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2024年12月16日月曜日

万寿4年(1027)12月4日 入道前摂政太政大臣従一位、藤原道長(62歳)歿

江戸城(皇居)二の丸雑木林 2013-05-23
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万寿4年(1027)
6月13日
「興昭阿闍梨が云(い)ったことには、「すぐに危ない様子はありませんでしたが、未だ日没に及ばない頃、(源俊賢が)入滅しました」と云うことだ<69歳。員外帥(源高明)の遷化(せんげ)も69歳であった>。」(『小右記』万寿4年(1027)6月13日条)
11月
・道長の危急はもはや明らかとなり、中宮の法成寺行啓があり、大赦がおこなわれ、修法・読経はあいついで各所に修せられた。
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11月10日
「夜に入って、中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「初め禅室(藤原道長)に参りました。はなはだ危急でいらっしゃいました。臥したまま、汚穢(おわい)が有りました。ところが心神は、通例のとおりでした」と云うことだ。」(『小右記』万寿4年(1027)11月10日条)
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11月13日
夜に入って、中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は増減はありません。昨夜、沐浴し、念仏を始められました。外の人は、その声を聞いて、上下の者が走り迷いました。・・・
「・・・『入滅されるということを思っている』と云(い)うことです。公家(くげ/後一条天皇)は、千人の度者を奉られました。関白(藤原頼通)は禅閤(藤原道長)の為に万僧供(まんぞうく)を行います」と。」
『小右記』万寿4年(1027)11月13日条
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11月21日
・道長の衰弱はさらに進み、飲食も絶え、くわえて背中に腫物を発し、意識も明確を欠くに至る。
「中将(藤原資平)が禅門(藤原道長)から来て云(い)ったことには、「時に従って、いよいよ危急です。無力は特に甚だしいものです。痢病(りびょう)は、数えきれません。また、背中の腫物(しゅもつ)が発動しました。・・・」
「・・・医療を受けません。あれこれ、多く危ないです。行幸の日を待つことは難しいであろうということについて、家の子が談ったところです」と。・・・」
「・・・「女院(藤原彰子)と中宮(藤原威子)がいらっしゃいました。ところが親しく見舞うことは難しいのです。汚穢(おわい)の事が有るからでしょうか」と云(い)うことだ。」
(『小右記』万寿4年(1027)11月21日条)
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11月24日
・道長が首を振る症状を呈した。
医師和気相成(すけなり)は、これを腫物の毒がまわったためで、容易ならざる事態と見た。
その夜半、道長は天台座主院源の勧めにより、阿弥陀堂の中央正面に座を移した。ここが彼の最後の座所である。
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11月25日
「早朝、(宮道)式光が云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は夜半、阿弥陀堂の正面の間に移られました。座主が催し申したからです」と。」(『小右記』万寿4年(1027)11月25日条)
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11月26日
・後一条天皇の法成寺行幸がある。
封戸500戸が寄進され、また、道長の家司2人の昇進が発表され、かれらは法成寺の塔の造営に従事することになった。
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11月29日
・東宮の行啓がある。
その夜、妻の源倫子は賀茂守道に陰陽道の招魂の祭を行なわせた。道長の体を離れてなかば浮遊している魂を、もういちど呼び帰そうとする。守道が祭を行なった時、人魂が飛来したといわれ、彼は褒美を与えられた。
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11月30日
「(和気)相成朝臣(あそん)が云(い)ったことには、「召しによって、御堂に参りました。背中の腫物(しゅもつ)は、針治を行うという決定が有りました。ところが今日は、忌みが有ります。・・・」
「・・・来月4日、病状に随って、瘡口(かさぐち)を開き奉るべきであるということを申しました。不覚の瘡の様子とはいっても、通常のようであれば、治りません。そこで延期を申しておきました」と。」
(『小右記』万寿4年(1027)11月30日条)
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12月1日
・夜、医師丹波忠明は道長の背のの腫物に針を立て、膿血を少し取り去ったが、もはやどうすることもできない。

『栄花物語』によれば、道長は立てまわした屏風の西側をあけて、九体の阿弥陀仏に面し、西向き北枕に臥した。これは釈尊入減の姿勢である。そして手には阿弥陀仏から引いた糸を取り、ひたすら仏を仰ぎ、念仏を唱えるのみであった。堂の内外では不断念仏がおこなわれ、瞬時も休まず念仏の声が響く。
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12月2日
「(宮道)式光が云(い)ったことには、「去る夜半の頃、禅閤(藤原道長)は(但波)忠明宿禰に、背中の腫物(しゅもつ)に針治を施させました。膿汁と血が少々、出ました。吟(うめ)かれる声は、極めて苦しい様子でした」ということだ。」
中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「禅室(藤原道長)は、同じようなものです。その頼みは、すでに少ないものです」と云うことだ。
(『小右記』万寿4年(1027)12月2日条)
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12月3日
・道長は一旦息絶えたかに見えたが、夜に入ってなお身を動かす気配を見せて生気を残し、4日寅の刻(午前4時)、ついに没した。
その後も上半身は冷えないというので念仏が続けられ、人々も決しかねたが生き返るはずもなく、そのまま、4日午前の死亡が確認された。

こうして、入道前摂政太政大臣従一位藤原朝臣道長は、その62年の生涯を終えた。

『栄花物語』は、「御目には弥陀如来の相好を見奉らせ給、御耳にはかう尊き念仏をきこしめし、御心には極楽をおぼしめしやりて、御手には弥陀如来の御手の糸をひかへさせ給」と描かれている。心乱れず念仏を唱えて亡くなることが極楽往生には必要とされていた。

「巳剋の頃、(宮道)式光が来て云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は、昨日、入滅しました。ところが、『夜に臨んで、揺れ動く気配が有る』と云うことでした。今日、寅剋、すでに入滅しました。・・・」と。」
「夜半の頃、中将(藤原資平)が伝え送って云(い)ったことには、「禅室(藤原道長)は入滅しました<62歳>。また、按察大納言(藤原)行成卿が、急に薨じました<56歳>」と。」
(『小右記』万寿4年(1027)12月4日条)

12月日7日夜、勅使差遣の中に彼の遺体は烏辺野で火葬に付され、翌8日、権左中弁藤原章信の首にかけられた遺骨は、藤原氏代々の墓地である木幡(宇治市木幡)に向かった。
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同日、藤原行成、没。

大殿道長が亡くなると、関白頼通は女院の意向をうかがいながら、実質的な一上であった実資らと相談して政務を決定している。

■道長の歴史的意義:仏教信仰の上で新たな時代の先駆け
道長は、摂関政治のあり方を確立したという政治史上の意義のほかに、文化的には、後宮文化・女流文学を支えたパトロンとしての役割は大きい。
また、宗教文化において独特な役割があった。
神祇祭祀では、大嘗祭御禊など後宮との関わりで新たな儀式をおこした。

仏教信仰の上では、新たな時代の先駆けとなった。
仏教信仰の中で道長のなしたことは、それまでの権力者がしなかった独自性があり、またのちの時代のように悪趣味に堕さなかった。
生涯に行なった造寺造仏など多くの作善は、それまでになかった新しいものが多く、道長の進取の性格がうかがわれる。

金峯山へ登っての理経は、蔵王権現信仰、弥勒下生信仰、法華経信仰など複雑な要素をもつが、道長にならって金峯山に理経した師通などに受け継がれ、やがて院政期には末法思想と浄土信仰と結びつき性格を変えながら、全国に多くの経塚の流行をみる。

また、道長は最晩年の治安3年(1023)10月、高野山に登り、自筆の金泥法華経1部と般若理趣経30巻を弘法大師御廟前で供養して、兜率天浄土への往生を祈った。
3年後の万寿3年には道長の娘上東門院彰子が落飾して御廟前に納髪した。
これは高野山奥の院の納髪納骨の最古の例であるが、道長の高野山参詣は、頼通(永承3年(1048))、師実(永保元年(1081)の参詣へ継承され、院政期には白河上皇、鳥羽上皇をはじめ貴族のさかんな高野山参詣と理経供養に続いていった。

木幡の浄妙寺は、一族の墓所に追善としての法華堂を建てたもので、自らの法華信仰を基礎にしていたが、院政期以降、葬堂としての法華堂の展開をもたらすことになる。

法性寺五大堂は、再建ではあったが、こののちの五大堂の建築様式の定着をもたらす。

法成寺については、まず無量寿院の九体阿弥陀堂が、康尚の阿弥陀仏の美術性もあり、のちの九体阿弥陀堂の濫觴(らんしよう)となる。
また薬師堂の七仏薬師、六観音、あるいは釈迦堂の釈迦像百一体などの群像彫刻が多く、これがのちに院政期になって、長承元年(1132)に鳥羽法皇が平忠盛の援助でたてた得長寿院の千体等身聖観音像、そして長寛2年(1164)に後白河法皇が平清盛とともに造った蓮華王院の千体等身観音像などの千体の群像という数量主義へ発展していった。

また法成寺金堂の三丈二尺の大日如来像など、巨大な仏像が造られたことも特徴である。

「法成寺とは実にこの究極目的-即ち造形・律動の経緯によって織り出される浄土変相の立体的表現を目標とし、あらゆる芸術部門を総動員して構成された美の一大体系であったと云うことができる」(家永三郎)。

そして、この総合芸術は、息子頼通のたてた平等院において完成にいたる。
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万寿3年(1026)~万寿4年(1027) 太皇太后彰子出家、上東門院の号を与えられる 10月 皇太后妍子(34歳、道長の娘)、歿。 道長「御ともにゐておはしませ」と号泣(『栄花物語』)

江戸城(皇居)東御苑 天主台 2013-05-15
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万寿3年(1026)
この年
・島津荘の起源
摂関家所領のうち、その後、高陽院領となる荘園には、日向・大隅・薩摩三国にわたる広大な島津荘もあった。
島津荘は、この年、大宰大監(だざいのだいげん)平季基と弟平良宗が日向国諸県郡島津院を開発して関白頼通に寄進したことが起源である。
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1月19日
太皇太后彰子が出家、落飾し法名を清浄覚とする。
同日、東三条院詮子(一条天皇母后)の先例にならって女院号を与えられ、上東門院を称した。
後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。

太皇太后(藤原彰子)は御出家される。そこで上東門院(土御門院)に参った<宰相(藤原資平)は車後に乗った>。・・・渡殿の簾中に於いて謁談した。起って太后の御出家について語った。涕泣は雨のようであった。
「(後一条)天皇がおっしゃって云(い)ったことには、「(藤原彰子の)太皇太后宮職を停めて、上東門院とするように。・・・」ということだ。」
『小右記』万寿3年(1026)1月19日条

女院となってからも上東門院は内裏に出入りしているが、毎年朝覲行幸が行われ、女院が太上天皇に准ずる地位であったことがわかる。
ただし、女院となることは后位を退くことであり、皇太后・太皇太后時代は常に天皇の側にいて摂関とともに天皇を補佐していたのが、離れた所から天皇へ影響を与えていくようにその立場は変化した。
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8月8日
・この年、定朝が、後一条中宮威子の御産祈祷にため、27体の等身仏(釈迦尊・七仏薬師・六観音・五大明王・六天)を造った。
「作米千石、尺九寸(約58cm)木十三枝余、七八寸卅余枝、二寸半板百枚、砂金百六十余両、鉄百卅余延」(『左経記』この日条)
必要な料物と材料が柱の太さで注文されていることがわかる。

また、約2ヶ月弱で仏像が造られて、安置の際には康尚以下21人の大仏師と、その下に各5人の計105人の小仏師に賜禄されていて(『左経記』10月10日条)、大規模な仏所が組織されていたことがうかがえる。
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11月
・越前国気比宮神人、陽明門で加賀守但波公親を訴える
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万寿4年(1027)
1月
・中御門大路、富小路から出火した火災が延焼し、法興院、安養寺が焼亡。あわせて「千余家」が焼亡(『日本紀略』)。
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5月
・この月、道長の男子で出家していた顕信が無動寺で没す。
顕信は、長和元年(1012)正月、自ら右馬頭の官を捨てて比叡山に入って出家した。
この頃から、道長の娘の皇太后妍子が病を発し、道長自身も故障がちである。
妍子の病は不明であるが、数々の修法にもかかわらず病状は進む一方で、道長も食欲を失って衰弱しつつあった。
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9月14日
・皇太后妍子(34歳)、歿。
9月3日、妍子は十中九まで絶望といわれ。そして、14日、髪を切って出家の姿となり、即日没した。
『栄花物語』によれば、妍子は8月に枇杷殿から法成寺に移っていた。
9月14日朝、衣を改めて父道長を呼び、手まねで髪を切るさまを示し、道長は泣く泣くその用意を整えたという。没したのは申の刻(午後4時)。
道長は、「御ともにゐておはしませ(一緒につれて行ってください)」と号泣したと伝えられる。
(寛子、嬉子に続いて)重ね重ね、子に先立たれた悲しみが、衰えた道長に最後の打撃を加えた。
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10月28日
・皇太后妍子の七々日忌が法成寺阿弥陀堂で行なわれたが、道長は既に法事に列座することもできなかった。
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治安4年/万寿元年(1024)~万寿2年(1025) 赤斑瘡(麻疹)が流行 道長、二人の娘(寛子、嬉子)を失い、悲嘆極まりなし 

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-05-08
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治安4年/万寿元年(1024)
7月13日
・万寿に改元
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万寿2年(1025)
・この年、赤斑瘡(麻疹)が流行
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1月10日
・頼通(34歳)に初めて子どもが生まれる。子はのちに元服して通房と名付けられた。母は源憲定娘。通房は生後まもなく祖父道長の土御門第で養育されることになった。
『栄花物語』などによると正室の隆姫が嫉妬深く手元に置きたがらなかったとう。
通房は13歳で従三位、18歳で権大納言になるなど頼通の後継者として順調に官位を進めていたが、長久5年(1044)年、突然の病により没した。
頼通は18歳の時、寛弘6年(1009)頃、具平親王の娘隆姫と結婚したが、子どもができなかった。
そのこともあって、妻隆姫の弟源師房(もろふさ)と自らの弟教通の長男信家を養子にしていた。また、源顕基や源俊房も養子となった。
これらの養子は頼通が自分の跡継ぎを得るためのものではなく、一族の子弟を後見したり、養子を通じて親族関係を結び、その結合を強化するためであったとされている。
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2月9日
・行成が先月の踏歌節会(とうかのせちえ)での大納言藤原斉信(ただのぶ)の失錯を扇に記しておいたところ、誤って披露され、斉信にひどく怨まれた(『小右記』この日条)。
行成は「暦に記さんがため、先づ扇に注す、彼の日の事を忘れざらんがため」という。
彼の日記『権記』は、毎日の政務が客観的に記されて有名である。公事の失錯は厳しくチェックされて日記に記されていた。
のちに「古今著聞集」「古事談」にとられた有名なエピソード。
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7月9日
・小一条院女御藤原寛子、没。
寛子は久しく病気がちで、ことにこの数ヶ月は食欲を失い、衰弱の末、7月8日に髪を切って尼の姿となり、翌日没した。
彼女の病は、夫を奪われて憤死した前女御藤原延子や、その父左大臣顕光の怨霊によるものと信じられている。
『栄花物語』には、寛子の死に際してこれらの「もののけ」どもが勢いづき、同音に「いまぞむねあく(やっとさっぱりした)」と叫んだと記されている。
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8月
・この月、大納言藤原斉信は、娘が出産に際して麻疹に罹り、危篤状態となった時、一生魚鳥を食わぬという誓願を立てる。
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8月3日
「申(さる/午後3時~午後5時)の終剋の頃、左衛門尉(宮道)式光が馳せて来て、云(い)ったことには、「尚侍(藤原嬉子)は男児(王子親仁)を産みました。後産(のちざん)については未だ遂げられていません」と。」(『小右記』万寿2年(1025)8月3日条)
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8月5日
・東宮敦良女御藤原嬉子(19)、没
道長は相次いで2人の娘を失う。
嬉子は、臨月に赤斑瘡をわずらい、8月3日、かろうじて王子を出産したが、そのまま危篤の状態に入って5日、歿した。
寛子の母は源明子、嬉子の母は源倫子であったが、僅か1月足らず2人の娘に先立たれたことは、これまでそのような不幸を味わうことのなかった道長にとって、深刻な嘆きであった。

宰相(藤原資平)が帰って来て云(い)ったことには、「未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時)の頃から、鬼籍に入ったようです。(藤原嬉子は)遂に入滅しました。諸僧は分散しました」と云うことだ。(『小右記』万寿2年(1025)8月5日条)
早朝、上東門院(土御門院)に参り向かった。立ったまま、源宰相朝任に相対した。退帰した。禅閤(藤原道長)・北方(きたのかた/源倫子)・関白(藤原頼通)・内府(藤原教通)は、同処に於いて悲泣していた。『小右記』万寿2年(1025)8月6日条

嬉子の遺骸は7日、入棺の上、車に載せ、土御門邸を出て法輿院の北の僧房に移されたが、道長、関白頼通以下、藁履(わらぐつ)をはいて歩行してこれに従った。女房たちの悲泣の声は絶えず、道長の悲嘆きわまりなく、天下の男女は空をあおいで嘆息したと記録に見える。道長は尚諦めきれず、嬉子が生き返るという夢を見て魂を呼び戻そうと種々の秘法を行なわせた。
その間、同じく道長の娘である中宮威子、さらに後一条天皇が、相次いで赤斑瘡に罹っている。
ここにも例によって顕光や延子の怨霊が現れ、人々の恐怖・混乱は容易に静まらなかった。

9月21日、嬉子の七々日の法事が法成寺阿弥陀堂で行なわれ、実資も参列して、やがて道長とも対面したが、道長は絶えず涙を流し、その言語もよく聞きとれなかったという。
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12月18日
・『小右記』に書かれた平維衡の常陸介在任中の国守ぶり。
『小右記』この日条に、維衡の後任藤原信通の書状が引用されている。

それによれば、前司維衡以往の常陸国内作田は僅かに300町で、「人民飢餓」「国いよいよ亡弊」という状態が現出していた。
また、万寿元年常陸国の相撲人公侯(きみこべ)有恒が、何者かによって殺害された。
維衡が、犯人は同族の常材(恒木)なる人物だと言上すると、常材は国守維衡が犯人だと切り返した。
真相は、任期切れ直前の維衡が有恒らを殺害し、彼の妻を責めて犯人は常材と言わせたところにあるらしい(『小右記』万寿2年7月21日条)

維衡は当時の受領国司一般と少しも変らぬ、無道な収奪吏であったことを暗示している。
彼は、国内に盤踞する同族常陸平氏(貞盛の弟繁盛の子孫たち)になにがしかの便宜を与えながら、彼らの協力をえ、常陸国内支配を実現したと推測できる。
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寛仁4年(1020)6月~寛仁5年/治安元年(1021)4月 「無量寿院講堂の礎を上達部曳くべし。・・・近日、疫病方発し、下人死亡す。遺りたる民無かるべきに似たり。万人悲歎す。誰人を以て曳かしむるか」(『小右記』)

