力によって、新しい貸付けを獲得。やがて、勇敢なコミューン派のベレーがここに事務室と部屋を持つが、副総裁ド・プルークに操られるままになる。
副総裁はコミューンに対し1500万フランを小出しに調達するが、他方、ヴェルサイユで振り出した2億6千万フランほどの手形に保証を与える。
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総裁ルーランが、ヴァルランとジュールドに100万フランを前貸し。中央委員会はその日暮らしをする事になる。100万フランがなくなると、もう少し強い圧力によって、新しい貸付けを獲得。やがて、勇敢なコミューン派のベレーがここに事務室と部屋を持つが、副総裁ド・プルークに操られるままになる。
副総裁はコミューンに対し1500万フランを小出しに調達するが、他方、ヴェルサイユで振り出した2億6千万フランほどの手形に保証を与える。
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・「ジュルナル・オフィシエル・ド・ラ・レピュプリク・フランセーズ」(「フランス共和国官報」)を、新しい革命権力の機関紙として発行。この日、連盟兵3大隊で「官報」の建物を占拠。「官報」は、議会とヴェルサイユ政府の決定や演説、ならびに「合法的」区長達の声明を引き続き印刷している。
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この日付けの「官報」は、3月22日を期して市会選挙を行なうと発表。
[中央委員会布告]
「中央委員会はなんら秘密なたくらみをもっていない、その成員はあらゆる布告にその名前を署名してきた・・・政府はパリを誹謗し、地方を首府にけしかけた・・・政府はわれわれの武装を解除しようとした・・・中央委員会はこれらの攻撃に対していかに答えたか? 連合組織を作り、節度と寛大を教えた・・・われわれにたいする政府の憤怒の最も大きな原因の一つは、われわれの間に名士がいないということである。世の中には名士がたくさんいる、これらの名士がいかに多くの不幸をもたらしたことであろう・・・名声を博することは雑作のないことである、若干の空虚な美辞麗句と少しばかりの卑劣な精神をもっていれば足りる。最近の経験がそれを証明した・・・責任重大なる使命を課されたわれわれは、動揺することなく、恐怖することなく、これを遂行した。今や、われわれは民衆に向かって叫ぶ、さあここに諸君によってわれわれに委ねられた権力がある。数日前まで無名の人物であったわれわれは再び諸君の間に帰ってゆく、そして支配階級にたいして示すであろう、民衆からかたい握手を受けることを確信する者は、頭を高く上げて、市庁舎の階段を降り得るということを。」
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・パリの諸監獄から政治犯人の最後の人々1万1千を釈放。セイヌ県国民軍共和連盟規約の発表。
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・パリの区長・代議士たち、国民軍中央委員会の権力を認める事を拒否。
*
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・作家エドモン・ド・ゴンクールのこの日付け日記。
バリのプロレタリアートに対する敵意を隠していない。
「こうしていま、フランスとパリは労働者の支配下にある。労働者たちは、自分たちだけからなる政府をわれわれにあたえた。いつまでつづくだろうか? だれもしらない。あてにならない権力!」。
幾日か後には、「権力は有産者から去って、無産者にうつっている」と書く。
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バリのプロレタリアートに対する敵意を隠していない。
「こうしていま、フランスとパリは労働者の支配下にある。労働者たちは、自分たちだけからなる政府をわれわれにあたえた。いつまでつづくだろうか? だれもしらない。あてにならない権力!」。
幾日か後には、「権力は有産者から去って、無産者にうつっている」と書く。
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・ヴェルサイユ。国民議会会議開会。
セーヌ・エ・オアーズ県を戒厳状態におく声明。
ヴェルサイユ政府内相E・ピカール、パリの「官報」を差押さえる命令。
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セーヌ・エ・オアーズ県を戒厳状態におく声明。
ヴェルサイユ政府内相E・ピカール、パリの「官報」を差押さえる命令。
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・ヴェルサイユの防衛態勢。この日早朝、ヴィノワ将軍がモン・ヴァレリアンを再占領するが、南方の5砦は殆ど無防備。
最短路であるセーヴルとサン・クルーでセーヌ川を渡る道は憲兵隊が守備(ドーデル旅団とともに政府側で最も信頼のおける軍)。その背後にはラ・マリューズ将軍率いる旅団第35、42歩兵部隊が援護する。パリから南を迂回してヴェルサイユに迫るルートはデロージャ旅団第109、110部隊はヴェルジーに布陣して監視。ガリフェ将軍は騎馬旅団第9、12軽騎兵隊を率い、無人地帯をパトロール。しかし、この程度の防備ではパリの大攻撃の前にはひとたまりもない状況。
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最短路であるセーヴルとサン・クルーでセーヌ川を渡る道は憲兵隊が守備(ドーデル旅団とともに政府側で最も信頼のおける軍)。その背後にはラ・マリューズ将軍率いる旅団第35、42歩兵部隊が援護する。パリから南を迂回してヴェルサイユに迫るルートはデロージャ旅団第109、110部隊はヴェルジーに布陣して監視。ガリフェ将軍は騎馬旅団第9、12軽騎兵隊を率い、無人地帯をパトロール。しかし、この程度の防備ではパリの大攻撃の前にはひとたまりもない状況。
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・アルジェリア。植民地住民蜂起が拡大。アルジェ市のフランス移住民に、パリの事件についての報道が広がる。各クラブで会合、当局に対し威嚇するような弁士たちの演説。
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・ベルリン。総参謀長官モルトケ元帥、休戦条件に署名した政府がフランスに存続することについてドイツは関心を持っていると、ドイツ軍司令部へ説明。パリの事件については、ドイツ軍が蜂起者に攻撃されない限り、待機的立場を堅持すると命令。パリ地区にドイツ軍を払密裡に集結する命令。ビスマルク、首都の反乱鎮圧の為、ドイツ軍はヴェルサイユ軍を援助するとティエールへ提案。
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to be continued to March 1871(4)
2008年11月15日土曜日
1871年3月18日 (2)ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ パリ蜂起
昨日の石碑の傍にある説明用看板。中身は下記。
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「永禄12年(1269年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天守」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より) その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。
