昭和16年(1941)7月
この月
・朝鮮軍司令部報道部制作映画「君と僕」。
主人公は朝鮮の陸軍志願兵。李香蘭や日本・朝鮮の人気俳優が出演。
狙いは「朝鮮人の間にみなぎる愛国熱と皇民化された赤誠を通しての国家推進力の拡充である」。
この年秋に完成、朝鮮では一定の観客を集めるが、日本では話題にもならず。
*
・京都、京都府立医大内グループ7名検挙、うち2名起訴。読書会・社会医学研究会。
*
・海軍省教育局長徳永栄少将、2・26事件以降海軍兵学校・海軍大学校出入り差し止めになっている平泉澄博士に出講を願いでる。
以降、昭和17年上半期だけでも数度江田島に出向き「皇国護持の道」と題する講義。
昭和18年、井上成美が校長となってからこれを見直す。
*
・利根川洪水
*
・金史良「虫」(「新潮」、「文芸春秋」)
*
・厚生省、団体旅行・全国的競技大会(神宮国民体育大会を除く)、中止。
*
・木村毅「事変四周年を迎へてー鈴木陸軍中佐にお話をきく(上)(下)」(「少年倶楽部」7、8月号)
*
・高見順「文学非力説」
*
・太宰治(32)、「新ハムレット」(文藝春秋社)。
*
・小林秀雄(39)、「パスカルの『パンセ』について」(「文学界」)。
*
・映画興行2時間半制限、全国に拡大実施。
*
・フランス、ユダヤ人の企業所有・管理・経営、禁止
*
・フランス、占領地区のファシスト分子、「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」結成。総裁ドロンクル。
・アメリカ、ドノバン長官のもとに情報調整官事務局(OCI)設置。まもなく戦略情報事務局(OSS)改組。
*
7月1日
・蘇州付近より清郷工作開始
*
7月1日
・第23軍司令官今村均中将、広東着任。
*
7月1日
・大本営政府連絡会議、「国策要綱」審議の最終日。
「蔵相(河田烈) 陸軍ハ武力的準備ヲヤルノカ(対ソ作戦に備えて)。
参謀総長 準備ヲヤル。先ツ在満部隊ヲ戦時編制トナシ、次テ攻勢ヲ取り得ル様ニスル。衝動ヲ与へヌ様スルニハナカナカ苦心ヲ要スル。
(翌7月2日御前会議で決定をみる対ソ戦準備、関東軍特別演習(「関特演」)も指す)
参謀次長 準備ハヤル。而シ乍ラヤリ得ル最小限ノ兵力ヲ整へテヤル積リナリ。ムチャヤクチャニ沢山ノ準備ヲヤル考へハナイ。
蔵相 海軍モヤルカ。
軍令部次長 潜水艦百隻ノ撃滅ヲ準備スル必要アリ。
商相(豊田貞次郎) 物ノ見地ヨリ申上ゲル。陸海軍カ戦争ヲヤルコトニナレバ物ノ見地カラ国力ハナイモノト思フ。陸海軍共ニ武力行使ヲヤラレルガ、両面戦争(対英米と対ソ)ヲヤルタメノ物ハ持タヌ。陸軍ハ早速動員ヲヤラレルダラウシ又海軍モ準備ヲスルダラウ。船ヲ徴発セラルルカラ物カ取レナクナリ、生産力拡充軍備充実等ニモ大ナル影響ヲ及ボス。英米「ソ」こ対シ不敗ノ態度ヲ取ルト云フコトヲ研究スル必要アリト思ふ。南進カ北進カ慎重ニセラレ度。帝国トシテハ物ハナイ。不敗ノ態勢ト支那事変解決カ此ノ際ナノテハナイカ。」
*
7月1日
・閣議、「対仏印施策要綱」「南方施策促進ニ関スル件」決定。
南部仏印進駐決定。
対米英開戦に備えての南進準備、シンガポール攻撃用の航空基地港湾施設確保が狙い。
*
7月1日
・第2回聖戦美術展
*
7月1日
・隣組常会が始まる。ラジオで「常会の時間」放送
*
7月1日
・国民優生法施行で強制断種は延期となる
*
7月1日
・ドイツとイタリア、汪兆銘政府承認
*
7月1日
・ドイツ、リッペントロップ外相、個人的に松岡外相に参戦要請。
5、10日付で、オット大使に日本への働きかけを指令。
*
7月1日
・ドイツ、北極海のムルマンスク港(ソ連)攻撃作戦。ガンダラクシヤ=ベロモロスク間の鉄道線攻撃作戦。
*
7月1日
・ドイツ軍、リガ占領
*
7月1日
・アメリカ海軍の航空機、ニューファンドランドより対潜哨戒開始
*
7月2日
・重慶国民政府、対独伊国交断絶。
*
7月2日
・第5回(この年の1回目、昭和に入って5回目)御前会議、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」決定。
①南北両面に備え、
②南進態勢強化(南部仏印進駐)、
③対米戦辞せず、独ソ戦不介入。
近衛首相の説明。
「・・・帝国トシテハ大東亜共栄圏建設ノ為ニハ、依然トシテ当面ノ支那事変処理ニ邁進スルヲ要スルコト当然デアリマスガ、
更ニ自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為、南方進出ノ歩ヲ進ムル一方、
北辺ニ於ケル憂患ヲ芟除センガ為、世界情勢特ニ独「ソ」戦ノ推移ニ応シ、適時北方問題ヲ解決スルコトハ、帝国国防上ハ勿論東亜全局ノ安定上極メテ肝要デアルト存ズルノデアリマス。
以上ノ目的ヲ達成センガ為二ハ、帝国ガ各方面ヨリノ妨害抵抗ヲ受クルコトハ当然予想セラレマスガ、帝国トシテハ何トシテモ此ノ目的ヲ達成セネバナリマセンノデ、如何ナル障害ヲモ之ヲ排除スルノ鞏固ナル決意ヲ明カニセントスル次第デアリマス。・・・」
「原枢府議長 日「ソ」中立条約ノ為ニ日本カ「ソ」ヲ打タハ背信ナリト云フモノアルヘキモ、「ソ」ハ背信行為ノ常習者ナリ。
日本カ「ソ」ヲ打チテ不信呼パリスルモノハナシ。
私ハ「ソ」ヲ打ツノ好機到来ヲ念願シテ巳マサルモノナリ。
米国トノ戦争ハ避ケタイ。
「ソ」ヲ打ツモ米国ハ出ナイト思フ。
モウ一ツ伺ヒマス。仏印施策実行ニ当り英米戦ヲ辞セスト云ヒツツ、仏印二於テ対英米戦ヲ準備スル為ニ、近クヤル基地設定ハ之レカ為ノ準備タト云フテヰル。今迄ニ英米戦ノ準備ハ出来ナカツタノカ。仏印ヲヤレバ英米戦ハ起ルト思フカ如何。」。
「英米戦ヲ辞セス」というのは、「国策要綱」の二にある「帝国ハ本号目的達成ノ為対英米戦ヲ辞セス」を指し、「本局日的」は、その前段の「・・・仏印及泰ニ対スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ強化ス」を受けている。
つまり、南方へ進出すれば、対英米戦を惹起する危険率が高いが、それでもかまわない、南方へ進出する、というのであるから、この7月2日の時点で、日本は対英米戦を決意していたことになる。
しかし、『南方施策促進ニ関スル件』の陸海軍事務当局案では、「英米ニ対シ武力ヲ行使ス」が、海軍側の意見によって、「対英米戦ヲ賭スルモ辞セス」に変えられ、「帝国国策要綱」では「対英米戦ヲ辞セス」と修正されている。
独ソ戦は、「要領三」に記載。
「独ソ戦ニ対シテハ三国枢軸ノ精神ヲ基調トスルモ、暫クコレニ介入スルコトナク、密カニ対ソ武力的準備ヲ整エ、自主的ニ対処ス。
コノ間モトヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交渉ヲ行ウ。独ソ戦ノ推移帝国ノタメ有利ニ進展セバ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス」
南部仏印進駐に備え、「対英米戦備を整え」、「対英米戦を辞せず」とし、対ソ戦には即時参戦しないが準備を整え、時機が至れば参戦する、と決める。
近衛の手記では、北進論を抑える為に南進を認めたとある。
陸軍にはかねてより南進の主張がしきりで、この決定は陸軍の主張が通ったものと云える。
「杉山メモ」は、
「オ上ハ非常ニ御満足ノ様子ナリキ、オ昼食後一時半直チニ御裁可セラレタルモノナリ」
と記す。
陸軍省整備局戦備課の高級課員増田繁雄、
「二、三日中に南部仏印進駐が御前会議できまると聞いた。
やれば貿易断絶、生き延びるため大戦突入。自信が持てない。
・・・課長に阻止をお願いする」、
と意見具申。
*
7月3日
・南部仏印進駐準備の大命(允採)。
第25軍司令官飯田祥二郎宛て大陸命第502号。
大陸命に基づく参謀総長指示。
「仏印側カ我要求ニ応シタル場合ニ於テハ平和的ニ進駐シ之ニ応セサル場合ニ於テハ武力ラ行使シテ進駐スルモノトス」と明示。
*
7月3日
・野村大使の警告電。
「モシ独ソ戦争ニ関連シテ対南方武力行使ヲナサルル決意ナリトセバ、日米関係調節ノ余地ハ全然ナキモノト観測セラル・・・日米開戦ノ一歩手前マデ行ク倶ナシトセズ」と進言。
*
7月3日
・イタリア・アフリカ軍の抵抗終結。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ復権。
*
7月3日
・ミンスク戦の終了。
スターリン、ラジオで演説。独ソ戦を大祖国戦争と規定し、パルチザン戦を呼びかける。
10、パルチザン運動中央参謀部設立。
*
7月3日
・シリアにおけるヴィシー派の抵抗終わる
*
*
*
2011年9月4日日曜日
2011年8月21日日曜日
昭和16年(1941)6月26日~30日 大本営政府連絡会議、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」承認
昭和16年(1941)
6月26日
・大本営政府連絡会議。
松岡は「国策要綱」の南進と北方問題解決の軽重を問い、対ソ武力行使をドイツと相談せよと統帥部に迫り参謀次長と議論。
この日の審議の終わり。
「外相 陸海軍案ニ対シテハ根本的ニ意見アルカ而シ大体ニ於テ同意テアル。
武藤軍務局長 ソレナラソレヲ(根本的意見を)書イテ出シテ呉レ。
外相 書イテハ出サヌ」。
*
6月26日
・参謀本部作戦課、対ソ戦の用兵規模など立案。
昭和16年内の開戦となると、7月5日の動員下命、8月10日開戦決意、9月初頭作戦開始、10月中旬作戦終了と見積もる。
実際には、7月7日動員下命の「関特演」として現れるが、8月9日、年内対ソ武力行使中止を決定。
独ソ開戦直前の極東ソ連軍兵力は、狙撃30ヶ師団、騎兵2ヶ師団、戦車2700輌、飛行機2800機、潜水艦100隻と推定し、独ソ戦の推移過程で、この極東兵力をヨーロッパへ西送する事で、地上兵力が1/2に、戦車・飛行機が夫々1/3に減少する事を必要条件として、用兵規模を立案。
第1段集中として16ヶ師団基幹態勢整備、続いて第2段第1次及び第2次集中として北支の2ヶ師団及び内地の4ヶ師団を満州に集中し、22ヶ師団基幹、85万の兵力をもって対ソ作戦を遂行するというもの。
作戦の季節的制約(厳寒期に大軍団の作戦行動は殆ど不可能)により、昭和16年内に対ソ武力行使を行うとすれば、作戦は結氷期到来(概ね10月中旬)迄に終了しなければならない。
ソ連国境重点地域である東部正面に作戦を発起するとして、ウスリー方面進攻作戦に要する日数は、希望的観測で2ヶ月半~2ヶ月と見積られた。
従って、結氷期から逆算して、作戦開始は遅くとも9月初頭、兵員・資材等の集中輸送に要する日数を逆算し、開戦決意の最終期限は8月10日、その為には7月5日動員下令となる。
北方作戦専用船腹80万トンの徴備が必要とされる。
集中輸送の為の諸条件が満たされても、開戦決意迄に独ソ戦でドイツの早期勝利の見通しが確実でなければならず、極東ソ連軍の兵力西送による減少が希望兵額に達しなければならない。
日本が北方武力行使にあたって怖れている事は、沿海州基地からのソ連爆撃隊による本土空襲で、参謀本部第4課(防衛・防空)が出した判決では、「夜ナラハ十敵機、昼ナラハ二、三十機ノ爆撃各数回ニテ東京ハ灰燼ニ帰ス」という。
*
6月26日
・東京のリヒャルト・ゾルゲに再度指令。
赤軍情報部長自ら、日本政府の決定、国境への軍隊移動を報告するよう指令。
ソウルの朝鮮総督府に傍受される。
*
6月26日
・木村孫八郎「株式の基礎知識」、資本主義の行き詰まりを説き支那事変を侵略としているとして発禁。
*
6月26日
・ハンガリー、ソ連機(実はドイツ機)がカッシャを攻撃したことを口実に対ソ参戦決定。
27日、宣戦布告。午前10時半、バールドン首相、下院で対ソ戦開戦報告。
*
6月26日
・フィンランド、対ソ宣戦布告。
*
6月27日
・ユーゴスラビアの共産党、ユーゴ人民解放パルチザン部隊(総司令官ティトー)を創設。
*
6月27日
・イギリス軍事使節団、訪ソ。
*
6月28日
・大本営政府連絡会議。松岡外相、妥協。
「外相 参戦ノ決意ヲ何時カハ独ニ通告セネハナルマイ。自分モ全般ノ情勢上今日ハ未タ参戦ノ時機デハナイト思フ、従ツテ其ノ時機カ来タラ其ノ時ニ通告スレバヨイノデアル。
然シ乍ラ独側ヨリ問合セガアツテ之ニ返事ヲスルノテハ適当デナイ。今云ハザルモ将来云ハナケレバナラヌ様ニナルト思フ。ソコテ帝国トシテ今日参戦ノ決意ヲ定メル必要アリ。
参謀総長 独ニ云フコトハ出来ヌ、情勢有利ニ進展セパデアツテ、過早ニ参戦スルト云フモ有利カ来ナカツタラ変ナ事こナル。
軍令部総長 参謀総長ニ同意見ナリ。」
松岡は、陸海軍が提示する
「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」原案が対ソ戦への日本の参戦意思を明確にしていなと不満で、三国同盟の一員である立場からいっても、南進政策を暫く延期して即時参戦すべきと主張、少なくともドイツ政府へ参戦意思通告をすべきと譲らず、紛糾。
結局28日、即時北進は大勢とはならず、多少の表現修正を加えうえで松岡が「国策要綱」をのむ形で妥協成立。
*
6月28日
・ドイツ外相リッペントロップの参戦要請(「日本は躊躇せずに対ソ軍事行動の決定をなすべきである」)、駐日大使オット経由、松岡外相に伝えられる。
*
6月28日
・金鵄勲章の叙賜者の内、昭和15年4月29日以降の者から一時金制とする
*
6月28日
・南部仏印進駐開始。
*
6月28日
・ドイツ軍、ミンスク占領
*
6月29日
・ソ連共産党中央委員会、対独祖国防衛戦争遂行を表明。
*
6月29日
・ゲーリング、ヒトラー死去の際の後継者に指名される。
*
6月30日
・大本営政府連絡会議。
松岡、再度南進の白紙撤回と対ソ参戦求める、4時間の議論の後、原案可決。
この日、軍事参議官会議。
「外相 今日迄独ハ独「ソ」戦争ニハ協力シテ呉レノ程度ナリシモ、本日「オットー」ハ本国ヨリノ訓令ヲ見セ参戦ヲ申込ミタリ。・・・何レニシテモ帝国ハ参戦ノ決意ヲセサルへカラス。
南ニ火ヲツケルノヲ止メテハ如何。北ニ出ル為ニハ南仏進駐ヲ中止シテハ如何。約六月延期シテハ如何。然シナカラ統帥部総理ニ於テ飽迄実行スル決心ナラ八、既ニ一度賛成セル自分故不同意ハナシ」。
松岡がそう言うと、及川海軍大臣が杉山参謀総長に6ヶ月ぐらい延期してはどうだろうかと意見を求め、近藤軍令部次長が塚田参謀次長に小声で延期を考えようと言う。
塚田は杉山総長に断乎進駐敢を意見具申。
杉山・永野が協議し、杉山が統帥部の総意として進駐決行を表明。
近衛は、統帥部がやるというならやりましょうと賛同。
松岡は、他の大臣に異存はないのかと質し、各大臣が異存なしと答え、「国策要綱」は原案通り実行と決る。
*
6月30日
・パール・バック「支那の空」、全編悪意を持つ反日的内容として発禁
*
6月30日
・ソ連の国家防衛委員会創設。議長はスターリン。全行政権を委任される。
7月19日、スターリン、国防相に就任。
*
6月30日
・ドイツ軍、ビャリストク孤立陣地のソ連軍を包囲
*
*
6月26日
・大本営政府連絡会議。
松岡は「国策要綱」の南進と北方問題解決の軽重を問い、対ソ武力行使をドイツと相談せよと統帥部に迫り参謀次長と議論。
この日の審議の終わり。
「外相 陸海軍案ニ対シテハ根本的ニ意見アルカ而シ大体ニ於テ同意テアル。
武藤軍務局長 ソレナラソレヲ(根本的意見を)書イテ出シテ呉レ。
外相 書イテハ出サヌ」。
*
6月26日
・参謀本部作戦課、対ソ戦の用兵規模など立案。
昭和16年内の開戦となると、7月5日の動員下命、8月10日開戦決意、9月初頭作戦開始、10月中旬作戦終了と見積もる。
実際には、7月7日動員下命の「関特演」として現れるが、8月9日、年内対ソ武力行使中止を決定。
独ソ開戦直前の極東ソ連軍兵力は、狙撃30ヶ師団、騎兵2ヶ師団、戦車2700輌、飛行機2800機、潜水艦100隻と推定し、独ソ戦の推移過程で、この極東兵力をヨーロッパへ西送する事で、地上兵力が1/2に、戦車・飛行機が夫々1/3に減少する事を必要条件として、用兵規模を立案。
第1段集中として16ヶ師団基幹態勢整備、続いて第2段第1次及び第2次集中として北支の2ヶ師団及び内地の4ヶ師団を満州に集中し、22ヶ師団基幹、85万の兵力をもって対ソ作戦を遂行するというもの。
作戦の季節的制約(厳寒期に大軍団の作戦行動は殆ど不可能)により、昭和16年内に対ソ武力行使を行うとすれば、作戦は結氷期到来(概ね10月中旬)迄に終了しなければならない。
ソ連国境重点地域である東部正面に作戦を発起するとして、ウスリー方面進攻作戦に要する日数は、希望的観測で2ヶ月半~2ヶ月と見積られた。
従って、結氷期から逆算して、作戦開始は遅くとも9月初頭、兵員・資材等の集中輸送に要する日数を逆算し、開戦決意の最終期限は8月10日、その為には7月5日動員下令となる。
北方作戦専用船腹80万トンの徴備が必要とされる。
集中輸送の為の諸条件が満たされても、開戦決意迄に独ソ戦でドイツの早期勝利の見通しが確実でなければならず、極東ソ連軍の兵力西送による減少が希望兵額に達しなければならない。
日本が北方武力行使にあたって怖れている事は、沿海州基地からのソ連爆撃隊による本土空襲で、参謀本部第4課(防衛・防空)が出した判決では、「夜ナラハ十敵機、昼ナラハ二、三十機ノ爆撃各数回ニテ東京ハ灰燼ニ帰ス」という。
*
6月26日
・東京のリヒャルト・ゾルゲに再度指令。
赤軍情報部長自ら、日本政府の決定、国境への軍隊移動を報告するよう指令。
ソウルの朝鮮総督府に傍受される。
*
6月26日
・木村孫八郎「株式の基礎知識」、資本主義の行き詰まりを説き支那事変を侵略としているとして発禁。
*
6月26日
・ハンガリー、ソ連機(実はドイツ機)がカッシャを攻撃したことを口実に対ソ参戦決定。
27日、宣戦布告。午前10時半、バールドン首相、下院で対ソ戦開戦報告。
*
6月26日
・フィンランド、対ソ宣戦布告。
*
6月27日
・ユーゴスラビアの共産党、ユーゴ人民解放パルチザン部隊(総司令官ティトー)を創設。
*
6月27日
・イギリス軍事使節団、訪ソ。
*
6月28日
・大本営政府連絡会議。松岡外相、妥協。
「外相 参戦ノ決意ヲ何時カハ独ニ通告セネハナルマイ。自分モ全般ノ情勢上今日ハ未タ参戦ノ時機デハナイト思フ、従ツテ其ノ時機カ来タラ其ノ時ニ通告スレバヨイノデアル。
然シ乍ラ独側ヨリ問合セガアツテ之ニ返事ヲスルノテハ適当デナイ。今云ハザルモ将来云ハナケレバナラヌ様ニナルト思フ。ソコテ帝国トシテ今日参戦ノ決意ヲ定メル必要アリ。
参謀総長 独ニ云フコトハ出来ヌ、情勢有利ニ進展セパデアツテ、過早ニ参戦スルト云フモ有利カ来ナカツタラ変ナ事こナル。
軍令部総長 参謀総長ニ同意見ナリ。」
松岡は、陸海軍が提示する
「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」原案が対ソ戦への日本の参戦意思を明確にしていなと不満で、三国同盟の一員である立場からいっても、南進政策を暫く延期して即時参戦すべきと主張、少なくともドイツ政府へ参戦意思通告をすべきと譲らず、紛糾。
結局28日、即時北進は大勢とはならず、多少の表現修正を加えうえで松岡が「国策要綱」をのむ形で妥協成立。
*
6月28日
・ドイツ外相リッペントロップの参戦要請(「日本は躊躇せずに対ソ軍事行動の決定をなすべきである」)、駐日大使オット経由、松岡外相に伝えられる。
*
6月28日
・金鵄勲章の叙賜者の内、昭和15年4月29日以降の者から一時金制とする
*
6月28日
・南部仏印進駐開始。
*
6月28日
・ドイツ軍、ミンスク占領
*
6月29日
・ソ連共産党中央委員会、対独祖国防衛戦争遂行を表明。
*
6月29日
・ゲーリング、ヒトラー死去の際の後継者に指名される。
*
6月30日
・大本営政府連絡会議。
松岡、再度南進の白紙撤回と対ソ参戦求める、4時間の議論の後、原案可決。
この日、軍事参議官会議。
「外相 今日迄独ハ独「ソ」戦争ニハ協力シテ呉レノ程度ナリシモ、本日「オットー」ハ本国ヨリノ訓令ヲ見セ参戦ヲ申込ミタリ。・・・何レニシテモ帝国ハ参戦ノ決意ヲセサルへカラス。
南ニ火ヲツケルノヲ止メテハ如何。北ニ出ル為ニハ南仏進駐ヲ中止シテハ如何。約六月延期シテハ如何。然シナカラ統帥部総理ニ於テ飽迄実行スル決心ナラ八、既ニ一度賛成セル自分故不同意ハナシ」。
松岡がそう言うと、及川海軍大臣が杉山参謀総長に6ヶ月ぐらい延期してはどうだろうかと意見を求め、近藤軍令部次長が塚田参謀次長に小声で延期を考えようと言う。
塚田は杉山総長に断乎進駐敢を意見具申。
杉山・永野が協議し、杉山が統帥部の総意として進駐決行を表明。
近衛は、統帥部がやるというならやりましょうと賛同。
松岡は、他の大臣に異存はないのかと質し、各大臣が異存なしと答え、「国策要綱」は原案通り実行と決る。
*
6月30日
・パール・バック「支那の空」、全編悪意を持つ反日的内容として発禁
*
6月30日
・ソ連の国家防衛委員会創設。議長はスターリン。全行政権を委任される。
7月19日、スターリン、国防相に就任。
*
6月30日
・ドイツ軍、ビャリストク孤立陣地のソ連軍を包囲
*
*
2011年8月14日日曜日
昭和16年(1941)6月22日~25日 ドイツ軍、ソ連に侵攻
昭和16年(1941)
6月22日
・松岡外相、独ソ開戦の報に接し、即刻参内。対ソ参戦を単独上奏。
翌23日、近衛首相、前日の松岡上奏について弁明。
23日午後の大本営政府連絡会議は、松岡が混乱させる恐れありと考え中止させる。
*
6月22日
・東條陸相、彼のブレーン5人(武藤、佐藤、軍事課長真田穣一郎、軍事課高級課員西浦進、軍務課高級課員石井秋穂)を呼び打ち合わせるが、当分は情勢を見守る事とする。
企画院総裁鈴木貞一が、同盟国日本に相談無くやったのでこの機会に三国同盟破棄をいう近衛の伝言を伝えるが、東條はこれを拒否。
*
6月22日
・ドイツ軍、ソ連に侵攻
ドイツ軍、バルト海~黒海戦線で宣戦布告なくソ連攻撃開始。(バルバロッサ作戦)。
ドイツ軍ブーク川渡河、ソ連空軍壊滅。
イタリア・ルーマニア・スロバキア(24日)・フィンランド(26日)・ハンガリー(27日)、対ソ宣戦布告。
*
6月22日
・チャーチル英首相、ラジオ演説でソ連を同盟国と言明。対ソ援助を表明。
*
6月23日
・中国共産党、反日独伊・反ファシスト国際統一戦線の結成を提唱。
*
6月23日
・蒋介石、「共産党問題処理弁法」極秘理に発出。
*
6月23日
・陸海軍軍務局長・作戦部長会議、南進態勢を崩さない条件に海軍が妥協、陸軍案(南北両面の準備陣を張り、好機到来時のみ対ソ参戦)で意見一致。
24日、陸海軍原案「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」成立。
*
6月23日
・大本営陸海軍部共同作成、「軍事上経済上政治上ノ見地ヨリ北部仏印ト共ニ南部仏印ニ速ニ所要兵力を進駐セシムルノ絶対必要ナル理由ニ就テ」。
仏印全域に軍事的地歩を固め、カを泰へ及ぼし、軍事基地を推進して、南西支那から泰・ビルマ、馬来半島は亘る大戦略要点確保の素地を作る事は、日本の最小限度の要求。
これにより、米英蘭支共同の戦略包囲態勢に対抗し得る態勢を強化することができる。
更に、日満支を絶対自給圏と考えていた日本は、その不足分を補う為に仏印・泰を第一補給圏として、どうしても取り込みたい。
主食である米の不足額900百万石は、仏印・泰に依存しなければならない。また、ゴム補給源としての重要性も高い。
「・・・単ニ米及「ゴム」ノ問題ヨり観察スルモ今ニシテ帝国カ対仏印泰施策ヲ強力ニ発動スルニアラスンハ帝国ハ経済的ニ自存ノ遁ヲ喪失スルニ至ルヘシ」。
*
6月23日
・汪兆銘南京国民政府主席、近衞文麿首相と共同声明。
*
6月23日
・イギリス軍、シリアへ侵攻(「エクスポーター作戦」)
*
6月23日
・ルーズベルト米大統領もソ連を同盟国と声明発表。
*
6月23日
・ソ連赤軍諜報部、東京のゾルゲに対し「ドイツの対ソヴィエト戦争に関して、日本政府の立場についての情報を報告せよ」と指示。
*
6月24日
・この日~29日、6日間重慶連続爆撃。
*
6月24日
・野村駐米大使より電報、「日米諒解案」はアメリカの公式提案ではなく私的提案であると言ってくる。
東條らの諒解案への甘い期待は崩れる。
*
6月24日
・日本基督教団創立総会開催。
プロテスタント33教派の合同体として当局の公認を受ける。
日本聖公会(アングロ・カソリック)とセヴンスデー・アドヴェンチスト教会の2派を除いた大合同。この2派は、以後宗教団体としての庇護の特権もなく、地方警察の直接監視下におかれる。
また、合同に反対した佐々木鎮次ら監督6人は信徒総代から「思想謀略戦の観点より」「敵国たる米英に対し軍事上の利益を与うるものとして」告発される。
各教会には「決戦態勢下基督教会実践要綱」「戦時布教方針」「決戦態勢宣言」等が伝達され、開戦にあたっては「基督者は祖国のため結束して祈祷に努むべし」の檄文が送られる。
*
6月24日
・~26日、第2回「新女苑文化講座」。1500人。軍人会館。亀井勝一郎「美と信仰」、辻二郎「科学のおもしろさ」、武者小路実篤「人生について」、林芙美子「青春と文学」、鈴木庫三「高度国防国家と家庭教育」。
*
6月24日
・スペイン、独ソ戦派遣のための義勇軍「青い旅団」を招集。
*
6月24日
・アメリカ、ソ連資産凍結解除。ルーズベルト大統領がソ連への援助を約束。
*
6月25日
・大本営政府連絡会議、「南方施策促進ニ関スル件」(南部仏印進駐)を決定。
これまで北進を主張していた松岡外相が、一転して南進を容認。
同日、近衛・陸海両総長、上奏。
