3.能員活躍の足跡2(文治5年)
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文治5年(1189)5月22日
・義経死すの報、鎌倉に届く。頼朝、これを京都に連絡(「吾妻鏡」同日条)。29日、京にも届く。
朝廷はもはや泰衡の責任を問う必要はなくなったとするが、頼朝は既に2月に泰衡追討の動員を全国にかけており、出兵強行の意思を表示。
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「今日、能保朝臣告げ送りて云く、九郎泰衡の為誅滅せられをはんぬと。天下の悦び何事かこれに如かずや。実に仏神の助けなり。抑もまた頼朝卿の運なり。言語の及ぶ所に非ざるなり。」(「玉葉」同29日条)。
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「夜に入り、・・・。師中納言の返報到来す。義顕誅罰の事、殊に悦び聞こし食すの由、院の仰せ候所なり。兼ねてまた彼の滅亡の間、国中定めて静謐せしむか。今に於いては弓箭を嚢にすべきの由内々申すべきの旨、その沙汰候と。」(「吾妻鏡」6月8日条)。
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6月13日
・藤原泰衡の使者新田高衡、義経の首を鎌倉腰越浦に持参。和田義盛・梶原景時の侍所の所司2人が実検(「吾妻鏡」同日条)。
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6月24日
・朝廷、奥州征伐の準備を進める頼朝に中止を勧告。
「・・・義顕すでに誅せられをはんぬ。今年は造太神宮の上棟、大仏寺の造営、彼是計会す。追討の儀猶予有るべしてえり。その旨すでに殿下の御教書を献られんと欲すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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6月25日
・頼朝、重ねて泰衡追討の宣旨を請う(「吾妻鏡」同日条)。義経没の時点で、正当な理由もない為、後白河院は奥州侵攻許可を与えず。
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6月26日
・藤原泰衡、義経と通じていた弟の藤原忠衡(23、和泉三郎)を討ち、幕府に恭順の意を示す。
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6月27日
・泰衡追討の動員により諸国の軍勢1千騎が鎌倉に到着。
・「この間奥州征伐の沙汰の外他事無し。この事、宣旨を申さるるに依って、軍士等を催せらる。鎌倉に群集するの輩すでに一千人に及ぶなり。・・・而るに武蔵・下野両国は、御下向の巡路たるの間、彼の住人等は各々用意を致し、御進発の前途に参会すべきの由触れ仰せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
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6月30日
・大庭景能、追討宣旨が得られないまま奥州出陣をひかえる頼朝に対し、既に出兵を上申した以上、返事を待たず出兵すべきと献言。頼朝、奥州征伐の意志を固める。
「大庭の平太景能は武家の古老たり。兵法の故実を存ずるの間、故に以てこれを召し出され、奥州征伐の事を仰せ合わさる。曰く、この事天聴を窺うの処、今に勅許無し。なまじいに御家人を召し聚む。これをして如何。計り申すべしてえり。景能思案に及ばず、申して云く、軍中は将軍の令を聞く。天子の詔を聞かずと。すでに奏聞を経らるるの上は、強ちその左右を待たしめ給うべからず。随って泰衡は、累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり。綸旨を下されずと雖も、治罰を加え給うこと、何事か有らんや。就中、群参の軍士数日を費やすの條、還って人の煩いなり。早く発向せしめ給うべしてえり。申し状頗る御感有り。」(「吾妻鏡」同日条)。
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幕府の軍事行動に対する朝廷の干渉を排除する論理(勅許なき戦争を遂行する論理)。
①「軍中の論理」:
軍中では将軍の命令が天子の詔に優先する。「軍中聞将軍令、不聞天子之詔」は、漢の将軍周亜夫が配下の将兵に命じた言葉として「史記」に見える。
②「主従制の論理」:御家人と見なされる限りこれを討つのに朝廷の許可は不要。「私戦」である。
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7月8日
・千葉常胤、頼朝から旗の新調を命じられ、小山朝政から献上された絹を用いて、この日献上。同日、下河辺行平は新調の鎧を頼朝に献上(「吾妻鏡」同日条)。
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7月16日
・京都守護一条能保(頼朝の妹婿)の使いの後藤基清が鎌倉に到着。朝廷では義経が討たれたので奥州討伐は天下の大事となるため、今年は猶予せよとの宣旨が7日に発せられたとの報告をもたらす。
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「右武衛の使者後藤兵衛の尉基清、並びに先日これより上洛の飛脚等参着す。基清申して云く、泰衡追討の宣旨の事、摂政・公卿已下、度々沙汰を経られをはんぬ。而るに義顕出来す。この上猶追討の儀に及わば、天下の大事たるべし。今年ばかりは猶予有るべきかの由、去る七日院宣を下さるるなり。早く子細を達すべきの由、師中納言これを相触る。何様たるべきやと。この事を聞こしめ給い、殊に御鬱憤有り。軍士多く以て予参するの間、すでに若干の費え有り。何ぞ後年を期せんや。今に於いては、必定発向せしめ給うべきの由仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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7月17日
・頼朝、奥州征伐の部署を定める(東海道・北陸道・中路)。18日、雑色里長を奥州情勢探索の為出発させる。また、比企能員がこの日出陣。
