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2026年7月6日月曜日

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 ; 英訳をしてくれたジュリエット・カーペンターさんから「サラダ記念日はmyですか?our ですか?」と訊かれた。英語だと、そこんとこハッキリさせなくてはならない。記念日にしたのは自分だけど、私の答えはour salad anniversary でした(俵万智)

2026年5月16日土曜日

京都散歩 「茨木のり子のことば展」 「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」 革堂行願寺 下御霊神社 2026-05-10

 5月10日(日)晴れ

京都に着いた当日の午後、御所南(竹屋町通御幸町西入ル)で開催中の「茨木のり子のことば展」に行ってきた。

創作ノート、鉛筆、眼鏡、手帳(「石垣さん誕生日」など記入)、お気に入りの服(イッセイミヤケデザイン)などが展示されている。

しばし、カッコイイ茨木のり子ワールドに浸った。

晴れた日曜日の午後ということもあるのか、家族連れで来られている方が多く、意外?だった。









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▼ギャラリーの近く、竹屋町通りを東に行くと、寺町通に革堂行願寺と下御霊神社。

革堂(こうどう)は、室町時代には一条にあり、町衆自治の要となっていた。
天文法華一揆の際には、鐘が打ち鳴らされ町衆の武装自治準備の合図となったという。

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▼下御霊神社(祭礼期間中)

ここの湧き水は有名で、自由に汲んで持ち帰ることができる。勿論、量は制限されているが。

▼丸太町通り越しに京都御所


2026年5月11日月曜日

わたしたちは いまいったいどのあたり? 颯颯の 初夏の風よ (「問い」茨木のり子『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年12月刊 所収)

 


問い


人類は

もうどうしようもない老いぼれでしょうか

それとも

まだとびきりの若さでしょうか

誰にも

答えられそうにない

問い

ものすべて始まりがあれば終りがある

わたしたちは

いまいったいどのあたり?


颯颯(さつさつ)の

初夏(はつなつ)の風よ


(茨木のり子『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年12月刊 所収)


2024年11月19日火曜日

亡くなる2週間前、谷川俊太郎さんは言った 「死ぬっていうのは…」(朝日) / 谷川俊太郎さんと音楽 歌い継がれる「死んだ男の残したものは」(朝日) / 谷川俊太郎さん、R.I.P / 人々の「谷川俊太郎」

2022年12月21日水曜日

あき竹城さん逝去 旧記事『たこ八郎とヴェルレーヌ「都に雨の降るごとく」』(2015-12-24)のアップデート 友川カズキとたこ八郎の交友など

 

あき竹城さんという女優さんが亡くなられた。合掌。

実はあんまりあき竹城さんというヒトを知らないのだが、以前に『たこ八郎とヴェルレーヌ「都に雨の降るごとく」』という記事を書いたことがあって、そのことを思い出した。

重複になるので、あき竹城=たこ八郎=ヴェルレーヌの関係をここでは述べないが、
この記事を書いた時、
①ああ、詩というものそういうもんなんだな、
ということと
②あき竹城さんという心根の優しい人を知った、
ということを思い出した。

その後、朝日新聞に友川カズキとたこ八郎の交友の記事もあったので、先の記事の更新・追加版として残しておこうと思う。



 


 たこ八郎とヴェルレーヌ「都に雨の降るごとく」





2022年3月21日月曜日

「(事業部長が・・・・・シュレッダーに・・・・・胸倉を・・・・・掴まえられた・・・・・)そのフレーズが頭の芯でなんども繰り返し聞こえ、その度に新たな発作に見舞われるのだった。」(四元康祐「シュレッダー」 〈笑うバグ〉より)     

 シュレッダー

昼下がりのオフィスに異様な悲鳴が響きわたった。わたしは書類から眼を上げ、声のした方を振り返った。小肥りの水野事業部長が、上体を折り曲げるようにして、シュレッダーの上に覆い被さっていた。事業部長のディオールのネクタイがシュレッダーの歯に挟まっているのが見えたのは、その次の瞬間である。その西ドイツ製の機械は、事業部長のネクタイを既に結び目の辺りまで呑み込み、なおも牙を震わせている。事業部長は襲いかかる牙から必死で顔をそむけているが、その表情にはもはや当惑や狼狽はなく恐怖だけが張りついている。突出した下腹をシュレッダーの角に食い込ました窮屈な姿勢のまま、両手をばたばたと動かしているのは、スイッチの場所を探しているのだろうか。おい、だれか・・・・スイッチ・・・・・スイッチ・・・・・。そう云ったのが事業部長だったのかそれとも小菅第二課長だったのかは、いまとなってはもう定かではない。一番近くにいた黒川くんがこわごわとした様子でシュレッダー(そしてそれに付着している水野事業部長)に近づき、スイッチを消した。シュレッダーのうなり声が止み、奇妙な静寂のなかで事業部長の荒い息づかいだけが聞こえた。パニックの空気が薄れ、人々はシュレッダーの周りに駆け寄っていったが、わたしは席を立つことが出来なかった。突如、烈しい笑いの発作に襲われたからである。いまや全身の力を抜き、シュレッダーの口に頬ずりしているかのような事業部長を見るうちに、わたしの身体はけいれんし、噛みしめた唇の奥で咽が震えた。か細い悲鳴のような声に続いて、笑いが爆発した。おなかを押さえ、床に膝まづいた姿勢のまま、わたしはオフィス中に響きわたるわたしの笑い声を聞いた。額を床に何度も叩きつけだが笑いは止まらなかった。再び空気が凍りつき、みんなの視線がわたしに注がれているのを感じた。わたしをたしなめる誰かの声が聞こえた。それでもわたしは笑いつづけた。眼から涙が溢れ、口からはよだれが垂れて、息が止まった。苦しさの余り顔を上げると、まだシュレッダーにへばりついたままの事業部長が、顔を真っ赤に染めてわたしをにらみつけているのが見えた。それがさらに笑いを刺激した。おなかをを押さえたまま床に横たわり、もはや笑い声すらたてることも出来ず、うめいた。(事業部長が・・・・・シュレッダーに・・・・・胸倉を・・・・・掴まえられた・・・・・)そのフレーズが頭の芯でなんども繰り返し聞こえ、その度に新たな発作に見舞われるのだった。

(四元康祐〈笑うバグ〉より 現代詩文庫179四元康祐) 

2022年2月17日木曜日

冷えたビール (茨木のり子) 「不老長寿も憧れだった ・・・・・ 身をよじるように焦(こが)れたものが 今や現実 平均寿命八十歳になんなんとする 助けて! 手に入れた玉手箱の実態に愕然 みんなやれやれと深い溜息 互いに顔を見合わせて こんな筈じゃなかったな」(詩集『寸志』1982年12月)     

 


冷えたビール     茨木のり子


冷えたビールは

むかしみんなの憧れだった

わずか二十年前

好きなときに好きなだけ取り出せて

うんと冷えたの ぐっとやれたら

さぞかしそれは天国だろう

気づいたら

いつのまにやら現実で

朝っぱらから飲むひともあり

春夏秋冬 どの家にも

冷えたビール何本かが眠り

路上でさえ難なくカタリと手に入る

だが

ああ 天国!

