この頃の一葉が住んでいた丸山福山町というところは、歓楽街であったらしい。
(その前に住んでいた龍泉寺は吉原遊郭の傍であった。)
一葉の家の隣には銘酒屋「浦島」があった。
この日(明治27年7月20日)、この「浦島」で働く小林あい(愛)という女性が一葉に保護を求めてくる。
一葉は、
「・・・・・
「すくひ給へ」とすがられしも縁(えん)也。
「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。
東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也」
と書く。
このとき、一葉は「文学界」に連載中の「闇夜」の続編が完成出来ずに苦闘中なのである。
「東女(あづまをんな)はどんな物か(お見せしましょう)」という、なんともカッコいいのである。
日記の記述でゆけば、7月20、21、23日の3日分だけだが、20日の日記はなんとも長い。
(短編小説のようである)
*
*
明治27年7月20日
隣家に此ほどよりかゝり居る女子あり。
生れは神戸の刀剣商にて、然るべき筋の娘なれど、十六の歳より身の行(おこなひ)よからで、契りしは何某(なにがし)の職工成ける。父なる人の怒にふれて、侘しき暮しを二、三年がほどなしつる。かゝりしほどに、男子一人まうけて、二人が仲にはあくこゝろもなかりしを、男の親の心あしく、此女(このむすめ)いかにしてもかくてあられぬ時は来りぬ。
「今はせんなし」とて、別れて家にかへる時、子は我が方につれもどして、その身はそれより大坂中の島の洗心館に仲居といふ物に成りて、ことし五年がほど過ぬ。
さるほどに、此女生つき闊達の気象、衆客の心にかなひて、引手あまたの全盛こゝにならぷ物なく、「洗心館のお愛」と呼ばれては紅葉館のお愛と東西に嬌名(けうめい)たかく、「我ぞ手折(たをり)て我宿の」と引かるゝ袖の、さりとはうるさや。
「一つ心を、ぬし様に」と思ひこみぬるは、かの地に名高きぼう易商、こゝにも人ぞしる森村市蔵が一家に、広瀬武雄とてとしは二十六、当世様(たうせいやう)の若大将。粋(すい)は身をくふ合(あひ)ぼれの仲おもしろく、互にのぼる二階三階、せきはとゞめぬ帳場の為にも、「大尽客」とて下にも をかぬもてなしを、猶や「ぬし様御顔よかれ」と、みえにはそろひの惣(そう)はつぴ、女子にちらす紙花(かみはな)の、哀れや女(むすめ)もつまりに成りて、双手にあまりしこがねの指輪、一つは内処(ないしよ)、二つはそつと、三つ四つと売つくせば、やがては客のひゞきに成りて、岡(をか)やき半分なぶらるゝ。座敷の数は昔しのまゝとても、我が手にのらぬそれ鷹(たか)のねらひたがへは、互がひの上にもみゆるぞかし。まけじ気性は今更の恋に火の手つのりて、「御免候へ。我にも可愛き人一人。のろけはならひぞ。うら山しくは真似ても見給へ。
花を見捨る裏住居(うらずまひ)も、ぬし様故なら大事なき身」と、おもて晴たる取なしに、「長くはあられぬ此家(このうち)をはなれて、共に」と計(ばかり)、息子も折ふし使ひ過しの詮議むづかしく、こゝの支店に左せんの身となれば、とるや手に手を「鳥が鳴(なく)」とはふるし、「東(あづま)に行てしばしの辛抱を」と、「落人」ならねど人前つゝましき二人づれの汽車の中、出むかひの手前は、「さる大家の姫様、学問修業にこれへとあるを、我れに托されて同道」とくるむれど、誰が目に見てもそれ者(しや)あがりのなりふり。
さりとはむづかしの乳母(うば)のもとに、しばしの宿をととゞめける。「我れも家(か)とくは四、五年の後なり。部屋住(へやずみ)の身の思ふにまかせぬほどは、そなたも修業ぞや。つらくとも堅気の家に奉公ずみして、やがて花咲く春にもあはゞ、仮親(かりおや)もうけて『奥様』とはいはすべし。頼む」とありけるぬしが詞(ことば)勿体なく、骨身にきざんで「さらは」と出立(いでた)てば、全盛うつたる身に、一人女子のはしり使ひ、何としてたへらるべき。我れこらゆれども、お主様(しゆうさま)御気(おき)に人らねば甲斐なや。出もどりの数を尽して、「乳母の手前はづかしや」と、こしらへ言の底情なくわれて、「京の大家(たいけ)の姫様と聞ましたるは偽り、九尾(きうび)の狐の、我が若旦那様手の中にまろめて、手だてあぶなや。大切は若旦那様が上」とて、乳母が怒りに取つく島ふつとはなれて、我とはとかぬとも綱に、行衛は波のわた中を、流れ小舟の身の上助くる人なくて、乳母が前への謝罪(わび)はこれと、をしや、三日月の眉ごそりとそりぬ。
「すくひ給へ」とすがられしも縁(えん)也。「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也
**********
(意訳)
小林愛。生まれは神戸の刀剣商。16歳から品行が良くなく同棲を始める。
父の怒りにふれて人目をはばかり生活するうちに子供もできた。2人の仲は良かったが、男の親が悪く、結局子供を引き取って別れることになった。
その後、大阪、中の島の料亭、洗心館で働くが、朗らかでさっぱりした気性なので、客受けもよく、「洗心館のお愛」と呼ばれ、東京の「紅菜館のお愛」とともに評判も高くなる。
袖引く客が多い中で、貿易商森村市蔵の部下の広瀬武雄26歳と相思相愛の仲となる。
男は店で散財する、女は、ぬし様の顔を立てようと見栄を張り、店の者にも揃いの法被を着せたり、女中たちにもお金をばら撒いたりした。
両手にはめきれないほどの金の指輪を、一つ目は内緒に、二つめはそっと、さらに三つ四つと全て売り尽くし、他の客たちからは嫉み半分にひやかされるしまつ。
客も以前通りに多かったが、みすぼらしい裏町住まいでも、一緒だったら何とも思わぬと、この男と一緒に暮らすことになった。
男の方は、使い込みの取り調べがうるさくなり、東京の支店に左遷されることになり、しばらく辛抱しようと、二人で東京に向かう。
東京では、男は出迎えの者に、大家のお嬢さんが学問修業に上京されるのを、頼まれてお連れした、と言うものの、誰の目にも芸者あがりの女に見えた。
そして女は男の乳母の家にしばらく身を置くことになる。
女は奉公に出るが、かつては花柳界ではばをきかした身で、走り使いの仕事はなかなか定着しない。乳母の手前は恥ずかしく、言い訳もすぐばれてしまい、乳母は怒り狂ってしまう。
自分では切らなくても、とも網を切られた小舟のように波のまにまに流れて行く身を助けてくれる人とてもなく、乳母をだました謝罪にと、美しい三日月のような眉を剃り落とした(*銘酒屋で働く、娼婦になる、くらいの意味があるようです)。
私がすがったのも何かの縁があったからか。
分不相応な重荷であるが、引き受けた上は、お前様はこの家の娘も同然、私の言うことを聞いて貰わねばならない。
東女の心意気がどんなものか見せてあげよう。狭いけれどもこの袖の陰に隠れて、しばらくの間、時期が来るのをお待ちなさい、 と今日これを引き受けた。
*
*
7月21日
二十一日 早朝、孤蝶君よりはがき来る。「続稿は二十二日中にてよし」とのこと、嬉しき人也。
今日午後より田中君のもとを訪ひて、お愛がしばしの宿にたのまんとす。日ぐれ少し前よりゆく。留守成しかど、しばしまつ。
かにかくと断(ことわり)がましく言を左右に托せど、「見かけて頼みし我れに対し、『厭(いや)』とあらは、お前様(まえさま)女子(おなご)にはあるまじ。横に車かしらず、長くとにはあらず、二月か三月、それもむづかしくは一月にてもよし」とて、をしつかへしつのはてに、「さらは試(こころみ)に二日がほどをよこし給へ」といふ。雷雨はげしく、かへりは車にて送らる。
**********
(意訳)
とにかく、田中みの子のところで2、3日預かってもらうことになった、
*
*
7月23日
二十三日 早朝、田中君より断(ことわり)の手紙来る。
「まことはうしろぐらき処ある人の、我れにはひたすらつゝまんとする物から、我よりつかはしたる女子に家内の様子しれなば、つひには身の為よからじ、との心なるべし。あな狭の人ごゝろや」などをかし。
さるにても、お愛のなげき一方(ひとかた)ならず。「いかでかく非運薄福の身」と打なくさま、哀れにいぢらしければ、「さらば今一度、我が師のもとを訪ひて頼みてみん」と、家を出づ。
師には事情(わけ)残りなくうちあけて頼み聞えたるに、師は、「その人となりの表面上よろしからざるに、これを引うけてかくまふといはゞ、我も君もこれよりの前途に一大障碍となりて、遂に救ひがたき大難を生ずべし」とて、聞入れ給はず。今はかひなし。
帰宅後、猶よくおあいと相談す。「さらば一直線に武雄ぬしのもとを訪ひて、諸事談合の上に、いか様とも策のほどこし方はあるべし。木挽丁は物の表にして、これにはつくろひもあるべし、はゞかりもあらん。武雄ぬしとの仲は紙一枚の隔てなく、かくしだての入るべきならず。又、よしや世人(よびと)は何ともいへ、君にしていのちと頼むは此人なるべし。箱根にいますと定まりたらは、宮の下か芦之湯か、いづくまれ、尋ねてしれぬ事はあらじ。
いざ給へ。行て逢見て後(のち)の事」とうながすに、「さらば」と思ひ起して直に支度す。
隣家の妻がとゞむる(ことば)詞のうるさかりしかど、さまざまに頼み聞えて出づ。出がけに、「木挽町より帯取寄る為」とて、文したゝむ。隣の妻が名前にて、「ぬしのありかしれ居らば、此文のはしにしるし給へ」とかく。
送りし車夫(くるまや)の帰りしは、午後三時過る頃成し。首尾よく策の当りて、宿処(やど)を教へたるよし、まづはうれしかりしに、「隣家の主(あるじ)帰宅の後、直(すぐ)に木挽丁に実事(まこと)打あけん」といふ。「そはよろしかるまじ」とてとゞむるに、猶くどくどとのゝしりて、乳母のかたへの義理を思ふ。哀れなるは小人(せうじん)、とるべき道をあやまりたるの人なり。
********
(意訳)
田中みの子から断りの手紙が来る。
(意地悪い描写になっている)
本当は、みの子自身もうしろ暗い所があるので、それを私には隠そうとしているが、こちらからやった女の子に家の事情が知れたら、自分のためにもよくないと思ったからだろう(と、一葉は勘ぐる)。
次に、師の歌子に頼むことにする。
しかし、その歌子も世間体だとか、今後の障碍だとか難儀を心配して引き受けてくれない。
結局、男(広瀬武雄)のところに行くしかないという結論になり、乳母からうまく男の現住所を聞き出し、隣の主人が何かと邪魔をするなか、愛を男の許へ送る。
*
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7月20日~11月8日の日記はないため、その後の顛末は不明。
しかし、1年後の明治28年11月3日の日記に、
「神戸の小林あい子より松たけ一籠おくりおこしたるを、いひにたきて集(あつま)りてたうべぬ。」
とあり、うまく決着したと推測できる。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照ください。
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2011年9月11日日曜日
2011年7月16日土曜日
樋口一葉の手紙 明治27年(1894)7月20日(22歳) 「世間のうくもつらくもお前様おハしませバと 心丈夫にさだめて 大海を小ぶねにて渡る様な境界 ミ捨給ハゞ波の下草にこそ候はめ」
丸山福山町に移ってからの一葉の日記を順次ご紹介してますが、今日はこの頃、半井桃水に宛てた一葉の手紙をご紹介。
前回ご紹介した日記に続く時期に相当するもので、実物は台東区の一葉記念館にも展示されています。
一葉記念館については、コチラ と コチラ。
*
*
7月12日、一葉は2年ぶりに桃水を訪問し、その日の日記には彼への思慕の情を記しています(前回)。
*
*
そして今回は・・・。
雷さえ鳴らなければそのうちにお宅に行きますとの桃水の言葉を頼りに、一葉は今か今かと桃水を待ちます。
そして、7月15日に待ち焦がれた桃水が一葉を訪ねて来ます。
しかし、桃水は初めからゆっくりとする気もないらしく、外に車を待たせていました。
また、あいにくこの日は兄が来ており、桃水は早々に一葉宅を引き上げました。
桃水の余りの素っ気なさによるものか、7月20日頃、一葉は桃水に手紙を書きます。
「強気の夏子」にしては、すねたような甘えたような手紙です。
*
*
明治27年(1894)7月14日
十四日 小石川稽古にゆく。榊原家よりゆかた地、中村君より帯止、はんけち到来。
此夜更(ふく)るまでねぶり難し。
あすの雷雨いかにや。
*
*
7月15日 桃水が鶏卵の折を持って一葉を訪れる。
十五日 はれ。早朝、芝の兄君来訪。
少し物がたるほどに半井君参り給ふ。
少し面やせたれども、その昔しよりは、いげんいよいよ備はりて、態度の美事なるに、一楽織(いちらくおり)のひとへに嘉平次のはかま、絽(ろ)にてはあるまじき羽織のいと美事なるをはふり給ふ。
門に車をまたせ給へるは、長くあらせ給ふべきにあらじとて、しゐてはとゞめず。
鶏卵の折到来。
兄君は日ぐれまで遊び給ふ。夜に入りてより、西村の礼助来る。
此夜の月、又なく清し。
*
*
7月17日
十七日 平田君より書状来る。避暑として奥羽の旅にのぼりしよし。雑誌のこと申来る。
*
*
7月19日
十九日 小説「やみ夜」の続稿いまだまとまらず。編輯の期近づきぬれば、心あわたゞし。此夜、馬場孤蝶子のもとにふみつかはし、「明日の編輯を明後日までにのはし給はらずや」と頼む。
前回ご紹介した日記に続く時期に相当するもので、実物は台東区の一葉記念館にも展示されています。
一葉記念館については、コチラ と コチラ。
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7月12日、一葉は2年ぶりに桃水を訪問し、その日の日記には彼への思慕の情を記しています(前回)。
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そして今回は・・・。
雷さえ鳴らなければそのうちにお宅に行きますとの桃水の言葉を頼りに、一葉は今か今かと桃水を待ちます。
そして、7月15日に待ち焦がれた桃水が一葉を訪ねて来ます。
しかし、桃水は初めからゆっくりとする気もないらしく、外に車を待たせていました。
また、あいにくこの日は兄が来ており、桃水は早々に一葉宅を引き上げました。
桃水の余りの素っ気なさによるものか、7月20日頃、一葉は桃水に手紙を書きます。
「強気の夏子」にしては、すねたような甘えたような手紙です。
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明治27年(1894)7月14日
十四日 小石川稽古にゆく。榊原家よりゆかた地、中村君より帯止、はんけち到来。
此夜更(ふく)るまでねぶり難し。
あすの雷雨いかにや。
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7月15日 桃水が鶏卵の折を持って一葉を訪れる。
十五日 はれ。早朝、芝の兄君来訪。
少し物がたるほどに半井君参り給ふ。
少し面やせたれども、その昔しよりは、いげんいよいよ備はりて、態度の美事なるに、一楽織(いちらくおり)のひとへに嘉平次のはかま、絽(ろ)にてはあるまじき羽織のいと美事なるをはふり給ふ。
門に車をまたせ給へるは、長くあらせ給ふべきにあらじとて、しゐてはとゞめず。
鶏卵の折到来。
兄君は日ぐれまで遊び給ふ。夜に入りてより、西村の礼助来る。
此夜の月、又なく清し。
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7月17日
十七日 平田君より書状来る。避暑として奥羽の旅にのぼりしよし。雑誌のこと申来る。
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7月19日
十九日 小説「やみ夜」の続稿いまだまとまらず。編輯の期近づきぬれば、心あわたゞし。此夜、馬場孤蝶子のもとにふみつかはし、「明日の編輯を明後日までにのはし給はらずや」と頼む。
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7月20日頃 一葉の桃水宛の手紙
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7月20日頃 一葉の桃水宛の手紙
暑さはげしく候所 いかゞいらせられ侯や 御様子伺度
朝鮮もやうやうけしきだつ様に承り侯間 もしおぼし召立もや
御ちかくながらつねに拝姿(はいし)も得がたければ 人のうわさのさまざまに 驚かされて胸とゞろかれ申候
よは虫と笑はせ給ふな 一筋に兄上様と頼ミ参らする身の心ぼそさ故に御坐候
もしその後の御立寄もやと待わたりまゐらせ候日数も 今日はいくかに成候ハはん
御めにかゝらばしミじミお話も申上 御をしへにもあづかりたしとはかねての願に御坐候を 此ほどのやうに他人行儀の御義理合ひに御出(いで)下され候ては 何事を申上らるべき
さりとは御恨(うら)ミにも存じ候
御心もしらず御詞(おことば)一つをたのみに我れ一人妹気取のおろかさ よしや世間のうくもつらくもお前様おハしませバと心丈夫にさだめて大海を小ぶねにて渡る様な境界 ミ捨(すて)給ハゞ波の下草にこそ候はめ
はるかに成し月日をかぞへ候へば 私はお前様の御怒にふるゝ様なる事斗(ばかり)かさね申居候
罪は心浅き我れにあれば 今更に人ハうらまねど 後悔のおもひにかきくらさるゝ朝夕を せめてはおもふほどのこと御聞にいれて御詫(わび)のかなはゞうれしかるぺく
それむつかしくハよそながら我心のうちにだけ兄上様とたのミ参らするを御ゆるしいたゞき度(たく)
さりとて夢さらあやしき心ありてにはあらず
かねての御気質をしれバ 何としてその様なこと申上らるべき
唯(ただ)々隔てなき兄弟の中ともならバと これのみ終生の願ひに御坐侯を
けふ此ごろのおぼしめし斗(はかり)がたさにおもひ侘(わび)申候
夕風すゞしからんほど 御そゞろあるきのお序(ついで)と申様な折に御はこびは願ハれまじくや
しゐては申がたけれど これは欲の上の欲に御坐候
かしこ
夏子
師之君
御前
*
*
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桃水は対馬藩藩医である父に従い少年の頃から釜山の倭館で過ごし朝鮮語は堪能。
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桃水は対馬藩藩医である父に従い少年の頃から釜山の倭館で過ごし朝鮮語は堪能。
壬午事変(軍乱)に際しては、大阪朝日新聞の海外特派員として活躍し評判を得た。
この手紙の頃は、甲午農民戦争の頃であり、一葉は桃水の目下の最大関心事であろう朝鮮の情勢を、その手紙の冒頭に置いている。
そのあと、15日の素っ気無い他人行儀な訪問に対して、「その後の御立寄」を心待ちにしていたのに、とその残念さを訴えている。
2011年7月9日土曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)7月12日(22歳) 「かく計したはしく、なつかしき此人をよそに置て、おもふ事をもかたらず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこゝろは、大河をふさぎてかへつてみなぎらするが如かるべし。」(樋口一葉「水の上日記」)
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)
7月8日
八日 平田君来訪。田中ぬしが「かまくら紀行」、いづくの雑誌にか記載のこと頼む。「これより森鴎外君のもとに趣けば、同君にたのみて、『しがらみ草紙』などに出さばや」とてかへる。午後、中島くら殿来訪、物語多し。夜食を馳走してかへす。樋口のくらも来る。「明早朝、一番汽車にて帰郷したし」とあるに、今宵はみやげ物などとゝのふる為、本郷通へ諸共に行く。
*
*
一葉は、友人田中みの子の紀行文の雑誌掲載を平田禿木を介して世話する。
「かまくら紀行」は、明治25年7月1日~5日、師匠の中島歌子と鎌倉に旅行した折の紀行文。
「しがらみ草紙」は鴎外が主宰する雑誌で、この年7月号(第58号)に掲載される。
*
*
7月9日
九日 早朝、くらを送て上野に行。上野丁の小松星といへる旅店に、知人の待合せ居りて、共に帰県をなすよしに付、同家までゆく。上野よりにはあらで、新宿の汽車にて行よしなれば、我れはこゝより帰宅。朝飯をしまひて、無沙汰み舞に伊東、田中の両家を訪ふ。日ぐれまで遊ぶ。田中ぬしのもとにありける『艶道通鑑』とて、五冊ものゝ随筆めける、小出ぬしの蔵書のよしなるをかりる。
*
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7月10日
十日 禿木子より状(ふみ)あり。「森君のもとにて、田中ぬしの紀行よろしきよしに付、本名、宿処、報道あり度し」となり。返事つかはす。奥田君来訪。
*
*
7月11日
十一日 師君のもとへ行く。田中ぬしも盆礼として来訪。雑誌の事を語るに、喜色あふるゝやう也。師君いかなるにか、衣類その他を質入して金子をとゝのへ給へるよしにて、加藤の妻より、我れは金子をうけとる。師君ははやく出稽古に趣給ひぬ。此日、日ぐれ前より雷雨、中々に晴がたし。夜に入りてより帰宅。佐藤、盆礼に来たりしよし。
*
*
どうしたことか、師匠は、衣類などを質入れして一葉のお手当てを工面したようだ。
*
*
7月12日 桃水を訪問。
十二日 到来物のありしかば、半井君を訪ふ。
めづらしくこゝろよげにて、にこやかに物がたらる。
されども、来客のありければ、長くもかたらで帰るに、「いづれちかくに御音(おおと)づれ申べし。十五、六の両日のうちに、雷雨なくはかたらず」といふ。
たけくをゝ敷此人のロより、かみなりの恐ろしきよしを聞こそをかしけれ。
*
*
久しぶりに半井桃水を訪問する。彼は元気であったが、来客もあり長居はしなかった。
桃水は、「いずれ近いうちにお訪ねするつもりです。十五日か十六日のうち、雷や雨がなかったら必ずお訪ねしますよ」と言う。
強そうで男らしいこの方の口から、雷が恐ろしいなどと聞くのは、可笑しい気持ちであった。
*
*
静かにかぞふれは、誠や、此人とうとく成そめぬるは、をとゝしのけふよりなり。
隔たりゆく月日のほどに、幾度こゝろのあらたまりけん。
一度は、これをしをりにして悟道(ごどう)に入らはやとおもひつる事もあり。
一度は、
「ふたゝびと此人の上をば思はじ。
おもへばこそさまざまのもだえをも引おこすなれ。
諸事はみな夢、この人こひしとおもふもいつまでの現(うつつ)かは。
我れにはかられて我と迷ひの淵にしづむ我身、はかなし」
と、あきらめたる事もありき。
そもそも思ひたえんとおもふが我がまよひなれば、殊更(ことさら)にすつべきかは。
冥々の中に宿縁ありて、つひにはなれがたき仲ならばかひなし。
見ては迷ひ、聞てはこがれ、馴ゆくまゝにしたふが如き我れならば、遂に何事をかなしとげらるべき。
かく計(ばかり)したはしく、なつかしき此人をよそに置て、おもふ事をもかたらず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこゝろは、大河をふさぎてかへつてみなぎらするが如(ごと)かるべし。
悟道を共々(ともども)にして、兄の如く妹のごとく、世人(よびと)の見もしらざる潔白清浄なる行ひして、一生を送らばやとおもふ。
*
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一葉は、変わらぬ桃水への思慕を語り、「潔白清浄」に生きて貞節を守ると願う。
*
*
この人との間が疎遠になり初めたのは一昨年の今月からである。
その後、月日がたつにつれて私の心は何度変わったことか。
一度は、これを栞として悟りの道に入ろうと思ったこともある。
