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2015年4月26日日曜日

1787年(天明7年)6月20日~8月24日 大野の打毀し 松平定信が人事刷新に着手 パリ高等法院の反乱(「貴族の反抗」の第1弾) パリ騒乱 モーツアルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 【モーツアルト31歳】

北の丸公園 2015-04-24
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1787年(天明7年)
6月20日
・大野の打毀し。
20日夜、大野城下に近い幕府領西山村で打毀し。
同村の百姓甚之助宅が蓑虫100余により打毀される。米を買い占めて穴馬・美濃郡上方面へ登せ米しているとの噂が広がり、同村内の者ばかりで襲う。大野町でも米が不足して甚之助の元へ買いに訪れるほど。
大野藩は、徒党禁令を示し領民が加わらないよう布達、直ちに勝原・笹俣・若生子の3番所で米留めを行う。しかし、郡上藩領や鯖江藩領の森山村・森政村でも打毀しの話が流れ、大野地方一帯が騒然たる空気となる。
24日にも打毀しの風聞があり、米買商人宿の鯖江藩領木本村御器屋・西山村円助・幕府領友兼村四郎左衛門・森政村忠右衛門・同太左衛門家の名が挙げられる。
25・26日中に「穴馬并川向在之蓑虫」が出るとの話もあるが、実際に騒動は起こらず。
7月になっても噂は続き、翌年4月には大野町で米騒動から人々が町の牢屋へ集結するとの風評がたつ。
天明期は、飢饉を背景に米騒動が都市だけでなく農村にも起こる(米を他国へ移出し、米価を高騰させるとの批判)。
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6月24日
・モーツアルト、リート「夕べの想い」(K523)、リート「クローエに」(K524)。
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6月28日
・オランダ王家オラニエ公妃、グーダ付近で反乱軍に逮捕。オランダ国内は混乱。
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7月
・松平定信の前途はなお多難。
7月6日、水野忠友とともに勝手掛を兼ね、ついで同17日、同志の本多忠籌を若年寄兼勝手掛に抜擢して財政の実権を握り、さらに、同26日、加納久周を御側申次に起用して人事刷新にのりだす。
しかし田沼派の大老井伊直幸、老中松平康福、老中兼勝手掛・奥掛兼帯の水野忠友らの要人はしばらくそのままに放置した。康福や忠友は、定信からは温厚・篤実で毒にも薬にもならない人物とみられながら、大奥と結んでなお隠然たる勢力をはっていた。
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・小普請組植崎九八郎の『上書』、定信に上呈
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・幕府、「学文軍学天文学之類」「武芸弓馬剣鑓柔術火術之類」、即ち文武の道に出精の者や指南している者の名前・年齢、及びその師の名前・流儀の書上を命じる。

8月17日、小普請組頭森山孝盛は、学問は朱子派、軍学は越後流、柔術は関口流、剣術は円明流と関口流、弓術は日置流、鎗術は円伝疋田流等々の書上を提出。
22日、支配組中の芸術見分。組頭森山孝盛は立合う。
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・幕臣勝与八郎、幕府財政再建のため地方支配役人の統制方につき、幕府に対してではなく尾張家に上書。 
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7月4日
・モーツアルト、カノン「親愛なるフライシュテットラー君、親愛なるガウリマウリ君」(K.232(509a))を作曲。
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7月13日
・アメリカ連邦議会、北西部領地条例を発する。
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7月16日
・フランス、パリ高等法院の反乱(「貴族の反抗」の第1弾)。新税承認の唯一の方法として三部会招集要求。臨時地租令拒絶。宮廷の浪費告発。倹約要求。

ボルドー、グルノーブル、ブザンソンなどの高等法院は、新教徒に公民権を与える命令や自分と競合する地方議会創設に反対。
パリ高等法院は、間接税裁判所・会計検査院を従え、ブリエンヌの印紙税(請願書・領収書・通告状・新聞・ポスターに印紙を貼る命令)命令の登録を拒否。

パリ高等法院は、穀物の販売・輸出に関する統制を緩和するブリエンヌの計画を受けいれ、印紙税を確認する一方で、地租に関する法令(「土地単一税」創設に関する王令)の登録を絶対的に拒否し、「三部会に結集した国民のみが恒久的税に同意を与え得る」と宣言。
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7月17日
・ベートーヴェン母親マリア・ダグレーナ、没
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7月23日
・二宮尊徳、誕生。相模国足柄上郡栢山村。
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7月29日
・両替商の上納役金を廃止。
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7月29日
・(露暦7月18日)ネヴィージモフらロシア人狩猟団25人と光太夫ら漂流民9人、アムチトカ島で新船を建造、キリール・アレクサンドルスキイ号と名付け、この日、アムチトカ島出帆。
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8月
・フランス、反王党的な小冊子が現われ始める。
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8月6日
・フランス、ルイ16世、親裁座会議(御前法廷・親臨法廷)開催。パリ高等法院の抗議を無視しブリエンヌの法案を強制的に登記。
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8月7日
・フランス、パリ高等法院、前日の親座会議(御前法廷)の無効を宣言し、カロンヌに対する予審を開始。カロンヌはイギリスに逃亡(最初のエミグレとなる)。
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8月10日
・モーツアルト、セレナードト長調(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)(K.525)(セレナード第13番)完成。
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8月13日
・第2次露土戦争
[露暦8月2日]クリミヤ半島の保護領化で対立したオスマン帝国、ロシアに宣戦布告。
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8月14日
・フランス、ルイ16世、政府との対立を理由にパリ高等法院をトロワに追放。トロワの住民は高等法院の法官を歓呼して迎える。各地の高等法院はパリ高等法院支持し、パリ高等法院のパリ召喚請願書がヴェルサイユに殺到。
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8月15日
・~30日、パリで騒乱。マリ・アントワネットが「オーストリア女」「赤字夫人」と呼ばれる。
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8月22日
・アメリカの発明家ジョン・フィッチ(44)、蒸気機関でオールを動かす蒸気船を作りデラウエア川で進水。
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8月24日
・モーツアルト、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタイ長調(K.526)を作曲。最後のピアノとヴァイオリンのためのソナタ。6月没のアーベルへの追悼のためと言われる。
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2015年4月5日日曜日

1787年(天明7年)6月19日 奥州白河藩主松平定信(30)、老中首座に就任。 祖父吉宗の政治への回帰、士道退廃を批判、質素・倹約を第1の方針とし、田沼政治の一掃を図る。側近政治に対する徳川一門の粛清運動の勝利。 【モーツアルト31歳】

北の丸公園 2015-04-02
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1787年(天明7年)
6月19日
・奥州白河藩主松平定信(30)、老中首座に就任。
祖父吉宗の政治への回帰、士道退廃を批判、質素・倹約を第1の方針とし、田沼政治の一掃を図る。側近政治に対する徳川一門の粛清運動の勝利。

■これまでの定信
宝暦8年(1758)12月27日、田安宗武(三卿)の七男として誕生。宗武は8代将軍吉宗の二男で、定信は吉宗の孫、将軍家治とは従兄弟。同じ三卿の一橋家から出て11代将軍となった家斉は吉宗の曾孫。

幼時より並はずれた才子で、学問・文学・諸芸に通じ、12歳のとき自戒の書『自数鑑(じこようかがみ)』を著わし、17歳までに7千首の和歌を詠んだという。
宗武の子は、五男治察(はるさだ)と七男定信以外の男子はみな夭折。定信もあまり丈夫でないので、とても長生きはできまいと考え、生前にできるだけ読書と著述に精をだしておこうという気になったと、後年に述懐している。それもあって、一代で182部という多数の著書を残している。

宗武は国学者であり、万葉調の歌人として有名であるが、父吉宗の感化をうけて私生活は簡素で、定信らにたいしても厳しいしつけをおこない、幼年期から衣服・飲食について好き嫌いをいうことを許さなかった。定信は後年白河藩主として藩政改革に着手したとき、家中に率先して綿服を着、食事は一汁一菜にきりつめたが、幼年時代の体験でなれているので、別に苦痛は感じなかったとのべている。

宝暦12年(1762)2月、定信5歳のとき田安邸が火災にあい、宗武は家族を連れて数日間本丸に仮り住いした。この時、将軍家治は才気喚発の定信がすっかり気に入り、田安一家が他所へ引っ越したときも、とくに定信だけをしばらくひざもとに残して可愛がった。家治は、「将来、徳川家をおこすのはこの子であろう」とまで称揚したが、この家治の特別の寵愛が、定信を苦境におとしいれる一
つの原因となる。

安永4年(1775)11月、18歳のとき、将軍の厳命とのことで奥州白河藩主松平越中守定邦の養子となる(裏で田沼意次と一橋治済の差し金といわれている)。
安永5年、将軍家治の日光社参に際し、白河藩が警固を命ぜられ、定信は病中の定邦に代って無事その任務を果たした。この時、初めて領地白河に入り、家中・領民の情況を視察。国元の藩政はその日暮らしをこととし、凶作の被害がとりわけひどい後進地でありながら、その予防策が殆どとられていないことを知る。定信は藩政への発言のできない世子の身であり、しかも虚弱で家督を継ぐまで生きられまいとの不安にかられ、遺書と題して『修身録』『政事録』2著をあらわした。

天明2年(1782)、「この比(ころ)より信友多く交りてかたみに道を講じたり」(『宇下人言』)としるし、その信友として、本多弾正少弼忠籌(ただかず、陸奥泉)・本多肥後守忠可(ただよし、播磨山崎)・戸田釆女正氏教(美濃大垣)・奥平大勝大夫昌男(まさとき、豊前中津)・堀田豊前守正毅(まさよし、近江宮川)・松平山城守信亨(のぶつら、出羽上ノ山)などの譜代小藩主の名をあげている。このころの会合は、和歌を詠み合ったり、相互に善行をすすめたりする一種の修養会のような性格であったが、しだいに時勢を慨し、幕政のあり方を批判する政治的集会に変化していった。
天明3年10月、大飢饉のさ中に26歳で家督を相続。この時、白河藩は表高11万石余に対し10万8,600石余の減収という状況であった。
彼は、家中に対し、「わが領内にたとえ一人の餓死者をだしても、国君の天職に背くことである」と宣言し、家中一体になって倹約の範を示すため、率先して私生活を極度にきりつめた。食事は一汁一菜、衣服から寝具に至るまで全て木綿一式とし、侍女の数を減らし、居間および諸役所の畳は安くて縁のない琉球表にかえ、襖・障子も粗末な紙に張り替えさせた。

定信は勘定頭松村仙蔵を越後の分領に派遣し、1万俵の貯米を廻送させようとしたが、通路である隣領会津も凶作で、人馬の継立ては出来ないと藩役人から拒否された。そこで、定信は会津藩主松平容頌(かたのぶ)に特使を急派し、便宜を図ってくれるように懇請し、ようやく廻米の目途がついた。
更に大坂・兵庫・浜松などの約6,950俵、会津6千俵、磐城平3千俵、二本松・守山各1千俵を、値段にかまわず買い集めた。家中へは人別扶持(にんべつふち)として、家老から足軽にいたるまで一律に毎日男5合・女3合を、町村の難民には10日に1回ずつ1軒に3升ずつ与え、凶作の翌年は伝染病が流行するため、薬を下付した。
また、男女を問わず阿武隈川築堤工事に割のよい賃銀で働かせた。

翌4年春の端境期には、江戸から稗・ふすま・挽割麦・あらめ・かます干物・にしん・干大根などを買い上げて白河に送らせた。この結果、定信は「仙台溝では四十万、津軽領では二、三十万の餓死者をだしたにもかかわらず、わが白河領では一人の餓死者もなかった」と自讃している。
定信は、剛直な能吏を登用して藩政刷新につとめ多くの改革を実施した。

特に農政に重点が置かれ、備荒貯穀の施設はもとより、田畑の耕作技術を指導し、早稲の有利なことを教え、畑作には穀類を多くつくるように命じた。楮(こうぞ)・漆・桑などの加工農産物の栽培や植林をすすめたのも、農民経営の安定と合わせて藩収入の増加をもくろんだものである。また大飢饉で減少した農業労働力を確保するために、貧農のあいだでロベらしのためひろくおこなわれた間引きを防止したり、越後の領地から女子を強制的に白河に移して配偶者の不足をおぎなった。こうした努力が奏功したのか、定信襲封のさい、白河城下の農民数は11万1,016人であったのが、約10年後には3,500余人の増加をみたといわれる。

また家中に対して武芸・武備の奨励に力をいれ、白河城内に藩祖越中守定綱の神霊を祀って大鏡神と号し、毎年2月・8月の24、25両日に武芸祭・武備祭を行なって出陣の訓練をさせた。これは士風振興という目標を掲げているが、近辺に百姓一揆などが起きた時に、すぐにその人数を鎮定に派遣することができるようにするのが狙いであった。白河藩主として定信のあげたこのような治績は、かれの「名君」の声望をひろめることになり、幕閣入りの一つの条件を作ったが、この経験はやがて幕政改革を担当するにあたり、貴重な教訓として生かされることになる。

天明5年12月1日、松平定信は溜の問詰となった。溜の間は、江戸城中の大名詰所の一つで、家門(将軍家一族)や有力な譜代大名の部屋であった。定信はここに、中央政界での地位を得た。

「この定信が溜間詰となったのは、田安の宝蓮院の願によるという事である。宝蓮院というのは田安宗武の室であって、即ち定信の嫡母に当る。定信が溜間詰となったから田沼が段々に勢力を失ったのではなかろうかと思う。」(辻『田沼時代』)

天明6年12月15日、定信は老中に推挙されるが、実現までに半年を要すことになる。

定信の老中就任に対し世論は歓迎であった。
一橋治済と御三家は、「これで全体の風儀も一新し、天下のためまことにめでたいことである」と祝いあった。
杉田玄白も「逢いがたいと思う世にふたたび逢うことのできたうれしさよ」と、定信の登場に期待を寄せる(『後見草』)。
民衆も定信を「文武両道左衛門世直(よなおし)」とよんで、新政の出現を謳歌した。

定信が老中首座に挙用される前後から、田沼政権に迎合してきた諸役人のあいだには、粛清をおそれて深刻な動揺がおこり、事務も手につかない状態であった。定信は将軍に上申して、諸役の頭を一人ずつ黒書院(幕府の公式の儀式に使われる部屋)によぴ、将軍からじきじきに、以後、万事八代将軍吉宗の享保の改革にのっとっておこなうことを申し渡し、定信もそばから、既往のことであれば多少の不都合はいっさい不問に付するから、今後処罰をうけることのないように注意してせいぜい忠勤をはげむように説諭したので、人心の動揺はいちおうしずまった。

定信は老中に就任してまもなく、勘定奉行に幕府の財政状態をたずねたことがある。勘定奉行の答えは、天明6~7年の凶作や、6年の将軍家治歿による出費などで、来年は100万両も不足するだろうということであり、定信が諸老中にそのことを告げるとみな顔色を失ったという。

大老井伊直幸(1787年9月辞任)、老中阿部正倫(1788年2月辞任)がつくが、1788年3月4日、将軍補佐兼役を命ぜられ幕閣の大権を掌握するまでは、田沼執政期に登用された老中が留任しており、定信は孤立。

辻善之助『田沼時代』
「天明六〔一七八六〕年の八月頃から、田沼のやっておった政策は、善となく悪となく皆片端から潰されたのである。即ち、
天明六年八月二十四日には貸金会所の令を廃した。
同日、吉野山の採鉱の検分を止めた。
同日また印旛沼の開墾を止めた。
同年十一月十五日、赤井豊前が勘定奉行を罷めた。
翌七年六月には定信は陰の者でなくして表向の老中となった。
同年七月二十九日には、両替商の役金を免じた。これは両替屋の株というものが全体で六百四十三株あって一株について一年に十四両ずつの役金を差出すことに定
めてあったのを廃したのである。
同年十一月二十六日には、人参座を廃した。
同年十二月五日には、赤井豊前と松本伊豆とが逼塞を命ぜられた。二人ともに田沼の経済政策の参謀として、最もカあった人である。
十二月九日には、市内の空地に家を建てることを禁じた。これは田沼の時には、市内の空地にも諸処に家を建てることを許して、それから税を納めさして、収入を図ったことがある。これは次に載するところの田沼の罪悪を数えた二十六ヵ条中にもある如く、中橋広小路の元と火除地であったのに、天明六年の頃そこに家を建て、税を納めしめて、収入を図ったというのに対するのである。
八年正月二十二日広東の人参売買の禁を解いた。これは日本国産人参の保護政策を止めたのである。
同年の五月二十九日には二朱判の鋳造を止めた。
八月二十三日に菜種油の問屋を止めた。
同年の十二月に四文銭の鋳造を止めた。
寛政元(一七八九)年には、日本橋の中洲の堀を掘返して川に戻してしまった。
寛政二(一七九〇)年の十一月九日に棉の実売買の問屋仲買を廃した。」
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2015年3月19日木曜日

1787年(天明7年)5月18日~6月19日 モーツアルトの「歌曲の年」 フランス名士会解散(革命の前奏曲) 田沼与党の解任 モーツアルト父レオポルト没 椋鳥シュタールの死を悼むモーツアルト 【モーツアルト31歳】

わが町の桜 おかめ桜 2015-03-18
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1787年(天明7年)
5月18日
・モーツアルト、リート「老婆」(K517)。20日、リート「ひめごと」(K518)。23日、リート「別れの歌」(K519)。
さらに、6月24日にリート「夕べの想い」(K523)、リート「クローエに」(K524)。他に、「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いた時」(K520)もあり、1787年は<歌曲の年>と呼ばれている。
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5月22日
・フランス、ルイ16世、名士会解散。

ブリエンヌの提案に名士会は反撥。7局中1局のみ賛成、他の6局はこの新提案を承認する権利がないと宣言(三部会召集しか道はないことになる)。

ラ・ファイエットは、米国議会にならう国民会議とこれの定期的開催を保証する大憲章を要求。
「公共の税金を決定する権利は、国民の代表にのみ属する」と言い、1614年以来開かれていない三部会召集を要求。

革命の前奏曲:
名士会解散が「貴族の反抗」(「貴族革命」)を解き放つ。
「貴族革命」はフランス革命の一部分である(国王に強制して三部会を召集させ、この君主制への公然たる挑戦が、第三身分(ブルジョアジーと農民と都市大衆)を行動に引き入れる。
「貴族が革命を開始し、平民がそれを完成した」(シャトーブリアン)。
革命は、支配階級内部の深刻な分裂と危機によってもたらされるいう命題は、重要な普遍的真理を含んでいる。
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5月24日
・幕府、廉価米売り出す。金2万両・米6万俵供出。
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5月24日
・田沼与党の御用取次の解任(田沼政治の終焉)。
この日、御側申次本郷大和守泰行(やすあき)、28日、御側申次田沼能登守意致(意次の甥、おきむね)、29日、筆頭御側申次横田筑後守準松(のりとし)、解任。将軍家斉に江戸打毀しの事実を正確に伝えなかった為。

横田は5月1日に3千石の加増を受けて計9千石となり、「日増其勢ひ強き事、飛鳥も落る気色」(大田南畝『一話一言補遺』)と、田沼のもとで権勢をふるい、大名になる直前であった。『一話一言補遺』によれば、将軍家斉が江戸市中が騒がしいようであるが何か変事があったかと横田に尋ねたのに対して、彼は江戸の町は静謐で、何も変わったこともありませんと報告したことが家斉の怒りを買い解任されたと記している。
杉田玄白は『後見草』において、「もし此度の騒動なくば、御政事は改るまじきなど申す人も侍りき」と、定信政権の誕生を江戸の打ちこわしと関連づける説を紹介している。
一橋治済も尾張・水戸両家に宛てて出した6月10日付の書簡で「余程道開ケ侯」と、状況が好転したことを記している。
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5月25日
・米、フィラデルフィアで憲法制定会議開会。議長はワシントン。
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5月26日
・モーツアルト、リート「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いた時」(K520)。ジャカン家の一室で大急ぎで作曲。女流詩人ガブリエーレ・フォン・バウムベルクの詩。
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5月28日
・モーツアルト父レオポルト(67)、没。
モーツアルトは父の死の床にかけつけず、埋葬にも立ち会わず。父の死を姉が知らせてくれなかったことについて、 姉に宛てた別の手紙でやんわりと非難。2人の関係は既に冷たくなっていた(?)。

6月2日付けモーツアルトの姉ナンネルル宛ての手紙
「ぼくたちの最愛のお父さんが突然亡くなった悲しい知らせがぼくにどんなに苦しいものであったかは、この死別がぼくにとって同じ意味をもっているだけにすぐお分かりになるでしょう。 - このところ、ヴィーンを離れることができず、また亡きお父さんの遺産については骨折りがいはないでしょうから、競売についてはまったくあなたのご意見どおりだと申し上げておきます。」
遺品の競売については、モーツァルトは、知人で彼に計報を伝えてくれた宮廷軍参事官ディッボルトに代理人として権限をゆだねた。
モーツァルトがザルツブルクに父親を見舞わなかったのは、4月下旬に病気に躍り、そのためもあって住居を<フィガロハウス>からラント通りに移したからであった。
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5月29日
・モーツアルト、「四手のためのピアノ・ソナタ ハ長調」(K521)作曲。フランチェスカ・フォン・ジャカンのため(ジャカン妹)。
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6月
・フランス、パリ高等法院は、土地単一税と税負担の平等の創設に関する王令の登録を拒否し、州議会と(それを持たない州における)市町村議会の創設に関する王令のみを登録。
州議会では、第三身分代表は貴族・聖職者代表と同数で、投票は「頭数による」もので、旧い州三部会での「身分ごと」ではない。特権層はこうした改革に不満。
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6月1日
・打ち毀しのほぼ鎮まったこの日、無能ぶりを暴露した北町奉行曲淵甲斐守を罷免し、後任に京都町奉行を勤めて当時寄合の閑職にあった石河土佐守正民を起用。
正民は拝命して帰宅し、奥方に「公命はありがたいが、年寄って迷惑な仰せをこうむったものだ。しかし御奉公のことであるから、できるだけは勤めねばならぬ」といって、白木の箱をつくらせ、それに切腹用の水色の上下に九寸五分の短刀を収めて、居間の床の正面におき、朝晩うやうやしくおし戴いたという。死を決して難局に当たろうとする硬骨な幕吏の姿がほうふつとしており、幕府あげての緊張ぶりがうかがわれる。

ついで6月8日、関東郡代伊奈半左衛門忠尊(ただたか、24歳)を小姓組番頭格に准じ、20万両の資金を交付して欠乏した米の調達に当たらせた。
幕府は、伊奈家が先祖備前守忠次の薔創業期に果たした農政上の功績をうけて、以後代々関東郡代として培ってきた関東村方への顔のひろさと、在地と関係の深い譜代の家臣が多いことによって、米の買集めがうまくゆくだろうと期待した。忠尊は天明4年・6年と江戸の窮民の救済にあたり、市民の人望をえていた。

忠尊は市中の在庫米を摘発する一方、家臣の代官・手代を自己の支配地の関東近国に派遺して、江戸の高相場で買い入れると触れ流し、1両につき2斗で買い集めた。農民や在方商人もほかならぬ伊奈様の指図であるからといって、安心して江戸に米を送ったのでたちまち江戸の在米が豊富になった。
忠尊は6月16日から市中の人口を調べ、赤児まで加えて玄米1合、皮麦5合ずつを三度にわたって配給した。代金は両に4斗という安値で、しかもすぐに納めなくてもよいことにした。

