2022年7月31日日曜日

海外在住者30年で2倍 経済停滞する日本から中間層「脱出」 成長する東南アジア魅力的に(東京);「英国エコノミスト誌がハンバーガーの価格を基に各国の物価を比較する参考指標「ビッグマック指数」によると、日本は今年1月に約390円で33位だったのに対し、タイは日本を上回る約440円で25位だ。日本は5位だった2000年から低下が著しく、「安い日本」が定着した姿を象徴的に表す」    

 

【前編】五ノ井里奈さんの告発を受けて女性自衛官から被害の声が続出 「今日もかわいかったね」現役女性自衛官は駐屯地内でストーカー被害 / 【後編】元海上自衛官が“海の上のセクハラ”を明かす 加害者から離れようにも「船には逃げ場がない」 / 元自衛官・五ノ井里奈さんが訓練中の性被害について会見 「新隊員の人たちが安心して勤務できるように対策を(AERA.)        

《スクープ映像入手》旧統一教会のフロント組織「勝共連合」会長が安倍元首相との“ビデオ出演”交渉の裏話を激白(鈴木 エイト 文春オンライン)

「日雇いバイト」で食いつなぐ40代教員の生活困窮 月収十数万円、生活保護を受ける非常勤講師も(佐藤明彦 東洋経済); 公立学校では非正規雇用の教員が増え続けている。その数は全国の公立学校で5~6人に1人に上る。教師という職業に、いったい何が起きているのか。 特集「『非正規化』する教師」の第7回は、非正規雇用の一形態であり、待遇面で最も厳しい非常勤講師にスポットを当てる          

 

〈藤原定家の時代073〉治承4(1180)6月2日 福原行幸(遷都) 安徳天皇は頼盛邸、高倉上皇は清盛邸雪御所、後白河法皇は教盛邸 「疑うらくは南都を攻めらるべき〈大衆猶蜂起す。敢て和平無しと云々。〉の間、不慮の恐れ有るべきか。・・・或る説、遷都有るべしと。」(兼実「玉葉」)

〈藤原定家の時代072〉治承4(1180)5月26日~30日 園城寺・興福寺の罪科を定める会議 宇治御室戸合戦(三井寺炎上) 「五月三十日。...上下奔走周章シ、女房悲泣ノ気色アリ。...俄ニ遷都ノ聞エアリ。両院・主上忽チ臨幸アルべキ由、入道殿(清盛)申サシメ給フト。」(定家「明月記」) より続く

治承4(1180)

6月2日

・福原行幸(遷都)。

3日、荒田の平頼盛邸が内裏とされ、安徳天皇は頼盛邸へ、高倉上皇は平野の平清盛邸雪御所へ、後白河法皇は平教盛邸へ、摂政は安楽寺の別当安能の房に、一旦は落ち着く。

4日、高倉上皇、平頼盛邸へ移る(6月4日~7月28日。後、平重衡邸へ)。安徳天皇、平清盛邸雪の御所(本皇居)へ移る。

11日、頼盛の家で遷都の議定を行う。しかしその場では決まらず、兼実を呼んで意見を聞くように清盛が求めたため、兼実が14日に到着するのを待つ。

福原行幸は、平氏政権が南都北嶺の権門寺院が嗷訴や実力行使に訴えることを警戒し、安徳天皇を平氏の根拠地に退避させる一時的処置。

清盛の狙いは福原に新都を建設する遷都であったが、高倉院は福原京を副都とする複都論を主張し、議論は平行線をたどる。

8月になってようやく清盛の意見が通り、福原京を官人が勤務する本務地と定めた遷都が決定。しかし、福原京は、西日本への交通は発達していても、東日本への移動には不便であった。福原遷都は、頼朝挙兵に始まる東国の動乱への対応が後手に回る大きな要因となる。

2日、どうして福原へ行くのか噂が飛び交い、遷都説が有力となる。京に留まる者は罪科を蒙るとの噂さえ飛ぶ。人々が不安気に見守るなか、数千騎の武士の護衛により遷幸の一行は福原に向かう。

九条兼実は「仰天の外他無し」と驚く。また、3日の予定が2日に早まり、付き添う公卿も2~3人、殿上人は4~5人に限るとされる。乱世に生まれ合わせ、このようなことを見るのは宿業である、と兼実は記す。兼実は、福原に供をする人物は清盛の意中の人物だけであるとを知ってはいたが、前日、赴くべきかどうかを清盛に尋ねると、寄宿する所がないので遠慮するように、との返事。

「卯の刻、入道相国(清盛)の福原別業に行幸す。法皇(後白河)・上皇(高倉)同じく以て渡御す。城外の行宮、往古その例有りと雖も、延暦以後すべてこの儀無し。誠に希代の勝事と謂うべきか。敢て由緒を知らんとする人無し。疑うらくは南都を攻めらるべき〈大衆猶蜂起す。敢て和平無しと云々。〉の間、不慮の恐れ有るべきか。・・・或る説、遷都有るべしと。」(「玉葉」同日条)。

この日卯刻(午前6時頃)、安徳天皇(3)の輿には、乳母の帥典侍(時忠の妻)が同乗、中宮徳子・後白河法皇・高倉上皇以下が八条邸を出立。八条通から南下して草津(伏見区横大路)に至り、そこから舟で淀川を下り、この日は大物浦(尼崎市)泊、翌朝福原に赴く。「玉葉」「山槐記」によれば、炎旱のため川の水が干上がり、船や筏が停滞して思うにまかせなかったという。

福原での宿所は、内裏には頼盛邸が、上皇は清盛の別荘(雪見御所)、法皇は敦盛邸があてられ、摂政基通は安楽寺別当の安能房があてられたという。頼盛はその賞により正二位となる。しかし、その他の者は、「道路に立つ(座す、とも)が如し」という。

「平家物語」巻五「都遷(ミヤコウツシ)の事」には、法皇の御所は、四面を板塀で囲み、入口は一つだけで、三間(正面が柱間三つの建物)の板屋を作って押籠め、守護の武士に原田大夫種直ばかりが伺候したので、蔭では「籠(ロウ)の御所」と呼ばれたとある。清盛は高倉宮の謀反に激怒し、一度は解放した法皇を再度監禁する。

「玉葉」によると4日夜には安徳天皇は頼盛邸より清盛の別荘に移る。その割注に「太上皇御所也、則ち居替り給う云々」とあり、それまで清盛邸にいた高倉新院(「玉葉」はこれを太上皇=後白河法皇とするが聞き誤りと推測できる)と入れ替ったということになる。

「山槐記」7月28日条に、頼盛邸の新院が逐日憔悴のためこの夜重衡の宿所に移るとあり、新院が頼盛邸に移っていたことが判る。

□「平家物語」(巻5)では・・・

「都遷(みやこうつり)」:

遷都は、平氏悪行の極まり、滅亡への先触れとされる。

「一天の君、万乗のあるじだにもうつしえ給はぬ都を、入道相国、人臣の身としてうつされけるぞおそろしき」

物怪之沙汰(もつけのさた):