一度は、
二度とこの人のことは思うまい、思うからこそ色々の悩みが湧いてくる。
人生はみな夢のように消えるのだから、この人を思う現実の心も何時まで続くとも思われない。
こんな迷いの中に沈んで行くことの何とはかない事よとあきらめた時もあった。
しかし、あきらめようと思うこと自体が迷いなのだから、わざわざあきらめる必要もないように思う。
それぞれに前世からの因縁があって、 離れられないものならば、それも仕方がない。
逢っては恋しく、声を聞いてはますます焦がれて行く私は、一生を何もしないで終わるのだろうか。
慕わしく懐かしいこの人に対し、思う事も言わず、愚痴も言わずに、ひたすら気持ちを抑えてばかりいると、恋の心はかえって大きくなり、大河の流れを塞いでかえって水を溢れさせてしまう。
互いに悟りの道に志し、兄のように、妹のように、世間の人が誰も知らないような潔白清浄な関係でこの一生を送りたいと思う。
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
7月8日
八日 平田君来訪。田中ぬしが「かまくら紀行」、いづくの雑誌にか記載のこと頼む。「これより森鴎外君のもとに趣けば、同君にたのみて、『しがらみ草紙』などに出さばや」とてかへる。午後、中島くら殿来訪、物語多し。夜食を馳走してかへす。樋口のくらも来る。「明早朝、一番汽車にて帰郷したし」とあるに、今宵はみやげ物などとゝのふる為、本郷通へ諸共に行く。
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一葉は、友人田中みの子の紀行文の雑誌掲載を平田禿木を介して世話する。
「かまくら紀行」は、明治25年7月1日~5日、師匠の中島歌子と鎌倉に旅行した折の紀行文。
「しがらみ草紙」は鴎外が主宰する雑誌で、この年7月号(第58号)に掲載される。
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7月9日
九日 早朝、くらを送て上野に行。上野丁の小松星といへる旅店に、知人の待合せ居りて、共に帰県をなすよしに付、同家までゆく。上野よりにはあらで、新宿の汽車にて行よしなれば、我れはこゝより帰宅。朝飯をしまひて、無沙汰み舞に伊東、田中の両家を訪ふ。日ぐれまで遊ぶ。田中ぬしのもとにありける『艶道通鑑』とて、五冊ものゝ随筆めける、小出ぬしの蔵書のよしなるをかりる。
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7月10日
十日 禿木子より状(ふみ)あり。「森君のもとにて、田中ぬしの紀行よろしきよしに付、本名、宿処、報道あり度し」となり。返事つかはす。奥田君来訪。
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7月11日
十一日 師君のもとへ行く。田中ぬしも盆礼として来訪。雑誌の事を語るに、喜色あふるゝやう也。師君いかなるにか、衣類その他を質入して金子をとゝのへ給へるよしにて、加藤の妻より、我れは金子をうけとる。師君ははやく出稽古に趣給ひぬ。此日、日ぐれ前より雷雨、中々に晴がたし。夜に入りてより帰宅。佐藤、盆礼に来たりしよし。
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どうしたことか、師匠は、衣類などを質入れして一葉のお手当てを工面したようだ。
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7月12日 桃水を訪問。
十二日 到来物のありしかば、半井君を訪ふ。
めづらしくこゝろよげにて、にこやかに物がたらる。
されども、来客のありければ、長くもかたらで帰るに、「いづれちかくに御音(おおと)づれ申べし。十五、六の両日のうちに、雷雨なくはかたらず」といふ。
たけくをゝ敷此人のロより、かみなりの恐ろしきよしを聞こそをかしけれ。
*
*
久しぶりに半井桃水を訪問する。彼は元気であったが、来客もあり長居はしなかった。
桃水は、「いずれ近いうちにお訪ねするつもりです。十五日か十六日のうち、雷や雨がなかったら必ずお訪ねしますよ」と言う。
強そうで男らしいこの方の口から、雷が恐ろしいなどと聞くのは、可笑しい気持ちであった。
*
*
静かにかぞふれは、誠や、此人とうとく成そめぬるは、をとゝしのけふよりなり。
隔たりゆく月日のほどに、幾度こゝろのあらたまりけん。
一度は、これをしをりにして悟道(ごどう)に入らはやとおもひつる事もあり。
一度は、
「ふたゝびと此人の上をば思はじ。
おもへばこそさまざまのもだえをも引おこすなれ。
諸事はみな夢、この人こひしとおもふもいつまでの現(うつつ)かは。
我れにはかられて我と迷ひの淵にしづむ我身、はかなし」
と、あきらめたる事もありき。
そもそも思ひたえんとおもふが我がまよひなれば、殊更(ことさら)にすつべきかは。
冥々の中に宿縁ありて、つひにはなれがたき仲ならばかひなし。
見ては迷ひ、聞てはこがれ、馴ゆくまゝにしたふが如き我れならば、遂に何事をかなしとげらるべき。
かく計(ばかり)したはしく、なつかしき此人をよそに置て、おもふ事をもかたらず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこゝろは、大河をふさぎてかへつてみなぎらするが如(ごと)かるべし。
悟道を共々(ともども)にして、兄の如く妹のごとく、世人(よびと)の見もしらざる潔白清浄なる行ひして、一生を送らばやとおもふ。
*
*
一葉は、変わらぬ桃水への思慕を語り、「潔白清浄」に生きて貞節を守ると願う。
*
*
この人との間が疎遠になり初めたのは一昨年の今月からである。
その後、月日がたつにつれて私の心は何度変わったことか。
一度は、これを栞として悟りの道に入ろうと思ったこともある。
一度は、
二度とこの人のことは思うまい、思うからこそ色々の悩みが湧いてくる。
人生はみな夢のように消えるのだから、この人を思う現実の心も何時まで続くとも思われない。
こんな迷いの中に沈んで行くことの何とはかない事よとあきらめた時もあった。
しかし、あきらめようと思うこと自体が迷いなのだから、わざわざあきらめる必要もないように思う。
それぞれに前世からの因縁があって、 離れられないものならば、それも仕方がない。
逢っては恋しく、声を聞いてはますます焦がれて行く私は、一生を何もしないで終わるのだろうか。
慕わしく懐かしいこの人に対し、思う事も言わず、愚痴も言わずに、ひたすら気持ちを抑えてばかりいると、恋の心はかえって大きくなり、大河の流れを塞いでかえって水を溢れさせてしまう。
互いに悟りの道に志し、兄のように、妹のように、世間の人が誰も知らないような潔白清浄な関係でこの一生を送りたいと思う。
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
2011年7月3日日曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)7月1日(22歳) 「浅ましき終をちかき人にみる。我身の宿世もそゞろにかなし。」(樋口一葉「水の上日記」)
明治27年(1894)7月1日
七月一日 芳太郎来訪。
しばしありて、横須賀より野々宮君参らる。かなしく、浅ましく、かつは哀れにも、はづかしくも、さまざまなる物語をかたり出る。失敗の女学生が標本ともいふべきにや。
十時頃成けん、桜木丁より使来り、幸作死去の報あり。母君驚愕、直に参らる。
からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのばらせぬ。
浅ましき終(おはり)をちかき人にみる。我身の宿世(すくせ)もそゞろにかなし。」
*
「日ぐらし」;北豊島郡日暮里村の火葬場。
「野々宮菊子」;この年2月から横須賀小学校に勤めている(一葉に桃水を紹介した女性)。
この日、下谷区上野桜木町の丸茂病院(院長は山梨出身の丸茂文良)で治療を受けていた父方の従兄弟の樋口幸作が急死し、一葉は大きな衝撃を受ける。
(丸茂病院は皮膚科の医院で、幸作はハンセン病との説もある)
一葉は、幸作の突然の死に自分の短命を予感する。
樋口くらは、幸作の妹で、入院している幸作に付き添っていた。
悲しく情けない人生の終焉を身近な人の上に見て、私の一生のことも考えられて何となく悲しい思いであった。
*
*
7月2日
二日 早朝、母君およびおくらと共に、日ぐらしに骨ひろひにゆく。
山川程を隔てたる叔甥の、おなじ所に烟とのぼるは、こものがれぬ宿縁なるべきにや。
「おはしまさば」と、今日はなき人に成し父上嬉しとおもふ。
遠く離れていた叔父(一葉の父)と甥が同じ火葬場の煙となった。これものがれられない前世からの因縁だろうか。
父が存命であればどんなに悲しんだろうにと思うと、今日ばかりは亡くなっていることが嬉しい気さえする。
一葉の父則義は明治22年7月12日に没し、14日に同じ日暮里火葬場で茶毘に付された。
7月7日
七日 小石川稽古日也。十二日までには是非金子(きんす)の入用(いりよう)あるに、此月は別していかにともなすによしなく、「師君(しのきみ)に申てこそ」とこゝろは定めたりしを、さても猶いひおくれて、昨日までに成ぬ。
「今はいかにしても言はではあられぬ時」とて、夕べ書物(かきもの)おはりて帰るさに、文したゝめて机の上に残し置し。
されば、今日の稽古日に何とかの給ふべきは道理なり。
よきこたへならは嬉しけれど、例(いつも)の気質も知らざるにはあらぬ師君が、いか様なる事やの給(たまふ)らん。(以下五行抹消)
12日(父の命日)までにお金が必要だが、どうしようもなく、師匠にお願いしようと思っていたが、言い出せずにいた。
昨日の夕方、書き物の仕事を終えた帰りがけに、手紙を書いて机の上に残しておいた。
師匠は今日の稽古日には何かおっしゃる筈だが。
果たしてどうおっしゃるだろうか。
これに続く部分の日記が抹消されていることを考えれば、多分、一葉の望みは叶えられなかったのであろう。
どこまでも、金に困っている一葉なのである。
*
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照ください。
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七月一日 芳太郎来訪。
しばしありて、横須賀より野々宮君参らる。かなしく、浅ましく、かつは哀れにも、はづかしくも、さまざまなる物語をかたり出る。失敗の女学生が標本ともいふべきにや。
十時頃成けん、桜木丁より使来り、幸作死去の報あり。母君驚愕、直に参らる。
からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのばらせぬ。
浅ましき終(おはり)をちかき人にみる。我身の宿世(すくせ)もそゞろにかなし。」
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「日ぐらし」;北豊島郡日暮里村の火葬場。
「野々宮菊子」;この年2月から横須賀小学校に勤めている(一葉に桃水を紹介した女性)。
この日、下谷区上野桜木町の丸茂病院(院長は山梨出身の丸茂文良)で治療を受けていた父方の従兄弟の樋口幸作が急死し、一葉は大きな衝撃を受ける。
(丸茂病院は皮膚科の医院で、幸作はハンセン病との説もある)
一葉は、幸作の突然の死に自分の短命を予感する。
樋口くらは、幸作の妹で、入院している幸作に付き添っていた。
悲しく情けない人生の終焉を身近な人の上に見て、私の一生のことも考えられて何となく悲しい思いであった。
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7月2日
二日 早朝、母君およびおくらと共に、日ぐらしに骨ひろひにゆく。
山川程を隔てたる叔甥の、おなじ所に烟とのぼるは、こものがれぬ宿縁なるべきにや。
「おはしまさば」と、今日はなき人に成し父上嬉しとおもふ。
遠く離れていた叔父(一葉の父)と甥が同じ火葬場の煙となった。これものがれられない前世からの因縁だろうか。
父が存命であればどんなに悲しんだろうにと思うと、今日ばかりは亡くなっていることが嬉しい気さえする。
一葉の父則義は明治22年7月12日に没し、14日に同じ日暮里火葬場で茶毘に付された。
7月7日
七日 小石川稽古日也。十二日までには是非金子(きんす)の入用(いりよう)あるに、此月は別していかにともなすによしなく、「師君(しのきみ)に申てこそ」とこゝろは定めたりしを、さても猶いひおくれて、昨日までに成ぬ。
「今はいかにしても言はではあられぬ時」とて、夕べ書物(かきもの)おはりて帰るさに、文したゝめて机の上に残し置し。
されば、今日の稽古日に何とかの給ふべきは道理なり。
よきこたへならは嬉しけれど、例(いつも)の気質も知らざるにはあらぬ師君が、いか様なる事やの給(たまふ)らん。(以下五行抹消)
12日(父の命日)までにお金が必要だが、どうしようもなく、師匠にお願いしようと思っていたが、言い出せずにいた。
昨日の夕方、書き物の仕事を終えた帰りがけに、手紙を書いて机の上に残しておいた。
師匠は今日の稽古日には何かおっしゃる筈だが。
果たしてどうおっしゃるだろうか。
これに続く部分の日記が抹消されていることを考えれば、多分、一葉の望みは叶えられなかったのであろう。
どこまでも、金に困っている一葉なのである。
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2011年6月17日金曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)6月20日(22歳) 明治東京地震起こる 「三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。」(樋口一葉「水の上日記」)
明治27年(1894)6月16日
十六日 早朝、禿木子来訪。天知君より文あり。「花ごもり」二度目の原稿料送りこさる。禿木君も学校のいそがしき比(ころ)とて、はやくかへる。われは小石川稽古にゆく。
此日、三宅龍子ぬしより使にて、『依緑軒漫録』かさる。坪内ぬしよりかりたる小説もろとも、今宵通読。一時に及ぶ。
*
『依緑軒漫録』:
磯野徳三郎著。明治26年9月18日刊。リットン、ディッケンズ、ユーゴーの伝記・解題を掲げ、本文を抄訳で紹介している。
「坪内ぬし」:
坪内逍遥としたものと坪内銑子(明治26年2月11日の発会の時に入門)したものあり。
*
*
明治27年(1894)6月16日
さて、この日、「明治東京地震」が起る。
この地震の概要はWikiをご参照下さい(コチラ)。
一葉は、伝聞した地震の状況を日記に記している。
液状化現象も起こったようだ。
二十日 午後二時、俄然大震あり。
我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなく、そこなひたる処などもなかりしが、官省通勤の人々など、つとめを中止して戻り来たるもあり。
新聞の号外を発したるなどによれは、さては強震成しとしる。
被害の場処は、芝より糀丁(かうじまち)、丸之内、京橋、日本橋辺おも也。
貴衆両院、宮内、大蔵、内務の諸省大破、死傷あり。
三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。
直に久保木より秀太郎見舞に来る。ついで芝の兄君来訪。
我れも小石川の師君を訪ふ。師君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし。
「床の間の壁落、土蔵のこしまきくずるゝなどにて、松平家は大事成し」とか。
鍋島家にて新築の洋館害に達て、珍貴の物品どもあまたそこなひ給ひけるよし。師君のもとにはさしたる事もなかりき。
此夜、「更に強震あるべきよし人々のいへば」とて、兄君一泊せらる。その夜十時過る頃、微震あり。
・・・
*
二十日。午後二時、急に大地震。
私の家は山陰の低い所なので、それほど振動もなく損害もなかったが、役所勤めの人たちの中には、仕事をやめて帰って来た人もいた。
新聞の号外によれば、成程強震だったということがわかった。
被害の場所は芝から麹町、丸の内、京橋、日本橋あたりが主な所でした。
貴衆両院、宮内、大蔵、内務の各省は大破し死傷者も出た。
三田小山町辺には地が裂けた所もあり、泥水を噴き出し、その様子は恐ろしい程であったと聞く。
すぐに久保木から秀太郎が見舞に来る。ついで芝の兄も来る。
私も小石川の中島先生を見舞う。先生はこの日、四谷の松平家にいてこの強震に遭われたとのこと。床の間の壁が落ちたり土蔵の腰巻きの壁が崩れるなど、松平家では大事であったとのこと。
鍋島家では新築の洋館に被害が出て、珍しい貴重な品物が沢山破壊したとのこと。先生のお宅は大したことはなかった。
「今夜再び強震があるだろうと人々が言っているから」
といって、兄は泊まっていく。夜十時過ぎ頃に微震があった。
*
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十六日 早朝、禿木子来訪。天知君より文あり。「花ごもり」二度目の原稿料送りこさる。禿木君も学校のいそがしき比(ころ)とて、はやくかへる。われは小石川稽古にゆく。
此日、三宅龍子ぬしより使にて、『依緑軒漫録』かさる。坪内ぬしよりかりたる小説もろとも、今宵通読。一時に及ぶ。
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『依緑軒漫録』:
磯野徳三郎著。明治26年9月18日刊。リットン、ディッケンズ、ユーゴーの伝記・解題を掲げ、本文を抄訳で紹介している。
「坪内ぬし」:
坪内逍遥としたものと坪内銑子(明治26年2月11日の発会の時に入門)したものあり。
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明治27年(1894)6月16日
さて、この日、「明治東京地震」が起る。
この地震の概要はWikiをご参照下さい(コチラ)。
一葉は、伝聞した地震の状況を日記に記している。
液状化現象も起こったようだ。
二十日 午後二時、俄然大震あり。
我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなく、そこなひたる処などもなかりしが、官省通勤の人々など、つとめを中止して戻り来たるもあり。
新聞の号外を発したるなどによれは、さては強震成しとしる。
被害の場処は、芝より糀丁(かうじまち)、丸之内、京橋、日本橋辺おも也。
貴衆両院、宮内、大蔵、内務の諸省大破、死傷あり。
三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。
直に久保木より秀太郎見舞に来る。ついで芝の兄君来訪。
我れも小石川の師君を訪ふ。師君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし。
「床の間の壁落、土蔵のこしまきくずるゝなどにて、松平家は大事成し」とか。
鍋島家にて新築の洋館害に達て、珍貴の物品どもあまたそこなひ給ひけるよし。師君のもとにはさしたる事もなかりき。
此夜、「更に強震あるべきよし人々のいへば」とて、兄君一泊せらる。その夜十時過る頃、微震あり。
・・・
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二十日。午後二時、急に大地震。
私の家は山陰の低い所なので、それほど振動もなく損害もなかったが、役所勤めの人たちの中には、仕事をやめて帰って来た人もいた。
新聞の号外によれば、成程強震だったということがわかった。
被害の場所は芝から麹町、丸の内、京橋、日本橋あたりが主な所でした。
貴衆両院、宮内、大蔵、内務の各省は大破し死傷者も出た。
三田小山町辺には地が裂けた所もあり、泥水を噴き出し、その様子は恐ろしい程であったと聞く。
すぐに久保木から秀太郎が見舞に来る。ついで芝の兄も来る。
私も小石川の中島先生を見舞う。先生はこの日、四谷の松平家にいてこの強震に遭われたとのこと。床の間の壁が落ちたり土蔵の腰巻きの壁が崩れるなど、松平家では大事であったとのこと。
鍋島家では新築の洋館に被害が出て、珍しい貴重な品物が沢山破壊したとのこと。先生のお宅は大したことはなかった。
「今夜再び強震があるだろうと人々が言っているから」
といって、兄は泊まっていく。夜十時過ぎ頃に微震があった。
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2011年6月4日土曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)6月(22歳) 「唯目の前の苦をのがるゝが為に、婦女の身として尤も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。」(樋口一葉「水の上日記」)
一葉一家は明治27年5月1日、龍泉寺町での雑貨・駄菓子商の店をたたみ本郷丸山福山町に転居します。
一葉はこの終焉の地である丸山福山町で「奇跡の十四箇月」といわれる大飛躍を遂げます。
龍泉寺町時代の日記は「塵の中」と名付けられていましたが、丸山福山町時代の日記は「水の上」と名付けられます。
前者は吉原に隣接する貧民街での生活、後者は池の上に建てられていた家屋にちなんで付けられたもの。
「水の上」は不確かな生活=「漂う」という意味も込められていたのかも知れません。
ただ、「水の上日記」は最初の一冊分と思われる部分が散逸しており、現存しているのは転居より1ヶ月後の6月4日から始まっています。
*
*
明治27年(1894)6月4日
この日、一葉は妹邦子と師の中島歌子の母のお墓に参る。
続けて、この間の久佐賀義孝とのやり取りが記されている。
*
そもそもの久佐賀とのつきあいの初めはコチラをご参照下さい。
(「一葉、起死回生の捨身の戦術に出る」)
*
○概要:
久佐賀は、
「歌道熱心のため苦労しているのが憐れであるから、成業の暁まで自分が面倒をみよう。
その代り君が一身を我に委ねてもらいたい」(「妾になれ」)といってくる。
一葉は、
「かのしれ物、わが本性を何と見たのか」と憤慨しながらも、
「我を大事をなすに足りると見るならば、扶助を与え給え。
しかし我を女と見て怪しき筋を考えるなら、お断りする」と返事する。
しかし、憤慨はしても、種を蒔いたのは一葉なのである。
久佐賀にしてみたら、挑発したのはそっちだろう、と思っているのではないか。
このグズグズの関係は、まだ少し続くようだ。
*
●「水の上日記」
「かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大(おほい)なる目あてありて、身を打すてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。
かゝるともがらと大事を談(はな)したらんは、おきな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし。
おもへは我れも、敵(かたき)をしらざるのはなはだしさよと、我れをさへあざけらる。
○(現代語)
以前に天啓顕真術会本部長の久佐賀という人を訪ねて話したことがあった。
その善悪はしばらくおくとして、この世に大きな目的を持ち、身を捨てて邁進するような人と思ったが、何度も話しているうちに、あきれはてたつまらない小さな望しか持たない、目前の僅かな事にばかり迷うような人間であった。
このような人物を相手に大事を語ったのは、幼児を相手に天を論ずるような、全く苦労ばかり何の益もないことだった。
今思えば、相手を見る眼が無かったと、自分のことを嗤ってしまう。
