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小林多喜二の死亡記事
小林多喜二の死亡記事などをまとめてみた。
時事新報や赤旗の記事を読みたい方はこちらのサイトを参照→http://roudouundoumeiji.com/rekisi-13.html
2015年2月21日土曜日
昭和8年(1933)2月20日 小林多喜二虐殺 / 「多喜二の遺体 見つめる母 新たな写真、見つかる」(『朝日新聞』2015/02/20)
47ニュース
小林多喜二、虐殺後の写真発見 母ら悲嘆の様子伝える
「蟹工船」などで知られるプロレタリア作家の小林多喜二が、特高警察の拷問で死亡し自宅に運ばれた後に撮影された写真の原板が、20日までに東京都内で見つかった。遺体を母親セキらが囲み、悲嘆に暮れている様子を生々しく伝える貴重な史料だ。
作家仲間らが遺体を囲んでいる写真は有名だが、今回見つかった写真は存在も知られていなかった。双方の写真の原板が一緒に保管されていた。
見つかったのはガラス乾板という、現在のネガフィルムに当たるもの。プロレタリア文学研究者の伊藤純さん(82)が昨秋、都内の自宅で、父親で多喜二の作家仲間だった貴司山治の遺品を整理中に発見した。
2015/02/20 20:55 【共同通信】
2015年2月17日火曜日
小林多喜二:最期、生々しく…隣室収監の学者が書簡に記す (毎日新聞) ← 2月20日が命日
小林多喜二:最期、生々しく…隣室収監の学者が書簡に記す
毎日新聞 2015年02月16日 21時32分(最終更新 02月16日 22時41分)
プロレタリア作家、小林多喜二が1933年に築地署(東京都)で獄死する前後の様子を、同時期に収監されていた生物学者、石井友幸(1903〜72年)が記した書簡が見つかった。拷問で口を利くことができなくなっていたことや、死亡後に人工呼吸が施されたとみられると書かれている。多喜二について研究している北海道小樽市の小樽文学館は「極めて貴重」としている。【遠藤修平】
◇栃木の小説家旧宅で発見
書簡は、石井が多喜二と交流のあった小説家、江口渙(かん)にあてた計3通で、400字詰めの原稿用紙計5枚とはがき1枚。1962〜67年に、やり取りがあったとされる。
文学館によると、多喜二の死の前後については、遺言をしていたり監房で死亡していたりといった諸説がある。しかし、石井は書簡の中で、多喜二は「ひとことも口をきかなかつたように思います」と記し、監房とは別室で死亡したか「あるいは保護室にいれられるまえに息をひきとつていて、彼ら(警察医)は申しわけ的に人工呼吸などしたかも知れません」と証言している。
石井は思想犯として、多喜二の隣の監房に収監されていた。書簡には詳しい見取り図が添えられ、多喜二が第2房から石井が入っていた第1房の向かいの保護室に移されたと記されている。文学館の亀井志乃学芸員は「他の証言ではあやふやだった位置関係が詳細にわかる」と話している。
書簡は、栃木県にある江口の旧宅を調査していた郷土の歴史研究会が発見。昨秋、文学館に連絡があり、確認作業を進めていた。18日から文学館で公開される。
多喜二は1903年に秋田県で生まれ、4歳で小樽市に移住した。銀行に就職後、「蟹工船」「不在地主」などを発表。特高警察の拷問を受けて死亡した。
毎日新聞 2015年02月16日 21時32分(最終更新 02月16日 22時41分)
プロレタリア作家、小林多喜二が1933年に築地署(東京都)で獄死する前後の様子を、同時期に収監されていた生物学者、石井友幸(1903〜72年)が記した書簡が見つかった。拷問で口を利くことができなくなっていたことや、死亡後に人工呼吸が施されたとみられると書かれている。多喜二について研究している北海道小樽市の小樽文学館は「極めて貴重」としている。【遠藤修平】
◇栃木の小説家旧宅で発見
書簡は、石井が多喜二と交流のあった小説家、江口渙(かん)にあてた計3通で、400字詰めの原稿用紙計5枚とはがき1枚。1962〜67年に、やり取りがあったとされる。
文学館によると、多喜二の死の前後については、遺言をしていたり監房で死亡していたりといった諸説がある。しかし、石井は書簡の中で、多喜二は「ひとことも口をきかなかつたように思います」と記し、監房とは別室で死亡したか「あるいは保護室にいれられるまえに息をひきとつていて、彼ら(警察医)は申しわけ的に人工呼吸などしたかも知れません」と証言している。
石井は思想犯として、多喜二の隣の監房に収監されていた。書簡には詳しい見取り図が添えられ、多喜二が第2房から石井が入っていた第1房の向かいの保護室に移されたと記されている。文学館の亀井志乃学芸員は「他の証言ではあやふやだった位置関係が詳細にわかる」と話している。
書簡は、栃木県にある江口の旧宅を調査していた郷土の歴史研究会が発見。昨秋、文学館に連絡があり、確認作業を進めていた。18日から文学館で公開される。
多喜二は1903年に秋田県で生まれ、4歳で小樽市に移住した。銀行に就職後、「蟹工船」「不在地主」などを発表。特高警察の拷問を受けて死亡した。
2011年2月23日水曜日
昭和8年(1933)2月20日 小林多喜二の死(2) 「Nのその後」(松本克平)