遷都以来、平家の人々は夢見も悪く、怪異現象が続く。なかでも清盛の眼前には、「ひと間にはゞかる程の物の面」や「死人のしやれかうべ」が出現するが、清盛に睨まれ消え失せる。源中納言雅頼に仕える青侍(せいし)は、平家が滅び源氏に移り、その後藤原に天下が移る夢を見る。

(物語としては、都を中心に平家の悪行を見てきた読者の目を東国の頼朝に向け、源平合戦の第2段階へ入る舞台廻しの位置にある)。

「又、治承四年水無月の比(コロ)、にはかに都遷り侍き。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実(ゲ)にことわりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣・公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思をかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ世に余(アマ)されて期する所なきものは、愁へながら止まり居り。軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず。

その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京にいたれり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて、条里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音常にかまびすしく、しほ風殊にはげし。内裏は山の中なれば、彼木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて優なるかたも侍り。日々にこぼち、川もせに運び下す家、いづくにつくれるにかあるらむ。なほむなしき地は多く、つくれる家は少し。古京はすでに荒て、新都はいまだならず。ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所にをるものは、地を失ひてうれふ。今移れる人は、土木のわづらひある事を嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠・布衣なるべきは、多く直垂を着たり。都の手振里たちまちに改まりて、たゞひなたる武士に異ならず。世の乱るゝ瑞相とかきけるもしるく、日を経つゝ世中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民のうれへ、つひにむなしからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給にき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉くもとの様にしもつくらず。

伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみを以て国を治め給ふ。すなはち殿に茅ふきて、その軒をだにとゝのへず、煙の乏しきを見たまふ時は、限りあるみつぎ物をさへゆるされき。是、民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。」(「方丈記」)。

△中山忠親の福原での邸宅建設。

家ができるまで別の宿所にて、その宿所から給地(班給された宅地)に出かけて家作を監督。一旦、京都で家屋を造り、これを分解して堀川~淀川で運び福原で組立てる。また、そのために大工を連れて福原に下向。そして、やっと出来上ると、京都への還幸が言われ始める。

「八月十三日、卯刻輪田原を歴覧し、家人らを居らしめんがため、小松原二、三町ばかりを点ず。」

「二十三日、給地に向い歴覧し、丈尺を打たしむ。」

「二十四日、今日巳刻始めて給地を曳かしむ。」

「二十五日、卯刻給地に向い見回る。」

「二十七日、早旦給地に向い歴覧す。」

(二十八日帰洛)

「九月六日、福原宿所の棟門一字を旧都において造りおわんぬ。今日堀川より下しおわんぬ。」

(十月五日福原に下る)。

「十月七日、辰刻給地に向い、宿所を木作せしむ。このたびは工(大工)十余人を相具すところなり。」

「十日、給地に向い作事を見る。」

「十一日、早旦給地に向い作事を見る。」

「十三日、今日福原宿所上棟なり。」

「二十一日、早旦新造の宿所に向う。今夜この新造の宿所に移徒のことあり。旧都より将軍方に当るによりこの地を井戸次郎長房に譲与す。よってかの所今夜渡るところなり。」。

(十一月二十四日還都-上洛)。


つづく


大阪府議会 「はよ出ていけや」「ハッハッハッ(笑)」 ← 学級崩壊の教室ですか! ; カメラとマイクが克明にとらえた。 傍聴席で条例案否決に抗議の声を上げる府民を 嘲笑し、暴言を吐く議員ら。 カジノ誘致をめぐり府民が求めた住民投票条例を 数の力で一蹴した直後の光景。 維新が48議席、単独過半数を占める大阪府議会は 主権者を平気で馬鹿にする者たちが 跋扈している。 / あぶり出されてきたのは維新議員の、普段有権者の前では隠しているであろう特権意識とチンピラ具合 / 谷口真由美「大阪府民が19万筆以上の署名を集め、IR・カジノ住民投票実施の直接請求を吉村府知事に提出し、府議会で即日採決、否決された。維新は都構想で2回も住民投票をした。力のある者だけが何回も出来るということが地方自治の現場で起こっている」             

 



 

自民内で癒着議員と癒着なし議員で対立へ(ニュースソクラ); 【内田樹氏に聞く】野党は癒着議員を切って自民に迫る気概みせろ 「野党が先に「(統一教会)癒着議員」に詰め腹を切らせて、離党なり、議員辞職なりさせたら、自民党に対してはこのあと一気に優位に立てます。でも、その政治判断が出来ない。そこが今の立憲のダメなところですね。こんなところで自民党と利害が一致してどうするんです。」   

2022年7月30日土曜日

2年ぶりの国立西洋美術館 夕方から日本橋「吉野鮨本店」で高校時代の同級生交歓 2022-07-29

 7月29日(金、昨日)はれ

夕方から東京で同級生交歓があるので、午後、国立西洋美術館に立ち寄った。オリンピックまえ、上野駅公園口前の整備で大木を伐採する問題があった頃以降来ていないので、2年ぶりくらいかも。

企画展には入らず常設展示だけを2時間半くらいかけてじっくり見せて貰った。

▼ロダン〈カレーの市民〉とル・コルビジェ設計の美術館





▼ベルト・モリゾ〈黒いドレスの女性〉
モリゾは三大女性印象画家の一人で、自身もマネのモデルになっている。

▼ルーベンス〈眠る二人の子供〉

▼中庭

▼日本橋「吉野鮨本店」で高校時代の同級生交歓(6時pm~9時pm頃?)








参考資料

宮根誠司 岸田首相〝統一教会〟言及に「そんな悠長なこと言ってていいのか」「決別宣言すべき」(東スポWeb) / 宮根氏「だって防衛大臣でしょ?国家公安委員長でしょ?文科大臣、デジタル担当大臣でしょ?これ、日本、大丈夫か?普通に考えて」 / 『ミヤネ屋』自民党と統一教会の関係を連日厳しく追及する姿勢に「応援したい」の声が続々(Smart FLASH) / (YouTube)ミヤネ屋 2022年07月29日 LIVE FULL【HD】 最新情報“統一教会”政界との関係は?米国政界とも深い関係…事業展開も▽東京で過去最多「4万人超」行動制限どうする?▽台風5号発生へ…今後の影響は?     

