2024年5月21日火曜日

岸田首相、政活費の領収書公開に否定的 個人のプライバシーなど理由(産経) / “領収書必要なし”自民の政治改革案に…【グッド!モーニング】(2024年5月21日) 街の声 『あきれてものも言えない』 『普通の企業ならお金使ったら経費とかも全部出す』 『めんどくさいんだったら政治家なんてやめてしまえ』 『やましくないなら領収書出せ』 『世の中に使うというより身内に使ってるんじゃないか?それを公表しないこともできる。』 / 懲りない自民党「政活費+機密費」で年間30億円の裏金温存 規正法改正でも目に余る往生際の悪さ(日刊ゲンダイ)   

東京五輪はレガシーどころか「負のイメージ」 小池百合子氏は自賛するが都民の負担まだ続く〈検証小池都政〉(東京) / 小池百合子知事の「決断」に振り回される区市町村「我々は下請けじゃない」 スピード感の裏で〈検証小池都政〉(東京)   

 

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「海外のカジノ業者の利益になるだけ」 世界的建築家・山本理顕が明かした「大阪万博批判発言」の真意 「安藤忠雄さんは逃げてはいけない」(デイリー新潮)

伊沢拓司氏 「成人一人1票という我々が勝ち得た選挙の権利が、子供がいるかどうかで歪められてしまう、しかも子供がいるかどうかは若者とイコールじゃないですから、そういったところも含めて『手段のために原則を変えてしまうというのは順序が間違ってる話だな』と思うんです、そもそもこれが『パフォーマンスとして成立してしまう』と思われてる状況が、ちょっと辛いですね、これで人の心を変えるという風に政治家に思われてしまっているのは、いささか『政治リテラシーの低下』と言わざるを得ないところがあって、僕はちょっと残念でしたね…手段と目的が違ってる…」  

大杉栄とその時代年表(137) 1895(明治28)年2月1日~4日 孫文、広州で興中会設立 日本軍、威海衛占領 後備歩兵独立第19大隊本部のある羅州で東学農民軍大量処刑 苛烈な弾圧を命じられた討伐隊下士官・兵士の自殺・逃亡・発狂 

 

甲午農民戦争

大杉栄とその時代年表(136) 1895(明治28)年1月21日~31日 伊藤野枝生まれる 陸奥外相、御前会議に「講和予定条件」提出、承認される 威海衛南岸の清軍壊滅 一葉「たけくらべ」(1~3)『文学界』第25号掲載(1年間) より続く

1895(明治28)年

2月

孫文、広州で興中会設立

2月

西園寺公望、「脚本改良の集談会」主催。演劇改良論議

2月

「青年文」創刊。

2月

川上眉山「書記官」

2月

広津柳浪「変自伝」

2月

平安神宮竣工。明治26年11月着工

2月

アンリ・マチス(26)、再びエコール・デ・ボザールを受験、合格。

3月、正式にモロー教室に入り、H.マンギャンらと知り合う。隣人の画家エミール・ヴェリと共に屋外で描くようになる。

2月1日

日清両国全権、広島で会商。

翌日、伊藤首相が清国全権の委任状が不備と指摘し、決裂。

12日、清国全権、長崎より帰国。

2月1日

京都電気鉄道、日本で最初の電車を京都の塩小路~伏見間で開通(後の京都市電)。モーターは25馬力1台だけのため速度が遅く、電車が通ることを警告するために電車の前を走る少年(先走り)を配置。

2月1日

雨天。一葉、村上浪六を訪ねる。世間では武骨な荒くれ男と噂するが、情に篤く、今度結婚する相手は吉原遊郭の縁でそこから出してやるためだという。

文学論;

「源氏物語」は立派な作品だが、紫式部も自分と同じ女性であり、あれを超える作品が出ないのは、描こうとする者がなかったからだ。古いものに囚われず、現代に即した書き方をすべきである。

人生論;

世に英雄豪傑というのは大袈裟で、隠れた偉人も多くいる。天地はすべて平等で、人間が勝手に身分というものを作り出したのであり、娼婦を卑しいとし、紳士がこれを踏み躙るのは許されることではない、など。

2月1日

ロシア、極東問題に関する第2回特別会議。日本の旅順・大連割譲要求への対応協議。

2~3月、露英仏3国間で協調して「朝鮮の独立とその領土保全」を要求すると結論。

7日「タイムズ」がこれをスクープ、3国は中国の寸土も日本の領土とすることを許さないであろうと伝える。陸奥外相は各国公使にその真偽調査を電訓。

2月1日

米、映画監督フォード、誕生。

2月2日

「東徒討伐の報告」(『日本』2月2日付)

朝鮮南部の全羅道や慶尚道ではなく,北部の黄海道地方の殲滅作戦の報道。平壌作戦以降設置されていた兵站司令部の漁隠洞から西南8里(約32キロ) の「セウタク」というところで,1月20日東学500名が山中少尉の部隊と戦闘し,「苦戦一時間余にして賊一名を傷け撃攘」したという。戦利品は「銃五十挺,鎗五本,旗三旈其の他書類」であり,銃の多さなど南部の東学より重装備なのは清国軍の敗走と関連しているかもしれない。

近くの殷栗では「東党の主領株四名」の捕縛と共に,「火薬五百二十斤,銃二百五十挺及び鎗刀書類等」を分捕った。この銃の多さと火薬の多さ(312キログラム) も,東学の侮れない武装力を示している。

そこで兵站司令部は,銀波は朝鮮兵部隊,山中部隊に漁隠洞守備隊から抽出した2個分隊を加えて,松禾から長淵に向かわせ,中山部隊は海州から長淵に向かわせ,挟撃して殲滅作戦を行う指示を出した。『東朝』は,同内容の記事を2月1日付に「黄海道東徒の形勢」として掲載していて,地名の「セウタク」には「松禾(ショウクワ)」をあてている。

2月3日

威海衛占領

第2軍第2師団歩兵第4連隊第2大隊と第16連隊第2大隊、威海衛を偵察に出て、前夜中に清軍撤退を知る。午前9時30分頃、入城。10時30分頃、前衛前兵も入城。北岸の砲台を占領。

2月3日

一葉が、野々宮菊子に依頼していた10円の借金に対し、8円が送られる。また、菊子より紀元節に学校で行われる式典で読む祝文及び9日に行われる教育会で発表する生徒の誡告文の添削を求められる。

2月4日

後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊(「従軍日誌」筆者)は、東学党討伐大隊の本部が置かれていた羅州(ナジュ)へ,討伐をほぼ終結して2月4日に入る。大隊本部が1ヶ月置かれており,東学農民軍に対する処刑が行われていた。


「南門より四丁計り去る所に小き山有,人骸累重,実に山を為せり。是は前日,長興府の戦後,捜索厳しき故,東徒居所に困難し,追日我家毎に帰らんとせしを,彼の民兵,或は我が隊兵に捕獲せられ,責問の上,重罪人を殺し,日々拾二名以上,百三名に登り,依てこの所に屍を棄てし者,六百八十名に達せり。近方,嗅気強く,土地は白銀の如く,人油結氷せり。如斯死体を見しは,戦争中にも無き次第なり。この東学党の屍は,犬鳥の喰所となれり。」(「従軍日誌」)


(羅州城の南門から4丁ばかりのところに、小さな山(「人骸累重」)があった。戦いの後,日本軍は,朝鮮の民兵や日本軍自身によって、ひそかに家へ戻ってかくれようとする農民軍を探して捕らえ,「責問の上,重罪人を殺し」た。処刑は,毎日,少ない時は12名,多い時は103名にのぼった。死体は,680名になった。)