先の記事(コチラ)でご紹介した映画「小林多喜二」(1974)のパンフレットの中で、
俳優の松本克平さん(故人)が「Nのその後」
という原稿を寄せておられる(実際は、別誌からの転載)。
で、その「N」というのは、小林多喜二の取り調べを指揮した中川成夫のことです。
*
この記事によりますと、
中川は、その後、警視に昇進、板橋警察署長となる。戦後は、板橋区長になるも追放。
しかし、T(東映)映画製作会社の営業部次長に返り咲いた、といいます。
*
中川といえば、江口渙がその「たたかいの作家同盟記」で、中川の小林多喜二殺害予告について記しています。
*
以下引用。
*
「一九三三年のたしか二月のはじめであったと思う。私は作家同盟の幹部ですでに未決囚として刑務所にぶちこまれている人びと、-中野重清や壷井繁治、窪川鶴次郎、村山知義などについて、面会と差し入れの許可をえるため警視庁特高第二課へ交渉に行った。そしてナップ係の例の中川成夫にあって交渉してみると中野たちがつかまってからもう一年近くにもなるので私の要求は案外かんたんに受け入れられた。
ところが用件を片付けた安心から私がさっさと帰ろうとすると、中川はにわかに言葉の調子をあらためて、
「江口君。ちょっと話があるから待ってくれ」と、ひどくすごんだ目つきで私をにらみつける。なんのことだか見当がつかないので、私も思わず中川の目を見つめる。
「江口君。きみは小林多喜二と始終連絡をとっているだろう」
「バカなことをいうもんじゃない。小林とのあいだに連絡なんか絶対にない」
私はほんとうのことをいうのだが相手は承知しない。
「小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。Iいいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ。このことだけは、やつがつかまらない今のうちからはっきりいっておくからな。いいか、連絡であのやろうにあったら、忘れずに伝えてくれ!」
しゃべっているうちに、だんだん興奮してきた中川の顔には、隠しきれない怒りとにくしみがあふれてくる。その表情の動きから見てとうていたんなるおどかしとは考えられない.」
*
*
くらせみきお「小林多喜二を売った男 スパイ三舩留吉と特高警察」という本があり、その中には中川成夫に関して、上記の松本克平さんより詳細な記述があります。
概要、下記です。
*
中川成夫(しげお):警視庁特高課第二係長
明治27年(1894)9月5日、農家の三男として広島県に生まれる。
大正5年前後に上京。
不明ながら何かの職についた後、警視庁巡査となる。3ヶ月間の警察練習所(警察学校)を終了後、外勤係巡査となる。
巡査勤務の間、苦学して日本大学専門部の夜間部本科(法律学科)に学び、大正12年(1923)3月卒業。28歳。
大正の頃、警察官という職業に対する世間の風潮は、サラリーマンより低い評価であった。
同じ頃に警察官を志していた後の特高課長毛利基も、取締まりにあたった被疑者・華族の子弟の親から「不浄役人」と呼び捨てられたことを回顧している。
世間の人々の間では、上層階級を含め、あまり好ましく思われない別社会の人間の職業という偏見があったようである。
更に外勤巡査の身分は官僚機構の中では低い位置にあり、給与も低く、外勤係巡査の多くは、高等小学校卒業程度の者が多かったという。
野心に燃えていた中川成夫は、苦学生として警察官が比較的多く通っていた日本大学夜間部に学んでいる。
当時の日大は夜に本科を設置していただけでなく、苦学生に対する配慮から科目制を実施しており、卒業までに規定の単位を取得しさえすればよく、当番勤務のために毎日の通学が困難な状況にあった外勤巡査にとっては都合が良かった。
更に、日大をはじめとする私立大学夜間部(主に専門部。専門部卒は資格は取得できたが、大学の本科を卒業して得られる学士号の取得はできなかった)は昼間専門部に比して卒業しやすかった。
昭和3年(1928)、東京市下谷区(現、台東区)上野警察署の特高係に勤務。
翌年、四・一六全国一斉検挙事件(339名起訴)に応援・関係したのを機に警視庁特高課に配属される。
山県為三警部とともに「昭和の新選組」「警視庁新選組七人衆」を自称し、その取調べ方は拷問を伴う荒っぽいものだった。
昭和7年頃は専らプロレタリア文化連盟などの左翼文化運動を担当し、主任警部として活躍する。
昭和7年、警察官の最高栄誉である功労記章を下付され、翌年12月末にも中川ら19名の特高警察官が功労記章と特別賞を受ける。
昭和12年5月、特高第一課第一係から同課第二係に転じ、その係長に昇進。43歳。
翌年、経済警察の創設に伴い、その経済第三課に転じ、同課長に就任。
昭和14年、警視庁警視に昇進、高輪署長に栄転。
昭和18年、築地署長に就任。
昭和18年7月1日、東京市制が東京都制へ移行に際し、都政施行によって都長官は官選となり、都内区長職も東京都書記官を充てることとなると、中川は警察を退職して東京都書記官へと転じる。
昭和19年6月30日、東京都滝野川区(現、北区)区長に就任、敗戦後の昭和21年3月30日までこれを務める。
