2022年6月30日木曜日

自宅近く 信濃白旗神社で茅の輪くぐり 公園にはクリナム(インドハマユウ)、ムクゲ(八重ムクゲ)、ハンゲショウ 2022-06-30

 6月30日(木)、はれ

熱暑続く。

今日、通りがかった東戸塚駅近くの信濃白旗神社に夏越の大祓いの茅の輪が設置されていて、ご自由におくぐりください、とのことなのでくぐらせて戴いた。説明の紙には、くぐる際に唱えるべき口上が示されていたが、覚えきれないのと後ろに2人の方がならばれたので、口上なしでくぐるだけにしておいた(但し、作法通り左右に分けて3回のくぐりは行った)。

口上の中の「蘇民将来」というのは人物の名前ということを初めて知った。

今年の前半(1月~6月)の総歩数実績は日割りにすると10,400歩となった。順調に目標はクリヤ中だ。



▼近所の公園

アジサイが終って、クリナム(インドハマユウ)、ムクゲ(八重ムクゲ)、ハンゲショウなど真夏の花に替わりつつある。






改憲論議「1年や2年以内とスケジュール感共有重要」 自民・茂木氏(朝日); 経済をよくすることが出来ず、国を発展させられず、国民の生活を向上させることが出来ないから、改憲にしがみついている。無能。(平野啓一郎) / 「消費減税は財源セットでないと非現実的」自民・茂木氏(朝日); 消費税は法人税減税の穴埋めに使われている(安倍晋三も国会でそれを認めた)。また、軍事費増強では財源の話はセットしないで、社会保障費のときには財源が話題になるのはナゼ?           

 

憲法への新設が議論 「緊急事態条項」の危険性(YouTube);「権力分立が停止することで人権が極度に制限される危険性が高いと専門家は指摘する。この問題に詳しい永井幸寿弁護士に話を聞いた。」

 

〈藤原定家の時代041〉治承3(1179)8月~10月 後白河、重盛の知行国越前を院分国とし側近俊盛・季能父子を知行国主・国守とする 関白基房の子師家(8)権中納言 「法皇の過怠」「関白の罪科」(『玉葉』)   

 



治承3(1179)

8月30日

・後白河法皇、「治承新制32ヶ条」発布。万物沽価法、物価統制法。

新制に基く市町への検非違使4番隊編成の出動巡回(「大夫尉義経畏中記」治承3年10月30日条)

9月

・右大臣九条兼実の歌合。源頼政、病で欠席。

10月

・平知盛、左兵衛督となる。平知盛・平経盛、比叡山追討使に任命。

・京都に強盗横行。

10月3日

・追討使平教盛(参議)・押領使平清貞(きよさだ、教盛の郎党)、延暦寺の堂衆を討ち、近江の寺領3ヶ荘を焼く。

「延暦寺堂衆近江国三ケ庄を追捕す。仍りて件の輩を追討すべきの由、 これを仰せ下さる。参議教盛卿、これをうけたまはり、官兵を遣はすの処、堂衆退散し、城廓を横川に構ふ。仍りて重ねて官軍を差し遣はす。」(「百錬抄」同日条)。

10月9日

・後白河法皇、平重盛家の知行国越前を院分国とし側近藤原俊盛・季能父子を知行国主・国守に据える。平通盛、越前守罷免。重盛は一門主流派と違い後白河との協調を志向していたが、その家が多年確保してきた知行国を押収することは、平氏に対する公然たる挑発、11月のクーデターの引き金の一つになる。

10月9日

・藤原定家の義兄中御門宗家、大納言に就任。定家・成家兄弟は拝賀の行列に騎馬で従う(「山槐集」)。

10月9日

・関白松殿基房の子師家(8)、藤原兼房・基通・隆忠・良通らを差置いて権中納言に昇進。基通を支えてきた清盛の面目は丸潰れ、院との対立尖鋭化

兼実(基実・基房の異母弟)は『玉葉』で、法皇や関白基房のこうした態度について「法皇の過怠」であり、「関白の罪科」であると批判。

「此の事の由来は、法皇、越前国を収公せられ、并びに白川殿の倉預を補せらる、已上両事は法皇の過怠と云々。三位中将師家、二位中将基通を超えて中納言に任ず、師家は年わずかに八歳、古今例なし、これ博陸の罪科なり。凡そこの法皇と博陸と同意し、国政を乱さるるの由、入道相国攀縁すと云々。然るの間、昨日夕、禅門数千騎の随兵を率いて入洛の後、天下鼓騒し、洛中遽動す」(「玉葉」11月15日条)。

10月18日

・藤原俊成を判者に「右大臣兼実家歌合」を開く。これ以降、兼実の和歌の熱は冷める。兼実は和歌を摂関への修業の道と捉え、子の良経にもこれを課す。

兼実は父忠通を範とし摂関となり、子の良経にもこれを求める。兼実は父忠通が娘(皇嘉門院)を崇徳の妃にしたのに倣い、娘を鳥羽の妃とする。王朝の政治と文化の相関関係を学び、これを子息・子女に実践させる。

10月19日

・山門堂衆が横川に城郭を構えたので、この日、知盛・経盛の派遣が決定。しかし、すぐには山門攻撃を行わず、25日には和平を堂衆に勧める。

10月25日

・藤原定家(18)、大納言藤原宗家の拝賀に参仕、前駆を勤める(「山愧記」)。


つづく

2022年6月29日水曜日

梅雨明けの片瀬西浜海岸と富士山 龍口寺前の江ノ電 2022-06-29

 6月29日(水)、はれ

猛暑続く。

今日も朝から江の島から富士山が見えるようなので、行ってみた。片瀬西浜に着いたのがほぼ午前11時。ギリギリ見える状況だった。

街中に比べると海岸はかなり涼しく!、富士山みたり海を見たりしながら暫くボケーとしていた。鎌倉高校前くらいまで歩こうかなと思って歩き始めたけど、身体の耐性が出来上がるまではムリしないでおこうと思いとどまって、龍口寺前で撮り鉄さんの真似事をしてUターンした。