「永禄12年(1269年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天守」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より) その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。
所在地 : 京都市上京区烏丸下立売
築城者 : 織田信長
形 式 : 平城
築城年 : 1569年(永禄12年)」
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■1871年3月18日 パリ・コミューンの1日 「未完の黙翁年表」より
・政府軍の奇襲失敗、民衆蜂起。ティエール、ヴェルサイユへ逃亡。2将軍銃殺。午後10時30分、市庁舎占拠。
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[計画]
[計画]
①シュビエル師団はルコント・パテュエル2旅団におりモンマルトルの丘を制し大砲を奪回。
②ファロン師団はベルヴィルに向かい、ビュット・ショーモンにラ・マリューズ旅団を派遣。
③モードゥイ師団はウォルフ旅団をバスティーユに、アンリオン旅団をテュイルリーとリュクサンプールに派遣。
④予備軍としてポシェ旅団が廃兵院と陸軍士官学校に向かい、そこに駐留。
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パリの大砲は17地点に据えられ、有名な大砲は、パリを見下す高台に集められている。ビュット・モンマルトル(新型大砲91門など計171門)。ビュット・ショーモン(旧型12口径22門・新型7口径24門など計52門)。フランドル街ラ・マルセイエーズ公会堂(城壁から持って来た旧型31門)。ラ・シャベル(旧型22門など計43門)。クリシー(大砲8門など計10門)。ベルヴィル(改装砲6門など計22門)。メニルモンタン(新型12門など計70門)。総計417門。
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②ファロン師団はベルヴィルに向かい、ビュット・ショーモンにラ・マリューズ旅団を派遣。
③モードゥイ師団はウォルフ旅団をバスティーユに、アンリオン旅団をテュイルリーとリュクサンプールに派遣。
④予備軍としてポシェ旅団が廃兵院と陸軍士官学校に向かい、そこに駐留。
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パリの大砲は17地点に据えられ、有名な大砲は、パリを見下す高台に集められている。ビュット・モンマルトル(新型大砲91門など計171門)。ビュット・ショーモン(旧型12口径22門・新型7口径24門など計52門)。フランドル街ラ・マルセイエーズ公会堂(城壁から持って来た旧型31門)。ラ・シャベル(旧型22門など計43門)。クリシー(大砲8門など計10門)。ベルヴィル(改装砲6門など計22門)。メニルモンタン(新型12門など計70門)。総計417門。
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・夜の初め、ある将軍が、シャトー・ドーの兵営で、第120戦列歩兵隊第3大隊を兵営に残し兵営を防備態勢におくこと、第1大隊にタンプル場末町を、第2大隊にロワイヤル広場の占領を命令。また、一切の不穏集団には無警告で発砲せよと指示(第120戦列歩兵隊は国民衛兵が眼前に現われる時、潰走)。
同じ頃、1人の特務曹長が、モンマルトルの衛兵哨所に立ち寄り、区長クレマンソーの偽の撤退命令を伝令、人々は従い、モンマルトルには7人とムーラン・ド・ラ・ギャレットにいる僅かな分遣隊が残るのみ。
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同じ頃、1人の特務曹長が、モンマルトルの衛兵哨所に立ち寄り、区長クレマンソーの偽の撤退命令を伝令、人々は従い、モンマルトルには7人とムーラン・ド・ラ・ギャレットにいる僅かな分遣隊が残るのみ。
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・0時~午前2時、ルーヴル宮で政府軍の作戦会議。目的は、大砲奪取、衛兵の武装解除、委員会占領、メンバー逮捕、家宅捜査。
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[パリ軍最高司令官ヴィノワの計画]
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[パリ軍最高司令官ヴィノワの計画]
モンマルトル攻撃は2旅団(パチュレル、ルコント両将軍)からなるシュビエル師団が担当。
①パチュレル旅団は、猟歩兵1大隊、第17大隊(第76戦列歩兵2大隊)、第88歩兵部隊3大隊(猟歩兵1大隊、第18大隊)、憲兵隊半中隊、工兵半中隊、武装警官を包含し、クリシー広場~サントゥアン大通り~マルカデ街~ソール街~モンマルトル墓地~ノルヴァン街を~ムーラン・ド・ラ・ギャレット公園へ向う。この間、1大隊がビェットの下、北と西側に布陣し、猟歩兵第17大隊は、シュビエル師団の将軍の指揮下におかれ、クリシー大通りとピガール広場に、憲兵と大砲2門をもって予備として残される。
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②ルコント将軍は、第88歩兵部隊2大隊、警官、憲兵、工兵半中隊と共にモン・スニ街を通り、ビュット・モンマルトルに登り、丘の東部を占領すべく、ロシュシュアール大通りに予備軍(猟歩兵第18大隊、砲兵1中隊、第88歩兵部隊第3大隊)を温存する。
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①パチュレル旅団は、猟歩兵1大隊、第17大隊(第76戦列歩兵2大隊)、第88歩兵部隊3大隊(猟歩兵1大隊、第18大隊)、憲兵隊半中隊、工兵半中隊、武装警官を包含し、クリシー広場~サントゥアン大通り~マルカデ街~ソール街~モンマルトル墓地~ノルヴァン街を~ムーラン・ド・ラ・ギャレット公園へ向う。この間、1大隊がビェットの下、北と西側に布陣し、猟歩兵第17大隊は、シュビエル師団の将軍の指揮下におかれ、クリシー大通りとピガール広場に、憲兵と大砲2門をもって予備として残される。
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②ルコント将軍は、第88歩兵部隊2大隊、警官、憲兵、工兵半中隊と共にモン・スニ街を通り、ビュット・モンマルトルに登り、丘の東部を占領すべく、ロシュシュアール大通りに予備軍(猟歩兵第18大隊、砲兵1中隊、第88歩兵部隊第3大隊)を温存する。
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歩兵部隊の大部分は、この月2日にル・アーヴル発。マラコフ大通り、エトワール広場、トロカデロ広場の付近に野営。パリが極めて平穏なのをみて、何人かの兵士は流布されていた噂に憤慨。17日夕方、何人かの兵士・下士官はが集会(例えばナシオン街のローエル酒場)に出席し、住民と親しくなり、以降、最も精力的な兵士達が、人民に発砲しないと公然と誓うに至る。従って、武装警官を部隊に配置する必要が生じる。
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[パリ全部の軍事占領計画]
モンマルトル(陣地の威力、大砲数、地区委員会や住民活動が活発さから特に重要地点)攻撃配置は、全労働者居住地区・戦略的地点(保塁、兵器廠、大通り、公共建造物)占領、パリ周辺地区住民の完全武装解除を目指す広範な計画の一部。