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「奥州に御下向有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手に相分けらるべし。てえれば、所謂東海道の大将軍は千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具し、宇多行方を経て岩城岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡り参会すべきなり。北陸道の大将軍比企の籐四郎能員・宇佐美の平次實政は、下道を経て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種関に出て、合戦を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山の次郎重忠たるべきの由これを召し仰す。次いで合戦の謀り、・・・。仍って武蔵・上野両国内の党者等は、加藤次景廉・葛西の三郎清重等に従い、合戦を遂ぐべきの由、義盛・景時等を以て仰せ含めらる。次いで御留守の事、大夫屬入道に仰す所なり。隼人の佐・藤判官代・佐々木の次郎・大庭の平太・義勝房以下の輩候すべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳。
「十七日、乙亥。奥州下向について、終日審議。(軍勢を)三手に分ける。東海道の大将軍千葉介常胤・八田右衛門尉知家は、それぞれ一族らと常陸・下総国両国の勇士らを率い、宇大(ウダ)・行方(ナメカタ)を経由し、岩城・岩崎を廻って遇隈(アブクマ)河の湊を渡り、そこで(大手軍と)合流せよ。北陸道の大将軍比企藤四郎能員・宇佐美平次実政らは、下道(シモミチ)を経て上野国高山・小林・大胡・左貫などの住人を動員し、越後国から出羽国の念種関(ネスガセキ)に出て合戦を遂げよ。二品(頼朝)は大手軍として中路より下向する。(その)先陣は畠山次郎重患とする。次に、合戦の謀に優れていると評判の者の手勢が少ないので、軍功を立てがたいであろから、軍勢を付けるようにせよ、と定め、武蔵・上野両国内の者らは加藤次景廉・葛西三郎清重ら(の指揮)に従って合戦を遂げるように、と(和田)義盛・(梶原)景時らを通じて命じる。次いで、(鎌倉の)留守のことは、大夫属(タユウノサカン)入道(善信、三善康信)に仰せつける。隼人佑(三善康清)・藤判宮代(藤原邦通)・佐々木次郎(経同)・大庭平太(景能)・義勝房(成尋)をはじめとする者たちは待機するように、ということであった。」。
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7月19日
・頼朝、奏衡追討の宣旨を待たず奥州藤原氏征伐に出陣。
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「大手軍」、「東海道軍」、「北陸道軍」の3隊28万4千(実際は3~4万))に分け進撃開始。範頼は鎌倉守備。
①太平洋岸を進む東海道大将軍は千葉介常胤・八田知家の2将、夫々の一族と常陸・下総の軍勢を率い、宇太・行方郡を経て、岩城・岩崎を廻り、阿武隈川に向かい合流。
②日本海側から攻め込む北陸大将軍は比企能員・宇佐美実政2将、上野国高山・小林・大胡・佐貫等の軍を率い越後から出羽国念珠ヶ関に出る。
③中央を進む大手軍は頼朝が自ら率いて出陣、先陣は畠山重忠、大内義信・足利義兼・北条時政・新田義兼・小山朝政・三浦義澄・葛西清重・加藤景廉・和田義盛・梶原景時・河野通信・工藤祐経・佐々木兄弟ら鎌倉の大将が従う。熊谷次郎直実、従軍。途中、宇都宮・佐竹軍が合流。
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19日、梶原景時は、平永茂(長職)の従軍を頼朝に提案、許可され、更に永茂に城家の旗を用いることも許す。永茂は、会津4郡を奪われた恨みを奥州藤原氏に対して持つ。28日、頼朝軍、白河郡に入り、白河関を前に新渡戸駅に進駐。頼朝は、各御家人の手勢を申告させ、永茂の郎党が200余いるのに喜ぶ。戦後、論功行賞で永茂は御家人となり、奥山荘の荘司乃至地頭に補任される(「吾妻鏡」)。
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「丁丑 巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんが為発向し給う。この刻景時申して云く、城の四郎長茂は無双の勇士なり。囚人と雖も、この時召し具せられば何事か有らんやと。尤も然るべきの由仰せらる。仍ってその趣を長茂に相触る。長茂喜悦を成し御共に候す。但し囚人として旗を差すの條、その恐れ有り。御旗を給うべきの由これを申す。而るを仰せに依って私旗を用いをはんぬ。時に長茂傍輩に談りて云く、この旗を見て、逃亡の郎従等来たり従うべしと。御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫八十人馬前に在り。五十人は人別に征箭三腰(雨衣を以てこれを裹む)を荷なう。三十人は鋤鍬を持たしむ。次いで引馬三疋、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これなり。凡そ鎌倉出御の勢一千騎なり。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。鎌倉出御より御共の輩、・・・」(「吾妻鏡」同日条)
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奥州合戦の意義:
①頼朝自らの出陣(石橋山以後初めて)、②28万4千の大軍。全国からの動員。⇒武威を誇るデモンストレーション。
鎌倉殿への忠節度を見極める踏み絵。謀反人・囚人預かりとされる平家家人も参戦機会が与えられる。
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7月25日
・「二品下野の国古多橋の駅に着御す。」(「吾妻鏡」同日条)。
26日、佐竹秀義、源頼朝に臣下の礼をとり、奥州藤原氏征伐に従軍。「宇都宮を立たしめ給うの処、佐竹の四郎常陸の国より追って参加す。」(「吾妻鏡」同日条)。
28日、「新渡戸の駅に着き給う。・・・城の四郎の郎従二百余人なり。二品驚かしめ給う。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
29日、「白河関を越え給う。」(「吾妻鏡」同日条)。
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8月7日
・伊達郡阿津賀志山合戦。~10日。
頼朝軍、藤原秀衡長男国衡(泰衝の異母兄)が大将を務める奥州軍2万と遭遇。重忠率いる兵80人は泰衡側の阿津賀志山の城に構築した堀を埋める。葛西清重、先陣として活躍。佐藤庄司(佐藤継信・忠信の父)ら討たれる。平泉軍、敗走。10日、国衡、柴田郡で畠山重忠・和田義盛らに討ち取られる。多賀国府の南の国分原鞭楯にあった泰衡、戦わず北走。
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和田義盛、藤原国衡と弓矢一騎討ち。義盛の矢が早く、国衡の鎧の射むけの袖を射ぬき左肩へ。逃げる国衡を畠山重忠軍が追い、郎等の大串重親が首をあげる。翌日、船迫の頼朝の前で戦功でもめる。
