2022年9月30日金曜日

ミステリーツアーというものに行ってきた (三日目) 高山市内~平湯峠~安房トンネル~松本市街~前山寺(上田市)~北陸新幹線上田駅 2022-09-29

 9月29日(木)晴れ

ミステリーツアー第三日目(最終日)は、高山市内~平湯峠~安房トンネル~松本市街~前山寺(上田市)~北陸新幹線上田駅のコースだった。

高山市内~松本市街はずっと昔、車で往復したことがあるが、まだその頃は安房トンネルはなく、安房峠を越える山越えルートだった。

この日は一日中晴れ、暑いくらいの気温だった。

帰宅時、自宅の最寄り駅(東戸塚駅)に着いたら雨が降ってたのでちょっと焦った。

▼高山市街 鍛冶橋の足長像(対面には手長像がある)


▼宮川の朝市 出店数が少なくなってて寂しい

▼鍛冶橋より下流側を見る

▼上三之町

▼陣屋前朝市 ここの出店数も少ない

▼飛騨国分寺

▼旅館かみなか(登録有形文化財)
明治21年築 もとの花岡遊郭にある

▼平湯峠 

▼松本城


▼開智学校

▼前山寺(上田市)の三重塔(重要文化財)

▼前山寺の参道脇に残照館(旧信濃デッサン館) 残念ながらこの日は休館
また、1kmほど先には無言館がある。






ミステリーツアーというものに行ってきた(二日目) 白樺湖~中山道奈良井宿(木曽)~開田高原(御嶽山麓)経由~高山市~白川郷~高山市内 2022-09-28

 9月28日(水)曇り時々雨

ミステリーツアー第二日目は、白樺湖~中山道奈良井宿(木曽)~開田高原(御嶽山麓)~高山市~白川郷~高山市内のコースだった。

このコースは20年以上前、何回かに分けてになるけど、全て車で走ったことのあるコースで、懐かしかった。

高山~白川郷は、以前は3時間はかかっていたが、自動車道が開通したので40分程度に短縮されたみたいだ。その代わりと言ってはなんだけど、昔のルート上にあった荘川桜と見事なロックフィルダムで有名な御母衣ダムを見ることができない。

この日は、一日中曇り空で雨(小雨)が降ったり止んだり


▼中山道奈良井宿


▼総檜で造られた木曾の大橋




▼白川郷

▼明善寺 茅葺の鐘楼








莫大なカネを生む「カジノ」が、日本で“オワコン”になった3つの理由(窪田順生,ITmedia)

 

〈藤原定家の時代134〉養和2/寿永元(1182)年7月~8月 北陸宮(以仁王遺児)、越前の義仲のもとに脱出(義仲、大義を獲得) 頼朝嫡男万寿(頼家)誕生 頼朝が信頼を寄せる比企能員 比企尼のこと  「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。(中略)治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。」(「吾妻鏡」)            

 


〈藤原定家の時代133〉養和2/寿永元(1182)年4月~6月 仮借ない九州での兵粮米徴収 寿永改元 徳子(28)に建礼門院の院号宣下 「武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)を以て、小中太光家が小窪の宅に招請し給う。(中略)去る春の比より御密通、日を追って御寵甚だしと。」(「吾妻鏡」) より続く

養和2/寿永元(1182)年

7月12日

・北条政子、出産の為に比企能員の屋敷に移る。

「御台所御産気に依って、比企谷殿に渡御す。・・・千葉の小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景季等御共に候す。梶原平三景時、御産の間の雑事を奉行すべきの旨、仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

□現代語訳

「十二日、庚辰。御台所(政子)が御産気のため、比企谷殿(比企能員の屋敷)へお移りになった。輿を用いられた。これはあらかじめそこが指定されていたという。千葉小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景李等が御供した。梶原平三景時は御産の間の雑事を取り計らうようご命令を受けたという。」。

