2023年4月30日日曜日

日本の部長は「タイより年収が低い」の衝撃的事実 「安いニッポン」は現実になっている(東洋経済オンライン); 安いニッポン 日本の平均年収は「シンガポール」「タイ」より低い? 日本とベトナムで大きな収入の差はなくなっている       

 

〈藤原定家の時代346〉正治3/建仁元(1201)年7月6日~8月23日 後鳥羽院が和歌所再興(俊成・定家ら寄人) 定家、後鳥羽院の熊野御幸の御供を命じられる「南山御共ノ事、已ニ催シアリ。面目過分ナリ。」 「甚雨、午の刻大風。郷里屋を穿ち、江浦船を覆う。鶴岡宮寺の廻廊・八足門以下、所々の佛閣塔廟顛倒す。凡そ万家一宇も全き所無しと。下総の国葛西郡海辺の潮人屋を牽く。千余人漂没すと。」「国土に於いては五穀を損亡し、庫倉に於いては一物も納めずと。」(「吾妻鏡」) 

 


〈藤原定家の時代345〉正治3/建仁元(1201)年6月1日~29日 後鳥羽院から賞讃され感激する定家「心中甚ダ涼シク、感涙ニ及ブ。生レテ此ノ時ニ遇フ、自愛休ミ難シ。」 後鳥羽院の和歌に感激する定家「金玉ノ声、今度凡ソ言語道断ナリ。今ニ於テハ、上下更ニ以テ及ビ奉ルベキ人無シ。毎首思義スベカラズ。感涙禁ジ難キモノナリ。」 より続く

正治3/建仁元(1201)年

7月6日

「残暑焼けるが如し。晩涼を待ち、御所に於いて百日の御鞠を始めらる。」(「吾妻鏡」同日条)。義時(39)らが頼家の百日鞠に見證(判定役)を務む。

7月10日

・豊嶋朝経を土佐国守護職に任命。佐々木経高の後任。

7月26日

・後鳥羽院、和歌所(和歌の撰集を行なう所、村上天皇天暦5(951)年設置)を再興、二条殿に置き、和歌所寄人11名、和歌所開闔(かいごう、書記役)として醍醐源氏の源家長を指名。寄人は九条家から良経とその叔父慈円、土御門家から源通親、子の通具。御子左家系から釈阿(俊成)、定家、寂蓮、家隆、隆信。六条藤家から有家。そのほか源具親(源師光子息で院女房宮内卿局の兄)、飛鳥井雅経、鴨長明(47)、藤原秀能。後、藤原清範・同隆信・鴨長明・藤原秀能を寄人に加える。

「七月二十六日。巳ノ時許リニ参上ス。此ノ間、右中弁奉書到来。明日、和歌所ノ事ヲ始メラルベシ。寄人トナス。酉ノ刻ニ参仕セシメ給フベシト。追ヒテ仰ス。初メテ和歌ヲ講ゼラルベシ。松月夜涼シ、ヲ以テ題トナス。風情ヲ凝ラシテ参入セシメ給フベシ。人々布衣ナリト。今此ノ事ニ遇フ。堯倖卜謂フベシ、人々ノ説ヲ聞ク。寄人十一人卜云々。左大臣殿・内大臣・座主・三位入道殿・頭中将・有家朝臣・予・家隆朝臣・雅経・具親・寂蓮卜云々。」

7月27日

・定家、良経邸に参向。今夜の歌の事を承るためである。御供して院参。

和歌所歌会。講師は定家。通具読師。良経と御製を読み上げる。

次いで当座歌会、良経題を書き進める。「暮山ノ遠雁」。講師家隆。

和歌所は、弘御所の北面である。図を書き入れる。

鴨長明:

和歌所寄人に選ばれ歌人としての現世的栄誉を獲得。この後、下鴨の摂社河合社の禰宜(下鴨正禰宜への出世コース)が欠員となり、後鳥羽院も長明を任命しようとするが、社家内部の抵抗により頓挫。時の正禰宜鴨祐兼が子の祐頼を推挙。祐兼の父祐季は、院政期下鴨社領の拡大に辣腕を振う。


8月3日

・定家、和歌所影供歌合。俊成判者。五番院の勝。一番持。

8月5日

・源家長を以て、和歌所の年預かりと衆議によって決定。

8月7日

・定家、院参。明後日、未練の歌人等三題を詠進すと。作者十人。

良経邸に参向。撰をされたのを見る。後撰・拾遺両集より百首を撰び、院に進められる。その出入を共に撰ぶ。

8月9日

・定家、院の熊野御幸の御供を命じられる。過分の面目であるが、病弱にて気がかりである。御供人は、通親・大理・仲経卿の公卿三人と、殿上人、保家・定家・隆清・親兼・長房・忠雅・有雅の七人で、皆以て清撰の近臣である。定家もついに、近臣の中に加えられ自愛。

「南山御共ノ事、已ニ催シアリ。面目過分ナリ。」。供(とも)は、「皆以テ清撰ノ近臣ナリ。俗骨独リ相交ハル。争(いかで)カ自愛セザランヤ。」

8月11日

・諸国大風。

「甚雨、午の刻大風。郷里屋を穿ち、江浦船を覆う。鶴岡宮寺の廻廊・八足門以下、所々の佛閣塔廟顛倒す。凡そ万家一宇も全き所無しと。下総の国葛西郡海辺の潮人屋を牽く。千余人漂没すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月13日

・定家、15日の撰歌合の和歌を進上

8月14日

・定家、和歌を撰定すべしとのこと、重ねて催しあり、雨を凌ぎ、いたわりて院参。右の方を撰すとて、定家・読み、慈円・通親評定。雅経・具親召し加えらる。先ず三十首。かさねて左の方の歌、殊によろし。五十首撰み出すべき由、仰せ事あり、よって又これを撰す。

通親の歌、大略入れられるか。みずから以てこれを挙ぐ、極めて以て泥々たり。今度、定家の歌、殊に以て心を得ず。四首入り存外に思う。撰び終り、右中弁につけ、院御所に進められる。左の方、和歌所にて撰す。良経出席。寂蓮も候す。

8月15日

・定家、重ねての催しにより、良経の御供をして、和歌所に参ず。寄人等を召す。和歌所撰歌合。ただし左の方の人、本より数少ない上、有家不参。よって、右の方人雅経を以て、左の講師とする。右の方、頭中将これを読む。定家、紙硯をたまわりて、又判・評定の詞を書く。此の役極めて堪え難し。評定の詞、流るる如し。しばらくもとどまらず。惣じて左の方が勝つ。硯を取って本座に復る。

ついで当座の題あり。作者を隠して書き連ねる。その歌に、上・中・下の品帳を付ける。

8月15日

「鶴岡放生会延引す。廻廊顛倒に依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月23日

「甚雨大風、去る十一日の如し。雨度の暴風に依って、国土に於いては五穀を損亡し、庫倉に於いては一物も納めずと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


私たちの言論は、自由か 「みる・きく・はなす」をたどる(朝日);「いま朝日新聞には、権力を監視するという かつての姿が残念ながら見えてこない。リクルート事件や 大阪地検の証拠改竄事件のスクープのように、闘志を燃やしてほしい。メディアが自粛し、力が弱まれば、不安定な社会になる。暴力に倒れた小尻記者が一番がっかりすると思う」 / 抑圧され、はびこる萎縮 「みる・きく・はなす」をたどる ;「最近の報道には、政策的な重要課題は国の方針が定まってから取り上げる傾向を感じる。社会的リスクを可視化し、よりよい方向に対話を促すのが報道の役割なのに、受け身の姿勢になっていないか。朝日新聞は積極的に問題提起していると思うが、丸くなってしまったとも感じる」         

 





 

2023年4月29日土曜日

〈藤原定家の時代345〉正治3/建仁元(1201)年6月1日~29日 後鳥羽院から賞讃され感激する定家「心中甚ダ涼シク、感涙ニ及ブ。生レテ此ノ時ニ遇フ、自愛休ミ難シ。」 後鳥羽院の和歌に感激する定家「金玉ノ声、今度凡ソ言語道断ナリ。今ニ於テハ、上下更ニ以テ及ビ奉ルベキ人無シ。毎首思義スベカラズ。感涙禁ジ難キモノナリ。」   

 


〈藤原定家の時代344〉正治3/建仁元(1201)年3月27日~5月10日 後鳥羽院から高い評価を受ける定家 「面目身ニ過ギタル者ナリ」「生マレテ斯ノ時ニ遇フ。吾ガ道ノ幸、何事カ之ニ過ギンヤ」「寧ゾ眉目ニアラザランヤ。和歌ノ中興ニ遇フ」 城永茂の甥資盛・叔母板額の挙兵 より続く

正治3/建仁元(1201)年

6月1日

・相模国の江島神社に参詣した頼家は、大磯で一泊し、遊女を召して、歌曲を尽させた。このとき、愛寿という遊女がいたが、同僚に容姿を嫉妬され、名簿から外されていたため、お召しがかからなかった。このことを悲しんだ彼女は出家してしまった。頼家はこのことを聞いて残念がり、たくさんの品物を授けたが、彼女はこれを受け取らず、すべて高麗寺に奉納して逐電してしまった。

6月6日

・現在までの最大の歌合とされる「千五百番歌合」の基礎となる百首歌が後鳥羽院より召される。鳥羽院自身を含めて左右15人計30人の歌人が百首歌を詠じ、これを競うという古今未曾有のゲーム。

「この間、家長を以て百首いそぎ進ず可きの由仰せごとあり。」(「明月記」同日条)。

6月11日

・定家、百首を持って院参。右中弁につけて進めるところ、よろしき由、御気色あり。

「巳時百首を持参し、右中弁に付し進め入る。」(6月11日条)

6月13日

・後鳥羽院は、直接歌合の席で、定家の歌を褒めるだけでなく、内々、通親や通具、北面の人々などにもそのことを語る。定家は、それを漏れ聞いて感激、心中涼しき思いである。

「今日内府幷ニ宰相中将・自余ノ北面等多ク百首殊ニ宜シキノ由、御気色アルノ趣、粗々之ヲ示ス。日来沈思シ、心肝ヲ摧ク。今此ノ事ヲ聞ク。心中甚ダ涼シク、感涙ニ及ブ。生レテ此ノ時ニ遇フ、自愛休ミ難シ。」

