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2020年8月26日水曜日

2020年5月27日水曜日

1942年5月26日。華北平原で、地下に潜り込んだゲリラや住民に、#あか筒 という毒ガス兵器が使われました ; [証言記録 兵士たちの戦争]華北・ゲリラ掃討戦 敵は民の中にありて見えず ~島根県・歩兵第163連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス / 山本実さん / 小坂庄介さん / 伊東利春さん    









2016年8月21日日曜日

『私の八月十五日展』より。『ダメおやじ』で有名な古谷三敏さんが、父親に手榴弾の扱い方を教わっているところ。「相手は子どもだと思って油断しているから、手榴弾のピンを抜いて相手に抱きついて死ね」と言われたそうです。終戦時は9歳、満州で。 — ピースあいちは日曜開館中 / 『私の八月十五日展~マンガ家・戦争体験者ーあの日の記憶』と題し、おなじみの漫画家や著名人の戦争体験をご紹介。ポスターは水木しげるさんです。8/31まで









2016年8月1日月曜日

1945年、昭和20年8月1日 長岡空襲 22:30~24:10、B-29 125機、長岡市を空襲。 中心部市街地の約8割が焼失。 死者数 1,476名 罹災人口 74,508名 / 71年前の長岡空襲の始まった時刻(8月1日午後10時30分)にあわせて慰霊の花火を打ち上げます。 空襲で亡くなられた方々への慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いを込めて、白一色の尺玉3発を打ち上げるとともに、市内寺院の協力を得て同時刻に慰霊の鐘を鳴らします。





2016年7月24日日曜日

ただ一度 大尉と歩いた浅草の街 (『朝日新聞』2016-07-18「声 語りつぐ戦争」) ;  「わたしが一番きれいだったとき」という詩を読んだ瞬間、あの大尉が蘇った。作者は、私と同じ年に生まれた茨木のり子さん。・・・

ただ一度 大尉と歩いた浅草の街
 無職 三上美代子
(千葉県 90)

 「わたしが一番きれいだったとき」という詩を読んだ瞬間、あの大尉が蘇った。作者は、私と同じ年に生まれた茨木のり子さん。詩には「男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差だけを残し皆発っていった」とある。

 東京の高等女学校5年で17歳だった44年春。勤労動員の職場に、すぐ帰るよう自宅から連絡があった。家では、若く凜々しい大尉と父が座敷で向き合っていた。

 大尉は、私が小学生のとき書いた慰問文に返信をくれた方。帰国した折に我が家に来てくれたことがあり、これが2度目だった。

 父とどんな話をしたのか。促され、大尉と2人で家を出たが、大尉は無言。私のすぐ後ろをついてくる。そのまま浅草の街を歩き、離れた席で喜劇を見た後、地下鉄への階段を下りる姿を見送った。

 あのひとときが、私のただ一つの青春だ。

 翌春、わが家は東京大空襲を受け、一家で静岡県に疎開した。大尉の消息は分からない。彼が写った3葉の写真だけが手元にある。
(『朝日新聞』2016-07-18「声 語りつぐ戦争」)

『朝日新聞』2016-07-18「声 語りつぐ戦争」

茨木のり子さんの詩は別記事にて(コチラ)








2016年5月29日日曜日

1945/05/29 横浜大空襲  横浜の空襲と戦災関連資料|横浜市 / 今日、横浜大空襲から71年目 ▽1945年5月29日「横浜大空襲」 B-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機が来襲、一番の人身の被害は京浜急行線黄金町駅


2015年8月23日日曜日

ぶつかれば、勝つのか (『朝日新聞』記者レビュー) : NHKスペシャル「特攻~なぜ拡大したのか」 新たに見つかった機密資料は、軍上層部が行った、実際の撃墜数を上回る過大報告や、特攻を政治工作にも利用していたことを明らかにした。

『朝日新聞』2015-08-14

 1944年10月、フィリピンをめぐる米軍との戦いの最中に13人で始まった特攻作戦。
死を前提とした作戦は、敵軍を撃沈させた戦果から、沖縄戦と本土決戦の中心戦法になり、4500人超の犠牲者を生む。
8日に放送されたNHKスペシャル「特攻~なぜ拡大したのか」では、元特攻兵や彼らを支援した元航空隊幹部らの証言、軍上層部の肉声テープをもとに、特攻が急速にひろがった背景を伝えた。

 特攻隊の多くは、実戦経験のない20歳前後の若者たち。
生きて帰ることを望んではならない状況下で、元特攻兵は「なぜ死ななきゃならんのだろう。私が敵艦にぶつかって沈めた場合、日本は勝利するのだろうか」と疑念があったと話す。
時に狂気と語られる特攻だが、命令を受けながらも、当事者は冷静に現実を見ていたと思うとやりきれない。