私が安倍元総理の国葬に反対する理由…「嘘が通る社会」をつくったのは誰か(三枝成彰);「経済は回復せず、給与水準も上がらず、新しい産業も興らず、個人GDPでも韓国に抜かれた…最大の罪は「嘘が通る社会」をつくったことだと私は思っている。「モリカケサクラ問題」は消えたわけではない。その影響下で自ら命を絶った人もいる。」 「「桜を見る会」問題では国会で118回もの虚偽答弁をしながら、捜査は終結。水に流された。総理にならってか役人までもが嘘をつき、彼を喜ばすためにいらぬ忖度をし、文書改ざんや統計の数字をごまかすようになった。最低だ。」 / 安倍政権下で後退した民主主義 安田菜津紀「引き継がれた『膿』を出し切るのはこれから」(AERA.); フォトジャーナリスト・安田菜津紀さんに聞いた          



 

自民党議員「反社会的勢力ではないのでお付き合いしていくつもり」「何が問題かよくわからない」旧統一教会との関係めぐる発言に批判の声も(TBS) ; 工藤彰三衆院議員「反社会的勢力ではないのでお付き合いしていくつもり」     

 

犯罪摘発も解散命令出ず “統一教会”が存在し続けたワケ 【7月28日(木) 報道1930】; ▽関わり認める政治家…さらに拡大 ▽創設者 文鮮明氏「発言集」を読み解く ▽続く霊感商法の被害 進まない「規制」 ”政治の力”影響は? ▽フランス「カルト規制」の実例を分析

 

国会議員を教育」旧統一教会の“目的”が機関誌に… 教団関連イベント出席の議員ら続々「名誉職的な意味合い」(TBS);「これらの国会議員たちに真の父母様(教祖夫妻)の『み言』と理念、原理を教育し、彼らが政策を推進し、先頭に立つようにします」  韓鶴子総裁(2019年10月 名古屋)「政治と宗教はひとつにならなければなりません」

〈藤原定家の時代072〉治承4(1180)5月26日~30日 園城寺・興福寺の罪科を定める会議 宇治御室戸合戦(三井寺炎上) 「五月三十日。...上下奔走周章シ、女房悲泣ノ気色アリ。...俄ニ遷都ノ聞エアリ。両院・主上忽チ臨幸アルべキ由、入道殿(清盛)申サシメ給フト。」(定家「明月記」)    

 


〈藤原定家の時代071〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その4) 「宮御最期」(「平家物語」巻4) 頼政の自害 高倉宮の討死 間に合わなかった南都勢 より続く

治承4(1180)

5月26日

・夕方、平清盛、福原から上洛。

景高の取った頸は、頼政と源義賢の子仲家、渡辺党の源勧(ミナモトノススム)らの7人、忠綱が取ったのは、兼綱と渡辺党の源唱(トナウ)、副(ソナウ)など4人、美濃国の住人の左兵衛尉源重清が取ったのは、渡辺党の源加(クワウ)などであったと報告。

5月27日

・高倉院の殿上で園城寺・興福寺の罪科を定める会議。謀叛に与したことの責任を追及することが確認された。弁護する人のいない園城寺には、平重衡を大将軍とする追捕使派道が滞りなく決定した。重衡は園城寺に対して謀反人与党の引き渡しを求める交渉を行った後、拒否の回答が明確になると追捕から合戦に発展させた。11月17日、重衡は園城寺を焼討ち。

興福寺に対しても追捕使派遣が取り沙汰されたが結論を出すには至らず。清盛とその支持者は、追捕使派遣を強く主張。

しかし、摂政近衛基通以下、藤原氏の公卿は氏寺興福寺に対する実力行使を認める追捕使派遣を承認するわけにはいかなかった。基通には平氏の支えによって摂政に就任した恩義があるが、追捕使派遣を認めることは藤原氏から追放されることにもなりかねない重い課題であった。平氏と親しい関係にあっても、譲歩するわけにはいかなかった。とるべき方策は、結論を出させないように会議を引き延ばし、その間に興福寺と交渉して新たな譲歩の条件を引き出すことであった。

興福寺に対しては、謀反に荷担した人々の引き渡しを求める使者を派過して交渉を重ねること以上の合意を引き出すことはできず、交渉は平行線をたどった。この交渉が暗礁に乗り上げたことで、しびれをさらした清盛は重衡を追捕使として派遣し、12月28日、南都焼討ちを強行した。

頼政の滅亡により平氏に次ぐ武家源氏の代表として振舞える人物がいなくなり、平氏は朝廷の軍事行動全般に対して責任を持つことになった。この立場は、武力を用いる仕事が、すべて平氏に被せられる厳しい立場に立たされたことを意味する。

源通親と藤原隆李は、三井寺の衆徒は退散したので張本についてはその師匠を通じて召すこと、興福寺の衆徒については官軍を派遣して攻め、末寺・荘園の没収を主張。

九条兼実は、興福寺へは使者を派遣し事情を確かめた上で、その結果に基づいて派遣すべと主張。結局、兼実の意見が通る。兼実は、通親や隆季らを「権門(清盛)の素意」を察して動く者と強く批判。

□「玉葉」が記す評定の様子。

公卿らは、しばらく伺候しているようにとのことで数刻も待たされる。この間、院の前で、宗盛・大納言隆季・邦綱・別当時忠らが「内議」をしていた。ようやく申刻(午後4時頃)、隆季が出て来て、蔵人行隆が左大臣に対し、今日の議題として、この度源朝臣以光(以仁王)に与同した三井・興福両寺の罪科をどのように定めるか、との院の指示を伝える。参議左中将源通親の意見に従って下﨟より意見を申すことになる。廟堂での評議は、官位の低い者から意見を述べて上位者に至り、最後に天皇の裁断を仰ぐというのが、昔からのならわしである。

通親申していう。

園域寺の事は、師主の縁に付して張本を尋ね出し沙汰すべきである。

興福寺の事は、与同の罪は軽くない、よって官軍を派遣してかの寺を攻撃し、末寺庄園も停廃すべきである。

実宗(サネムネ)申していう。

園城寺の事 - 通親に同じ。

興福寺の事 - 皆兵を派遣すべきだが、一宗魔滅については考える必要がある。先ず張本を召すことにし、それを出さないとき攻撃するのがよい。

これと同意見の者、

頼定・実守・実家・朝方・雅頼・忠親・宗家・実房の8人

隆季申していう。

園城寺の事 - 張本を召して沙汰すべし。

興福寺の事-厳罰に処すべきである。追討するのも一刻も早いほうがよい。かの寺の兵は強いから、日数を経ればそれだけ勢を増すから。「賢に従いて遅きは愚にして速きにしかず」、というではないか。

兼実申していう。

園城寺の事-隆季に同じ。

興福寺の事 ー これまでの罪は追討使派遣もよいだろうが、その前に宣旨か院宣で事情を尋ねるべきだ。官兵を派遣したら寺社悉く灰煙に帰すことは疑いがない。尋ねた結果次第で官軍派遣はきめたらよい。特に源以光がかの寺に移住したかどうかは明らかでない。同意しただけでそれが罪とされ満寺の破亡を顧みることなく攻撃するというのなら致し方はないが、賊徒がいるかどうかで追討するか否かをきめるというのなら、その在否を尋ねた上で沙汰するというのが道理というものではないか。先ず使者を遣わし、その結果で追討の沙汰に及ぶべきである。

左大臣これに同じ。

大勢を占めた慎重論(使者を派遣して事情調査のうえ沙汰する)に賛成の左大臣は、その線で奏上しようとすると、陸季が反対。南都へ宣旨・院宣を下しも道路は塞がれ行けないし、行けてもそれに従わないだろう。一刻も早く追討すべきだ、と重ねて自説を主張。どうやら強硬論は先の「内議」の方針であったようだ。これに対し、忠親は、情勢は昨日と今日とでは変っているだろうと疑問を出し、兼実もまた色をなして反論。