このときの人口調査では、町方だけで128万5,300人、ほかに座頭3,844人、遊里吉原の人数1万4,500余人、出家5万3,430人、山伏7,630人、神主3,580余人、合計136万8千余人という魔大な数となり、武家人口を加えても百万ちょっとといわれた江戸の人口にくらべると、あまりにも不自然な数字で信用できないが、難民の流入でふだんよりかなり人口がふえていたことは確かであろう。

忠尊の要をえた応急処置で、打ち毀しのあと、なお各所で不穏な動きがみられたのもしだいに収まり、人心はかなり鎮静した。しかし忠尊の積極的な活動はおのずから町奉行の職掌を犯すことになり、町奉行所と伊奈半左衛門役所とのあいだにごたごたがおこって、新任の石河土佐守は忠尊の活動をいろいろ妨害している。

国学者本居宣長も、この年12月、『秘本玉くしげ』を書いて紀伊藩主徳川治貞の施政の参考に供したが、そのなかで、
「抑(そもそも)此事(百姓一揆・打ちこわし)の起るを考るに、後にいつれも、下(しも)の非はなくして、皆上(かみ)の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしくなりたりといヘども、よくよく堪がたきにいたらざれば、此事はおこるものにあらず」
とのべて、民衆の反抗の根因を「上の非」すなわち悪政にありと断じ、
「上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也」
と警告している。
*
6月4日
・モーツアルトの飼っていた椋鳥シュタールが死ぬ。
モーツァルトは「知らなければならない、死の味を。彼を思い出すたびに、私の心は血を流す」と書き記す。

モーツアルトの支出簿に、「一七八四年五月二十七日。椋鳥三十四クロイツァー。とても綺麓だ!」とあり、『クラヴィーア協奏曲 ト長調』(K453)のフィナーレの冒頭主題の楽譜がつけられている。この愛鳥がモーツァルトの旋律をそのさえずりによって模倣したのかも知れない。

モーツァルトはこの鳥を埋葬し、死を悼む一篇の詩を添える。

ここに憩うは可愛いいおばかちゃん
一羽の椋鳥。
鳥盛りの年で
味わわねばならぬのは
死のきびしい苦しみ。
ぼくは断腸の思いに捉われる、
その死を思う時。
おお、読者よ! たむけたまえ、
君もまたひとしずくの涙を彼に。
いやな鳥じゃなかった。
ちょっぴりはしゃぎ星で、
時にはまた
しようのない悪い奴で、
だから馬鹿な奴じゃなかった。
誓って申すが、あいつはもう天国で、
ぼくのことほめてくれてるのさ、
こんなに親切な行ないを、
なんの得にもならない行ないを。
だって、思いもかけずに
血を流して死んだ時、
あいつは考えもしなかったからさ、
こんなにうまく詩が書ける男などと。
一七八七年六月四日。
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6月14日
・モーツアルト「音楽の冗談」ヘ長調  (K522)作曲。後、作曲家ヒュッテンブレンナーが「村の音楽家の六重奏曲」の呼称を与える。
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6月19日
・フランス、ルイ16世とマリー・アントワネットの第2王女ソフィー・エレーヌ・ベアトリス、没。
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2015年3月9日月曜日

1787年(天明7年)5月18日~21日 天明の打ち毀し 江戸に飛び火し市内に拡大 「江戸開発以来未だ曾てあらざる変事地妖と謂ふべしと諸人言ひけり」 【モーツアルト31歳】

北の丸公園 2015-03-05
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1787年(天明7年)
5月18日
・江戸に打壊し。
米価高騰。本所・深川の米屋。20日、赤坂・田谷・青山へ波及。21日、芝金・本芝・高輪・新橋・京橋・伝馬町。24組5千人、厳しい掟。

5月18日、本所扇橋と深川六間堀あたりで玄米屋・春米屋(つきごめや)が多数襲撃されたのが、江戸の大打ち毀しの直接の前ぶれとなった。

この月、江戸・大坂をはじめ岩槻・甲府・駿府・福井・和歌山・大和郡山・奈良・堺・淀・伏見・大津・尼崎・広島・尾道・下関・博多・長崎と、各地の主要都市にほぼ同時的に打毀しが起り、1ヶ月間に30件余と、江戸時代最高の都市打毀し件数に達し、さらに翌6月、熊本・久留米・伊勢山田・小田原・神奈川・石巻・弘前へと波及した。
幕臣森山孝盛は、日記に「同時之諸国騒動之段不審」と記す。

打ち続く天候異変や災害・飢饉のために、1786年の全国収穫は平年作の1/3となり、加えて86年冬から87年春にかけて飢饉が深刻化したことから米価や諸物価が高騰した。
商人の買い占めや売り惜しみが横行し、江戸の米価は、田沼失脚直前の86年6、7月に1両=7~8斗であったのが、暮れまでに4斗~4斗3升、翌87年春には3斗3升~3斗6升まで上がった。4月に少し落ち着いたものの、5月には再び急騰し、1両=1斗ほどまでになった。物価も高騰し民衆は大いに困窮した。
これに対処すべき幕閣は何の措置も取らず、奉行所もまた動かなかった。

20日、江戸の本格的蜂起が始まり、以後24日頃迄昼夜の別なく、南は品川、北は千住まで江戸中の米屋・富商の家々を打毀し、全くの無政府状態となる。逮捕者のうち職業等の判明する者30名についてみると、左官・足袋・挑灯張・蒔絵・髪結・屋根茸などの小職人、前栽・肴・傘・真木・建具などを売る小商人、船乗り・日雇などで、この打毀しの主体的勢力は、裏店借の小職人や天秤棒をかついで野菜や魚を売り歩く「棒手技」小商人などの江戸下層民である。30名中23名が江戸生れ、7名は関東近在の農民出身で江戸への流入者である。
打毀しの対象は、同一町内か近隣の町の米屋・富家で、江戸の夫々の地域内における上層町民層と下層貧民層との矛盾対立が、表面化したことを物語る。
また領主権力と癒着する御用商人に対してほ、特に容赦ない打毀しをかけ、田沼意次の囲米の襲撃をも意図したりしており、その底には、反権力・反田沼意識が読み取れる。

5月20日江戸深川六間堀町(東京都江東区)の裏長屋に住む提灯張職人の彦四郎ら8人は、近所の富裕な米商人に施米を要求し、聞き入れられない場合には打ちこわしを行うことを密かに決定した。その夜彼らは深川森下町の米商人伝次郎の店に押しかけ施米を要求した。しかし、店側がこれに応じなかったため、8人は家の中に踏み込み、商品、建具、家財などを散々に打ちこわして引き揚げた。そのさい1品1粒とも盗みはしなかったという。
同じ頃、赤坂、四谷、青山などでも米屋が打ちこわされた。
翌21日昼ごろには芝金杉付近から本芝、高輪付近、新橋、京橋が襲われ、また、夕方には日本橋から浅草蔵前の札差と神田、本郷一帯の米屋が襲われた。
以後24日まで昼夜の別なく江戸の町全体で打ちこわしが展開した。米屋のほか升屋善太郎、丸屋三郎兵衛など幕閣と結託する関八州の独占的な御用油屋、さらには質屋、酒屋なども打ちこわされた。

22日から騒動は殆ど全市に広がり、特に麹町など山の手の被害がひどかった。
この日までに府内の米屋980軒が打ちこわされ、その他、酒屋・質屋・菓子屋・木綿屋・紺屋・薬屋・油屋・味噌屋・蕎麦屋などの、日用品を売って暴利をえていた商家約8千余軒も襲われた。

なお明和5年(1768)の大坂家質奥印差配所の設置反対騒動を扱った絵草紙『梅花香二王ノ門日』では、仁王が打ちこわしの先頭にたって大暴れするが、この江戸の打ち毀しでは、何者とも知れぬ十七、八歳の美麗な前髪姿の大若衆、または六尺ゆたかの大入道が先にたち、無双の大力で大八車を軽々とふりまわして戸をつきこわしたり、土蔵の金網を片手で引きやぶったりして大活躍したと伝えられる。これは打ちこわしの勇敢な指導者を偶像化しようとする民衆心理の生んだ創作であろう。

こうして江戸は3日間、無政府状態におちいり、幕府も一時は鎮定のすべを失った。
家持たちは各町ごとに自警組織をつくり、竹槍で武装して不穏分子の潜人を防ごうとしたが、打ち毀しの参加者はみな町内のものだったから、なんのための自衛組織かと嘲笑される始末。
この騒動は当時の記録にも、江戸中の町々が同日同時にいっせいに蜂起したのは、不思議なことだと述べているように、横の連絡がなかったとは思われないふしがある。

打ち毀し参加者の統制もよくとれ、道に散乱した物を盗んで逃げるものがあれば、それを取り返して捨てておくというように、町火消の掟によく似ていたという。また目的の特定の商家だけを襲い、打ち毀しをかける前に行燈を消させて火災に注意するなど、「誠に丁寧礼儀正しく狼籍」したと『森山孝盛日記』は伝えている。

幕府では、23日になってやっと老中・三奉行らが協議し、町奉行や先手見廻り組を巡廻させて治安の回復に当たらせる一方、町内ごとに騒動参加者を召し捕り、あるいは密告させている。また金2万両と米・大豆各2万俵を窮民の救済に投じて民心の安定をはかった。

結局、24日まで昼夜の別なく江戸の町全体で打ちこわしが展開した。
米屋のほか升屋善太郎、丸屋三郎兵衛など幕閣と結託する関八州の独占的な御用油屋、さらには質屋、酒屋なども打ちこわされた。

この間、幕府は有効な対策が打てず、江戸は無警察状態になった。町奉行が与力・同心を従えて出動したが、多数の打ちこわし勢には効果がなかった。
5月24日に、長谷川平蔵ら御先手十組が巡察を行う一方、大手門外にお救い小屋を設置して窮民を保護し、騒動はようやく鎮静化した。

打ちこわしの参加人数は不明であるが、一説では5千人と言われる。
彼らのほとんどは、裏長屋に住むその日暮らしの庶民であった。
蘭方医の杉田玄白が著した『後見草』によれば、
「誰頭取といふことなく、此所ここに三百、彼所かしこに五百、思ひ思ひに集りて鉦(かね)・太鼓を打ちならし、更に昼夜の分ちなく、穀物を大道に引出し切破り」
と、だれが指導者ということもなく、自分の判断で行動していたと記されている。

しかし、彼らの行動は、高度に規律化・組織化されたものであった。
たとえば京橋南伝馬町の米商万屋(よろずや)作兵衛の店を襲った一団は、鉦や拍子木で合図をし、中休みをとりながら打ちこわしを行ったという。
その他の場合も、打ちこわし勢は、目指す特定の豪商だけを打ちこわし、隣家には害を及ぼさないようにし、特に火の用心には注意していた。また、打ちこわし勢には、めざす家の建具や家財は打ちこわし、米や雑穀を道に散らかすが、盗みはしないという規律があった。『津田信弘見聞集』に
は、「誠に丁寧、礼儀正く狼籍に御座候」と記されている。
この規律について、『蜘蛛の糸巻』には、「同類盗みを禁じたるは、いはゆる江戸っ子なるべし」とあり、「町火消の掟によく似たり」と、首都江戸を代表する江戸っ子や町火消の作法が用いられたことが記されている。打ちこわしは、当時禁止された徒党ではなく、喧嘩扱いとなるよう工夫していたのである。

逮捕された総数は不明であるが、現在残っている町奉行所の記録では37人(うち9人吟味中病死、5人逃亡)についてだけ、その行動と判決内容を明らかにすることができる。

階層は、人宿寄子(ひとやどよりこ、奉公先がきまらず口入れ人の家に寄宿している者)1人を除くと、あとは全部店借(たながり、借家人)と店借同居人である。職業は、商人17、職人9、日雇2、無職・船乗り各1である。商人といっても魚・野菜などを行商して歩く棒手振りであろう。出身地をみると、江戸生まれが23人で圧倒的に多く、残る7人も江戸近国の農民の子弟で、江戸に奉公・出稼ぎにでて小商人や職人になったものが殆どで、既に数年以上江戸に住んでいる。年齢は20代・30代が24人で大部分を占めている。

彼らはみな法廷で、騒動の様子をみて、ふっとおもしろくなって参加したと述べているところをみると、打ち毀しの指導者とは認められないようである。
判決も入墨のうえ重追放が20人(うち1人吟味中病死)、重敲(じゆうたたき)のうえ重追放1人、重追放1人、垂敲のうえ中追放6人(うち1人吟味中病死)、入墨1人、敲1人となっていて、死刑になったものはいない。

このように、江戸打ち毀しの主体的勢力は地借・店借といわれる九尺二間の裏店住いの小商人・小職人、あるいは日雇などの町方小前層であったことがわかるが、この傾向は別に江戸打ちこわしにかぎったことではなかった。

打ちこわしの直後にある武士が書き、数年後に松平定信に献じたといわれる改革意見書「夢物語」は、1733年(享保18)の江戸最初の打ちこわしに比べ、今回の打ちこわしは100倍も恐ろしいと述べ、もし打ちこわし勢に知恵のあるリーダーが出現したり、武士が共鳴して武力を用いたならば、よほどしっかり対応する必要があると述べている。
松平定信もまた「先年関八州の中上州の民家騒動せしさへ、将軍の御威光薄く御恥辱と思召給へしに、此度武陽の騒動御膝元まで此ごとく其罪を赦捨置事、政務の取計ひ違ひといへながら、上を見透しぬいたる事、前代未聞、世の衰ひ此上有べからず、誠に戦国よりも危き時節と予は覚へたり」と、首都江戸の騒乱状態を、戦国時代をひきあいに出して深刻な危機感を表明している。
辻善之助『田沼時代』
「天明の打こわしの騒動は、まず大坂から始まった。七年五月十日から十二日に及んで、大坂の市中において、町人数十人が蜂起して米問屋二百余軒を打毀わした、なおまた富豪の家にも闖入して乱暴を働いた。中にも尾長谷屋というのが最も酷く打毀わされた。これと同時になお、京、奈良、伏見、堺、山田、甲府、駿河、広島その他中国・九州の国にもかような騒動があったそうである。が、その中最も激しかったのは江戸の騒動であった。天明三、四年の頃から年々の凶作で米価が非常に騰貴した、そのために人民が大に苦んでおった。七年の春に及んでは江戸の御蔵前の張紙が三斗五升入が百俵について百八十両、夏の張紙が三斗五升入百俵について二百二両という相場であった。その頃の普通の米相場は天明前後に一石について五十匁か六十匁の間であった。二百二両というのは、これを銀に換算すると天明の七年の相場で一両が五十七匁であるから、十一貫五百十四匁になる。即ち一俵がおよそ百十五匁余になる、一石がおよそ三百三十匁ばかりに当るので普通の五倍乃至六倍以上に当っている。そういう相場であったので町民どもは一同大に困窮に及んだ。

しかるに町々の米屋らは諸人の苦みをも顧みず、各々米を買い占めた。幕府では、その買占めた家を取調べて封印をつけて勝手に売ることを許さず、伊勢町において五日の間庄屋・名主の切符を以て売渡すべしということにした、幕府が人民保護のつもりで出したこの令はかえってますます売買の道を塞げて、人民を苦めた。飢死せんよりは、その米屋らをやっつけろというので、ついに、暴民の蜂起を見るに至った。騒動は五月十八日に始った。その日、本所扇橋辺、深川六間堀辺で玄米屋・春米屋(つきごめや)を夥しく打こわした。一日を隔てて、二十日に至り、赤坂辺から、山の手、四谷、青山辺の玄米屋・春米屋を残らず打こわし、翌二十一日には、芝金杉辺から、本芝、高輪辺の米屋を残らずたたきつぶし、次に新橋辺から京橋辺、南伝馬町の米屋は申すに及ばず、乾物屋まで打こわし、さらに進んで、日本橋に及んだ。本船町の白子屋仁兵衛という玄米屋の二階には、あとで見たらば大八車が二輌もちこんであったという。夜に入っては、小網町、小舟町から鎌倉河岸に及び、一方には、大伝馬町、油町、馬喰町辺から御蔵前の蔵宿残らず打こわし、また神田明神から湯島・本郷辺にも及んだ。二十二日までに打こわされたという処は、あらまし、左の通りであった。

日本橋、中橋、京橋辺、新橋、尾張町、霊岸島、亀島、本所、深川、本石町、白銀町、堺町、元大坂町、難波町、和泉町、高砂町、乗物町、長谷川町、橘町、富沢町、両国近辺、横山町、小伝馬町、大門通、橋本町、柳原、浅草馬道、山の宿、山谷、坂本、箕輪、千住、駒込、巣鴨、小石川、牛込、大久保、市ケ谷、麹町、麻布、白銀、三田通、芝、築地、鉄砲洲、八町堀、新川新堀、茅場町

すべて町続の所で、玄米屋・春米屋は、一軒も残らず破壊せられた。『一語一言』にはその米屋の名前がくわしくしるしてある。今度の災を免れたのは、ただ元飯田町ばかりだという。これは、士屋敷(さむらいやしき)が中に交りている上に、屋敷屋敷から手廻しをして、人を配置して、警戒していたからである。千住の伊勢尾長兵衛という家があったが、前年大水の時、日本堤の上に米を出し臼をならべて、つかせ、多くの人を救うた事があるので、暴民らは、この家は前年人を救うた家だからこわすのはよせよという事で、災を免れたという。暴民の数はおよそ二十四組で総計五千人ばかりで鳶の者というふうのものはなくて、皆奉公人或は浪人等の普通のなりのものであった。その人数の中に、十七、八とも見ゆる美少年が一人おって、飛鳥の如くかけめぐり、これが先に立って指揮をしながら、金剛力士の如き大力で、大八車を以て戸をつき破り、或は土蔵造の金網を片手に引破った様子は、目ざましいものであったという。騒動がしずまってから、この少年は何処へいったか、何国の誰という事を知るものがなかったというので、或は暴神の顕われましたのだろうなんかという人もあった。その打潰し方は、米、大豆などは途中へ打散して山のように積出しても少しも盗取らず、家財道具は障子屏風等もひき出して、やぶりちらし、小袖、帳面等もやぶりすて、火の元には念を入れていた。酒屋だとか、または、菓子屋などは、酒とか菓子とかを振舞って、無難に通ったのもある。酒食は貪(むさぼ)ったが、盗は決してしなかった。もし道路に散ったものを取って逃る者があったらは打毀し連はこれを取返して、打擲して、取ったものは、引破り、捨てて置く事は、町火消の掟によく似ていたという。幕府においては、町奉行、作事奉行、勘定奉行、寺社奉行らを召集して、老中らと評議に及び、俄かに出兵に決し先手方を出張せしめて六組に分って巡視し、ついでまた十組に増し、もし手に余る場合には、切捨にすべしと命じた。見付見付では、棒突(ぼうつき)六人に小頭を添えて、夜は高灯燈で張番した。戒厳令が布かれた有様であった。世間では「これ式の儀に、天下の御門番高張にて警固致され侯には及び申すまじく」という批評があった。かようにしてようよう暴動は治まったのである。二十四日に至り、幕府は廉価を以て米、雑穀を売り出して、窮民の食を給し、また金二万両、米六万俵を出して賑救した。この騒動は実に「江戸開発以来未曾有の変事地妖」であった。「却て書付咄しにいたし候は大忩(そう)成るものに御座候処、この度の儀はこの方にてさえ咄に承り候より見候者の方大に驚き入り、中々三ケ一も認め取兼ね候、誠に乱世同様に御座候」といわれた。」(辻善之助『田沼時代』)

「翌年天明七丁未五月、玄米両に二斗五升、麦八戸、大豆六斗。同月十日頃、白米百文に付三合五勺、豆七合。同廿八日頃、百文に付三合。御蔵米三十五石に金二百五両、一両に一斗七升、銭は一両に五貫二百文。ここに至り米穀動かず、米屋ども江戸中戸を閉ざす。同月廿の朝、雑人ども赤坂御門外なる米屋を打毀す。同日同刻京橋伝馬町三丁目万屋佐兵衛、万佐とて聞えたる米問屋を打毀す。此時おのれ十九歳、毀したる跡を見たるに、破りたる米俵家の前に散乱し、米ここかしこに山をなす。その中に引破りたる色々の染小袖、帳面の類、破りたる金屏風、毀したる障子、唐紙、大家なりしに内はすくやうに残りなく打こわしけり。後に聞けば、初めは十四五人なりしに、追々加勢にて百人ばかりとぞ。同夜中、小網町、伊勢町、小船町、神田内外、蔵前、浅草辺、千住、本郷、市ケ谷、四ツ谷、同夜より翌廿二日に至りて暁まで、諸方の蜂起、米屋のみにあらずとも富む商人には手を下せり。然れども官令寂として声なし。廿二日午の刻、町奉行出馬。並に御手先方十人捕へ方の命あり。又竹槍御免、死骸訴へに及ばざるの令、市中に下りし故、木戸木戸を締切り、相議して相言葉をつくり、互に加勢の約なし、拍子木をしらせとす。ここに至りて蜂起もまた寂として声なし。江戸開発以来未だ曾てあらざる変事地妖と謂ふべしと諸人言ひけり」(「蜘蛛の糸巻」)。
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2015年2月28日土曜日

1787年(天明7年)4月7日~5月16日 ベートーヴェン、ウィーン到着 フランスの財務長官カロンヌ罷免(後任はブリエンヌ) 家斉(15歳)の11代将軍宣下 モーツアルト弦楽五重奏曲第2、3番(「モーツアルトのかなしさは疾走する」小林秀雄) 大坂に天明の打壊し  【モーツアルト31歳】

カワヅザクラ 2015-02-27 北の丸公園
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1787年(天明7年)
4月7日
・ベートーヴェン(17)、ウィーン到着。
20日、母重体の報せを受けボンへ向かう。
25日ミュンヘン着。

ベートーヴェンのこの2週間の滞在中に、おそらくモーツアルトの住居<フィガロハウス>で2人は会ったものと推測される。
オットー・ヤーン『モーツアルト伝』が伝えるその様子によると・・・
ウィーンにやってきたベートーヴェンはモーツァルトに紹介され、彼に促されてなにかを弾いた。ところがモーツァルトはそれが暗記でもして覚えた披露用の曲と思って、かなり冷淡なほめかたをした。それに気づいたベートーヴェンは、モーツアルトに乞うて即興用の主題を一つ出してくれるように言い、興が乗る時いつもそうだったように素晴らしい弾奏をしたが、とりわけ自分が尊敬してやまない巨匠の前だっただけに、それだけいっそう熱がこもるのであった。こうした没頭ぶりを見たモーツアルトは大いに注意をそそられ、かつ強い関心を抱いて、控えの間に坐っている友人たちのところに足音をしのばせて行き、声をはずませて言った。「彼に注目していたまえ、いつか世間をさわがせることだろう!」
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4月8日
・フランス、財務総監(長官)カロンヌ罷免。
2月22日、特権身分への課税(特権身分の免税を廃止して課税の平等を実現)を求める財政改革案、名士会で否決。
後任は、王妃が指名するトゥールーズ大司教ロメニ・ドゥ・ブリエンヌ(のち枢機卿)。

ブリエンヌの改革案:
当座の破産回避のため名士会・高等法院より終身年金6700万リーヴル借入承認を得る。ブリエンヌの改革案はカロンヌの提案と同一路線にあり更に一貫性をもつもの。
①特権階級・ブルジョア階級の団結を破るため、第3身分が貴族・僧侶身分と同数の代表者を持つ地方議会創設。
②新教徒に公民権を与え、賦役を金納制にかえる。
③貴族・僧侶への不動産課税を主張 ⇒ 名士会の反撥