南大隊長の井上馨公使への報告では,羅州での処刑は,230名と記されていたが,「従軍日誌」では,その三倍の700名にちかかった。


〈大本営の「ことごとく殺戮命令」が兵士たちにもたらしたもの〉

●自殺

日清戦争で,朝鮮において,後備兵たちは東学農民軍討伐というもっとも凄惨な戦いの最前線に立たされた。第2次東学農民戦争は,日清戦争のなかで最大の朝鮮農民の犠牲者を出した。

朝鮮農民の戦死者は,3万名を越えるのは確実で,5万名に迫ると推計されている。14.9ミリの大口径ライフルのスナイドル銃と,徴兵制で訓練された日本兵士は,東学農民軍に対して凄惨な,苛酷な討伐を展開した。下士官たちは,東学農民軍を前世紀の粗末な武器をもつ未開の弱兵,「暴民」と呼んだ。「百発百中,実に愉快」と言い切っていた。

朝鮮兵站線守備隊で,東学農民軍討伐の最前線に常に居た二人の指揮官が,帰国を前に,朝鮮で自殺した。一人は,可興の司令官,後備第10聯隊第1大隊第1中隊の大尉福富孝元である。釜山の後備第10聯隊の陣営で,1895年4月28日午後,軍刀をもって頸動脈二ヶ所を切り,自決した。発見後,一時,5月2日「精神元に復し」たが,同月13日亡くなった。高知市出身で,つねに東学農民軍討伐の最前線にいた人物である。

もう一人は,釜山の小隊長,後備第10聯隊第1大隊第3中隊中尉,遠田喜代で,朝鮮南海岸の凄惨な討伐戦の指揮官であった。帰国を前に,1895年10月2日,地理実査に出て行方不明になり,捜索の末,6日深夜,蔚山(ウルサン)街道で自害しているのが発見された。松山市出身。妻と2人の子供がいた。

●逃亡

後備第10聯隊第1大隊,兵站線守備隊の「陣中日誌」(1894年10月19日)


第四中隊より逃亡兵護送として広島に派遣せり。

(第4中隊における逃亡兵の広島へ護送の記事)


1894年9月下旬から10月下旬にかけて,第4中隊は,鈴木安民大尉,中隊長の指揮下,慶尚道大邱(テグ),安東(アンドン),台封(テボン)など慶尚道一帯の東学農民軍討伐のもっとも中心的役割を果たしていた。鈴木大尉は,この「陣中日誌」に数多くの討伐報告書を残している。その第4中隊から,討伐作戦中に逃亡兵が出ている

兵士の階級や氏名は不明である。


●発狂

同じ後備第10聯隊第1大隊第2中隊では,1894年秋,慶尚北道海平(へピョン)の兵站部司令官,香川少佐は,現場で「発狂」している。


(9月11日)

本日,洛東今橋少佐より,海平司令官,香川少佐,発狂の気味ある旨,電報あり

(9月12日)

海平兵站司令官,香川少佐,愈発狂に確定せるを以て,洛東司令官今橋少佐に命し,釜山へ還送の取計を為さしめ,又副官田中中尉に司令官代理を命す

このころ,東学農民軍の日本軍への電信線切断や蜂起は慶尚道の各地で起きており,9月24日,多富(タブ)司令官渡辺少佐から次の様な命令を出したと電報が届いた。「電線切断する事二回,東学党の所行たる事明かなり,守備兵を昼夜巡回せしめ,又は窃に伏兵を置き,怪しき者は打殺し,地方官より地方官へ告示させよ。誤りにてもかまはす,つまり半殺にして置く勿れ,特に夜間を注意せよ。○此事を海平,洛東へも直くに通せよ」。

9月30日には,釜山の第5 師団中路兵站監本部は,洛東司令官へ次のような電報を発した。「夜中巡回を密にし,怪しきものは,誰彼れの別なく,殺戮せよ」。

こうした命令が出された直後にあたる10月2日,利川の田中中尉から「井上軍曹,誤て自殺の時」と報じ,これを守備隊(第1中隊) 中隊長福富大尉へ報告した,と電報がとどく。この報告を受け取った福富大尉も日清戦争後,釜山の陣営で自殺した。

日本軍兵站線守備隊であった後備第10聯隊第1大隊は,第1中隊では,利川兵站部の軍曹が自殺し(1894年10月2日),第1中隊長もその後,釜山で自殺する(1895年4月28日)。第2中隊では,海平兵站部司令官の少佐が発狂して送還された(1894年9月11日)。第3中隊は,中尉が蔚山で自殺し(1895年10月),第4中隊で一人の逃亡兵を出している(1894年10月)。

上の後備第10聯隊第1大隊は,釜山から慶尚道を北上し,小白山脈を越え,忠清道を経て,京畿道をソウルへと入る兵站線守備隊であった。日清戦争の間,蜂起した東学農民軍と戦いつづけていた。その一大隊の指揮官を中心として,自殺が3名,発狂が1名,逃亡兵が1名出ている。これは公式記録に残された範囲で分かったことにすぎない。多数出た戦病死も,病名など明らかでないのだが,こうした死者が居た可能性がある。


つづく


東京スマート度急落、世界86位 142都市中、デジタル化遅れで | 2024/5/21 - 共同通信 ;「スイスの国際経営開発研究所(IMD)がこのほど発表した「2024年スマートシティーランキング」で、東京は前年から順位を大きく下げ、世界86位と低迷した。」   

ケイト・ブランシェットが前面が黒、背面が白、裏地が緑のドレスでカンヌに登場。レッドカーペットの赤を組み合わせることでパレスチナ国旗カラーになる。

 

2024年5月20日月曜日

ここまで劣化してしまった自民党にはもはや日本を任せられない/村上誠一郎氏(自民党衆院議員)(ビデオニュース・ドットコム)

森か岸田か、どちらがウソをついてるのか? と、追及するのも気の毒なほどのバレバレ ⇒ 森元首相が岸田首相からの電話で、裏金づくりについては聞かれていないと述べていることを問われた岸田氏。「国会において確信をもって答弁している」としどろもどろ。 岸田首相の「確信」がどの程度のものか定かでないが、真相解明に本気でないことは、残念ながらこのやり取りだけでも確信できる。— 山添拓

 

「暴風なみの風」小田原市長選で自民党系候補が屈辱の大敗…河野太郎氏、小泉進次郎氏の “神通力” も通じず(SmartFLASH) / 自民のみならず、維新、国民、そして労働界にまで手を広げ、一部立憲の支援(地元は加藤氏応援)も受けて「組織総動員」の結果が、2万5千足らず。「加藤氏復活」を願う4万6千の市民票が凌駕した。(保坂展人)

 

大杉栄とその時代年表(136) 1895(明治28)年1月21日~31日 伊藤野枝生まれる 陸奥外相、御前会議に「講和予定条件」提出、承認される 威海衛南岸の清軍壊滅 一葉「たけくらべ」(1~3)『文学界』第25号掲載(1年間)    

 


大杉栄とその時代年表(135) 1895(明治28)年1月11日~20日 『文藝倶楽部』創刊(博文館) 清軍、海城に対し逆襲(海城の難戦) 孫乗熙の東学軍北接主力部隊、忠州で完敗 漱石、『ジャパン・メール』記者になろうとして失敗 より続く

1895(明治28)年

1月21日

「京城雑信」(『日本』1月21日付、筆者「槐園」(鮎貝房之進か))