▼ツイッター投稿分

〈藤原定家の時代040〉治承3(1179)4月~7月 平盛子(故基実の妻)没 所領(摂関家所領)を院領とする 山門追討の宣旨 重盛(清盛長男)没 

 



治承3(1179)

4月

・この月にも多くの貴族が厳島に詣でる。

「この日、中御門左府(なかみかどさふ)も参り給ひけり。三条左大臣入道その時大納言なり。六条の太政大臣の中将にて侍(はべ)りけるもおはしける伴ひ申されけり。この度の事にや。中将かの島の宝前にて太平楽の曲をまはれけるが面白かりける事也。」(『古今著聞集』)

東宮傅の左大臣藤原経宗(中御門左府)や大納言藤原実房(三条左大臣入道)、中将藤原頼実(六条の太政大臣)なども厳島を訪れたという。花山院忠雅も清盛に勧められ、5月2日に参詣する約束をしており、仁和寺の守覚法親王も勧められていた(『玉葉』)。

4月11日

・高倉天皇第3皇子惟明親王、誕生。母は少将局。

4月16日

・後白河院の第八皇子が出家。のち、仁和寺二品(にほん)、道法(どうほう)法親王。

「内々猶予の儀ありて出家を抑留」していた第八皇子の、「東宮降誕の後」の出家は(『山槐記』)、彼を天皇の跡継ぎに立てる必要がなくなった結果である。

4月18日

・高倉天皇第3皇女潔子内親王、誕生。母は按察典侍。

4月21日

・平維盛(23)、賀茂祭において東宮使を務める。

5月14日

・清水寺の悪僧、祇園社大衆と合戦、八坂の塔を焼き払う。

5月19日

・検非違使別当平時忠(53)、強盗12名の右手首を切る。

5月25日

・平重盛、病により出家。 

重盛は2月の東宮の百日(ももか)の祝に出席した後、病によって籠居するようになり、3月に熊野へ詣でて、「後世」のことを神に告げた。その後やや回復したかに見えたが、「不食」(ふじき)に陥り、ついにこの日、出家。父子並んでの出家の例には摂関家の忠実・忠通の場合があると『山槐記』は記す。

5月28日

・夜地震。

6月

・宋銭流入で物価混乱。貨幣経済に不馴れな京都大番役の関東武士達は平家不支持へ。一部の貴族から宋銭停止論。

・前太政大臣藤原忠雅、厳島参詣。

・後白河上皇、山科山荘に行く。

「上皇山科新御所に移徒(いし)す。本是(もとこれ)雅宝僧都の領なり。故建春門院に進(まいら)せらる。飛泉あるによってなり。去年造営せらる」(「百錬抄」6月条)。後白河没後、冷泉教成はこの山科山荘跡地に御影堂を建立。

6月7日

・清盛、延引されていた忠雅の厳島詣に同行し、経供養を行い、巫女の内侍による田楽などを楽しむ。

6月15日

・藤原定家(18)、祇園臨時祭の使を勤める(「玉葉」)。

6月17日

・故藤原基実室平盛子(24、清盛の女、東宮の准母(じゆんぼ))、没。

後白河法皇(53)、その所領(もと摂関家所有)をが没収、院領(「内(うち)の御沙汰」)とし、その倉預かりに前大舎人頭平兼盛を任命。兼盛は院北面藤原能盛(よしもり)の弟で、2月にはその邸宅において天皇と藤原信隆の娘との間の皇子が生まれたばかり。なおこの第二皇子(のちの後高倉院)はすぐに平知盛が乳父となって養育することとされていた。この時の所領の処理は、右大臣兼実でさえ「過怠」(過ち」)と評するほどの行き過ぎ。

これまで、反平氏の動きの黒幕でありながら、表面はさりげない態度をとっていた後白河が、いよいよその仮面をぬぎ捨てた。鹿ヶ谷事件前後からくすぶっていた法皇と清盛との対立がいよいよ深刻となり、その関係がきわめて険悪となった。11月クーデタ(後白河院幽閉)の引き金の一つとなる。

『百錬抄』には、この頃に天下上下に病が流行しており、それは「銭(ぜに)の病」と称されたという。平氏が日宋貿易によって中国からもたらした大量の銭が引き起こした物価の高騰などに関連づけられての命名であろう。

「白川准后 盛子、入道前相国女、故中院摂政室家、一所資財庄園、皆件の人の領なり、生年廿四、去んむる夜薨去すと云々、・・・天下の人謂う『異性の身を以て藤氏の家を伝領す、氏の明神これを悪み、遂にこの罰を致す』と云々。余思う所は、若し大明神この事を咎めば、いずくんぞ十四年の間、その罰を与えざらん。何ぞ況んや、この後かの資財所領等、豈に藤氏に付けられん乎。計らいおもへらく公家の沙汰歟、・・・仮に伝領するの人、已に亡没す。この時に至り、財主出来すべき歟。宗たる所、氏長者に付せらるべし。その外の所々、理に任せて尤も配分せられるべきなり。理の当たるところ、未だ処分せざるの地なり。故摂政、男女子息その数あり。尤も配分せらるべし。二品亜相已に成人の息たり。宗たる文書庄園、伝領せらるべきの仁なり。而るにこの事さらに叶うべからざる歟。公家、伝領せらるるごとき歟。ここを以て万事沙汰の趣、愚推するところなり。・・・悲しき哉、この時、藤氏の家門、滅び尽くし了ぬ」(「玉葉」6月18日条)