おお 甘露!

しみじみ呻く者はいず

さほど幸せにもなれなかった


不老長寿も憧れだった

いにしえより薬草をもとめ

仙人ともなり錬金術にうつつを抜かし

人智を結集 追い求めたものが

身をよじるように焦(こが)れたものが

今や現実 平均寿命八十歳になんなんとする

助けて!

手に入れた玉手箱の実態に愕然

みんなやれやれと深い溜息

互いに顔を見合わせて

こんな筈じゃなかったな


(詩集『寸志』1982年12月 書き下ろし)


2022年2月7日月曜日

負債の証券化について(日本経済新聞連載「経済教室」より⑧) 四元康祐 「たとえば路上にたたずむ娼婦の胸に故知らず湧き上がる厭な予感 その感覚は証券化により流通可能に標準化され 全世界の都市から農村へと忽ちにして伝播される その波から逃れることは水牛の背に止まる小鳥にも不可能なので オプションあるいはスワップ等のヘッジング取引を介して 速やかに青空へ飛び去ることが望ましい」(詩集『笑うバグ』(現代詩文庫179 四元康祐詩集))       

 


負債の証券化について        四元康祐

       (日本経済新聞連載「経済教室」より⑧)


80年代に入って急速に普及した負債の証券化

所謂「セキュリタイゼイション」は

それまで閉ざされていた債権者⇔債務者の関係を

本来の負債とは無縁の投資家へと解放することにより

全く新しい巨大金融市場を創出した

斯くしてアルゼンチンの首都に群がる失業者たちの未来は

先進諸国の銀行団(syndicate)の手を離れ

シアトル郊外で美しい朝露を光らせる芝生の行方は

日本の個人投資家たちの見定めるところとなった

だが如何に幅広く分散しようと

本来の負債に内在するリスクが消失する訳ではない

国家財政に巨額の損失を与えたS&L危機の問題を持ち出すまでもなく

投資に際してはこの点に充分留意する必要があろう

たとえば路上にたたずむ娼婦の胸に故知らず湧き上がる厭な予感

その感覚は証券化により流通可能に標準化され

全世界の都市から農村へと忽ちにして伝播される

その波から逃れることは水牛の背に止まる小鳥にも不可能なので

オプションあるいはスワップ等のヘッジング取引を介して

速やかに青空へ飛び去ることが望ましい


詩集『笑うバグ』(現代詩文庫179 四元康祐詩集)




2022年1月29日土曜日

茨木のり子の詩と茨木のり子関連記事 (最終更新日2022-01-29)

 

《茨木のり子の詩》

「自分の感受性くらい」 (茨木のり子 詩集『自分の感受性くらい』) ; 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「倚(よ)りかからず」 (茨木のり子 詩集『倚りかからず』より) : もはや できあいの思想には倚りかかりたくない ・・・ じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある

麦藁帽子に (茨木のり子)

波の音   (茨木のり子)

いちど視たもの - 一九五五年八月十五日のために -  (茨木のり子)

汲む - Y・Yに -  (茨木のり子)

通らなければ  (茨木のり子)

ある一行     (茨木のり子)

初秋    (茨木のり子)

別れる練習をしながら (趙炳華) 茨木のり子『韓国現代詩選』より

ぎらりと光るダイヤのような日  (茨木のり子)

四海波静   (茨木のり子)

木の実   (茨木のり子)

窓  (茨木のり子)

隣国語の森  (茨木のり子) ; 若い詩人尹東柱 / 一九四五年二月 福岡刑務所で獄死 / それがあなたたちにとっての光復節 / わたくしたちにとっては降伏節の / 八月十五日をさかのぼる僅か半年前であったとは

知命 (茨木のり子) / ほぐす (吉野弘)

なかった  (茨木のり子) ; 武士道は なかった 上層部の逃げ足の迅さ 残留孤児は老い去りて 武士道は なかった 神州清潔の民は もっとも不潔なことをした近隣諸国に

さくら   (茨木のり子) ; さくらふぶきの下を ふららと歩けば 一瞬 名僧のごとくにわかるのです 死こそ常態 生はいとしき蜃気楼と

問い (茨木のり子 第六詩集『寸志』)

瞳 (茨木のり子 第七詩集『食卓に珈琲の匂い流れ』)

突然 間違って生きているという思いが (呉圭原 / 茨木のり子『韓国現代詩選』)

行方不明の時間 (茨木のり子 『茨木のり子集 言の葉3』 2002年10月)

この失敗にもかかわらず (茨木のり子 第六詩集『寸志』 1982年12月) そう この失敗にもかかわらず 私もまた生きてゆかねばならない なぜかは知らず 生きている以上 生きものの味方をして

球を蹴る人 - N・Hに - (茨木のり子 『茨木のり子集 言の葉3 』 2002年10月)

灯 (茨木のり子 「アムネスティ人権報告」 1993年12月)

くりかえしのうた (茨木のり子 『人名詩集』 1971年5月)

五月の風は (茨木のり子 「北海道新聞」1962年5月10日)

五月のうた (茨木のり子 「装苑」 1965年5月)

あいなめ (茨木のり子 『茨木のり子詩集(現代詩文庫20)』 (1969年3月)

六月 (茨木のり子 『見えない配達夫』) / 芳賀徹「六月のユートピア ー 茨木のり子の詩一篇」(『みだれ髪の系譜』)

あるとしの六月に (茨木のり子 『鎮魂歌』1965年1月)

道づれ (茨木のり子 『歳月』2007年2月)

わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子(『見えない配達夫』より) ; 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆発っていった