6月16日

・定家、院の御製を披見、感涙にむせぶ。通親の歌も見る

「六月十六日。少時シテ召シアリ御前ニ参ズ。今度ノ御製且ツ見ルベキノ由、仰セ事アリ。之ヲ披クニ、金玉ノ声、今度凡ソ言語道断ナリ。今ニ於テハ、上下更ニ以テ及ビ奉ルベキ人無シ。毎首思義スベカラズ。感涙禁ジ難キモノナリ。閑カニ見ルベキノ由、仰セ事アリ。何レノ方ニカオハシマシ了ンヌ。内府又謁セラル。其ノ歌ヲ披キ見了ルノ後、退下シ休息ス」

「さてこの年は、後鳥羽院は水無瀬離宮での遊女やら白相子やらを総揚げしての遊興とともに、憑かれたようにして和歌に熱中しはじめ、その出来映えもまた定家をして「金玉ノ声、今度凡ソ言語道断ナリ。今ニ於テハ、上下更ニ以テ及ビ奉ルべキ人無シ。毎首不可思議。感涙禁ジ難キ者ナリ」(六月十六日)と感歎させるはどのものであった。この院は実際に主催者としても実践者としても、競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、それから何軒もの別邸と庭園の建造等々、何をさせても、いわばルネサンス人的な幅をもっていて、京都宮廷などというせせこましいところに閉じ込めておくのが惜しいくらいのものであった。後には承久の乱という戦争までを発起する。

しかも後鳥羽院御口伝などの歌論書にも見られるように、他の歌人の歌の鑑賞についても批評家として充分に自立しえていたと言っていい。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

6月22日

・定家、院にて出題、密々歌合あり。この日、俊成、俄かに発病

6月23日

・定家、小松谷御堂供養に参仕。俊成の百首を院に持参。

6月26日

・定家、後鳥羽院より五首題を賜り詠進。

6月28日

・頼家、城小太郎資盛のおば、坂額(はんがく、板額)を見た。これは5月に資盛が越後で叛旗をひるがえしたのを征伐し、その時生捕ったもの。坂額は重忠や義盛がひかえている侍所の中央を通り、頼家の座所近くまで進んだが、少しもへつらう色なく、しかもなかなか美人であったという。

6月29日

・阿佐利与一義遠が坂額の身元を引き受けたいと申し出て許され、義遠は坂額を伴って甲斐国に下向。坂額のその後の消息は不明。娘を産み、その娘が源信継の妻となるとの所伝あり。


つづく

2023年4月28日金曜日

自民、LGBTQ法案で党内対立が深刻 異論相次ぎ、集約見通せず 「差別は許されない」は「日本に合わない」(東京) / 自民参院議員・西田昌司「差別は許されない」という条文の一節について「かなり厳しい対立を生むような言葉遣いで日本の国柄に合わず、(LGBTQの当事者に)逆に不利益になるのではないか」 ← 「国柄」だと! / LGBT法案、対象狭める方向で調整 「差別は許されない」→「不当な差別は許されない」に 自民・保守派の異論で理念後退(東京) ← 「不当な差別」と「不当でない差別」があるというのですか? / LGBT法案「与党案として国会提出」浮上 G7まで「時間わずか」(毎日);『自民党内には法案の「差別は許されない」との文言に反対する声が根強く、党内の意見集約も見通せていない』 / LGBT法案「時間を切るのは筋が違う」と自民・萩生田政調会長 (産経)       




 



 

年金改革で混乱・フランスに潜む民主主義の矛盾 独裁から民主へ、民主が独裁を生むというジレンマ(的場昭弘 東洋経済); 独裁から民主へ、民主が独裁を生むというジレンマ 民主主義に潜む矛盾 危機に機能しない民主政 一方的な大統領のやり方に反発 大統領と議会の逆の現象

 

〈藤原定家の時代344〉正治3/建仁元(1201)年3月27日~5月10日 後鳥羽院から高い評価を受ける定家 「面目身ニ過ギタル者ナリ」「生マレテ斯ノ時ニ遇フ。吾ガ道ノ幸、何事カ之ニ過ギンヤ」「寧ゾ眉目ニアラザランヤ。和歌ノ中興ニ遇フ」 城永茂の甥資盛・叔母板額の挙兵       

 


〈藤原定家の時代343〉正治3/建仁元(1201)年2月1日~3月25日 『当座十首和歌会』(和歌試) 「建仁」改元 慈円、2度目の天台座主 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕 白拍子合や江口・神崎の遊女による今様合 より続く

正治3/建仁元(1201)年

3月27日

・定家、院の尊勝陀羅尼供養あれども、「貧乏、衣装無キニ依リ、出仕スベカラザルノ由、日来窮屈ナリ。」。

今良経の御供欠如、よって参ずべき由申す。狩衣を着けて参上。仰せていう。撰歌合せに於ては、端書に位置等を書かざるの由、院の仰せあり。この事、日来知らず、不審により俊成に申す。御返事には、此の事、先達の説ありといえども、猶身は用い難きの間、定めて傍難あるか。しかれども、今の仰せもっともこれを以て証拠となすべし。「さこそは書きてあらめ」と。

御院参。定家退出して、此の間俊成の文を見る。よって書き直し、持ち参じ、右中弁に触れる。即時に和歌をつけ、進め入れ終りて退出す。

寂蓮入道の許に行き向い、この書き様を触れ終る。又密々にその歌を見る、皆以て優美なり。定家は、此の度殊に以て風情を得ず、不運の至りなり。此の歌の書き様、良経・通親・俊成・通具・寂蓮・定家という。

3月28日

・定家、良経の御供をして参院。今日左右の歌を撰せられると。左の方、弘御所の簾中にて撰せらると。良経・通親・寂蓮・家隆と。右の方、御所北面に於て撰せらる。慈円御前に候す。大弐これを読む。定家・雅経等祇候す。作者を隠して読み上ぐ。先ず合点す。ついで巻き返して合点す。歌を読み上げて重ねて、帥点を合す。同点の歌、二十八首あり。又巻き返して、今度は作者をつける。御製はなはだ多し。自余多少各々入る。仰せていう、作者各々一首は必ず入るべし。御製を出すべし。重ねて評定す。やや久しくあらそい申す。遂に御定め終る。三十六首を撰び定めらる。題毎の員数を知らず。ただ十題のうち、三十六首なり。愚詠多く御意に叶うと。「面目身ニ過ギタル者ナリ」「生マレテ斯ノ時ニ遇フ。吾ガ道ノ幸、何事カ之ニ過ギンヤ」。左の歌、又撰じ終り、右中弁につけて奏覧。少々直され、仰せ事等あり。良経の御供して退去。時に亥の終なり。

3月29日

・定家、午の時、南殿に参ず。又良経の御供して北殿に参ず。判者俊成参入。南の釣殿廊の簾中を以て御所となす。左右の座に分かれる。定家、硯、読紙を取り、御座の傍に参上。判並に方の陳状を注し難きもこれを付く。此の事極めて以て堪えず。かたがた恥を遺すといえども、その仁に当る、勤仕すべきの由、仰せられるの条、面目身に過ぎたる者なり。先ず御座の近辺に参上す。ついで硯に水を入れ、墨を摺る。紙を巻き返してこれを置く。左右申すにしたがい、大略注し付く。小事に於ては書かず、然るべき詞等、これを書きつく。三十六番終り、作者をあらわして読み上ぐ。定家、此の間に退下。ついで講師等退下し、人々退下す。すなわち、院入りおわします。俊成すなわち退去。ついで慈円退出。昏に臨み、良経の御供して退出、帰宅。

十首の中、五首、院の清撰に入る。五首の中、月を恋うる歌、忝くも叡感に預かる。読み上ぐるの間、いずれの歌といえども、この歌にまさるべからざる由、仰せ事あり。道の面目、何事かこれに過ぎんや。感涙禁じ難きものあり。霞(勝)、月(勝)、嵐(持)、雪(負)、恋(頗るまさるべきの由、御定ありといえども、判者、左勝つ由申さしめ給う。よって負け終んぬる。左は通親の歌である。左右に及ばずと云々)。寂蓮四首入る。頭中将これに同じ。貴人達のほか、此の月数の人なし。

「寧(なん)ゾ眉目(名誉)ニアラザランヤ。和歌ノ中興ニ遇フ」

定家の歌を、此の頃の後鳥羽院は、最も高く買っている。ことごとに褒めあげ、意見をつつまず述べるようにうながす。俊成が通親と番えられた定家の歌に、負の判をしても、後鳥羽は、頗る秀歌とほめちぎる。

4月2日

・越後より鎌倉へ、城永茂の甥資盛・叔母板額(ばんがく)の挙兵と、越後・佐渡の御家人の攻撃でも鎮圧できないとの報告。

3日、北条時政・大江広元・三善康信ら対策協議。前越後守護で上野礒部郷に篭居する佐々木盛綱を呼出し資盛を討伐させることに決する。将軍御教書が侍所別当和田義盛に下り、義盛は盛綱に使者を派遣。(「吾妻鏡」同日条)

4月5日

・和田義盛の使者、盛綱の許に到着。直ちに盛綱は発向し、3日のうちに鳥坂口に到着。盛綱はここで越後中南部・佐渡・信濃の御家人を編成、阿賀野川を渡河して進軍。盛綱は資盛に軍使を派遣、将軍御教書を伝えると、資盛は鳥坂城で攻防戦をしようと答える。

5月初め、攻城戦開始。坂額ら城兵は奮戦、攻城側に死傷者続出。先駆けた盛綱の子重季は重傷。弓名手信濃の藤沢清親が背後の高所より板額の両股を射て郎等が生け捕る。城資盛、僅かな部下を連れて逐電。

5月8、9日頃、鳥坂城落城。(「吾妻鏡」5月14日条)

源通親の妻の養父高倉範季に庇護されている藤原高衡が関係者として逮捕。九条兼実は、通親と同族(村上源氏)の三井寺の公胤も事件に関与しているとし、強引に通親を事件関係者として主張。

6月28日、板額、藤沢四郎に連れられ鎌倉入り。源頼家と対面。甲斐住人阿佐利与一義遠(53、壇ノ浦の勇士)が、頼家に坂額を預かりたい旨申し入れ、許され甲斐に下向、後妻となる(「吾妻鏡」6月28,29日条)。