7月7日

・地震。21日にも地震。

7月20日

・この頃から、重盛の病状悪化。

7月25日

・山門追討の宣旨が下る。

山門の衆徒・堂衆の争い

治承元年(1177)の山門攻めは、鹿ヵ谷事件によって回避できたが、その後、山門で内部抗争が始まり、再び平氏に追討が命じられた。

この延暦寺の内部分裂は、叡山の学侶方(学問僧)勢力と堂衆(下級僧侶)勢力とが対立し、しだいに堂衆の主導権が強化されていったため、学侶方と親密な関係にあった平氏の立場が微妙となり、清盛としても、堂衆の不穏な動きへの対応に苦慮せざるを得なかったのである。法皇の公然たる挑戦(10月人事)も、あるいはそうした平氏の苦境を見た上での行動であったとも思われる。

『平家物語』によると、抗争の発端は、越中国に下っていた衆徒の叡俊(えいしゆん)が釈迦堂の堂衆義慶(ぎけい)の関与していた土地を奪ったことから、義慶が叡俊を敦賀津で襲ったことにある。これによって両者がそれぞれ衆徒と堂衆に訴えて、衆徒と堂衆が争う衆徒・堂衆合戦が起きたという。衆徒は叡俊が大将軍として大納言岡(だいなごんおか)に城郭を、堂衆は東湯坊に城郭をそれぞれ構え、ついに合戦に及んだ。これが、前年の治承2年(1178)10月で、堂衆は「八人しころを傾て城の木戸口へ責寄」せ、迎え撃った叡俊を討ち取った。

堂衆について『平家物語』は「学生(がくしよう)の所従なりける童部が法師になりたるや。若は中間法師原にてありける」と記し、「三塔に結番(けちばん)して、夏衆(げしゆう)と号して仏に花まいらせし者共なり」と語るように、堂を守護し仕える身分の低い僧であった。山門では西塔・東塔・横川の三塔に所属して散在し、「借上出挙(すいこ)」などの高利貸し活動で富裕になったとされている。

この合戦の後、東湯坊を退き近江国三ヵ荘に下った堂衆は、「古盗人、古強盗・山賊・海賊」などの「悪党」を呼び集め、近江国だけでなく摂津・河内・大和・山城などの「武勇の輩」を広く集め、再び登山して早尾坂(はやおざか)に城郭を構えた。

この年、治承3年6月、両者が勝負を決するとの噂が流れ、ここに衆徒が朝廷に訴えたことから、追捕の宣旨が出されることになった。

山門堂衆追討の命令

宣旨は、官軍を派遣して近江三ヵ荘とその近くに住む堂衆を追い払い、横川・無動寺(むどうじ)に立て籠る堂衆を攻め落とすこと、検非違使に命じて京中に潜む堂衆を搦め取り、さらに諸国に逃れるものは国司が追捕することという内容であったが、その際に派遣される官軍は清盛が計らい定めることとされた。

再び平氏に追討が命じられたが、清盛はなかなか追討使を派遣しなかった。宣旨が出された直後に重盛が亡くなったことや、伊勢神宮に公卿勅使を派遣することなどがあり、また山門との合戦は避けたかったからである。

7月29日

・深夜、清盛の長男(前内大臣)重盛(42)、没。時子の長子宗盛が嫡子の地位を継承。

重盛の知行国であった越前国を、清盛に断ることもなく後白河が没収(10月9日、院近臣の藤原季能が越前守に任じられる)。

小松家は重盛の長子権亮少将維盛が後継と言われているが、、、

小松家は全体としての停滞斜陽のなかで、後継者をめぐって抜きつ抜かれつのシーソーゲームを繰り返していた。維盛は嫡子でなかったし、「嫡子」化してもその地位はすぐ不安定な状態になった。ところが『平家物語』、とくに語り本系では、ことあるごとに重盛-維盛を平家嫡流と強調する。そして、内乱が頼朝の完勝に終わったのち、頼朝は平家の公達を根絶やしにしようと執拗な追及を続けた。嫡流の最後である維盛の子六代も、文覚必死の助命嘆願や出家によりかろうじて永らえていたが、ついに斬られたことを述べ、「それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ」という文章で結んでいる(覚一本巻十二「六代被斬」)。語り本の八坂系ではこれが全巻の結語ですらある。

従来『平家物語』研究は、維盛が嫡子であるのを当然の前提とし、平家一門の重盛-維盛-六代の系統の物語を、その骨格の全体ではないが、すくなくとも一部であるとみなしてきた。しかし、それが史実でないとすれば、そういう構成になっているのはいったいなぜか、という疑問が浮上するだろう。維盛の陰にかくれて見えなくなった小松家の歴史に光をあてる研究が出始めているいま、『平家物語』の研究者ならずとも、興味ある設問である。

(「平家の群像」)

『言泉集(ごんせんしゅう)』という表白の模範文例集には、死の直前に行なった逆修(ぎゃくしゅう、生前、自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ること)に際し、澄憲(ちょうけん、信西の子)につくらせた表白の一節が載っている。それによると「十痊(せん、十全カ)の医療も及ばず、三宝の霊験も至ること無く、遂に飾(かざ)り(頭髪)を落とし、衣を染めて、家を出、道(仏道)に入る」とある。体調は前年の冬から悪かったらしく、七月に入ってもはや命旦夕に迫るを深く自覚していた。重盛は形の上とはいえ平家の代表者だった。その彼が没してしまえば、小松家の前途には暗雲が垂れこめる。そのなかでいち早く後白河にすり寄っていったのが資盛だったと思われる。(「平家の群像」)

重盛を嫌っていた兼実は「今暁、入道内府薨去と云々、或る説、去る夜と云々」と簡単に記し、相つぐ清盛の子の死は西光法師の怨霊によるものであるという片仮名書きの落書が内裏に置かれていたと記す。