*
●「水の上日記」
九日成(なり)けん、久佐賀より書状来る。
「君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給ふさまの、我一身にもくらべられていと憐(あはれ)なれば、その成業(せいげふ)の暁(あかつき)までの事は、我れに於て、いかにも為して引受ペし。
され共(ども)、唯一面の識(みしり)のみにて、かゝる事を、『たのまれぬ』とも、『たのみたり』ともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでや、その一身をこゝもとにゆだね給はらずや」と、
厭ふべき文の来たりぬ。
「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。
世のくだれるをなげきて、こゝに一道の光をおとさんとこゝろざす我れにして、唯目の前の苦(くるしみ)をのがるゝが為に、婦女(おんな)の身として尤(もつと)も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。
あはれ笑ふにたえたるしれものかな。
さもあらはあれ、かれも一派の投機師(やまし)なり。一言一語を解きざる人にもあらじ」とて、かへしをしたゝむ。
「一道を持て世にたゞんとするは、君も我れも露ことなる所なし。
我れが今日までの詞(ことば)、今日までの行(おこなひ)、もし大事をなすにたると見給はゞ、扶助を与へ給へ。
われを女と見て、あやしき筋になど思し給はらは、むしろ一言にことはり給はんにはしかず。
いかにぞや」とて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの返事をまつ。
*
○(現代語)
九日だったか、久佐賀から手紙が来た。
「貴女が歌道に熱心に努力している為にひどく困窮していることが、私自身の身にも考え合わせられて、気の毒に思う。その成果がでるまで、私が何とか引き受け致しましょう。
しかし、一面識の間柄で、こんな事を頼まれたり、頼んだりということも、貴女としても心苦しいでしょうから、そこで、貴女の一身を私に任せませんか」という嫌らしい文面であった。
一体あの不届き者は私の本性をどう見ているのか。
世の中が衰えて行くのを欺き、そこの一筋の光をともそうとしているこの私が、ただ目前の困窮のから逃れるために、女にとって最も尊い操を、どうして破ることが出来ようか。
笑うに笑えないほどのの不届き者だ。
ただ、そうは言っても、彼も一箇の相場師だ。こちらの一言一語が分からない人でもあるまいと思って、返事を書く。
「専門の道によって世のために尽くそうということでは、あなたも私も違いはない。
私の今日までの言葉や、今日までの行いを見て、もし大事をなすに足ると思うなら援助を下さい。
私を女とだけ見て、怪しげな事を考えているなら、むしろきっぱり断って下さい。どうでしょうか」
と、はっきり決心を書いて、返事を待つことにした。
*
●「水の上日記」
文(ふみ)を出すの夜、返事来る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉どもをつらねたる。
「今は又かへしせじ」とて、そのまゝになす。
*
○(現代語)
手紙を出したその夜に返事が来た。
同じことを書き、不愉快な言葉を並べている。
もう返事など出さないと決め、そのままにする。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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一葉はこの終焉の地である丸山福山町で「奇跡の十四箇月」といわれる大飛躍を遂げます。
龍泉寺町時代の日記は「塵の中」と名付けられていましたが、丸山福山町時代の日記は「水の上」と名付けられます。
前者は吉原に隣接する貧民街での生活、後者は池の上に建てられていた家屋にちなんで付けられたもの。
「水の上」は不確かな生活=「漂う」という意味も込められていたのかも知れません。
ただ、「水の上日記」は最初の一冊分と思われる部分が散逸しており、現存しているのは転居より1ヶ月後の6月4日から始まっています。
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明治27年(1894)6月4日
この日、一葉は妹邦子と師の中島歌子の母のお墓に参る。
続けて、この間の久佐賀義孝とのやり取りが記されている。
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そもそもの久佐賀とのつきあいの初めはコチラをご参照下さい。
(「一葉、起死回生の捨身の戦術に出る」)
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○概要:
久佐賀は、
「歌道熱心のため苦労しているのが憐れであるから、成業の暁まで自分が面倒をみよう。
その代り君が一身を我に委ねてもらいたい」(「妾になれ」)といってくる。
一葉は、
「かのしれ物、わが本性を何と見たのか」と憤慨しながらも、
「我を大事をなすに足りると見るならば、扶助を与え給え。
しかし我を女と見て怪しき筋を考えるなら、お断りする」と返事する。
しかし、憤慨はしても、種を蒔いたのは一葉なのである。
久佐賀にしてみたら、挑発したのはそっちだろう、と思っているのではないか。
このグズグズの関係は、まだ少し続くようだ。
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●「水の上日記」
「かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大(おほい)なる目あてありて、身を打すてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。
かゝるともがらと大事を談(はな)したらんは、おきな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし。
おもへは我れも、敵(かたき)をしらざるのはなはだしさよと、我れをさへあざけらる。
○(現代語)
以前に天啓顕真術会本部長の久佐賀という人を訪ねて話したことがあった。
その善悪はしばらくおくとして、この世に大きな目的を持ち、身を捨てて邁進するような人と思ったが、何度も話しているうちに、あきれはてたつまらない小さな望しか持たない、目前の僅かな事にばかり迷うような人間であった。
このような人物を相手に大事を語ったのは、幼児を相手に天を論ずるような、全く苦労ばかり何の益もないことだった。
今思えば、相手を見る眼が無かったと、自分のことを嗤ってしまう。
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●「水の上日記」
九日成(なり)けん、久佐賀より書状来る。
「君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給ふさまの、我一身にもくらべられていと憐(あはれ)なれば、その成業(せいげふ)の暁(あかつき)までの事は、我れに於て、いかにも為して引受ペし。
され共(ども)、唯一面の識(みしり)のみにて、かゝる事を、『たのまれぬ』とも、『たのみたり』ともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでや、その一身をこゝもとにゆだね給はらずや」と、
厭ふべき文の来たりぬ。
「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。
世のくだれるをなげきて、こゝに一道の光をおとさんとこゝろざす我れにして、唯目の前の苦(くるしみ)をのがるゝが為に、婦女(おんな)の身として尤(もつと)も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。
あはれ笑ふにたえたるしれものかな。
さもあらはあれ、かれも一派の投機師(やまし)なり。一言一語を解きざる人にもあらじ」とて、かへしをしたゝむ。
「一道を持て世にたゞんとするは、君も我れも露ことなる所なし。
我れが今日までの詞(ことば)、今日までの行(おこなひ)、もし大事をなすにたると見給はゞ、扶助を与へ給へ。
われを女と見て、あやしき筋になど思し給はらは、むしろ一言にことはり給はんにはしかず。
いかにぞや」とて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの返事をまつ。
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○(現代語)
九日だったか、久佐賀から手紙が来た。
「貴女が歌道に熱心に努力している為にひどく困窮していることが、私自身の身にも考え合わせられて、気の毒に思う。その成果がでるまで、私が何とか引き受け致しましょう。
しかし、一面識の間柄で、こんな事を頼まれたり、頼んだりということも、貴女としても心苦しいでしょうから、そこで、貴女の一身を私に任せませんか」という嫌らしい文面であった。
一体あの不届き者は私の本性をどう見ているのか。
世の中が衰えて行くのを欺き、そこの一筋の光をともそうとしているこの私が、ただ目前の困窮のから逃れるために、女にとって最も尊い操を、どうして破ることが出来ようか。
笑うに笑えないほどのの不届き者だ。
ただ、そうは言っても、彼も一箇の相場師だ。こちらの一言一語が分からない人でもあるまいと思って、返事を書く。
「専門の道によって世のために尽くそうということでは、あなたも私も違いはない。
私の今日までの言葉や、今日までの行いを見て、もし大事をなすに足ると思うなら援助を下さい。
私を女とだけ見て、怪しげな事を考えているなら、むしろきっぱり断って下さい。どうでしょうか」
と、はっきり決心を書いて、返事を待つことにした。
*
●「水の上日記」
文(ふみ)を出すの夜、返事来る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉どもをつらねたる。
「今は又かへしせじ」とて、そのまゝになす。
*
○(現代語)
手紙を出したその夜に返事が来た。
同じことを書き、不愉快な言葉を並べている。
もう返事など出さないと決め、そのままにする。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
2011年4月24日日曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)4月(22歳) 「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。」(樋口一葉「塵中(ちりのなか)につ記」)
明治27年(1894)4月
*
この頃の一葉の日記「塵中(ちりのなか)につ記」(表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」)は、
以下の構成になっています。
①まず、「わがこゝろざしは国家の大本にあり」の部分(コチラ):閉店の決意
②3月26日~28日の日記部分(コチラ)
③そして、今回ご紹介する「四月に入りてより、・・・」で始まる4月の日記代わりの簡単なメモ(4月の日記は書かなかったと自身もこのメモに記しています)、
と5月1日(引っ越しの日)~2日の2日分の日記部分
から成っています。
*
その後、1ヶ月の空白のあと、
6月4日からは、「水の上日記」として新たな日記が始まります。
(引っ越し先の住居が、池の上に建っていたので、日記の表題は「水の上」と付けられる。)
*
*
(段落、改行を施しています)
四月に入てより、釧之助の手より金子五拾両かりる。
清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付(つき)二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。
こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)ペし。
かくて中島の方も漸々(やうやう)歩(ほ)をすゝめて、「我れに後月(ごげつ)いさゝかなりとも報酬を為して、手伝ひを頼み度」よし師より申(まうし)こまる。
「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計らひくれよ。我が此萩之舎は則ち君の物なれば」といふに、
「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば、此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはとゝのひぬ。
此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。
花ははやく咲て、散がたはやかりける。
あやにくに雨風のみつゞきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。
いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上にたてたるが有けり。
守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。
店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。
*
五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅。手伝(てつだひ)は伊三郎を呼ぶ。
*
*
西村釧之助を通してお金50円を借りる。
貸主は清水たけという婦人で、返済期限などはまだ決めていないという。
恐らく釧之助のお金であろう。
「萩の舎」の歌塾の話も進み、いくらかの報酬を出して手伝いを頼みたいと言って来る。
・・・
4月初めから稽古指導に出ている。
桜は早く咲いて、散るのも早かった。
鍛冶町の石川銀次郎の商売はよくなかったとのことで15円を持ってきてくれた。
いよいよ転居が決まった。
家は本郷の丸山福山町、阿部邸の山にそって、小さな池があり、その池の上の方に建てられたもの。
「守喜」という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月3円。高いけれどもここに決めた。
店を売って引っ越しをするまでのごたごたした事は、思い出すのも煩わしく、不愉快なことが多かったので、とても書くことができない。
*
*
阿部邸:福山藩主阿部家の武家地
*
西片町の高台の崖下にあたる。
「守喜」(モリキ)という鰻屋の離れ座敷を改築して、池とともに貸していた家屋。
前隣には「浦島」、北隣には「鈴木」という銘酒屋があった。
*
馬場孤蝶の回想:
「方三尺位な履脱(クツヌギ)の土間があり、正面は真直に三尺幅位の板の間が通って居る。それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後になる所に、丁度隠れたやうな四畳半くらいな部屋があり、・・・入口の六畳の間で、大抵一葉女史は客に応接した」(『明治文壇の人々』)。
*
「殊に一葉君の家の近辺が左様いふ商売屋(*銘酒屋)の中心であったやうだ」、
「今喜楽館といふ活動小屋の角を曲がった所などは、その当時は抜裏と云つて宜い程の狭さであったが、その辺から一葉君の家の前までは右側は殆ど門並さういふ家であって、人の足音さへすれば、へンに声作りをした若い女の『寄ってらっしゃいよ』といふ声が家の裡(ナカ)から聞えた」(「一葉全集の未に」明治45年6月)。
一葉はそういう女性たちと交わり、彼女たちが客に出す手紙の代筆などもする。
*
「となりに酒うる家あり。
女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。
つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来ぬ。
ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし」
*
三宅花圃の談話。
「夏子の君が先には吉原の傍なる浅草大音寺前通りに住みたまひ、今はまた本郷丸山の福山町なる銘酒屋なんどが限りもなふ軒をならぶる醜(ミグ)るしの街に宿を定めたまへるを諌めける人さへあり。妾もまた君の為めに言ふ所ありしに君は笑ひたまふて一言も答へせず、朗詠の声もすゞしく
なかなかにえらまぬ宿のあしがきの
あしき隣もよしや世の中
とて話題を他へそらしたまひぬ」(「讀賣新聞」明治29・11・30)
*
この丸山福山町で、一葉は「奇蹟の十四箇月」を過ごす。
ここでの作品は、
「やみ夜」(明治27年7月~11月)、「大つごもり」(27年12月)、「たけくらぺ」(28年1月~29年1月)、「ゆく雲」(28年5月)、「にごりえ」(28年9月)、「十三夜」(28年12月)、「わかれ道」(29年1月)、「この子」(同上)、「裏紫」(29年2月)、「われから」(29年5月)
*
この頃の一葉の日記「塵中(ちりのなか)につ記」(表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」)は、
以下の構成になっています。
①まず、「わがこゝろざしは国家の大本にあり」の部分(コチラ):閉店の決意
②3月26日~28日の日記部分(コチラ)
③そして、今回ご紹介する「四月に入りてより、・・・」で始まる4月の日記代わりの簡単なメモ(4月の日記は書かなかったと自身もこのメモに記しています)、
と5月1日(引っ越しの日)~2日の2日分の日記部分
から成っています。
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その後、1ヶ月の空白のあと、
6月4日からは、「水の上日記」として新たな日記が始まります。
(引っ越し先の住居が、池の上に建っていたので、日記の表題は「水の上」と付けられる。)
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(段落、改行を施しています)
四月に入てより、釧之助の手より金子五拾両かりる。
清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付(つき)二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。
こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)ペし。
かくて中島の方も漸々(やうやう)歩(ほ)をすゝめて、「我れに後月(ごげつ)いさゝかなりとも報酬を為して、手伝ひを頼み度」よし師より申(まうし)こまる。
「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計らひくれよ。我が此萩之舎は則ち君の物なれば」といふに、
「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば、此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはとゝのひぬ。
此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。
花ははやく咲て、散がたはやかりける。
あやにくに雨風のみつゞきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。
いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上にたてたるが有けり。
守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。
店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。
*
五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅。手伝(てつだひ)は伊三郎を呼ぶ。
*
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西村釧之助を通してお金50円を借りる。
貸主は清水たけという婦人で、返済期限などはまだ決めていないという。
恐らく釧之助のお金であろう。
「萩の舎」の歌塾の話も進み、いくらかの報酬を出して手伝いを頼みたいと言って来る。
・・・
4月初めから稽古指導に出ている。
桜は早く咲いて、散るのも早かった。
鍛冶町の石川銀次郎の商売はよくなかったとのことで15円を持ってきてくれた。
いよいよ転居が決まった。
家は本郷の丸山福山町、阿部邸の山にそって、小さな池があり、その池の上の方に建てられたもの。
「守喜」という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月3円。高いけれどもここに決めた。
店を売って引っ越しをするまでのごたごたした事は、思い出すのも煩わしく、不愉快なことが多かったので、とても書くことができない。
*
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阿部邸:福山藩主阿部家の武家地
*
西片町の高台の崖下にあたる。
「守喜」(モリキ)という鰻屋の離れ座敷を改築して、池とともに貸していた家屋。
前隣には「浦島」、北隣には「鈴木」という銘酒屋があった。
*
馬場孤蝶の回想:
「方三尺位な履脱(クツヌギ)の土間があり、正面は真直に三尺幅位の板の間が通って居る。それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後になる所に、丁度隠れたやうな四畳半くらいな部屋があり、・・・入口の六畳の間で、大抵一葉女史は客に応接した」(『明治文壇の人々』)。
*
「殊に一葉君の家の近辺が左様いふ商売屋(*銘酒屋)の中心であったやうだ」、
「今喜楽館といふ活動小屋の角を曲がった所などは、その当時は抜裏と云つて宜い程の狭さであったが、その辺から一葉君の家の前までは右側は殆ど門並さういふ家であって、人の足音さへすれば、へンに声作りをした若い女の『寄ってらっしゃいよ』といふ声が家の裡(ナカ)から聞えた」(「一葉全集の未に」明治45年6月)。
一葉はそういう女性たちと交わり、彼女たちが客に出す手紙の代筆などもする。
*
「となりに酒うる家あり。
女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。
つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来ぬ。
ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし」
*
三宅花圃の談話。
「夏子の君が先には吉原の傍なる浅草大音寺前通りに住みたまひ、今はまた本郷丸山の福山町なる銘酒屋なんどが限りもなふ軒をならぶる醜(ミグ)るしの街に宿を定めたまへるを諌めける人さへあり。妾もまた君の為めに言ふ所ありしに君は笑ひたまふて一言も答へせず、朗詠の声もすゞしく
なかなかにえらまぬ宿のあしがきの
あしき隣もよしや世の中
とて話題を他へそらしたまひぬ」(「讀賣新聞」明治29・11・30)
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この丸山福山町で、一葉は「奇蹟の十四箇月」を過ごす。