この日~7月1日(日曜を除く毎日)、24日に成立の陸海軍原案「情勢ノ推移二伴ウ帝国国策要綱」を討議。
松岡は、リッペントロップを通してフランス・ヴィシー政権に圧力をかけ、政治的に解決する方針としていたが、これをリッペントロップに断られた。
議題が「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」に移ると、松岡は独ソ戦を主張し会議を紛糾させる。
「三国同盟ハ(日ソ)中立条約カ出来テモ之ニ依り左右セラレ或ハ影響ヲ受クルモノニアラス。此ノ見解ニ就テハ外相(松岡)帰朝後発表セリ、而モ「ソ」ヨリ何等返電来アラス。実ハ独「ソ」戦ハヌト思ツタカラ中立条約ヲ結ンダノデアツテ、独「ソ」戦フ様ナ状況ナラバ中立条約ナド結バズニモツト独卜仲好イ行動ヲ取リタカツタ」と述べる。
*
6月25日
・中央融和事業協会、同和奉公会に改組
*
6月25日
・アメリカ、公正雇用実践委員会設置。政府機関と防衛産業での人種差別廃止を監督。
*
6月25日
・スウェーデン、ドイツ軍の領内通過を承認。
*
*
6月22日
・松岡外相、独ソ開戦の報に接し、即刻参内。対ソ参戦を単独上奏。
翌23日、近衛首相、前日の松岡上奏について弁明。
23日午後の大本営政府連絡会議は、松岡が混乱させる恐れありと考え中止させる。
*
6月22日
・東條陸相、彼のブレーン5人(武藤、佐藤、軍事課長真田穣一郎、軍事課高級課員西浦進、軍務課高級課員石井秋穂)を呼び打ち合わせるが、当分は情勢を見守る事とする。
企画院総裁鈴木貞一が、同盟国日本に相談無くやったのでこの機会に三国同盟破棄をいう近衛の伝言を伝えるが、東條はこれを拒否。
*
6月22日
・ドイツ軍、ソ連に侵攻
ドイツ軍、バルト海~黒海戦線で宣戦布告なくソ連攻撃開始。(バルバロッサ作戦)。
ドイツ軍ブーク川渡河、ソ連空軍壊滅。
イタリア・ルーマニア・スロバキア(24日)・フィンランド(26日)・ハンガリー(27日)、対ソ宣戦布告。
*
6月22日
・チャーチル英首相、ラジオ演説でソ連を同盟国と言明。対ソ援助を表明。
*
6月23日
・中国共産党、反日独伊・反ファシスト国際統一戦線の結成を提唱。
*
6月23日
・蒋介石、「共産党問題処理弁法」極秘理に発出。
*
6月23日
・陸海軍軍務局長・作戦部長会議、南進態勢を崩さない条件に海軍が妥協、陸軍案(南北両面の準備陣を張り、好機到来時のみ対ソ参戦)で意見一致。
24日、陸海軍原案「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」成立。
*
6月23日
・大本営陸海軍部共同作成、「軍事上経済上政治上ノ見地ヨリ北部仏印ト共ニ南部仏印ニ速ニ所要兵力を進駐セシムルノ絶対必要ナル理由ニ就テ」。
仏印全域に軍事的地歩を固め、カを泰へ及ぼし、軍事基地を推進して、南西支那から泰・ビルマ、馬来半島は亘る大戦略要点確保の素地を作る事は、日本の最小限度の要求。
これにより、米英蘭支共同の戦略包囲態勢に対抗し得る態勢を強化することができる。
更に、日満支を絶対自給圏と考えていた日本は、その不足分を補う為に仏印・泰を第一補給圏として、どうしても取り込みたい。
主食である米の不足額900百万石は、仏印・泰に依存しなければならない。また、ゴム補給源としての重要性も高い。
「・・・単ニ米及「ゴム」ノ問題ヨり観察スルモ今ニシテ帝国カ対仏印泰施策ヲ強力ニ発動スルニアラスンハ帝国ハ経済的ニ自存ノ遁ヲ喪失スルニ至ルヘシ」。
*
6月23日
・汪兆銘南京国民政府主席、近衞文麿首相と共同声明。
*
6月23日
・イギリス軍、シリアへ侵攻(「エクスポーター作戦」)
*
6月23日
・ルーズベルト米大統領もソ連を同盟国と声明発表。
*
6月23日
・ソ連赤軍諜報部、東京のゾルゲに対し「ドイツの対ソヴィエト戦争に関して、日本政府の立場についての情報を報告せよ」と指示。
*
6月24日
・この日~29日、6日間重慶連続爆撃。
*
6月24日
・野村駐米大使より電報、「日米諒解案」はアメリカの公式提案ではなく私的提案であると言ってくる。
東條らの諒解案への甘い期待は崩れる。
*
6月24日
・日本基督教団創立総会開催。
プロテスタント33教派の合同体として当局の公認を受ける。
日本聖公会(アングロ・カソリック)とセヴンスデー・アドヴェンチスト教会の2派を除いた大合同。この2派は、以後宗教団体としての庇護の特権もなく、地方警察の直接監視下におかれる。
また、合同に反対した佐々木鎮次ら監督6人は信徒総代から「思想謀略戦の観点より」「敵国たる米英に対し軍事上の利益を与うるものとして」告発される。
各教会には「決戦態勢下基督教会実践要綱」「戦時布教方針」「決戦態勢宣言」等が伝達され、開戦にあたっては「基督者は祖国のため結束して祈祷に努むべし」の檄文が送られる。
*
6月24日
・~26日、第2回「新女苑文化講座」。1500人。軍人会館。亀井勝一郎「美と信仰」、辻二郎「科学のおもしろさ」、武者小路実篤「人生について」、林芙美子「青春と文学」、鈴木庫三「高度国防国家と家庭教育」。
*
6月24日
・スペイン、独ソ戦派遣のための義勇軍「青い旅団」を招集。
*
6月24日
・アメリカ、ソ連資産凍結解除。ルーズベルト大統領がソ連への援助を約束。
*
6月25日
・大本営政府連絡会議、「南方施策促進ニ関スル件」(南部仏印進駐)を決定。
これまで北進を主張していた松岡外相が、一転して南進を容認。
同日、近衛・陸海両総長、上奏。
この日~7月1日(日曜を除く毎日)、24日に成立の陸海軍原案「情勢ノ推移二伴ウ帝国国策要綱」を討議。
松岡は、リッペントロップを通してフランス・ヴィシー政権に圧力をかけ、政治的に解決する方針としていたが、これをリッペントロップに断られた。
議題が「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」に移ると、松岡は独ソ戦を主張し会議を紛糾させる。
「三国同盟ハ(日ソ)中立条約カ出来テモ之ニ依り左右セラレ或ハ影響ヲ受クルモノニアラス。此ノ見解ニ就テハ外相(松岡)帰朝後発表セリ、而モ「ソ」ヨリ何等返電来アラス。実ハ独「ソ」戦ハヌト思ツタカラ中立条約ヲ結ンダノデアツテ、独「ソ」戦フ様ナ状況ナラバ中立条約ナド結バズニモツト独卜仲好イ行動ヲ取リタカツタ」と述べる。
*
6月25日
・中央融和事業協会、同和奉公会に改組
*
6月25日
・アメリカ、公正雇用実践委員会設置。政府機関と防衛産業での人種差別廃止を監督。
*
6月25日
・スウェーデン、ドイツ軍の領内通過を承認。
*
*
2011年8月7日日曜日
昭和16年(1941)6月11日~21日 ハル国務長官、松岡枢軸依存外交へ揺さぶりをかける 松岡、孤立す
昭和16年(1941)
6月11日
・政府、日本・蘭印会商の打ち切りを決定
*
6月11日
*
6月12日
・大本営政府連絡会議、統帥部、「南方施策促進ニ関スル件」(仏印の軍事的利用、南部仏印進駐)提出。
外交交渉で纏まらなければ、武力行使によって目的を貫徹する為、予め軍隊派遣準備に着手するという提案。
松岡は反対。大島大使から独ソ戦必至の報を得て、盟邦ドイツド対する「忠誠」もあり、日本からの対ソ開戦の好機と判断し、南進反対となったと推測できる。
*
6月12日
・日ソ通商協定・貿易協定が成立
*
6月13日
・フランス、1万2,000人のユダヤ人が「抑留」される
*
6月14日
・陸軍、陸軍原案「情勢ノ推移ニ伴ウ国防国策」取り纏め。
南北両面で戦争準備態勢をとり、好機が来れば対ソ参戦。
*
6月14日
・ルーズベルト大統領、独伊の在米資産凍結命令
*
6月15日
・華中軍、揚子江下流域での「清郷工作」を決定。
*
・この頃の「断腸亭日乗」(永井荷風)。
「日本軍の張作霖暗殺および満州侵略に始まる。
日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て、にわかに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用いた。
・・・欧州戦乱以後、英軍振わざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し、南洋進出を企図するに至れるなり。
しかれどもこれは無智の軍人らおよび猛悪なくわだてる壮士らの企るところにして、・・・国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰いて不平を言わざるは恐怖の結果なり。
麻布連隊叛乱(2・26事件)の状を見て恐怖せし結果なり・・・」(6月15日)。
「余は、かくの如き傲慢無礼なる民族が武力をもって隣国に寇することを痛歎して措かざるなり。
米国よ。速に起ってこの狂暴なる民族に改俊の機会を与えしめよ」(6月20日)。
*
6月15日
・クロアチア、三国同盟加盟
*
6月15日
・アフリカの英軍、「バトル・アクス作戦」(トブルク救援作戦)で独軍に反撃、失敗
*
6月16日、
・汪兆銘南京国民政府主席、来日(~26)。
24日、.近衛との会談。
*
6月16日
・在フィリピン婦女子183人乗せた大阪商船ガンジス丸、神戸着。
*
6月16日
・大本営、支那派遣軍に対敵経済封鎖強化を命令
*
6月16日
・ルーズベルト米大統領、在米領事館の閉鎖を命令。
*
6月17日
・高木惣吉海軍省調査課長が組織した海軍ブレーン集団「思想懇談会」で、和辻哲郎が「国防国家について」報告。一情報官鈴木庫三を批判。
思想懇談会メンバ(7名):安倍能成、岸田国士(大政翼賛会文化部長)、谷川徹三、富塚清、藤田嗣雄、和辻哲郎、関口泰。
*
6月17日
・北原白秋、佐藤春夫らの提唱、大日本詩人協会、発足。
*
6月18日
・中国とイギリス、中国ビルマ国境確定条約に調印(重慶)。雲南省・ビルマ間の国境確定。
*
6月18日
・独・トルコ友好不可侵条約調印。
*
6月20日
・第1軍司令官に岩松義雄中将(17期)就任。
*
6月20日
・国民貯蓄組合法施行、貯蓄奨励法制化、国民の経済的負担増大
*
6月20日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、「オット(駐日大使)は、ドイツとソビエトとの戦争は避けられないと、私に言った」。特に注目されず。
*
6月21日
・ハル国務長官、野村駐米大使に、5月31日の米側「中間案」の修正(5月11日提示の松岡修正案に対する公式対案)と松岡外相を非難するオーラルステートメントを渡す。
23日、東京着。
日本案が、三国同盟は防禦的なものであり、「現に欧州戦に参加していない国の参戦を防止する」ものであるとしている点を修正し、「欧州戦争の拡大防止に寄与せんとするもの」とするが、同時にアメリカの欧州戦争への態度は自衛の考慮によってのみ決せられると、自衛の為の欧州戦争参加余地を残し、一方、三国同盟による援助義務確認条項を削除。
中国問題では、善隣友好、主権・領土の相互尊重に関する原則とその実際の適用に矛盾しない条件提出を要求し、中国の満州国承認は削除。
通商関係では、無差別待遇原則を強調し、太平洋の政治的安定に関しては、特に領土的野心を持たない事の表明を要求。
更に、これには口上書が付けられ、日本にナチスドイツとその征服政策を支持する指導者がいては、現在の交渉が実質的成果を収める事は期待できない、と松岡を非難。
松岡は激怒し、無礼であるとこの口上書を突き返す。
対米関係悪化を望まず、日米交渉妥結を望む内閣全体の意向から、松岡は浮き上がってゆく。
独ソ戦を見越したハルの松岡枢軸依存外交への揺さぶり。
「・・・不幸にして政府の有力なる地位にある日本の指導者中には、国家社会主義の独逸及びその征服政策の支持を要望する進路に対しぬきさしならざる誓約を与え居るものあること及び・・・」(ハルの口上書)。
*
6月21日
・自由フランス軍、ダマスカス占領。
*
*
*
6月11日
・政府、日本・蘭印会商の打ち切りを決定
*
6月11日
*
6月12日
・大本営政府連絡会議、統帥部、「南方施策促進ニ関スル件」(仏印の軍事的利用、南部仏印進駐)提出。
外交交渉で纏まらなければ、武力行使によって目的を貫徹する為、予め軍隊派遣準備に着手するという提案。
松岡は反対。大島大使から独ソ戦必至の報を得て、盟邦ドイツド対する「忠誠」もあり、日本からの対ソ開戦の好機と判断し、南進反対となったと推測できる。
*
6月12日
・日ソ通商協定・貿易協定が成立
*
6月13日
・フランス、1万2,000人のユダヤ人が「抑留」される
*
6月14日
・陸軍、陸軍原案「情勢ノ推移ニ伴ウ国防国策」取り纏め。
南北両面で戦争準備態勢をとり、好機が来れば対ソ参戦。
*
6月14日
・ルーズベルト大統領、独伊の在米資産凍結命令
*
6月15日
・華中軍、揚子江下流域での「清郷工作」を決定。
*
・この頃の「断腸亭日乗」(永井荷風)。
「日本軍の張作霖暗殺および満州侵略に始まる。
日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て、にわかに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用いた。
・・・欧州戦乱以後、英軍振わざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し、南洋進出を企図するに至れるなり。
しかれどもこれは無智の軍人らおよび猛悪なくわだてる壮士らの企るところにして、・・・国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰いて不平を言わざるは恐怖の結果なり。
麻布連隊叛乱(2・26事件)の状を見て恐怖せし結果なり・・・」(6月15日)。
「余は、かくの如き傲慢無礼なる民族が武力をもって隣国に寇することを痛歎して措かざるなり。
米国よ。速に起ってこの狂暴なる民族に改俊の機会を与えしめよ」(6月20日)。
*
6月15日
・クロアチア、三国同盟加盟
*
6月15日
・アフリカの英軍、「バトル・アクス作戦」(トブルク救援作戦)で独軍に反撃、失敗
*
6月16日、
・汪兆銘南京国民政府主席、来日(~26)。
24日、.近衛との会談。
*
6月16日
・在フィリピン婦女子183人乗せた大阪商船ガンジス丸、神戸着。
*
6月16日
・大本営、支那派遣軍に対敵経済封鎖強化を命令
*
6月16日
・ルーズベルト米大統領、在米領事館の閉鎖を命令。
*
6月17日
・高木惣吉海軍省調査課長が組織した海軍ブレーン集団「思想懇談会」で、和辻哲郎が「国防国家について」報告。一情報官鈴木庫三を批判。
思想懇談会メンバ(7名):安倍能成、岸田国士(大政翼賛会文化部長)、谷川徹三、富塚清、藤田嗣雄、和辻哲郎、関口泰。
*
6月17日
・北原白秋、佐藤春夫らの提唱、大日本詩人協会、発足。
*
6月18日
・中国とイギリス、中国ビルマ国境確定条約に調印(重慶)。雲南省・ビルマ間の国境確定。
*
6月18日
・独・トルコ友好不可侵条約調印。
*
6月20日
・第1軍司令官に岩松義雄中将(17期)就任。
*
6月20日
・国民貯蓄組合法施行、貯蓄奨励法制化、国民の経済的負担増大
*
6月20日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、「オット(駐日大使)は、ドイツとソビエトとの戦争は避けられないと、私に言った」。特に注目されず。
*
6月21日
・ハル国務長官、野村駐米大使に、5月31日の米側「中間案」の修正(5月11日提示の松岡修正案に対する公式対案)と松岡外相を非難するオーラルステートメントを渡す。
23日、東京着。
日本案が、三国同盟は防禦的なものであり、「現に欧州戦に参加していない国の参戦を防止する」ものであるとしている点を修正し、「欧州戦争の拡大防止に寄与せんとするもの」とするが、同時にアメリカの欧州戦争への態度は自衛の考慮によってのみ決せられると、自衛の為の欧州戦争参加余地を残し、一方、三国同盟による援助義務確認条項を削除。
中国問題では、善隣友好、主権・領土の相互尊重に関する原則とその実際の適用に矛盾しない条件提出を要求し、中国の満州国承認は削除。
通商関係では、無差別待遇原則を強調し、太平洋の政治的安定に関しては、特に領土的野心を持たない事の表明を要求。
更に、これには口上書が付けられ、日本にナチスドイツとその征服政策を支持する指導者がいては、現在の交渉が実質的成果を収める事は期待できない、と松岡を非難。
松岡は激怒し、無礼であるとこの口上書を突き返す。
対米関係悪化を望まず、日米交渉妥結を望む内閣全体の意向から、松岡は浮き上がってゆく。
独ソ戦を見越したハルの松岡枢軸依存外交への揺さぶり。
「・・・不幸にして政府の有力なる地位にある日本の指導者中には、国家社会主義の独逸及びその征服政策の支持を要望する進路に対しぬきさしならざる誓約を与え居るものあること及び・・・」(ハルの口上書)。
*
6月21日
・自由フランス軍、ダマスカス占領。
*
*
*
2011年7月17日日曜日
昭和16年(1941)6月1日~10日 重慶爆撃 重慶隧道大惨案
昭和16年(1941)6月
この月
・国民政府、法幣増発阻止のため田賦(田地税)の国税化と現物徴収実施
*
・第1軍、山西省経済警察本部を特設(本部長は軍参謀長が兼任)、経済取締を強化
*
・台湾軍研究部辻政信中佐ら、海南島1周長距離機動演習(敵前上陸に引続く長距離移動演習)。
タイ~マレー~シンガポール想定。
この演習の研究結果に基づき辻が編纂した「これさえ読めは勝てる」という「虎の巻」は、開戦に当り乗船と同時に全南方作戦部隊将兵全部た配布される
(服部卓四郎大佐(戦後、第1次復員局史実調査部長・資料整理部長、史実研究所長)「大東亜戦争全史」)。
*
・日本鉱業・中野鉱業・旭石油・日本石油の石油鉱業部門を統合し、帝国石油会社設立。
*
・日本撮影者協会が発足。
*
・徳田秋声「縮図」連載開始
・近松秋江「三国干渉」(桜井書店)。
・太宰治(32)、「千代女」(「改造」)
・小林秀雄(39)、「川端康成」(『文藝春秋』)、「伝統」(河出書房『新文学論全集』第六巻)、「伝統について」「アランの『芸術論集』」(『朝日新聞』)。尾沢良三『女形今昔譚』に序文を発表。
*
・ヘミングウェイ(42)、日中戦争報道特派員として妻マーサと中国およびアジアを取材旅行。
*
6月1日
・ゾルゲ、ドイツのソ連攻撃が6月15日であると打電。モスクワ側はこの情報を無視。
「独ソ戦の開始が、およそ六月一五日という予想は、ショル中佐(ベルリンから来た陸軍武官でゾルゲの古くからの友人)がベルリンから携えてきた情報にもっぱら基づいている。
オット大使は、自分はその情報について直接ベルリソから受け取ることがlできず、ショル中佐の情報が手元にあるのみだと述べた」。
しかし、モスクワに届いたこの電報には「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」とのソビエト側の書き込みがされる。
*
6月1日
・ジャワ島からの最初の引揚げ船榛名丸、ジャワ島バダビア発。
*
6月1日
・イギリス軍、バクダッド入城
*
6月1日
・5月20日にクレタ島に上陸したドイツ軍、島を占領。
*
6月1日
・イギリス軍、エリトリアの首都アスマラを占領。
*
6月1日
・ドイツ「プリンツ・オイゲン」、ブレストに到着。米沿岸警備部隊、グリーンランド南方からの哨戒を開始
*
6月2日
・フランスのヴィシー政府、ユダヤ人定員法制定。
法律家・医師・大学教授2~3%と制限。ユダヤ人人口調査を命令
*
6月2日
・イタリア、ムッソリーニ(58)、ブレンネロでヒトラーと会談。
*
6月4日
・関東州国防保安令公布
*
6月5日
・重慶隧道大惨案。
夜、日本軍機による3波の夜襲。防空洞内大量窒息死事件、数千人(2,500)死亡。
国民党政府「大隧道窒息事件審査報告書」。
「当日、この随道に避難してきた人は、普段と比べ極めて多かった。なかでも婦人と子供の数が普段より多く、また避難者の荷物が多かったのも特徴である」
較場口隠道の最大定員は6555人であるが、少なく見積もっても倍以上の避難民を収容と推定。
押し合いへし合いの状況の下、出入り口の泥濘が靴や草鞋に付いて持ち込まれたため、滑り易く足元を踏ん張るのが覚束なくなる。
更に、換気用通風機が故障。毒ガス投下の噂に、出入り口付近の人々は奥へ奥へと詰める。
犠牲者数はいまなお不明。
当局の調査委員会は、死者992人と発表するが、当時でもこの数字は信用されず。
カール・マイダンスの写真(十八悌口脇の石段に折り重なって倒れた男女、子供の姿)によって空襲下の悲惨事を世界に伝えた「ライフ」は、「重慶市民四千人、空襲下の防空洞で窒息死」の見出で報じる。
その頃重慶に住んでいたハン・スーインは1968年に書いた自伝の中で、「約一万二千人が重慶の公衆防空壕で窒息死したのである(二万人という報告もある)」と記す。
*
6月5日
・駐独日本大使大島浩、3~4日にヒトラー、リッペントロップ外相と会見した結果、独ソ関係悪化により開戦必至との報告。開戦2~3ヶ月でソ連を制圧するだろうとの両者の話を盛り込む。
(ヒトラー)
「独ソの関係はますます悪化し、独ソ戦争はおそらく不可避と考えあり。ソ連のドイツに対する態度は外面友誼的なるも、実際は常に全然反対なり。
・・・自分は相手に敵意あるを認むれば、常に相手より先に刀を抜く男なり」。
(リッペントロップ)
「最近にいたり独ソ関係はとくに悪化し、戦争となる可能性はなはだ増大せり。
・・・ドイツは何等の交渉も行いおらず、しこうしてドイツの東方における軍の配置は完了しあり。
・・・独としては、もし日本にして準備の関係等にて南方進出困難なりとせば、対ソ戦に協力せらるることを歓迎す」。
大島は最後に自分の印象を記し、独ソ開戦は今や必至で、ヒトラーの従来のやり口からすれば、短時日中に決行すると判断しうる、と結論づける。
*
6月5日
・英・中500万ポンド借款協定調印(ロンドン)。
*
6月5日
・ドイツ軍、クレタで1万5千人の捕虜を得たと主張
*
6月6日
・日本軍、重慶夜間爆撃
*
6月6日
・大本営、「対南方施策要綱」決定。仏印・タイに軍事基地設営方針
*
6月6日
・蘭印経済省から日本向け輸出商品の割当額最終回答が提出。
一部の合意点を除き、生ゴム、錫、コプラ、ボーキサイトなどでは妥結に至らず。
17日、日蘭経済交渉打切り。
蘭印特派大使芳沢謙吉、チャルダ・オランダ領東インド総督に対し会商打ち切りを伝達(交渉決裂の形をとらず)、引上げる。石油交渉のみ続行。
*
6月6日
・日本編集者協会、日本編集者会と東京編集者協会、合同。
全編集者の統一組織。200余名。自主的結束が崩れ、徐々に戦争協力団体となる。
「これによりわが国編集者組織が一元化されるわけで、同協会の目的とするところは国防国家と日本文化の建設に積極的に協力するにあり、会員相互の向上と協力を図りつつ出版文化協会とも緊密に連絡して出版文化政策の具体化に努めようというのである」(この年の「雑誌年鑑」)。
設立当初に働いた者に代わり、橋本求・萱原宏一(講談社)、上村哲弥(第一公論社)、赤尾好夫(旺文社)、川島篤(ダイヤモンド社)、斎藤龍太郎・柳沢彦三郎・下島連(文藝春秋社)らがヘゲモニーを操るようになる。
彼らは、ナチスばりから「みそぎ」派まで幅はあるが、戦争政策への全面的傾倒のもとに、批判・質疑の類する事を一切排撃する点で一致。
ある右翼総合雑誌編集長は、軍報道部の軍人の同席する出版関係の会合で、
「今夜の会合には、国賊出版社の者が同席している。わたくしは彼らと同席するのを快しとしないが・・・」と言って「中央公論」「改造」編集者の方を睨め、自分の鰻誌がいかに愛国的であるかを宜伝(池島)。
三木清の論文を載せた他誌の編集着に向かい、「君、切腹せよ」と居丈高に詰めよる雑誌「公論」の編集者、陸軍報道部の中佐から金をもらって排英講演会を開催した某誌編集長、古事記・日本書紀を朗諭して、同僚の前に日本精神の「家元」を気取る編集者(池島)。
*
6月6日
・フランス、パリ議定書、ヴェガン将軍の反対で延期
*
6月6日
・ドイツ、「政治人民委員の取扱いに関する指針」。
対ソ戦では赤軍政治委員を分離した後抹殺する「コミサール(人民委員)命令」指示。
従来の戦争倫理無視、非戦闘員の虐殺。
*
6月6日
・イギリス軍、ハリケーン戦闘機をマルタへ輸送。
*
6月7日
・北海道紋別雄武町の幌内川ダム、ダム決壊、80人死亡
*
6月7日
・愛知銀行、名古屋銀行、伊藤銀行が合併、東海銀行設立
*
6月7日
・イギリス連邦軍と自由フランス軍、ヴィシー政府派の支配するシリア、レバノンに侵攻。
7月14日、シリアで休戦成立。
*
6月8日
・ドイツ歩兵師団、フィンランドへの上陸を始める。
*
6月9日
・麦類配給統制規則公布
*
6月9日
*
6月10日
・ドイツ海軍武官ヴェネカー少将、日本にはシンガポール攻撃の意志なしを、日本海軍の情報源から知る。
*
6月10日
・ドイツ、機雷敷設によるバルト海封鎖作戦開始
*
6月10日
・パリの日本大使館が閉鎖。
*
*
*
この月
・国民政府、法幣増発阻止のため田賦(田地税)の国税化と現物徴収実施
*
・第1軍、山西省経済警察本部を特設(本部長は軍参謀長が兼任)、経済取締を強化
*
・台湾軍研究部辻政信中佐ら、海南島1周長距離機動演習(敵前上陸に引続く長距離移動演習)。
タイ~マレー~シンガポール想定。
この演習の研究結果に基づき辻が編纂した「これさえ読めは勝てる」という「虎の巻」は、開戦に当り乗船と同時に全南方作戦部隊将兵全部た配布される