ファロン将軍は、ル・マリウズ将軍を指揮下におき、ベルヴィル、ビュット・ショーモンを占領、他の分遣隊はウォルフ、デロジャ、モーデュイ将軍指揮下に、バスチーユ広場、市庁舎を占領、アンリュー将軍は左岸を包囲、第135戦列歩兵は全体の予備軍としてリュクサンプールとパンテオンに残される。
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ファロン将軍は、ル・マリウズ将軍を指揮下におき、ベルヴィル、ビュット・ショーモンを占領、他の分遣隊はウォルフ、デロジャ、モーデュイ将軍指揮下に、バスチーユ広場、市庁舎を占領、アンリュー将軍は左岸を包囲、第135戦列歩兵は全体の予備軍としてリュクサンプールとパンテオンに残される。
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・0時~午前2時、政府軍作戦会議と同時刻、国民衛兵中央委員会も集会を開き、任務分担・委員会統合など組織作りを行い、新しく軍事委員会を任命、午前2時過ぎ、散会。(3時30分、国民軍中央委員会の任務分担についての会議終了、の記述もあり)
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・部隊2万はシャン・ゼリゼとコンコルド広場に集結、ラ・ぺー街~大通りへ進む。
午前2時半~3時、部隊は小分遣隊に分かれ、シュビエル師団はモンマルトルに向い、途中でマルチル街と外廻りの大通りを監視する為に榴弾砲を据え、騎兵・砲兵をビガール広場に配置。
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午前2時半~3時、部隊は小分遣隊に分かれ、シュビエル師団はモンマルトルに向い、途中でマルチル街と外廻りの大通りを監視する為に榴弾砲を据え、騎兵・砲兵をビガール広場に配置。
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・午前3時~4時、将軍達は、配下の憲兵・警官とヴァサル少佐率いる市警官・パリ意兵隊に攻撃開始命ず。
ロジェ街の中央委員会・地区委員会がルビック街の高みに据えた警砲は発射されず。
市警官がビュットを見下すソルフェリノ塔に近寄った時、ロジェ街委員会に配置された国民衛兵チュルパンに見つかり、彼を銃剣で打倒す(瀕死の重傷を負い、数日後没)。
襲撃者達は丘の上に出て、手薄すな哨所である第61大隊の6人を武装解除。次いで、監視委員会の置かれているロジェ街6番地に出て、そこを占拠する幾人かを捕虜としソルフェリノ塔地下室に投込む(数人は逃亡)。
この間、第18猟歩兵はプーサルグ少佐の命令下、丘上部に登り、工兵・猟歩兵は、大砲を保護する土塁、盛り土、塹壕を取壊す。
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市警官がビュットを見下すソルフェリノ塔に近寄った時、ロジェ街委員会に配置された国民衛兵チュルパンに見つかり、彼を銃剣で打倒す(瀕死の重傷を負い、数日後没)。
襲撃者達は丘の上に出て、手薄すな哨所である第61大隊の6人を武装解除。次いで、監視委員会の置かれているロジェ街6番地に出て、そこを占拠する幾人かを捕虜としソルフェリノ塔地下室に投込む(数人は逃亡)。
この間、第18猟歩兵はプーサルグ少佐の命令下、丘上部に登り、工兵・猟歩兵は、大砲を保護する土塁、盛り土、塹壕を取壊す。
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・5時~6時。パチュレル旅団は難なくモンマルトル北側から丘の上に到着、ムーラン・ド・ラ・ギャレットまでの丘の麓を占領。
テルトル広場の大砲を守備する国民軍兵士5~6人は逃亡。第17猟兵大隊は広場守備の為その場に残され、第76大隊3中隊と若干の警官が近くの通りに置かれた大砲13門を確保の為に送られる。残りは、国民軍阻止と武装解除の為にモンマルトルの丘の周囲に配置。
モンマルトルの下町の住民達は、寒さに凍え飢えに苦しむ兵士達を歓迎し、簡単な食事をすすめ、水筒の水を一杯にしてやる。兵士達はモンマルトルの住民と談笑を始め、「戦列万歳!ヴィノワを倒せ!」に唱和する者も出てくる。
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テルトル広場の大砲を守備する国民軍兵士5~6人は逃亡。第17猟兵大隊は広場守備の為その場に残され、第76大隊3中隊と若干の警官が近くの通りに置かれた大砲13門を確保の為に送られる。残りは、国民軍阻止と武装解除の為にモンマルトルの丘の周囲に配置。
モンマルトルの下町の住民達は、寒さに凍え飢えに苦しむ兵士達を歓迎し、簡単な食事をすすめ、水筒の水を一杯にしてやる。兵士達はモンマルトルの住民と談笑を始め、「戦列万歳!ヴィノワを倒せ!」に唱和する者も出てくる。
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・5時~6時。ルコント旅団はモンマルトルの高台を占領。ヴァサル少佐は、ルコント将軍に、大砲を押える為には更に兵員が必要と連絡。ルコントは直ちにソルフェリノ塔に向い第88戦列歩兵第2大隊を派遣。陣地を奪取し、大砲を捕獲させる。ルコント将軍は勝ったと思う。
ルコント将軍が陣地を巡視し、重傷の衛兵チュルバンと傍にいるルイズ・ミシェルを見付けた時、クレマンソーが、「区長、クレマンソー、医者です」と声をかけ、将軍に対し、政府と軍当局が交渉を継続しなかった事に遺憾の意を表明、攻撃に抗議し、地区の平静の保証、負傷者の病院への運搬、負傷者の応急手当を、要望。将軍は反対するものの、区長を阻止せず通り過ぎる。クレマンソーはその場を離れ、幾人かが後に続き、兵士の警戒線を突破し、警報を広める。
クレマンソーがサン・ピエール広場の上に着いた時、群集は彼を取り巻き、大砲とモンマルトルをヴィノワとティエールに売り渡したと責め、「裏切者」と呼ぶ。誰かが「大砲をとり戻そう!」と呼ばなければ、群集に八つ裂きにされるところ。
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コンコルドに集められた馬が到着せず、大砲の通行を妨害する塹壕・盛土の取壊しが遅々としてはかどらず、大砲の幾門かは、ルコントの命令により手で曳かれ、或いは彼の持つ僅かの馬に繋がれ坂を下る。
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・5時55分、警視総監ヴァランタンは、軍はモンマルトルを押え、ウォルフ、アンリュー両将軍はパスチーユとシテ島を占領したと、司令部(ヴィノワ)に連絡。数分後、ベルヴィル占領の報が届く。
しかし、同じ頃、フアロン将軍の部下は、国民衛兵との最初の接触以来、服従を拒否し、将軍はベルヴィル区役所周囲に砲列を敷く事ができず、後退命令を与え、ようやく連隊の全般的潰走を回避。彼は、ビュット・ショーモン公園に達す事ができず、退却途中で彼自身の大砲を放棄。
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・6時頃、大砲約50門がビュツトの下にある。
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・6時~7時、第18(モンマルトル)、13、14、5区の監視委員会の出した警報(空砲)、広がる。
□「三月一八日、モンマルトルの女たち、ビュットに接する街々を埋めた女たちは、反動的な文学が想像したようなものでは決してなかった。・・・彼女たちは苦痛に充たされ、ついで気高く、真に人間的となって、国民衛兵と軍隊の間の群れをなして立ちふさがり、発砲命令を与えたこれらの指揮官に服従しないよう軍隊の兄弟に懇願するのだ」(ダ・コスタ)
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□「三月一八日、モンマルトルの女たち、ビュットに接する街々を埋めた女たちは、反動的な文学が想像したようなものでは決してなかった。・・・彼女たちは苦痛に充たされ、ついで気高く、真に人間的となって、国民衛兵と軍隊の間の群れをなして立ちふさがり、発砲命令を与えたこれらの指揮官に服従しないよう軍隊の兄弟に懇願するのだ」(ダ・コスタ)