ラファイェットは、ブリエンヌ登用は危機解決に役立たないと考え、1614年以来開かれていない全国三部会召集を要求。
一方、名士たちは、カロンヌ案を基本的に踏襲するブリエンヌの改革案に反対し、ラファイエットの提案を繰り返し、「国民の真の代表 - すなわち全国三部会 ー のみ」が新税に同意する権利を持つ、と宣言。
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4月15日
・徳川家斉(15)、第11代征夷大将軍に任ぜられる。
世子家斉が家治の後を継いだのは前年(天明6年)11月1日で、この日は将軍宣下の式。
家斉は田沼意次に擁立されており、自分のために暗殺されたとの噂のある家基および「心願」を果たせなかった意次のたたりを恐れ、のちに壮麗な感応寺を建立して家基の霊をまつり、また意次にはその二男意正(おきまさ)を幕閣に復帰させることで、それぞれ償いを果たす。
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4月19日
・モーツアルト、弦楽五重奏曲第2番ハ長調 (K515)作曲。モーツアルトの器楽曲中で最大規模(1149小節)。
(14年前の第1番K.174の後、突然3曲の弦楽五重奏曲K.515、516、406 を相次いで作り予約販売計画。パート譜が18フローリアンという新聞広告が出るが、予約者はほとんどなく、出版を2年後に延ばす広告を出す。 結局、K.515は1789年、K.516は1790年、K.406は1792年にアルタリア社から出版)
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4月24日
・モーツアルト、市内から郊外ラント通り224番地に転居。
二重カノン「ああ!私たちの人生はあんまり短くって」(K.228(515b))を作曲。
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5月1日
・田沼派の御側申次横田準松、3千石加増され合計9,500石となる。
「日増其勢ひ強き事、飛島も落る気色、諸人羨思ふ」(大田南畝「一話一言補遺」)。
しかし、この月29日、御側申次を解任される。
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5月10日
・~12日、大坂に天明の打壊し始まる。町人10余人、問屋200余打壊す。同時に、京都・奈良・伏見・堺・山田・甲府・駿河・広島、他中国・九州に広がる。

天明6年7月の大水害以来、米価・諸物価は騰貴の一途をたどり、翌7年5月、京坂では平素、米1石50-60匁で買えたものが250匁、江戸では1両に1石以上もあったのが1斗6、7升に暴騰した。小売りも江戸では銭100文で1升以上も買えたのが、せいぜい3合どまりにすぎなくなった。燈油も1合16文という高値をよび、味噌・塩・豆腐・紙・綿・大豆・麦・乾物類・野菜類などの必需品も軒なみにはねあがった。

家産のある町人でも麦を食べ、粥をすする状態のなかで、まっさきに困窮のどん底につき落とされたのは極貧層の人々。飢えに迫られて両国橋の上から6歳と3歳の子を縄でしぼって水中に落とし、あとを追って親もとびこんだというような悲惨な親子心中の話も、あちこちできかれた。

貧民たちは連日、町奉行所に押しかけ、商人の隠匿米を摘発し、安売りするように要求した。さらに、消極的な家持・家主らをつきあげて町名主とともに奉行所に訴願させた。
ところが月番の北町奉行曲淵(まがりぶち)甲斐守景漸(かげつぐ)は、かつては名奉行の名をとった能吏であったが、事態の急迫にすっかり動転し、うっかり「町人の分際で米ばかりを食べるのは不心得だ。食べられるものはなんでも食べよ」と放言し、猫でも食えといわぬばかりの態度をとったから、民衆はいきりたった。

一方、大坂でも安永9年(1780)以来の連続的な凶作や、天明6年春の畿内・中国・九州辺の洪水などによって米の入荷が減少し、米価・諸物価は騰貴した。
これらに加えて同年12月、7年6月の2回にわたって御用金が課せられたうえ、さらに二朱判の通用停止の噂も流れて人心がひどく動揺した。
商人の市場操作もはたらいて、7年4月末の大坂米在庫量は42万4千俵と、正月の半分以下に激減し、このままだと7月にならないうちに、大坂市中には一粒の米もなくなるだろうといわれた。

こうした世情のうちに、ついに5月11日夜、天満伊勢町の茶屋吉右衛門の屋敷が打ち毀されたのを発端として、翌日には市中各所に米騒動がおこり、被害者は200軒に達した。
大坂だけではなく、同月中に長崎・博多・広島・堺・奈良・福井・甲府・駿府など、記録に明らかなだけでも全国32都市にあいついで打ち毀しがおこった。
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5月10日
・イギリス議会、総督在任中の苛政と腐敗の責任を問う元ベンガル総督へースティングス弾劾動議が成立。
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5月16日
・モーツアルト、弦楽五重奏曲第3番ト短調 (K516)。
第1楽章第1主題「走る悲しみ」(アンリ・ゲオン「モーツアルトとの散歩」)。
「モーツアルトのかなしさは疾走する」(小林秀雄「モオツアルト」)。
「心をえぐる深い悲しみの表現」(井上太郎)。
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2015年2月21日土曜日

1787年(天明7年)3月1日~4月4日 モーツアルトの父への最後の手紙 「死は(・・・)、ぼくたちの生の真の最終目的でありますから、ぼくは、この人間の真実で最良の友と、数年来、非常に親しくなっています。そのため、その姿は、ぼくにとって、ただ単に恐ろしいものでないばかりか、まったく心を安らかにし、慰めてくれるものなのです! そしてぼくは、神がぼくに、死をぼくたちの真の至福の鍵として知らしめ給う機会(・・・)をもつ幸せを与えて下さったことに感謝しています。」 【モーツアルト31歳】

カワヅザクラ 2015-02-20 北の丸公園
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1787年(天明7年)
3月
・モーツアルト父レオポルト、病気になる。
モーツアルト、ダ・ポンテから「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)の台本の一部を受け取る。5月中旬には台本を全部書き終わる。

モーツアルトはプラハから新しいオペラの作曲を依頼され、『フィガロ』の作者ダ・ポンテに歌劇創作への協力を依頼していた。

ダ・ポンテ『回想録』によれば・・・
ダ・ボンテは皇帝ヨーゼフ2世から、モーツァルト、サリエーリ、マルティーン・イ・ソレールのために台本を書くよう勧められ、3つの台本を同時に書くはめになった。
「この三人の作曲家は同時に台本を求めにやってきて、その機会〔オペラとしての前二作の失敗を回復すること〕を私に提供してくれた。私は彼ら三人が同じように好きだったし、高くも買っていた。彼らの助力で自分の失敗から立ち直ろうと思っていた。三つの芝居を同時に作ることで彼らを満足させるしか手だてがないのがなんとなく分かっていた。私は二つ台本を書くのに成功したばかりだったから、この企ては私の力を超えるものとは思えなかった。サリエーリが私に求めていたのはオリジナルな作品ではなかったのだ。彼はパリで『タラール』のオペラの曲を書いていたので、この曲をイタリア語の歌詞に合わせるのを望んでいたのである。だから彼が必要としていたのは自由な翻案だったのである。モーツアルトとマルティーンについては、彼らは題材の選択を私にまかせてくれた。私は『ドン・ジョヴァンニ』を前者に予定したが、彼はこれにすっかり心を奪われてしまった。(中略)三つの題材が決まったので、皇帝にお目通りし、三つ一緒にやってみるつもりだと申し上げた。彼は叫んだ。『失敗するぞ』『あるいはそうかもしれません! でもやってみます。私はモーツァルトのためにダンテの『地獄篇』を何ページか読んで書いてみましょう。そうすれば私のインスピレーションが調子づくでしょうから。』私は夜の十二時頃、仕事机に向かって坐った。上等なトカイの葡萄酒が一壜右手にあり、左手には文具箱が、真正面にはセビリアの煙草がいっぱいの煙草入れがあった。」

ダ・ボンテの住んでいる家には16歳の綺麗な娘が住んでいて、彼はその娘を父親のように愛していた。彼女は彼の用事をなにくれとなしに果たしてくれていた。その娘の母親が共にダ・ボンテの仕事に協力している。

「こうして、トカイの葡萄酒とセビリアの煙草、机の上の呼び鈴と一番若いミューズともみまごう綺麗なドイツ娘に取りかこまれて、私は最初の晩モーツァルトのために『ドン・ジョヴァンニ』の最初の二つの場面と、『ディアーナの樹』(マルティーン・イ・ソレールのための台本)の二幕、それに『タラール』の第一幕の半分以上を書いたのであった。(中略)朝になって、私はこの仕事を三人の作曲家たちのところに持っていったが、彼らは信じられないといった様子だった。二ヵ月のうちに、『ドン・ジョブァンニ』と『ディアーナの樹』は仕上がり、『アクスール』〔『タラール』の改題〕のオペラは三分の一以上作曲が終っていた。」

・この年の春のモーツアルトの作品には短調が多い。
『クラヴィーアのためのロンド イ短調』(K511)、『弦楽五重奏曲 ト短調』(K516)。『セレナード ハ短調』(K388=K6・384a)を弦楽五重奏用に編曲した作品(K406=K6・516b)もこの頃か翌1788年の作品と思われる。
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・イギリス、アーサー・ウェルズリー、長兄リチャードの計らいで第73歩兵連隊に入隊。12月、コネで中尉昇進 。
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3月4日
・頃、モーツアルト、K.509a (232) カノン「親愛なるフライシュテットラー君」(ト長調)作曲。ガウリマウリとは弟子フライシュテットラーにつけたあだ名、ウィーン方言で「馬の顔」の意味。
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3月7日
・ウィーン、ケルントナートール劇場でのヴァルブルガ・ヴィルマン兄妹の音楽会。モーツァルトはこの女弟子のため「クラヴィーア協奏曲 ハ長調(K503)を提供。
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3月11日
・モーツアルト、クラヴィーアのためのロンド イ短調(K.511)を作曲。ホフマイスター社から出版。明るく軽やかというロンドの性格に反してアンダンテの主題が何かの嘆きを代弁しているかのよう。 作曲の動機は不明(父の死を予感しているのか。親友ハッツフェルト伯爵の死(1月30日31歳)を悼んでいるのか)。
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3月11日
・イギリス、のちのネルソン提督、フランシス・ニズベットと結婚。媒酌人ウイリアム・ヘンリー王子(後のウイリアム4世)。継子ジョサイアは後に海軍入りし、ネルソンの部下となる。
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3月14日
・ウィーン、ケルントナートール劇場でオーボエ奏者フリードリヒ・ラムの演奏会。モーツァルトの交響曲1曲が披露され、かつアロイージア・ランゲによって演奏会用アリアが歌われている。
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3月16日
・ドイツ、科学者オーム、誕生。
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3月16日
・この日付けレオポルトのナンネルル宛て手紙
「お前の弟のことでは、あれがもうウィーンに帰ったことを聞いた。(中略)それにあれがプラハで千フロリーン(とあの人たちは言っていた)の収入を得たこと、またあれの新しい子供レーオポルドゥルが死んだことも聞いたよ。それに、もう書いたように、あれが英国に旅行したがっていることもね。ただ、あれのお弟子〔アットウッド〕が前もってロンドンでなにか確実なことを、つまりオペラを一曲書く契約とか、予約演奏会とか、そういったものを取り決める必要があることもね。同じことはストレース夫人もあれに吹き込んだらしい。しかもみんなも、またあの人たちも、あのお弟子も初めは彼らといっしょに英国に行く考えをあれに起こさせたようだ。でも、私が父親の立場で、夏の旅行ではなんにも得るものがないこと、あまり適当でない時期に英国に着いてしまうこと、それに、この旅行を企てるには少なくとも二千フロリーンは財布に入れておかなければいけないこと、それにとどのつまり、ロンドンで契約といった確実なものを前もってもっていなければ、できるだけうまくやらなきゃいけないし、最初は少なくともしっかりと窮乏に耐えなくちゃいけないことをあれに書いたので、 - あれはそうする勇気をなくしたのだろう。」

このあとナンネルル宛の手紙は5月10日付まで欠けている。この間、レオポルトが病気になり、ナンネルルが看病のため、ザルツブルクにやってきていた。
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3月21日
・イグナーツ・ルートヴィッヒ・フィッシャー(「後宮からの誘拐」(K.384)の初演歌手)の音楽会。モーツアルト、レチタティーヴォとアリア<アウカンドロよ、私は告白しよう/どこから来たのか、私は知らない> (K512)。
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3月23日
・モーツアルト、フォン・ジャカンのために、アリア「お前と別れる今、おお娘よ」(K.513)作曲。
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3月25日
・頃、ベートーヴェン(17)、初めてのウィーン旅行
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4月
・春、選挙により、アムステルダムとロッテルダムで、愛国派が市議会多数派となる。総督は愛国派と戦う為の援助をプロイセンとイギリスに求める。プロイセンはブラウンシュヴァイク公麾下の小部隊を送る。イギリスは艦隊を送って、オランダ沿岸を游弋させる。
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4月3日
・イギリス下院、初代ベンガル総督ウォーレン・へースティングス(55)に対する弾劾裁判実施決定。
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4月4日
・モーツアルトよりザルツブルクで病床にある父へ最後の手紙。

「今、ぼくをたいへん悲しませる知らせを聞きました。 - この前の手紙で、あなたがとても元気でいらっしゃるのを想像できていましただけに、いっそう悲しいことです。 - ほんとにご病気でいらっしゃるのですね! あなたご自身から安心できるお知らせをどれほど待ち望んでいるかは申し上げるまでもありません。ぼくは、あらゆることの最悪の状態を考える習慣をもつようになってしまいましたが、それでも安心できるお手紙を望んでおります。 - 死は(正しく考えますれば)、ぼくたちの生の真の最終目的でありますから、ぼくは、この人間の真実で最良の友と、数年来、非常に親しくなっています。そのため、その姿は、ぼくにとって、ただ単に恐ろしいものでないばかりか、まったく心を安らかにし、慰めてくれるものなのです! そしてぼくは、神がぼくに、死をぼくたちの真の至福の鍵として知らしめ給う機会(お分かりのことと思います)をもつ幸せを与えて下さったことに感謝しています。- ぼくは、毎晩、ベッドに就く時、もしかすると、ぼくは(まだとても若いのですが)、明日にはもう生きてはいないのではないかと考えるのです。 - それでも、知人の誰もが、ぼくと交際する時、無愛想だったり、悲しげだったりすると言えるものは、一人もいないでしょう。 - この幸福を、ぼくは毎日、創造主に感謝し、そして心からぼくの隣人たちのいずれにもそれを祈っているのです。- ぼくは手紙(ストレースが荷物に入れたものです)で、この点についてはもう(ぼくの親友のフォン・ハッッフェルト伯爵の悲しい死去に際して)、自分の考え方をあなたにご説明いたしました。彼はぼくと同じでやっと三十一歳になったところでした。 - ぼくは、彼を可哀そうと思っているのでほありません - でも、自分と、それに彼をぼく同様とてもよく識っていた人たちみんながほんとに心から哀れなのです。 - ぼくがこの手紙を書いているあいだにも、あなたが快方に向かわれるようにぼくは望み、願っています。でも万事推察するところあなたは決してよくはなっておられないことでしょうから、あなたがそれをお隠しにはならず、ぼくにほんとの真実をお書き下さるかそれとも書かせて下さるかなきって下ざい。そうすればぼくはできるだけ早くあなたの腕に抱かれることができましょう。ぼくは ー ぼくたちにとって神聖なるものすべてにかけて、あなたにお誓いいたします。 - でも、ぼくはすぐにもあなたから慰めになるお手紙がいただけるよう望んでいますし、このこころよい希望のうちに、妻とカールともどもあなたの御手に千回キスいたします。敬具。
                                 あなたの従順な息子W・A・モーツァルト。
                                 ウィーンにて、一七八七年四月四日。」

ウィーンでモーツァルトの友となったアウグスト・クレメンス・ルートヴィヒ・マリーア・フォン・ハッッフェルト伯爵は、1月30日、デュッセルドルフで死去し、モーツァルトは自分の悲しい思いを父親宛てに手紙を認め、英国に帰る音楽家一家に託していた。

親友の死に触発されたモーツアルトの死をめぐる想念は、迫ってくる父親の死を捉えていた。
彼のその死の想念は、モーツァルトの死後、彼の蔵書の中に見出された18世紀の著名な哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの主著『パイドーンまたは魂の不死性について』(1767年)の主導動機と強いつながりをみせている。

その近代的<ソクラテス対話篇>の中で、メンデルスゾーンは、シミアスを相手にソクラテスに語らせる。
「肉体が魂から離れるのを、人は死と名づけている。」
「そのとおりです。」
「英知を真に愛するものは、したがって、考え及びうるあらゆる努力を傾けて、できるかぎり、みずからを死に近づけ、死ぬことを学ぶべきではないか。」
「そのように思われます。」
(中略)
「したがって、シミアスよ、真の哲人にとっては、死は決して恐ろしいものではなく、いつでもよろこんで迎えるべきものなのだ。 - 肉体とともにあることは、彼らにとって、どんな場合でも、煩わしいものなのだ。というのは、彼らが自分たちの存在の其の最終目的を満たそうとするなら、彼らは魂を肉体から分かつことを求め、そしていわば自己自身のうちに魂を集めねばならぬ。死は、かかる離脱であり、肉体の協同からの長い間望まれた解放なのだ。だから、死が近づいてくることに怯え、それを嘆き悲しむことはなんと不合理なことだろう! むしろ、心を安らげ、嬉々として、われわれは、自分たちが愛する者を抱擁することのできる希望があるところへと旅をしなければならぬのだ。」
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2015年2月14日土曜日

1787年(天明7年)1月~2月 モーツアルト夫妻のプラハ旅行(『フィガロ』の成功) 松平定信老中登用の画策失敗 フランスで第1回名士会召集(財政危機打開のため) 【モーツアルト31歳】

カワヅザクラ 2015-02-13 北の丸公園
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1787年(天明7年)
1月
・墺領フランドル(ベルギー)で反乱勃発。
オーストリア領フランドル(ベルギー)で、皇帝ヨーゼフ2世は、行政・司法改革(同業組合廃止、多くの修道院閉鎖)を行う。住民は反発するが、反対派は分裂。弁護士ファン・デル・ノート率いる「現状維持派」はアンシアンレジーム存続を支持し、フォンクを頭とする「愛国派」は民主主義的改革とベルギー独立を望む。
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月初め
・モーツアルト(31)、2つの教会用歌曲「おお、神の子羊/エジプトよりイスラエルの民が」(K.343(336c))作曲。
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1月8日
・モーツアルト夫妻、シュタードラーと共にウィーン出発。プラハでの「フィガロの結婚」(K.492)の成功により、「識者愛好家協会」からプラハに招待。
モーツアルト夫妻は人生で最も幸せであったろう1ヶ月をプラハで過ごす。

前年12月、「フィガロ」が登場して以来、プラハは「フィガロ」一色となる。空前の大当たりをなした、興行師バスクワーレ・ボンディーニは経営破綻を切り抜けたという。

8日、ウィーン出立の前に、モーツァルトはエートムント・ヴェーバーの記念帳に
「勤勉であられよ - 怠惰をのがれたまえ ー そしてあなたを心より愛するあなたの従兄弟を決して忘れることなかれ。
                                   ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト
                                   ウィーン、一七八七年一月八日
                                   朝五時、旅立ちを前に」
と記入する。
エートムント・ヴェーバーは、モーツァルトの妻コンスタンツェの父フリードリーン・ヴェーバーの弟フランツ・アントーン・ヴェーバーの息子で、兄フリッツ・フリードリーンとともに、ヨーゼフ・ハイドンの弟子。父フランツ・アントーンは、2人の息子とともに1784年ウィーンに来て、翌1785年、歌手ゲノフェーファ・プレナー(21歳)と結婚。この2人の間に生まれたのが、カール・マリーア・フォン・ヴェーバー。
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1月11日
・昼、プラハ到着。「ツム・デン・ドライ・ゴルデネン・レーヴェン(三金獅子館)」に宿をとる。 トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵邸で伯爵家の楽師たちによる奏楽のもてなしを受ける。
午後6時、神学校寄宿舎で行われた、クローネンブルク男爵が主催する舞踏会に行く。

「友よ・・まるで君がそこにいるようだったね - 君が美しい未婚、既婚の御婦人方全部のあとを - 追いかけるって思ってるのかね? - いいや、びっこをひいてやっとこさついて行くのをまのあたりにする思いだったよ! - ぼくは踊らなかったし、御婦人方にいちゃつきもしなかった。第一にぼくはほんとうに疲れていたし、それにだいたい生まれつき気が弱いからね。- でも、ぼくはこうした人たちがみんな、正真正銘のコントルダンスやドイツ舞曲に変身しちゃったぼくのフィガロの曲で、ほんとに心から満足しきって跳びはねていたのを、まったく嬉しくなって眺めていたのだ。 - 当地じゃ、フィガロの話でもちきりだし、弾くもの、吹くもの、歌うもの、口笛吹くもの、すべてフィガロだけさ。オペラを観に行くといやあ、いつもフィガロっきり、いつまでもフィガロさ。確かにぼくにとっちゃ大きな名誉さ。」(15日付け友人ジャカン宛ての手紙)
疲れきって伯爵邸に帰ったモーツアルトは、そのままぐっすり眠り込み、長い時間目を覚まさなかった。
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1月11日
・[露暦1786年12月月31日]フランス・ロシア、通商条約締結。
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1月12日
・モーツアルト、 トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵邸で奏楽をする。伯爵邸に宿を移す。彼の部屋には<とても素晴らしいピアノフォルテ>が運び込まれた。その部屋で皆で演奏を楽しむ。それは<ちょっとした四重奏曲(クラヴィーア四重奏曲変ホ長調(K493))>と『リボンの三重唱』。

「お前の弟は、今、妻といっしょに、もうプラハにいるはずだ。前の月曜日にそちらに向けて出発すると私に書いてきたからだ。あれのオペラ『フィガロの結婚』はプラハで上演されて大喝采を浴びたので、オーケストラの人たちや識者愛好家協会が招待状を書き、あれのことを歌った詩ともども、あれに送ってきたのだ。私はそれをお前の弟から、またシュタールヘムベルク伯爵はプラハから受け取った。次の郵便日にそれをお前たちに送ってあげよう。ドゥーシェク夫人はベルリーンに行っています。それにお前の弟が英国に旅行するという話は、まだずっとヴィーンからも、プラハからも、またミュンヒェンからも確かめられるのだ」(1月12日付けレオポルトのナンネルル宛て手紙)。
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1月13日
・モーツアルト、カール・ラファエル・ウンガー師の案内で、「クレメンティーヌム」の王立図書館(現国立図書館)と神学校を訪問。
夜、パイジェッロのオペラ「鷹揚な競争」を観に行く。

「昨夕、われらの偉大にして親愛なる作曲家モーツァルト氏がヴィーンより当地に着いた。われわれが信じて疑わないのは、ボンディーニ氏がこの人物に敬意を表して、彼の楽才が生んだ人気ある作品『フィガロの結婚』を上演し、われらの名声嘖々(さくさく)たるオーケストラがひき続きその技倆の新たな証左を必ずやもたらすだろうことと、またプラハの鑑識眼豊かな住民諸氏が、この作品をすでにくりかえし聴いているにもかかわらず、まことに多数立ち会われることである。またモーツァルト氏の演奏も、なお讃嘆し得ればと願うものである。」(プラハの新聞報道)
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1月17日
・モーツアルト夫妻列席、「フィがロの結婚」上演。プラハ国立劇場
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1月19日
・プラハ、モーツアルト自身の音楽会。
「プラハ交響曲(第38番)」ニ長調K504)披露(初演)。国立劇場。他に「フィガロ」の愛好曲「もう飛ぶまいぞ」の主題による12の変奏曲など即興曲3曲が演奏。