ここでの作品は、
「やみ夜」(明治27年7月~11月)、「大つごもり」(27年12月)、「たけくらぺ」(28年1月~29年1月)、「ゆく雲」(28年5月)、「にごりえ」(28年9月)、「十三夜」(28年12月)、「わかれ道」(29年1月)、「この子」(同上)、「裏紫」(29年2月)、「われから」(29年5月)
*
以前に友人とこの丸山福山町の一葉終焉の地を訪ねたことがあるのですが、まだご紹介していないのに今気付きました。
近いうちにご紹介します。
2011年3月26日土曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)3月26日~28日(22歳) 「此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し.」(樋口一葉「塵中(ちりのなか)につ記」)
明治27年(1894)3月26日
二十六日 半井ぬしを訪ふ。
「これよりいよいよ小説の事ひろく成してんのこゝろ構へあるに、此人の手あらば一しほしかるべし」と母君もの給へば也。
年比(トシゴロ)のうき雲、唯家(イヘ)のうちだけにはれて、此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し。
まづふみを参らせて、在宅の有無を尋ねしに、「病気にて就褥中なれど、いとはせ給はずは」と返事あり。
此日空(ソラ)もようよろしからざりしかど、あづさ弓いる矢の如き心の、などしばしもとゞまるべき。
午後より出づ。君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(イヅク)にか残るべき。
別れぬるほどより一月がほどもよき折なく、「なやみになやみて、かくは」といふ。
哀れとも哀也。物がたりいとなやましげなるに、多くもなさでかへる。
*
廃業を決意し、これからはますます小説のことに手広く取り組んで行こうとの心構えも決まった。
桃水の助けがあれば、一段と好都合になるだろう、と母も言ってくれた。
数年来の心にかかる浮雲が、家族の中だけであってもすっきりと晴れて、表だってお訪ね出来るようになったことは、何とも嬉しい。
まず手紙で在宅の有無を尋ねると、
「病気で寝ているが、それでよろしければおいでをお待ちしています」
との返事。
この日は空模様もよくなかったが、射る矢のように飛んで行きたい気持ちは、もうじっとしておれなかった。
午後からでかける。先生はひどく顔色も悪く痩せて、以前の面影はどこにも残っていないほど。
「あなたと別れしてからは、ひと月とて元気な時はなく、病気に苦しめられてこんな状態です」
とおっしゃる。
本当にお気の毒で可哀相に思った。お話するのもひどく苦しそうなので、多くもお話しないで帰る。
*
母の許しを得て桃水を訪問する。
「うれしとも嬉し」と書く一葉である。
しかし、桃水は病床にあって、存分には話はできずに帰る。
*
*
3月27日
二十七日 小石川に師君を訪ふ。田辺君発会、昨日有べき筈之所、同君病気にてしばしのびたるよし。
その序(ツイデ)に我上(ワガウヘ)をも、「いかで斯道(コノミチ)に尽したらんには」など語らる。
「我が萩之舎の号をさながらゆづりて、我が死後の事を頼むべき人、門下の中に一人も有事(アルコト)なきに、君ならましかばと思ふ」など、いとよくの給ふ。
ひたすら頼み聞え給ふに、これよりも思ひもうけたる事也、さりとはもらさねど、さまざまに語りてかへる。
*
「萩の合」に師の中島歌子を訪ねと、歌子は一葉に歌道への精進を勧める。
「私の『萩の舎』を譲って、私の後のことを頼むことが出来る人は、今の門下には一人もいない。もしあなたが引き受けてくれたらね」
など言う。
かねてしていた事だが、口にも出さず他の話に紛らして帰る。
*
結局、4月から一葉は「萩の舎」で稽古を助教として手伝うことになる。月2円という。
*
*
二十八日 母君、音羽町佐藤梅吉に金策たのみに行。むづかしげ也しかは、帰路(カヘリ)、西村に立よりて、我(ワガ)中島の方へ再度(フタタビ)行べきよしを物がたりて、金策たのむ。「直(スグ)にはむづかしげにみえし」とか聞しが、母君帰宅直に、車を飛して釧之助来訪、金子の員(カズ)を問ふ。その親などにはゞかれば成べし。
*
母が金策に走る。
4月になって、西村釧之助から利子付きの借金50円を世話して貰うことになる。
*
*
翌3月29日~5月1日(一葉の終焉の地となる丸山福山町への転宅前日)、一葉は日記を書いていない。
4月の日記のメモの一部に、
「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事なれば得かゝぬ也」
とある。
一葉は疲れ果てている。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
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二十六日 半井ぬしを訪ふ。
「これよりいよいよ小説の事ひろく成してんのこゝろ構へあるに、此人の手あらば一しほしかるべし」と母君もの給へば也。
年比(トシゴロ)のうき雲、唯家(イヘ)のうちだけにはれて、此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し。
まづふみを参らせて、在宅の有無を尋ねしに、「病気にて就褥中なれど、いとはせ給はずは」と返事あり。
此日空(ソラ)もようよろしからざりしかど、あづさ弓いる矢の如き心の、などしばしもとゞまるべき。
午後より出づ。君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(イヅク)にか残るべき。
別れぬるほどより一月がほどもよき折なく、「なやみになやみて、かくは」といふ。
哀れとも哀也。物がたりいとなやましげなるに、多くもなさでかへる。
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廃業を決意し、これからはますます小説のことに手広く取り組んで行こうとの心構えも決まった。
桃水の助けがあれば、一段と好都合になるだろう、と母も言ってくれた。
数年来の心にかかる浮雲が、家族の中だけであってもすっきりと晴れて、表だってお訪ね出来るようになったことは、何とも嬉しい。
まず手紙で在宅の有無を尋ねると、
「病気で寝ているが、それでよろしければおいでをお待ちしています」
との返事。
この日は空模様もよくなかったが、射る矢のように飛んで行きたい気持ちは、もうじっとしておれなかった。
午後からでかける。先生はひどく顔色も悪く痩せて、以前の面影はどこにも残っていないほど。
「あなたと別れしてからは、ひと月とて元気な時はなく、病気に苦しめられてこんな状態です」
とおっしゃる。
本当にお気の毒で可哀相に思った。お話するのもひどく苦しそうなので、多くもお話しないで帰る。
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母の許しを得て桃水を訪問する。
「うれしとも嬉し」と書く一葉である。
しかし、桃水は病床にあって、存分には話はできずに帰る。
*
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3月27日
二十七日 小石川に師君を訪ふ。田辺君発会、昨日有べき筈之所、同君病気にてしばしのびたるよし。
その序(ツイデ)に我上(ワガウヘ)をも、「いかで斯道(コノミチ)に尽したらんには」など語らる。
「我が萩之舎の号をさながらゆづりて、我が死後の事を頼むべき人、門下の中に一人も有事(アルコト)なきに、君ならましかばと思ふ」など、いとよくの給ふ。
ひたすら頼み聞え給ふに、これよりも思ひもうけたる事也、さりとはもらさねど、さまざまに語りてかへる。
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「萩の合」に師の中島歌子を訪ねと、歌子は一葉に歌道への精進を勧める。
「私の『萩の舎』を譲って、私の後のことを頼むことが出来る人は、今の門下には一人もいない。もしあなたが引き受けてくれたらね」
など言う。
かねてしていた事だが、口にも出さず他の話に紛らして帰る。
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結局、4月から一葉は「萩の舎」で稽古を助教として手伝うことになる。月2円という。
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二十八日 母君、音羽町佐藤梅吉に金策たのみに行。むづかしげ也しかは、帰路(カヘリ)、西村に立よりて、我(ワガ)中島の方へ再度(フタタビ)行べきよしを物がたりて、金策たのむ。「直(スグ)にはむづかしげにみえし」とか聞しが、母君帰宅直に、車を飛して釧之助来訪、金子の員(カズ)を問ふ。その親などにはゞかれば成べし。
*
母が金策に走る。
4月になって、西村釧之助から利子付きの借金50円を世話して貰うことになる。
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翌3月29日~5月1日(一葉の終焉の地となる丸山福山町への転宅前日)、一葉は日記を書いていない。
4月の日記のメモの一部に、
「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事なれば得かゝぬ也」
とある。
一葉は疲れ果てている。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
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2011年3月20日日曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)3月(22歳) 一葉、廃業を決意する。 「わがこゝろざしは国家の大本にあり。」(樋口一葉「塵中(ちりのなか)につ記」)
樋口一葉の日記をご紹介しています。
今回も、明治27年(1894)3月のものですが、多分下旬に書かれたものと思われる感想文を以下にご紹介します。
この月に書かれた三つの感想文の最後のものです。
*
今回は一葉が遂に廃業を決意するに至るところのものです。
*
「塵中(ちりのなか)につ記」 表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」。
おもひたつことあり、うたふらく、
すきかへす人こそなけれ敷島の
うたのあらす田(ダ)あれにしを
いでや、あれにしは敷島のうた斗(バカリ)か。
道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。
かひなき女子(オナゴ)の何事を思ひ立(タチ)たりとも及ぶまじきを知れど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。
かすか成(ナリ)といヘども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生(シシヤウ)いとはず天地の法(ノリ)にしたがひて働かんとする時、大丈夫(マスラヲ)も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。
笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。
わがこゝろざしは国家の大本(オホモト)にあり。
わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期(ゴ)す。
われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。
いでさらば、分厘(フンリン、僅かな利益)のあらそひに此一身をつながるゝべからず。
去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。
*
*
[現代語訳]
荒れてしまったのはこの和歌の道ばかりではない。
道徳はすたれ、人情は紙のように薄くなり、政治家も一般人も私利私欲ばかりを追及し、国家の発展を考える者もなく、世の中はどうなるのだろうか。
力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないことは分かっているが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えない者ではない。
僅かでも人の心を持っている者が、生涯の情熱をそそいで、死をもいとわず、天地の法則に従って働こうとする時、賢人であろうと愚者であろうと、男であろうと女であろうと区別があるだろうか。
この私を笑いたいものは笑い、謗りたいものは謗るがよい。私の心は既に天地自然と一体になっている。
私の志は国家の大本にある。
私の屍が野に棄てられ痩犬の餌食となっても、それは望むところである。
どんな努力をしてもその報酬を求めているのではないので、私の進む道は前後左右に広々としている。
だから僅かの利益を求めて争う商いの道にこの身を束縛しておくべきではない。
処世の術は風の前の塵のように変わるものなので、心配することはないと考えて、この商売の店を閉じようと決心した。
*
*
その日その日の生活の行詰りと打開策のない一葉の焦り。
一方で、才能への自負と和歌の改革への熱意とが、日清戦争前夜の日本国内の危機感と高揚感と混然となって、行き場を失って爆発しつつあるようだ。
このエネルギーが、このすぐ後に来る、一葉の人生の最後の開花期に一気に爆発することになるのだろう。
*
冒頭の和歌は、
「しき島の歌のあらす田荒にけりあらすきかへせ歌の荒樔田」 (香川景樹)
からとられたものらしい。
*
和歌の改革者というべきか、
「志士」というべきか。
*
個人的には、一葉という人はこうゆう人だったんだと、改めて思い知らされる文章である。
明治の有司専制体制化で、一葉と同じように幕藩体制側の臍の尾をもった漱石や荷風は、国家や政府に対して、また日露戦争に対して、斜めに構える態度をとったけれども、世代の差ゆえか、階層の差ゆえか、個性の差ゆえか、一葉は正面からこれらを捉えているように見える。
*
しかししかし・・・、一葉には今、10円、15円が必要なのも、また確かなのである。
*
*
国子はものにたえしのぶの気象とはし。この分厘にいたくあきたる比(コロ)とて、前後の慮(オモンバカリ)なく、「やめにせばや」とひたすらすゝむ。
母君も、「かく塵の中にうごめき居らんよりは、小さしといヘども門構への家に入り、やはらかき衣類(キモノ)にてもかさねまほしき」が願ひなり。
されば、わがもとのこゝろはしるやしらずや、両人(フタリ)ともにすゝむる事せつ也。
されども、年比(トシゴロ)うり尽し、かり尽しぬる後の事とて、此みせをとぢぬるのち、何方(ドコ)より一銭の入金(ニウキン)もあるまじきをおもへば、こゝに思慮はめぐらさゞるペからず。
さらばとて、運動の方法(テダテ)をさだむ。
まづかぢ町なる遠銀(鍛冶町の遠州屋石川銀次郎)に金子(キンス)五十円の調達を申しこむ。こは、父君存生(ゾンジヨウ)の比(コロ)より、つねに二、三百の金はかし置たる人なる上、しかも商法(シヤウハフ)手びろく、おもてを売る人にさへあれば、「はじめてのことゝて、つれなくはよも」と、かゝりし也。
此金額多からずといヘども、行先(ユクサキ)をあやぶむ人は、俄にも決しかねて、「来月、花の成行にて」といふ。
今回も、明治27年(1894)3月のものですが、多分下旬に書かれたものと思われる感想文を以下にご紹介します。
この月に書かれた三つの感想文の最後のものです。
*
今回は一葉が遂に廃業を決意するに至るところのものです。
*
「塵中(ちりのなか)につ記」 表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」。
おもひたつことあり、うたふらく、
すきかへす人こそなけれ敷島の
うたのあらす田(ダ)あれにしを
いでや、あれにしは敷島のうた斗(バカリ)か。
道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。
かひなき女子(オナゴ)の何事を思ひ立(タチ)たりとも及ぶまじきを知れど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。
かすか成(ナリ)といヘども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生(シシヤウ)いとはず天地の法(ノリ)にしたがひて働かんとする時、大丈夫(マスラヲ)も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。
笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。
わがこゝろざしは国家の大本(オホモト)にあり。
わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期(ゴ)す。
われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。
いでさらば、分厘(フンリン、僅かな利益)のあらそひに此一身をつながるゝべからず。
去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。
*
*
[現代語訳]
荒れてしまったのはこの和歌の道ばかりではない。
道徳はすたれ、人情は紙のように薄くなり、政治家も一般人も私利私欲ばかりを追及し、国家の発展を考える者もなく、世の中はどうなるのだろうか。
力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないことは分かっているが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えない者ではない。
僅かでも人の心を持っている者が、生涯の情熱をそそいで、死をもいとわず、天地の法則に従って働こうとする時、賢人であろうと愚者であろうと、男であろうと女であろうと区別があるだろうか。
この私を笑いたいものは笑い、謗りたいものは謗るがよい。私の心は既に天地自然と一体になっている。
私の志は国家の大本にある。
私の屍が野に棄てられ痩犬の餌食となっても、それは望むところである。
どんな努力をしてもその報酬を求めているのではないので、私の進む道は前後左右に広々としている。
だから僅かの利益を求めて争う商いの道にこの身を束縛しておくべきではない。
処世の術は風の前の塵のように変わるものなので、心配することはないと考えて、この商売の店を閉じようと決心した。
*
*
その日その日の生活の行詰りと打開策のない一葉の焦り。
一方で、才能への自負と和歌の改革への熱意とが、日清戦争前夜の日本国内の危機感と高揚感と混然となって、行き場を失って爆発しつつあるようだ。
このエネルギーが、このすぐ後に来る、一葉の人生の最後の開花期に一気に爆発することになるのだろう。
*
冒頭の和歌は、
「しき島の歌のあらす田荒にけりあらすきかへせ歌の荒樔田」 (香川景樹)
からとられたものらしい。
*
和歌の改革者というべきか、
「志士」というべきか。
*
個人的には、一葉という人はこうゆう人だったんだと、改めて思い知らされる文章である。
明治の有司専制体制化で、一葉と同じように幕藩体制側の臍の尾をもった漱石や荷風は、国家や政府に対して、また日露戦争に対して、斜めに構える態度をとったけれども、世代の差ゆえか、階層の差ゆえか、個性の差ゆえか、一葉は正面からこれらを捉えているように見える。
*
しかししかし・・・、一葉には今、10円、15円が必要なのも、また確かなのである。
*
*
国子はものにたえしのぶの気象とはし。この分厘にいたくあきたる比(コロ)とて、前後の慮(オモンバカリ)なく、「やめにせばや」とひたすらすゝむ。
母君も、「かく塵の中にうごめき居らんよりは、小さしといヘども門構への家に入り、やはらかき衣類(キモノ)にてもかさねまほしき」が願ひなり。
されば、わがもとのこゝろはしるやしらずや、両人(フタリ)ともにすゝむる事せつ也。
されども、年比(トシゴロ)うり尽し、かり尽しぬる後の事とて、此みせをとぢぬるのち、何方(ドコ)より一銭の入金(ニウキン)もあるまじきをおもへば、こゝに思慮はめぐらさゞるペからず。
さらばとて、運動の方法(テダテ)をさだむ。
まづかぢ町なる遠銀(鍛冶町の遠州屋石川銀次郎)に金子(キンス)五十円の調達を申しこむ。こは、父君存生(ゾンジヨウ)の比(コロ)より、つねに二、三百の金はかし置たる人なる上、しかも商法(シヤウハフ)手びろく、おもてを売る人にさへあれば、「はじめてのことゝて、つれなくはよも」と、かゝりし也。
此金額多からずといヘども、行先(ユクサキ)をあやぶむ人は、俄にも決しかねて、「来月、花の成行にて」といふ。
*
[現代語訳]
[現代語訳]
・・・・・・
だから、私の本心を知っているのか知らないのか、二人とも熱心に店を閉じようという。
しかし、数年来、衣類家財は売り尽くし、お金も借り尽くしてしまった後のことなので、店を閉じた後は一銭の収入もないことを思うと、ここは十分考えねばならない。
そこで皆でその対策の方法を考える。
・・・・・・
この金額はそれ程多くはないといっても、先のことを心配する人としては急にも決定しかねて、来月花の頃の商売の成りゆきを見た上で決めようという。
2011年3月17日木曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)3月(22歳) 「唯此死といふ事をかけて、浮世を月花におくらんとす。」(樋口一葉「塵之中日記(ちりのなかにつき)」)
明治27年(1894)3月(22歳)
この時期、一葉は糊口的文学脱却を目指して商い(吉原周辺の貧民相手の雑貨、駄菓子の商い)を初めているが、年初より不振にみまわれ、生活は逼迫し、四面楚歌の状況に陥っている。
しかし、結果論的に見ると、この時期はまた、一葉の人生最高の文学的高揚を迎える準備期でもある。
*
この頃(3月頃)、一葉は日付のない感想文を三つ書き残している。
今回はその二つ目をご紹介する。
なかなか一葉の真意は理解し難いものがありますが、一葉の必死さは伝わってきます。
*
塵之中日記(ちりのなかにつき)
表書年月「二十七年三月」。
署名「樋口夏子」。
*
*
日々にうつり行(ユク)こゝろの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭(コタン)の水の月をうかペるごとならんとすらん。
愚かなるこゝろのならひ、時にしたがひことに移りて、かなしきは一筋にかなしく、をかしきは一筋にをかしく、こしかたをわすれ行末をもおもはで、身をふるまふらんこそ、うたても有けれ。
こゝろはいたづらに雲井(クモイ)にまでのぼりて、おもふ事はきよくいさざよく、人はおそるらむ死といふことをも、唯(タダ)嵐の前の塵とあきらめて、山桜ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず、唯此死といふ事をかけて、浮世を月花(ツキハナ)におくらんとす。
*
(現代語訳)
日々に移り行く心は、いつになったら本当の悟りを得て、水に澄む月のような心境になれるの。
愚かな私の心は時の流れとともに移り変わり、事あるたびに揺れ動き、悲しい時はただもう悲しいばかり、おかしい時はただもうおかしいばかりで、過去を忘れ未来を思わず、その場限りの生き方をしているのは、本当に情けない思いである。
