5月11日、馬籠・妻籠旅行2日目は馬籠散策
ごの日も快晴で言うことなし
▼朝、ホテル周辺を少し歩いた。
多分、一葉だと思われる八重の桜がまだ咲いていた。
辺りの花の主力はハナモモだったが。
▼馬籠散策
馬籠はずっと坂の連続(坂道に沿って家並みがある)。
昔、25年ほど前に来たことがあるんだけれど、記憶にあるのは藤村記念館くらいだ。
▼坂道の途中、振り返ると恵那山が見える。
▼藤村記念館
別途進めている「明治後期年表」に「破戒」出版前(明治37年)の藤村がいる。
明治37年(1904)5月 南山の戦場にいた森鴎外(第2軍軍医部長)と田山花袋(博文館派遣の従軍記者)---(その2)
▼オダマキ(館内)
▼シャクナゲ(館内)
▼高札場
▼恵那山(2192m)
▼馬籠でお昼
2014年5月12日月曜日
馬籠・妻籠旅行の1日目は妻籠散策 2014-05-10 好天に恵まれ、鮮やかな新緑を満喫した
5月10、11日と馬籠・妻籠に一泊旅行。
同窓会である。
全て幹事さんの采配のままの金魚のフン旅行であった。
▼お昼は名古屋で豪華「ひつまぶし」
▼名古屋から長野行き特急「しなの」で中津川まで
これホンマ特急?と疑いたくなるほどのんびりした特急だった。
▼1日目は妻籠を散策
木曽はすべて山の中だった。
好天に恵まれ、鮮やかな新緑を満喫した。
▼本陣
▼土産物のお店の天井には、ツバメが巣作りしやすいような工夫がされている
▼なんか、こっちを見ている
▼家並み
▼御岳百草丸(おんたけひゃくそうがん)を売っている
▼路傍にスズランが
▼厳密には妻籠が長野県、馬籠は岐阜県なんだ
同窓会である。
全て幹事さんの采配のままの金魚のフン旅行であった。
▼お昼は名古屋で豪華「ひつまぶし」
▼名古屋から長野行き特急「しなの」で中津川まで
これホンマ特急?と疑いたくなるほどのんびりした特急だった。
▼1日目は妻籠を散策
木曽はすべて山の中だった。
好天に恵まれ、鮮やかな新緑を満喫した。
▼本陣
▼土産物のお店の天井には、ツバメが巣作りしやすいような工夫がされている
▼なんか、こっちを見ている
▼家並み
▼御岳百草丸(おんたけひゃくそうがん)を売っている
▼路傍にスズランが
▼厳密には妻籠が長野県、馬籠は岐阜県なんだ
2009年3月12日木曜日
美濃太田 坪内逍遥生誕の地
坪内逍遥(安政6年(1859)年5月22日~昭和10年(1935)2月28日)、は尾張藩領地の美濃国加茂郡太田宿に尾張藩士の子として誕生。のち、愛知洋学校、東京大学予備門、東京大学を卒業、早稲田大学教授となります。
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写真の上二つは美濃加茂市の太田小学校脇の公園に、一番下はJR美濃太田駅前にあります。
*
「坪内逍遥は日本に朗読術という一つの新しいジャンルを創り出した功労者でもある。・・・
慧眼な彼はここにヨーロッパのエロキューションに目をつけ、それを骨子として日本の伝統的な語りやセりフ廻しを取り入れた朗読術を考えたのであった。」と松本克平「日本新劇史」にあります。
*
エロキューション【elocution】とは、
「演説・朗読や俳優の台詞(せりふ)などで、その効果を高めるための発声技術。話術。雄弁術。発声法。朗読法。台詞回し。」
のことだそうです。
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逍遥は、17歳(明治8年)の頃、愛知英語学校で外国人教師から「ハムレット」の抄文を教わって、外国にはそういう技術があることを初めて知りました。
その後、明治9年8月、愛知英語学校を卒業、選抜生となり開成学校(後の東京大学)に入学。開成学校の寄宿舎時代に、円朝の人情話や名優の声色の巧みな赤井雄等に影響され(河竹繁俊著「新劇運動の黎明期」より)、翌10年、九代目団十郎の舞台を見るに及んで驚嘆する、という過程を経て、彼自身の朗読術を確立させたとのことです。
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松本克平さん自身も、早稲田第二高等学校時代に学部の授業にまぎれこんで逍遥の講義を聞いたそうです。
「また、『ハムレット』『リヤ王』『ヴェニスの商人』の一部を課外の朗読会できくことができた。大隈講堂の、逍遥には大きすぎる演壇に向かい、うぐいす色の縮緬の風呂敷からテキストと扇子を取り出し、斜に構えて顎を引いて読みはじめるのだった。演壇の後方には吉江孤雁、会津八一、中桐確太郎といった教授連が二列に腰かけて耳を傾けていた」と、あります。
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よく知られるように、逍遥は弟子の島村抱月らと文芸協会を創立します。実際は第1次(明治39年)と第2次(明治42年)とがありますが、その辺は省略します。