『愚管抄』は、重盛が「心ウルハシクテ、父入道カ謀反心アルトミテ、トク死ナハヤ、ナト云卜聞コへ」たと記しており、高く評価している。

『平家物語』も「文章うるはしくて心に忠を存じ、才芸正しくて詞に徳を兼ねたり」とその性格を称え、常に清盛を諌めていたが、一門の栄華はつきてやがて平家は滅ぶことであろうことを予感し、大国で修善を行えば、亡くなった後も絶えることはなかろうということで、家人の平貞能に命じて中国に2200両の金を寄付して医王山(いおうさん)での祈祷を行ってもらうように託した話など、多くの逸話を載せている。

『百練抄』も、武勇は人に優れており、心操は穏やかであった、と指摘する。

医師問答(いしもんどう、「平家物語」巻3):

重盛は熊野詣の際、清盛が自分の諫言に従わない、栄華が父1代限りで終わるのなら、自分の命を縮めて来世の苦しみを助けて欲しいと祈る。熊野から帰って数日後、重盛は病気になるが、熊野権現が願いを聞き入れてくれたと考え治療もせず。清盛は心配して越中守盛俊を使者にして治療を受けるよう勧めるが、その返事は諫言。

無文(むもん、「平家物語」巻3):

重盛は、嫡子維盛に、葬儀に使う無文の太刀を与えたことがあった。前もって悟っていたかのようだ。

灯炉之沙汰(とうろのさた、「平家物語」巻3):

重盛は信仰心が篤く、来世での幸不幸を心配して、東山の麓に阿弥陀48願になぞらえて48間の御堂を建て、1間に一つずつ48の灯籠をかける。人はこの人を灯籠大臣と呼ぶ。

金渡(かねわたし、「平家物語」巻3):

また大臣は3千両を宋へ運び後世を弔ってもらえるようにしている。


つづく

2022年6月28日火曜日

大船フラワーセンター 蓮各種が見頃(品種、花数多い) キキョウ ギボウシ ハイビスカス 熱帯睡蓮 夏バラ各種が見頃(多い) ネムノキ ムクゲ 2022-06-28

 6月28日(火)、はれ

熱暑の日が続いている。今日、大船フラワーセンターに出掛けたが、あのまずまず広い駐車場に車が3台、園内でも一望して他の入園者が見えないか見えても一組くらいで、多分、ビジターとしての入園者はマックス20名いたかどうかくらいだった。

ま、暑さでけではなく、この植物園、紫陽花はもともとショボいし、花菖蒲も最近はパッとしないし、時期的にはこの二つとも終わってしまって、今の見どころは「蓮」のみというこという材料の少なさも影響していると思う。

透かしユリは終わっていて、オニユリはまだだった。

ただ、一般的にはあまりパッとしない夏バラが、これは意外だったんだけど、しっかりキレイに咲いていた。

▼蓮

今は鉢植えが主流だが、品種も多い。たくさん開花している。





▼キキョウ
このぷっくりもなかなかカワイイ

▼ギボウシ これも品種は多い

▼ハイビスカス

▼熱帯睡蓮

▼夏バラ サン・ガッディス

▼イングリッド・バーグマン

▼オドゥール・ダムール

▼ヨハネ・パウロ2世


▼ネムノキ 

▼ムクゲ

BETアワードのプレゼンターを務めたジャネール・モネイが生中継で中指を立てて「Fuck you, Supreme Court」と言い放つ。 「黒人女性、黒人クィア、そして黒人ノンバイナリーのアーティストにとっておきのエールを送りたい。皆や私の身体、そして皆や私の決断をコントロールし取り締まろうとする世界で、私たちの真実を胸に自由に、堂々と自分たちの方法でアートを表現しているアーティストたちへ。(中指を立てて)くたばれ、最高裁判所。私たちは私たちを祝福する。今こそ絶対に祝福するに値する。私たちが持つ権利と真実を守ることによって、私たちのアートを祝福しないといけない。」

 

▼実は、「クィア」も「ノンバイナリー」も、知らなかったので、、、、、

【野党第1党を狙う 維新の野望と実情/小倉健一】(1)目玉候補から一転 不人気の猪瀬直樹氏に「公然セクハラ騒動」勃発! / (2)減税と増税、本当はどちらをやりたいの? 幹部は「減税は無理」と明言 / (3)日本維新の会には「政調会長」が2人も…言うことバラバラで不仲という“特殊な体制” / (4)減税を叫ぶのはあくまで選挙対策 増税政党としてのスタンスを明確にしはじめている / (5)吉村洋文大阪府知事の「子どもたちにツケを残さない」という主張は本当か / (6)街頭演説で「学校給食費無償化」をアピールすることへの違和感  「所得制限つけながらの完全無償化」(音喜多) / (7)維新共同代表が演説で叫ぶ「私立高の無償化」で大阪は東京に負けている                      

 



 

=========================== ▼余談ですが、、、、、

〈藤原定家の時代039〉治承3(1179)1月~3月 定家(18)父俊成より古今・御撰両集の口伝を受ける 定家(18)内の昇殿「始めて青雲の籍に通じ、遠く朧月の前を歩む。時に十八」 赦免された丹波少将成経・平判官康頼入洛    

 


〈藤原定家の時代038〉治承2(1178)11月~12月 高倉天皇(18)と中宮徳子に言仁親王(安徳天皇)誕生 翌月立太子 源頼政(74)従三位 より続く

治承3(1179)