結局左大臣は、慎重論を蔵人行隆に奏上させる。兼実は「奏聞の後、入道相国に示すか」と推測。しばらくして行隆が戻り、左大臣に対し、今南都から使者があって以仁王は誅殺されたとのことである、なお不審な事を尋ねたいので、そのまましばらく待つように、云う。兼実は、南都への道が通じないというが、使者はやって来ている、逃隠の実否を確かめず軍兵を発するのは、大乱を求めているようなものだ、と自説の正しさに自信を得る。数刻後戻った行隆は、興福寺のことについては詮議の決定に任せる由を左大臣に告げる。兼実の線で落着。

「今日の隆季・通親の申状は恥を知らざるものというべし。弾指すべし弾指すべし。ただ権門(平家)の素意を察し、朝家の巨害を知らず」(「玉葉」)。

5月27日

・宇治御室戸合戦。平重衝・忠度、園城寺(三井寺)を焼く。

「官兵等宇治の御室戸を焼き払う。これ三井寺の衆徒城郭を構うに依ってなり。同日、国々の源氏並びに興福・園城両寺の衆徒中、件の令旨に応ずるの輩、悉く以て攻撃せらるべきの旨、仙洞に於いてその沙汰有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「二十七日、戊寅。官軍の兵たちが宇治の御室戸(ミムロト、園城寺末の寺)を焼き払った。三井寺の衆徒が城郭を構えていたためである。同日、諸国の源氏ならびに興福寺・三井寺の衆徒の中で、以仁王の令旨に応じた者すべてに攻撃を加えることが、院(高倉)の御所において決定された。」。

□「三井寺炎上」(「平家物語」巻4):

27日、清盛は4男重衡に三井寺を襲わせる。戦いは夜に及んで火が放たれ、由緒ある伽藍も焼き尽くされた。責任ある立場の僧は役職を解かれ、僧兵は流罪となる。今度の事件はただ事ではなく、平家の世が末になる前兆かと人は噂する。

5月28日

・清盛、高倉上皇を邸に招き頼政の首を見せる。清盛、大番役で京にいる東国武士の一部の帰郷を引き止め、相模の大庭御厨の大庭景親などには伊豆の源頼朝の動きを警戒するよう指令

5月30日

・乱の恩賞。

宗盛の子清宗が従三位に叙任。藤原景高・藤原忠綱が大夫尉(タイフノジョウ)になり、他にも景高・忠綱の一族が刑部丞、衛門尉、兵衛尉に任官。

5月30日

・藤原定家、高倉院に出仕したところ、「上下奔走、周章、女房或いは悲泣の気色有り」という有様。6月1日には「遷幸必然」となり、遷都後は、「夜に入りて、明月蒼然、故郷寂として草馬の声を聞かず」。(「明月記」)

「五月三十日。天晴ル。早旦、布衣ヲ着シテ院ニ参ズ。帥参侯ス。上下奔走周章シ、女房悲泣ノ気色アリ。密カニ右馬允盛弘ヲ招キ、子細ヲ問フ。答へテ云フ、俄ニ遷都ノ聞エアリ。両院・主上忽チ臨幸アルべキ由、入道殿(清盛)申サシメ給フト。前途又安否ヲ知ラズ。悲泣ノ外、他事無シト云々。退出シテ法性寺ニ帰ル。」(「明月記」)。


つづく




2022年7月29日金曜日

「あの人たちがいなかったら当選していなかったかも…」旧統一教会関連団体の選挙応援 富山政界に浸透する巧妙な手口(チューリップテレビ);「自民党の富山市議の複数が、去年4月の市議会議員選挙で、旧統一教会関連団体から選挙応援を受けていたことがわかりました。「向こうからきてくださって…」選挙をきっかけに『接近』する実態が明らかになりました。」 / 富山市議会自民党会派が国際勝共連合の幹部を招いて勉強会を開いていた。招いた市議は「知らぬ存ぜぬ」(news23。統一教会がLGBT政策に影響を与える、と報じる)       

【前参院議長の告白 完全版】(HTB) / 【解説】伊達忠一氏 安倍元総理に旧統一教会票を依頼(HTB) / 【独自】「票の割り振り」依頼のお礼に…伊達前参議院議長が旧統一教会のイベントに参加…「被害を拡大することにつながる」と専門家(YouTube) / 



 

〈藤原定家の時代071〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その4) 「宮御最期」(「平家物語」巻4) 頼政の自害 高倉宮の討死 間に合わなかった南都勢 

 

平等院(2016年)

〈藤原定家の時代070〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その3) 「宮御最期」(「平家物語」巻4) 流される平家の兵。渡河した平家は平等院に進入 源三位頼政の最期。宮方壊滅 より続く

治承4(1180)

5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その4) 

「宮御最期」(「平家物語」巻4)

④頼政の自害。長七唱がその首を処置する。競と円満院源覚の奮戦。

「三位入道、渡辺長七唱(ワタナベノチヤウシチトナフ)を召して、

「我が頸討て」

と宣へば、主の生頸討たんずる事の悲しさに、

「仕つとも存知候はず。御自害候はば、其の後こそ賜り候はめ」

と申しければ、実(ゲ)にもとや思はれけん、西に向ひ手を合せ、高声に十念唱へ給ひて、最後の詞ぞあはれなる。

埋木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける

これを最後の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、俯様(ウツブシサマ)に貫かつてぞ失せられける。

其の時に歌詠むべうはなかりしかども、若うより強(アナガチ)に好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。其の頚をば長七唱が取つて、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてげり。

平家の侍ども、如何にもして、競滝口をば生捕にせばやと窺ひけれども、競も先に心得て、さんざんに戦ひ、痛手数多(アマタ)負ひ、腹掻切って死ににける。

円満院大輔源覚は、今は、宮も遥に延びさせ給ひぬらんとや思ひけん、大太刀・大長刀左右に持って、敵の中を破って出で、宇治川へ飛んで入り、物の具一つも捨てず、水の底を潜つて、向の岸にぞ着きにける。高き所に走り上り、大音声を揚げて、

「如何に平家の君達、これまでは御大事か、よう」/と云ひ捨てて、三井寺へこそ帰りけれ。」

異説では、頼政の首は下河辺藤三郎がとり、これを御堂の板壁を突き破ってその中に隠したとされる。

⑤高倉宮の討死。宗信は首のない屍の腰に差された笛で高倉宮討死を知る。

「飛騨守景家は、古兵にてありければ、此の紛(マギレ)に宮は定めて南都へや、落ちさせ給ふらんとて、混甲(ヒタカブト)四五百騎、鞭鐙(ムチアブミ)を合せて追つかけ奉る。案の如く、宮は三十騎ばかりで落ちさせ給ふ所を、光明山の鳥居の前にて、追つ付き奉り、雨の降る様に射奉りければ、何れが矢とは知らねども、矢一つ来つて、宮の左の御側腹に立ちければ、御馬より落ちさせ給ひて、御頸取られさせ給ひけり。御供申したる鬼佐渡・荒土佐・荒大夫・刑部俊秀も、命をば何時の為にか惜しむべきとて、散々に戦ひ、一所に討死してけり。