江戸城(皇居)二の丸雑木林
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寛仁4年(1020)
6月14日
・この日付け『左経記』。
関白内大臣頼通が病気により関白と随身を辞する上表を奉じ、不許可の勅答が下ったとある。
この上表と勅答は太皇太后彰子に覧じられた。
これらの文書は本来関白頼通へ申上されるべきものであるが、関白自身の辞表であるため、代わりに太皇太后彰子へ覧じられた。
後一条天皇が元服した後も、母后は関白とともに天皇を補佐していた。
この時期には、太皇太后彰子は内裏にいる時でも後一条天皇や東宮敦良親王(後一条弟、母は彰子)から朝覲を受けており、上皇待遇であった。
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7月
・この月、道長、頼通の病いのため実資と共に法性寺五大堂に籠る。
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8月3日
・畿内5国を中心として、鴨川堤防の築造が国々に割りあてられ、その受領が築造の費用や人夫を負担した。
この日、近江守源経頼は、堤の造成の様子を次のように記す(『左経記』)。
「午剋(うまのこく)をもって防河の事を始む。官史忠信、史生以下を率いてその所に臨み、国々に分ち充て験札(けんさつ)を立つと云々。近江の所当は、川合社西、賀茂下社以南の堤百七十丈、これを築くべし。・・・」
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10月14日
・この日の春日社行幸には、母后(太皇太后彰子)は天皇と同輿している。
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10月16日
「「入道大納言(藤原道綱)が、昨夜、入滅した」と云(い)うことだ。」(『小右記』寛仁4年(1020)10月16日条)
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12月3日
・平維衝(伊勢平氏の祖)は、藤原実資とも主従関係を結ぶようになっている。
この年、彼は常陸介として赴任するにあたり、実資より餞けとして馬1匹を与えられた。
実資は、自分は維衝の赴任日を知らないが、「家人たるの上芳心有るにより兼日遣はす所なり」と述べている。
馬を引いていったのは維衝の郎等の通政という人物であった。実資は通政を「我か僕」と呼んでおり、維衡と実資は従者を共有する関係にあった(『小右記』12月3日条)。
こうして彼は、道長・顕光・実資といった政界有力者たちと、それぞれ別個に主従関係を結ぶようになった。
維衡が受領を歴任しえたのも、これら政界有力者たちとの関係によってであり、『尊卑分脈』によれば、彼は上野・常陸・伊勢・陸奥・出羽・伊豆・上野・佐渡の国守に任ぜられている。
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閏12月13日
・平維幹(常陸大掾氏の祖)の子為幹が故常陸介藤原惟通の妻を強姦するという事件が起きたが、為幹は、実資の指示により、密かに平維時のもとに預けられ(『小右記』寛仁4年閏12月13日条)、結局、罪に問われることはなかった(『小右記』治安元年12月26日条)。
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寛仁5年/治安元年(1021)
この年
・道長「御堂関白記」記述終了
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・寛仁2年(1018)、道長は奝然が宋からもたらし、没後建立された清凉寺に納められていた宋版一切経を半ば収奪するようにして自邸に納め、この年、前年に供養した法成寺経蔵に収納した。
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1月24日
・藤原実資の養子資頼が伯耆守に任命されて赴任する際の記事。
資頼は、この日の県召除目において伯耆守に任じられ、26日に入道殿(道長)・関白殿(頼通)のところへ挨拶に行っている。
2月2日、赴任に当たり頓料(とんりよう、挨拶の品)の麻100端(たん)を入道殿(道長)の元へ奉じている。
さらに、「一、恒例の神事を勤仕すべき事、一、農桑を催し勧むべき事、一、早く国内の濫行の輩を制止すべき事」の三事からなる庁宣を在庁官人・書生らへ下した。
前司藤原隆佐からは分付帳(国司交替に際して作成される帳簿)が届き、馬などが贈られて来ている。
3月7日午時(正午頃)に出発。出発に際して、陰陽師の安倍吉平が道中の安全を祈る反閇(へんぱい、特殊な足の踏み方をする呪法)の儀を行った。
また、当日早朝、実資は資頼に対して絹の装束と絹40疋が納められた衣櫃1荷と馬4疋を贈っている。
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2月2日
・治安に改元。辛酉革命に当たるため改元。
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2月29日
・この日付け『小右記』に、実資の養子資平の言葉として「無量寿院講堂の礎を上達部(公卿)曳くべし。上上臈は三果、下臈は二果、てへり。二百余人を以て一果を曳くべし。二日に引き着くべしと云々、てへり。是れ鴻臚(館)の石と云々。近日、疫病方発し、下人死亡す。遺(のこ)りたる民無かるべきに似たり。万人悲歎す。誰人を以て曳かしむるか」とある。
講堂の礎石を公卿に据えるように割り当てたが、一つの礎石を据えるのに200人必要で、2日間で行わなければならず、当時疫病が流行して礎石を曳かせる下人(民衆)がいないような状態であるのにと嘆いている。
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4月27日
・この日の夜、道長の次男教通(17)は四条大納言藤原公任の娘(13)と結婚した。
式は公任の姉太皇太后遵子の御所の西の対(たい)で挙げられ、公任は婿教通の世話に一生懸命であった。日常の世話はもとより、朝儀に詳しい彼は婿教通のために作法の心得を記して参考にした。彼の著書で儀式の書として名高い『北山抄』は、このような婿のための指導書を一部分として出来上がったものである。
公任には定頼などの息子もいるが、それに対してはこのような心遣いは見せていない。
朝廷で教通がちょっと体のぐあいが悪いといって退出すると、公任もすぐ後を追って中座退出することは再三で、その婿に対する気の使いかたは大変なもの。
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寛仁3年(1019)5月~6月 対馬判官代長岑諸近の密航 刀伊賊追討の論功行賞

横浜市 2013-03-17
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寛仁3年(1019)
5月26日
・賊の襲来と、旱魃とを合せて払うために仁王会が行なわれた。
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6月9日
「夜に臨んで、宰相(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「入道殿(藤原道長)は、羅漢を供しました。四条大納言(藤原公任)と左兵衛督(源)頼定が云ったことには、『左府(藤原顕光)が辞退される』と云うことです」ということだ。」(『小右記』寛仁3年(1019)6月9日条)
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6月15日
・対馬判官代長岑諸近の密航
判官代は、令制で正規に定められた職ではないが、諸国に置かれていた国衙の在庁官人の職の一つで、在地の有力者を充てるもの。
刀伊が対馬を襲ったとき、長岑諸近は母や妻子・従者など10余人共に捕われるが、賊船が再度対馬に立ち寄った際、ひとり脱走して帰島した。

そして、
長岑は、連れ去られた老母の身の上を思い、死を賭してその行方を探ろうとして、禁ぜられている海外密航を企て、6月15日夜、密かに小舟に乗って高麗に向かった。
彼の密航は翌日発覚し、対馬から大宰府に報告された。

諸近は無事高麗に着き、通訳の仁礼という者から事の始終を聞くことができた。
その話によれば、刀伊はまず高麗沿岸を荒らし、高麗がその撃退を準備している間に日本方面に向かった。
高麗が再度の来襲を予想して軍兵兵船を用意したところに、刀伊は再びやって来た。
高麗では5ヶ所の根拠地に千余の兵船を備え、各所に賊を迎え撃ってこれを悉く撃破した。
ところが、その船中には多数の日本人がいたので、これを収容した。
5ヶ所の根拠地のうち3ヶ所から集まった者だけで300人以上いる。
官では更に残りの2ヶ所からも日本人を集めて、全員を船で日本に送還することを決定しているから、帰国してこれを伝えるように、とのことであった。

そこで長峯は高麗に救助された対馬出身者たちに会って、家族の消息を尋ねた。
彼らの話によると、刀伊は日本から引き上げて再度高麗を襲い、日々強壮な高麗人を捕えて来ては、その代わりに船中の病者・弱者を海に投げこんだという。
長岑の母、妹、妻子はこうして殺され、残ったのは伯母1人だけであった。

渡海の禁を破った密航者である長峯は、このまま帰国したのでは敵国通謀の罪にも問われかねないため、生き証人として刀伊に捕えられていた日本人の女10人を連れて帰国した。
7月7日、対馬に帰着した。
*
6月15日
「宰相(資平)が来た。・・・次いでに云(い)ったことには、「或いは云ったことには、『道綱卿が入道殿(道長)に申させて云ったことには、「私(道綱)は一家の長兄である。今回、もし丞相に任じられなければ、何の恥がこれに勝ろうか。・・・」
「・・・ただ、一、二箇月、貸してくだされ。・・・」と』と」ということだ。私(実資)の思うところは、(道綱は)第一の大納言で、年労ははなはだ多い。・・・但し、一文不通の人は、未だ丞相に任じたことはないので、世は許さない。」
(『小右記』寛仁3年(1019)6月15日条)
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6月29日
・刀伊賊追討の論功行賞
この日の陣定では、大宰府からの刀伊賊追討の勲功者の注進をうけて、論功行賞について、藤原実資が主宰し、斉信(ただのぶ)、公任、行成、経房、道方、朝経、資平の8名の公卿が議している。

大宰府は12名の戦功を記して上申して来ていた。
論点は、そもそも賞を与えるべきか、与える必要がないかということに絞られた。
大納言公任、中納言行成の2人は、賞を授ける必要はないとした。
賞を授けると大宰府に伝えたのは4月18日付の命令であるが、実際にはそれ以前の13日に最後の戦闘は終わっている。
従って、合戦に功のあった者があっても、それは賞を約束されての行為ではないから、賞する必要はない、という論法であった。

これに対して実資は、日付は問題ではなく、たとえ賞を与えると約束しなかったところで、功があれば賞すべきものである。
寛平6年(894)、新羅の賊が襲来した際、対馬守文室善友がこれを撃退した。そして、戦功者を賞するとの命令は出ていなかったが、善友は賞せられた例もある。
まして今度の事件は大事であったのを、大宰府が力戦して撃退したのであるから、当然賞を授けるべきで、もしここで放っておいたら、以後、奮闘する者がなくなるであろう、と発言した。

すると大納言藤原斉信(ただのぶ)が実資に同意し、続いて公任・行成ら一同もこれに賛成して、衆議一決した。
但し、具体的に賞を定めたのではなく、定文(さだめぶみ)には「賞を与えるがよろしい」と書かれただけ。実際にどういう論功行賞があったかは、7月13日の除目に、前大宰少監大蔵種材(たねき)が壱岐守に任ぜられた以外は不明。

大蔵種材は、藤原純友の乱に博多で勇戦してこれを破った大蔵春実の孫。
土地の名族として大宰府にも仕えたと思われ、刀伊来襲後、直ちに博多警固所に赴いた。
刀伊が退却し、これを追撃する段になって兵船の準備が進まず、当時大宰少弐兼筑前守であった、歌人として名高い源道済(みちなり)が博多に派遣されて、その督促に当たったが、人々は、賊は大勢だからもっと兵船を造ってから一気に押し出そうと言った。
その時、種材は、自分は既に70を過ぎる老人であるが、功臣春実の子孫である、兵船の準備完了を待っていては賊は逃げ去ってしまう、惜しい命ではなし、ひとりで先に追撃しよう、と言い放った。
道済は彼の言に感じ、よしとばかりに準備不十分のままで全軍を迫撃に移らせた。
しかし、賊の船は速く、追い着くことが出来なかったけれども、彼の言動は忠節浅からずとして上申された。
その経歴からして、彼が最も重く賞せられたと推測できるが、その彼でさえ壱岐守だから、他の者の賞は実施されたとしてもさほど重いものとは思われない。
大宰権帥として総指揮をとった隆家は、特になんの賞も授けられなかったようである。

隆家の指揮は最後まで適切であり、兵船が賊の迫撃に移った際、その追撃を壱岐・対馬の日本領内にとどめ、高麗領に入らぬよう命じたあたりも見事な決断であった。
このように、刀伊襲来の際に戦った地方武士たちへの恩賞は薄く、隆家にはなんの賞もなかった。
これに反して、後一条天皇の石清水八幡宮行幸に万事を指図した実資には、先例に従って位一階が授けられた。但し、実資は既に正二位で、当時の公卿の最高級であったから、しばらく保留して、治安2年(1022)、養子資平の位を従三位から正三位に進めた。

この論功行賞を巡る議論は、公卿の危機意識の低さ、陣定での形式的な議論を示すものと評価されている。
しかし、公任・行成という有能な公卿の意見だけにその背後の理由を考えると、彼らは、地方に蓄積された武力は、現実に刀伊を退散させたほどに大きいものであり、その暴発を恐れたのではないかとも考えられる
隆家も、賊船の迫撃は日本国境内にとどめるよう、慎重な配慮をした。

この日の陣定では13ヶ国からの諸国申請雑事(しよこくしんせいぞうじ)も議論されている。
諸国申請雑事は、2年前より左大臣顕光、右大臣公季に処理が命じられていたが、諸卿を招集しても陣定が成立できなかった案件で、これを実資が処理した。

『小右記』同日条にみる論功行賞申請手続き
武士たちが論功行賞を申請する手続き、政府がこれを認定する手続きを『小右記』同日条でみてみる。

大宰府が注進した勲功者交名(きようみよう):
散位(さんに)平朝臣為賢(ためかた)、前大監(さきのだいげん)藤原助高(すけたか)、傔杖(げんじよう)大蔵光弘、藤原友近、友近随兵紀重方
以上の5人は警固所の合戦で賊徒らに矢を命中させ、おおいに手柄を立てたが、先日の府解(ふげ)では為資ら4人の勲功は注進したが、重方については府解に載せなかった。重方の戦果について詳しい報告がなかったからであるが、その後、事実を確認したので、今回の勲功者注進に追加報告する。
筑前国志麻郡住人文屋忠光(ふんやのただみつ)
賊徒が志麻郡に来襲した日の合戦で、忠光の矢があたった者は多かった。また賊徒の首を斬って大宰府に進上した。捕獲した武器も進上した。
同国恰土(いと)郡住人多治久明(たじのひさあき)
賊徒が来襲したとき当郡青木村南山辺で賊徒と合戦し、賊一人を射取り、その首を斬って大宰府に進上した。
前(さきの)肥前介源知(しる)
賊徒が退却するとき肥前同松浦(まつら)郡で合戦し、多く賊徒を射た。また一人を生捕りにして大宰府に進上した。
・・・(以下略)

刀伊入冠に際して、政府は「もし身命(しんみよう)を忘れて戦い勲功をあげた者は、その勲功に応じて褒賞を与える」という勧賞文言を含む追討勅符を大宰府に出した。

注文には、勲功者一人一人について、合戦場所・日時、勲功をあげた状況、分捕った首級、生け捕った人数、鹵獲(ろかく)武器を記してある。
大宰府がこのような具体的な内容の勲功者注文を作成できるのは、合戦に参加した武士たちが自らの戦況と戦果(討ち取った首級、生け捕った捕虜、捕獲武器など)を詳しく報告しているからで、この報告書を「合戦日記」と呼ぶ。
大宰府は、武士たちからそれらを受け取る際、紀重方の記載にあるように、その勲功が事実かどうか確認したうえで(たとえば一緒に戦った武士の証言など)、勲功者注文を作成し、政府に提出した。

左中弁経通が、大宰府が言上した筑前国・壱岐・対馬島の人や牛馬が、刀伊人の為に殺害され、および拉致された解文、勲功者の注申について、また処々の合戦の状況、刀伊人及び今回、漂着した未斤達を勘問した文書、・・・を下給した。
「仰せを伝えて云ったことには、「大宰府が言上した解文の中で、勲功を注進してきた者を賞すべきか否か。また、漂着した者、および初めの刀伊(とい)人の勘問について、定め申すように。・・・」ということだ。」
「大納言(藤原)公任と中納言(藤原)行成は、行ってはならないということを申した。その理由は、忠勤が有る者に賞を進めるということは、勅符に載せているとはいっても、刀伊を撃退したのは、勅符が未だ到らない前の事である。」
「私(藤原実資)が云ったことには、「勅符が到っているかどうかを謂(い)ってはならない。たとえ賞を募っていない事とはいっても、勲功が有る者については、賞を賜うのに何事が有るだろう。・・・」
「・・・寛平6年(894)、新羅の凶賊が対馬島に到った際、島司(文室)善友が打ち返した。すぐに賞を下給した。募られることは無かったとはいっても、前例はこのようである。他の事は同じである。特に刀伊(とい)人は、近く警固所に来た。・・・」
「・・また、国島の人民千余人を拉致し、および数百の人や牛馬を殺害し、また壱岐守(藤原)理忠を殺した。ところが、大宰府は兵を発し、忽然と追い返し、および刀伊人を射取った。やはり賞が有るべきである。・・・」
「・・・もし賞を進めることが無かったならば、向後の有事には、士を進めることは無いのではないか」と。大納言斉信も、私(実資)の意見に同じであった。その後、大納言公任、中納言行成、及び次席の者も、皆、同じであった。」
「大宰府が注進した勲功を挙げた者。散位平朝臣為賢、前大宰大監藤原助高、傔仗大蔵光弘・藤原友近、友近の随兵紀重方。

以上の五人は、警固所の合戦の場で戦った者は数が多いとはいっても、賊徒に正中したのはこの為賢たちの矢であった。」
「筑前国志摩郡の住人文室忠光。

賊徒が初めて志摩郡に来襲した日、警固所が差し遣わした兵士と合戦した際、忠光の矢に当たった者が多かった。また、賊徒の首を斬って進上し、およびその武具を進上した。」
「大神守宮・擬検非違使財部弘延。

賊徒を撃退した際、要害の所々を計った。この守宮たちは、兵士を遣わし加えて、あらかじめ遣わしたものである。・・・」
「・・・そして筑前国志摩郡船越津辺りに於いて合戦した際、この守宮たちの矢に当たった者が多かった。特に生け捕った者は二人。但し、一人は傷を蒙(こうむ)って死んでしまった。」
「前大宰少監大蔵朝臣種材。

賊徒が逃却した日、兵船が遅れて出撃するという告げが有ったので、大宰少弐兼筑前守源朝臣道済を博多津に遣わし、且つ纜(ともづな)を解かせ、且つその事情を問い遣わしたところ、・・・」
「・・・使者を奉った者が、各々申して云(い)ったことには、「賊船の数が多い。やはり兵船を造って、一度に追撃すべきである」ということだ。その中で、(大蔵)種材が独り申して云ったことには、「私(種材)は、齢が70を過ぎている。・・・」
「・・・身は功臣(大蔵春実)の後裔である。兵船を造り終わるのを待つ間に、賊徒が早く逃げるのを恐れる。命を棄て、身を忘れ、一人で先ず進発しようと思う」ということだ。・・・」
「・・「(源)道済は、(大蔵)種材の言ったところを善しとして、無理に衆軍を出撃させた」ということだ。賊船が早く去ったので、実際は戦を遂げることは無かったとはいっても、種材が言ったところは、忠節が浅くない。」
「壱岐講師常覚。

賊徒は三度、来襲した。毎回、撃退した後、数百の兵に堪えられず、一身で逃れ脱した。身は在俗ではないとはいっても、その忠節は隠れることはない。」
『小右記』寛仁3年(1019)6月29日条