心は雲の上まで高く登り、清くいさざよい事ばかりを考え、人の恐れる死というものも塵のようにはかないものとあきらめて、山桜が散るようにやがて死ぬのは道理だと思えば、嵐もそれ程恐ろしいこともない。
このように死ということを覚悟した上で、浮世を風流に楽しく生きて行こうと思う。
*
ひとへにおもへば、其(ソノ)いにしへのかしこき人々も、此願ひにほかならじ。
さる物から、おもふまゝを行なひておもひのまゝに世を経んとするは、大凡(オホヨソ)人の願ふ処なめれど、さも成がたきことなれば、人々身を屈し、ことをはゞかりて、心は悟らんとしつゝ、身は迷ひのうちに終るらんよ。
あはれはかなしやな。虚無のうきよに君もなし、臣もなし。君といふ、そもそも偽(イツワリ)也、臣といふも、又偽也。
いつはりといヘども、これありてはじめて人道さだまる。・・・
*
「君もなし、臣もなし。」:
師匠の中島歌子のことを言っているのか。
*
(現代語訳)
よく考えてみると、昔の賢人たちもこのことを願っていたのでしょう。
そうは言っても、思うままを行って思うままに暮らそうとするのは誰でも願うところですが、そうも出来ないので、大方の人は自分の考えを曲げて遠慮し、心では悟ろうと努力しながらも現実には迷いのなかに一生を終わるようです。
本当にはかない事です。この虚無の人生には君とか臣とかの区別はないのです。君といっても仮のものです。臣というのも仮のものです。
しかし仮のものとは言っても、現実にはこれがあって、人の生きる道がきまっているのです。
*
・・・四時(シイジ)の順環(ジユンクワン)、日月(ニチゲツ)の出入(デイリ)、うきよはひとりゆかず、天地はひとり存せず。
地に花あり、天に月あり。香(カ)は空(クウ)にして、色は目にうつる。あれも少(セウ)とし難く、これも大とはいひ難し。
されば、人世(ジンセイ)に事を行はんもの、かぎりなき空(クウ)をつゝんで、限りある実(ジツ)をつとめざるべからず。・・・
*
(現代語訳)
季節の巡りや日月の出入りを見てもわかるように、人生も天地も、それだけが勝手に動いているのではない。
地には花があり天には月がある。花の香りは空に流れ、月の色は目に映る。そこには大小の差はない。
だから人生で何かを行おうとする者は無限の空を内に抱いて、有限の実を行うのです。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
*
この時期、一葉は糊口的文学脱却を目指して商い(吉原周辺の貧民相手の雑貨、駄菓子の商い)を初めているが、年初より不振にみまわれ、生活は逼迫し、四面楚歌の状況に陥っている。
しかし、結果論的に見ると、この時期はまた、一葉の人生最高の文学的高揚を迎える準備期でもある。
*
この頃(3月頃)、一葉は日付のない感想文を三つ書き残している。
今回はその二つ目をご紹介する。
なかなか一葉の真意は理解し難いものがありますが、一葉の必死さは伝わってきます。
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塵之中日記(ちりのなかにつき)
表書年月「二十七年三月」。
署名「樋口夏子」。
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日々にうつり行(ユク)こゝろの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭(コタン)の水の月をうかペるごとならんとすらん。
愚かなるこゝろのならひ、時にしたがひことに移りて、かなしきは一筋にかなしく、をかしきは一筋にをかしく、こしかたをわすれ行末をもおもはで、身をふるまふらんこそ、うたても有けれ。
こゝろはいたづらに雲井(クモイ)にまでのぼりて、おもふ事はきよくいさざよく、人はおそるらむ死といふことをも、唯(タダ)嵐の前の塵とあきらめて、山桜ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず、唯此死といふ事をかけて、浮世を月花(ツキハナ)におくらんとす。
*
(現代語訳)
日々に移り行く心は、いつになったら本当の悟りを得て、水に澄む月のような心境になれるの。
愚かな私の心は時の流れとともに移り変わり、事あるたびに揺れ動き、悲しい時はただもう悲しいばかり、おかしい時はただもうおかしいばかりで、過去を忘れ未来を思わず、その場限りの生き方をしているのは、本当に情けない思いである。
心は雲の上まで高く登り、清くいさざよい事ばかりを考え、人の恐れる死というものも塵のようにはかないものとあきらめて、山桜が散るようにやがて死ぬのは道理だと思えば、嵐もそれ程恐ろしいこともない。
このように死ということを覚悟した上で、浮世を風流に楽しく生きて行こうと思う。
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ひとへにおもへば、其(ソノ)いにしへのかしこき人々も、此願ひにほかならじ。
さる物から、おもふまゝを行なひておもひのまゝに世を経んとするは、大凡(オホヨソ)人の願ふ処なめれど、さも成がたきことなれば、人々身を屈し、ことをはゞかりて、心は悟らんとしつゝ、身は迷ひのうちに終るらんよ。
あはれはかなしやな。虚無のうきよに君もなし、臣もなし。君といふ、そもそも偽(イツワリ)也、臣といふも、又偽也。
いつはりといヘども、これありてはじめて人道さだまる。・・・
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「君もなし、臣もなし。」:
師匠の中島歌子のことを言っているのか。
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(現代語訳)
よく考えてみると、昔の賢人たちもこのことを願っていたのでしょう。
そうは言っても、思うままを行って思うままに暮らそうとするのは誰でも願うところですが、そうも出来ないので、大方の人は自分の考えを曲げて遠慮し、心では悟ろうと努力しながらも現実には迷いのなかに一生を終わるようです。
本当にはかない事です。この虚無の人生には君とか臣とかの区別はないのです。君といっても仮のものです。臣というのも仮のものです。
しかし仮のものとは言っても、現実にはこれがあって、人の生きる道がきまっているのです。
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・・・四時(シイジ)の順環(ジユンクワン)、日月(ニチゲツ)の出入(デイリ)、うきよはひとりゆかず、天地はひとり存せず。
地に花あり、天に月あり。香(カ)は空(クウ)にして、色は目にうつる。あれも少(セウ)とし難く、これも大とはいひ難し。
されば、人世(ジンセイ)に事を行はんもの、かぎりなき空(クウ)をつゝんで、限りある実(ジツ)をつとめざるべからず。・・・
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(現代語訳)
季節の巡りや日月の出入りを見てもわかるように、人生も天地も、それだけが勝手に動いているのではない。
地には花があり天には月がある。花の香りは空に流れ、月の色は目に映る。そこには大小の差はない。
だから人生で何かを行おうとする者は無限の空を内に抱いて、有限の実を行うのです。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年3月7日月曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)3月(22歳) 「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。」(樋口一葉「いはでもの記」)
明治27年(1894)3月1日
三月一日 『文学界』十四号来る。・・・
*
「花ごもり」其1~其4が「文学界」第14号に掲載されている。
*
*
3月2日
二日 曇り。かしらなやましくて終日(ヒネモス)打ふす。夕刻、号外来る。衆議員当撰者の報(シラセ)なり。
*
3月1日の衆議院議員臨時総選挙の開票速報が号外で出る。
*
*
3月9日
九日 雨。今日は銀こんの大典也。都市府県をしなべて、こゝろごゝろの祝意を表するに狂するが如しとか聞しが、折あしき雨にて、さのみはにぎはしからぬやにきく。・・・此夕べ、樋口くら来る。
*
明治天皇の結婚25年の祝典があったようだ。
樋口くらは、父則義の弟喜作の次女。
長男幸作を丸茂文良の経営する下谷区上野桜木町の丸茂病院に入院させるため、相談に上京していた。
*
*
3月12日
十二日 ・・・禿木子及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。「不平不平」のことばを開く。うれしき人也。
*
平田禿木に連れられて馬場孤蝶(25)が初めて来訪。
「うれしき人也」と好意的。
また、別のところでも、「こゝろうつくしきかな」と孤蝶を評している。
一葉は、「文学界」同人の中で、孤蝶を心を許すことのできる相手と見たようだ。
*
□馬場孤蝶:
本名勝弥。旧土佐藩士馬場來八の4男。自由民権運動家馬場辰猪(米国で客死)の弟。
明治11年、父母と共に上京、本郷龍岡町に住む。長兄以下を失い「家」を背負う状況に陥る。
神田淡路町の共立学校で平田禿木や幸田成友と同級。
明治学院では島崎藤村や戸川秋骨と同級。
卒業後、郷里の高知の共立中学校に英語の教師として赴任するが、藤村がその下宿先を訪ね孤蝶を「文学界」同人に引き入れる。
上京して、明治26年(1893)9月に日本中学に転職。
長編の新体詩「酒匂川」や「流水日記」などを発表。
この日、平田禿木に連れられて、初めて下谷龍泉寺町の一葉を訪ねる。
その後、明治28年9月彦根中学に赴任するまで頻繁に丸山福山町(龍泉寺町の次の転居先)を訪ねる。
*
*
3月13日
十三日 晴れ。真砂丁に久佐賀を訪ふ。日没帰宅。おくらいまだ帰らず。
*
*
3月14日
十四日 田中君を訪ふ。かずよみせんとて也。夕べはがきを出したれど、行ちがひてかれよりも文を出したるよし。
「今日は小石川師君と共に鍋島家に参賀の事あり」とて、支度中也。
例之(レイノ)龍子(三宅花圃)ぬしがー条、いよいよ二十五日発会と発表に成ぬ。されは右披露をかねて、鍋島家の恩顧をあほがん為、今日の結構はある也けり。
田中ぬし出でさられし後、一人残りて暫時かずよみす。題は三十題成し。
醜聞紛々。田中君の内情みゆる。
*
田中みの子を訪問すると、あれほど批判していた花圃の歌塾発会の披露準備のため鍋島邸に行く仕度中であった(鍋島直大の夫人と娘は中島歌子の門下生)。
みの子が出かけた後、弟子たちに暫く歌の数詠みの指導をする。
みの子についての醜聞をあれこれと聞いて、内情が見えるようであった。
*
*
○「いはでもの記」」(表書きに「二十七年三月」とある感想文)
中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。
人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。
すめる家は追はれなんとす。
食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。
かくていかさまにならんとすらん。
死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。
千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。
岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か
*
したいと思うことはなかなか捨てきれるものではないが、我が身は力なく弱い者だから、捨ててしまうより他はない。
世間の人には同情心もないし、私にはお金もないので、この世に生きる手段は何もない。
今住んでいる家も追われようとしている。
食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆を執って物を書こうとしてもいつの間にか眠ってしまう日が多い。
こんな調子では一体どうなるのだろうか。
のたれ死にの果ては犬の餌食となってしまい、空しい名前を野にさらすことになるのだろう。
千年の後、万年の後のために、私がこの世に生きていたしるしとして何を残すことが出来ると言えるのだろうか。
岡辺の松風の音が恨むように悲しく聞こえてくるのは、私と同じ悲しみを持った人のなれの果ての声なのだろうか。
*
行き詰った一葉の疲れ果てた心の内が見える。
この頃、他にも日記ではない感想文を残しているので、次回にご紹介する。
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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*
三月一日 『文学界』十四号来る。・・・
*
「花ごもり」其1~其4が「文学界」第14号に掲載されている。
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3月2日
二日 曇り。かしらなやましくて終日(ヒネモス)打ふす。夕刻、号外来る。衆議員当撰者の報(シラセ)なり。
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3月1日の衆議院議員臨時総選挙の開票速報が号外で出る。
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3月9日
九日 雨。今日は銀こんの大典也。都市府県をしなべて、こゝろごゝろの祝意を表するに狂するが如しとか聞しが、折あしき雨にて、さのみはにぎはしからぬやにきく。・・・此夕べ、樋口くら来る。
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明治天皇の結婚25年の祝典があったようだ。
樋口くらは、父則義の弟喜作の次女。
長男幸作を丸茂文良の経営する下谷区上野桜木町の丸茂病院に入院させるため、相談に上京していた。
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3月12日
十二日 ・・・禿木子及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。「不平不平」のことばを開く。うれしき人也。
*
平田禿木に連れられて馬場孤蝶(25)が初めて来訪。
「うれしき人也」と好意的。
また、別のところでも、「こゝろうつくしきかな」と孤蝶を評している。
一葉は、「文学界」同人の中で、孤蝶を心を許すことのできる相手と見たようだ。
*
□馬場孤蝶:
本名勝弥。旧土佐藩士馬場來八の4男。自由民権運動家馬場辰猪(米国で客死)の弟。
明治11年、父母と共に上京、本郷龍岡町に住む。長兄以下を失い「家」を背負う状況に陥る。
神田淡路町の共立学校で平田禿木や幸田成友と同級。
明治学院では島崎藤村や戸川秋骨と同級。
卒業後、郷里の高知の共立中学校に英語の教師として赴任するが、藤村がその下宿先を訪ね孤蝶を「文学界」同人に引き入れる。
上京して、明治26年(1893)9月に日本中学に転職。
長編の新体詩「酒匂川」や「流水日記」などを発表。
この日、平田禿木に連れられて、初めて下谷龍泉寺町の一葉を訪ねる。
その後、明治28年9月彦根中学に赴任するまで頻繁に丸山福山町(龍泉寺町の次の転居先)を訪ねる。
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3月13日
十三日 晴れ。真砂丁に久佐賀を訪ふ。日没帰宅。おくらいまだ帰らず。
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3月14日
十四日 田中君を訪ふ。かずよみせんとて也。夕べはがきを出したれど、行ちがひてかれよりも文を出したるよし。
「今日は小石川師君と共に鍋島家に参賀の事あり」とて、支度中也。
例之(レイノ)龍子(三宅花圃)ぬしがー条、いよいよ二十五日発会と発表に成ぬ。されは右披露をかねて、鍋島家の恩顧をあほがん為、今日の結構はある也けり。
田中ぬし出でさられし後、一人残りて暫時かずよみす。題は三十題成し。
醜聞紛々。田中君の内情みゆる。
*
田中みの子を訪問すると、あれほど批判していた花圃の歌塾発会の披露準備のため鍋島邸に行く仕度中であった(鍋島直大の夫人と娘は中島歌子の門下生)。
みの子が出かけた後、弟子たちに暫く歌の数詠みの指導をする。
みの子についての醜聞をあれこれと聞いて、内情が見えるようであった。
*
*
○「いはでもの記」」(表書きに「二十七年三月」とある感想文)
中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。
人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。
すめる家は追はれなんとす。
食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。
かくていかさまにならんとすらん。
死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。
千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。
岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か
*
したいと思うことはなかなか捨てきれるものではないが、我が身は力なく弱い者だから、捨ててしまうより他はない。
世間の人には同情心もないし、私にはお金もないので、この世に生きる手段は何もない。
今住んでいる家も追われようとしている。
食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆を執って物を書こうとしてもいつの間にか眠ってしまう日が多い。
こんな調子では一体どうなるのだろうか。
のたれ死にの果ては犬の餌食となってしまい、空しい名前を野にさらすことになるのだろう。
千年の後、万年の後のために、私がこの世に生きていたしるしとして何を残すことが出来ると言えるのだろうか。
岡辺の松風の音が恨むように悲しく聞こえてくるのは、私と同じ悲しみを持った人のなれの果ての声なのだろうか。
*
行き詰った一葉の疲れ果てた心の内が見える。
この頃、他にも日記ではない感想文を残しているので、次回にご紹介する。
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
*
2011年3月4日金曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)2月25日(22歳) 「万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」(樋口一葉「塵中日記」)
明治27年(1894)2月25日
二月二十五日 西村君来訪、午後まではなす。
平田君来訪されたるより、前者はかへる。例(いつも)のせまやかなる部屋の内に物がたること多し。五時まで遊ぶ。
「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。
万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。
*
平田禿木が来訪。
三宅花圃と鳥尾広子が家門を開くことが、「女学雑誌」に紹介されていたという。
花圃のことは、先に師の歌子から聞いていたが、広子(華族、貴族院議員、陸軍中将鳥尾小弥太の娘)もまた歌塾を開くということだ。
*
2月3日付けの「女学雑誌」には、「歌人中島うた子の高門弟たる田辺花圃女史は、師のすゝめにより、鳥尾子の令嬢と力を合せて此度び新たに歌門を開かる」とある。
*
師の歌子は、以前は、鳥尾広子について、少し歌がうまくなったもので有名になりたいという虚栄心がみえみえて、歌への真実の志がないと批判していた
(「こも又虚飾にて誠みちにこゝろざすの人には非らず」26年6月22日「日記」)。
その歌子が広子の家門を許したと知って、一葉は衝撃を受ける。
「万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」
*
歌子は、一葉にも家門を開くように言ったことがある。
しかし、家門を開くには、師匠への支払い、披露の催し、社交上の出費など莫大な金がかかり、一葉にはとうてい望めないこと。
歌子は一葉に、「発会当日の諸入用及びすべてのわづらひは憂ふるべからず」と言うが、これまでの歌子の行動を考えると、とてもあてにはできない。
*
*
2月27日
この日、歌塾「梅の舎」を開いている田中みの子を訪問。
歌子に対して批判的なみの子と、折から訪ねてきた伊東延子(夏子の母)と共に、花圃と広子の家門についての憤懣をぶつけ、歌子を批判。
*
みの子の歌子批判。
「品行日々にみだれて吝(ケチ)いよいよ甚敷(ハナハダシク)、歌道に尽すこゝろは塵ほども見えざるに、弟子のふえなんことをこれ求めて、我れ身しりぞきてより新来の弟子二十人にあまりぬ。
よめる歌はと問へば、こぞの稽古納めに歌合(ウタアワセ)したる十中の八九は手にはとゝのはず、語格みだれて歌といふべき風情はなし。」
二月二十五日 西村君来訪、午後まではなす。
平田君来訪されたるより、前者はかへる。例(いつも)のせまやかなる部屋の内に物がたること多し。五時まで遊ぶ。
「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。
万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。
*
平田禿木が来訪。
三宅花圃と鳥尾広子が家門を開くことが、「女学雑誌」に紹介されていたという。
花圃のことは、先に師の歌子から聞いていたが、広子(華族、貴族院議員、陸軍中将鳥尾小弥太の娘)もまた歌塾を開くということだ。
*
2月3日付けの「女学雑誌」には、「歌人中島うた子の高門弟たる田辺花圃女史は、師のすゝめにより、鳥尾子の令嬢と力を合せて此度び新たに歌門を開かる」とある。
*
師の歌子は、以前は、鳥尾広子について、少し歌がうまくなったもので有名になりたいという虚栄心がみえみえて、歌への真実の志がないと批判していた
(「こも又虚飾にて誠みちにこゝろざすの人には非らず」26年6月22日「日記」)。
その歌子が広子の家門を許したと知って、一葉は衝撃を受ける。
「万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」
*
歌子は、一葉にも家門を開くように言ったことがある。
しかし、家門を開くには、師匠への支払い、披露の催し、社交上の出費など莫大な金がかかり、一葉にはとうてい望めないこと。
歌子は一葉に、「発会当日の諸入用及びすべてのわづらひは憂ふるべからず」と言うが、これまでの歌子の行動を考えると、とてもあてにはできない。
*
*
2月27日
この日、歌塾「梅の舎」を開いている田中みの子を訪問。
歌子に対して批判的なみの子と、折から訪ねてきた伊東延子(夏子の母)と共に、花圃と広子の家門についての憤懣をぶつけ、歌子を批判。
*
みの子の歌子批判。
「品行日々にみだれて吝(ケチ)いよいよ甚敷(ハナハダシク)、歌道に尽すこゝろは塵ほども見えざるに、弟子のふえなんことをこれ求めて、我れ身しりぞきてより新来の弟子二十人にあまりぬ。