「十九日金曜日にモーツァルト氏は当地国立劇場においてフォルテピアノで演奏会を催した。この偉大な芸術家から期待されるものはすべて完全に満たされたものである。昨日、歌劇『フィガロ』、彼の天才が創造したこの作品が彼自身によって指揮された。」(『プラハ中央郵便局時報』1月23日号)
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1月22日
・モーツアルト、「フィがロ」再演。自ら指揮。

モーツァルトのプラハ滞在の様子。
モーツァルトの初期の伝記作者のフランツ・クサーヴァー・ニーメチェク『宮廷楽長ヴォルフガング・ゴットリープ・モーツァルトの生涯』(1798)。
「彼は一七八七年二月にプラハへとやってきた。到着した日に『フィガロ』が上演され、モーツァルトがそこに現われた。すぐに、平土間席に彼がいるという噂がひろまり、序曲(シンフォニーア)が終ると観衆一同は彼に拍手喝采を送り、歓迎の意を表したのだった。そのあと、みんなの要望に応じて、オペラ劇場で催された音楽会で、彼はピアノフォルテを聴かせたものであった。この機会ほど劇場が満員になったことはかつてなかった。彼の神技のような演奏ほどに強烈で満場一致の恍惚感が惹き起こされたことはかつて一度もなかった。実際のところ、非凡な作品、あるいは非凡な演奏のいずれをいっそう強く感嘆すべきなのか、私たちには分からないのであった。両者は一体となって、私たちの魂に全体的印象を与えてくれたが、その印象は甘美な魔術にも比せられるものであった! だが、この状態は、モーツァルトが音楽会の最後に、一人ピアノフォルテに向かって半時間以上も即興演奏を行ない、私たちの恍惚たる気分を絶頂にもたらした時に、高い喜びにあふれた喝采となったのだ。そして、実際にこの即興演奏は、およそクラヴィーア演奏について想像し得るすべてを凌駕したものである。なぜなら最高度の作曲技術が、この上なく完壁な演奏の熟練と一体となったからである。この音楽会がプラハの人たちにとって類い稀なものだったと同様、モーツァルトはこの日を彼の生涯のもっとも美しい日の一つに数えたものであった。」
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1月30日
・モーツアルトの友人ハッツフェルト伯爵の死。
昨年知り合ってすぐ「イドメネオ」K.366のためのシェーナ(劇唱)「もういいの、私は全てを聞いた」K.490のヴァイオリン独奏パートをかき、3月13日のアウエルスベルク侯爵邸での上演に使う。後、「ハイドン四重奏曲」を演奏した親しい仲。
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2月1日
・一橋治済・御三家、大奥の年寄大崎をに尾張江戸藩邸へ呼ぶ。松平定信の老中就任に関する事情。
26日、幕閣は定信の老中登用を拒否。
28日、老中より御三家に対し定信の老中就任を正式に拒否する回答。

大奥老女大崎が一橋治済に語る内情。
将軍家斉は、御三家の申し出であることに配慮して定信を登用したい意向だが、老中水野忠友が反対。大奥年寄の高丘と滝川は、将軍から意見を求められ、9代将軍家重の代に将軍縁者を幕政に参与させてはならないという上意があり、その点で定信は、将軍家斉とは同族であり、そのうえ定信の実妹種姫が10代将軍家治の養女となっていて、家斉とは姉弟の関係にある「将軍の縁者」であるので、定信の老中登用は家重の上意に反することになると答える。

老中水野忠友はじめ幕閣中枢や将軍側近役人は、いずれも田沼派が占める。
そのうえ田沼意次自身、老中解任後も雁間詰として、なお中央政界に隠然たる発言権を有す。
両派の対立は続き、正規の幕閣による政治に対し、御三家・御三卿による田沼政治の匡正という政治の二元的緊張関係が続く。
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2月6日
・モーツアルト、四つのドイツ舞曲 (K509)。プラハ滞在中、ヨハン・パハタ伯爵での舞踏会のため。招かれてすぐ作曲を求められ、1時間で仕上げる。
8日、モーツアルト夫妻、プラハ出発。
12日、ウィーン到着。

プラハでの「フィガロの結婚」の大ヒット。招かれてプラハを訪問したモーツァルトは感激して帰って来るがウィーンは冷たい。
モーツァルトはプラハに1787~91年、4回訪問。 彼の死(1791年12月5日)に際し、真っ先に盛大な追悼ミサをあげた(12月14日)のはプラハの人々)。
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2月12日
・フランス、ミシェル・ネー(後、ナポレオンの元帥)、法律事務所勤めをやめ、国王の軍隊のユサール連隊に志願し兵卒として入隊。
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2月13日
・この頃、モーツアルトの父レオボルトは謝肉祭のミュンヘンに滞在している。
この日付けナンネルル宛ての手紙
「今までお前の弟の手紙は一通も受け取っていません。だからあれがどこにいるのか分からない」
「この旅行中、私の健康はいつもより悪くはなく、むしろ私はこうして空気が変わったり、動いたりすることがずっと為になるようにと望んでいます。だって、そもそも私の齢も六十七歳が終って六十八歳に入るところだから、年取った私の体に大きな変化があっても、これは当り前だからね! 老人はもう決して若くほならないのだ!」
この月23日、ザルツブルクに戻る。
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2月13日
・フランス、シャルル・ヴェルジェンヌ(69)、没。モンモランが外相となる。
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2月22日
・フランス、第1回名士会召集。ヴェルサイユ、国王の諮問機関。
計144(親王7、公爵・廷臣・元帥36、最高法院長・検事長33、司教11、国務顧問官12、ペイ・デタ(議会州)代表12、大都市市長・助役25など)。
カロンヌ提案の新税反対の姿勢を示す。議長プロヴァンス伯(ルイ16世弟、後のルイ18世)。

1778年、アメリカ独立戦争にフランスが巻き込まれて以降、国家財政は絶望的状態にあり、この月には、国庫は殆ど空になる。
この財政危機打開の為、明白な目的なもって名士会が召集される。
財務総監カロンヌは、印紙税拡大と土地財産に対する新たな一般税などを提案。
しかし、彼ら自身が苦情と要求をもつ名士たちは、協力を断る。

検閲にもかかわらずフランスで出版されたパンフレットやカリカチュア、オランダやイギリスで印刷されたフランス語新聞は、政府の言うなりにしかなりえないこの議会を揶揄。名士たちは、痛いところを突かれて、自分たちの独立性を示すためにカロンヌ提案の改革案を退ける。

ミラボー「投機を告発す」。
カロンヌが国家資金で取引所で投機を行ったとして非難。また、カロンヌは、ディスパニャック僧正が東インド会社に対して行った投機事件にも関与。
4月8日カロンヌ罷免(パリ高等法院による浪費審問が命じられイギリスに逃亡) ⇒ ブリエンヌ登用。
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2月23日
・ウィーン、ナンシー・ストレース(21)の告別演奏会。モーツアルトが前年12月26日(or27日)のレチタティーヴォとアリア『どうしてあなたが忘れられるだろうか - 心配しなくともよいのです、愛する人よ』(K.505)が歌われ、その伴奏を務める。この日の演奏でナンシーは4000フローリンを得る。

それに憤慨したフランツ・クラッターの警告文。「下手な演奏会でなげやりにアリアを2~3曲歌う外国人を争って求め、モーツァルトのような優れた自国の芸術家の演奏会にはまったく収入がない。こんな祖国に何が期待できるのか。 」。
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月末
・ウィーンに滞留していた英国の音楽家たちの一行がザルツブルクに立ち寄り、レオボルトの許を訪れる。
レオボルトは彼らを案内してザルツブルクの市内を巡る。その夜、一行はザルツブルクを出発。

この一行とは、
<ストレース夫人>とその母親。ストレース夫人は訪問の夜にはアリアを3曲歌った。
<ウィーンの歌劇場のテノール歌手オケリー(マイケル・ケリー)>、<彼女のお兄さんのマエストロ、ストラッチ>、<英国少年アットウッド>など。
ナンシー・ストレースとマイケル・ケリーは『フィガロ』の初演歌手。

マイケル・ケリー(1762~1826):
『フィガロ』でバジーリオとドン・クルツィオの両役を受けもった人物で、『フィガロ』初演の反響についての証言を提供している。1783年初めにウィーン宮廷劇場と契約して活躍した。

ストレース夫人の実兄ステファン・ストレース(1762~96):
作曲家、ウィーンでオペラを上演している。

<英国少年アットウッド>=トマス・アットウッド(1765~1838):
ウェールズ公の命により、音楽理論・作曲を学ぶべく外国留学の旅に出て、はじめナポリで2年間勉強し、そのあとウィーンでモーツァルトに就き、1785年8月頃から87年2月まで、モーツァルトの作曲の弟子として勉強した。
彼がモーツァルトから受けたレッスンを克明に記しているのが、現存する『トマス・アットウッドの練習帳』(K6=506a)(大英博物館所蔵)。これはモーツァルトの手になる訂正が加えられている貴重な資料であり、教師としてのモーツァルトをあらわなかたちで示してくれる唯一の資料。
アットウッドはストレース一家と帰郷したあと、オルガニスト、指揮者、作曲家として英国で活躍する。
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2015年2月8日日曜日

1787年(天明7年)1月 本居宣長『秘本玉くしげ』 山東京伝の『通言総籬』 吉田藩の式部事件 口丹波騒動・相模士平治騒動 【モーツアルト31歳】

 北の丸公園 2015-02-06
1787年(天明7年)
この年
・本居宣長『秘本玉くしげ』完成。政治意見書。徳川治貞(紀州)に贈られる。

(例)宣長の一揆観を示す一節(段落を付加する)
「百姓町人、大勢徒党して、強訴濫放する事は、昔は治平の世には、おさおさ承り及ばぬ事也。近世に成りても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり。
これ武士にあづからず、畢竟百姓町人の事なれば、何程の事にもあらず。

 小事なるには、似たれども、小事にあらず、甚大切の事也。いづれも困窮に迫りて、せんかたなきより起るとはいへ共、詮ずる所、上を恐れざるより起れり。下民の上を恐れざるは、乱の本にて、甚容易ならざる事にて、先づ第一、その領主の耻辱、是に過らるはなし。されば、仮令聊の事にもせよ、此筋あらば、其のおこる所の本を、委細に能々吟味して、是非を糺し、下の非あらば、其の張本の僕を、重く刑し給ふべきは、勿論の事、又上の非あらば、其の非を行へる役人を、おもく罰し給ふべき也。

抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず。・・・然るに近年此事の所々に多きは、他国は例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取りはからひもいよいよ非なることも多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。・・・近年たやすく一致し、固まりて此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず、上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也。然りとて、いか程おこらぬようのかねての防ぎ、工夫をなすとも、末をふせぐ計にては止がたかるべし。兎角その因て起る本を直さずばあるべからず。

基本を直すといふは、非理の計ひをやめて、民をいたはる是也。仮令いか程困窮はしても、上の計ひだによろしければ、この事は起るものにあらず」。
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・洒落本
この年刊行の山東京伝の『通言総籬(つうげんそうまがき)』。
京伝は、江戸深川の質屋に生まれた作家。この作品は、半可通の主人公艶二郎が吉原で遊女にあしらわれるようすを描いている。この他、深川、品川、内藤新宿、岡場所などを描いた作品も刊行された。
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・吉田藩、式部事件。
宮野下村(現三間町)の三嶋神社神主土居式部と宮野下町の樽屋與兵衛、困窮農民救済のため強訴を企てるが、密告により投獄、獄死。吉田藩百姓一揆(武左衛門一揆)に繋がる。
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・譜代家持・水呑の百姓化の進行。
鯖江藩領今立郡東俣村は百姓21軒、水呑25軒、譜代家持31軒、道場2軒で村高215石余のほか近村に越石数十石を持っているが、譜代家持の3軒が越石の高を持ち、水呑のうち10軒が高を持つ。
譜代家持は越石3石4斗9升4合、水呑は高10斗が最も多い持高であるが、他方で6升とか9升9合の持高の「百姓」がいる(持高9升9合の百姓は譜代家持1軒と地借1軒を抱えている。
譜代家持・水呑の百姓化が進んでいる状況が窺える。
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・酒造制限令を契機とする口丹波騒動、相模士平治騒動。
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・天明7年(1787)頃の下駄屋甚兵衛の上書に、
「二十年来諸色(物価)高値に相成候儀は、弐朱銀出候てより、西国方金相場、段々下値に相成候、大坂表にて、其己前金壱両に付、六拾匁より七拾二、三匁迄高下御座候処、唯今にては五拾匁五拾五、六匁に相成候」
とある。

金相場は2割以上の下落。物価はそれに反比例して上がる。
田沼は、幕府の財政窮乏を救う一手段として、貨幣をつぎつぎに新鋳していった。しかもそれが、オランダから輸入された銀によっておこなわれた。
この頃、ヨーロッパにおいて銀相場がいちじるしく下落していた。南アメリカにおけるポトシ銀山などの開発が、大量の銀をヨーロッパに送り、金・銀の比価をいちじるしく開かせてていた。
日本だけが鎖国のなかで古い金・銀の比価を維持していた。田沼はそこに着眼した。

(経緯)
明和9年(1772)、幕府は金の代用銀貨である南鐐(なんりよう)二朱銀を鋳造。
近世の貨幣流通市場が、関東の金遣い、関西の銀遣いと二元的な構造であったのに対し、素材が銀貨でありながら金貨の名目を持つ点において、関東・関西のいずれにも通用するという画期的なものであり、同時に金貨が不足していた江戸市場への対応策でもあった。
この貨幣8個で金1両にあたると決められた。この銀貨は、オランダから輸入された銀で新鋳したものであった。これは良質の銀貨であったが、それが流通し始めると、安定していた金相場が変動して、物価の騰貴を促す結果となった。
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・ゲーテ(38)、韻文劇「タウリスのイフィゲーニエ」完成。
ティシュパインとともにナポリヘ。ヴェスヴィオ登山、ポンペイを見、シシリー島へ。植物、鉱物の研究及び採集。戯曲「エグモント」完成。
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・イギリスで初めての鉄製の船が進水。
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・大黒屋光太夫、シベリア本土カムチャッカ半島に渡る。大飢饉に会い3名病死。
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1月
・島津重豪(43)、隠居願いを許される。長男斉宣(15)、後継第16代藩主となる。政務介助、実権は後見人に。
天明6年9月、重豪娘茂姫が嫁いだ一橋豊千代が将軍家茂となり、その遠慮として。
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・儒者大塚孝綽(たかやす)『救時策』
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・士風の廃頽(辻善之助『田沼時代』):段落を付加する

 「天明七(一七八七〕年の正月十五日に、水上美濃守という番頭が出仕したところが、その部屋において小堀河内守の言うことに、明後十七日同役大久保大和守の下屋敷で、芸者寄合を致したいから貴殿亭主を致すようにという。度々そういう事があるので、水上美濃守少々困る、殊に家が余り有福でないので、誠に迷惑であるけれども、自分の先役の方から言われるので仕方なく、承知の旨を挨拶して退出した。

するとその晩に直ぐ水上の処へ何とも言わぬのに、神田佐柄木町の桃川山藤という仕出料理家から、小堀様からの御差図で献立を持って来たから、御納戸役の人に逢いたいという。そこでその納戸役の者が応対して最早夜も遅くなった事であるから明朝来いと言って献立を留めて置いた。そうすると翌十六日の朝五つ時に水上の処へ桃川の手代が来て、返事を伺いに参った。いよいよ翌十七日に宴会を開くというので、献立の通り十分念を入れて致すように申付けた。最も自分の家では手狭であるので、大久保大和守の下屋敷において、寄合のつもりであるから、屋敷の処付が知れ次第申遣わすということで、手付金二両渡して帰してやった。そこで大久保の処へ下屋敷を拝借したいという事を申してやったところが、大久保においては、明日は故障があるというので断わった。よって小堀の処へ如何いたしたものであろうかと問合わしたところが、いずれ後程挨拶を致すという事であった。

まもなく登城をして、城中において同僚の能勢筑前に逢うた。そうして能勢に向って、貴殿はしばしば亭主役をされた経験もあることであるから、周旋相頼みたい、がもし出来るならばこの度は何とか延引いたしたいと願うたところが、そこへ小堀から能勢へ手紙を寄越して、芸者寄合の儀は大久保の下屋敷で断りをしたそうであるから、明日は延期いたすべきものであろうか、水上が登城したならは篤と相談を致すようにという事を言って来た。そこで、これ幸いと水上はそういう事であるならば、この節私の懐中の都合も甚だ宜しくないから、成る可くは延期を願って、三月の末にでもなったら催したいという事を申したところが、能勢と今一人同僚の内藤安芸守というのが、たって明日水上の宅において催すようにというので、それならば仕方がないから、明日宅において致しましょうという事に極まった。そこで桃川へいよいよ十七日にやるからと申してやった。

その日になって桃川から勝手の働者七、八人も連れて参っているというと、そこへ芸者五人、宰領乗物四人駕籠(かご)で、駕舁(かごかき)とも都合十九人出て来て、今日能勢様の御家来の御差図でございますという事で来た。それで駕寵の者も下宿を申付けてそれにも食物を与え、それから駕籠代一挺に七百文宛(ずつ)いただきたい、芸者も時刻が四ツを過ぎたならば一人について座敷料として一分二朱ずつ申受けたいという。それも宜しい、いずれも費用は構わぬから充分御客を大切に扱うようにと申付けた。予定の御客は小堀、大久保、酒井加賀守、能勢、三枝土佐守、小笠原播磨、内藤安芸守という七人、亭主を入れて八人の連中になる。

しかるに、その晩に青山辺に火事があって、それで三番町の水上の屋敷も風筋が余り宜しくないので、初は道具も片付けて家内の者は立退く支度をしようかとも思うておったところが、少し火事が鎮まったので見合わしておった。その内に御客が一人来、二人来しているというと、小堀から使があって、今日は出火でもあり風筋も宜しからぬようであるから御延期なされましょうか、外の方々には未だ御見えに相成りますまいかと聞合せに来た。そこで返事に先刻から皆様御出でになって御待ち申しておりますから何とぞ早く御出で下さるようという挨拶をいたしたところが六つ半頃になったが未だ小堀が来ない。追々迎を出しているというと、程なく小堀は火事羽織を被てやって来て、皆で酒宴を始めた。時に大久保は餅菓子を重箱に入れて持って来ておった。

その薬子を三枝が挟んで亭主の水上へ出した、時に水上は酒を喫(た)べておったので、後程頂きますからと言ったところが、それが、大久保の癪にさわった。そのわけはその頃浅草の馬道に住んでおって生花の指南をしておった潮田某という者が粟饅頭に毒薬を入れて贈ったという事があってこれが評判になっておった。そこで大久保は今水上が後程頂きますと言ったのを聞いて、栗饅頭は持って来ないぞ、酒の中でも是非喰べろと言ったので、亭主はそれを已むなく喰べた。

それから大久保は段々怒り出してその薬子を摘み出して芸者へ投付けるやら色々悪口雑言をした。能勢も三枝もこれを機として、色々と罵詈(ばり)をして小堀、内藤もこれに加わって、遂に大久保、能勢、三枝、内藤、四人は、そこの膳部だの家の道具などを迫々打毀わす。それからその時御馳走のために絵師を招んで置いたところが、その絵師が将軍から拝領の絵具皿を飾っていたのを取出して打毀わす。水鉢だの猪口の類を雪隠へ投込む。またその日、青山の火事の風筋の宜くないので万一のために具足などを床脇に出して置いたのを、取出そうとする様子が見えたので、水上はそれは御朱印を入れておりますからと言って断わりをしたので御朱印なんかは要らぬと言ってそれはそのままにした。それから床間に置いてあった小鳥を庭へ逃がしてやったり庭に在った水仙の鉢を打毀わしたり、その他猪口、盃等を皆投出して打毀わし、先代が拝領しておった手炉(てあぶり)を火のまま庭へ投げ飛石で悉く打毀わした。大久保は一体ここの酒は醤油がはいっている、こんな幸い酒を飲んだ事はないと言って自分の家へ酒を取りにやる、玻瓈(はり)の洋盃が一つ跡形がなくなったりした。大久保は遂に飯椀の中へ大便をする、三枝は茶碗の中に小便をする、そしてその大便を三枝、小笠原らが箸に挟んでそこらに投出すやら亭主の脇差へ吸物の味噌汁がかかるやら、酒であろうが、飯であろうが汁であろうが、構わずそこら中蒔散らし、火鉢の火を取出して畳を焦すやら、能勢と三枝は膳椀の上を構わず、縦横に踏散らす、床の間の軸物を外すして揉散らす。

かような大騒をして大久保は九ツ半頃に帰った。小堀と能勢と三枝はこれから吉原へ行こうと言出して、水上の用人を呼出して駕寵を七挺申付けて亭主にも来いと言ったけれども、明日は他へ対客に出るからと言って断わった。そうすると能勢と三枝は色々悪口雑言を言って、遂に吉原へ行くことはそのまま止めになってしまった。此の如く実に言語道断な乱暴を働いて、料理屋の手代の如きは、殆ど胆を消したという。

そこで天明七〔一七八七〕年の二月二十四日、幕府において左の処分言渡があった。小堀河内守、大久保大和守はその職を免ぜられて差控を仰付けられ、酒井、水上、内藤、能勢、三枝、小笠原これだけはただ差控を仰付けられた。この時小堀は三千石、大久保は六千石、酒井は七千石、能勢は四千八百石、三枝は七千五百石、小笠原は四千五百石、内藤は五千七百石、水上は三千石で、皆旗下の錚々たる者であった。それが此の如き有様であったのである。

水上が此の如く酷い乱暴をせられたのは、故あることであって前にも申した通りこの頃古参役人の弊風が激しかったので、新参は皆古参について先例を問合せるのに、多く賄賂を以てするという風であった。しかるに、水上は未だ新役であったので、一向その弊風に染みていなかった。

天明七年将軍家治薨じて家斉が職を継いだ。例によって諸国へ巡検使を遣わすについて、何組からどういう人を選び出すという交渉があった。その相談の時に、誰はかくかくの音信物を持って来た、誰は何の贈物を持って来たから彼にしてやろうじゃないかというような相談を、人前も憚らずしておったのを水上が聞いておって、この度は御用大切な事である、私の組合においては賄賂など持って来た者はその選に入れないと激論をした。一同の者は大に憤ってしからば貴殿には一存で以てその人を選まれるが宜かろうと言って、その席は済んだけれども、同僚はこれを含んで、新役でありながら生意気にも古参に向ってあのような申分はけしからぬ奴である。強(したた)かな目に遭わしてやろうと内々申合せて、遂に芸者寄合に托して、乱暴を働いたのである。それとも知らず水上は真面目な酒宴のように思ってやったところが、此の如く狼籍されたのである。一説に大久保が飯椀の中に放出したという大便は、実は犬の糞をどこからか持って参って、そう観せたのだともいう。いやはや鼻持もならぬ話である。」
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2015年1月24日土曜日

1786年(天明6年)12月 長州藩、天明民政改革(「天明六年御仕組」36ヶ条) モーツアルト、ピアノ協奏曲第25番(ジュピター)・交響曲第38番(プラハ)作曲 松平定信、老中に推挙されるが実現せず 【モーツアルト30歳】