総督府へ行ってくる 茨木のり子(『食卓に珈琲の匂い流れ』より)

十二月のうた  (茨木のり子 花神ブックスⅠ『茨木のり子』(花神社 1985年5月)59歳)

内部からくさる桃    茨木のり子(『対話』1955年11月)

灯   茨木のり子(「アムネスティ人権報告」1993年12月 67歳)

根府川の海 茨木のり子 (『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)

「小さな渦巻」(茨木のり子) (「詩学」1955年10月 第一詩集『対話』所収 詩人29歳) 「ひとりの人間の真撃な仕事は おもいもかけない遠いところで 小さな小さな渦巻をつくる」

「ひそかに」(茨木のり子) 「節分の豆は むかし ジャングルにまで撒かれたが・・・・・みんなふやけて還ってきた 颯颯と箒でまとめられ 中に一粒のエドガア・スノウすらまじえずに」(第一詩集『対話』 初出「詩学」1953年8月 詩人27歳)

「武者修行」(茨木のり子) 「この島にはじめて孵る深海魚の子ら! 五官にみづからの灯を入れて 野火の夢を拒絶せよ!」(『対話』 初出「櫂」3号1953年9月 詩人27歳)

「行きずりの黒いエトランゼに」(茨木のり子)「行きずりの黒いエトランゼよ あなたは口笛とともに 忘れ去ってしまったか 私はあのワンカットが 月日の現像液のなかで ゆらめきながら…… 次第に鮮明度をましてくるのを感じている。」(『対話』 初出『詩学』1954年1月 詩人28歳)  

方言辞典 (茨木のり子) 「炉辺にぬぎすてられた おやじの 木綿の仕事着をみやるほどにも おふくろのまがつた脊中を どやすほどにも 一冊の方言辞典を わたしはせつなく愛している。」(『対話』 初出「櫂」1号1953年5月 詩人27歳)

いさましい歌 (茨木のり子) 「お待ち いまに息の根をとめてあげる がりがりとたうきびでもかじりたい日だ」(「詩学1950年9月 詩人24歳 はじめて活字になった茨木のり子の詩)

焦燥  (茨木のり子) 「稚(ワカ)い母よ ともに走らう 虚像をにくみ はげしく憎み 母系時代のどんらんさで まことの美果を もぎに行かう」(「詩学」1951年8月 詩人25歳)

魂  (茨木のり子) 「まれに… 私は手鏡を取り あなたのみじめな奴隷をとらえる いまなお〈私〉を生きることのない この国の若者のひとつの顔が そこに 火をはらんだまま凍っている」(『対話』(1955年11月) 初出「詩学」1952年3月号 詩人26歳)

民衆   (茨木のり子) 「ああ こののびやかな四肢に、 似合はぬ ふてた姿勢をすてて ひまはりのように立つ日は 何時だらう!……」(「詩学」1952年7月 詩人26歳)




《茨木のり子関連記事》

今こそ 茨木のり子 時代を見つめ、明快に主張 生涯ぶれず「自分で思考」 (『朝日新聞』) : 「駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」 (「自分の感受性くらい」)

ただ一度 大尉と歩いた浅草の街 (『朝日新聞』2016-07-18「声 語りつぐ戦争」) ;  「わたしが一番きれいだったとき」という詩を読んだ瞬間、あの大尉が蘇った。作者は、私と同じ年に生まれた茨木のり子さん。・・・

文藝別冊「茨木のり子」発売 没後10年、ますます輝きをます「現代詩の長女」の新しい魅力にせまる。谷川俊太郎、井坂洋子×小池昌代、工藤直子、紺野美沙子ほか — 河出書房新社

美智子皇后 ; 「まあ、童話屋さん」・・・「『あたらしい憲法のはなし』を出していただいてありがとうございます」・・・「私どもは毎年五月三日の憲法の日に、昔の教科書を取り出して家族で読む習わしにしております」・・・「もうぼろぼろになってしまって、これが新しく出て、大変に嬉しい。ありがとうございます」

12月19日はエディット・ピアフの誕生日 / (Youtube) エディット・ピアフ『愛の讃歌』 越路吹雪『愛の讃歌』 / 田中和雄「低い濁声で歌った『愛の讃歌』」(『別冊文藝』茨木のり子)のこと / 中学教科書の『愛の讃歌』(小林純一作詞)のこと

『別冊太陽 茨木のり子』が出たので速攻で買って来た 2019-11-28

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で河上肇「味噌」を読む 2021-01-31



民衆   (茨木のり子) 「ああ こののびやかな四肢に、 似合はぬ ふてた姿勢をすてて ひまはりのように立つ日は 何時だらう!……」(「詩学」1952年7月 詩人26歳)    

 


民衆     茨木のり子


テープが投げられる

いろとりどりの惑乱のテープ


その華やかな捕縛のなかで

あたしは何の花のように

匂へばいいのだらう……


ふみあらされた娼婦のように

あたしたちの花園は

もう一種だけの匂ひを放ちはしない


シグナルのように転換の烈しい

「価値」の明滅のおもしろさに


奇妙な顔面神経がゆったり波うつ

今日も股には水色の疲労


ああ

こののびやかな四肢に、

似合はぬ ふてた姿勢をすてて

ひまはりのように立つ日は

何時だらう!……


どこかにそんな核がひそんでいさうで

のろのろと、


今日もポケット中を探してみるのだが……


(「詩学」1952年7月 詩人26歳)




2022年1月26日水曜日

魂  (茨木のり子) 「まれに… 私は手鏡を取り あなたのみじめな奴隷をとらえる いまなお〈私〉を生きることのない この国の若者のひとつの顔が そこに 火をはらんだまま凍っている」(『対話』(1955年11月) 初出「詩学」1952年3月号 詩人26歳)       

 


魂     茨木のり子


あなたはエジプトの王妃のように

たくましく

洞窟の奥に坐っている


あなたへの奉仕のために

私の足は休むことをしらない


あなたへの媚のために

くさぐさの虚飾に満ちた供物を盗んだ


けれど私は一度も見ない

暗く蒼いあなたの瞳が

湖のように ほほえむのを

水蓮のように花ひらくのを


獅子の頭のきざんである

巨大な椅子に坐をしめて

黒檀色に匂う肌よ

とさおり私は燭をあげ

あなたの膝下にひざまづく


胸飾りシリウスの光を放ち

   シリウスの光を放ち

あなたはいつも瞳をあげぬ


くるいたつような空しい問答と

メタフイジツクな放浪がふたたびはじまる


まれに…

私は手鏡を取り

あなたのみじめな奴隷をとらえる


いまなお〈私〉を生きることのない

この国の若者のひとつの顔が

そこに

火をはらんだまま凍っている


(『対話』(1955年11月) 初出「詩学」1952年3月号 詩人26歳)