東学で先生と言われる法軒は崔時亭の諱で,大先生と言われる崔済愚は水雲と号していると正確に伝え、また「軍中節目」という規律書を「一主将者先覧英雄之心以義招之以礼封之」など全文紹介している。

1月21日

伊藤野枝、誕生(1895年1月21日~1923年9月16日)。福岡県糸島郡今宿村大字谷1117番地(現・福岡市西区今宿1126番地)。

1月22日

一葉、星野天知から「文学界」11月号への寄稿を24日締め切りとして依頼される。

1月22日

「朝鮮時事」(『東朝』1月22日付、連載、1月8日発,漢城・青山好恵発) 

「主務官」の取材により,後備歩兵第19大隊は,「朝鮮兵教導中隊二百人壮営統営経理営の兵千四百人を従へ」て全羅道忠清道の鎮定にあたっていると明かした。

1月23日

一葉、『たけくらべ』(1~3)脱稿。制作中の「雛鶏」を「たけくらべ」と改題して成稿。翌24日、星野天知に送る。

1月25日

「東徒征討軍報告」(『日本』1月25日付)

全羅道順天に派遣されている釜山守備隊の鈴木大尉からの報告(1月8日付) を掲載。1月5日,鈴木中隊は,朝鮮兵70名(左水営から河東府に派遣された部隊) とともに,蟾居駅付近に向かい,捕縛した東学のうち,「一都接主金以甲斬首一廿七名砲殺」の処刑を行った。

6日には部隊は光陽府に向かい,そこでは住民の手によって2名の「梟首」と89名の「砲殺」が行われていたという。住民による同様の処刑は,7日に順天府に着いた時も報告され,リーダー2名の「砲殺」,3名の「梟首」,94名の「打殺」が行われていた。

釜山守備隊が、昆陽・河東・長興などの東学鎮圧に,1894年12月30日から1月初旬まで従事している報告である。光陽・順天で処刑された東学が,合計200名もいるというのはこの地方がまだ鎮定されていないことを明確に示している。

1月26日

清国全権委員、上海を出発。

1月27日

御前会議。陸奥外相が「講和予定条件」(朝鮮の独立、遼東半島の割譲、戦費賠償、通商条約の締結)提出。樺山軍令部長が山東半島大半の割取を追加を求めるが、会議は原案を承認。日本側委員は伊藤首相・陸奥外相とする。

1月29日

文部省、「高等女学校規程」制定。高等女学校の学科課程、修業年限、入学資格などを定める

1月29日

漱石、狩野亨吉を訪問。

30日 漱石、菅虎雄と共に狩野亨吉を訪ねる。"

1月29日

「東学党に関する報告」(『東朝』1月29日付)

南小四郎大隊長からの報告を,仁川− 広島の経由で伝えた情報である。南は,東学2〜3,000人が海南地方から珍島・済州島にまだいるという情報を入手している。この後,第19大隊はこの地方に向かう。

1月30日

威海衛へ進軍の第2軍左翼隊司令官大寺少将、歩兵第13連隊第3大隊に摩天嶺攻撃命令。午前8時25分、砲台占領。揚峰嶺砲台は自爆し、午後0時20分占領。一方、左縦隊は虎山東北高地、鳳林集東南一帯高地を占領。

この日、日本軍戦死54・負傷152、清軍不明(後、第6師団は740を埋葬)。威海衛南岸の清軍は壊滅

1月30日

『文学界』第25号に「たけくらべ」(1~3)掲載。以下1年間にわたって断続的に掲載され、29年1月30日発行第37号を以て完結した。

「たけくらべ」が完結すると、博文館の大橋乙羽は掲載紙を集めて一葉に届け、「たけくらべ」の改訂整備を依頼し、『文藝倶楽部』に一括掲載することにした。改訂原稿は3月中に乙羽に届けられ、4月10日刊行の『文藝倶楽部』第2巻第5編に掲載された。

これが掲載されると、森鷗外や幸田露伴らに着目され、鴎外の主宰する『めさまし草』誌上での鴎外、露伴、斎藤緑雨の3人による匿名合評「三人冗語」において高い評価で迎えられた。

星野天知:

本名は慎之輔、日本橋本町4丁目の砂糖問屋伊勢源の経営者星野清左衛門の次男。明治20年、東京農科大学林学科卒業。平田禿木とは地縁の関係からも早くから知り合い、明治20年(1887)には2人で日本橋教会の北原牧師に洗礼を受けた。在学中に明治女学校に迎えられ、武道教育、のちには心理学、東洋哲学、漢文などを教える。明治女学校の巌本善治から学校や『女学雑誌』の経営面について相談を受ける。

明治23年に『女学生』を創刊し主筆となり、かたわら白表紙『女学雑誌』の編集に当たる。明治26年1月この二雑誌を統合して『文学界』を創刊し、明治女学校に関係を持つ北村透谷、島崎古藤庵(後の藤村)、三宅花圃等に禿木や戸川秋骨、馬場孤蝶、一葉、そしてのちに上田敏と戸川残花などが加わった。天知が初めて一葉に会ったのは、明治27年1月13日下谷龍泉寺町を訪ねたときであった。この時の印象や状況については、「文学界と一葉女史」に詳しく書いている。天知は他の同人達ほど頻繁に訪れたわけではなかったが、日清戦争中一葉が窮乏を極めていたときには生活を助ける意味もあって、「暗夜」「大つごもり」「たけくらべ」と毎号連続して作品を掲載すかように運んで、原稿料が常に彼女の手に渡るように図ったりしている。因みに、『文学界』の原稿料は一般同人に対しては払わないのが原則であった。

大橋乙羽;

明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の生まれ。20歳のとき、磐梯山爆発の記事を『出羽新聞』に載せ、これが出版社東陽堂主人吾妻健三郎の目に留まり、上京して東陽堂に入社した。『風俗画報』『絵画叢誌』を編集し、政治小説『霹靂一声』などを書いたが、石橋思案と知り合い硯友社に入った。『こぼれ松葉』『露小袖』『霜夜の虫』などを書き、『上杉鷹山』の挿絵を描いた寺崎広業の紹介で博文館主人の大橋佐平を知った。尾崎紅葉の仲立ちでこの大橋家の養子となり、佐平の長女とき(時子)と結婚する。博文館に入り、支配人となって文筆活動を離れていった。硯友社以外にも根岸派や樋口一葉らの文人、画家、政財界人への幅広い人脈を活かし、博文館では『文芸倶楽部』のほか総合雑誌『太陽』の編集も手掛けた。坪内祐三は、滝田樗陰に先立って、近代日本で編集者という職能を最初に確立した人物と評している。樋口一葉とは1895年(明治28年)に半井桃水から紹介されて知り合った。翌1896年には一葉の『たけくらべ』を『文芸倶楽部』に一括掲載して世に名を成さしめ、さらに乙羽の依頼で一葉は『ゆく雲』『にごりえ』など代表作を発表している。また乙羽の妻・ときも一葉から和歌の指導を受けるなど夫婦で親交があった。(wikipedhiaより)"

樋口一葉『たけくらべ』(青空文庫)

1月30日

長興付近の戦闘を「大本営掲示」に基づいて報道した「東徒撃退」(『日本』1月30日付)と「東徒征討報告」(同日の『東朝』)。

1月31日

後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊(「従軍日誌」筆者)の長興より西にある海南(へナム)での討伐。


「同三十一日,同所滞在。但し本日,東徒の残者七名を捕え来り,是を城外の畑中に一列に並べ,銃に剱を着け,森田近通一等軍曹の号令にて一齋の動作,之を突き殺せり。見物せし韓人及統営兵等,驚愕最も甚し。」(従軍日誌」)