その中に乳母子の六条亮大夫宗信は、新野が池へ飛んで入り、浮草顔に取覆ひ、慄(フル)ひ居たれば、敵は前をぞ打通りぬ。やゝあって敵四五百騎、ざざめいて帰りける中に、浄衣着たる死人の、頸もなきを、蔀(シトミ)のもとより舁(カ)き出でたるを見れば、宮にてぞおはしましける。我れ死なば御棺に入れよと仰せられし、小枝と聞えし御笛をも、末だ御腰に差させましましける。走り出でて取付き奉らぼやと思へども、怖しければ其れも叶はず。敵皆通って後、池より上り、濡れたる物ども絞り着て、泣く泣く都へ上つたりけるを憎まぬ者こそなかりけれ。」

この後、その首の真偽の認定を巡り平家方は苦労する。多くの人々に検分させようとして果たせず、なじみの女房を尋問してようやくこれを確認する(「若宮御出家」)。しかし、その後も高倉の宮の生存説は根強く残り、平家を脅かすことになる。

⑥間に合わなか南都勢。

「さる程に、南都の大衆七千余人、甲の緒をしめ、宮の御迎に参りけるが、先陣は木津に進み、後陣は未だ興福寺の南大門にぞゆらへたる。宮は早(ハヤク)光明山の鳥居の前にて、討たれさせ給ひぬと聞えしかば、大衆、力及ばず、涙を抑へて留りぬ。今五十町ばかり待ち付けさせ給はで、討たれさせ給ひける、宮の御運の程こそうたてけれ。」

□「若宮出家」(わかみやしゅっけ)(「平家物語」巻4):

以仁王の首は、愛人関係にあった女房が探し出しそれと判明する。以仁王には、八条院伊予守盛章の娘の三位局との間に、男女の子がいる。清盛は、若宮(7)捕縛を異腹の弟頼盛に命じる。女院は若宮を守ろうとし、自身の乳母子の夫たる頼盛をうとましく思うが、事の穏便を望む年に似合わぬ宮のことばに従い、身柄は手渡される。その幼い姿を見て哀れんだ宗盛が父に助命を嘆願し、若宮は仁和寺で出家を遂げる。

□「鵼」(ぬえ)(「平家物語」巻4):

頼政は、歌の巧みさゆえに三位にまで昇る。この人の最大の手柄は、かつて近衛天皇が得体の知れぬものに取り付かれて病に陥った時、深夜に雲中の変化のものを矢で射落としたことである。褒美に剣を与えられ、歌を詠みかけられて即答し、文武両道の達人ぶりを披靂した。また、二条帝が鵼という化鳥に悩まされた際も、暗闇のなか、鏑矢(カブラヤ)の音で鳥を驚かせて所在を確かめ、みごとに射落とした。歌のやりとりは、この時もした。そのまま平穏に生涯を終えられたはずの人が謀反を起こし、宮をも失わせ、わが身も滅びたのは、誠に嘆かわしい。

□「通乗之沙汰」(とうじょうのさた)(「平家物語」巻4):

宮には他に奈良に住まう男子がいるが、讃岐守重秀が出家させ北国に下る。後日、木曾義仲に擁立されて上洛、木曾の宮と称される。昔、通乗という人相見がいてよく物事をいい当てた。今回は相小納言伊長が、即位する人相であると言ったので高倉宮は謀反を起こす。相小納言の失敗ではないか。賢王聖主の皇子でも即位しない人も多い。恩賞として宗盛の息清宗は三位に昇進。


つづく(物語世界のオハナシは終り)


2022年7月28日木曜日

横浜散歩(横浜駅から山下公園まで) 今日の主役は夏空 グランモール公園 ランドマークタワーと横浜美術館 日本丸 汽車道 新港中央広場 ベイブリッジ 山下公園 2022-07-28  

 7月28日(木)、はれ

今日は、横浜駅から山下公園まで横浜散歩。このコースはエアコンがバッチリ利いた商業ビルがたくさんあるので助かる。写真は全てスマホ撮り。主役は夏空です。

▼グランモール公園


▼ランドマークタワーと横浜美術館(改修中)


▼日本丸

▼汽車道

▼新港中央広場と赤レンガ倉庫

▼山下公園からベイブリッジ

▼公園のベンチはガラガラ

▼山下公園の噴水とホテルニューグランド


先週のコロナ新規感染者 日本が世界最多に(テレ朝);「死者が最も多かったのはアメリカの2637人で、日本は272人でした」   

北村教授「『子供は重症化しない』と言う人がいるが、これだけ多くの子供が感染すれば数の暴力で子供の重症者は出る。東京24人の重症者のうち4人が10歳未満と10代だ。重症者の6分の1が子供。かつてこんなことはなかった」 / 【速報】子どもの新型コロナ患者が死亡 静岡県が午後会見へ(SBS 7/28) / 【速報】和歌山県で10歳未満の児童死亡 コロナ、過去2番目の1330人感染(AGARA 7/28) / 新型コロナ 鹿児島県で初めて10代死亡 感染者は過去2番目に多い3183人(MBC 7/28)          

安倍元首相銃撃後の日本、このままでは「暗黒時代」のドアが開くかもしれない それでも政治は変わらないのか? (島田 雅彦)   

甘利氏、追悼演説「私が申し入れた話ではない」…安倍氏遺族の意向と「打診があった」(読売) / 安倍元首相の追悼演説あっさり先送り 昭恵夫人の“甘利推し”報道に「政治の私物化」と怒りの声(日刊ゲンダイ) / 「残した派閥をばかに」 安倍派の猛反発で甘利氏の追悼演説頓挫(毎日) / 甘利氏「誰一人カリスマ性ない」発言に安倍派反発 追悼演説に異論も(毎日); 甘利氏は20日、自身のメールマガジンで、安倍派について「『当面』というより『当分』集団指導制をとらざるを得ない。誰一人、現状では全体を仕切るだけの力もカリスマ性もない」と述べた。そのうえで「今後、どう化けていくのかが注視される」と指摘した / 安倍派の醜悪な跡目争い 安倍家の代理人を気取る西村康稔氏、森喜朗元総理も登場(デイリー新潮) / 「統一教会と安倍派・清和研」の大問題、橋本派・経世会の没落を想起する理由(ダイヤモンド)       



 

第7波でも首相続ける夜の会食ピリピリ 会場で参加者に抗原検査(毎日); 新型コロナ第7波が過去最大規模に拡大しても、岸田文雄首相は「夜の会食」を続けています。松野博一官房長官が陽性となるなど首相官邸にも感染の波は押し寄せており、周囲はピリピリ。今週からは宴席参加者に会場で抗原検査を受けるよう求めているそうです。    