詩人の第一詩集『対話』(一九五五年)には、「魂」という題の詩が冒頭に置かれている。そのことは、詩語〈魂〉が優れて〈詩人の語彙〉であることを物語っている。


(略)


詩篇「魂」は、「私」と、「あなた」と呼ぶ「魂」との〈無言の対話〉(大岡信)として書かれている。「私」は、自己の内なる「魂」と対話をしながら自分自身を厳しい目で視つめて内省する。この詩の声の覚えさせる峻厳さは、詩語〈魂〉に出るのではないか。この詩に用いられている〈魂〉は、詩人の詩集に用いられている〈魂〉のなかでもとりわけ詩人の厳しい精神性を思わせる。・・・・・


蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)




2022年1月25日火曜日

焦燥  (茨木のり子) 「稚(ワカ)い母よ ともに走らう 虚像をにくみ はげしく憎み 母系時代のどんらんさで まことの美果を もぎに行かう」(「詩学」1951年8月 詩人25歳)        

 


焦燥     茨木のり子


けざやかな分裂を 支へ

わたしは

燭台のようにたっている


腰をひねり

いくたの蝋燭を捧げて


疑惑のまなこは

焦点を結ばず


君も例外ではないようだ

民族よ

乳房のあたりは凍っている、

幾時代かの不感症に馴らされて


稚(ワカ)い母よ

ともに走らう

虚像をにくみ

はげしく憎み


母系時代のどんらんさで

まことの美果を もぎに行かう


獣のみもつ純潔を

違い日すでに 失ったことを

心に深くかなしみながら


代るあたらしいもののないことを

心に深く憂ひながら。


(「詩学」1951年8月 詩人25歳)



2022年1月24日月曜日

いさましい歌 (茨木のり子) 「お待ち いまに息の根をとめてあげる がりがりとたうきびでもかじりたい日だ」(「詩学1950年9月 詩人24歳 はじめて活字になった茨木のり子の詩)    

 


いさましい歌     茨木のり子


お待ち

いまに息の根をとめてあげる

がりがりとたうきびでもかじりたい日だ


だまつて

私の言ふとほりにおなり


お前はけふミケランヂエロの俘虜さ


たくましい肢体をしばりあげられ

馬のやうにけいれんする

心ふるふばかり美しい私の…。


手綱をにぎり

さあ行かうペガススのやうに


蒼窮のはての

あをいあをい透明の世界へ

あたしの髪は煙のやうになびき

お前のたてがみは時空の風を切って飛ぶ


沼の妖気よさようなら


栗色の脾肉よ もつと走れ

捉はれのお前に鞭をあて

まっしぐらにかける

あああたしはアマゾンの女王だ

      わたしのアヒレスよ

      わたしのアヒレスよ


お前の鼓動が哀れに乱れ

お前の翼が折れさうになればなるほど


わたしの鞭は空中で鳴るのだ


岩石を駆け

雲を飛び

星の光度に射られながら

いとしい人よ

あたしは愛した


めくるめくはむらの照明

喘ぎの音符

夜のしじまのホリゾント


そこで主役になりきった白熱の姿態は

こはくのやうに澄みきって

見えない祭壇に捧げられ

消えやうもなく定着されたと知る。


おおどれ位たつたといふのか……

あたしはお前の背中にゆられて行った…‥


お前は笑ってゐたやうだった……


乳母が子供をあやすやうに……。


(「詩学1950年9月 詩人24歳)


茨木のり子の詩がはじめて活字となったのは、雑誌「詩学」の投稿欄、「詩学研究会」である。

表題は「いさましい歌」。一九五〇(昭和二十五)年である。

「「櫂(かい)」小史」 に、詩を書きはじめた当時のことを回想している。

《昭和二十四年の秋に私は結婚していて、所沢町に住み、翌二十五年くらいから、詩を書こうとしていた。詩を書きたいという欲求もさることながら、言葉を鵜匠のように、自由自在に扱ってみたい、言葉をもっとらくらくと発してみたい、言葉に攫われてもみたいという強い願望があり、そのためには詩を書くことが先決のように直感されたからであった。

詩の師を探す気特はさらさらなく、仲間もなく、ただ自分一人でこつこつ書いていこうと思っていた。その頃、本屋に毎月きちんと出ていた「詩学」という詩誌があり、詩学研究会という投稿欄もあって、選者は村野四郎氏だった。

一人で書いているのは、いくらか心細くなったとみえ、どこの誰ともわからない者の詩として、村野四郎氏に一度見てもらいたくなったらしい》

詩学研究会を足場に成長していた詩人は茨木の他、川崎洋、谷川俊太郎、山本太郎などがいる。のちに『どくとるマンボウ航海記』などで知られる作家の北杜夫も研究会への投稿者だった。

(後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社))



「いさましい歌」というのと「閉じこめられて」というのを二篇投稿してみた。本名では何やら恥しかったので、ペンネームをつけようと思い、「何がいいだろう?」と、二、三分考えていた時、つけっぱなしにしていたラジオから謡曲の「茨木」が流れてきた。「ああ、これ、これ」と思って即座に決めた。のり子の方は、本名のまま、しっぽにくっつけてしまった。つい最近、観世栄夫氏にきいたところによると、謡曲に「茨木」というのは無いそうで、長い間、謡曲と信じこんできたものは、あれは歌舞伎の長唄であったのだろうか。
「茨木」は、源頼光の臣、渡辺綱に、羅生門で腕を切り落された茨木童子という鬼が、切られた腕を取り返すべく、渡辺綱の乳母に化けて、館におもむき、殊勲の獲物を見せてもらうことを乞い、見た途端、忽ちに鬼に変じて、その腕を奪い、あれよあれよの綱らを尻目に、もの凄い高笑い、さあっと虚空に舞いあがって消え失せたという物語である。

(略)