承久3(1221)9月余一(71)、没。坂額のその後の消息は不明だが、娘を産み、その娘が源信継の妻となるとの所伝あり。

4月22日

・定家、鳥羽殿にて三船の催し。また、和歌尚歯会、講師を勤める

4月24日

・定家、院より明後日の歌会の歌題を賜る

4月25日

・定家、為家療病により他出せず。静阿閣梨の護身を加う。今日殊に重し。

「貧家祈禱ノ力無シ。旁々ナス方無シ。嘆キニ余リアリ」

定家は当時の人々同様、祈禱や護身が病に効験ありと信じていた。この点、式子内親王は、実に明噺な人であった。良経も、この19日から御不例とのことで参上する。昏に臨みて、宰相中将からの招請によって鳥羽の宿所に向う。歌を見合す為だった。

4月26日

・鳥羽殿初度歌会。定家、先ず良経の許に参ず。今日の御歌、昨日仰せ合されたものである。重ねてこれに感想を述べる。定家、この度は、総じて風情ならず、極めて異様の歌である。良経とともに、鳥羽の院に参ず。今日の儀は衣冠の正装という催しがあったが、しかるべきものを持たないので、束帯して行く。良経、半蔀の車に乗る。この日は、日来聞いていたところの人数と頗る相違していた。慈円は昼から祇候。歌人、伶人参入。序は通親。この日は殿上人による管絃もあった。隆房、笙、大宮大納言、琵琶、公継、拍子、堀川中納言兼宗、筝、雅経、篳篥(ひちりき)等であった。

4月30日

・鳥羽殿影供歌合。同当座歌会。


5月

・この月、俊成、『古来風体抄』(再撰本)を或人に贈る(奥書)

5月10日

・城南寺歌合。


つづく



石橋通宏・参院議員「国連がダメといっていて、そのまま入管法の審議進めるの?政府として無視?おかしくない?」 入管側「そういうことでなく…」 / 国連理事会の専門家や副委員長 日本に入管法改正案の見直し勧告(毎日)   

2023年4月27日木曜日

同級生交歓 @日本橋 吉野鮨 2023-04-27

 4月27日(木)はれ

今日は高校時代の友人と同級生交歓。久しぶりの日本橋、吉野鮨さん。

美味しかった。

今日は、特にシャリとネタと上に載ってるショウガの具合が、口の中での混ざり具合が、すごく良く感じた。

食後、フジ狙いで亀戸天神へ。

今年は、どこも花は早いので、今日のタイミングではそれほど期待はしてなかったが、その予想以上に、、、完全に、、、終わっていた。

例年より2週間早かったとかという説もある。






「高学歴でも就職できない」…大学新卒者1000万人に対して若者の失業率20%…いま起きている中国の若者たちの絶望が大きすぎる / 「公務員1名の募集に倍率6000倍」「民間での大卒・高卒の給与差平均は月約4万円」…いま中国で「大学に行ってもモトがとれない若者」が爆増中のワケ (ふるまいよしこ) / 中国、経済成長に若者就職難の影 「5人に1人」が失業(日経)       

〈藤原定家の時代343〉正治3/建仁元(1201)年2月1日~3月25日 『当座十首和歌会』(和歌試) 「建仁」改元 慈円、2度目の天台座主 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕 白拍子合や江口・神崎の遊女による今様合     

 


〈藤原定家の時代342〉正治3/建仁元(1201)年1月1日~1月30日 城長茂(長職)と甥資盛の叛乱(梶原景時追討の余波) 式子内親王(50)没 「ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅はわれを忘るな」 より続く

正治3/建仁元(1201)年

2月1日

・宰相阿闍梨尊暁(法眼円暁の弟子)、鶴岡八幡宮別当に補任。

2月2日

・定家、30日詠進した和歌が後鳥羽院に賞されたと聞く。八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕

2月8日

・『当座十首和歌会』(和歌試)

後鳥羽上皇、良経・通親・俊成・定家・家隆・寂蓮らの列席のもとで、19人の歌人による十首歌の歌会を開く。「和歌試」と称され、これにパスしたものは和歌所の設置にともなってその寄人に選ばれる。

2月9日

・定家、院と良経の君臣五十首歌合を評定

2月12日

・後鳥羽院老若歌合の奏覧。

2月13日

・「建仁」改元。

2月16日

・定家、『老若五十首歌合』。18日にも。

2月19日

・慈円、2度目の天台座主となり、吉田郡藤島荘を管轄する(「天台座主記」)。

2月22日

・城永茂(長職、50)、大和吉野で鎌倉勢と戦い討たれる。これより先、後鳥羽上皇は、京都守護小山朝政の申請により永茂追討宣旨を下付したらしい。25日、永茂らの首級の京都引き廻し、捕虜の斬首。

29日、永茂の有力な残党の平資家・資正兄弟、本吉冠者高衡も討たれる。

本吉冠者高衡:

秀衡4男。文治5(1189)年9月平泉の西木戸の自邸から脱出、下河辺町の藤原行平を通じて関東の降人となる。同12月、従兄弟の師衡・経衡と同様相模に配流。その後、配流を減じられ幕府の客人となる。永茂らの行動が失敗すると、高衡らは単独で唐橋小路の藤原範季邸に逃込み保護を求める(範季は、陸奥守兼鎮守府将軍として安元2年正月~治承3年11月在任し、秀衡・高衡と懇意であったと推測できる。

2月23日

・定家、 八条院の美福門院月忌仏事に参仕

3月10日

・卯刻地震あり。未の刻に若宮大路西側焼失。(「吾妻鏡」同日条)

3月16日

・定家、通親第影供歌合参加。勧盃、講師を勤める

3月18日

・定家、日吉社に参詣

3月19日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(~23日)。

鳥羽殿に参ず。今度は旧き水干を着すべきの由にて、丹波斑の水干、白き葛袴、白き綾衣、という出立で出かけるが、一人として旧物を着ていない。御船を釣殿に着け、御弘御所に渡る。遊女両方に参着し、郢曲・神歌了りて退下。此の間、御供の上下、皆其の近辺に候す。親疎に随いて遠近に在り。近臣等という。今夜別の事なし、明日白拍子合あるべしと。後鳥羽の遊戯人ぶりがいよいよ発揮される

3月20日

・石清水臨時祭。有道少将の子・中務権大輔が舞人を勤仕し、五位少将の子の舞人、容姿ふるまい、頗る眼を驚かす。但し定家・具親は着かず。人も招請せず。また推参せず。

水無瀬御幸。今夜白拍子合あるべしと。遊女着座し、郢曲せず退下す。白拍子・清撰十二人参ずと。一巡終り、三人替って数反舞う。今夜、雅経少将関東より帰洛、直ちに参入、布衣を着て祇候す。舞い終りて各々分散。

3月21日

・水無瀬御幸。釣殿に院出御。江口神崎の遊君各々五人召したてられ、今様各々一首を合せられる。

申の時許リに院騎馬、忠信・有雅少将同じく騎馬。自余の人、皆釣殿のあたりに在り。今日、白拍子五人、三位経仲卿を以て御使となし、相具して八幡に参ぜしむと。浄衣を着け、帰参。雅経少将、今日京を出立す。親能入道また下向すと。

3月22日

・水無瀬御幸、釣殿にて、御碁、御将棊あり。遊女参じて着す。郢曲終りて退出。又御馬、有雅・親兼・忠信等供奉、公経卿の馬に乗られた。十首の歌、来る28日に進むべき由仰せあり。有通・具親の二人甚だ疎遠、毎年未練の間、惣じて指し出でず、片角に隠れ居る。

3月23日

・定家、巳の時に参上。これより先、女房の車出で終ると。御広(弘)御所に馳せ参ず。遊女郢曲の間なり。有通・具親、女房の御供して参ず。定家・長房朝臣に触れ、御幸に参ずべきの由を答う。仍て祇候するの間に郢曲終る。乱拍子、上北面以上、皆悉く乱舞す。これ例の事と。

公卿に及び出御。桂河を渡る。朱雀より北に行き、四条を東、壬生を北、二条大宮に於て御車に移りおわしますの間、人々馬を下りる。公卿以下なお騎馬にて参ず。定家、推参を恐れるにより、家長に相触れ、止まり終って、馳せ帰る。三条東洞院にて車に乗り、家に帰って沐浴。

夕、御所に参上、夜に入りて退下。

3月24日

・千菓常胤(84)、没。

3月24日

・定家、良経邸に参向。終日見参。両公達参じ給う。夕に退下。

3月25日

・定家、慈円の報恩講に献歌


つづく

2023年4月26日水曜日

殺傷武器輸出、解禁を議論 自民、公明が非公開の場で進める「平和主義」の分かれ道(東京)

新年度の給料 手取り減少? SNSで嘆き相次ぐ…保険料負担 年間1万円↑も(テレ朝)

〈藤原定家の時代342〉正治3/建仁元(1201)年1月1日~1月30日 城長茂(長職)と甥資盛の叛乱(梶原景時追討の余波) 式子内親王(50)没 「ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅はわれを忘るな」   

 


〈藤原定家の時代341〉正治2(1200)年11月26日~12月28日 定家体調悪化続く(風病、咳病) ほぼ連日式子内親王邸を訪問 後鳥羽院水無瀬御幸に参仕 頼朝以来の有力御家人の支持を失いつつある頼家 より続く

正治3/建仁3(1201)年

・親鸞、比叡山での修行の後、この年、六角堂参籠の体験をし、法然門に入ることを決意。

1月4日

・北条義時(39)、頼家の使者として鶴岡宮に奉幣す。

1月7日

・仙洞歌会

1月14日

・新田義重、没。

1月23日

・城長茂(長職)と甥資盛の叛乱。

城永茂、軍兵率い上洛。この日、三条東洞院の小山朝政邸を攻撃(「百錬抄」同日条)。朝政は梶原景時弾劾の中心人物、景時没落の因を為した結城朝光の兄、また、景時に代わって播磨守護になった人物。永茂は自分の庇護者である景時に恩義を感じている。あいにく朝政は朝覲行幸供奉のため不在のため、永茂らは土御門天皇のいる仙洞御所の二条東洞院殿に入り、四方の門を閉ざし、幕府追討宣旨下付を請願。土御門天皇(実は後鳥羽上皇)は勅許せず。永茂は本意を遂げぬまま仙洞御所を退去、清水坂辺りに潜伏。京都守護小山朝政が清水坂に向うが発見できず。

下旬には、これと呼応して、城資盛(永茂の兄助永の子)が、本国鳥坂城で叔母坂額(永茂の妹、資国の娘)と叛乱。

頼朝没後の御家人間の葛藤により、正治元年(1199)正月佐々木盛綱が守護を免じられ、挙兵するには絶好の機会。

「平の長茂(城の四郎と号す。越後の国の住人)、上皇の御所に参る。また京守護人左衛門の尉朝政(小山と号す)が宿所に乱入し、郎従等を殺害す。今日朝覲行幸未だ還宮せざるの間なり。院中殊に騒動す。(頭書。事の起こり、関東を追討すべきの由宣旨を申請す。然れども勅許無きの間逐電、誅せられをはんぬ。)」 (「皇帝紀抄」)。