(東学農民軍の7名を捕らえてきて,城外の畑の中に一列に並べ,銃剣で,分隊長の号令で一斉に突き殺した。)


軍曹は,第1中隊第2小隊第3分隊,兵士18名の分隊長で、第2分隊に居た「従軍日誌」筆者は,これを見ていた。見物していた朝鮮兵や朝鮮人は「驚愕」した。

1月31日

英露公使、陸奥外相と会見、講和条件を質問。2月1日仏公使も同様。

1月31日

「東学党討伐」(『日本』1月31日付)

独立歩兵第18大隊の石森枝隊が1月17日「テウゴインとインゼウとの間」で東学数百と戦い,「賊数十名を斃し我兵一名負傷」を伝える。


つづく




万博会場メタンガス爆発、消防連絡は4時間半後 高濃度一酸化炭素も(朝日) ← 事故を出来るだけ小さく見せようとした。事故も対応もキケン! / 万博遠足の休憩所はガス爆発現場!大阪府が計画「児童・生徒 無料招待」でも真っ平ごめん(日刊ゲンダイ) / 「学校行事で子どもを万博に連れて行かないで」 安全性不安、市民団体が滋賀知事に要望(京都新聞5/9) / 万博会場ガス爆発、新たな論争の火種? 子供招待に「待った」…非維新も問題視(産経5/9) / 大阪万博を南海トラフが襲ったら…ホンマに大丈夫? 具体的な避難計画は「まだない」 残り1年を切っている(東京) / 【万博開催の懸念】大雨・地震で2つだけの橋・トンネルに通行止めの恐れ…開催中に会場“孤立”の危惧 具体的な防災計画は今も検討中 / 「なぜここに誘致したのか」港湾関係者の怒り 深刻な“渋滞”&“物流停滞”の懸念 会場アクセスは橋・トンネルの2つのみ(YTV) / 大阪・関西万博ついに参加国を怒らせた! 地盤は脆弱、水はけ悪く、メタンガス噴出も(AERA.); Aさんの写真や動画には、万博会場のあちこちで池のように水がたまった様子が映し出されている。 「水はけが悪い地盤なので工事にも影響しています」 / 大阪・関西万博 大阪府内の自治体トップらが現場視察(NHK);「百聞は一見にしかずなので、視察に参加した市長の1人として証言します。⁰肝心の海外パビリオンの建設はあまり進んでおらず、工事が着実に進んでいると感じられず、手応えはありませんでした。(交野市長 山本けい)」  

 




 

 

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奈良の香芝市長選、35歳弁護士が初当選 維新知事が推す現職ら破る(朝日);「福岡氏は立憲、維新県総支部、国民の推薦を受け、第2子以降の保育料一律無償化など1期4年の実績を強調。告示日には山下真・奈良県知事が選挙カーに同乗して応援したが、再選を果たせなかった。」   

 

2024年5月19日日曜日

大杉栄とその時代年表(135) 1895(明治28)年1月11日~20日 『文藝倶楽部』創刊(博文館) 清軍、海城に対し逆襲(海城の難戦) 孫乗熙の東学軍北接主力部隊、忠州で完敗 漱石、『ジャパン・メール』記者になろうとして失敗     

 

甲午農民戦争

大杉栄とその時代年表(134) 1895(明治28)年1月1日~10日 『少年世界』『太陽』創刊(博文館) 長興の戦い(東学農民軍の最後の大規模な組織的反撃) 漱石、円覚寺より空しく下山 乃木混成旅団の蓋平城攻略 『帝国文学』発刊 より続く

1895(明治28)年

1月11日

議政府を内閣と改める

1月13日

「順天府及光陽県の東徒(人民悉く帰順す)」(『日本』1月13日付)

軍艦筑波が,1月4日光陽沖に回航し,光陽城に分遣隊を派遣したことを報じる。

同日付の「忠清道の東党益猖獗」は,大邱から茂矢付近に朝鮮兵2〜300名が派遣されたことを伝える。歩兵第1 大隊などの東学殲滅作戦への専従部隊ではなく,軍艦の分遣隊が東学鎮定に従事している。より詳しい報告は,『日本』1月14日号の第一面に掲載された。

『日本』1月14日付の「順天附近東徒討滅の報告(掲第二六二号)」も軍艦筑波の報告で,1月5日光陽県下浦に分遣隊を上陸させ,光陽城に入れたこと,その後100人の朝鮮兵が光陽城に来るはずだったが未着など順天方面の状況を伝えている。同時に,光陽城で「梟首」された東学の指導者2 名の「首級及び屍体」を実検したこと,「光陽県方向接主朴興西其他凡そ四十名は砲殺し」たことも報じた。

1月14日

黒竜江将軍依克唐阿・吉林将軍長順、鞍山站・福来屯を出発し海城に向う。

17日、海城攻撃。

1月15日

西南戦争征討総督の有栖川宮熾仁親王(59)、没。

1月15日

一葉日記より。今年新しく我が家に来た人が2,3人いる。残念ながら、顔が良いのは学問の才能がさほどでもなく、才能がありそうに見える者は姿がさほどでもない。

1月15日頃

一葉、些か疎遠になった男からの手紙への返事を書いてくれと女が乞うてきたので書いてやる。

1月15日

博文館から『文藝倶楽部』創刊。

1月17日

清軍、第3師団(師団長桂)が占領の海城に対し第1回逆襲(海城の難戦、~2月21日、4回)。午後4時、退却。22日、第2回逆襲。失敗。2月16日、第3回逆襲、失敗。21日、第4回逆襲、失敗。

1月17日

孫乗熙の東学軍北接主力部隊、忠州で完敗。孫は第3世教主につき、のち、「天道教」を興し3・1独立運動に指導的役割を果たす。

1月17日

「忠清道の東徒解散」(『日本』1月17日付の)、「忠清道青山,報恩附近に在る東徒」「三百余名を殺し解散せしめた」旨を伝える。「報恩」は,この1月の激戦地。

『日本』1月19日付「忠清道の東徒」と「東徒征討別報」は,1月12日夜と13日払暁に東学を攻撃し,「東徒の死傷数百,分捕牛馬武器夥多」で撃退したと報じる。"

1月19日

後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、筑波艦長へ沿岸、珍島、済州島等の賊徒殲滅方の命令を下す。

同日、石黒支隊へ沿岸各地の捜索、賊徒捕縛の命令を下す。

同21日 、統衛営兵大隊長へ捕虜は必ず羅州本部へ送付すべきと命令を下す。

同22日、松木支隊へ珍島付近の残賊を速やかに殲滅すべきと命令を下す。(経歴書)

1月19日

漱石、夜、菅虎雄とともに狩野亨吉を訪ねる。

1月1月中旬~下旬(推定)

漱石、横浜の英語新聞『ジャパン・メール』の記者になろうとして失敗


「菅虎雄の仲介で、The Japan Mail 「ジャパン・メール」の記者を志望する。禅について英語の論文(大判約十枚)を送ったが採用されぬ。提出した論文は黙って突き返される。その態度に腹を立て、菅虎雄の面前で破り捨てる。(松岡譲)」(荒正人、前掲書)


「金之助が明治二十八年の早春ごろ、突然当時横浜にあった英字新聞「ジャパン・メイル」の記者を志望し、菅虎雄に仲介を依頼したのは、やはり追跡して来るものからのがれたい衝動が根柢にあったからだと思われる。当時彼は、高等師範学校と東京専門学校に出講するほかに、国民英学会でも教えていたが、教員生活がいやになったというより、むしろ東京を去ることを欲していたにらがいない。追跡して来るものはもちろん「罪」であり、彼はほとんどそれにおびえていた。