千鳥ヶ淵戦没者墓苑の紅梅 2015-01-23
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1786年(天明6年)
12月
・長州藩、天明民政改革(「天明六年御仕組」36ヶ条)。
宝暦改革・宝暦検地・撫育方を創設した「中興の英主」7代毛利重就の晩年。
天保改革の代官中から「天明度御仕法」と呼ばれ、維新期の地方能吏に「天明六年御作法」と記されるなど、幕末に至るまで民政の最も権威ある規範として機能。

検見・年貢取立・井手川除普請・藩有林・農民貸付(修甫)米銀から出奔人取締り、村役人制など、長州藩民政の骨格部分に関する広汎かつ体系的なもの。
この改革により、村落支配権は、代官から村役人へ委譲され、長州藩の村落構造と地主制発展にとって大きな画期が置かれる。
改革の第1原則は、「地下諸入目減少」(民政の経費節約)、第2原則は、大庄屋に証人庄屋2名を付属させるなどで村役人制を強化し、代官の従来の権限を縮小して、村落支配について「村役人一途引請」体制の本格的構築。

「臨時井手川除普請」について、長州藩は、「入目定法ニして」と定額以上の支出を拒み、普請の現場差配などをすべて村役人の引請にして、もし普請後に大破した場合は「庄屋・畔頭え仕直し仰せ付け」る。
村役人は、小郡宰判の例によれば、大庄屋が宰判中第一の高持地主、庄屋が最低3町以上の田地所持者という大小地主から選任される。
宝磨期以後の破綻した長州藩治水政策(宝暦期は、幕府から大名と農民の「自普請」に転荷されていたが)は、地主・村役人の責務に一元化される。
山間部の請紙生産諸宰判を中心に続出する出奔人について、改革は、出奔人続出と地下の困窮は村役人の責任であり、今後は出奔人跡地には「新百姓」を取り立てるか、それができない場合は年貢納入を「五歩方庄屋・二歩方畔頭・三歩方組合の者」に義務づけ、「小百姓成立」の吟味は、村役人の最主要責務と規定。
年貢取立については、藩の監視役人・代官手子を廃止し、「一途地下(村)役人引請」にして「(村)役人の不締りの儀これ有り候ても公損ニハ仰せ付けられず候事」とされ、大阪へ送る年貢米も「収納劣りニて悪米これ有り、御売欠」が出た場合は村役人に「償」が命じられ、年貢米の取立実務は、村役人のみが独自に果たさなければならない義務にされる。

村役人が年貢取立や小百姓成立についての支配を請負う制度を「村請制」と呼ぶが、天明民政改革は、村役人の権限に治水から出奔人取締りをも含め、村請制を極限に至るまで追求し完成させたもの。
長州藩は、治水・出奔人・小百姓成立・年貢取立について、地主・村役人に全面的に依拠し、宝暦検地以後の洪水・旱害・出奔人と年貢増徴策破綻の悪循環を断ち切るぺく民政改革を実施。
近世後期村落に一般的に展開する地主・村役人の村内小百姓に対する経済的支配、年貢「借替」。
これは、村内の慣習になっている小百姓の未進年貢への村役人の(高利貸的な利子付の)立替払で、村役人は「借替」米銀を意図的に累積させ、累積した「借替」米銀の代償として小百姓の良田地を私的に集積。
長州藩は、この年貢「借替」を代官の監視により厳しく禁止しょうとしていたが、天明民政改革では、年貢取立の代官派遣の監視役人を全廃し、年貢の勘定や農民貸付米銀の取扱いを村役人の独自の責務とする。
地主・村役人の経済的・政治的な村落支配力への全面的に依拠する方向であり、地主・村役人の年貢「借替」を承認することであり、事実上でも、天明期から小百姓の年貢未進に対する地主・村役人の「借替」は、爆発的に増加。
長州藩は、地主・村役人の「借替」に依拠しながら年貢増徴策を再編し貫徹させ(「出奔人跡田畠」の年貢の立替納入すらも村役人の責務とされる)、天明・寛政期は長州藩財政の小康時代となる。

しかし、領主と地主・村役人の中貧農に対する二重、三重の収奪がある期間に捗って展開する時、中貧農の困窮が救いがたいまでに徹底的に進行し、文化・文政期には地主層の停滞が始まる。
「借替」が経済的負担、桎梏に転化する。
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12月4日
・モーツアルト、「ピアノ・コンチェルト ハ長調(第25番)」(K503)(「ジュピター協奏曲」)作曲。6曲の連作(第20~25番)を閉じるにふさわしい大曲。
6日、「シンフォニー 二長調(第38番)」(K504)(「プラハ」)完成(プラハ旅行にもって行き1787年1月19日に初演)。明快さ、変わり身の速さ、しなやかさとバロック音楽の対位法の重層的な表現の合一。「交響曲楽章 ト長調」(K.Anh.105(504a))(断片)作曲。
26日、シェーナとロンド「どうしてあなたが忘れられようか/恐れないで、愛する人よ」(K505)作曲。英ソプラノ歌手ナンシー・ストレース(1765~1817)の告別演奏会('87年2月23日)の為。フィガロの最初のスザンナ。コンサート・アリアの最高傑作、「実現されえない関係の理想的領域における浄化」(アインシュタイン)

『交響曲(第38番)ニ長調(プラハ)』(K504):
従来、翌年初めに企てられたプラハ訪問に携えていくために書かれた、とされてきたが、この年(1786)から翌年にかけての冬のシーズン用にウィーンでの演奏を考えて作られたものか、あるいは英国演奏旅行の準備のために用意したものであろう、というのが最近の結論。
しかし、結局、この大作をウィーンで披露する機会がないままに、翌年プラハで初めて紹介することとなった。
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12月15日
・松平定信、老中に推挙される。
一橋治済が口火をきり、御三家の徳川治保(はるもり、水戸)・徳川宗睦(むねちか、尾張)・徳川治貞(紀伊)が一致してこれに賛成。水戸藩では、治保の儒臣で彰考館総裁の立原翠軒が定信を極力推薦している。
しかし、定信の幕閣入りはなかなか実現せず。
田沼派の大老井伊掃部頭直幸(なおひで、その地位を得るために数千金の賄賂を田沼に贈ったという)をはじめ老中らは、御三家から定信推薦の通達をうけながら、将軍家斉が反対していると称して定信の入閣を拒否。

家斉の乳母で大奥の実力者である老女大崎も、尾張宗睦にたいし、老中水野忠友が定信の老中就任に不同意。同じく老女高岳(たかだけ)と滝川も、家重将軍の代に将軍の近親の者を重職につけないようにとの仰せがあったとして、定信の台閣入りに反対。
これに対し、一橋治済は、家重が縁者と言ったのは外戚のことで、定信のような近親のことではないと反駁。

次に、大奥は、定信の妹で前将軍家治の養女種姫(たねひめ)が、もし兄が在職中なにか失敗でもすると気の毒だからといって、反対していると伝えた。
こうして定信の人事は、田沼派の妨害を受けて半年にわたって停滞したが、その間、治済や御三家の執拗な運動が奏功し、大奥もしだいに軟化してゆく。
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12月27日
・田沼意次の謹慎が解かれ、江戸城出仕が許される。
翌年の年賀のさいには、老中に続いて将軍家斉に拝謁する。意次復活の動きすらある。

松平定信の意見書
「定信は溜間詰となってから後或時密に将軍に上った意見書がある、これは長文の意見書であって、中に権門の賄賂収受を禁ずる事、質素倹約の事、売女屋の事、御家人らの風俗矯正の事、或は極く細い事で新地築地の事、また火除地の事等について詳細なる意見を記したものである、これは年月日はないものではあるけれども、恐らく天明六(一七八六)年の末から七年の初頃にでも出したものかと思われる。その中に定信がかつて田沼意次を刺殺さんと欲して、窃に懐剣を持して出掛けた事が一両度もあった。しかるに考え直した事に、もし意次を刺殺したならばそれによって自分の名は世間に高くなるであろうけれども、しかしながらそのためにかえって将軍に対して不忠になり、第一将軍の不明の名を現わす、また老中衆に対して相済まぬ事であると思直してやめた。そして、自ら溜間詰の職に在るを以て、老中衆と志を合せて将軍の聡明を啓いて田沼を斥けんと欲して、自分から見れば誠に敵とも何とも申ようのない盗賊同然の意次へも日々のように見舞をして交って、田沼に屈して自分の不如意の中からも金銀を運んで、仇敵に賄賂して、外見から見れば如何にも多慾なる定信であると笑われるのをも構わず、意次の意を迎えて漸くにして席を進んで、日夜辛苦した甲斐あって遂に田沼が罷められたのによって大に自分がカを得た次第であるという事を言っている、・・・・」(辻善之助『田沼時代』)
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12月18日
・カール・マリーア・フォン・ウェーバー誕生。ホルシュタインのオイティーン。初期ロマン派の代表作曲家。モーツァルト妻コンスタンツェのいとこ。
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月末
・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲楽章ニ短調(K.Anh.61(537b))(断片)作曲。 
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2015年1月18日日曜日

1786年(天明6年)9月~11月 田沼意次、領地2万石没収・蟄居謹慎 御三家・治済の定信登用運動と田沼派の抵抗 宿毛一揆 【モーツアルト30歳】

ロウバイ 2015-01-14 江戸城(皇居)東御苑
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1786年(天明6年)
9月
・ナポレオン(17歳)、コルシカ帰郷(~1788年1月)。
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・米、負債に苦しむマサチューセッツの農民,ダニエル・シェイズ元大尉にひきいられ反乱.
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9月12日
・モーツアルト、「アレグレットの主題によるクラヴィーアのための12の変奏曲 変ロ長調」(K.500)作曲。
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9月12日
・イギリス、将軍コーンウォリス卿、ベンガル総督に任命。
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9月22日
・オランダの愛国派、総督を罷免し、「共和制度の再建」を5人の委員会に委ねる。
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9月26日
・イギリス・フランス間、通商条約(イーデン条約)、締結。
両国で関税引き下げを実施するが、イギリスの方が利益を得る。イギリスは、織物と鉄をフランスよりも大量に安価に生産しているため。フランスの産業家は条約を結んだフランス政府に対し怒りを抱く。
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10月18日
・モーツアルト、3男ヨハン・トーマス・レオポルト、誕生。11月15日没。
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10月23日
・御三家を中心とする反田沼派は、側衆に大屋遠江守を推薦するとともに、田沼意次の厳罰を要求し、さらに老中上座の松平康福の罷免とその後任に秋元永朝を推薦。
しかし、これらの要求は閏10月15日に田沼派幕閣によって拒否される。
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閏10月5日
・田沼意次、領地5万7千石のうちの2万石と江戸上屋敷、大坂蔵屋敷を没収のうえ、江戸城出仕を禁止され、下屋敷で蟄居謹慎することを命じられる。
申渡しにゆく大目付は、もし意次が仮病をつかって会わないときは、かまわないから寝所に入り、寝ていたら夜具をはいで、顔をはっきり確かめてから申し渡すように命ぜられている。
また、田沼派の勘定奉行松本伊豆守秀持が免職。
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閏10月6日
・将軍家斉の実父一橋治済(はるずみ)、この日付で御三家当主へ、老中の相応しい人物として、松平定信(白河藩主)、酒井忠貫(ただつら)、戸田氏教(うじのり)を挙げ、特に松平定信はその人となりをよく知悉していると推薦。御三家当主たちは、定信について十分に承知していないが、優れた人物と聞いていると答え、治済の意見に賛同。
また、治済は田沼派老中水野忠友を抱き込む工作として、老中適任者(定信)がいると打診するが、「一向ニ相かなわざる様子に相見え」と失敗。
12月15日、治済と御三家は幕閣に対して松平定信を老中に推薦することを申し入れる。(これも拒否される)
天明6年8月に田沼が老中を解任されてから、翌年6月に定信政権が成立するまで10ヶ月余、田沼を欠きながらも、田沼派は中央政界において激しく抵抗。

御三家および一橋治済が、田沼政治刷新を意図し、松平定信の老中就任実現に努力している。
尾張家の記録に見る御三家の藩邸での会合の様子は、1786年10月4回、閏10月7回、11月3回、12月1回、翌87年2月6回。
御三家は、他にも江戸城登城の際にもしばしば会談しており、公私の場の会合を合わせる相当緊密な連繋を保っている事が窺える。
しかし、幕閣中枢は未だ田沼派が占めており、この工作はなかなか進展せず。

田沼派の抵抗
田沼意次は幕閣から追放されたが、なお幕政に対して隠然たる勢力を維持していた。
大老の井伊直幸(なおひで)、老中の松平康福、牧野貞長、水野忠友(1785年〈天明5〉に老中就任)、阿部正倫(まさとも、1787年に老中就任)ら田沼派がそのまま幕閣に残っている。
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11月
・年後半、モーツアルト、三重唱「ここにアマゾンたちの大帝国のありかが」(K.434(480b))(未完)作曲。
この月、イギリス旅行を計画。
4日、「4手のクラヴィーアのためのアンダンテと変奏曲 ト長調」(K.501)、
18日、「ピアノ三重奏曲 変ロ長調」(K502)、作曲。
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11月15日
・田沼派の勘定奉行赤井豊前守忠晶、左遷
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11月17日
・この日付けのレオポルトからナンネルル宛て手紙により、この頃、モーツァルトが英国旅行を計画していたことが知られる(実現せず)。
8月8日のフュルステンベルク侯への申し出と併せ、モーツァルトがこの頃いろいろなかたちで現状打開を模索していたことが理解される。
この頃、何かが変わりつつあった。演奏会もほとんど記録がない。
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11月22日
・宿毛一揆。
財政再建を進める宿毛(7代領主氏篤)、大目三郎左衛門を士分にとりたて再建役に任命。
再建策は、年貢のより厳しい取り立てと増税など。
この日(領主氏篤は隠居、新領主保氏と大目は高知出張というチャンス)、農民千人が土居の門前で口々に訴え。
氏篤側は「新領主と相談してきっと皆の望みを叶えるようにする」と約束。
後、新領主は約束を実行、一揆側からの犠牲者なし。
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2015年1月13日火曜日

1786年(天明6年)9月 ナポレオン(17歳、フランス陸軍砲兵少尉)、故郷コルシカに帰郷 (ナポレオン誕生~コルシカ帰郷まで) 【モーツアルト30歳】

江戸城(皇居)東御苑 シソンロウバイ 2015-01-08
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1768年3月15日
ジェノヴァがコルシカを200万フランでフランスに譲渡
宗主国ジェノヴァからの独立運動を続けていたパオリ(1725~1807)らはこれに抗議して戦う。

パオリは1739年、父ジャチントとナポリに亡命するが、1754年にコルシカに戻り、独立政府の最高司令官として政治・行政・財政・司法・軍事など諸制度を整備した。

ナポレオン(ナポレオーネ)の両親(カルロ・ブオナパルテとレティツィア)は独立運動に従事。父カルロ・ブオナパルテはパオリの副官。

1769年5月
コルシカ独立軍、フランスに敗北

同年6月
パオリは側近100名と共にイタリアに逃亡

同年7月
パオリの副官カルロ・ブオナパルテが使節団に伴われてフランス軍本部に出頭、降伏条約に調印。
40年に及ぶコルシカ独立運動は終結。

1769年8月15日
パオリ副官カルロ・ブオナパルテと妻レティツィアに第2子、ナポレオン(ナポレオーネ)誕生

同年11日
カルロ・ブオナパルテ、ピサ大学から法学博士の免状を取得。
新設されたアジャクショ王立裁判所の陪席判事に任命されるとともに、ルイ15世所有養樹園の管理職を得る。

1778年(9歳)
この年、ナポレオンの父カルロ・ブオナパルテは生活窮状の打開は図るべく、9歳のナポレオンと10歳の兄を伴いフランスに向けて出立、トゥーロンを経てヴェルサイユに辿り着く。
コルシカ地方総督から取得した推薦状のお陰で、イタリア貴族「ド・プオナパルテ」であることを示す認証を交付された彼は、国王ルイ16世から、過去10年間フランス王国の官吏として忠勤に励んだ報償として2千リーヴルを下賜され、3人の子供に対する奨学金を授けられた。娘1人・息子2人を貴族学校で勉学させることとなる。但し、息子のうち1人は聖職者、もう1人は軍人になるという条件付き。

1779年5月(10歳)
ナポレオン、プリエンヌ王立幼年学校に入学(パリ東方、シャンパーニュ地方)。
ずば抜けて成績が良いのは、数学、歴史、地理など。ヴォルテールやルソー、プロイセンのフリードリヒ大王が綴った、コルシカの解放に賛同する書物を貪るように読む。

1784年10月(15歳)
陸軍士官学校(パリ)に入学

1785年2月(16歳)
父カルロ・ブオナパルテ、没。

同年9月(16歳)
砲兵少尉に任官、ヴァランスの連隊に合流。
辛い思いを耐えて受けた試験を突破し、ようやく手にした少尉資格証書には、・・・
「慎重で勤勉、あらゆる種類の娯楽以上に勉学を好み、良書に親しみ、抽象科学に強い関心を寄せる・・・。物静かで孤独を好み、気紛れで横柄、極度に利己的な傾向あり。寡黙だが反論は精力的に行い、返答は当意即妙、非常に自己愛が強く、野心的で全てを熱望する」
とある。

社交界(ブルジョワ、弁護士、商人らの集まり)に出入りし、新参の将校らはパリの青年貴族が気づいてもいない話題に接する。ヴォルテール、モンテスキュー、レナルの精神は、すでに、地方の慎ましいブルジョワ階級にまで浸透している。
当時の若者の最大の関心事は「国家と社会」であった。

砲兵隊の基本方針と歴史、包囲戦の法則、プラトンの国家、ペルシャ・アテネ・スパルタの憲法、英国史、フリードリヒ大王の軍事行動、フランスの財政、タタール人及びトルコ人の国民性と習慣、エジプト及びカルタゴの歴史、インドの現状、現代フランスに関するイギリスの報告書、ミラボー、ビュフォン、マキャベリ、スイス・中国・インド・インカの憲法、貴族階級の歴史、貴族の犯罪、天文学、地理学、気象学、再生産の法則、遺徳性に関する統計学。
これら無数のノートには、ほとんど判読不能な文字で詳細な書き込みがされている。400ページの印刷物に纏められたこれらのノートには、彼が描いたまざまな図表もある。英国サクソン系七王国の図表、三世紀にわたる同王国の全国王名、古代クレタにおける競技の規則、小アジアにおけるギリシャの旧要塞図、イスラム世界の最高指導者カリフが即位した日時及びその騎兵数と妃らの悪行。エジプトとインドに関する質料の抜粋には、大ピラミッドの寸法及びバラモン宗派の一覧表が記されている。

この頃から自らも執筆を始め、当時の日付がある10編近い文書や構想の概略が残っている。内容は、大砲の配置、自殺、王権、人間関係に生じる不平等など多彩だが、コルシカをテーマにしたものがとりわけ多い。

1786年(17歳)
この頃、母親から救いを求める手紙が届く。
ブオナパルテ家の強力な保護者である総督が亡くなり、一家への助成金は差し止められ、苗木園からの収入も当てには出来ない。ジョゼフ(ナポレオンの兄)は定職に就いておらず、母は次男に救いを求めた。
ナポレオンは、直ちに休暇を取りコルシカに戻る。

1787年11月(18歳)
1年をコルシカで過ごし、オソンヌに駐屯する部隊に戻る
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2015年1月7日水曜日

1786年(天明6年)6月~8月 貸付会所の法、中止 江戸開府以来の大洪水 フランス、カロンヌの財政改革 10代将軍家治(50)没 田沼意次、老中罷免 【モーツアルト30歳】

京都 雪の神泉苑 2015-01-02
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1786年(天明6年)
6月
・~7月、武蔵、下総、上野、下野に大雨。手賀沼、印旛沼の開墾計画中止となる。
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・貸付会所の法
この年、以後5年間幕領・私領の農民から持高100石につき銀25匁ずつ、町人からは間口1間につき銀3匁ずつ、さらに寺社や山伏などからも1ヶ所につき15両以下をそれぞれ徴収し、これに幕府の資金を加えて大坂に貸付会所を設立し、諸大名に貸し付ける構想が打ち出される。
幕府主導の大規模な中央金融機関の設立構想。
新たな負担を強いられる庶民や、領内の寺社、百姓、町人に対する幕府の介入を嫌う諸大名の反対にあい中止。

辻善之助『田沼時代』
「田沼が執政の最後においてやった経済上の積極政策で見ん事失敗したことがある。それは天明六(一七八六)年六月に触れ出したところの貸金会所の法であった。その法は諸国の公領私領の百姓からは百石につき銀二十五匁、寺社、山伏からは一ヵ所につき金十五両、以下等差をつけて出金する、町人は間口一間について地主から銀三匁宛を五ヵ年の間に出さしめて、その金を融通のために諸大名に七朱の利を以て貸付ける。抵当には大坂表通用の米切手ならびに領内相応の村高を証文に書入れる、という法で表向からいうと出金者にも、また借手の方にも誠に都合が好い法のようであった。これは詰り零細な資金を吸収してこれを運転しようという策から出たものだろうと息う。幕府は大名に貸付けるところのこの資金を間に立っておって扱い、そうして融通をつけて財政を助ける一端に資するつもりであった事かと思われる。・・・
(略)
この時に当って諸国百姓町人を始め、多くのものは、前年凶歉(きょうけん)の疲労なお休まず、租税滞納のものも少なからぬのに、かかる命が出たので、皆不平の色に満ちていた。
この前年の事であるが田沼は、大坂町奉行の佐野備後守政親に命じて、大坂の豪商から数万金を出さしめて、その金を諸大名に貸付けて、その利子の内、七分の一を幕府に納めしめようと企てた。しかるにこれは行われなかった。というのは豪商たちの考では、たとい幕命といえとも、諸大名がこれを返さなかったならば、自分たちは元金をも失ってしまう。それよりもむしろ始から幾分かを幕府に納めて置く方が増しだという事で、遂にその事が行われなかった。そこで天明六(一七八六)年になって、融通金と称して右の貸金会所の事を図ったのである。しかるに間も無く田沼は没落して、この事は遂に行われずに終った。」
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6月1日
・フランス、アレッサンドロ・カリオストロ伯爵、バスティーユ牢獄から釈放。
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6月3日
・ピアノ四重奏曲第1番K.478に対して出版契約していたホフマイスターが、むずかし過ぎると注文、モーツァルトはその後2曲書く契約を破棄、2月完成の、K.493 ピアノ四重奏曲第2番(変ホ長調)をライバルのアルタリアから出版。第3曲は作曲せず。
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6月7日
・小浜藩医・蘭学者中川淳庵(48)、没。
中川淳庵:
元文4年(1739)小浜藩医中川家3代目として江戸に誕生。少年期より薬の研究に親しみ、青年期には本草家として知られるようになる。
宝暦7年、平賀源内主催の薬品会に数種の薬品を出品。
明和3年、宇田川玄随等と薬品会を主催。
同5年、稽古料3人扶持、7年父隠居の後をうけて家督相続、120石が与えられる。
安永7年、藩の奥医師を命じられ、天明元年(1781)に20石加増され都合140石となる。
同5年初めての小浜行。
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6月10日
・モーツアルト、クラヴィーアのためのロンドへ長調(K.494)作曲。
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6月12日
・~17日、江戸開府以来の大洪水。
「天明六〔一七八六〕年六月の十二日からズッと続いて十六、十七と洪水があった。これは江戸開府以来の大水と称せられる。」(辻善之助『田沼時代』)"
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6月21日
・フランス、ラ・モット伯爵夫人、処刑。
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6月26日
・モーツアルト、ホルン五重奏曲 変ホ長調 (K495)作曲。イグナーツ・ロイドゲープのため
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7月
・この月、再び大雨が続き、利根川筋各所の堤防が決壊し、江戸から関東一帯にかけて大きな被害をうけ、米作は平年作の1/3程度といわれた。
当時の落首にも、
春は火事夏は涼しく秋出水 冬は飢饉とかねて知るべし
というのがある。