1月

・平時子、平徳子・言仁親王御所に参内。

・平重衡、左近衛中将となる。

・宗盛が東宮大夫を辞任して花山院兼雅が大夫になり、権大夫には知盛が任じられている。

・平時忠が検非違使の別当に任じられているが、これは忠雅の弟の藤原忠親が別当を辞任した替えであった

・平清盛、重盛の子清経らを供にして厳島に詣でる。

1月6日

・東宮御生誕50日の「五十日(いか)の祝」が閑院内裏で行なわれる。閑院内裏は左京3条2坊15町16町(二条大路南、三条坊門小路北、西洞院大路西、油小路東の二町)を占め、高倉天皇の内裏。

1月11日

・伊勢斎宮功子内親王(高倉天皇第1皇女)の母(高倉天皇乳母、帥局)、没。

1月11日

・清盛の富士山参詣計画。

この日、参院して法皇に挨拶、さらに参内して天皇や中宮・東宮にも挨拶を終え、2日後には富士山に向かう予定。ところが、前日、急遽延引され、代わりに知盛が代官として派遣されることになった。しかしこれも中止となる(『山槐記』)。

富士山は、都良香(みやこのよしか)の『富士山記』が、「これより高い山はなく、天の際(きわ)にあつて海を臨んでおり、貞観年間には山頂で白衣の美女二人が舞つていた」と記しているように、古くから信仰の山として知られており、富士を神体とする浅間神社は駿河の一宮とされていた。その駿河の浅間神社が整備されたのは厳島神社の整備と同じ頃である。

『本朝世紀』によると、久安5年(1149)4月に富士上人が鳥羽法皇に参じて大般若経の書写を勧進した。上人は富士に登ること数百度に及び、頂上に大日寺(だいにちじ)を建立し、関東の民庶に大般若経の書写を勧め、さらに法皇にも勧めにやってきたという。そこで院中の男女に勧めて書写がなされ、5月13日には、完成した如法経の供養が院の主催で行われ、富士の頂上に理経されることになった。おそらくこの時、清盛も院中に伺候していたので書写に関わっていたと思われる。

清盛の動機は、西国の海の厳島に対して、噂に聞いた東国の、山の富士の信仰をも獲得しようというもの。海と山とを支配し、また関東の民庶の信仰を獲得している富士と浅間神社に参詣することによって、東国を支配することをも睨んでいたともいえる。代官に指名された知盛は武蔵の知行国主であった。しかしこの季節は富士登山には悪く、また東国に赴くのは治安の問題もあり、結局、計画は潰れてしまった。

1月19日

・源(久我)通親、高倉天皇の蔵人頭に就任。平知盛、右兵衛督(左近衛中将辞職)兼東宮権大夫となる。

2月8日

・春日祭において平重衡(24)が東宮使を務める。

2月9日

・藤原定家(18)、「和歌の長者」と称される父俊成より古今・御撰両集の口伝を受ける。

2月13日

・平清盛(62)、これまで日本に伝わってこなかった唐書「太平御覧(たいへいぎよらん)」の写しをとって内裏に献上。

2月22日

・東宮言仁(ときひと、のちの安徳天皇)誕生百日の祝い。拍子・笙・笛が奏される時、笛は高倉天皇近習の藤原泰通が準備していたが、その場で維盛が望んだので、たちまち彼に変更したという。

2月26日

・平宗盛(33)、権大納言・右大将を辞任。

2月28日

・藤原殖子(23、信隆女、のち七条院)が高倉天皇第2皇子守貞(もりさだ)親王を出産。乳母には徳子の実兄知盛の妻と頼盛の娘があてられ、養育は西八条亭で行なわれた。言仁に万一ある場合を予想して、控えとされたのであろう。

2月29日

・厳島神社を22社と同列に扱って祈年穀奉幣(ほうへい)の対象にするかどうかを議するが、官幣を捧げるのみとしてこれは見送る。

3月

・後白河法皇、厳島参詣。高倉・平徳子・平清盛の幸福祈願。

3月2日

・安達盛長、頼朝の使いとして、富寺の鐘に署名をする。

3月11日

・平重盛、病により内大臣辞職。

3月11日

・藤原定家(18)、内の昇殿を許される。

恐らくこの日より「明月記」をつけ始める。現存は翌年(1180)年2月5日が最初。

「夜に入りて北の小屋に宿す、朧月に懐旧の思ひを催す、治承三年三月十一日始めて青雲の籍に通じ、遠く朧月の前を歩む。時に十八寛喜三年三月十一日猶頭上の雪を戴き、僅かに路間の月を望む、時に七十(「明月記」寛喜3年3月11日条)。後年に思い出し述懐。

前年、大納言昇進目前の筆頭中納言中御門宗家と定家の姉妹が結婚、定家はその猶子となって同居する。この関係で内の昇殿が許される。

大納言拝賀の儀式に必要となるのが、行列を飾り、威儀を与える殿上人である。定家の昇殿は3月11日、定家・成家兄弟は3月24日の石清水臨時祭に舞人を勤め、さらに宗家が10月9日に大納言に就任すると、その拝賀の行列に従っている(『山槐記』)。

3月11日

・平清盛、公家並びに東宮言仁親王(のちの安徳天皇)の安泰の祈願のため河内大交野庄を石清水八幡宮寺に寄進。

3月中旬

・平重盛、熊野詣。平資盛など同道。

3月16日

・鬼界ヶ島から赦免された丹波少将成経と平判官康頼、入洛。

少将都帰(しょうしょうみやこがえり、「平家物語」巻3):

正月下旬、肥前鹿瀬庄を出発。2月10日頃、備前児島着。3月16日 鳥羽着、洲浜殿に入り、ここを出て、七条河原で成経と康頼は別れる。

帰洛後。

成経:後白河院に召し抱えられ、1182年に従四位上、翌年、平家都落後、8月25日、右近衛少将に還任、元暦2(1185)年6月、参議右中将正三位、文治5(1189)年7月蔵人頭、同6(1190)年10月参議まで昇る。建仁2(1202)年3月18日没(47)。赦免時は24歳。