第2次出発の際、逍遥は文芸協会の研究所のために自分の土地を無償で提供します。
鴎外は、こう言って拍手を送ったそうです。
「坪内君が住宅に舞台を構へて、舞や劇を興行せられると聞いた時、僕はヲルテエル(ボルテール)のやうだと思った。それから劇場を興されると聞いた時、僕はワグネルのやうだと思った。但し坪内君は王侯の助力を籍らずに遣られるから、えらい」(「中央公論」明治45年4月号)。
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やがて、愛弟子の抱月と研究生の松井須磨子と恋愛問題がおこり、須磨子を主軸に協会が回転し始め、大正2年に協会は解散となります。
その頃は、新劇が商売(興行)的にも成立する時代となり、新劇で食おうとなど思っていなかった研究生たちも帝劇や有楽座で人気を呼ぶようになっていました。
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逍遥は、自分の土地を売って協会の欠損を補填し、結局、700坪の土地の3/4を失ったそうです。
「かくて文芸協会は始めから終わりまで全的に逍遥の私財に依存したのであった。その仕事の偉大さ、逍遥の心中の悲痛さ、財政的犠牲の大きさを忘れることは出来ない。」。
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逍遥の奥さんについて、
「逍遥の妻センは以前根津権現裏大八幡楼の、源氏名を花紫という遊女だったからである。明治十七年、すなわち『小説神髄』を発表する前年、逍遥は十九歳の花紫と知り、その人柄と美貌とを愛して明治十九年、一度知人の士族の養女としてかたちをととのえ、センと結婚した。このとき逍遥二十七歳だった」(関川夏央「二葉亭四迷の明治四十一年」)。
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人を色眼鏡(差別の眼)で見ない人だったようです。
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「蟹工船」人気で昨年来脚光を浴びている小林多喜二も、酌婦だった女性を苦界から救い、お母さんと協力して自分の家に住まわせています。
ただ、逍遥は一生添い遂げましたが、多喜二の場合、女性(田口タキ)が多喜二の出世に関わるとして身を引き、添い遂げることにはなりませんでした。
しかし、多喜二虐殺の前まで連絡はあったらしく、遺骸が引き取られた時には駆けつけていますし、葬儀の際の香典は志賀直哉と同額であったとのことです。
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田口タキのその後は、澤地久枝さんが著書「わが人生の案内人」に書かれています。
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また、澤地さんは、多喜二が実質的に結婚生活をおくった伊藤ふじ子さんのことについても「昭和史のおんな」に一章を割いておられます。
田口タキ、伊藤ふじ子のお二人とも、その後幸せな人生をおくられたようです。
2009年3月10日火曜日
岐阜 中山道太田宿
中山道太田宿。
数少ない写真スポットが早朝と云うのに、あいにくの道路工事中で一部しか撮れず。
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「円(まろ)」。
なかなかアジのあるお店です。
まだ営業されているらしき様子に感激しました。
一度だけですが、かなり酔っ払ってから連れて行って貰っておでんを食べた記憶が。
それからも行きたかったのですが、なかなかここへ一緒に行ってくれるお仲間がいなくてそのままになってしまいましたので、今回は表からだけですがゴアイサツ。
一度連れて行って戴いたその方、一昨年に亡くなられたとか聞きました。合掌。
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木曽川。
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「日経ビジネス」(3月9日号)
表紙に「雇用騒乱 社員はコストか 人を切らない経営」。
内容見出しには、「遺棄される社員たち」。
ノーベル賞の益川さんの対談「金融工学を叱る」。
「敗軍の将、兵を語る」欄には、京品ホテル廃業に際してプアな経営者と断固闘った金本正道さん、登場。
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政治は混迷を極め、ボッチャン指導者は方向を見失う。
敵失と思ったら味方もエラー。
仕事中は酒を飲むなの原則さえ忘れてしまった大臣。
止めない側近(真実をあえて白日に晒そうとする側近の叛乱か?)