よめる歌はと問へば、こぞの稽古納めに歌合(ウタアワセ)したる十中の八九は手にはとゝのはず、語格みだれて歌といふべき風情はなし。」
*
更にみの子の批判は、田辺花圃、鳥尾広子にも向けられる。
「「かゝるが中にこの有様を知りつくしたる龍子(タツコ、三宅花圃)ぬしが、これに身を投じて家門を開かんとすと聞こそ、おぼろげのかんがへにはあらざるべし。
秋の紅葉のさかりは今一時(イツトキ)なる師が袖にすがりて、我世の春をむかへんとするの結構、此間(コノアイヒダ)にかならずあるべし。
鳥尾ぬしがことはもとより論ずるにたらず。師が甘(ウマ)きロに酔ひて、我が才学のほどをもおもはず、うきよに笑ひ草の種やまくらん。すべて、てんでんがたきの世」とかたる。」
*
花圃が家門を開くのは、歌子の衰えを承知のうえで、今のうちに歌子にすがって「我世の春をむかへんとする」ためだ。
広子は、「師が甘き口に酔ひて、我が才学のほどをもおもはず、うきよに笑ひ草の種やまくらん」とも言う。
*
一葉はみの子を励ます。
「いでさらば、何事をも言ほじ、おもはじ。
我はもとよりうきよに捨て物の一身を、何のしわざにか欺くべき。田中ぬしはしからず。
なまなかあらはし初(ソメ)たる名を末弟(バツテイ)におされて、朝(アシタ)の霜の、此まゝに消なんはいかにロをしからずや。師に情なく、友に信なくとも、何か又そは厭(イト)ふにたらず。
念とする所は君が手腕(テナミ)のみ。
うきよは三日みぬ間の桜なれば、君もむかしの君ならで、歌学大(オホイ)にあがり給ひしか知らねど、我が知りたるまゝならば、此世はとまれ、天下後代に残してそしりなきほどの詠(エイ)あるべしとも覚えず。
いかで万障をなげうちて、歌道に心を尽し給はずや。
我れもこれより君が為に、およぶ限りの相手にはなるべし。かずよみをもなし、各判をもなし、論議弁難もろ共にみがゝでやは。
我は今まで、小商人(コアキンド)の歌よむことをもなさゞりしかど、君は常におこたりなくつとめ居たまひしに相違あるまじ。
まが玉をみがくに他山の石を以てすとか。一人にてはいかでか」とすゝむ。」
*
一葉は、こう書く。
「此人もとより汚濁の外に立ちて、すみ渡りたるこゝろならぬはしれど、おもて清くしてうらにけがれをかくす龍子などのにくゝいやしきに、よしけがれはけがれとして、多数(アマタ)のすてたる此人に、せめては歌道にすすむ方(カタ)だけをはげまさんとて也。」
「此人もとより汚濁の外に立ちて、すみ渡りたるこゝろならぬはしれど、おもて清くしてうらにけがれをかくす龍子などのにくゝいやしきに、よしけがれはけがれとして、多数(アマタ)のすてたる此人に、せめては歌道にすすむ方(カタ)だけをはげまさんとて也。」
*
みの子が元来汚濁の外にいてすっかり澄み切った心でないことは知っているが、表面は清浄で裏面に汚れを隠している龍子(花圃)などが憎らしく卑劣なのに対して、たとえ汚れは汚れとしても、多くの人が見放したこの人に、せめて歌道の方面に進むことだけは励ましてやりたい。
*
勝気な一葉である。
花圃には、自分が文壇に出るに際して世話になっている。
また、みの子の歌子対する批判なども、多分相当程度一葉の煽動にもよるだろうと想像される。
才能では負けない、ただお金がないのである、一葉には。
*
後日談。
翌3月、一葉がみの子を訪ねた際には、みの子は、花圃の家門の発表、披露について「鍋島家の恩顧をあほがん為」、歌子と共に鍋島侯爵邸へ「参賀」の仕度中であった。
「醜聞紛々、田中君の内情みゆる」と一葉は書く。
*
一葉もまた、3月未、歌子から「我が此萩の舎は則ち君の物なれば」と云われ、萩の舎で働くよう迫られ、「此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば」と言い、歌子の申し出を承諾し、萩の舎の助教となる。
2011年2月16日水曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)2月23日(22歳) 一葉、起死回生の捨身の戦術にでる。 「うきよに捨ものゝ一身を何処の流にか投げこむべき。」(樋口一葉「塵中日記」)
樋口一葉の日記のご紹介。
一葉は、この頃の日記に「塵中日記」という名を付ける。
先月に引き続き、今月は明治27年2月をご紹介してます。
*
竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。
明治27年を迎えて、この年、一葉は22歳となる。
*
*
明治27年(1894)2月23日
糊口的文学の方向を変えて、商いで生活を維持しようとして行き詰まった一葉は、捨身の大胆な行動に出る。
「秋月」という偽名を用い本郷真砂町の天啓顕真術会本部に観相家久佐賀義孝(30歳)を訪ね、細民生活からの脱出を期して救済を求めるが、久佐賀は一葉の申し出を慰留。
彼の言葉は、結果的に一葉の心を文学に向けさせ、店を閉じる決意を促すことになる。
*
「久佐賀はまさご丁(チヨウ)に居して天啓顕真術をもて世に高名なる人なり。
うきよに捨ものゝ一身を何処の流にか投げこむべき。
学あり力あり金力ある人によりて、おもしろくをかしくさわやかにいさましく、世のあら波をこぎ渡らんとて、もとより見も知らざる人のちかづきにとて、引合せする人もなければ、我よりこれを訪はんとて也。」
*
○現代語訳
(浮世に世捨人ともいえるこの体を、どこの流れに投げ込んだらよいのか。
学問もあり力もあり金力もある人によって、面白おかしく、きれいに、勇ましく世の荒波を漕ぎ渡ろうとして、もちろん見ず知らずの人と近づきになろうとしても、紹介してくれる人もないから、自分からこの人を訪問しょうとするのである。)
*
一葉は、2月11日付「東京朝日新間」に載った天啓顕真術会の広告を見て相場を教えてもらおうと思いつき、「秋月」という偽名を使い、本郷真砂町に久佐賀義孝を訪ねる。
広告では、易学の一種の観相によって、身上の吉凶を占い、商売の勝利術指南、相場などの予言、病気の鑑定をするという。
「受鑑諸君より受納せし礼状実に山の如く」ともいう。
*
久佐賀義孝:
元治元年(1864)熊本城下に生れ、禅・易学を修めた後、朝鮮に渡り、季節学を研究し、清・インド・アメリカ合衆国を研修旅行して明治十九年に帰国し、本郷で天啓顕真術会を創設。本部は本郷区真砂町32にある。
*
「東京朝日新聞」2月11日付の広告:
「顕真術は天地四季の活動変化妙用法に拠て物体物質に関係ある系線引力の盛衰気候正変数理の出没等よりして人体幽明の事柄は勿論筍も宇宙万物有機上凡て最初の起因を求め未然の結果過去の状況現在の如何を瞭然火を見る如く顕真する一大奇術」とある。
新聞には、全国にわたる久佐賀の会員のおびただしい数が宣伝されていた。
*
遠山景澄著「京浜実業家名鑑」(明40・12刊)には、「君亦予言に妙なり人身の吉凶相場の高低一として適中せざるはなし世人以て神となす」とある。
*
以下、日記「ちりの中」より
「我れはまことに窮鳥の飛入るべきふところなくして、宇宙の間にさまよふ身に侍る。
あはれ広き御むねは、うちにやどるべきとまり木もや。
聞たまへ、先生。うきよの人に情はなかりけるものを、わがこゝろよりつくり出てたのもしき人とたのみ、にごれるよをも清める物とおもひて、我れにあざむかれてこゝに誠を尽しにき。
・・・今は下谷の片ほとりに、あきなひといふもふさはしかるまじきいさゝか成る小店を出して、ここを一身のとまりと定むれど、なぞやうきよの苦しみのかくて免(ノ)がるべきに非らず。
老たる母に朝四暮三のはかなきものさへすゝめ難くて、我がはらからの佗び合へるはこれのみ。すでに浮世に望みは絶えぬ。此身ありて何にかはせん。いとをしとをしむは親の為のみ。
さらば一身をいけにゑにして、運を一時のあやふきにかけ、相場といふこと為して見ばや。
されども貧者一銭の余裕(ユトリ)なくして、我が力にて我がことを為すに難く、おもひつきたるは先生のもと也。窮鳥ふところに入たる時ばかり人もとらずとかや。
天地(アメツチ)のことはりをあきらめて広く慈善の心をもて万人の痛苦をいやし給はんの御本願に思(オボ)し当ることあらば教へ給へ。いかにや先生、物ぐるはしきこゝろのもと末(スエ)、御むねの内に入たりやいかに。」
*
相場をしたいが金がないので助けてほしいという。
一葉は本気で相場をやりたいのではなく、この事業家から、生活打開の智恵を得るか、或は生活費を引き出せないかと考えたのではないか。
*
日記「ちりの中」の続き
「我が一生は破れ破れて、道端にふす乞食かたゐの末こそは、終生の願ひ成けれ。
さもあらばあれ、其乞食にいたるまでの道中をつくらんとて、朝夕もだゆる也。
つひに破るべき一生を、月に成てかけ、花に成て散らばやの願ひ。
破れを願ふほかに、やぶれはあるまじやは。
要する処は好死処(ヨキシニドコロ)の得まほしきぞかし。」
*
痛々しい程、切実かつ大胆な一葉である。
*
久佐賀は、一葉の申し出を慰留し、相場はやめるべきと言う。
「あらゆる望みを胸中よりさりて終生の願ひを安心立命にかけたるぞよき」と諭し、「自然の誠にむかひて物いはぬ月花とかたる世界、即ち文学の道に進むことを勧める。
*
帰宅後、久佐賀に出そうとした一葉の手紙の下書
「にごりににごれる世の中をいとひて清き一生を送らんとする身に災厄しばしば来り厄難度々のぞみて人しらぬ苦るしみにこゝろを痛めつゝ猶此よを捨てもはてぬは或る大きなる望につながるればに御坐候を我天性の小さくかすかに小溝の中に育ちて汚れのうちに死するうぢむしと同じかるべしとはさても情なき生れに御座候はずや」
*
*
○その後の展開
訪問の5日後、一葉の礼状に対し、久佐賀からは、一葉との交際を望み、梅見の誘いが来る。
一葉は、「貧者余裕なくして閑雅の天地に自然の趣きをさぐるによしなく」と断り、「梅見の同行は、かれに趣向あるべし。我れは彼が手中に入るべからずとほゝ笑みて返事したゝむ」と日記に記す。
しかし一葉は、その後も久佐賀とは1年ほど交際を続け、久佐賀は一葉を料亭に誘ったり、6月には、「貴女の身体は小生に御任せ被下(クダサル)積りなるや否や」と妾にならないかと申し出たりする。
一葉は久佐賀の誘いや要求に対し、言葉巧みに身をかわしている。
*
一葉が生涯に「関係した」唯一の男性が久佐賀だという評論家もいるそうだ。
私は、プライドの高い一葉にそれはないと思う。
また、もしそうであれば、その間くらいはお金の苦労はなかった筈だと思う。
*
ただ、これ以降の作品「暗夜」「たけくらべ」「にごりえ」に幅と深みが出てきたという事実はあるそうだ。
*
「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
*
一葉は、この頃の日記に「塵中日記」という名を付ける。
先月に引き続き、今月は明治27年2月をご紹介してます。
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竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。
明治27年を迎えて、この年、一葉は22歳となる。
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明治27年(1894)2月23日
糊口的文学の方向を変えて、商いで生活を維持しようとして行き詰まった一葉は、捨身の大胆な行動に出る。
「秋月」という偽名を用い本郷真砂町の天啓顕真術会本部に観相家久佐賀義孝(30歳)を訪ね、細民生活からの脱出を期して救済を求めるが、久佐賀は一葉の申し出を慰留。
彼の言葉は、結果的に一葉の心を文学に向けさせ、店を閉じる決意を促すことになる。
*
「久佐賀はまさご丁(チヨウ)に居して天啓顕真術をもて世に高名なる人なり。
うきよに捨ものゝ一身を何処の流にか投げこむべき。
学あり力あり金力ある人によりて、おもしろくをかしくさわやかにいさましく、世のあら波をこぎ渡らんとて、もとより見も知らざる人のちかづきにとて、引合せする人もなければ、我よりこれを訪はんとて也。」
*
○現代語訳
(浮世に世捨人ともいえるこの体を、どこの流れに投げ込んだらよいのか。
学問もあり力もあり金力もある人によって、面白おかしく、きれいに、勇ましく世の荒波を漕ぎ渡ろうとして、もちろん見ず知らずの人と近づきになろうとしても、紹介してくれる人もないから、自分からこの人を訪問しょうとするのである。)
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一葉は、2月11日付「東京朝日新間」に載った天啓顕真術会の広告を見て相場を教えてもらおうと思いつき、「秋月」という偽名を使い、本郷真砂町に久佐賀義孝を訪ねる。
広告では、易学の一種の観相によって、身上の吉凶を占い、商売の勝利術指南、相場などの予言、病気の鑑定をするという。
「受鑑諸君より受納せし礼状実に山の如く」ともいう。
*
久佐賀義孝:
元治元年(1864)熊本城下に生れ、禅・易学を修めた後、朝鮮に渡り、季節学を研究し、清・インド・アメリカ合衆国を研修旅行して明治十九年に帰国し、本郷で天啓顕真術会を創設。本部は本郷区真砂町32にある。
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「東京朝日新聞」2月11日付の広告:
「顕真術は天地四季の活動変化妙用法に拠て物体物質に関係ある系線引力の盛衰気候正変数理の出没等よりして人体幽明の事柄は勿論筍も宇宙万物有機上凡て最初の起因を求め未然の結果過去の状況現在の如何を瞭然火を見る如く顕真する一大奇術」とある。
新聞には、全国にわたる久佐賀の会員のおびただしい数が宣伝されていた。
*
遠山景澄著「京浜実業家名鑑」(明40・12刊)には、「君亦予言に妙なり人身の吉凶相場の高低一として適中せざるはなし世人以て神となす」とある。
*
以下、日記「ちりの中」より
「我れはまことに窮鳥の飛入るべきふところなくして、宇宙の間にさまよふ身に侍る。
あはれ広き御むねは、うちにやどるべきとまり木もや。
聞たまへ、先生。うきよの人に情はなかりけるものを、わがこゝろよりつくり出てたのもしき人とたのみ、にごれるよをも清める物とおもひて、我れにあざむかれてこゝに誠を尽しにき。
・・・今は下谷の片ほとりに、あきなひといふもふさはしかるまじきいさゝか成る小店を出して、ここを一身のとまりと定むれど、なぞやうきよの苦しみのかくて免(ノ)がるべきに非らず。
老たる母に朝四暮三のはかなきものさへすゝめ難くて、我がはらからの佗び合へるはこれのみ。すでに浮世に望みは絶えぬ。此身ありて何にかはせん。いとをしとをしむは親の為のみ。
さらば一身をいけにゑにして、運を一時のあやふきにかけ、相場といふこと為して見ばや。
されども貧者一銭の余裕(ユトリ)なくして、我が力にて我がことを為すに難く、おもひつきたるは先生のもと也。窮鳥ふところに入たる時ばかり人もとらずとかや。
天地(アメツチ)のことはりをあきらめて広く慈善の心をもて万人の痛苦をいやし給はんの御本願に思(オボ)し当ることあらば教へ給へ。いかにや先生、物ぐるはしきこゝろのもと末(スエ)、御むねの内に入たりやいかに。」
*
相場をしたいが金がないので助けてほしいという。
一葉は本気で相場をやりたいのではなく、この事業家から、生活打開の智恵を得るか、或は生活費を引き出せないかと考えたのではないか。
*
日記「ちりの中」の続き
「我が一生は破れ破れて、道端にふす乞食かたゐの末こそは、終生の願ひ成けれ。
さもあらばあれ、其乞食にいたるまでの道中をつくらんとて、朝夕もだゆる也。
つひに破るべき一生を、月に成てかけ、花に成て散らばやの願ひ。
破れを願ふほかに、やぶれはあるまじやは。
要する処は好死処(ヨキシニドコロ)の得まほしきぞかし。」
*
痛々しい程、切実かつ大胆な一葉である。
*
久佐賀は、一葉の申し出を慰留し、相場はやめるべきと言う。
「あらゆる望みを胸中よりさりて終生の願ひを安心立命にかけたるぞよき」と諭し、「自然の誠にむかひて物いはぬ月花とかたる世界、即ち文学の道に進むことを勧める。
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帰宅後、久佐賀に出そうとした一葉の手紙の下書
「にごりににごれる世の中をいとひて清き一生を送らんとする身に災厄しばしば来り厄難度々のぞみて人しらぬ苦るしみにこゝろを痛めつゝ猶此よを捨てもはてぬは或る大きなる望につながるればに御坐候を我天性の小さくかすかに小溝の中に育ちて汚れのうちに死するうぢむしと同じかるべしとはさても情なき生れに御座候はずや」
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○その後の展開
訪問の5日後、一葉の礼状に対し、久佐賀からは、一葉との交際を望み、梅見の誘いが来る。
一葉は、「貧者余裕なくして閑雅の天地に自然の趣きをさぐるによしなく」と断り、「梅見の同行は、かれに趣向あるべし。我れは彼が手中に入るべからずとほゝ笑みて返事したゝむ」と日記に記す。
しかし一葉は、その後も久佐賀とは1年ほど交際を続け、久佐賀は一葉を料亭に誘ったり、6月には、「貴女の身体は小生に御任せ被下(クダサル)積りなるや否や」と妾にならないかと申し出たりする。
一葉は久佐賀の誘いや要求に対し、言葉巧みに身をかわしている。
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一葉が生涯に「関係した」唯一の男性が久佐賀だという評論家もいるそうだ。
私は、プライドの高い一葉にそれはないと思う。
また、もしそうであれば、その間くらいはお金の苦労はなかった筈だと思う。
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ただ、これ以降の作品「暗夜」「たけくらべ」「にごりえ」に幅と深みが出てきたという事実はあるそうだ。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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2011年2月11日金曜日
一葉年譜と一葉の生きた明治 明治7年(1874) 一葉の妹くに子誕生 くに子と「一葉日記」出版までの経緯 [一葉2歳]
明治7年(1874)
*
この年の一葉(2歳)の家族の動き
*
2月21日
第5大区4小区(現台東区)下谷練塀町43番地桜井重兵衛方より、
第2大区6小区(現港区)麻布三河台町5番屋敷の福岡義弁所有の武家屋敷跡に転居(現、俳優座の隣)
*
この頃
長兄泉太郎と次兄虎之助は鞆絵学校(現在の港区立御成門小学校)に通う。
*
6月22日
三女くに子(くに、邦子)誕生。
*
くに子(1874~1926):
明治7年(1874)6月22日、麻布三河台の家で三女として誕生。
明治14年、本郷6丁目時代の頃、吉川学校に入学か。
下谷区御徒町3丁目に住んでいた明治14年(1881)11月、一葉と共に上野元黒門町の青海学校に入学、当時の卒業証書が存在する。
明治19年12月、芝区兼房町の女子敬愛学校に入学。
くにが裁縫の技術を身に着けたのはこの学校と池之端の吉田家であったといわれる。
明治23年、芝西応寺町に居た時「蟬表(籐表)」の製造技術を習い始め、本郷菊坂町に移ってからも続けた。
「にごりえ」のお初の蟬表造りは、くに子の姿を参考にして描かれている。
一葉没後、明治29年12月14日付で相続戸主となる。
一葉の日記を保管しこれの出版に尽力する。
後に西村釧之助の店を譲り受け、吉江政次を養子婿に迎え、小石川表町に文房具・洋品店礫川堂を経営。
大正15年(1926)7月1日没(52歳)。
*
○「一葉日記」と妹のくに子
一葉は亡くなる前、日記類は焼却するよう妹くに子に言い残したという。
しかし、くに子は焼き捨てるにしのびず保有し、馬場孤蝶らの尽力によって明治45年(1921)5月7日、博文館「一葉全集」前篇においてに公刊される。
*
「一葉日記」出版までの経緯
明治37年、七回忌を前に、くに子は「日記」公刊の是非について馬場孤蝶に相談。
草稿を預かった孤蝶はそれを斎藤緑雨に託す。
*
これより前の明治30年1月、「樋口一葉全集」が博文館から編集、出版されている。
この全集は、趣味を凝らした装訂の本で、編集者である博文館の大橋乙羽の思い入れの深さを示している。
一葉の葬儀や没後の措置一切を取り仕切った緑雨は、一葉の遺稿の出版にも深く関与していたが、この全集には飽きたらず、なお厳密な校訂を加えて、同年6月に「校訂一葉全集」として再版を出版。
明治30年の全集の際、緑雨は、全集の校訂を引き受けるが、博文館の大橋乙羽の校正の余りの杜撰に手を引いていた。
緑雨は、博文館の文芸雑誌『太陽』『文芸倶楽部』に掲載、再掲された一葉の『経つくえ』『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』『われから』などが、初出時の誤植等がそのまま全集に持ち込まれようとしたことに我慢ならなかったのである。
再版の企画に際して、再び緑雨に話が持ち込まれ、緑雨が校訂に従事し、「校訂一葉全集」の刊行に至る。
*
緑雨は云う。
「(一葉全集の校訂を緑雨が担当することへの世間の攻撃に対して)わが亡き後若し文筆に関する用事あらば、挙げて一切を緑雨に托せよと、一葉の申のこし置きたる故に候。」(明治30年3月発行『早稲田文学』掲載の「一葉全集の校訂に就て」)
*
しかし、「日記」出版に関しては、これを進めたい孤蝶に対し、緑雨は全面的公開に反対したらしい。
緑雨が『めさまし草』への勧誘を妨害する裏工作をしたことが暴露され、鴎外・露伴の顰蹙を買うことを恐れていたためとか、「日記」の中で一葉が桃水との会話の際に、緑雨を「いと気味わろき御かたよ」と言っていることに気分を害したため、と言われる。
*
明治37年4月、危篤状態となった緑雨は、孤蝶を通じて、「日記」草稿を樋口家に戻すことにする。
*
その後、明治41年の一葉の十三回忌を前に、くに子が「日記」公刊について孤蝶に相談。
孤蝶は森鴎外・幸田露伴と相談しながら本格的な準備を進めることになる。
しかし、鴎外や藤村の慎重論、消極論との調整がつかず、十三回忌の出版は見送りとなる。
この時も、鷗外の弟に対する一葉の記述に対し、鷗外が難色を示したとも云われている。
*
露伴は、「日記」全編に目を通し、出版のための浄書を監督し、孤蝶は、浄書原稿の振り仮名を付け直し、宛て漢字を草稿通りに戻し、句読点を加え、何ら削除をしない無修正の本文公開を決める。
孤蝶は、解説「一葉全集の末に」において、
「一葉全集の校正は全く私の責任に帰するのだから、こゝに一言して置くが、『日記』には私の手では少しも省略した所は無い。多分全体を通じて何処にも省略した所はあるまい。」
と述べている。
*
*
9月
父の則義、東京府中属となる(前年11月に東京府権中属となっている)。
*
10月
長女ふじ(16)、東京府少属和仁元利の長男元亀(軍医寮勤務。軍医副)と結婚。
翌年7月、離縁し樋口家に復籍。
*
*
「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
*
*
*
この年の一葉(2歳)の家族の動き
*
2月21日
第5大区4小区(現台東区)下谷練塀町43番地桜井重兵衛方より、
第2大区6小区(現港区)麻布三河台町5番屋敷の福岡義弁所有の武家屋敷跡に転居(現、俳優座の隣)
*
この頃
長兄泉太郎と次兄虎之助は鞆絵学校(現在の港区立御成門小学校)に通う。
*
6月22日
三女くに子(くに、邦子)誕生。
*
くに子(1874~1926):
明治7年(1874)6月22日、麻布三河台の家で三女として誕生。
明治14年、本郷6丁目時代の頃、吉川学校に入学か。