康頼:東山に籠居。仏教説話集「宝物集」著作。晩年、尾張野間の源義朝の墓を整備し、頼朝から阿波麻殖の保司に補任。没年未詳。

有王(ありおう、「平家物語」巻3):

俊寛が召し使っていた有王という童が、鬼界ヶ島の流人が都入りすると聞いて鳥羽まで迎えに行くが、俊寛は島に残された事を知る。有王は鬼界ヶ島に渡ろうと決心し、3月末、都をを出て薩摩潟へ下り、苦労して俊寛を探し当てる。

僧都死去(そうずしきょ、「平家物語」巻3):

俊寛は、娘の手紙により娘以外の身内が皆先立った事を知り、食事もとらず、有王の到着後23日目に没(37)。有王は京に帰り、僧都の娘に一切を報告、娘(12)は尼になり、有王も法師となり、全国を修業してまわり主人の菩提を弔う。「平家物語」に描かれるこの悲劇から、世阿弥「俊寛」、近松門左衛門「平家女護島」、芥川龍之介「俊寛」などの作品が作られる。

3月18日

・後白河、清盛の西八条邸に招かれる。厳島の巫女の内侍(ないし)の唐装束(からしようぞく)による舞があり、翌日にも院の七条殿において同じ舞があっる。

3月20日

・後白河院、10回目の石清水参籠(~30日)。毎回100部の法華経転読を行ない合計1千部となる。またこの年の清盛のクーデター迄に3回の参籠を行う。院政維持・平家との対決での八幡大菩薩の加護を祈願。

3月24日

・藤原定家(18)、兄成家らと共に石清水臨時祭の舞人を勤める(「山愧記」)。

3月24日

・信濃国善光寺、焼ける。

3月26日

・中宮徳子の御産の祈りが無事に果たされたことから、奉幣の使者として重衡が厳島に派遣されることになる。

3月29日

・清盛の推薦で大将になった徳大寺実定(さねさだ、41)が大納言藤原実国(さねくに)や中納言藤原宗家(むねいえ)をともなって厳島に赴く。


つづく


自民・茂木氏 消費減税なら「年金財源3割カット」とけん制 | 毎日新聞 / 茂木幹事長「消費税下げたら年金3割カット」発言に不満の声続々「国民に対するどう喝」「議員数3割カットで」(SmartFLASH) / 「消費税減税なら年金3割カット」自民・茂木幹事長の“高齢者ドーカツ発言”に批判殺到(日刊ゲンダイ) / #平気で嘘をつく高市早苗 がトレンド入り!安倍元首相も消費税「8割は借金返済」と答弁の過去(日刊ゲンダイ) / 高市早苗氏「消費税は社会福祉のみに使われる」発言に「平気で嘘をつく」の声…安倍元首相も明言した「借金返済」“内訳”(FLASH) / 「消費税が法人税の引き下げに使われているのは事実無根だ」(高市早苗 日曜討論6/19) / 高市政調会長「デタラメ」発言が大炎上!消費税減税を頑として拒む自公の参院選に大逆風(日刊ゲンダイ) / 「#平気で嘘をつく高市早苗」がツイッタートレンドに堂々ランクイン / 「増税分の5分の4を借金返しに当てていた」と安倍晋三が国会で明言している(動画あり)       

 




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▼この日の日曜討論での他の話題もスゴイ! ===================== 
▼高市早苗で一番悪いのはこの動画
「弱者のふりして」 「さもしい根性の」「奴ら」


 

▼これも、、、



 

2022年6月27日月曜日

梅雨明けの七里ヶ浜 2022-06-27

 6月27日(月)、はれ

梅雨前線が北の方に消えて、暫くは夏の天候が続く、との予報だったが、今日遂に「梅雨明け」となったそうだ。まだ、6月なのに。今後、電力、水、農作物などの問題がでてくるとのこと。

今日は、久しぶりに七里ヶ浜に行ってみた。朝の早いうちには富士山が見えていたそうだ。ま、いつもそうだが、私の現地着はちょうどお昼頃で、もうこんな(↓)感じだった。

以前にも何度か見たことがあるが、先の方は、風の影響なのか潮が立ち上って煙っているような感じだった。

総じて、特に変わったこともない、フツーの七里ヶ浜風景だった。





早稲田大学マニフェスト研究所 2022年参議院選挙における政党マニフェストについて「マニフェスト比較表」 ; 日本維新の会 100点満点で 18.6点 「有権者にまじめに政策情報を届けようという意識があるとは思えない」     

 

黙殺された野村総研の“TV消せばエアコンの1.7倍節電”報告|NEWSポストセブン(2011年8月)  ;「エアコン1台を止めることで期待できる節電効果(1時間あたりの消費電力)は130ワット。一方、液晶テレビを1台消すと220ワットとなる。」 / 『24時間テレビ』3年ぶり有観客開催へ!→ ネット「無駄な電力」「24時間テレビを中止してテレビの使用を控えた方が愛よりは地球救いそう」(Share News Japan)      

〈藤原定家の時代038〉治承2(1178)11月~12月 高倉天皇(18)と中宮徳子に言仁親王(安徳天皇)誕生 翌月立太子 源頼政(74)従三位

 


治承2(1178)

11月12日

・高倉天皇(18)と中宮平徳子の間に言仁親王(安徳天皇)、誕生。

徳子が入内して7年目。乳母、平重衡妻・藤原邦綱娘輔子、平時忠妻・洞院局。

六波羅泉殿における徳子の御産は難産で、ようやく11月12日寅刻(午前4時)産気づき、近臣や中宮職の三等官らはあわただしかった。ここでいう近臣とは三位中将知盛・中宮亮重衡・中宮権亮維盛・左少将清経・侍従資盛である。ところが出産はずれこみ未(ひつじ)の二点(午後2時前)に至りようやく皇子が誕生する。『平家物語』では、中宮亮重衝が御簾(みす)の内より素早く出でて、「御産平安、皇子御誕生候ぞや」と高らかに申した。一同あっとどよめきしばし静まらず、清盛はうれしさのあまりに声をあげて泣いたという(巻三「御産」)。