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・午前7時~8時、大群集が兵士を取り巻き、大砲輸送を麻痺させる。市民は、背嚢を持たず腹をすかし、喉が渇いている兵卒にパンやブドウ酒を提供するために金を出し合い、おしゃべりがはじまる。
「軍隊万歳!」の叫びがあがり、カフェや居酒屋が開かれ、女房達は兵士の為にささやかな買置きをテーブルに並べる。幾人かの兵士は銃を1杯のブドウ酒と交換。興奮した大衆は共同体となり、共信者となる。女達は公然と士官を批判し、「この大砲をどこへ持ってゆくの。ベルリンなの。」と叫ぶ。下士官の叫びと威嚇で、隊列が崩れたり、作られたり、また崩れたりする。
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「軍隊万歳!」の叫びがあがり、カフェや居酒屋が開かれ、女房達は兵士の為にささやかな買置きをテーブルに並べる。幾人かの兵士は銃を1杯のブドウ酒と交換。興奮した大衆は共同体となり、共信者となる。女達は公然と士官を批判し、「この大砲をどこへ持ってゆくの。ベルリンなの。」と叫ぶ。下士官の叫びと威嚇で、隊列が崩れたり、作られたり、また崩れたりする。
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・7時、政府軍部隊、モンマルトルから大砲撤収。婦人・国民軍兵士の抵抗。国民軍のブルジョア的な諸大隊を結集しようとする当局の試みは失敗。反乱人民によるバリケードの構築。
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・8時頃、ピジェールという名の士官が、明け方に、ドゥドーヴィル街で急ぎ集めた国民衛兵1縦隊300人が行進、オルナノ大通りで戦列歩兵1分遣隊に出遭い、すぐに親睦が生まれる。更に行進を続け、ルピック街で、通りを下る馬に曳かれた1門の大砲の前に出る。
そこへ、「女たち、子供たち、密集した一団は、上げ潮の波のように坂道をのぼってきた。砲兵は通路を切りひらこうとしたが無駄だった。
人間の大波がすべてを浸し、砲架や弾薬車の上、車輪や馬の足元にすべりこみ、大砲を曳く馬を空しく鞭うつ馭者の努力をまひさせる。」「とくに女たちは激怒して叫んだ。馬を切り離せ!あっちへ行け!あたし達は大砲がいるのだ!大砲を手にいれよう」(「コミューンの真相」)。大砲は奪回される。
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そこへ、「女たち、子供たち、密集した一団は、上げ潮の波のように坂道をのぼってきた。砲兵は通路を切りひらこうとしたが無駄だった。
人間の大波がすべてを浸し、砲架や弾薬車の上、車輪や馬の足元にすべりこみ、大砲を曳く馬を空しく鞭うつ馭者の努力をまひさせる。」「とくに女たちは激怒して叫んだ。馬を切り離せ!あっちへ行け!あたし達は大砲がいるのだ!大砲を手にいれよう」(「コミューンの真相」)。大砲は奪回される。
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大砲奪回直後、国民衛兵は、憲兵の強力な分隊がサント・マリ街の上部の進出点に集結しているのを知り、そこへ向かう。憲兵は夜のうちに多くの人々を逮捕し投獄し、叛徒側に移った部隊の兵士達は囚人救出を望む。ビジェールの衛兵が、虐殺や憲兵との戦闘回避の為、先頭に立って進み、闘う事なくサント・マリ街で憲兵隊を降伏させる。
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第88戦列歩兵の全大隊は、依然無傷のままムーラン・ド・ラ・ギャレットに立て籠もる。ビジェールは降服を呼び掛けるが、指揮官はこれを拒否。しかし、大隊兵士は指揮官を残して退却。ビジェールの衛兵部隊は、大砲を奪回し、憲兵と第88戦列歩兵1大隊の武装を解除。
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連盟兵第79大隊がルコント将軍を逮捕。
ルコント将軍は、夜のうちに市警官が国民衛兵から奪取したロジェ街の哨所周辺を掩護し、ビュットの頂上を占領。捕虜の衛兵と発砲拒否の兵士は、哨所に閉じ込められる。ソルフェリノ塔の右側に、連盟兵第79大隊が停止し、士官2人が軍使として前進し降服を勧告。
ルコント将軍は、衛兵・群衆に対して発砲を命令するが、部隊はその命令を拒否。次に、将軍は、憲兵・市警官に発砲を命令。猟歩兵・連盟兵・群衆が憲兵に襲い掛かり武装解除、80人を区役所に監禁。ルコント将軍も逮捕される。
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モンマルトル、群集と衛兵は頂上台地にまで侵入。
8時30分頃、ヴェルダァニェ軍曹を先頭とする小部隊が砲座に進出するが、押し返えされる。
プーサルグ少佐はルコントに新しい命令を要求し、ルコントは、もし衛兵と群集が30歩以内に接近したら発砲せよ、と命令。
少し遅れて、ガルサン大尉指揮下の衛兵部隊多数が到着し、群集がこれに続く。ヴェルダァニェが、「同志よ、武器を置け」と最初に叫ぶ。第88戦列歩兵は、第152、228衛兵大隊の分遣隊と交歓し、一緒に、最も危険な分子(市警官)の武装を解除。警官の多くは警官と衛兵とを見分ける帽子を投げ捨てる。プーサルグ少佐の猟歩兵達は、最も頑強に抵抗し、包囲される。
勝ち誇った群集が喚声をあげているところに、ルコンl将軍とその部下の士官達が、第106大隊のシモン・メイ工大尉が指揮するシャトー・ルージュ(ダンスホール「シャトー・ルージュ」)の哨所に連れてこられる。
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プーサルグ少佐はルコントに新しい命令を要求し、ルコントは、もし衛兵と群集が30歩以内に接近したら発砲せよ、と命令。
少し遅れて、ガルサン大尉指揮下の衛兵部隊多数が到着し、群集がこれに続く。ヴェルダァニェが、「同志よ、武器を置け」と最初に叫ぶ。第88戦列歩兵は、第152、228衛兵大隊の分遣隊と交歓し、一緒に、最も危険な分子(市警官)の武装を解除。警官の多くは警官と衛兵とを見分ける帽子を投げ捨てる。プーサルグ少佐の猟歩兵達は、最も頑強に抵抗し、包囲される。
勝ち誇った群集が喚声をあげているところに、ルコンl将軍とその部下の士官達が、第106大隊のシモン・メイ工大尉が指揮するシャトー・ルージュ(ダンスホール「シャトー・ルージュ」)の哨所に連れてこられる。
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8時、国民軍・市民がモンマルトルの丘に到着。第88連隊兵士と人民との交歓。人民を射てとの指令部の命令に兵士は服従せず、兵士の一部は人民に参加し、連隊長プーサルジュ、ヴァサール、ルコント将軍(大砲を取り囲む婦人・子供の群れに発砲命令)や、将校・憲兵は兵士に逮捕される。国民軍部隊によるパリ第13区区役所の占領。
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事件は、その朝バフロア街で開催予定の中央委員会に報ぜられ、アルノール、ヴァルランらが本部に顔を出すが、直ちに自分の地区に帰り、その他の中央委員と共に所属大隊を指揮し、各地区の防御を組織。諸所にバリケードを構築し、国民衛兵は戦闘意欲に燃え上る。
バフロア街に残った中央委員は、作戦計画を作成、占領すべき戦略的要点を指定し、主力の市庁舎集結を決議し、この決議を地区に伝達。
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バフロア街に残った中央委員は、作戦計画を作成、占領すべき戦略的要点を指定し、主力の市庁舎集結を決議し、この決議を地区に伝達。
