ラベル 昭和17年記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 昭和17年記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年6月2日日曜日

昭和17年(1942)12月25日~31日 御前会議、ガダルカナル島撤退と国民政府への政治力強化を決定

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-05-29
*
昭和17年(1942)
12月25日
・夜、帰郷した真田作戦課長は、参謀総長艦艇で、総長・次長・第1部長に出張報告、戦略転換の必要を述べ、統帥部首脳全員が同意。瀬島・首藤両参謀は辻作戦班長に報告、続いて作戦課全員に報告。異講なし。
翌26日、真田大佐が海軍統帥部に方針転換を申し入れ。了解。
*
12月26日
・ガダルカナル、潜水艦輸送再開。~1月5日、25トン入り米俵1500俵をカミンボに集積。
*
12月26日
・高速研究機キ78・1号機、初飛行成功、19年1月11日までに31回の飛行、最高速度は699.9km
*
12月26日
・ジャワ日本語学校第1回卒業式。
*
12月26日
・ユーゴスラビア、ビハチで人民解放反ファシズム評議会開催。~27日。ビハチ宣言を発表。
*
12月27日
・館陶事件。
済南南方山東省館陶駐屯第12軍第59師団歩53旅団独歩42大隊第5中隊の兵6名、転属不服で飲酒、上官暴行、発砲。
軍司令官土橋一次中将・師団長柳川悌中将ら退役、中隊長引責自殺。
首謀者2死刑、無期1、懲役6年1、禁錮8。

新編成部隊への転属要員を命ぜられた兵6名、営内外で飲酒、週番下士官・中隊付准尉に暴行、中隊長に暴言を吐き、中隊幹部を追って衛兵所を襲い銃を乱射、手榴弾を投擲、隊外で乱暴狼藉。

北支方面軍司令部「舘陶事件ノ概要ニ就テ」による事件発生の第1の原因は、「高度分散配置ノ結果指揮掌握及教育訓共ニ不十分トナリ從ツテ起居其ノ他ニ於テ長期ニ亘リ不軍紀ノ儘放任セラレアリシコト」とされる(軍の広域(高度)分散配置による軍紀弛緩)。
独立歩兵第42大隊は大隊本部を臨淸に置き、東臨道北半分10県の警備を担当し、臨淸~各県の平均距離(直線)は約50㎞で最も遠い所は約80㎞、第5中隊が警備を担当する舘陶県は臨淸~約40㎞にある。

昭和18(1943)年2月、北支那方面軍司令部は「舘陶事件ノ要ニ就テ」を出し、要注意兵対策を指示。
同方面軍は将来対策として、部隊臨時編成時における不良兵排除、優良中隊による部隊単位の編成、不良兵の身上把握による指導監督、転入者の取り扱い(遠隔地に置かず、部隊長の所在地に置く)等、具体的な処置要領を示し、この種事案の再発防止の徹底を図る。
*
12月27日
・~29日、参謀本部・軍令部合同図上演習、ガダルカナル島撤退検討。
陸軍側は瀬島少佐・首藤少佐、海軍側は山本裕二中佐・源田中佐。
*
12月27日
・フィリピン、秘密工作班プラネット・パーテイー、ゲリラと接触、G2(参謀第2部)連合国諜報局比サブセクション
*
12月28日
・真田作戦課長、杉山参謀総長より天皇の侍従武官長への言葉を聞き、日記に書き留める。

「陛下は侍従武官長に対して次のやうに言はれたさうである。本日(28日)両総長から本年度の状況について一括して上奏があつたが、両総長とも、ソロモン方面の情勢について自信を持ってゐないやうである。参謀総長は明後三十日ころ退くか否かについて上奏すると申してゐたが、そんな上奏だけでは、満足できない。如何にして敵を屈伏させるかの方途如何が知りたい点である。事態はまことに重大である。ついては、この問題は大本営会議を開くべきであると考へる。このためには年末も年始もない。自分は何時でも出席するつもりである」(「真田日記」)。
*
12月28日
・三井船舶、三井グループから独立
*
12月28日
・科学技術審議会設置
*
12月28日
・帝国水産統制株式会社創立
*
12月28日
・ヒトラー、A軍集団をカフカスより退却させる
*
12月29日
・臨時特殊財産取扱令公布
*
12月29日
・アルジェ、ジロー将軍、ド・ゴールの会見申入れに対して治安悪化を理由に拒否。
*
12月30日
・フィリピン、カリバピ(新生フィリピン奉仕団)発足(総裁ベニグノ・S・アキノ)。軍政を浸透させる為の大政翼賛会のフィリピン版。

行政委員会バルガス委員長の発する行政令により発足する、軍政監和知参謀長が委員会に働き掛けて結成を促す。
創立は、国民的英雄ホセ・リサール処刑の日。
既成政党・市民団体を解消しその成員を繰り込む。
加入員は18歳以上の成人で、翌43年7月には35万人となる。
日本軍発行の手引書には、「もしも国家から要請があれば、カリパビに加入する全市民によって迅速かつ躊躇なく奉仕活動がなされなければならない」と書かれている。
加入員は、山に籠るゲリラを帰農させたり、釈放された捕虜を更正させたり、戦災復旧、民間相互援助などの活動に従事。
また行政委員会各部長官は各地へ遊説に駆り出される。
*
12月31日
・参謀本部、作戦の重点をニューギニアに転換する作戦方針決定
*
12月31日
・御前会議、ガダルカナル島撤退決定。
「ケ号作戦」(捲土重来の「ケ」)、翌43年2月上旬実施。派兵3万中、戦病飢餓で2万4千が死亡。

永野軍令部総長と杉山参謀総長の上奏内容。
「・・・南太平洋方面今後ノ作戦ハ遺憾ナカラ左ノ如ク変換スルヲ至当卜認メマス ソロモン方面ニ於キマシテハガ島奪回作戦ヲ中止シ、概ネ一月下旬乃至二月上旬ニ亘ル期間ニ於キマシテ在ガ島部隊ヲ撤収致シマス。爾後ニュージョージヤ島及イサベル島以北ノソロモン群島ヲ確保致シマシテ、速ニ各要地ノ防備ヲ強化シ攻勢防守ノ態勢ラ保持シ・・・(ポートモレスビー作戦は、まだ消滅していない) 南太平洋方面作戦カ当初ノ見透ヲ誤リマシテ事茲ニ到リマシタルコトハ洵ニ恐懼ノ至リニ堪へサル所テ御座居マスカ、今後共陸海軍緊密ニ協同致シマシテ万難ヲ排シテ戦局ヲ打開シ誓ツテ聖慮ヲ安シ奉ランコトヲ期シテ居りマス 右ヲ以テ奏上ヲ終リマス」。

作戦見透の誤りを、軍最高首脳が公式に、天皇の前で言ったのは初めて。
審議2時間の後、天皇の決裁は下りる。

・もう一つ重大な国策、「国民政府への政治力を強化し、重慶抗日の名目を覆す」を、決定。

中国政略は、「対支全面的処理の礎地を確立して、対英米戦争遂行に専念しうる事態の達成に努める」という背景によるとされるが、真の原因は、こうした大義の為でなく、支那事変の武力解決が無理との認識が、政治・軍事指導者の間で常識化してきたから。
この年秋、マラヤ、プィリピン、インドネシアの作戦完遂と、ビルマでのイギリス軍撃滅のあと、重慶政府壊滅作戦(五号作戦)が企図される。
南方、満州、朝鮮、内地から兵力を集め、15師団で四川省を攻撃し、蒋介石に打撃を与えるというものだが、ガダルカナルへの戦力投入は、この作戦を不可能にし、それが戦略転換の引き金になる。
御前会議後、東京に集められた支那派遣軍参謀たちは、軍事作戦から一転しての政略に戸惑いを隠さず、露骨に不満な表情を示す。
*
*


2013年4月21日日曜日

昭和17年(1942)12月18日~24日 餓島の惨状 「今ヤガ島ノ運命ヲ決スルモノハ糧秣トナリ而モ其ノ機ハ刻々ニ迫リツツアリ」(第17軍参謀長宮崎少将)

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-04-18
*
昭和17年(1942)
12月18日
・中央医院開校、張家口。
*
・軽巡「天龍」、マダン港外、潜水艦雷撃を受け沈没
*
・日本軍、ウエワク、マダン(ニューギニア)占領
*
12月19日
・午前9時30分、真田穣一郎作戦課長一行、ラバウル着。第8方面軍司令官・各参謀よりガ島戦に関する意見聴取。
23日発。

(加藤道雄参謀)
誰レモ自分ノ面目トカ悪者ニナラヌ様ニシテ国家ヲ危クセヌ事。一切ノ私ヲ去り、大局ヲ見テ善処アリ度。ガ島ニ於テハ悲痛ナルモノアリ。今ノ海軍ノ状態、実力カラスレバ、今奪回ハ至難ナリ。・・・此際ガ島ノ急速ナル奪回ハ断念スベキナリ。
(草鹿11航艦司令長官)
海軍トシテハ何ントカガ島ニ喰ハサネバナラヌ。然ルニ飛行機ハ殆ドツプレ、駆逐艦ハ一八隻ノミトナツタ。コレ以上潰レタナラバ国防ハ担任出来ナイカモ知レヌ。ソコニ実ニ苦シイ点アリ。・・・補給路ノ設定コレガナカナカ大変ナリ。
(井本参謀)
個人ノ気持トシテハ (ガ島奪回は)相当六ツカシイ。中央トシテハ大決心ノ必要アルへシ。・・・確算ナキコトヲ実行シテソノ結果ヲ思へパ、更ニガ島ノ頭数ヲ増加シテ失敗トイフコトトナリハセヌカ。
(今村第8方面軍司令官)
海軍ハ陸軍ノ航空ニ頼リタイトイフ気持ニアリ。実ニ意外。ガ島ハ何レニシテモ至難。ヨリテ死中ニ活ヲ求ムルノ策ナキヤヲ研究中。転換ハコチラ丈ケデ言へルモノニ非ズ。中央ハ海軍トノ関係ヲモ考へ大局約ニ策ヲ定メルへキモノ。唯如何ナル場合ニ於テモ、ガ島ノモノハ捨テテシマウノダトイフ考ヲ持タレズニ、或ル時機ニ於テ出来ル丈ケノ人々ヲ救出出来ル様ニ考へテ貰ヒ度。之レガ漏レタナラハガ島ノ人々ハ一度ニ腹ヲ切ルテアラウ
(加藤方面軍参謀長)
空元気丈ケデモ行カヌ。一歩誤レハ国ノ大事ナレハヨク考へテヤツテクレ。海軍ノ空軍卜潜水艦ト駆逐艦ノ実勢カガコンナ実カニ低下シテヰルトイフ事ハ初メテ知リ、実ニ意外デアツタ。
(神第8艦隊参謀)
海軍ノ航空ハ士官以下素質ノ低下実ニ著シ。飛行機ハ出来テ逐次補給セラレルガ、人員ノ方ハ下手クソバカリデ夜間飛ベルモノ極メテ僅少、戦技モ著シク下手、随ツテ、ミスミス潰シテシマフ。敵ニハ少シモ痛イ目ニ遭ハスコトハ出来ナイ。駆逐艦ノ方モ士気沮喪シアリ艦長以下士官、要点ノ下士官マデ配置ヲ換へナケレバ使ヒモノニナラヌモノ相当アリ。・・・ ガ島モ一時引クトイフコトモ考案ノ一ツ。・・・ガ島ノ引方ハ駆逐艦(一八隻)ヲ以テシ、最初一六隻デ引キ、第二回一四隻デ引キ、第三回ハ補助舟艇デルツセル島東西ノ線ニ退キテ、之カラ艦艇二拾ツテ釆ル。此方法ナラバ算アリ。(「真田日記」)

この頃の杉田一次参謀の見解。
「・・・第一線将兵が毎日消えて行きつつある現況に、・・・徒らに大命の蔭にかくれて、真相に対する処置を為さないのは、不真面目、安住回避である。大楠公の精神を其儘受売りして、第一線を犠牲にし、事態の急迫を顧みざる態度は最も不可なり。」。
杉田参謀は今村軍司令官の部屋まで行って、「新しく二コ師団も出して、ガ島奪回作戦をやっても、決していい結果を生みません」と言うが、奪回の大命を受けて赴任して来ている今村軍司令官は、杉田参謀の意見具申を却下。
*
・対上官犯根絶対策通牒
*
・石綿配給統制規則公布
*
12月20日
・汪兆銘南京国民政府主席来日(−27)。
*
・日本文学報国会、「愛国百人一首」選定。
*
・ドゴール、ダスチエ・ド・ラ・ヴィジュリー将軍をアルジェに派遣、アイゼンハワーと会見、ジロー将軍、ダルラン提督とも会見
*
・スペイン・ポルトガル、イベリア・ブロック結成協定調印(リスボン)。
*
・「オーボエ」航行援助レーダーを使用した初の作戦
*
12月21日
・第9回御前会議、「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」決定、汪政権の参戦・対中国和平工作廃止など決定
*
・全国12私鉄を国鉄に統合
*
・演説不敬罪裁判で尾崎行雄に懲役8ケ月執行猶予2年の1審判決、控訴
*
12月22日
・元京大教授狩野亨吉、みとる人もなく没。
*
・ドイツ第6軍救出作戦失敗(スターリングラード)。
*
12月23日
・大日本言論報国会結成。
内閣情報局の指導監督を受け結成。
偏狭な愛国主義を鼓吹し、自由主義者への圧迫的態度をもって、言論を封殺していく。
設立準備者は野村重臣、斎藤忠、井沢弘、津久井竜雄、市川房枝、穂積七郎、山崎靖純、大熊信行らで、「大東亜新秩序の原理と構想」を国の内外に広めることを目的とし、皇道主義以外の思想を排除。
会長徳富猪一郎、専務理事鹿子木員信、理事秋山謙蔵・富塚清・匝瑳胤次、中野登美雄・橋爪明男等直接には文筆を業としない人々が幅をきかす。
*
・東京、ガス割当て量超過の家庭に閉塞班出動
*
・B17、ウェーキ島空襲
*
12月24日
・サイパン、真田穣一郎作戦課長一行、出張の最後の纏め。ガダルカナル撤収で意見一致。

瀬島参謀は「南東方面爾後の作戦指導要領案」を起案。要点は、在ガ島部隊の撤収、ソロモン方面の確保すべき第1線はニューブリテンーニューアイルランドの線とする、東北部ニューギニアの要城を強化して将来のモレスピー攻略作戦を準備すること。
*
・この日の在ガ島日本軍の電信。
糧秣事情の急迫を告げる。12月中にガ島に揚陸の糧秣は1/10定量で、これも17日には絶える。

第17軍参謀長宮崎少将から、参謀次長、連合艦隊、第8艦隊、第11航空艦隊への電報。
「今ヤガ島ノ運命ヲ決スルモノハ糧秣トナリ而モ其ノ機ハ刻々ニ迫リツツアリ」
「打続ク糧秣ノ不足殊ニ二十日以後僅カニ木ノ芽、椰子実、川草等ノミニ依ル生存ハ 第一線ノ大部ヲシテ戦闘ヲ不能ニ陥ラシメ 歩行サへ困難ナルモノ多ク 一斥候ノ派遣モ至難トナレリ」

25日現在の第38師団の給養兵額は、約6千、うち戦闘に耐えるものは2500以下(歩けない者も引鉄を引ける物はカウント)。歩ける者の3割は、12月下旬揚陸予定の糧秣前送のため配置。

第2師団の歩兵団長・連隊長は全員戦死。
砲撃による死傷は毎日十数名、多いときは20~30名。
12月中旬頃の第2師団の戦闘員は、歩兵第4連隊約450名、歩兵第16連隊約600名で、その約2/3は戦病または後方勤務、実際に第1線で戦闘に従事出来るのは100~200名。給養状態は悪化する一方。
師団全体として、各人1日1/4乃至1/6定量で、月明の為に駆逐艦輸送が出来なくなると、各部隊殆ど絶食状態となる。薬品・衛生材料も補給がなく、給養の極度の不足と重なり、12月中旬以降は師団合計で1日40名の死者がでる。
*
・米麦検査令公布
*
・フランス領北アフリカ総督ダルラン海軍大将、暗殺。
ヴィシー派海外総督で構成する海外領土評議会はジロー将軍を後継任命、北アフリカ民軍総司令官就任(アメリカの全面的支援、現地北西アフリカ・フランス系植民者から「非軍事及び軍の総司令官」なる称号を贈られる)。

ド・ゴールの立場;
ド・ゴールは「トーチ」作戦について完全に蚊帳の外に置かれる(アメリカに抗議するも無視)。
本国のレジスタンスや外国で活動中のフランス人の中にもド・ゴールに反感を抱く者は少なくない。
ジローは、ドイツに勝つためにはド・ゴール派を含め全ての人々が協力すべきで、本国解放以前の政府樹立は誤りと主張。アメリカも合意。
ド・ゴールが英米を向こうに回して自由フランスを主権国家として認知させるため努力し、その代表として振る舞っているが、「主権国家フランス」政府・首班はあくまで解放後の選挙によるべきとの考え。
ロンドンには諸国の亡命政府が存在するが、多くは正統政府の首相・大統領が亡命したもの、ド・ゴールは国防次官・准将でしかない。
アメリカは、ここでド・ゴールが北西アフリカ(フランス系移民150中100万以上がこの地に居住)手に入れると、ド・ゴール独裁国家出現との危惧を持つ。
*
*

2013年4月10日水曜日

昭和17年(1942)12月9日~17日 参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐が真田穣一郎大佐と交代(ガダルカナル撤退への伏線)。 「言論はこれら少壮官吏の玩具になった」(暗黒日記)

ハナズオウとウコン(桜) 北の丸公園 2013-04-05
*
昭和17年(1942)
12月9日
・ガダルカナル入泊予定の伊第3号潜水艦、米魚雷艇により撃沈され、潜水艦輸送も当分中止。
26日再開。
*
12月9日
・この日の清沢洌「暗黒日記」。

「・・・昨日は大東亜戦争記念日〔大詔奉戴日〕だった。
ラジオは朝の賀屋〔興宣〕大蔵大臣の放送に始めて、まるで感情的叫喚であった。
夕方は僕は聞かなかったが、米国は鬼畜で英国は悪魔でといった放送で、家人でさえもラジオを切ったそうだ。
かく感情に訴えなければ戦争は完遂できぬか。
奥村〔喜和男〕情報局次長が先頃、米英に敵愾心を持てと次官会議で提議した。その現れだ。

・・・大東亜戦争一周年において誰もいったことは、国民の戦争意識昂揚が足らぬということだった。(奥村、谷萩〔那華雄、大本営陸軍報道部長〕大佐ことごとく然り--『日々』〔新聞〕十二月九日)
これ以上、どうして戦争意識昂揚が可能か。
・・・十二月八日、陸軍に感謝する会が、木挽町の歌舞伎座であって、超満員だった。
「連続決戦」という文字が新たに出た。
戦争を勃発させるに最も力のあった徳富猪一郎〔蘇峰〕は、戦争一周年に「日本に日本精神あれば、英米に英米魂あり」といっている。また「朝気は鋭、暮気は帰」の古語に対し、アングロサクソンは「朝気は朦朧、暮気は新醒」という。(十二月九日『日々』) 

・・・東条首相は朝から晩まで演説、訪問、街頭慰問をして五、六八分の仕事をしている。その結果、非常に評判がいい。総理大臣の最高任務として、そういうことを国民が要求している証拠だ。
 日ア紹介の英人像抹殺 【松本電話】日本山岳会次木幹事ほか二氏は日本北アルプスを世界に紹介した英人ウォルター・ウェストンの胸像を撤去のため七日登山、記念日の八日撤去した。(『読売』昭和十七年十二月九日) 

 大東亜戦争を通じて最も表象的な人間は奥村情報局次長である。予は奥村情報局次長の説を愛読す。かれの説が、現在のイデオロギーを代表するがゆえに。奥村の知識は日本国民を代表す。おそらくは世界には通用せず。」

奥村喜和男(1900~69):
逓信省事務官、関東省逓信事務官、1941~43年内閣情報局次長。

谷萩那華雄(明28・8・9~昭24・7・8):
大6・5 陸士卒(29期)、 大6・12 任歩兵少尉・歩兵第15聯隊附、10・4 任歩兵中尉、15・8 任歩兵大尉、昭2・12 陸大卒(39期)・歩兵第15聯隊中隊長、5・8 第19師団参謀、6・8 技本附・軍事調査委員(新聞班)、7・8 任歩兵少佐、参本附(重慶駐在)、関東軍附、参本附、支那駐屯軍司附、12・8 任歩兵中佐、北支那方面軍司附、北支那方面軍司附、13・12・30 第1軍司附(大原特務機関長)、14・3・9 任歩兵大佐・中支那派遣軍参謀、14・9・12 支那派遣軍司附(軍事顧問部)、17・3・11 兵器行政本部附(大本営陸軍部報道部長)、18・3・1 任少将、18・10・15 第15独立守備隊長、18・11・24 独立混成第25旅団長、19・10・14 第25軍参謀長、24・7・8 メダンで刑死。
*
12月10日
・ニューギニア・ゴナ陥落
*
12月10日
・大本営、重慶作戦中止を発令
*
12月10日
・大本営政府連絡会議(御前会議)、東条首相は、船舶保有量その他諸般の事情により国力の現状は南太平洋における作戦指導上の要請を満たし得ない事を認める。輸送船を戦争の為にまわすことで政府が大本営要求を呑む。
*
12月10日
・大本営政府連絡会議、この戦争を大東亜戦争と称すると正式に決定。