重衡の妻は大納言藤原邦綱の三女輔子(ほし)で、言仁の乳母になった。邦綱は摂関家の家司として台頭してきた過去があり、忠通の子基実の死後、その遺領を後家の白河殿盛子(清盛の次女)が相続するよう計らった人物でもある。娘を歴代天皇の乳母とし、富裕で知られ、清盛にとってはもっとも信頼に足る盟友だった。輔子は安徳即位後女除目で典侍となり、父の邸宅名や官名から五条局、のち大納言典侍と称された。

(「平家の群像」)


「法皇密々西面より北門の方に臨幸あり。加持を奉らる。また諸僧無音の由、頻に責め仰せらる。大夫亮及び近臣らその仰せを奉じ、南面の方へ之を仰す。諸壇伴僧のうち陀羅尼などを能くするものを召し加へ、その声雷となる。」(「山槐記」)

御産(ごさん、「平家物語」巻3):12日中宮が産気づき、京・六波羅は大騒ぎ。法皇、関白、太政大臣、公卿、殿上人は六波羅に来る。神社に奉納。諸寺はお祈り。清盛・二位殿はうろたえる。そして皇子が生まれる。

公卿揃(くぎょうぞろえ、「平家物語」巻3):

六波羅に来る人33人。関白松殿(基房)、太政大臣妙音院(師長)、左大臣大炊御門(経宗)、右大臣月輪殿(つきわとの)兼実、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、五条大納言邦綱、藤大納言実国、按察使資賢(すけかた)、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衛門督時忠、検非違使別当忠親、左の宰相中将実家、右の宰相中将実宗、新宰相中将通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀河宰相頼定、左大弁宰相長方(ながかた)、右大弁三位俊経、左兵衛督成範(しげのり)、右兵衛督光能(みつよし)、皇太后宮大夫朝方(ともかた)、左京大夫脩範(ながのり)、太宰大弐親信、新三位実清。

頼豪(らいごう、「平家物語」巻3):

白河院が帝位にあった頃、三井寺の僧頼豪に祈祷をさせて皇子が産まれた。褒美は思うままにと言っていたが、三井寺に戒壇を設けるという願いの為、叶えられず頼豪は憤死、親王を呪殺。この例をひき、今回の御産で俊寛が赦免されなかったことを嘆く。

11月16日

・平清盛、福原に下向。26日、再度上洛し、皇子を皇太子にするよう要請。

11月28日

・この日、後白河から呼び出された兼実は、立太子を2~3歳で行った時の先例が悪いので、年内に行いたいがどうであろうか、関白と相談してほしい、と命じられる。関白基房と相談の結果、4歳まで待つのでは遅いということになり、年内の立太子が実現することになる。1歳で立太子の例の清和天皇、鳥羽天皇などはすべて即位が実現しているが、2歳の保明(やすあきら)太子・実仁(さねひと)太子、3歳の慶頼太子はいずれも即位前に亡くなっていた。

翌日、兼実は、12月に皇太子を立てるのは先例にないとの批判を耳するが、末代の政治はすべて急速を事とするものであり、4歳を待つまでもなく、年内に行うのが「乱世の政」に叶うというべきであろう、と自嘲気味に記す。

12月8日

・高倉天皇第1皇子に親王宣下。言仁親王。

15日、言仁親王を皇太子に冊命。次期天皇となることが明確になる。 

東宮坊の人事は、傅に左大臣経宗、大夫(だいぶ)に宗盛、権大夫に花山院兼雅、亮(すけ)に重衡、権亮(ごんのすけ)に維盛という布陣で、平氏一門とその関係者で固められた。

12月24日

・関白基房の子の中将師家、四位に。兼実の嫡子良通(12)、三位に。兼実、「稀有のなかの稀有なり」と記して法皇に感謝する。

・平資盛、右近衛権少将。平清経、従四位上。平有盛、正五位下・侍従。

・源頼政(74)、平清盛の推輓により従三位に叙任、公卿に列する。別名の源三位頼政の由来。

清盛は「源氏・平氏は我が国の堅めであるが、平氏は勲功により朝恩が一族にいきわたっており、威勢も四海に満ちている。しかるに源氏の勇士は逆賊にくみして罰を受けており、そのなかで頼政のみが性正直にして勇名を世に轟かせていることから、年も七〇、重病とも聞くので、とくに紫綬(しじゆ)の恩を授けて欲しい」と奏上。

「今夜頼政三位に叙す。第一の珍事なり。是入道相国(平清盛)の奏請と云々。其の状に云ふ。源氏平氏は我が国の堅めなり。而して平氏においては、朝恩已に一族に普く、威勢殆ど四海に満つ。これ勲功に依るなり。源氏の勇士、多く逆賊にくみし、併せて殃罸に当たる。頼政独り其の性正直にして勇名世を被ふ。未だ三品に昇らざるに、已に七旬に余る。尤も哀憐あり。何ぞ況や近日身重病に沈むと云々。黄泉に赴かざるの前に、特に紫綬の恩を授けんてへれば、この一言により三品に叙せらると云々。入道奏請の状賢なりと雖も、時人耳目を驚かさざるものなきか。」(「玉葉」12月24日条)