彼が採用を求めるために、菅虎雄を通じて「ジャパン・メイル」に提出した英文の論文は、禅に関するものであった。彼がこの主題を選んだのは、参禅の記憶が新しかったことに加えて、明治二十六年の夏、大学を卒業してまだ寄宿舎にいるころ、鈴木大拙に依頼されて鈴木が英訳した釈宗演の講演草稿に補筆したことがあったためと思われる。宗演は明治二十六年九月、シカゴで聞かれた世界宗教会議でこの草稿を読んだと伝えられる。

しかし金之助の論文は、なんの註釈もつけずに菅の手許に送りかえされて来た。それを持参した菅虎雄にむかって金之助は激怒し、「いけないならいけないで、どこがどういけないと、場所と理由を指摘して返すのか礼儀じゃないか。黙って突っ返すとは怪しからん」と叫んで、菅の見ている前で論文を引き裂いてしまったという。・・・・・だがこの挿話については、菅が最初から論文を「ジャパン・メイル」に送らなかったという可能性も考えられぬわけではない。・・・・・菅が金之助の志望を衝動的と感じていたためと考えられる。いずれにしても、発行部数もたかが知れている英字新聞の記者は、前途有為な文学士にふさわしい職場ではなかった。精神状態の不安定な友人が、軽率な行為で一生をあやまるのを坐視するにしのびないと菅が考えたとしても不思議はないのである。

そのためか間もなく菅は、愛媛県尋常中学校英語教論の口を周旋してよこしている。そのころ愛媛県当局は、英語英文学専攻の文学士をひとり尋常中学校に招聘する方針をさだめ、県書記官浅田知定に命じて人選にあたらせていた。浅田はその候補者選定を旧知の菅虎雄に依頼し、菅はさっそくこの口を金之助にまわしたのである。あい前後して山口高等中学校教授になっていた同級生菊池謙二郎からも赴任をうながす手紙が到着した。金之助が愛媛県尋常中学校(松山中学校・現在の松山東高校)を選んだのは、ひとつにはおそらく菅に頼る気特が強かったからであり、さらに愛媛県側が提示した待遇が破格なものだったからである。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

1月20日

午前8時頃から、第2軍第1次輸送船、遼東半島から海路山東半島先端栄成湾上陸。威海衛南10km。~26日、第2次輸送の最後の揚陸完了。22日、英国支那艦隊旗艦「センチュリオン」が栄城揚陸を見学。

連合艦隊伊東司令官は、大山第2軍司令官と協議して清国北洋水師丁汝昌への勧降書を司令長官フリーマントル中将に託す。25日、丁汝昌に渡る。26日、威海衛に向け進軍

1月20日

戸川残花、初めて来訪。「毎日新聞」の「日曜附録」へのに執筆依頼。26日締め切りとのこと。「文学界」の締め切りにも追われて、とても慌ただしく感じる。「水沫(みなわ)集」を持参し見せてくれる。この月以降に残花から「罪と罰」を借覧。

*「水沫集」は鴎外著、明治25年7月2日刊行。「うたかたの記」「舞姫」などの自作と翻訳を多数含む。

*戸川残花は「毎日新聞」客員で文学史や評論を載せていた。

*一葉の「毎日新聞」への寄稿は、明治28年4月3、5日掲載の「軒もる月」となる。

1月20日

「東徒追撃巨魁就縛」(『東朝』1月20日付「)

南小四郎少佐からの報告として「金海南,全方淳,孫士文,曽文周等の巨魁ハ已に縛に就く」と指導者たちの捕縛をいち早く報道した。実際、全琫準らは前年12月2日に淳昌で捕縛されている。

1月20日

ロシア、極東艦隊の増強と朝鮮独立保障のための英・仏との協力を決定。


つづく

2024年5月18日土曜日

日没後10分過ぎた頃(午後6時50分ころ)の片瀬西浜海岸 2024-05-19

 5月18日(土)はれ

今日の午後6時50分ころの片瀬西浜海岸。

日没時点(6時40分ころ)では富士山のシルエットは全く見えなかったのに、日没後10分すると、コレ。

これがマジックアワーと呼ばれる所以なのかな。


審議中止を求める声は24万人超 それでも共同親権を導入する改正民法が成立 「聞く力」はどこへ?(東京); ◆父母の合意がない共同親権を問題視 ◆「子の利益が侵害される恐れ」医療4団体が声明 ◆改正法の運用にあいまいな部分 / 問題点を認識しながら「複雑な思いで賛成した」立憲民主党、もう風前の灯となった岸田内閣と、どうして正面切って戦わないのか? / 離婚後に「共同親権」となった場合、「父母どちらの同意も必要」なケースとして、 ▽幼稚園や学校の選択 ▽進学か就職かの選択 ▽転居先の決定 ▽生命に関わる医療行為 / 山添拓「最大の問題は、離婚する父母の合意がなくても裁判所が共同親権を定めうる点だ。審議では与党も含め多くの議員から弊害を懸念する発言が相次いだ。国民的な合意なく押し切ることは断じて許されない」           



 

なぜクジラの「淀ちゃん」死体処理に8000万円? 維新と近い業者が受注 大阪市のテキトーな理由【内部文書入手】 (AERA dot.)

岸田再選支持、6%の衝撃 募る政権交代待望論◆時事世論調査【解説委員室から】;「時事通信社の5月世論調査によると、岸田文雄首相に自民党総裁任期が切れる9月以降も続けてほしいとの回答はわずか6.0%だった。政権の枠組みに関しても、「政権交代」が「自民党中心の政権継続」を上回った。岸田首相が今国会中(会期末は6月23日)に衆院を解散しようがしまいが、総裁再選が困難なことを調査結果が示している。(時事通信解説委員長 高橋正光)」    

大杉栄とその時代年表(134) 1895(明治28)年1月1日~10日 『少年世界』『太陽』創刊(博文館) 長興の戦い(東学農民軍の最後の大規模な組織的反撃) 漱石、円覚寺より空しく下山 乃木混成旅団の蓋平城攻略 『帝国文学』発刊  

 

韓国ドラマ「緑豆の花」より

大杉栄とその時代年表(133) 1894(明治27)年12月23日~31日 山東半島作戦決定 慶尚北道でも東学農民軍討伐戦 全琫準逮捕 ドレフュス事件 「今の時戦争文学といふものゝ如き、これ浅劣の極、二十七年を送るの辞となす。」(禿木) 三菱1号館完成 より続く

1895(明治28)年

この年、放置される窮民。この年以降9年間の困窮を原因とする自殺と飢餓による死者の合計は漸増し、年に1万人を超える。また同時期の極めて制限的にしか適用されない「恤救規則」による救済人数(餓死寸前の「無告の極貧者」数)は、それでも毎年1万5千人以上と推定しうる。

政府(市町村)は「恤救規則」(明治7(1874)年3月制定)で「無告の極貧者」を公的扶助の対象とした以外何の方策も講じず、同規則による国庫支給額は、1895~1903年(9年間)で161万余円、同期間の延べ救助人数は14万2千余で、1人当り平均救助額は年間11円34銭(月1円弱、1日3銭)程度。この頃の紡績女工の平均賃金は日給15銭程度。


1月
第一銀行、朝鮮政府に対し、海関税を抵当として25万円を貸付ける

1月
藤野古白、戯曲「人柱築島由来」(「早稲田文学」)