海軍は「太平洋戦争」「興亜戦争」を主張するが、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものとして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」との陸軍の意見が通る。
自給自足・資源確保を重視する海軍と、自給自足・大東亜共栄圏建設の折衷を戦争目的と考える陸軍の微妙な対立が表れている。
情報局は、「大東亜戦争と称するのは大東亜新秩序建設を目的とする戦争になることを意味する」と、陸軍の見解を公式に発表。
自存自衛で戦いに入るが、緒戦の戦果に眩惑され、東亜解放の盟主気取りが前面にでてくる。
*
12月10日
・ドイツ第4機甲軍「冬の突風作戦」開始
*
12月11日
・第1軍、全山西冬季勦共作戦を実施(/11-19)。
*
12月11日
・ガダルカナル、ネズミ輸送4回目(最後)。
2水戦司令官指揮の下に9隻がショートランド出撃、敵機の攻撃と魚雷艇の襲撃下にドラム缶1200個を投入した。
その間、駆逐艦「照月」(旗艦)は魚雷1本命中で爆発炎上、沈没。ドラム缶は220本が陸上に回収さるが、これは半定量として僅か約3日分。
*
12月11日
・ドイツ作家クレッパー、妻娘と共に自殺。
*
12月12日
・12月末にガダルカナル反転攻勢に投入予定の第51師団の第1船団、ラバウル到着。
続いて第2、3船団も着。

必勝戦力として投入予定の第51師団は、ジャングル作戦や上陸作戦の訓練を実施し広東に集結、ガ島方面の制空権奪回後に一挙に輸送揚陸する計画。
第17軍は、その攻撃開始時期を12月末頃と予定し、各船団は香港から無事に到着しかし、この頃、ガ島戦の状況はもはや挽回不可能な破断界の様相を呈するに至っている。
*
12月12日
・ラバウル、第8艦隊参謀神大佐が、第8方面軍井本参謀に対し、海軍側は自信がなくなった、大本営からも近く命令が来ると思うが、攻撃計画と引く計画の二本建てで立案する必要がある、という申し入れ。
*
12月12日
・東京出張中の連合艦隊黒鳥先任参謀、東京での交渉経過を連合艦隊司令部に打電。
宇垣参謀長日記には「先任参謀より東京に於ける交渉状況を電報し来る。軍令部は全然同意、陸軍も一応了解、真剣なる研究を開始せり」とある。

3回の攻撃失敗後、ガ島は奪回必成の可能性は殆どなく、ただガ島の第17軍将兵を細々と食わせるだけで、その補給を続けること自体が連合艦隊艦艇を喪失し続ける現状。
大局的見地から撤収を考える汐時。
ただ、敵の航空基地の眼前で撤退するのは難事中の難事で、黒鳥先任参謀の感想では、この頃は未だ、陸海軍部の作戦課で、意見一致をみていない様子。
*
12月12日
・この日の「機密戦争日誌」、「南太平洋各種の不吉なる情況の具現に際し、採るべき態度に関しても次長、総長間の決意定まりたるものの如し」と述べる。

14日には作戦課長服部卓四郎大佐が真田穣一郎大佐と交代。
重要な方針、大作戦の変更は、人事の更新を待って行なわれるのが陸軍の慣習で、作戦課長交代は、ガ島撤収の覚悟ができたとみなす事ができる。
*
12月12日
・この日の清沢洌「暗黒日記」。

「右翼やゴロッキの世界だ。東京の都市は「赤尾敏」〔代議士〕という反共主義をかかげる無頼漢の演説のビラで一杯であり、新開は国粋党主〔国粋同盟総裁〕という笹川良一〔代議士〕という男の大阪東京間の往来までゴヂ活字でデカデカと書く。こうした人が時局を指導するのだ。 ラジオの低調はもはや聞くにたえぬ。
 二、三日以前、警察署の情報部のものが来て英米に村する敵愾心宣伝の効果如何を聞きに来たる。奥村情報局次長がやっている政策に対する批判だ。僕は奥村更迭の要をのべた。・・・」。
*
12月12日
・天皇、伊勢神宮親拝、敵国降伏を祈念
*
12月12日
・全国の12の私鉄が国有化される
*
12月12日
・ドイツ『ヴィンターゲヴィッター(冬の突風)」作戦(スターリングラードに包囲されている第6軍救出作戦)失敗
*
12月12日
・ソ連とチェコスロバキア、同盟締結。
*
12月13日
・ガダルカナル、この日から、米軍の砲兵・飛行機の活動が再び激しくなり、第38歩兵団正面では米軍が陣地を逐次推進し、アウステン山攻略の気勢示す。
*
12月13日
・ロンメル、エル・アゲイラより撤退
*
12月14日
・第三次魯東作戦開始
*
12月14日
・連合艦隊渡辺安次参謀、第8方面軍に対しガ島撤退の場合如何にするか、陸海軍幕僚間で研究したいと提案。方面軍は井本参謀が対応。
*
12月14日
・参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐、陸軍大臣秘書官に転出。後任に真田穣一郎大佐。
15日、新作戦部長綾部橘樹少将、満州より羽田着。
16日、南東方面主任参謀瀬島少佐(前月下旬竹田宮中佐から引継ぎ)が真田課長に作戦経緯・現状報告。
17日、真田作戦課長は、作戦班瀬島少佐・航空班首藤少佐と共に南太平洋方面に出張。

真田作戦課長一行は、17日横浜~サイパン18日~トラック19日~ラバウルという旅程。
往復とも連合艦隊司令部(トラック)に立ち寄る。往路、サイパンで(17日)、真田課長は東京へ帰還途中の兵站班長高山中佐・馬淵参謀と会い、高山中佐から現地状況の深刻な報告に接す。

「ガ島輸送ノ困難性、成功ノ困難性 ガ島ニ対スル航空撃滅戦ノ見込確信ナシ・・・ 
 ニューギニアニ対スル事ヲ考ヘルトガ島ニ対スル丈ケノ航空撃滅戦ハ無意味・・・ 
 我海軍ノ無力 我制空権制海権アルハラポールノ近辺丈ケナリ 実ニ貧弱ナリ 補給ノ時ノ潜水艦 駆逐艦ノ勢力到底問題トナラス・・・ 
 鼠輸送ヲコツコツ手当ヲシテ強行スル意志ハ毛頭ナシ・・・ 
 軍需品丈ケテモ六〇隻使ツテ進入シテ1/2~2/3ヤラレル・・・、
 ガ島ニ対スル自信ハ海軍ハ既ニナイ 陸軍ノ口ヲ通シテ止メサセヨウトカカツテヰル・・・ 
 ガハ止メタ方カ可」(真田日記)
*
12月14日
・「トリートン」Uボート暗号が解読されるが、実践部隊はまだ利用できなかった
*
12月15日
・ガダルカナル、第38師団司令部附大野中尉以下3名、米軍の指揮中枢攪乱を狙って出発、この挺身隊は1名も帰還せず。
*
12月15日
・大政翼賛会、「海ゆかば」を国歌に次ぐ国民歌に指定。
*
12月15日
・この日の清沢洌「暗黒日記」。

「昭和十七年十二月十五日(火) 奥村(喜和男)情報局次長は、新聞記者会合の席上で「新聞の紙は来年からウンと少くする。諸君は新聞記者をやめて、情報局の聖戦完遂の演説で地方でも回れ」と言ったという。それから『中央公論』などはウンと紙を少くするとて、名をあげて攻撃した。さらに堀内という中佐は、中央公論をなくしてしまうとも言ったとのことだ。言論はこれら少壮官吏の玩具になったのである」
*
12月16日
・連合軍、アラカンで反撃
*
12月16日
・第78臨時議会。~17日。

東條がアメリカの外交政策を非難し、「もし我にして米国の要求に従属すれば、大東亜安定のために傾注してきた帝国積年の努力は悉く水泡に帰するばかりで帝国の存立すらも危殆に瀕し・・・」と訴える。
10分足らずの演説に拍手は20数回も演説を中断。
有志議員からは陸海軍感謝決議案が提案され、かつての桜会メンバで赤誠会有力議員橋本欣五郎が提案説明。
「衆議院は特に院議を以て陸海軍将兵諸士の偉功を感謝し其の勇健を祈り併せて忠肝義胆鬼神を哭かしむる殉国の英霊に対し深甚なる敬弔の忱を表す」。
総員起立で可決。
*
12月16日
・ソ連軍ドン河畔で攻勢、イタリア第8軍壊滅
*
12月17日
・国連、ナチスのユダヤ人に対する犯罪は報復を受けるだろうと宣言
*
*
*

2013年3月3日日曜日

昭和17年(1942)12月1日~8日 参謀本部田中新一作戦部長、佐藤賢了陸軍省事務局長を殴打し、翌日には東條英機を「バカヤロウ」と罵倒

北の丸公園 2013-02-28
*
昭和17年(1942)
12月
・朝鮮、全土121ヶ所に青年特別錬成所開設。
5月には徴兵制が閣議決定されており、徴兵令施行も時間の問題。
*
・イギリス軍のビルマ反攻の動き活発化。
この月、第5飛行師団の百式司令部偵察機は、インドのチタゴン港に英軍輸送船団60隻集結を偵察。続いて、第14英印師団(英国人将校指揮のインド兵部隊)がアキャブ北方に迫る。
この月、歩兵第58連隊(新潟高田)4千、ビルマに転進。牛を集めるように命じられる。のちコヒマの戦闘に参加、4千人中3千人以上が戦死。
*
・英語の雑誌名は改題と決まる
*
・大東亜映画配給審議会が設置される。
*
・映配、サイゴン支社・フィリピン支社を設置。
*
・南方向映画選定委員会が結成される。
*
・火野葦平「コレヒドル島」(「改造」)、田畑修一郎「郷愁」(「大陸新報」)、中島敦「名人伝」、片岡鉄平「運河」、伊藤整『得能物語』、小宮豊隆『漱石の芸術』、『本居宣長全集』刊行開始、太宰治(33)「禁酒の心」(「現代文学」)、小林秀雄(40)「西行(2)」(『文学界』)。
*
・ポーランド、ポーランド労働者党党首にパヴェウ・フィンデル就任、書記局員ウワディスワフ・ゴムウカに亡命政府代表との交渉権限与える
*
12月1日
・第15軍新防御態勢、第56師団(松山祐三中将)雲南方面、第18師団(牟田口廉也中将)フーコン方面、第33師団(柳田元三中将)アラカン方面、第55師団(古閑健中将)南西沿岸方面
*
・独立混成第21旅団の主力、東部ニューギニアのバサブアに上陸。
*
12月1日
・イタリア、4個護送船団のうち3個を呼び戻す。この月を通じて50%の補給喪失
*
12月2日
・アメリカ、シカゴ大学、原子爆弾製造、フェルミ教授(41)らが核分裂連鎖反応に成功
*
12月2日
・「ベヴァリッジ報告」、福祉国家イギリスを提案
*
12月3日
・ガダルカナル、ネズミ輸送作戦2回目。
駆逐艦1隻で物資ドラム缶1500個をタサファロング沖に投下。陸上への回収は210個、大半は天明後敵機の銃爆撃により沈む。

この日以来ガ島実情視察に来ている方面軍参謀副長佐藤傑少将が方面軍司令部に打った電文。
第二師団ノ大部ハ戦意喪失シ其一部分カ辛シテ現線ヲ保持シアル現況ニシテ・・・」
「第三十八師団モ現在ノ如キ補給ノ状態ヲ以テセハ其大部ノ防禦戦闘能力ハ概ネ本年末迄ヲ以テ限度卜判断セラル」
*
12月3日
・第1回大東亜戦争美術展。
宮本三郎「山下、パーシバル両司令官会見記」、藤田嗣治「二月十一日(ブキテマ高地)」
*
12月4日
・作家・中島敦没
*
12月5日
・朝鮮における義務教育実施要綱を発表。実施は昭和21年と決定。
*
12月5日
・ガダルカナル、第2師団戦闘司令所、ポハ川右岸に、翌6日には勇川右岸に推進。師団正面の敵は、師団第1線に絶えず砲撃を浴びせ、100名内外の部隊が出撃し至近距離で手榴弾戦を交える。
*
12月5日
・インドシナ駐屯軍司令部編成、サイゴン
*
12月5日
・閣議、陸軍に対し第2次分の9万5千トン増徴は認めるが、窮屈な鋼材生産予想から、18年1~3月の損耗補填量は要求16万5千トンから8万5千トンに削減し、更に4月以降18万トンを解傭することを決定。
参謀本部田中新一作戦部長は、佐藤賢了陸軍省事務局長からその報告を聞き激怒(明年4月以降18万トンを解傭を陸軍に求めるのは統帥権干犯)、佐藤局長を殴打。
*
12月5日
・アメリカ、マンザナー騒擾事件。忠誠派と非忠誠派の闘争、警官隊発砲、死者2、重傷10
*
12月6日
・ガダルカナル、工兵第38連隊から第2中隊中沢少尉と第3中隊寺沢少尉が、夫々部下4名を率い挺身斥候となり、敵の後方施設の破壊撹乱の為アウステン山を出発。
寺沢隊は14日、中沢隊は15日に無事帰還。中沢隊は飛行機2・給油車2・照空灯1を爆破、寺沢隊は砲兵陣地1ヶ所・幕舎2爆破、という。
*
12月6日
・田辺参謀次長と鈴木企画院総裁の間で、損耗補填8万5千トンは、損耗激しい場合は改めて協議する事で、統帥部が同意。
しかし、東條はいかなる場合も8.5万トンを超えてはならぬと厳命。
参謀本部田中新一作戦部長は参謀次長を押し切り、夜半、東条首相兼陸相と談判。
田中は「バカヤロウ」と暴言。
7日、田中新一作戦部長罷免され妥協成立。後任綾部橘樹少将。

「第一部長の決意牢固たり、 
一、統帥の尊厳確保。 
一、「ソロモン」方面第一線将兵に対する中央統帥部の義務遂行。 
一、参謀総長、次長及び部下一同に一切の迷惑をかけず、自己一身に引き受けてやること。・・・午後十一時半より三十分。大臣、次官、軍務局長、人事局長、次長を前に第一部長の大臣に対する諌言、再考要望は至誠至情、肺腑をつき余すところなし。言たまたま荒々しくなるところありとするも、蓋し重盛の父清盛に対する忠言に等しく、一座粛然として声なく、室外に待機するもの赤松、二宮秘書官、真田、西浦課長、種村のみ」(「機密戦争日誌」12月6日)
*
12月7日
・早朝、東條は杉山参謀総長に田中新一作戦部長更迭を要求。
田中は重謹慎15日の上、南方軍総司令部付きに転出。
後任は綾部橘樹少将。
続いて14日、作戦課長服部大佐が転出し、後任に真田穣一郎大佐が発令。
東條は、田中追放の代償のように、1~3月の船舶損耗著しい場合は大本営政府間で協議する事を承諾。
陸軍統帥部の強硬派田中作戦部長の転出は、ガダルカナル作戦打切りの転機となる。
言い換えれば、硬派作戦部長が存在できるほどの諸条件がなくなる、或いは諸条件が硬派作戦部長の転出を求めていると云える。
*
12月7日
・ガダルカナル、ネズミ輸送3回目。
駆逐艦11隻で実施するも敵機の襲撃激しく、「野分」航行不能、「嵐」被爆、「野分」は「長波」が曳航、「嵐」と「有明」が護衛して帰途につく。残り7隻は前進するが、ガ島付近で敵魚雷艇8隻の攻撃を受け、目的を果さず反転帰投。翌8日、現地海軍は駆逐艦輸送中止を陸軍側に通告するが、現地陸海軍の協議で、後1回(11日)だけ実施するこになる。
*
12月7日
・イギリス、対ハンガリー宣戦布告。
*
12月7日
・~12日。イギリス英海兵隊、ボルドーと南西フランスにコマンド攻撃
*
12月7日
*
・ダルラン海軍大将、米英軍の同意を得て「北アフリカにおけるフランス国家元首兼陸海空軍部隊総司令官」たることを示す政令を発す。
自由フランス・国内レジスタンスにとって我慢ならないもの。
*
12月8日
・満州国、基本国策大綱発表
*
12月8日
・朝鮮農地開発営団令公布
*
12月8日
・連合軍、ニューギニアのバサブア、ゴナ占領。バサブア守備隊800、玉砕。
*
12月8日
・海軍、陸軍へ駆逐艦によるガダルカナル島へのドラム缶輸送中止連絡。翌月再開。

ガダルカナルへの駆逐艦輸送について、今後中止したい旨、現地海軍から第8方面軍に申入れ。
第8方面軍司令官今村中将が連合艦隊山本長官に継続を要請。
山本は「補給中止は考えていない」と電報。しかし、実際は潜水艦での少量輸送のみ。

「先方からの要望によって、第八方面軍参謀の大部は午後三時から参謀宿舎で海軍参謀一行と会見した。・・・渡辺連合艦隊参謀開口一番曰く、「今日限り海軍は駆逐艦の輸送は実施しない。ガ島に対しては潜水艦による補給輸送を行う。・・・現況以上に駆逐艦を喪失することは、海軍全般の作戦を危険に陥れるので忍ぶことができない」 正に爆弾動議である。方面軍参謀一同大きな衝撃を受けた。今日は開戦満一年の記念日である。・・・それから満一年、事志と違って、戦局の推移は深刻であるが、この日にこのことを言わねばならぬとは・・・海軍側の提案は承りおくに止めて会見を打切った。直ちに今村軍司令官、加藤参謀長に報告した。・・・」(第8方面軍作戦主任参謀井本熊男中佐の作戦日誌)。

「ラバウルの両最高司令部相当に逼迫せる空気にして、放任せば衝突の虞無き能わず。第八方面軍は依然中央指示に固着しあれば、速に今後の方針を変更するの要ありと認む。両者より当隊長官宛駆逐艦輸送を巡り、深刻なる電あり。今にして善処するを要す」(連合艦隊参謀長宇垣纏の日誌、12月9日)。
*
12月8日
・八連特司令部(大田實少将)、ラバウル進出。22日迄に、呉六特・横七特、ラバウル進出。ニュージョージア島ムンダ派遣まで訓練。
*
12月8日
開戦1周年の海軍戦死者:14,802人(推計)
*
12月8日
・大東亜戦争1周年記念国民大会開催
*
12月8日
・午後7時、首相官邸一階の食堂、東條の気を許した閣僚・軍人・官僚が、夕食会に集まる。 会食者:東條、嶋田海相、軍令部総長永野修身、参謀総長杉山元、情報局総裁谷正之、書記官長星野直樹海軍次官沢本頼雄、参謀本部第2部長岡本清福、陸軍省軍務局長武藤章、海軍省軍務局長岡敬純、法制局長官森山鋭一、外務省アメリカ局長山本熊一、内閣総務課長稲田周一、秘書官3人。
*
12月8日
・朝日系「ジャワ新聞」「ボルネオ新聞」、読売系「ビルマ新聞」「グレーター・エーシア」、同盟共同系「昭南新聞」、夫々発刊。
陸海軍から委託された事業。
朝日系は、インドネシア・ジャワ島のジャカルタとボルネオ島南部バンジェルマシンに本社をおく。「ボルネオ新聞」には、日本語版・マレー語版があり、日本語は日本の軍人・軍属などが読者、マレー語版は現地住民の「教化指導」 「日本文化の進出」(村山社長)のための新聞で、終戦時には約5万5千部発行。
*
12月8日
・ソマリア海岸、自由フランスに参加
*
12月8日
・イタリア、国有化企業施設を軍事化、戦争体制強化
*
*

2013年2月24日日曜日

昭和17年(1942)11月21日~30日 ルンガ沖海戦(日本水雷戦が勝利した最後)。「陸軍省軍務局長・・・。意中言外に「ガ」島作戦の中止を要求するが如し」(「機密戦争日誌」)

北の丸公園 2013-02-22
*
昭和17年(1942)
11月21日
・閣議、陸軍の船舶増徴24万トン(海軍は3万トン)は認められるが、第1次徴傭は14万5千トンとし、残り9万5千トンは12月5日第2次決定とする(政府の一時逃れ)。
*
11月23日
・ガダルカナル、第17軍戦闘指令所2回爆撃。
司令官、参謀長は軽傷。専属副官、護衛憲兵即死。事務用品など破砕飛散し事務処理にも事欠く状況。
この日夜、戦闘指令所を15km移動し903高地南側に設置。
*
11月23日
・参謀本部、インド・アッサム進攻の「21号作戦」を、戦況悪化から実施保留指示。
南方軍第15軍(飯田)第18師団長牟田口廉也中将も反対。
*
11月23日
・19日反撃を開始したソ連軍、スターリングラードでドイツ第6軍を包囲。
*
11月24日
・ガダルカナル、この日以降、輸送の為、潜水艦が連日カミンボに入泊。この日は、陸上との連絡不備で失敗。
25日、伊17潜による輸送成功。
*
11月24日
・東京都制案要綱閣議決定
*
11月24日
・ドイツ空軍のスターリングラード空中補給、開始。
ヒトラー、第6軍に脱出を禁止
*
11月25日
・SOEとギリシャ・レジスタンス、ゴルゴポタモス鉄橋爆破(ギリシャ経由でのリビアのドイツ軍への補給路遮断)。
9月末、イギリス落下傘兵1個小隊がギリシアに降下、現地抵抗勢力と連絡をとり、25日夜~26日、ゴルゴポタモス鉄橋を破壊。ギリシア人ゲリラ約150参加。

ギリシャのレジスタンス:
1942年6月ドイツ軍のソ連侵攻に対応して、ソ連は全世界の共産主義者に対ドイツ軍抵抗運動を呼びかけ。
ギリシアでは、既に共産党が抵抗組織「民族解放戦線(EAM)」編成にとりかかっている。EAMは共産党主導によるものではあるが、共産党は人民戦線戦術を採用。
ゴルゴポタモス鉄橋爆破成功に刺激され、EAM以外のレジスタンス組織も本格的活動を開始。1941年秋にアテネの旧政党関係者が結成した「民主ギリシア国民連合(EDES)」はゴルゴポタモス鉄橋爆破作戦にEAMと協力。
また、社会民主主義者プサロス大佐(後、共産主義者に暗殺)の「国民社会解放同盟(EKKA)」等も存在する。
大衆の支持はEAMに集まり、EAM軍事組織「ELAS」が1943年夏には2万人、EDES兵力は約5千人、EKKAは数百人程度。
*
11月26日
・今村第8方面軍司令官、ラバウル着。
26日~統帥発動。