私はこの伝説も、歌舞伎の「茨木」もいたって好きである。今になって思うと、たとえ切りとられようが「自分の物は自分の物である」という我執が、ひどく新鮮に、パッときたのは、滅死(ママ)奉公しか知らなかった青春時代の反動だったかもしれない。
鬼の我執というか、自我にあやかりたいと思って、ヒョイとつけたペンネームがその後長い間くっついてくることになろうとは、遂には茨木という判コまで必要になってこようとは、その時夢にも思わなかった。
さて、選者の村野四郎氏は、「いさましい歌」というのを採って下さって、懇切に批評してくれた。昭和二十五年の九月号の詩学であった。はじめての投稿が入ったからそれに勢いを得て、何度か送った。自分の知らないでいる長所、短所を正確に指摘されて、なかなか有益だった。村野四郎氏があの時一篇も採って下さらなかったら、はたして今も詩を書き続けていただろうか・・・・・と思うことが時々ある。
(茨木のり子「「櫂」小史」)


「いさましい歌」は、現在までのところ、読み得る茨木の詩のなかで、もっとも早い時期のものである。「お待ち/いまに息の根をとめてあげる/がりがりとたうきびでもかじりたい日だ」と力強く書きだされる。いまだ日本が占領下にあったなか、前を向いた凛々しい姿勢が示される。
(成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』))


2022年1月23日日曜日

方言辞典 (茨木のり子) 「炉辺にぬぎすてられた おやじの 木綿の仕事着をみやるほどにも おふくろのまがつた脊中を どやすほどにも 一冊の方言辞典を わたしはせつなく愛している。」(『対話』 初出「櫂」1号1953年5月 詩人27歳)   

 


方言辞典     茨木のり子


よばい星    それは流れ星    

いたち道    細い小径

でべそ     出歩く婦人

こもかぶり   密造酒

ちらんばらん  ちりぢりばらばら


のおくり

のやすみ

つぼどん

ごろすけ


考えることばはなくて

野兎の目にうつる

光のような

風のような

つくしより素朴なことばをひろい

遠い親たちからの遺産をしらべ

よくよく眺め

貧しいたんぼをゆずられた

長男然と 灯の下で

わたしの顔はくすむけれど


炉辺にぬぎすてられた

おやじの

木綿の仕事着をみやるほどにも


おふくろのまがつた脊中を

どやすほどにも


一冊の方言辞典を

わたしはせつなく愛している。


(『対話』 初出「櫂」1号1953年5月 詩人27歳) 


金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)より


当時『櫂』の編集長であった川崎が、『櫂』の創刊号のために茨木の用意した二篇の詩のうち、一篇のみを採用したという逸話がある。一九五三年三月に茨木は、「方言辞典」と「宣言」の二篇を川崎宛に送った。川崎は「創刊号には〈方言辞典〉だけを貰う」(茨木 1969:106)と述べ、「宣言」のほうは茨木に返したという。

*茨木1969;茨木のり子「「櫂」小史」

「方言辞典」の主題は、方言の見直し。この詩で言うところの方言とは、「おやじの/木綿の仕事着」や「おふくろのまがつた脊中」のような、生活に密霜した「せつな」い言葉なのである。幼い時代を大阪と愛知で過ごした茨木にとって方言とは、東京語よりもなじみ深い日本語であったと思われる。そして、こうした方言に対する愛着に関しては、川崎も共感するものがあったに違いない。川崎は東京生まれではあるものの、十代後半の言語発達期を九州で過ごした。また、前述したように、彼は全国各地の方言採集にも力を注いでいる。『櫂』の創刊は一九五三年で、まだ川崎は方言をテーマにした詩を発表してはいないが、茨木が送った二篇の詩のうち「方言辞典」だけを採用したことは、日本各地の方言に対する川崎の関心が背景にあるものと思われる。

『詩のこころを読む』(*茨木のり子、岩波ジュニア新書)に、川崎が全国を回りながら方言を採集していたとき書いた「海で」という詩が紹介されている。


(略)


この詩について茨木は次のように記している。


彼は今、全国を歩きまわって、豊かな方言を拾い集めることに熱中し、つぎつぎたのしい本を出しています。言語学者の研究とはまた角度の異なるつかみかたで、本来、詩人は母国語に対し、こういう仕事をしなくちゃならないはずですが、ようやく、魚を生けどりするような、どきどきする喜びでつかまえる人が出てきたわけです。(茨木1979:103)


「本来、詩人は母国語に対し、こういう仕事をしなくちゃならない」という文章から、言葉と丁寧に対崎する茨木の姿と、そうした仕事に情熱を傾ける川崎への敬愛がうかがわれる。



2022年1月22日土曜日

「行きずりの黒いエトランゼに」(茨木のり子)「行きずりの黒いエトランゼよ あなたは口笛とともに 忘れ去ってしまったか 私はあのワンカットが 月日の現像液のなかで ゆらめきながら…… 次第に鮮明度をましてくるのを感じている。」(『対話』 初出『詩学』1954年1月 詩人28歳)       

 


行きずりの黒いエトランゼに   茨木のり子


路上 何か問いそうな黒人兵のしぐさ


気がつくと

目にもとまらぬ迅さで私は能面をつけ

あなたの質問を遮断していた


澄んだ瞳にありありとのぼる哀愁……


すれちかつたあと 私の胸に

やみくもに湧く さびしさの雲霧

片道の言葉の通路がふたつあり

あなたの友人がビールかっぱらいの名人で


あなたの白い長官がむすめを拉する達人で


あなたのなかま数人がかたらい

沈丁花の匂うこの町のよるよる

植込みに月の輪熊のようにのっそり潜み

行人をねらつたということが


いいえあなたの属しているものを

決してゆるせないということが


いいえ分析できないもつとなにかが


もしかしたら

あなたには何のかかわりもないそれらが


低いひさしの

炊煙の洩れる

とあるろじで


あなたに小さな哀しみを与えてしまった

ものだ


私の国のだれかも見知らぬ遠い果の

石畳の鋪道でおなじ小さな哀しみを

いくつも受けとつたことだろう


おもえばおかしな世界である


行きずりの黒いエトランゼよ

あなたは口笛とともに

忘れ去ってしまったか


私はあのワンカットが

月日の現像液のなかで

ゆらめきながら……

次第に鮮明度をましてくるのを感じている。


(『対話』 初出『詩学』1954年1月 詩人28歳)