1月
一葉、新年の詠草。戦地の兵士を思って詠む。

「  としのはじめ
      戦地にある人を
             おもひて
おく霜の消えをあらそふ人も有を
いははんものかあら玉のとし」

「  さむきふすまかすけきともし火しづかにあほひで故郷をしのぶとき、いみじきつはものといヘども、涙は襟に冷か成べし
 つるぎ太刀冴ゆる霜夜の月に寝て
 結ばぬ夢のゆくゑをぞおもふ」

1月1日
米、後のFBI長官J・エドガー・フーバー、誕生。

1月2日
川上音二郎(28)、横浜・港座で「川上音二郎戦地見聞日記」を上演。

1月2日
「東学党の軍配」(『日本』)
押収した「東徒軍配書」なるものを掲載し,全羅道の順天に本拠を置く東学には,「指揮司,総令執事,左執法,右執法,郡省察,器械有司,□□有司,左先鋒,右先鋒,右翼将,左翼将,後軍将,中軍将,中央都砲,前鋒都砲,導路長」などの幹部が任命され,左水営攻撃を準備していると報じた。一つひとつのポストに人名も記されている。

1月3日
乃木希典少将の混成旅団、北上し蓋平を奪う。孤立の第3師団を救援。

1月3日
一葉のもとに、桃水、年賀に来訪。かつては美丈夫で聞え、服装もきらびやかだったが、質素な身なりでやつれた姿だった。
寄席に誘いに来る人があったので、日暮に三人(誰かは不詳)で家を出る。菊坂の通りを過ぎて真砂町へのぼり、病院跡の原を通っていく。
夜、新潟の阪本(渋谷)三郎から年賀状が来る。こちらからはまだ出していなかった。
広瀬伊三郎は商店を開き、そのいとこの三枝信三郎は銀行を出したという。

1月4日
この日(4日)、後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊は、洞福(ドンボク)から綾州(ヌンジュ)へ進軍。

「我軍はその近村捜索し,東徒七八十名を捕え帰り,拷問せし所,各自白状に及ひ,依て軽きは民兵に渡し,擲払となし,重き者二十名計を銃殺す」
(7,80名を拷問し,重いもの20名計を銃殺)

5日,綾州に滞在,第1中隊は,「謀計」を使う。付近の村落で,朝鮮の民兵に命じて,我々は,東学であるが,今,日本軍が攻めてきた,「東徒」東学農民は,早く当所を立ち退け,と叫ばせた。東学農民軍の者,「数百名」が,銃器,竹槍をもって逃走した。民兵は,「ことごとく捕らえ」,日本軍に送ってきた。数百名の東学農民軍が捕らえた。「分捕銃器」75挺,竹槍や弓は焼き払った。「捕虜は,詮議の上,軽きは追放に所し,重きは死に行ひ」という。詮議は,拷問で、数百名に近い人数を拷問した。この日の殺戮が何名であったか,記されていない。

こうして,1月8日,南の海岸部の街,長興において,東学農民軍の最後の抗日戦争が展開する。

1月4日
一葉、斎藤竹子宅でのかるた会に参加。
夜、本郷のあたりを散歩し、錦絵を売る店で村上浪六の『制清軍記』の在庫を問うと品切れとのこと。初版500部しか出してないのだろうと納得。

1月4日頃
一葉宅の隣家の銘酒屋鈴木の酌婦がいつものように手紙の代筆を頼みに一葉の許に来る。
家の後ろは丸山の岡で静かではあるが、前の町通りは物音が常に絶えない。あやしげな家ばかりが大変多いので、〈若者がこのような辺りに長く居て、しまいには染まらないことなどあるものか〉という陰口が折々に聞える。

湯島の切通しは賑やかであるが、家を壊して道を広げて岩崎の屋敷になあったので、石垣が高く積まれて木立がずっとつづくため、闇夜などはひどく淋しくなった。
(現在の旧岩崎家庭園。この頃は少しずつ買い足されて広がりつつあった。ジョサイア・コンドル設計の現在の洋館は明治29年竣工で、この時はまだなかった)
1月4日
「全羅道の東学党」(『日本』)
『東朝』1月3日付(12月30日午後2時25分釜山発) の全文を転載,1月早々から,全羅道では東学が強く根を張っているという情報を伝える。『東朝』1月3日付は,「東徒全羅道に満つ全羅道五十三県皆東学党に帰し左水営のみ独立す,征討兵第一中隊増遣せらる」とも報じた。

1月5日
後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、羅州城に着く。各地より賊徒が跋扈して人民を殺害するのみならず、その中でも長興使を銃殺する旨の報道があり、よってこれが討滅に関する部署となった。

同6日、咸平にある鈴木特務支隊より賊情および留陣に関する報告を受け、同支隊へ海岸にある賊徒の殲滅に着手すべき命令を下す。(経歴書)

1月5日
博文館から『少年世界』『太陽』創刊

1月7日
高宗、大院君・領議政金弘集従え宗廟出御。清国と伝統的宗属関係を断絶したとの独立誓告文と国政の大綱(閔妃と一族排除方針、国民の生命財産の保障、富国強兵など)を述べた「共範14条」奉告。

1月7日
漱石、10日間の参禅を打ち切り円覚寺より空しく下山、帰京。
狩野亨吉を訪問。法蔵院に落ち着く(推定)。

1月8日
~9日,西南海岸,長興(チャンフン)の戦い(東学農民軍の最後の大規模な組織的反撃)

「我隊は西南方に追敵し,打殺せし者四十八名,負傷の生捕拾名,而して日没に相成,両隊共凱陣す。帰舎后,生捕は,拷問の上,焼殺せり」(従軍日誌)
(ここでいう「両隊」は,第1中隊第2小隊の第1分隊と「従軍日誌」筆者が居た第2分隊のことで、負傷した1 名の東学農民軍を捕らえ,拷問の上,焼き殺した。)

1月8日
一葉のもとに、戸川残花の娘、(疋田)達子初来訪。

1月8日
『東朝』1月8日、9日付は,「東学党の気勢」という各一段以上の長い記事で全羅道の東学の強さを報じた。その中で,東学が本拠としているのは全羅道順天府,東学がまだ抑えていないのは左水営,羅州,雲峯の三管のみ,軍艦筑波が陸戦隊を出し,左水営の朝鮮兵250人と共同して撃退したことなどが詳しく報道された。

『日本』1月8日付には,年末に報じられた軍艦筑波の鎮定作戦についての続報が掲載され、ここにも「韓兵七百人,来る六日迄に我陸軍と連合し東学党の根拠とせる順天府を攻撃する筈なり」と朝鮮兵との連合作戦であることが報じられている。

翌9日,軍艦筑波からの左水営付近での作戦遂行についての長い報告が「東徒鎮撫(掲第二五六号)」として,また東学指導者の処刑が「巨魁斬首(掲第二五七号)」として掲載される。

いずれも軍艦筑波艦長の黒岡帯刀からの報告に基づく。軍艦筑波は西海艦隊に属し,1894年1月から3月まで仁川に碇泊して,作戦材料を収集,軍令部に報告するなど,活発に活動していた。

1月9日
漱石、斎藤阿具宛て手紙に、「五百生の野狐禅遂に本來の面目を撥出し來らず」と洩らす。

1月9日
叔父大原恒徳に宛てた子規の手紙。従軍記者になるだろうとの観測を述べる。

「扨私今度或は新聞記者として従軍いたし候様に相成可申と楽み居候。方面は未だ何れとも決定致さず候へども、大概大阪師団に附随致すべしと存居候。」

1月9日
山東半島作戦のため、第2師団第1次輸送隊、宇品で乗船、~12日。大連湾到着、14~17日。大連で乗船する第1回金州部隊と合流して、更に栄城湾に向う。
第6師団第1次輸送隊、門司で乗船、12~16日。大連湾到着、15~21日。