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宇佐美実政・天野則景、由利惟平生捕りの功で争う。梶原景時の無礼な尋問に由利は答えず。畠山重忠は礼儀尽し穏やかに問い、由利は生け捕った者の鎧・馬の特徴を答える。畠山重忠、葛岡郡の惣地頭職に補任される。
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8月13日
・頼朝、陸奥国府の多賀城に到着。北陸道軍、出羽で田河行文・秋田致文を追討(「吾妻鏡」同日条)。
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8月22日
・頼朝、玉造郡を経て平泉に入城。泰衡捜索を命じ、千葉胤頼を衣川館に派遣。25日、前民部少輔藤原基成父子を捕捉(「吾妻鏡」同日条)。
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「申の刻、泰衡の平泉の館に着御す。主はすでに逐電し、家はまた烟と化す。・・・但し坤角に当たり、一宇の倉廩有り。余焔の難を遁る。葛西の三郎清重・小栗の十郎重成等を遣わしこれを見せしめ給う。沈紫檀以下唐木の厨子数脚これに在り。その内に納める所は、牛玉・犀角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃等の笏・金沓・玉幡・金華鬘(玉を以てこれを餝る)・蜀江錦の直垂・不縫帷・金造の鶴・銀造の猫・瑠璃の灯爐・南廷百(各々金の器に盛る)等なり。その外錦繍綾羅、愚筆余算に計え記すべからざるものか。象牙の笛・不縫帷は清重に賜う。玉幡・金華鬘は、また重成望み申すに依って同じくこれを給う。氏寺を荘厳すべきの由申すが故なり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
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8月26日
・泰衝、投降・亡命するゆえ許してほしいと頼朝に書状で嘆願。義経は父秀衡が扶持したもの、自分は頼朝命に従い義経を討った。奥州・出羽両国は既に頼朝沙汰に入っており、自分を赦して御家人に列して欲しい、叶わなければ、遠流されても構わない。頼朝、これを許さず。
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「・・・もし慈恵を垂れ、御返報有らば、比内郡の辺に落とし置かるべし。その是非に就いて、帰降走参すべきの趣これに載す。親能御前にて読み申す。・・・書を比内郡に置くべきの由、泰衡言上するの上は、軍士等各々彼の郡内を捜し求むべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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9月2日
・頼朝、岩井郡の厨河辺(盛岡市)に着。
「・・・祖父祖父将軍(頼義)朝敵を追討するの比、十二箇年の間所々に合戦す。勝負を決せず年を送るの処、遂に件の厨河の柵に於いて貞任等の首を獲る。曩時の佳例に依って、当所に到り、泰衡を討ちその頸を獲るべきの由、内々思案せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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9月4日
・奥州藤原氏滅亡。
泰衡(35)敗走の途中、比内郡贄柵(にえのさく、大館市)の郎従河田次郎を頼るが、河田は頼朝に寝返り泰衡を殺害。
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9月6日
・河田次郎、泰衡の首を志波郡陣ヶ岡蜂杜にいた頼朝に届ける。泰衡の首は安倍貞任の例にならい、梟首。頼朝は河田次郎を主人殺しの罪人として処刑・晒首。(「吾妻鏡」同日条)
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9月8日
・頼朝、京都の吉田(藤原)経房へ書状。鎌倉出立以降の経過を述べ、泰衡の首級不進上の理由を、「さしたる貴人にあらず、かつは相伝の家人なり」(「吾妻鏡」同日条)とする。
勅許なき戦いを「家人成敗権」の論理で正当化。奥州侵攻を「私戦」として敢行してきた覚悟を示す。
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9月9日
・頼朝、高水寺(紫波町)に安堵状を与える。比企朝宗に平泉寺塔を保護させる。この日、陣ヶ岡の頼朝のもとに泰衝追討の宣旨(7月19日付)がようやく届く。頼朝が諦めていた奥州侵攻を「公戦」とすることができる。10日、中尊寺心蓮らの陳情で、寺領を安堵。(「吾妻鏡」同日条)
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11月3日
・一条能保の飛脚が鎌倉(頼朝は10月24日に鎌倉帰着)に到着。奥州征討の功を賞し、降人の扱い、勧賞についての院宣が届く。頼朝は大いに喜ぶ。この月、頼朝は、大江広元を京都に派遣し、奥州征討の賞を辞退し、陸奥・出羽両国の管領を要求。12月にも。
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12月23日
・泰衝の遺臣大河兼任、出羽で挙兵。24日、頼朝、工藤行光・由利惟平に大河兼任追討命令。(「吾妻鏡」同日条)
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文治6年(1190)1月8日
・頼朝、足利義兼・千葉常胤・比企能員に陸奥の大河兼任追討命令。この日、千葉常胤、出陣。13日、常胤の長男・胤正、出陣。
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比企能員、東山道大将軍となり、上野・信濃の後家人を率いる。
「奥州叛逆の事に依って軍兵を分ち遣わさる。海道の大将軍は千葉の介常胤、山道は比企の籐四郎能員なり。・・・この外近国の御家人結城の七郎朝光以下、奥州に所領在るの輩に於いては、一族等に同道すべきの旨を存ぜず、面々急ぎ下向すべきの由仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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2月12日
・足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される。
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(奥州合戦の項、終り。戦闘詳細、功賞などは略しました)
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尚、この年2月26日
・西行(73)、河内の弘川寺にて没。