昭和21年、公職追放となるが、同年、滝野川区のヒカリ座映画劇場の経営に参画。同劇場の常務取締役に就任。さらに、オリムピア興業(映画興業会社)に転じ、同社の専務取締役となる。
昭和27年10月、オリムピア興業の東映への吸収合併に伴い、幹部社員として東映に入社、のちには同社の取締役興業部長等を務める。
この間、自宅借地の寺院内に幼稚園を設立し妻がこれを経営(後に、同幼稚園は学校法人となる)。幼稚園の経営を背景に、昭和38年からは北区教育委員会委員を務め、昭和43年には同教育委員長となっている。
*
*
松本克平さんは、大著「日本新劇史」「日本社会主義演劇史」を出版し読売文学賞を受賞されています。前者については、別のところで何度か引用させて戴きました。
*
たたかいの作家同盟記〈上〉―わが文学半生記・後編 (1966年)
![たたかいの作家同盟記〈上〉―わが文学半生記・後編 (1966年)]()
*
小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察
![小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察]()
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俳優の松本克平さん(故人)が「Nのその後」
という原稿を寄せておられる(実際は、別誌からの転載)。
で、その「N」というのは、小林多喜二の取り調べを指揮した中川成夫のことです。
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この記事によりますと、
中川は、その後、警視に昇進、板橋警察署長となる。戦後は、板橋区長になるも追放。
しかし、T(東映)映画製作会社の営業部次長に返り咲いた、といいます。
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中川といえば、江口渙がその「たたかいの作家同盟記」で、中川の小林多喜二殺害予告について記しています。
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以下引用。
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「一九三三年のたしか二月のはじめであったと思う。私は作家同盟の幹部ですでに未決囚として刑務所にぶちこまれている人びと、-中野重清や壷井繁治、窪川鶴次郎、村山知義などについて、面会と差し入れの許可をえるため警視庁特高第二課へ交渉に行った。そしてナップ係の例の中川成夫にあって交渉してみると中野たちがつかまってからもう一年近くにもなるので私の要求は案外かんたんに受け入れられた。
ところが用件を片付けた安心から私がさっさと帰ろうとすると、中川はにわかに言葉の調子をあらためて、
「江口君。ちょっと話があるから待ってくれ」と、ひどくすごんだ目つきで私をにらみつける。なんのことだか見当がつかないので、私も思わず中川の目を見つめる。
「江口君。きみは小林多喜二と始終連絡をとっているだろう」
「バカなことをいうもんじゃない。小林とのあいだに連絡なんか絶対にない」
私はほんとうのことをいうのだが相手は承知しない。
「小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。Iいいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ。このことだけは、やつがつかまらない今のうちからはっきりいっておくからな。いいか、連絡であのやろうにあったら、忘れずに伝えてくれ!」
しゃべっているうちに、だんだん興奮してきた中川の顔には、隠しきれない怒りとにくしみがあふれてくる。その表情の動きから見てとうていたんなるおどかしとは考えられない.」
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くらせみきお「小林多喜二を売った男 スパイ三舩留吉と特高警察」という本があり、その中には中川成夫に関して、上記の松本克平さんより詳細な記述があります。
概要、下記です。
*
中川成夫(しげお):警視庁特高課第二係長
明治27年(1894)9月5日、農家の三男として広島県に生まれる。
大正5年前後に上京。
不明ながら何かの職についた後、警視庁巡査となる。3ヶ月間の警察練習所(警察学校)を終了後、外勤係巡査となる。
巡査勤務の間、苦学して日本大学専門部の夜間部本科(法律学科)に学び、大正12年(1923)3月卒業。28歳。
大正の頃、警察官という職業に対する世間の風潮は、サラリーマンより低い評価であった。
同じ頃に警察官を志していた後の特高課長毛利基も、取締まりにあたった被疑者・華族の子弟の親から「不浄役人」と呼び捨てられたことを回顧している。
世間の人々の間では、上層階級を含め、あまり好ましく思われない別社会の人間の職業という偏見があったようである。
更に外勤巡査の身分は官僚機構の中では低い位置にあり、給与も低く、外勤係巡査の多くは、高等小学校卒業程度の者が多かったという。
野心に燃えていた中川成夫は、苦学生として警察官が比較的多く通っていた日本大学夜間部に学んでいる。