1月10日
乃木混成旅団の蓋平城攻略

夜明け前、乃木混成旅団、東二台子を出発。午前5時40分頃、第1師団主力、出発。6時50分、旅団主力歩兵第15連隊第3大隊が祁家務を占領。激戦後、西邵家屯も占領。7時30分、歩兵第1連隊第2大隊が、西邵家屯(本道付近)占領。同第1大隊、塔山付近の蓋州河右岸進出。7時40分頃、第2大隊も進撃し前岸占領。7時50分、第1大隊は塔山を占領。8時10分、隠岐大佐は予備の第1・6中隊を率い、蓋平城壁東南に到達。8時25分、連隊旗手小川少尉・隠岐大佐、城壁に上る。10時、第5中隊らが城壁東南に到達し城内進入。

この日、日本軍戦死36・負傷298、清戦死450・捕虜32。宋慶は2階級下り留任、徐邦道・章高元は革職。

1月10日
文科大学の教官・学生が中心となって『帝国文学』が発刊


つづく

維新、足立議員の投稿めぐり党紀委招集へ 「悪口流したら懲戒免職」(朝日) / 維新、機関紙めぐるSNS投稿で党内対立 「遵法意識を語るのは噴飯もの」過激“上申書”で党紀委員会へ 議員の処分検討(FNN) / 日本維新の会に内紛勃発!東京15区補選「違法スレスレ運動」指摘に音喜多議員の反論は…(現代ビジネス)   

〈5月18日、光州民主化運動から44年〉 取材レポー「赦すか、赦さないかを決めるのは、被害者の権利」――【光州事件】あの時、それからの女性たちは(安田菜津紀) / 犠牲者193人…韓国国民が41年前の「光州事件」を振り返り続けるワケ 映画『タクシー運転手』から考える(真鍋祐子) / 「光州事件」を超えて〜韓国民主化の中で40年生き続けた光州5.18を知る(上中下)(徐台教) / 民主化運動の歴史を描いた韓国映画を観る 『タクシー運転手』『光州5・18』『弁護人』『1987、ある闘いの真実』『共犯者たち』(加藤直樹)    

 

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▼最近読んだ本



▼観た映画




 

2024年5月17日金曜日

鎌倉アジサイ散歩 光則寺のヤマアジサイ 2024-05-17

 5月17日(金)はれ

鎌倉、長谷、光則寺のヤマアジサイ。

鉢植えで200~240品種あるとのこと。見ていて全然飽きない。

光則寺のあと、収玄寺に立ち寄ったら、ガクアジサイが咲き始めていた。

5月中旬過ぎて、もうアジサイが咲き始めるんだ。時の流れ、もう少しゆっくりでもいいにのね。

鎌倉アジサイ散歩 長谷 収玄寺のアジサイ 2024-05-17

















鎌倉アジサイ散歩 長谷 収玄寺のアジサイ 2024-05-17

5月17日(金)はれ

鎌倉、長谷の光則寺のあと、収玄寺さんに立ち寄った。

アジサイが咲き始めている。

長谷寺の様に鉢植えでないので、ヤマアジサイではなく、早咲きのガクアジサイなんだろうか。よくわからない。ヤマアジサイ独特のひっそり感がないように見受けられるので、単なるガクアジサイである確率の方が高そうだ。






“絶対に断らない女”山田真貴子元報道官がフジテレビに天下りへ 総務官僚時代に高額接待で猛批判浴びる(日刊ゲンダイ);「総務審議官時代、菅前首相の長男が勤めていた放送事業会社「東北新社」から、一晩7万4203円もの高額接待を受けていたことが発覚して、批判を浴び、内閣広報官を辞任している」   

 

維新の足立康史、カッコ悪い! 国会で「永住外国人の年金未納は1割以上。では日本人は?」と日本人の方が少ないのが当然という前提で質問したら役人に日本人の未納は2割弱と返されて、、、「私のロジック破綻した」と立ち往生。

三島由紀夫賞を大田ステファニー歓人さんが受賞 ; ガザへの連帯を示し、SNSや路上で声を上げ続けている大田ステファニー歓人さんは、作家同士で連帯するすべきか問われ「やりたいからやっている。心細いので味方してくれる先輩がいたら頼もしい」とコメント。

スペイン政府、インドから出航したイスラエル向け武器を積んだ貨物船の寄港を拒否。 アルバレス外相「我国では初めてのことであるが、イスラエル行きの武器を積載する船舶が寄港を求めたと判明したため今回の措置をとった。中東にこれ以上の武器は必要ない。必要なのは平和である。」

大杉栄とその時代年表(133) 1894(明治27)年12月23日~31日 山東半島作戦決定 慶尚北道でも東学農民軍討伐戦 全琫準逮捕 ドレフュス事件 「今の時戦争文学といふものゝ如き、これ浅劣の極、二十七年を送るの辞となす。」(禿木) 三菱1号館完成   

 

フランスのドレフュス事件を扱ったロマンポランスキー監督《オフィサー・アンド・スパイ》

大杉栄とその時代年表(132) 1894(明治27)年12月23日 漱石、鎌倉の円覚寺搭頭帰源院で参禅 翌年1月7日、空しく下山 より続く

1894(明治27)年

12月23日

『日本』12月23日付け「東徒の暴行(掲第二四一号)」と25日付け「東徒を攻撃す(掲二四三)」

前者は,17日1000人の東学が左水営を襲い,「民家皆焼かる」。後者は,19 日「海州の西方翠野場」で東学2000 人が鈴木少尉の隊と交戦し,「敵即死十二,捕虜九,馬二十三,牛四,火薬三箱武器及び書類を分捕て我兵無事」と戦果を報告。これでも「兵站部危険なれば」と危機感が示され,鎮圧部隊の出動が頻繁に行われた。

12月24日

大本営、威海衛攻略のための山東半島作戦決定。第2軍(大山司令官)担当。第6師団の半分と広島に待機中の第2師団をこれに充てる。

12月24日

一葉、旧作を集めて『明治文庫』へ出すことを禿木に相談する。田中みの子に借金を依頼する。

12月25日

米公使エドウィン・ダン、旅順虐殺事件のため米上院での条約改正審議で、日本に裁判管轄権を与えるのは時期尚早との議論ありと陸奥外相に伝える。

伊藤首相は、善後措置を検討するが、責任問題は山地第1師団長・大山第2軍司令官に及ぶことになり、先に第1軍司令官山県大将も召喚・更迭していることもあり、軍の政府への反感・後任人事の難航などを考慮し、不問に付すことになる。日本軍の軍紀に汚点を残し、残虐行為への罪悪感も失われ、以降同様事件が続発。

12月25日

一葉、長齢子から『国会』初刷に和歌を寄せるよう要請される

12月26日

東学党討滅隊後備第19大隊第1中隊第2小隊第2分隊は,忠州へ戻って本隊と合し,小白山脈の鳥嶺を越えて,慶尚北道へ入る。最初の日本軍兵站部は,聞慶(ムンギョン)。これ以後,慶尚北道でも討伐戦を展開する。

慶尚南道咸陽(ハミャン)まで南下するのが12月24日で、ここから1000メートルを越える小白山脈南部の山々の峠を越えて,全羅南道の雲峰(ウンボン)に入り,雲峰を26日に出る。