(服部卓四郎大佐(戦後、第1次復員局史実調査部長・資料整理部長、史実研究所長)「大東亜戦争全史」)。
*
・日本鉱業・中野鉱業・旭石油・日本石油の石油鉱業部門を統合し、帝国石油会社設立。
*
・日本撮影者協会が発足。
*
・徳田秋声「縮図」連載開始
・近松秋江「三国干渉」(桜井書店)。
・太宰治(32)、「千代女」(「改造」)
・小林秀雄(39)、「川端康成」(『文藝春秋』)、「伝統」(河出書房『新文学論全集』第六巻)、「伝統について」「アランの『芸術論集』」(『朝日新聞』)。尾沢良三『女形今昔譚』に序文を発表。
*
・ヘミングウェイ(42)、日中戦争報道特派員として妻マーサと中国およびアジアを取材旅行。
*
6月1日
・ゾルゲ、ドイツのソ連攻撃が6月15日であると打電。モスクワ側はこの情報を無視。
「独ソ戦の開始が、およそ六月一五日という予想は、ショル中佐(ベルリンから来た陸軍武官でゾルゲの古くからの友人)がベルリンから携えてきた情報にもっぱら基づいている。
オット大使は、自分はその情報について直接ベルリソから受け取ることがlできず、ショル中佐の情報が手元にあるのみだと述べた」。
しかし、モスクワに届いたこの電報には「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」とのソビエト側の書き込みがされる。
*
6月1日
・ジャワ島からの最初の引揚げ船榛名丸、ジャワ島バダビア発。
*
6月1日
・イギリス軍、バクダッド入城
*
6月1日
・5月20日にクレタ島に上陸したドイツ軍、島を占領。
*
6月1日
・イギリス軍、エリトリアの首都アスマラを占領。
*
6月1日
・ドイツ「プリンツ・オイゲン」、ブレストに到着。米沿岸警備部隊、グリーンランド南方からの哨戒を開始
*
6月2日
・フランスのヴィシー政府、ユダヤ人定員法制定。
法律家・医師・大学教授2~3%と制限。ユダヤ人人口調査を命令
*
6月2日
・イタリア、ムッソリーニ(58)、ブレンネロでヒトラーと会談。
*
6月4日
・関東州国防保安令公布
*
6月5日
・重慶隧道大惨案。
夜、日本軍機による3波の夜襲。防空洞内大量窒息死事件、数千人(2,500)死亡。
国民党政府「大隧道窒息事件審査報告書」。
「当日、この随道に避難してきた人は、普段と比べ極めて多かった。なかでも婦人と子供の数が普段より多く、また避難者の荷物が多かったのも特徴である」
較場口隠道の最大定員は6555人であるが、少なく見積もっても倍以上の避難民を収容と推定。
押し合いへし合いの状況の下、出入り口の泥濘が靴や草鞋に付いて持ち込まれたため、滑り易く足元を踏ん張るのが覚束なくなる。
更に、換気用通風機が故障。毒ガス投下の噂に、出入り口付近の人々は奥へ奥へと詰める。
犠牲者数はいまなお不明。
当局の調査委員会は、死者992人と発表するが、当時でもこの数字は信用されず。
カール・マイダンスの写真(十八悌口脇の石段に折り重なって倒れた男女、子供の姿)によって空襲下の悲惨事を世界に伝えた「ライフ」は、「重慶市民四千人、空襲下の防空洞で窒息死」の見出で報じる。
その頃重慶に住んでいたハン・スーインは1968年に書いた自伝の中で、「約一万二千人が重慶の公衆防空壕で窒息死したのである(二万人という報告もある)」と記す。
*
6月5日
・駐独日本大使大島浩、3~4日にヒトラー、リッペントロップ外相と会見した結果、独ソ関係悪化により開戦必至との報告。開戦2~3ヶ月でソ連を制圧するだろうとの両者の話を盛り込む。
(ヒトラー)
「独ソの関係はますます悪化し、独ソ戦争はおそらく不可避と考えあり。ソ連のドイツに対する態度は外面友誼的なるも、実際は常に全然反対なり。
・・・自分は相手に敵意あるを認むれば、常に相手より先に刀を抜く男なり」。
(リッペントロップ)
「最近にいたり独ソ関係はとくに悪化し、戦争となる可能性はなはだ増大せり。
・・・ドイツは何等の交渉も行いおらず、しこうしてドイツの東方における軍の配置は完了しあり。
・・・独としては、もし日本にして準備の関係等にて南方進出困難なりとせば、対ソ戦に協力せらるることを歓迎す」。
大島は最後に自分の印象を記し、独ソ開戦は今や必至で、ヒトラーの従来のやり口からすれば、短時日中に決行すると判断しうる、と結論づける。
*
6月5日
・英・中500万ポンド借款協定調印(ロンドン)。
*
6月5日
・ドイツ軍、クレタで1万5千人の捕虜を得たと主張
*
6月6日
・日本軍、重慶夜間爆撃
*
6月6日
・大本営、「対南方施策要綱」決定。仏印・タイに軍事基地設営方針
*
6月6日
・蘭印経済省から日本向け輸出商品の割当額最終回答が提出。
一部の合意点を除き、生ゴム、錫、コプラ、ボーキサイトなどでは妥結に至らず。
17日、日蘭経済交渉打切り。
蘭印特派大使芳沢謙吉、チャルダ・オランダ領東インド総督に対し会商打ち切りを伝達(交渉決裂の形をとらず)、引上げる。石油交渉のみ続行。
*
6月6日
・日本編集者協会、日本編集者会と東京編集者協会、合同。
全編集者の統一組織。200余名。自主的結束が崩れ、徐々に戦争協力団体となる。
「これによりわが国編集者組織が一元化されるわけで、同協会の目的とするところは国防国家と日本文化の建設に積極的に協力するにあり、会員相互の向上と協力を図りつつ出版文化協会とも緊密に連絡して出版文化政策の具体化に努めようというのである」(この年の「雑誌年鑑」)。
設立当初に働いた者に代わり、橋本求・萱原宏一(講談社)、上村哲弥(第一公論社)、赤尾好夫(旺文社)、川島篤(ダイヤモンド社)、斎藤龍太郎・柳沢彦三郎・下島連(文藝春秋社)らがヘゲモニーを操るようになる。
彼らは、ナチスばりから「みそぎ」派まで幅はあるが、戦争政策への全面的傾倒のもとに、批判・質疑の類する事を一切排撃する点で一致。
ある右翼総合雑誌編集長は、軍報道部の軍人の同席する出版関係の会合で、
「今夜の会合には、国賊出版社の者が同席している。わたくしは彼らと同席するのを快しとしないが・・・」と言って「中央公論」「改造」編集者の方を睨め、自分の鰻誌がいかに愛国的であるかを宜伝(池島)。
三木清の論文を載せた他誌の編集着に向かい、「君、切腹せよ」と居丈高に詰めよる雑誌「公論」の編集者、陸軍報道部の中佐から金をもらって排英講演会を開催した某誌編集長、古事記・日本書紀を朗諭して、同僚の前に日本精神の「家元」を気取る編集者(池島)。
*
6月6日
・フランス、パリ議定書、ヴェガン将軍の反対で延期
*
6月6日
・ドイツ、「政治人民委員の取扱いに関する指針」。
対ソ戦では赤軍政治委員を分離した後抹殺する「コミサール(人民委員)命令」指示。
従来の戦争倫理無視、非戦闘員の虐殺。
*
6月6日
・イギリス軍、ハリケーン戦闘機をマルタへ輸送。
*
6月7日
・北海道紋別雄武町の幌内川ダム、ダム決壊、80人死亡
*
6月7日
・愛知銀行、名古屋銀行、伊藤銀行が合併、東海銀行設立
*
6月7日
・イギリス連邦軍と自由フランス軍、ヴィシー政府派の支配するシリア、レバノンに侵攻。
7月14日、シリアで休戦成立。
*
6月8日
・ドイツ歩兵師団、フィンランドへの上陸を始める。
*
6月9日
・麦類配給統制規則公布
*
6月9日
・情報局・大政翼賛会の音頭で「日本移動演劇連盟」結成、発会式。
委員長岸田国士(大政翼賛会文化部長)、事務局長伊藤喜朔。事務局は東京日日新聞内。
前年昭和15年頃より劇団に農山漁村・工場鉱山などを巡回させて、国民精神作興・戦意昂揚に役立たせる為に、移動演劇運動が組織され、これを組織化し拡大する事を目的とする。
専属劇団「くろがね隊」、加盟劇団として東西の歌舞伎各劇団、新生新派、井上正夫や水谷八重子の一座、文学座、前進座など主な演劇団体が全て集まる。
文学座は、初めて8月に川崎の工場で移動演劇を上演。
昭和17年末迄の1年半の間に連盟の移動演劇公演回数は2,300回、観客動員数290万人に及ぶ。
昭和20年には、本土空襲の危険を分散し、交通機関の逼迫からくる移動困難に対処して、連盟は加盟各劇団の地方への疎開常駐を行う。 *
6月10日
・ドイツ海軍武官ヴェネカー少将、日本にはシンガポール攻撃の意志なしを、日本海軍の情報源から知る。
*
6月10日
・ドイツ、機雷敷設によるバルト海封鎖作戦開始
*
6月10日
・パリの日本大使館が閉鎖。
*
*
*
2011年7月9日土曜日
昭和16年(1941)5月11日~31日 ルーズベルト大統領の国家非常事態宣言
昭和16年(1941)5月11日
・駐米大使野村吉三郎、松岡修正案を米に提示。
①米は中国より手を引く、
②日本は三国同盟厳守、
③日本は南進に武力を持ちない保障をしない。
ハルは失望するも、交渉打ち切りは好ましくないと判断。
*
・フランス、ユダヤ人問題研究所創設。占領当局の反ユダヤ機関の拠点となる。
*
5月12日
・大本営政府連絡会議、松岡外相の発言。
「我外交ノ集中ハ米ヲ参戦セシメズ、「コンボイ」(船団護送)ヲヤメサセル事、ニ指向スルニ在り。
・・・「ヒットラ」ヨリハ、未ダ返事ガ来ヌガ、「コンボイ」ハ重大ナル結果を招来スルカラ、米ノ「コンボイ」ニ対スル独ノ行動ハ特ニ慎重善処スヘキ旨ヲ申送り、其際米ノ不参戦、独米戦争セサルコトヲ外相親シク伊勢神宮ニ祈願シタ事ヲモ附加シタ」
*
・青森県三本木町で大火。684戸が焼失
*
・自動車修理用部分品配給統制規則公布
*
5月13日
・ドイツ、バルバロッサ訓令。
「バルバロッサ地域における軍法の適用と部隊の特別措置」。ソ連侵攻時、大量虐殺を実行する機動部隊4個編制
*
5月14日
・貿易統制令公布。翌日施行
*
・フランス、パリ在住ユダヤ人3,747人、フランス国内収容所強制収容
*
・ドイツ空軍、マルタ島大空襲を開始。
*
5月15日
・フランス、レジスタンス国民解放戦線結成
*
・フランス共産党、「フランスの独立のために戦う国民戦線」結成呼掛け
*
・イギリス軍「ブレヴィティ作戦」(ハルファヤ岬における反撃作戦)で反撃、失敗
*
・クロアチア王国、樹立。
*
・ドイツ空軍、クレタ島を空襲。
*
5月16日
・中国共産党、蒋介石に対して「国共調整臨時弁法」12ヶ条再要求
*
・南京汪政権、「清郷工作」開始
*
・中原会戦
第3飛行集団が参加、中條山中で陸上部隊に物資を投下して包囲作戦を支援。
中国軍の遺棄死体は4万2千。
*
・情報局第4部懇談会。毎月10日までに全雑誌の編集プラン・執筆予定者を事前に情報局提出命ず。
*
・イタリア・アフリカ軍、降伏。
*
5月17日
・「日本の領事裁判権を行使できる地域での国防保安法と治安維持法適用に関する特例」公布
*
・阿部定、恩赦で栃木刑務所を出所。
*
・アメリカ、アーノルド米陸軍航空部隊司令官、B29試作着手時点で量産内約結ぶ
*
5月18日
・利根川で汽船が転覆、49人死亡。定員超過が原因。
*
・エチオピアのイタリア軍主力、降伏。
*
5月19日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、ドイツは9軍団103師団を対ソヴィエト用に準備。
*
・東京市、夏季のビールの配給は1世帯8本と決定。
*
・ホー・チ・ミンら、ベトナム独立同盟(ベトミン)結成。
インドシナ共産党第1期第8回中央委員会(5月10日~19日)決議。
カオバン省バクボ。
反日・反仏民族解放路線(反封建を外す)決定。インドシナ3国が夫々の独立を追及。
*
5月20日
・東京港、外国貿易港として開港指定
*
・硬化油等配給統制規則公布
*
・教科用図書調査会設置
*
・ドイツ軍(空挺部隊)、クレタ島攻撃。メルクーア作戦。6月1日 占領。
*
5月21日
・国産機械見本展示船、北米へ向け神戸を出港
*
・農林省、家庭用米の外米混入率を63%に増量。
*
5月22日
・硫黄配給統制規則公布
*
・支那駐屯憲兵隊を北支那派遣憲兵隊に改編し、憲兵隊の性格を常設から野戦に変更
*
・山口梧郎「皇陵二千六百年史」、天皇・皇后御陵等の誤謬が多いとして発禁
*
5月24日
・関東州燐寸専売令公布
*
・アメリカ、ボブ・ディラン、誕生。
*
・ドイツ軍「ビスマルク」「プリンツ・オイゲン」、英「フッド」「プリンス・オブ・ウェールズ」と交戦、「フッド」沈没
*
5月26日
・難波田春夫「日本経済の諸問題」、マルクス主義的国家観であるとして発禁
*
・フランス、北部フランスの炭坑スト始る
*
・チェコ、プラハ、行政長官・帝国治安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ、チェコ人に狙撃され、6月4日.死亡。
*
・イギリス空母フォーミダブル、イタリア領ドデカネス諸島の急降下爆撃機基地を攻撃。
*
5月27日
・科学技術新体制確立要綱、閣議決定。
*
・アメリカ、ルーズベルト大統領、国家非常事態を宣言。
欧州でのドイツ軍の行動は対米侵略準備と決め付ける。
「米政府を暴力によって破壊転覆することの教唆と宣伝」を犯罪とするスミス法制定。
ブラウダーは旅券法違反で起訴され禁固4年刑。
*
・ドイツ主力艦ビスマルク、イギリス軍に撃沈
*
・フランス、ダルラン副首相・ヒトラー会見。
中東・北アフリカ植民地のドイツ軍利用協定(パリ議定書)同意。
近東諸国一帯でのフランスの軍事的対ドイツ協力。
これにより、ヴィシー側のフランス委任統治領シリアの飛行場にドイツ・イタリア飛行機120機が到着。
ドイツは、ヴィシーに対して占領税を1日4億フランから3億フランに減額、捕虜9万人を釈放。
シリアのフランス軍はヴィシーに忠誠を誓い、多数の戦車・航空機を含む兵力約3万で国境地帯を固める。
自由フランスは兵員6千、大砲8門・戦車10輛・飛行機20機の動員能力しかなく、シリア攻略にはイギリス軍の協力が必須。
しかし、イギリスは、特にエジプトに強力な軍を保持しているが、リビアのドイツ・イタリア軍との戦いに集中するためシリアに戦線拡大する余裕なし。
更にこの頃、イラクで親ドイツ派が政権掌握し、イギリスはこれへの対応も迫られている。
*
5月28日
・社団法人新聞連盟、設立。
軍・政府の方針に追随しながらも、自己の地位を守ろうとする全国新聞社の自主的統制団体。
半年後に公布される新開事業令により、「統制会」として発足した日本新聞会にとってかわられる。
日本新聞会は、
「その機構組織性格すべてが会長(田中都吉)の裁定命令に委ねられ、これに反するものに対しては、法令に依って廃刊停刊の極刑をも科し得るやうにした。
連盟が審議機関に止つたのに反し、「新聞会」は純然たる執行機関、新聞行政機関となった」
(伊藤正徳「新聞五十年史」、昭和22年)。
*
・イギリス軍、クレタ島から撤退を開始。
*
・シリア攻略。イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムを本拠とする自由フランス・イギリス連合軍がシリアへ侵攻(自由フランス軍は後詰め)。7月12日停戦。
*
5月29日
・三菱商事、米、濠、マニラ、ジャカルタ、シンガポール、スラバヤ、バグダッド、等各支店に全支店員の引揚げ命令
*
・神戸市滞在亡命ユダヤ人、中東に向けて神戸を出港。
*
5月30日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、6月後半にドイツは対ソヴィエト攻撃開始。
*
・イギリス軍、バグダッドを占領してイラクのクーデター鎮圧。
*
5月31日
・内務省検閲課、偽暦記事掲載出版物取締りに関する件を全国各府県に通牒、大安・仏滅などの記載を禁止
*
・米、ハル国務長官、野村大使に非公式案提示、
①全国家の領土・主権の尊重、
②内政不干渉、
③通商上の機会均等含む平等原則、太平洋の現状維持の4原則
*
・イギリス軍、ギリシャ地方からエジプトへ完全撤退。クレタ島より駆逐。
*
*
*
*
・駐米大使野村吉三郎、松岡修正案を米に提示。
①米は中国より手を引く、
②日本は三国同盟厳守、
③日本は南進に武力を持ちない保障をしない。
ハルは失望するも、交渉打ち切りは好ましくないと判断。
*
・フランス、ユダヤ人問題研究所創設。占領当局の反ユダヤ機関の拠点となる。
*
5月12日
・大本営政府連絡会議、松岡外相の発言。
「我外交ノ集中ハ米ヲ参戦セシメズ、「コンボイ」(船団護送)ヲヤメサセル事、ニ指向スルニ在り。
・・・「ヒットラ」ヨリハ、未ダ返事ガ来ヌガ、「コンボイ」ハ重大ナル結果を招来スルカラ、米ノ「コンボイ」ニ対スル独ノ行動ハ特ニ慎重善処スヘキ旨ヲ申送り、其際米ノ不参戦、独米戦争セサルコトヲ外相親シク伊勢神宮ニ祈願シタ事ヲモ附加シタ」
*
・青森県三本木町で大火。684戸が焼失
*
・自動車修理用部分品配給統制規則公布
*
5月13日
・ドイツ、バルバロッサ訓令。
「バルバロッサ地域における軍法の適用と部隊の特別措置」。ソ連侵攻時、大量虐殺を実行する機動部隊4個編制
*
5月14日
・貿易統制令公布。翌日施行
*
・フランス、パリ在住ユダヤ人3,747人、フランス国内収容所強制収容
*
・ドイツ空軍、マルタ島大空襲を開始。
*
5月15日
・フランス、レジスタンス国民解放戦線結成
*
・フランス共産党、「フランスの独立のために戦う国民戦線」結成呼掛け
*
・イギリス軍「ブレヴィティ作戦」(ハルファヤ岬における反撃作戦)で反撃、失敗
*
・クロアチア王国、樹立。
*
・ドイツ空軍、クレタ島を空襲。
*
5月16日
・中国共産党、蒋介石に対して「国共調整臨時弁法」12ヶ条再要求
*
・南京汪政権、「清郷工作」開始
*
・中原会戦
第3飛行集団が参加、中條山中で陸上部隊に物資を投下して包囲作戦を支援。
中国軍の遺棄死体は4万2千。
*
・情報局第4部懇談会。毎月10日までに全雑誌の編集プラン・執筆予定者を事前に情報局提出命ず。
*
・イタリア・アフリカ軍、降伏。
*
5月17日
・「日本の領事裁判権を行使できる地域での国防保安法と治安維持法適用に関する特例」公布
*
・阿部定、恩赦で栃木刑務所を出所。
*
・アメリカ、アーノルド米陸軍航空部隊司令官、B29試作着手時点で量産内約結ぶ
*
5月18日
・利根川で汽船が転覆、49人死亡。定員超過が原因。
*
・エチオピアのイタリア軍主力、降伏。
*
5月19日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、ドイツは9軍団103師団を対ソヴィエト用に準備。
*
・東京市、夏季のビールの配給は1世帯8本と決定。
*
・ホー・チ・ミンら、ベトナム独立同盟(ベトミン)結成。
インドシナ共産党第1期第8回中央委員会(5月10日~19日)決議。
カオバン省バクボ。
反日・反仏民族解放路線(反封建を外す)決定。インドシナ3国が夫々の独立を追及。
*
5月20日
・東京港、外国貿易港として開港指定
*
・硬化油等配給統制規則公布
*
・教科用図書調査会設置
*
・ドイツ軍(空挺部隊)、クレタ島攻撃。メルクーア作戦。6月1日 占領。
*
5月21日
・国産機械見本展示船、北米へ向け神戸を出港
*
・農林省、家庭用米の外米混入率を63%に増量。
*
5月22日
・硫黄配給統制規則公布
*
・支那駐屯憲兵隊を北支那派遣憲兵隊に改編し、憲兵隊の性格を常設から野戦に変更
*
・山口梧郎「皇陵二千六百年史」、天皇・皇后御陵等の誤謬が多いとして発禁
*
5月24日
・関東州燐寸専売令公布
*
・アメリカ、ボブ・ディラン、誕生。
*
・ドイツ軍「ビスマルク」「プリンツ・オイゲン」、英「フッド」「プリンス・オブ・ウェールズ」と交戦、「フッド」沈没
*
5月26日
・難波田春夫「日本経済の諸問題」、マルクス主義的国家観であるとして発禁
*
・フランス、北部フランスの炭坑スト始る
*
・チェコ、プラハ、行政長官・帝国治安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ、チェコ人に狙撃され、6月4日.死亡。
*
・イギリス空母フォーミダブル、イタリア領ドデカネス諸島の急降下爆撃機基地を攻撃。
*
5月27日
・科学技術新体制確立要綱、閣議決定。
*
・アメリカ、ルーズベルト大統領、国家非常事態を宣言。
欧州でのドイツ軍の行動は対米侵略準備と決め付ける。
「米政府を暴力によって破壊転覆することの教唆と宣伝」を犯罪とするスミス法制定。
ブラウダーは旅券法違反で起訴され禁固4年刑。
*
・ドイツ主力艦ビスマルク、イギリス軍に撃沈
*
・フランス、ダルラン副首相・ヒトラー会見。
中東・北アフリカ植民地のドイツ軍利用協定(パリ議定書)同意。
近東諸国一帯でのフランスの軍事的対ドイツ協力。
これにより、ヴィシー側のフランス委任統治領シリアの飛行場にドイツ・イタリア飛行機120機が到着。
ドイツは、ヴィシーに対して占領税を1日4億フランから3億フランに減額、捕虜9万人を釈放。
シリアのフランス軍はヴィシーに忠誠を誓い、多数の戦車・航空機を含む兵力約3万で国境地帯を固める。
自由フランスは兵員6千、大砲8門・戦車10輛・飛行機20機の動員能力しかなく、シリア攻略にはイギリス軍の協力が必須。
しかし、イギリスは、特にエジプトに強力な軍を保持しているが、リビアのドイツ・イタリア軍との戦いに集中するためシリアに戦線拡大する余裕なし。
更にこの頃、イラクで親ドイツ派が政権掌握し、イギリスはこれへの対応も迫られている。
*
5月28日
・社団法人新聞連盟、設立。
軍・政府の方針に追随しながらも、自己の地位を守ろうとする全国新聞社の自主的統制団体。
半年後に公布される新開事業令により、「統制会」として発足した日本新聞会にとってかわられる。
日本新聞会は、
「その機構組織性格すべてが会長(田中都吉)の裁定命令に委ねられ、これに反するものに対しては、法令に依って廃刊停刊の極刑をも科し得るやうにした。
連盟が審議機関に止つたのに反し、「新聞会」は純然たる執行機関、新聞行政機関となった」
(伊藤正徳「新聞五十年史」、昭和22年)。
*
・イギリス軍、クレタ島から撤退を開始。
*
・シリア攻略。イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムを本拠とする自由フランス・イギリス連合軍がシリアへ侵攻(自由フランス軍は後詰め)。7月12日停戦。
*
5月29日
・三菱商事、米、濠、マニラ、ジャカルタ、シンガポール、スラバヤ、バグダッド、等各支店に全支店員の引揚げ命令
*
・神戸市滞在亡命ユダヤ人、中東に向けて神戸を出港。
*
5月30日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、6月後半にドイツは対ソヴィエト攻撃開始。
*
・イギリス軍、バグダッドを占領してイラクのクーデター鎮圧。
*
5月31日
・内務省検閲課、偽暦記事掲載出版物取締りに関する件を全国各府県に通牒、大安・仏滅などの記載を禁止
*
・米、ハル国務長官、野村大使に非公式案提示、
①全国家の領土・主権の尊重、
②内政不干渉、
③通商上の機会均等含む平等原則、太平洋の現状維持の4原則
*
・イギリス軍、ギリシャ地方からエジプトへ完全撤退。クレタ島より駆逐。
*
*
*
*
2011年7月2日土曜日
昭和16年(1941)5月1日~10日 「人と人とが知らない間柄ではずいぶん冷淡薄情になった」(室生犀星)
昭和16年(1941)5月
この月
・中国共産党、「精兵簡政」、「三風整頓」(整風)運動開始。高級幹部の間に始まる。
*
・広津和郎・間宮茂輔、満州旅行。途中、平壌で金史良を訪問。
*
・東條陸相、軍事調査部を大臣直属に改め、正規の組織図から外し実態を不明にし、陸軍以外の政策集団の動きを把握する機関に変える。
部長には三国直福(一夕会系、武藤と同期、陸軍省新聞班の経歴)。松岡の悪評が多い。
*
・横須賀、海軍航空技術廠の工員便所内に、「天皇機関説賛成、共産党万才、軍部横暴」などの落書。
少年工員(19)は、海軍軍法会議において少年法により不定期刑短期3ヶ月乃至10ヶ月の懲役。
*
・この月発行の司法省刑事局「最近に於ける左翼学生運動」思想研究資料特集第85号。
37(昭和12)~39年(昭和14)の学校教員の思想犯による処罰、大学21名(うち起訴9名)、高校1名(1名)専門学校5名(2名)、中学校16名(5名)。
37年~40年の左翼学生検挙者は525名、起訴者67名。
1925年以来の合計数は検挙5,377名、起訴454名。
*
・室生犀星の描く世相(「中央公論」)。
「自動車に乗ろうとして交渉すると運転手は頭を振るだけで物を言わない。
商店で物を買おうとしても要らなければ止せという。そしてすぐ商品を片づけて了う。
・・・駅員は苦り切って切符をひきたくる。
・・・気をつけていると日常語が凡てを通じて粗暴になった。
人と人とが知らない間柄ではずいぶん冷淡薄情になった」。
*
・金史良「泥棒」(「文芸」)
・広津和郎「歴史と歴史との間」(「改造」)
・志賀直哉「馬と木賊」
・アラン「芸術論集」(桑原武夫訳)
・稲垣達郎「作家の肖像」(「大観堂」)
・小林秀雄(39)、「第一回文芸推薦評論審査後記」(「文芸」)。林房雄と対談「道徳を論ず」(「文学界」)。
・太宰治(32)、「東京八景」短編集(実業之日本社刊)
*
・日本移動演劇連盟、結成。
当初松竹・東宝など7団体、42年「瑞穂劇団」などが加盟。
後に、「文学座」「文化座」「前進座」「井上演劇道場」なども参加。
43年3月社団法人に組織化。
観客動員数:42年222万、43年298万、44年458万。
苦楽座は「桜隊」、俳優座は「芙蓉隊」として移動演劇隊に編成替えされ、文化座、文学座、芸文座なども移動演劇に移っていく。
「桜隊」は広島で被爆、丸山定夫ら全員が爆死、
「上海事変」の呉淞クリークで友田恭助戦死。