当時の日大は夜に本科を設置していただけでなく、苦学生に対する配慮から科目制を実施しており、卒業までに規定の単位を取得しさえすればよく、当番勤務のために毎日の通学が困難な状況にあった外勤巡査にとっては都合が良かった。
更に、日大をはじめとする私立大学夜間部(主に専門部。専門部卒は資格は取得できたが、大学の本科を卒業して得られる学士号の取得はできなかった)は昼間専門部に比して卒業しやすかった。
昭和3年(1928)、東京市下谷区(現、台東区)上野警察署の特高係に勤務。
翌年、四・一六全国一斉検挙事件(339名起訴)に応援・関係したのを機に警視庁特高課に配属される。
山県為三警部とともに「昭和の新選組」「警視庁新選組七人衆」を自称し、その取調べ方は拷問を伴う荒っぽいものだった。
昭和7年頃は専らプロレタリア文化連盟などの左翼文化運動を担当し、主任警部として活躍する。
昭和7年、警察官の最高栄誉である功労記章を下付され、翌年12月末にも中川ら19名の特高警察官が功労記章と特別賞を受ける。
昭和12年5月、特高第一課第一係から同課第二係に転じ、その係長に昇進。43歳。
翌年、経済警察の創設に伴い、その経済第三課に転じ、同課長に就任。
昭和14年、警視庁警視に昇進、高輪署長に栄転。
昭和18年、築地署長に就任。
昭和18年7月1日、東京市制が東京都制へ移行に際し、都政施行によって都長官は官選となり、都内区長職も東京都書記官を充てることとなると、中川は警察を退職して東京都書記官へと転じる。
昭和19年6月30日、東京都滝野川区(現、北区)区長に就任、敗戦後の昭和21年3月30日までこれを務める。
昭和21年、公職追放となるが、同年、滝野川区のヒカリ座映画劇場の経営に参画。同劇場の常務取締役に就任。さらに、オリムピア興業(映画興業会社)に転じ、同社の専務取締役となる。
昭和27年10月、オリムピア興業の東映への吸収合併に伴い、幹部社員として東映に入社、のちには同社の取締役興業部長等を務める。
この間、自宅借地の寺院内に幼稚園を設立し妻がこれを経営(後に、同幼稚園は学校法人となる)。幼稚園の経営を背景に、昭和38年からは北区教育委員会委員を務め、昭和43年には同教育委員長となっている。
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松本克平さんは、大著「日本新劇史」「日本社会主義演劇史」を出版し読売文学賞を受賞されています。前者については、別のところで何度か引用させて戴きました。
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たたかいの作家同盟記〈上〉―わが文学半生記・後編 (1966年)
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小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察
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2011年2月20日日曜日
昭和8年(1933)2月20日 小林多喜二の死 「あー またこの二月の月かきた ・・・」
今日(2月20日)は、小林多喜二の命日。
昭和8年2月20日午後7時過ぎ、彼は築地警察署で虐殺されている。
*
ノーマ・フィールド「小林多喜二」(岩波新書)から引用させて戴く。
(但し、改行を加えます)
*
「一九三三年二月二〇日、多喜二は仲間の今村恒夫とともに共産青年同盟の三船留吉と赤坂の飲食店で会うことになっていた。
だが、待ち受けていたのは築地署の特高警察だった。三船はスパイだったのである。
多喜二も今村も精一杯走ったが、追う方は「泥棒! 泥棒!」と叫ぶ。逃げきれるはずはなかった。
多喜二の「取り調べ」は警視庁特高ナップ係の中川成美やその部下によって行われた。
寒中、裸にされた多喜二に加えられた暴力は『一九二八年三月十五日』で描かれたものにも増して残忍だった。
三時間の末、瀕死の状態で前田病院に運ばれ、まもなく絶命した。
三時間の拷問とは何を意味するか。
情報をはき出させるのが主眼ではない。中川たちが殺意に満ちていたことはいうまでもないが、手早く殺してしまっても目的は果たせない。多喜二の苦しみを味わう時間を彼らは必要としていた、としか理解しようがない。
特にむごたらしいディテールの内に数えられないかもしれないが、彼らは右手の人差し指を手の甲に届くまで折った。もう原稿に向かうことはあり得ないのに、わざわざ、である。
多喜二の死は翌二一日の午後三時ごろ、ラジオの臨時ニュースで報じられた(『ガイドブック小林多喜二の東京』)。死因は「心臓麻痺」と発表された。
一般メディアは敗戦後まで真実を公表することはなかった。
知らせを受けた母セキが、二歳になる孫を負ぶって築地署に現れたときの写真がある。ネンネコから顔を出す孫の目はばっちりとこちらを見上げて、無表情に目を伏せる祖母と対照的である。
馬橋の家にその夜集まった人たちのうちには、小樽時代の友人・斉藤次郎、乗富道夫、寺田行雄や、作家同盟の仲間多数がいた。