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2024年12月9日月曜日

寛仁3年(1019)2月~3月 藤原道長(54)の出家 刀伊の入寇(Ⅰ.女真族、対馬・壱岐を襲撃)

江戸城(皇居)東御苑 カンザクラ 2013-02-26
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寛仁3年(1019)
2月
・この月、数ヶ月間精進物しか食べなかった道長は、眼病が重くなって2~3尺離れた人の顔すら見分けにくくなったので、医師や陰陽師の勧めにより、魚を食べることにした。
彼にとっては残念千万であったらしく、仏に50日間のお目こぼしを願ってから食べている。
日記に、「これただ仏法の為なり、身の為に非ず」と記す。
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2月3日
・京都の放火・強盗
3日、京の東南方に火が見え、23日夜は群盗が故為尊親王の妻の中御門邸付近を荒らす。
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3月14日
・京都の放火・強盗
14日夜、内裏の東宮御座所の凝華舎の西の廊下に放火、発見が早く叩き消すことができた。
17日、穀倉院の倉が2棟焼失。
月末、群盗が常陸介藤原惟通の先妻の家に放火し、娘が焼け死んだ。
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3月21日
・藤原道長(54)、胸病が重く土御門第で出家。戒師は院源で、法名は行観(のち行覚に改めた)。
この月、胸病の重い発作が道長を襲い、彼は剃髪出家を決意。
21日、延暦寺の僧院源を招いて戒師とし、行観(のちに行覚)の法名を得た。
発作は月末には収まるが、実資によれば、「容顔老僧の如し」という状況で、彼の心境は、急速に来世に傾いていったと察せられる。
朝臣は土御門邸に続々と集まり、太皇太后・皇太后・中宮など、道長の3女もお見舞の行啓があった。
彼がその居邸である土御門邸のすぐ東に、壮麗な法成寺を建立する決心を固めたのは、この頃であろうと思われる。

『御堂関白記』には3月17日までは詳細な記事があるが、以後は翌年(寛仁4年)にも僅かな記事があるだけで、その翌治安元年は、9月1日条「念仏を初む、十一万遍」など、5日まで念仏の回数が書かれているだけ。
道長は、出家後も頼通に指示を与えて政治的に大きな力を持ち続けたが、日記は出家とともに終わったと言える。
日記は、官人として公事を記録し、子孫に拠るべき先例を伝えるためのものであるというその本質が見てとれる。

「宰相(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「大殿(藤原道長)は出家しました。法印院源を戒師としました。僧綱(そうごう)たちが伺候しました。院源及び事に従った僧綱たちに皆、禄を下給しました」ということだ。」(『小右記』寛仁3年(1019)3月21日条)
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3月28日
・刀伊の入寇。
女真族、対馬・壱岐・筑前に来襲。
大宰権帥藤原隆家ら奮戦して撃退。

刀伊の襲来は3月末、賊船50隻による対馬・壱岐の襲撃に始まった。
対馬は、3月28日付で急を大宰府に報じている(この日、突然の攻撃があったと思われる)。
被害は甚大で、壱岐守藤原理忠(まさただ)は死に、対馬守遠晴(姓不明)は難を逃れたが、対馬からの急報は4月7日、大宰府に到着した。

一方、壱岐島分寺(とうぶんじ、国分寺と同じ)の講師常覚(じようかく)は、三度にわたって賊襲を撃退したが、ついに数百の敵に抗し得ず、単身逃れて同じく7日午後に大宰府に着いた。
大宰府はこの時初めて賊難を知ったが、その日、賊船は筑前怡土(いと)郡(福岡県糸島郡)に襲来し、志麻郡・早良郡などを掠め、暴れ廻った。

「それ賊徒の船、或いは長さ十二箇尋、或いは八、九尋、一船の檝(かい)は三四十人許り、乗る所五六十人、二三十人は刀を耀し奔騰(ほんとう)し、次で弓矢を帯し楯を負ふ者七八十人許り相従ふ」。

彼らの船は長さ8尋~12尋くらいというから、平均15mぐらい。櫂(かい)を30~40も並べ、非常に速く、50~60人を乗せるという。
上陸に際しては100人ばかりで一隊をなし、みな楯を持ち、前陣20~30人は鉾や太刀を持ち、これに弓矢を持った70~80人が従い、この類のものが10隊、或いは20隊と荒れ廻り、山野を駈け巡って馬や牛を斬っては食い、犬も殺して食う。
手当たりしだいに人を捕えて老人・子供は全て斬殺し、壮年男女はすべて船に追いこみ、穀物を奪い、民家を焼いたという。
壱岐島は、400人の島民が殺されたり捕えられたりして、残る者わずかに35人に過ぎなかったという。

■大宰権帥藤原隆家
伊周の弟で、花山法皇に矢を射かけて伊周左遷の原因を作った張本であるが、罪を許されて帰京。その後、出仕してからは政界に活躍することはなかったが、豪傑で、独特の風格をもって毅然とした態度を取り、人々に畏敬されていた。
道長の妨害を受けて実資が苦心した長和元年(1012)の娍子立后の際にも、その儀に参列した数少ない公卿の1人で、皇后宮大夫として娍子の世話を引き受けた。
しかし、その年冬頃、彼は目を突いて、それから眼を患ったらしい。
長和2年(1013)2月には皇后宮大夫も辞任して引き籠り、熊野詣などもして治療に努めたがはかばかしくなかった。

その頃、九州に宋の名医がいると聞いて、九州に行きたいと思ったらしい。
たまたま長和3年(1014)2月に大宰大弐平親信が辞任し、大宰府に空席が出来たので、彼は熱心に大宰権帥の任を望み、仲のよい実資にもそのことを語っている。

大宰帥(大宰府の長官)には親王が任ぜられるのが例になっていたが、これは名ばかりで、赴任せず、現地に赴いて実際の長官となるのは権帥か大弐であった。
大宰府は、九州全体を統率する小朝廷であり、外国貿易の利得も多く、都落ちの形とはいえ景気のよい官であった。
菅原道真、源高明、藤原伊周の例のように、大宰権帥は大臣を左遷するときの官名としても使われるが、この様な左遷の時の権帥任命には、実務には関与すべからずとの但し書きのついた命令が出て、待遇も罪人扱いになる。

その年6月、隆家は、僧清賢に砂金10両を持たせて九州に眼の薬を買いにやらせている。
清賢はそのとき実資にも子供のための薬を手に入れるように頼まれて、その代わりに実資の手配で早船を世話してもらい、九州で宋から来た医僧の恵清(えじよう)から薬を買って帰京している。隆家が聞きつけたという名医は、この恵清のことであろう。
この時の大宰府の空席には希望者が多かったが、11月7日、隆家は望みどおり大宰権帥に任ぜられた。

そして翌長和4年(1015)4月21日、参内して赴任する旨を奏上し、正二位に叙せられ、諸方から砂金150両・馬3疋をはじめ、多くの餞別を受けて任地に赴いた。

彼の九州での治績は不詳であるが、問題の多い大宰府ではあるけれども、彼の在任中、時に事件は見当たらない。
大宰権帥の任期は5年で、彼はその最終年にこの刀伊の事件に当面した。
『大鏡』には、彼が善政を施すとて、九州こぞって従ったとあり、多いに人望を集めていたらしい。
隆家が大宰府官人や豪族を率いて賊に対したことは、当時としては最良の条件を備えていたといえる。

隆家はなかなか気骨のある人物であったようだ。
ある日(寛弘年間か)、道長が土御門第の宴会に隆家を呼んだところ、みな服の紐を解いて盛り上がっているところに、隆家が遅れて正装でやって来た。「早く御紐を解かれなさい」と道長が言うが躊躇っていたので、ある人が「解いてやろう」と言うと、「隆家は不運な身だが、おまえらにそんなことをされる身ではない」と気色ばみ、道長が「まあまあ」と自分で紐を解いてやり、宴に興じたと『大鏡』に伝える。
道長も彼に一目おいていた。
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刀伊の入寇の推移 
寛仁3年(1019)
3月28日:刀伊、壱岐・対馬に襲来、壱岐守藤原理忠戦死、島民多数虐殺
4月7日:大宰府に一報が入る。隆家、要害警固の命を下す。刀伊、筑前国怡土郡に襲来
4月8日:刀伊、能古島に襲来
4月9日:刀伊、博多に襲来、大宰府軍と激しい戦闘となる
4月10日:大宰府軍、水軍にて刀伊の船団に逆襲
4月11日・12日:刀伊、船越津に襲来するも大宰府軍に撃退される
4月13日:刀伊、肥前国松浦郡に襲来するも地元豪族に撃退され、日本を去る
4月16日:隆家、「賊徒撃退」を朝廷に報告
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寛仁3年(1019)4月17日 刀伊の入寇Ⅲ.大宰府からの急報が京都にもたらされる

北の丸公園 2013-03-11 ヒマラヤヒザクラ
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寛仁3年(1019)
4月17日
・大宰府より飛駅使が京都に急報をもたらす
このところ病気がちで、先月出家入道した前太政大臣道長のために非常赦が行なわれ、更に、近頃頻発する京中各所の盗賊・放火事件についての対策を議する会議が開かれた。
しかし、4月22日には例によって賀茂祭が行なわれる予定であり、それに先立って19日には斎院選子内親王の御禊がある。
公卿たちの関心はこの祭の準備に注がれて、17日には斎院司の次官を補充するために臨時の除目(任官式)が執行された。

その式の最中、内裏の東門である建春門の左衛門陣に九州大宰府からの飛駅使(早馬)駈けつけ、急報をもたらした。

大宰府からの報告には、刀伊の国の賊船50余隻が壱岐に襲来し、守の藤原理忠(まさただ)を殺害し、島民を捕え、転じて筑前国恰土郡に来襲したとあった。
この日、大納言実資は腰痛のため引き籠り中で、参内しなかったが、夜8時頃、僧の惟円(いえん)が大宰権帥藤原隆家の書状を届けて来た。
隆家は実資と親しかったから、特に実資に宛てて手紙を書き、これを飛駅使に託した。惟円は、もと源遠理(とおまさ)といい、隆家の妻の伯父で、隆家の留守宅を世話していた。
隆家は、長男経輔(つねすけ)の元服の仕度もあって前年秋から京都に帰って来ていた妻にも手紙を書いて、同じく飛駅使に持たせていた。

実資宛の隆家の手紙にはただ一行、
「刀伊の船が対馬に来て、殺人放火した。そこで要所を警備し、兵船を発し、飛駅言上する」
とだけあった。
実資は事件の大要をこれで承知した。

「戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)の頃、惟円師が帥中納言(藤原隆家)の書状<ただ一行>を持って来た。」
「今月7日の書状に云(い)ったことには、「刀伊(とい)国の者50余艘が対馬島に来着し、殺人・放火しています。要害を警固し、兵船を差し遣わします。大宰府は飛駅(ひえき)言上します」ということだ。」
(『小右記』寛仁3年(1019)4月17日条)

翌18日早朝
太政官から召使いが廻り、午前10時前に参内するように触れて来た。
実資は腰痛を押して参内すべき旨を答え、一方、養子の参議資平を通じて、昨日の上卿行成から大宰府の報告内容を書面で承知し、そのうえで道長のところにいってしばらく面談して、それから参内した。
ところが既に右大臣藤原公季以上の公卿が参入しており、行成に聞いてみると会議はもう終ったという。そこへ会議を主宰した公季が現われて、実資に大宰府の解文2通を渡し、彼にも対策の意見を求めた。

この時初めて実資は大宰府からの正式報告(4月7日付と8日付の2通の解文)に接した。
彼が前夜受け取った隆家の私信も7日付で、隆家が妻に宛てた手紙は8日付であったから、この時の飛駅はほぼ10日で大宰府から京都に到着したことになる。大宰府~京都間は陸路約700kmある。長徳3年(997)の飛駅は、大宰府発9月14日、京都着10月1日なので、17日もかかっている(長徳3年9月は小の月で29日まで)ので、これははなだ怠慢であるといわれた。

実資は解文を見て、公李から陣定の結果を聞き、多少の意見を述べた。
こうして決まったことは例のように、大宰府に飛駅使を発して、要所の警備、賊の追討、有功者の行賞などを命令すること、種々の祈祷をおこなうこと、山陰・山陽・南海・北陸の諸道に警固を命ずることなどであった。

このうち、北陸道警固は実資の意見であった。公季は寛平5、6年(893,894)に新羅の賊が九州を荒らしたときの処置の先例を調べたところ、実資の言葉通り北陸道にも警固の命が下されていることを確認した。

また、この時の大宰府の解文が、飛駅をもって送られて来たので、天皇に対する奏状の形式をとるべきであるのに、2通とも「奏」の字がなく、太政官への報告書の形式であるのは誤りであるということが、会議でも問題になり、大宰府に下す命令の中にこのことを書き加え、注意を喚起することも議決された。先例や形式にやかましい当時の風潮が現われている。

その後、2、3日しても大宰府からその後の模様を報じてこないので、人々はイライラし、憤慨した。

「昨夜、飛駅の解文について、侍従中納言(藤原)行成卿が処理した」と云うことだ。宰相(藤原資平)は、大宰府の解文の詳細を行成卿に問い遣わした。返報の書状に云ったことには、「大宰府の解文に云ったことには、・・・
「・・・『刀伊(とい)国が、対馬・壱岐島を攻撃しました<対馬守(大春日)遠晴が、大宰府に参って、事情を申しました。壱岐守(藤原)理忠は殺害されました。また、筑前国乃古島[「警固所の近々の所」と云うことです]が伝えたことには、・・・」
「・・・「あの賊は、多く来襲して、敵対することができません。その速さは隼(ハヤブサ)のようです」と云(い)うことだ>。帥(藤原隆家)は軍を率いて警固所に到り、合戦することになりました』と云うことです」と。」
「入道殿(藤原道長)に参った。すぐに拝謁した。大宰府が言上した兵船について談られた。」
「次いで内裏に参った。右大臣(藤原公季)、大納言(藤原)斉信・(藤原)公任、中納言(藤原)行成・(藤原)頼宗・(藤原)実成、参議(源)道方・(藤原)公信・(藤原)通任が、先に参入していた。」
「刀伊国について、壁の後ろに於いて(藤原)行成卿に問うた。「議定は、すでに終わりました」ということだ。私(藤原実資)は陣座に着した。・・・私が答えて云ったことには、「諸卿の僉議は、如何だったのでしょうか」と。」
「大臣(藤原公季)が云ったことには、「要害を警固し、追討を加えることとなった。勤功が有った者に賞を加えることとなった。大宰府解は『官裁』と記しているが、本来ならば官符を給わらなければならない。・・・」
「・・・ところが、勅符ではなかったので、遅く到ったのであろうか。函の上に『飛駅(ひえき)』と記し、やはり勅符を給わらなければならない。但し、官符の文には、違例であることを記さなければならない。・・・」
「・・また賞すという事は、前例を調べると、勅符に載せていない。そこで官符に載せることとした。種々の内外の御祈祷<仏事>を行わなければならない。山陰・山陽・南海道は、要害を警固しなければならない事を定め申した」と。」
「私(藤原実資)が云(い)ったことには、「この他には、また申すことはありません。但し、警固しなければならない事は、同じく北陸道にも下給すべきでしょう」と。」
(『小右記』寛仁3年(1019)4月18日条)

4月21日
先日の議決に従い、伊勢大神宮以下の10社に奉幣が行なわれ、賊の退散が祈祷された。
この日は、摂政藤原頼通が賀茂祭に先立って賀茂社に参拝する予定日に当たり、官の奉幣使とかち合ってしまうので、頼通の社参は延期された。
しかし、刀伊襲来のために予定の行事が変更されたのは、殆どこの一事だけといってよく、19日の斎院御禊も22日の賀茂祭も、都では平年となんの変わりもなく見物の群を集めて行なわれた。

4月25日
大宰府からの16日付けの後報が京都に届いた。
また惟円が持ってきた実資宛の隆家の書状も16日付で、前回の飛駅と殆ど同じ日数で届いている。使いは隼船(しゆんせん、早船)で上京して来たとのことであった。

今回の報告には各地での戦闘状況が記され、敵を撃退し、若干を捕えたことが報ぜられており、第一報以来、僅か10日未満で不安は一応去ったことが判明した。
この飛駅の報告は摂政頼通以下大臣・大納言連中の物忌が多かったために、翌26日のうちには奏上するに至らなかったらしいが、27日、実資は頼通の命を受けて公卿を召集して陣定を開き、解文の内容を検討している。

「酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃、惟円が帥(藤原隆家)の書状<去る16日の書状>を持ってきた。「異国人が来寇しました。9日に来寇しました。合戦の子細は大宰府解にあります」と。」
「惟円が云(い)ったことには、「使者は隼船(じゅんせん)に乗って参上します。但し、異国は8日、急に能古島に来着しました。同じく9日に博多田(はかた)に乱れて上陸しました。大宰府兵は、急に徴発することはできません。・・・」
「・・・先ず平為忠と平為方が帥(藤原隆家)の先駆として、合戦に馳せ向かいました。異国軍は多く射殺されました。・・・また、兵具や甲冑(かっちゅう)を奪取しました」ということだ。・・・」
・・・「一船の中に5、60人がいました。合戦の場では、人毎に楯を持っていました。前陣の者は鉾を持っていました。次陣は大刀を持っていました。次陣は弓箭の者でした。箭の長さは一尺余りほどです。・・・
「・・・射力ははなはだ猛々しいものでした。楯を穿(うが)ち、人に当たりました。大宰府軍で射殺された者は、ただ下人だけです。将軍である者は射られませんでした。馬に乗って馳せ向かい、射取りました。・・・」
「・・・ただ鏑矢の声を恐れて、引き退きました。<『刀伊(とい)国の人々の中には、新羅(高麗)国の人もいました』と云うことです>。船に乗って遁れ去りました。・・・大宰府軍は、兵船が無いので、追撃することができませんでした。・・・」
「・・・10日と11日は北風が猛烈に吹きました。還り渡ることができず海中に逗留しました。神明が行ったものでしょうか。両日の間、大宰府は兵船38艘を急ぎ造らせて追襲させました。賊徒は遁れ去り本州(高麗)を指して漕ぎ去りました。・・・」
「・・・大宰府の兵船は、また今、20余艘が、勝ちに乗じてこれを追撃しました。また(平)致行朝臣は、10余艘を調備して合流しました。・・・」
「・・但し、先ず壱岐・対馬島に到るように、日本の境に限って襲撃するように、新羅(高麗)の境に入ってはならないということを、都督(藤原隆家)が誡め仰せたところです」ということだ。」
「使者がまた云(い)ったことには、「只今では、追討して平定されたようなものです。賊徒の甲冑や兵具を、少々、奪取されました」と。・・・あれこれの説には、信受することができないばかりである。」
(『小右記』寛仁3年(1019)4月25日条)

その結果、
捕虜の3人は高麗人で、刀伊に捕えられていた者というが、よく調べて賊徒が刀伊なのか高麗なのかを決定報告すべきこと、
捕獲した兵器や捕虜は、京に送る必要はないこと、
筑前の四王寺(しおうじ)で法会を行なうべきこと、
対馬守は本島に戻り、壱岐には権摂使を派遣し、兵粮と防人を配備し、警備を固めること、
などを議決した。
また、壱岐守の殺害の件については、解文に調査結果がはっきり書かれていないと指摘し問題にしている。