ガダルカナル島の第17軍司令官百武晴吉中将の状況報告。
「すでに糧食の補給を受けざること半月、それ以前の少量給与と相まち、大部分は栄養失調におちいり、飢餓による戦死者、日々平均百に及び、攻撃行動に堪え得る体力を保持する者ほとんど皆無なり。軍は密林内塹壕により、辛うじて敵の攻撃を撃退しあり。敵は我が頑強なる防戦に恐れ、陣内に突入し来らざるも、熾烈なる弾幕を浴びせ、特にその航空戦力をもって補給を遮断し、我が全員の餓死を待ちあるが如し

12月、今村は、経理部長森田親三中将・軍医部長上原慶中将に、ガダルカナル島の戦況から判断すると、ニューブリテン島の日本軍もやがて孤立するかもしれず、最悪事態に備え万全の策を立てたいと伝え、上原には、この島のカナカ族と同じ物を食べて日本人は生きてゆけるものかどうかの調査研究を、森田へは、陸海軍将兵他約10万の日本人の現地自活策の調査研究を、指示。

3日後、森田は加藤参謀長から、ニュープリテン島方面自活計画を立案し、翌18年1月末までに提出するよう指示される。
森田は陸軍省へジャングル開墾や熱帯農業の権威の派遣を依頼。
その結果、18年1月中旬、熱帯産業研究所サイパン支所長山中一郎が、1ヶ月の予定でラバウルに出張。山中の指導の下に、軍参謀太田庄次、貨物廠長広田明その他が協議、自活計画案が今村に提出される。
*
11月26日
・日立製作所亀戸工場、待遇改善要求に対して会社側からの誠意が見られず、「対抗手段として共産主義者指導の下に製品の手抜を為して不良品を作成せしめた」として首謀者6名を検束または不拘束の取調べ。
12月21日、要求撤回。2名は工場内に共産主義グループを結成したとされる。
*
11月26日
・ユーゴ、ビハチ、ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議開催
*
11月27日
・東条内閣閣議決定、「華人労務者内地移入に関する件」。強制連行。
*
11月27日
・ドイツ軍『リーラ(藤色)』作戦(ツーロン港のフランス軍艦58隻の捕獲作戦)、トゥーロン占領。フランス艦61隻自沈。
*
11月27日
・宋美齢、アメリカ到着。入院し、公に姿を現すのは43年2月。
*
11月28日
・米、マンザナー収容所から最初の志願兵カール・ヨネダ等、米陸軍情報学校入隊。
*
11月28日
・ラ・レユニオン島、自由フランスに参加
*
11月28日
・ソ連軍、中部戦線で攻勢
*
11月末
・英印軍、ブチドンーモンドウの線で反撃開始
*
11月30日
・ガダルカナル、藤田中隊(歩兵第228連隊第8中隊藤田巌中尉)、イヌ高地から堺台を結ぶ線に捜索拠点を推進する為、薄暮に出発。
中隊はイヌ高地陣地の北部台上を東から西に突破、一本木付近を通過し、マタニカウ川河谷に沿って帰還。
藤田中隊長は敵陣鉄条網を破壊する際に、側防火器射撃により戦死。
*
11月30日
・ドラム缶(ネズミ輸送)輸送開始。
29日午後10時30分、駆逐艦8隻に各艦ドラム缶200個を積み、2水戦司令官指揮の下、警戒艦2隻と共にショートランド出撃。
*
11月30日
・ルンガ沖海戦。
ネズミ輸送作戦中の第2水雷戦隊田中頼三少将指揮部隊とカールトン・ライト少将部隊、ガダルカナル島周辺最後の海戦。
米重巡1、駆逐艦1。以降制海権は米に。

米海軍は、制海権を失った日本軍の駆逐艦の高速を生かした輸送(「Tokyo Express」)を阻止する為、カールトン・ライト少将率いる第67任務部隊(重巡「ミネアポリス」「ニューオリンズ」「ペンサコラ」「ノーザンプトン」軽巡「ホノルル」駆逐艦「フレッチャー」「ドレイトン」「モーリー」「パーキンス」「ラムソン」「ラードナー」をルンガ沖に派遣。

30日午後8時40分、田中頼三少将率いる第2水雷戦隊(駆逐艦「高波」「親潮」「黒潮」「陽炎」「巻波」「長波」(旗艦)「江風」「涼風」の順で単縦陣)がドラム缶各200個以上積みサボ島南方から泊地に突入、ドラム缶投入準備を始める。
ライト部隊旗艦「ミネアポリス」は、レーダーにより田中部隊を捕捉接近。
田中部隊はこれを発見、物資投入を断念し、全軍突撃を下令。
午後9時20分、ライト部隊の前衛駆逐艦部隊の魚雷20本は命中なく、巡洋艦部隊の射撃が日本艦隊先導の「高波」に集中、「高波」も反撃し2隻に命中弾を与えるが集中砲火を浴び大破、炎上。

一方田中少将は、午後9時22分、砲撃開始後、旗艦「長波」「江風」「涼風」は反転。
先行部隊の「親潮」「黒潮」「陽炎」「巻波」を指揮する第15駆逐艦指令佐藤寅次郎大佐は、正対する米艦隊をやりすごした後、絶好の射点から雷撃開始、次々と命中を出す。
反転した旗艦部隊も米艦隊に対し雷撃を敢行、多数の命中弾を出す。
米艦隊、重巡「ノーザンプトン」沈没、「ミネアポリス」「ニューオリンズ」「ペンサコラ」大破。
日本水雷戦が勝利した最後の海戦

2水戦司令官に対する評価は、日本では芳しくない。
戦闘前の午後4時45分からの単縦陣制形の時、旗艦「長波」が中央に位置した事は、日本海軍の伝統を破るものであり、夜戦開始の際「長波」は一撃を加えただけで避退、全軍の適切な戦闘指導を行なわず、夜戦は各駆連隊、各艦ごとの戦闘になってしまった、という。

「ニミッツ・・・日本の砲火、魚雷戦の技術、エネルギーと忍耐と勇気を賞讃した。・・・田中は飛び切り素晴らしかった。・・・駆逐艦一隻を代価として重巡一隻を撃沈、他の三隻をほとんど一年にわたって戦闘不能とした。戦争における多くの作戦について、アメリカ側の過誤は、敵側のそれによって帳消しにされてきたが、田中は、その駆逐艦隊の短時間の混乱はあったにしても、タサファロングでは誤りを犯さなかった。」(モリソン「合衆国海軍作戦史」5)。
*
11月30日
・佐藤賢了軍務局長、参謀本部に申入れ。
「陸軍省軍務局長曰く ①来年度鉄三五〇万トンは絶対確保するを要す ②右保持困難なるが如き作戦は御免蒙る。意中言外に「ガ」島作戦の中止を要求するが如し」(「機密戦争日誌」11月30日)
*
11月30日
・横浜港停泊中のドイツ巡洋艦ウィッケルマイク、爆発して死者不明102人。
*
*
*

2013年2月17日日曜日

昭和17年(1942)11月15日~20日 第8方面軍(司令官今村均中将)の戦闘序列下命 「・・・ガダル方面は維持程度に止めざるべからず、即ち作戦方針の大転換なり・・・」(宇垣参謀著)

江戸城(皇居)梅林坂 2013-02-13
*
昭和17年(1942)
11月15日
・関門トンネルが開通
*
11月15日
・少国民壁新聞創刊
*
11月15日
・アルゼンチン、ピアニスト・指揮者バレンボイム、誕生。
*
11月15日
・この日~18日、「ストーンエイジ」護送船団、無抵抗でマルタに到着。
*
11月16日
・ガダルカナル、第38師団伊東支隊、敵の後退に対応して逐次前進、16日朝までに支隊主力を沖川右岸まで推進。
*
11月16日
・ガダルカナル増援予定(後にニューギニア・ブナ増援に変更)の独立混成第21旅団の輸送船「ぼすとん」丸、パラオ附近で雷撃され沈没、救助499・行方不明228。
独立混成第21旅団(10月28日第17軍戦闘序列編入)は、輸送船4隻で10月21日サイゴン発、11月5日大宮島人泊、8日ラバウルに向かう、その途中。
残り輸送船は22日ラバウル着。
この頃、ガダルカナルへの船団輸送は惨憺たる結果となっており、加えて、ブナ方面の戦況も急を告げており、結局、ブナ増援充当となる。
*
11月16日
・連合軍、ニューギニア、ブナ付近上陸
*
11月16日
・第8方面軍(司令官今村均中将)の戦闘序列下命。
方面軍には、第17軍(ガダルカナル、百武中将)、第18軍(東部ニューギニア、安達中将)、予備兵力として第6師団、陸軍航空隊130機が編入。

従来は第17軍がガダルカナル・東部ニューギニア双方を作戦指揮。第8方面軍・第18軍を新設し、この日の戦闘序列となる。
第8方面軍の総兵力は11万。第18軍(安達二十三中将)の所属部隊は、東部ニューギニアで作戦中の南海支隊、歩兵第41連隊その他。

16日、今村は天皇から、「南東太平洋方面よりする敵の反攻は、国家の興廃に甚大の関係を有する。すみやかに苦戦中の軍を救援し、戦勢を挽回せよ」と言われる(今村回想録)。
18日、今村は、杉山参謀総長・田中作戦部長に会うが、2人とも14日に輸送船団11隻が全滅し、第28師団主力は戦わずして潰滅的被害を蒙ったことは言わず。
*
11月16日
・陸軍統帥部、当面の作戦遂行の為、船舶37万トン増徴を陸軍省に申入れ。
陸軍省軍務局は反対するが、企画院の検討に廻す。
18日、海軍も25万トン増徴を申入れ。
海軍側の要求は、昭和18年3月(4ヶ月後)には重油が皆無となるという問題も内在する。

省部の見解の対立。
統帥部はガ島は米濠遮断、戦略拠点ラバウル確保の為には必要で、またガ島の第17軍撤退は攻撃よりも困難という理由がある。
陸軍省側は、対極的な国力戦力の維持造成の観点から、国力低下を齎す船舶増徴には応じられないという理由がある。
*
11月16日
・大蔵省、アルミ貨以外の補助貨の回収を決定
*
11月16日
・イギリス、「フランス国民委員会」、北アフリカでのアメリカとヴィシー政府代表ダルランとの交渉批判。フランス国内レジスタンスも同様声明、ド・ドールの支配に委ねることを要求。
*
11月16日
・アルジェリアを拠点としたアメリカ第12空軍が活動開始(目標:航空基地と補給拠点、港湾)
*
11月17日
・ガダルカナル、米軍の砲爆撃再開。
第17軍は、第1線戦闘員・患者を合せても6個大隊に満たない兵力で、敵の制空権下、後方を遮断され、圧倒的に優位の敵と対峙。
*
11月17日
・報道・啓発・宣伝・対敵宣伝機能の刷新を閣議決定。
*
11月17日
・フランス、ペタン、憲法制定権を除く全権をラヴァルに委譲
*
1月17日
・チュニジアで連合軍とドイツ軍の交戦開始。
*
11月18日
・大本営、第8方面軍作戦要領示す。
20日、今村第8方面軍司令官、参謀長加藤鍮平中将以下幕僚とラバウルに向かう。
21日、トラック島着、「大和」艦上で山本連合艦隊司令長官と会見。
22日、ラバウル到着。
26日~、統帥発動。

18日に示された第8方面軍の作戦要領にある「作戦方針」。
「陸海軍協同して先ず速やかにソロモン方面の敵航空勢力を制圧すると共に、ガダルカナル方面の作戦準備を促進拡充し、その完成を待って同島飛行場を奪回し、敵を殲滅す。この間ニューギニアの要地を確保して、同方面における爾後の作戦を準備す」。

杉山参謀総長や参謀本部責任者は、14~15日にガダルカナル島上陸をはかった第38師団が米空海軍の爆撃により全滅に近い大損書を受け、佐野師団長以下約2千と少量の弾薬糧秣が揚陸したにすぎない事実を、20日まで東京いる今村に知らせず。
*
11月18日
・ガダルカナル、第38師団(佐野忠義中将)、マタニカウ川右岸攻撃、失敗。
*
11月18日
・長距離研究機キ-77・1号機初飛行
*
11月19日
・~12月29日、第3次魯東作戦開始。
第12軍、山東省一帯最大の作戦、総兵力1万数千、「ウサギ狩り作戦」「労工狩り作戦」。
11月19日~29日、第1期。
11月30日~12月12日、第2期。
12月13日~29日、第3期。
*
11月19日
・ニューギニア、南海支隊長堀井富太郎少将、海路ギルワ目指す途中カヌー転覆、溺死。後任小田健作少将。
独立混成第22旅団(山県粟花生少将)が増派されるが、戦況は完全に末期的症状を呈す。
南海支隊は、北ギルワ(サナナソダ)を中心にその東のブナ、西のパサプアを底辺とし、南ギルワを頂点とする三角形地区を守備。
独立工兵第15連隊長横山与助大佐は、「糧食欠乏・・・このままにて推移せんか戦わずして死滅するのみ」と、ラバウルに打電。
*
11月19日
・大本営参謀岩越少佐のラバウル出張報告、作戦課内で行なわれ、現地の辻・杉田両参謀の「勝算きわめて少い」との意見が伝えられる。

海軍でも、ほぼその頃、11月17日トラック島を出発した連合艦隊の三和・渡辺両参謀が、軍令部首脳に戦略転換の意見具申を行う。
しかし、戦略転換がどの程度までを言うのかは判然としない。
宇垣参謀長の日誌(20日)に、「・・・ガダル方面は維持程度に止めざるべからず、即ち作戦方針の大転換なり・・・」とあり、撤収の必要までが進言された様子はない。
*
11月19日
・スターリングラード大反攻開始。
ソ連『ウラノス』作戦(航空優勢を握ったソ連軍、スターリングラードで反撃)23日 ドイツ第6軍を包囲。24日 ヒトラー、第36軍に脱出を禁止。
*
11月19日
・ホートン提督、イギリス西方航路司令官に就任。
*
11月19日
・ポーランドの作家シュルツ、ウクライナの路上でナチスに射殺。
*
11月20日
・第8連合特別陸戦隊(大田實少将)編成。横須賀。第8艦隊編入。
呉鎮守府第6特別陸戦隊(呉六特、竹田静七中佐、1,955)、横須賀鎮守府第7特別陸戦隊(横七特、武田恒心中佐、1,945)、他設営隊など計6,100人。
30日、出征。ガダルカナル目標が戦況不利のため中部ソロモン、ニュージョージア島ムンダに変更。
*
11月20日
・大本営、在マレー第5師団復員予定変更、豪北(アラフラ海諸島)転用決定
*
11月20日
・インド国民軍モハンシン将軍、解任、続いてマレー支部長ラガワン追放、連盟の自主活動を日本側(岩畔機関)抑える
*
11月20日
・日本文学報国会、「愛国百人一首」を選定発表
*
11月20日
・英サー・ウィリアム・ベヴァリジ、「社会保険及び関連諸事業に関する報告」を発表。
*
11月20日
・マルタ島に「ストーンエイジ船団」入港、封鎖解除される
*
11月20日
・連合軍、ベンガジ占領
*
*
*

2013年2月3日日曜日

昭和17年(1942)11月11日~14日 第4次ガダルカナル上陸作戦。 第3次ソロモン海戦。

江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-30
*
昭和17年(1942)
11月11日
・大田實少将、第8艦隊司令部付となる。
20日、新編第8連合特別陸戦隊司令官、任命。
*
11月11日
・ドイツ軍、フランス全土を占領。連合国軍の北アフリカ上陸に対抗、地中海沿岸固め。
ドイツ・イタリア軍、フランス非占領地域(ヴィシー政府地区)およびコルシカに侵入・進駐、フランス全土に占領拡大(イタリア軍、コルシカ島とフランス南部海岸地帯を占領。)。
占領税は1日5億フランに増額され、軍隊も北西アフリカで米英軍と戦う部隊のみに限定。ヴィシー政権への信頼揺らぐ。
*
11月12日
・中国国民党第5期10中全会、重慶で開催。
~27日。物価統制実施などを決定。
*
11月12日
・ガダルカナル、歩兵第16連隊(堺部隊)正面に強圧を加えていた米軍、沖川河口付近に後退、続いて翌13日マタニカウ川まで後退。

米軍は、11月上旬頃迄に、海兵隊・陸軍部隊合せて歩兵6個連隊・砲兵2個連隊に増強され、10日からのコカンボナ方向攻撃には歩兵3個連隊砲兵3個大隊が使用されるが、歩4の抵抗に加え、5日伊東支隊がタサファロング上陸し、山地方面から左翼背後を衝きそうな形勢になり、その上、日本軍有力兵団が大船団で増援との情報に、第1海兵師団長は、伊東支隊の攻撃開始前に、作戦中止して周辺に撤収。
*
11月12日
第4次ガダルカナル上陸作戦
第38師団、舞鶴第4特別陸戦隊1万3500人が上陸開始。支援艦隊、翌日まで米艦隊と交戦。
13日夜半、ガダルカナル島の2つの飛行場を艦砲射撃。
海戦は、15日まで断続するが、戦艦2隻による飛行場爆撃は目的を達成せず。

12日夜、阿部弘毅中将率いる第11戦隊(戦艦「比叡」「霧島」)を主力とする挺身部隊は、戦艦による再度のヘンダーソン飛行場攻撃の為、ガダルカナル島へ接近。
午後11時51分、砲撃戦開始、「比叡」の36cm主砲(三式弾)が軽巡「アトランタ」艦橋に命中、スコット少将戦死。乱戦の中、「比叡」は米軍の集中砲撃により操舵不能となる。
他に、駆逐艦「夕立」航行不能、駆逐艦「暁」撃沈。駆逐艦「村雨」「天津風」は北方へ待避。
米軍は、駆逐艦「カッシン」「ラフェイ」爆沈、駆逐艦「ステレット」中破、「オノバン」小破、重巡「サンフランシスコ」大破(キャラガン少将戦死)、重巡「ポートランド」大破、駆逐艦「アーロンワード」航行不能、駆逐艦「バートン」轟沈、駆逐艦「モンセン」廃艦。
翌13日午前0時30分、「霧島」は飛行場砲撃を断念し戦場離脱。
*
11月14日
第3次ソロモン海戦
日本側、戦艦2・駆逐艦3、米側、重巡2・駆逐艦6、撃沈。
ガダルカナル奪回ほぼ不可能となる。

13日午前、前進部隊主流は、挺身攻撃隊「比叡」の被害を知り、前進部隊指揮官(第2艦隊司令長官近藤信竹中将)は、挺身攻撃隊に主流への合流を命じ、夕刻までに集結・補給を終える。
第2艦隊を基幹とするガ島攻撃隊を編成、ルンガ沖の敵水上兵力掃討と敵飛行場砲撃を企図。

14日夜、近藤信竹中将率いるガ島攻撃隊(戦艦「霧島」重巡「愛宕」「高雄」軽巡「長良」「川内」駆逐艦「雷」「五月雨」「朝雲」「白雪」「初雪」「照月」「浦波」「敷波」「綾波」)、ガダルカナル島に向かう。
午後8時31分、近藤中将は、米艦隊発見の報に、これを第3水雷戦隊司令官橋本信太郎少将の掃討隊(軽巡「川内」駆逐艦「浦波」「敷波」「綾波」)に任せ、自身は射撃隊を率い飛行場攻撃に向かう。
午後9時7分、近藤中将は、米艦隊の進路変更に伴い、第10戦隊司令官木村進少将指揮する軽巡「長良」駆逐艦「雷」「五月雨」「白雪」「初雪」を分派、掃討隊と共に米艦隊撃滅を命じる。
午後9時12分、米艦隊(戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」)も日本艦隊を視認し砲撃開始。
駆逐艦「綾波」は、駆逐艦「ウォーク」に損害を与えるも、駆逐艦「ベンハム」「プレストン」が加わり反撃、午後9時半、航行不能に陥いる。
日本艦隊直営隊は、「綾波」と交戦中の「ウォーク」「ベンハム」「プレストン」に砲雷撃を集中し、ついで「サウスダコタ」に命中弾を浴びせる。

午後10時、近藤中将は敵戦艦2隻を認め距離6千から砲撃開始、同時に「愛宕」「高雄」が魚雷発射。「サウスダコタ」は上部構造物が大破炎上し戦場離脱。
一方、リー少将は、レーダー射撃で距離8千から40cm砲弾を「霧島」に次々命中させ7分で戦闘不能に陥れる。
この後、日本艦隊は戦線離脱を図りヘンダーソン飛行場砲撃を断念。
午後10時32分、日本軍阻止の目的を果たしリー少将も戦線離脱。
米艦隊は大半に被害を出すもヘンダーソン飛行場を守りきる。
*
11月14日
・ガダルカナル、第38師団主力と軍需品11隻のうち4隻のみタサファロング到着(15日午前10時36分)。
揚陸開始するが、午前6時、敵機延べ30機来襲、午前8時、4隻とも火災。人員2千、糧秣1500俵(第17軍の4日分)
15日、砲撃により一部のみ揚陸。

第38師団主力と糧秣弾薬を搭載した輸送船は11隻。これを2分隊に区分し、第1分隊(長良丸、宏川丸、佐渡九、かんべら丸、邦吉丸)はタサファロングに、第2分隊(山月丸、山浦丸、鬼怒川丸、信濃丸、ぶりすべん丸、ありぞな丸)はエスベランスに揚陸予定。航路は、往航はソロモン諸島の中央航路、復航は北方航路と定める。輸送船護衛は、田中頼三海軍少将指揮2水戦(駆逐艦12隻)で、上空掩護は基地航空部隊。12日午前8時、輸送船団・護衛駆逐艦はショートランド発。一旦引き返し、13日午後3時30分、再出発。

第1次攻撃。14日午前5時55分、艦爆3機が船団を爆撃。被害なし。以降、延べ100機以上の攻撃を受ける。基地航空隊他が上空を零戦36機、零観14機で掩護。
午前7時8分に第2次攻撃。敵機2機、被害なし。
午前10時50分に第3次攻撃。B17-8機、雷撃機7機、艦爆17機の計40機。「かんべら丸」火災・沈没、「長良丸」浸水、傾斜、沈没、「佐渡丸」航行自由なし。駆逐艦2隻が救助にあたり「佐渡丸」を護りショートランドに戻る。
午後12時30分~50分の第4次攻撃。艦爆24機、B17-8機。「ぶりすべん丸」火災、沈没。
午後1時28分~第5次攻撃。B17-8機。32分、艦爆3機がこれに加わる。「信濃丸」「ありぞな丸」火災。駆逐艦2隻が救助。上空直掩機が敵艦爆3機を撃墜。