重税と頻発する災害の二重の責め苦をうけた農民は、窮乏のあまり父祖伝来の耕地を手離し、あるいは質にだして潰(つぶれ)百姓となるものが続出し、他方、質地を集めて地主となる上層農民も少なくなかった。
貧農の出稼ぎや離村もまた激化し、博徒・無宿者などの耕作を放棄した無頼の遊民の横行が目立つようになり、百姓一揆・都市騒擾(打ちこわし)とならんで領主層をおびやかす社会不安のもととなった。

幕府は既に安永6年(1777)に出稼ぎ・奉公の制限令を公布し、今後は村高・人口に応じて奉公を許可するように命じているが、農業労働力の減少による手余り地・荒地の増加は天明期に入って一層顕著となった。

松平定信は、「村々の人口がひどく減少して、いま関東の江戸に近い村々には荒地が多くできた。村には名主ひとり残り、その他はみな江戸へでてしまったというような村さえある。天明六年に諸国の人口を調べたところ、六年前の安水九年より一四〇万人も減ってしまった」と慨嘆した。
幕府は両国広小路に施行小屋を建てて施粥をおこなったが、一時しのぎに終わった。
市中の諸物価は上昇し、ふだんはただでもらえた豆腐のきらず(卯の花)さえ、1升48文の高値をよぶにいたった。市民はたびたび町奉行所に救済を嘆願したが、はかばかしい回答はえられなかった。
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7月1日
・アイルランド、マンスター農民大会。十分の一税反対「秘密結社の活躍」。マンスターの「ホワイト・ボーイズ」、北部の「オーク・ボーイズ」「スチール・ボーイズ」など。
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7月8日
・モーツアルト、ピアノ三重奏曲 ト長調 (K496)
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7月9日
・フランス、マリー・アントワネット、第4子・第2王女ソフィー出産(翌1787年に結核で没)。
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7月14日
・数日来の大雨で関東各地に洪水。印旛沼・手賀沼の干拓工事が大被害をうける。
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7月27日
・モーツアルト、管楽器のための12の二重奏曲 (K487=K496a)(通称「ケーゲルデュエット」)作曲。
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8月
・硫黄問屋7軒を定める。硫黄は全て浦賀番所で検査することとする。
「硫黄問屋、これは天明六〔一七八六〕年八月に令して、硫黄問屋はすべて浦賀の番所において検(あらた)めを受けて、しかる後に売買せしむるという事に定めた。その問屋の数七軒と定められた。江戸伊勢町の忠兵衛、通三丁目の三左衛門、馬喰町二丁目の七郎兵衛、小網町一丁目六右衛門、本銀町二丁目宇兵衛、横山町一丁日ナカという者の後見喜兵衛、それに正木町善太郎、この七軒の問屋より外、硫黄売買は相成らぬという事に定めた。」(辻善之助『田沼時代』)
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・モーツアルト、かつてモーツァルト家に仕え、当時はドナウエッシンゲンのフェルステンベルク侯爵の近侍となっていたヴィンターを通して、この侯爵家に作品を売り込もうとする。クラヴィーア協奏曲楽章ニ長調(K.Anh.57(573a))(断片)を作曲する。
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8月1日
・モーツアルト、ピアノ・ソナタ へ長調 (K497)作曲。
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8月5日
・モーツアルト、友人ジャカンたちと九柱戯の遊び(ボーリングに似たゲーム)に興じながら、ピアノ三重奏曲 変ホ長調 (K498)  「九柱戯場三重奏曲(ケーゲルシュタット・トリオ)」作曲。

7月27日の『管楽器のための十二の二重奏曲』(K487=K6・496a)の自筆譜冒頭にも、「ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト作。ウィ-ン、一七八六年七月二十七日。九柱戯をやりながら」とモーツァルトの手で記されている。

著名な女流詩人カロリーネ・フォン・ピヒラーが伝えるところでは、この三重奏曲は、モーツァルトがウィーンで親密な交際を続けていたフォン・ジャカン家での親しい人たちの会合のために、とりわけフランツィスカなる娘のクラヴィーア演奏の目的で書かれたといわれる。フランツィスカはモーツァルトの親友ゴットフリート・フォン・ジャカンの妹で、モーツァルトのクラヴィーアの弟子の一人。
フランツィスカのクラヴィーアを中心に、名手アントーン・シュタードラーのクラリネット、それにモーツァルト自身のヴィオラによるアンサンブルが、ジャカン家の集いで鳴り響いたと推測できる。"
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8月8日
・ドナウエシンゲンのフォン・フュルステンブルク公の侍従セバスチャン・ヴィンターに「自分を宮廷作曲家として採用して欲しい」旨の手紙を送り、見本として次の曲の冒頭主題を書き添えた。 これにも父レオポルトの事前の根回しがあった。(交響曲 K.319, K.338, K.385, K.425、ピアノ協奏曲 K.451, K.453, K.456, K.459, K.488、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ K.481、ピアノ三重奏曲 K.496、ピアノ四重奏曲 K.478 )
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8月8日
・ジャック・パルマ、ミシェル・ガブリエル・バカール、モンブラン初登頂成功。
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8月11日
・英東インド会社海兵隊長フランシス・ライト、マレー半島北西岸の小島ペナン島占領
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8月17日
・プロイセン王国、ポツダム郊外のサン・スーシ宮殿においてプロイセン王フリードリヒ2世(大王、74)、没。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(42)、即位。
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8月19日
・モーツアルト、12の変奏曲変ロ長調 (K500)、弦楽四重奏曲第20番 (K499)(通称「ホフマイスター」)作曲。
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8月20日
・フランス、財政総監(蔵相)カロンヌ、ルイ16世に謁見。国家救済のため国家機構の不正の改革が必要と述べる。地租創設を含む財政改革案を提出。

カロンヌ、「国家救済に必要なことは、…真実に財政に秩序をあたえるのに成功する唯一の方法は、国家機構のなかにある不正なもの一切を改革して、国家全体に活気をあたえること」と述べる。

課税割当が、不公平・非生産的。
①貴族は20分の1税と人頭税の納税義務あるも、僧侶は免除。
②農民だけが平民人頭税を納税するが、州により土地に賦課したり個人に賦課したるする。また、自由都市、税金一時払い都市、免税州もある。
③僧侶・特権者・官吏は、塩税は無税。塩の生産地から遠くなるほど重税。

カロンヌの改善策。
①課税の平等(貴族・聖職者の財政特権の廃止)、
②単一の課税で土地に課せられる「土地単一税」の創設、
③テュルゴの試みた穀物流通の自由の再現(国内関税の廃止、市町村議会の創設(こうした議会を持たない過半数の州において)、郡議会・州議会の創設を含む)。
これら議会の議員は、土地所有者からのみ選ばれる筈であるが、ルイ16世はこれらの改革が高等法院や一部特権層の反対にあうことを恐れた為、カロンヌは、これらの案を「名士会」で(16世紀にそうしていたように)採択させる、ということで王を説得。
名士会は、1787年2月22日に召集。
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8月24日
・貸金会所の令を廃す。
吉野山の採鉱検分廃止。
印幡沼開墾中止。
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8月25日
・10代将軍家治(50)、没。

8月上旬、田沼意次の後ろ盾、10代将軍家治が病気(水腫)になった。意次は知り合いの町医者2名(若林啓順(けいじゆん)・日向陶庵(すみあん))を江戸城奥医師に登用し、治療にあたらせた。
しかし、家治は8月19日に2人が調合した薬を用いるや、にわかに病状が悪化し、20日には重体となった。家治はこの20日に死亡したとする説もあるが、実際は25日明け方に死亡したといわれる。

京都町奉行与力をつとめた神沢杜口が著した『翁草』によれば、将軍家治の病状は、田沼が紹介した医師の薬を用いてから、にわかに悪化したため、大奥の女中らは、「主殿頭(意次)御上へ毒を差上たり」と、田沼が将軍を毒殺したと口々にののしったという。田沼は8月22日、病気を理由に家に籠もり、家治の死の翌26日には辞表を提出し、27日に老中を解任された。
しかし、田沼が自ら保護者である将軍家治を毒殺したとは考えられず、反田沼派による情報操作とする見方もある。
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8月27日
・田沼意次、老中罷免。
閏10月5日、差控え命ぜられる。禄高5万7千石のうち加増分2万石・屋敷など召上げ処分。
しかし、12月、雁之間詰として江戸城出仕が許され、翌天明7年の正月の年賀では、将軍家斉に拝謁した席次は老中に準じる。

この時、意次の与党は江戸城に健在。
大奥に筆頭年寄高丘・年寄滝川、中奥に筆頭御用取次横田準松(のりとし)・御用取次本郷泰行(やすあき)・同田沼意致、表向の幕閣に大老井伊直幸・老中首座松平康福(やすよし)・老中水野忠友・同牧野貞長、若年寄井伊直朗。
幕閣の与党は意次と親戚関係にあり、横田の前任の筆頭御用取次稲葉正明(まさあきら)は意次と同月同日に解任される。

松平定信が老中に就任する翌年6月19日迄の10ヶ月間、田沼派と定信派との政争。
翌年の天明7年5月の江戸の打毀しが、この政争で田沼派に決定的打撃を与える。
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2014年12月25日木曜日

1786年(天明6年)1月~5月 モーツアルト、一幕の音楽付き喜劇「劇場支配人」(K486) ピアノ協奏曲第23番(K488)・24番(K491) オペラ「フィガロの結婚」(K492)完成 『おれたちの時代にゃ、喋っちゃいけないことは歌えばいいさ。』 【モーツアルト30歳】

江戸城(皇居)東御苑 2014-12-24
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1786年(天明6年)
1月4日
・モーゼス・メンデルスゾーン(56)、没。作曲家フェリックス・メンデルスゾーン祖父。
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1月10日
・モーツアルト(30)、クラヴィーアのためのロンドニ長調(K.485)作曲。
ヨーゼフ2世からオランダ総督アルバート公の来訪を祝してオペラ「劇場支配人」(K.486)の作曲を依頼される。
18日、作曲着手。
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1月14日
・ヨーゼフ2世、ウィーンの8つのフリーメーソンのロッジ(支部)を3つに再編成、その中に新しく「冠された希望に」というロッジを作る(このとき、多くの会員が退会、ハイドンもその一人)。
モーツァルト、新しいロッジを讃えるために、結社員のための合唱曲、K.483 「今日こそ、狂気し歓喜の歌を歌おう」(変ロ長調)、K.484 「汝はわれらが新しき指導者」(ト長調)演奏。
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1月16日
・ヴァージニア、信教自由法が制定。
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2月
・マニュファクチュア。
「往古は、百姓農業の片手間、女の方娘等蚕飼いたし、糸にとり織物渡世仕り候処、近年次第に繁昌仕り候に随ひ、蚕飼等は相止め、近辺は申すに及ばす、他国よりも糸買入、糸問屋多分出来致し、機屋共は銘々機織女並糸繰・紋引等大勢召抱へ渡世仕り、尚又、追々他国の者共数多入込、(中略)唯々商ひ糸機等の渡世のみ専一に心懸候」(「桐生織物史」)。
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2月3日
・モーツアルト、一幕の音楽付き喜劇「劇場支配人」(K486)(序曲と1幕4曲) 完成。ゴットリープ・シュテファニー台本。オランダ総督(ザクセン・テッシェン大公アルベルト夫妻)がウィーンへ来るので、ヨーゼフ2世は祝典を催すことになり、その余興としてモーツァルトとサリエリの競演が企画された。モーツアルトは『フィガロ』作曲を中断してこの作品にかかる。
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2月7日
・シェーンブルン宮殿のオランジェリー(果樹園、大温室で芝居・音楽会の会場ともなった)でオランダ総督を迎えた演奏会。モーツアルト「劇場支配人」(K.486)とアントニオ・サリエリのオペラ・ブッファ「まずは音楽、お次がせりふ」が初演。
「支配人」にはアロイージア・ランゲ、カヴァリエーリ、アーダムベルガーらが出演。しかし、サリエリの作品の台本は非常に機知に富んで面白く、「支配人」に人気は集まらなかった。謝礼はモーツアルト50グルデン、サリエリ100グルデン。
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2月11日
・~3月4日、モーツアルト父レオポルト、ミュンヘンのマルシャンのもとに滞在。
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2月19日
・モーツアルト、宮廷の仮面舞踏会にインド人の哲学者に扮して出て、自作の8つの謎と14の「ゾロアスター断章」が書かれたビラを配る。
モーツァルトの自由なコスモポリタンぶりは貴族たちに警戒心を抱かせ、うとましい人物として見なされる(?)。それに乗じてサリエリがうまく自分を売り込む(?)。
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2月24日
・コーンウォリス、インド総督に任命。
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2月26日
・フランス、天文学者・物理学者アラゴー、誕生。
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3月2日
・モーツアルト、ピアノ・コンチェルト イ長調 (第23番) (K488)完成。
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3月3日
・北米、ニューオハイオ会社設立。西部の土地購入目的。
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3月3日
・モーツアルト父レオポルト(67)、ハインリヒ・マルシャンと共にミュンヘン発。4日、ザルツブルク着。
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3月8日
・ウィーン公営質屋の経営状態をみるため、皇帝フランツ・ヨーゼフ2世、お忍びで質屋に入り自分の帽子を質入れしようとする
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3月10日
・モーツアルト、1781年ミュンヘン初演のオペラ「イドメネオ」が3月13日にウィーンでアマチュア貴族たちによって、アウエルスベルク侯爵邸で演じられることになり、技量に合わせて書き直し、シェーナとロンド「もう言わないで、すっかりわかりました/おそれないで、愛する人よ」 (K490)、二重唱「私には言葉では言えません」(K.489)作曲。
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3月11日
・画家の宋紫石(72)、没。
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3月中旬
・ザルツブルクからドゥシェク夫妻がウィーンを訪れ、ブルク劇場でコンサートを開く。ピアノ伴奏モーツァルト。夫妻は4月12日帰郷、後、別荘ベルトラムカのあるプラハに向う。 *
3月24日
・モーツアルト、ピアノ・コンチェルト ハ短調 (第24番) (K491)完成。モーツアルトのピアノコンチェルトの頂点をなす傑作
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3月29日
・イギリス、小ピット首相、減債基金制度を議会で可決。
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4月7日
・ブルク劇場で大音楽会開催。モーツァルト、クラヴィーア協奏曲(第24番)ハ短調(K.491)を演奏。
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4月29日
・モーツアルト、オペラ・ブッファ「フィガロの結婚」(K492)完成。
'85/10/末より作曲開始。ピエール・オーギュスタン・ド・ポーマルシェ原作、ロレンツォ・ダ・ポンテ台本(原作ボーマルシェの喜劇はパリを始めヨーロッパ各地で人気があるが、ウィーンでは上演禁止。 ダ・ポンテは原作から政治色を除きオーストリア皇帝から上演許可を貰う)。
『全自作品目録』に、序曲冒頭の楽譜とともに「フィガロの結婚。オペラ・ブッファ。四幕。曲数三十四。役者。女性はストレース、ラスキ、マンディーニ、ブッサーニ、それにナンニーナ・ゴットリープ、 - 男性はベヌッチ、マンディーニ、オケリー それにブッサーニ」と書き入れた。

レオポルトのナンネルル宛て手紙(モーツァルトは『フィガロ』初演を4月28日と伝えていたようだ)
「今日二十八日、お前の弟のオペラ『フィガロの結婚』が初めて舞台にかけられる。もし成功したらたいしたものだ。だって、あの子はびっくりするほど激しい陰謀に直面しなければならないからだ。サリエーリとその一党が死にものぐるいであらゆる努力をすることだろう。ドゥーシェク夫妻が私に話してくれたことだが、お前の弟は特別の才能と技価で大いに注目を集めているだけに、とてもたくさんの陰謀に立ち向かわなければならないとね。」
(レオボルトは幼いモーツァルトが巻き込まれた『ラ・フィンタ・センプリチェ』の事件を思い起こしたようだ)
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5月
・幕府、勘定方役人を派遣。手賀沼・印幡沼開墾工事督励。
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5月1日
・モーツアルト歌劇「フィガロの結婚」、ブルク劇場で初演。モーツアルトの指揮。9回で打切り

5月3日に再演されたこのオペラに対し、モーツァルトは450フロリーンの報酬を受けた、台本作者ダ・ボンテは200フロリーンを得た。彼はこのシーズンに上演された他の二つのオペラに対しても同額ずつの台本料を得ている。
上演に立ち会ったツィンツェンドルフの日誌には「晩の七時に、オペラ『フィガロの結婚』に行く。台本はダ・ボンテ、音楽はモーツハルト(ママ)。・・・オペラは退屈であった・・・」とある。
初演歌手の一人マイケル・ケリー(またはオケリー、バジーリオとドン・クルーツィオ役)の回想では、劇場は観衆でいっぱいとなり、アンコールされるアリアが多く、拍手もしばしば鳴りやまず、そのため上演に要する時間はものすごく長くなった、という。
事実、ヨーゼフ2世は、長官オルシーニ・ローゼンベルク伯爵に対して、上演時間の制限を指示している(5月9日付)

7月11日付『ヴィーナー・レアールツァイトゥング』紙は、この初演の成功を伝えている。
「5月1日月曜日、皇王室国立宮廷劇場において(初めて)フィガロの結婚が上演された。四幕のイタリア語ジングシュピールである。音楽は楽長モーツァルト氏のものである。『おれたちの時代にゃ、喋っちゃいけないことは歌えばいいさ。』 フィガロに倣ってこう言うことができよう。パリでは禁止されたこの作品は、当地では翻訳の良し悪しにかかわらず芝居としては上演を許されていなかったものであるが、ついにオペラとして上演されるのを観る幸運をえた。われわれがフランス人よりもこの点で恵まれているのがお分かりいただけよう。モーツアルト氏の音楽ははやくも初演のさいに識者によってひろく讃嘆をえたものであったが、私はただ、自愛心ならびに尊大さが自らの作品ではないものを佳しと認めぬ人たちはこれに加えないのである。一般の観客は確かに(これは彼らにしばしばみられることであるが)初日にはその真価を捉えることができなかった。党派に属さぬ識者たちの数々のブラヴォーが聞こえたが、しかし、上階の粗野な若者たちは声をかぎりに大声でがなりたて、彼らのウーッ!という声で歌手たちや聴衆たちの耳を聾したものであり、したがって作品が終るとともに、意見は二分したのであった。加えるに、曲がまことにむずかしかったため、初演は最良の出来ではなかったので、これも当然のことであった。しかしながら上演がくりかえされた現在、モーツァルト氏の音楽がこの芸術の傑作であるとするより以外の意見を主張しようとすれば、陰謀に加担しているか、それとも無趣味であるかを公言することになろう。この音楽は、生来の才能の源泉からのみ汲むことのできる無数の美ならびにまことに豊かな楽想を含んでいるのである。」

ピエール・オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ(1732~99)の劇作『フィガロの結婚または狂おしい一日』は、1784年、紆余曲折ののちパリで上演された。成功を博したが、社会風刺・貴族批判の内容のため、その後上演が禁止された。
翌1785年、ウィーンでシカネーダー=クンプフ一座が、これをドイツ語で舞台にかけようとした際にもヨーゼフ二世がこれを禁止した。
台本作家ダ・ボンテは、これをオペラのかたちに変え内容を柔らげて、皇帝の承認をを得た。
『ヴィーナー・レアールツァイトゥング』の記事は、オペラにつきものの陰謀もモーツァルトの音楽に勝つことができないことを認めている。
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5月21日
・スウェーデン、化学者カール・シェーレ(44)、没。
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5月31日
・フランス、 「首飾り事件」最終判決。ド・ロアン枢機卿無罪となる。
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2014年12月21日日曜日

1786年(天明6年)この年(その2) 近江商人団による松前交易・流通独占体制が崩壊 北前船の出現 無宿養育所閉鎖 印旛沼・手賀沼開拓断念 【モーツアルト30歳】

北の丸公園 2014-12-19 ナンテン
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1786年(天明6年)
この年(その2)
・近世初期以来永く続いた近江商人団による松前交易・流通独占体制が、宝暦前期以降急速に崩壊。宝暦8年には約30名を数えた近江商人は、28年後のこの年には11名に減少。

主な原因
①江戸系商人の進出・成長、
②江戸系商人が、蝦夷地の広大な良漁場を請負い、産物を自営船を利用して出荷し始めたこと、
③近江商人の支配地が主に西蝦夷地ないしは近場所であり、また前貸制による零細漁民からの買取に重点をおく経営方式であるという中で、この期の松前・江差地方の鰊の不漁が、近江商人の経済的基盤に大きな打撃を与えたこと、など。

宝暦・天明期に活発な活動を開始する主な商人は、能登の村山伝兵衛、紀州の栖原角兵衛、陸奥の伊達林右衛門、飛騨の飛騨屋武川久兵衛などで、村山伝兵衛を除き、全て渡道以前に江戸を足場に活躍した経歴を持つ商人で、栖原・伊達は松前に進出後も江戸に店を持っている。このように宝暦・天明期には、新興商人の成長と近江商人の流通独占体制崩壊により、松前~大坂、松前~江戸間交易の発達を促し、新たな流通機構が形成される。これら大手商人の大部分は松前に出店を設け、場所産物の多くは松前に直送され、松前が蝦夷地産物の集荷地であった。
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・北前船の出現。
流通構造変化が海運に変化もたらす(荷所船衆が従来の賃積船経営から買積船経営へと経営を転換)。

これ迄の松前交易は、近江商人の手船或いは共同雇用船団である荷所船が主体であったが、荷所船が急激に減少し、旧荷所船衆が従来の賃積船経営から買積船経営へと経営を転換してゆく。
この頃から北前船主として成長する西野兵助、田中伊兵衛、小餅屋治郎兵衛、町野清兵衛、田中市左衛門、住屋清左衛門、田野中与助、酒屋新左衛門、桶屋又七、瀬戸屋弥兵衛、酒屋長吉、酒屋宗吉、右近権左衛門、出店勘助といった加賀橋立、越前河野、敦賀等の船主達は、全てかつては荷所船仲間であった人達。
買積船としての北前船は、これまでの荷所船とは異なり、船頭の意志で売買するため取引上有利な市場へ回漕する。
従って従来は、近江商人の拠点の江差・松前にしか入港しなかったものが、箱館へも次第に入港することになる。
特に、この頃以来、東北地方からの移住民も増加し、箱館六箇場所の水産生産高も上昇し、生産用具・生活必需物資需要も増大し、箱館港を介する商品流通は発展してゆく。
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・安永9年(1780)に深川六万坪辺に無宿養育所が設けられて、浮浪者の宿泊・授産が行なわれたが、この年閉鎖。
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・安永9年(1780)、江戸や大坂の商人資本を導入して、利根川水系の下総国印旛沼や手賀沼を干拓し、新田開発を企てたが、普請の途中で洪水にあい中断したのち再開が試みられたが、この年、最終的に断念するに至る。
手賀沼開発について田沼は「国益」と村方の「御救」を開発の理由としている。