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・午前9時、パリ市内の所々にバリケード構築。
フランドル街のラ・マルセイエーズ公会堂の前。ヴィレットではパリケードで警察を封鎖。第11区ではロケット街のバリケードが、バスチーユとペール・ラシューズを分断。第13区では区役所を占領したデュヴァルが攻撃に移る準備を整える。
パンテオンの周りには、そこを占領している大隊をリュクサンプールに野営している予備軍から分離するためにバリケードが築かれる。
第13区では、衛兵1大隊がメーヌ大通りで通行中、脅威を受けている地点に救援に急ぐ騎馬憲兵の一団を逮捕。
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パンテオンの周りには、そこを占領している大隊をリュクサンプールに野営している予備軍から分離するためにバリケードが築かれる。
第13区では、衛兵1大隊がメーヌ大通りで通行中、脅威を受けている地点に救援に急ぐ騎馬憲兵の一団を逮捕。
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モンマルトルの国民衛兵と第88戦列歩兵の兵士は、続いてオルナノ大通りを制し、ロシュ・シュアール大通りまで下る。ここには、朝から叉銃をして第88歩兵部隊の残留部隊がいるが、仲間が銃床を上にし、住民と親しみながらやって来るのを見て、兵士たちはそれをみならい、「国民衛兵万歳」と叫ぶ。こうして9時30分には、ルコント将軍の攻撃縦隊とビュット占領の任を負う小軍団の右翼は存在しなくなる。
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しかし、シュビエル師団長直轄部隊は無庇で残り、依然、ピガール広場~クリシー広場及びそれ以遠に至る外廻りの大通りを占領。
ピガール広場は、徒歩憲兵と猟騎兵の一隊が占領し、国民衛兵と群集が前進すると、シュビエル将軍は突撃命令を下す。兵士達は躊躇する。サン・ジャム大尉が先頭に立って、それを率いる。女達・小僧達・弥次馬は逃げ出す。
その時、国民衛兵と戦列歩兵が猟騎兵を攻撃。サン・ジャム大尉は瀕死の重傷を負って倒れ、猟騎兵は徒歩憲兵の後に引下がり、外廻り大通りの廠舎の後に身を寄せて、群集に発砲。1分隊が銃剣を突き出して、ビエモント通路に押し入る。
そこで白兵戦(この日の唯一の実戦)が始まる。将軍、猟騎兵、残存部隊は急いでクリシー広場に向い退却。
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ピガール広場は、徒歩憲兵と猟騎兵の一隊が占領し、国民衛兵と群集が前進すると、シュビエル将軍は突撃命令を下す。兵士達は躊躇する。サン・ジャム大尉が先頭に立って、それを率いる。女達・小僧達・弥次馬は逃げ出す。
その時、国民衛兵と戦列歩兵が猟騎兵を攻撃。サン・ジャム大尉は瀕死の重傷を負って倒れ、猟騎兵は徒歩憲兵の後に引下がり、外廻り大通りの廠舎の後に身を寄せて、群集に発砲。1分隊が銃剣を突き出して、ビエモント通路に押し入る。
そこで白兵戦(この日の唯一の実戦)が始まる。将軍、猟騎兵、残存部隊は急いでクリシー広場に向い退却。
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9時以後、ヴィノア将軍、労働者地域から政府軍を撤退せよと命令。
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10時、パフロア通りの学校で、国民軍中央委員会議。パリ第13、11区は、反乱人民の手中に入る。
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10時頃、ピガール広場でクレマン・トマ将軍(元国民軍総司令官、1月21日辞任、1848年6月蜂起者達の死刑執行人として知られる)、スパイ容疑で逮捕。「赤い館」送り。
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10~11時、軍隊と人民との交歓。若干の部隊の武装解除。
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*
・10時30分頃、警視総監から政府に電報。「モンマルトルからの悪いニュース。軍隊は行動を拒否した。ビュット、大砲、捕虜は叛徒に奪回された。」
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*
警察が、数人の「被疑者」(ブルードム、ヴィアール、シュートーら)を逮捕し、留置所に連行している時、幾つかの地区は叛徒の手に落ちている。しかし、全体的な計画もなく、作戦は地区毎に行なわれ、名前は知られているが外との繋がりのない人達に指導される。セーヴル街ではファルト、第20、10区ではプリュネルとランヴィ工、第3区ではパンディ、バチニョルではヴァルラン、左岸の大部分ではデュヴァル。第5区では、パスカル街の地区事務所は完全に機能を果し、文書や伝令を押え、デュヴァルに有益な情報を送る。
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10時30分頃、中央委員会メンバの数人はバフロワ街の建物の中で慌ただしく命令書や委任状を作る。
「彼が必要と判断するすべてのこと」を第17区で行なう権限をヴァルランに委託する命令。「攻撃するな、バリケードを築け」という命令。
パフロワ街に隣接する街々で太鼓を叩かせたネストル・ルソーは、部隊が現われたら「軍隊万歳!共和国万歳!」と叫び、バリケードを開き、流血を回避せよと命じ、バリケードを構築させる。
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「彼が必要と判断するすべてのこと」を第17区で行なう権限をヴァルランに委託する命令。「攻撃するな、バリケードを築け」という命令。
パフロワ街に隣接する街々で太鼓を叩かせたネストル・ルソーは、部隊が現われたら「軍隊万歳!共和国万歳!」と叫び、バリケードを開き、流血を回避せよと命じ、バリケードを構築させる。
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10時30分頃、ヴィノワ将軍(モンマルトルまで偵察を行ない、事態の重大性を確認)は、全面的引揚げ命令。その後、正午少し前、セーヌ右岸の撤退と陸軍士官学校への仝部隊の後退を命令。ファロン将軍だけは、叛徒と話し合い通行許可を得て秩序正しく後退。
バスチーユでは、ウォルフ将軍の本隊は溶解。現場に来合わせた陸軍大臣ル・フロー将軍は、危うく叛徒の手に落ちるところ。メニルモンタンでは、マリウズ将軍の兵士が、フェリックス・ピアの演説に興奮した衛兵第173大隊に襲われ、第20区区役所に閉じ籠る。
モンマルトルと同様にビュット・ショーモンでも群集は兵士達を巻きこみ押し流しす。
リュクサンプールでも同様な友愛の光景がみられる。
昼前、赤旗が再びバスチーユにはためき、大砲と捕虜を引っ張ってパフロワ街に向う衛兵大隊は、通りがかりに敬意を表する。
その時、ヴィクトル・ユゴーの息子(ボルドーで急死したシャルル・ユゴー)の葬列の為にバリケードが開かれ、葬列はパリを横切り、ペール・ラシューズに向う。
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バスチーユでは、ウォルフ将軍の本隊は溶解。現場に来合わせた陸軍大臣ル・フロー将軍は、危うく叛徒の手に落ちるところ。メニルモンタンでは、マリウズ将軍の兵士が、フェリックス・ピアの演説に興奮した衛兵第173大隊に襲われ、第20区区役所に閉じ籠る。
モンマルトルと同様にビュット・ショーモンでも群集は兵士達を巻きこみ押し流しす。