午後2時10分、第6次攻撃。艦爆3機。被害なし。
第7次攻撃。艦爆17機。「那古丸」火災。駆逐艦が救助。
午後3時30分、第8次攻撃。被害無し。

結果、輸送船6隻沈没、ショートランド戻り1隻。乗員4802人は救助するも、戦死450名。

この船団輸送を巡り、戦艦2(「霧島」「比叡」)、重巡「綾波」、駆逐艦3隻を喪失。輸送船5隻沈没。
*
11月14日
・大本営陸軍部第2(作戦)課長服部卓四郎大佐、ガダルカナル戦況報告上奏。
結びに、
「ガダルカナル島ニ関スル限り、凡テノ条件カ今日迄ハ我ニ不利テアリマシタ。今後異常ノ覚悟卜努力ヲ以テ先ツ敵航空勢力ヲ制圧シ次イテ飽ク迄之力奪回ヲ策スへキモノト存シマス」。
*
*


2013年1月26日土曜日

昭和17年(1942)11月3日~10日 第1回大東亜文学者大会。岩波茂雄回顧30年感謝晩餐会(「自由主義者最後の晩餐会」)。 

江戸城(皇居)乾門脇の公園 2013-01-24
*
昭和17年(1942)
11月3日
・第1回大東亜文学者大会(東京ー大阪)。
日本131人、満洲6人、蒙疆2人、中国12人参加。小林秀雄(40)参加、評議員に。
*
11月3日
・岩波茂雄回顧30年感謝晩餐会。
大東亜会館(東京会館)、出版関係者など500人参集。
「自由主義者最後の晩餐会」。
*
11月3日
・厚生省、優良多子家庭を表彰
*
11月3日
・米中間選挙。議会では下院で民主党218議席、共和党208議席、他4議席、上院で民主党58議席、共和党37議席、他1議席。
*
11月4日
・文部省国語審議会の標準漢字表答申問題で、反響があったことから義務教育で修得させる漢字標準案2669字が閣議で決定
*
11月4日
・エル・アラメインのドイツ軍戦線突破され、敗走始まる
*
11月4日
・チャーチル、対潜作戦を調整
*
11月5日
・宋子文国民政府外交部長、中国は琉球諸島・満州・台湾の返還を期待していると声明。
*
11月5日
・夜、ガダルカナル、伊東少将指揮歩兵第228連隊主力が、駆逐艦15隻でタサファロング上陸。直ちに、海岸沿いにコカンボナに前進。これにより、海岸方面の戦況は危機を脱す。
7日夜、中熊歩兵第4連隊長、敵砲弾のため戦死、第2大隊長田村少佐が連隊指揮。

(別の記述では・・・)
・第38師団主力、相次ぐ日米艦隊の海戦と空襲の問をぬってガダルカナル島に到着。輸送船11隻に分乗して出発した増援部隊であるが、島に辿りついたのは4隻・兵2千。
*
11月5日
・23代首相の清浦奎吾(92)、没。
*
11月5日
・イギリス、『レパード(豹)』作戦(アルジェリアの海岸への銃器類の揚陸とレジスタンスへの引渡し作戦) 
*
11月5日
・ユーゴスラヴィア、チトー率いるパルチザン、ビハチ解放
*
11月5日
・マダガスカルのヴィシー軍、降伏
(5月、島北端にイギリス軍3万が上陸。日本軍特殊潜航艇攻撃で巡洋艦1・タンカー1が撃沈。9月、イギリス軍増援軍、島東岸・西岸に上陸)。
6日、自由フランス軍ル・ジャンティヨム将軍がマダガスカル自由フランス高等弁務官就任、承認。
*
11月6日
・各雑誌11月号に対する平櫛少佐の批判。

「改造-そうじて生硬さのみあって、感情に訴える生彩に乏し。十月号の失敗(細川嘉六筆禍事件)よりの転向の誠はやや認むるも、当面国家が要請せる重大課題については、依然冷やかなりと 現代-大体において樫の木の硬さのみを狙って柳の木の柔軟に乏し。ただし、座談会「現代思想の批判」(斎藤晌、佐藤通次ら出席)は、はなはだ興味あり、とくに西田哲学を批判し、その哲学がもっぱら個人の安心立命を説いて「武」の哲学的裏づけを欠如せるを指摘せることなど、現下傾聴に値すと 公論-「尊王攘夷」の大特集を断行せるは、在来の総合雑誌の型を打破した企画にて、大いにわれらを感激せしむるものであって、敬服せりと 中央公論-丹羽文雄の小説「海戦」は枚数長きに失せざるや、海戦に従軍する前後から起筆せるなどかえって蛇足なり。一回か二回の従軍にて、このように諸所に書きなぐるは作家としての節操に乏し、この点編集者も熟慮すべきである、と 日本評論-この雑誌の小説欄編集は、いま少し考えてもらいたしと。里見弴、正宗白鳥の小説について、すでにたびたび注意せしところなるにかかわらず、いまだに同じ傾向に偏していないか。今月号岡本一平の「再婚記」など全く個人的問題に執着せるものにて、戦時下はなはだ面白からずと」
*
11月7日
・連絡会議、新「世界情勢判断」決定
*
11月7日
・北ボルネオ、クチンのサラワク・クラブにおいて前田大将、臼井少佐、阿野陸軍技師(陣没後進級)の現地軍の葬儀が行われ、南方軍総司令官寺内寿一大将、山脇軍司令官、徳野クチン州長官ほか軍及び州庁関係者、在留邦人、現地住民2千が参列。
*
11月7日
・中野重治、警視庁に提出すべき手記を書き終わる。
10日、警視庁に行き、片岡警部に99枚渡す。
更に、出獄以来の「著書ならびに発表原稿の発表場所、年月日、内容、そのイデオロギー等の記録を提出せよと」要求され、「ガッカリしてかえる」と日記に。
*
11月7日
・英米のラジオ放送、終日「ロバートが到着」を繰返す。翌日の上陸作戦の合図
*
11月7日
・ドイツ、福音派ルター教会牧師カール・フリードリヒ・シュテルブリンク、ゲシュタポに逮捕される。
共犯者としてカトリック助任司祭3人、協力して非合法活動した青年・兵士逮捕。
/43/6、死刑宣告。/43/11/10、聖職者4人、ハンブルクで執行
*
11月8日
・第16軍司令官今村均中将、第8方面軍司令官親補電受ける。
11日、今村中将、シンガポール着。
16日、日本軍第8方面軍(今村均中将)新設。ソロモン方面の17軍、ニューギニア方面の18軍(安達二十三中将)統括。大本営戦闘序列下命。
*
11月8日
・アイゼンハワー指揮米英連合軍、北アフリカ、モロッコ、アルジェリア上陸およびチュニジア侵攻作戦(「トーチ(たいまつ)」作戦)開始。
ヴィシー政府を承認しているルーズベルト米大統領はペタン元帥に親書「アメリカは他国に対し何の領土的野心も抱いていない」(ヴィシーとは対決姿勢をとらない方針)。
9日、アンリ・ジロー大将(1940年ドイツ軍捕虜となり脱走、ヴィシーに匿われていた)、現地のヴィシー高官達を説得するため担がれて北西アフリカに到着。ヴィシー高官達は彼を無視。
10日、ヴィシーの陸海空軍総司令官ダルラン提督(この時偶然アルジェリアにいた)がアメリカ軍の説得に応じ、現地フランス軍は米軍と合同して対独戦を実行すると明言。
現地ヴィシー軍はダルランの停戦命令に従い北西アフリカの戦闘終息。
米英軍・ヴィシー軍ともに戦死者夫々約700。米英軍艦船損害32隻沈没、ヴィシーのカサブランカ艦隊はほぼ壊滅。

「トーチ」作戦終了後の首脳会談により、ダルランはフランス領アフリカ総督並びにアフリカにおけるフランス軍総司令官、ジローはその地上軍及び空軍司令官に就任。
本国のペタン元帥はダルラン罷免を発表(ダルランの停戦受諾の裏にはペタンの意向が働いていたとの説?)。

ダルランは、本国ツーロン港のフランス地中海艦隊約100隻に対し至急合流する命令。ツーロン港のド・ラボルデ提督はこれを拒否(接収に来たドイツ軍もはねつけ)、指揮下艦隊を自沈させる。
ド・ゴールは「不毛な自殺」と言い捨てる。
*
11月8日
・ヒトラー、スターリングラードをほぼ占領と演説。
*
11月9日
・ドイツ軍、チュニジアに空挺部隊を投入
*
11月9日
・フランスのヴィシー政権、対米国交断絶。
この日~11日、ヴィシーの閣僚ラヴァル、ヒトラーとベルヒデスガーデンで会談。
*
11月10日
・夜10時、ガダルカナル、第38師団(佐野中将)主力(戦闘司令所と歩229連隊)、ガダルカナル上陸。
11日午前5時、903高地西麓の第17軍戦闘司令所着。
第17軍司令官は、第38師団長のマタニカウ川以西の敵撃滅を命令。
第38師団長は、この任務に基づく攻撃準備を伊東支隊に命じ、傍ら、アウステン山の歩兵第124連隊(岡部隊)を師団直轄とする。
*
11月10日
・井上成美、第40代海軍兵学校長として江田島に着任(←第4艦隊司令官より)。 
* *


2012年12月23日日曜日

昭和17年(1942)11月1日、2日 ガダルカナル、「戦況逼迫困窮ノ状ハ予想外ニ甚シク」 ようやく本格的用兵の必要性が認識される

東京 北の丸公園 2012-12-19
*
昭和17年(1942)
11月
この月
・宋美齢、アメリカに7ヶ月滞在、対中支援アピール。
*
・鉄道省、行楽旅行・買出し抑制のため乗車券発売制限、乗越しなど禁止
*
・倉光俊夫『連絡員』(「正統」)、竹内正一『哈爾浜入城』(赤塚書房)、網野菊『奉天』、中島敦『南島譚』、坂口安吾『青春論』、太宰治(33)『帰去来』(八雲)・『文藻集信天翁』エッセイ集(昭南書房)、丹羽文雄『報道班員の手記』(「改造」)・『海戦』(「中央公論」)、小林秀雄(40)『西行(1)』(『文学界』)、小島政二郎『眼中の人』
*
・日本映画資材統制株式会社が創立。
*
・北アフリカ、ロンメル軍、敗北
*
・仏、ヴィシー政府ヴェガン将軍、ペタンに対独戦を進言、親衛隊に逮捕され独に監禁
*
・ポーランド、ポーランド労働者党中央委員会書記マルツェリ・ノヴォトコ、党内闘争により暗殺
*
11月1日
・大東亜省 張家口大使館開設
*
1月1日
ガダルカナル、米軍、マタニカウ河畔を攻撃。左岸の第1線崩壊。
3日、第1線は沖川まで後退

1日、マタニカウ河畔と勇川河口近くの河谷への敵の爆撃と艦砲射撃は激しさを増す。
軍司令所も、早朝2回爆撃を受け、正午頃、爆撃の近弾で挟撃され、903高地西南の丸山道に沿う谷地に移る。
その間、「沿道ニ眼ニ映スル諸兵痛廃ノ状転々感深シ」(宮崎手記)。
夕刻、戦車と多数の火砲を伴う2個連隊の攻撃により、マタニカウ河畔の第1線は急迫を告げる。
司令所は、道路構築隊数10名・海軍陸戦隊約100名を海岸道方面に掻き集める。

敵の一部がクルツ岬に上陸し、中熊部隊(歩兵第4連隊)の背後に進出し、マタニカウ左岸の第1線が崩れ始める。
軍は、一木支隊の全員羅病伏臥中の残兵約60~70名を駆り出し、第1船舶団長に沖川(マタニカウ河口から西へ約3km)の線に予備陣地構築を命じる。
歩兵第4連隊は、この日の戦闘で、第7中隊は長以下十数名、第5中隊は15名となり、連隊砲中隊は長以下殆ど戦死傷、砲も破壊される。
第17軍司令官は発熱臥床中の杉田参謀を第4連隊に派遣し、死守を命じる。

2日、第1線大隊は奮戦するも、米軍は兵力を増加し、戦車・装甲車も加わり強襲し、第1線陣地を包囲。
歩4第1線中隊は、弾薬・糧食全く絶え、肉弾突撃を敢行して玉砕。
小川(クルツ岬西側)付近に布陣の独立速射砲第2大隊は、海岸方面から攻撃の戦車と対戦し、隊長以下全員戦死。
中熊部隊(歩4)は将兵約500に減耗、弾薬も尽き、3日、沖川(クルツ岬と勇川の中間)左岸台地に後退。
敵が沖川を突破すれば、そこから西へは抵抗を布く適地がなく一挙に勇川河口まで敵に委ねることになる。そうなれば、第2師団方面に対する補給路は遮断され、タサファロングの揚陸点が直接脅威に晒されることになる。

4日午前6時頃より、勇川や歩兵第4連隊(中熊部隊)第1線に艦砲射撃。
アウステン山方面では、岡部隊(歩124)が西方高地を保持。
岡部隊から原隊復帰を命ぜられた第4連隊第3大隊は、903高地北方で米軍と衝突するが、苦戦しつつ原隊へ急行。
1日以降マタニカウ川上流河谷へ後退を開始している第2師団主力では、傷病兵の後送に難渋。初め、衛生隊と第1野戦病院に傷病兵収容後送に当らせるが、殆ど全員が衰弱している状況では、とても間に合わず、後送は各隊が行なうこととして、歩兵第29連隊を後退支援に充当。
4日、第2師団先頭は、ようやく軍戦闘司令所の位置に到着しつつある。
5日午後4時過ぎ、歩兵第4連隊中熊連隊長は勇川東側高地で戦闘指揮中、米機の銃撃で左大腿部に重傷を負う、指揮をとりつづけた。
*
11月1日
・大東亜省発足。拓務省廃止、初代大東亜大臣青木一男、興亜院吸収。
*
11月1日
・大田實佐世保第2海兵団長、少将昇進
・角田覚治、中将昇進
*
11月1日
・日本新聞協会解散
*
・新聞統合令により各紙の統合実施。
日刊工業新聞、経済時事新報など14紙が中外商業新報と合併して日本産業経済新聞に統合、
愛知以西の業界紙が統合し産業経済新聞が大阪で創刊、

北海道11紙を統合して北海道新聞設立、
毎日系のマニラ新聞・セレベス新聞発刊
*
11月2日
・夜、ガダルカナル、大本営陸軍部第2(作戦)課長服部卓四郎大佐、近藤少佐を伴い、駆逐艦でタサファロング上陸、3日朝、903高地西麓の軍戦闘司令所に到着。
5日午後帰途、11日東京着、12日上司に報告、14日戦況報告上奏。
この時点でようやく、本格的用兵(大兵の一挙使用)の必要性が認識される。

司令所での食事も掛盒に平らに一盛りし副食は塩もない状態。

近藤少佐起案の大本営宛第1信:
戦況逼迫困窮ノ状ハ予想外ニ甚シク 将兵ノ相貌ハ武漢作戦当時ノ第百六師団ノ夫ニ髣髴タルモノアリ」。
服部大佐の同日の報告電:
「制空権ヲ確保セサル限り正攻法ノ採用ハ困難ナリ」
「第二師団ノ某大隊ノ如キ一、二時間ノ砲爆撃ヲ以テ潰エタリ」
「一日モ速カニ飛行場ヲ推進シ強カナル航空兵力ヲ以テ制圧スルノ外ナキ結論ヲ得タリ」。

4日、宮崎参謀長、服部、小沼、辻、近藤各参謀凝議の上、爾後の作戦指導として、新に混成第21旅団(2大隊)を増加し、第38師団主力を11月上旬、第51師団を12月上旬に揚陸し、更に精強な1連隊(第6師団)を特殊船によって直接ルンガに強行上陸させ、12月中、下旬に総攻撃を再興する、陸軍飛行隊の進出を促進決定する、攻撃兵団として特に38師団の戦力保持に着意する等を決定し、服部大佐は大本営第1部長宛て打電。
「昨日小官到着後ノ激戦ニ於テ一回モ海軍機ノ協カナク完全ナル敵ノ制空下ニアリ 航空作戦強化ノ為陸軍航空部隊ノ増加ノ絶対必要ナル前電ノ如シ」
「丸山兵団(第2師団)ハ次ノ作戦兵力トシテ殆ント胸算シ得サルヲ以テ佐野兵団(第38師団)ノ外ニ更ニ一兵団ヲ直接作戦ノ為 別ニ一兵団ヲ大本営ノ後詰トシテ準備ヲ要スへシ」。
*
11月2日
・北原白秋(57)、腎臓病で没。

*
*

2012年12月7日金曜日

昭和17年(1942)10月28日 辻参謀は、「生れて四十年幾度か戦場に立ち(ガダルカナルの)此度程の辛苦はなかった」と、・・・(宮崎手配)

東京 北の丸公園 2012-12-05
*
昭和17年(1942)
10月28日
・米英ソ中、重慶で東亜作戦会議を開催。
*
10月28日
・吉田茂、近衛の画策により、自宅で宇垣と真崎を会わせる。
宇垣はこの構想に乗らず、「近衛一派は自己の描いた型に近いものを作らせようとしているのだ」とし、「余は断じて他の拘束下に組閣など成さんとする意思はない」(12月26日日記)とする。
*
・日本・タイ文化協定調印
*
10月28日
・英空軍、エル・アラメイン南方のドイツ軍戦車隊を撃破
*
10月29日
・蛍石配給統制規則
*
10月30日
・ガダルカナル、作戦会議において、第38師団のコリ岬上陸中止決定。

29日午前4時、宮崎参謀長、大前参謀、堺吉嗣大佐(後、広安大佐後任として第16連隊長)は飛行艇でラバウル発、7時ショートランド着、7時30分駆逐艦「時雨」で出港、午後9時ガダルカナル着。
30日朝、軍戦闘司令所で作戦会議。出席者は宮崎参謀長、大前参謀、小沼、杉田、越次、平岡、山内各参謀。
宮崎参謀長は、海軍主力は内地帰還して整備の必要あり、海軍は当分弱化し、海上輸送は困難となる。従って、第38師団のコリ岬上陸は困難で、今後の攻撃主目標はルンガ西正面としなければならない、コリ方面の作戦は輸送・補給の面からみて甚だ不確実という。
しかし、高級参謀以下他の参謀は、第38師団のコリ方面揚陸を主張し、参謀長案に反対。
午前9時頃、辻参謀が第1線から帰還、第2師団の状況を報告、「生れて四十年幾度か戦場に立ち此度程の辛苦はなかった」と、その顔色相貌は苦難を物語る(宮崎手配)。コリ問題については、「極めて簡単率直に」(コリ揚陸を)変更する方がいいと答える。
第1線の状況に一番明るい辻参謀の意見で、事は決す。
第38師団主力のコリ岬上陸は中止、コリ支隊の山砲兵中隊(砲2門)、無線1分隊、歩兵第230連隊歩兵1中隊(糧秣2千人10日分)、弾薬を、海軍艦艇により、11月1日夜コリ付近に揚陸し、歩兵第230連隊長指揮下に入れると発令。
*
10月31日
・台湾に司法保護事業法公布
*
10月31日
・拓務省廃止
*
10月下旬
ビルマ戦線。
イギリス軍、アキャブで反撃攻勢、連日連夜、アキャブ空襲。
アキャブ~ブーティーダウン・マウンドオ(ブチドン・モンドオ)防御線が日本軍側の作戦計画に乗る。

日本軍のビルマ侵入時、ビルマの英軍・中国軍は大打撃をうけて敗走、中国軍はサルウィーン河を越えて雲南省に、英軍はアラカン山系を越えてィンドのチタゴンやインパールに後退。
しかし、間もなく英軍はビルマ奪回を計画、反攻準備に入る。
日本軍は主力部隊をシャン州の高原の避暑地に集め、保健と訓練の名目で休養。
7月中旬、第33師団長桜井省三中将はアキャブの重要性に注目し、第213連隊長宮脇幸助大佐に、アキャブ確保とビルマ・インド国境付近の要地占領、情報収集を命令。
宮脇大佐は歩兵1個大隊・山砲1個大隊を以て宮脇支隊とし、アキャブに移動、前から警備にあたっている隷下の第2大隊と合一し、一部をプーティーダウン・マウンドオ(プチドン・モンドウ)の線に出し敵情捜索に努め、この2地点を結ぶ防衛線が作戦計画に浮び上がる。

英空軍は連日連夜アキャブを空襲。日本軍の自動車、舟艇、人ひとりでも、昼間の行動はできないほど。
この頃、東部インドに集結した米英空軍機は250機で、日本軍航空兵カは第5飛行師団の3個飛行団210機。
しかし、米英空軍機の来襲は、10月300機、11月600機、12月1200機に及び、勢力の均衡は破れ、ビルマの制空権は間もなく連合軍に奪われる。
12月、第5飛行師団の百式司令部偵察機は、インドのチタゴン港に英軍輸送船団60隻集結を偵察。
続いて、第14英印師団(英国人将校指揮のインド兵部隊)がアキャブ北方に迫って来る。
*
*

2012年12月2日日曜日

昭和17年(1942)10月26日 「「ソロモン」方面陸軍戦況全く頓挫せり。然るところ海軍作戦は意想外進展しありて同慶に堪えず。」(「機密戦争日誌」)

東京 北の丸公園 2012-11-29
*
昭和17年(1942)
10月26日
・情報局主催、映配・日映の中堅スタッフ中心に結成した南方文化工作挺身隊壮行激励会
*
・第4艦隊司令長官井上成美中将、海軍兵学校長就任、江田島。
前任草鹿任一中将は南東方面艦隊司令長官(第11航空艦隊司令長官?、ラバウル)。後任は鮫島具重中将。井上は11月10日江田島着任。
*
南太平洋海戦(サンタクルーズ諸島海戦)
キンケイド少将指揮「エンタープライズ」「ホーネット」基幹。
近藤信竹中将総指揮栗田艦隊・南雲艦隊。
米;空母「ホーネット」撃沈・「エンタープライズ」大破。
日本;「翔鶴」「瑞鳳」大破、飛行機100以上。