1月25日

・式子内親王(50)没。「新古今和歌集」時代の最高の女流歌人。

「定家は養和の頃に「初参」して以来、約二十年にわたって実に頻々とこの孤独な内親王を訪問している。はじめは「薫物馨香芬馥タリ」と大変な香を漂わせてこの女性は定家を迎え、ときには筝を弾いて聞かせてくれたりしてい、その多くは単に「大炊殿ニ参ズ」という簡単な記述しか明月記にはないのであるが、たとえばその死の前年の正治二年には、ざっと私が勘定をしてみただけでも実に三十六回も訪問しているのである。つまり十日に一回ということになり、そのうちには「夜半許リニ退出ス」ということが二度もある。これでは式子内親王定家伝説なるものが生じ、謡曲『定家』などが出来て来ることも無理はないかもしれない。この内親王は定家より十歳ほど年上であり、定家には彼女の「穢ヲ忌マレズ」、「惣ジテ御祈無し」といった、陋習にこだわらない性格がいつも気になっていたようである。

四十歳代以後、人はかくの如くにして友人知己や愛した者を失って行くのである。定家の側において先に彼女を失ってはじめて伝説は成立する。式子内親王の歌を一首引用しておきたい。


ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅はわれを忘るな


源氏物語に象徴される一文化、あるいは文明の終焉を、この式子内親王の死に見ることもまた可能なのかもしれない。 」(堀田善衛『定家明月記私記』)。

「斎院うせさせ給にしまへのとし、百首の歌たてまつり給へりしに、「軒端の梅もわれをわするな」と侍しか。大炊殿の梅の、つぎのとしの春ここちよげに咲たりしに、ことし斗はとひとりごたれ侍りし。ひととせやよひの廿日ころに、御まりあそばさせ給ふとてにはかに御幸侍りしに、庭のはな跡もなきまでつもれるに、松にかかれる藤、まがきの内の山吹、心もとなげに所々さきて、みやうかうの香の華も匂ひに争ひたるさま、御持仏堂の香の香もをとらずにほひいでて、世をそむきけるすみかはかばかりにてこそはすみなさめと、心にくく見え侍き。ものふりたる軒に、忍わすれ草みどりふかくしげりて、あたらしくかざれるよりも中々にぞみえ侍し。御まりはじまりて人がちなる庭のけしきを、さこそはあれ、人かげのうちしてここかしこのたてじとみにたちわかれてのぞく人も見えず。人のするかとだにおぼえて、日のくるるほどにおくふかく鈴のこゑして、打ちならしたるかねのこゑも、心ほそくたうとかりき。いくほどのとし月もへだたらで、ぬしなきやどとみるぞかなしく、涙もとどまらずおぼゆる。

京極へあしたゆふべに参りかへれば、今は馬車よりをりなどすることもなくてすぎありき侍に、つい地のくづれより見いれはべれば、庭のよもぎは軒をあらそひ、一村すすきも所えてぞ見え侍。

ちかきほどなるに京極殿へ参りたれば、玉かがみとみがきたてらるれば、さもかはりたるものかなとおぼえ侍。」(『源家長日記』)

(『明月記』はこの年正月、二月を欠く)

1月28日

・九条兼実(48)、出家。

1月30日

・五十首を早く詠進するよう頻りに仰せあり、定家、家長に付して進上。二首題も詠進。


つづく



2023年4月25日火曜日

鎌倉 重量感溢れる 英勝寺の白藤 2023-04-25

4月25日(火)
今日は午前中晴れの予報だったので、先日見逃した「鎌倉英勝寺の白藤」の一点狙いで鎌倉に行った。期待通り、重量感溢れる最盛期の白藤を見ることができた。背景がすっきりした青空だともっと良いんだけど、ま、それは欲張り過ぎですね。
ギャラリー多く(自分もその一人)、少し人が写り込んだ。    

 









一般市議、区議当選者確定数 ; 自民(-18:前回比) 立憲(+80) 維新(+144) 公明(-28) 共産(-65) 国民(-20) れいわ(+39) 社民(-29) 参政(+80) / 東京の女性区長が倍増、過去最多の6人に 女性議員も増えて杉並区、武蔵野市は半数占める / 公明が異例の「大量落選」 東京・練馬区議選で4人、全区議選では擁立152人中8人 その理由は? / 東京21区議選の結果に自民真っ青…首都圏の議席壊滅危機で衆院解散に急ブレーキ / 保守王国・八王子で自民伸びず リベラル、革新系が躍進 市議選「旧統一教会問題 痛かった」 / 大阪府内市長選で3勝3敗の維新 吉村氏「力不足の部分あった」 / 信千世氏が当選→万歳三唱で「岸信夫当選」 世襲批判のなか誤る / 落選は0.415票差 候補「がくぜん」異議申し立てへ 中野区議選             

 

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〈藤原定家の時代341〉正治2(1200)年11月26日~12月28日 定家体調悪化続く(風病、咳病) ほぼ連日式子内親王邸を訪問 後鳥羽院水無瀬御幸に参仕 頼朝以来の有力御家人の支持を失いつつある頼家    

 


〈藤原定家の時代340〉正治2(1200)年10月26日~11月25日 頼家従三位叙任 定家正四位下叙任 「四旬ノ衰鬢、病ヒ愁ヒト許リ合フ。旦暮ニ世路ヲ営ム。弾指スベシ」 定家、連日窮屈、病身まことに以て辛苦す より続く

正治2(1200)年

11月26日

・近江国坂田郡柏原荘の地頭・柏原弥三郎、数々の非道を働いたとして追われる身になり、伊吹山に逃げ込んで山中に身を隠す。翌年佐々木信綱がこれを誅する(「吾妻鑑」)。酒呑童子の父・伊吹の弥三郎のモデルと言われる(佐竹昭広「酒呑童子異聞」)。

11月1日、近江国で勅勘を受けた柏原弥三郎為長追討の宣下が佐々木定綱・源仲章からもたらされ、幕府は4日、渋谷高重と土肥先次郎惟平(岡崎義実の猶子)を追討使として派遣を決定。しかし、高重らが到着する以前に、官軍(源仲章・佐々木定綱の軍勢か)によって柏原庄は押さえられ、水尾谷十郎が背面から攻撃を加えたため、柏原弥三郎等は姿をくらまし、ついに居所を見つけだせずに12月27日、鎌倉へ帰還。(「吾妻鏡」)。院側は兵馬の権が朝廷にあることを事実をもって示そうとした。

「佐々木左衛門の尉定綱が飛脚参着す。申して云く、柏原の彌三郎、去年三尾谷の十郎が為に襲われるの刻、逃亡するの後行方を知らざるの処、廣綱弟四郎信綱件の在所を伺い得て、今月九日にこれを誅戮すと。」 (「吾妻鏡」翌建仁元年5月17日条)。

11月28日

・内裏二首歌会

11月29日

・定家、風病を病む。翌日より咳病も起こる。

11月30日

・定家、風病、甚だ不快。日吉社に参詣。夜、通夜する。~12月7日帰京。

11月30日

・七条坊門で大火。龍寿御前宅全焼。

12月1日

・定家、咳病、極めて悩む。夜に入り宮廻り、通夜。

12月2日

・定家、咳病、殊に悩む。心神ありて亡きが如し。宮廻り出来ず、通夜するが心労極まりなし。

12月3日

・後鳥羽上皇ら、熊野参詣の途中で盛大な和歌の会を催す。

12月3日

・定家、心神いささかよろしきにより写経。宮廻りせず。

12月4日

・定家、又写経(仁王経2巻・金剛般若経)。

12月5日

・定家、写経終る。京の使の便りを聞くに式子の御足、大いに腫れると。驚き少なからず。

12月6日

・定家、小仏供養

12月7日

・定家、暁更日吉社より帰洛。

式子大事におわします由、家衡来りて告ぐ。巳の一点に式子邸参入。今日御灸あり。

「此ノ事極メテ怖レ有り。折節浅猿(おりふしあさまし)。偏ヘニ是レ天魔ノナス所ナリ。此ノ吉事、定メテ遂ゲラレ難シ。御所ノ修理掃除、御悩ノ間、始ムルコト相応セザルカ。近代ノ医家、事ニ於テ憑ムベカラズ。雅基偏ヘニ御熟ノ由ヲ申シ、冷ヤシ奉ル許リ。頼基御風脚気ノ由ヲ申ス。然レドモ用ヒラレズト云々。午ノ時許リニ御灸ヲ始メラル。但シ、更ニ熱ク思シ食サズト云々。此ノ条又恐レ有り。此ノ御辺、本ヨリ御信受無シ。惣ジテ御祈り無シ。今日、人ノ申スニ依り、形ノ如クニ御祈り等ヲ行ハル。(二位士公ノ御祭。予、咒咀ノ御祭。女房泰山府君ノ御祭ナリ。又御修法一壇ノ事、□□□申シ行フ事未定。申ノ時許リニ退去)。春宮ニ参ズ。戸部参会ス。今日七瀬ノ御祓卜云々」

12月8日

・定家、式子邸参入。実快法眼・卿二品参会。御有様大略同じ。宜秋門院仏名に参仕

12月9日

・定家、寒風術なきにより、召しありといえども参上せず、終日倒れ伏す。

酉の時許りに有家が重ねて召すの由を示す。

秉燭の後、騎馬にて、法性寺御造作の所に参ず。四首の歌を詠む。詩、良経・良輔・有家・為長・威信。歌、良経・隆信・定家・隆範・業清。六韻の詩、四句を以て、四首の歌に合わせらる。夜半許りに御供して帰り退下。

12月10日

・定家、良経の許に参向。ついで式子邸参入。御足ただ同じ事なり。夕、春宮に参ず。

夜に入りて又、式子の許に参向。

今夜、進物屋の北の方に宿し候す。光資等宿所に来る。今夜、内裏に詩歌ありと。毎事興なし、病と称して参せず。

12月11日

・定家、典薬頭頼基の許に行く。頭にシイネ(こぶ)をみつけたので診せに行った。

12月12日

・定家、今朝、頭に鹿の角をつける。これは定康の申す所による。昨日頼基は、療治に及ばずと診断した。

12月13日

・定家、式子邸に参向。昨日頼基参じたが、申す所又用いられずと。雅基大針を加える。今日は別の事なしと。退出して春宮に参ず。

12月14日

・定家、夜、式子邸参向。卿二位に謁し、やや久しく述懐。式子なお以て増気。更に以て言うに足らず。卿典侍少納言内侍を以て、伝え申さるる事あり、よってお返事を言上す。またお言葉を承り、又二条殿に参じ、これを通達して退出す。