旧統一教会幹部ご一行を“歓迎”した菅官房長官、高村副総裁らの思惑(AERA.) / 安倍元首相の父は「“統一教会”の選挙ボランティアを割り振っていた」……自民関係者が回顧 「持ちつ持たれつ」の関係ナゼ?(日テレNEWS)

岸信夫氏、稲田朋美氏ら 統一教会との関係を堂々認める自民議員が続出…“開き直り”と疑問噴出(女性自身) / 「巨人の星」替え歌で激励、「総裁は皆様の母」礼賛・・・自民議員と統一教会の関係続々、元閣僚がイベント「実行委員長」も(日テレ) / 旧統一教会トップと国会議員らがアメリカで面会…目的は?開示された名称変更の理由示した文書は黒塗り…政治家の関与は不明のまま(TBS) / 「知らなかった」と大嘘 自民党“統一教会汚染”議員の見苦しい言い訳(日刊ゲンダイ)        

 

〈藤原定家の時代070〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その3) 「宮御最期」(「平家物語」巻4) 流される平家の兵。渡河した平家は平等院に進入 源三位頼政の最期。宮方壊滅 

 

源三位頼政の墓(京都、宇治、平等院)

〈藤原定家の時代069〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その2) 「橋合戦」(「平家物語」巻4) 平家の反撃(上総守忠清の迂回提議と足利又太郎忠綱の馬筏による渡河提言) 馬筏による強行渡河 より続く

治承4(1180)

5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その3) 

□「宮御最期」(みやのごさいご)(「平家物語」巻4):

(概要)

若武者足利又太郎忠綱の強行渡河によって、戦況は大きく転換。劣勢な宮方は、陸続と攻めかかる平家の大軍に圧倒され、主だった人々次々と討死し壊滅。頼政の次男源太夫判官兼綱が上総の太郎判官の矢に射られ、つづいて嫡子伊豆の守仲綱が討死。養子の六条の蔵人仲家父子、主将の頼政は防戦につとめるが負傷し、辞世の歌「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなるはてぞ悲しかりける」を残して自害、首は郎等の手で宇治川に沈められる。盟主高倉の宮は奈良へ逃れる途中、追撃する飛騨守景家の軍勢500余に討たれる。

①流される平家の兵。渡河した平家は平等院に進入。宮方の防戦。高倉宮を奈良に立たせる。

「こゝに伊賀・伊勢両国の官兵等、馬筏押破られて、六百余騎こそ流れたれ。萌黄(モヨギ)・緋縅(ヒヲドシ)・赤縅、色々の鎧の浮きぬ沈みぬ揺られけるは、神南備山の紅葉葉(モミジバ)の、峯の嵐に誘はれて、龍田河の秋の暮、堰(アセキ)に懸かりて、流れもあへぬに異ならず。

其の中に緋縅の鎧着たる武者三人、網代に流れ懸りて、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、伊豆守見給ひて、かくぞ詠じ給ひける。

伊勢武者は皆緋縅の鎧着て宇治の網代に懸りぬるかな

これ等は皆伊勢国の住人なり。黒田後平四郎・日野十郎と云ふ者なり。中にも、日野十郡は、古兵(フルツハモノ)にてありければ、弓の弭(ハズ)・岩の狭間にねぢ立てて、かき上り、二人の者どもを引上げて、助けけるとぞ聞こえし。

大勢皆渡して、平等院の門の内へ、攻入り攻入り戦ひけり。此の紛れに、宮をば南都へ先立たせ参らせ、三位入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆、残り留って防矢射けり。」

②源三位頼政の最期。宮方壊滅。

「源三位入道は、七十に余って軍(イクサ)して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静に自害せんとて、平等院の門の内へ引退く所に、敵(カタキ)襲ひかゝれば、次男源大夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、白月毛なる馬に、金覆輪(キンプクリン)の鞍置いて乗り給ひけるが、父を延ばさんが為に、返し合せ防ぎ戦ふ。

上総太郎判官が射ける矢に、源大夫判官、内甲(ウチカブト)を射させてひるむ処に、上総守が童、次郎丸と云ふ大力の剛の者、萌葱匂(モヨギニホヒ)の鎧着、三枚甲の緒をしめ、打物の鞘をはづいて、源大夫判官に押並べて、むずと組んで、どうど落つ。源大夫判官は、大力にておはしければ、次郎丸を取って押へて頸を掻き、立ち上らんとする処に、平家の兵ども、十四・五騎落ち重なって、終に兼綱を討ちてげり。

伊豆守仲綱も、さんざんに戦ひ、痛手あまた負うて、平等院の釣殿にて自害してげり。其の頸をば下河辺藤三郎清親取って、大床の下へぞ投入れたる。

六条蔵人仲家、其の子蔵人太郎仲光も、さんざんに戦ひ、一所で討死してげり。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢が嫡子なり。然るを、父討たれて後、孤(ミナシゴ)にてありしを、三位入道養子にして、不便にし給ひしかば、日来(ヒゴロ)の契約を達へじとや、一所で死ににけるこそ無漸なれ。」

兼綱の奮戦ぶりは、宗盛の使者として参院した検非違使源季貞からの戦況報告を書き留めた右大臣九条兼実「玉葉」治承4年5月28日条にも、「敵軍僅かに五十余騎、皆以て死を顧みず、敢えて生を乞うの色無し。甚だ以て甲なりと云々。其の中に兼綱の矢前に廻る者無し。宛(サナガ)ら八幡太郎の如し云々」とあり、兼綱のの弓勢を恐れて矢先に廻る者なく、八幡太郎義家に匹敵する者として称賛されている。

「下河辺藤三郎清親」(兼綱の兄伊豆守仲綱の家人)、勇戦のすえ負傷して平等院釣殿で自害した仲綱の首を御堂の大床の下に投げ入れて隠す。下河辺氏は、秀郷流藤原氏の流れを汲む小山氏の一族で、武蔵国北葛飾郡下河辺庄の住人、秀郷から7代目の小山政光の弟行義が下河辺圧を領して「下河辺庄司」を称して以来、代々その称を継ぐ。頼政の父仲政が下総守として子の頼政と共に任地に下向した際、下河辺庄が仲政・頼政父子を介して鳥羽院あるいは美福門院に寄進され、平治の乱には下河辺行義は頼政の郎等として従軍(「平治物語」)。「吾妻鏡」治承4年5月10日条では、行義の子の行平が伊豆の頼朝に頼政挙兵の計画を報じている。