・・・一九五四年一月に『詩学』に掲載された「行きずりの黒いエトランゼに」・・・。ここでは「黒人兵」との遭遇が謳われている。「路上 何か問いそうな黒人兵のしぐさ/気がつくと/目にもとまらぬ迅さで私は能面をつけ/あなたの質問を遮断していた」。

「黒人兵」への拒絶の意識。茨木が結婚して居住した埼玉県所沢市の基地のアメリカ兵を具体的な対象としているが、「黒人兵」に向かい、「あなたの友人がビールかっぱらいの名人で」「あなたの白い長官がむすめを拉する達人で」と内面で語りかけるとき、茨木のなかでは占領の光景と重ね合わせられていたはずである。「あなたのなかま数人がかたらい」「行人をねらった」とも書きつけ、茨木は占領の記憶を決して忘れず、たえず想起する。こうしたなかで、「わたしが一番きれいだったとき」が書かれ、敗戦時の葛藤が提示されていった。

茨木においては、あとで見るように、敗戦-戦争責任に集約していくことばと、植民地主義への批判的反省がなされるが、そのはじまりに、敗戦と占領の光景があったということとなる。

(成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』))


2022年1月21日金曜日

「武者修行」(茨木のり子) 「この島にはじめて孵る深海魚の子ら! 五官にみづからの灯を入れて 野火の夢を拒絶せよ!」(『対話』 初出「櫂」3号1953年9月 詩人27歳)

 


武者修行    茨木のり子


乱雲飛び

どすぐろい風 はためく曠野

野分はいくつすぎていつたか……

ふたたび武者修行のはやる季節

きたえられた宝刀を抱き

仮寝をむすぶ根なし草の氾濫


かつて父祖ら仕官のための放浪

われら今、あらゆる君主すてる旅路

人と人とのはざまは

千仭の谷

目のくらむ寂蓼に堪え

無辺の空と切りむすべば

暗い暗い火花が散る

燃えつこうとして 燃えつかない

ひうち石の火のような


夜陰

丘にのぼって

小手をかざせば

無数のかれらの閃光もみえる

つめたく

もどかしい

不吉な陣痛のひきつりのような


のろし火

彼方にあがり 消え

合言葉解せぬまま

彼方にのろし火あがり 消え

猛鳥墜ち!

沼ははげしい静穏を保つ

この島にはじめて孵る深海魚の子ら!

五官にみづからの灯を入れて

野火の夢を拒絶せよ!


(『対話』 初出「櫂」3号1953年9月 詩人27歳)


・・・・・茨木の詩「武者修行」(一九五三年九月)は、占領解除後の光景を「ふたたび武者修行のはやる季節」として捉えたものである。「かつて父祖ら仕官のための放浪/われら今、あらゆる君主すてる旅路」との状況認識は、戦時-占領とは異なった「今」に対する認識を、緊張感をもって示している。「あらゆる君主すてる旅路」との決意を示し、あらたな歴史に入り込むという緊張感を謳う。


のろし火

彼方にあがり 消え

合言葉解せぬまま

彼方にのろし火あがり 消え

狂鳥墜ち!

沼ははげしい静穏を保つ


この下りには、運動への期待が「のろし火」という言葉に込められ、それが散発的になされていくことが記される。最終節は、「この島にはじめて孵る深海魚の子ら!/五官にみづからの灯を入れて/野火の夢を拒絶せよ⊥と書かれる。これが、敗戦と占領を経験した茨木の認識であった。その時代から、さらにその先の未知の世界へ踏みいっていく覚悟が語られている。

(成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』))

2022年1月20日木曜日

「ひそかに」(茨木のり子) 「節分の豆は むかし ジャングルにまで撒かれたが・・・・・みんなふやけて還ってきた 颯颯と箒でまとめられ 中に一粒のエドガア・スノウすらまじえずに」(第一詩集『対話』 初出「詩学」1953年8月 詩人27歳)    

 


ひそかに     茨木のり子


節分の豆は

むかし

ジャングルにまで撒かれたが


巨濤

をみとどけた者はいない


沙漠を行った者は沙漠

スマトラ女を抱いた者は腰のみのり

インドネシアの痙攣はしらず


楊柳の巷を行った者は 飛ぶわた毛

苦力の瞳のいろはしらず


みんなふやけて還ってきた

颯颯と箒でまとめられ

中に一粒のエドガア・スノウすらまじえずに


  樫の木の若者を曠野にねむらせ

  しなやかなアキレス腱を海底につなぎ

  おびただしい死の宝石をついやして

  ついに

  永遠の一片をも掠め得なかった民族よ


あきめくらは集って

眠たげにコーヒーをすすり

鍬をかつぎ

一羽の鳩も飛ばさない

三文手品師の一行に

故なく花を投げたりする


おお遠く

パピルスから伝わる

彪大な史書に

またひとつのリフレインを追加

使いふるしたリフレインだけを?


葡萄酒のしづけさで


深夜


私の耳もとを染めてくる

この熱いものはなにか!


(第一詩集『対話』 初出「詩学」1953年8月 詩人27歳)


金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)より


当時『櫂』の編集長であった川崎が、『櫂』の創刊号のために茨木の用意した二篇の詩のうち、一篇のみを採用したという逸話がある。一九五三年三月に茨木は、「方言辞典」と「宣言」の二篇を川崎宛に送った。川崎は「創刊号には〈方言辞典〉だけを貰う」(茨木 1969:106)と述べ、「宣言」のほうは茨木に返したという。

(略)

川崎から採用されなかったもう一篇の詩「宣言」についてはどうだろう。「宣言」と題する詩は、茨木の詩集のどこからも見つけることはできない。茨木は次のように言っている。


改めてみると、たしかに良くない。しかし、テーマは捨てがたかったので、それから随分長い間かかって推敲し、同じ素材を練り直して出来たのが (中略)「ひそかに」という詩である。見識ある編集長によって、言わず語らずのうちに推敲の大切さを教えてもらったような気がして、私にとっては忘れがたい一事である。(茨木 1969:107)


では、ここで 「ひそかに」を確認しておこう。

(略)