「移動演劇」運動は、戦力増強のために内務省の「演劇の浄化と統制」方針にそい、大政翼賛会文化部の提唱を受け、情報局の指導・援助の下に行われたが、全国の農村・漁村・鉱山・工場・学校など広範囲にわたり尨大な観客層を集めて展開、戦争後期には演劇界の主流になる。
*
・社団法人日本映画社が発足、文化映画協会、日本ニュース社を吸収。
*
・農地開発営団、設立
*
・パリ、外国系ユダヤ人の逮捕始る。
*
・アメリカ、ニューギニアに航空基地建設準備を進める。
アメリカ・イギリスと、中国・蘭印・オーストラリア・フィリピソなどとの軍事協力関係が着々と進展。
*
・イギリス軍、クレタ島奪回作戦。~6月
*
5月1日
・海事審議会、設置。
*
・トヨタ自動車、独立。
*
・放送技術研究所、週1回のテレビ実験放送を開始。
*
・ドイツ、国内ユダヤ人の公的交通機関利用禁止。
*
・ドイツ軍、トブルク攻撃。撃退される。
*
・ドイツ軍、リヴァプールを空襲。~9日
*
・オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」公開。
*
5月2日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、ドイツのソビエト攻撃可能性極めて高い。19、30日にも。
ある時、DNB(ドイツ通信社)総裁・ナチ党機関誌編集長ウィルヘルム・フォン・リトゲンが、ナチのある筋よりゾルゲの前歴に疑問ありとの情報を伝えられ、ドイツ中央保安部海外情報部長シェーレンベルクに調査を依頼。
調査結果は、異常はないが、保安警察長官ラインハルト・ハイトリッヒの意見に従いゾルゲを監視下におくこととする。
丁度この頃、ハイトリッヒ配下のゲシュタポ大佐ヨゼフ・マイジンガーがワルシャワにおける残忍な行動が原因で東京に左遷されることになり、このマイジンガーにゾルゲの監視の任務を与える。
この月、マイジンガー来日。
ゾルゲが怪しいと警視庁外事課に通報、外事課警部補大橋秀雄(逮捕後の取調べを担当)らが1~2ヶ月内偵。
クラウゼン、ヴーケリッチ、尾崎との関係もつかめず、おかしいところが見つからず。
マイジンガーもゾルゲを安心と評価するようになる。
*
5月2日
・イラク、ラシュッド・ガイラニの反英反乱。英軍の撤退を要求。
*
5月3日
・この年の重慶空襲、始まる。
「第二十二航空戦隊は、五月三日の重慶攻撃を皮切りに七月中旬まで二二次にわたり重慶攻撃を実施した。
しかるところ、中央部及び支那方面艦隊は更に大航空兵力を投入して重慶方面の抗戦力を徹底的にたたく作戦を開始した。
これが『一〇二号作戦』と呼称されるもので、日米間の国交が険悪化しつつある折から、兵力に余裕のあるうちに後顧の憂いを絶っておこうとするのが目的であった。
このため第十一航空艦隊の兵力の大部(陸攻約一八〇機)が漢口及び孝感の基地に進出して支那方面艦隊の指揮下に入り、七月二十七日から八月三十一日まで重慶及び成都を中心とする四川省要衝の徹底的航空攻撃を実施した。
この作戦には陸軍の爆撃隊も協同した。
航空攻撃はほとんど連日実施され、九六式陸攻に替わる新鋭陸上攻撃機『一式陸攻』も初登場した。日本海軍の陸上攻撃機がほとんど全機この作戦のために動員されたため、その効果は極めて大きく、第三国情報は盛んに重慶の被害の大きいことを報じた」
(公刊戦史(防衛庁戦史室刊)戦史叢書「中国方面海軍作戦(2)」「第四重 昭和一六年の海軍作戦」)。
*
5月3日
・大本営政府連絡会議、松岡外相、「日米諒解案」を大幅に修正させ、松岡修正案ができる。
三国同盟第3条による軍事援助義務(米の対独参戦は自動的に日本の対米戦争となる)を確認し、日華和平条件も全部削り、南方資源獲得のため武力に訴えないという条項も削除。
そして松岡は、この修正秦をアメリカに提出する前に、まず日米中立条約提案を主張、外相一任ということになって、この旨の訓令が発せられ、松岡外相の口上書も打電。
*
5月3日
・重要機械製造事業法公布
*
5月3日
・日本天主公教教団設立認可
*
5月3日
・大塚令三「支那共産党史」、湯浅正一「中国の各種記念日の沿革概説」、ともに共産主義の宣伝となるとして発禁
*
5月3日
・ユーゴスラビア領スロベニア地方、イタリアに併合。
*
5月5日
・日本出版配給株式会社(日配)、発足。雑誌・書籍取次の包括的な一元機関。企画~配給までの国家統制。
政府が役員任免を押さえる所謂「国策機関」。
「日配」成立は、出版物配給ルートを再編成し、その中枢を国家権力が握ったということを意味する。
*
5月5日
・拓南塾開塾(現東京・小平市)。塾長宍戸好信海軍中将。南方資源開発人材育成。
*
5月5日
・イギリス軍、北アフリカ部隊への護送船団による補給作戦)。
護送船団、アレクサンドリアに戦車を輸送。~9日
*
5月5日
・イギリス軍、イタリア軍占領下のエチオピアを解放。
*
5月6日
・仏領インドシナの日仏居住航海条約、日本・インドシナ関税制度日仏協定、貿易と貿易決裁様式に関する日仏協定に調印
*
5月6日
・大日本産業報国会、日本労働科学研究所の統合を決定
*
5月6日
・米、ルーズベルト大統領、武器貸与法の規定に従い、中国防衛が米国防衛にとって緊要である旨を声明。
中国に対する武器貸与援助は1941年に開始され、特に中国非占領地域への唯一の物資輸送路であったビルマ公路からの輸送改善に重点が置かれた。
・・・蒋介石の要請により、ビルマ公路を調査し、その輸送量拡充の為の勧告を行う目的で、米国の輸送専門家が1941年6月中国へ派遣された。
・・・1941年初め米国政府は米国人の義勇飛行士によって操縦され、米国人の地上勤務員によって整備される米国戦闘機が、中国軍に加わって対日戦に参加することを許可した。
・・・さらに米国は強力かつ優秀な装備をもつ中国空軍を編成する計画を実施することに着手した。
1941年5月、クラゲット将軍を団長とする航空使節団が、実情調査のため中国に派遣された(「一世紀間の米華関係」)。
*
5月6日
・仏、アンドレ・ジッド、ヴィシーよりもパリで「ドイツに服従している方が損害も少なく堕落の度も少なく…」(日記)
*
5月6日
・スターリン書記長、ソ連人民委員会議議長(首相)就任。モロトフ副首相(兼外相)は留任。
*
5月6日
・イギリス軍部隊、イラク軍を撃破し、バグダードに前進 7 ・第1軍、中原会戦(「百号作戦」)(5月7日~6月15日)。
*
5月7日
・医療品及衛生材料生産配給統制規則公布
*
5月7日
・イギリス、捕獲されたドイツ艦船より、機密「エニグマ」暗号書を入手
*
5月7日
・野村大使、松岡外相指示に従いハル国務長官に中立条約を持ち出すが、ハルは問題とせず。
口上書は手交せず。
松岡外相からハル国務長官宛て口上書には、独伊の指導者は勝利を確信している、米国の参戦は戦争を長びかせ文明破壊をもたらすだけ、日本は同盟国の立場を危くするようなことは出来ない、というもの。
野村が、ハルに「松岡から電報が来ているが、これらはいろいろよくないことも書いてある。おわたししますか」と聞く。
ハルは、よくない事が書いてあるのだったら、そちらにとっておいてもらって結構だと答える(ハル「回想録」)。
米は暗号解読技術「マジック」により日本からの通信は全て解読済み。
*
5月8日
・大本営政府連絡会議、松岡外相、米国参戦阻止のためには英国を降伏させること、その為にはシンガポール攻略が緊要であると主張。
同日、参内、奏上。
「米国参戦の場合は、日本は当然独伊側に立って、シンガポールを撃たねはならぬ。
又米国が参戦すれば長期戦となって、独ソ衝突の危険があるやも知れず、その場合は(日本は)、中立条約を棄てドイツ側に立ち、イルクーツク辺りまで行かねはならぬ。
そういう事態になれば、日米国交調整も総て画餅に帰する。
何れにせよ米国問題に専念するの余り、独伊に対し信義に悖る様なことがあっては、骸骨を乞うほかない」(矢部貞治「近衛文麿」)。
*
5月8日
・夕刻、東條陸相・武藤軍務局長、米国参戦の場合の日本の態度についての検討を軍務課高級課員石井秋穂に命じる。
2日後の石井の報告は、日本の軍事力から見て三国同盟第3条に拘泥することなく情勢を傍観するのが良いとの内容。
東條・武藤共にこれに同感。
*
5月8日
・初の肉なし日。食堂・肉屋の肉不売。
*
5月9日
・仏印・タイ間平和条約調印(東京)。
仏、バッタンバン地域の一部を割譲。保障及政治的了解に関する日仏間および日・タイ間議定書調印(東京)。
*
5月9日
・ロバート・スミス「アメリカより見た日米の衝突」、日本経済崩壊の危機に瀕するが如き叙述により発禁
*
5月9日
・イギリス軍、捕獲されたUボートより「ヒュードラ」海軍暗号入手
*
5月10日
・ヒトラーの片腕・副総統ルドルフ・ヘス、メッサー・シュミット110Dでアウグスブルクを飛び立ち、スコットランドにパラシュート降下。
*
5月10日
・ドイツ軍、ロンドンに最大の空襲。
*
5月10日
・ミハイロヴィチ・ユーゴ前参謀総長が率いるチェトニク・パルチザン、対ドイツ抵抗開始。
*
5月10日
・パックボの第8回党中央委員会、ベトナム独立同盟会(ベトミン)結成を決議。
19日 結成。指導者はホー・チ・ミン。
*
*
*
この月
・中国共産党、「精兵簡政」、「三風整頓」(整風)運動開始。高級幹部の間に始まる。
*
・広津和郎・間宮茂輔、満州旅行。途中、平壌で金史良を訪問。
*
・東條陸相、軍事調査部を大臣直属に改め、正規の組織図から外し実態を不明にし、陸軍以外の政策集団の動きを把握する機関に変える。
部長には三国直福(一夕会系、武藤と同期、陸軍省新聞班の経歴)。松岡の悪評が多い。
*
・横須賀、海軍航空技術廠の工員便所内に、「天皇機関説賛成、共産党万才、軍部横暴」などの落書。
少年工員(19)は、海軍軍法会議において少年法により不定期刑短期3ヶ月乃至10ヶ月の懲役。
*
・この月発行の司法省刑事局「最近に於ける左翼学生運動」思想研究資料特集第85号。
37(昭和12)~39年(昭和14)の学校教員の思想犯による処罰、大学21名(うち起訴9名)、高校1名(1名)専門学校5名(2名)、中学校16名(5名)。
37年~40年の左翼学生検挙者は525名、起訴者67名。
1925年以来の合計数は検挙5,377名、起訴454名。
*
・室生犀星の描く世相(「中央公論」)。
「自動車に乗ろうとして交渉すると運転手は頭を振るだけで物を言わない。
商店で物を買おうとしても要らなければ止せという。そしてすぐ商品を片づけて了う。
・・・駅員は苦り切って切符をひきたくる。
・・・気をつけていると日常語が凡てを通じて粗暴になった。
人と人とが知らない間柄ではずいぶん冷淡薄情になった」。
*
・金史良「泥棒」(「文芸」)
・広津和郎「歴史と歴史との間」(「改造」)
・志賀直哉「馬と木賊」
・アラン「芸術論集」(桑原武夫訳)
・稲垣達郎「作家の肖像」(「大観堂」)
・小林秀雄(39)、「第一回文芸推薦評論審査後記」(「文芸」)。林房雄と対談「道徳を論ず」(「文学界」)。
・太宰治(32)、「東京八景」短編集(実業之日本社刊)
*
・日本移動演劇連盟、結成。
当初松竹・東宝など7団体、42年「瑞穂劇団」などが加盟。
後に、「文学座」「文化座」「前進座」「井上演劇道場」なども参加。
43年3月社団法人に組織化。
観客動員数:42年222万、43年298万、44年458万。
苦楽座は「桜隊」、俳優座は「芙蓉隊」として移動演劇隊に編成替えされ、文化座、文学座、芸文座なども移動演劇に移っていく。
「桜隊」は広島で被爆、丸山定夫ら全員が爆死、
「上海事変」の呉淞クリークで友田恭助戦死。
「移動演劇」運動は、戦力増強のために内務省の「演劇の浄化と統制」方針にそい、大政翼賛会文化部の提唱を受け、情報局の指導・援助の下に行われたが、全国の農村・漁村・鉱山・工場・学校など広範囲にわたり尨大な観客層を集めて展開、戦争後期には演劇界の主流になる。
*
・社団法人日本映画社が発足、文化映画協会、日本ニュース社を吸収。
*
・農地開発営団、設立
*
・パリ、外国系ユダヤ人の逮捕始る。
*
・アメリカ、ニューギニアに航空基地建設準備を進める。
アメリカ・イギリスと、中国・蘭印・オーストラリア・フィリピソなどとの軍事協力関係が着々と進展。
*
・イギリス軍、クレタ島奪回作戦。~6月
*
5月1日
・海事審議会、設置。
*
・トヨタ自動車、独立。
*
・放送技術研究所、週1回のテレビ実験放送を開始。
*
・ドイツ、国内ユダヤ人の公的交通機関利用禁止。
*
・ドイツ軍、トブルク攻撃。撃退される。
*
・ドイツ軍、リヴァプールを空襲。~9日
*
・オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」公開。
*
5月2日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、ドイツのソビエト攻撃可能性極めて高い。19、30日にも。
ある時、DNB(ドイツ通信社)総裁・ナチ党機関誌編集長ウィルヘルム・フォン・リトゲンが、ナチのある筋よりゾルゲの前歴に疑問ありとの情報を伝えられ、ドイツ中央保安部海外情報部長シェーレンベルクに調査を依頼。
調査結果は、異常はないが、保安警察長官ラインハルト・ハイトリッヒの意見に従いゾルゲを監視下におくこととする。
丁度この頃、ハイトリッヒ配下のゲシュタポ大佐ヨゼフ・マイジンガーがワルシャワにおける残忍な行動が原因で東京に左遷されることになり、このマイジンガーにゾルゲの監視の任務を与える。
この月、マイジンガー来日。
ゾルゲが怪しいと警視庁外事課に通報、外事課警部補大橋秀雄(逮捕後の取調べを担当)らが1~2ヶ月内偵。
クラウゼン、ヴーケリッチ、尾崎との関係もつかめず、おかしいところが見つからず。
マイジンガーもゾルゲを安心と評価するようになる。
*
5月2日
・イラク、ラシュッド・ガイラニの反英反乱。英軍の撤退を要求。
*
5月3日
・この年の重慶空襲、始まる。
「第二十二航空戦隊は、五月三日の重慶攻撃を皮切りに七月中旬まで二二次にわたり重慶攻撃を実施した。
しかるところ、中央部及び支那方面艦隊は更に大航空兵力を投入して重慶方面の抗戦力を徹底的にたたく作戦を開始した。
これが『一〇二号作戦』と呼称されるもので、日米間の国交が険悪化しつつある折から、兵力に余裕のあるうちに後顧の憂いを絶っておこうとするのが目的であった。
このため第十一航空艦隊の兵力の大部(陸攻約一八〇機)が漢口及び孝感の基地に進出して支那方面艦隊の指揮下に入り、七月二十七日から八月三十一日まで重慶及び成都を中心とする四川省要衝の徹底的航空攻撃を実施した。
この作戦には陸軍の爆撃隊も協同した。
航空攻撃はほとんど連日実施され、九六式陸攻に替わる新鋭陸上攻撃機『一式陸攻』も初登場した。日本海軍の陸上攻撃機がほとんど全機この作戦のために動員されたため、その効果は極めて大きく、第三国情報は盛んに重慶の被害の大きいことを報じた」
(公刊戦史(防衛庁戦史室刊)戦史叢書「中国方面海軍作戦(2)」「第四重 昭和一六年の海軍作戦」)。
*
5月3日
・大本営政府連絡会議、松岡外相、「日米諒解案」を大幅に修正させ、松岡修正案ができる。
三国同盟第3条による軍事援助義務(米の対独参戦は自動的に日本の対米戦争となる)を確認し、日華和平条件も全部削り、南方資源獲得のため武力に訴えないという条項も削除。
そして松岡は、この修正秦をアメリカに提出する前に、まず日米中立条約提案を主張、外相一任ということになって、この旨の訓令が発せられ、松岡外相の口上書も打電。
*
5月3日
・重要機械製造事業法公布
*
5月3日
・日本天主公教教団設立認可
*
5月3日
・大塚令三「支那共産党史」、湯浅正一「中国の各種記念日の沿革概説」、ともに共産主義の宣伝となるとして発禁
*
5月3日
・ユーゴスラビア領スロベニア地方、イタリアに併合。
*
5月5日
・日本出版配給株式会社(日配)、発足。雑誌・書籍取次の包括的な一元機関。企画~配給までの国家統制。
政府が役員任免を押さえる所謂「国策機関」。
「日配」成立は、出版物配給ルートを再編成し、その中枢を国家権力が握ったということを意味する。
*
5月5日
・拓南塾開塾(現東京・小平市)。塾長宍戸好信海軍中将。南方資源開発人材育成。
*
5月5日
・イギリス軍、北アフリカ部隊への護送船団による補給作戦)。
護送船団、アレクサンドリアに戦車を輸送。~9日
*
5月5日
・イギリス軍、イタリア軍占領下のエチオピアを解放。
*
5月6日
・仏領インドシナの日仏居住航海条約、日本・インドシナ関税制度日仏協定、貿易と貿易決裁様式に関する日仏協定に調印
*
5月6日
・大日本産業報国会、日本労働科学研究所の統合を決定
*
5月6日
・米、ルーズベルト大統領、武器貸与法の規定に従い、中国防衛が米国防衛にとって緊要である旨を声明。
中国に対する武器貸与援助は1941年に開始され、特に中国非占領地域への唯一の物資輸送路であったビルマ公路からの輸送改善に重点が置かれた。
・・・蒋介石の要請により、ビルマ公路を調査し、その輸送量拡充の為の勧告を行う目的で、米国の輸送専門家が1941年6月中国へ派遣された。
・・・1941年初め米国政府は米国人の義勇飛行士によって操縦され、米国人の地上勤務員によって整備される米国戦闘機が、中国軍に加わって対日戦に参加することを許可した。
・・・さらに米国は強力かつ優秀な装備をもつ中国空軍を編成する計画を実施することに着手した。
1941年5月、クラゲット将軍を団長とする航空使節団が、実情調査のため中国に派遣された(「一世紀間の米華関係」)。
*
5月6日
・仏、アンドレ・ジッド、ヴィシーよりもパリで「ドイツに服従している方が損害も少なく堕落の度も少なく…」(日記)
*
5月6日
・スターリン書記長、ソ連人民委員会議議長(首相)就任。モロトフ副首相(兼外相)は留任。
*
5月6日
・イギリス軍部隊、イラク軍を撃破し、バグダードに前進 7 ・第1軍、中原会戦(「百号作戦」)(5月7日~6月15日)。
*
5月7日
・医療品及衛生材料生産配給統制規則公布
*
5月7日
・イギリス、捕獲されたドイツ艦船より、機密「エニグマ」暗号書を入手
*
5月7日
・野村大使、松岡外相指示に従いハル国務長官に中立条約を持ち出すが、ハルは問題とせず。
口上書は手交せず。
松岡外相からハル国務長官宛て口上書には、独伊の指導者は勝利を確信している、米国の参戦は戦争を長びかせ文明破壊をもたらすだけ、日本は同盟国の立場を危くするようなことは出来ない、というもの。
野村が、ハルに「松岡から電報が来ているが、これらはいろいろよくないことも書いてある。おわたししますか」と聞く。
ハルは、よくない事が書いてあるのだったら、そちらにとっておいてもらって結構だと答える(ハル「回想録」)。
米は暗号解読技術「マジック」により日本からの通信は全て解読済み。
*
5月8日
・大本営政府連絡会議、松岡外相、米国参戦阻止のためには英国を降伏させること、その為にはシンガポール攻略が緊要であると主張。
同日、参内、奏上。
「米国参戦の場合は、日本は当然独伊側に立って、シンガポールを撃たねはならぬ。
又米国が参戦すれば長期戦となって、独ソ衝突の危険があるやも知れず、その場合は(日本は)、中立条約を棄てドイツ側に立ち、イルクーツク辺りまで行かねはならぬ。
そういう事態になれば、日米国交調整も総て画餅に帰する。
何れにせよ米国問題に専念するの余り、独伊に対し信義に悖る様なことがあっては、骸骨を乞うほかない」(矢部貞治「近衛文麿」)。
*
5月8日
・夕刻、東條陸相・武藤軍務局長、米国参戦の場合の日本の態度についての検討を軍務課高級課員石井秋穂に命じる。
2日後の石井の報告は、日本の軍事力から見て三国同盟第3条に拘泥することなく情勢を傍観するのが良いとの内容。
東條・武藤共にこれに同感。
*
5月8日
・初の肉なし日。食堂・肉屋の肉不売。
*
5月9日
・仏印・タイ間平和条約調印(東京)。
仏、バッタンバン地域の一部を割譲。保障及政治的了解に関する日仏間および日・タイ間議定書調印(東京)。
*
5月9日
・ロバート・スミス「アメリカより見た日米の衝突」、日本経済崩壊の危機に瀕するが如き叙述により発禁
*
5月9日
・イギリス軍、捕獲されたUボートより「ヒュードラ」海軍暗号入手
*
5月10日
・ヒトラーの片腕・副総統ルドルフ・ヘス、メッサー・シュミット110Dでアウグスブルクを飛び立ち、スコットランドにパラシュート降下。
*
5月10日
・ドイツ軍、ロンドンに最大の空襲。
*
5月10日
・ミハイロヴィチ・ユーゴ前参謀総長が率いるチェトニク・パルチザン、対ドイツ抵抗開始。
*
5月10日
・パックボの第8回党中央委員会、ベトナム独立同盟会(ベトミン)結成を決議。
19日 結成。指導者はホー・チ・ミン。
*
*
*
2011年6月28日火曜日
昭和16年(1941)4月17日~30日 野村駐米大使から「日米了解案」届く 松岡外相はこれに反対 ギリシャ占領
別途進めています永井荷風「断腸亭日乗の昭和16年と併走させる積りで始めた年表「昭和16年記」が止まっていました。
再開します。
*
昭和16年(1941)4月17日
・大本営、「対南施策要綱」概定。仏印・タイとの軍事的結合を意図。
*
・ユーゴスラビア、ドイツに降伏。国王ペタル2世と政府閣僚、亡命。
*
・ハル米国務長官、蘭印の現状維持を声明。対日警告。
*
4月18日
・野村駐米大使からの「日米了解案」受信。
夜、大本営政府連絡会議、「諒解案」受諾に傾く。
この諒解案は、岩畔・井川・ドラウト3人が試案を作り、ハルが手直しして出来上がったと日本に伝えられる。
この案では、「(一)日米両国ノ抱懐スル国際観念並ニ国家観念」~「(七)太平洋ノ政治的安定ニ関スル両国政府ノ方針」の7点で合意に達したといい、中心はアメリカの満州国承認、支那事変解決の仲介にあり、末尾では、日米の代表者の会談をホノルルで開き、近衛とルーズベルトが話し合ってもいいとさえ言う。
野村大使の請訓電を補足するこの日着の岩畔電は、「第二次試案即チ外務電所報ノモノハ「ルーズヴェルト」ノ同意ヲ得アリ寧ロ確実ナルモ若シ日本政府ニ於テ蹴ラレタル場合米国ハ立場ヲ失フコトトナルヲ以テ本日(四月十六日)ノ会談ニ際シ「ハル」ヨリ野村大使ニ対シ先ヅ東京政府ノ意見ヲ聴カレ度トノ提案アリタル次第・・・」とある。
これを読むと米国側提案と判断できる。
午前、軍務課長佐藤賢了は、軍務局長武藤章に呼ばれ、野村から送られた「日米諒解案」を手渡され、これを読み、「それは困惑したというよりは、若い娘が豪華なファッションでも見たような、そしてまた眉にツバでもつけたいように変に交錯した気持(だった)」を覚える。
佐藤・武藤・石井秋穂(日米交渉を担当する軍務課高級課員)も、日米諒解案の内容に興奮し東條の許に飛ぶ。
東條は、目を細め、「アメリカの提案は支那事変処理が根本第一義であり、したがってこの機会を外してはならぬ、断じて利用しなければならぬ」と言う。
午後の陸軍省軍務局での打ち合わせ。
米側の諒解案を土台にし、日米交渉の方向を3点に絞る。
①米国は援蒋政策を捨て日支和平の仲介をする、
②日米両国は欧州戦争には参戦しない、なるべくなら両国協力してその調停を行なう、
③米国は対日経済圧迫を解除する。
午後8時、大本営政府連絡会議で諒解案の取り扱いを検討。
会議の空気は和やかで、東條と武藤の笑顔が目立つ。
東條は得意気に発言を続け、「この案ではじめるのは結構だが、ドイツとの信義から三国同盟に抵触しないようにすべきだ」とか、「アメリカと対峙する軍事的余裕はいまはない」、と出席者たちに具体的に説明。
すぐに野村に「原則上同意」電報を打とうとの声もあがるが、外交責任者の署名なしにはできないということになり、欧州訪問中の松岡外相帰国を待つ事になる。
「木戸幸一日記」では:
①(近衛と木戸内府との話し合い)
「独伊に対し信義を失はず、又我国の国是たる大東亜共栄圏の新秩序建設に抵触せざる様、充分研究工夫の上、是が実現に努力するを可とすとの結論に一致す」(4月19日)。
②(天皇の木戸への発言)
「米国大統領があれ迄突込みたる路を為したるは寧ろ意外とも云ふべきが、かう云ふ風になって来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる。総ては忍耐だね、我慢だね」(4月21日)。
*
4月19日
・今中次麿「政治学」発禁。
*
・鈴木庫三、岩波書店に電話で安倍能成「時代と文化」を例にとって岩波書店の出版傾向を罵倒。
*
・トゥブルク救援のイギリス特別攻撃部隊、撃退される。
*
・アメリカ、イギリス、オランダ、マニラで軍事協定を結ぶ。
*
4月20日
・南洋群島神社規則公布
*
・ドイツ軍「マーキュリー」作戦(空挺部隊によるクレタ島占領作戦)。
この日、ドイツ空軍による上空制圧と爆撃に続いて落下傘部隊が降下。
落下傘部隊の損害は甚大であるが連合軍の混乱はそれ以上で、約10日間の激戦の末、ギリシア政府・国王は再び海へと退却。
ドイツ落下傘兵死者・行方不明4,500。
連合軍の半分以上が戦死・捕虜、沈没:巡洋艦3・駆逐艦7、損傷:空母1・戦艦3・巡洋艦7・駆逐艦4。
ドイツ海軍は東地中海には勢力がなく、イタリア海軍は3月28日「マタパン岬沖海戦」で敗北。
落下傘・グライダー降下兵総勢2万2,750、援護航空部隊は戦闘機180・爆撃機280・急降下爆撃機150。
対するクレタ島連合軍はイギリス軍約3万・戦車9、ギリシア軍は定数に満たない2個師団、航空機35のみ。しかも、空からの降下攻撃は想定外。