7月14日

・新田義重、源頼朝の勘気を蒙る。悪源太義平の後家である義重の娘に、頼朝が艶書を送るが、政子を憚りこれを拒否して家臣師六郎に嫁がせたため(「吾妻鏡」)。

□現代語訳

「十四日、壬午。新田冠者義重主が(源頼朝の)お怒りを蒙った。義重の息女は、武衛(源頼朝)の兄の悪源太殿(源義平)の後室であった。ところが頼朝がこの間、伏見冠者(藤原)広綱に命じて密かに御艶書をお届けになったところ、義重の息女は全く受け入れる気配がなかったので、直接、父の主(義重)に仰ったところ、義重はもとよりなにかと配慮する性格で、御台所(政子)の耳に入ることを恐れ、急いでにその女子を帥(ソチ)六郎に嫁がせたのである」。

7月29日

・慈円、無動寺検校に補される

7月29日

・北陸宮、出家。乳母の夫讃岐前司重季に守られ北陸道から越前へ向う。源義仲が越中宮崎に御所建設、還俗し元服。

この日、右大臣九条兼実のもとに届いた情報は、以仁王の後見人を務めていた妻(従三位藤原季行娘、良通・良経母)の兄讃岐前司藤原重季(しげすえ)が、南都に潜んでいた以仁王の遺児(北陸宮)を伴って北陸道に脱出したというもの。重季は治承4年(1180)の以仁王事件以後、北陸宮を南都の周辺に匿っていたという。

8月10日には北陸宮を伴って越前国府に入ったとの続報が届く。

北陸宮は、南都を脱出して北上し、近江源氏柏木義兼の所領近江国甲賀郡(滋賀県水口市周辺)を通り、園城寺・延暦寺の勢力圏に属する近江の山中を通過し、平氏の勢力圏として残る若狭国を山越えして、木曽義仲の勢力圏越前国敦賀に入った。南都北嶺の権門寺院の勢力圏を通って近江国の北端まで抜けられるので、平氏政権が勢力圏として維持している若狭国以外は危険のない安全なルートである。

義仲は、越中国宮崎(富山県下新川郡朝日町)に御所を構えてこの宮を迎えたと『平家物語』は記している。北陸宮を奉じたことにより、木曽義仲は北陸道・上野・信濃を実効支配する反乱軍から、以仁王の遺児を奉ずる皇位継承戦争の有力者に立場を変えることになった。安徳天皇を奉ずる平氏、北陸宮を戴くことで以仁王挙兵の大義を継承する義仲、後白河院と結ぶ頼朝、この内乱の帰趨を定める三者の政治的な立場が明確になった。

『源平盛衰記』巻28「顕真(けんしん)一万部法華経事」;

寿永元年5月19日(日付は「玉葉」と合わない)、延暦寺の悪僧永雲が薩摩国に配流、顕真が土佐国に配流になったとある。罪状は、高倉宮の御子(北陸宮)ならびに伊豆守源仲綱子息を、木曽義仲のもとに逃した咎である。

8月12日

・北条政子、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて頼朝嫡男の万寿(のちの源頼家)を出産。

18日、御七夜の儀。千葉常胤が奉行、妻・秩父重弘娘、子息6人がそれに従う。

「晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現並びに近国の宮社に立てらる。所謂、伊豆山 土肥の彌太郎 筥根 佐野の太郎 相模一宮 梶原の平次 三浦十二天 佐原の十郎 武蔵六所宮 葛西の三郎 常陸鹿嶋 小栗の十郎 上総一宮 小権の介良常 下総香取社 千葉の小太郎 安房東條寺 三浦の平六 同国洲崎社 安西の三郎」(「吾妻鏡」同11日条)。

「酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。」(「吾妻鏡」同12日条)。

「若公誕生の間、代々の佳例を追い、御家人等に仰せ、御護刀を召さる。所謂、宇都宮左衛門の尉朝綱・畠山の次郎重忠・土屋兵衛の尉義清・和田の太郎義盛・梶原平三景時・同源太景季・横山の太郎時兼等これを献ず。また御家人等が献ずる所の御馬、二百余疋に及ぶ。」(「吾妻鏡」同13日条)。

「若君三夜の儀、小山の四郎朝政これを沙汰すと。」(「吾妻鏡」同14日条)。

「鶴岡宮の六齋講演を始めらる。」(「吾妻鏡」同15日条)。

「若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。

「七夜の儀、千葉の介常胤これを沙汰す。」(「吾妻鏡」同18日条)。

「若君九夜の御儀、外祖これを沙汰せしめ給う。」(「吾妻鏡」同20日条)。

頼朝が信頼を寄せる比企能員

比企尼(頼朝の乳母、頼朝が伊豆に流されてからも20年間支援を続ける)の甥で猶子の比企能員が頼家の乳母父に選ばれてる。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の3女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になる。