「ひそかに」は、茨木の社会意識と批評精神がうかがえる作品の一つである。この詩で「節分の豆」は、戦争に行かされた日本の若い兵士たちで、彼らは「撒かれた」ときと同じように、戦争が終わると「箒でまとめられ」日本に還ってきた。戦争でたくさんの若者が命を奪われたが、還ってきたものは「みんなふやけて」いたこと、つまり、戦前、天皇を基軸とした世の中を守るという使命感を持って、命を落とすことをも覚悟して戦場に行った若者たちが、還ってきて無気力でいることに対して、作者は「おびただしい死の宝石をついやして/ついに/永遠の一片をも掠め得なかった民族よ」と嘆いている。そして、第七連の「三文手品師」は、次に挙げる茨木の文章から、「吉田茂内閣」を示していると思われる。「あきめくらは集って」「三文手品師の一行に/故なく花を投げたりする」とあるが、それは自分の目で見ることをせず、だまされるままに投票している有権者の「投票行動」を指している。茨木のこうした激しい詩の表現からは、時代の持つ課題を率直にうたい出そうという作者の意思がみられる。

茨木は、「方言辞典」だけが選ばれたことについて次のように述べている。


創刊号であるからには「宣言」がなくてはいけないだろうと思ってのことだったが、その詩の内容は「吉田内閣ぶっつぶせ」式の勇壮きわまりないものだったから、川崎さんは困ってしまったらしい。彼の美意識からすれば、絶対に載せたくないものだったのである。(茨木1969:106)


*「(茨木1969)」は茨城の「「櫂」小史」を指す





2022年1月19日水曜日

「小さな渦巻」(茨木のり子) (「詩学」1955年10月 第一詩集『対話』所収 詩人29歳) 「ひとりの人間の真撃な仕事は おもいもかけない遠いところで 小さな小さな渦巻をつくる」   

 


小さな渦巻     茨木のり子


ひとりの籠屋が竹籠を編む

なめらかに 魔法のように美しく


ひとりの医師がこつこつと統計表を

埋めている 彪大なものにつながる

きれつばし


ひとりの若い俳優は憧憬の表情を

今日も必死に再現している


ひとりの老いた百姓の皮肉は

〈忘れられない言葉〉となって

誰かの胸にたしかに育つ


ひとりの人間の真撃な仕事は

おもいもかけない遠いところで

小さな小さな渦巻をつくる


それは風に運ばれる種子よりも自由に

すきな進路をとり

すきなところに花を咲かせる


私がものを考える

私がなにかを選びとる

私の魂が上等のチーズのように

練られてゆこうとするのも

みんな どこからともなく飛んできたり

ふしぎな磁力でひさよせられたりした

この小さく鋭い竜巻のせいだ


むかし隣国の塩と隣国の米が

    交換されたように

現在 遠方の蘭と遠方の貨幣が

    飛行便で取引きされるように

それほどあからさまではないけれど

耳をひらき

目をひらいていると

そうそうと流れる力強い

ある精緻な法則が

地球をやさしくしているのが わかる


たくさんのすばらしい贈物を

いくたび貰ったことだろう

こうしてある朝 ある夕


私もまた ためらわない

文字達を間断なく さらい

一篤の詩を成す

このはかない作業をけっして。


(「詩学」1955年10月 第一詩集『対話』所収 詩人29歳)


2022年1月5日水曜日

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー5)1946(昭21)20歳 「その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって・・・。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するがの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったのかもしれない。」   

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー4) 1945(昭20)19歳 「ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった」(「はたちが敗戦」)

より続く

1946(昭21)20歳
4月、帝国女子医学薬学部再開。
東京での滞在時(~1947)、茨木は世田谷区世田谷二丁目(現・世田谷区梅丘)にある民家の二階八畳の間に下宿住まいをした。
家主は土佐林豊夫という画家。

夏、帝劇でシェークスピア「真夏の夜の夢」を観て以来、新劇に熱中。

「茨木 ・・・わたしは戦後すぐの新劇の第一回公演から見てるんです。
・・・
茨木 銀座の焼跡をね、下駄でガラガラ歩いてたんです。下駄しかなくて。それで一番最初は前進座の「ツーロン港」、戦争中のレジスタンス劇だったですね。
大岡 そうそう、作者はフランスの小説家でしたね。
茨木 それが最初。原泉さんが若くてきれいだった。それからあと、イプセンの「人形の家」。あとはダァーツと新劇ばかり見て歩いたんですけど・・・
 だから、一つには時代的な風潮があります。もう一つには、若い時って自分の中にさまざまの矛盾葛藤があるじゃありませんか。どれが自分なのかわからない。その葛藤に形を与えるのに戯曲は一番ふさおしい形式に思えたわけね。そういう自分の内的な欲求と二つの契機があったんでしょう。」
(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって・・・。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するがの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったのかもしれない。
個人的な詩として書いたのに、思いもよらず同世代の女性たちから共感を寄せられ、よく代弁してもらったと言われるとき、似たような気持で当時を過した人達が沢山居たことを今になって思う。
モンペを脱ぎすて、足を出して、舷しいような思いで、誰の足はすてき、私のは大根だ、牛蒡だなどと、今更ながら足のあったことに気づいて評定しあったりもした。
最低の暮しと荒廃のなか、わけのわからない活力もまた漲りあふれていた時代だった。
いち早く復興したものの中に新劇活動があり、焼け残った有楽座や帝劇で「人形の家」や「真夏の夜の夢」が上演されて、この世にこんなすばらしいものがあったのか? と全身を打ちのめされるような感激で観たのである。暖房もない劇場で観客はオーバー、衿巻をしたままで、休憩時間になるといっせいにアルミの弁当箱をガチャガチャと開き、蒸しパンやら得体のしれないものを取り出してほおばる。舞台と現実の落差はあまりにも大きかったけれど、精神的飢餓状態をとり返そうとする動きはあらゆる面で烈しく、三好達治の詩集一冊が売りに出されると、出版社のまわりを人が延々の列でとりまいたというのも、この頃だったろうか。
(「はたちが敗戦」)


9月、繰り上げ卒業して薬剤師の資格を得るが、その職につくことはなかった。
「年譜」には、「かなりの劣等生、そのうえ、空襲下、逃げまどうばかりの学生生活だったため、みずからを恥じ、以後薬剤師の資格は使用せず」と記している。

9月21日、戯曲「とほつみおやたち」が読売新聞戯曲第1回募集に佳作当選。

三河地方の木綿発祥の民話をもとにした戯曲が「選外佳作」に選ばれる。「暗夜に灯をみつけたような嬉しさだった」と茨木は記している。
いまだ卵とはいえ若い女性の戯曲の書き手は珍しい。山本安英が励ましの手紙をくれた。それがきっかけで、茨木は山本の家を訪ねるようになる。戦後、山本は劇団には属さず、「ぶどうの会」さらに「山本安英の会」を足場に演劇活動を続けていく。
茨木二十一歳、山本四十代はじめの日である。
(『清冽』)