続いてこれに基づいて太政官符の草稿が作られ、摂政頼通はこれに農業に励むべしとの一条を加えさせて、5月4日、太政官符に印が押されて太宰府に下令された。

4月16日の大宰府解状に、勇戦した大宰府官人で少弐平朝臣致行という人物が見える(『朝野群載』巻20)。
平致頼の子の一人の致光が大宰権大監の任にあったので(『尊卑分脈』)、一族の可能性がある。
致光は若年の頃、天皇最側近の武力である滝口の武者であった。
その時分、斎王の済子と野々宮で通じたスキャンダルは世を騒がせた(『日本紀略』寛和2年6月19日条)。
さらに、致頼の別の子致経は、宇治殿藤原頼通の身辺に伺候していた。
長大な弓を愛用したので、世に「大矢ノ左衛門尉」と勇名を轟かせた名だたる兵である。
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2024年11月25日月曜日

長和5年(1016)2月 後一条天皇(7歳)即位式 母后(皇太后藤原彰子)が高御座に登る初例 藤原為時(紫式部の父)、三井寺で出家ん 道長の本邸である土御門邸全焼 

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林 2012-12-14
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長和5年(1016)
2月7日
・敦成親王が即位(後一条天皇、7歳)。

後一条天皇即位式における摂関と母后の登壇
道長は他の公卿たちとは異なる存在であることを明らかにし、権力集中を実行してゆきながら、天皇に極めて近い地位を築いて行く。
この摂関の王権への接近を象徴的に示すのが、「即位式における摂関と母后の登壇」である。
後一条天皇即位時の皇太后藤原彰子は、母后が幼帝の即位式において高御座(たかみくら)に登る史料的初例である(『小右記』長和5年2月7日条)
その時摂政左大臣道長は、大極殿の「北庇東幔内(きたびさしのまんのうち)」に伺候(しこう)していたという。この「北庇東幔内」は本来皇后の座であり、この座の配置は母后との関係で成立したものと考えられる。

一方、関白の座が明確になるのは、後朱雀天皇即位時からで、時の関白頼通は「北庇東幔内」に座を占めたと推測される。
のちの院政期には、摂政は即位式において母后とともに大極殿の高御座に登り、関白は高御座の下に座を占めるようになる。

即位式では、他の公卿は朝庭から大極殿を見上げる位置に並んでいたことと比較すると、その立場の違いは歴然としている。
道長は外孫の後一条天皇が即位した後には、儀式の際公卿の列に加わらず、母后である娘彰子と共に御簾の内にいる姿が頻出する。
つまり、道長は拝礼を受ける側に回ったことになる。
「天が晴れた。御即位式を行った。・・・未一剋に、(後一条)天皇は礼服を着された。未二剋に、大極殿の高御座にお就きになられた。他は、式次第と同じであった。大后(おおきさき/藤原彰子)もまた、高御座に登壇された。」(『御堂関白記』長和5年(1016)2月7日条)
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2月13日
・三条天皇、太上天皇の尊号を得て上皇となる。
翌年5月9日、42歳で没。3ヶ月後、東宮敦明親王(三条の子)が辞退。
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3月16日
・源経頼『左経記』には、道長が摂政となったため、一上の仕事を他の公卿へ譲ることになり、その後任者を決める定(さだめ、会議)が皇太后宮で摂政道長同座のもとで行われた。
右大臣顕光と内大臣公季が老齢なので、大納言以上なら誰でも務めてよいと定めている(長和5年3月16日条)。皇太后宮で公卿たちの定が行われているのは天皇の御前定(ごぜんのさだめ)に准じたものである。
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4月29日
「早朝、(藤原)資平が来て云(い)ったことには、「・・・一昨日、前越後守(藤原)為時が、三井寺に於いて出家しました」と。」(『小右記』長和5年(1016)5月1日条)
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6月10日
・摂政道長と室倫子に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后の三宮に准じる)の待遇、年官・年爵を与え、封戸を益(ま)し、道長に随身と帯刀資人(たちはきのとねり、刀を帯びた従者)与える勅書が下された。
『小右記』『左経記』によると、「母后令旨」によって命じられた。
『小右記』『左経記』によると、母后の前にいた左大将頼通が、摂政道長と北方倫子を三宮に准ぜよという「母后令旨」を蔵人頭資平を召して伝えた。資平は陣に出てその旨を上卿中納言源俊賢に命じた。
『小右記』によれば、三宮に准ずる勅書は大内記藤原義忠が作成して内々に草案を道長に見せ、その後、蔵人頭資平が奏上した。
奏聞の手順は、まず摂政道長へ見せ、次に奏聞したのだが、「只母后の御格子(みこうし)外に於いて案内(あない)を申すと云々」とある(奏聞と言っても、母后御所の御格子の外で申し上げただけであった)。
幼少の天皇へ奏聞したわけではなく、母后が天皇に代わって聞いている。
母后は摂政よりさらに天皇に近い立場で天皇の代理を務めている。

このような「母后」の立場は、天皇が行幸する時は天皇と同輿(どうよ、同じ輿に乗ること)し、即位の儀において天皇とともに高御座(たかみくら)に登るという行為に象徴されている。天皇と一心同体である。
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7月10日
・この日、摂政道長が皇太后彰子に啓上した後、後院司(三条上皇の院司)を定めた(『御堂関白記』)。
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7月20日
・この日、近江守藤原惟憲宅から出火し、火は土御門南、京極西、万里小路東、二条北に至る地域に及んで、あわせて「五百余家」(『御堂関白記』)が焼失した。

この日深夜、道長の本邸である土御門邸(上東門邸ともいいう)が全焼
公卿や、諸国の受領たちも、その報を聞いて次々と上京して道長を見舞った。
道長は直ちに土御門邸再建の手はずを定め、家司を総監督として、8月19日には普請を開始。
11月には寝殿をはじめ、対局など5、6の殿舎が立ち始める。

道長は、寝殿の造営には、新旧受領たちの中の腕の立つ者に、柱間一間ずつの造営を割り当てた。
実資はこれを前代未聞のこととして憤慨している。
世人一般の感覚としては、土御門邸は道長の私邸であるものの、前摂政太政大臣の本邸であり、何かの折には里内裏として用いらる邸であるし、随時三后や東宮の御所となるものなので、選ばれた受領たちは単なる私邸の造営とは思わなかった。
また、受領たちはこれを名誉とし、直接道長の覚えをめでたくする絶好の機会と考えて、ここぞとばかりサービスを惜しまなかった。
寛仁2年(1018)6月27日、盛大な新築移転の式が挙行される。
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8月
・尾張国の郡司・百姓が入京し、国守橘経国のことを愁訴する。道長はその訴状を受理し、会議にかけることを命じる。
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11月
・大嘗会が行われる。
・道長の娘寛子(明子腹)が女御代となり、『栄花物語』「たまのむらぎく」では、「これはなにはのことも改めさせたまへり」と、さらにいっそう華やかな御禊行列の様をくわしく記している。
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12月7日
「私(藤原道長)は辞表を後一条天皇に奏聞して、左大臣を停任(ちょうにん)された。この外は、「摂政は元のとおりとする」とのことであった。太皇太后宮大夫(藤原公任)が、上表を扱う上卿(しょうけい)であった。」(『御堂関白記』長和5年(1016)12月7日条)
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寛仁3年(1019)1月 藤原実資『小右記』が描くこの年の正月の様子

江戸城(皇居)梅林坂 2013-02-20
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寛仁3年(1019)
この年
・仏師康尚、無量寿院の九体阿弥陀像の制作にいたる。
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1月1日
・『小右記』の筆者藤原実資(さねすけ)の正月
実資は道長より約10歳年長の公卿、道長に対しては辛口の記述が多い。
『小右記』には、官人として様々な行事や、中宮彰子を含む宮廷内の人間模様も細やかに記録されている。

この年正月元旦、実資はまず、明け方寅時(午前4時)、自宅で四方拝を行う。
四方拝は元旦に天皇が行っていた私的行事であったが、それが貴族へも広まった。天地四方、属星(ぞくしよう、生まれた年の干支によって決まる自分の星。北斗七星のうち三をあてる)、両親の墓所それぞれを拝する座を庭に設けて、拝礼を行う。拝する対象は年々増えていき、諸神や七星(しちしよう、北斗七星)などを加えている。

この年は前月12月に敦康親王が没したため、摂政頼通邸での宴会を伴う行事(「臨時客」)は中止されたが、実資は摂政頼通がたまたま近所に滞在していることから彼を訪問している。
しかし、頼通は大殿道長の所へ行った後だったので、そこを辞して参内し、内裏の清涼殿にある殿上の間に他の公卿たちと伺候した。
そこへ、摂政頼通が出てきて、後一条天皇へ御薬(ごやく、お屠蘇)を供ずることになった。

ついで、摂政頼通、左大臣顕光以下の公卿と殿上人は、小朝拝(こちようはい)を行なうために、清涼殿の東庭に行き、清涼殿にいる後一条天皇に対して新年の拝礼を行う。

その後、元日の節会が紫宸殿で行われた。
敦康親王が没したため、天皇は節会には出ていない。実資は左大臣顕光から節会の内弁(取り仕切る役)を務めるよう言われるが、疲れを理由に辞退した。

この日は雨が降っていたのに小朝拝に晴の儀式次第を用いるなど礼法にかなっていなかったので、「太(はなは)だ儀式を失す」、「謝座(しやざ)・謝酒(しやしゆ)の礼、既に作法無し」と実資は憤懣を日記に記している。これは、道長からも無能だと時々怒りをかう左大臣顕光が内弁を務めたためかもしれない。左大臣顕光も途中で内弁を大納言斉信(ただのぶ)に譲って退出してしまった。実資は翌日、参議である養子の資平に、内弁の作法を尋ねてチェックしている。
貴族にとっては、儀式をあるべき様に行うことが重要であり、そのために日記に記録して子孫に伝えていった。
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1月2日
・正月2日には、前太政大臣道長邸で「臨時客」という行事が行われ、実資も参加。左大臣顕光以下の公卿と殿上人が道長へ拝礼を行い、饗饌(きようせん、もてなしの膳)を受ける。

その後、道長に摂政頼通も従って皆で参内。
まず、太皇太后彰子のところへ行き、その後、摂政頼通と左大臣顕光以下殿上人以上は中宮威子、東宮敦良(あつなが)親王のもとへ行って拝礼を行った。

拝礼後、左大臣顕光以下は、中宮大饗(だいきよう)・束宮大饗に参列した。
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1月3日
・正月3日、後一条天皇の母后、太皇太后彰子に朝覲(ちようきん)を行う。
まず、前太政大臣道長や摂政頼通、公卿たちは内裏外にある皇太后妍子の御所に集合し、そこで饗座(きようのざ)につく。
その後、道長は諸卿を率いて参内。
日暮に、後一条天皇は母后彰子の御所(弘徽殿)に参上し、公卿たちが従う。天皇は御簾(みす)の中で母后に拝礼を行い、前太政大臣道長だけが御簾の中に何候した。
公卿・殿上人には饗が設けられ、儀式終了後、天皇は公卿たちをお供に御所に戻る。
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1月5日
・藤原実資は、皇太后彰子の枇杷殿時代にたびたび伺候していた。実資が枇杷殿に出入りしていたのは、養子資平の任官を皇太后彰子から道長へ頼んで貰うためという理由もあったが、それだけでもなかった。
後一条天皇(敦成親王)即位後、皇太后彰子から実資に対して、「枇杷殿に御坐(おわしま)すの時、屢(しばしば)参入の事、今に忘れ坐(おあわ)さざる由、仰事(おおせごと)有るなり。女房云はく、彼の時参入し、当時(現在)参らざるは、世人に似ず。耻(は)づかしく思(おぼ)し食(め)す所なり、と云々」(『小右記』寛仁3年正月5日条)とあったという。

後一条天皇即位後、皇太后彰子は実資に対して左近衛大将にならないかと打診したり、自分の年爵を分かち与えようとしたり、実資びいきの様子が窺える。

実資の方も、皇太后彰子を「賢后」と評している(『小右記』長和2年2月25日条)。実資が自分に有利な書き方をしているかもしれないが、皇太后彰子が父道長からは独立して独自の動きをしていることを示している。

皇太后彰子は敦成親王を三条天皇の皇太子に立てる時も、実子敦成親王ではなく、皇后定子が生み、敦成親王が生まれるまでの間、中宮彰子が手元で育てた敦康親王を皇太子にしたいという考えをもっていたとされており、父道長とは異なる独自の意見をもっていたことも注目される。

「夜に入って、(藤原)資業が、摂政(藤原頼通)の使として来た。「叙位の議を行おうとしたのに、両大臣(藤原顕光・藤原公季)が障(さわ)り申して、内裏(だいり)に参りませんでした。これを如何(いかが)いたしましょう」と。」
「私(藤原道長)が命じて云(い)ったことには、「叙位の召仰(めしおおせ)は、すでに行われている。叙位を停止(ちょうじ)すべきではない。大納言を召して、叙位の議を行うべきである」と。」
(『御堂関白記』寛仁3年(1019)1月5日条)
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1月6日
「摂政(藤原頼通)がおっしゃって云(い)ったことには・・・「昨日、左大臣(藤原顕光)が参らなかったのは、蔵人頭(くろうどのとう)を遣わして召さなかったからでした」ということだ。不覚の事である。」
「摂政(藤原頼通)は大臣を兼ねている。すぐに召仰(めしおおせ)を行うべきである。そこで外記(げき)に、そのことを伝えた。左大臣(藤原顕光)は、召仰の時、蔵人頭が、これを伝え仰すのである。」
(『御堂関白記』寛仁3年(1019)1月6日条)
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1月13日
・放火・強盗
この日夜、三条辺で50戸ばかりの民家が焼ける。
翌14日夜、四条の検非違使別当権中納言藤原頼宗の邸が焼失。
29日夜、群盗が参議藤原通任の邸を襲い、女房らの室内の物を奪った。
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1月22日
・この年正月22日の県召(あがためし)除目の最中に行われた受領功過定において、道長の代表的な家司である藤原惟憲(これのり)については、他の受領ににはいろいろ意見が出ているのに、「近江国の事(惟憲、無過)」と何の問題もなく直ちに「無過」と定められた。

しかし、惟憲は、長和3年(1014)正月12日に「未だ着任せず」(『小右記』)とあるが、3月29日には着任前にもかかわらず、賀茂禊祭料を進納しており、「相府(道長)譴責の詞あり」とある。
つまり、惟憲は近江守在任中、着任しないで禊祭料を進納するなど芳しからぬ行いがあった。
道長の家司受領(けいしずりよう、家政機関の職員で受領を兼ねている者)に対しては概して評価が甘かった。

また、惟宗貴重(これむねのたかしげ)は、3年間で下総守を辞めたにもかかわらず、2年分の官物を納めたという理由で褒賞に預かり、位階を上昇させた(『小右記』)。
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寛仁2年(1018)12月 家司受領のありよう。 「大殿辺の例進の外、他の勤めを致すべからず」(藤原能通) 敦康親王(20歳)病没

江戸城(皇居)梅林坂 2013-02-13
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寛仁2年(1018)
12月
・この月、道長は両親の追善供養のため法華八講(法華経八巻を一座一巻ずつ講ずる法会)を営む。実資『小右記』には道長が法華八講の僧前(饗膳)を大納言以下に割り当てていることが見える。
僧前ひとつと言っても僧侶1人分の食事ではなく、「高坏(たかつき)十二本、折敷(おしき)・懸盤(かけばん)の饗二十前(ぜん)、大破子(おおわりこ)六荷、手作布(てつくりぬの)百段」(『小右記』治安2年7月14日条)という大規模なもの。
また、法華八講で特に荘厳な儀が行われる五巻日には上達部・殿上人は棒物を奉じており、実資も捧物(香炉)を作らせている。

道長の正室源倫子が法成寺西北院を供養した時も、実資は関白頼通から僧前の準備を求められ、道長の法成寺金堂供養にも講師天台座主用の僧前を奉じている。
倫子の六十賀においても、太后(太皇太后彰子)令旨により、実資の養子伯耆守資頼に対して綾掛(あやのうちかけ)、同じく養子宰相資平には尼用の夏装束が賦課されている。

これらの儀式・行事については経済的奉仕だけではなく、当然、儀式・行事への参列も求められ、経済的奉仕を要求されない場合でも参列を命じられている例も多い。
また、道長主催でなくとも当時后であった道長の娘たち(太皇太后彰子・皇太后妍子・中宮威子)や、道長外孫である東宮敦良親王の儀式・行事に関して参列や経済的奉仕を要求される場合も多かった。

一方、公卿たちも道長の歓心を買うために、進んで奉仕を行った。
道長をたびたび批判している実資さえ、道長が法華八講の僧前を大納言以下の公卿に割り当てた時、左右大臣と大納言実資が除かれたことに対して、奉仕を請おうとして資平に道長の意向を伺わせている。
その結果、13日には道長から了承され、僧前を奉仕することになった。
道長の公卿に対する賦課があまり抵抗なく受け入れられていったのは、貴族間において儀式・行事主催者に対する相互扶助である「訪(とぶらい)」の慣行があったことが前提となっているのかもしれない。
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12月3日
・家司受領のありよう。
『小右記』寛仁2年12月3日条に道長へ奉仕する家司受領のありようが見える。
備後守と備前守が水害や旱魃のため公事を納入できないと言っている。
備後守藤原能通(よしみち)は「大殿辺の例進の外、他の勤めを致すべからず」(大殿道長への恒例の進物以外は他へは何も納めることができない)、
備前守藤原景斉(かげなり)は 「米五百石を大殿に献じ、三百石を摂政に献ず。公事は術(すべ)無し」(米500石を大殿道長へ献上し、300石を摂政頼通へ献上すると、朝廷へは納めるすべがないい)とある。
公事より摂関への奉仕を優先する、この頃の権力のありかがよくわかる。

このように、受領は恒常的な国家財政を支えるだけではなく、摂関や公卿への奉仕を行えるだけの財物を蓄えることができた。
そのため、受領からの奉仕を求めて、摂関家ではもともと家司・家人である人物を受領に充てる家司受領が登場した。
特に、近江守には道長が活躍した寛弘年間から万寿年間まで、藤原惟憲のように殆ど彼の家司が任命されている。