辞世「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
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2009年6月17日水曜日
2009年5月27日水曜日
比企能員一族の悲劇(2) 3.能員の活躍 清水義高残党討伐 平氏追討 宗盛訊問
3.能員活躍の足跡1(寿永3、4年)
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寿永3年(1184)5月1日
・頼朝、和田義盛・比企能員に対し、足利義兼(源姓足利氏)・小笠原長清と、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人と共に、義仲嫡男義高の残党が甲斐・信濃に隠れ、謀反を企てているとして、10日に甲斐に発向するよう命じる(「吾妻鏡」同日条)。
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この年4月21日、木曽義仲の嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔するが、
26日、頼朝家臣堀親家の郎党に捕われ、武蔵入間河原で斬られる。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
これを知った大姫は、実父頼朝が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
また、御台所(政子)は、義高を討った堀親家の郎党の処刑を命じる。
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(参考)
大姫関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/02/blog-post_1978.html
清水義高関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/04/blog-post_4500.html
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同年8月8日
・源範頼を総大将とした平氏追討軍1千余、鎌倉を進発。
従う武将は、北条義時・武田有義・千葉常胤・三浦義澄・比企能員・和田義盛・天野遠景・佐々木盛綱・結城朝光・足利義兼ら。
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同27日、入洛。(この頃、義経は無断任官のこともあり、追討軍には加えられていない)
9月1日、九州に向けて京を出発。
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11月
・この月初、範頼の追討軍は長門に入る。しかし、兵站ルートは延び、平氏勢力圏に近ずくほど補給は困難となる。
山陽道は前年からの飢饉のため、追討軍は食糧不足の危機に陥る。
また、平行盛が備後児島に上陸し、追討軍は彦島に拠る知盛と備後の行盛に挟撃される形となる。
範頼は、佐々木盛綱・渋谷重国5千を後戻りさせるが、本隊は長門から動けず。
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翌寿永4年(1185)年1月1日
・範頼はようやく赤間関到着。しかし、渡海しようとするが、船・兵糧なくこれを諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
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同12日
・豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟が、範頼の味方となり、範頼は、彼らに兵船の用意を命じる。
26日
兵船82艘が源氏側に提供され(周防の宇佐那木遠隆は食料を提供)、範頼以下39人の大将が豊後に渡る(「吾妻鏡」)。
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「惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。同時に進み渡るの輩 ・・・比企の籐内朝宗 同籐四郎能員 ・・・」(「吾妻鏡」26日条)。
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2月1日
・葦屋浦の合戦。
範頼軍、平家軍(原田種直)を葦屋浦で迎撃、勝利し、豊後(平家軍の背後に)に上陸。近隣制圧へ。別府温泉北方の鶴見郷古殿に本拠を構築。豊後橘頭砦。
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一方、この月16日
・義経(27)が、平家追討院宣を得て、更に正式の頼朝の命により150騎で摂津の渡辺に到着。この時、義経と梶原景時との「逆櫓論争」。
*
2月19日の屋島の合戦、3月24日の壇ノ浦の合戦(義経の勝利)に繋がってゆく。
*
この間、九州の範頼は兵糧不足などで苦境に陥る。
3月9日
・範頼の書状、鎌倉に到着。
豊後に渡ったが兵糧が得られないこと、義経が九州に入る噂があるが、義経が四国を沙汰し、範頼が九州を沙汰すると記す。
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11日
・頼朝は、九州にいる範頼や比企能員らに激励の手紙を送る。
「参州の御返報を遣わさる。・・・また関東より差し遣わさる所の御家人等、皆悉く憐愍せらるべし。就中、千葉の介常胤老骨を顧みず、旅泊に堪忍するの條殊に神妙なり。傍輩に抜んで賞翫せらるべきものか。凡そ常胤が大功に於いては、生涯更に報謝を尽くすべからざるの由と。また北條の小四郎殿並びに・・・比企の籐内朝宗・同籐四郎能員、以上十二人の中に、慇懃の御書を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
4月11日
・義朝の霊を弔う南御堂(勝長寿院)の立柱の日、義経から壇ノ浦合戦の源氏勝利の報が頼朝に届く。
翌日、戦後処理を評議。範頼は九州に留まり没官領などを調査・措置、義経には捕虜を連れての上洛を命じる。
*
「平氏滅亡の後、西海に於いて沙汰有るべき條々、今日群議を経らると。参河の守は暫く九州に住し、没官領以下の事これを尋ね沙汰せしむべし。廷尉は生虜等を相具し、上洛すべきの由定めらると。即ち雑色時澤・重長等、飛脚として鎮西に赴くと。」(「吾妻鏡」同12日条)。
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6月7日
・源頼朝、鎌倉に護送された平宗盛を簾中より眺め、比企能員を介して言葉をかける。