原泉、千田是也、貴司山治はデスマスクをとることを思いたち、深夜でありながら石膏を買い、千田の友人で彫刻家の土佐哲二を起こし、急いでとった。翌朝になって警察が来るのを恐れ、石膏が生かわきの状態で外すと、割れてしまったが、そのまま土佐が持ち帰った。
後にセキは息子の睫がついていることに気づくが、現在市立小棒文学館に寄託されている。
画家の岡本唐貴が死に顔を描いた。
右翼に刺殺された山本宣治の従兄弟・安田徳太郎医師が遺体を検査した。その際、窪川(佐多)稲子と中条(宮本)百合子がセキと安田医師を手伝って、服を脱がせている。露(あらわ)にされた遺体のむごたらしさに、みんな思わず声を出し、顔をそむけた。しかしセキは、集まった者らに傷跡を見よ、と凄味をもって襟をかき拡げた。
写真が写され、戦後まで隠されて残った。
翌日、解剖を望んで、病院三軒に当たってみたが、断られる。特高の手がすでに回っていたのである。
二一日の晩、原泉に事情を話して案内された伊藤ふじ子は、馬橋の家に一際、姿を現す。セキに挨拶するが、タキをかわいがってきたセキは、この見知らぬ若い女性に冷たかった。タキは妹とともに通夜にも告別式にも参列している。
馬橋の家に駆けつけた仲間や知人の多くは検束される。告別式も厳重な警戒の下で、身内とひとにぎりの知人によって行われた。棺は赤旗に包まれた。
火葬場までの沿道も、火葬場内にも、武装された警官が立ち並んでいた。小樽に戻った遺骨は、『不在地主』 の印税でセキが建てた奥沢墓地の小林家の墓に納められた。
二月二〇日が誕生日の志賀直哉は、丁重な手紙と香典をセキに送った。日記には 「アンタンたる気持ちになる、不図(ふと)彼らの意図ものになるべしという気する」と記す。
魯迅は弔電を送ってきた。彼も発起人になって、中国の文学者が遺族のための募金活動を始める。・・・」
*
*
新聞報道は、・・・
*
2月22日(水)付『東京朝日新聞』
(見出し)
「小林多喜二氏 築地署で急逝 街頭連絡中捕はる」
(記事)
「『不在地主』『蟹工船』等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(三一)は二十日正午頃党員(*今村恒夫)と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林(*小沢果の誤記)特高課員に追跡され約二十分にわたつて街から街へ白昼逃げ回つたが遂に溜池の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された、最初は小林多喜二といふ事を頑強に否定してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後五時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手当を加へた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた、二十一日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られてゐる」
*
警察発表をそのまま報道している。
*
*
小林多喜二の母親(セキ)が亡くなった後、見付かったという彼女の書き物(詩)がある。
泣かせる詩である。
*
あー またこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月は
いやな月 こいをいパいに
なきたい とこいいてもなかれ
ない あー でもラヂオて
しこす たすかる
あー なみたかてる
めかねかくもる
(あー、またこの二月の月がきた。
本当にこの二月という月は
いやな月。声をいっぱいに
泣きたい。どこにいっても泣かれ
ない。あー、でもラジオで
少し助かる。あー、涙が出る。
メガネがくもる。)
*
*
先日、たまたま納戸の整理を「命じられ」て、ごそごそやり始めたところ、昔みた映画のパンフレット類が出てきて、その中に「小林多喜二」(1974年2月)があった。
21日夜の伊藤ふじ子さんの話なども掲載されていて、思わず読み返した。
*
今気付いたが、この映画には、原泉子(中野重治さんの妻)は登場するが、中条(宮本)百合子と共に21日夜に多喜二宅に駆け付けた佐多稲子は登場していない。
*
*
昭和8年2月20日午後7時過ぎ、彼は築地警察署で虐殺されている。
*
ノーマ・フィールド「小林多喜二」(岩波新書)から引用させて戴く。
(但し、改行を加えます)
*
「一九三三年二月二〇日、多喜二は仲間の今村恒夫とともに共産青年同盟の三船留吉と赤坂の飲食店で会うことになっていた。
だが、待ち受けていたのは築地署の特高警察だった。三船はスパイだったのである。
多喜二も今村も精一杯走ったが、追う方は「泥棒! 泥棒!」と叫ぶ。逃げきれるはずはなかった。
多喜二の「取り調べ」は警視庁特高ナップ係の中川成美やその部下によって行われた。
寒中、裸にされた多喜二に加えられた暴力は『一九二八年三月十五日』で描かれたものにも増して残忍だった。
三時間の末、瀕死の状態で前田病院に運ばれ、まもなく絶命した。
三時間の拷問とは何を意味するか。
情報をはき出させるのが主眼ではない。中川たちが殺意に満ちていたことはいうまでもないが、手早く殺してしまっても目的は果たせない。多喜二の苦しみを味わう時間を彼らは必要としていた、としか理解しようがない。