リュクサンプールでも同様な友愛の光景がみられる。
昼前、赤旗が再びバスチーユにはためき、大砲と捕虜を引っ張ってパフロワ街に向う衛兵大隊は、通りがかりに敬意を表する。
その時、ヴィクトル・ユゴーの息子(ボルドーで急死したシャルル・ユゴー)の葬列の為にバリケードが開かれ、葬列はパリを横切り、ペール・ラシューズに向う。
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11時頃、ファロン師団6千がベルヴィルで、ラ・マリューズ旅団がビュット・ショーモンで、武装解除される。
モードゥイ師団・ウォルフ旅団はバスティーユで、アンリオン旅団は、テュイルリーとリュクサンブールで武装解除。
プランス・ユージェーヌ兵営は、プリュネル指揮の部隊により占領され、兵営にいた正規兵は、国民衛兵と交歓。
ナポレオン兵営も、警視庁も、内閣印刷所も、国民衛兵の手に帰す。
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モードゥイ師団・ウォルフ旅団はバスティーユで、アンリオン旅団は、テュイルリーとリュクサンブールで武装解除。
プランス・ユージェーヌ兵営は、プリュネル指揮の部隊により占領され、兵営にいた正規兵は、国民衛兵と交歓。
ナポレオン兵営も、警視庁も、内閣印刷所も、国民衛兵の手に帰す。
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11時頃、アシとバビックは、第65、192両大隊にモンマルトルに赴くように命ずる。
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11時、大隊会議と、政府軍に対する防衛戦術についての国民軍中央委員会の命令。国民軍部隊、パリ第5区区役所を奪取。
反乱した人々(国民軍、政府軍の一部、市民)、市庁舎への移動。
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・11時頃、政府はセイ製糖所が第13大隊によって占領されたことを知り、更に11時30分頃、衛兵と兵士よりなる1縦隊が市庁舎に向っていることを知る。
昼近く、シュビエル将軍、ファロン将軍など、総司令部のあるルーヴルに戻る。
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昼近く、シュビエル将軍、ファロン将軍など、総司令部のあるルーヴルに戻る。
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・正午、全面的な中休み、昼食。
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・12時5分、ジュール・フェリーは市庁舎を去ることを拒否し、ティエールに対し、第11区は万事休す、軍隊は戦闘を拒否しバスチーユ広場を通って引返していると告げる。
しかし同時刻、ティエールはヴァランタンから、「ベルヴィルとメニルモンタンでの行動は、11時15分まで何の困難にも出会わなかった。モンマルトルではわれわれは幾分の損失をうけるかもしれない」。
しかし同時刻、ティエールはヴァランタンから、「ベルヴィルとメニルモンタンでの行動は、11時15分まで何の困難にも出会わなかった。モンマルトルではわれわれは幾分の損失をうけるかもしれない」。
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蜂起は既に全パリを支配しているのに、誰もそれに気づいていない(政府も、中央委員会も、各地区も)。
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午後1時、ティエール首相、政府軍をパリ東部諸区から西部諸区へ撤退させよと指示。
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・午後1時頃、シモン・メイエ大尉はシャトー・ルージュの捕虜達に「委員会」(第13区の監視委員会か)命令でロジエ街の哨所に連れてゆく事になったと告げる。
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・2時頃、パフロワ街の学校の校庭に、参謀本部の1士官と要職にある1警官をふくむ捕虜が連行され、訊問される。
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・午後2時30分、国民軍中央委員会、政府の建物を占領する為、諸大隊をパリ中心部へ移動させよと命令。待機中の諸大隊が、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍指揮下の衛兵の参謀本部があるヴァンドーム広場に向い、それを包囲する。しかし、政府のある王宮や、既に叛徒の脅威を受けている市庁舎には兵力を投入せず。
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軍事的状況(中央委員会にとって極めて有利)。
第20区では、第173大隊が、メニルモンタンとベルヴィルの公園を占領するはずの部隊を武装解除。
第135大隊は区役所を占領。
パディ率いる第16隊は中央部に下り、ミニムの兵営を確保し、国立印刷所・市庁舎に前進するばかり。
ヴァルランはバチニョールの衛兵の動員に失敗するが、第17区区役所を占領し、午後早く、300人を率いヴァンドーム広場へ向う。
ベルジュレは自分の地区(クリニャンクール)を離れるのを躊躇った後、モンマルトルの監視委員会議長フェリ工の精力的な調停されてヴァンドーム広場へ向い、ヴァルランと共に兵士2千を掌握。
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第135大隊は区役所を占領。
パディ率いる第16隊は中央部に下り、ミニムの兵営を確保し、国立印刷所・市庁舎に前進するばかり。
ヴァルランはバチニョールの衛兵の動員に失敗するが、第17区区役所を占領し、午後早く、300人を率いヴァンドーム広場へ向う。
ベルジュレは自分の地区(クリニャンクール)を離れるのを躊躇った後、モンマルトルの監視委員会議長フェリ工の精力的な調停されてヴァンドーム広場へ向い、ヴァルランと共に兵士2千を掌握。
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左岸の戦況は更に良好。
数日前からアンリがメーヌ大通り哨所を構築し、その周囲に占領地帯とバリケード地帯が拡大される。
午後早く、ソー駅、アンフェル門(現在のダンフェル・ロシュロ広場)、第14区区役所を奪取。
デュヴァルは、朝から、ゴブラン通りとイタリア広場の防備を強化し、アンヴァリッドを脅やかす第15区の数中隊を予備に残し、大移動を展開。
午後早く、オルレアン駅、植物園、税関(保税倉庫)を奪取。この行動はリュクサンプール、パンテオン、市庁舎を目標とする。
数日前からアンリがメーヌ大通り哨所を構築し、その周囲に占領地帯とバリケード地帯が拡大される。
午後早く、ソー駅、アンフェル門(現在のダンフェル・ロシュロ広場)、第14区区役所を奪取。
デュヴァルは、朝から、ゴブラン通りとイタリア広場の防備を強化し、アンヴァリッドを脅やかす第15区の数中隊を予備に残し、大移動を展開。
午後早く、オルレアン駅、植物園、税関(保税倉庫)を奪取。この行動はリュクサンプール、パンテオン、市庁舎を目標とする。
第15区では、ファルトが同様の計画を遂行、6大隊をもって士官学校、アンヴァリッ下を包囲、2時~3時、セーヴル街~リュクサンプールに進出。
しかしすでにリュクサンプールとパンテオン周辺では、アルマーヌ(最初に行動をおこした者の1人)のイニシアティヴで親睦が始まり、バリケードが作られる。
やがて第5区区役所、パンテオンが陥落し、リュクサンプールに野営の本隊は潰走。デュヴァはシテ島に下り、既にシャトー・ドーの兵営を奪取したバンディ、ウード、プリュネルと共に市庁舎を脅かすことが可能となる。