六条(八条の誤り)の蔵人仲家とその子蔵人の太郎仲光は、帯刀先生義賢(タテワキセンジョウヨシカタ)の嫡子、木曽義仲の異母兄。「帯刀」は、太刀を帯びて仕える職で、皇太子の身辺警護に当たる武官で、舎人のなかから武術に優れた者を選んでこれに任じ、特に刀を帯びて護衛役に従事させた。「先生」(センジョウ)はその首長。義賢は、源為義の次男で、皇太子の躰仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊に属し、帯刀先生の職にあった。久寿2年(1155)8月、義賢は所領争いから甥の悪源大義平に殺害され嫡男仲家は孤児となる。同族の頼政に引きとられ、養子として養育されたので、多年にわたる養育の恩義に報いるため、養父頼政の挙兵に加わった。4ヶ月後の9月初めには弟の義仲が木曽で挙兵するが、その日を見ずに討たれまことに無残であると「平家物語」は嘆く。


つづく

2022年7月27日水曜日

大船フラワーセンター 青空に映える大船観音 スイレン カノコユリ ハス ダリア 夏バラ(カリフォルニア・ドリーミング、光彩) ヒマワリ ユリ(カサブランカ) 熱帯スイレン ギボウシ 2022-07-27  

 7月27日(水)、はれ

昨夜9時半頃、突然インタネットが繋がらなくなり、原因はルータの故障しかないと判断して、NTTコールセンターに電話。一応24時間対応とは言ってるものの夜間は対応者も少ないだろうと予想はしてたけど、やはりなかなか繋がらず、47分かけ続けてようやく担当者が出てくれた。いろいろやり取りした後、先方の「調整」で何とかなるとのことで、11時半頃に繋がった。

ところが、今日の朝一番、確認したら不安的中、また繋がらなくなっていた。朝食後すぐにコールセンターを呼び出し。今回は15分で担当者が出てくれて、信号をチェックしたところ屋外の設備に問題があるという。すぐに修理部門に連絡するので、暫く待って欲しいとのこと。暫くと言っても2~3時間なのか半日くらいなのが、大凡のメドが欲しいと言うと、半日お待ちくださいとの回答。実際は修理部門の繁閑など事情もあるだろうし、「半日」は苦し紛れのその場しのぎくらいに考えて、今日は大船フラワーセンターに出掛けた。

フラワーセンターの木陰でひと休みしていた11時半ころ、家人からネットも電話も繋がったとの連絡が入り、11時50分にはNTTからも復旧確認の連絡が入った。結果、「半日」だった。

ま、いろいろ面倒だったけど、NTTの人、よくやってくれたと今は評価している。また来るかも?との一抹の不安もあるけど、、、。

▼大船駅まえの大船観音 今日は空と雲がキレイだった


▼スイレン


▼カノコユリ

▼ハス

▼ダリア

▼夏バラ カリフォルニア・ドリーミングと光彩


▼ヒマワリ

▼カサブランカ

▼熱帯スイレン

▼ギボウシ


与野党問わず「統一教会」との関係浮上 教団トップに「他の議員への布教活動」と捉えられかねない発言も(newszero7/26); 出てくるのは 自民党の  山本朋広元防衛副大臣  工藤彰三  岸信夫防衛大臣  二之湯国家公安委員長  細田博之衆議院議長  原田義昭 など 国民民主党系  天野正基(愛知県議)/「自民党の山本朋広元防衛副大臣は5年前に教団のイベントに出席した際、教団トップを「マザームーン」と称え、自民党は教団から「大きな力を頂いている」と発言しました。 一方、国民民主党系会派・天野正基愛知県議は、2019年のイベントで、教団トップに“他の議員への布教活動”とも捉えられかねない発言をしていました。」     

 

統一教会の政界汚染、支援対象は「安倍さんの一存だった」 恩恵を受けた子飼い議員の名(デイリー新潮);「教団の内部文書にはこう書かれていた。 「〈首相からじきじきこの方(北村氏)を後援してほしいとの依頼〉〈まだCランクで当選には遠い状況です〉〈今選挙で北村候補を当選させることができるかどうか、組織の『死活問題』です〉と。19年の参院選でも統一教会内部で北村氏を応援するビラが出回っていました」」    

〈藤原定家の時代069〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その2) 「橋合戦」(「平家物語」巻4) 平家の反撃(上総守忠清の迂回提議と足利又太郎忠綱の馬筏による渡河提言) 馬筏による強行渡河 

 

宇治橋より上流を見たところ(2016年)

〈藤原定家の時代068〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その1) 「橋合戦」(「平家物語」巻4) 宮の落馬 川を隔てた矢いくさ 浄妙房明秀の奮戦 一来法師の捨身の救援 より続く

治承4(1180)

5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その2) 

「橋合戦」(「平家物語」巻4)

⑤平家の反撃(上総守忠清の迂回提議と足利又太郎忠綱の馬筏による渡河提言)。

「平家の方の侍大将上総守忠清、大将軍の御前に参り、

「あれ御覧候へ、橋の上の戦、手痛う候。今は川を渡すべきにて候ふが、折節五月雨の比(コロ)、水まさつて候へば、渡さば馬・人多く亡び候ひなん。淀・一口(イモアラヒ)へや向かふべき、又河内路へや廻るべき、如何せん」

と申しければ、下野国の住人、足利又太郎忠綱、生年十七歳にてありけるが、進み出でて申しけるは、

「淀・一口・河内路へは、天竺・震旦の武士を召して向はれ候はんずるか。それも我らこそ承つて向ひ候はんずれ。目にかけたる敵を討たずして、宮を南都へ入れ参らせなば、吉野・十津川の勢ども馳集まつて、禰(イヨイヨ)御大事でこそ候はんずらめ。

武蔵と上野の境に、利根川と申す大河候。秩父、足利、中違うて常は合戦を仕り候ひしに、大手は長井渡、搦手は故我杉渡より、寄せ候ひしに、こゝに上野国の住人、新田入道、足利に語らはれて、杉渡より寄せんとて、設けたりける舟どもを、秩父が方より皆破られて申しけるは、

『唯今こゝを渡さずば、長き弓箭の疵なるべし。水に溺れて死なば死ね、いざ渡さう』

とて、馬筏を作って渡せばこそ渡しけめ。坂東武者の習ひ、敵を目にかけ、川を隔てたる軍に、淵瀬嫌ふ様やある。此の河の深さ早さ、利根河に幾程の劣り優りはよもあらじ、続けや殿ばら」