特にむごたらしいディテールの内に数えられないかもしれないが、彼らは右手の人差し指を手の甲に届くまで折った。もう原稿に向かうことはあり得ないのに、わざわざ、である。
多喜二の死は翌二一日の午後三時ごろ、ラジオの臨時ニュースで報じられた(『ガイドブック小林多喜二の東京』)。死因は「心臓麻痺」と発表された。
一般メディアは敗戦後まで真実を公表することはなかった。
知らせを受けた母セキが、二歳になる孫を負ぶって築地署に現れたときの写真がある。ネンネコから顔を出す孫の目はばっちりとこちらを見上げて、無表情に目を伏せる祖母と対照的である。
馬橋の家にその夜集まった人たちのうちには、小樽時代の友人・斉藤次郎、乗富道夫、寺田行雄や、作家同盟の仲間多数がいた。
原泉、千田是也、貴司山治はデスマスクをとることを思いたち、深夜でありながら石膏を買い、千田の友人で彫刻家の土佐哲二を起こし、急いでとった。翌朝になって警察が来るのを恐れ、石膏が生かわきの状態で外すと、割れてしまったが、そのまま土佐が持ち帰った。
後にセキは息子の睫がついていることに気づくが、現在市立小棒文学館に寄託されている。
画家の岡本唐貴が死に顔を描いた。
右翼に刺殺された山本宣治の従兄弟・安田徳太郎医師が遺体を検査した。その際、窪川(佐多)稲子と中条(宮本)百合子がセキと安田医師を手伝って、服を脱がせている。露(あらわ)にされた遺体のむごたらしさに、みんな思わず声を出し、顔をそむけた。しかしセキは、集まった者らに傷跡を見よ、と凄味をもって襟をかき拡げた。
写真が写され、戦後まで隠されて残った。
翌日、解剖を望んで、病院三軒に当たってみたが、断られる。特高の手がすでに回っていたのである。
二一日の晩、原泉に事情を話して案内された伊藤ふじ子は、馬橋の家に一際、姿を現す。セキに挨拶するが、タキをかわいがってきたセキは、この見知らぬ若い女性に冷たかった。タキは妹とともに通夜にも告別式にも参列している。
馬橋の家に駆けつけた仲間や知人の多くは検束される。告別式も厳重な警戒の下で、身内とひとにぎりの知人によって行われた。棺は赤旗に包まれた。
火葬場までの沿道も、火葬場内にも、武装された警官が立ち並んでいた。小樽に戻った遺骨は、『不在地主』 の印税でセキが建てた奥沢墓地の小林家の墓に納められた。
二月二〇日が誕生日の志賀直哉は、丁重な手紙と香典をセキに送った。日記には 「アンタンたる気持ちになる、不図(ふと)彼らの意図ものになるべしという気する」と記す。
魯迅は弔電を送ってきた。彼も発起人になって、中国の文学者が遺族のための募金活動を始める。・・・」
*
*
新聞報道は、・・・
*
2月22日(水)付『東京朝日新聞』
(見出し)
「小林多喜二氏 築地署で急逝 街頭連絡中捕はる」
(記事)
「『不在地主』『蟹工船』等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(三一)は二十日正午頃党員(*今村恒夫)と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林(*小沢果の誤記)特高課員に追跡され約二十分にわたつて街から街へ白昼逃げ回つたが遂に溜池の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された、最初は小林多喜二といふ事を頑強に否定してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後五時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手当を加へた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた、二十一日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られてゐる」
*
警察発表をそのまま報道している。
*
*
小林多喜二の母親(セキ)が亡くなった後、見付かったという彼女の書き物(詩)がある。
泣かせる詩である。
*
あー またこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月は
いやな月 こいをいパいに
なきたい とこいいてもなかれ
ない あー でもラヂオて
しこす たすかる
あー なみたかてる
めかねかくもる
(あー、またこの二月の月がきた。
本当にこの二月という月は
いやな月。声をいっぱいに
泣きたい。どこにいっても泣かれ
ない。あー、でもラジオで
少し助かる。あー、涙が出る。
メガネがくもる。)
*
*
先日、たまたま納戸の整理を「命じられ」て、ごそごそやり始めたところ、昔みた映画のパンフレット類が出てきて、その中に「小林多喜二」(1974年2月)があった。
21日夜の伊藤ふじ子さんの話なども掲載されていて、思わず読み返した。
*
今気付いたが、この映画には、原泉子(中野重治さんの妻)は登場するが、中条(宮本)百合子と共に21日夜に多喜二宅に駆け付けた佐多稲子は登場していない。
*
*
2010年8月24日火曜日