オフレコ報道と国民の知る権利。
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全世界注目の日本ではあろう。
ヒラリーさん、すごく心配していると思うよ、タロウくんのこと。
2009年3月8日日曜日
岐阜 猿啄城攻略の記(3)
一番上の写真はまだ精神的にも肉体的にも余裕のある時に撮ったもので、きつい道はこんな優しいものではありませんでした。それをだいたい30分~40分くらいでしょうか、急坂が続きます。但し、よく手入れの行き届いた道ではありましたが。
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もう5分もゆけば、息ゼーゼー、心臓バクバク、汗ダラダラ状況となり、前日(詳しくは当日朝まで)のお酒など吹っ飛びました。
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途中、4組の方に出会いましたが、皆さん、軽登山の装備。
私はと言えば、ネクタイは外しているものの、通常のコートを着て、2泊用のカバンと、おまけにお土産が入った紙袋まで提げての、皆さんから見れば異様な風体ではありました。
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頂上からの眺めは、2、3番目が木曽川上流・美濃加茂方面で、一番下が下流の鵜沼方面です。
頂上からの眺めは、2、3番目が木曽川上流・美濃加茂方面で、一番下が下流の鵜沼方面です。
爽快でした。
信長軍は、鵜沼方面から、この猿啄を攻略して、美濃加茂方面(写真では2番目の左方面10kmにある)の加治田城、堂洞城に向かったことになります。
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全くの素人考えですが、この程度の山では城というよりも砦程度であったろうし、従って100人も守備していないと思われ、信長軍(丹羽長秀)の大軍が押し寄せ、おまけに水源を確保されたら、降参しかないでしょうね。
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以上、「猿啄城攻略の記」を終えます。
あと2~3回、岐阜シリーズが続きます。
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昨日(3月7日)の「日経」夕刊。
「コンビニ強盗 都内で急増」の見出し。年初から3月5日までで18件で、前年同期の5件を大幅に上回ったとか。また「月曜日 午前2~3時は要注意」とのこと。
決してドロボウを擁護する訳ではないですが、「本当のところ何が、そして誰が悪いのか」をよく考えるべきだと思う。
2009年3月6日金曜日
岐阜 猿啄城攻略の記(2)
一番目の写真はズームで写した目指す目標、山頂の展望台です。
歩いてゆくうちに、一番下の写真の如く、道標に「登山道」の表示が・・・。
私は、単に城址見学に来た訳で、決して登山の積りはないのですが・・・、不吉な予感。
でも引き返す訳にもゆかない。
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昨日(3月5日)付「日経新聞」朝刊を見て驚いた。
7月のイタリアでのサミット(主要国首脳会議)にリビアのカダフィ大佐を招くとか。
リビアはアフリカ連合議長国で、経営悪化のイタリア金融大手ウニクレディトに出資するなどの支援をしているとか。
「隔世」とはこのことか、と。
*
「強欲」資本主義批判でもやれば、更に連帯感も深まるゾ。キット。
2009年3月4日水曜日
岐阜 猿啄城攻略の記(1)
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猿啄城の概要は、一番目の写真を参照下さい。
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この城は、信長の中美濃侵攻時にターゲットになりました。
以下、藤本正行さん「信長の戦争」より。
*
「美濃攻略への道
・・・
(三)犬山城の対岸(木曾川北岸)に宇留摩(ウルマ)城(鵜沼城。現、岐阜県各務原市)と猿はみ城(猿啄〔喰〕城。現、岐阜県加茂郡坂祝町)があり、そこから五里奥に加治田城(現、岐阜県加茂郡富加町)があった。加治田城の城主佐藤紀伊守父子が信長に内通してきた。信長は「内々国の内に荷担の者、所望に思食折節の事なれば」非常に悦び、兵根代として黄金五十枚を贈った。
(四)犬山の家老で黒田城(現、愛知県葉栗郡木曾川町)の城主、和田新介と、於久地城主、中嶋豊後守が信長に内通し、城内に織田軍を引き入れた(この結果、永禄八年[一五六五〕七月頃、犬山城は落ち、織田信清は甲州に逃れた)。
(五)信長は美濃に出動し、宇留摩城の近くの伊木山(イギヤマ)に陣取。、圧力をかけた。宇留摩城は開城した。
(六)猿はみ城の上の大ぼて山に織田軍があがり、水の手(水源)を占拠した。猿はみ城も降参し、兵は退去した。
(七)斎藤軍の長井隼人正が、加治田城の近くの堂洞(現、岐阜県美濃加茂市)に砦を構え、関(現、岐阜県関市)に本陣をおいた。永禄八年(一五六五)九月、信長は堂洞城を落とした。帰陣の際、斎藤軍の追撃を受けたが、なにごともなかった。
・・・」
*
ここにいう「猿はみ城」が、今回の目標。
JR坂祝(さかほぎ)駅が最寄り駅、勿論(?)無人駅。JR高山線の美濃太田駅の一つ手前です。
一番下の写真の正面に見える小山が「猿啄城」です。頂上に小さな展望台があります。
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個人的には、この「猿はみ」よりも、加治田城、堂洞城に馴染みがあります。これらのある、美濃加茂市、加茂郡富加町に、不連続ですが5年ほど住んでいました。
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加治田城は信長側の調略により無血開城ですが、この加治田城への付城として美濃の斎藤氏が築いた堂洞城の攻略は激戦だったようです。「信長公記」の作者の太田牛一が二の丸入口にある家の屋根に上がり、無駄矢なく敵を次々に射倒し信長に褒賞されたといいます。
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to be continued
2009年3月2日月曜日
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