21日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対ドイツ降伏。国王ゲオルギオス2世及び閣僚、一部のギリシャ軍、中東方面へ脱出。
22日、ギリシャ軍、テッサロニキでドイツ軍に降伏。イギリス軍撤退開始
23日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対イタリア降伏。
24日、ドイツ軍、テルモピレーの連合軍陣地を攻撃。連合軍は奮戦、ドイツ戦車に打撃を与えるが、横から山岳師団の攻撃を受けて後退。
26日夕方、ドイツ軍、テーベの防衛線を突破。
同日、ペロポネソス半島と本土をつなぐコリント地峡に落下傘部隊が降下、これを占領。アテネにもペロポネソス半島にもドイツ兵が充満。
27日、ドイツ軍、アテネ入城。】アテネ、ドイツ軍に占領される。
イギリス軍、ギリシャ本土からクレタ島に撤収。
ギリシア全土はドイツ・イタリア・ブルガリア軍の占領下におちる。
ドイツは西トラキアのトルコ国境地帯、アテネ、テッサロニキ、クレタ島と他の島いくつか、
ブルガリアは西トラキアの大部分とマケドニアの一部、
イタリアはそれ以外の地域を占領。
ブルガリアはユーゴスラヴィアからマケドニアを奪い、前世紀以来の野心を満足させる。但し、占領軍の実効支配は都市部のみ、地方の山岳地帯では農民達がレジスタンスの準備を整える。
ドイツの指導者たちは物資・食糧収奪を容赦なく行い、1941年~42年の冬、大飢饉がギリシア人約10万人を死に至らしめる。
15世紀以来テッサロニキ居住のユダヤ人5万人ほぼ全ては強制収容所送りとなり多くは帰還せず。
*
4月22日
・満州国政府と朝鮮総督府、「満鮮一体化」を宣言。
*
・夕方、松岡洋右外相、帰国。
夜9時20分、大本営政府連合会議、松岡は日米諒解案に慎重な態度を表明し、11時に退席。
その後、会議は続き、交渉促進を申し合わせる。
松岡はその後2週間(26日日比谷公会堂での帰朝報告会後)、私邸に籠り、職員を呼びつけては執務。
近衛・陸海軍軍務局長(武藤・岡)は何度も松岡私邸を訪れ、諒解案検討を説得するが、松岡は応じず。陸海軍首脳からは松岡更迭案が出始める。
この日、松岡は立川飛行場に近衛と大橋忠一次官の出迎えをうける。
東京への自動車内で、野村大使からの請訓電が自分の手配ルート(駐ソ米大使スタインハート経由)のものでないと知り、「アメリカの常套手段に乗せられて喜ぶとは馬鹿だ」と不機嫌になり、ドイツの諒解が必要、ドイツと相互理解の基盤のある松岡の工作による対米交渉以外は問題であると主張。
25日、松岡のシンガポール攻撃発言に対し、近衛首相・東條陸相・及川海相は取り合ううべきでないとの結論で一致。
「現在は支那事変処理が根本義で、アメリカの提案も日本側のこの要望に沿っている。だからこの機を逃すべきではない。ヒトラーにふり回されたら、すべて台なしになってしまう」という東條の見解に、近衛・及川は諒解。
*
・シンガポール、米・英・蘭3国軍事専門家会議開催。~26日。
*
4月25日
・中米、中英平衡基金協定調印。米5千万ドル、英5百万ポンドの対中国法幣安定資金借款成立
*
4月30日
・ドイツ軍、トブルクを攻撃、失敗(41/ 4/30~5/4)
*
・イラク軍部隊、ハバニヤの英空軍基地を包囲
*
月末
・連合艦隊先任参謀黒島亀人大佐、山本司令長官命により真珠湾攻撃黒島案を軍令部に説明。
第1部長福留繁少将・第1課長富岡定俊大佐・航空主任参謀三代辰吉中佐、共に反対。
*
*
再開します。
*
昭和16年(1941)4月17日
・大本営、「対南施策要綱」概定。仏印・タイとの軍事的結合を意図。
*
・ユーゴスラビア、ドイツに降伏。国王ペタル2世と政府閣僚、亡命。
*
・ハル米国務長官、蘭印の現状維持を声明。対日警告。
*
4月18日
・野村駐米大使からの「日米了解案」受信。
夜、大本営政府連絡会議、「諒解案」受諾に傾く。
この諒解案は、岩畔・井川・ドラウト3人が試案を作り、ハルが手直しして出来上がったと日本に伝えられる。
この案では、「(一)日米両国ノ抱懐スル国際観念並ニ国家観念」~「(七)太平洋ノ政治的安定ニ関スル両国政府ノ方針」の7点で合意に達したといい、中心はアメリカの満州国承認、支那事変解決の仲介にあり、末尾では、日米の代表者の会談をホノルルで開き、近衛とルーズベルトが話し合ってもいいとさえ言う。
野村大使の請訓電を補足するこの日着の岩畔電は、「第二次試案即チ外務電所報ノモノハ「ルーズヴェルト」ノ同意ヲ得アリ寧ロ確実ナルモ若シ日本政府ニ於テ蹴ラレタル場合米国ハ立場ヲ失フコトトナルヲ以テ本日(四月十六日)ノ会談ニ際シ「ハル」ヨリ野村大使ニ対シ先ヅ東京政府ノ意見ヲ聴カレ度トノ提案アリタル次第・・・」とある。
これを読むと米国側提案と判断できる。
午前、軍務課長佐藤賢了は、軍務局長武藤章に呼ばれ、野村から送られた「日米諒解案」を手渡され、これを読み、「それは困惑したというよりは、若い娘が豪華なファッションでも見たような、そしてまた眉にツバでもつけたいように変に交錯した気持(だった)」を覚える。
佐藤・武藤・石井秋穂(日米交渉を担当する軍務課高級課員)も、日米諒解案の内容に興奮し東條の許に飛ぶ。
東條は、目を細め、「アメリカの提案は支那事変処理が根本第一義であり、したがってこの機会を外してはならぬ、断じて利用しなければならぬ」と言う。
午後の陸軍省軍務局での打ち合わせ。
米側の諒解案を土台にし、日米交渉の方向を3点に絞る。
①米国は援蒋政策を捨て日支和平の仲介をする、
②日米両国は欧州戦争には参戦しない、なるべくなら両国協力してその調停を行なう、
③米国は対日経済圧迫を解除する。
午後8時、大本営政府連絡会議で諒解案の取り扱いを検討。
会議の空気は和やかで、東條と武藤の笑顔が目立つ。
東條は得意気に発言を続け、「この案ではじめるのは結構だが、ドイツとの信義から三国同盟に抵触しないようにすべきだ」とか、「アメリカと対峙する軍事的余裕はいまはない」、と出席者たちに具体的に説明。
すぐに野村に「原則上同意」電報を打とうとの声もあがるが、外交責任者の署名なしにはできないということになり、欧州訪問中の松岡外相帰国を待つ事になる。
「木戸幸一日記」では:
①(近衛と木戸内府との話し合い)
「独伊に対し信義を失はず、又我国の国是たる大東亜共栄圏の新秩序建設に抵触せざる様、充分研究工夫の上、是が実現に努力するを可とすとの結論に一致す」(4月19日)。
②(天皇の木戸への発言)
「米国大統領があれ迄突込みたる路を為したるは寧ろ意外とも云ふべきが、かう云ふ風になって来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる。総ては忍耐だね、我慢だね」(4月21日)。
*
4月19日
・今中次麿「政治学」発禁。
*
・鈴木庫三、岩波書店に電話で安倍能成「時代と文化」を例にとって岩波書店の出版傾向を罵倒。
*
・トゥブルク救援のイギリス特別攻撃部隊、撃退される。
*
・アメリカ、イギリス、オランダ、マニラで軍事協定を結ぶ。
*
4月20日
・南洋群島神社規則公布
*
・ドイツ軍「マーキュリー」作戦(空挺部隊によるクレタ島占領作戦)。
この日、ドイツ空軍による上空制圧と爆撃に続いて落下傘部隊が降下。
落下傘部隊の損害は甚大であるが連合軍の混乱はそれ以上で、約10日間の激戦の末、ギリシア政府・国王は再び海へと退却。
ドイツ落下傘兵死者・行方不明4,500。
連合軍の半分以上が戦死・捕虜、沈没:巡洋艦3・駆逐艦7、損傷:空母1・戦艦3・巡洋艦7・駆逐艦4。
ドイツ海軍は東地中海には勢力がなく、イタリア海軍は3月28日「マタパン岬沖海戦」で敗北。
落下傘・グライダー降下兵総勢2万2,750、援護航空部隊は戦闘機180・爆撃機280・急降下爆撃機150。
対するクレタ島連合軍はイギリス軍約3万・戦車9、ギリシア軍は定数に満たない2個師団、航空機35のみ。しかも、空からの降下攻撃は想定外。
21日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対ドイツ降伏。国王ゲオルギオス2世及び閣僚、一部のギリシャ軍、中東方面へ脱出。
22日、ギリシャ軍、テッサロニキでドイツ軍に降伏。イギリス軍撤退開始
23日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対イタリア降伏。
24日、ドイツ軍、テルモピレーの連合軍陣地を攻撃。連合軍は奮戦、ドイツ戦車に打撃を与えるが、横から山岳師団の攻撃を受けて後退。
26日夕方、ドイツ軍、テーベの防衛線を突破。
同日、ペロポネソス半島と本土をつなぐコリント地峡に落下傘部隊が降下、これを占領。アテネにもペロポネソス半島にもドイツ兵が充満。
27日、ドイツ軍、アテネ入城。】アテネ、ドイツ軍に占領される。
イギリス軍、ギリシャ本土からクレタ島に撤収。
ギリシア全土はドイツ・イタリア・ブルガリア軍の占領下におちる。
ドイツは西トラキアのトルコ国境地帯、アテネ、テッサロニキ、クレタ島と他の島いくつか、
ブルガリアは西トラキアの大部分とマケドニアの一部、
イタリアはそれ以外の地域を占領。
ブルガリアはユーゴスラヴィアからマケドニアを奪い、前世紀以来の野心を満足させる。但し、占領軍の実効支配は都市部のみ、地方の山岳地帯では農民達がレジスタンスの準備を整える。
ドイツの指導者たちは物資・食糧収奪を容赦なく行い、1941年~42年の冬、大飢饉がギリシア人約10万人を死に至らしめる。
15世紀以来テッサロニキ居住のユダヤ人5万人ほぼ全ては強制収容所送りとなり多くは帰還せず。
*
4月22日
・満州国政府と朝鮮総督府、「満鮮一体化」を宣言。
*
・夕方、松岡洋右外相、帰国。
夜9時20分、大本営政府連合会議、松岡は日米諒解案に慎重な態度を表明し、11時に退席。
その後、会議は続き、交渉促進を申し合わせる。
松岡はその後2週間(26日日比谷公会堂での帰朝報告会後)、私邸に籠り、職員を呼びつけては執務。
近衛・陸海軍軍務局長(武藤・岡)は何度も松岡私邸を訪れ、諒解案検討を説得するが、松岡は応じず。陸海軍首脳からは松岡更迭案が出始める。
この日、松岡は立川飛行場に近衛と大橋忠一次官の出迎えをうける。
東京への自動車内で、野村大使からの請訓電が自分の手配ルート(駐ソ米大使スタインハート経由)のものでないと知り、「アメリカの常套手段に乗せられて喜ぶとは馬鹿だ」と不機嫌になり、ドイツの諒解が必要、ドイツと相互理解の基盤のある松岡の工作による対米交渉以外は問題であると主張。
25日、松岡のシンガポール攻撃発言に対し、近衛首相・東條陸相・及川海相は取り合ううべきでないとの結論で一致。
「現在は支那事変処理が根本義で、アメリカの提案も日本側のこの要望に沿っている。だからこの機を逃すべきではない。ヒトラーにふり回されたら、すべて台なしになってしまう」という東條の見解に、近衛・及川は諒解。
*
・シンガポール、米・英・蘭3国軍事専門家会議開催。~26日。
*
4月25日
・中米、中英平衡基金協定調印。米5千万ドル、英5百万ポンドの対中国法幣安定資金借款成立
*
4月30日
・ドイツ軍、トブルクを攻撃、失敗(41/ 4/30~5/4)
*
・イラク軍部隊、ハバニヤの英空軍基地を包囲
*
月末
・連合艦隊先任参謀黒島亀人大佐、山本司令長官命により真珠湾攻撃黒島案を軍令部に説明。
第1部長福留繁少将・第1課長富岡定俊大佐・航空主任参謀三代辰吉中佐、共に反対。
*
*
2011年4月17日日曜日
昭和16年(1941)4月9日~16日 日ソ中立条約調印 野村・ハル交渉正式開始
昭和16年(1941)
4月9日
・満州、金日成部隊29人、ソ連領内南野営を出発。魏拯民と残留抗日聯軍第一路軍生存者捜索。8月29日に戻る。
*
4月9日
・陸軍機甲本部設置
*
4月9日
・米、トラウト~ウォーカー郵政長官経由、米ハル国務長官に「日米諒解私案(四月九日案=岩畔案)」提出。
ハル国務長官は、この草案(「私人たる米国人および日本人の個人を通じて米国務省に提出せられたる提案」(「極東国際軍事裁判速記録」第107号)について、3日間、国務省の極東問題専門家と共に検討。
「研究をすすめるにつれてれわれは非常に失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった。
・・・私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれど、そのまま受けいれることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もあるという結論を下した。
私は日本との間に幅の広い交渉を開始するいとぐちになるような機会を見逃してほならないと患思った」(ハル「回想録」)。
16日ハル4原則提示に続く。
*
4月9日
・アメリカ・デンマーク、グリーンランド防衛協定調印。
米、グリーンランドの防衛と引換えに基地使用権を得る。
*
4月9日
・アメリカ・プロゴルフ協会、ゴルフ名誉殿堂の設立発表。
*
4月9日
・イギリス空軍、ベルリンの中心部を爆撃。
*
4月10日
・ユーゴスラビア、ザグレブ陥落、クラグイェヴァッツ陥落。
リュブリャナ、イタリアにより陥落。
12日、ベオグラード陥落。
*
4月10日
・クロアチア政府、ドイツ軍迎え入れる。
ユーゴの枢軸派ウスタシャ運動指導者パヴェリチ、クロアチア民族国家の樹立を宣言。
*
4月11日
・ハンガリー、政府、ユーゴ永久友好条約無効宣言。ユーゴ攻撃。
ヒトラーは約束に反しハンガリー要求領土バートナート地方を返還せず。
*
4月11日
・イギリス海軍マルタ襲撃隊が編成され、枢軸側輸送船団の被害甚大。
*
4月11日
・米海軍は西経26度線まで、英軍は35度線までを担当する事になる。
*
4月12日
・アメリカ軍、グリーンランドに上陸。
*
4月12日
・松岡洋右外相、チャーチル英首相の書簡(独の戦力評価につき注意喚起)をクリップス駐ソ英大使から受領。モスクワ。
*
4月13日
・日ソ中立条約調印。モスクワ、スターリン・松岡外相。
蒙古人民共和国・満洲帝国の領土保全と不可侵条約調印。
ソ連の独ソ戦準備・日本の南進政策推進。
*
7日、松岡外相はモスクワ着後直ちにモロトフと交渉。
松岡が不可侵条約や北樺太買収を提案、モロトフは南樺太・千島などの「失地」回復を伴わない不可侵条約は無意味との立場から中立条約を提案し、北樺太における日本の石油・石炭利権の解消を要求。
9日、松岡は不可侵条約を撤回し、ソ連にも北樺太利権解消要求を撤回させようとするが失敗。
11日の第3次会談でも妥結せず、松岡は日本の最終案が認められなければ帰国するから、スターリソに別れの挨拶をしたいと申し入れる。
その夜、スターリンから連絡あり、12日に松岡・スターリン会談が行なわれ、北樺太利権解消については数ヶ月内に努力するとの松岡・モロトフ書簡交換を行ならとととし、その他の点についても妥協が成立。
*
①日ソ両国の相互の領土保全及び不可侵の尊重。
②日ソいずれか一方が第3国と戦争となった場合、他方は中立を守る。
付属文書で、外蒙古・満州の領土保全について共同声明。
有効期間5年、期間満了の1年前に廃棄通告をしなければ、さらに5年自動的に延長。
*
調印式後の宴会でもスターリンは上機嫌で、松岡の乗る列車の発車時間を遅らせ、さらに駅頭に松岡を送りに来て抱擁し、「これで日本は南進できる」と述べる。
*
日ソ中立条約は必ずしも松岡外相の創意による功績ではない。
東郷駐ソ大使・建川大使からも日ソ国交回復は既に提案され、昭和15年8月14日、モロトフ外務人民委員は日本提案の中立条約受諾の代りに北樺太利権解消を要求。
当時の駐ソ大使東郷茂徳によれば、ソ連側は重慶政権非援助の日本からの要求に応じる意向を示し、直ぐにも条約成立の運びとなっていたが、松岡人事による帰国命令が出て、条約成立寸前の状況で東郷は帰国。
松岡の手に成る中立条約では、重慶政権非援助の項は消滅し、松岡は閣議諒解の下に北樺太利権解消を意味する松岡・モロトフ交換文書を交している。
*
4月13日
・ロンメル軍、トブルクを包囲
*
4月13日
・ドイツ軍とイタリア軍、エジプトに侵攻。
*
4月14日
・国際会議帝国事務局廃止。
*
4月14日
・ユーゴ、独軍に休戦申入れ。
*
4月15日
・瓦斯用木炭統制規則公布。
*
4月15日
・文部省、「昭和の礼法」を通牒。
*
4月15日
・米、ルーズベルト大統領、駐米大使胡適・宋子文に軍用器材貸与を通知。
義勇兵許可。クレア・リー・シェンノートの働き。
AVG(アメリカン・ボランティア・グループ);パイロット雇用。
*
4月16日
・関東州・南洋群島船舶保護令公布。
*
4月16日
・富山県新湊町で大火。漁船30隻と680戸が焼失。
*
4月16日
・信濃川発電所の2期工事が落成。
*
4月16日
・米、野村・ハル交渉正式開始。
ハル国務長官、野村駐米大使に、「4原則」を前提として、民間私案の「日米諒解案」を基礎として予備的交渉開始を提案。
*
「そこで私は最近移ったウォードマン・パーク・ホテルの部屋に野村の来訪を求めた。
私は野村に、日米間の問題解決のための非公式の提案を受取ったことを伝え、「大使自身もこの提案に参与しているときいているが」と述べた。
野村はすぐに「あの提案のことは全部自分も知っている。本国政府にはまだ送っていないが、政府もこれには賛成すると思う」といった。
それから二日たって私は、私の部屋で、日米協定の基礎になるべき四つの基本原則を述べたステートメントを手渡した」(ハル「回想録」)。
*
ハル国務長官は、4原則の前提の他に、基礎となる民間試案(四月九日案)には、同意できる部分もあるが、修正、拡大、全面削除を必要とする諸条項があることを、野村大便に対して周到に念を押す(ハル「覚書」1941年6月16日の項、「速記録」第107号)。
*
○「ハル4原則」:
①あらゆる国家の領土保全と主権尊重、
②他国の内政問題に対する不干渉原則、
③通商上の機会均等を含む平等原則、
④平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱。
*
野村大使は、この日のハル国務長官との会見を本国に報告。
野村電には、叩き台となる試案が米側から提案されたかのような作為を含み、「4原則」も伝えず、「四月九日案」とは別の「四月十六日案」を請訓。
*
野村の請訓電からは、「四月九日案」(岩畔)から2点、
①支那事変に関し、「若シモ蒋介石政権ガルーズヴェルト大統領ノ要請ヲ拒否セル場合ニハ米国ハ中国ニ対スル援助ヲ停止スベシ」という条文と、
②太平洋に於ける政治的安定に関して、「日本政府ハ英国ノ東亜ニ対スル是以上ノ政治的侵略ノ為ノ入ロトシテノ香港及ピシンガポールヲ除去スルコトニ対シ米国政府ノ好意的且外交的援助ヲ要請スル」という条文が、
完全に欠落。
*
野村吉三郎「米国に使して」収録の同請訓電「日米諒解案」(英文)には、欠落のない全文が、ハルが基礎的試案として取り上げた「四月九日案」とある。
*
蒋介石援助停止と香港・シンガポール除去を削除すれば、残りは岩畔案といえるほど内容的に日本の主張を多く盛り込んだ日米民間諒解案を、米国政府に採択させることができるであろうとの安易な観測が、野村、岩畔、井川にあり、ウォルシュやトラウトも、これ(甘い情勢判断)を支持していたと推測できる。
「外務省宛の暗号電報は若杉公使によって起案されたが、重要なな一点が故意に改変せられた。それは「日米諒解案」が、米国政府の起案にかかるかのようにした点である。
これは『真実のことを述べるよりもこのように改めるのが、本国政府の意見をまとめるために好都合であろう」との判断に基づいたものであった」(岩畔豪雄「文馨春秋」稿)。
*
4月16日
・ドイツ軍部隊を運ぶ輸送船団ケアケンナ島沖で全滅。
*
・ドイツ空軍、ロンドンに対して猛烈な無差別爆撃。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
*
*
4月9日
・満州、金日成部隊29人、ソ連領内南野営を出発。魏拯民と残留抗日聯軍第一路軍生存者捜索。8月29日に戻る。
*
4月9日
・陸軍機甲本部設置
*
4月9日
・米、トラウト~ウォーカー郵政長官経由、米ハル国務長官に「日米諒解私案(四月九日案=岩畔案)」提出。
ハル国務長官は、この草案(「私人たる米国人および日本人の個人を通じて米国務省に提出せられたる提案」(「極東国際軍事裁判速記録」第107号)について、3日間、国務省の極東問題専門家と共に検討。
「研究をすすめるにつれてれわれは非常に失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった。
・・・私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれど、そのまま受けいれることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もあるという結論を下した。
私は日本との間に幅の広い交渉を開始するいとぐちになるような機会を見逃してほならないと患思った」(ハル「回想録」)。
16日ハル4原則提示に続く。
*
4月9日
・アメリカ・デンマーク、グリーンランド防衛協定調印。
米、グリーンランドの防衛と引換えに基地使用権を得る。
*
4月9日
・アメリカ・プロゴルフ協会、ゴルフ名誉殿堂の設立発表。
*
4月9日
・イギリス空軍、ベルリンの中心部を爆撃。
*
4月10日
・ユーゴスラビア、ザグレブ陥落、クラグイェヴァッツ陥落。
リュブリャナ、イタリアにより陥落。
12日、ベオグラード陥落。
*
4月10日
・クロアチア政府、ドイツ軍迎え入れる。
ユーゴの枢軸派ウスタシャ運動指導者パヴェリチ、クロアチア民族国家の樹立を宣言。
*
4月11日
・ハンガリー、政府、ユーゴ永久友好条約無効宣言。ユーゴ攻撃。
ヒトラーは約束に反しハンガリー要求領土バートナート地方を返還せず。
*
4月11日
・イギリス海軍マルタ襲撃隊が編成され、枢軸側輸送船団の被害甚大。
*
4月11日
・米海軍は西経26度線まで、英軍は35度線までを担当する事になる。
*
4月12日
・アメリカ軍、グリーンランドに上陸。
*
4月12日
・松岡洋右外相、チャーチル英首相の書簡(独の戦力評価につき注意喚起)をクリップス駐ソ英大使から受領。モスクワ。
*
4月13日
・日ソ中立条約調印。モスクワ、スターリン・松岡外相。
蒙古人民共和国・満洲帝国の領土保全と不可侵条約調印。
ソ連の独ソ戦準備・日本の南進政策推進。
*
7日、松岡外相はモスクワ着後直ちにモロトフと交渉。
松岡が不可侵条約や北樺太買収を提案、モロトフは南樺太・千島などの「失地」回復を伴わない不可侵条約は無意味との立場から中立条約を提案し、北樺太における日本の石油・石炭利権の解消を要求。
9日、松岡は不可侵条約を撤回し、ソ連にも北樺太利権解消要求を撤回させようとするが失敗。
11日の第3次会談でも妥結せず、松岡は日本の最終案が認められなければ帰国するから、スターリソに別れの挨拶をしたいと申し入れる。
その夜、スターリンから連絡あり、12日に松岡・スターリン会談が行なわれ、北樺太利権解消については数ヶ月内に努力するとの松岡・モロトフ書簡交換を行ならとととし、その他の点についても妥協が成立。
*
①日ソ両国の相互の領土保全及び不可侵の尊重。
②日ソいずれか一方が第3国と戦争となった場合、他方は中立を守る。
付属文書で、外蒙古・満州の領土保全について共同声明。
有効期間5年、期間満了の1年前に廃棄通告をしなければ、さらに5年自動的に延長。
*
調印式後の宴会でもスターリンは上機嫌で、松岡の乗る列車の発車時間を遅らせ、さらに駅頭に松岡を送りに来て抱擁し、「これで日本は南進できる」と述べる。
*
日ソ中立条約は必ずしも松岡外相の創意による功績ではない。
東郷駐ソ大使・建川大使からも日ソ国交回復は既に提案され、昭和15年8月14日、モロトフ外務人民委員は日本提案の中立条約受諾の代りに北樺太利権解消を要求。
当時の駐ソ大使東郷茂徳によれば、ソ連側は重慶政権非援助の日本からの要求に応じる意向を示し、直ぐにも条約成立の運びとなっていたが、松岡人事による帰国命令が出て、条約成立寸前の状況で東郷は帰国。
松岡の手に成る中立条約では、重慶政権非援助の項は消滅し、松岡は閣議諒解の下に北樺太利権解消を意味する松岡・モロトフ交換文書を交している。
*
4月13日
・ロンメル軍、トブルクを包囲
*
4月13日
・ドイツ軍とイタリア軍、エジプトに侵攻。
*
4月14日
・国際会議帝国事務局廃止。
*
4月14日
・ユーゴ、独軍に休戦申入れ。
*
4月15日
・瓦斯用木炭統制規則公布。
*
4月15日
・文部省、「昭和の礼法」を通牒。
*
4月15日
・米、ルーズベルト大統領、駐米大使胡適・宋子文に軍用器材貸与を通知。
義勇兵許可。クレア・リー・シェンノートの働き。
AVG(アメリカン・ボランティア・グループ);パイロット雇用。
*
4月16日
・関東州・南洋群島船舶保護令公布。
*
4月16日
・富山県新湊町で大火。漁船30隻と680戸が焼失。
*
4月16日
・信濃川発電所の2期工事が落成。
*
4月16日
・米、野村・ハル交渉正式開始。
ハル国務長官、野村駐米大使に、「4原則」を前提として、民間私案の「日米諒解案」を基礎として予備的交渉開始を提案。
*
「そこで私は最近移ったウォードマン・パーク・ホテルの部屋に野村の来訪を求めた。
私は野村に、日米間の問題解決のための非公式の提案を受取ったことを伝え、「大使自身もこの提案に参与しているときいているが」と述べた。