3時頃、彼は、市庁舎を狙う。全地区で、群集は市民兵の行動を支持し、歓呼して彼らを迎える。パリは街頭にあり、数千の正規軍兵士は、群集と混じり合う。政府の連中は、孤立し、度を失い、押し流される。
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しかしすでにリュクサンプールとパンテオン周辺では、アルマーヌ(最初に行動をおこした者の1人)のイニシアティヴで親睦が始まり、バリケードが作られる。
やがて第5区区役所、パンテオンが陥落し、リュクサンプールに野営の本隊は潰走。デュヴァはシテ島に下り、既にシャトー・ドーの兵営を奪取したバンディ、ウード、プリュネルと共に市庁舎を脅かすことが可能となる。
3時頃、彼は、市庁舎を狙う。全地区で、群集は市民兵の行動を支持し、歓呼して彼らを迎える。パリは街頭にあり、数千の正規軍兵士は、群集と混じり合う。政府の連中は、孤立し、度を失い、押し流される。
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午後3時、ティエールの主宰する大臣会議、パリ放棄と軍隊のヴェルサイユへの撤退を決定。
この間、モンマルトルからロジェ街まで捕虜の移動。哨所を指揮するポーランド人カルダンスキーはルコントを裁く一種の軍事会議を開く(開いたように見せかける)。
ルコントは尋問に対し、自分が発砲命令を下した、「私がしたことは適切であった」と答える。この軍法会議は民衆を辛抱させる為のもので、会議主催者はルコントを救いたいと思っている。
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この間、モンマルトルからロジェ街まで捕虜の移動。哨所を指揮するポーランド人カルダンスキーはルコントを裁く一種の軍事会議を開く(開いたように見せかける)。
ルコントは尋問に対し、自分が発砲命令を下した、「私がしたことは適切であった」と答える。この軍法会議は民衆を辛抱させる為のもので、会議主催者はルコントを救いたいと思っている。
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・3時~第2区区役所、第3区区長ボンヴァレとトランが召集した区長・助役・パリの代議士の最初の集会。調停派が介入しティエール説得を試みる。
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午後4時、首相ティエール、陸軍大臣ル・フロー、パリを脱出。ティエールは、パリの諸稜堡撤退について命令(殆ど全堡塁の守備隊全部をセーヌ左岸に撤退させ、パリ西方の最重要拠点モン・ヴァレリアン堡塁をも撤退させる)。
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・午後4時半過ぎ~5時、捕虜のルコント将軍、クレマン・トマ将軍(1848年6月事件鎮圧者)殺害。他の拘留者は再びシャトー・ルージュに連行され、監視委員会ジャクラールとクレマンソーの調停で釈放される。
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市庁舎では市長ジュール・フェリーが、デロジャ将軍配下の重要な部隊(徒歩憲兵300と騎馬憲兵40、第109、20戦列歩兵隊)を擁して抵抗。
5時頃、プランキ派が、兵舎と市庁舎を繋ぐ地下道を奇襲するが、市警備隊が銃剣で、ブランキ派を撃退。
6時頃、憲兵が撤退の総命令に従い始め、ロボーの地下道を通ってヴェルサイユに向い立退く。
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5時頃、プランキ派が、兵舎と市庁舎を繋ぐ地下道を奇襲するが、市警備隊が銃剣で、ブランキ派を撃退。
6時頃、憲兵が撤退の総命令に従い始め、ロボーの地下道を通ってヴェルサイユに向い立退く。
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午後5時、国民軍諸部隊を市の中心部に移動させ、政府諸庁舎や兵営を占領。
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・午後6時頃、区長・助役・パリの代議士達、第1区区役所で新しい会合を開き、パリの代議士ラングロワ大佐(パリ包囲の間、指揮ぶりはその人気を高める)の衛兵指揮官への任命、パリ市長としてドリアンの任命、即時の自治体選挙、衛兵の武装解除を行なわない保証を要求。
数人の代表が、ジュール・ファーヴル(大臣)と連絡をとることに成功するが、ファーヴルは既に将軍処刑を知っており、「人殺しとは交渉しない」と乱暴に答える。
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数人の代表が、ジュール・ファーヴル(大臣)と連絡をとることに成功するが、ファーヴルは既に将軍処刑を知っており、「人殺しとは交渉しない」と乱暴に答える。
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・午後8時~深夜、正規軍、国家の役人ら、混乱の内にパリを脱出。真夜中頃、ヴィノワの掌握する軍主力2万が、パリを脱出。
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・8時~9時、ヴァルランは、バチニョール(第17区)の彼の部下と共に、ベルジュレとアルヌール率いるモンマルトルの大隊と合流し、ラ・ぺー街~ヴァンドーム広場へ集中。ベルジュレは衛兵司令部を占領。ヴアンドーム広場は広い野営地となり、隣接する街々はヴァルランが配置した諸大隊を迎える。
東から来たベルヴィルの人々は、第120戦列歩兵が確保するプランス・ユジェーヌ兵営を包囲。
プリュネルは部下に扉を破らせ、士官達を閉籠める。兵士達はすっかり親しくなる。プリュネル、ランヴィエ、ウード指揮の諸大隊は、そこからセーヌ河岸及び隣接する街々を通って市庁舎に向う。
一方、パンディはヴィエイユ・デュ・タンプル街を経てそこに向う。8時前から、市庁舎は包囲され、殆んど孤立。
左岸では、アルマーヌが巧妙に交渉し、ブルジョア派3大隊が、第59戦列歩兵によって第6区で無力化される。
デュヴァルはゆっくりと確実にシテ島へと前進、警視庁に近づく(当時はドフィーヌ広場の近くにある)。警視庁には誰もいない。夜10時過ぎ、デュヴァルは前進を早め、市庁舎包囲を終え、ノートル・ダム広場に強力な分遣隊を派遣。
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東から来たベルヴィルの人々は、第120戦列歩兵が確保するプランス・ユジェーヌ兵営を包囲。
プリュネルは部下に扉を破らせ、士官達を閉籠める。兵士達はすっかり親しくなる。プリュネル、ランヴィエ、ウード指揮の諸大隊は、そこからセーヌ河岸及び隣接する街々を通って市庁舎に向う。
一方、パンディはヴィエイユ・デュ・タンプル街を経てそこに向う。8時前から、市庁舎は包囲され、殆んど孤立。
左岸では、アルマーヌが巧妙に交渉し、ブルジョア派3大隊が、第59戦列歩兵によって第6区で無力化される。
デュヴァルはゆっくりと確実にシテ島へと前進、警視庁に近づく(当時はドフィーヌ広場の近くにある)。警視庁には誰もいない。夜10時過ぎ、デュヴァルは前進を早め、市庁舎包囲を終え、ノートル・ダム広場に強力な分遣隊を派遣。
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午後10時、パリ市長脱出。後、国民軍連盟中央委員会、市庁舎占拠。
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午後10時、政府軍のシャン・ド・マルスおよびアンヴァリド(廃兵会館)への集結。