獄中の小林多喜二の戯れ歌 「この暑さ 独房なれば・・・」 昭和5年(1930)9月17日付け手紙
猛暑が続く中で、小林多喜二の戯れ歌を思い出しました。
小林多喜二の獄中書簡に
「宮木君はどうしていますか。私からも出しますが、同君からも是非とお伝え下さい、私の小説と同じように汚い歌を一つ最後に御照会します。「この暑さ、独房なれば褌をもはずして居るがくせとなりたり。」 名句でしょう、では、又。」(昭和5年9月17日付け原まさの、中野鈴子宛て手紙)
*
「貴女たちの手紙を、同じ手紙を、一日に二度は読み返えしています。その中に、何か読み残したもの、新しいもの、社会の匂い・・・が無いかと。これは本当です。
この暑さ、独房なれば褌をもはずして
居るが癖となりたり。(名句でしょう。)
私の小説のように、汚い歌です。どうも人様のようなものは出来そうもないとは、さても争われないものです。」((昭和5年9月17日付け中野鈴子宛て手紙)
というくだりがあります。
*
多喜二はこの年8月21日、治安維持法違反で起訴され、豊多摩刑務所に収監されています。
この歌は、その収監直後のもののようです。
*
確かに、戯れ歌にしてもヘタで、ご本人自ら言う様に「汚い歌」です。
でもこの時、多喜二は27歳。
これくらいはじゃれる(戯れる)でしょう。
*
この多喜二の一連の獄中書簡には、若さ、明るさ、率直さ、真摯さが溢れていて、既に80年も経った文章とは思えない生気が溢れています。
*
多喜二は、北海道拓殖銀行に勤めながら、陰で労働運動、無産政党選挙支援を行い、「蟹工船」「一九二八・三・一五」で中央文壇に新進プロレタリア作家として認められます。
しかし、徐々に、職場に特高が現れるようになりして、「不在地主」発表を機に銀行を解雇されます。
そして翌昭和5年3月、念願の上京を果たします。
私生活では、田口タキさんと短いながらも同棲生活を送り、作家としては「工場細胞」を発表します。
この年5月、「戦旗」防衛巡回講演に江口渙、貴司山治、片岡鉄平、中野重治、大宅壮一らと参加し、その帰路の23日、大阪で逮捕。
この時は、6月7日に釈放されるも、帰京後の24日に立野信之方で逮捕されています。
*
昭和6年1月22日に保釈出獄となります。
(その3年後には虐殺されています)
*
*
手紙の宛先になっている「原まさの」さんは、同時期に獄中にある中野重治さんの奥さんで女優の原泉さん、中野鈴子さんは中野重治さんの妹で詩人(「一田アキ」)。
「一田」は、故郷の一本田から取られたんでしょう。
原さんは、中野重治さんにこの歌を紹介して、「あんまり汚くて笑って仕舞まいました」と書く。
中野さんは、「小林の歌驚いたネ」と、応えたとのこと。
*
これらは、昨年11月に出版された「小林多喜二の手紙」(「岩波文庫」)に依っています。
この本の注釈、解説は秀逸です。

*
*
今年2月、父が逝って帰郷した際に、昔の本棚に「青木書店版 小林多喜二全集」を見付けたんですが、この「2」には、「蟹工船」「不在地主」「暴風警戒報」に「日記」「書簡」が収められていました。
刊行は昭和34年、定価280円(!!)。
しかも、私は、刊行の10年後くらい(多分)に270円で買っているようです。
帰りの新幹線でこれを読み始めたのですが、手紙の文体の若々しさに惹かれるもののイマイチもの足りなかったので、この岩波文庫版を買って読んだところ、今までの「もどかしさ」みたいなものが吹っ飛びました。
理由は岩波文庫版の注釈の豊富(背景、関係人物、事件など)さです。
*
それと、
なんだかインネン話っぽくて恐縮ですが・・・
新幹線で青木書店版全集を読んだ日が、2月20日で、多喜二忌の日でした。
その週の、日付けは忘れましたがある日には、NHKの歴史番組が、多喜二忌に合わせたのか、「小林多喜二」を特集していました。
多喜二のデスマスクを長く映していましたが、創作と闘争への静かな消えることのない意志を見るような気がしました。
*
さて、
多喜二忌と言うとすぐおもいつくのは・・・
「多喜二忌や麻布二の橋三の橋」
多喜二の奥さんだった伊藤ふじ子さんの歌。
*
伊藤ふじ子さんは、再婚後、幸せな生活を送られましたが、70歳で亡くなられています。
一方、田口タキさんは、昨年6月19日、102歳で亡くなられました。
(ニュースサイトはコチラ)
*
お二人ともに美形です。
*
このお二人に関しては、澤地久枝さんの本があります。


*
*
澤地さんは、中野重治ご夫妻の書簡も編集されています。
![愛しき者へ〈上〉 (中公文庫)]()
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小林多喜二の獄中書簡に
「宮木君はどうしていますか。私からも出しますが、同君からも是非とお伝え下さい、私の小説と同じように汚い歌を一つ最後に御照会します。「この暑さ、独房なれば褌をもはずして居るがくせとなりたり。」 名句でしょう、では、又。」(昭和5年9月17日付け原まさの、中野鈴子宛て手紙)
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「貴女たちの手紙を、同じ手紙を、一日に二度は読み返えしています。その中に、何か読み残したもの、新しいもの、社会の匂い・・・が無いかと。これは本当です。