「此ノ事、終始不吉カ。吉事ノ聞エ、折節魔性ノナス所、猶々言フニ足ラズ。傍家定メテ解口カ。哀レムベシト云々」

12月15日

・源仲国妻、後白河院託宣と称して雑言するとの噂

12月15日

・定家、式子邸参上。上下共、医師時成朝臣の帰洛を待つ。侍を稲荷に遣わし、之を待つと。卿二位と謁談。此のついでに語られていう。去る頃、仲国の妻(二品の縁者)後白河院に託して、世間の事、種々の雑言・懇望・述懐等を称す。其の事、粗々世間に風聞すと。日没以前に、時成参入、殊に申すところなしという。日来療治よろしきの由申すと。

12月18日

・定家、小浴の後、良経の許に参向。ついでに式子邸に参向。昨日と大略同じと。後鳥羽院阿彌陀講に参仕

12月19日

・定家、式子邸に参入。昨今、御有様ただ同じ事である。ただし式子の御気色、頗るよろしきに似たり。御堂例講・内裏仏名に参仕。

12月20日

・定家、良経邸参向。若君御元服なり。この間に院より御教書あり。来る23日水無瀬御幸。水干を着て供奉すべしと。承る由申す。元服の若者従五位上良平、禁色昇殿と。

12月22日

・定家、隆信来臨、明日の出立のことを問う。水干の事など多く示し合わす。申の時許リに入浴。心神頗る悩む。風邪の所為か。

12月23日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(~25日)。水干を着し、鳥羽殿に参ず。殿上人の船に乗り、水無瀬殿に着く。遊女等参じ、郢曲を歌う。奈良法師原、御前に参じて、雑遊する。退出して山崎の油売りの小屋に宿る

12月24日

・定家、又郢曲、「今夜参上セズ。推参恐レ有ルノ故ナリ」

12月25日

・定家、後鳥羽院帰洛。狩衣。路次、風猛烈、病気なす方なく、七条朱雀の辺りで車に乗る。

かくて申すの時に帰宅。更に酉の時に、束帯して仁王会につらなる。この忙しさ。

12月26日

・定家、式子邸参向。御足、大略御減の由、医家申すと。「喜悦極マリナシ」。ついで通親の影供に参入。俊成も出席。院も御幸。

12月28日

・頼家、政所に命じ諸国の田文(田地の所有や面積が記された土地台帳)を取り寄せ、御家人が武功で入手した新恩の領地について、500町を限度とせよと命令。これを越えたものは没収し、無足(土地なしの者)の者に与えるという。実際には無足の近習への給与であった。宿老たちは頼家の行為を諫めた。

政策に反対したのは、三善善信を筆頭とする京から鎌倉に下った行政官僚たち。善信が地頭に任命された備後国太田庄(広島県世羅郡)は613町あり、大江広元・中原親能も同じであった。かれら行政官僚も多くの新恩地を給与されており、所領に関していえば、有力御家人とおなじであった。頼家の政策は、対立する可能性のあった東国の御家人と行政官僚たちの利害を一致させることになった。かれらは、頼家に頼朝と同じような権限を与えることは避け、そのためには、頼家の側近勢力を除き、頼家の後見勢力・支持勢力の勢力拡大を阻止しようと動くことになる。

「金吾(頼家)、政所に仰せて諸国の田文等を召し出でさる。源性をしてこれを算勘せしむ。治承・養和以後の新恩の地、人ごとに五百町を過ぐるに於ては、その余剰を召し放ち、無足の近仕等に賜わるべきの由、日来内々に御沙汰に及び、昨日、施行せしむべきの旨、広元朝臣に仰せ下さる。已に珍事なり。人の愁い、世の謗り、何事かこれに如かん哉の趣、彼の朝臣以下の宿老ことに周章す。今日、善信の如き頻に諷詞を尽くすの間、□に以てこれを閣かる。明春、御沙汰あるべしと云々」 (「吾妻鏡」同日条)。

以後、頼家の将軍としての不適格性を物語る挿話を『吾妻鏡』の中に拾えば、ほとんどきりがない。

例えば、鶴岡の臨時祭・放生会などに参宮しなかったり、あるいは随兵もなく八葉の車に乗って出かけるという新儀で古老の眉をひそめさせたという事件など。また、頼家がことのほか好んだ狩猟と蹴鞠についてもその行き過ぎた熱中ぶりが記されている。犬を飼って、狩猟を好む側近たちに毎日交代で餌を与えさせたとか、連日、政務を拗(なげう)って御所で蹴鞠に耽ったといった類である。特に蹴鞠にまつわって、母の政子に諌められたという話が伝わっている。"

12月28日

・雪飛ぶ。定家、式子の許に参向。事の外御減の由。悦び極まりなし。


つづく

(社説)ジャニーズと「性被害」 まず事実関係を明らかに(毎日) / TBS「サンモニ」ジャニー喜多川氏の問題を放送「勇気ある告発にどう向き合うかが問われている」 / ジャニー氏・性加害、TBSも報道、メディア界に転機…だがジャニーズの報道統制は健在 (bz-Journal) / 今回、ジャニー喜多川氏の性暴行告発で、会見に来ていた記者たちは皆、報じたがっていた。潰しているのは、テレビ局の経営陣。エルピスは、まだ現在進行形で起きてる(望月衣塑子) / ジャニーズ性加害問題、週刊文春編集長が指摘する「メディアと事務所の利益共同体」(弁護士ドットコム) / ジャニー氏の「性加害」証言、沈黙してきたメディアに責任は? NHKディレクターの問いかけ(弁護士ドットコム) / 遂に共同通信が! → 元ジャニーズ「性的行為受けた」 岡本カウアンさん、会見で証言 | 2023/4/12 - 共同通信 ; ジャニー喜多川前社長から「12~16年に15~20回ほど性的被害を受けた。当時15歳の僕や、他のJr.に対して性的行為を行ったことは悪いことだと思っています」 / 岡本カウアンさんは、他に被害を受けた事例について「はっきり分かるのは僕以外に3人。正直、(喜多川前社長宅を訪れた)ほぼ全員だと思っている」と主張       



 

2023年4月24日月曜日

〈藤原定家の時代340〉正治2(1200)年10月26日~11月25日 頼家従三位叙任 定家正四位下叙任 「四旬ノ衰鬢、病ヒ愁ヒト許リ合フ。旦暮ニ世路ヲ営ム。弾指スベシ」 定家、連日窮屈、病身まことに以て辛苦す    

 


正治2(1200)年

10月26日

・頼家、従三位に叙せられ、政所を設置できる資格を得る。

「京都の使者到着す。去る月二十六日の除書を持参す。中将家左衛門の督に任じ、従三位に叙し給う。また挙し申さるる所の安達源三郎親長・山城の次郎行村等、少尉に任ずと。」 (「吾妻鏡」11月7日条)。

10月26日

・定家、正四位下に叙任。

今日、京官の除目といえども、冷然。病を扶け参院。夜沐浴、精進を始める。

「四旬ノ衰鬢、病ヒ愁ヒト許リ合フ。旦暮ニ世路ヲ営ム。弾指スベシ」

(40歳にして病身に鞭打ち、世路を営む身を、自ら弾指する)

10月27日

・定家、宜秋門院丹後より祝の消息がある。

「此ノ条、今ニ於テハ沙汰ノ限リニアラズ。又所存アリテ、本望無シ。然レドモ、内外ニ冥顕。一言ノ望ミヲ出サズシテ、朝恩ニ預カル。叡慮ノ趣、極メテ以テ忝ナシ。御好道ノ間、述懐ノ歌、猶憐愍アルカ。事ニ於テ存外。是レ又運ナリ。咳病ヲ相扶ケテ参上。大臣殿ニ見参ス」

正治2年は、百首詠進、昇殿、位階上昇と、吉事がつ続き記念すべき年だった(体調は絶不調だが)。良経の弟良輔も、従三位に叙せられた。

ついで、八条殿に参向、女房を以て申す事あり。

「寒風咳病ナス方無シ。朝恩ニアラズバ、扶ケ出デ難キ者ナリ。年来沈淪、出仕極メテ厚顔ナリ。是レ身ニ過ギタルニ依ルナリ。人ヲ恨ムベカラズ。而レドモ今忽チ望ヲ出サズシテ、一階ニ預ル。旧労空シカラズ。極メテ心忝シ。之ヲ以テ争(いかで)カ奉公ヲ励マザランヤ。中将ノ四人ハ嬰児ナリ。然レドモ皆悉ク禁色ノ人。還夕様替リタル事ナリ。尤モ以テ面目トナス。前世宿報ノ拙キナリ」

10月29日

・定家、連日窮屈、病身まことに以て辛苦す。巳の時許り、たちまち振い出す。身体冷えきって、少し発熱、発汗。夜に入って少しよくなった。忠弘を以て、明日の御幸に参向出来ぬ由、八条殿に申す。

11月1日

・定家、今日明日、事発らず。ただ咳病なお以て術なきの上、心神窮屈、なす方なし。

11月2日

・定家、心神なお悩むにより、明日の御幸、供奉出来ない旨、院蔵人の許に示す。

11月3日

・定家、病悩辛苦のため、以経・敦直等が、加階を祝うために来訪したが、逢えない。

11月7日

・定家、院より召しあり。所労日来より術なき由、康業が許に示し送る。なお扶けて参ずるようしかるべきかの由、重ねてこれを示す。よって秉燭以後、参上。

今夜、行幸。弘御所に入る。寂蓮・家隆・具親等と題を給わる。詠吟風情尽く。有家、今夜題を給わり、歌を献ず。今夜の歌、皆負ける。御製一首、師光の女(宮内卿)一首持。伊勢の女房一首。

11月8日

・定家、病気いよいよ増し、なす方なし。

通親影供歌会、題を送り責める。先日不参の意趣かの由、凶人沙汰すという。戌の刻許りに重病を扶けて、権門に向う。人々前後に群衆す。定家、勧盃すべしと。片腹痛きこと極まりなし。老若を分つ。定家は若き方に入る。40歳を以て境となすと。しかれども家隆もまた若き方に入る。若き方多く勝つ。