(参考)
公卿の家の場合、家司・家人を受領にするだけではなく、子のうちの1人を受領にする例もある。
藤原実資の場合、養子資頼が治安元(1021)年から4年間伯耆守、長元元(1028)年に美作守となり、実資家に奉仕を行っている。
藤原行成の子実経も但馬守、父没後に近江守に任じられている。
公卿の子が受領に任じられ家のために経済的に奉仕する例である。
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12月17日
・敦康親王(20歳)、病没。
一条天皇の第1皇子、母は皇后藤原定子。
誕生と同日に道長の長女彰子が女御宣下を受ける。
誕生翌年の長保2年(1000年)4月18日、親王宣下を受けるが、同年末、2歳の時で母定子が没する。
少しして当時まだ子どものなかった中宮彰子に養育が託される。彰子は親王を愛情を込めて育てたが、道長は全く別の意味で親王に奉仕していた。
道長にとって、敦康親王は彰子に皇子誕生がなかった時の保険に過ぎなかった。
寛弘5年(1008年)9月、彰子に第2皇子敦成親王(のちの後一条天皇)が生まれると、道長は敦康親王への奉仕を放棄し、ひたすら敦成親王の即位を望むようになる。
寛弘8年(1011年)6月2日、一品に叙せられ三宮に准ぜられたが、その10日後、父一条天皇の意に反して、皇太子に立てられたのは4歳の異母弟敦成親王であった。

敦康親王は『大鏡』に「御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記されている。
長和2年(1013年)12月10日、中務卿具平親王の次女を娶る。
寛仁2年(1018年)12月17日、にわかに発病し、出家の後、薨去。
残された一女嫄子女王は頼通・隆姫女王夫婦に引き取られ、のちに後朱雀天皇に入内した。
「太閤(藤原道長)から左中将(源)朝任を介して、命が有った。そこで堂前の座に着した。大殿(藤原道長)が云(い)ったことには、「式部卿敦康親王は、未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)、薨(こう)じた<年20>」と。」(『小右記』寛仁2年(1018)12月17日条)
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2024年11月18日月曜日

寛仁元年(1017)5月、三条上皇(42歳)没。 子の敦明親王(24歳)は東宮を辞退(小一条院の称号を受ける)

東京 北の丸公園 2013-01-15
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寛仁元年(1017)
5月9日
・三条上皇、42歳で没。
3ヶ月後、東宮敦明親王(三条の子)が東宮を辞退。
「丑剋(午前1時~午前3時)の頃、三条院から(源)頼清が来て云(い)ったことには、「三条院の御容態が重くいらっしゃいます」と。私は驚きながら、三条院の許に参入した。・・・辰剋(午前7時~午前9時ごろ)に、崩御なされた。」(『御堂関白記』寛仁元年(1017)5月9日条)
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5月27日
・この日、道長邸の倉から金銀2千両が盗まれる。『小右記』の後日の記事によると、砂金1,400両、銀800両であるという。
7月10日、盗賊は逮捕され、砂金1,000両などを取り戻した。この盗賊は播磨国に逃げたのを、同国白国(しろくに)郡司の手の者が捕えた。
『御堂関白記』と『小右記』・『左経記』では少し食い違っているが、盗人の主謀者は道長の家司の甘南備保資(かんなびのやすすけ)という者の郎等らしい。保資は当の金銀を納めた倉の管理責任者だったのであるが、その手下が他の公卿の従者たちと共謀して犯行をとげたもののようである。
このように、他の例を見ても、当時の記録に出て来る盗賊の多くは、いわゆる無職無頼の徒ではなく、れっきとした官吏であったり、貴族などの従者であったり、主人持ちの連中が多い。
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6月10日
・源信(76歳)歿。
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7月
・この年は5月頃から雨が多く、6月末に3日2夜の大雨が降り続き、7月に入るとたちまち一条以北の鴨川堤が決潰して濁流が流れこみ、京極一帯に大海のごとく、病者を収容していた悲田院では300人が押し流されたと伝えられた。その間、神祗官と陰陽寮が命ぜられて占いを奉仕し、どの神社の祟りかを考えている。
朝廷が本腰を入れて鴨川堤の修理を諸国に割り当てたのは、3年後であった。
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・7月以降、天皇の諸社行幸の上卿を命じられた大納言実資の行幸準備が繁忙となる。
彼のところに行幸に関する各種の問題が殺到し、弁や史を指揮し、道長や摂政頼通に相談しながら進めてゆく。
行幸の際に奉献する神宝類の選定・調達、賀茂上下両社の破損箇所の調査・修理、行幸の際の天皇御座所の新築の指図、行幸に使用する御輿の検査・修理、駕輿丁の衣裳の検査や補充、諸国に賦課した行幸費用・資材の督促などの問題が、連日のように持ち込まれ、これらを先例旧規を考え、周囲の実情とにらみあわせながら処理してゆく。
また、行事を担当する弁も史も、親族が死んで喪に服することになったから、神社行幸という神事に関係することはできなくなって、急に他の弁・史と交代するという事件も起こる。
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7月5日
・摂政頼通、皇太后宮で検非違使の補任宣旨を下す。
皇太后彰子は幼い後一条天皇の代理を行っている。
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8月
敦明親王(24歳)が東宮を辞退し、小一条院となる
敦良親王(9歳、後一条弟、皇太后彰子が生んだ子、道長の外孫、のちの後朱雀天皇)が立太子する。

敦明親王の母は立后に際して道長一派の激しい妨害を受けた皇后娍子であり、後見のない、非力な存在である。
親王は、左大臣藤原顕光の娘の延子(堀河女御)を妻とし、既に数人の王子が生まれているが、その舅と頼む顕光は無能と人々から謗られ軽んぜられている状態である。

『御堂関白記』『小右記』などによれば、8月4日、敦明親王が道長の子能信(よしのぶ)を介して道長との会談を求め、6日、道長は東宮御所に赴き、親王から「日来(ひごろ)の間思ひ定め聞こゆる所」として東宮辞退の決意を打ち明けられたという。
道長は、おそらく以前から敦明親王に辞任を仕向けるような工作を進めていたであろうし、この決心を聞くに及んで心中快哉を叫んだと思われる。
道長が、母の皇后娍子や舅の顕光の意見はどうであったかと尋ねると、東宮は、母皇后は不愉快だと思っているが、顕光はご随意にとの返答である、この決心はよく考えた末のことであるから、よろしく取りはからってもらいたい、と答えた。

実資が道長から聞いたところでは、敦明が、「輔佐の人無し。宮の事(春宮坊の仕事)有りて亡きがごとし。院崩御の後、弥よ為(せ)ん方無し。傳(顕光)・大夫(斉信)、その中宜しからず。一分も我がために益なし」、と嘆いたという(『小右記』)。

道長は、直ちにその場に摂政頼通を呼びよせ、敦明親王の今後の待遇について相談を纏めてしまった。
道長の示した条件には親王も満足の意を表したようである。
そして、道長は退出し、その足で皇太后彰子のもとに行って一切を報告した。

東宮辞退の噂はその日(6日)のうちに人々の間に広まった。
実資には6日のうちに蔵人右少弁藤原資業(すけなり)がこっそり話して、実資を驚かせている(『小右記』)。

源経頼はその日、人々と東光寺に遊びに出かけたが、たちまちある人の噂として、道長一家のこまごました動静までも聞きこんでいる(『左経記』)。
また、『左経記』には次の東宮は敦良親王ということまで、6日の条に記されている。

行成は前日の5日に、摂政頼通から、東宮の件が起こりつつあることを聞かされ、6日には従者や子供から知らされて、頼通の邸に駈けつけた(『権記』)。
これらの記事から、人々が、東宮の一件の結末を見守っていた関心のほどがわかる。

翌7日、公卿たちは頼通以下続々と道長邸に集まった。
新東宮が敦良親王であることには、なんの疑いもなく、相談の内容は新東宮の立太子式の時期についてである。
早いに越したことはないという意見が纏まり、早速陰陽道の達人の安倍吉平(よしひら)に日を選ばせたところ、明後日が吉日であるという。それとばかりに立太子式の準備が始まり、9日には敦良親王立太子の式典が盛大に挙行された。
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8月6日
「東宮(敦明親王)がおっしゃって云われたことには、「東宮の地位を停めるという事を申すために、書状を差し上げた。ここに立ち寄られた事は、有難いことです」と。私は、遜位についてのご意向は、確かに承ったということを申し上げた。」(『御堂関白記』寛仁元年(1017)8月6日条)
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8月9日
「三宮(敦良親王)を皇太弟(こうたいてい)に立てた。立太子宣命は、申剋(さるのこく/午後3時~午後5時ごろ)に下した。右大臣(藤原公季)が、宣命の内弁を勤めた。」(『御堂関白記』寛仁元年(1017)8月9日条)
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8月10日
・この日、急に天皇の賀茂社行幸予定日の19日が天皇の物忌の日になってしまった。
日取りを変更することになって、摂政頼通が陰陽道の安倍吉平に暦を見て考えさせると、9月26日は吉日だが、天皇の生母の皇太后彰子の衰日(すいにち)に当たる、11月25日ならば不都合ないとのことで11月25日に変更と内定。
しかし、8月10日は重日(じゆうにち)で、行幸日取りの変更を発表するには不適当な日というので、正式発表は翌11日となった。
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8月中旬
・天皇の賀茂社行幸の上卿になっている実資は、道長から一代一度大仁王会(にんのうえ)の検校に指名される。
仁王経を講ずる仁王会は毎年行なわれるが、一代一度大仁王会は、その最も大規模なもので、天皇一代に一回だけ行なわれて、国家安泰を祈願するもので、検校はその上卿である。
実資は賀茂社行幸と大仁王会との両方の上卿を兼ねたわけだが、10月8日に大仁王会を、11月25日に天皇の賀茂社行幸を無事に片づけている。
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8月21日
・新東宮が天皇に初めて拝謁する儀式が行なわれた時、人々は、道長一家の栄華は古今無比、いったい前世にどんな善根があってこのように栄えるのだろうか、と語り合ったという(『権記』)。
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8月23日
・新東宮に内裏から壷切の太刀が授けられ、勅使の捧げる剣を、道長自ら取り伝えて東宮の枕もとに置いた。
壷切の太刀は、関白藤原基経が父から伝えられた名剣であり、基経がこれを宇多天皇に献上し、天皇は皇太子敦仁親王(醍醐天皇)にこれを授けてから、東宮の守り刀として代々の東宮に受け継がれてきたもの。

道長は、敦明親王の立太子の時には、この壷切の太刀を授けることを拒み、敦明親王は立太子の後1年半の間、遂に壷切の太刀を新帝後一条天皇から受けつぐことなく、太刀は内裏の納殿にしまわれていた。
これは『御堂関白記』や『小右記』に記されており、道長は敦明親王を皇太子としておく気はなく、初めからその退位を予定していたことが知られる。
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8月25日
東宮の地位を退いた敦明親王は、小一粂院という称号を受け、太上天皇に准ずる待遇を受けることになった
自身は危険な境を脱し、道長からは厚遇され、一応満足したようである。
封戸や年給なども東宮のときのまま減額されず、年分受領も与えられた(実体は不明だが、国の守の収入を得られる特別の待遇。受領推薦権とも)。
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8月末
・この時の除目は、頼通が摂政となって最初の除目であった。
道長は宇治の別荘に数日滞在し、除目の指図はしないとの態度を表明した。
しかし、それまでの彼の威勢は余りに大きく、公卿も頼通自身も、道長が前摂政として新摂政頼通に適切な指示を与えることを望んでいた。
除目の事前運動も、相変わらず道長を目あてに行なわれたらしい。そして、頼通も除目の間、道長のもとに急使を派してその指揮を仰ぎ、道長はこれに返書を授けている。
人々は道長の引退を事実上認めず、道長は、この後も、前摂政、前太政大臣として、相変わらず万事に指示を与える立場に置かれていた。
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寛仁2年(1018)1月~3月 後一条天皇(11歳)元服 道長の娘威子(20歳)が入内

北の丸公園 2013-01-28
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寛仁2年(1018)
この年
・この年、仏師康尚は近江国逢坂の関寺の仏像を造り始める。
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・この頃、『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)成立。藤原公任撰の歌集。
『倭漢朗詠集』或いは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。
達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
下巻「祝」部に『君が代』の原典がある。
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1月
・『御堂関白記』寛仁2年正月に
「栖霞寺一切経を渡し奉る、これ故法橋奝然、唐より持ち渡る経なり、而して遺弟献ずるなり」と、道長が宋版一切経を手に入れたことがみえ、釈迦堂の造営に道長の関与があったことも推測される。
棲霞寺は五台山清涼寺と称された。これは聖地五台山を日本に移したものであり、清涼寺の名称は五台山最古の名刺の名によっている。
清涼寺には、国宝の十六羅漢図もあるが、北宋羅漢図の唯一の遺品であり、奝然が帰国の際にもたらしたと考えられる。
永延元年(987)2月、奝然は帰国・入京後、愛宕山に五台山大清涼寺を建立することを申請して、準備を進めたが、在世中には実現せず、「遺弟」の盛算が嵯峨の棲霞(せいか)寺に釈迦堂を建立した。
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1月3日
・この日、紫宸殿で後一条天皇(11歳)の元服の式。
後一条天皇の母彰子は皇太后から太皇太后へと昇る。
翌々5日、盛大な祝賀の宴が張られた。
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1月23日
・寛仁元年(1017)に内大臣、ついで摂政となった藤原頼通は、この日、大臣大饗を開く。
この時、摂政就任記念ということもあってか、4尺の倭絵屏風12帖が新調された。

この時の和歌について、『栄花物語』「ゆふしで」に記事がある。
「さべき人々に皆歌くばり賜はするに」「すべて和歌八十首ぞ出で来たりつれど」厳選され、前大和守藤原輔尹、道長、左馬頭藤原保昌妻式部(和泉式部)、祭主大中臣輔親、藤原公任の計8首をあげている。

さらに『小右記』などによると、この屏風の色紙形には、和歌だけでなく漢詩も書かれた。
漢詩は、大納言藤原斉信(ただのぶ)、公任、式部大輔藤原広業(ひろなり)、内蔵権頭慶滋(よししげ)為政、大内記藤原義忠、藤原為時(紫式部の父)が献じ、献じられた詩と和歌は藤原定頼(公任の子で書の名手)が書き出し、藤原公任と斉信という両才人が撰定にあたり詩と和歌の採否を決め、最後に行成によって色紙形が清書された。

実資は、「儒者に非ざる上臈の公卿、臣下の命に依り、屏風詩を作るは如何。凡人に異ならず」と非難している。
従来専門歌人によって作られていた和歌や、儒者(学者)によって作られていた漢詩が、摂関期以降は公卿など上級貴族によっても作られるようになった。
公卿など上級貴族が漢詩や和歌の世界に進出するようになっていった契機のひとつとして、道長への権力集中によって公卿たちに漢詩や和歌の制作が課されたことがあげられる。

院政期になると院が文化の巨大プロデューサーとなるが、道長はその先駆けである。
他の公卿たちは、別の公卿に詩作を依頼することはできない。
道長は、経済的賦課・文化的賦課をかけながら他の公卿たちとは隔絶した地位を築いていった。
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2月
・2月早々から、威子入内の準備は始められ、入内の日取りは3月7日と決定する。
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2月9日
・道長が太政大臣を辞任、前太政大臣となる。在任は2ヶ月間。
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3月7日
道長女威子(20歳)が入内
元服した後一条天皇(11歳)には母である太皇太后彰子(道長の娘)の妹威子(母は倫子、つまり天皇の母と同母妹、叔母)が入内し、女御となった。
年齢差はあるが、威子は小柄なので天皇と釣り合っていたという。

入内は結婚の式であるから、当時の風習として、これに先立って男女間に手紙のやり取りがなくてはならない。
そこで3月1日、蔵人が勅使として天皇の書状を捧げて道長邸に赴く。道長のほうでは道長・頼通以下、公卿が多数集まって勅使を迎え、頼通の弟の左大将教通が勅使から書状を受け取って御簾のなかに入る。
この第1回の時には威子からは返書を奉らず、勅使は別の席で公卿たちから振舞を受け、禄として女の装束一揃いをもらって帰る。
5日にも天皇から書状があり、今度は威子からも返事を差し出す。先回同様、公卿が集まって勅使を迎える。
万事は儀式的に、華やかに進められた。

3月7日、公卿・殿上人多数が従って、夜に入って無事威子の入内は終わった。
この頃の内裏は一条院であり、威子の室はその西北の対屋(たいのや)に設けられた。
彼女の母、源倫子も共に参内して世話した。

威子は天皇の生母太皇太后彰子の同母妹、つまり叔母であり、そして天皇より9歳も年長。
当時の例から見ると、姉妹の一人が父に、他が子にとつぐ例はかなり多く、嫌うべきことではなかったようである。
こんにちではこのような近親結婚は法律でも禁止され、医学的にも避けるべきこととされているが、もっと古くは兄妹の結婚も同母でなければかまわない風すらあった。天皇が11歳では結婚といっても形ばかりのことで、威子に子の生まれたのはそれから8年後のこと。

威子の入内に従った女房40人の中に二条殿の方と呼ばれた、道長の兄道兼の娘がいた。
長徳元年(995)、兄の関白道隆の病死によって関白の地位を得た道兼もまた病死して世に「七日関白」といわれ、この道兼の死によって道長の前途が開けた。
道兼が健在であったら、彼女も女御として後宮に入ったことであろう。彼女の姉の尊子(そんし)は、一条天皇の女御である(のち、参議藤原通任と仲よくなって評判を立てられた)。
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長和4年(1015)7月~12月 三条天皇退位を決意。「こころにもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜はの月かな」

江戸城(皇居)東御苑
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長和4年(1015)
7月
・入宋の天台僧寂照の弟子念救が宋に戻る。
道長は、多くの公卿の知識物とあわせて、琥珀や水晶の念珠、螺細蒔絵厨子、砂金百両、奥州の貂裘(ちようきゆう、貂の皮衣)を送る。
尚、この時に先に延暦寺に送られた品々が座主故覚慶の弟子院源が隠匿していたことが発覚して問題になった。
道長が天台山に答えた書によれば、天台山は大慈寺再建の助成を求めたようで、道長以下はそれに応えて砂金等を送ったらしい。
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・この月、道長は宋僧から『白氏文集』を贈られて感激している。
一条朝を中心とする時代は『白氏文集』がもっとも愛好された時代。
三蹟の真跡とされるのは多くが『白氏文集』である。
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7月5日
・この日、六衛府の連中が八省院の廊に集合して相談を始めた。
これは数日前に蔵人藤原親業が左近衛番長茨田弘近の欠礼を怒り、弘近をつかまえて首に水をあびせたという一件があり、これを知った衛府の適中が憤慨してのこと。
蔵人頭に弘近の親である左近衛将監茨田重近から訴え出て、それから衛府の連中一同、陽明門に集まって騒ぎたてようということになったらしい。
訴を受けた蔵人頭藤原資平は直ちに左大臣道長にこれを報じ、道長の命で左近衛府以下の連中を説諭して解散させた。
道長の指示は、蔵人親業の行為は別に厳罰に処すべきほどのことではないが、やはり不当であると、衛府の連中にも達するようにというもの。
これは発展すれば衛府のストライキにもなりかねない事件。この頃の世相の一端を示している。
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8月
・8月に入ると、道長の三条天皇に対する退位要求は一段と頻繁に、かつ公然化して来たようである。
目が見えなくては官奏や、叙位・除目が行なえないので、この月、天皇は官奏を代わって見るように道長に言ったが、道長は辞退し、政務は停滞、三条天皇は追い込まれていった。
そしてついに天皇は、焼失後、目下新築中の内裏が完成して皇居に入ったのち、なおも目が見えないようだったら道長の意に従うほかはないと漏らすに至った。
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9月14日
・三条天皇が眼病の平癒を祈って立てようとした諸社奉幣使が、4月以降7回の延期を重ね、ようやく伊勢神宮以下諸社に派遣される。
天皇は最後の望みを諸社にへの祈願に託した。
通例、諸社に祈願を立てる奉幣使は、殿上人とか蔵人の役であるが、天皇のこの時の祈願は特別で、皇大神宮をはじめ、石清水・賀茂社以下の諸大社に公卿を使いとして派遣し、眼病の平癒を祈ろうという意向だった。
この計画は4月から天皇の意中にあったようで、6月に入って道長にも打ち明けて実行に移そうとしたが、その実現には異常な障害が重なった。
使いに選ばれた公卿が急に病気を申し立てたり、使いの家や皇居内に死体が発見されて触穢として延期になったり、ようやくこの日、中納言クラスの連中が使いとなって諸社に向かうまで前後7回にわたって延期を重ねた。
天皇の平癒を喜ばない道長の意中を察した故意の故障があると推測できる。
天皇は、これらの故障の続出を道長が天皇の計画を妨害するものと思い、なおさらその実現に躍起となったが、こうしておこなわれた祈願も効果なしと知ると、絶望して日々の神拝も止めてしまうという混迷に陥った。
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9月20日
・新造内裏が完成。三条天皇は里内裏であった道長の枇杷殿(びわどの)から移る。ここで道長はまた改めて譲位を天皇にしきりに迫ったらしい。
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10月2日
・この日、天皇は密かに道長からの退位圧力について資平に告げ、次のような話も打ち明けた。
「道長は自分の前で、退位後、つぎの東宮には敦明親王以下、自分の子供たちはみなその器ではない、故一条天皇の皇子、今の東宮敦成親王(後一条天皇)の弟である敦良親王こそ、次代の東宮たるにふさわしい、と放言した。もうこうなっては譲位の事などはいっさい思いとどまった」
さすがに天皇は道長の態度に憤激して、このときはあくまでも踏みとどまって道長と対決しようと思ったのであろう。
(藤原)資平が云ったことには、「主上(三条天皇)が、密々におっしゃって云われたことには、『この何日か、左大臣(藤原道長)が頻りに譲位の事を責め催してくる。はなはだ奇怪な事である。・・・』ということでした。・・・
「・・・また、おっしゃって云(い)われたことには、『大納言(藤原)公任と中納言(源)俊賢は、吾(三条天皇)の為に不善の事が多い。左大臣(藤原道長)をそそのかして、吾の禅位を責めさせている。この事は安心できない。・・・」
「・・・吾(三条天皇)は十善の故に宝位に登ったのである。ところが臣下が、どうして吾の位を危うくすることが有るであろうか。憂心は一時も休まらない』ということでした」と。外に漏らしてはならない。
(『小右記』長和4年(1015)10月2日条)
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10月15日
「(藤原資平が)密かに語って云(い)ったことには、『右金吾(うきんご/藤原懐平)が云ったことには、『主上(三条天皇)は女二宮(禔子内親王)を権大納言(藤原)頼通に降嫁させるよう、左相府(藤原道長)におっしゃられた。・・・」
「・・・「但し、妻(隆姫女王)がいるので、如何であろう」と。相府(藤原道長)が申して云(い)ったことには、「仰せ事が有るのですから、あれこれ申すわけにはいきません」ということであった』と」と。」
(『小右記』長和4年(1015)10月15日条)
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10月27日
・道長、准摂政となる。
三条天皇の眼病が悪化し、除目や官奏が行なえず、政務が停滞し、道長を摂政に准じて行なわせることとした。
それを伝える前日の『小右記』には、「摂政の例に准じて、官奏を見る事、除目を行なふべき事、一上の事を行なふべき事等、明日仰せらるべきなり。是れ相府(道長)の詞なり」とあり、摂政と同じく官奏や除目を行なうのに、例外的になお一上のことを手放さないと付け足していることがわかる。
「今日から除目の召仰が有る。これより前に資平朝臣が来て、(三条)天皇の仰せを伝えて云ったことには、「太皇太后宮大夫(公任)に、『左大臣を以て、摂政に準して除目や官奏を行わせよ』と命じる宣旨を下させるように」と。・・・」
「・・・「宣旨は書き終わりました」ということだ。「大弁(源道方)、および外記(小野文義)に仰せ下しました」ということだ。飛香舎の私の直廬(じきろ)において、除目(じもく)を行った。」
(『御堂関白記』長和4年(1015)10月27日条)
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11月17日
・新造内裏がまたも焼亡。天皇は再び里内裏へ移る。
火は内裏の東側から起こり、西北風を受けてしだいに燃え広がったので、天皇は一時、内裏北側の桂芳坊に避難し、そこもあぶないとなって太政官に入り、翌日、2月前まで里内裏であった枇杷殿に再び戻ることになった。
こうして、譲位するにしても、せめて新しい内裏で引退の式を挙げようとする天皇の志も、むなしく潰えた。
鎮火の直後、道長は天皇に譲位を迫った。
たび重なる内裏の焼失は、天皇の不徳を天が責めているのだというような論法を用いたのであろう。
天皇は、いまは気が顛倒しているから、落ち着いてから考えて返答しようと答えたが、もはや事態は決定的。新しい内裏が僅か2ヶ月でまたも焼けてしまったことは、まさに天に見放された形である。
世人は天下滅亡の時といったという。人心の動揺はもう抑えることはできない。
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12月
・三条天皇の退位はすでに決した。
天皇の病は一向によくなることなく、12月なかば、月明の夜に、天皇はつぎの一首を詠じた。

   こころにもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜はの月かな
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12月12日
「「大将(藤原頼通)は、この何日か、病悩の気が有った。ところが今日、極めて重くなった」ということだ。今回の疫癘は、治まろうとしているはずではなかったのであろうか。大将の家(高倉第)は物忌であった。」(『御堂関白記』長和4年(1015)12月12日条)
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12月16日
「早朝、(藤原)資平が来て云(い)ったことには、「御譲位について、正月に行うということを、去る夕方、左相府(藤原道長)におっしゃられました。・・・」と。(三条)天皇の様子を見ると、神恩が無かったからであろうか。」(『小右記』長和4年(1015)12月16日条)
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12月24日
「左相府(藤原道長)に参り<小南第と称する。つまり宮の内>、謁談した。「御譲位と新東宮の事が決まった。事は早々とすべきである。李部宮(敦明親王)が東宮に立たれることになった。あれこれ申すことはできない。・・・」ということだ。」(『小右記』長和4年(1015)12月24日条)
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寛仁2年(1018)10月16日 道長の三女威子が後一条天皇の中宮となる。 「一家が三后を立てるのは、未曽有である」(『小右記』) 道長「此世をば我世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば」。

北の丸公園 2013-02-07
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寛仁2年(1018)
10月16日
・道長の三女威子が後一条天皇の中宮となる。
道長が望月の歌を詠む。

10月5日、威子は内裏から一旦土御門邸に退出した(女御が立后する時、女御はいったん自邸に帰って、そこで立后の命を受ける)。

そして16日、立后の儀式が行われた。
儀式はまず内裏の紫宸殿に天皇が出御して行われる。紫宸殿前の庭には、公卿たちと官人たちが立ち並び、宣命使が「中宮(妍子)を皇太后に、女御威子を皇后に」という宣命を読み上げた。
この時まで、彰子は太皇太后、三条天皇の皇后娍子・中宮妍子の称はそのままであった。2人は共に先帝の后であるが、当時は天皇の代替りがあっても、皇后が皇太后に自動的に変わるわけでなく、そのままの称号が残されるのが常だった。
しかし、中宮が塞がっていては困るから、同じ日に中宮妍子は皇太后となり、代わって威子が中宮の称を得た。皇后娍子の称号はそのままに残された。
この式の時も左大臣顕光が、又いくつかの失敗を重ねているが、なかでも大きいのは、中宮妍子を皇太后にするという宣命を係の内記に作らせるときに、あやまって皇后を皇太后にするという文を作れと命じた。これでは皇后娍子が皇太后に昇ることになってしまう。当日、道長は早くから参内して指図していたが、この顕光の失言を聞くや、言葉を極めて彼を罵倒したという。

式がひととおり終わると、続いて新たに設置される中宮職(しき)の職員を任命する除目がある。この地位を望む者は多かったが、結局、大夫には大納言藤原斉信(ただのぶ)、権大夫には権中納言藤原能信が任命され、以下亮・権亮・大少進・大少属などが定められた。顕光はこの除目のとき、自分に縁のある者を少進に任命してもらいたいと申し出たが拒否された。
権大夫能信は威子の異母兄である。このように、皇后官職・中宮職や春宮坊の大夫・権大夫には、叔父・兄弟などの肉親や、その家と親しい公卿が選ばれるのが普通であった。大夫以下の職員は、中宮や東宮が羽ぶりがよさそうだと思うと希望者が殺到し、ぱっとしない官の職員にはなり手がなかった。

その後、公卿たちは里第の土御門第にいる新中宮威子のところへ祝いに赴く。
まず、公卿たちは寝殿前の庭に立ち並び、寝殿にいる新中宮へ拝礼を行い、ついで東の対に設けられた饗座に着いた。

その後、二次会にあたる穏座(おんのざ)が寝殿の南面の簀子(すのこ)に設けられ、摂政以下の公卿たちは東の対から移動して座に着いた。集う公卿は3人の大臣以下18人、やむを得ぬ事情や病気で遠慮したのは3人だけ。

祝宴の様子は実資の『小右記』に詳しい。
皆酔って盃を勧めようにも通る道がない有様である。南階の下には伶人(楽人)たちの座が設けられ、公卿・殿上人たちも楽器を演奏したり歌ったりして、堂上・地下そろって音楽を演奏した。
酒が3、4回廻ったところで、道長が私に向かって、「右大将よ、盃を我が子(摂政頼通のこと)へ勧めてくれ」と言ったので、私は盃を執り摂政へ勧めた。摂政頼通は左大臣顕光へ渡した。左大臣は盃を道長へ献じ、道長は右大臣公季へ渡した。
ついで、中宮威子から道長以下の参列者に禄を給わった。道長は、「親が子どもから禄をもらうというのはあるだろうか」と仰ったが、喜びの声だろう。

道長は私を招いて、「和歌を詠もうと思う。必ず和してほしい」と言った。私が「どうして和さないことがありましょうか」と答えると、道長は、「得意そうな歌なのだが。ただし、用意しておいたものではない」と言った。
そして詠んだ歌が、

   此世をば我世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば

であった。
私は「御歌は優美であるので、お答えする術がございません。みなでただこの御歌を誦しましょう。中国では元稹(げんしん)の菊の詩に白居易は和さないで、深く賞嘆し終日吟詠していたと言います」と言ったところ、公卿たちも私の言葉に応じて、道長の歌を数度吟詠した。

道長をこれほどまでに喜ばせ、この世はわが世と思わせたもは、威子立后による「布石」の完成である。
その布石とは、天皇・東宮を自分の外孫で占め、太皇太后・皇太后・中宮と、歴代天皇の后の地位を全部自分の娘で囲んだことである。

伊周排斥から、皇后定子・皇后娍子への妨害、三条天皇退位、東宮廃立と、その時々に全力を挙げて進路を切り開いて道筋の先にあるものはこれであった。摂政も太政大臣の任も、この道筋の単なる里程標であった。彼がこの世をわが世と思い、円満具足の境遇を誇ったのは、威子立后によって、現在および将来にわたり、外戚の地位が保証されれたことである。
天皇の外戚ゆえに摂関の栄位を得ることができ、後宮を押さえることによって外戚の地位を確保することができるという摂関政治体制の原則を、彼ほど完全な形で実行し得た者は他にない。彼こそが摂関政治の権化と呼べる者である。

威子立后の祝宴は、3日間にわたって行なわれ、引き続いて10月22日、土御門第へ後一条天皇ならびに三后(彰子・妍子・威子)の行幸啓(ぎようこうけい)があった。
池の上で龍頭鷁首(りゆうとうげきしゆ)の船が楽を奏し、ついで天皇と東宮は共に馬場殿に御し、競馬(くらべうま)を覚る。ついで寝殿に還御し、文人や擬文章生(ぎもんじようしよう、文章生の候補者)を召し、作文(さくもん)の会が開かれ、天皇御前で省試(しようし、文章生を選ぶ式部省の試験)が行なわれ、文運の隆盛が示される。
道長の子弟や家司は位階を進められ、道長は馬十頭や、道風・佐理の書を献上した。その間、東の泉殿において、三后の御対面があり、道長は感激の頂点にいたり、「言語に尽くし難し、未曾有の事なり」(「御堂関白記」)と記している。

こうして、道長一家の栄華はその絶頂に達した。

2年半後、彼はさらに威子の妹の嬉子を東宮敦良親王の妃として送りこみ、ますますその地位を固めたが、それは確固不動の態勢を築いた後の、若干の補強策にすぎない。

威子立后後、道長は急速に世事と離れて法成寺の建立に心を傾け始めた。
立后の盛儀から半年後の寛仁3年(1019)後半以降の彼の日記は、記事が激減し、空欄のみ目立っている。
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「今日は女御藤原威子を皇后に立てる日である<前太政大臣(藤原道長)の第三娘。一家が三后を立てるのは、未曽有である>。」
「太閤(藤原道長)が戯れて云(い)ったことには、「右大将(藤原実資)は、我が子<摂政(藤原頼通)である>に勧盃するように」と。私(藤原実資)は盃を執って、摂政に勧めた。」
また、(藤原道長が)云(い)ったことには、「誇っている歌である。但し準備していたものではない」ということだ。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
 欠けたる事も 無しと思へば」
「私(藤原実資)が申して云(い)ったことには、「御歌は優美です。酬答する方策もありません。満座は、ただこの御歌を誦すべきでしょう。元稹の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、深く賞嘆して、終日、吟詠していました」と。」
「諸卿は私(藤原実資)の言に饗応して、数度、吟詠した。太閤(藤原道長)は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。」
(『小右記』寛仁2年(1018)10月16日条)
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長和6年/寛仁元年(1017)3月 藤原道長、長男内大臣頼通(26歳)に摂政を譲るが、大殿として継続して実権を掌握。

江戸城(皇居)東御苑
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長和6年/寛仁元年(1017)
この年
・摂関賀茂詣(せつかんかももうで)
摂関の賀茂詣は、藤原時平以降、賀茂祭の当日などに賀茂社へ参詣することから始まったが、当初は摂関だけではなく他の公卿も参詣していた。
しかし、一条朝後半以降になると、他の公卿は独自には参詣しなくなる。

一方で、道長の賀茂詣は大規模化していき、摂政を頼通へ譲った寛仁元(1017)年には頼通と2人で参詣しており、その弟敦通や頼宗も同行し、頼通には上官が従い、「上達部十四人、皆車に乗」って同道していることが注目される(『御堂関白記』)。
道長は他の公卿たちを従えて賀茂詣に行くようになった。
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・この頃、藤原公任『北山抄」の基礎が成立。
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1月
・前年、後一条天皇が三条天皇から皇位を継ぎ、諸社(石清水八幡宮・賀茂神社・春日神社)行幸のはこびとなる。
この年正月8日、摂政道長は、石清水・賀茂社行幸の上卿を勤めるよう大納言実資に内示した。
翌9日、正式に人選が決定し、上卿は実資、副には参議藤原公信が選ばれ、弁官からは左少弁源経頼・左大史但波奉親(たんばのともちか)がこの行事に当たることになった。
即日、行幸の吉日が実資の監督のもとに陰陽寮によって選ばれ、石清水行幸は3月4日(実際には3月8日に実施)、賀茂行幸は8月19日と決まる。
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1月22日
・この日深夜、宿直の滝口が一条院内裏の西中門の南わきで黒装束の男を発見し、蔵人頭のもとに連行中、逃げ出したので、追いかけて矢を放って射倒して捕えた。面体をあらためたところ、故左衛門尉忠道の従者であり、盗品と思われる鏡一面と白の狩衣を持っていた。
この騒ぎに検非違使を召したが1人も居合わせず、諸門の宿直を蔵人に巡検させたところ、誰も詰めていなかった。
結局、宿直をさぼった連中は怠状(たいじよう、始末書)を取られ、1ヶ月後厳重戒告のうえで許された。
盗人を捕えた滝口は大舎大允に昇任された。
内裏の警備容態はいたってだらしなかったらしい。
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2月6日
・この日、滝口大蔵忠親が一条堀川の橋(戻橋)上で殺害される(『御堂関白記』『日本紀略』)。
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3月8日
・この日午後3時頃、六角小路と富小路の辺(三条京極の少し西南)に住んでいた前大宰少監清原致信(むねのぶ、藤原保輔の兄の前大和守藤原保昌の郎等、清少納言の兄といわれる)の家を、「乗馬の兵七八騎、歩者十余人許(ばかり)」が取り囲んで襲撃、致信を殺害した。

襲撃は、その日、後一条天皇の石清水八幡宮行幸があった最中のことで、警備の手薄を衝いて巧妙に行なわれた。
殺された致信の親分の保昌は、道長の家司も勤めたお気に入りで、和泉式部の夫にもなった人だから、検非違使が現場に派遣されて調べた。
すると、一味のなかに秦氏元(はたのうじもと、源頼親の従者)がいた。頼親は頼光・頼信の兄弟で、有名な武士である。

検非違使が摂津にいるという氏元を追捕に赴き、その家に召し使われていた僧を捕えて調べたところ、この事件は頼親の指令で氏元がやったことだと白状した。
事の起こりは大和国の当麻為頼にからんでのいざこざで、保昌も頼親もともに大和守の前任者であるから、在任中の紛争が発展したものと考えられる。
頼親は一時、右馬頭兼淡路守の官を召し上げられた(やがて復活)。

頼親は世間に広く「くだんの頼親殺人の上手なり。たびたびこのことあり。」(『御堂関白記』)として知られている。
武士の暴力団的性格は恐るべきものがあり、しかもその裏には、私的な主従関係・血縁関係が絡み合っている。

この場合、保昌は元方の孫、致忠の子であり、頼親や頼信の母は元方の娘とも致忠の娘ともいわれるが、とにかく両者間に姻戚関係があるらしく、事態は複雑を極めるものだった。
このような暴力を伴う私的な人間関係の絡み合いは、当時の世相の一裏面である。
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3月16日
・藤原道長が長男内大臣頼通(26歳)に摂政を譲る。
道長が摂政だったのは僅か1年。道長は摂政の地位に執着しなかった。

この後、道長は「大殿」として隠然たる力を振るっていくことになる。
「大殿」とは貴人の当主の父の意味で、道長は公的な役職を自らは保持せず、周囲の人間を動かすことで実権を握っていった。
頼通より上席の大臣として、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季がいたため、摂政頼通を左右大臣より上席とする一座の宣旨を賜ることになった。
こうして、朝廷においては頼通が最上席になったが、実際にはまだ元気な父道長が大殿として控えており、頼通自身も何かと大殿道長にお伺いを立てている。