比企尼

「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

源義朝が鎌倉にいる頃、比企掃部允は義朝の家人となっており、義朝が武家の棟梁として京都で活躍するようになると、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝側近として奉公する。久安3年(1147)、頼朝が誕生し、妻の比企尼がその乳母に選ばれる。平治元年(1159)、平治の乱で義朝が清盛に敗れ、頼朝(14)が伊豆国に流罪となる。武蔵国比企郡の代官となった比企掃部允は比企尼と共に比企郡中山郷へ下り、治承4年(1180)秋まで20年間頼朝に仕送りを続ける(「吾妻鏡」寿永元年10月17日条)。比企尼は男子に恵まれず、家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎える。文治年2年(1186)6月16日と文治3年(1187)9月9日、頼朝・政子の夫妻は尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催す。

比企尼には3人の娘があり、

①長女:二条天皇に仕える丹後内侍で、すぐれた歌人として知られ、惟宗広言に嫁ぎ、島津家先祖島津忠久を生む。また、平治の乱後、比企掃部允夫妻が武蔵に下ると、り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚(その娘は頼朝の異母弟範頼の妻)。

②二女(頼家乳母):武蔵の有力豪族河越重頼の妻(その娘は頼朝の異母弟義経の妻)。

③三女(頼家乳母):伊豆の有力豪族伊東祐清に嫁ぎ、祐清が討たれた後、平賀義信と再婚(子は朝雅で、北条時政の女と結婚)。

また、比企能員の娘(若狭局)は頼家と結婚し、一幡と竹御前を生む。

一方、頼家の弟千幡(実朝)は北条氏が掌握。政子の妹阿波局が乳母になり、その夫阿野全成が乳母夫になる。頼朝・政子の2人の男子は、夫々比企氏・北条氏を乳母父関係に持ったことで、抗争の火種を宿す結果となる

8月14日

・前斎宮亮子内親王(のちの殷富門院)、皇后となる。

8月22日

・この日朝廷で、大嘗会(祭)を延期するや否やの議あるべし、という声が上がる。北陸道追討使を派遣せねばならず、そういう凶事の遂行と天皇即位行事の仕上げとしての「大祀(だいし)」は両立できないとの主張(「吉記」)。

安徳天皇即位の大嘗会は、本来なら前々年(治承4年)11月に実施されるべきところ、福原遷都の最中、7月下旬から8月中旬まで、福原でやるのか京都でやるのか激しく議論された。大嘗会は都以外でやった前例がないから、福原でやれば福原を正規の都と認定することになるので、遷都反対派は翌年延期を主張し、結局時間切れで翌年に持ち越された。ところが、翌治承5年早々に高倉上皇が亡くなり、この年は諒闇(天子が父母の喪に服する期間)となり、更に1年延期となった。

しかし、8月25日、大嘗会延引すべからず、追討使は発向すべしと決まった(「吉記」)。

しかし、兼実は、北陸道追討使派遣がまた猶予されたとの情報を聞き込んで、毎度だが準備命令がされていないからだ、とあきれている(「玉葉」)。


つづく



公明・熊野正士参議院議員 辞職 創価学会の女性信者へのセクハラ行為が報じられる(TBS) / 熊野正士議員のセクハラ行為、公明党のウソを暴く「証拠LINE」 「議員を辞めないといけないかもしれません」(デイリー新潮) / 公明党議員のセクハラ騒動で党本部が謝罪も 議員妻が訴訟準備で泥沼へ (東スポ) / セクハラ報道の公明・熊野参院議員「入院」理由に雲隠れ 与党ボケ、自民と同体質と批判殺到(日刊ゲンダイ) / 「事実があれば、党として議員辞職を求める」公明・熊野正士参院議員セクハラ報道受け 公明党コメント発表(TBS);「「週刊誌の報道にある熊野議員と当該女性との LINEによるやりとりは、山口代表も北側副代表も、この週刊誌報道ではじめて知りました。 現在、熊野議員は入院中であり」」 / 「今日の下着の色は?」公明党・熊野正士参院議員のセクハラを被害女性が告発〈LINE入手〉(文春オンライン);「実は熊野氏は創価学会信者の女性・A子さんとセクハラトラブルを起こし、あげくの果てに入院、雲隠れしてしまったのです。A子さんは親の代から創価学会に入信している熱心な2世信者で、福祉団体の幹部も務めています。公明党だけでなく創価学会全体にまで問題が広がりそうなのです」     