26日黎明より、南雲中将率いる第3艦隊は探索開始。
午前4時50分、米空母部隊を発見、
同時刻、米軍も日本の機動部隊を発見、攻撃隊発進。
日本側は、村田重治少佐率いる第1次攻撃隊(零戦21、九九艦爆21、九七艦攻20)と約1時間後、関衛少佐率いる第2次攻撃隊(零戦9、九九艦爆19、九七艦攻16)。

米軍攻撃隊は、空母「ホーネット」よりF4F戦闘機8、SBD急降下爆撃機15、TBF雷撃機6の第1次攻撃隊、空母「エンタープライズ」よりF4F戦闘機8、SBD急降下爆撃機3、TBF雷撃機8の第2次攻撃隊。

午前6時55分、第1次攻撃隊が米空母部隊を発見、「エンタープライズ」はスコールの中のため発見できず、攻撃は「ホーネット」に集中、6発の250kg爆弾と2本の魚雷が命中、炎上。
しかし日本側の損害も大きく真珠湾攻撃以来のベテラン村田重治少佐は未帰還。

「ホーネット」からの第3次攻撃隊は、日本の空母部隊を発見できず、前衛艦隊の重巡「筑摩」に攻撃を集中し中破させる。
「エンタープライズ」隊も日本の空母部隊を発見できず、前衛艦隊の重巡「筑摩」に攻撃を集中し中破させる。

「ホーネット」第1次攻撃隊は午前7時27分、日本の機動部隊を発見攻撃し、空母「翔鶴」を中破させる。
関衛少佐率いる第2次攻撃隊は、無傷の「エンタープライズ」を攻撃、3発の250kg爆弾の命中にとどまる。

第2航空戦隊角田覚治少将は、午前7時45分「隼鷹」から第1次攻撃隊(志賀淑男大尉、零戦12、九九艦爆17)を発進させ、自身は第3艦隊に合流、南雲中将指揮下に入る。
午前9時20分、「隼鷹」からの第1次攻撃隊はスコールの中の「エンタープライズ」を発見、命中弾はないが、米戦艦「サウスダコタ」「サンジュアン」に250kg爆弾夫々1発づつ命中、更に角田覚治少将は第3次攻撃隊を編成し、「ホーネット」の息の根を止める。
しかし、日本側攻撃隊の損失も大きく132機の空母機と熟練操縦士を失う
日本機動部隊が勝利をおさめた最後の海戦となる。

○詳細展開
第17軍のガダルカナル攻撃に策応すべく、海軍側は、連合艦隊主力が支援部陵となり、これを前進部隊(第2艦隊)、機動部隊(「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」3空母を中核とする第3艦隊)、前衛(第3艦隊司令長官指揮下の第1戦隊以下3個戦隊と2個の駆逐隊)に区分し、ソロモン諸島の東方海域で行動。これら日本艦隊のガダルカナル近接阻止の為、サンタグルーズ諸島方面に米機動部隊が進出し、両者の間で海戦となる。

25日午前零時20分、南下中の機動部隊は、飛行場占領の誤報に接し、午前3時、計画に基づき索敵機を発進させ、南下を続ける。
午前5時、飛行場占領は誤報と判明し、機動部隊本隊は反転北上、前衛は南下継続、本隊との距離を開く。
午前7時40分、機動部隊本隊は敵飛行艇に接触され、零戦が追撃、捕捉出来ず。それより前の午前7時8分、前衛は敵飛行艇に接触されていると報じている。
午前8時5分、機動部隊指揮官は、前衛に反転北上し索敵機収容を下令。敵情を傍受したところ、午前8時15分頃、敵飛行艇は日本海軍機動部隊の全容を発見報告した模様。

昼過ぎ、B17-6機が前衛に来襲、戦艦「霧島」を爆撃、被害なし。

これより前の午前11時15分、基地航空部隊の哨戒機は、レンネル島東約30浬に、戦艦2・巡洋艦12隻から成る敵大部隊北上中を発見し報告。
11時30分、支援部隊指揮官(近藤中将)は、なし得ればこの敵を攻撃するよう機動部隊に下命、機動部隊指揮官(南雲中将)は「本日攻撃ノ見込ナシ」と回答し攻撃せず。機動部隊から敵までの距離が340浬あり、遠いこともあるが、敵空母出現必至の情況下で、空母以外の敵に対する攻撃隊発進は危険と第3艦隊司令部は判断。

25日午後4時、北上する機動部隊は再反転、南下。
午後9時半頃、敵信傍受により、敵機が月明を利用して接触しているのを感知するが、第3艦隊司令部は、本隊に接触中か、前衛に接触中かの判別が出来ない。
機動部隊は南下中、敵哨戒機の行動や、味方基地航空部隊の索敵状況等から、米機動部隊が進路の東方にいるのを懸念し、やや西寄りに航路を保つ。
機動部隊本隊と前衛の距離は50~60浬、前進部隊(第2艦隊)は機動部隊の西100~120浬付近を行動中。

26日午前零時50分、機動部隊本隊の空母「瑞鶴」が突如爆撃される。月明下、高度約1kmから投弾され、右舷約300mの海面に4発弾著。被害ない。このままの南下は危険な状況に陥る虞れありとし、26日午前1時30分、24ノットで反転北上。

機動部隊は北上しながら、黎明、二段索敵を行う。
26日午前2時15分、前衛から水偵7機、午前2時45分、本隊から艦攻13機が発進。
午前4時50分、「翔鶴」索敵機から、「敵大部隊見ユ地点八度二二分南 一六六度四二分東 空母一 他一五 空母ハサラトガ」と入電。この索敵機は、午前4時12分、これを太陽方向に発見するが、視認不良のため北方に迂回して確認後、第1報を発信。

26日午前5時25分、「翔鶴」飛行隊長村田重治少佐指揮の第1次攻撃隊が、「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」3艦からの零戦21機(「翔鶴」4、「瑞鶴」8、「瑞鳳」9)、艦爆21機(「瑞鶴」)、艦攻20機(「翔鶴」)計62機が発進。

ほぼ同じ頃、米機動部隊索敵機も日本海軍機動部隊を発見、午前5時30分~6時15分、3次に亘る攻撃隊が発進。
午前6時30分、第1次攻撃隊は敵艦爆15機とすれちがうが、指揮官はこれに気づかず行き違う(7時20分前後、「翔鶴」を襲う艦爆隊と思われる)。
第1次攻撃隊は更に午前6時40分、敵戦闘機6・艦爆8と遭遇、「瑞凰」零戦隊9機がこれを攻撃、敵全機を撃墜するが、機銃弾を射耗したので進撃を断念し母艦に帰投。この空戦で、「瑞風」零戦隊は2機自爆、2機行方不明、1機被弾大破の損害を出し、帰投後使用に耐えるのは4機のみ。
午前6時55分、攻撃隊は敵第1集団(空母「ホーネット」、重巡2、防空巡洋艦2、駆逐艦6から成る大部隊)を発見。この北西10浬に同様の輪型陣のエンタープライズ隊がいるが、午前7時頃スコールの中にあり、見えず。「ホーネット」隊は上空に戦闘機約30機を配備。
午前7時10分、攻撃隊は空母に対する急降下爆撃を開始。艦爆隊の先頭中隊は敵戦闘機との交戦で隊形が乱れ、後続の第2中隊が先に突入し、艦攻隊はその途中的空母の両側から雷撃を敢行。「ホーネット」隊の防禦砲火は熾烈、輪型陣を成す全艦が一斉に回避運動をしつつ、砲火の指向が統一指揮されているかのようである。攻撃隊は敵空母に250キロ爆弾6発以上・魚雷2発を命中させ、艦攻1機は魚雷装着のまま敵駆逐艦に突入自爆、これを撃沈、艦爆1機は損傷を受け駆逐艦に激突自爆。
午前9時40分~11時30分、攻撃隊は空母「瑞鶴」「隼鷹」に帰投。損失は零戦9・艦爆17。

敵母艦からの攻撃は、午前4時52分頃、機動部隊本隊の視界に敵艦上機群が入るが、雲間に出没し捕捉困難。
午前5時45分、艦爆2機が「瑞鳳」に急降下、1弾が後部を直撃、発着甲板に直径15mの穴があき、火災となるが間もなく鎮火。「瑞鳳」は着発艦不能となり、戦場離脱してトラックへ北上退避。
第2次攻撃隊は、「翔鶴」隊(零戦5、艦爆19)が午前6時10分、「瑞鶴」隊(零戦4、艦攻16が6時45分発進。
第2次攻撃隊は第1次が攻撃した空母の北方約20浬にいた別の空母と戦艦(サウスダコタ型)を攻撃。空母に魚雷2発以上、戦艦に2発以上を命中させ、空母は大破して速力が落ち、戦艦は間もなく沈没、重巡も大破、と報じう。第2次攻撃隊の損害は、自爆・不時着を含めて、戦闘機2、艦爆12、艦攻10。

機動部隊本隊とは別に、前進部隊本隊に配属の2航戦「隼鷹」からも、午前7時過ぎの第1次から日没までに3回の攻撃隊が発進。

空母「翔鶴」は、午前6時40分、レーダーで来攻する敵機群を探知。
7時18分、レーダーの指示方向に敵艦爆15機が直掩戦闘機と交戦しつつ接近。直掩戦闘機は、「翔鶴」10、「瑞鶴」5、計15機。敵機群は積乱雲を巧みに利用して突入態勢に入る。
午前7時27分、急降下。直掩機1機が敵機に激突。残りの艦爆14機が「翔鶴」を爆撃。回避運動と対空砲火で、初めは命中弾がないが、敵艦爆が高度200~300mで艦首方向から侵入投弾するようになり、避けきれなくなる。4発が中部発着甲板と高角砲台に命中、艦は飛行機着発不能に陥り、火災(12時30分頃ようやく鎮火)。先に被爆した「瑞鳳」は最大速力を出し得る状態にあり、「翔鶴」も31ノットの高速を出し得たので、直衛艦を伴い北西方に避退し、攻撃圏外へ出る。

戦果ではやや優勢だが、「翔鶴」飛行隊長村田重治少佐(艦攻)、同飛行隊長関衛少佐(艦爆)、「瑞鶴」飛行隊長今宿滋一郎大尉(艦攻)など艦攻艦爆の主要幹部を失う
*
・ガダルカナル、戦闘司令所命令により、東海林支隊、コリ岬へ出発。
11月3日コリ着。5日コリ支隊と合流。
11日夜、903高地に呼び戻される。
24日、903高地に戻る。出発時3千の兵が700~800名に減少。

26日(攻撃中止の発令日)、東海林支隊はコリ押へ転進を命ぜられ、傷病兵後送と配属部隊(歩124第3大隊、独立速射砲中隊、迫撃第3大隊第3中隊他)を第2師団展開線方向へ後退させ、第230連隊主力をもって密林内をコリ岬へ出発。
24、25日の総攻撃に引続き、絶食と密林突破の困難を冒し、敵機の攻撃を受けつつ、11月3日コリ南東飛行場適地に達す。
コリ岬付近には一木・川口支隊の一部が残存(大半は病人)しており、東海林支隊はその131名を収容すると同時に、その残存部隊の手持ちの糧食によって、辛うじて飢えを凌ぐ。2日夜にコリに上陸したコリ支隊と、5日に合流。新上陸部隊が揚陸した糧株は、全員に1人当米7合2勺に過ぎない。
11日、東海林支隊は903高地方面に呼戻される。
*
第2師団によるガダルカナル第2次攻撃は失敗するものの、南太平洋海戦の大戦果発表あり
この日の「機密戦争日誌」。
「十月二十六日 「ソロモン」方面陸軍戦況全く頓挫せり。然るところ海軍作戦は意想外進展しありて同慶に堪えず。第一部長、開戦以来未だ曾てなき屈辱を感ずと述懐せられる。総長の陛下に対し奉る心中をお察しし陸軍統帥部の苦衷言わん方なし」
*
*

2012年11月26日月曜日

昭和17年(1942)10月24、25日 ガダルカナル第二次総攻撃失敗

東京 江戸城(皇居)東御苑
*
昭和17年(1942)
10月24日
・夜、ガダルカナル、第2次総攻撃失敗
第2師団(丸山政男中将)夜襲。
右翼隊(東海林俊成大佐の第230聯隊)失敗、左翼隊(那須弓雄中将)第29連隊(古宮政次郎大佐)突進、頓挫。古宮連隊長、敵中脱出できず後自決。
25日、丸山第2師団長、再度夜襲命令。失敗。那須少将・第16連隊長広安寿郎大佐、戦死。
第29聯隊の損害:2日間で戦死522、戦傷と併せ損害は50%。
26日午前6時、第17軍百武司令官、ガダルカナル第2次総攻撃中止命令。
一木支隊、川口支隊に続き、日露戦争以来の伝統に輝く第2師団の攻撃も失敗に終わる。

【戦闘概観】
24日午前5時、師団長出発、予備隊と共に左翼隊後方を4km前進
(前日の辻の報告とは異なる。理由不明)。
正午、師団長の攻撃開始に関する最後の命令。
「・・・ 三 両翼隊ハ一七〇〇(東京時間)ヲ期シ突撃ヲ決行シ敵線深ク殺到スへシ 
四 予ハ一四〇〇迄現在地二在り 爾後左翼隊後方ヲ飛行場ニ向ヒ前進ス」。
これと前後して、軍戦闘司令所に辻参謀から報告。
「第二師団の第一線は敵に察知せられることなく飛行場南方約二粁附近に進出し、両翼隊は各々四条のジャングル道により前進中。歩兵第十六連隊は『ムカデ』草原南側に集結しあり。師団司令部は今より『ムカデ』南側地区出発、前方に進出す。電話線の余力なき故、爾後軍戦闘司令所との連絡はきれるも、本夜は確実故次回に無電にて『バンザイ』を送る」。

12時20分、第17軍は、大本営とラバウルの司令部と連合艦隊に対し、
「一 第二師団ハ敵ニ発見セラルルコトナク一二〇〇頃飛行場南方約二キロ附近ニ達シ数条ノ「ジャングル」道ヲ続イテ敵ニ近迫中ナリ 二 第一線ヨリノ報告ニ依レハ予定時刻ニ突入シ得ル状態ニ在リ」と楽観的電報。

米軍は、マタニカウ川東方に住吉部隊関係(岡、中熊部隊)の動きを発見しており(住吉部隊正面は牽制作戦の意図があり、発見されてもよい)、24日午後遅く、第7海兵隊巡邏隊の落伍兵が戻り、双眼鏡でプラディ峰(ムカデ高地)を観察している日本軍将校がいたと報告。
同時に、分派偵察狙撃隊の一海兵は、プラディ峰南斜面の南方約1浬3/4、ルンガ川のU型屈曲部付近の密林に沢山の炊煙が昇るのを見たと報じる。
しかし、日も暮れており、防禦強化の工事を施すことが出来ず、長い戦線に薄く配備された第7海兵隊第1大隊で敵の攻撃を待ち受けた、となっている。(ジョン・ミラー書)

住吉部隊(砲兵部隊、岡部隊、中熊部隊)の状況。
住吉支隊砲兵隊は、当初計画に基づき、21日午後2時半~4時、第1砲兵群をもって飛行場滑走路、第2砲兵群によって「サル」「トラ」高地、マタニカウ川右岸陣地、砲兵陣地を砲撃するが、使用弾薬制限の為、砲兵火力をもって敵を打ちのめす本来の砲兵戦効果からは程遠い。
総攻撃が23日に延期されても、住吉支隊は攻撃を続行、岡部隊は支隊長から22日夕、アウステン山とマタニカウ川右岸の敵陣地攻撃を、23日以後は「ネコ」「シシ」高地陣地攻撃を命ぜられる。
岡部隊は、22日夜、その1中隊がマタニカウ川一本橋南東約1kmのアウステン山北西鶴に辿り着く、主力はジャングルに前進を阻まれ、22日は1日1kmしか前進できず。

22日夜、第17軍司令官は、住吉支隊を海岸方面の助攻正面としてでなく、独自の決戦任務を与える必要を認め、「住吉支隊ハ二十三日ナルへク早ク「マタこカウ」河右岸ノ陣地ヲ攻略シ爾後ノ攻撃ヲ準備スへシ(爾後の攻撃は飛行場周辺主陣地のこと) 住吉支隊ニ独立戦車第一中隊及独立速射砲第二大隊(一中隊欠)ヲ増加配備ス」と命令。
22日午後10時、住吉支隊長はアウステン山西麓で、「岡部隊ハ万難ヲ排シ速ニ一本橋附近草原ニ進出シ「マ」河右岸ノ敵陣地ニ対シ攻撃ヲ準備スへシ(攻撃開始は砲兵協力の下に23日午後1時)」、「中熊部隊ハ岡部隊ノ「マ」河右岸陣地突入後機ヲ失セス「マ」河ヲ渡河シ「マ」河右岸敵陣地ヲ攻略スへシ」と、命令。

岡部隊は、23午前10時、アウステン山北端で攻撃準備を整え、午後1時30分攻撃前進。地形錯雑とし、敵間隙への潜入進出を図る部隊の企図は捗らず。23日の攻撃は24日払暁になって、第1線の歩兵第4連隊第3大隊と岡連隊第2大隊の先頭がようやく「イヌ」高地東方の草原地帯に連出し、先頭中隊は敵陣地攻撃を始めた筈だが、密林が深く連絡がとれず状況不明。

中熊部隊(歩四)は、配属された独立戦車第1中隊を第2大隊に配属し、23日午前11時20分、行動開始を命令。
第1大隊は、第2大隊がマタニカウ川右岸に進出すれば、クルツ岬南西地区に進出する予定。しかし、第2大隊は11時20分に命令を受け、午後3時に機動開始、4時30分、各中隊に攻撃前進命令。第1線が渡河点附近に達するまで、米軍第1線は沈黙し、突如、砲兵含む熾烈な射撃を開始し兵力を増強。中熊部隊は損害続出し前進停止。
中熊部隊第2大隊に配属された独立戦車第1中隊は、午後2時頃、マタニカウ河口方向に前進するが、歩兵の進出が遅れ、敵陣前200mで停止し、5時頃迄歩兵の進出を待つ。歩兵が追求し、戦車隊は、各車各個にマタニカウ川渡河攻撃を開始。味方砲兵の掩護はない。米軍は37ミリ砲を並べて対戦車戦の用意をしていたが、まずルンガ岬方面の砲兵陣地が15榴・迫撃砲で濃密な集中射撃。戦車隊10両全部が破壊。歩兵も、敵第11海兵隊がマタニカウ川・クルツ岬間の600~800ヤード幅に絶え間なく浴びせられる弾幕に遮られ、1人も渡河し得ず。

住吉支隊長はアウステン山西麓で無線により第1線両部隊と砲兵隊を指揮するが、統一的指揮がとれず、各大隊・各中隊が分離して相互連絡ない状態で戦況が推移。
支隊長も第1線連隊長も24日朝まで部下部隊を掌握出来ず。

○総攻撃(24日)。
午後2時頃~7時過ぎ、土砂降りの豪雨。
雨が止んだ時点で、突入時刻は過ぎているが、どの地点もまだ米軍と接触していない。

右翼隊第1線の歩兵第230連隊(東海林大佐。第2大隊欠)は、右第1線を第1隊(関谷少佐)、左第1線を第3大隊(大根田少佐)とし、各大隊から1個中隊を抽出し連隊予備としている。
東海林大佐が右翼隊長に任命されるのは前日23日夕方で、もともと東海林部隊は行進が遅れており、また右翼隊には歩兵部隊として本来川口少将直属の一色大隊(歩124第3大隊。一色少佐は前大隊長渡辺中佐の後任) があり、東海林大佐としては、密林内を難行軍中の右翼隊を掌握しきれなかったと推測できる。
24日総攻撃の夜の右翼隊の行動に関しては、戦史資料は3通りあるが、部隊掌握の不備が推測でき、敵側が右翼隊の攻撃を認めていないことを考慮すると、東海林右翼隊長の戦後の回想が真相に近いものと思われる。
「右翼隊は草原を北進し、零時敵陣地に接近したが、猛烈な敵火のため前進は頓挫し、敵陣地前において敵と近く相対したまま二十五日天明を迎えた」。

左翼隊は、歩兵第29連隊(古宮大佐)主力を第一線とし、第2大隊(第7中隊欠)を予備とする。
左翼隊も暗夜と豪雨と密林に悩まされる。
第1大隊は連隊進路の右方凹地を北進するが、右に偏し、連隊長との連絡を失う。
第3大隊第10中隊(1小隊欠)も第3大隊長との連絡を失い、第1大隊と行動を共にする状態となる。
そこで、連隊長は、初めの軍隊区分と任務を変更し、第1大隊を右第1線、第3大隊を左第1線(混入した中・小隊をそのまま配属)とし、連隊の攻撃重点を第3大隊正面とする。
「戦闘詳報」では、
「・・・漸ク二十四日二時三十分頃敵陣地前ノ林縁ニ達セリ、然レ共地形意外ニ錯雑シ準備ノ為ニ時間ヲ要シ突入ノ機ヲ失シ天明トナリ、而モ敵前ナリシ為メ敵火ノ爆撃ノ為ニ損害続出スルこ至り、巳ムナク一時密林中ニ兵力ヲ集結シ爾後ノ攻撃ヲ準備ス」とあり、第1大隊は突入せず。
第3大隊では、尖兵中隊の第11中隊の路上斥候が、午後10時30分頃、米軍陣地の鉄条網に衝突し、忽ち激しい火力を浴び、中隊長以下決死の突撃も挫折。