大殿道長
政治形態として道長が院政の先駆けであったことは、摂政を頼通に譲り、太政大臣を辞して以降も、大殿として摂関である頼通の背後において、政治の実権を掌握していたことからも窺える。
道長の大殿方式が院政へと継承され、譲位した後も天皇の背後で院が政治に関与する院政が成立した
摂関政治から院政への変化の原因としては、摂関家に入内させる娘が生まれなかったり、入内しても皇子が生まれず、外戚になれなかったこと、院が長命で政治に関心を示すようになったこと、貴族層において「家」が成立し父系が確立したことなどの状況的要因が挙げられるが、道長の大殿方式の政治形態が院政という統治のあり方の可能性を示したことが、その直接的淵源であると思われる。

摂関の地位は、道長・頼通以降、彼らの直系の血筋に固定化していく。
そして、院政期以降、摂関家が家格として成立し、外戚関係がなくとも摂関の地位を独占できるようになる。
摂関家の成立は、直接的には嘉承2年(1107)年、白河院により、鳥羽天皇と外戚関係にない、頼通の曾孫忠実が摂政に指名されて時に完了する。
その淵源は道長が、他の公卿たちとは隔絶した、天皇に極めて近い地位を築いたことによってもたらされた。
道長が圧倒的な権力・地位を築いたことによって、外戚関係になくとも、準三宮(じゆんさんぐう)宣下(太皇太后・皇太后・皇后と同等の待遇を与える命令)がなくとも、摂関家は王権の中に位置づけられるようになっていった。
「摂政を辞任する表を(後一条)天皇に献上した。辞表は天皇の手許に留められ、勅答があった。左近中将(藤原)兼綱が、勅答使として来た。左衛門督(藤原教通)が、代わりに勅答使を拝したことは、常と同じであった。」
「すぐに内大臣(藤原頼通)を摂政とするという詔(しょう)が下った。太皇太后宮大夫(藤原公任)が、詔を作成する上卿(しょうけい)を勤めた。」
(『御堂関白記』寛仁元年(1017)3月16日条)
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4月23日
・寛仁に改元。
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2024年11月11日月曜日

長和3年(1014)2月7日 鎮守府将軍平維良、道長に莫大な贈物を持参 藤原隆家を大宰権帥に任命

東京 北の丸公園
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長和3年(1014)
この年
・この年、石清水八幡宮寺の権別当元命(げんみよう)が九州へ赴く途中、讃岐の海上で海賊と遭遇して合戦し、死傷者14人を出して備後に逃げ込む。これは、同僚の権別当院救(いんきゆう)が殺害を図ったものとして訴え出た。
この後も、元命と院救の対立は続く。
また、これとは別に、天台宗の中で山門と寺門(延暦寺と園城寺)の有名な武力抗争も展開される。
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1月
・この頃の受領功過定の様子。
この年正月の除目の際に行われた受領功過定では、伊予介藤原広業(ひろなり)の勤務評定について、中納言藤原行成が問題点を指摘したため、22日~24日の定(さだめ)では決着せず、10月の京官除目にまで持ち越され、最終的に左大臣藤原道長の判断によって「無過」となった(『小右記』)。

一方で、道長の家司受領(けいしずりよう、家政機関の職員で受領を兼ねている者)に対しては概して評価が甘い。
道長の代表的な家司である藤原惟憲(これのり)の場合、この年正月12日に近江守惟憲は「未だ着任せず」(『小右記』)とあるが、3月29日には着任前にもかかわらず、賀茂禊祭料を進納しており、「相府(道長)譴責の詞あり」とある。
惟憲は近江守在任中、着任しないで禊祭料を進納するなど芳しからぬ行いがあった。
寛仁3年(1019)正月22日の県召(あがためし)除目の最中に行われた受領功過定においては、他の受領についてはいろいろ意見が出ているのに、惟憲については、「近江国の事(惟憲、無過)」と何の問題もなく直ちに「無過」と定められている。
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1月17日
・この日付け『小右記』に、既に公卿が22人もいるのに除目でさらに1人ふえることを、「弾指すべし」「乱代の極みのまた極みなり」と書かれている。
この公卿のインフレを、実資は「太(はなは)だ汎愛。世間の珍宝、悉く蓮府(道長)に到る」と、道長に賄賂が贈られる結果だと、道長に人事の責任があると考えている。

道長は長和元年(1012)12月に源道方を参議に任じて公卿を21人にした時、「公卿廿(にじゆう)人を過ぐる事、宜しからざる事なり。然れども申す所その理有り。下﨟を以て不覚に前に任ぜられ、その愁ひ尚は身に留むと。また参議多く書読せざる者有り、定の間見苦しきこと事に触れて多端」と、それなりの理由を日記に記している(『御堂関白記』)
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1月27日
・彗星出現。
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2月
・源頼親(清和源氏)、これまで大和守、淡路守、右馬頭、伊勢守を歴任し、この月、道長から摂津守に推挙されたが、「土人」のごとし(土豪のごとく現地に深い利害関係がある)として、三条天皇の反対を受けて任官を断念させられた。
その後、彼は大和に進出し、道長没後に再度大和守に就任、子孫は大和源氏となる。
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2月7日
・長保5年(1003)に、下総国府を焼き討ちした平維良(これよし、平兼忠の息子、将門を討った平貞盛の曾孫)に対して、追討使が派遣されたにもかかわらず、事件はうやむやとなった。

そして維良は、数年後には鎮守府将軍となり、延任(重任)の取りなしを求めるため、道長に馬・鷲羽・砂金など莫大な贈り物を持参した(『小右記』長和3年2月7日条)。
贈物は、馬20頭、うち12頭は道長に、8頭は道長の諸子に贈る分である。そのほか、矢を入れる胡籙(やなぐい)とか、鷲の羽・砂金・絹・綿・布と、莫大な品々を道長邸に運び入れ、人々は道路に群集してこれを見物した。
こんにちからすれば明白な汚職行為であるが、当時の感覚では多少の非難はあっても、これを罪科と見る向きはなく、公然と行なわれた。

いわば前科者の維良がその後、財宝を積んで位も授かり、鎮守府将軍にも昇り、主従ともに益々富強となって、重任の運動に上京して来た。

この維良の件を実資は非難の意をこめて日記に書いているが、実資に対しても、諸国の受領からはかなりの付け届けがあったらしい。

実資は 「かつて追捕官符を受けて指名手配された男が、五位に叙され鎮守府将軍に任じられた。すべて財貨の力である」と日記に記している(『小右記』)と非難している。

長保5年(1003)正月、下総守宮道義行(みやじのよしゆき)から維長が国府館を焼亡させ官物(稲穀など国衝財産)を略奪したという「兵乱」が報告されて追捕官符が下され、藤原惟風(これかぜ)が追討使として派遣された。
しかし9月、惟風から届いた調査報告書に対して左大臣道長は惟風の署名がないなどの難癖をつけて、事件はうやむやになってしまった。
道長は捜査を妨害して、家人維良を救済したのである。
宮道義行は実資家の家司として忠勤に励んだ人物であり、実資は家司義行の兵乱報告が虚偽と認定されたことを屈辱とし、他の平氏一門が曲がりなりにも小野官流に仕えているなかにあって、恩を仇で返すような行為をした維長に腹を立てている。

平貞盛の子孫と摂関家との関係
平貞盛とその子息たちは、藤原北家の中でも実頼・頼忠・実資の系統(小野宮(おののみや)流)に仕えていた。
実資は、貞盛の養子で常陸国に居住する「僕」(家人)維幹を五位に推挙しようと運動し、常陸介として赴任する家人維衡に馬1匹を餞別として送り、維時が持ち込んできた弘法大師直筆と称する「大般若経」の真偽鑑定を三蹟で名高い権大納言行成に頼み、行成は「凡筆に非ず、貴重とすべし、随喜すべし」と嘆息している。
維敏・維叙(これのぶ)らも頼忠・実資に仕えていた。
しかし、兼家・道長と九条流が摂関家の地位を不動のものにしていくと、貞盛の子息たちも道長へと奉仕の比重を移していく。
ただし、維叙が臨終出家することをまず実資に伝え実資から道長に連絡していたり、上総介赴任中に病を得て上洛した維時が一番先に実資に連絡しているところをみると、道長との関係よりも実資との主従関係の方が深く親密であったようである(『小右記』)。

しかし摂関家と貞盛子孫との関係は、源氏ほど強固な関係にはならなかった。
蔵人・殿上人として内裏の奥深くで天皇を直接警固する源氏と、検非違使として京内犯罪を取り締まる平氏とでは、宮延社会における家格の差は歴然としていた。
この家格差は摂関家との主従関係の親密さの差とも密接に結びついていた。

摂関期、表舞台に立っていた源氏の陰で雌伏していた平氏は、やがて院権力と結合して源氏を凌ぐようになる。
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2月9日
・この日午後10時過ぎ、内裏の北側にある登化殿から火災が起こり、内裏の諸殿舎はほとんど焼失した。
おりから正月27日いらい、天空には彗星が出現して人々を恐れさせ、天文道の博士が異変の起こるべきことを密奏した直後の事件である。
この不祥事に天皇の心痛は激しく、間もなく左の目が見えず、片耳も聴力を失うという状態となり、紅雪(こうせつ)や阿梨勒丸(ありろくがん)などという薬を服用した甲斐もなく、病状は日増しに進んで、年末にはついに失明に近くなった。
「亥(午後9時~午後11時)の終剋の頃、(中原)師重が云(い)ったことには、「西の方角に火事が有ります。その距離は、はなはだ遠いものです」と。驚いて見てみると、すでに宮中に当たっていた。そこで急いで参入した。」(『小右記』長和3年(1014)2月9日条)
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3月1日
「(藤原)資平が内裏から退出して云ったことには、「三条天皇が私(資平)を召し、おっしゃって云われたことには、『(清原)為信が上京したということを聞いた。すぐに召させたとはいっても、病の障りを申して参らなかった。・・・」
「・・・但し二度、私(三条天皇)は丹薬を服用し、その後、冷物を食した。ところが、近日では、片目が見えず、片耳が聞こえない。・・・(清原)為信に問うて、申した趣旨を奏上するように』ということでした」と。」
(『小右記』長和3年(1014)3月1日条)
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3月6日
「深夜、按察使納言(あぜちなごん/藤原隆家)が、布衣(ほい)を着して来て、熊野に参った事を談(かた)った。また、目は頗(すこぶ)る平減したとはいっても、出仕することはできない。都督に任じられる望みが、もっとも深い。」(『小右記』長和3年(1014)3月6日条)
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3月12日
「巳剋(午前9時~午前11時)の頃、北西の方に火が有った。雑人が申させて云(い)ったことには、「大宿直所が焼亡しています」と云うことだ。しばらくしてまた云ったことには、「火は内蔵寮の不動倉および掃部寮に移りました」と云うことだ。」(『小右記』長和3年(1014)3月12日条)
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3月14日
「夜に入って、(藤原)資平が来て云(い)ったことには、「・・・『先日、左府(藤原道長)および大納言(藤原)道綱が、連れだって、天道が主上(三条天皇)を責め奉ったのだということを奏上した』と云うことです。・・・」
「・・・皆、思うところが有るようなものです。『主上(三条天皇)は、詳しくその志をわかっておられる』と云(い)うことでした。これは右金吾(うきんご)将軍(藤原懐平)が、密々に私(藤原資平)に談(かた)ったことです」と。・・・」
「僕射(ぼくや/藤原道長)は、たとえ思うところが有るとはいっても、(藤原)道綱がどうして同心するのか。愚である、愚である。天譴(てんけん)は避け難いのではないか。
(『小右記』長和3年(1014)3月14日条)
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3月22日
「(藤原)資平が望む任官について、頭弁(藤原朝経)に事情を聞いた。その報に云(い)ったことには、「昨日、奏聞したところ、(三条)天皇がおっしゃって云ったことには、『左大臣(藤原道長)に、妨害の意向がある。・・・」
「・・・「(藤原)道雅と(藤原)兼綱を、先ず蔵人頭に補せられるべきものです。ところが専一に(藤原)資平をおっしゃられるのは、如何なものでしょう」と。勅答して云ったことには、「恪勤であるので、資平を中将に任じたのである。・・・」
「・・・蔵人頭についてもまた恪勤によるべきである。但し(藤原)道雅と(藤原)兼綱は、恪勤ではない上にその職に堪えることはできないであろう」と。左大臣(藤原道長)が申して云(い)ったことには、「追って定め申すこととします」と。・・・
・・・意向は、(藤原)経通を推挙するのであろう』ということでした」と。万事あれこれ、丞相(藤原道長)の口に懸かっている。
(『小右記』長和3年(1014)3月22日条)
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3月25日
「(藤原)資平が云ったことには、・・・「また、(藤原道長が三条天皇に)譲位を行うよう、責めることが有りました。はなはだ耐え難いということについて、天皇の仰せ事がありました」ということだ。奇である。恠である。」(『小右記』長和3年(1014)3月25日条)
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5月
・この月の造内裏定で、天皇の意向として実資の兄の懐平(かねひら)が造官別当に内定していたが、御前定で道長が若い教通(のりみち)に定める。
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5月16日
「還御の後、急に民部大輔(藤原)兼綱を蔵人頭に補された<(藤原)能信を三位に叙した替わり>。式部卿親王(敦明親王)が、今日、馬場に於いて懇奏したものである。」
「この蔵人頭については、度々、(三条)天皇がおっしゃって云(い)ったことには、「欠員が有る時は、必ず(藤原)資平を補される」と。人を介しておっしゃられ、また、資平にもおっしゃられた。」
「ところが汗と同じである綸旨(りんじ)は、掌(てのひら)を返すに異ならないばかりである。後々、(三条)天皇の仰せは頼むことはできない。また、数度、おっしゃられた事が有った。今となっては、思い出すことができない。
(『小右記』長和3年(1014)5月16日条)
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6月
・この月、藤原実資が所領である筑前国高田牧に遣使し、大宰府にいた宋の医僧より薬を購入しようとする。
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6月17日
藤原為時、越後守の任期を任期を1年残しながら職を辞して帰京
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11月7日
「夜に入って、(藤原)資平が来て云ったことには、「・・・(三条)天皇が還御した後、陣座に於いて除目が行われました。中納言(藤原)隆家を大宰権帥に任じました。・・・除目については、左大臣(藤原道長)が奉行しました」と。」(『小右記』長和3年(1014)11月7日条)
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12月
・この月の『小右記』に、亡くなった大宰大弐藤原高遠の所有していた大瑠璃壷を道長が奪ったという話がある。唐物熱の高さが窺える。
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長和2年(1013) 実資の日記『小右記』にみえる紫式部 「・・・、女房に相達ふ(越後守為時の女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ)」 中宮妍子、三条天皇第3皇女禎子内親王を出産

東京 和田倉噴水公園辺り 2012-11-10
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長和2年(1013)
4月
・この頃の賀茂祭の行列は華麗を増す傾向があり、しばしば華美を戒める命令が出された
この年4月19日、実資のもとに蔵人頭が来て、祭使の従者の人数の制限、衣服の華美の制限の2項目を下令せよとの勅を伝えた。
蔵人頭に聞くと、人数制限は道長が奏上し、衣服の制限は天皇自身の考えであるという。
実資は早速その手続きをとった。

しかし、実際の祭になってみると、禁令など無視した華美なものだった。
人数制限、美服禁止は、全く守られないばかりか、例年にも増して華麗を極めた。
しかも、実資を憚って、実資が見ているところでは車に隠れたり、別の道を通ったりして、実資の前を過ぎると大手を振って行列に加わり、意気揚々と練り歩くという憎いやりかたをした。
実資は憤慨して、道長は華美の禁止を奏上しておきながら、陰では禁令を無視せよと人々に命じたのだと日記に書いている。
少なくとも道長に華美禁止の熱意がなかったことは、彼の日頃の言行から見て疑いなく、人々は敏感にその意向をキャッチして平然と行列に加わったのであろう。

華美の者を取り締まれとの命令があったにもかかわらず、この日、検非違使は一切活動しなかった。
祭のあと4日して、天皇は道長に対し、祭使や検非違使の違反を実資に糾問させるようにとの命を下し、その命令は実資のもとに伝えられた。
実資は違反者から始末書を取って道長を経て奏上したが、その始末書も間もなく返却されて事は収まった。
道長も正面から天皇に楯突く訳ではなく、陰で嫌がらせをしている。
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5月25日
・この日付け藤原実資の日記『小右記』に紫式部の名が見える

「資平をして去夜密々(みつみつ)皇太后宮に参らしめ、東宮(敦成親王)御悩の間、仮(け)によりて不参の由を啓せしむ。今朝帰り来たりて云はく、去夕、女房に相達ふ(越後守為時の女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ)。彼の女云はく、東宮の御悩重きに非ずと雖も、猶未だ尋常に御さざる内、熱気未だ散じ給はず。亦左府(道長)聊か患ひの気あり、てへり」(『小右記』長和2年5月25日条)。

「昨夜、資平(実資の養子、実は甥)を皇太后宮に内密で遣わして、東宮の病気ではあるが、引きこもり中なので、お見舞には参上致しかねる、との断りを申し上げさせた。けさ資平が帰って来ての話では、昨夜皇太后の女房に逢ってそのおもむきを伝えたが、彼女の話では、東宮の病気はたいしたことはないが、まだ多少熟がある、また、左大臣(道長)も少し加減が悪いようです、ということであった」

東宮敦成親王の病気見舞いの話であるが、実資は越後守為時の娘である女房(紫式部)を通じて、常々皇太后彰子に雑事を申し上げているとみえる。
長和元年から2年、実資はたびたび皇太后彰子が住む枇杷殿を訪れているが、紫式部が取り次ぎ女房であったことがわかる。
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6月
・この月、道長の子頼通が権大納言に、教通が権中納言に昇進したとき、2人は道長の言いつけ伯父道綱のところに挨拶に出かけたが、道綱はこの頃、源頼光の婿になって頼光の一条の家に住んでいる。
2人は頼光の家などに挨拶に行くのは嫌だから、道綱の本邸の大炊御門邸に行って、上がらずに挨拶だけして帰った、という。
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7月6日
「戌剋の頃、中宮(藤原妍子)の御方(土御門第)から女方(源倫子)が来て云ったことには、「中宮が産気付かれました」ということだ。驚いて参入した。・・・子剋に、平安かに女皇子(禎子内親王)を降誕された。」(『御堂関白記』長和2年(1013)7月6日条)
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7月7日
「暁方、人々が云(い)ったことには、「中宮(藤原妍子)の産気は、平安に遂げられました」と云うことだ。そこで(藤原)資平を参らせた。・・・」
「・・・しばらくして、(藤原)資平が帰って来て云(い)ったことには、「相府(藤原道長)は、すでに卿相や中宮(藤原妍子)の殿人と会っておられません。悦ばない様子が、甚(はなは)だ露(あら)わでした」と。」
(『小右記』長和2年(1013)7月7日条)
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8月
・この月、相撲節(すまいのせち)が行なわれ、天皇の前で左右に分かれて数番の取組みがあった。
数日後、天皇は実資の兄懐平に、
「相撲の日、伊勢皇大神宮に祈念して、もし皇位が安泰ならば一、二、三番とも左が勝ちますようにと祈ったが、幸いにそのとおり左が勝った」
と密かに漏らしたという。
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8月
・この月、道長、前年の病気をうけて五壇法を修した。
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9月
・入宋の天台僧寂照の弟子念救が帰国。
道長に『白氏文集』の版本と天台山図が贈られる。
また天台山国清寺から日本延暦寺へ、天台大師智顗(ちぎ)の像、彼が使用した袈裟と如意、茶垸(ちやわん)、壷などが贈られる。
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9月8日
「夜に入って、権中納言<(藤原)隆家>が来て、談(かた)って云(い)ったことには、「病悩している目は、10分の7、8に減じました」ということだ。」(『小右記』長和2年(1013)9月8日条)
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12月10日
「帥宮(そちのみや/敦康親王)の許に、故中務卿宮(具平親王)の女子が嫁してきた。・・・「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に、故中務卿宮の女子が参入した」ということだ。枇杷殿の西対の北面を、婚儀の場とした。」(『御堂関白記』長和2年(1013)12月10日条)
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2024年11月4日月曜日