野村はすぐに「あの提案のことは全部自分も知っている。本国政府にはまだ送っていないが、政府もこれには賛成すると思う」といった。
それから二日たって私は、私の部屋で、日米協定の基礎になるべき四つの基本原則を述べたステートメントを手渡した」(ハル「回想録」)。
*
ハル国務長官は、4原則の前提の他に、基礎となる民間試案(四月九日案)には、同意できる部分もあるが、修正、拡大、全面削除を必要とする諸条項があることを、野村大便に対して周到に念を押す(ハル「覚書」1941年6月16日の項、「速記録」第107号)。
*
○「ハル4原則」:
①あらゆる国家の領土保全と主権尊重、
②他国の内政問題に対する不干渉原則、
③通商上の機会均等を含む平等原則、
④平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱。
*
野村大使は、この日のハル国務長官との会見を本国に報告。
野村電には、叩き台となる試案が米側から提案されたかのような作為を含み、「4原則」も伝えず、「四月九日案」とは別の「四月十六日案」を請訓。
*
野村の請訓電からは、「四月九日案」(岩畔)から2点、
①支那事変に関し、「若シモ蒋介石政権ガルーズヴェルト大統領ノ要請ヲ拒否セル場合ニハ米国ハ中国ニ対スル援助ヲ停止スベシ」という条文と、
②太平洋に於ける政治的安定に関して、「日本政府ハ英国ノ東亜ニ対スル是以上ノ政治的侵略ノ為ノ入ロトシテノ香港及ピシンガポールヲ除去スルコトニ対シ米国政府ノ好意的且外交的援助ヲ要請スル」という条文が、
完全に欠落。
*
野村吉三郎「米国に使して」収録の同請訓電「日米諒解案」(英文)には、欠落のない全文が、ハルが基礎的試案として取り上げた「四月九日案」とある。
*
蒋介石援助停止と香港・シンガポール除去を削除すれば、残りは岩畔案といえるほど内容的に日本の主張を多く盛り込んだ日米民間諒解案を、米国政府に採択させることができるであろうとの安易な観測が、野村、岩畔、井川にあり、ウォルシュやトラウトも、これ(甘い情勢判断)を支持していたと推測できる。
「外務省宛の暗号電報は若杉公使によって起案されたが、重要なな一点が故意に改変せられた。それは「日米諒解案」が、米国政府の起案にかかるかのようにした点である。
これは『真実のことを述べるよりもこのように改めるのが、本国政府の意見をまとめるために好都合であろう」との判断に基づいたものであった」(岩畔豪雄「文馨春秋」稿)。
*
4月16日
・ドイツ軍部隊を運ぶ輸送船団ケアケンナ島沖で全滅。
*
・ドイツ空軍、ロンドンに対して猛烈な無差別爆撃。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
*
*
2011年4月13日水曜日
昭和16年(1941)4月 松岡外相、ヒトラーと再度会見 ドイツ軍、ユーゴスラビアとギリシャへ同時侵攻
永井荷風「断腸亭日乗」の昭和16年の条を紹介しております。
遅まきながらその当時に該当する「黙翁年表」
*
昭和16年(1941)4月
この月
・大日本精糖、台湾へ本社を移す。
*
・米・英・中、平准基金協定(法幣安定基金)締結。
*
・連合艦隊参謀長福留繁少将、軍令部第一部長へ。後任は伊藤整一少将。
・海軍大学校長南雲忠一、第1航空艦隊(「赤城」)司令長官。
*
・憲兵司令部「幹部の指導監督不充分と犯罪發生の關係」(「偕行記事」特號799號昭和16年4月號)。
「殊に最近最も注意を要することは、軍屬の犯罪が激增した點であって、今次事變以來軍屬の採用が頓に增加し、素質も若干低下せる・・・」。
*
・企画院総裁、星野直樹より鈴木貞一陸軍中佐に。
*
・日本銀行、最高発行額屈伸制度導入。
*
・雑誌執筆者のブラックリストの作成。
「一九四一年の春のことだが、ある日、一人の雑誌編集者が、ただならない顔つきでたずねて来た。ある文学者が、文士のプラック・リストを情報局へ提出したというのである。その本物を、こっそり情報局の机の引き出しから盗みだして写した人間がいる。これがその写しだと、ゲラ紙の原稿紙に走り書きした名簿を出して見せた。およそ執筆者として知られている人間の名が、ほとんど全部書きつらねてあって、その上に白丸と、半黒丸と、黒丸とがつけてある。思わず自分の名をさがす。あった。半黒である。それを提出したという人間の名もあるが、それは白丸だ。その人間は、雑誌の編集長などにあてて、他人の「時局認識」についての中傷を手紙で書き送るという人物であった」(中島健蔵)。
*
・花田清輝「復興期の精神」、板垣直子「事変下の文学」、松本竣介「生きてゐる画家」(「みずゑ」)。
*
・洋服生地の統制化。女子制服をナチス・ドイツ風テーラードスーツにする指示。
*
・生めよ増やせよ式の実質主義が広がる。
「翼賛美人は骨盤の広い女性」ともてはやされる(「女性美論」(「中央公論」))。
*
・フランス、ヴィシー政権工業生産大臣ビュシュー、ドイツ軍向け兵器類製造約束。
・自由フランス代表ド・ゴール、アレクサンドリアのイギリス艦隊を訪問。
この頃、アレクサンドリア港にはフランス艦隊(戦艦1隻を含む7隻)がヴィシーの対独休戦に従いつつ、イギリス軍とも独自協定を結び、何もせずにただじっとしていた。
ド・ゴールは、この「惰眠をむさぼり、役に立たずにいる美しいフランスの軍艦」(ド・ゴール大戦回顧録)をただ眺めるのみ。
*
この月初め
・第1航空戦隊参謀源田実中佐立案のハワイ攻撃計画を基にした第11航空艦隊参謀長大西瀧次郎のレポート、連合艦隊司令長官山本五十六に提出。
*
4月1日
・米中政府、5千万ドルの為替援助協定を結ぶ。
*
・南洋庁・関東州・在満洲国民学校規則公布
・朝鮮での国民学校規定、施行(3月31公布)。朝鮮語の授業廃止。
*
4月1日
・6大都市米穀配給通帳制・外食券制実施。一般成人1日2合3勺(330g)。
この月、鮮魚介配給統制規則も公布。この後、木炭・酒の配給制相次ぎ実施。
*
4月1日
・国民学校令により、全国の小学校が国民学校と改称。
国民科など5教科編成で儀式・学校行事を重視、宮城遥拝・軍事教練課す。
*
4月1日
・文部省、音階教育をドレミファからハニホヘトイロハ音名唱法実施
*
4月1日
・産業報国倶楽部解散
*
4月1日
・イギリス、全品目対日輸出許可制度実施。実質的輸出禁止
*
4月1日
・ハンガリー、最高国防会議、ドイツとの共同でユーゴ攻撃計画受入れ。
*
4月1日
・ローマで松岡外相・ムッソリーニ会談。
*
4月2日
・イギリス、ドイツがハンガリー領からユーゴを攻撃すればイギリスはハンガリーと断交、ハンガリーがユーゴ攻撃に参加すれば開戦事由になる、とハンガリーに回答。
*
4月3日
・ドイツ軍、ハンガリー・ブダペシュト到着。
ハンガリーのテレキ首相(61)、ドイツの対ユーゴスラビア参戦強要に抗議して自殺。
*
4月3日
・リビアのイギリス軍、ドイツのロンメル将軍の戦略部隊に攻撃されてベンガジを放棄。
*
4月3日
・イラクで親独派クーデター
*
4月4日
・台湾農業水利臨時調整令公布
*
4月4日
・豊田貞次郎、海軍大将昇進、商工大臣に就任、海軍次官の後任は沢本頼雄中将(避戦論者)。
鈴木貞一陸軍中佐、国務大臣に就任(企画院総裁。星野直樹の後任)
*
4月4日
・第一・四半期の暫定的「物動」がようやく設定される。
*
4月4日
・エチオピアのイタリア軍、首都アディス・アベバを放棄
*
4月4日
・松岡外相、ヒトラーと再度会見。
松岡は、対米戦争は早晩必至で、「それは早く起った方がよい」、日本国内で松岡は孤立し、「ドイツには信頼するが、不幸にして日本には同じことが言えない」と言う。
対米関係が悪化すれば日本の石油事情に影響が及び、日本海軍の石油貯蔵量は日毎に減ってゆく、また対米戦が先へ延びれば延びるほど日米の艦艇建造能力の懸隔が著しくなり、遂には日本は戦えなくなるであろうとみる。
さらに、日本の対米戦発起が早ければ早いほど、米国の戦力を太平洋正面に割くことになり、その分だけドイツの負担が軽くなるであろうと匂わせ、松岡がいかに三国同盟に忠実かを示す。
*
4月5日
・前衛画家福沢市郎、逮捕。
*
4月5日
・賀川豊彦・小崎道雄らキリスト教界の7人の代表者、平和使節として渡米
*
4月5日
・ユーゴスラビアとソ連、友好不可侵条約締結。
*
4月5日
・松岡外相、ベルリン発。
7日、再訪ソ、モスクワ着。モロトフ・ソ連外相と中立条約交渉。
*
4月6日
・エチオピア皇帝ハイレ・セラシエのゲリラ軍、イギリス軍支援を得てアジスアベバをイタリアから奪還
*
4月6日
・ドイツ軍、ユーゴスラビアとギリシャへ同時侵攻(「マリタ作戦」)
早朝、ブルガリア西部より奇襲攻撃。
アルバニアより進撃のイタリア軍も合流。
ソ連侵入が1ヶ月遅れることになる。
*
ユーゴの航空兵力は初日で粉砕。
空襲により首都ベオグラードで死者1万7千。
ドイツ軍主力第12軍はブルガリア方面から4つに分かれてユーゴ南東部とギリシアに侵攻。
*
ギリシア方面では第18・30軍団がマケドニアを突進して3日間でテッサロニキに到達。
ユーゴ領マケドニア方面では第40装甲軍団が3日間でユーゴ・ギリシア国境に到達。
ブルガリアからユーゴ領を北上する第1装甲集団は6日後に首都ベオグラードに到達。
北から攻める第2軍とで翌日、占領。
必要以上の大戦車軍団を投入した一方的大勝利。
*
マケドニアのギリシア軍部隊はたちまち粉砕、アリアクモン線も危機的状況。
ユーゴ領マケドニアからアリアクモン線左翼に出たドイツ第40装甲軍団はそこで2日間食い止められるがすぐに前進。
優勢な航空攻撃に晒されたギリシア・イギリス連合軍は陣地を次々放棄、退却。
ギリシア最大の港ピレエフスでは開戦初日の空襲で輸送船「クラン・フレーザー」に爆弾命中、爆薬250tが誘爆し港全体を破壊。
連合軍は海への退却準備を始めつつ、時間稼ぎのためにテルモピレーに踏みとどまってドイツ軍を迎え撃とうとする。
ドイツ軍は補給調整のため暫く停滞。
ギリシア首相コリジスは自殺。後継首相エマヌイル・ツデロス(クレタ島出身)は、国王・政府をクレタ島に逃がす段取りを開始。
アルバニア戦線でも12日からイタリア軍が攻勢、ギリシア軍を押しまくり休戦に追い込む。
*
4月6日
・イギリスの雷撃機、プレスト港のドイツ巡洋艦「グライゼナウ」を撃沈。
*
4月8日
・「自分の在任中に日支事変を終結させたい」との信念をもつ支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎海軍大将の意気込み。
百一号作戦を立案・統制した井上成美参謀長に代わる大川内伝七参謀長を得て、中央に対し「奥地攻撃ノ為ニ中攻隊多数 多々益々可」と要望を述べ、戦備を整える。
嶋田の認識によれば、日中戦争は「戦略的最後の五分間の段階」に入っており、今こそ積極的に勇猛な攻撃を加える必要がある。
上海から見ていると、海軍中央は日中戦争解決の熱意を失いつつあるように嶋田には見える。
「日支事変ヲ逮ニ処理センニハ極力積極作戦ヲ以テ敵ニ徹底的打撃ヲ与へ之ガ屈服ヲ計ルヲ要ス 敵ノ困窮ハ日一日卜加重シ悲鳴ノ声高マリ来レリ 之ガ為重慶攻略戦ハ最モ有効ナルモ陸軍ニテ至難トシアルニ依り封鎖、奇襲ノ作戦ヲ極力行ウト共ニ、重慶其ノ他四川、雲南等ノ奥地ニ対シ航空兵カヲ以テ痛烈ナル大打撃ヲ与フルヲ要ス」(「嶋田日記」4月8日付)。
この見通しと要望を容れて海軍中央部は、新編制の第11航空艦隊(司令官片桐英吉中将、参謀長大西瀧治郎少将)を支那方面艦隊指揮下に移し、海軍が保有する陸上攻撃機(新鋭の一式及び九六式陸攻)のほぼ全機にあたる180機を漢口などに進出させる。
*
4月8日
・企画院事件。
和田博雄企画院調査官、経済新体制企画院案に関し治安維持法違反の容疑で検挙。引き続き関係者検挙。
昭和14年暮、芝寛がその「思想的前歴」から日本共産党との関係を疑われて検挙。15年秋、正木千冬・小沢清元、16年1月に稲葉秀三、同4月に和田博雄・佐多忠隆・勝間田清一、和田耕作が検挙。和田は「尾崎秀実とはどういう関係か」を執拗に尋ねられる。
*
4月8日
・初の肉なし日実施。
毎月3回、肉屋・食堂などで肉を不売とする。
14日、東京府、「肉なし日」の実施を決定。
*
「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
*
遅まきながらその当時に該当する「黙翁年表」
*
昭和16年(1941)4月
この月
・大日本精糖、台湾へ本社を移す。
*
・米・英・中、平准基金協定(法幣安定基金)締結。
*
・連合艦隊参謀長福留繁少将、軍令部第一部長へ。後任は伊藤整一少将。
・海軍大学校長南雲忠一、第1航空艦隊(「赤城」)司令長官。
*
・憲兵司令部「幹部の指導監督不充分と犯罪發生の關係」(「偕行記事」特號799號昭和16年4月號)。
「殊に最近最も注意を要することは、軍屬の犯罪が激增した點であって、今次事變以來軍屬の採用が頓に增加し、素質も若干低下せる・・・」。
*
・企画院総裁、星野直樹より鈴木貞一陸軍中佐に。
*
・日本銀行、最高発行額屈伸制度導入。
*
・雑誌執筆者のブラックリストの作成。
「一九四一年の春のことだが、ある日、一人の雑誌編集者が、ただならない顔つきでたずねて来た。ある文学者が、文士のプラック・リストを情報局へ提出したというのである。その本物を、こっそり情報局の机の引き出しから盗みだして写した人間がいる。これがその写しだと、ゲラ紙の原稿紙に走り書きした名簿を出して見せた。およそ執筆者として知られている人間の名が、ほとんど全部書きつらねてあって、その上に白丸と、半黒丸と、黒丸とがつけてある。思わず自分の名をさがす。あった。半黒である。それを提出したという人間の名もあるが、それは白丸だ。その人間は、雑誌の編集長などにあてて、他人の「時局認識」についての中傷を手紙で書き送るという人物であった」(中島健蔵)。
*
・花田清輝「復興期の精神」、板垣直子「事変下の文学」、松本竣介「生きてゐる画家」(「みずゑ」)。
*
・洋服生地の統制化。女子制服をナチス・ドイツ風テーラードスーツにする指示。
*
・生めよ増やせよ式の実質主義が広がる。
「翼賛美人は骨盤の広い女性」ともてはやされる(「女性美論」(「中央公論」))。
*
・フランス、ヴィシー政権工業生産大臣ビュシュー、ドイツ軍向け兵器類製造約束。
・自由フランス代表ド・ゴール、アレクサンドリアのイギリス艦隊を訪問。
この頃、アレクサンドリア港にはフランス艦隊(戦艦1隻を含む7隻)がヴィシーの対独休戦に従いつつ、イギリス軍とも独自協定を結び、何もせずにただじっとしていた。
ド・ゴールは、この「惰眠をむさぼり、役に立たずにいる美しいフランスの軍艦」(ド・ゴール大戦回顧録)をただ眺めるのみ。
*
この月初め
・第1航空戦隊参謀源田実中佐立案のハワイ攻撃計画を基にした第11航空艦隊参謀長大西瀧次郎のレポート、連合艦隊司令長官山本五十六に提出。
*
4月1日
・米中政府、5千万ドルの為替援助協定を結ぶ。
*
・南洋庁・関東州・在満洲国民学校規則公布
・朝鮮での国民学校規定、施行(3月31公布)。朝鮮語の授業廃止。
*
4月1日
・6大都市米穀配給通帳制・外食券制実施。一般成人1日2合3勺(330g)。
この月、鮮魚介配給統制規則も公布。この後、木炭・酒の配給制相次ぎ実施。
*
4月1日
・国民学校令により、全国の小学校が国民学校と改称。
国民科など5教科編成で儀式・学校行事を重視、宮城遥拝・軍事教練課す。
*
4月1日
・文部省、音階教育をドレミファからハニホヘトイロハ音名唱法実施
*
4月1日
・産業報国倶楽部解散
*
4月1日
・イギリス、全品目対日輸出許可制度実施。実質的輸出禁止
*
4月1日
・ハンガリー、最高国防会議、ドイツとの共同でユーゴ攻撃計画受入れ。
*
4月1日
・ローマで松岡外相・ムッソリーニ会談。
*
4月2日
・イギリス、ドイツがハンガリー領からユーゴを攻撃すればイギリスはハンガリーと断交、ハンガリーがユーゴ攻撃に参加すれば開戦事由になる、とハンガリーに回答。
*
4月3日
・ドイツ軍、ハンガリー・ブダペシュト到着。
ハンガリーのテレキ首相(61)、ドイツの対ユーゴスラビア参戦強要に抗議して自殺。
*
4月3日
・リビアのイギリス軍、ドイツのロンメル将軍の戦略部隊に攻撃されてベンガジを放棄。
*
4月3日
・イラクで親独派クーデター
*
4月4日
・台湾農業水利臨時調整令公布
*
4月4日
・豊田貞次郎、海軍大将昇進、商工大臣に就任、海軍次官の後任は沢本頼雄中将(避戦論者)。
鈴木貞一陸軍中佐、国務大臣に就任(企画院総裁。星野直樹の後任)
*
4月4日
・第一・四半期の暫定的「物動」がようやく設定される。
*
4月4日
・エチオピアのイタリア軍、首都アディス・アベバを放棄
*
4月4日
・松岡外相、ヒトラーと再度会見。
松岡は、対米戦争は早晩必至で、「それは早く起った方がよい」、日本国内で松岡は孤立し、「ドイツには信頼するが、不幸にして日本には同じことが言えない」と言う。
対米関係が悪化すれば日本の石油事情に影響が及び、日本海軍の石油貯蔵量は日毎に減ってゆく、また対米戦が先へ延びれば延びるほど日米の艦艇建造能力の懸隔が著しくなり、遂には日本は戦えなくなるであろうとみる。
さらに、日本の対米戦発起が早ければ早いほど、米国の戦力を太平洋正面に割くことになり、その分だけドイツの負担が軽くなるであろうと匂わせ、松岡がいかに三国同盟に忠実かを示す。
*
4月5日
・前衛画家福沢市郎、逮捕。
*
4月5日
・賀川豊彦・小崎道雄らキリスト教界の7人の代表者、平和使節として渡米
*
4月5日
・ユーゴスラビアとソ連、友好不可侵条約締結。
*
4月5日
・松岡外相、ベルリン発。
7日、再訪ソ、モスクワ着。モロトフ・ソ連外相と中立条約交渉。
*
4月6日
・エチオピア皇帝ハイレ・セラシエのゲリラ軍、イギリス軍支援を得てアジスアベバをイタリアから奪還
*
4月6日
・ドイツ軍、ユーゴスラビアとギリシャへ同時侵攻(「マリタ作戦」)
早朝、ブルガリア西部より奇襲攻撃。
アルバニアより進撃のイタリア軍も合流。
ソ連侵入が1ヶ月遅れることになる。
*
ユーゴの航空兵力は初日で粉砕。
空襲により首都ベオグラードで死者1万7千。
ドイツ軍主力第12軍はブルガリア方面から4つに分かれてユーゴ南東部とギリシアに侵攻。
*
ギリシア方面では第18・30軍団がマケドニアを突進して3日間でテッサロニキに到達。
ユーゴ領マケドニア方面では第40装甲軍団が3日間でユーゴ・ギリシア国境に到達。
ブルガリアからユーゴ領を北上する第1装甲集団は6日後に首都ベオグラードに到達。
北から攻める第2軍とで翌日、占領。
必要以上の大戦車軍団を投入した一方的大勝利。
*
マケドニアのギリシア軍部隊はたちまち粉砕、アリアクモン線も危機的状況。
ユーゴ領マケドニアからアリアクモン線左翼に出たドイツ第40装甲軍団はそこで2日間食い止められるがすぐに前進。
優勢な航空攻撃に晒されたギリシア・イギリス連合軍は陣地を次々放棄、退却。
ギリシア最大の港ピレエフスでは開戦初日の空襲で輸送船「クラン・フレーザー」に爆弾命中、爆薬250tが誘爆し港全体を破壊。
連合軍は海への退却準備を始めつつ、時間稼ぎのためにテルモピレーに踏みとどまってドイツ軍を迎え撃とうとする。
ドイツ軍は補給調整のため暫く停滞。
ギリシア首相コリジスは自殺。後継首相エマヌイル・ツデロス(クレタ島出身)は、国王・政府をクレタ島に逃がす段取りを開始。
アルバニア戦線でも12日からイタリア軍が攻勢、ギリシア軍を押しまくり休戦に追い込む。
*
4月6日
・イギリスの雷撃機、プレスト港のドイツ巡洋艦「グライゼナウ」を撃沈。
*
4月8日
・「自分の在任中に日支事変を終結させたい」との信念をもつ支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎海軍大将の意気込み。
百一号作戦を立案・統制した井上成美参謀長に代わる大川内伝七参謀長を得て、中央に対し「奥地攻撃ノ為ニ中攻隊多数 多々益々可」と要望を述べ、戦備を整える。
嶋田の認識によれば、日中戦争は「戦略的最後の五分間の段階」に入っており、今こそ積極的に勇猛な攻撃を加える必要がある。
上海から見ていると、海軍中央は日中戦争解決の熱意を失いつつあるように嶋田には見える。
「日支事変ヲ逮ニ処理センニハ極力積極作戦ヲ以テ敵ニ徹底的打撃ヲ与へ之ガ屈服ヲ計ルヲ要ス 敵ノ困窮ハ日一日卜加重シ悲鳴ノ声高マリ来レリ 之ガ為重慶攻略戦ハ最モ有効ナルモ陸軍ニテ至難トシアルニ依り封鎖、奇襲ノ作戦ヲ極力行ウト共ニ、重慶其ノ他四川、雲南等ノ奥地ニ対シ航空兵カヲ以テ痛烈ナル大打撃ヲ与フルヲ要ス」(「嶋田日記」4月8日付)。
この見通しと要望を容れて海軍中央部は、新編制の第11航空艦隊(司令官片桐英吉中将、参謀長大西瀧治郎少将)を支那方面艦隊指揮下に移し、海軍が保有する陸上攻撃機(新鋭の一式及び九六式陸攻)のほぼ全機にあたる180機を漢口などに進出させる。
*
4月8日
・企画院事件。
和田博雄企画院調査官、経済新体制企画院案に関し治安維持法違反の容疑で検挙。引き続き関係者検挙。
昭和14年暮、芝寛がその「思想的前歴」から日本共産党との関係を疑われて検挙。15年秋、正木千冬・小沢清元、16年1月に稲葉秀三、同4月に和田博雄・佐多忠隆・勝間田清一、和田耕作が検挙。和田は「尾崎秀実とはどういう関係か」を執拗に尋ねられる。
*
4月8日
・初の肉なし日実施。
毎月3回、肉屋・食堂などで肉を不売とする。
14日、東京府、「肉なし日」の実施を決定。
*
「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
*
2010年9月25日土曜日
昭和16年(1941)7月19日~24日 関特演 「いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亜に送らるゝならん」(荷風「断腸亭日乗」) ルーズベルト、野村大使に石油禁輸の可能性を警告
昭和16年(1941)7月19日
・国民政府、国共調整緊急会議開催
*
・米海軍第1任務部隊、アイスランドに向かうすべての艦船を保護する事となる。
(7月17日、アメリカ軍はアイスランドを占領)
*
・BBC勝利の「V」放送、占領下ヨーロッパにおけるレジスタンスを宣言。
*
・スターリン、国防相就任。
*
7月21日
・山下奉文中将、満州防衛軍司令官として東京発、牡丹江へ赴任。
高級参謀片倉衷大佐、副長馬奈木敬信少将、参謀総長鈴木宗作中将。
*
・第3次近衛内閣初の大本営政府連絡会議。陸海軍両統帥部が注文をつける。
①7月2日御前会議決定に基づく内外諸施策を速やかに完遂し、特に目下進行中の対仏印進駐を既定方針通り的確に遂行すること。
②発足進行中の対南方及び北方戦備は渋滞遅延を許さず、強力確実に実行すること。
③日米国交調整は既定方針を堅持し、特に三国枢軸精神に背馳しないこと。
*
永野軍令部総長の発言。
「米ニ対シテハ今ハ戦勝ノ算アルモ、時ヲ追ウテ此ノ公算ハ少ナクナル。
明年後半期ハ最早歯カ立チカネル。其後ハ益々悪クナル。
米ハ恐ラク軍備ノ整フ迄ハ問題ヲ引ヅリ、之ヲ整頓スルナラン。
従ツテ時ヲ経レハ帝国ハ不利トナル。
戦ハスシテ済メハ之ニコシタ事ハナシ。然シ到底衝突ハ避クへカラストセハ、時ヲ経ルト共ニ不利トナルト云フ事ヲ承知セラレ度。
尚比島ヲ占領スレハ海軍ハ戦争カヤリヤスクナル。
南洋ノ防備ハ大丈夫相当ヤレルト思フ」。
*
・文部省、「臣民の道」刊行。戦時下の国民道徳解説。
*
・病気のハル長官に代り米国務次官ウェルズ、野村大使代理の若杉公使に、
「情報によれば日本は最近仏印を占領する模様であるが、かくては従来の会談は無用となる」
と警告。
*
・ドイツ空軍、モスクワ初空襲。
*
・フランス、ヴィシー政府ダルラン副総理、加藤外松駐仏大使に対し日本軍の南部仏印進駐承認要求を受諾。日仏議定書が成立。
23日、細目協定成立。
*
7月23日
・野村大使から豊田外相宛ての電報。
「当方面の対日空気急変の原因は南進にあり。しかして南進はやがてシソガポール・蘭印に進む第一歩なりと認むるにあり」と伝える(野村吉三郎「米国に使して」)。
*
・休養中のハル、電話でウェルズ次官に、日米交渉の中止を日本に伝えるよう命じる。
日本広東総領事の現地陸軍から出た、進駐に関する14日付本省宛電報が、19日「マジック」により解読され、新内閣の方針に変化なしと判断。
*
・米国務次官ウェルズ、野村大使とも会談、重大申入れ。
「従来米国は能ふ限りの忍耐を以て日本と会談して来たが、今となつては最早会談の基調は失はれるに至った」(近衛著)。
*
・野村駐米大使、本国へ「至急新内閣の対米方針を御内示相成度」と請訓。
*
・ルーズベルト大統領、中国空軍再建への援助を承認。
*
7月24日
・「七月廿四日。・・・下谷外神田辺の民家には昨今出征兵士宿泊す。
いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亜に送らるゝならんと云。
三十代の者のみにして其中には一度戦地へ送られ帰還後除隊せられたるものもありと云ふ。
市中は物資食糧の欠乏甚しき折からこの度多数の召集に人心頗恟々たるが如し。」(荷風「断腸亭日乗」改行を施す)。
*
この頃、尾崎秀実は、三井の船舶部次長織田信太郎から、この頃の部隊移動の情報を入手し、これをゾルゲに伝える。
織田の情報:
「わたしたちの聞いているところでは、北よりも南に向かっている部隊の方が多いということです」
「北へ二十五万、南へ三十五万が送られて、内地に四十万が残っています」。