左翼隊長那須少将は、左第1線増加の為、予備の第2大隊を連隊に復帰させる。
歩29連隊長古宮大佐は、第1線の突撃頓挫を見て、付近に進出の第3機関銃中隊(重機4・自動砲1)に火力発揮を命じ、第3大隊と連隊予備の第7中隊を自ら率いて突撃敢行。敵火力は熾烈をきわめ、戦線は前後に分断され、連隊長以下の連絡は途絶える。
「・・・連隊長ハ軍旗ヲ奉シ十数名ノ残存兵卜共ニ敵飛行場近キ森林中ニ在リテ十月二十九日夕ニ至ル迄軍旗ト共ニ孤軍奮闘シ敵ニ多大ノ損害卜恐慌ヲ与へ、三十日遂ニ軍旗ヲ完全こ処置シ(推定)タル後戦死セリ」(「歩兵第二十九連隊戦闘詳報」)。
「優勢ニシテ而モ組織的縦深火網ヲ有スル堅陣飛行機絶対卜各種ノ近接察知ヲ講シアル敵ニ対シ 三週日ニ亘るル疲労ト餓ノ為メ其ノ困憊極度ニ達シアル軍隊カ 敵前錯雑不明ノ密林ヲ溢過シ敵情捜索其ノ準備ナスノ余裕殆トナク所謂夜襲必勝ノ信念ニ到達セスシテ勇敢無比白兵ノミヲ以テ猪突セサスヘカラサルニ至リタルハ寔ニ遺憾ノ極ミニシテ ソモ何ノ誤リソヤ 第一線軍隊ノミノ失敗ナリヤ 翻ツテ作戦計画ヨり其適否ヲ検討セハ 其ノ禍根ノ何レニ在リヤ明瞭ニ断シ得へシ」(「同」)。

(左翼隊の攻撃:異なる説明)
軍旗を先頭にした古宮政次郎大佐の第29連隊は、プラー中佐陣前の前哨点を突破。
守備の海兵46人中45人が忍び寄る日本軍に刺殺。
午前零時半、プラー中佐の前線に殺到。鉄条網を銃剣で切り破り、手楷弾を投げ、小銃を乱射して突進。米第164歩兵連隊第3大隊が来応援し、後方の曲射砲隊の射撃開始により日本軍の突撃は鈍る。地形が悪く、古宮連隊は全力を集中できず、攻撃したのは第3大隊だけの為、第3大隊は大損害を受け攻撃頓挫。
古宮大佐は予備の第2大隊を動員し、午前3時軍旗を先頭に再び攻撃。暗闇の戦闘で連隊長と第2大隊の連絡は途切れ、一旦プラー中佐の前線を突破したものの、連隊長と軍旗は敵陣内に取り残される。

第2師団戦闘司令所は左翼隊後方約3kmを前進するが、通信不良で第1線の状況は全く不明。
午後3時、師団長は平間参謀を第1線に派遣。
午後8時頃、右翼隊から後方通信所を経て、「右翼隊ハ敵線ヲ突破シ 目下飛行場東方ノ草原地帯ヲ北方ニ向ヒ前進中」との朗報が、また左翼隊からは「左翼隊ハ第一線部隊ヲ以テ攻撃中ナルモ細部不明、目下連絡中」と報告が来る。
午後10時過ぎ、左翼隊長から「第一線ハ攻撃中 本夜中ニ誓ツテ飛行場ヲ攻略スル」と希望的な連絡。後半夜、米軍の猛火を浴びていると想像される銃砲声。右翼隊から、「前回ノ報告ハ誤リニシテ、右翼隊ハ二十一時頃依然方向地点ヲ判定シ得ス、飛行場方向ヲ求メツツ前進中」と報告。
25日午前1時、玉置師団参謀長が左翼隊前線へ出発。夜明け近く、「左翼隊ノ一部ハ攻撃奏功セサルモ 歩兵第二十九連隊長以下主力敵陣地ヲ突破シ敵陣地内ニ突入セリ 其ノ後連絡遮断セラレ目下同連隊ノ状況不明ナリ」と師団参謀長の電話報告。

第17軍戦闘司令所は、第2師団からの朗報を待ちわびる。
真夜中、第2師団参謀から飛行場占領の報が入る、軍戦闘司令所は喚声をあげる。直ちに、飛行場占領成功の信号「二一〇〇バンザイ」が発信。
続いて、各方面に電報。
「二一〇〇梢前 第二師団右翼隊ハ飛行場ヲ占領セリ 同時頃左翼隊ハ飛行場附近ノ敵卜交戦中」。

ところが、後夜半、第2師団から「唯今の飛行場占領は飛行場付近で激戦中の誤りなり。歩兵第二百三十連隊の突撃は成功せず」と電話報告。
午前2時30分、各方面に訂正電。
「一 両翼隊共飛行場附近ニ於テ激戦中ナリ 二 飛行場ハ未夕占領シアラス」

25日。
25日朝、第2師団長は、歩兵第29連隊長が部下の一部を率い軍旗と共に敵陣内に突入しているので、攻撃続行・戦果拡張を決心。
第17軍司令官も同様意図の為、午前11時、その夜の夜襲敢行を命令。

第17軍司令官は、コリ支隊に対し、26日朝迄にコリ岬付近に強行上陸し、東川河口付近に兵力を集結して第2師団指揮下に入るよう命令。
また、第38師団長に対し、歩兵第228連隊(第1大隊欠)と第38師団通信隊の1分隊を、海軍艦艇により迅速にコリ岬付近上陸と、歩兵第230連隊第2大隊のタサファロング強行上陸を命令。

この頃、第38歩兵団司令部と第228連隊(第1大隊欠)及びコリ支隊(歩228連隊第1大隊基幹)はプインで待機、第38師団司令部と歩兵第230連隊第2大隊はラバウルに位置している。
これらのガダルカナル投入は、第2師団の機動開始以前に決定されていながら、第2師団の攻撃に即応出来るようには部署されていない。  

「第二師団命令 十月二十五日一一〇〇 ルンガ飛行場南方 一、昨二十四日夜ノ戦闘ニ於イテ左翼隊主力ハ敵線深ク突進セリ 二、師団ハ現成果ヲ維持シツツ依然攻撃ヲ続行セソトス 三、左翼隊ハ本二十五日夜突撃セル歩兵第二十九連隊主力ヲ増強シ且敵陣突破ヲ挙行シ飛行場ヲ攻略スペシ 歩兵第十六連隊及ビ工兵第二連隊(二中隊欠)ヲ新タニ其ノ指揮下ニ入ラシム 四、右翼隊ハ本二十五日夜ソノ攻撃ヲ再興、新飛行場ヲ攻略シ前任務ヲ遂行スべシ」

右翼隊は態勢を整え、夜撃準備をする。
この日の任務は、新飛行場(ルンガ飛行場東方約1500m、中川東岸近くに米軍が新たに設けた)を攻略し、飛行場北側林縁の敵陣を奪取し、海岸線に進出すること。
右翼隊は、右側方から米軍の激しい射撃を受けたので、第2線攻撃部隊の歩兵第124連隊第3大隊(元の川口支隊第3大隊)を右側面警戒に配置。

この日夜半、師団戦闘司令所と右翼隊との電話連絡がつき、師団長は右翼隊の攻撃中止と、左翼隊右側方を掩護する任務を与える。理由など詳細不明。

左翼隊は、25日夜、師団予備から増加された歩兵第16連隊及び工兵第2連隊主力を右翼に増加し、重点を正面に保持、左翼隊長那須少将自ら陣頭に立って夜襲敢行。
那須少将は、歩兵第29連隊長古宮大佐以下一部兵力が、前夜突入したままその後の状況が不明なので、非常に焦慮。
左翼隊正面の米軍は前夜より更に火力の激しさを増す。
歩29連隊第1大隊は密林内で集中火を蒙り、敵第1線に接触するのは26日午前3時半頃。死傷続出し天明とともに攻撃は頓挫。

第2大隊の夜襲地点は飛行場に通ずる本道に沿っており、突入開始と同時に敵の猛火に覆われ、大隊長鉄条網内で戦死、続いて第1線中隊の幹部以下殆ど死傷し突撃頓挫。
午前2時頃、歩兵第16連隊の一部が鉄条網を破壊して、敵陣地に突入するが、天明迄にその陣地の縦深を突破出来ず。
天明、米軍の自動火器・迫撃砲等の火力は激烈をきわめ、左翼隊全線に死傷続出、攻撃は再び失敗。

この夜襲で、左翼隊長那須少将は重傷(のち死亡)、歩兵第16連隊長広安大佐戦死。
各隊、大隊長以下各級幹部の大半が負傷もしくは戦死。
歩29連隊の場合、24日夜~26日朝の損害は、戦闘参加人員2554、戦死552、戦傷479名、生死不明1、損耗率43%。将校の場合、総数101、戦死33、戦傷16、不明1(「歩兵第二十九連隊戦闘詳報」)。

周到な準備をして、正面から力攻する筈の第2師団の総攻撃は、重資材、弾薬糧秣等の輸送及び揚陸を計画通りに遂行できず、密林迂回の奇道を選択し夜襲に失敗。

26日早朝、第2師団長は、第17軍戦闘司令所に天明迄の攻撃頓挫の状況を報告。
第2師団に派遣されている辻参謀も、損耗多大で疲労困憊の師団現兵力では敵陣突破は不可能と判断し、攻撃中止を意見具申。

百武第17軍司令官は、26日午前6時、攻撃中止を命令。

26日、大本営は参謀総長名で第17軍司令官に、「諸情報ヲ綜合スルニ「ガ」島ノ敵ハ孤立包囲セラレ極メテ窮境ニ陥リアルモノノ如ク正ニ連続力攻 一挙撃滅ノ好機ナリ 軍ニ於テハ要スレハ更ニ所要ノ戦力ヲ至急投入シ 形而上下ノ全力ヲ発揮シ 飽ク迄目的ノ貫徹ニ邁進セラルルモノト確信シアリ 切ニ御健闘ヲ祈ル」と電報。

大本営はガダルカナルの前線の惨澹たる実情を知らず、「連続力攻」「一挙撃滅」が出来るとまだ思っている。
*
*

2012年11月7日水曜日

昭和17年(1942)10月 ガダルカナル第2次攻撃、たびかさなる攻撃期日延期 第2師団右翼隊指揮川口少将解任

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-11-01
*
昭和17年(1942)
10月15日
・午前1時、輸送船団護衛の第2艦隊(近藤中将)、サボ沖でウィリス・リー少将艦隊と交戦
*
10月15日
百武第17軍司令官、ガダルカナル総攻撃命令
同時に、ショートランドで待機中の第38師団第228連隊第3隊を、第2師団の攻撃に即応し、飛行場東方コリ岬に強行上陸させることにし、同部隊をコリ支隊と名付ける。
*
10月15日
・陸軍兵器本部を陸軍兵器行政本部と改組
*
10月15日
・商工省令「統制物資ノ譲渡制限ニ関スル件」公布
*
10月16日
・ガダルカナル第2次攻撃隊(第2師団、那須部隊、川口部隊)、集結所を出発、ジャングル内に啓開された道(丸山道)を通って機動開始。
17日、第17軍戦闘指令所、第2師団司令部のあった位置(コカンボナ南東約2km)まで進出。
第17軍司令部は、大本営派遣参謀辻中佐と第17軍参謀林少佐を、第2師団司令部に同行させる。

攻撃隊主力の第2師団は、アウステン山南麓を迂回し、ルンガ川右岸地区から北進して飛行場を急襲する計画。
兵力部署:
①右翼隊-川口少将指揮第230連隊主力及び第124連隊の1大隊。
②左翼隊-那須弓雄少将指揮第29連隊(古宮政次郎大佐)ほか。
③予備隊-第16連隊。
④牽制隊-住吉正少将指揮砲兵隊。第17軍直轄部隊として、マタニコウ左岸から飛行場を砲撃。
*
10月18日
・午前5時、第17軍戦闘司令所は、ラバウルの第17軍宮崎参謀長から電報を受領。
13、14日にガダルカナル飛行場の航空写真偵察を行なった結果の要旨報告で、7月23日撮影写真と比較すると、飛行場を中心とする各河川河岸・高地帯には防禦施設がかなり増設されているように観測される、というもの。
第17軍司令部は、海軍機によって17日コカンボナに授下された空中写真を所要部隊に配付。
右翼隊長川口少将以外、この情報を重視せず
*
10月18日
・ニミッツ米太平洋方面総司令官、南太平洋司令官ゴームレー中将解任、後任ハルゼー中将。
*
10月18日
・ヒトラー、全てのコマンド部隊捕虜を処刑命令
*
10月18日
・イギリス「スワロー(燕)」作戦。
リュカン(ノルウェー)の重水素工場爆破の為の工作員4人の潜入作戦。
*
10月19日
・中国国民参政会、経済建設協進会(会長 蒋介石)組織大綱を発表。
*
10月19日
・ガダルカナルの離島決戦の不利を悟り自重論を展開した第17軍二見秋三郎参謀長、病気を理由に更迭。

第17軍の参謀陣の充実。
新参謀長宮崎周一少将、作戦主任参謀小沼治夫大佐を迎え、山本筑郎少佐ら7人の参謀を増員。大本営からは辻政信中佐、砂田一次中佐、林忠彦少佐の3人が派遣参謀として出張。
*
10月19日
・防衛司令部、本土空襲の米軍機搭乗員を死刑又は重刑に処すると発表
*
10月19日
・ドイツ、国内ユダヤ人に対する肉・牛乳の配給禁止
*
10月20日
・第1軍、全山西秋季勦共作戦(10月20日~11月30日)。
*
10月20日
・朝、ガダルカナル、百武第17軍司令官、攻撃開始日を22日と決定、指揮下部隊に命令を下達。
午前10時、丸山第2師団長、攻撃の為の命令を下達。
21日早朝、師団主力が、左翼隊、右翼隊、予備隊に順で集結地を出発。
嶮しい地形のため前進は難渋し、師団参謀長意見により師団長は攻撃1日延期認可を第17軍司令官より得る

命令骨子は、攻撃重点はルンガ川右岸に沿い飛行場西北地区に指向し、突入時機は22日午後4時と予定。
軍隊区分は、
①右翼隊(歩兵第35旅団長川口少将)歩兵3個大隊と各種重火器部隊、
②左翼隊(第2歩兵団長那須少将)歩兵第29連隊の3個大隊と各種重火器部隊、
③予備隊(歩兵第16連隊長広安大佐)、工兵隊(工兵第2連隊長高橋大佐)、輜重隊(輜重兵第2連隊長新村大佐)、師団直轄部隊(通信隊、衛生隊、野戦病院、防疫給水部等)。
*
10月21日
・米爆撃機、黄河以北を初空襲
*
10月21日
・俘虜派遣規則、派遣俘虜規則公布
*
10月22日
・華北政務委員会の「道公署組織大綱」決定に伴い、省内各道公署の機構改革実施
*
10月22日
海軍主計中尉小泉信吉(25)、戦死、特設砲艦「八海丸」
*
10月22日
・この日、陸海軍局部長会同、民需用船舶の最低限度維持のため、陸海軍とも一定量の解傭に合意。
しかし、24、25日のガダルカナルでの第2師団の総攻撃失敗により、逆に増徴必要論が強硬になる。
*
10月22日
・ドイツ軍のレニングラード攻撃失敗
*
10月22日
・英空軍のトリノ大空襲
*
10月23日
・夕、ガダルカナル、第17軍司令官、攻撃を24日に再延期すると決裁、第2師団長に伝達。
第2師団長は、攻撃開始を24日午後5時とする

22日夕刻、第2師団戦闘指令所は予定展開線の後方(飛行場南方約6kmと推測)に到達。
指令所ではもう1日の攻撃延期について議論するが、丸山第2師団長は予定通り23日夜襲決行を決める。
23日、右翼隊(川口隊)は左翼隊の後尾を行進するが、右翼隊は左翼隊より遠く右に展開しなければならず、序列は逆。
12時45分、川口少将は第2師団長に「右翼隊主力ヲ以テ二十三日夜ノ夜襲ハ困難ト認ム」との報告を行う。
午後2時、師団長はこれを受け取る。
左翼隊は午後3時頃ムカデ高地南東約1km(推測)に到達し攻撃準備中で23日夜襲は可能と報告(左翼隊も右翼隊同様、五里霧中でこういう報告を入れられる状況ではない筈)。

23日午前10時、左右両翼隊の実情とは別個に、第17軍戦闘司令所は、第2師団戦闘司令所にいる辻参謀から、「一 敵陣地は右翼隊正面軽易なるも左翼隊正面は堅固なり 二 師団は予備隊(歩兵第十六連隊)を右翼隊後方に進めるに決せられる。師団長も右翼隊後に移動の予定。」と報告。根拠不明。
夕刻、同じく辻参謀から第17軍戦闘司令所に、「一 川口部隊長の報告によれば、地形嶮峻錯雑のため部隊の進出遅れ攻撃準備出来ず今夜の攻撃は不可能なり。(川口少将が23日午後第2師団長に届けた報告。但し、川口は不可能とは言っていない。東海林部隊進出の遅れから、右翼隊主力を以てする夜襲は困難と認む、予定位置たる草原南端に進出し得さえしたら、一色部隊(歩124第3大隊)のみを率いて突撃予定、と申送っている) 二 師団の第一線は飛行場前約三粁の線に進出中なるも落伍者多し。歩兵第十六連隊(予備隊)は一部到着しおるのみ。 三 いまだ敵に発見せられあらず、敵は飛行場の側でテニスを行ないつつあり。」と連絡。

「至近の距離相当の偵察も為し得る筈なるに行あたりばったりにて、艦隊の迷惑之に過ぐるものなし。」
「然し陸上戦も戦闘なれば敵の出様阻止にして意外に強靭なれば、進出も遅滞するは当然とも考ふるが、敵の抵抗にあらず概ね地形によりて左右せられあり。茲に余輩の遺憾とし事前の準備の不足と為す所以の存する処あり。・・・」(連合艦隊宇垣参謀長)
*
10月23日
・夕、ガダルカナル、丸山第2師団長、右翼隊指揮川口少将解任し、東海林大佐に指揮させる

22日午後、川口少将は大本営派遣作戦参謀辻政信中佐と出会い、飛行場南側に陣地補強は危険なので、右から迂回攻撃が得策と進言、辻はこれを了解。
23日夕刻、敵左側への迂回攻撃を準備している際に、川口は電話で右翼隊長を罷免される。攻撃開始直前の指揮官罷免により、指揮は混乱し、右翼隊の行動は積極性を失う。
左翼隊(主力は歩兵第29連隊)によるこの高地の正面攻撃は完全に失敗、左翼隊長那須弓雄少将戦死、歩兵第29連隊長古宮正次郎大佐は軍旗とともに行方不明、歩兵第16連隊長広安寿郎大佐戦死。いまこの高地の一角には第2師団や川口支隊の慰霊碑が建つ。

川口罷免は、辻参謀-玉置師団参謀長-丸山師団長の3者で扱われる(第17軍司令部は関知せず。第2師団夜襲失政後、従兵1人だけを連れてガダルカナルを去る川口少将に住吉少将(砲兵団長)が出会う。
「・・・私の記憶では十一月四日、川口少将が従兵一人連れて私の幕合に立ち寄ったのです。・・・いろいろと尋ねると〝辻にやられたんだよ″と事情を語ってくれました。」(御田重宝「ガダルカナル戦」)。
川口少将がとかく意見具申癖のある文句の多い将軍だとしても、問題の航空写真による敵陣には、明らかに以前とは異る地形影像が映っているのだから、第2師団司令部は慎重に検討すべきであった。
問題提起は、師団長に次ぐ位階の少将によるもので、中佐参謀如きが、問題の本質を少将の性癖とか中佐個人が内包する悪感情とすり替えるべきではない。
参謀たちは官僚主義者で、作戦は参謀が策案し、参謀長がそれを取り纏め、司令官が決裁する。

作戦案に誤りがあろうはずがない。実戦部隊は将棋の駒であり、作戦通りに動けばよい。部隊長と雖もつべこべ言わずに命令通りに動けばよい。動かなければ馘である。
*
10月23日
・軽金属屑配給統制規則公布
*
10月23日
・独・伊軍対連合軍のエル・アラメインの戦
エジプト、英軍、北アフリカ要衝エル・アラメイン攻撃開始、独伊軍に反撃開始、「スーパーチャージ作戦」を開始(~11月4日)。独・伊軍敗北。
*
*




2012年11月5日月曜日

昭和17年(1942)10月 ガダルカナルへの船団輸送続く。 ヘンダーソン基地艦砲射撃、成功。 

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-11-01
*
昭和17年(1942)
10月12日
・連合艦隊、ガダルカナルへの船団輸送を、陸海軍共飛行場砲撃の成否を問わず決行すると決定。

10日、ラバウルに残った第17軍宮崎参謀長へ、ガダルカナルに渡った小沼・林両参謀から、逼迫した戦況を訴える電報が入る。
宮崎参謀長は、11航戦大前参謀・第8艦隊神参謀に、飛行場砲撃が望み薄となっても船団輸送を決行したいと要望。
12日午前、11航戦司令部で関係海軍側と宮崎参謀長と検討し船団輸送決行で意見が一致。
午後、結果を連合艦隊に連絡する為、宮崎参謀長は海軍側の大前・源田両参謀はトラックへ飛ぶ。「大和」の連合艦隊司令部では、字垣参謀長以下が集まり、既に船団輸送決行を決定、午後2時、それに関して発令したということであった。
*
10月12日
・B-24、Uボートを初撃沈
*
10月13日
・蒋介石、ソ連大使と会談。新疆問題の解決案提示。
*
10月13日
・ニューカレドニア守備の米師団第164連隊3千、ガダルカナル上陸。
*
10月13日
ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃
ルンガ沖進入第3戦隊(栗田健男中将、戦艦「金剛」「榛名」)・第2水雷戦隊(田中頼三少将)、飛行場艦砲射撃。効果大。

山本五十六連合艦隊司令長官は、高速輸送船団による第2師団主力の輸送を成功させる為、自ら戦艦「大和」に座乗し、戦艦によるヘンダーソン基地艦砲射撃を決意。
しかし栗田健男中将の反対により、まず栗田中将率いる第3戦隊の戦艦「金剛」「榛名」がルンガ泊地に突入することになる。