盧に帰るに「心中已ニ以テ、有リテ亡キガ若シ。今夜ノ歌、小侍従ニ合フ、二番勝チ、存外ノ面目ナリ」。

11月9日

・定家、良経家作文歌会。良経方にて詩歌。

11月10日

・定家、日吉社参詣、11日帰京

11月15日

・この日の五節に、通親の命によって広元が参議藤原公国の舞姫に付き従う童女を献じ、「毎事華美殊勝」との評を得た(『明月記』11月14日、15日条)。広元が童女を献じたのは、彼の娘が公国の室であった縁によると考えられる。

11月16日

・定家、院参。女房に謁し、五節の櫛少々を志す。式子邸参向。

11月17日

・定家、良経方に参向。女房に櫛少々を志す。

11月18日

・定家、日来窮屈により、嵯峨に行き保養。路次、姉竜寿御前の宅に行き、病を問う。竜寿御前は、式子内親王に仕えていた。19日帰京。

11月19日

・定家、後鳥羽院地蔵講・九条御堂例講に参仕

11月20日

・定家、伶人の中に加えられる。「面目極マリ無シ」。東宮守成親王昇殿を聴される

11月22日

・定家、院参。中嶋宮に於て家長が『正治初度百首』の歌を読み上げる。定家・寂蓮・家隆3人、聴聞すべきの仰せにて聞く。御製まことに秀歌。良経も出席。

11月23日

・定家、安楽寿院の仏事に参仕。26日にも。

11月25日

・定家、式子邸参向。

春宮に参じ、はじめて陪膳を勤める。


つづく

2023年4月23日日曜日

〈藤原定家の時代339〉正治2(1200)年10月1日~25日 定家、後鳥羽院より「所存憚リ無ク申スベン。申サズバ其ノ詮ナシ。汝ガ所有ヲ以テ聞キ召サンガタメニ、故ニ今夜召サルベキナリ。」と言われ、思う所を述べる。「老者目眩キ転心迷フ。但シ恐ルルニ依り、具サニ所存ヲ申シ了ンヌ。」

 


〈藤原定家の時代338〉正治2(1200)年9月11日~30日 定家、院の御所二条殿に招かれ歌合に出席 定家と後鳥羽院との和歌を通じての交流始まる より続く

正治2(1200)年

10月1日

・定家、兼実の許に行き、良経同座、夜前の歌合の事などを申す。歌を御覧になり、定家の歌がもっともよいと仰せられる。

式子邸に参向。春宮(順徳)を式子の御猶子にするということが決りそうな由、そのため、御所修理の事など、御不例中いかがと案ずる。

昏黒に退出の途中、六条の辻を過ぎる頃、院よりの御教書の使に行き合い、歌会あり、只今参上すべしと。馳せ向い、題を給わる。

院の仰せには、カカル所へ参入、所存憚リ無ク申スベン。申サズバ其ノ詮ナシ。汝ガ所有ヲ以テ聞キ召サンガタメニ、故ニ今夜召サルベキナリ。老者目眩キ転心迷フ。但シ恐ルルニ依り、具サニ所存ヲ申シ了ンヌ。衆議判卜雖モ大略定メ申ス。次ニ仰セニ依り詞ヲ書ク。此ノ事、凡ソ周章スルト雖モ、只勅走ニ随フノミ。次ニ作者ヲ顕シ、重ネテ之ヲ読ム。其ノ恐レ多シ。但シ御製負ケ無シ。之ヲ以テ冥加トナス。次ニ又御会アリ。題ニ云フ、社頭ノ霜。東路ノ秋月。又之ヲ承ハル。又番ヒヲ結ブ。又読ミ了ンヌ。判ノ詞ヲ書カズ。御製負ケ無シ。悦ビトナス。暫クシテ入リオハシマシ、即チ退出ス。今夜ノ儀、極メテ以テ面目タリ。存ズル外ノ忝ナキナリ」

定家は「目眩み心転迷(まろ)んだが、思う所を具さに申し上げた」と記す。内容については記されていないが、院が次に目指す仕事 - 勅撰集の編纂のことなども話題になったのではなかろうか。

10月2日

・定家、命により公経邸に向かい、歌のことを示し合わす。

八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕。風病連夜更に発り、為す方なし。よって沐浴。

10月3日

・定家、良輔家作文

10月4日

・定家、御堂幷に南殿に参ず。また院に参上。家長を以て、しばらく伺候すべき由、仰せられる。十首の歌合(『仙洞十人歌合』)、俊成の許に持参するよう仰せられる。但し夜になったので、明日早朝参ずべき由仰せあり。

10月5日

・定家、院参。数刻伺候する。

申始許りに、大蔵卿を以て歌合一巻を給う。俊成の許に持参、仰せの旨を申す。

10月7日

・未刻に家司文義、為家を相具して来る。袴を着せて相乗りて御所に参ず。慈円同座あり。慈円の簾中に召し入れ、手本一巻を賜って退下。

又僧都の宿所に向い、同じく手本を賜る。御堂に参じ、御覧じて退下。この日の為家は衣装は、裏まさり蘇芳の織物、狩衣、黄青き裏表、濃き蘇芳の単衣、紫織物の指貫、濃き下袴という、幼童にふさわしい優美なものだった。吉富庄の下司男が、鶴の駿馬一匹を献ずる。

10月9日

・定家、春日殿の院に参ずると、歌合急ぎ献ずべきの由、俊成に申すべしとの事であった。俊成、歌合に加判して院に献ず

10月10日

・頼家、貢金500両、馬20頭を京都に送る。

10月10日

・定家、膝股大いに痛み、歩行困難、しかし車に扶けられて乗り参内。戌の時許りに院より五首の題を給う。召しあり、病を扶けて、騎馬で馳せ参ず。中島・神前にて歌の披講あり。定家・寂蓮・具親等参上。定家と寂蓮が定め申す。「恐レ極マリ無シ」。御製・慈円・家隆等であった。帰宅して、病気甚だ悩む。

10月11日

・園田成家、大番役で上洛した際、法然上人に帰依して出家。

10月11日

・定家、膝股激痛にて歩行苦痛。兄成家と共に藤原定能の堂供養に参列

10月12日

・源道親家影供歌合、定家、再三招きがあったが病のため不参加、歌を送る。病悩真実不快。俊成は出席、勧盃を勤める。

10月13日

・定家、病気いよいよ重し。夜前、院密々通親の影供所に御幸と。当座の歌合あり、通親の催しにより、俊成が影前の勘杯と。後に兵衛大夫家長が消息して、夜前の定家の初冬の歌、殊に院の叡感あり、其の場では負と定められたのを、召し寄せて勝に定められたという。

「存外ノ面目ナリ。但シ狂歌ナリ。慮ハザルモ御感、冥加卜謂フベシ。」

このごろの冬の日かずの春ならば谷のゆきげにうぐひすの声

「此ノ歌頗ル時儀ニ叶フベキノ由、内心ニ之ヲ存ズ。果シテ以テ此ノ如シ。自愛スル者ナリ」

歌の評価が後鳥羽院と一致した。しかもこれは自信作だった。

10月14日

・定家、咳病殊に甚だし。夜に入って、静快阿闇梨の愛童で、定家も時々召入れて使う、黄金丸を元服させる。美童らしい。

10月15日

・定家、咳病、猶術なし。

吉富庄の下司俊康、葦毛の馬一匹を進む。異様のものだったが受ける。

10月16日

・定家、咳病、心神甚だ悩む。

良経、内々の仰せ、成家朝臣(定家兄)、新女院に昇殿、もしくはその心あるかと。その趣を俊成に申すと、もっとも本意という、その旨良経に申す。

10月17日

・定家、心神なお辛苦極まりないが、後鳥羽院の殷富門院の御堂供養供奉のため、手足ばかりを洗い、束帯して参院する。守覚法親王も参入。

10月18日

・定家、良経邸に参ずると、銀花(優曇華)が開き、その事によって物忌と。定家は不吉、もっとも御慎みあるべきことにて、他所に渡られるのがよろしかろうと申上げる。去る夏の頃にもこの事があった。

10月19日

・定家、宜秋門院殿上始に参仕

10月20日

・定家、日吉社に参詣

10月22日

・定家、式子邸に参向。

10月24日

・定家、病気殊に不快なれど、相扶け院参。退出して、式子の許に参入。

咳病殊更に発る。終夜なす方なし。これ以降11月中旬まで体調不良。

10月25日

・定家、病悩殊に辛苦。冴寒を快くするために沐浴して籠居。


つづく


2023年4月22日土曜日

〈藤原定家の時代338〉正治2(1200)年9月11日~30日 定家、院の御所二条殿に招かれ歌合に出席 定家と後鳥羽院との和歌を通じての交流始まる

 


〈藤原定家の時代337〉正治2(1200)年8月23日~9月10日 定家、父俊成・兼実・良経の下見のあと「正治初度百首」を後鳥羽院に提出 翌日、内昇殿を許される より続く

正治2(1200)年

9月11日

・後鳥羽院の第四皇子雅成親王、誕生。母は重子。

9月11日

・定家、故良経室月忌仏事に参仕。13日の御月忌、日次宜しからず、今日御仏事を修される。良経の許に参じ、御墓所に車で御供する。院で誰か女房の御産が有った由。勿論、後鳥羽院の御子である

又丹後の歌を見る。三度も見たところをみると、良経と、定家が添削したか。

健御前を坊門の宅に送る。日吉参詣の精進をはじめるので、世間を忌むためである。

御墓所に参じようとすると、途中で還御の良経に逢い、御供して法性寺に行く。御仏事あり。終って御前に参ずる。歌の沙汰などあるの間、慈円の消息あり。七仏薬師、日中の時御加持の間、無事皇子誕生とのこと。深更に退下。

9月12日

・定家、十首歌の詠進を命じられる。

9月13日

・定家、『仙洞住人歌合』のための十首を披露。披講は23日以降。式子邸に参向。

9月14日

・定家、道誉より歌を求められる。

9月16日

・定家、御堂の懺法に参仕

9月17日

・定家、式子邸に参向。今日、良経、御心地殊にむつかしくおわしますと。日来、御灸のただれある由。しかも御足の腫れ、事の外に痛み給うと。

9月19日

・定家、良輔家作文。御堂の例講に参仕

9月20日

・定家、良経邸南殿に参上。女房の言によれば、昨夜、今朝殊にむつかしくおわしますと。為家を相具して、東殿に参じて退下。又良経より召しによって、申の時許りに参ずるの間、慈円御堂にあり、隆信も参会。