辻善之助『田沼時代』(段落、改行を施す)
「下総の印旛沼および手賀沼開墾の事業、この事業は夙(はや)くは八代将軍の享保九(一七二四)年の頃から計画せられたものであって、同年の八月十九日に下総千葉郡平戸村の渡右南門らが相謀って、印旛沼を開墾して新田を起さん事を幕府に上申した。その時幕府から役人をやって実地を検分せしめた事がある。
その計画が段々熟して来て、安永の九(一七八〇)年になって、印旛郡の総深(そうふけ)新田の名主平左衛門、島田村の名主次郎兵衛が連署して、印旛沼開墾の目論見書を幕府へ進達した。
それはかねて幕府が平戸村から検見川の海面までを掘開いて、そうして印旛沼の水を海に放し、新田を起し、併せて運輸の便を開こうという事を計画して、その目論見を平左衛門らに命じて調べさしたのがこの時になって進達せられたのである。
そうしてその費用の資本は大坂の豪商天王寺屋藤八郎、江戸浅草の長谷川新五郎という者をして出資せしめ、成功の後は地元の人民が新開地の二分を取って八分は金主の方に渡してそうして工費を償却しようという考であった。
大体の見積高は二通りになっておって、三万両でやろうという計画が一つと、六万両でやろうという計画と、両方出したのである。

 一年置いて天明二(一七八二)年になって幕府は勘定方の役人を遣わして手賀沼・印旛沼開墾のため実地の検分をせしめた。その頃の勘定奉行松本伊豆守秀持、それから赤井越前守忠晶(ただあきら)の二人は主としてこの開墾の計画に与ったと見える。

 それから段々計画が進んで行って、天明の五(一七八五)年にはさらにまた勘定方が出張して手賀沼・印旛沼の工事の監督に及んだ。そうして段々その工事を実施する事になった。

 六年の二月にも、また、勘定方を派出して工事を督励した。しかるに六月から七月に亙って、武蔵、下総、上野、下野の諸国に大に雨降って、諸方の邱(おか)など崩れるもの数ヵ所、利根川には水が漲って、堤防を越えること十数尺、それが数十カ所切れて下総の関宿が最も激しい水害を被った、
この時が前にも言った通り、江戸においても甚だしい水害を受けたので、新大橋、永代橋なども流れ、男女の溺死する者算なしという有様であった。
この時に印旛沼の工事は、既に平戸から検見川まで運河が開いてあって、その土を以て堤防を築きその流口には堰を作っていたのであったが利根川の洪水のために、土手がすっかり毀われてしまって、一面の海になり、折角の工事が滅茶苦茶になってしまった。
かかるところに田沼が職を罷められて、享保以来の大計画がここに止ってしまった。
この印旛沼の開墾が出来上れば、当時はもちろん後世に及ぼす利益もよほど大きなものであったろうと思われる。」
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・ゲーテ(37)、政治への献身も理想通りにならずいかず行き詰り、シュタイン夫人との愛情も堪えがたく、誰にも告げずイタリアへ旅立つ。
ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドゥア、ヴェネチア、フィレンツェなどを経てローマ入り。その間、イタリア・ルネサンスの芸術に圧倒される。画家ティシュパイン、画家マイヤー、実学者モーリッツ、彫刻家トリッペルなどの芸術家と交わる。
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・フランス、本屋で日記作者のセバステアン・アルディは、大工、蹄鉄工、錠前師、パン屋、石工を含む広汎な運動を報告している。
同年、荷物運搬人と運搬人は、宮廷の寵臣が設立した競争相手の独占組合に抗議しストライキ。
ヴェルサイユへ行進し国王に請願、民衆の同情も呼ぶ。
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・「スロバキア職人協会」設立。
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・フィリピン、酒類の専売制度始まる。
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2014年12月9日火曜日

1786年(天明6年) 天候不順・諸作物に被害 長州藩山間部一揆(出奔と蜂起) 全国人口減少 脱農貧農層の都市流入⇒都市貧民層の増大と先鋭化 農村手工業地域の形成 林子平『海国兵談』 【モーツアルト30歳】

江戸城(皇居)二の丸雑木林 2014-12-09
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1786年(天明6年)
・この年も天明3年と同様に春の訪れは遅く、土用中も雨が降り続き、8、9月の大風雨は田畑の諸作物を直撃し、早稲・晩稲に大きな被害を与える。
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・1786~88(天明6~8)年の3年間、長州藩山間部請紙生産諸宰判を中心とする百姓一揆の時代。
山間部一揆の特質は、「只今の通りニてハ、御百姓取続きがたき」(徳地一揆「覚」天明6年)ため、集団的出奔と一揆蜂起との密接不可分の結合。
典型的事例は、180人の出奔を伴う徳地宰判柚木・川上中・刀禰・小野諸村の一揆、20人の出奔を伴う奥阿武宰判生雲村の一揆、50~70人の出奔を伴う徳地宰判馬神村の一揆。
出奔・一揆農民は、「宿元立帰り候ても、わらび・葛根を掘り候ばかりニてハ、余分の家子取続き得仕らず」(徳地一揆「覚」天明7年)と訴え、説得に当る村役人に「飢飯米」支給を要求。藩は、これらの宰判建直しのために御宥免楮(こうぞ)・御救御恵銀・難渋者修甫飯米・折下米・当分米・楮植付飯米などを次々に支給しなければならない。
洪水・旱害・飢饉・出奔人の展開は、宝磨検地の年貢増徴策を破綻させ、惹起される藩財政の一層の悪化は、更に治水・飢饉対策を破綻させる悪循環を生み、天明百姓一揆に激発させる。
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・1780(安永9)年~この年迄の6年間、全国人口は140万人減少。
脱農貧農層の都市への流入。⇒都市貧民層の増大と先鋭化。

宝暦~天明期、地主制が進展し、領主・地主の二重の苛酷な収奪に、没落乃至は農業離脱する貧農層が輩出し、彼らは大都市に流入する。
しかも、こうした矛盾激化により、上層大高持の地主経営すら深刻な動揺に見舞われる。
下層農民の脱農化の増大は、農業労働力不足、奉公人給金・日雇賃銭の高騰を招き、地主手作或いは質地地主経営自体をも危機に追い込む。

「在かた人別多く減じて、いま関東のちかき村々、荒地多く出来たり、やうやう村には名主ひとりのこり、その外はみな江戸へ出ぬ」。(人口減少について)、「減じたる人みな死ぅせしにはあらず、只帳外となり、又は出家山伏となり、又は無宿となり、又は江戸へ出て人別にもいらずさまよひありく徒とは成りにける」(松平定信「宇下人言」)。

都市の社会構造も変貌。
都市内部の固有の階層分化による没落小商工業者の貧民化と、農村の階層分化に伴う農業離脱貧農層の都市流入という、二重の契機による都市下層貧民層の増大と、反体制的社会階層として質的転化。
彼らの主体は、この期には、領主階級や特権的都市民層と鋭く対立する存在となる。
1787(天明7)年、全国各地の主要都市にほぼ同時的に激烈な打毀しが勃発。
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・市場構造も大きく変化。
従来都市手工業に独占されていた技術が、地方へ伝播し、畿内以外の地域にも商品(特産物)生産が急速に展開。最終加工工程はなお多く都市に残しているとはいえ、分業関係の進展により、中間加工の一部が農村内に定着し、農村手工業地域の形成がみられる。

このことは、商品流通・カ格形成の在り方に変化をもたらし、畿内(とりわけ大坂)の経済的地位の相対的低下、或いは米価低落(「米穀下底」)と諸物価高騰(「諸色高直」)という乖離現象が生じる。
米価低落は、領主財政窮乏化を背景に、幕藩領主による畿内等中央市場への集中的窮迫販売を一つの要因とするが、「諸色高直」現象は、原料生産地から加工業地化へという生産構造の変化が、都市特権問屋商人の不当な買叩き値段を否定し、生産者価格が中央市場価格に反映するようになった結果と考えられる。
そしてそこに、生産者と直結する在郷商人や、都市における非特権の仲間外商人の活躍する素地が形成され、既成の流通市場に動揺をもたらす。

本百姓経営の維持とその上に体制的に一定度の地主制を容認することによって、年貢増徴を成功させてきた享保改革の基調と、商品生産発展の成果を、都市商業資本を介して吸収せんとした田沼政策の基調も、宝暦~天明期を通しての社会・経済基盤の変動と、その諸矛盾の爆発としての階級闘争の激化によって、挫折を余儀なくされる。
このような幕藩制社会の全構造的な危機の克服をめざすものとして、寛政改革が要請される。
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・林子平『海国兵談』完成。全16巻。1788年、第1巻のみ刊行。

(改行、段落を施す)
「海国の武備は海辺にあり。海辺の兵法は水戦にあり。水戦の要は大銃にあり、是れ海国自然の兵制也。
昇平久き時は人心弛む。人心弛む時は乱を忘るゝ事、和漢古今の通病なり。是を忘れざるを武備といふ。
蓋し武は文と相並んで徳の名なり。備は徳にあらず事なり。変に臨て事欠さる様に物を備置を云なり。
当世の俗習にて、異国船の入津は長崎に限りたる事にて、別の浦江船を寄する事は決して成らざる事と思へり。実に太平の鼓腹する人と云うべし。
既に古は薩摩の坊の津、筑前の博多、肥前の平戸、摂州の兵庫、泉州の堺、越前の敦賀等え異国船入津して物を献じ、物を商いたること数多あり。
是自序にも言し如く、海国なるゆえ何国の浦へも、心に任せて船を寄せらるゝことなれば、島国なりとて曾て油断は致されざる事也。
是に因て思へば、当世長崎の港口に、石火矢台を設て備を張が如く、日本国中東西南北を論せず、悉く長崎の港の如くに備置きたき事、海国武備の大主意なるべし。

さて此事、為し難き趣意にあらず。今より新制度を定て漸々に備なば、五十年にして、日本の惣海浜堂々たる厳備をなすべき事、得て期すべし。疑ふこと勿れ。
此の如く成就する時は、大海を以て池と為し、海岸を以て石壁と為し、日本といふ方五千里の大城を築き立たるが如し。豈愉快ならずや。
竊に憶へば当時長崎に厳重に石火矢の備有りて、却て、安房・相模の海港に其備なし、此事甚不審。
細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり。
然るを此に備へずして、長崎のみ備るは何ぞや。
小子が見を以てせば安房、相模の両国に諸侯を置て、入海の瀬戸に厳重の備を設けたき事なり。
日本の惣海岸に備る事は、先ず此の港口を以て始と為べし。是海国武備の中の又肝要なる所なり。
然と云とも忌諱を顧りみずして有の侭に言は不敬なり。言はざるは又不忠なり。此の故に独夫、罪を憚らずして以て書す」(「海国兵談」)。
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2014年11月30日日曜日

1785年(天明5年)8月~12月 菅江真澄『楚堵賀浜風』にある出羽の惨状。 『ハイドン四重奏曲』出版。 ナポレオン(16歳)少尉任官。 松平定信、溜之間詰となる。 伏見奉行小堀政方罷免。 田沼政治改められ始める。 【モーツアルト29歳】

江戸城(皇居)東御苑 2014-11-27
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1785年(天明5年)
8月1日
・フランス探検家ラ・ベルーズ、清と日本に向けブレスト港出港。毛皮貿易促進等目的。
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8月3日
・菅江真澄の紀行文『楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)』より。
8月3日、出羽の境、木蓮寺(もくれんじ)の坂を越えて陸奥国津軽に入った菅江真澄は、海岸伝いに西津軽の村々を歩き、鯵ヶ沢の湊をへて10日に床前という村に足を踏み入れた。村の小道を歩いていると、草むらに雪のむら消えのように、人間の白骨がたくさん散らばり、ある場所では山のように積まれているのが目についた。しゃれこうべの穴という穴から、すすき・女郎花が無心に生え出ている。

百姓の話。餓死者。人肉色の話。
19日、真澄が青森をでて海岸を歩いてゆくと、鍋釜を背負い、持てるだけの家財をもち、幼児をかかえた男女が、わやわやと岡を越えてくるのに出会った。この飢えた漂泊者の群は、「地遁(じに)げ」といって、餓死からのがれるために住みなれた村をはなれて他国へゆくところであった。かれらは、一昨年の飢饉のときは松前に渡って人に助けられたが、こんどはどこへいったらよいか、生きられる所を探してゆくつもりだと真澄に語った。真澄は空恐ろしくなり、このまま浜路をゆけば、自分も同じ運命にあうと考え、もときた道をひき返した。
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8月14日
・旗本寄合いの藤枝外記、吉原の遊女綾衣と雨の箕輪で相対死。
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8月15日
・フランス、マリー・アントワネットの「頚飾事件」に関わったロアン枢機卿、逮捕。
18日、ラ・モット伯爵夫人逮捕。
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8月20日
・ウィーン、コンスタンツェ叔父フランツ・アントン・ウェーバーが結婚式。コンスタンツェ姉アロイージア夫ランゲが立会人。作曲家カール・ウェーバー(1786~1826)の親となる。
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8月22日
・オーストリア、ヨーゼフ2世、永代農奴制を廃止。
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9月
・アムステルダムで3日間に亘り蜂起。宮廷にいる総督ヴィレム5世を脅かす。
この年、オランダ州議会は、諸改革獲得の為、「大衆動員」を指示。
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9月1日
・琉球で大風雨などで凶作が続く。幕府、薩摩藩に米1万石・金1万両を貸し与える。
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9月1日
・アルタリアより6曲のモーツアルト弦楽四重奏曲(『ハイドン四重奏曲』)出版。
1780年代半ばのモーツァルトの音楽活動の中で生み出された最も芸術的なジャンルといえる弦楽四重奏曲。1782年暮~1785年に作曲。ヨーゼフ・ハイドンの前で披露した。

出版した楽譜の冒頭にハイドンへの献辞を掲げる。
「わが親しき友ハイドンに。
広い世の中に、自分の息子たちを送り出そうと決心した父親は、彼らを、幸運によって最良の友となった、今日のもっとも名高い御人(おひと)の庇護と指導とにゆだねるべきものと考えました。高名な御人にして、わが最愛の友よ、ここに彼の六人の息子がおります。彼らは、まことに長くつらい労苦の結実ではありますが、しかし、いくたりかの友人が与えてくれました、少なくとも一部は労苦も報われようという希望が私を元気づけ、またこれらのものがいつかは私にとってなんらかの慰めになるだろうと私に期待させてくれるのです。最愛の友御自身、この都に最近滞在なされた折、あなたの御満足の御気持を私にお示し下さいました。こうしてあなたの御賛意が、とりわけ私を励まし、そのために私はあなたに彼らをおゆだねし、彼らがあなたの御寵愛にふさわしからぬものでなきよう望ましめるものです。それゆえ、御寛大にもすすんで彼らをお引き取り下さい。そして、彼らの父親とも、導き手とも、また友人ともなって下さい! 今後は、彼らに対する私の権利をあなたにおゆずりし、それゆえ、父親の偏愛の眼が私に隠していたこともあろう欠陥を寛大に御注意下さるよう、そして彼らの意志に反しても、私自身がそうでありますようにあなたの寛大な友情を保ち続けて下さいますようにお願いいたします。
                  親しい友、あなたのこの上なく誠実な友
                             W・A・モーツァルト、一七八五年九月一日。」

『ハイドン四重奏曲』ニ短調(K421=K6・417b)は、1763年6月半ばの作と考えられ、この頃、妻コンスタンツェは最初の子供ライムント・レーオボルトを出産した。コンスタンツェの回想によれば、第三楽章メヌエットは出産日の6月17日、出産の最中に書かれたという。

コンスタンツェの第二の夫ニッセンの『モーツァルト伝』(1828年)では、・・・
「彼の妻が最初の子供を産む時の陣痛にあった際、彼は一七八五年にヨーゼフ・ハイドンに献呈した六曲の四重奏曲の第二曲の仕事をしていた。こうした状況はたしかに作曲には向いていなかった。というのは彼はクラヴィーアに向かって作曲はせず、あらかじめ音符を書いて、曲を仕上げ、その上でその曲を試し弾きしていたからである。それにもかかわらず、彼が妻の寝ている部屋で仕事をしていた時には、なにものも彼を煩わすことはなかった。彼女が苦しみの声をあげるたびに、彼は走り寄って、慰め、励ましてやるのであった。そして彼女がいくぶん落ち着くと、彼は再び楽譜に向かうのであった。彼女自身の話では、メヌエットとトリオは、ちょうど彼女の分娩の時に作曲されたものである」
とある。

1829年、ザルツブルクにコンスタンツェを訪ねたヴィンセント・ノブェロとその妻メアリーの日誌によれば、この曲のメヌエットのいくつかのパッセージは彼女の苦痛の叫び声を表わしているということで、コンスタンツェはその箇所の一部を彼らに歌って聴かせたという。
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9月1日
・トーマス・アットウッドに音楽理論を教え始める(練習帳(K.506a))。
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9月1日
・ナンネル、赤子を父レオポルトの手に委ね、夫の元へ帰る。
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9月1日
・ナポレオン(16歳)、 試験に合格して砲兵少尉に任命される。
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9月10日
・プロシア・アメリカ間、修好通商条約が締結。
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9月25日
・ルイ=ニコラ・ダヴー、パリの陸軍士官学校入学。(ナポレオンの一学年下) 1788年、かつて祖父が在隊し、父親が在籍していたシャンパーニュ騎兵連隊に入隊。
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10月
・ナポレオン、少尉としてヴァランスの任地で勤務
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・月末、モーツアルト、オペラ「フィガロの結婚」(K.492)の作曲を開始。完成は翌年4月29日。
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10月16日
・モーツアルト、ピアノ四重奏曲 ト短調 (K478)作曲。出版社ホフマイスターからの依頼。
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10月22日
・盗賊田舎小僧新助、江戸市中引廻し、小塚原で獄門。
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10月29日
・8月14日に遊女と心中の藤枝外記の妻、処罰を恐れて身代わりを立てたが露見。藤枝家は改易。「君と寝ようか五千石とろか、何の五千石、君と寝よ」と巷間でうたわれる。

「士風の廃頽
天明五(一七八五)年には寄合の藤枝外記という者はしばしば女郎屋に通うて、ついにその遊女と心中を遂げた。十月二十九日その家の領邑(りようゆう)四千石を没収せられその母妻らを一族に預けられた。」(辻善之助『田沼時代』)
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11月3日
・ナポレオン・ボナパルト(16)、砲兵少尉としてヴァランスのラフェール砲兵連隊に配属
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11月5日
・モーツアルト、ビアンキのオペラ「奪われた田舎娘」のために、四重唱 <せめておっしゃって、私がどんな過ちを犯したのか> (K479)作曲。
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11月11日
・この日付けレオポルトのナンネルル宛て手紙
「やっと十一月二日付の手紙をお前の弟からもらったが、それも十二行のものだ。あれは大急ぎでオペラ『フィガロの結婚』を仕上げなければならないからと許しを乞うている……私はこの台本を知っているが、とても骨の折れる作品だし、フランス語からの翻訳からオペラにしたり、オペラとして効果を挙げるには自由に改変しなければなるまい」
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11月17日
・モーツアルト<フリーメイスンの葬送音楽ハ短調> (K477)演奏、フリーメイスンの有力者の死(11月6日と7日に相次いで死去した結社員フォン・メクレンブルク大公とエステルハージ伯爵)の追悼式。
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11月20日
・モーツアルト、出版業者ホフマイスターに借金申入れ
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11月21日
・モーツアルト、ビアンキのオペラ「奪われた田舎娘」のために、三重唱「やさしいマンディーナ」(K.480)作曲。
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12月
・末、モーツアルト、クラリネットとバセットホルンのためのアレグロ・アッサイ変ロ長調(K.Anh.95(484b))(断片)、バセットホルンのためのアレグロへ長調(K.484e)作曲。
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12月1日
・松平定信、溜之間詰(幕府政治顧問の詰所)となる。
溜之間は、江戸城中の大名詰所の一つで、家門(将軍家一族)や有力な譜代大名の部屋。定信はここに、中央政界での地位を得た。

「この定信が溜間詰となったのは、田安の宝蓮院の願によるという事である。宝蓮院というのは田安宗武の室であって、即ち定信の嫡母に当る。定信が溜間詰となったから田沼が段々に勢力を失ったのではなかろうかと思う。」(辻善之助『田沼時代』)
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12月12日
・モーツアルト、ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 (K481)作曲。完成後すぐホフマイスターから出版。
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12月16日
・モーツアルト、ピアノ・コンチェルト 変ホ長調 (第22番) (K482)作曲。ブルク劇場12月23日の音楽家連盟の第2回クリスマス演奏会で幕間音楽として初演
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12月27日
・伏見奉行小堀政方、罷免。田沼政治改められ始める。

辻善之助『田沼時代』より(段落、改行を施す)
「天明五〔一七八五〕年の十二月二十七日になって、即ち定信が溜間詰となってから一ヵ月経たぬ内に、伏見奉行の小堀政方というのが罷められた、この一件の如きはいわゆる一葉落ちて天下の秋を知るというべきものではなかろうか。田沼の勢力はこの小堀の罷められたので察する事が出来ると思う。

この小堀政方の罷められたのは有名な文殊屋九助の一件から出て来たことである。はじめ、この政方が伏見奉行になった時には、頗る善政を行うて、旧来の弊習を破壊して、久しく結んで解けなかった訴訟なども、小堀が任命せられてから、直ちにその是非を判別して、大に民心を安んじたものである。そこで名奉行が任命せられたというので、人民大に喜んでおった。ところが段々襤褸(ぼろ)を出して、遂には極端から極端に走って、大に伏見の人間を苦めた。

はじめ、政方が大坂の城番であった時に芸妓を寵して、頗る遊蕩に耽った。或時は暁に達して家に帰るということが露れて、大に面目を失おうという時に、家臣これを憂えて、窃に同僚に賄賂をして、その過を蔽わんと図った。小堀家には古くから一つの茶壷を持っておった。それは在中庵と名け、足利義政が明から得たという物で、伝家の重宝となっておった。背に腹は換られめというので、窃にこれを千両の質に入れて、これを賄賂の資とした。これで以て漸々政方の遊蕩の事を隠すことが出来た。

その後伏見奉行になってから、或時京都の所司代久世出雲守というのに逢うて話の序でに、その有名な在中庵茶壷の話が出た。出雲守がどうかこれを一覧いたしたいという。これは有名な天下の重宝であるので、観せないという訳にもいかず、政方大に困った。帰ってこれを家来どもに相談したところが、近臣が皆どうしたら宜いか途方に暮れた時に、政方の妾に半井芳子という者があった。この芳子というのは元と江戸の医者で半井立仙という者の娘であって、頗る才色あり、和歌俳諧を善くしたけれども生来浮気で幼さい時から外に出て歩いて両親らもこれを子として見なかった。政方はたまたま芳子を途上に見てその美色を悦び、召して侍妾とした。この芳子が今の話を聞いて、なにそんなに困ることはない、宜しく人を大坂にやってこれを買戻すべし。僅か千両位の金ならば、これを町内の豪家から御用金で取上げれば宜い、これを返すのにはまたその時になってから法もあろうからそんなに心配するに及ばぬという。政方も大に喜んで、即日伏見の豪商二十余人を召して、旨を伝えて、忽ちにして千金を弁ずる事が出来た。そうして遂に襤褸を出さないで、所司代の久世出雲守に伝家の重宝たる茶壷を観せる事が出来た。これから芳子はますます政方の御気に入りになって、権勢が日々に盛んになった。