11日、第3戦隊はトラック出撃、護衛部隊は二水戦。
13日午前8時10分、基地航空部隊哨戒機が、レンネル島(ガダルカナル南方約200km)南西70浬に空母1・巡洋艦2・駆逐艦2の南東航を発見、同12時5分、スチュワート島(ソロモン諸島北東側列島南端部マライタ島から東へ約200km)南方80浬に戦艦1・巡洋艦1・駆逐艦2の西航を発見。後者では空母は報告されていないが、近海に空母がいれば、第3戦隊は夕刻頃敵機に捕捉されるかもしれず、その夜に会敵の公算大として警戒。
しかし、敵機に発見されることもなく、マライタ島・ラモス島間を通過、サボ島北方に進出。
攻撃隊は、13日午後10時38分、サボ島南方水道に進入、午後11時31分、飛行場に対し平行に第1射撃コースをとる。

11時35分、照明機が吊光弾を投下。
11時36分「金剛」、11時38分「榛名」が射撃開始。
11時46分頃から、敵もルンガ岬方向から照明砲撃を行なうが、弾丸が届かず、戦艦群は副砲(14糎砲)で応戦。
午後11時48分頃、敵飛行場に火災。
午前零時13分、第3戦隊は反転し第ニ射撃コースをとり、零時22分「金剛」、零時24分「榛名」が射撃開始。飛行場一面は火の海と化しているように認められる。
零時56分、砲撃終了。
58分、第3戦隊は北上避退、午前4時48分から2航戦の上空直掩下に入り、14日正午前進部隊本隊に合同。

この砲撃で、戦艦「金剛」の主砲(36糎砲)は三式弾104発、一式弾331発、副砲(14糎砲)27発を、「榛名」は零式弾189発、一式弾294発、副砲21義を発射。三式弾は、主砲による対空射撃用に考案された焼夷弾、一式弾は堅固な施設を破壊するための徹甲弾。

米公刊戦史。
「これは本会戦中最大の砲撃であって両戦艦から射ち出した三六糎砲弾は、徹甲弾六二五、榴散弾二九三計九一八発に及び、これらが飛行場全域を蔽い、炸裂光と炎焼するガソリンで夜空を焦がし、敵の報告文の言葉を借りて言えば、到るところに炸裂して飛行場は炎の海となり、死者四一名多数飛行機の損傷があった。・・・味方は十四日には僅に降下爆撃機七機、F4F二九機、P400四機、P39二機計四二機しか飛んでいない。・・・飛行場は敵の艦砲射撃のため重爆撃機の基地としては役立たなくなったのみならず、敵の航空機及艦隊がシーラーク水道内及上空にいるため燃料輸送を阻まれて、ガダルカナルに於ける航空用ガソリンの欠乏は深刻となり、その結果B17機はもはやヘンダーソン飛行場を中継基地として活躍することは出来なくなった。飛行場は十月十四日午後には全く使用出来なくなったが、幸にしてその南東方に建設大隊が粗末な草生滑走路を造っておいたので、戦闘機用滑走路として軽飛行機なら使用出来、これが一週間主飛行場となった。」(ジョン・ミラー「ガダルカナル作戦」)。

米軍被害は航空機98機中、直ちに使用可能機24機に減じ、燃料・爆弾の殆どが消失(しかし、560浬のスピリッツ・サント島の後方基地での修理補充は容易)。
この間、高速輸送船団は物資・兵員の揚陸に成功。
しかし、空母「ホーネット」艦載機の爆撃により、揚陸した物資の殆どを消失。
*
10月13日
・午前2時15分、第3次ソロモン海戦。
ガダルカナル飛行場砲撃の阿部弘毅中将部隊とダニエル・キャラハンン少将部隊、キャラハン少将戦死。
*
10月13日
・ドイツ軍通商破壊艦「コメート」沈没。
*
10月14日
・第38師団(佐野忠義中将)主力輸送の11隻、ラッセル島西北で空襲、6隻沈没、1隻落伍、残り4隻はタサファロング揚陸後炎上
*
10月14日
・独立戦車第1中隊、この夜の船団輸送でガダルカナル島へ揚陸。
15日、第16連隊(広安寿郎大佐)、第38師団第230連隊(東海林俊成大佐)、ガダルカナル上陸成功、食糧10日分のみ揚陸。

高速輸送船団6隻のうち4隻「吾妻山丸」「南海丸」「九州丸」「佐渡丸」は、第2駆逐隊(駆逐鑑3隻)護衛の下に、12日午後6時50分~7時50分、ラバウル出港。
残る2隻「笹子丸」「崎戸丸」は第27駆逐隊の護衛を受け、13日午後5時ショートランド出発。
14日午前4時40分、予定地点で合同、予定航路を南下。

基地航空部隊(陸攻26・零戦18)は、14日午前6時、ラバウル発進、10時過ぎ、ガダルカナル飛行場を襲い、地上の約50機のウチ30機を弾幕で覆ったと報告。
しかし、続いて午前11時、第2次攻撃隊が飛行場を爆撃した時、敵戦闘機約20機の攻撃を受けたという(第1次が報告通りの戦果であれば、第2次には抵抗力はない筈で不審)。

輸送船団は、14日午前5時と10時20分、B17-1機に接触され、午後1時45分、艦爆と戦闘機約30機の銃爆撃を受ける。船団は散開し、回避に努め、船団・護衛隊とも被著なし。
午後4時5分~50分間、艦撃・戦闘機26機が襲撃するが、直掩機の奮戦と船団の回避運動、対空砲火により、被害は第2駆逐隊「五月雨」の軽微な損傷のみ。
連合艦隊司令長官は、午後1時40分、敵機約30の船団来襲の報を受け、ガダルカナル航空兵カ制圧不十分と認め、明15日早朝、2航戦の戦闘機半数をもって基地航空部隊に協力、ガダルカナル敵機の制圧と船団上空警戒に任ずるよう命令。

14日午後10時、船団はタサファロングに入泊。
増援部隊(3水戦)の巡洋艦「川内」以下「由良」「朝雲」「白雪」「暁」「雷」は、陸兵200・弾薬糧食を搭載し、ショートランドからエスベランス岬に到着。
「鳥海」「衣笠」「望月」「天霧」から成る外南洋部隊(第8艦隊)は、高速船団輸送を間接支援した後、ルンガ沖に突入、ガダルカナル飛行場を砲撃。
15日零時17分、射撃を終了。発射弾数は752発。

船団の揚陸作業は順調に進捗。
上空直掩は、未明に水上機、続いて2航戦の戦闘機半数(前日の連合艦隊司令長官命令による)、次に基地航空部隊戦闘機という順。
敵機の妨害は、午前3時40分~6時頃、敵艦戦艦爆計18機が上空直掩の間隙を衝いて来襲、銃撃を反復。船団・護衛隊に被害なし。

15日午前8時45分頃迄には、各船とも人員・重火器の殆ど、糧食弾薬の約8割を揚陸。南海丸は作業が迅速で、午前7時5分には荷役完了。
午前7時30分~8時45分、敵艦戦艦爆延べ約25機が来襲(艦砲射撃で残った少数機の反復飛行と推測)。午前8時42分「笹子丸」被爆炎上。
午前9時40分~10時30分、第3波攻撃としてB17が船団・護衛駆逐艦を爆撃(B17が何処から来たかは不明)。
爆撃の最中9時45分、荷役を終えた「南海丸」と護衛駆逐艦「有明」が出港。
9時50分「吾妻山」が被弾炎上。「佐渡丸」「九州丸」は一時抜錨し、泊地前面で回避運動を行ない、護衛隊が警戒。船団が再び泊地に進入すると、午前11時15分~45分、戦爆約20機による第4次攻撃、「九州丸」被弾大火災。次に、揚陸点附近が攻撃目標となる。

このままでは、揚陸困難だけでなく、未だ被害のない輸送船も被爆すると予測され、護衛隊指揮官は船団の一時避退を決心、午後2時反転・5時再入泊・荷役完了の方針をたて、正午「佐渡丸」「崎戸丸」を護衛して、サボ島北方に向かう。
午後3時、反転して3度目の入泊をしようとした時、「佐渡丸に第1船舶団長から「月明アリ、来ルナ」との電報が入り、午後3時45分、反転してショートランドに向う。16日午前8時30分ショートランド帰着。

○総括。
船団6隻全てを無傷で入泊させ、人員・重火器の全部と、弾薬糧食の8割を揚陸(但し、17日朝、米駆逐艦の艦砲射撃により大部分が焼尽)。
しかし、制圧した筈のガダルカナル飛行場から敵機延べ129機(日本軍の上空直掩機の数よりも多い)が来襲、「笹子丸」「九州丸」「吾妻山丸」を失う
*
10月14日
・鉄道開通70周年記念式典挙行
*
10月14日
・綿スフ統制会が発足し、紡績連合会解散。東亜繊維工業会結成
*
10月14日
・ヒトラー、東部戦線の部隊に死守命令。スターリングラードで第2次「最終」攻勢
*
*

2012年11月4日日曜日

昭和17年(1942)10月 第17軍司令部(百武中将)ガダルカナル島上陸。 サボ島沖海戦

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-11-01
*
昭和17年(1942)
10月9日
・午後8時40分、第17軍司令部(司令官百武晴吉中将、小沼高級参謀、辻・杉田・越次・平岡・林参謀)、ラバウルよりガダルカナル島タサファロング上陸。
10日、戦闘指令所開設。
同日、第38師団(佐野忠義中将)伊藤武夫少将指揮第328連隊主力、ガダルカナル島上陸。

8日ラバウル出発時、残留する新任の参謀長宮崎少将は、小沼高級参謀に「攻撃期日の十月二十日には決して拘泥するな。攻撃準備の周到を期せ」と注意。
宮崎少将は、ラバウル赴任途中、10月5日、トラックで「大和」の山本連合艦隊司令長官を表敬訪問した、宇垣参謀長から、海軍側第一義の希望として、総攻撃開始を十月二十日より遅延させないよう強く求められたが、この日には20日総攻撃は間に合わぬと予感したかのよう。

10日、ラバウルに残った第17軍宮崎参謀長へ、百武中将は、「川口支隊は餓死に瀕しつつあり、人員愉送を中止し、糧秣及び飛行場制圧用弾薬のみ急送すべし」と命じる。
*
10月10日
・蒋介石、米英が対中不平等条約を廃棄するというニュースを全国に宣布
*
10月10日
・第1軍、中条山脈、南部太行山脈の掃蕩戦を実施
*
10月10日
・駆逐鑑3隻、陸兵293、弾薬、糧食をガダルカナル島タサファロングに揚陸。
*
10月10日
・陸軍省官制改正(兵器局廃止など)。
陸軍兵器行政本部令・陸軍造兵廠令・陸軍兵器補給廠令各公布。陸軍兵器本部・技術研究所・航空技術研究所設立
*
10月10日
・東京府食糧営団設立
*
10月10日
・米英、対中国不平等条約廃棄発表
*
10月11日
サボ島沖海戦=(米)エスペランス岬沖海戦
ガダルカナル砲撃に向かう第6戦隊(五藤存知少将)とノーマン・スコット少将指揮米艦隊、
日本旗艦「青葉」含む駆逐艦3・重巡1、米駆逐艦1沈没。五藤司令官戦死。
この間に大砲6門揚陸。

11日午前6時、水上母艦「日進」「千歳」・駆逐艦6で編成された輸送部隊、ガダルカナル島へ送り込んだ第2師団の重火器輸送のためショートランド島発。
午後12時、五藤存知少将の第6戦隊(重巡「青葉」「衣笠」「古鷹」駆逐艦「吹雪」「初雪」)は輸送部隊支援のため同島を出撃、ヘンダーソン基地への艦砲射撃も命じられる。
一方米軍は、日本軍の増援阻止の為にノーマン・スコット少将の巡洋艦部隊(重巡2・軽巡2・駆逐艦5)を派遣。
午後4時過ぎ、ガダルカナル島南東レンネル島付近で待機していたスコット隊は北上開始、午後7時半、水偵を発進させこれを発見、単縦陣で日本艦隊攻撃への進路を取る。
午後9時25分、軽巡「ヘレナ」のレーダーが日本艦隊を捕捉、旗艦「サンフランシスコ」に通報し全艦ガダルカナル島へ急行。
第6戦隊はガダルカナル島砲撃のためスコールをついて30ノットで進撃、サボ島を確認。この時、T字戦法をとる米艦船3を発見するが、味方輸送船と誤認、米軍も前衛艦隊と誤認するが通信の混乱から9時46分射撃を開始。初弾が「青葉」艦橋に命中し五藤少将以下幕僚が死傷。「青葉」は味方討ちと思い、「われ青葉、われ青葉」と信号。続く「古鷹」にも魚雷発射管に命中し大火災を発生、「吹雪」も被弾炎上。駆逐艦「初雪」「衣笠」共に勇戦、
午後10時20分、日米両軍共に離脱終了。
サボ島沖海戦は、レーダーを装備したスコット隊が終始主導権を握り、米軍は初弾から命中弾を出すなどこれまでの戦闘と異なり、日本軍のお家芸「夜戦」も以降通用しなくなる。
尚、日本の輸送部隊はガダルカナル島到着、兵員物資揚陸に成功。

○詳細
計画:
11日、「日進」「千歳」・駆逐艦4隻が重兵器、軍需品、兵員を輸送してタサアァロングに揚陸、支援隊として第6戦隊(3巡洋艦「青葉」「古鷹」「衣笠」)がガ島飛行場を砲撃する。

11日午前6時、「日進」(人員130名他)「千歳」(人員150名他)駆逐艦4隻「朝雲」「白雪」「叢雲」「綾波」(陸兵410名他)は、駆逐艦2隻「秋月」「夏雲」に護衛されショートランド出撃、タサファロングに向う。
正午、支援隊(飛行場砲撃を目的とする「青葉」以下の第6戦隊)がショートランド出撃。

輸送隊:
午前8時20分、輸送隊はショ-トランド南東30浬で大型機に発見されるが、午前10時、味方戦闘機が直掩配備につく。
午後8時10分、タサファロング到着、揚陸開始。「日進」隊の揚陸終了前に、「青葉」以下の支援隊と敵水上部隊との戦闘が始まるが、「日進」「千歳」は午後10時50分揚陸終了、出港、輸送駆逐艦も午後11時5分揚陸作業を終り、11時10分戦闘海面に向う。

支援隊:
支援隊はサボ島が見える迄の約2時間、猛烈なスコールの中を走り、午後9時半、スコールを抜けると、サボ島は左3度10浬にあった。
午後9時43分、旗艦「青葉」は左舷15度約1粁に、艦影3個を発見、時間と場所からみて、「日進」などの輸送隊かも知れぬと考えられ、「青葉」は味方識別信号を送りながら直進。約700mに近づいたとき、「青葉」見張員が敵と識別。しかし、指揮官は見張員の報告を疑問視し、左10度味方識別10秒と下令し、同時に「総員戦闘配置ニ就ケ」と、同航戦の意図をもって「面舵」(右折)を下令。その直後、「青葉」は強烈な照明を浴び、敵水上部隊の集中砲火を蒙る。
初弾は不発弾ながら、「青葉」艦橋正面に命中、五藤司令官以下幹部多数が死傷(司令官は翌朝没)。通信装置が破壊され、艦内外の連絡は不能となり、主砲射撃指揮所方位盤も破壊、2、3番砲も命中弾により射撃不能に陥る。

米艦隊は、軽巡「ポイズ」「へレナ」両艦のレーダーで日本艦隊の近接を探知し、T字戦法をとり、然艦で単縦陣の日本軍の先頭艦に斉射を浴びせた。

「青葉」は右反転し、最大戦速とするが、回頭中も集中砲火を見舞われ、火災を起こし、殆ど戦闘力を失い、僅かに1番砲塔だけが使用に耐えた。「青葉」は煙幕を展張し、離脱に努める。「青葉」主砲射弾数は7発。

2番艦「古鷹」は、「青葉」後方1500mを走航していたが、「青葉」の変針により、敵の砲火が集中。
米艦隊は重巡「サンフランシスコ」「ソルト・レイク・シティ」、軽巡「ポイズ」「ヘレナ」、駆逐艦「ファーレンホルト」「プキャナン」「ラフェィ」「ダンカン」「マッカーラ」の計9隻で、「古鷹」は「青葉」の回頭により、上記9艦の発砲を認め、急ぎ「青葉」方向に変針。
応戦開始は午後9時48分。応戦早々に被弾が多く、2分後、発射用意をした魚雷発射管が被弾し大火災。
午後10時14分頃、敵から離隔し、砲戦が熄(や)むまでに、大被害を蒙りつつ、敵3番艦に大損害を与えるが、10時40分頃航行不能に陥る。
駆逐艦「初雪」が救助に来た時には傾斜が急で、艦を横付け出来ず、12日午前零時28分、サボ島310度22浬の地点に沈没。

3番艦「衣笠」は砲火を認めると態勢不利と判断し取舵反転。前2艦が面舵(右折)で、「衣笠」は左折のため、敵砲火を浴びることなく同航戦の態勢をとり、午後9時52分~10時15分、有効な砲戦魚雷戦を実施、敵大巡1隻撃沈、1隻大破の戦果を報じるが、戦後の調査によれば、米側には重巡の沈没も大破もなく、駆逐艦1隻沈没のみ。
護衛駆逐艦「吹雪」は、「青葉」の右前方に位置して、「青葉」の右回頭に随って反転し、同航中に被弾。午後10時13分大火災となり沈没。

「古鷹」救援に向った駆逐艦「白雲」「叢雲」は引き揚げが遅れ、12日午前6時20分、敵機11機の攻撃を受け、8時25分、サボ島北西約140浬のニュージョージア島沖で敵艦爆20機に捕捉され、「叢雲」は1弾の命中で航行不能。
午後2時、3回目の空襲を受け大火災。
僚艦「白雲」は生存者を救出し一旦引き揚げ、日没後、「朝雲」と共に反転、曳航不能の「叢雲」を魚雷で処分。
それより先、第9駆逐隊「朝雲」「夏雲」は、「叢雲」救助中の12時50分と午後1時45五分に、敵艦爆11に襲われ、「夏雲」は至近弾の為に浸水甚だしく、「朝雲」が乗員を収容した後、午後2時27分沈没。

スコッ卜部隊の損害は、3番艦「衣笠」による重巡「ソート・レーク・シティー」大破・軽巡「ボイス」小破。他に駆逐艦「ダンカン」沈没、「ファーレンボルト」中破、この二隻は、反転の際に列外に出てしまい、「ダンカン」は敵味方双方の弾丸を受け、「ファーレソボルト」も味方の2弾を受け艦側に大穴をあける。

宇垣連合艦隊参謀長の日誌。
「・・・当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく夜間に於て物を見たら敵と恩への考なく一、二番艦集中砲弾を蒙るに至れるもの、殆んど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。」(宇垣「戦藻録」)
*
10月11日
・ガダルカナル島の現地参謀、合議してジャングル迂回攻撃案に一致。
第2師団長は、第17軍司令部の意図を体し工兵第2連隊に通路啓開を命じ、12日より着手。

川口支隊の失敗に鑑み、兵力火力を十分にして正面から力攻する筈の作戦計画であったが、重機・火器が不備のため。しかし、ルンガ飛行場南側の防備は強化されている。

集結地のコカンボナ付近から東南の高地帯(909、990、986各高地)、アウステン山を経てルンガ川河畔に到る通路をジャングル内に啓開。
作業当初は第17軍杉田参謀が作業隊の先頭に立って督励、14日には全長の半ばを啓開したという。14日、辻参謀は、大本営随軍部第1部長宛て、「密林障碍ノ度ハ予想以上ニ軽易ナリ」と報告。
*
10月11日
・米陸軍第182歩兵連隊、ガダルカナル上陸
*
10月11日
・鉄道省が鉄道・バスなどのダイヤ表示に24時間制を採用
*
10月11日
・政府、南方占領地での邦字新聞発行を決定
*
10月11日
・鉄道省は、ダイヤ24時間制を採用
*
*





2012年10月29日月曜日

昭和17年(1942)10月 ガダルカナル作戦計画 「・・・ガ島飛行場を奪回、続いて一挙にガ島の敵を殲滅す。」 「鼠輸送」続く

東京 北の丸公園
*
昭和17年(1942)
10月
・関東軍司令部、総司令部に拡大。
*
・西安軍事会議。蒋介石、逃兵問題など軍隊の腐敗・堕落問題に強く言及。
*
・ベトナムのグェン・ハイ・タン、雲南で中国国民党軍の支持下にベトナム革命同盟会を結成。
*
・山西省公署、緊急省政会議開催、「山西省刷新新方案」決定
*
・米ルーズベルト大統領特使ウェンデル・ウィルキー訪中。
*
・廣水鎭事件。
中支湖北省應山県廣水鎭馬際の輜重兵第3連隊第1中隊で発生した下士官・兵による中隊長代理・中隊将校に対する、党与・暴行・傷害事件。