宗盛はただ助命と出家の意図を述べるだけで、並居る武士達の嘲笑を浴びる。「源平盛衰記」「平家物語」では、自決を暗示するが宗盛はその素振すら見せずと云う。
*
宗盛らを鎌倉に護送してきたのは義経であるが、義経は鎌倉入りを禁止される。
5月24日、義経は、腰越より書を大江広元に送り弁疏する(「腰越状」)。
*
この年末
11月29日
・文治の勅許。
兵を率いて入洛した北条時政の朝廷との折衝(頼朝追討院宣に対する責任追及と引替に)により、義経行家追捕のため諸国に守護・地頭の設置権と兵糧徴収権を朝廷に認めさせる。
「日本国総地頭」「日本国総追捕使」の地位獲得。
既に支配下にある東海・東山・北陸道を除く畿内5ヶ国をはじめ西国4道に、謀叛人跡の没収地の荘郷地頭を指揮する国地頭、荘郷惣追捕使の指揮権を掌握する国惣追捕使設置を認めさせる。
*
更に
12月6日
・頼朝、大江広元とらと協議して、廟堂粛清・朝廷政治改革案(「天下草創の時」)の院奏を作成。
*
同17日
・朝廷、頼朝の要請に応じ、義経の謀反に同意した輩(大蔵卿兼備後権守高階泰経、右馬頭高階経仲、侍従藤原能成(義経の同母弟)、越前守高階隆経、少内記中原信康)を解官。頼朝は追討宣旨の責任を追求することで、義経追討を名目に大幅な権限を朝廷に認めさせる。
18日、義経と懇意の高階泰経・経仲、藤原能成が解官される。
29日、17日に解官した高階泰経を伊豆に、刑部卿藤原頼経を解官の上安房に配流。更に、参議讃岐守平親宗、蔵人頭右大弁藤原光雅、左馬権頭平業忠、左大史小槻隆職、兵庫頭藤原章綱、左衛門少尉平知康・藤原信盛・中原信貞8名、解官。小槻隆職・中原信康は後白河院の近臣。
*
同28日
・親鎌倉派の九条兼実(37)、頼朝の要請により内覧の宣下を受ける。
*
to be continued
*
寿永3年(1184)5月1日
・頼朝、和田義盛・比企能員に対し、足利義兼(源姓足利氏)・小笠原長清と、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人と共に、義仲嫡男義高の残党が甲斐・信濃に隠れ、謀反を企てているとして、10日に甲斐に発向するよう命じる(「吾妻鏡」同日条)。
*
この年4月21日、木曽義仲の嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔するが、
26日、頼朝家臣堀親家の郎党に捕われ、武蔵入間河原で斬られる。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
これを知った大姫は、実父頼朝が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
また、御台所(政子)は、義高を討った堀親家の郎党の処刑を命じる。
*
(参考)
大姫関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/02/blog-post_1978.html
清水義高関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/04/blog-post_4500.html
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同年8月8日
・源範頼を総大将とした平氏追討軍1千余、鎌倉を進発。
従う武将は、北条義時・武田有義・千葉常胤・三浦義澄・比企能員・和田義盛・天野遠景・佐々木盛綱・結城朝光・足利義兼ら。
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同27日、入洛。(この頃、義経は無断任官のこともあり、追討軍には加えられていない)
9月1日、九州に向けて京を出発。
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11月
・この月初、範頼の追討軍は長門に入る。しかし、兵站ルートは延び、平氏勢力圏に近ずくほど補給は困難となる。
山陽道は前年からの飢饉のため、追討軍は食糧不足の危機に陥る。
また、平行盛が備後児島に上陸し、追討軍は彦島に拠る知盛と備後の行盛に挟撃される形となる。
範頼は、佐々木盛綱・渋谷重国5千を後戻りさせるが、本隊は長門から動けず。
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翌寿永4年(1185)年1月1日
・範頼はようやく赤間関到着。しかし、渡海しようとするが、船・兵糧なくこれを諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
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同12日
・豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟が、範頼の味方となり、範頼は、彼らに兵船の用意を命じる。
26日
兵船82艘が源氏側に提供され(周防の宇佐那木遠隆は食料を提供)、範頼以下39人の大将が豊後に渡る(「吾妻鏡」)。
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「惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。同時に進み渡るの輩 ・・・比企の籐内朝宗 同籐四郎能員 ・・・」(「吾妻鏡」26日条)。
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2月1日
・葦屋浦の合戦。
範頼軍、平家軍(原田種直)を葦屋浦で迎撃、勝利し、豊後(平家軍の背後に)に上陸。近隣制圧へ。別府温泉北方の鶴見郷古殿に本拠を構築。豊後橘頭砦。
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一方、この月16日
・義経(27)が、平家追討院宣を得て、更に正式の頼朝の命により150騎で摂津の渡辺に到着。この時、義経と梶原景時との「逆櫓論争」。
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2月19日の屋島の合戦、3月24日の壇ノ浦の合戦(義経の勝利)に繋がってゆく。
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この間、九州の範頼は兵糧不足などで苦境に陥る。
3月9日
・範頼の書状、鎌倉に到着。
豊後に渡ったが兵糧が得られないこと、義経が九州に入る噂があるが、義経が四国を沙汰し、範頼が九州を沙汰すると記す。
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11日
・頼朝は、九州にいる範頼や比企能員らに激励の手紙を送る。