この暑さ、独房なれば褌をもはずして
居るが癖となりたり。(名句でしょう。)
私の小説のように、汚い歌です。どうも人様のようなものは出来そうもないとは、さても争われないものです。」((昭和5年9月17日付け中野鈴子宛て手紙)
というくだりがあります。
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多喜二はこの年8月21日、治安維持法違反で起訴され、豊多摩刑務所に収監されています。
この歌は、その収監直後のもののようです。
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確かに、戯れ歌にしてもヘタで、ご本人自ら言う様に「汚い歌」です。
でもこの時、多喜二は27歳。
これくらいはじゃれる(戯れる)でしょう。
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この多喜二の一連の獄中書簡には、若さ、明るさ、率直さ、真摯さが溢れていて、既に80年も経った文章とは思えない生気が溢れています。
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多喜二は、北海道拓殖銀行に勤めながら、陰で労働運動、無産政党選挙支援を行い、「蟹工船」「一九二八・三・一五」で中央文壇に新進プロレタリア作家として認められます。
しかし、徐々に、職場に特高が現れるようになりして、「不在地主」発表を機に銀行を解雇されます。
そして翌昭和5年3月、念願の上京を果たします。
私生活では、田口タキさんと短いながらも同棲生活を送り、作家としては「工場細胞」を発表します。
この年5月、「戦旗」防衛巡回講演に江口渙、貴司山治、片岡鉄平、中野重治、大宅壮一らと参加し、その帰路の23日、大阪で逮捕。
この時は、6月7日に釈放されるも、帰京後の24日に立野信之方で逮捕されています。
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昭和6年1月22日に保釈出獄となります。
(その3年後には虐殺されています)
*
*
手紙の宛先になっている「原まさの」さんは、同時期に獄中にある中野重治さんの奥さんで女優の原泉さん、中野鈴子さんは中野重治さんの妹で詩人(「一田アキ」)。
「一田」は、故郷の一本田から取られたんでしょう。
原さんは、中野重治さんにこの歌を紹介して、「あんまり汚くて笑って仕舞まいました」と書く。
中野さんは、「小林の歌驚いたネ」と、応えたとのこと。
*
これらは、昨年11月に出版された「小林多喜二の手紙」(「岩波文庫」)に依っています。
この本の注釈、解説は秀逸です。
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今年2月、父が逝って帰郷した際に、昔の本棚に「青木書店版 小林多喜二全集」を見付けたんですが、この「2」には、「蟹工船」「不在地主」「暴風警戒報」に「日記」「書簡」が収められていました。
刊行は昭和34年、定価280円(!!)。
しかも、私は、刊行の10年後くらい(多分)に270円で買っているようです。
帰りの新幹線でこれを読み始めたのですが、手紙の文体の若々しさに惹かれるもののイマイチもの足りなかったので、この岩波文庫版を買って読んだところ、今までの「もどかしさ」みたいなものが吹っ飛びました。
理由は岩波文庫版の注釈の豊富(背景、関係人物、事件など)さです。
*
それと、
なんだかインネン話っぽくて恐縮ですが・・・
新幹線で青木書店版全集を読んだ日が、2月20日で、多喜二忌の日でした。
その週の、日付けは忘れましたがある日には、NHKの歴史番組が、多喜二忌に合わせたのか、「小林多喜二」を特集していました。
多喜二のデスマスクを長く映していましたが、創作と闘争への静かな消えることのない意志を見るような気がしました。
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さて、
多喜二忌と言うとすぐおもいつくのは・・・
「多喜二忌や麻布二の橋三の橋」
多喜二の奥さんだった伊藤ふじ子さんの歌。
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伊藤ふじ子さんは、再婚後、幸せな生活を送られましたが、70歳で亡くなられています。
一方、田口タキさんは、昨年6月19日、102歳で亡くなられました。
(ニュースサイトはコチラ)
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お二人ともに美形です。
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このお二人に関しては、澤地久枝さんの本があります。
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澤地さんは、中野重治ご夫妻の書簡も編集されています。
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