そこで段々奢を極めて、その結果遂に重税を伏見の人民に課して、かの文殊屋九助の訴訟となるのである。九助はその訴が容れられないところから、遂に江戸まで上って訴え出るという事になった。そうして長年の間、江戸に逗留して、訴訟のために奔走しておったけれども、取納れられなかったが、遂に天明五〔一七八五〕年の十二月二十七日になって政方の伏見奉行は免ぜられ、そうして文殊屋九助の訴が聴容れられたのである。

これによって見るとこの前年即ち天明四年に田沼山城守意知の難あってから、段々に田沼の失政が露われて、遂に定信が溜間詰となり、漸く将軍の信任を得て、田沼の権力が下り坂に向うようになったのだろうと思う。この小堀政方というのは、元と田沼のために登庸せられた者であって、一説には田沼の妾と小堀の妾とが姉妹であるところからその情誼によって小堀の悪事も久しく糾明せられないで済んでおったのだという。」
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2014年11月23日日曜日

1785年(天明5年)3月~7月 ピアノ協奏曲第21番作曲 父レオポルトのフリーメイスン入団 カンタータ「フリーメイスンの喜び」作曲 歌曲「すみれ」作曲 【モーツアルト29歳】

北の丸公園 2014-11-21
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1785年(天明5年)
3月2日
・ハインリヒ・マルシャンの初めてのコンサート。ブルク劇場。
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3月9日
・モーツアルト、「ピアノ・コンチェルト ハ長調(第21番)」 (K467)完成。
10日の音楽会(ブルク劇場)で演奏。
1967年スウェーデン映画「みじかくも美しく燃え」。
第2楽章「人間の声に関する一切の顧慮から完全に開放された、理想的なアリアのようなもの」(アインシュタイン)。
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3月11日
・この日付けレオボルトのナンネルル宛の手紙。
「ルブランさんと奥さん〔マンハイムのオーボエ奏者と歌手〕は素晴らしい演奏会を三回やりましたが、初回が千百フロリーン、第二回が九百フロリーン、そして第三回が五百フロリーンでした。お前の弟は自分の音楽会で五百五十九フロリーン収入をあげたが、これは、百五十人以上もの会員からなるメールグルーペの六回の演奏会を予約でやっているので予想もしなかったことだ。 - 加えてあの子は劇場でのほかの音楽会でも、好意で演奏するのだ。(中略)私たちは夜の一時前に眠ったことは一度もないし、九時前に起きることもなく、食事は二時か二時半です。悪い天気だ! 毎日、音楽会だし、いつも勉強したり、演奏したり、作曲したりなどで、私はどこへ行ったらよいのだ? - 音楽会さえ終ったら。面倒なことや落ち着かないことを全部書いて知らせることはできません。お前の弟のフォルテピアノのフリューゲル〔グランド型のクラヴィーア〕は、私がこちらにきてから、すくなくも十二回は家から劇場に、あるいは他の邸に運ばれたのだ。あの子はフリューゲルの本体の下に大きなフォルテピアノのペダルを作らせたが、これは六十センチぐらいの長さで、びっくりするほど重いのだ。毎金曜日にはメールグルーペに運ばれ、またツィヒー伯爵やカウニッツ侯爵のところにも運ばれたものだ」
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3月13日
・モーツアルト、ブルク劇場で音楽芸術家協会の「大音楽会」。「悔悟するダヴィデ」 (K469)演奏。15日にも再演。18日、最後の予約演奏会。20日、ナンシー・ストレースの音楽会に客演。

『悔悟するダヴィデ』(K469):
「大音楽会」第二部で「アマデウス・モーツァルト氏の時宜を得た新作カンタータ」、「合唱つき三声部」の曲で、「カヴァリエーリ嬢、ディストラー嬢、およびアーダムベルガー氏が主要アリアを歌」ったとある。
新作とあるが、実際には旧作の『ハ短調ミサ』(K427=K6・417b)の「キリエ」と「グローリア」に、ロレンツォ・ダ・ボンテのイタリア語テキストをあてはめたものを中心とするもの。
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3月19日
・この日付けレオボルトの手紙。
「思うに、私の息子は、借金を支払う必要がなければ、今すぐにも二千フロリーン銀行に預けられるのだ。お金は確かにあるし、家計は、飲食費については最大限につつましやかだ……」。
レオボルトは息子一家の現状にはおおよそ満足し、安心したものと推測される。
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3月24日
・モーツアルト、父と共にヴィーン訪問中のアロイジア・ランゲ夫妻を訪ねる。
26日、リート「結社員の旅」(K.468)作曲。
31日、ウィーン音楽芸術家協会のために、「カンタータ「悔悟するダヴィデ」(K.469)作曲。
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3月27日
・フランス、ルイ16世とマリー・アントワネットに第2王子ノルマンディー公ルイ・シャルル、誕生(後、ルイ17世)。
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4月
・モーツアルト、「ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第16番ホ短調のためのトランペットとティンパニ声部」(K.470a)作曲。
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4月1日
・モーツアルト、「ヴァイオリン協奏曲のためのアンダンテ イ長調」(K.470)作曲。
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4月4日
・カートライト、力織機を発明。
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4月4日
・モーツアルト父レオポルト、フリーメイスンの「ツア・ヴォールテーティヒカイト(善行)」分団に徒弟として入団。
16日には異例にも第2階級「職人位階」へ昇級。
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4月14日
・フランス、財務長官シャルル・ド・カロンヌ(51)、東インド会社再建。
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4月16日
・モーツアルト父レオポルト、がフリーメイスンの第2級に進級。昇級の儀式の際、リート「結社員の旅」(K.468)が歌われる。
22日、第3位階「親方(マイスター)」に昇進。
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4月16日
・フランス、ニコラ・ジャン・ド・ディウ・スルト(後、ナポレオンの元帥)、フランス王立陸軍歩兵隊に一兵卒として入隊。
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4月18日
・イギリス、ピット首相の議会改革動議が不成立。
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4月20日
・モーツアルト、カンタータ「フリーメイスンの喜び」 (K471)作曲。ロッジの大親方のなったボルンの栄誉を讃える
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4月21日
・ロシア、エカテリーナ2世、貴族と都市に対する特権認可状下付。
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4月24日
・モーツアルト、フリーメイスンの「ツア・ゲクレーンテン・ホフヌング(冠を戴いた希望)」で、別の分団「ツア・ヴァーレン・アイントラハト(真なる融和)」団長イグナーツ・フォン・ボルンを慶賀する祝典が行われ、父と二人で出席し、カンタータ「フリーメイスンの喜び」(K.471)が演奏される。
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4月25日
・モーツアルト父レオポルト、午前10半、弟子のマルシャンと共にウィーン出発、ザルツブルクに戻る。
4月26日リンツ到着。
5月中旬ザルツブルク到着。
モーツアルトはコンスタンツェを連れてプルカースドルフまで一緒に行く。それが父子の最後の別れ。
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4月25日
・スペイン、マドリード、ゴヤら3人の画家、サン・フランシスコ・エル・グランデ教会絵画の支払を求める嘆願書を首相フロリダ・ブランカ伯に提出。
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5月
・イギリス、のちのネルソン提督、ネヴィス島にてフランシス・ニズベット(1787年3月結婚)と出会う。
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5月4日
・モーツアルト父レオポルト、ミュンヘン着。それから1週間してザルツブルクに帰る。
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5月7日
・モーツアルト、ヴァイセ詩による3つの歌曲、リート「魔術師」(K.472)、「満足」(K.473)、「偽りの世」(K.474)作曲。
20日、フォン・トラットナー夫人に「クラヴィーアのための幻想曲 ハ短調」(K.475)作曲。
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5月20日
・アメリカ、土地条例制定。西部開拓が困難に。
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5月21日
・この日付けモーツアルトのマンハイムのアントーン・クライン教授に宛てた手紙
「私はやることで手がいっぱいで、自分で使える時間はほとんど一分もありません」と書く。
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5月25日
・石川雅望(まさもち、宿屋飯盛)の父、版画の木目刷りを創作した浮世絵師石川豊信(75)、没。
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6月
・三方郡早瀬浦での疫病被害。
村人224人のうち死者36、病人120、無難68という状況。家数44軒のうち24軒から死者が出、うち1軒は死に絶え、一家全員が病人の家が16軒。また、23軒が「無商売」「不仕」の状態で生活困窮。敦賀郡疋田村でも疫病によって潰家が約20軒でき、140余が死んだという(「酒井家編年史料稿本」)。
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・モーツアルト、「ホルン協奏曲楽章 ホ短調」(K.494a)(断片)作曲。
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6月1日
・イギリス、ジョージ3世、アメリカ大使ジョン・アダムズを接見。
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6月8日
・モーツアルト、ピアノ伴奏つき歌曲<すみれ> (K476)作曲。ゲーテの詩。モーツァルトが最後の2行「かわいそうなすみれよ! それは本当に可愛いすみれだった」を書き足す。
物語の展開に応じて音楽描写を変えていくロマン派リートの先駆けと名高い作品。この前後の作と見られる曲、K.475a (Anh.26) 歌曲「ひとり寂しく」(ニ短調、断片)。

この後、この年のモーツァルトの演奏会活動・作曲活動は急激に下火となる。
この年の夏に完成した作品は一つもない。『全自作品目録』に『すみれ』が書き入れられた6月8日のあと、モーツァルトが明確な日付を書き入れたのは11月5日の四重唱『せめておっしゃって、私がどんな過ちを犯したのか』(K479)。その間に仕上がった曲は10月16日の『クラヴィーア四重奏曲』(478)のみ。
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6月13日
・モーツアルト父レオポルト、ザンクト・ギルゲンへ行き、出産間近のナンネルをつれてザルツブルクに戻る。
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7月12日
・フランス、宝石商ベーメルよりマリー・アントワネットに首飾りの件で手紙が渡される。マリー・アントワネットは不注意にもそれを燃やしてしまう。
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7月23日
・ドイツ諸侯同盟成立
プロイセン王フリードリッヒ2世、ザクセン選帝侯やハノーヴァー選帝侯ジョージ3世とドイツ諸侯同盟結成。後、マインツも参加。オーストリアのバイエルン獲得計画挫折
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7月27日
・ザルツブルク、モーツアルト姉ナンネルル(34才)、長男レオポルト出産。父レオポルトは生涯この子の世話をしたという。
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・光太夫らが漂着したアムチトカ島に迎えの船が到着。接岸に失敗し、船は大破。乗組員24名は救助。
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2014年11月15日土曜日

1785年(天明5年)1月~2月 林子平『三国通覧図説』 ピアノ協奏曲第20番(K466)・弦楽四重奏曲『ハイドン・セット』完成  【モーツアルト29歳】

北の丸公園 2014-11-14
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1785年(天明5年)
この年
・幕府、勘定方役人を派遣。手賀沼・印幡沼開墾工事監督。
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・潰し銀といえど銀座以外での売買禁止令(再々度)。
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・幕府の蝦夷地調査。
老中田沼意次、工藤平助の意見採用、勘定奉行松平秀持の立案により蝦夷地見分隊を派遣。
翌年、田沼失脚により、松平秀持も勘定奉行解任、蝦夷地見分隊も江戸へ引き上げ。

宝暦・天明期は幕藩体制の全般的危磯の時期(年貢増徴策は頭打ち、広範な地域での百姓一揆続発、流通構造変化と幕府財政の危機)。
幕府は、財政立直しを蝦夷地の産物俵物貿易に求める。
また、ロシアの南下政策の活発化、工藤平助「赤蝦夷風説考」などの建白による抜荷(密貿易)などの風評を知り、幕府の北方への関心は強まる。
この年、普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎、庵原弥六、皆川沖右衛門、青島俊蔵らに命じ、蝦夷地検分を行わせ、翌6年には、択捉、得撫方面の調査を命じる。幕府はこの調査派遣を契機に、俵物を全国画一に直買制とし箱館に会所を開設、所役人に河野伴左衛門、青野助十郎を任命し検分役と同時に江戸を出発させる。

この天明度の検分は、国防的意図は殆どなく、抜荷・横流しの密貿易の有無、蝦夷地経営の経済力の実相調査が重要なる眼目。
そのため幕府は、この調査に際し、江戸の回船方御用達苫屋久兵衛を起用し、幕吏の蝦夷地輸送を命じ、アイヌ交易にも従事させ、俵物の直買など諸色産物の交易を積極的に試みさせて、その実体を把握し、進展しつつある蝦夷地漁業生産物一般を幕府直営下に置こうとする意図を含ませる。
調査の結果、請負人らが直接異国人と交渉していた事実は認められないが、アイヌをその取次ぎにして禁制の異国渡来品を軽物と称し、売買している事実をおさえ、たとえそれが手先のものの不正とはいえ、松前藩の取締り不行届の責めは免れられないものとして、後に東蝦夷地上地の口実となり、また松前藩転封の端を開く。
しかし、これら一連の政策は調査途中で老中田沼意次の失脚によって、一時中止される。
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・林子平、「三国通覧図説」著す。樺太は半島と断定。
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・この年、幕府、長崎の俵物会所を俵物役所と改め箱館に会所を設け、一手請方問屋を廃止して直仕入制をとる。
箱館が、北国筋の俵物集荷拠点となり、毎年江戸から普請役・請払役などが出張して、北国筋俵物の統制と買入れを行うようになる。
天明8年の買入高は、箱館3,546両、松前蝦夷地廻り3,458両、江差300両と、箱館と松前がほぼ同額となり、箱館が延享年代に比較して上昇、江差はこの両地に比べ1/10にも達せず。
寛政2(1790)年・同3年の買入高では、箱館が5,250両・9,827両、松前3,189両・2,246両、江差は1,350両・1,100両と、箱館が3港のトップになり、松前・江差は減少傾向す。これは、天明5年以降の箱館を中心とした幕府の俵物直仕入制の採用によるもので、幕府による蝦夷地支配への道を切開くものである。
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・この年、米沢藩主上杉鷹山の隠退。
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・パリ、新しい市壁が完成。市の境界が、拡大される。大臣カロンヌの計画。
新しい市壁は、高10フィー卜の壁で繋がれる45の税関の環の工事が完成、全長18マイル以上にわたりパリを囲む。
市の境界は、外に広がり、東のフォーブール・サン・タンワーヌ、北のフォープール・サン・マルタンとフォーブール・サン・ドニを囲い、西方のパッシ村とシャイヨ村、南の古いサン・ヴィクトル、サン・マルセル、サン・ジャック、サン・ジェルマンの「フォーブール(場末町)を初めてパリに加える。
第一の目的は、国内関税組織を強化し、密輸出入を阻止する事により、国王の収入を増加させることにある。実際1789年のパリの関税収入は、国家の総額7千万リーヴルの内、2,800~3,000万リーヴルをもたらす。「パリを取りかこむ壁が、パリに不平をいわせる」と云われる所以。市壁は、僧族・第三身分の不満の的となり、「人市税取立門」は、民衆の激怒の的となる。
この年、建築業の労働者は、請負人が押しつける賃金引き下げに反対してストライキ。
労働者数百人が警視総監ルノワールと談判し、他の者はブーノワの館にいる国王へ行進したのち、高等法院は労働者に賛成すると言明。
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・クルーゾに、フランスで初めて、石炭を用いる高炉が建設。
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・フランス、化学者アントアーヌ・ラヴォアジェ(42)、水素と酸素を燃焼させて水の合成に成功、水が酸素と水素の2つの気体が結合を実証。
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・フィリピン、王立フィリピン会社創立。~1830年。
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・フランス、サド候爵「ソドムの百二十日」刊行。
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・スロバキアのバンスカー・ビストリツァで「学術協会」が設立。
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1月1日
・イギリス、「ザ・タイムズ」創刊。
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1月4日
・童話作家グリム兄弟の兄ヤーコブ・グリム、誕生。
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1月7日
・フランス人ジャン・ブランシャール(32)と米人医師ジョン・ジェフリーズ、熱気球で初めて英仏間海峡横断。
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1月7日
・モーツアルト(29)、フリーメイスンの第2級(「職人」)進級。
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1月10日
・モーツアルト(29),「弦楽四重奏曲 イ長調(ハイドン四重奏曲第5番)」(K.464)、「弦楽四重奏曲 イ長調」(K.Anh.72(464a))(断片)作曲。
14日、「弦楽四重奏曲 ハ長調(不協和音)(ハイドン四重奏曲第6番)」(K.465)作曲。
15日、自宅にヨーゼフ・ハイドン他を招待し、ハイドン四重奏曲の最初の3曲(K.387、421(417b)、428(421b)を演奏。
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1月12日
・アルターリアが『ヴィーナー・ツァイトゥング』誌上に、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲の連作(K413~K415)のパート譜の広告を掲載。
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1月22日
・この頃のモーツアルトの活動を伝えるこの日付けレオボルトの手紙。
「今しがた、お前の弟の短信を受け取ったが、あの子の最初の予約演奏会が始まるのが二月十一日で、毎金曜日に続いて催されること、四旬節の第三週にはハインリヒのために劇場での音楽会を一日必ず催すこと、私にすぐにも来てもらいたいこと、 - 先週の土曜日に自作の四重奏曲六曲を、親友のハイドンや他の友人たちに聴かせたことが書いてある。これらの曲はアルターリアに百ドゥカーテンで売ったものだ。最後にはこう書いてある。『ところでまた作りかけの協奏曲にかからなければなりません。さようなら!』」
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1月 28日
・モーツアルト父がミュンヘン、ヴィーンを目指してザルツブルクを出発。ミュンヘンでは弟子のハインリッヒ・マルシャン家に泊まる。オペラや舞踏会に顔を出し、2月7日、ハインリッヒと共にミュンヘンを出発、アルトエッティング、ハーク、ランバッハなどを経て、11日にヴィーンに到着。
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1月31日
・皇帝ヨーゼフ2世、警察長官に「フィガロの結婚」の上演を禁止するか変更を加えさせるか要請。結果、2月3日予定の上演禁止。
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2月
・鯖江藩領内の各組から計7603人の飢人救願が出され、3月にこの飢人に20日ないし30日分の稗代として金200両、このうち東鯖江村へは35人・20日分として銀45匁8厘が下される。4月には作食米1千俵が貸し与えられる。
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2月10日
・モーツアルト、「クラヴィーア協奏曲(第20番) ニ短調」(K.466)完成。
短調が基調となった初めてのピアノ協奏曲。ベートーベンは熱愛、カデンツァも書く。
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2月11日
・モーツアルト父レオポルト、ウィーン到着。夜、メールグルーベで開催された息子の予約演奏会に出席。「クラヴィーア協奏曲(第20番) ニ短調」(K.466)が演奏。

2月26日付けレオポルトのナンネルル宛ての手紙
「お前の弟が家に必要な家財道具一切がついた立派な住居にいることは、家賃を四百八十フロリーンも支払っていることからもお前にはわかるだろう。〔到着〕当日の晩に、私たちは六時にあの子の最初の予約演奏会に出かけたが、身分の高い人たちがたくさん集まっていた。めいめいが六回の四旬節演奏会に一スヴラン・ドールまたは三ドゥカーテンを支払うのだ。メールグルーペが会場で、あの子は会場費として毎回わずか半スヴラン・ドールを払うだけだ。演奏会はまことに素晴らしいもので、オーケストラもみごとだった。いくつかの交響曲のほかにイタリア語劇場の女性歌手がアリアを二曲歌った。それからヴォルフガングの素晴らしい新作クラヴィーア協奏曲(*前日作曲したばかりのK466)があったが、私たちが着いた時、写譜屋はまだそれを書いていたし、お前の弟はロンドーをまだ一度も通し弾きしてみる時間がなかったのだ。筆写譜に目を通す必要があったからね。たくさんの知りあいに出会ったことと、みんな私のところに走り寄ってきたことは容易に想像できるだろう。ほかの人たちにも引き合わされたよ。土曜日の晩にはヨーゼフ・ハイドンさんとお二人のティンティ男爵が私たちのところを訪ねてこられ、新作の四重奏曲が演奏された。でも、すでにある他の三曲につけ加えた新しい三曲だけが演奏されたのだ。これらの曲はたしかにいささか軽いものだが、素晴らしい作品だ。ハイドンさんは私にこう言った。『誠実な人間として、神の前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実ともども知っている最も偉大な作曲家です。様式感に加えてこの上なく幅の広い作曲上の知識をお持ちです。』日曜日の晩には劇場で、イタリアの歌手ラスキ嬢の音楽会があったが、彼女はもうイタリアに旅立ちます。彼女はアリアを二つ歌ったのだが、チェロ協奏曲があり、テノールとバスがそれぞれアリアを一曲、それにお前の弟はパリ用にとパラディス嬢のために作った素晴らしい協奏曲を弾いた。私はたいそう美しいヴュルテンベルク公爵令嬢からうしろに二つほどロージュをへだてていただけで、楽器の交替はすべてものすごくよく聴き分けられるという満足がえられたので、この満足感で眼に涙があふれたものだった。お前の弟が退場すると、皇帝は手にもった帽子で挨拶をおくり、『ブラヴォー、モーツァルト』と叫ばれた。」
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2月11日
・この日の夜、ヨーゼフ・ハイドン、フリーメイスン分団「ツア・ヴァーレン・アイントラハト(真の融和)」ロッジに入会。ただし、年の暮れ頃に脱会したらしく、会のための音楽曲は一つも書いていない。
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2月12日
・モーツアルト、ハイドンを招待。弦楽四重奏曲「ハイドン・セット」のうち3曲「変ロ長調K458(狩)」「イ長調K464」「ハ長調K465(不協和音)」等演奏。演奏者は、父レオポルト、ティンティン男爵兄弟、モーツァルト。
この3曲に、ト長調K387、ニ短調K421=K6・417b、変ホ長調(K428=K6・421bⅣ四三b)を加えた6曲の連作はこの年9月にアルターリアから出版される。ハイドンは9月1日付で有名な献辞を送る。

ハイドンはレオポルトに「あなたの御子息は私が個人的に知っている、 あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な人です。 御子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです。」と語る。これが父・子の最後の対面。2人の長年のしこりも幾らか溶けたようで、息子の勧めにより、父は4月4日にフリーメーソンに入会。
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2月13日
・ウィーンでラスキ嬢の音楽会。パラディス嬢のための協奏曲(変ロ長調K456)演奏。
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2月中旬
・この月中旬、蝦夷地調査隊が出発し、帰還後報告書を提出。
報告は、調査継続とともに、蝦夷地開発とアイヌ人の農耕民化を訴える。
見積りによれば、本蝦夷地(北海道)の十分の一を開発すると116万6,400町歩(583万2千石)の耕地が得られるという。
開発には浅草の弾左衛門以下の長吏(ちようり)や非人も動員されることになった。
しかし、これが実行される直前の天明6年(1786)8月、田沼が失脚し、計画は頓挫した。
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2月17日
・モーツアルト父レオポルト、コンスタンツェの母マリーア・ツェツィーア・ウェーバー訪問。
18日、シュテファニー訪問。
19日、宮廷俳優ミュラー邸で午餐会。
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2月18日
・モーツアルト予約演奏会、多く開く(2月11、15、18、25日、3月3、11、18日と続く)
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2月24日
・ナポレオン父シャルル・ボナパルト、没。ナポレオン、母親のために節約を心掛ける。
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春の頃
・天明5年春頃より、また米価が騰貴し始める。天明3年以来、江戸へ流入する難民の数は増加する一方で、しかも高物価にあえぐ武家・町家では、人減らしのため奉公人をつぎつぎに解雇したので、無宿者となるものが多く、市中は不穏な空気につつまれた。
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