「参州の御返報を遣わさる。・・・また関東より差し遣わさる所の御家人等、皆悉く憐愍せらるべし。就中、千葉の介常胤老骨を顧みず、旅泊に堪忍するの條殊に神妙なり。傍輩に抜んで賞翫せらるべきものか。凡そ常胤が大功に於いては、生涯更に報謝を尽くすべからざるの由と。また北條の小四郎殿並びに・・・比企の籐内朝宗・同籐四郎能員、以上十二人の中に、慇懃の御書を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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4月11日
・義朝の霊を弔う南御堂(勝長寿院)の立柱の日、義経から壇ノ浦合戦の源氏勝利の報が頼朝に届く。
翌日、戦後処理を評議。範頼は九州に留まり没官領などを調査・措置、義経には捕虜を連れての上洛を命じる。
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「平氏滅亡の後、西海に於いて沙汰有るべき條々、今日群議を経らると。参河の守は暫く九州に住し、没官領以下の事これを尋ね沙汰せしむべし。廷尉は生虜等を相具し、上洛すべきの由定めらると。即ち雑色時澤・重長等、飛脚として鎮西に赴くと。」(「吾妻鏡」同12日条)。
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6月7日
・源頼朝、鎌倉に護送された平宗盛を簾中より眺め、比企能員を介して言葉をかける。
宗盛はただ助命と出家の意図を述べるだけで、並居る武士達の嘲笑を浴びる。「源平盛衰記」「平家物語」では、自決を暗示するが宗盛はその素振すら見せずと云う。
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宗盛らを鎌倉に護送してきたのは義経であるが、義経は鎌倉入りを禁止される。
5月24日、義経は、腰越より書を大江広元に送り弁疏する(「腰越状」)。
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この年末
11月29日
・文治の勅許。
兵を率いて入洛した北条時政の朝廷との折衝(頼朝追討院宣に対する責任追及と引替に)により、義経行家追捕のため諸国に守護・地頭の設置権と兵糧徴収権を朝廷に認めさせる。
「日本国総地頭」「日本国総追捕使」の地位獲得。
既に支配下にある東海・東山・北陸道を除く畿内5ヶ国をはじめ西国4道に、謀叛人跡の没収地の荘郷地頭を指揮する国地頭、荘郷惣追捕使の指揮権を掌握する国惣追捕使設置を認めさせる。
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更に
12月6日
・頼朝、大江広元とらと協議して、廟堂粛清・朝廷政治改革案(「天下草創の時」)の院奏を作成。
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同17日
・朝廷、頼朝の要請に応じ、義経の謀反に同意した輩(大蔵卿兼備後権守高階泰経、右馬頭高階経仲、侍従藤原能成(義経の同母弟)、越前守高階隆経、少内記中原信康)を解官。頼朝は追討宣旨の責任を追求することで、義経追討を名目に大幅な権限を朝廷に認めさせる。
18日、義経と懇意の高階泰経・経仲、藤原能成が解官される。
29日、17日に解官した高階泰経を伊豆に、刑部卿藤原頼経を解官の上安房に配流。更に、参議讃岐守平親宗、蔵人頭右大弁藤原光雅、左馬権頭平業忠、左大史小槻隆職、兵庫頭藤原章綱、左衛門少尉平知康・藤原信盛・中原信貞8名、解官。小槻隆職・中原信康は後白河院の近臣。
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同28日
・親鎌倉派の九条兼実(37)、頼朝の要請により内覧の宣下を受ける。
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to be continued
2009年5月20日水曜日
比企能員一族の悲劇(1) 1.概観 2.頼家誕生
JR「鎌倉駅」から歩いても10分ほどのところに妙本寺があります。
ここは、建仁3年(1203)9月2日、北条氏によって滅ぼされた比企能員の屋敷跡です。
唯一京都に落ち延びた能員の末子能本が、学問で身をたてたあと日蓮に帰依し、日蓮門下最初の寺として、寺号「長興山妙本寺」を創建したもの。この寺号は、日蓮より父能員の法号に「長興」、比企尼(能員の養母)の法号に「妙本」を授かり、これに由来する。
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「妙本寺」についてはコチラ
*
この比企能員一族の悲劇の物語を、頼家の悲劇、政子の決断などを交えながら年表ふうに書いてゆくつもりです。
*
1.「比企の乱」概観
比企能員は、養母が頼朝の乳母比企尼(伊豆流人時代、頼朝に米などの仕送りを続け支援)。
頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍。
妻は2代将軍頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻で、子の一幡を生む。
将軍の外戚としての能員は、北条時政と並ぶ権力者だが、関東御家人の将軍頼家への不満をベースに、重病に陥った頼家の(将軍)後継ぎ問題に端を発し、時政との不和が表面化。
時政は先手を打ち、仏事と偽り能員を自邸に招き謀殺。
この報を受けた比企氏一族郎党は小御所(一幡の館)に篭城し抗戦の構えに出る。
これに対し、政子は、北条氏中心の比企氏追討部隊を派遣し、1日のうちに、一幡・若狭局共々比企氏一党を滅ぼす。更に兵を比企の屋敷(現妙本寺)に差し向け、比企一族を皆殺し。
直後に、頼家は病から回復するものの、出家を強要され、将軍職は弟実朝に移る。
その後、頼家は伊豆修善寺に幽閉され、時政に暗殺される。
*
2.頼家誕生
寿永元年(1182)7月12日
・北条政子、出産の為に比企能員の屋敷に移る。
「御台所御産気に依って、比企谷殿に渡御す。・・・千葉の小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景季等御共に候す。梶原平三景時、御産の間の雑事を奉行すべきの旨、仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
□現代語訳「十二日、庚辰。御台所(政子)が御産気のため、比企谷殿(比企能員の屋敷)へお移りになった。輿を用いられた。これはあらかじめそこが指定されていたという。千葉小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景李等が御供した。梶原平三景時は御産の間の雑事を取り計らうようご命令を受けたという。」。
*
8月12日
・北条政子、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて頼朝嫡男の万寿(のちの源頼家)を出産。18日、御七夜の儀。千葉常胤が奉行、妻・秩父重弘娘、子息6人がそれに従う。
*
「晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現並びに近国の宮社に立てらる。所謂、伊豆山 土肥の彌太郎 筥根 佐野の太郎 相模一宮 梶原の平次 三浦十二天 佐原の十郎 武蔵六所宮 葛西の三郎 常陸鹿嶋 小栗の十郎 上総一宮 小権の介良常 下総香取社 千葉の小太郎 安房東條寺 三浦の平六 同国洲崎社 安西の三郎」(「吾妻鏡」同11日条)。
*
*
「酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。」(「吾妻鏡」同12日条)。
*
頼朝が信頼を寄せる比企能員。
比企尼(頼朝の乳母、頼朝が伊豆に流されてからも20年間支援を続ける)の甥で猶子の比企能員が頼家の乳母父に選ばれる。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の3女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になる。
*
「若公誕生の間、代々の佳例を追い、御家人等に仰せ、御護刀を召さる。所謂、宇都宮左衛門の尉朝綱・畠山の次郎重忠・土屋兵衛の尉義清・和田の太郎義盛・梶原平三景時・同源太景季・横山の太郎時兼等これを献ず。また御家人等が献ずる所の御馬、二百余疋に及ぶ。」(「吾妻鏡」同13日条)。
*
「若君三夜の儀、小山の四郎朝政これを沙汰すと。」(「吾妻鏡」同14日条)。
「鶴岡宮の六齋講演を始めらる。」(「吾妻鏡」同15日条)。
「若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。
「七夜の儀、千葉の介常胤これを沙汰す。」(「吾妻鏡」同18日条)。
「若君九夜の御儀、外祖これを沙汰せしめ給う。」(「吾妻鏡」同20日条)。
*
〇比企尼
「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
源義朝が鎌倉にいる頃、比企掃部允は義朝の家人となっており、義朝が武家の棟梁として京都で活躍するようになると、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝側近として奉公する。
久安3年(1147)、頼朝が誕生し、妻の比企尼がその乳母に選ばれる。
平治元年(1159)、平治の乱で義朝が清盛に敗れ、頼朝(14)が伊豆国に流罪となる。
武蔵国比企郡の代官となった比企掃部允は比企尼と共に比企郡中山郷へ下り、治承4年(1180)秋まで20年間頼朝に仕送りを続ける(「吾妻鏡」寿永元年10月17日条)。
比企尼は男子に恵まれず、家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎える。
文治年2年(1186)6月16日と文治3年(1187)9月9日、頼朝・政子の夫妻は尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催す。
*
比企尼には3人の娘があり、
①長女:二条天皇に仕える丹後内侍で、すぐれた歌人として知られ、惟宗広言に嫁ぎ、島津家先祖島津忠久を生む。また、平治の乱後、比企掃部允夫妻が武蔵に下ると、り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚(その娘は頼朝の異母弟範頼の妻)。
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②二女(頼家乳母):武蔵の有力豪族河越重頼の妻(その娘は頼朝の異母弟義経の妻)。
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③三女(頼家乳母):伊豆の有力豪族伊東祐清に嫁ぎ、祐清が討たれた後、平賀義信と再婚(子は朝雅で、北条時政の女と結婚)。
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また、比企能員の娘(若狭局)は頼家と結婚し、一幡と竹御前を生む。
一幡は比企の乱で殺害(異説あり)され、竹御前は政子没後、九条家の将軍頼経と結婚するものの若くして没。
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一方、頼家の弟千幡(実朝)は北条氏が掌握。
政子の妹阿波局が乳母になり、その夫阿野全成が乳母夫になる。
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頼朝・政子の2人の男子は、夫々比企氏・北条氏を乳母父関係に持ったことで、抗争の火種を宿す結果となる。
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to be continued
ここは、建仁3年(1203)9月2日、北条氏によって滅ぼされた比企能員の屋敷跡です。
唯一京都に落ち延びた能員の末子能本が、学問で身をたてたあと日蓮に帰依し、日蓮門下最初の寺として、寺号「長興山妙本寺」を創建したもの。この寺号は、日蓮より父能員の法号に「長興」、比企尼(能員の養母)の法号に「妙本」を授かり、これに由来する。
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「妙本寺」についてはコチラ
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この比企能員一族の悲劇の物語を、頼家の悲劇、政子の決断などを交えながら年表ふうに書いてゆくつもりです。
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1.「比企の乱」概観
比企能員は、養母が頼朝の乳母比企尼(伊豆流人時代、頼朝に米などの仕送りを続け支援)。
頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍。
妻は2代将軍頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻で、子の一幡を生む。
将軍の外戚としての能員は、北条時政と並ぶ権力者だが、関東御家人の将軍頼家への不満をベースに、重病に陥った頼家の(将軍)後継ぎ問題に端を発し、時政との不和が表面化。
時政は先手を打ち、仏事と偽り能員を自邸に招き謀殺。
この報を受けた比企氏一族郎党は小御所(一幡の館)に篭城し抗戦の構えに出る。
これに対し、政子は、北条氏中心の比企氏追討部隊を派遣し、1日のうちに、一幡・若狭局共々比企氏一党を滅ぼす。更に兵を比企の屋敷(現妙本寺)に差し向け、比企一族を皆殺し。
直後に、頼家は病から回復するものの、出家を強要され、将軍職は弟実朝に移る。
その後、頼家は伊豆修善寺に幽閉され、時政に暗殺される。
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2.頼家誕生
寿永元年(1182)7月12日