下谷区御徒町3丁目に住んでいた明治14年(1881)11月、一葉と共に上野元黒門町の青海学校に入学、当時の卒業証書が存在する。
明治19年12月、芝区兼房町の女子敬愛学校に入学。
くにが裁縫の技術を身に着けたのはこの学校と池之端の吉田家であったといわれる。
明治23年、芝西応寺町に居た時「蟬表(籐表)」の製造技術を習い始め、本郷菊坂町に移ってからも続けた。
「にごりえ」のお初の蟬表造りは、くに子の姿を参考にして描かれている。
一葉没後、明治29年12月14日付で相続戸主となる。
一葉の日記を保管しこれの出版に尽力する。
後に西村釧之助の店を譲り受け、吉江政次を養子婿に迎え、小石川表町に文房具・洋品店礫川堂を経営。
大正15年(1926)7月1日没(52歳)。
*
○「一葉日記」と妹のくに子
一葉は亡くなる前、日記類は焼却するよう妹くに子に言い残したという。
しかし、くに子は焼き捨てるにしのびず保有し、馬場孤蝶らの尽力によって明治45年(1921)5月7日、博文館「一葉全集」前篇においてに公刊される。
*
「一葉日記」出版までの経緯
明治37年、七回忌を前に、くに子は「日記」公刊の是非について馬場孤蝶に相談。
草稿を預かった孤蝶はそれを斎藤緑雨に託す。
*
これより前の明治30年1月、「樋口一葉全集」が博文館から編集、出版されている。
この全集は、趣味を凝らした装訂の本で、編集者である博文館の大橋乙羽の思い入れの深さを示している。
一葉の葬儀や没後の措置一切を取り仕切った緑雨は、一葉の遺稿の出版にも深く関与していたが、この全集には飽きたらず、なお厳密な校訂を加えて、同年6月に「校訂一葉全集」として再版を出版。
明治30年の全集の際、緑雨は、全集の校訂を引き受けるが、博文館の大橋乙羽の校正の余りの杜撰に手を引いていた。
緑雨は、博文館の文芸雑誌『太陽』『文芸倶楽部』に掲載、再掲された一葉の『経つくえ』『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』『われから』などが、初出時の誤植等がそのまま全集に持ち込まれようとしたことに我慢ならなかったのである。
再版の企画に際して、再び緑雨に話が持ち込まれ、緑雨が校訂に従事し、「校訂一葉全集」の刊行に至る。
*
緑雨は云う。
「(一葉全集の校訂を緑雨が担当することへの世間の攻撃に対して)わが亡き後若し文筆に関する用事あらば、挙げて一切を緑雨に托せよと、一葉の申のこし置きたる故に候。」(明治30年3月発行『早稲田文学』掲載の「一葉全集の校訂に就て」)
*
しかし、「日記」出版に関しては、これを進めたい孤蝶に対し、緑雨は全面的公開に反対したらしい。
緑雨が『めさまし草』への勧誘を妨害する裏工作をしたことが暴露され、鴎外・露伴の顰蹙を買うことを恐れていたためとか、「日記」の中で一葉が桃水との会話の際に、緑雨を「いと気味わろき御かたよ」と言っていることに気分を害したため、と言われる。
*
明治37年4月、危篤状態となった緑雨は、孤蝶を通じて、「日記」草稿を樋口家に戻すことにする。
*
その後、明治41年の一葉の十三回忌を前に、くに子が「日記」公刊について孤蝶に相談。
孤蝶は森鴎外・幸田露伴と相談しながら本格的な準備を進めることになる。
しかし、鴎外や藤村の慎重論、消極論との調整がつかず、十三回忌の出版は見送りとなる。
この時も、鷗外の弟に対する一葉の記述に対し、鷗外が難色を示したとも云われている。
*
露伴は、「日記」全編に目を通し、出版のための浄書を監督し、孤蝶は、浄書原稿の振り仮名を付け直し、宛て漢字を草稿通りに戻し、句読点を加え、何ら削除をしない無修正の本文公開を決める。
孤蝶は、解説「一葉全集の末に」において、
「一葉全集の校正は全く私の責任に帰するのだから、こゝに一言して置くが、『日記』には私の手では少しも省略した所は無い。多分全体を通じて何処にも省略した所はあるまい。」
と述べている。
*
*
9月
父の則義、東京府中属となる(前年11月に東京府権中属となっている)。
*
10月
長女ふじ(16)、東京府少属和仁元利の長男元亀(軍医寮勤務。軍医副)と結婚。
翌年7月、離縁し樋口家に復籍。
*
*
「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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2011年2月6日日曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)2月2日~22日(22歳) 年始廻りと金策と 着て行く着物がない 「きるべきものゝ塵ほども残らずよその蔵にあづけたれば、・・・」(樋口一葉「塵中日記」)
樋口一葉の日記のご紹介。
一葉は、この頃の日記に「塵中日記」という名を付ける。
先月に引き続き、今月は明治27年2月を。
*
竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。
明治27年を迎えて、この年、一葉は22歳となる。
*
*
明治27年(1894)2月2日
外出着がなく、年始回りは2月に入ってからになる。
妹のくに子が、一枚の着物の、羽織を重ねる部分を他の生地で継いで、外見上わからないように工夫してくれた。
*
*
○日記
「年始に出づ。
きるべきものゝ塵ほども残らずよその蔵にあづけたれば、仮そめに出んとするものもなし。
邦子のからうじて背中と前袖とゑり、さまざまにはぎ合せて羽をりだにきたらましかば、ふとははぎ物とも覚えざる様に、小袖一かさねこしらへ出たり。
これをきて出るに、風ふくごとの心づかひ、ものに似ず。寒風おもてをうちて寒さ堪がたき時ぞともなく、冷汗のみ出るよ。」(「塵中日記」明27・2・2)
*
現代語訳
二月二日。年始挨拶に出かける。
着物は全部質に入れてあるので、一寸した外出のためのものもない。
邦子が苦心して背中と前袖と襟を色々に継ぎ合わせて、上から羽織を着れば、一寸見ただけでは継ぎ合わせ物とも見えないように小袖を一つ作ってくれた。
これを着て出かけたのですが、風が吹くたびにめくれはしないかと、その気苦労は大変なものでした。
寒風が顔を打ち寒さ厳しい季節だというのに冷汗ばかりが出るのでした。
*
○日記
「此月いはふべき金の何方(いづかた)より入るべきあてもなきに、「今日は我が友のうちにてもこしらへ来ん」とて家を出づ。
「さはいヘど、伊東ぬしのもとにはかねてよりの負財も多し、又我心をなごりなく知りたりとも覚えぬ人にかゝる筋のこと度々いふべきにもあらず。
いかにせん」と思ふに、・・・」
*
現代語訳
今月はどこからもお金の入る当てがないので、今日は友人の所を訪ね都合してこようと思って家を出る。
そうは言っても、伊東夏子さんには前からの借金がまだ多い。
かといって、私の気持ちをすっかり理解してくれているとも思われない人に、このような話など度々言えるものでもない。
どうしようかと思案の末に、・・・
*
○日記
「「かの西村が少なからぬ身代にはらふくるゝを、五円十円の金出させなばいつにても成ぬべし。
我はもとよりこびへつらひて人の恵みをうけんとにはあらず。
いやならばよせかし。
よをくれ竹の二つわりに、さらさらといふてのくべきのみ」とおもふ」
*
現代語訳
「あの西村(釧之助)はかなり財産を持って裕福な暮らしをしているのだから、五円十円のお金を出させるとしたら何時でも出せるに違いない。
私は勿論媚びへつらって人から恵みを受けようとしているのではない。
嫌だと思うならばよせばよいのだ。
青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ)と思って出かける。」
*
かつて樋口家が恩義を与えた西村釧之助には尊大な態度になっている。
*
○日記
「(安藤坂の師匠・中島歌子のところに挨拶に行く)
・・・。師君のもの語(がたり)に、「三宅龍子ぬし、家門を起し給ふこゝろ」のよし。
さるは雄次郎君の内政之(の)いとくるしく、たらずがちなるに、例之(の)才女の、かゝる方におもむくこゝろ深く、かくとはおもひたゝれし成るべし。
師は我れにもせちにすゝめ給ふ。
「いかで此折過さず、世に名を出し給はずや。発会(はつくわい)当日の諸入用(ものいり)及びすべてのわづらひは、憂ふるべからず。
何方よりも何共(なんとも)なるべく、かへりては利益のあるべし」と、いとよくすゝめ給ふ。・・・」
*
現代語訳
*
○日記
「西村にて昼飯。種々(さまざま)ものがたる。
「金子は明日、もやうをつぐべき」よし。」
*
現代語訳
西村氏を訪ねて其処でお昼をいただく。
色々と話があり、お金のことは明日都合を知らせるとのこと。
*
○日記
「夏子ぬしを訪ふに、家をうりて明日明後日のほどには何方(いづく)へか移られんとて、いとろうがはしかりしが、此中(このうち)にてもの語りす。
夜くるゝまでありて、車をたまはりてかへる。」
*
現代語訳
伊東夏子さんを訪ねる。
家を売って明日か明後日には何処かへ引越されるとかでとりこんでおられたが、そんな中でお話する。
夜が更けるまでお邪魔して車をいただいて帰る。
*
*
明治27年(1894)2月17日
二月十七日 平田(禿木)君より状(ふみ)来る。『文学界』の投稿うながし来る也。ほし野君(星野天知)よりも、おなじことにて状来る。
*
*
明治27年(1894)2月18,19日
十八日、十九日、執筆いそがし。小説「花ごもり」四回分二十枚計(ばかり)なる。
*
*
明治27年(1894)2月20日
二十日 清書(きよがき)。午後(ひるすぎ)、平田君にむけ出(いだ)す。
*
*
明治27年(1894)2月22日
二十二日 かみあらひ。
*
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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*
一葉は、この頃の日記に「塵中日記」という名を付ける。
先月に引き続き、今月は明治27年2月を。
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竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。
明治27年を迎えて、この年、一葉は22歳となる。
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明治27年(1894)2月2日
外出着がなく、年始回りは2月に入ってからになる。
妹のくに子が、一枚の着物の、羽織を重ねる部分を他の生地で継いで、外見上わからないように工夫してくれた。
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○日記
「年始に出づ。
きるべきものゝ塵ほども残らずよその蔵にあづけたれば、仮そめに出んとするものもなし。
邦子のからうじて背中と前袖とゑり、さまざまにはぎ合せて羽をりだにきたらましかば、ふとははぎ物とも覚えざる様に、小袖一かさねこしらへ出たり。
これをきて出るに、風ふくごとの心づかひ、ものに似ず。寒風おもてをうちて寒さ堪がたき時ぞともなく、冷汗のみ出るよ。」(「塵中日記」明27・2・2)
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現代語訳
二月二日。年始挨拶に出かける。
着物は全部質に入れてあるので、一寸した外出のためのものもない。
邦子が苦心して背中と前袖と襟を色々に継ぎ合わせて、上から羽織を着れば、一寸見ただけでは継ぎ合わせ物とも見えないように小袖を一つ作ってくれた。
これを着て出かけたのですが、風が吹くたびにめくれはしないかと、その気苦労は大変なものでした。
寒風が顔を打ち寒さ厳しい季節だというのに冷汗ばかりが出るのでした。
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○日記
「此月いはふべき金の何方(いづかた)より入るべきあてもなきに、「今日は我が友のうちにてもこしらへ来ん」とて家を出づ。
「さはいヘど、伊東ぬしのもとにはかねてよりの負財も多し、又我心をなごりなく知りたりとも覚えぬ人にかゝる筋のこと度々いふべきにもあらず。
いかにせん」と思ふに、・・・」
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現代語訳
今月はどこからもお金の入る当てがないので、今日は友人の所を訪ね都合してこようと思って家を出る。
そうは言っても、伊東夏子さんには前からの借金がまだ多い。
かといって、私の気持ちをすっかり理解してくれているとも思われない人に、このような話など度々言えるものでもない。
どうしようかと思案の末に、・・・
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○日記
「「かの西村が少なからぬ身代にはらふくるゝを、五円十円の金出させなばいつにても成ぬべし。
我はもとよりこびへつらひて人の恵みをうけんとにはあらず。
いやならばよせかし。
よをくれ竹の二つわりに、さらさらといふてのくべきのみ」とおもふ」
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現代語訳
「あの西村(釧之助)はかなり財産を持って裕福な暮らしをしているのだから、五円十円のお金を出させるとしたら何時でも出せるに違いない。
私は勿論媚びへつらって人から恵みを受けようとしているのではない。
嫌だと思うならばよせばよいのだ。
青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ)と思って出かける。」
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かつて樋口家が恩義を与えた西村釧之助には尊大な態度になっている。
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○日記
「(安藤坂の師匠・中島歌子のところに挨拶に行く)
・・・。師君のもの語(がたり)に、「三宅龍子ぬし、家門を起し給ふこゝろ」のよし。
さるは雄次郎君の内政之(の)いとくるしく、たらずがちなるに、例之(の)才女の、かゝる方におもむくこゝろ深く、かくとはおもひたゝれし成るべし。
師は我れにもせちにすゝめ給ふ。
「いかで此折過さず、世に名を出し給はずや。発会(はつくわい)当日の諸入用(ものいり)及びすべてのわづらひは、憂ふるべからず。
何方よりも何共(なんとも)なるべく、かへりては利益のあるべし」と、いとよくすゝめ給ふ。・・・」
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現代語訳
先生の話では三宅花圃さんが塾を開かれる予定とのこと。
ご主人の(三宅雪嶺)雄次郎氏の勝手向きが非常に苦しくいつも不足がちなので、例によって才女のこととて、家計の一助にもと、このことを思いたたれたのでしょう。
先生は私にもしきりに勧めなさる。
「是非この機会をのがさず、あなたも世間に名前をお出しなさい。
発会当日の諸費用、またその他の面倒な事などは心配する必要はないのです。
何処からでも何とかなるものです。
むしろ逆に利益になることですから」
としきりに熱心に勧めなさる。
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事実は、花圃が華族女学校に通う近所の娘数人に「紫式部日記」を教えたことが歌子にとがめられ、看板料を納めてお披露目をするよう求められたもの。*
○日記
「西村にて昼飯。種々(さまざま)ものがたる。
「金子は明日、もやうをつぐべき」よし。」
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現代語訳
西村氏を訪ねて其処でお昼をいただく。
色々と話があり、お金のことは明日都合を知らせるとのこと。
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○日記
「夏子ぬしを訪ふに、家をうりて明日明後日のほどには何方(いづく)へか移られんとて、いとろうがはしかりしが、此中(このうち)にてもの語りす。
夜くるゝまでありて、車をたまはりてかへる。」
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現代語訳
伊東夏子さんを訪ねる。
家を売って明日か明後日には何処かへ引越されるとかでとりこんでおられたが、そんな中でお話する。
夜が更けるまでお邪魔して車をいただいて帰る。
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明治27年(1894)2月17日
二月十七日 平田(禿木)君より状(ふみ)来る。『文学界』の投稿うながし来る也。ほし野君(星野天知)よりも、おなじことにて状来る。
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明治27年(1894)2月18,19日
十八日、十九日、執筆いそがし。小説「花ごもり」四回分二十枚計(ばかり)なる。
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明治27年(1894)2月20日
二十日 清書(きよがき)。午後(ひるすぎ)、平田君にむけ出(いだ)す。
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明治27年(1894)2月22日
二十二日 かみあらひ。
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2011年1月1日土曜日
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)1月1日~20日(22歳) 「男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき。」(樋口一葉「塵中日記」)
謹賀新年
樋口一葉の日記を紹介しております。
今年は、明治27年元旦から始めます。
*
竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。
明治27年を迎えて、この年、一葉は22歳となる。
*
*
明治27年(1894)1月1日~5日
廿七年一月一日 あさのほど少し雪ちらつく。やがてはれたり。今日のせわしさ、たとふるにものなし。終日、くに(妹)と我れと立つくすが如し。礼者なし。
*
二日 おなじく。西村礼に来る。久保木来る。
*
三日 上野房蔵来る。佐久間夫婦来る。
*
四日 伊三郎来る。神田にかひ出し。
*
五日より常の如し。
*
*
1月7日
七日 芝より兄君来る。むかひがはに同業出来る。
八日よりあきなひひま也。
此ほどかくべき事なし。
*
この日、向い側に同業が開店。
やがて、日記に「分厘のあらそひ」と書くような値下げ合戦を繰り広げるようになる。
かつて一葉の店が近所の同業者を潰したことがあるが、同じ運命が一葉家族を襲う。
一葉の店は客足が伸びず、経営も生活も困窮を極める事態となる。
*
*
1月10日
十日 平田(*禿木)君より状来る。五日帰京したるよし。「今月の双紙にも何か出しくれよ」とて也。
末文に、古藤庵無声(*島崎藤村)が、我宅を訪ひ度よしかたりたり、とて紹介をなす。・・・
*
*
1月13日
星野君はじめて来訪、かねておもひしにはかはりていとものなれがほに馴れ安げの人也 としの頃は三十計(ばかり)にや、小作りにて色白く八丈もめんの黒もん付の羽をり二重まわしをはをりて来たりき。物語多かりしが、さのみはとて。
*
「文学界」の出資者星野天知(32)が始めて一葉を訪問
現代語訳
「前から想像していた人とはすっかり違って、いかにも世間馴れた近づき易い人です。年は三十歳ぐらいでしょうか。小柄で色白く、八丈木綿の着物に黒紋付の羽織、それに二重廻しの外套を着て来られた。お話も多かったが、ここにはとても書ききれない。」
*
天知の方は、一葉について
「泥中に蓮花を探る気で俥を飛ばした」、
「小柄で猪首な町屋風の娘が挨拶した。尾羽打枯らした二十四五の飾らぬ風采、稍々(ヤヤ)険しくはあるが、プラウドの高き光は大いに異敬するものがあった」(『黙歩七十年』)と記す。
*
*
1月15日~16日
十五日 平田君より状来る。寺住ひの寒さにおそれ、ちかくの横川医院とかいへるに転じたるよし。「そのうち訪はん」などありき。今日はあきなひいと忙し。
*
十六日 はれ。一日あきなひせはしくして、終日一寸の暇なし。・・・
*
*
1月20日
二十日 はれ。植木屋寅次郎来る。午後、平田君来訪。『文学界』寄稿之こと尋ねに成り。露伴子作『五重塔』。
男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき。
さればとて、こと更につくろひ顔ならんはにくけれど、万(よろず)こゝろえがほになれなれ敷(しき)は、才たかく学ひろしとても、何となくあなどらるゝぞかし。
春の花のうるはしきけはあらずとも、天雲(あまぐも)たな曳くたか山の、そゞろ尊く恐ろしき様にもあり、わづかにあふぎ見る様なる中に、何となくなつかしきけしきをふくみたらんぞよき。
*
平田禿木から幸田露伴「五重塔」を貸りる。
そして、一葉の「オトコ論」
現代語訳
「男はすべて重々しく口数の多くないのがよい。
だからといって、ことさらにわざとらしいのは嫌だが、万事何事も心得ているように世間馴れているのは、たとえ才能があり学問が広くても何となく軽蔑されるものです。
春の花のような美しい気配はなくても、雲が棚引いている高い山のように何となく尊く恐ろしい所があり、尊敬の念を起こさせると共にまた何となくなつかしさが感じられるのがよい。
*
*
「★一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
樋口一葉の日記を紹介しております。
今年は、明治27年元旦から始めます。
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竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。
明治27年を迎えて、この年、一葉は22歳となる。
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明治27年(1894)1月1日~5日
廿七年一月一日 あさのほど少し雪ちらつく。やがてはれたり。今日のせわしさ、たとふるにものなし。終日、くに(妹)と我れと立つくすが如し。礼者なし。
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二日 おなじく。西村礼に来る。久保木来る。
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三日 上野房蔵来る。佐久間夫婦来る。
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四日 伊三郎来る。神田にかひ出し。
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五日より常の如し。
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1月7日
七日 芝より兄君来る。むかひがはに同業出来る。
八日よりあきなひひま也。
此ほどかくべき事なし。
*
この日、向い側に同業が開店。