 



 

この茂木というヒト、正面から国民にケンカ売ってんのかな → 自民・茂木氏、国葬は「適切」 首相は丁寧な説明尽くしたと強調(朝日);「 批判を受け止めて最後まで丁寧に説明していく、と言ったまま、特に説明していないのに、説明尽くしたことになってる。」(武田砂鉄)   

 



 

怒りの声「市街地だけではない」 清水区山間地「支援届かず」「限界近い」 台風15号豪雨災害(あなたの静岡新聞) / 深夜、濁流が町を襲った しかし報道もない、市の支援もない、だから助け合うしかない、静岡市葵区のSOS(堀潤) / 大規模断水続く静岡市清水区 乾燥した汚泥が舞い、水を求め長蛇の列が続く 現地住民からのSOS(堀潤) / 大雨被害の静岡県、自衛隊への災害派遣要請まで2日間 担当者は(朝日) ← 「担当者は」?          



 

2022年9月29日木曜日

ミステリーツアーというものに行ってきた (第一日目) 北陸新幹線軽井沢駅~雲場池~旧軽井沢散策~旧北国街道海野宿~ビーナスライン経由~白樺湖 2022-09-27

 9月27日~29日

ミステリーツアーという旅行行程が全く明かされないツアーに参加してきた。キーワードが入った概略書が事前に配られてはいるが、それを見ての予想は悉く外れた。

概略行程は下記。

(一日目)

北陸新幹線軽井沢駅~雲場池~旧軽井沢散策~旧北国街道海野宿~ビーナスライン経由~白樺湖

(二日目)

中山道奈良井宿(木曽)~開田高原(御嶽山麓)~高山市~白川郷~高山市内

(三日目)

平湯峠~安房トンネル~松本市街~前山寺(上田市)~北陸新幹線上田

以下は一日目(9/27)

▼軽井沢雲場池






▼旧軽井沢散策途中にて

▼高原地帯

▼旧北国街道海野宿
すぐ傍を千曲川が流れている。
火災の延焼を防ぐための隣家との間の仕切り(うだつ)のある家並み。





▼田園風景

▼白樺湖畔のリフトから見た白樺湖周辺

▼翌日の朝散歩(雨がポツリと、、、)

〈ルート概観〉



「知事として関係断ち切るという言葉使えない」旧統一教会との関係めぐり論戦 富山県議会(チューリップテレビ) / 新田・富山県知事誕生の裏で何が?旧統一教会選挙応援の実態 鍵握る幹部直撃「瞬殺だった」検証第2弾(チューリップテレビ)

 

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スウェーデン国営放送の特集  「まるで戦前のようです。『民主的』とされる日本で、『日本は戦争犯罪などやっていない』と主張する男が国葬される。これはドラキュラを国民的英雄として祭り上げているようなものです。それも国民のお金で、半数以上が反対なのに。これは危機的状況です」

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議員辞職でしょ! → 維新 参院選で比例候補に現金要求の吉田衆院議員に離党勧告(NHK);「日本維新の会によりますと、ことし7月の参議院選挙で党が公認した比例代表の候補者が党所属の吉田豊史衆議院議員から支援にあたって現金を要求され、支払えない場合は公認を辞退するよう求められたなどとして、党に訴えたということです。 これについて日本維新の会は、今月26日に開いた党紀委員会で、吉田氏への聞き取りや、双方の会話を録音したデータの確認などを行った結果、吉田氏が、政治資金収支報告書に記載しない金銭として1000万円を要求したと認定しました。」 ← あとでソッと復党させる気?        