女優・山本安英と出会い、これ以後生涯にわたる親交のなかで「女の生きかた」の一番大切なところを学び吸収していった。
のち、『汲む - Y・Yに -』(第二詩集『鎮魂歌』所収)で、茨木が山本安英の何を見て何を学んだかについて書いている。


大岡 結局女性の場合には後続部隊というか、男の連中が出で立ってゆくのを見送って、口もとまで出てくる悲しみや喜びを全部押しかくして、外には出さない、という形だったでしょう。そこからくる抑圧された思いというのが、戦後になって爆発するわけですけれど、女の人の多くは、風俗、つまりファッション的なもので戦争中の抑圧を解放する。また、恋愛もね。さまざまだと思うんですが、茨木さんの場合は、むしろ稀なケースですね。つまり、言葉というものに初めからぶつかった、という人は、あの当時まだ少なかった。
茨木 ええ、何よりもまず自分のしっかりした言葉がほしいと思った。変わってたかもしれませんね。
大岡 あのころ他の同世代の人で、戯曲を書く女性の仲間みたいな人はなかったんでし
茨木 ええ。一人もいませんでした。
大岡 だから、そのあたりがちょっと、独特だと思うんです。
(大岡信対談)

忘れもしない昭和二十一年の夏、帝劇で「真夏の夜の夢」を観たとき、劇場前に大きな看板が立てられて、それは読売新聞主催の第一回「戯曲」募集の広告だった。私はこれに応募してみようと思った。それというのも私に文学の才能があるかどうか、父に実証してみせる必要があったのである。
薬学は投げみたいな状態、そして今度は文学、わけても芝居などと言い出す娘に、親が心配したのも無理なく、しかし一喝するという態度ではなくで「才能が少しでもあればの話だが」ということになっていた。
卒業試験が近づいて、同室の四人が試験勉強に没頭している時、私は同じように机に向いながら孜々(しし)として生れて初めての戯曲なるものを書きついでいった。テーマは愛知県に伝わった三河木綿発祥の民話が核になった。自分の意志より以前に次々に言葉が溢れ出る不思議を初めて味わって呆然としていた。
数百篇集まった戯曲の中で、選外佳作に選ばれ、読売新聞に発表されたときは飛びあがるほど嬉しかった。化学では落ちこぼれであったけれど、別に私を生かせる道があったという暗夜に灯をみつけたような嬉しさだった。多額の賞金(金額は忘れてしまったが)と、土方与志、青山杉作、千田是也氏のサイン入りの賞状を貰い、私が最年少だったそうで読売新聞の偉い人が大いに励まして下さった。
殆ど同時に受けとった薬学部の卒業証書(これは落第すれすれの線で)と二つを持って昭和二十一年の秋、郷里に帰った。どさくさの中の繰りあげ卒業で、正味三年半だった。
翌年薬剤師の免許証も届いたが、二、三年後には国家試験制度が出来、そうなったら、とても私はパス出来なかったろう。ポツダム将校というのがあったが、私もポツダム薬剤師と思い、以後免状があるというだけでこの世界から別れた。
父もいささか驚いたらしく、行末どうなるやらと案じつつも、以後黙認という形になった。それが契機となって、新劇女優の山本安英さんから一度あいたいというお手紙を頂き、また「夕鶴」が生まれる前の山本さんにお目にかかり、それからずっとおつきあいが続いているが「女の生きかた」の一番大切なところを、私は山本さんから学び吸収しようとしてきたような気がする。
沢山の芝居を観、戯曲を読むうち、台詞の言葉がなせか物足らないものに思えてきた。生意気にもそれは台詞の中の〈詩〉の欠如に思われはじめてきたのである。詩を本格的に勉強してみよう、それからだなどと諸関係の本を漁るうち、金子光晴氏の詩に出逢った。これは戦前、戦中、戦後をいっぺんに探照燈のように照らし出してる強烈なポエジイで、眩惑を覚えるほどだった。このように生きた日本人もいたのかという驚き。
言葉の練習のつもりでみずからも詩を書き始めたのだが、ミイラ取りがミイラのようになって戯曲のほうの志は得ないまま、詩を書きついでアッというまに三十三年の月日は流れ去った。今思うと敗戦迄の八年間と、敗戦後の三十三年間は等価の時間のようにさえ思われてくる。それほど戦後の時の流れは迅かった。
(「はたちが敗戦」)

《参考資料》
後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)
後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)
金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)
成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)
井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)
芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)
中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)
高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)
小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)
蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)
『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)

『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考
長谷川宏「茨木のり子の詩」
若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」
姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」
河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか
 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」
野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」
細見和之「茨木のり子の全人性」

《茨木のり子の作品》
大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)
茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)
茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)
茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)
茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)
茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)
茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)
茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)
茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)
谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)
高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)



2021年12月30日木曜日

「知らないことが」 茨木のり子 (『対話』所収 初出「詩学」1955年10月 詩人29歳)  

 


知らないことが     茨木のり子


大学の階段教室で

ひとりの学生が口をひらく

ぱくりぱくりと鰐のようにひらく

意志とはなんのかかわりもなく


戦場である恐怖に出会ってから

この発作ははじまったのだ

電車のなかでも

銀杏の下でも

ところかまわず目をさます

錐体外路系統の疾患


学生は恥ぢてうつむき口を掩う

しかし 年若い友らにまじり

学ぶ姿勢をいささかも崩そうとはしない


ひとりの青年を切りさいてすぎたもの

それはどんな恐怖であったのか

ひとりの青年を起きあがらせたもの

それはどんな敬虔な願いであったのか


彼がうっすらと口をあけ

ささやかな眠りにはいったとき

できることなら ああそつと

彼の夢の中にしのびこんで

少し生意気な姉のように

”あなたを知らないでいてごめんなさい”

静かに髪をなでていたい


精密な受信器はふえてゆくばかりなのに

世界のできごとは一日でわかるのに

”知らないことが多すぎる”と

あなたにだけは告げてみたい。


(『対話』所収 初出「詩学」1955年10月 詩人29歳)