中隊長代理(第1小隊長)の軍紀粛正に反感を持つ下士官7名・兵32名が共謀、首謀者の曹長が週番士官として上番中に棍棒等をもって中隊長代理・中隊将校に集団暴行。
首謀者の曹長は死刑、中隊長代理も職権乱用の罪で懲役1年6ヶ月に処せられる。
*
・北海道、北海道農業研究会5名検挙。前年に2名。実態調査、研究発表等。
*
・東京、慶大出身者の「丘友会」4名検挙。研究会。
*
・東京、中央大内の「耕人」グループ7名検挙。同人雑誌発行。
*
・全国百貨店売場の縮小決定。
*
・産報青年隊長全国会議、深刻化しつつある「青少年工不良化問題」についての対応策を決議。
*
・福田清人「大陸開拓と文学」(「満州移住協会」)。
*
・大映の永田雅一専務、大映設立に際しての贈賄の疑いで拘引される。12月に釈放。
*
・映配、バンコック支社を設置。
*
・東京国民映画普及会結成。
*
・谷川徹三「日本文化原理の民族性と世界性」
*
・太宰治(33)、「花火」(戦後「日の出前」と改題)を「文藝」に発表、時局に添わないという理由で全文削除を命令。
*
・小林秀雄(40)、『文学界』座談会「近代の超克」。
*
・アルゼンチン、大統領選に向け社会党を中心に民主連合結成。CGTも参加。
*
・ヘミングウェイ(43)、企画もの「戦争文学選集:戦う男たち」の編集・出版作業にあたる他、1500部限定出版の特製本『誰がために鐘は鳴る』も出版。
*
10月1日
・朝鮮語学会事件。
辞典編集カード没収。言語学者ら33名、治安維持法違反容疑で検挙、2名獄死。'45年9月8日カード発見
*
10月1日
・朝鮮総督府、朝鮮青年特別錬成令制定。
総督府学務局に練成課を新設しこれを管掌させる。
12月、全土121ヶ所に青年特別練成所開設。
*
10月1日
・駆逐艦によるガダルカナルへの「鼠輸送」開始。
1日3隻、2日5隻、3日「日進」と駆逐艦9隻、5日3隻、6日6隻、7日5隻、8日「日進」と駆逐艦5隻、9日「竜田」と駆逐艦9隻、10日駆逐艦3隻、と成功。
*
10月1日
・夜、第2歩兵団長那須弓雄少将以下の青葉支隊司令部、ガダルカナル島カミンボ上陸。
*
10月1日
・国民新聞と都新聞が統合し、東京新聞となる
*
10月1日
・アメリカの政治問題小委員会、戦略的に重要な地域は国際的管理下に置くべきだと結論。
*
10月1日
・ドイツ、北スロベニアの正式併合を宣言。
*
10月3日
・第17軍、ガダルカナルの作戦計画を参謀本部に打電。
8日、ガ島攻略後の作戦方針を報告。

「一〇・二 〇三二〇発 沖参電第八〇八号 軍のガ島攻撃計画要旨左の如し 
一、方針 軍は海軍と協同し敵の新企図に対処しつつ所要の兵力の集結を待ちてガ島飛行場を奪回、続いて一挙にガ島の敵を殲滅す。攻撃開始の時期は十月中句末と予定す。・・・」

「一〇・八 一七二五発 沖参電第九〇七号 ガ島攻略後における作戦計画要旨(五日策定、八日一部訂正) 
・・・軍はガ島攻略に引き続き、一部をもって海軍と協力し、速かに他のソロモン島要地を奪回すると共に、速かに重点を東部ニューギニアに移動し、MO(ポートモレスビー)その他の要地を攻略して、ソロモン群島東部ニューギニアの線に確固たる防衛基地を構成す。MO政略は十二月初頭と予定す・・・この間、ガ島攻略に引き続き第二師団の一部を以て速かにレンネル島、ツラギ、サソクリストパル島等のソロモン島の要地を奪回す・・・」
*
10月2日
・これまでのガダルカナル戦の状況。
8月13日~10月2日、戦闘参加6,217、戦死633、戦傷505。
*
10月2日
・V2号打ち上げ成功
*
10月3日
・ウェーキ島増援、陸軍一個大隊上陸
*
10月3日
・第2師団長丸山政男中将は、「・・・十月十七日頃迄ニ飛行場附近ノ敵ニ対シ攻撃ヲ準備スへシ」との任務を持ちガダルカナル島タサファロングに上陸。
翌4日早朝、ママラ川(タサファロング南東5km)上流に戦闘指令所を設ける。

川口支隊長は第2師団長に状況報告。
日本軍兵力は海軍を含め約9千、うち戦病死等約2千、健在の者約5千だが、戦力回復にはかなりの日時を要するから、攻撃兵力としては期待出来ない、という
この頃、米軍は1万9千以上(日本側は約1万と見積もっている)。
*
10月3日
・野線重砲兵第21大隊第2中隊(九六式十糎4門)、ガダルカナル島タサファロング上陸。

この日の「日進」は、15榴4門、野砲2門、弾薬牽引車3、トラック2、特大発2、大発4と、丸山第2師団長以下231名を揚陸。
午後8時50分タサファロング着、午後10時45分、敵機の妨害甚だしく作業を中止、帰途につく。
自動車1、野砲2、野砲弾薬の大部、野砲中隊80名が揚陸できず。
往航時、3日午後3時35分、艦爆10機の攻撃を受け、投弾7、至近弾のため重傷2・軽傷4名を出し、船体に僅少の損傷を受ける。
復航時、翌4日午前4時50分、雷撃機4・B17-5が来襲、魚雷4発を発射されるが命中せず。
*
10月3日
・~7日。ドイツ『レガッタ(競艇)』作戦(白ロシアのゴーリキでのソ連パルチザン掃討作戦)
*
10月4日
・北ボルネオ、山脇ボルネオ守備軍司令官、クチン着任。
*
10月4日
・英軍、サークにコマンド攻撃
*
10月5日
・米艦載機、ショートランドを空襲。
*
10月5日
・米第8海兵連隊、ガダルカナル上陸
*
10月6日
・「戦時陸運の非常体制確立に関する件」を閣議決定。
近距離用の沿岸貨物船を南方に振り向け、石炭・銑鉄等の輸送は極力鉄道による、また、旅客輸送を制限。
*
10月6日
・米英、第2次対ソ武器貸与議定書調印。
*
10月7日
・ガダルカナル、第2師団が、マタニカウ川右岸の部隊を増強交代させようとした時、猛烈な砲爆撃を伴う敵の攻撃を受け、マタニカウ川左岸(西)2~3kmの線まで後退を余儀なくされる。
このことは、攻勢に転移する際の拠点と、飛行場砲撃のための砲兵陣地を失ったことを意味する。
*
10月7日
・情報局、南方占領地域の子供向けに「ヱホン・ニッポン」贈与
*
10月7日
・国連枢軸国戦争犯罪調査委員会
*
10月8日
・山西省第5次治安強化運動
*
10月8日
・迫撃第3大隊、ガダルカナル島タサファロング上陸。
この日、「日進」と駆逐艦5隻、往復ともに多数敵機の攻撃を受けるが、直衛水上機に救われ輸送は成功。
「日進」は、10榴2門、高角砲(海軍)4門、高射砲(陸軍)2門、トラック2、牽引車2、榴弾砲弾薬車2、特大発2、大発2、各種弾薬、糧食、燃料、人員176名を輸送。
*
10月8日
・インド、大規模な反英暴動、死傷者3300人
*
*

2012年10月26日金曜日

昭和17年(1942)9月 ボーイング、B29試作1号機完成 第2師団(丸山政男中将)、ジャワよりラバウル着

東京 北の丸公園 2012-10-26
*
昭和17年(1942)
9月21日
・人民戦線事件判決。山川均懲役5年など。大内兵衛・美濃部亮吉らは無罪。
*
9月21日
・北部九州私鉄4社が合併、西日本鉄道となる。
*
9月21日
・満洲開拓団編成助成規則公布。
*
9月21日
・陸軍報道班員作家里村欣三・堺誠一郎、北ボルネオのクチン到着。
*
9月21日
ボーイング、B29試作1号機完成
41年5月17日、アーノルド米陸軍航空部隊司令官、試作着手段階で量産の内約、試作第1号機が飛ぶと同時に1664機を注文。
1939年9月第2次大戦勃発直後、米本土防衛用にB29が計画される。
ドイツが南米を交配し、米本土を空襲する懸念があり、南米まで飛べる爆撃機が必要とされた為。
議会は研究用に470万ドルを支出、アーノルド司令官は、ボーイング、ロッキード、ダグラス、コンソリデーテッド各会社に、行動半径2千マイルの長距離爆撃機試作を発注。
各社夫々ⅩB29、ⅩB30、ⅩB31、ⅩB32の暗号名で試作に入るが、ロッキード、ダグラス両社はやがて製作中止し、B32は戦争末期に数機が間にあうだけ。
B29は、VLR(ペリ・ロング・レインジ=超長距離)またはVHB(ペリ・ヘビー・ボマー=超重爆)と呼ばれ、後に正式に「スーパー・フォートレス」(超要塞)と名付けられ、一般には「空飛ぶ要塞」「夢の飛行機」「コウノトリ」「大きな兄貴」などの通称が与えられる。
B29は3万フィート以上を飛び、高射砲弾の心配は少なく、戦闘機の迎撃も困難な高々度。
従って、機体は、低空飛行に必要な迷彩をほどこさず、銀色のアルミ地肌のままである。
B29は、安全に大量の爆弾を投下できる理想的な戦略爆撃機で、その爆撃能力を活用するのが、対日戦勝の近道である。
*
9月22日
・米の戦後対外関係諮問委員会の安全保障問題小委員会、北緯30度以南の全諸島に対する日本の支配権を剥奪すべきだが、琉球は日本に残してもよいと結論。
*
9月23日
・イギリス軍、マダガスカルの首都タナナリヴ占領
*
9月23日
・ドイツ「アッティカ」作戦。黒海沿いトゥアプセ経由でソチ、スフミ、バトーミと向かう作戦。
*
9月24日
・ヒトラー、陸軍参謀長ハルダーを解任。
*
9月24日
・米軍艦「スティーブン・ホプキンズ」、独通商破壊艦「シュティーア」と戦闘、両艦ともに沈没
*
9月25日
・ユーゴスラヴィア、チトー率いるパルチザン、ヤイツェ解放。
*
9月26日
・ニューギニア、ポートモレスビー東北約50kmに迫まる南洋支隊、撤退開始。
*
9月26日
・陸軍防衛召集規則公布、「国民皆兵」原則実現、召集対象が拡大、総力戦体制の実感
*
9月26日
・間接肥料販売制限規則、朝鮮寄留令公布
*
9月26日
・古河工業日光電気精銅所待遇改善要求署名、1,500名。首謀者十数名を検束し取調。
*
9月27日
・トラックの連合艦隊山本司令長官、ガダルカナルへの船団輸送・護衛の要請の同意。
*
9月27日
・ソ連、仏のド・ゴール政権を承認。
10月2日、アメリカ、同政権承認。
*
9月29日
第17軍第2師団(丸山政男中将)第1梯団、ラバウル着。後続部隊も続々到着。
第2師団第1梯団(師団司令部、歩兵第29連隊、野砲兵第2連隊の1中隊、工兵第2連隊主力)は、19日スラバヤ発、29日ラバウル着。
第2師団先遣隊(歩兵第16連隊本部、同第3大隊、速射砲半中隊、連隊砲半中隊)は20日既にラバウル着。
同師団第2梯団のラバウル着は10月6、7日両日。
大陸命688号によって第17軍に編入された第38師団も第2師団に続いてラバウルに到着。
第1梯団10月6日、第2梯団19日、第3梯団30日、東方支隊10月8、13日。

第2師団の兵力も、続々とラバウルに到着、街の周辺のヤシ林にテソトを張る。兵に至るまで金時計、防水時計を腕にまき、一見して快適なジャワ占領地生活にひたりきっていた印象を受けるが、とにかく、そのジャワ攻略で勇名をはせ、精鋭をうたわれてきた師団である。いままでの一木、川口両支隊とは、兵力、装備、素質ともに段違いのはずである。

第2師団長丸山政男中将は、百武第17軍司令官より「速ニガ島ニ前進シガ島攻略ノ目的ヲ以テ十月十七日頃迄ニ飛行場附近ノ敵ニ対シ攻撃ヲ準備スへシ」という任務を受領、10月3日ガダルカナル上陸。
*
9月29日
・米軍、ガダルカナル島に将兵19,000投入
*
9月29日
・イ25号潜水艦搭載機、再度空襲を行う、米カ本土空襲は唯一の事例
*
9月29日
・バンコクに泰国文化研究所設立
*
9月30日
・大日本産業報国会、「労務報国会設立要綱」とともに、全国地方長官宛厚生・内務両次官連名の「労務報国会設立ニ関スル件」依命通牒。日傭労務者130万人の組織化。
*
9月30日
辰巳栄一少将(前駐英武官、8月20日交換船で帰国)、東部軍参謀長に任命。空襲下ロンドンを知る辰巳の経験を生かそうとする人事。
*
9月30日
・大本営、中畑部隊を基幹として、新たに独立守備歩兵第40大隊(佐合部隊)、第41大隊(大塚部隊)を編成完結。ボルネオ守備軍では、第40大隊をクチン地区に、第41大隊をサンダカン地区に配置。
*
9月30日
・自動車修理用部分品統制規則
*
9月下旬
川口少将、第17軍百武司令官(百武晴吉中将、参謀長宮崎周一少将、作戦主任参謀小沼治夫大佐)に招致され、ガ島戦況について説明。戦力の貧困(とくに飢えと疲労)、地形の峻険、敵戦力の強大(航空支援、火力、電波探知機等)など。
実状に則した説明だが悲観的な事実認識は、軍司令部員の反感をかい後の罷免事件に繋がる。
*
*


2012年10月11日木曜日

昭和17年(1942)9月21日 満鉄事件検挙始まる 満鉄調査部関係者25名を検挙

東京 北の丸公園
*
昭和17年(1942)
9月21日
満鉄事件
この日、陸軍憲兵隊は、国内・中国の各地で満鉄調査部関係者25名を検挙(直後に3名検挙、計28名)。
第1次が昭和17年9月、第2次が18年
満鉄調査部から44人の部員・嘱託が「赤色運動」容疑で逮捕

○経緯
1940年7月、満州協和会中央本部実践科主任平賀貞夫、日本共産党再建グループに関わったとの容疑で警視庁に逮捕。
この頃、中国東北の農事合作社(協同組合)運動には、日本からの左翼転向者が多く参加。
平賀逮捕から、平賀とこれら合作社運動参加者との間で日本共産党再建の動きがあると見た関東軍憲兵隊は、内偵を進め、「在満日系共産主義運動の実在を確認するに至った」(関東軍憲兵隊司令部「在満日系共産主義運動」)。

1941年7月初旬、合作社の共産党再建の主犯格と看做している北安省興農合作社連合会事業科長清野義秀の公金横領が発覚、10月3日逮捕。
翌11月、憲兵隊は「満州国」警察と協力、逮捕開始、数日間に51名を逮捕(うち朝鮮人1・中国人3)。
ゾルゲ事件の直後で、憲兵隊は共産主義組織の動きを何としてでも見つけようと焦るが、「事件に関する予備知識に乏しく、加うるに全般に此の種事件に対する経験素養極めて貧困の実情にあり」、取調担任官の先任者1名を司令部に呼んで約1週間の教育を実施、また思想検事の東京刑事地方裁判所検事中村哲夫が大肚子川満州第673部隊にいたのを、憲兵隊司令部に転属させ取調べに当らせる。
取調べ・起訴過程で、満州国治安維持法が適用され、団体結成罪で無期5人、宣伝罪で有期徒刑11人。当時浜江コースと呼ばれた合作社運動の中心人物佐藤大四郎も有期徒刑。
この年(42年)4月頃、41年12月30日熱海で転地療養中を合作社事件容疑で逮捕された昭和会中央本部鈴木小兵衛が、「思想転向の実を示すべく、自己の身命を賭して思想戦に対する協力方を熱願し、その第一着手として今尚不逞思想より覚醒せざる嘗ての満鉄調査部同志に対し、大東亜戦下一刻も速かに真の日本人として蘇生せしめんことを決意し、過去に於ける私情の信義を潔く抛って、マルクス主義者が暗黙の鉄則として固く戒めある同志の裏切りを敢てし、彼等の思想傾向並左翼活動に就き自己の知り得る一切を供述するに至った」という。

憲兵隊は、鈴木の他に、合作社事件で審理中の大塚抽三郎(国務院総務庁統計処資源科長)、田中武夫(満州評論社記者)、鈴木公平(満州評論社新京支局記者)、深谷進(輿農合作社中央会職員)、佐藤晴生(満鉄北支経済調査所職員)、花房森(満鉄調査部第3調査室職員)らに、鈴木の指摘した満鉄調査部関係者について知るところを供述させ、68人の名が浮かぶ。

次に、憲兵隊は、「満鉄経済年報」「満鉄調査月報」「資料彙報」その他満鉄調査部の調査資料、パンフレット、「満州評論」「改造」「中央公論」などに、これらの人が寄せている論文の検討に入る。
憲兵隊はこれらの論稿が「合法場面を利用する所謂人民戦線戦術に拠り調査に便乗し、専ら調査執筆活動を通じ、主義の宣伝啓蒙をなしている」という先入観に立ち、先に供述した数名の被疑者を協力させる。
憲兵隊が「九・二一事件」と称する一斉検挙は、こうして開始。

「合作社事件」に関連して逮捕された鈴木・山村は、憲兵からうまくいって無期懲役、ふつうは死刑と脅かされ、全員発狂状態になり、出まかせに「満鉄調査部内における赤色分子の摘発リスト」を作り、更に「日満支同時革命計画」とか「パリとニューヨークの事務所はコミンテルンとの接触機関である」とか、憲兵の方が錯乱するような絵空事を並べ始める。
結局、彼らは「精神分裂」とされ釈放。

しかし、「満鉄調査部内に赤色分子がいる」との証言により、「満鉄事件」は始る。
第1次検挙31名、中間検挙3名、第2次検挙10名、計44名。
東條首相は関東軍憲兵司令官に腹心の加藤少将を派遣、その下に思想係エキスパート松本満貞中佐がつく。

○第1次検挙
京都で京都帝大人文科学研究所大上末広、
新京(長春)で渡辺雄二・小泉吉雄・吉植悟・吉原次郎・栗原東洋・米山雄治・横川次郎、
大連で稲葉四郎・石田七郎・具島兼三郎・野々村一雄・三浦衛・林田了介・溝端健三・堀江邑一・佐藤洋・下条英男、
北京で石田精一・石井俊之・和田喜一郎、
上海で石川正義・西雅雄・加藤清、
南京で野間清。

(大上と満州評論社の栗原、大連日日新聞社の三浦、大連都市交通株式会社の林田以外は満鉄社員、北京で検挙された者は満鉄北支経済調査所、上海、南京の者は満鉄上海事務所に所属。)

26日、東京で満鉄東京支社狭間源三、27日、上海事務所鈴江言一、10月4日、淅江省政府駐賓弁事所長沢武夫が杭州で逮捕され、逮捕者は28人となる。

北條秀山は中西敏憲理事に「北支開発」から呼び戻される。
大部長と云われた田中清次郎が「尾崎事件」の責を負って辞職(尾崎の父は「台湾日報」創業者で、田中の台湾総督府在勤中から咤懇の間柄で、田中は尾崎を最高嘱託(月給500円)に招く)。後任は内海治一。
中西に呼び戻された北條は、参与兼総務課長で、すぐ東京に飛び憲兵司令部長伴総務部長(のちに大阪憲兵司令官)にブラック・リストを見せてもらう。
天長節拝賀式後の午後11時、北條は総務部長室でリストを見ると、124の名があり、84番目に北條秀一の名もある。
どれも理由のない人ばかりなので、これ以上検挙しないよう頼み込み、長伴も頷くが結果は逆。

結局、松岡瑞雄と渡辺雄二は懲役5年(執行猶予5年)、他は1年(執行猶予つき)となる。
この間、大上末広、発智善次郎らは獄死。
守随一(しゅずいはじめ)は昭和19年元旦釈放、北條の家に向かう途中、阿部病院前で倒れ「ほーじょう」と言いながら息をひきとる。栄養失調からくる急性肺炎。
昭和20年春、石堂清倫、石田七郎、渡辺雄二は釈放と同時に召集。渡辺は興安嶺山脈でソ連軍と交戦中に戦死。

11月、満鉄調査部は、「吾等は調査報国の至誠に徹し、以て大東亜建設の礎石に任ずると共に、会社使命の先駆に挺身せん」という「部誓」を発表。

○第2次検挙
翌年3月23日関東軍司令部第5課松岡瑞雄、南方軍従軍中の三輪武・和田耕作を逮捕。

7月17日
大連で発智善次郎・石堂清倫・田中九一・伊藤武雄・佐瀬六郎、
奉天で武安鉄男、
新京(長春)で平野蕃・守随一・代元正成が逮捕。

11月1日南方派遣を解除され大連に戻った枝吉勇を逮捕。

結局、検挙者は、「九・二一」の28人に、合作社事件の鈴木小兵衛、花房森、佐藤晴生の3人、中間に3人、今回の10人を加えて44人となる。
山田豪雄「満鉄調査部」によると、検挙予定者リストは130人という。  

具体的容疑は何も出てこず、結局、人民戦線の理論活動ということになる。
伊藤武雄は、「調査部門に敗戦を予想しての左翼の思想運動が謀議されていて、その首魁が私か、田中九一らしいと憲兵隊ではあたりをつけて、事件を構成したらしい」と述べる(伊藤武雄「満山に生きて」)。
満鉄改組問題の際、社員会を率い関東軍とわたりあった伊藤は、田中と共に東大新人会の出身で、リーダー格と目されたと推測できる。
拷問は無かったというが、長期拘留で疲れ果てさせ、手記を書かせ、相互告発をさせ、国家への忠誠を誓わせ、起訴に持ちこむ。
40人が検察庁に送られ21人が起訴(満州国治安維持法違反)、裁判は飯守重任判事が担当、1945年5月1日、2人が5年、2人が3年、1人が1年(いずれ執行猶予つき)の判決を受ける。
飯守は敗戦後ソ連に抑留され、帰国後日本の裁判所でタカ派の代表となる。 

「私自身もまきこまれた満鉄事件では、有志調査部員が「満州二段革命」の準備をしたことになっていた。私は調査に関係はなかったが、帝政時代の「在北京正教伝道団員の業績」の文献目録を作ったのが起訴の一つの原因にされていた。なぜこんな無理をするのか最後までわからなかった。しかし検挙されるとたちまち、一部の調査部員は憲兵隊の期待を上回るような架空計画を自供した。しかも何一つ拷問もないのにである。戦後に友人たちと勉強会をひらいたとき偶然わかったのであるが、一九四二年五月に、首相の東条英機が満鉄の大村卓一総裁に検挙を予告している。もう一つわかったのは、東条たちが敗戦とともに生じかねない社会革命を予防するために、三万の「共産主義者」を検挙すべきであると考えていたことである。それこそ「猫も杓子も」つかまえる至上命令があったことになる。」(石堂清倫「「雪の下」の時代」)。
*
*