やがて、日記に「分厘のあらそひ」と書くような値下げ合戦を繰り広げるようになる。
かつて一葉の店が近所の同業者を潰したことがあるが、同じ運命が一葉家族を襲う。
一葉の店は客足が伸びず、経営も生活も困窮を極める事態となる。
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1月10日
十日 平田(*禿木)君より状来る。五日帰京したるよし。「今月の双紙にも何か出しくれよ」とて也。
末文に、古藤庵無声(*島崎藤村)が、我宅を訪ひ度よしかたりたり、とて紹介をなす。・・・
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1月13日
星野君はじめて来訪、かねておもひしにはかはりていとものなれがほに馴れ安げの人也 としの頃は三十計(ばかり)にや、小作りにて色白く八丈もめんの黒もん付の羽をり二重まわしをはをりて来たりき。物語多かりしが、さのみはとて。
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「文学界」の出資者星野天知(32)が始めて一葉を訪問
現代語訳
「前から想像していた人とはすっかり違って、いかにも世間馴れた近づき易い人です。年は三十歳ぐらいでしょうか。小柄で色白く、八丈木綿の着物に黒紋付の羽織、それに二重廻しの外套を着て来られた。お話も多かったが、ここにはとても書ききれない。」
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天知の方は、一葉について
「泥中に蓮花を探る気で俥を飛ばした」、
「小柄で猪首な町屋風の娘が挨拶した。尾羽打枯らした二十四五の飾らぬ風采、稍々(ヤヤ)険しくはあるが、プラウドの高き光は大いに異敬するものがあった」(『黙歩七十年』)と記す。
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1月15日~16日
十五日 平田君より状来る。寺住ひの寒さにおそれ、ちかくの横川医院とかいへるに転じたるよし。「そのうち訪はん」などありき。今日はあきなひいと忙し。
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十六日 はれ。一日あきなひせはしくして、終日一寸の暇なし。・・・
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1月20日
二十日 はれ。植木屋寅次郎来る。午後、平田君来訪。『文学界』寄稿之こと尋ねに成り。露伴子作『五重塔』。
男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき。
さればとて、こと更につくろひ顔ならんはにくけれど、万(よろず)こゝろえがほになれなれ敷(しき)は、才たかく学ひろしとても、何となくあなどらるゝぞかし。
春の花のうるはしきけはあらずとも、天雲(あまぐも)たな曳くたか山の、そゞろ尊く恐ろしき様にもあり、わづかにあふぎ見る様なる中に、何となくなつかしきけしきをふくみたらんぞよき。
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平田禿木から幸田露伴「五重塔」を貸りる。
そして、一葉の「オトコ論」
現代語訳
「男はすべて重々しく口数の多くないのがよい。
だからといって、ことさらにわざとらしいのは嫌だが、万事何事も心得ているように世間馴れているのは、たとえ才能があり学問が広くても何となく軽蔑されるものです。
春の花のような美しい気配はなくても、雲が棚引いている高い山のように何となく尊く恐ろしい所があり、尊敬の念を起こさせると共にまた何となくなつかしさが感じられるのがよい。
*
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「★一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2010年12月18日土曜日
一葉日記抄 明治26年(1893)12月2日~31日(21歳) 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。 なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。」(「塵中日記」)
樋口一葉の日記に関して、前回からの続き
*
竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。この時、一葉21歳。
*
明治26年(1893)12月2日
「対韓事件」:
防穀事件のこと。大鳥公使の赴任後、朝鮮側は仁川・釜山・元山での輪川米の持出しを禁止。
「千島艦の沈没」:
軍艦「千島」の英国ラヴェンナ号との衝突沈没事件。上海裁判所で英国側の勝訴。
「印度、埃及」:
両国ともイギリスの植民地。
*
一葉の政治・社会への強い関心を示す。
改進党・自由党の対立を背景に、衆議院議長星亨への不信任動議に紛糾する国会を嘆き、日朝・日英間の外交にも憂慮している。
新聞の影響か、民族主義的、国家主義的な傾向も見える。
*
*
12月7日
「七日 晴れ。多丁にかひ出しながら、喜多川君に菓子箱かへす。
帰路、奥田に利金入るゝ。
此日、伊三郎より金五円かりる。高利の金にて、俗に「日なし」といふもの也。かゝる事、物覚えてはじめての事也。
此夜、山梨県に手紙出す。金子のこと後屋敷に申つかはし、雨宮のもとへも頼み文出す」
やみ金融をしている従弟の広瀬伊三郎から「日なし」という高利の金5円を借りる。
「日なし」:
貸付けた当日から利子をかけ、日済で少しずつ返済させながら、高利の利子を取る貸し方。
山梨県は、
父母の出身地。後尾敷村の芦沢卯助という者には養父五左衛門の時代に則義から借りた古い負債が残っている。
「雨宮」:
母たきの甥の雨宮源吉。
*
他に、姉の久保木のところへも借金に出かけるが果たさず。
*
16日には、20年ほど前(明治6,7年頃)に、父が母の弟の養子先に貸したという28円の回収の為に、母たきが山梨に出かける。結果的には交渉は失敗。
その間、一葉姉妹は、母一人を送り出したことで、
「母君のことをおもふに、くに子も我も終日むねいたくて、ともすれば涙のみなり。」(17日付け日記)、
「此日頃大方なみだ也」(21日付け「日記」)となる。
母は26日に戻る。
*
結局この年末は、山梨の従弟や、父の知人からの調達、28日には『文学界』から「琴の音」の稿料1円50銭も届き、どうにか年越しができる。
*
12月30日
「三十日 もちをつく。金壱円。上野君父子歳暮に来る。議会解散。」
*
*
*
「黙翁年表」は以下の通りです。
*
明治26年(1893)11月
・改進党、大日本協会を中心とする対外硬派に合流。
改進党目的である政党内閣樹立の為、政局の主導権掌握の一段階として硬派に連合。
右翼国権主義の潮流に乗ることが反政府運動の主導権掌握の近道と考えられる。
*
・子規(27)、「芭蕉雑談」(25回,「日本」11月13日~翌1月22日)
*
・宮崎湖処子「湖処子詩集」(石文社)
*
11月1日
明治座の開場式
*
11月3日
早川徳次、誕生。シャープ創業者。
*
11月6日
・(露暦10/25)チャイコフスキー(53)、ペテルブルク、弟モデスト宅で没
11月14日
14 ・森鴎外(31)、陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員となる。
12月16日、正六位に叙任。中央衛生会委員となる。
*
11月28日
・第5議会、開会。
翌日、大日本協会安部井磐根から、星議長不信任決議案が緊急動議として提出され、賛成多数により可決。
星は憲法上議長不信任はあり得ないとして、翌日も平然と議長席に着く。
これに対し、衆議院は、議長不信任上奏案を可決するが効果なく、更に星の7日間登院停止を決議するが、その期限後、星は平然と議長席に着く。
この倣慢不遜な態度は自由党内にも敵を作り、12月13日、衆議院除名決議が可決され、遂に議席を失う。
*
議長在任は1年7ヶ月。短期間で議長の座を失うが、その剛腹さを見せつけたことはその後の活躍の為にはむしろ役立った面がある。
不信任の直接の理由は、①相馬事件と②取引所事件。
①相馬事件:
旧相馬藩の旧家臣が、相馬家当主を、その兄謀殺を理由に告訴、星は、告訴された相馬家当主を弁護し、無罪を勝ち取り、告発者が逆に誣告罪で有罪となる。
しかし当初は、告発が正当と思われ、その弁護人となった星は社会的非難を浴びる。
*
②第4議会、星議長の下で、取引所に関する諸法令(米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例)が統合され、会員組織取引所と株式会社組織取引所の2種類の取引所設立を認める取引所法が成立。
新法令では、商品取引所と証券取引所の設立を免許制として政府監督下に置くが、免許制の為、政府には100社近い出願が殺到。
しかし実際に免許を受けたのは18社のみ。商品取引所設置に関する監督官庁は農商務省で、大臣は星と関係が深い自由党系後藤象二郎。
後藤は清廉潔白からは程遠い人物で、出願を却下された業者は、後藤-星ラインとこれに癒着する競願業者にしてやられたとの思いが強い。
改進党機関紙「改進新聞」は、星が一部業者から賄賂を受け取ったと書き立て、他の改進党系新聞もこれに追随。
星は新聞社を告訴し、第5議会開会直前には新聞発行人に対する禁固・罰金刑、新聞社に対する謝罪広告掲載を命ずる判決を得て、法的には決着。
しかし裁判の勝利によって、逆に星にまつわるダーティなイメージを消し去る事はできず。
*
11月30日
・千島艦、英艦ラベンナ号と伊予沖で衝突し沈没。
*
12月9日
・フランス、無政府主義者オーギュスト・ヴァイヤンが、国民議会下院にダイナマイト投擲。
議会はこれを機に暴力行為準備集会取締法を強引に可決。
*
12月16日
・ドヴォルザーク(52)、「交響曲第9番ホ短調<新世界より>」、カーネギーで初演。
*
12月19日
・外相陸奥宗光、条約改正の目的は国として受くべき権利と国として尽すべき義務を完うすることにある、「是ヲ実際ヨリ云へバ則此日本帝国ガ亜細亜州中ニアリナガラ欧米各国ヨリ特別ナル待遇ヲ受ケム云フ趣旨デアル」と議会演説。
*
12月24日
・オーストリア、第1回労働組合全国大会開催
*
12月28日
・英帰国中の英公使フレーザー、在日英公使館付ショウ牧師に対する暴行事件に関し青木周蔵公使に警告。
対外硬派が第5議会に「条約励行建議案」を上程。
大日本協会安部井磐根は、説明にあたり在留外国人が条約違反を積重ねていると暴露すると、外国人に対する暴行やいやがらせが頻発。
イギリス公使館付牧師アルチデーコン・ショウが暴漢に襲われ際、巡査は傍観して救援せず。
この報がロンドンに達するや、イギリス外務省の「模様俄カニ一変」。
30日、青木公使の電報によりそれを知った伊藤内閣は、即座に衆議院を解散。
*
12月29日
・政府、条約励行論は開国の国是に反するとして大日本協会に解散命令。
*
12月30日
・衆議院(第5議会)、解散。
伊藤政権と自由党が提携すると、第5議会で国民協会と改進党が提携し、官紀振粛問題(後藤象二郎農商務相らの汚職問題)・条約励行問題で伊藤政権を追詰める。
第5議会解散により反政府熱は高まる。貴
族院では、近衛篤麿ら有志38名が対外硬派を支持し、政府の議会解散を非難し、伊藤内閣に対する国民の信任は失墜したと退陣を要求。
大日本協会は改進党と協同して排外的な「条約励行案」を上程。極秘裡に英国と条約改正交渉を進めている第2次伊藤内閣は衆議院を解散して励行案の成立を防ぎ、一方で大日本協会の結社を禁止。
取引所事件に関して、後藤農商務相と斎藤修一郎農商務次官に対する官紀振粛上奏案も可決され、両名はその官を辞すた。
後藤象二郎はこの事件後、政治力を失い、3年余後に没す。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。この時、一葉21歳。
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明治26年(1893)12月2日
「二日、晴れ。議会紛々擾(ジョウ)々。私行のあばき合ひ、隠事の摘発。さも大人げなきことよ。
半夜眼をとぢて静かに当世の有さまをおもへば、あはれいかさまに成りていかさまに成らんとすらん。
かひなき女子の何事をおもひたりとも猶蟻みゝずの天を論ずるにもにて、我れをしらざるの甚しと人しらばいはんなれど、さてもおなじ天をいたヾけば風雨雷電いづれか身の上にかゝらざらんや。
国の一隅にうまれ一端に育ちて、我大君のみ恵に浴するは彼の将相にも露おとらざるを、日々せまり来る我国の有さま、川を隔てゝ火をみる様にあるべきかは。
安きになれてはおごりくる人心の、あはれ外つ国の花やかなるをしたひ、我が国振のふるきを厭ひて、うかれうかるる仇ごころは、なりふり、住居の末なるより、詩歌政体のまことしきにまで移りて、流れゆく水の塵芥をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処をしらず。
かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。
外は対韓事件の処理むづかしく、千島艦の沈没も、我れに理ありて彼れに勝ちがたきなど、あなどらるゝ処あればぞかし。
猶、条約の改正せざるべからざるなど、かく外にはさまざまに憂ひ多かるを、内は兄弟かきにせめぎて、党派のあらそひに議場の神聖をそこなひ、自利をはかりて公益をわするゝのともがら、かぞふれば猶指もたるまじくなん。
にごれる水は一朝にして清め難し。
かくて流れゆく我が国の末、いかなるべきぞ。
外にはするどきわしの爪あり、獅子の牙あり。印度、埃及(エジプト)の前例をきゝても、身うちふるひ、たましひわなゝかるゝを。
いでよしや物好きの名にたちてのちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。
なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。
さても恥かしきは女子の身なれど。
吹かへす秋のゝ風にをみなへし
ひとりはもれぬのべにぞ有ける」(「塵中日記」)
*「対韓事件」:
防穀事件のこと。大鳥公使の赴任後、朝鮮側は仁川・釜山・元山での輪川米の持出しを禁止。
「千島艦の沈没」:
軍艦「千島」の英国ラヴェンナ号との衝突沈没事件。上海裁判所で英国側の勝訴。
「印度、埃及」:
両国ともイギリスの植民地。
*
一葉の政治・社会への強い関心を示す。
改進党・自由党の対立を背景に、衆議院議長星亨への不信任動議に紛糾する国会を嘆き、日朝・日英間の外交にも憂慮している。
新聞の影響か、民族主義的、国家主義的な傾向も見える。
*
「・・・、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。」とは、志士のようでもある。
*
以降、横山源之助や馬場孤蝶などと交際して行く中で、一葉のこの社会への関心の在り方も、変容してゆく。*
*
12月7日
「七日 晴れ。多丁にかひ出しながら、喜多川君に菓子箱かへす。
帰路、奥田に利金入るゝ。
此日、伊三郎より金五円かりる。高利の金にて、俗に「日なし」といふもの也。かゝる事、物覚えてはじめての事也。
此夜、山梨県に手紙出す。金子のこと後屋敷に申つかはし、雨宮のもとへも頼み文出す」
*
金策、である。
金策、である。
*
やみ金融をしている従弟の広瀬伊三郎から「日なし」という高利の金5円を借りる。
「日なし」:
貸付けた当日から利子をかけ、日済で少しずつ返済させながら、高利の利子を取る貸し方。
山梨県は、
父母の出身地。後尾敷村の芦沢卯助という者には養父五左衛門の時代に則義から借りた古い負債が残っている。
「雨宮」:
母たきの甥の雨宮源吉。
*
他に、姉の久保木のところへも借金に出かけるが果たさず。
*
16日には、20年ほど前(明治6,7年頃)に、父が母の弟の養子先に貸したという28円の回収の為に、母たきが山梨に出かける。結果的には交渉は失敗。
その間、一葉姉妹は、母一人を送り出したことで、
「母君のことをおもふに、くに子も我も終日むねいたくて、ともすれば涙のみなり。」(17日付け日記)、
「此日頃大方なみだ也」(21日付け「日記」)となる。
母は26日に戻る。
*
結局この年末は、山梨の従弟や、父の知人からの調達、28日には『文学界』から「琴の音」の稿料1円50銭も届き、どうにか年越しができる。
*
12月30日
「三十日 もちをつく。金壱円。上野君父子歳暮に来る。議会解散。」
*
12月31日
「三十一日 あきなひ多し。二時まで起居る。」*
*
*
「黙翁年表」は以下の通りです。
*
明治26年(1893)11月
・改進党、大日本協会を中心とする対外硬派に合流。
改進党目的である政党内閣樹立の為、政局の主導権掌握の一段階として硬派に連合。
右翼国権主義の潮流に乗ることが反政府運動の主導権掌握の近道と考えられる。
*
・子規(27)、「芭蕉雑談」(25回,「日本」11月13日~翌1月22日)
*
・宮崎湖処子「湖処子詩集」(石文社)
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11月1日
明治座の開場式
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11月3日
早川徳次、誕生。シャープ創業者。
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11月6日
・(露暦10/25)チャイコフスキー(53)、ペテルブルク、弟モデスト宅で没
11月14日
14 ・森鴎外(31)、陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員となる。
12月16日、正六位に叙任。中央衛生会委員となる。
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11月28日
・第5議会、開会。
翌日、大日本協会安部井磐根から、星議長不信任決議案が緊急動議として提出され、賛成多数により可決。
星は憲法上議長不信任はあり得ないとして、翌日も平然と議長席に着く。
これに対し、衆議院は、議長不信任上奏案を可決するが効果なく、更に星の7日間登院停止を決議するが、その期限後、星は平然と議長席に着く。
この倣慢不遜な態度は自由党内にも敵を作り、12月13日、衆議院除名決議が可決され、遂に議席を失う。
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議長在任は1年7ヶ月。短期間で議長の座を失うが、その剛腹さを見せつけたことはその後の活躍の為にはむしろ役立った面がある。
不信任の直接の理由は、①相馬事件と②取引所事件。
①相馬事件:
旧相馬藩の旧家臣が、相馬家当主を、その兄謀殺を理由に告訴、星は、告訴された相馬家当主を弁護し、無罪を勝ち取り、告発者が逆に誣告罪で有罪となる。
しかし当初は、告発が正当と思われ、その弁護人となった星は社会的非難を浴びる。
*
②第4議会、星議長の下で、取引所に関する諸法令(米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例)が統合され、会員組織取引所と株式会社組織取引所の2種類の取引所設立を認める取引所法が成立。
新法令では、商品取引所と証券取引所の設立を免許制として政府監督下に置くが、免許制の為、政府には100社近い出願が殺到。
しかし実際に免許を受けたのは18社のみ。商品取引所設置に関する監督官庁は農商務省で、大臣は星と関係が深い自由党系後藤象二郎。
後藤は清廉潔白からは程遠い人物で、出願を却下された業者は、後藤-星ラインとこれに癒着する競願業者にしてやられたとの思いが強い。
改進党機関紙「改進新聞」は、星が一部業者から賄賂を受け取ったと書き立て、他の改進党系新聞もこれに追随。
星は新聞社を告訴し、第5議会開会直前には新聞発行人に対する禁固・罰金刑、新聞社に対する謝罪広告掲載を命ずる判決を得て、法的には決着。
しかし裁判の勝利によって、逆に星にまつわるダーティなイメージを消し去る事はできず。
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11月30日
・千島艦、英艦ラベンナ号と伊予沖で衝突し沈没。
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12月9日
・フランス、無政府主義者オーギュスト・ヴァイヤンが、国民議会下院にダイナマイト投擲。
議会はこれを機に暴力行為準備集会取締法を強引に可決。
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12月16日
・ドヴォルザーク(52)、「交響曲第9番ホ短調<新世界より>」、カーネギーで初演。
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12月19日
・外相陸奥宗光、条約改正の目的は国として受くべき権利と国として尽すべき義務を完うすることにある、「是ヲ実際ヨリ云へバ則此日本帝国ガ亜細亜州中ニアリナガラ欧米各国ヨリ特別ナル待遇ヲ受ケム云フ趣旨デアル」と議会演説。
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12月24日
・オーストリア、第1回労働組合全国大会開催
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12月28日
・英帰国中の英公使フレーザー、在日英公使館付ショウ牧師に対する暴行事件に関し青木周蔵公使に警告。
対外硬派が第5議会に「条約励行建議案」を上程。
大日本協会安部井磐根は、説明にあたり在留外国人が条約違反を積重ねていると暴露すると、外国人に対する暴行やいやがらせが頻発。
イギリス公使館付牧師アルチデーコン・ショウが暴漢に襲われ際、巡査は傍観して救援せず。
この報がロンドンに達するや、イギリス外務省の「模様俄カニ一変」。
30日、青木公使の電報によりそれを知った伊藤内閣は、即座に衆議院を解散。
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12月29日
・政府、条約励行論は開国の国是に反するとして大日本協会に解散命令。
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12月30日
・衆議院(第5議会)、解散。
伊藤政権と自由党が提携すると、第5議会で国民協会と改進党が提携し、官紀振粛問題(後藤象二郎農商務相らの汚職問題)・条約励行問題で伊藤政権を追詰める。
第5議会解散により反政府熱は高まる。貴
族院では、近衛篤麿ら有志38名が対外硬派を支持し、政府の議会解散を非難し、伊藤内閣に対する国民の信任は失墜したと退陣を要求。
大日本協会は改進党と協同して排外的な「条約励行案」を上程。極秘裡に英国と条約改正交渉を進めている第2次伊藤内閣は衆議院を解散して励行案の成立を防ぎ、一方で大日本協会の結社を禁止。
取引所事件に関して、後藤農商務相と斎藤修一郎農商務次官に対する官紀振粛上奏案も可決され、両名はその官を辞すた。
後藤象二郎はこの事件後、政治力を失い、3年余後に没す。
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