「同(12 月) 二十六日,前七時発,南原地方え向て行進路を取る,壱里半,至る所に大山あり。山名,雲峰山と云ふ,山勢方錐の如く,岩石突立,蒼天に聳ち,岩間に通路あり。峰上より下視すれば,全羅・慶尚両道を一目にする如し。この嶺上に土民等多く集り,銃器を携,要所に歩哨を張り,東学進入の防禦をなせり。」(従軍日誌)


雲峰は,保守民兵,民堡軍が支配を保ち,民兵が郡境の峠上の山岳に上がって東学農民軍を防いだ。


「……后三時五十分,南原城に着せり。この城昔時,新羅(シルラ)と称せり,地城にして弐丈余の石壁四面を囲り,上に銃眼を鑿つ。城外二里方面は平坦なり,北に方り,壱里半去る所に龍城と名く,方弐里余,町は壁石を囲周す,府使の別荘と見ゆ。要害,好しき地勢なるも,去る二十日東党の為めに落城し,府使は殺され,市内の民家,悉く焼打し,立去れり。雲峰地方の土民等,兵器を持ち,南原城の東党を撃退し,城中に入る。東党は,北方,龍城古山(ヨンソンゴサン)に籠れり,我軍至るや,急に三道より攻撃を始む。東学,日本軍の至るを見るや,逃走しつゝ銃声を発し応す,このとき我軍急行,進んて山上に登り,石壁を越え,家宅を捜索するも,敵早く逃亡して,一人だも見えず。依て人家に火を放ち,南原に帰る。夜深更に至り,烟火未だ天空に輝光せり,この日夕に入り帰るを,舎宿は東党の為め灰となるを以て,各兵不潔なる二三家に狭宿せり。」(従軍日誌)


*夕方,第1中隊が南原へ帰ると,中隊宿舎が東学農民軍のために放火されていた。

12月27日

「陸軍省大日記」にある電報,右肩に「秘新聞ニ掲載スルヲ禁ス」というゴム印。


「電報十二月廿七日午後六時仁川発仝七時五十分釜山発仝十時三十分着

東学党討伐隊ハ全羅道ニ進入スルモ未タ鎮定ノ報ヲ得ルニ至ラス,時季ハ既ニ厳寒ニ向フ。前途ノ益々困難ナルヲ憂ヒ今橋少佐ト協議ノ上釜山ヨリ更ニ一中隊ヲ順天ニ向ツテ進メ共ニ協力速ニ討滅セシムルコトニ決セリ。此兵ハ来ル三十日釜山ヲ出発セントス。

川上兵站総監仁川伊藤兵站司令官」


11月初旬以来,後備歩兵第19 大隊など「東学党討伐隊」を特派して殲滅作戦を進めてきたが、12月下旬という厳寒期にもかかわらず殲滅は成功していないので,釜山の守備隊から一個中隊を増援部隊として送るという,現地から大本営への報告である。この時釜山守備隊として後備歩兵第十聯隊第一大隊が属しており,そこから一個中隊が抽出され,第19大隊に協力させた。

12月28日

全琫準、逮捕。残党狩り徹底。明治28年4月23日全琫準(41)・孫和中ら処刑。翌日、金開南処刑。

12月22日

ユダヤ人大尉アルフレッド・ドレフュス、ドイツ諜報機関にフランス軍機密漏洩スパイ罪で終身流刑。

12月30日

山地第1師団長、海城で孤立状況の桂第3師団長の要請により、師団先頭の歩兵第1旅団長乃木希典に蓋平方面への進出命じる。乃木は新たに混成旅団を編成。

12月30日

28 日,南大隊長に率いられた大隊本部第3中隊が,朝鮮政府軍の教導中隊と統営兵各一中隊とともに南原に到着。大隊本部第3中隊は,31日まで南原に滞在。第1中隊も31日まで南原に滞在する。「これ,東党捜索の為めなり」。

「従軍日誌」より、


「同三十日,滞在。前八時より,先日焼払へる龍城山に至り,焼残せし寺院及其他の家屋を焼払ひ,東党の使用に適せさる様命令に付,即ち第一中隊は再ひ古城山に至り,寺院,民家を焼払えり。」


この日(30日)、第1中隊は,朝,4日前の26日夕方に放火し,深夜まで燃えつづけさせた蛟竜山城へ出軍し,焼き残した寺院その他の家屋を徹底的に焼きはらった。


南大隊長は,朝鮮政府で討伐作戦を証言した「東学党征討略記」で,南原の惨状について述べている。「南原の如き惨状は又他になかるへし,官舎も民家も一として満足なるものなし。官舎の如きはその土台より破壊したり」。そうして雲峰の民堡軍別軍監,朴鳳陽(パクボンヤン)をその下手人として,南原民産掠奪と放火を糾弾している。

「東学党征討経歴書」では,蛟竜山城徹底焼き払い命令を出した29日に,次のように記している。


「同二十九日南原府着,舎営,松木大尉及び水原支隊(第1中隊) と合す。雲峰縣監を初め,南原官吏え此際,兵炎に罹る者に就ては充分之れを撫育し,仮令賊徒と雖も前非を悔ひ,良民となる者等を常業に服せしむる旨,懇篤説諭すへき事を示諭す」


南大隊長は,雲峰の縣監や南原官吏へ,兵火にかかった南原の民への撫育と東学農民軍で前非を悔いた者への寛恕を説諭したと記す。南大隊長は,朝鮮政府軍隊長や官吏に,東学農民軍へあまり苛酷に対処するなとか,「兵炎に罹る者」を撫育せよと説諭したという記事を多く残している。

12月30日

後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日(旧12月2日)赤松支隊より全奉準〔正しくは全琫準〕 捕縛の報告を受ける。

翌31日、南原を出発して淳昌県に到着し、巨魁全奉準を受取り、負傷の治療をした。

12月30日

一葉「大つごもり」(『文学界』第24号)。続いて「たけくらべ」に着手。


禿木は、『文学界』第24号巻末の「時文」欄で、戦争に流されるかのような文壇の傾向に抵抗する一文を書く。


「廿七年は将に暮れんとす。戦の起りてより民衆の心は奮ひ立ちて、文学の如きを顧るに暇あらず」

(戦争文学は)「幸(さいわい)に民衆の狂激に乗じて一顧を買ふに足ると雖も、一点詩的永遠の価値を有するものにあらず、文士の戦にその筆を枉(ま)ぐるは、民衆のこれに狂して産業を捨つると同じ、この際須らく高踏的思想を要す」。

「今の時戦争文学といふものゝ如き、これ浅劣の極、二十七年を送るの辞となす。」(禿木(風潭)「廿七年を送る」)。


12月31日

この日(31日)、後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊は,南原を出発し,午後谷城(コクソン)縣に着き宿泊する。

途中,東学農民軍の「家屋数十戸を焼払」う。また,第2小隊長楠野少尉も,これとは別に斥候に出て,東学農民軍の「家宅数十戸焼き棄」てた。「この夜,東学十名を捕掌し帰り,韓人に命し,焼殺せり」。捕らえた東学農民軍を韓人,朝鮮政府軍兵に命じて,焼き殺した。

12月31日

初のオフィスビル。コンドルと曽禰達蔵による三菱1号館、丸の内の原っぱに完成。丸ノ内ビル街の始り。

12月31日

村上浪六に頼んであった借金に関する連絡を待ったまま年が暮れる。

この日より、『しのぶぐさ』始まる。明治28年2月1日まで。署名なつ子。日付不明のエピソードも多く、歌も多い。正式な日記はべつにあって、散佚したとも考えられる。


つづく


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