亥の時許りに、頭弁・隆雅・忠行朝臣等と相共に和歌を講ず。今夜、殊に人なし。北面の者等、わずかに両三名。例に似ぬ事である。公卿歌を送る。只一人なり(経家)。披講終って連歌(五色を賦す)。百句了りて退出。「狂事数奇なり」。夜明けに家に帰る。

9月21日

・定家、南殿に参向。良経の百首の歌を給わり、俊成の許に持参する。日没、西六角に俊成がいるので赴く。能州来りて合す。良経の百首歌の事を委しく申す。

9月22日

・定家、小阿射賀荘の厨官等、例の地頭、昨日上洛したので、文義を以てこれを召し問う。

9月23日

・定家、良輔家作文。式子訪問。

9月26日

・定家、十首の歌を後鳥羽の命により院に参り付け進める。式子邸に参向。

9月27日

・良経、今日歌を院に詠進する。

百首の清書、色紙は、打ったものであるが、わざとうちたると見えぬほどに、打ちやわらげた黄色の紙である。仰せにより、一反これを見る。僻言(ひがごと)なし。「しろたえ」とあるを「しろたへ」とやいう由申す。これを巻く。今一枚、礼紙を巻いて、その上に同じ色紙を細く切り、封じて墨を引いて、檀紙につつみ、立文のようにて、「シリガシラ」はひねらずに押し折りて、一つつみ。

十首は、普通の「タケタカ檀紙」に清書。叉檀紙に懸紙を切って封し、二枚をもって百首の如くつつむ。兼実に見せて後、兼時をもって、院に奉られる卿典侍に付けられる。十首は長房に付けられる。各々題を献ぜられた。

詠進の書式がよくわかる記録である。

定家、良経詠進の百首、十種を見る。

9月28日

・定家、歌合をするということで頭中将源通具の歌一巻に判をして、注を付けて返す。その歌も七つともよろし。その室俊成卿女が詠んだのであろう。

9月30日

・この日、定家、院の御所二条殿に招かれ歌合(『院当座歌合』判者俊成)に出席。俊成も参向。鴨長明も参着。二条院讃岐に迎えの車を給う。俊成仰せによりて題を献ず。定家、歌を書く。作者を付け持参する。良経が読み上げ、終って退下する。

定家と後鳥羽院との和歌を通じての交流始まる

「今夜ノ歌、荒無ノ上、評定等区々ナリ。二首負ケ、一首持。旁々以テ恐レ恥ヂ了ンヌ。但シ、歌ハ遺恨ニアラズ。予、賛詞ヲ加へズ。人又挙ゲズ。御製伺ヒ知ラザルノ間、歌毎ニ怖畏ス。毎事ニ還リテ興無キモノナリ。即チ鶏鳴ニ退出ス。」


つづく


2023年4月21日金曜日

総務省幹部が異例の異動 ぐらつく放送法解釈、ぬぐえぬ干渉の余地(朝日); 「政府が自らの保身のために官僚組織を破壊し続けている。これで「逃げ切り」にしてしまっていいのか? メディアも当事者なら、何故もっと戦わないのか?(平野啓一郎)」    

 

安すぎる「日本の初任給」最低賃金のたった1.31倍 大幅に引き上げて「若い人の夢」を取り戻そう! (デービッド・アトキンソン  東洋経済)

 

〈藤原定家の時代337〉正治2(1200)年8月23日~9月10日 定家、父俊成・兼実・良経の下見のあと「正治初度百首」を後鳥羽院に提出 翌日、内昇殿を許される 

 


〈藤原定家の時代336〉正治2(1200)年8月1日~19日 定家、父俊成の訴えにより後鳥羽院百首(『正治初度百首』)の歌人に選ばれる 「二世ノ願望、已ニ満ツ」 大雨 「八月九日。去ル夜、今日、雨沃グガ如シ。聊カノ隙無シ。河水大イニ溢ル。田畝、又水底トナルト云々。、、、終日終夜、湿損スルカ。堪へ難シ。諸方、已ニ水損ノ聞エアリ。毎年旱水。貧人奈何。誠ニ哀氏ムベシ。」 より続く

正治2(1200)年

8月23日

・定家(39)、百首を明日提出するよう下命があり、「卒爾周章」と急なことであわてる。20首ばかり足らないが、父俊成に下見を請う。難はないから「早ク案ジ出シテ、進ズベキナリ」と言われる。

8月24日

・定家(39)、「和歌周章(あわて)テ構ヘ出シ」、兼実・良経に百首の下見を請う。二条院讃岐の百首を見る。

8月25日

・定家、再度、兼実・良経に百首を見せて、「猶、三首許リ甘心(こころよか)ラザルノ由、仰セラル。案ズト雖モ出デ来ズ。又、一二首許リ之ヲ書キ」、やっと「正治初度百首」を後鳥羽院に提出。

定家は生涯で二度父の助けを借りて大事な場面を切り抜けている。一度目が、若い時分に起こした宮中での暴行事件、二度目がこの『正治初度百首』である。この時父の推挙がなければ、その後における歌人としての歩みは大きく変わっていたに違いない。

こうして作った百首歌を8月25日に上皇に進めたが、その一首に次の歌が見える。

君が代にかすみをわけしあしたづのさらに沢べの音をや鳴くべき

後鳥羽天皇の御代に殿上人として交わった私(あしたづ)が、今の土御門天皇の御代になって地下として嘆いたままになるのでしょうか、という内容である。かつて殿上人を解かれた時に父俊成がとりなしてくれた「あしたづの雲路まよひし」の歌を念頭において作ったものである。

定家の歌は上皇に認められ、翌日には内の昇殿も許される。

8月26日

・定家、百首の「地下述懐」に憐憫あって内昇殿が認められる。

昨夜の歌の中に地下述懐の歌(自身の不満を詠んだ歌)があり、院が憐愍の情を持たれたからであろうとし、「今百首を詠進してただちに(昇殿のことを)仰せられたのは、道のため面目幽玄である。後代の美談ともなる」と『明月記』に記す。

「頭弁(資実)、書状ヲ送リテ云フ。内ノ昇殿ノ事、只今仰セ下ス所ナリトイヘリ。此ノ事、凡ソ存外。日来更ニ申シ入レズ。大イニ驚奇ス。夜部(よべ)ノ歌ノ中ニ、地下ノ述懐アリ。忽チニ憐愍(れんびん)アルカ。昇殿ニ於テハ、更ニ驚クベキニアラズ。又懇望ニアラズ。今百首詠進、即チ仰セラルルノ条、道ノタメ面目幽玄ナリ。後代ノ美談タルナリ。自愛極マリナシ。」

8月27日

・定家、故良経室の仏事に参仕。29日も。

8月28日

・定家、今度の百首が叡慮に叶う旨、方々より仄聞する。式子邸に参向。

「今度ノ歌、殊ニ叡慮ニ叶フノ由、方々ヨリ之ヲ聞ク。道ノ面目、本意何事カ之ニ過ギンヤ。」

8月30日

・定家、法性寺殿に参ずると、良経は御墓所というので、追ってそこへ参向。瞼岨を攀じる。しばらくして、山の峯の方を御覧ず。人々騎馬にて参ず。定家の馬、深泥に陥ちて湿損する。兼時、信光等と歩行し、最勝光院に入る

9月2日

・頼家、小壺の海辺を見て廻り、恒例の笠懸のあと、海上に船を出し酒宴。灯ともし頃、鎌倉に帰る。(吾妻鏡)

9月2日

・定家、はじめて昇殿。この日、良輔家作文。兼実の命により粟田口で兼雅の仏事に参仕。

「野剣ヲ帯シ、笏ヲ取り、相向ヒテ還タ昇ル。又還リ来リテ舞踏ス。剣笏ヲ撤シテ昇殿シ、殿上ニ着ク。 - 入道殿ニ参ジ、申シ承リ、午終許リニ退出シ、粟田口ニ向フ」

9月5日

・定家、式子内親王と良経の百首を見る。いずれも、「神妙」「殊勝不可思議」の出来映えと感歎する。定家は自負の強い人であるが、この二人の天才には及ばぬと思っていた。

姉の延寿御前が、女の子を連れて、健御前を訪問する。延寿御前は、同腹の八条院中納言で、民部大輔頼房の妻となり女子を生んでいる。

「九月五日。天晴陰。夜ニ入り、暴風雷雨。巳ノ時、大臣殿ニ参ズ。 - 又退出シテ大炊殿ニ参ズ。御歌ヲ給ハリテ之ヲ見ル。皆以テ神妙ナリ。秉燭ノ程、盧ニ帰リ、又大臣殿ニ参ズ′。又御歌ヲ見ル。殊勝不可思議ナリ。深更ニ退下スルノ後、大雨雷鳴アリ。今日、延寿御前渡ラル(女子ヲ相具セラル)。健御前ニ謁シ、帰ラル。」

9月8日

・定家、隆信と和歌について談ず。後鳥羽院は、定家の詠歌に深く感動されたと語る。異父兄の隆信一家とは、終生親交があった。

「九月八日。天晴。 - 夜ニ入り、隆信朝臣来談セラル。和歌ノ事ナリ。歌、猶以テ殊ニ御感アリト云々。面目卜謂フベシ」

9月9日

・定家、宜秋門院丹後の百首を見て、良経に感想を述べる。丹後も讃岐と同じ旧風である。

式子又重悩、鼻水が出て重悩、両3日発熱という。

この日、定家、法輪寺に参詣、同日帰京。

「九月九日。天晴。 - 丹後ノ歌ヲ給ハリテ見ル。南面ニ召シ入レラル。仰セヲ承り、所存ヲ申シテ退下ス。大炊殿、昨日ヨリ殊ニ重ク悩マセオハシマスト云々。去ル二日ヨリ御鼻垂レ、此ノ両三日、温気卜云々。」

10日、良経の前で丹後の百首を評定。


つづく


2023年4月20日木曜日

鎌倉青モミジ散歩 寿福寺 海蔵寺(ヒメウツギ、オダマキ、八重ヤマブキ、セッコク) 亀ヶ谷坂 浄智寺 2023-04-20

 4月20日(木)晴れ

今日は暖かいというよりは暑い一日だった。30℃近くあった地方もあったようだ。七分袖のシャツでいいくらいだった。

今日は鎌倉駅から北鎌倉駅まで、青モミジを観ながらの散歩。ルートは、寿福寺~海蔵寺(残念ながら、今日は英勝寺は拝観お休み)~亀ヶ谷坂経由~浄智寺(拝観せず)のルート。総歩数は1万3千歩。