 

〈藤原定家の時代133〉養和2/寿永元(1182)年4月~6月 仮借ない九州での兵粮米徴収 寿永改元 徳子(28)に建礼門院の院号宣下 「武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)を以て、小中太光家が小窪の宅に招請し給う。(中略)去る春の比より御密通、日を追って御寵甚だしと。」(「吾妻鏡」)

 


養和2/寿永元(1182)年

4月5日

・源頼朝、江ノ島遊覧。

足利義兼・新田義重等が供奉。これは、高雄山神護寺文覚上人が、頼朝の請願する神事(大弁財天の勧請)を行うためであるが、実は鎮守府将軍藤原秀衡調伏の密議(「吾妻鏡」)。文覚は21日間祈祷。

「武衛腰越に出しめ江島に赴き給う。足利の冠者・北條殿・新田の冠者・畠山の次郎・下河邊庄司・同四郎・結城の七郎・上総権の介・足立右馬の允・土肥の次郎・宇佐美の平次・佐々木の太郎・同三郎・和田の小太郎・三浦の十郎・佐野の太郎等御共に候す。これ高尾の文學上人、武衛の御願を祈らんが為、大弁才天をこの島に勧請し奉る。供養法を始行するの間、故に以て監臨せしめ給う。密かにこの事を議す。鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんが為なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月11日

・平貞能、鎮西を追討。原田種直の助力で、菊池隆直は降服。

4月15日

・後白河法皇が日吉社に赴いたとき、叡山の僧徒たちが法皇を擁して不穏な動きをはじめたとの噂が都に流れ、驚愕した平宗盛が、直ちに平重衡に命じ、兵を率いて法皇を迎え取らせた。この頃の法皇と平氏との関係、法皇の京都政界内での立場を物語る。平氏としては、法皇をその掌中に置くことが、その存立のための最大の要件であった。

「早旦、天下騒動の事出来す。以ての外謬事の故、この事出来有るか。昨日、法皇御登山の間、山僧等法皇を盗み取り奉るべきの由、今日その告げを得て、洛中の武士騒動す。忽ち数多の騎を率い、坂下に向かう。僻事に依って空しく帰りをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

4月21日

・賀茂祭にて平有盛が祭使を務める(「玉葉」)。

5月11日

・兼実、九州の菊池隆直が貞能に投降したとの情報を得る(「玉葉」)。

「吾妻鏡」4月11日条は、貞能が京から派遣の官吏に自分の家人数人を副え、国郡を巡回、兵粮米と称して「水火の責め(水責め火責め)を成す、庶民悉くもつてこれがために費(つい)ゆ」と記す。それで、隆直は「当時(現在)の難」を避けるため貞能に降伏したと記す。

追討使の兵粮米徴収は水責め火責めといわれる仮借ないもので、「その積り(累計)十万石に及」(盛衰記)ぶとされている。

5月19日

「十郎蔵人行家三河の国に在り。平家を追討せんが為、上洛せしむべきの由内儀す。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月27日

・「壽永」に改元。「養和の飢饉」のため。

5月27日

・中宮平徳子(28)に建礼門院の院号宣下。

6月1日

・「武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)を以て、小中太光家が小窪の宅に招請し給う。御中通の際、外聞の憚り有るに依って、居を遠境に構えらると。且つはこの所御浜出便宜の地なりと。この妾、良橋の太郎入道が息女なり。豆州の御旅居より昵近し奉る。顔貌の細やかなるのみならず、心操せ殊に柔和なり。去る春の比より御密通、日を追って御寵甚だしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月5日

・頼朝、佐竹討伐での軍功に、熊谷次郎直実に、実留守中の叔父久下直光の押領を止めさせ、熊谷次郎直実を地頭職とする(吾妻鏡」同日条。

6月7日

「武衛由比浦に出しめ給う。壮士等各々弓馬の芸を施す。

先ず牛追物等有り。下河邊庄司(御合手たり)・榛谷の四郎・和田の太郎・同次郎・三浦の十郎・愛甲の三郎射手たり。次いで股解沓を以て、長八尺の串に差し、愛甲の三郎を召し射さしめ給う。五度これを射る。皆中たらずと云うこと莫し。而るを武衛彼の馬の跡と的下とを打たしめ給うの処、その中間八杖たるなり。仍ってこの杖数を積もり、これを相廣め馬場を定むべきの由仰せ出さる。」(「吾妻鏡」同日条)。