 新たに見つかった機密資料は、軍上層部が行った、実際の撃墜数を上回る過大報告や、特攻を政治工作にも利用していたことを明らかにした。
戦況が悪化しても上層部は特攻に頼り、戦争継続を貫く。
和平派はいたが、主戦派が支配する場の空気によって特攻は推進された。
本土での特攻作戦は終戦で発動しなかったことに唯一の救いを見いだしつつ、戦争の愚かさと非人道的なむごさを改めて思い知った。
(松沢奈々子)

「グライダー特攻」って、知ってましたか? → 兵は消耗品 17歳の決意 グライダー特攻 出撃「熱烈望」 (『朝日新聞』)

『朝日新聞』2015-08-14

2015年7月28日火曜日

今日7月28日は、青森空襲があった日。あの日から70年。午後1時、市役所前で犠牲者の追悼式。午後7時ころからは柳町で1200本のロウソクを灯してのキャンドルナイト。多くの青森市民が参加してくれるのを祈っている。 — 青森太郎



2015年6月2日火曜日

水木しげるさん 出征前の手記見つかる (NHK) : 「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。今は考へる事すらゆるされない時代だ」

NHK
水木しげるさん 出征前の手記見つかる
6月2日 4時01分

「ゲゲゲの鬼太郎」や、みずからの戦争体験を基にした漫画などで知られる、93歳の漫画家、水木しげるさんが、出征する前の年に手記を書き残していたことが分かりました。本人も存在を忘れていたというもので、死と直面する戦争への恐怖など、率直な心境がつづられていて、家族は「水木の考えの根幹を知ってもらいたい」として、公開を検討しています。

この手記は、東京・調布市にある「水木プロダクション」の事務所で、水木さんの家族が先月26日、昔の手紙を整理していたところ、引き出しの中から見つけました。

水木さんは太平洋戦争が始まった次の年の昭和17年に徴兵検査に合格していて、手記は日付からその年の11月前後に書かれたとみられます。

この中で水木さんは、「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。今は考へる事すらゆるされない時代だ」とつづり、自分のやりたいことすらできなくなっている時代を嘆いています。

また、哲学や宗教に関心があり、「吾を救ふものは道徳か 哲学か 芸術か 基督教か 仏教か」などと、不安や恐怖を克服するために救いを求めようとしていた当時の心境がうかがえます。

さらに、「一体俺は何をしたらいいだろう」と生き方について自問自答する一方、「吾は死に面するとも理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも吾であらん事を欲する」と、自分の理想を持ち続けようという強い思いも記されています。

そして、「私の心の底には、絵が救ってくれるかもしれないと言ふ心が常にある。私には本当の絶望と言ふものはない」と記し、戦時中から絵が心の支えになっていたことも分かります。

水木さんは、去年の12月に心筋梗塞で入院し、ことし2月に退院したあとも療養を続けながら仕事をしているということで、事務所で取材に応じた水木さんは、手記について「書いたことも忘れていた。戦争から帰ったらすべて忘れる。戦争は99%『死』です。当時は手記を書いていないと心が安定しなかったのだと思う」と話しています。

手記を見つけた水木さんの長女の原口尚子さんは「戦地に向かう前のすごく重い内容の手記だったので、驚きました。自分なりにどう生きていくかを考えて、一生懸命、心のよりどころを求めたり、考えたりしていたことがよく分かりました」と話しています。そのうえで、「戦争の時代でも自分は自分であり続けたいと何度も書いていて、それが今に通じる水木の強さなんだと思います。やっぱり水木には絵をやりたいという1つのものがあるから、それが自信になって戦争の時代も乗りきれたような気がします」と話しています。

家族は「水木の考えの根幹を知ってもらいたい」として、この手記の公開を検討しています。

戦争をテーマに数々の作品

水木さんはこの手記を書いていた昭和17年の次の年、21歳のときに徴兵され、太平洋に浮かぶパプアニューギニアのラバウルへと赴きました。当時、ラバウルでは激戦が繰り広げられ、戦闘で多くの仲間を失い、水木さんも左腕を失いました。

戦争体験は水木さんのその後の漫画家としての活動にも影響を与え、水木さんは、これまで数々の戦争をテーマにした作品を描いてきました。このうち、みずからの体験を基に描いた作品「敗走記」では、最前線に取り残された兵士が逃げ惑う様子が描かれています。

また、同じく、水木さんが出征したときの体験を基に描いた漫画「総員玉砕せよ!」は、平成21年にフランスで後世に残したい作品に贈られる「遺産賞」を受賞しています。水木さんは漫画「総員玉砕せよ!」のあとがきで「軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は“猫”位にしか考えられていないのです」と記し、「ぼくは戦記物をかくと わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」とつづっています