▼寿福寺

ラッキーにも参道には人がいなかった。



▼海蔵寺までのアプローチ(民家の間の公道)

▼海蔵寺


▼ヒメウツギ

▼まさかリンドウ? と思ったけど、オダマキの様です。
かなり遠くに小さく咲いていたので、私のカメラではボケボケ。

▼八重ヤマブキ

▼セッコク(モミジの木に寄生している)


▼亀ヶ谷坂

▼浄智寺
サクラソウ、まだ咲いているのか見たかったけど、時間の関係で拝観はスキップした


▼路傍で見かけたセッコク(こんな形の寄生もあるんですね)

これからも「ポチ」で宜しくね~と、コストゼロのアメリカの戦略 → 岸田首相の妻、全額公費で米国へ単独訪問 長男も秘書官に…「もはや私物化が当たり前に」(東京); ◆「首相の公務の遂行を補助」する「私人」 ◆私人の単独外交、問題が起きたら? / 岸田首相夫人の単独訪米、その後に求めたい2つのこと……準公人として外交を担ったのだから、その成果を国民に説明する必要がある(冷泉彰彦)     

防衛費増額の「財源確保法案」は赤字国債増発を見えにくくする“トリック” (野口悠紀雄);「国会で審議が始まった「財源確保法案」など、防衛関係費増額の財源 としていま検討されているのは、歳出削減や増税ではなく、「防衛力強化資金」と「決算剰余金の活用」だ。いずれも実質的には 赤字国債で防衛費を賄うことを分かりにくくするだけのトリック だ。」   

〈藤原定家の時代336〉正治2(1200)年8月1日~19日 定家、父俊成の訴えにより後鳥羽院百首(『正治初度百首』)の歌人に選ばれる 「二世ノ願望、已ニ満ツ」 大雨 「八月九日。去ル夜、今日、雨沃グガ如シ。聊カノ隙無シ。河水大イニ溢ル。田畝、又水底トナルト云々。、、、終日終夜、湿損スルカ。堪へ難シ。諸方、已ニ水損ノ聞エアリ。毎年旱水。貧人奈何。誠ニ哀氏ムベシ。」    

 


〈藤原定家の時代335〉正治2(1200)年7月15日~29日 定家、後鳥羽上皇が企画した『正治初度百首』作者に漏れる 就業に出る慈円について良経も出奔を企てる 定家の心神不快続く 「暁以後、腹病忽チ発ル。苦痛為方無シ。痢、数度ニ及ブ。又心身甚ダ悩ム。頭病ミ。手足傷ム。、、、心中殊ニ違乱ス。」 より続く

正治2(1200)年

8月1日

「羽林比企新判官能員が家に入御すと。」(「吾妻鏡」同日条)、

8月1日

・定家(39)、騎馬で北野に参詣、「別ニ祈請シ申ス事アリ。」(後鳥羽院百首のこと)

この日夜半、家司の「忠弘ノ宅ニ群盗入リ、払底シテ雑物ヲ取ル。僅ニ存命ト云々。」(信乃小路高倉近辺)

8月2日

・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事の参仕

8月3日

・定家、兼実不予を聞き、驚いて参上。御脚腫れ、夜前悩まれた由。歩行困難と。宜秋門院もまた、御風邪の疑いあり、顔に湿疹あり、医家を召す。御中風の気あるの由にて、桑を焼き宛てるという。

8月4日

・源通親の妻範子(中宮在子の母、元能円の妻)、没。

以降は、その妹兼子(けんし)が「卿二位(きょうのにい)」と呼ばれ、後鳥羽院のそばで権勢をふるう。

8月4日

・定家(39)、法性寺に参向。良経は御墓所の由にて、有家としばらく談話するの間、帰られ、来る18日、一品経を修するから、定家もその人数に入るよう仰せられる。

河内護良の庄に、斎宮用度の木柴(薪)があてられていたが不納の由にて、その沙汰をする。更に、三崎の地頭横暴について鎌倉へ折紙(略式の申請)を良経に託さねばならない。この日は良輔家作文。又良輔方に参ずる。深更に及び、俄に良輔、宜秋門院台盤所の辺りにて詩会あり。只二人であった。『万寿元年高陽院行幸和歌』を書写する。

8月8日

・定家の家の西の方、湯殿の辺りが壊れた。いささか雨中に於いて引き直し、竹の柱を抜き、木の柱を立てる。この事、西の方は王相の方であるゆえ、これを思い出し、定平(陰陽師か)に尋ねて、本の如くに竹をさし入れる。この日籠居。

「終夜、雨注グガ如シ。又洪水カ。」(『明月記』)

8月9日

・藤原定家、父俊成の訴えにより後鳥羽の百首歌の歌人に選ばれる。

作者が老者のみに変更されたと聞いた俊成は、かたくるしい漢文を避け、和語で記した「和字(仮名)奏状」を院に送り、その措置の不当を訴えた。この奏状は六条藤家を批判する一方、定家や家隆らの優秀さを称揚するなど、かなり激しい内容のものであった。後鳥羽院の歌の師としての87歳の老俊成にしてはじめて許されるもの。

「尚歯会と申す事をこそ、年老いたるものばかりは仕る事にて候へ、百首にはしだいさらに候はぬ事候」、百首先例にはろうじんばかりということはないことを述べ、六条家の暗躍、謀略を猛烈に攻撃した。

これを受け取った院は即座にその申し入れに従い、定家・家隆・隆信らに題を賜っている。そこで定家は、院が「親疎を論ぜず、道理を申された」ことを高く評価するとともに、「二世の願望すでに満つ」と喜ぶ。

こうして撰ばれた作者は院を含めて23人。各人がそれぞれ百首を提出することになる。

六条藤家から正三位季経・正三位経家、御子左家とその門下から沙弥釈阿(俊成入道)・沙弥寂蓮・散位正四位下藤原隆信・従四位上藤原定家・上総介藤原家隆。但し、この後の歌合には六条家の季経・経家はお召しがなくなる。   

「八月九日。去ル夜、今日、雨沃(そそ)グガ如シ。聊カノ隙無シ。河水大イニ溢ル。田畝、又水底トナルト云々。早旦、相公羽林(公経)、夜前百首ノ作者ニ仰セ下サルルノ由、其ノ告ゲ有リ。午ノ時許リ、長房朝臣奉書到来ス。請文(うけぶみ)ヲ進ジ了ンヌ。今度加へラルルノ条、誠ニ以テ抃悦(べんえつ)。今ニ於テハ渋ルベカラズト雖モ、是レ偏ヘニ凶人ノ構フルナリ。二世ノ願望、已ニ満ツ。巳ノ時許リニ、女方三条坊門ニ向フ。昨日ヨリ懺法卜云々。予写経二依り出デズ。夜ニ入り、雨ヲ凌ギテ御堂ニ参ズ。中将殿ニ謁シ奉リテ退下ス。御匣殿ノ料卜称シテ車ヲ召サル。終日終夜、湿損スルカ。堪へ難シ。諸方(荘園)、已ニ水損ノ聞エアリ。毎年旱水。貧人奈何(いかん)。誠ニ哀氏ムベシ。

(朝早く「相公羽林」公経から作者に選ばれたという知らせがあり、次いで、藤原長房の奉ずる院宣が到来した。それに了承する旨の請文を提出するとともに、俊成・定家二世の願望が満たされた)

8月10日

・定家、父俊成の奏状のことを知り、家隆・隆房との3人の若手が入ったことを知る。21歳の上皇が、「親疎ヲ論ゼズ、道理ヲ申サルト云々。」

為家が痢病を病む

8月13日

・定家、北野社に参詣、『正治初度百首』作者に選ばれたことをうけ、自歌一巻を奉納。心中の祈願満額の御礼である。大雨の中、式子訪問。百首詠の悦びの為か。

8月14日

・定家、法輪寺に参詣、同日帰京。

8月15日

・定家、成菩提院の仏事に参仕。宜秋門院丹後も、百首の題を賜った。この人は、定家・良経の新風から見れば古風を歌人である。

8月16日

・良経、輿にて嵯峨に行く。定家、騎馬にて供奉。法輪寺・釈迦堂に灯明を供して後、思いがけず御輿を定家の山荘に昇き入れられて、内を御覧になり、景勝の地なりと仰せられる。定家は不意のことにて、面目でもあり、恥ずかしく思う。良通の御墓所に行く。定家は山荘にて沐浴。国行・信光も入浴す。しかし不意のことゆえ備えなく食膳は出さない。昏になって帰洛された。

「八月十六日。天陰。雨聊カ灑グ。夜ニ人リテ晴。鶏鳴ノ程、御堂ニ参上ス。程無ク御輿出デオハシマス。予・資実・国行・信光、騎馬シテ供奉ス(布衣打梨)。七条大宮・四条大路ヲ経。西京ノ田中ヨリ広隆寺ノ西ノ門前ニ出デ、大井河ニ出ヅ。御船無ク、渡ランメ給ハズ。信光ヲ以テ小舟乗セ、灯明ヲ供セラル(法輪寺)。即チ嵯峨ノ釈迦堂ニ参ゼシム。又大門ニ於テ御輿ヲ居(す)ウ。予ヲ以テ灯明ヲ供セラル。即チ還リオハシマス。御輿ヲ中院ノ草庵ニ昇キ入レラル。面目恥辱計リ会フ。蔀ヲ上ゲシメ、内ヲ御覧ジ、勝地ノ由、仰セラル。即チ、故大臣殿ノ御墓所ニオハシマス。大原ノ尼公、此ノ所ニ参ゼザルト云々。入リオハシマスノ後、各々退下ス。予、私盧ニ入リテ沐浴ス。国行・信光来タリ、同ジク浴ス。但シ食無シ。未ノ時許リニ帰参ス。少将相共ニ遊行ス。昏ニ臨ミテ還リオハシマス。穀倉院ノ辺リニ於テ(路、此度、大内ノ西南ヲ経。普通ノ如シ)。日入ル。七条壬生ノ辺りニ於テ秉燭。入リオハシマシ了リテ退下ス」

8月18日

・定家、故良経室五七日仏事、一品経・捧物を送る。

8月19日

・定家、「詠歌ニ辛苦シ、門ヲ出デズ。」


つづく