治安元年(1021)5月~7月 平致経が起した暗殺事件に見るこの頃の武士の活動形態 法成寺の金堂立柱 道長、病に倒れる(実資、道長の闘病の様子を『小右記』に記述)

江戸城(皇居)東御苑 2013-04-23
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治安元年(1021)
5月11日
・この年、左衛門尉平致経(致頼の子)と弟内匠允公親が、前年、東宮史生安行を殺害していた事実が明らかになった。

そこで5月11日、逃亡した両名追捕のため検非違使が伊勢に下向する。
検非違使らは事前に、致経らが神郡に籠るならばその由を報告して指示を仰ぎ、他国に逃去るなら跡を尋ねて追捕すべき、との別当の命を受けていた(『左経記』)。

検非違使らは、伊勢において致経の郎等を逮捕、訊問し、驚くべき自白を得た。
「内匠允公親の仰せによりて、先年一条と堀川の橋上において、滝口信乃介と云ふ人を殺害す。また、去年致経の仰せによりて、東宮の史生安行を殺害す。兼ねてまた東宮亮惟憲朝臣を殺害せんがために、三ケ夜伺ひ求むと雖も、その便無きによりて、遂げずして帰り去りをはんぬ。これ宮の下部等、亮の仰せによりて、致経が宅を切り亡ぼすの所為によりてと云々、」

郎等は東宮史生安行のみならず、以前に滝口信濃介を殺害し、また東宮亮藤原惟憲の暗殺を計画し、3日3晩機会を窺いながらそれを果たせなかったと白状した(『左経記』6月3日条)。

一条堀川の橋(戻橋)上は暗殺の「名所」で、寛仁元(1017)年2月6日にも滝口大蔵忠親が殺害されている(『御堂関白記』『日本紀略』)。

惟憲の件は、東宮亮が致経宅を「切り亡ぼ」したところに原因があった。

これは、1年前の事件のことである。
「或人云く、左衛門尉平致経年来東宮町に寄宿す。しかるに昨日夫(ぶ)を出すべきの由、彼の宮(敦良親王)の下部等来たり催す。しかるに一下部を凌(おか)して夫を出さずてへり。よりて宮の下部数十人来たりて彼(か)の□□(私宅カ)に向ひ切り損ずと云々、」(『左経記』寛仁4年2月14日条)
致経は町住人の負担である東宮夫役を拒否、催促する東宮の下部に乱暴を働いたため、報復で彼の宅が破壊された。
報復は道長の指示で行われたものであるが(『小右記目録』2月15日条)、それを怨みとして東宮史生や東宮亮に対する暗殺が計画された、という。

伊勢の検非違使は探索を続け、その過程で尾張にあった致経と従類の宅が悉く焼亡している。
探索者側による災気(当時罪と穢と禍を同一視する観念があったらしい)の除去(祓の一種)を目的とする犯人宅の焼却か、致経側の自焼か、のいずれかと考えられる。
宅の焼亡に際し、在地「古老等」は「不善の事巳にかくのごとし」と快哉を叫んだらしい。
これらの宅が「郡庁を壊却し、新たに所作」したものだったからである(『左経記』6月3日条)。

同地に住む致経の従者が京上の由を申したので、検非違使が随身して帰京し、その言にしたがって、5月28日、致経の行方を知っているとみられる藤原維佐の宅に向かった(『左経記』)。
藤原維佐は、検非違使として都の盗賊追捕に活躍した人物である(『御堂関白記』長和2年2月18日条)。
維佐の下女の話によって、さらに致経の「因縁」(縁者)左近大夫中原致行が事件に関係していたことが明らかとなり、翌6月8日、検非違使が彼を搦め取るため、故左大臣顕光の堀河院に参向した。
承香殿の女御元子の妹が小一条院の女御で、間に生まれた皇子敦貞親王の乳母の夫が中原致行という関係だったからである(『栄花物語』巻16「もとのしづく」)

この段階でも致経・公親兄弟は行方不明で、「致経・公親等の輩を打ち進(まい)らす者、その器に随ひて賞を給ふべし」との官符が七道諸国に下っている(『左経記』)。

その後、8月24日、致経は横川の法師静覚のもとに匿われていたのを、検非違使に襲われ逮捕される。
但し、検非違使は捕われたのを受領しただけで、実は維衡の子正輔によって捕われた、との風説が流れている(『小右記』)。

この事件による致経の処分は不明であるが、同年10月1日、致経は前左衛門尉という肩書で、東大寺伝燈大法師朝晴に、現在正倉院に所蔵されている「紺瑠璃唾壷」を施入しているので、解官されたのは確かである(『東大寺別当次第』)。

致経が形成していた京内外の広い「人脈」
この事件を見ただけでも、彼は敦貞親王の乳父(乳母の夫)の中原致行、横川の「有験者」法師静覚、「由縁有」るによって致経施入のガラス壷をうけとる東大寺の伝燈大法師朝晴、および彼と親縁関係にあった藤原惟佐らと関係している。
こうした「人脈」は、姻戚関係・師檀関係・同僚意識などによって成立する。

このような下級貴族・官人や大小寺院の僧侶などの間に形成される同様の「人脈」は、複雑かつ広範な広がりをもって存在し、貴族社会の暗部の伏流をなしている。
彼らはそれぞれの「人脈」の中で、情報を交換し、連帯して相互の利益を保障しあっていた。

致経は暗殺・傷害の常習犯であった。
彼は従者を駆使し、意にまかせ、敵を闇の中に葬り去っていた。
東宮亮藤原惟憲は、道長の家司として、後一条天皇乳母の典侍美子の夫として、なによりも貪欲な受領として知られた人物で、非参議正三位を極位とする貴族である。失敗したとはいえ、惟憲を「三ケ夜」にわたってつけねらった従者には、職業的殺し屋の面影がある。

これは致経のケースだけでなく、源頼光の弟頼親と従者の場合も同様であった。
寛仁元年(1017)3月、藤原保昌の郎等で、清少納言の兄ともいわれる前大宰少監清原致信が、「乗馬の兵七八騎、歩者十余人許(ばかり)」に襲撃され殺害された。
襲撃は白昼であるが、後一条天皇の石清水行幸による警備の手薄をついており、巧妙なものだった。
検非違使の訊問の結果、源頼親の従者秦氏元が襲撃の指揮者と判明する。
彼は、頼親の指令をうけて実行した。
世人は「くだんの頼親殺人の上手なり、度々この事有り」と噂しあったという(『御堂関白記』(11・12・15日条)。

致経と従者たちについての、『今昔物語集』にある説話
明尊僧正が宇治殿藤原頼通に、三井寺に使して夜のうちに戻るべしと命ぜられ、致経が突然の護衛を首尾よく果たすという著名な話。
致経は最初「賤ノ下衆男一人」だけを伴い、しかも徒立ち姿で明尊を不安がらせる。
しかし、忍び屯する騎馬の郎等を町の辻々で合流させ、帰路も同様順次解散させたので、明尊を安堵感歎させた。
この予ねて打ち合わせたかのような集合、解散は一切無言のままで行われたという。
ここには完全武装の郎等を暗夜無言のうちに駆使する致経のすぐれた兵ぶりと、「奇異(アサマシ、異様な)」い集団の姿が、情念を欠落させた簡潔な筆致で、みごとに描きこまれている(巻23)。「黒バミタル物ノ弓箭ヲ帯セル」郎等のありようは、殺し屋的従者のそれと紙一重である。

維衡と従者の場合、彼らは京都の内外で、寛仁2(1018)年と寛仁4年、闘乱傷害事件を起している。

致経の父致頼は、寛弘4年(1007)8月、藤原伊周・隆家兄弟に語らわれて、兄弟の政敵左大臣道長を殺害せんとしたという(『小記目録』)

致経と従者の主従関係。
殺し屋的な致経の従者は、主人致経と弟公親のそれぞれから殺人を命ぜられ、実行している。
『今昔物語集』の「依頼信言平ノ貞道、切人頭語」(巻25-10)という説話を参考にして、事情を類推すると・・・。

この説話の冒頭、酒宴の最中に主人頼光の弟頼信に殺人を命ぜられた平貞道が、はかばかしい返事をせず、命令をうやむやにするくだりがある。
彼が承諾を渋った理由は、
①たとえ頼信が主人の弟で 「現ニ一家ノ主也トハ云へドモ、未ダ参り仕リナドハ」していない。
それに人を討て殺せなどという大事は、本来「我レヲ宗卜憑ム人」にこそ洩らすべきである。
②頼光の郎等であるとの縁で親しさ故に言うのであれば、密かに申付けるべきなのに、人も聞く酒宴の最中に大声で言うのは愚かだ。

もし貞道が、これまで頼信に 「参り仕リナド」しており、しかも秘密に命令されたなら、彼は殺人を引き受けざるをえなかっただろう。
この説話では、頼信に「参り仕リナド」することと、彼が頼光の郎等であることの間に、矛盾はない。貞道はたまたま頼信に「末ダ参り仕リナド」していないのであって、将来そうする事態も十分ありえた。
すなわち、彼は同時に複数の主人と主従関係を結ぶ可能性を留保していた(複数の主従関係には強弱の序列がある)。

従って、致経の従者は、致経の従者であるとともに、公親ともなんらかの主従関係(「参り仕リナド」)を結んでおり、公親の命令を聞くべき立場にあった。
郎等や従者が同時に複数の主人と主従関係を結んでいることと、彼らの主人が同時に複数の顕貴な貴族と主従関係を結んでいることとの間には、明らかな対応関係がある。
こうした主従関係には、ある程度の「ルース」さがあり、それ故に、致経の従者は簡単に犯罪を自白してしまった。

致経らの在地における存在形態。
致経は、京都の東宮町に寄宿するとともに、伊勢神郡から尾張にかけてを勢力圏にしていた。
長和2年(1013)、彼が頼通に寄進した先祖相伝の所領益田荘も伊勢国桑名郡にあった(『近衛家文書』宝治2年2月某申状写)。
同荘は伊勢湾を活動の舞台とする海民の根拠地である。
致経が施入した「紺瑠璃唾壷」は、アルカリ石灰ガラス製酸化コバルト発色のいわゆる痰壷で、10世紀頃、西トルキスタンのフェルガーナ地方で作られ、国を経て、日宋貿易のルートで伝えられたものと考えられている。
入手経路は不明だが、一族が府官を勤める大宰府と、伊勢湾を結ぶ海の交易ルートを媒介としたものである可能性がある。

彼の勢力圏の中心は、尾張の某郡にあった私「宅」で、周辺には従頬の「宅」が集っていたようである。
地方豪族の本宅(「宅」)は、軍事上の拠点、農業経営の基地、交通商業活動のセンターなど多面的な機能をもっており、本宅-「与力の人々の小宅」-「伴類の舎宅」という同心円的な三重構造が、地方豪族の勢力圏の原型を構成していた。

致経および従類の宅は、某郡の郡庁を「壊却」し、跡地に「新たに所作」されたものであった。
通常郡衙は、郡庁・館・厨家などからなる主要部分と、倉院・倉庫院・正倉院などと呼ばれる徴税と備荒のための倉庫群によって構成されていた。
うち郡庁は、庁屋を中心に向屋・副屋・公文屋の四棟の建物群から成り立っており、郡庁正殿の前面には前庭も設けられ、国庁のように朝儀の場として機能したといわれる(『平安遺文』4609号)。

宅の新造にあたって、致経らは、都庁を「壊却」して得た資財を、積極的に活用し、郡衙の他の施設内に収納されていた家具・什器類も、新造の宅の調度品として利用された。その結果、致経の「宅」は普通の地方豪族の規模を上まわるものとなった。

彼らが郡庁を「壊却」しえたことの意味
10世紀末~11世紀初頭、目代・在庁を先頭とする国衙勢力によって、独立した行政機関である郡衙が解体され、郡・郷の検田所・収納所などに機能別に再編される傾向が生じ、郡衙の位置が相対的に低下し始めていたことがその背景にある。

『小右記』長元元年(1028)7月19日条によれば、維衡は伊勢国押領使高橋氏(あるいは高階氏か)や掾伊藤氏を郎等に組織していた。
押領使は国衙の軍事部門担当者、掾は在庁官人の有力者である。
致経の場合も、強化されつつあった国衙勢力の一部と結び、彼らを影響下、支配下においていた可能性がある。
郡庁壊却というような行為は、国衙の黙認か密かな後押しなしには不可能で、致経の勢威・勢力自体も、郡司層を大きく上まわるものであったに違いない。

彼らの存在が在地民衆にとって何であったかは、致経と従類の宅の焼亡に際し、在地共同体を代表する「古老等」が、「不善の事、巳にかくのごとし」と決め付けたことに現れている。
本宅を中心とする経済活動、国郡を横行する政治的行為など、併せてそれは「不善の事」であり、彼らは一般大衆から乗離した存在だった。

在地における「不善の事」という点では、維衡も同じで、彼の郎等らは、長元元年(1028)7月以前に、三河国の下女等26人をかどわかし、両名逮捕のための検非違使が伊勢に下向している(『小右記』)。

「不善の輩」の反社会的活動と、それによってもたらされる国内不安については、永承5年(1050)年の和泉国司奏状が参考になる。
この国では
「五位以下諸司官人以上多くもつて部内に来たり住み、伴類・眷族自ら悪事を成す。或いは諸家の庄園を立て寄せ、国務に対捍し、或いは平民の田島を押し奪ひ、私領に構へ成す。
かくのごときの類(たぐひ)、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。およそ暴悪不善の輩、国内に住する間、強窃二盗、放火・殺害連綿絶えず、大いに騒擾をなす。」
という事態が発生していた(『平安遺文』682号)。

『権記』は、維衡・致頼をさして「数多の部類を率ゐ、年来の間、伊勢国神郡に任す。国郡のために多く事の煩ひ有り、人民の愁ひを致す」と述べている。

横川に匿われていた致経が維衡の子正輔によって逮捕された、との風説。
長徳4年(998)の維衡と致頼の伊勢での合戦を起点とする両者の対立は子の代まで継承された。
この時代、地方豪族間の対立は長期化する傾向にあり、この風説は事実であったと思われる。
これは王朝国家が地方豪族の扱いについて、ほかの国内問題同様、国守の自由裁量にまかせたことと関係している。
この場合、国守は多く彼らを政治的軍事的同盟者として処遇し、その動きに強い規制を加えなかった。
国守の国内支配が強化された段階においても、直接彼らを押えこみ、その基盤を解体させるなど、ほとんど問題にもならなかった。
地方豪族が、それぞれ中央の顕貴な貴族を自己の政治的保護者として仰いでいるという事情が、この傾向に拍車をかけた。
それゆえ地方家族間の闘乱が発生しても、国衙支配への公然たる反逆や大規模な武力衝突など国政上の問題に発展しない限り、国レヴェルの対症療法で糊塗されてしまうのが通例だった。
そのため問題の解決は遅れ、結局紛争は長期化する。
維衡や致頼は純粋な地方豪族ではないが、このことはそのままあてはまる。
維衡流と致頼流の対立も、根本的な解決をみないまま長期化し、長元年間の在地における再度の武力衝突を迎える結果になった。
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5月23日
「東坂から比叡山に登って、梨本房に着いた。新発(しんぱち/藤原顕信)の受戒の儀を行った。・・・今朝、比叡山に参上していた時、檀那院の上方において、放言を行った僧が有った。「石で以て人を打擲した」ということだ。」(『御堂関白記』長和元年(1012)5月23日条)
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5月25日
・左大臣顕光(78)、歿。
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6月
・法成寺の金堂立柱。
「然るべき人々、各給り預りこれを立つと云々」(『左経記』治安元年6月27日条)とあり、割り当てが行われた。
翌治安2年7月、金堂が落慶供養され、法成寺と称される。
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6月1日
「早朝、あれこれの許から告げ送って云(い)ったことには、「左相府(藤原道長)は、去る夕方から急に重く病悩されています」と云うことだ。」(『小右記』長和元年(1012)6月1日条)
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6月2日
「左府(藤原道長)が重く病悩されているということについて、一、二の告げが有った。近江守(藤原知章)の書札に云ったことには、「只今、大臣および文書を奏請することを停止するという辞表を出されます。・・・」ということだ。」(『小右記』長和元年(1012)6月2日条)
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6月5日
「「去る夕方、左相国(藤原道長)が上表を行った。すぐに本表を返却された」と云(い)うことだ。」(『小右記』長和元年(1012)6月5日条)
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6月8日
「昨晩、(藤原懐平が)伝え送って云ったことには、「(藤原道長が)悩まれている容態は、一昨日の十倍している。通例ではない御詞が有った。人々は嘆息した。頭弁(源道方)を介して、辞表を留められるように奏上された。・・・」ということだ。」
「(藤原)資平が亥剋(午後9時~午後11時)の頃、来て云(い)ったことには、「皇太后(藤原彰子)が戌剋(午後7時~午後9時ごろ)に、左相(藤原道長)に行啓されました<糸毛の御車>。諸卿・卿相・侍従が供奉したことは通例のとおりでした」と。」
(『小右記』長和元年(1012)6月8日条)
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6月20日
「(藤原資平が)云(い)ったことには、「相府(藤原道長)の病を喜悦する卿相が5人いて、大納言(藤原)道綱・汝(なれ/藤原実資)、中納言(藤原)隆家、参議(藤原)懐平・(藤原)通任とのことです」と云うことだ。」
「「これは2、3人が告げたものです」と云(い)うことだ。あれこれ、これを思うと、意味を得ることができなかった。・・・天運に任せるしかない。心神を悩ませるところである。無益。無益。」
(『小右記』長和元年(1012)6月20日条)
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7月25日
・2ヶ月前に没した左大臣顕光の後任を埋めるため、右大臣藤原公季が太政大臣、関白内大臣頼通が左大臣、権大納言藤原実資が右大臣となる。
実資の上席の公李は太政大臣であり一般の政務に関与しないのが例であり、左大臣頼通は関白という立場にあるので、実資は実質上筆頭大臣、つまり一上(いちのかみ)になったと解することができる。
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