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・11時、プリュネルは市庁舎の周りに、バリケード、哨所、歩哨をびっしりと林立させる。パトロール隊の1隊が、通りかかったジュール・フェリーをもう少しで捕えそこなう。彼は9時15分に市庁舎を離れ、第1区区役所に入る。プリュネル縦隊は、広場に進出し、市庁舎に侵入し、占領。建物の正面が照明され、赤旗が上る。中央委員会に知らせが届く。
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午後11時30分、反乱した人びとは警視庁を占拠。
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「直ちにヴェルサイユに進撃すべきであった。」(マルクス「クーゲルマン宛手紙('71/4/11)」)。
渾沌とした議論の中で、プランキ派(ウード、デュヴァル、プリュネル、ファルト)は徹底的な措置(ブルジョア派大隊の即時解散、ヴェルサイユへの即時進軍)を主張するが、取り上げられない。ルイズ・ミシェルによれば、モンマルトルの委員会と労働者大隊の幾つかは、攻撃を要求。
ヴェルサイユに向う3つの道筋(シャティヨン経由、セーヴル経由、ピカルヂィの丘経由)は、退却中の軍隊が引返すのを食い止める為に割当てられた数の憲兵が守るだけで、ヴェルサイユが、新手の士気良好な部隊を持つのは、4月2日以後。中央委員会は、20大隊と数門の大砲、霰弾砲をもって、数日でさしたる困難もなくヴェルサイユ占領が出来た筈。18日夜~19日、中央委員会の大多数は、合法性への懸念、内乱の拒否、プロシア軍への怖れにより偶発性を退ける。
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ヴェルレーヌは市役所に留まり、情報係りを勤める。
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・中央委員会、国民衛兵指揮官に無能力で自慢家のリュリエを任命(最初の大失策)。次いで、宣言(2つの布告)を起草。
委員会は、自分が何を望み、何であるのか、パリの市当局=新しい政府権力であることが判っていない。選ばれた区長、助役がいるのに、選挙を決定し、戒厳令を解除する。しかし、「コミューン」の語は布告は現われない。
委員会は、自分が何を望み、何であるのか、パリの市当局=新しい政府権力であることが判っていない。選ばれた区長、助役がいるのに、選挙を決定し、戒厳令を解除する。しかし、「コミューン」の語は布告は現われない。
中央委員会は、革命的現実と、それが依拠し、かつ悩まされている合法性との間の矛盾を解決していない。
委員会は、その委託を解消し、人民の名において市庁舎を保管することによって委託を維持すると告げる。
委員会は、既に選出された区長のパリにおける「合法的」権威と、非合法的権威(表的な権威=委員会の権威)との間の潜在的紛争に終止符を打たず、政府との権力の二重性の解決を中途半端にしたままで、いま一つの権力の二重性が生ずるのを放置しようとする。
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委員会は、その委託を解消し、人民の名において市庁舎を保管することによって委託を維持すると告げる。
委員会は、既に選出された区長のパリにおける「合法的」権威と、非合法的権威(表的な権威=委員会の権威)との間の潜在的紛争に終止符を打たず、政府との権力の二重性の解決を中途半端にしたままで、いま一つの権力の二重性が生ずるのを放置しようとする。
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・午前2時、リュリエは、最初の晩から誤りを積み重ねる。ヴィノワの軍隊に難なく退却するのを許し、警視庁において午前中の投獄者の釈放を言い渡し(釈放は実際には既に行なわれてしまっている)、ヴァンドーム広場の指揮をとり、リュクサンプールで捕虜になった士官たちの釈放命令を与える。
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・午前4時、区長・助役達は証券取引所に本拠をおく。彼らの1人チラールは、パリの行政を委託するとのティエールの手紙を持っており、翌19日昼間、ヴェルサイユからの電報により確認される。
中央委員会は、彼らの合法的権威に異議申し立てをしない。委員会は、代議士2人と区長・助役6人の代表団を迎え、委員会も、ヴァルラン、ジュールド、ボワシエを含む4人を、区長たちの交渉役に指命。交渉は中断なしに約48時間に亘り継続し、果しない議論の末、中央委員会の代表は妥協を受諾。中央委員会は市庁舎を離れ、ヴァンドーム広場に戻り、そこで衛兵の正式司令部としての機能を果すことになる。市の役人達が市庁舎に現われ、人民によって選ばれた代表として、再び席を占めることになる。
パリにおける自治体選挙に同意できない代議士・区長は、この選挙と並んで、衛兵の全階級の士官の選挙を議会に要求する掲示を公表する。
この妥協は、確乎たる革命派、インターナショナル派(ヴァルラン)を含めた中央委員会メンバが、違法性と決定的選択(自治都市の設立、政府の設立)を前にして、どの程度まで躊躇したかを示すもの。軍事的無為と、中央委員会と区長との取引は、ティエールの勢力強化を許す大きな政治的失敗。
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これらの協定ができるや否や、区長の代表はヴェルサイユに出発。中央委員会側は下部(区の委員会)に意見が求められ、委員会の大多数はこの妥協を拒否。更に、連合の原則に従って諮問をうけた「下部」は重大決定を行なおうとする。
遵法主義者と非遵法主義者、調停派と非調停派、穏和派と過激派、ジャコパン派とブランキ派の間の議論が、19日を埋めつくそうとし、実際には、決裂する。
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遵法主義者と非遵法主義者、調停派と非調停派、穏和派と過激派、ジャコパン派とブランキ派の間の議論が、19日を埋めつくそうとし、実際には、決裂する。
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18日~19日への夜半、政府軍、憲兵、警官隊、ヴェルサイユへ退却。政府は区長たちにパリの臨時統治を委ねる。
国民議会パリ選出代議士、区長、区長代理と政府との会談により、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍の国民軍総司令官解任、ラングロア大佐への総司令官任命が決定。
市庁舎における国民軍中央委員会会議、退職海軍将校リュリエを、国民軍総司令官に任命、ラングロア大佐への総司令官任命を拒否。
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国民議会パリ選出代議士、区長、区長代理と政府との会談により、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍の国民軍総司令官解任、ラングロア大佐への総司令官任命が決定。
市庁舎における国民軍中央委員会会議、退職海軍将校リュリエを、国民軍総司令官に任命、ラングロア大佐への総司令官任命を拒否。
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政府はパリを総退却。権力は、予期せず国民衛兵中央委員会の双肩に落ちてくる。
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to be continued to March 1871 (3)
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