また、宮城は、満州へ移動する部隊の大半は未経験の兵士と予備兵で構成されており、ソ連と本気で戦うとしたら殆ど役立ちそうにない、とゾルゲに伝える。
*
■「関特演」の緊急召集の実態と規模
海軍次官沢本頼雄中将の日記。
7月5日に参謀本部要貞と懇談し、陸軍側の方針を聞く。
「7-13動員、7-20運輸始、8月中旬終了、兵数は現在の三〇万より七〇~八〇万となり、徴用船九〇万頓を要す(十六師団体制)、・・・対蘇戦決意せば更に8D(*師団)を増し、在満一〇〇万兵となる(24D体制)」
*
「関特演」は、演習・対ソ連示威行動ではなく、第一軍装(一装)を支給した戦うための動員。
*
瀬島龍三の戦後の証言、「北方戦備」(未刊行)には、ソビエト軍に対する武力行使の場合の作戦構想が明確に書かれている。
「武力行使は、極東ソ連軍の戦力半減し、在満鮮十六箇師団(新に増派せる二師団を加えた)を以て攻勢の初動を切り、後続四箇師団を逐次加入し、約二十師団基幹を以て第一年度の作戦を遂行し得る場合であること。但し大本営としては総予備として更に約五箇師団を準備し、之を満洲に推進する如く腹案す」
*
結果的には、予想に反して、ソ連がヨーロッパ戦線に相当する強力な新兵力でソ満国境を固めたため、武力行使の第一要件たる「極東ソ連軍の半減」が成立せず、陸軍は積極攻勢を断念。
しかも、南仏印進駐によりアメリカが強硬政策を採用し、北進方針は崩壊する。
*
・この日着の野村駐米大使の電報。
米国では、従来の日米会談は東京側に「トピードー」(破壌)されるであろう、
また日本は、同盟国に対して、日米国交調整の試みは南進準備完了迄の謀略と説明している、との説が支配的となっている。(近衛書)
*
この日午前
・ルーズベルト大統領は、義勇協力委員会の人々を引見した際、もし米国が対日石油輸出禁止をしていたならば、すでに日本は蘭印を占領し戦争となっていただろうと演説。*
午後の閣議、
・ルーズベルト大統領は、無制限国家非常事態宣言に基づき在米日本資産凍結を決定(26日発効。
英・蘭印もこれに続き、前年締結された日蘭民間石油協定は破棄)。
但し、米政府は、これによって日米貿易を許可制の下におくとするが、直ちに全面禁輸を意図したのではなく、大統領は「資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを、国務および海軍省の官僚に再度確約した」という(日本政府の出方を見守ることとする)。
*
・米国のラジオニュース放送、日本の軍艦がカムラン湾沖に現れ、日本軍輸送船が海南島から南下しつつあると報道。
*
この日、
・ルーズベルト大統領、野村吉三郎駐米大使に南部仏印進駐の中止を勧告。仏印中立化を提案。
*
ルーズヴェルトは、
仏印進駐中止及び撤兵を前提とし、各国(日米英蘭支)が仏印中立を共同保障し、自由・公平に仏印物資を入手する「仏印中立化」提案を行なう。
また同時に、
日本軍が南部仏印に進駐すれば、米国国内の対日石油禁輸輿論を宥和することは国難になるであろうと述べる。
日本がもし軍事拠点確保の実力行動を続行すれば、アメリカは対抗措置をとらざるを得ないとの警告。日本はこれを無視し28日上陸開始。
*
同日付豊田宛野村電。
「従来輿論ハ日本ニ対シ石油ヲ禁輸スベシト強ク主張セシニ拘ラズ、自分ハ之ヲ太平洋平和維持ノ為ニ不可ナリト言ウテ説得シ来リシガ、今ヤ其ノ論拠ヲ失ウニ至レリ、ト述べテ石油ノ禁輸アルベキヲ仄カシ
・・・今ハ既ニ時期遅レタルノ感アリ、事前国務省卜打合セヲ為セシニ非ザルガト前置キシ、
若シ夫レ仏印ヨリ撤兵セラレ、各国其ノ中立(瑞西ノ如ク)ヲ保障シ、各国自由ニ公平ニ仏印ノ物資ヲ入手シ得ルガ如キ方法アリトセバ、自分ハ尽力ヲ惜マズト語り、且日本ノ物資入手ニハ自分モ極メテ同情ヲ持ツ」と述べる。
*
同席のウェルズ国務次官記述。
大統領は、
米英側は仏印に脅威を与えていないのだから、日本の仏印進駐はそこを基地として更なる南進を意図したものと考えるほかない、
もし日本が石油獲得のために英蘭と戦争すれば、英国援助を国是とす米国にとっても重大な事態とならざるを得ない
と警告。
しかし仏印が中立化されれば、現地政府がドゴール政権化しないことを保証すると言う。
また日本の政策はドイツの圧力によるものであろうが(米側の思いこみで、野村も強く否定)、日本政府は理解していないが、ナチスは世界征服を意図しており、将来日本と米国の海軍は共同してヒトラーと戦わねばならなくなるとさえ述べる。
野村は中立化提案に心を打たれた様子だったが、日本側には面子の問題があり、真に偉大な政治家でなければ政策の転換をなし得ないだろうが、ただちに本国に報告すると述べる。
辞去する野村に楽観的な気配は感ぜられなかったという。
*
*
・国民政府、国共調整緊急会議開催
*
・米海軍第1任務部隊、アイスランドに向かうすべての艦船を保護する事となる。
(7月17日、アメリカ軍はアイスランドを占領)
*
・BBC勝利の「V」放送、占領下ヨーロッパにおけるレジスタンスを宣言。
*
・スターリン、国防相就任。
*
7月21日
・山下奉文中将、満州防衛軍司令官として東京発、牡丹江へ赴任。
高級参謀片倉衷大佐、副長馬奈木敬信少将、参謀総長鈴木宗作中将。
*
・第3次近衛内閣初の大本営政府連絡会議。陸海軍両統帥部が注文をつける。
①7月2日御前会議決定に基づく内外諸施策を速やかに完遂し、特に目下進行中の対仏印進駐を既定方針通り的確に遂行すること。
②発足進行中の対南方及び北方戦備は渋滞遅延を許さず、強力確実に実行すること。
③日米国交調整は既定方針を堅持し、特に三国枢軸精神に背馳しないこと。
*
永野軍令部総長の発言。
「米ニ対シテハ今ハ戦勝ノ算アルモ、時ヲ追ウテ此ノ公算ハ少ナクナル。
明年後半期ハ最早歯カ立チカネル。其後ハ益々悪クナル。
米ハ恐ラク軍備ノ整フ迄ハ問題ヲ引ヅリ、之ヲ整頓スルナラン。
従ツテ時ヲ経レハ帝国ハ不利トナル。
戦ハスシテ済メハ之ニコシタ事ハナシ。然シ到底衝突ハ避クへカラストセハ、時ヲ経ルト共ニ不利トナルト云フ事ヲ承知セラレ度。
尚比島ヲ占領スレハ海軍ハ戦争カヤリヤスクナル。
南洋ノ防備ハ大丈夫相当ヤレルト思フ」。
*
・文部省、「臣民の道」刊行。戦時下の国民道徳解説。
*
・病気のハル長官に代り米国務次官ウェルズ、野村大使代理の若杉公使に、
「情報によれば日本は最近仏印を占領する模様であるが、かくては従来の会談は無用となる」
と警告。
*
・ドイツ空軍、モスクワ初空襲。
*
・フランス、ヴィシー政府ダルラン副総理、加藤外松駐仏大使に対し日本軍の南部仏印進駐承認要求を受諾。日仏議定書が成立。
23日、細目協定成立。
*
7月23日
・野村大使から豊田外相宛ての電報。
「当方面の対日空気急変の原因は南進にあり。しかして南進はやがてシソガポール・蘭印に進む第一歩なりと認むるにあり」と伝える(野村吉三郎「米国に使して」)。
*
・休養中のハル、電話でウェルズ次官に、日米交渉の中止を日本に伝えるよう命じる。
日本広東総領事の現地陸軍から出た、進駐に関する14日付本省宛電報が、19日「マジック」により解読され、新内閣の方針に変化なしと判断。
*
・米国務次官ウェルズ、野村大使とも会談、重大申入れ。
「従来米国は能ふ限りの忍耐を以て日本と会談して来たが、今となつては最早会談の基調は失はれるに至った」(近衛著)。
*
・野村駐米大使、本国へ「至急新内閣の対米方針を御内示相成度」と請訓。
*
・ルーズベルト大統領、中国空軍再建への援助を承認。
*
7月24日
・「七月廿四日。・・・下谷外神田辺の民家には昨今出征兵士宿泊す。
いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亜に送らるゝならんと云。
三十代の者のみにして其中には一度戦地へ送られ帰還後除隊せられたるものもありと云ふ。
市中は物資食糧の欠乏甚しき折からこの度多数の召集に人心頗恟々たるが如し。」(荷風「断腸亭日乗」改行を施す)。
*
この頃、尾崎秀実は、三井の船舶部次長織田信太郎から、この頃の部隊移動の情報を入手し、これをゾルゲに伝える。
織田の情報:
「わたしたちの聞いているところでは、北よりも南に向かっている部隊の方が多いということです」
「北へ二十五万、南へ三十五万が送られて、内地に四十万が残っています」。
また、宮城は、満州へ移動する部隊の大半は未経験の兵士と予備兵で構成されており、ソ連と本気で戦うとしたら殆ど役立ちそうにない、とゾルゲに伝える。
*
■「関特演」の緊急召集の実態と規模
海軍次官沢本頼雄中将の日記。
7月5日に参謀本部要貞と懇談し、陸軍側の方針を聞く。
「7-13動員、7-20運輸始、8月中旬終了、兵数は現在の三〇万より七〇~八〇万となり、徴用船九〇万頓を要す(十六師団体制)、・・・対蘇戦決意せば更に8D(*師団)を増し、在満一〇〇万兵となる(24D体制)」
*
「関特演」は、演習・対ソ連示威行動ではなく、第一軍装(一装)を支給した戦うための動員。
*
瀬島龍三の戦後の証言、「北方戦備」(未刊行)には、ソビエト軍に対する武力行使の場合の作戦構想が明確に書かれている。
「武力行使は、極東ソ連軍の戦力半減し、在満鮮十六箇師団(新に増派せる二師団を加えた)を以て攻勢の初動を切り、後続四箇師団を逐次加入し、約二十師団基幹を以て第一年度の作戦を遂行し得る場合であること。但し大本営としては総予備として更に約五箇師団を準備し、之を満洲に推進する如く腹案す」
*
結果的には、予想に反して、ソ連がヨーロッパ戦線に相当する強力な新兵力でソ満国境を固めたため、武力行使の第一要件たる「極東ソ連軍の半減」が成立せず、陸軍は積極攻勢を断念。
しかも、南仏印進駐によりアメリカが強硬政策を採用し、北進方針は崩壊する。
*
・この日着の野村駐米大使の電報。
米国では、従来の日米会談は東京側に「トピードー」(破壌)されるであろう、
また日本は、同盟国に対して、日米国交調整の試みは南進準備完了迄の謀略と説明している、との説が支配的となっている。(近衛書)
*
この日午前
・ルーズベルト大統領は、義勇協力委員会の人々を引見した際、もし米国が対日石油輸出禁止をしていたならば、すでに日本は蘭印を占領し戦争となっていただろうと演説。*
午後の閣議、
・ルーズベルト大統領は、無制限国家非常事態宣言に基づき在米日本資産凍結を決定(26日発効。
英・蘭印もこれに続き、前年締結された日蘭民間石油協定は破棄)。
但し、米政府は、これによって日米貿易を許可制の下におくとするが、直ちに全面禁輸を意図したのではなく、大統領は「資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを、国務および海軍省の官僚に再度確約した」という(日本政府の出方を見守ることとする)。
*
・米国のラジオニュース放送、日本の軍艦がカムラン湾沖に現れ、日本軍輸送船が海南島から南下しつつあると報道。
*
この日、
・ルーズベルト大統領、野村吉三郎駐米大使に南部仏印進駐の中止を勧告。仏印中立化を提案。
*
ルーズヴェルトは、
仏印進駐中止及び撤兵を前提とし、各国(日米英蘭支)が仏印中立を共同保障し、自由・公平に仏印物資を入手する「仏印中立化」提案を行なう。
また同時に、
日本軍が南部仏印に進駐すれば、米国国内の対日石油禁輸輿論を宥和することは国難になるであろうと述べる。
日本がもし軍事拠点確保の実力行動を続行すれば、アメリカは対抗措置をとらざるを得ないとの警告。日本はこれを無視し28日上陸開始。
*
同日付豊田宛野村電。
「従来輿論ハ日本ニ対シ石油ヲ禁輸スベシト強ク主張セシニ拘ラズ、自分ハ之ヲ太平洋平和維持ノ為ニ不可ナリト言ウテ説得シ来リシガ、今ヤ其ノ論拠ヲ失ウニ至レリ、ト述べテ石油ノ禁輸アルベキヲ仄カシ
・・・今ハ既ニ時期遅レタルノ感アリ、事前国務省卜打合セヲ為セシニ非ザルガト前置キシ、
若シ夫レ仏印ヨリ撤兵セラレ、各国其ノ中立(瑞西ノ如ク)ヲ保障シ、各国自由ニ公平ニ仏印ノ物資ヲ入手シ得ルガ如キ方法アリトセバ、自分ハ尽力ヲ惜マズト語り、且日本ノ物資入手ニハ自分モ極メテ同情ヲ持ツ」と述べる。
*
同席のウェルズ国務次官記述。
大統領は、
米英側は仏印に脅威を与えていないのだから、日本の仏印進駐はそこを基地として更なる南進を意図したものと考えるほかない、
もし日本が石油獲得のために英蘭と戦争すれば、英国援助を国是とす米国にとっても重大な事態とならざるを得ない
と警告。
しかし仏印が中立化されれば、現地政府がドゴール政権化しないことを保証すると言う。
また日本の政策はドイツの圧力によるものであろうが(米側の思いこみで、野村も強く否定)、日本政府は理解していないが、ナチスは世界征服を意図しており、将来日本と米国の海軍は共同してヒトラーと戦わねばならなくなるとさえ述べる。
野村は中立化提案に心を打たれた様子だったが、日本側には面子の問題があり、真に偉大な政治家でなければ政策の転換をなし得ないだろうが、ただちに本国に報告すると述べる。
辞去する野村に楽観的な気配は感ぜられなかったという。
*
*
2010年9月19日日曜日
昭和16年(1941)7月13日~18日 第2次近衛内閣総辞職 松岡外相更迭 「初より計画したる八百長なるが如し」(「断腸亭日乗」)
昭和16年(1941)7月13日
・国民政府空軍再建のための米軍事使節団第1陣が中国に到着
*
・同日、松岡外相、スメターニン駐日ソ連大使に、日ソ中立条約は独ソ戦には適用しないと言明。
*
7月14日
・松岡外相の意見を容れた日本側第2次案が出来上る。
午後8時、近衛は、松岡の腹心斎藤顧問に対し、この第2次案とオーラル・ステートメント拒否訓電の同時発信を指示する。
しかし、午後11時、拒否訓電のみが発信される。
*
同日、加藤外松駐仏大使、ダルラン仏ヴィシー政府主席に日本軍の南部仏印進駐承認を要求。
21日、仏ヴィシー政府はこれを承認。
*
7月15日
・この頃、永野軍令部総長や及川海相は、既に決定している仏印進駐は戦争のリスクが大きいから再考しようと動揺を示す(「沢本日記」7月15日)、
*
同日、寺崎アメリカ局長は、松岡外相に内密に第2次案をアメリカに送る(これは、野村大使が米側に提示せず)。
松岡は、坂本欧亜局長に命じ、既にこれをドイツに内報させている。
この日、松岡欠席の閣議後、陸海内3相と協議し松岡罷免を決定。
更迭はハルのオーラルステートメントに強要されたように見えるので総辞職がよい、となるが、最終決定は16日に再度検討して決めることとする。
*
・この日付け荷風「断腸亭日乗」(改行を施す)
「七月十五日。暮方よりまた雨。本年の税金暴騰して一囘分の金高四百四拾五圓七拾五錢となる。一年分にて金壱千七百八拾参圓となるわけなり。
戦禍いよいよ驚くぺし。
街頭の廣告に經国イタリヤ婦人朝日など新しき雑誌の名見ゆ。洋紙節約のため新刊雑誌は出ぬ筈なるに奇怪千萬と謂ふ可し。
政黨も解散せられたる筈なるにこれ亦東方會建國會日本大衆黨其他いろいろありて辻ゝに勝手次第の立札を出せり。
この頃共榮圏といひ彿教圏といふが如く圏の字大に流行せり。今迄見馴れぬ漢字を使ひたがるは如何なる心にや。笑ふべきなり。」
*
同日、米国務省極東部長ハミルトンと日本課長バランタイン、野村に何部仏印進駐に関し真相を質す。
*
7月16日
・第2次近衛内閣総辞職。松岡外相更迭のための小細工。
近衛首相、内務・陸・準3相に企画院総裁が加わり目白別邸で密議、総辞職に意見が一致し、午後6時半、臨時閣議で辞表を取纏る。病欠の松岡外相には富田書記官長が出向き辞表を受取る。午後8時50分葉山で辞表奉呈。
*
'・鉄道省は3等寝台車を廃止し、食堂車の削減を決定
*
'・徳田秋声「西の旅」、風俗が時節柄よろしからずとして発禁
*
「七月十六日。陰。数日來市中に野菜果實なく、豆腐もまた品切にて、市民難澁する由。
銀座通千疋屋の店頭にはわづかに桃を並べしのみ。
牛肉既になしこの次は何がなくなるにや。」(荷風「断腸亭日乗」)
*
同日
・ドイツ独中央軍、スモレンスク(モスクワ200マイル)に到達。
~27日、スモレンスクの戦い
*
7月17日
・第2次近衛内閣総辞職に伴う後任推薦の重臣会議。
木戸内大臣は近衛への大命再降下の決意を固めている。
広田弘毅が軍政的内閣を力説し、若槻礼次郎が近衛に消極的である他は、全員が近衛を推し、広田も木戸の説得で近衛に同意し、全員一致のかたちで近衛再推薦が決まる。
*
同日
・ドイツ東部占領地省、設立。アルフレート・ローゼンベルク東方占領地区大臣に任命。
*
・ジョー・ディマジオの連続試合ヒットが、57試合目のインディアンズ戦で終る。
56試合連続ヒットの記録。
*
7月18日
・第3次近衛内閣。
夕刻組閣完了、夜8時50分新任式、9時45分初閣議。
外相のみ松岡(対米強硬派)から海軍大将豊田貞次郎(元海軍次官、第2次近衛内閣商工相)に代わる。
対米強硬派を排除し、日米国交調整を促進する意図。
*
外相豐田貞次郎、内相田邊治通、蔵相小倉正恒、陸相東條英機、海相及川古志郎、法相近衞文麿(兼)、文相橋田邦彦、農林相井野碩哉、商工相左近司政三、逓信相村田省藏、鉄相村田省藏(兼)、拓務相豐田貞次郎(兼)、厚生相小泉親彦、国務相平沼騏一郎、柳川平助、鈴木貞一。
*
この日、
・横浜港からサンフランシスコ航路最終船(日本郵船の浅間丸)が出港。
*
荷風「断腸亭日乗」
「七月十七日。くもりで風甚冷なり。晩間池之端に飯して浅草に行く。連日の雨と冷気とに世間ひっそりとして何の活氣もなし。新聞に近衛内閣総辞職の記事出でたれど誰一人その噂するものもなし。」
「七月十八日。今朝の新聞紙に近衛一人残りて他の閣僚更迭するに過ぎる由見ゆ。初より計画したる八百長なるが如し。
そは兎も角以後軍部の専横益甚しく世間一層暗鬱に陥るなるべし。・・・
・・・模倣ナチス政治の如きは老後の今日余の身には甚しく痛痒を感ぜしむることなし。
米は悪しく砂糖は少けれど罪なくして配所の月を見ると思へばあきらめはつくべし。
世には冤罪に陥り投獄せられしもの尠からず。殊に火災保険の事に関し放火犯の疑を受けて入獄するものあるは屡聞るところなり。・・・」
「七月二十日。晩間雨の小降りとなりし隙を窺ひ芝口の金兵衛に至り夕飯を喫す。歌川氏に逢ふ。汽車の荷物輻湊甚しきため、西瓜の産地より西瓜を東京に送るることを禁じたれば、今年は水菓子類凡て品切のもの多くなるぺしと云。」
*
7月18日
・仏、占領地区のファシスト分子により結成の「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」、2万人集会。ヴェル・ディヴ競技場。
*
同日、
・米国の閣議、日本に対する制裁を検討。結論出ず。
全面禁輸に踏み切れば、日本の蘭印占領を促し、米国の対日参戦を招くおそれがあるとして躊躇。
大西洋で援英物資輸送船舶の護送に専念したい米海軍は、対日貿易禁止に反対。
また、外相の交代(松岡から豊田)にも、多少の希望をつなぐ。
*
同日、
・イギリス、チェコのベネシュ亡命政府を正式に承認。
*
同日、
・ソ連・チェコ亡命政権、戦争協力協定調印。
*
*
・国民政府空軍再建のための米軍事使節団第1陣が中国に到着
*
・同日、松岡外相、スメターニン駐日ソ連大使に、日ソ中立条約は独ソ戦には適用しないと言明。
*
7月14日
・松岡外相の意見を容れた日本側第2次案が出来上る。
午後8時、近衛は、松岡の腹心斎藤顧問に対し、この第2次案とオーラル・ステートメント拒否訓電の同時発信を指示する。
しかし、午後11時、拒否訓電のみが発信される。
*
同日、加藤外松駐仏大使、ダルラン仏ヴィシー政府主席に日本軍の南部仏印進駐承認を要求。
21日、仏ヴィシー政府はこれを承認。
*
7月15日
・この頃、永野軍令部総長や及川海相は、既に決定している仏印進駐は戦争のリスクが大きいから再考しようと動揺を示す(「沢本日記」7月15日)、
*
同日、寺崎アメリカ局長は、松岡外相に内密に第2次案をアメリカに送る(これは、野村大使が米側に提示せず)。
松岡は、坂本欧亜局長に命じ、既にこれをドイツに内報させている。
この日、松岡欠席の閣議後、陸海内3相と協議し松岡罷免を決定。
更迭はハルのオーラルステートメントに強要されたように見えるので総辞職がよい、となるが、最終決定は16日に再度検討して決めることとする。
*
・この日付け荷風「断腸亭日乗」(改行を施す)
「七月十五日。暮方よりまた雨。本年の税金暴騰して一囘分の金高四百四拾五圓七拾五錢となる。一年分にて金壱千七百八拾参圓となるわけなり。
戦禍いよいよ驚くぺし。
街頭の廣告に經国イタリヤ婦人朝日など新しき雑誌の名見ゆ。洋紙節約のため新刊雑誌は出ぬ筈なるに奇怪千萬と謂ふ可し。
政黨も解散せられたる筈なるにこれ亦東方會建國會日本大衆黨其他いろいろありて辻ゝに勝手次第の立札を出せり。
この頃共榮圏といひ彿教圏といふが如く圏の字大に流行せり。今迄見馴れぬ漢字を使ひたがるは如何なる心にや。笑ふべきなり。」
*
同日、米国務省極東部長ハミルトンと日本課長バランタイン、野村に何部仏印進駐に関し真相を質す。
*
7月16日
・第2次近衛内閣総辞職。松岡外相更迭のための小細工。
近衛首相、内務・陸・準3相に企画院総裁が加わり目白別邸で密議、総辞職に意見が一致し、午後6時半、臨時閣議で辞表を取纏る。病欠の松岡外相には富田書記官長が出向き辞表を受取る。午後8時50分葉山で辞表奉呈。
*
'・鉄道省は3等寝台車を廃止し、食堂車の削減を決定
*
'・徳田秋声「西の旅」、風俗が時節柄よろしからずとして発禁
*
「七月十六日。陰。数日來市中に野菜果實なく、豆腐もまた品切にて、市民難澁する由。
銀座通千疋屋の店頭にはわづかに桃を並べしのみ。
牛肉既になしこの次は何がなくなるにや。」(荷風「断腸亭日乗」)
*
同日
・ドイツ独中央軍、スモレンスク(モスクワ200マイル)に到達。
~27日、スモレンスクの戦い
*
7月17日
・第2次近衛内閣総辞職に伴う後任推薦の重臣会議。
木戸内大臣は近衛への大命再降下の決意を固めている。
広田弘毅が軍政的内閣を力説し、若槻礼次郎が近衛に消極的である他は、全員が近衛を推し、広田も木戸の説得で近衛に同意し、全員一致のかたちで近衛再推薦が決まる。
*
同日
・ドイツ東部占領地省、設立。アルフレート・ローゼンベルク東方占領地区大臣に任命。
*
・ジョー・ディマジオの連続試合ヒットが、57試合目のインディアンズ戦で終る。
56試合連続ヒットの記録。
*
7月18日
・第3次近衛内閣。
夕刻組閣完了、夜8時50分新任式、9時45分初閣議。
外相のみ松岡(対米強硬派)から海軍大将豊田貞次郎(元海軍次官、第2次近衛内閣商工相)に代わる。
対米強硬派を排除し、日米国交調整を促進する意図。
*
外相豐田貞次郎、内相田邊治通、蔵相小倉正恒、陸相東條英機、海相及川古志郎、法相近衞文麿(兼)、文相橋田邦彦、農林相井野碩哉、商工相左近司政三、逓信相村田省藏、鉄相村田省藏(兼)、拓務相豐田貞次郎(兼)、厚生相小泉親彦、国務相平沼騏一郎、柳川平助、鈴木貞一。
*
この日、
・横浜港からサンフランシスコ航路最終船(日本郵船の浅間丸)が出港。
*
荷風「断腸亭日乗」
「七月十七日。くもりで風甚冷なり。晩間池之端に飯して浅草に行く。連日の雨と冷気とに世間ひっそりとして何の活氣もなし。新聞に近衛内閣総辞職の記事出でたれど誰一人その噂するものもなし。」
「七月十八日。今朝の新聞紙に近衛一人残りて他の閣僚更迭するに過ぎる由見ゆ。初より計画したる八百長なるが如し。
そは兎も角以後軍部の専横益甚しく世間一層暗鬱に陥るなるべし。・・・
・・・模倣ナチス政治の如きは老後の今日余の身には甚しく痛痒を感ぜしむることなし。
米は悪しく砂糖は少けれど罪なくして配所の月を見ると思へばあきらめはつくべし。
世には冤罪に陥り投獄せられしもの尠からず。殊に火災保険の事に関し放火犯の疑を受けて入獄するものあるは屡聞るところなり。・・・」
「七月二十日。晩間雨の小降りとなりし隙を窺ひ芝口の金兵衛に至り夕飯を喫す。歌川氏に逢ふ。汽車の荷物輻湊甚しきため、西瓜の産地より西瓜を東京に送るることを禁じたれば、今年は水菓子類凡て品切のもの多くなるぺしと云。」
*
7月18日
・仏、占領地区のファシスト分子により結成の「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」、2万人集会。ヴェル・ディヴ競技場。
*
同日、
・米国の閣議、日本に対する制裁を検討。結論出ず。
全面禁輸に踏み切れば、日本の蘭印占領を促し、米国の対日参戦を招くおそれがあるとして躊躇。
大西洋で援英物資輸送船舶の護送に専念したい米海軍は、対日貿易禁止に反対。
また、外相の交代(松岡から豊田)にも、多少の希望をつなぐ。
*
同日、
・イギリス、チェコのベネシュ亡命政府を正式に承認。
*
同日、
・ソ連・チェコ亡命政権、戦争協力協定調印。
*
*
2010年8月19日木曜日
昭和16年(1941)7月4日~11日 ゾルゲ、7月2日御前会議の内容を打電 関特演発動 荷風散人、「近年世變の次第」を録す
昭和16年(1941)
7月4日
・この頃(3日か4日)、尾崎秀実は西園寺公一と会い、7月2日の御前会議の内容を知る。
これを、5日か6日に訪ねてきた宮城与徳に渡し、宮城は10日頃ゾルゲに渡す。
*
この報告書には7月2日御前会議の決定として3点が記されている。
①わが国は国際情勢におけるあらゆる事態と推移に対応できる準備をする。
②わが国は日ソ中立条約を厳守し、これは国際情勢に大幅な変化がないかぎり継承する。
③わが国はいかなる困難に遭遇しようとも南進策を遂行し、そのために必要な軍備態勢を整える。
*
一方でゾルゲは、ドイツ大使オットより、オットがベルリンの指示により2日夕に松岡外相と会見し、日本軍によるウラジオストク占領を勧めた際、日本はドイツの要請に応じるとの印象を持ったという情報も得る。