・北条政子、出産の為に比企能員の屋敷に移る。
「御台所御産気に依って、比企谷殿に渡御す。・・・千葉の小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景季等御共に候す。梶原平三景時、御産の間の雑事を奉行すべきの旨、仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳「十二日、庚辰。御台所(政子)が御産気のため、比企谷殿(比企能員の屋敷)へお移りになった。輿を用いられた。これはあらかじめそこが指定されていたという。千葉小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景李等が御供した。梶原平三景時は御産の間の雑事を取り計らうようご命令を受けたという。」。
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8月12日
・北条政子、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて頼朝嫡男の万寿(のちの源頼家)を出産。18日、御七夜の儀。千葉常胤が奉行、妻・秩父重弘娘、子息6人がそれに従う。
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「晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現並びに近国の宮社に立てらる。所謂、伊豆山 土肥の彌太郎 筥根 佐野の太郎 相模一宮 梶原の平次 三浦十二天 佐原の十郎 武蔵六所宮 葛西の三郎 常陸鹿嶋 小栗の十郎 上総一宮 小権の介良常 下総香取社 千葉の小太郎 安房東條寺 三浦の平六 同国洲崎社 安西の三郎」(「吾妻鏡」同11日条)。
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「酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。」(「吾妻鏡」同12日条)。
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頼朝が信頼を寄せる比企能員。
比企尼(頼朝の乳母、頼朝が伊豆に流されてからも20年間支援を続ける)の甥で猶子の比企能員が頼家の乳母父に選ばれる。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の3女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になる。
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「若公誕生の間、代々の佳例を追い、御家人等に仰せ、御護刀を召さる。所謂、宇都宮左衛門の尉朝綱・畠山の次郎重忠・土屋兵衛の尉義清・和田の太郎義盛・梶原平三景時・同源太景季・横山の太郎時兼等これを献ず。また御家人等が献ずる所の御馬、二百余疋に及ぶ。」(「吾妻鏡」同13日条)。
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「若君三夜の儀、小山の四郎朝政これを沙汰すと。」(「吾妻鏡」同14日条)。
「鶴岡宮の六齋講演を始めらる。」(「吾妻鏡」同15日条)。
「若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。
「七夜の儀、千葉の介常胤これを沙汰す。」(「吾妻鏡」同18日条)。
「若君九夜の御儀、外祖これを沙汰せしめ給う。」(「吾妻鏡」同20日条)。
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〇比企尼
「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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源義朝が鎌倉にいる頃、比企掃部允は義朝の家人となっており、義朝が武家の棟梁として京都で活躍するようになると、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝側近として奉公する。
久安3年(1147)、頼朝が誕生し、妻の比企尼がその乳母に選ばれる。
平治元年(1159)、平治の乱で義朝が清盛に敗れ、頼朝(14)が伊豆国に流罪となる。
武蔵国比企郡の代官となった比企掃部允は比企尼と共に比企郡中山郷へ下り、治承4年(1180)秋まで20年間頼朝に仕送りを続ける(「吾妻鏡」寿永元年10月17日条)。
比企尼は男子に恵まれず、家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎える。
文治年2年(1186)6月16日と文治3年(1187)9月9日、頼朝・政子の夫妻は尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催す。
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比企尼には3人の娘があり、
①長女:二条天皇に仕える丹後内侍で、すぐれた歌人として知られ、惟宗広言に嫁ぎ、島津家先祖島津忠久を生む。また、平治の乱後、比企掃部允夫妻が武蔵に下ると、り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚(その娘は頼朝の異母弟範頼の妻)。
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②二女(頼家乳母):武蔵の有力豪族河越重頼の妻(その娘は頼朝の異母弟義経の妻)。
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③三女(頼家乳母):伊豆の有力豪族伊東祐清に嫁ぎ、祐清が討たれた後、平賀義信と再婚(子は朝雅で、北条時政の女と結婚)。
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また、比企能員の娘(若狭局)は頼家と結婚し、一幡と竹御前を生む。
一幡は比企の乱で殺害(異説あり)され、竹御前は政子没後、九条家の将軍頼経と結婚するものの若くして没。
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一方、頼家の弟千幡(実朝)は北条氏が掌握。
政子の妹阿波局が乳母になり、その夫阿野全成が乳母夫になる。
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頼朝・政子の2人の男子は、夫々比企氏・北条氏を乳母父関係に持ったことで、抗争の火種を宿す結果となる。
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