とて、真先にこそ打入れたれ。」

平家方の軍議で、味方の苦戦を見た侍大将上総守忠清は、大将軍に迂回作戦を進言。橋上の戦いはは手痛く、川は五月雨の時期で水嵩が増しており、忠清は、淀か一口か河内路への迂回を提案。この時、足利又太郎忠綱(17)が進み出て、戦機を失えば大事に及ぶ恐れがあると反論し、即刻渡河強行を主張。忠綱は、下野国足利郡足利庄の住人、俵藤太秀郷の末裔、足利太郎俊綱の子。秀郷から6代の後胤の成行が下野国足利郡足利庄を開発して足利太夫を称し、その子の成綱がこれを継承して足利太郎と名乗り、以降、嫡流が足利の地を拠点として活躍、同じく秀郷流の小山氏と並び下野一国の竜虎と称せられるようになる。忠綱は、その成綱の孫足利太郎俊綱の子。「吾妻鏡」養和元年(1181)閏2月25日の条に、「是末代無双の勇士なり。三事人に越ゆ。所謂一は其の力百人に対するなり。二は其の声十里に響くなり。三は其の歯一寸なり」とある。また、同書養和元年9月7日条に、「従五位下藤原俊綱(字足利太郎)ハ、武蔵守秀剛朝臣ノ後胤、鎮守府将軍兼阿波守兼光六代ノ、散位家綱ノ男ナリ。数千町ヲ領掌シ、郡内ノ棟梁タルナリ。而ルニ去ル仁安年中、或ル女性ノ凶害こヨリ、下野国足利庄ノ領主職ヲ得替。仍テ本家小松内府此ノ所ヲ新田冠者義重ニ賜ウノ間、俊綱上洛セシメ、愁ヒ申スノ時返サレ畢ンヌ。尓(シカ)シテヨリ以降、其ノ恩ニ酬インガタメ、近年平家ニ属セシムルノ上、云々。」とあり、女性を殺害して罪を得た俊綱の所領を小松殿重盛が安堵したことから、それに報いるため平氏に仕えるようになったという。その縁から子の忠綱も平家に属したものと推測される。忠綱は、いま目の前の敵を討たず、宮を奈良に逃げ込ませたなら、宮には吉野や十津川から加勢が集まり、一層手がつけられない一大事になるだろうと言う。

この渡河戦に実際に馬筏による戦法が採用されたことは、「山槐記」治承4年5月26日条に、「彼方の甲兵橋を引く。景家橋上に責め寄せ合戦の間、忠景(綱か)又追ひ来り、伴頼千余騎時を作る。馬を河中に打入る。橋の上の方に歩(カチ)渡りの瀬あり。或は深淵と雖も、馬筏を以て郎党二百余河を渡り、平等院の前に於て合戦す」とり確認できる。

また、西行が宇治の戦いの噂を聞いて、その「聞書集」に、

「武者のかぎりむれて死出の山こゆらん。山だちと申す恐れはあらじかしと、この世ならば頼もしくもや。宇治のいくさかとよ。馬筏とかやにて渡りたりけりときこえしこと思ひいでられて、

沈むなる死出の山川みなぎりて馬筏もやかなはざるらん」

と書き留めている。

⑥馬筏による強行渡河。関東武士団が足利忠綱に続く。

「続く人々、大胡・大室・深須・山上・那波太郎・佐貫広綱四郎大夫・小野寺禅師太郎・部屋子四郎、郎党には宇夫方次郎・切生六郎・田中宗太を始めとして、三百余騎ぞ続きける。

足利大音声(オンジヤウ)を揚げて、

「弱き馬をば下手に立てよ。強き馬をば上手になせ」

「馬の足の及ばう程は、手綱をくれて歩ませよ。撥(ハヅ)まば、かい繰つて泳がせよ」

「下らう者をば弓の弭(ハズ)に取付かせよ。手に手を取組み、肩を並べて渡すべし」

「馬の頭沈まば、引揚げよ。痛う引いて引つ被(カヅ)くな」

「鞍壷によく乗り定まつて、鐙(アブミ)を強う踏め。水浸まば、三頭(サンヅ)の上に乗りかゝれ」

「河中にて弓引くな。敵射るとも相引すな」

「常に錣(シコロ)を傾けよ。いたう傾けて天辺(テヘン)射さすな」

「馬には弱う、水には強くあたるべし」

「かねに渡いて推(オシ)落さるな。水にしなうて渡せや渡せ」

と掟(オキ)てて、三百余騎、一騎も流さず、向かひの岸へさつとぞ打ち上げたる。」

足利氏配下の上野・下野など北関東在地の土豪・地方武士たち(11世紀後半~12世紀、在地領主として成長をとげた足利氏一族は、下野南西部の足利郡・安蘇郡を嫡流家の地盤として、下野国都賀郡の一部や上野国一帯に分布し、勢威をふるう)。

まず足利氏一門(①~⑧)、

①「大胡」:又太郎忠綱より4代前の足利大夫成行の子成家の末裔で、赤城山南麓の上野国勢多郡大胡(群馬県勢多郡大胡町)の住人で、大胡太郎のこと。

②「大室」:勢多郡荒砥村大室(群馬県前橋市大室)の住人。

③「深須」:忠綱の父俊綱の弟で、勢多郡深須郷(群馬県勢多郡粕川村深津)の住人で、深須三郎郷綱。

④「山上」:俊綱の弟山上五郎高綱の子で、勢多郡山上郷(群馬県勢多郡里村山上)の住人、山上太郎高光。

⑤「那波太郎」:足利大夫成行の弟行房の孫で、勢多郡那波郷(群馬県伊勢崎市)の住人、那波太郎弘澄。

⑥「佐貫の広綱四郎大夫」:おなじく行房の末裔で、上野国邑楽郡佐貫庄(群馬県邑楽郡明和村大佐貰)の住人、佐貫弥太郎広光の子佐貫四郎大夫広綱。

⑦「小野寺禅師太郎」:秀郷の末裔で首藤刑部丞道義の第3子の小野寺禅師太郎義寛の子で、下野国都賀郡小野寺保(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺)の住人、小野寺禅師太郎道綱。

⑧「辺屋子の四郎」は、忠綱の祖父足利孫太郎家綱の第7子で、下野国寒川郡戸矢古保(栃木県下都賀郡藤岡町部屋)の住人、部屋古七郎太郎基綱。次に足利氏配下の郎等。

⑨「宇夫方次郎」:下野国安蘇郡意部郷(栃木県佐野市植野)の住人。

⑩「切生六郎」:上野国山田郡桐生(群馬県桐生市)の住人。

⑪「田中の宗太」:上野国新田郡綿打村田中の住人。


〇その後足利氏:

平家との関係がわざわいし、同族の小山氏が源頼朝の下にいち早く参向するのと対照的に、源氏への帰属をためらい、治承5年(1181)に頼朝に反抗した志田三郎義広に加担して頼朝の怒りを買い、その討伐をうける。その結果、父の俊綱は郎等の桐生六郎に殺害され、忠網も失踪し、足利氏は滅亡したといわれる。


つづく



2022年7月26日火曜日

旧統一教会と政界の関わりが表面化 維新議員も次々と…関連団体のイベントに参加(読売テレビ);「「藤田幹事長が調査をしている最中ですから、党として公表して回答すると…」。25日、旧統一教会と政治家との関係について語った「日本維新の会」の吉村洋文副代表。調査の取りまとめを行っている、藤田幹事長も旧統一教会系の関連団体が主催するパーティーに出席していたことがわかりました。」   

 

旧統一教会と文科省政務三役の「緊密リスト」 第2次安倍政権以降の“毒手汚染”が一目瞭然(日刊ゲンダイ); 霊感商法や合同結婚式の被害など数々の問題が再燃している旧統一教会。改めて宗教法人としてふさわしいのかが問われていますが、所轄する文科省の政務三役5人のうち、4人が統一教会と関わりを持っていました