*
7月4日
・イギリス政府、戦後の領事裁判権撤廃・租借地返還などを中国に表明。
*
7月4日
・ユーゴ、共産党、ドイツ占領軍に対する武装蜂起を決定。
チトー、ユーゴのレジスタンスを宣言。
*
7月5日
・陸相東条英機、関東軍特別演習を承認。
*
7月5日
・クレーギー英大便、日本軍の南部仏印進駐に関し、大橋外務次官に対し問い合わせと警告を行う。
*
7月5日
・この日付け荷風「断腸亭日乗」 (改行を施す)
「七月初五。晩間驟雨雷鳴。
夜に入りて四鄰のラヂオ喧騒を極む。毎年暑中となれば夕方六時日の未沒せざる頃より夜は十時過まで軍人輩の政論田舎なまりのラヂオドラマ浪花節など止む時なし。驚くべき都と云ふぺく實に住み憂き國といふぺし。
燈下徒然のあまり近年世變の次第を左に録して備忘となす。
一毎月一日及七日を奉公日とやら科して酒煙草を賣る事を禁じ、待合料理屋を休みとなせしは昭和十四年七月七日を以て始めとなす。
其の原因は戦地より歸來りし士官發狂し東海道列車中にて剣を抜き同乗せし車内の旗客を斬りし事あり。
又浅草公園にて兵卒酒に酔ひて通行人を傷けし事ありし爲、軍人への申譯にかくの如き禁欲日を設くるに至りしなり。
以後この日は藝者と女給の休業日となり、熱海をはじめ近縣の温泉旅館連込の男女にて大に繁昌するに至れり。
襚に十五年四月頃より温泉場の手人となり新婚の夫婦まで督察署に拘引せらるゝの奇観を呈したり。
〔欄外墨書〕一圓タタ遠方に往かず夜十二時過客を断るやうになりしは十四年三四月頃よりなり
一燈火管制といふ事は昭和八年七月より始まる。
一煙草二割値上となる。ヒカリ十一錢なりしを十三錢となす。
一十二月一日より市中飲食店はん半搗米を炊きて客に出す。
一舶來の酒化粧品殆どなくなる 十二月中
一市中自働俥夜十一時限りとなる。
一昭和十五年四月二日よりカフェー飲食店夜十二時限り。遊廓及玉の井亀戸は十二時までとなる。
一六月より砂糖マッチ切符制となる。七月六日奢侈品制造並に販費禁止の令出づ。
一八月二日より市内飲食店夕飯は夕五時より八時頃迄。晝は十一時より二時頃迄。この時間以外には米飯を出さず。九月一日より酒は夕方ばかりなり。待合玉の井吉原あたり、夕五時より晝遊禁止となる。
一十月より自働車は芝居の近處また盛場淺草公園附近にて客の乗降を禁ず。
一十一月かぎり市中舞踏場閉止。 」
*
7月6日
・グルー駐日米大使、日本の対ソ戦不参加を要求。
翌日、松岡洋右外相、米国大統領へ対ソ戦不参加を回答。
*
7月7日
・関東軍特別演習(関特演)の動員令(允裁)。第1次動員下令。動員予定85万人、徴用予定船舶90万トン。
16日、第2次動員。
最終的に内外16師団70万人・軍馬14万頭・航空機600機が集結。
*
7月7日
・米・アイスランド駐留協定調印。米第1海兵旅団、アイスランドに上陸
*
7月8日
・警視庁検閲課、美術雑誌38社を8社に統合するように指示。また婦人雑誌関係者50余人を招いて、10誌内外に統合を指示
*
7月8日
・ドイツ軍、レニングラード攻略開始
*
7月8日
・ドイツ・イタリア、ユーゴスラビア分割協定調印。
*
7月8日
・ペタン仏首相、国民革命を宣言。ヴァレリー・クローデルら、ペタン政権を支持。
*
7月8日
・アメリカの暗号解読室、2日の帝国国策要綱の解読に成功。
*
7月10日
・大本営政府連絡会議、ようやく米国の6月21日案とハルのステートメントを審議。この日は外務省に意見開陳のみ。
この日夜、近衛首相、陸海内3相と松岡問題を凝議。
12日、大本営政府連絡会議、松岡外相が日米交渉打切りを提議。松岡の癇癪玉が破裂し、松岡の政治生命がこの瞬間に絶える。
*
7月10日
・7月2日御前会議の内容に関するゾルゲ電報。受発信は11日。
「インベスト(尾崎)筋によると、御前会議において、対サイゴンの軍事行動計画は変更しないことが決定された。しかし同時に、赤軍が敗退した場合には、対ソビエト行動を準備することも決定された」。
ゾルゲは、御前会議の情報を
①尾崎秀美より、
②松岡外相~オット駐日大使よりの2ルートから入手。
②の情報は北進に偏っており、ゾルゲは①を用いた模様。
尚、独ソ開戦のゾルゲ情報を無視して失敗した赤軍情報部は、今回は信用できる情報と正確さ・信頼度の高さを認識。
*
7月10日
・関門海底鉄道トンネル貫通
*
7月10日
・独リッペントロープ外相、オット駐日大使に日本の参戦を働きかけるよう指令
*
7月11日
・大本営陸軍部、「関東軍特種演習(関特演)」決定・発動(対ソ戦準備、9月迄に70万の兵力集中)。
ソ満国境に兵力を集中
*
*
7月4日
・この頃(3日か4日)、尾崎秀実は西園寺公一と会い、7月2日の御前会議の内容を知る。
これを、5日か6日に訪ねてきた宮城与徳に渡し、宮城は10日頃ゾルゲに渡す。
*
この報告書には7月2日御前会議の決定として3点が記されている。
①わが国は国際情勢におけるあらゆる事態と推移に対応できる準備をする。
②わが国は日ソ中立条約を厳守し、これは国際情勢に大幅な変化がないかぎり継承する。
③わが国はいかなる困難に遭遇しようとも南進策を遂行し、そのために必要な軍備態勢を整える。
*
一方でゾルゲは、ドイツ大使オットより、オットがベルリンの指示により2日夕に松岡外相と会見し、日本軍によるウラジオストク占領を勧めた際、日本はドイツの要請に応じるとの印象を持ったという情報も得る。
*
7月4日
・イギリス政府、戦後の領事裁判権撤廃・租借地返還などを中国に表明。
*
7月4日
・ユーゴ、共産党、ドイツ占領軍に対する武装蜂起を決定。
チトー、ユーゴのレジスタンスを宣言。
*
7月5日
・陸相東条英機、関東軍特別演習を承認。
*
7月5日
・クレーギー英大便、日本軍の南部仏印進駐に関し、大橋外務次官に対し問い合わせと警告を行う。
*
7月5日
・この日付け荷風「断腸亭日乗」 (改行を施す)
「七月初五。晩間驟雨雷鳴。
夜に入りて四鄰のラヂオ喧騒を極む。毎年暑中となれば夕方六時日の未沒せざる頃より夜は十時過まで軍人輩の政論田舎なまりのラヂオドラマ浪花節など止む時なし。驚くべき都と云ふぺく實に住み憂き國といふぺし。
燈下徒然のあまり近年世變の次第を左に録して備忘となす。
一毎月一日及七日を奉公日とやら科して酒煙草を賣る事を禁じ、待合料理屋を休みとなせしは昭和十四年七月七日を以て始めとなす。
其の原因は戦地より歸來りし士官發狂し東海道列車中にて剣を抜き同乗せし車内の旗客を斬りし事あり。
又浅草公園にて兵卒酒に酔ひて通行人を傷けし事ありし爲、軍人への申譯にかくの如き禁欲日を設くるに至りしなり。
以後この日は藝者と女給の休業日となり、熱海をはじめ近縣の温泉旅館連込の男女にて大に繁昌するに至れり。
襚に十五年四月頃より温泉場の手人となり新婚の夫婦まで督察署に拘引せらるゝの奇観を呈したり。
〔欄外墨書〕一圓タタ遠方に往かず夜十二時過客を断るやうになりしは十四年三四月頃よりなり
一燈火管制といふ事は昭和八年七月より始まる。
一煙草二割値上となる。ヒカリ十一錢なりしを十三錢となす。
一十二月一日より市中飲食店はん半搗米を炊きて客に出す。
一舶來の酒化粧品殆どなくなる 十二月中
一市中自働俥夜十一時限りとなる。
一昭和十五年四月二日よりカフェー飲食店夜十二時限り。遊廓及玉の井亀戸は十二時までとなる。
一六月より砂糖マッチ切符制となる。七月六日奢侈品制造並に販費禁止の令出づ。
一八月二日より市内飲食店夕飯は夕五時より八時頃迄。晝は十一時より二時頃迄。この時間以外には米飯を出さず。九月一日より酒は夕方ばかりなり。待合玉の井吉原あたり、夕五時より晝遊禁止となる。
一十月より自働車は芝居の近處また盛場淺草公園附近にて客の乗降を禁ず。
一十一月かぎり市中舞踏場閉止。 」
*
7月6日
・グルー駐日米大使、日本の対ソ戦不参加を要求。
翌日、松岡洋右外相、米国大統領へ対ソ戦不参加を回答。
*
7月7日
・関東軍特別演習(関特演)の動員令(允裁)。第1次動員下令。動員予定85万人、徴用予定船舶90万トン。
16日、第2次動員。
最終的に内外16師団70万人・軍馬14万頭・航空機600機が集結。
*
7月7日
・米・アイスランド駐留協定調印。米第1海兵旅団、アイスランドに上陸
*
7月8日
・警視庁検閲課、美術雑誌38社を8社に統合するように指示。また婦人雑誌関係者50余人を招いて、10誌内外に統合を指示
*
7月8日
・ドイツ軍、レニングラード攻略開始
*
7月8日
・ドイツ・イタリア、ユーゴスラビア分割協定調印。
*
7月8日
・ペタン仏首相、国民革命を宣言。ヴァレリー・クローデルら、ペタン政権を支持。
*
7月8日
・アメリカの暗号解読室、2日の帝国国策要綱の解読に成功。
*
7月10日
・大本営政府連絡会議、ようやく米国の6月21日案とハルのステートメントを審議。この日は外務省に意見開陳のみ。
この日夜、近衛首相、陸海内3相と松岡問題を凝議。
12日、大本営政府連絡会議、松岡外相が日米交渉打切りを提議。松岡の癇癪玉が破裂し、松岡の政治生命がこの瞬間に絶える。
*
7月10日
・7月2日御前会議の内容に関するゾルゲ電報。受発信は11日。
「インベスト(尾崎)筋によると、御前会議において、対サイゴンの軍事行動計画は変更しないことが決定された。しかし同時に、赤軍が敗退した場合には、対ソビエト行動を準備することも決定された」。
ゾルゲは、御前会議の情報を
①尾崎秀美より、
②松岡外相~オット駐日大使よりの2ルートから入手。
②の情報は北進に偏っており、ゾルゲは①を用いた模様。
尚、独ソ開戦のゾルゲ情報を無視して失敗した赤軍情報部は、今回は信用できる情報と正確さ・信頼度の高さを認識。
*
7月10日
・関門海底鉄道トンネル貫通
*
7月10日
・独リッペントロープ外相、オット駐日大使に日本の参戦を働きかけるよう指令
*
7月11日
・大本営陸軍部、「関東軍特種演習(関特演)」決定・発動(対ソ戦準備、9月迄に70万の兵力集中)。
ソ満国境に兵力を集中
*
*
2010年8月1日日曜日
「七月廿五日。くもりて蒸暑し。・・・日軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。・・・」(永井荷風「断腸亭日乗」昭和16年7月25日条)
永井荷風「断腸亭日乗」昭和16年7月25日条に、
「七月廿五日。くもりて蒸暑し。・・・此夜或人のはなしをきくに日本軍は既に仏領印度と蘭領印度の二個所に侵入せり。この度の動員は蓋しこれが為なりと。比の風説果して事実なりとすれば、日軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。人の弱味につけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり」
とある。
*
日米交渉の真っ最中の日本軍の南部仏印進駐のことを言っている。
*
そして、8月1日の対日石油禁輸に繋がってゆく。
政策決定に関与した者らは、アメリカが、そこまでの対抗措置に出るとは想定していなかったようだ。
*
昭和16年(1941)7月~8月のこの暑さの中で、国の指導者と言われる者たちが、いかに道を誤っていったのか、少し見て行く。
*
*
昭和16年(1941)7月
*
この月
・京都、京都府立医大内グループ7名検挙、うち2名起訴。読書会・社会医学研究会。
*
・海軍省教育局長徳永栄少将、2・26事件以降海軍兵学校・海軍大学校出入り差し止めになっている平泉澄博士に出講を願いでる。
以降、昭和17年上半期だけでも数度江田島に出向き「皇国護持の道」と題する講義。
昭和18年、井上成美が校長となってからこれを見直す。
*
・太宰治(32)、書下ろし長編「新ハムレット」(文藝春秋社)。
*
・フランス、ユダヤ人の企業所有・管理・経営、禁止。
*
・フランス、占領地区のファシスト分子、「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」結成。総裁ドロンクル。
*
・アメリカ、ドノバン長官のもとに情報調整官事務局(OCI)設置。まもなく戦略情報事務局(OSS)改組。
*
7月1日
・第23軍司令官今村均中将、広東着任。
*
7月1日
・大本営政府連絡会議。「国策要綱」審議の最終日。
*
「蔵相(河田烈) 陸軍ハ武力的準備ヲヤルノカ(対ソ作戦に備えて)。
参謀総長 準備ヲヤル。先ツ在満部隊ヲ戦時編制トナシ、次テ攻勢ヲ取り得ル様ニスル。
衝動ヲ与へヌ様スルニハナカナカ苦心ヲ要スル。(翌7月2日御前会議で決定をみる対ソ戦準備、関東軍特別演習(「関特演」)も指す)
参謀次長 準備ハヤル。而シ乍ラヤリ得ル最小限ノ兵力ヲ整へテヤル積リナリ。ムチャヤクチャニ沢山ノ準備ヲヤル考へハナイ。
蔵相 海軍モヤルカ。
軍令部次長 潜水艦百隻ノ撃滅ヲ準備スル必要アリ。
商相(豊田貞次郎) 物ノ見地ヨリ申上ゲル。陸海軍カ戦争ヲヤルコトニナレバ物ノ見地カラ国力ハナイモノト思フ。陸海軍共ニ武力行使ヲヤラレルガ、両面戦争(対英米と対ソ)ヲヤルタメノ物ハ持タヌ。陸軍ハ早速動員ヲヤラレルダラウシ又海軍モ準備ヲスルダラウ。船ヲ徴発セラルルカラ物カ取レナクナリ、生産力拡充軍備充実等ニモ大ナル影響ヲ及ボス。
英米「ソ」ニ対シ不敗ノ態度ヲ取ルト云フコトヲ研究スル必要アリト思フ。
南進カ北進カ慎重ニセラレ度。帝国トシテハ物ハナイ。
不敗ノ態勢ト支那事変解決カ此ノ際ナノテハナイカ。」
*
7月1日
・閣議、「対仏印施策要綱」「南方施策促進ニ関スル件」決定。
南部仏印進駐決定。対米英開戦に備えての南進準備、シンガポール攻撃用の航空基地港湾施設確保が狙い。
*
7月1日
・第2回聖戦美術展
*
7月1日
・隣組常会が始まる。ラジオで「常会の時間」放送。
*
7月1日
・ドイツとイタリア、汪兆銘政府承認
*
7月2日
・重慶国民政府、対独伊国交断絶。
*
7月2日
・第5回(この年の1回目、昭和に入って5回目)御前会議、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」決定。
①南北両面に備え、
②南進態勢強化(南部仏印進駐)、
③対米戦辞せず、独ソ戦不介入。
*
近衛首相の説明。
「・・・帝国トシテハ大東亜共栄圏建設ノ為ニハ、依然トシテ当面ノ支那事変処理ニ邁進スルヲ要スルコト当然デアリマスガ、更ニ自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為、南方進出ノ歩ヲ進ムル一方、北辺ニ於ケル憂患ヲ芟除センガ為、世界情勢特こ独「ソ」戦ノ推移ニ応シ、適時北方問題ヲ解決スルコトハ、帝国国防上ハ勿論東亜全局ノ安定上極メテ肝要デアルト存ズルノデアリマス。以上ノ目的ヲ達成センガ為ニハ、帝国ガ各方面ヨリノ妨害抵抗ヲ受クルコトハ当然予想セラレマスガ、帝国トシテハ何トシテモ此ノ目的ヲ達成セネバナリマセンノデ、如何ナル障害ヲモ之ヲ排除スルノ鞏固ナル決意ヲ明カニセントスル次第デアリマス。・・・」
*
「原枢府議長 日「ソ」中立条約ノ為ニ日本カ「ソ」ヲ打タハ背信ナリト云フモノアルヘキモ、「ソ」ハ背信行為ノ常習者ナリ。日本カ「ソ」ヲ打チテ不信呼パリスルモノハナシ。私ハ「ソ」ヲ打ツノ好機到来ヲ念願シテ巳マサルモノナリ。米国トノ戦争ハ避ケタイ。「ソ」ヲ打ツモ米国ハ出ナイト思フ。モウ一ツ伺ヒマス。仏印施策実行ニ当り英米戦ヲ辞セスト云ヒツツ、仏印ニ於テ対英米戦ヲ準備スル為ニ、近クヤル基地設定ハ之レカ為ノ準備タト云フテヰル。今迄ニ英米戦ノ準備ハ出来ナカツタノカ。仏印ヲヤレバ英米戦ハ起ルト思フカ如何。」。
*
「英米戦ヲ辞セス」というのは、「国策要綱」二の「帝国ハ本号目的達成ノ為対英米戦ヲ辞セス」を指し、「本号日的」は、その前段の「・・・仏印及泰ニ対スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ強化ス」を受けている。
つまり、南方へ進出すれば、対英米戦を惹起する危険率が高いが、それでもかまわない、南方へ進出する、というのであるから、この七月二日の時点で、日本は対英米戦を決意していたはず。
実際には、『南方施策促進ニ関スル件』の陸海軍事務当局案では、「英米ニ対シ武力ヲ行使ス」とあったものが、海軍側の意見によって「対英米戦ヲ賭スルモ辞セス」に変えられ、「帝国国策要綱」では「対英米戦ヲ辞セス」と修正された。
*
独ソ戦は、「要領三」に記載。
「独ソ戦ニ対シテハ三国枢軸ノ精神ヲ基調トスルモ、暫クコレニ介入スルコトナク、密カニ対ソ武力的準備ヲ整エ、自主的ニ対処ス。コノ聞モトヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交渉ヲ行ウ。独ソ戦ノ推移帝国ノタメ有利こ進展セバ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス」。
*
陸軍省整備局戦備課の高級課員増田繁雄、「二、三日中に南部仏印進駐が御前会議できまると聞いた。やれば貿易断絶、生き延びるため大戦突入。自信が持てない。・・・課長に阻止をお願いする」と意見具申。
*
7月3日
・南部仏印進駐準備の大命(允採)。第25軍司令官飯田祥二郎宛て大陸命第502号。
大陸命に基づく参謀総長指示。
「仏印側カ我要求ニ応シタル場合ニ於テハ平和的ニ進駐シ之ニ応セサル場合ニ於テハ武力ラ行使シテ進駐スルモノトス」と明示。
*
7月3日
・野村大使の警告電。
「モシ独ソ戦争ニ関連シテ対南方武力行使ヲナサルル決意ナリトセバ、日米関係調節ノ余地ハ全然ナキモノト観測セラル・・・日米開戦ノ一歩手前マデ行ク倶ナシトセズ」と進言。
*
7月3日
・イタリア・アフリカ軍の抵抗終結。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ復権。
*
7月3日
・ミンスク戦の終了。スターリン、ラジオで演説。独ソ戦を大祖国戦争と規定し、パルチザン戦を呼びかける。10日 パルチザン運動中央参謀部設立。
*
*
(続く)
*
「七月廿五日。くもりて蒸暑し。・・・此夜或人のはなしをきくに日本軍は既に仏領印度と蘭領印度の二個所に侵入せり。この度の動員は蓋しこれが為なりと。比の風説果して事実なりとすれば、日軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。人の弱味につけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり」
とある。
*
日米交渉の真っ最中の日本軍の南部仏印進駐のことを言っている。
*
そして、8月1日の対日石油禁輸に繋がってゆく。
政策決定に関与した者らは、アメリカが、そこまでの対抗措置に出るとは想定していなかったようだ。
*
昭和16年(1941)7月~8月のこの暑さの中で、国の指導者と言われる者たちが、いかに道を誤っていったのか、少し見て行く。
*
*
昭和16年(1941)7月
*
この月
・京都、京都府立医大内グループ7名検挙、うち2名起訴。読書会・社会医学研究会。
*
・海軍省教育局長徳永栄少将、2・26事件以降海軍兵学校・海軍大学校出入り差し止めになっている平泉澄博士に出講を願いでる。
以降、昭和17年上半期だけでも数度江田島に出向き「皇国護持の道」と題する講義。
昭和18年、井上成美が校長となってからこれを見直す。
*
・太宰治(32)、書下ろし長編「新ハムレット」(文藝春秋社)。
*
・フランス、ユダヤ人の企業所有・管理・経営、禁止。
*
・フランス、占領地区のファシスト分子、「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍」結成。総裁ドロンクル。
*
・アメリカ、ドノバン長官のもとに情報調整官事務局(OCI)設置。まもなく戦略情報事務局(OSS)改組。
*
7月1日
・第23軍司令官今村均中将、広東着任。
*
7月1日
・大本営政府連絡会議。「国策要綱」審議の最終日。
*
「蔵相(河田烈) 陸軍ハ武力的準備ヲヤルノカ(対ソ作戦に備えて)。
参謀総長 準備ヲヤル。先ツ在満部隊ヲ戦時編制トナシ、次テ攻勢ヲ取り得ル様ニスル。
衝動ヲ与へヌ様スルニハナカナカ苦心ヲ要スル。(翌7月2日御前会議で決定をみる対ソ戦準備、関東軍特別演習(「関特演」)も指す)
参謀次長 準備ハヤル。而シ乍ラヤリ得ル最小限ノ兵力ヲ整へテヤル積リナリ。ムチャヤクチャニ沢山ノ準備ヲヤル考へハナイ。
蔵相 海軍モヤルカ。
軍令部次長 潜水艦百隻ノ撃滅ヲ準備スル必要アリ。
商相(豊田貞次郎) 物ノ見地ヨリ申上ゲル。陸海軍カ戦争ヲヤルコトニナレバ物ノ見地カラ国力ハナイモノト思フ。陸海軍共ニ武力行使ヲヤラレルガ、両面戦争(対英米と対ソ)ヲヤルタメノ物ハ持タヌ。陸軍ハ早速動員ヲヤラレルダラウシ又海軍モ準備ヲスルダラウ。船ヲ徴発セラルルカラ物カ取レナクナリ、生産力拡充軍備充実等ニモ大ナル影響ヲ及ボス。
英米「ソ」ニ対シ不敗ノ態度ヲ取ルト云フコトヲ研究スル必要アリト思フ。
南進カ北進カ慎重ニセラレ度。帝国トシテハ物ハナイ。
不敗ノ態勢ト支那事変解決カ此ノ際ナノテハナイカ。」
*
7月1日
・閣議、「対仏印施策要綱」「南方施策促進ニ関スル件」決定。
南部仏印進駐決定。対米英開戦に備えての南進準備、シンガポール攻撃用の航空基地港湾施設確保が狙い。
*
7月1日
・第2回聖戦美術展
*
7月1日
・隣組常会が始まる。ラジオで「常会の時間」放送。
*
7月1日
・ドイツとイタリア、汪兆銘政府承認
*
7月2日
・重慶国民政府、対独伊国交断絶。
*
7月2日
・第5回(この年の1回目、昭和に入って5回目)御前会議、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」決定。
①南北両面に備え、
②南進態勢強化(南部仏印進駐)、
③対米戦辞せず、独ソ戦不介入。
*
近衛首相の説明。
「・・・帝国トシテハ大東亜共栄圏建設ノ為ニハ、依然トシテ当面ノ支那事変処理ニ邁進スルヲ要スルコト当然デアリマスガ、更ニ自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為、南方進出ノ歩ヲ進ムル一方、北辺ニ於ケル憂患ヲ芟除センガ為、世界情勢特こ独「ソ」戦ノ推移ニ応シ、適時北方問題ヲ解決スルコトハ、帝国国防上ハ勿論東亜全局ノ安定上極メテ肝要デアルト存ズルノデアリマス。以上ノ目的ヲ達成センガ為ニハ、帝国ガ各方面ヨリノ妨害抵抗ヲ受クルコトハ当然予想セラレマスガ、帝国トシテハ何トシテモ此ノ目的ヲ達成セネバナリマセンノデ、如何ナル障害ヲモ之ヲ排除スルノ鞏固ナル決意ヲ明カニセントスル次第デアリマス。・・・」
*
「原枢府議長 日「ソ」中立条約ノ為ニ日本カ「ソ」ヲ打タハ背信ナリト云フモノアルヘキモ、「ソ」ハ背信行為ノ常習者ナリ。日本カ「ソ」ヲ打チテ不信呼パリスルモノハナシ。私ハ「ソ」ヲ打ツノ好機到来ヲ念願シテ巳マサルモノナリ。米国トノ戦争ハ避ケタイ。「ソ」ヲ打ツモ米国ハ出ナイト思フ。モウ一ツ伺ヒマス。仏印施策実行ニ当り英米戦ヲ辞セスト云ヒツツ、仏印ニ於テ対英米戦ヲ準備スル為ニ、近クヤル基地設定ハ之レカ為ノ準備タト云フテヰル。今迄ニ英米戦ノ準備ハ出来ナカツタノカ。仏印ヲヤレバ英米戦ハ起ルト思フカ如何。」。
*
「英米戦ヲ辞セス」というのは、「国策要綱」二の「帝国ハ本号目的達成ノ為対英米戦ヲ辞セス」を指し、「本号日的」は、その前段の「・・・仏印及泰ニ対スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ強化ス」を受けている。
つまり、南方へ進出すれば、対英米戦を惹起する危険率が高いが、それでもかまわない、南方へ進出する、というのであるから、この七月二日の時点で、日本は対英米戦を決意していたはず。
実際には、『南方施策促進ニ関スル件』の陸海軍事務当局案では、「英米ニ対シ武力ヲ行使ス」とあったものが、海軍側の意見によって「対英米戦ヲ賭スルモ辞セス」に変えられ、「帝国国策要綱」では「対英米戦ヲ辞セス」と修正された。
*
独ソ戦は、「要領三」に記載。
「独ソ戦ニ対シテハ三国枢軸ノ精神ヲ基調トスルモ、暫クコレニ介入スルコトナク、密カニ対ソ武力的準備ヲ整エ、自主的ニ対処ス。コノ聞モトヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交渉ヲ行ウ。独ソ戦ノ推移帝国ノタメ有利こ進展セバ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス」。
*
陸軍省整備局戦備課の高級課員増田繁雄、「二、三日中に南部仏印進駐が御前会議できまると聞いた。やれば貿易断絶、生き延びるため大戦突入。自信が持てない。・・・課長に阻止をお願いする」と意見具申。
*
7月3日
・南部仏印進駐準備の大命(允採)。第25軍司令官飯田祥二郎宛て大陸命第502号。
大陸命に基づく参謀総長指示。
「仏印側カ我要求ニ応シタル場合ニ於テハ平和的ニ進駐シ之ニ応セサル場合ニ於テハ武力ラ行使シテ進駐スルモノトス」と明示。
*
7月3日
・野村大使の警告電。
「モシ独ソ戦争ニ関連シテ対南方武力行使ヲナサルル決意ナリトセバ、日米関係調節ノ余地ハ全然ナキモノト観測セラル・・・日米開戦ノ一歩手前マデ行ク倶ナシトセズ」と進言。
*
7月3日
・イタリア・アフリカ軍の抵抗終結。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ復権。
*
7月3日
・ミンスク戦の終了。スターリン、ラジオで演説。独ソ戦を大祖国戦争と規定し、パルチザン戦を呼びかける。10日 パルチザン運動中央参謀部設立。
*
*
(続く)
*
登録:
投稿 (Atom)