つづく


2022年9月28日水曜日

「お前も家族もクズ」刑事は罵倒した 覚えのない強盗、拘束300日超(朝日 有料記事);“無罪判決後に会ったコンビニ店員はこう明かしてわびた。検事から『あの人が犯人と言って、日当をもらって帰ってくれたらいい』と言われた……”   

 

郵便局員の不祥事防止へ「監視カメラ」 全国2万局、費用数百億円(西日本新聞)  

〈藤原定家の時代132〉養和2/寿永元(1182)年3月 「近日諸国の庄々兵粮米重ねて苛責有り。使廰の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。」 「道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべきの世なり。」 「今夜火あり、押小路高倉なり。近日強盗火事、連日連夜の事なり。天下の運已に尽くるか。死骸道路に充満す。悲しむべし、悲しむべし。」(「「吉記」)        

 


養和2/寿永元(1182)年

3月9日

・北条政子(26)の着帯の儀。

3月12日

・宗盛は自分と父の違いを、「故禅門は遺恨有るの時、直(じか)に報答、宗盛においては尋常を存じ、万事存ぜざるが如し知らざるが如し。よりて事におきて面目を損す(亡き清盛は遺恨があれば、時を移さず報復するような人だったが、自分は人からよく思われたくて、何事も見て見ぬふりをしてきた。だから事態に対処しようとして評判を落とすことがあった)」と語る(『玉葉』養和2年3月12日条)。

宗盛の自己評価は、寛大過ぎて失敗もあったというが、弁解がましく、英雄の条件である父の果断さを持ちあわせていないのを自認している。両者の感情の密度と、それを行為に移す迫力の差は明らかである。

3月15日

・源頼朝、鎌倉由比ヶ浜から鶴岡への新道を作らせる。 後の若宮大路となる参道を改修。

3月17日

・諸国司に、荘園等からの兵糧米徴収の院宣が下る。

「近日諸国の庄々兵粮米重ねて苛責有り。使廰の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。」(「吉記」同日条)。

3月17日

・城太郎助長、木曽追討に進発した直後に頓死(「玉葉」)。

3月19日

「道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべきの世なり。」(「吉記」同日条)。

3月19日

・地震あり。

3月21日

・敦賀に踏み止まる前筑後守源重貞が、「謀反の源氏等」(義仲与党)の越前入りを報ずる(「吉記」同日条)。重貞は、美濃を本拠とする清和源氏満政流で、平家方についたのは、保元の乱後、為朝を捕らえた功により右衛門尉に任じられ、このため源氏一族から疎外されたため。

越前国内では、反乱を起こした中小武士と白山宮越前馬場を構成する平泉寺・豊原寺及びその堂衆・神人集団の「兵僧」連合が進み、大きな軍事集団が形成されつつあり、義仲を盟主に戴く方向に向かう。

3月21日

・九州の菊池氏はまだ降伏していないが、追討軍は「すでに国を管し、公私物を点定(てんじよう、財産・物品などを調べて没収または徴発すること)するのほか他に営み無し」と、肥後の国衙を占拠し国内の収奪に余念がない。

3月1日の飛脚も「追討使貞能すでに国務を押取り、目代を逐出し了んぬ」と報じる(「吉記」3月30日条)

3月22日

「従儀師相慶来たり語りて云ふ。宰相阿闍梨忠円一日ころ餓死し了んぬと云々。大略日々の事と為すといへども、有職以上は他に異なる。仍りて之を注す。」(「吉記」同日条)。餓死は毎日の事だが、社会の上層部にも餓死者がでたので、特記された。

3月25日

「今夜火あり、押小路高倉なり。近日強盗火事、連日連夜の事なり。天下の運已に尽くるか。死骸道路に充満す。悲しむべし、悲しむべし。」(「「吉記」同日条」)。

3月26日

「戌刻許り新中納言実守亭[大炊御門高倉、半作]焼亡、大宮御同宿有りと云々。然るべき家連々この難あり、まことに、あやしむべき時なり。定めてこれ放火ならんか。」(「「吉記」同日条」)。


つづく