保元・平治の乱に手兵を率いて参加、保元3年(1158)後白河院より院の昇殿を許され、平治元年(1159)従五位上。六条天皇の代の仁安元年(1166)10月正五位下、同年12月六条天皇に内昇殿、この頃迄に正五位上、翌仁安2年1月従四位下と短期間に官位昇進、仁安3年高倉天皇に内昇殿、同11月従四位上、嘉応2年(1170)1月右京権大夫。治承3年(1179)11月平清盛クーデター後、11月28日出家。翌治承4年4月9日以仁王令旨。5月22日子の伊豆守仲綱以下50余を率い以仁王に参じ平家の大軍と戦い、26日宇治の平等院で自刃。享年は「尊卑分脈」76才、「公卿補任」に「年七十五。源平盛衰記七十七」と註される。

源氏の叙位は、満仲:正四位下、頼光:正四位下、頼信:従四位上、頼義:従四位下、義家:正四位下、義親:従五位上、為義:従五位下、義朝:従四位下、頼政:従三位、仲綱:正五位下。

平家では、清盛:従一位、二位:教盛・頼盛・重盛・知盛・宗盛、三位:経盛・重衡・徳子・寛子・維盛・資盛。しかし、清盛以前では、清盛の父忠盛は正四位上、祖父正盛は従四位下。


つづく


国債、日銀の保有5割超す 金利抑制で広がる矛盾(日経) / 日銀はついに「ルビコン川」を渡ってしまうのか 国債発行残高の50%以上を保有する意味とは | ブルームバーグ - 東洋経済オンライン ;「国債市場でこれほど多くを保有している主要な中央銀行は他になく、日銀が踏み入れようとしているのは未踏の領域だ。日銀が保有する国債は今週にも発行残高の50%を超えるが、そうなれば日銀はルビコン川を渡る」     

岸田首相の的外れな政策が続くかぎり、日本人の給料は韓国や台湾よりずっと低くなる(大前研一); アベノミクスの結果、日本の国債残高は1000兆円を突破し、債務残高は対GDP256.9%と先進国で突出 ――少子高齢化と労働人口減で、誰が膨大な借金を返すのか。金融緩和を続けたら経済のシュリンクに歯止めがかからず、国の借金は増え続け、行き着く先はデフォルトだ

米最高裁トーマス判事の意見が物議、同性婚や避妊の権利再検討示唆(WSJ) / 米最高裁の政治化を象徴 中絶の権利認めず、49年ぶり判例変更(朝日) / 広がる中絶「禁止」の波 望まぬ出産、貧困連鎖も―米(時事) / 中絶の権利覆す米最高裁判決、同盟国から失望の声 「恐ろしい」(CNN) / アメリカ最高裁「憲法は中絶の権利を与えていない」 49年前の判決覆す バイデン氏「悲劇的な過ち」(東京) / バイデン大統領「悲劇的な過ちだ」 米最高裁、中絶の権利認めず 約半世紀ぶり判断覆す・・・全米各地で大規模デモ広がる(TBS) / クラレンス・トーマス判事は、次の標的は避妊、同性愛行為、同性婚だと宣言しました       

 

参議院選挙2022(更新中) あんな候補こんな候補 東京選挙区(生稲、朝日、えびさわ) 宮城選挙区(桜井) 大阪選挙区(高木) 神奈川選挙区(浅尾) 広島選挙区(森川) 京都選挙区(維新を応援の前原国民民主党代表代行) 比例区(中条、井上(自民))    

 




 

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物価高がひとり親、非正規雇用の家計を圧迫 フードバンク利用者コロナ前の3倍<くらし直撃~2022参院選>:東京新聞

 




 

2022年6月26日日曜日

〈藤原定家の時代037〉治承2(1178)6月~10月 清盛上洛 中宮徳子着帯の儀 成経・康頼鬼界ヶ島より召還(俊寛は赦されず) 

 


〈藤原定家の時代036〉治承2(1178)1月~5月 宗盛正二位 大雪の朝の維盛と忠親 重盛(42)内大臣辞任表明(不許可) 俊成、兼実の和歌の師匠となる 宗盛権大納言 京都大火(次郎焼亡) 中宮徳子懐妊 より続く

治承2(1178)

6月1日

・懐妊した中宮徳子の着帯の儀式の日取りが28日となる。

6月2日

・平清盛(61)、福原より上洛。翌日、後白河を訪問。

清盛の喜びは一方ならぬものがあった。

『愚管抄』が記すエピソード。

清盛は息子を儲けて帝の外祖父となって世を思うように執ろうと考え、様々に祈りを行っていた。中宮の母の二位時子が日吉社に百日の祈りを行ったのに、験がなかったを見た時には、「ワレガ祈ルシルシナシ。今見給へ祈リ出デン」(汝が祈っても験がない、見なさい、私が祈り出して見せよう)と語ると、安芸厳島に早船を造って月詣(つきもうで)を始め、60日ほど後に懐妊したという。

6月12日

・大膳権大夫泰親、追奏。坤方に星墜ちる。其體水精の如し。その尾2丈ばかり、中絶後7~8尺、光る。

6月17日

・安芸厳島神社に中宮御産平癒の奉幣を遣わす。

その詔は、厳島の神は社壇が海に開け、霊威を天下に施していて、代々の天皇もその鎮護を頼んでおり、その神徳を仰いで祈るところである、と称え、「無事の皇子の誕生によって天皇・朝廷が不動のものとなり、国家安穏・人民快楽がもたらされるようにしたまえ」、という内容。

6月19日

・天皇の猶子とされた仁操僧都(にんそうそうず)の娘を母とする後白河の皇子が、東寺の大僧正禎喜(ていき)の弟子となって出家させられることになり、内裏から禎喜の壇所に向かう。もはや2人も天皇の猶子は必要とされなくなった

6月19日

・中宮のお産の祈りとして千手供(せんじゆぐ)が母時子の沙汰で行われる。

6月23日

・藤原俊成、歌道の長者たるにより九条兼実に招かれる(「玉葉」)。前年(1177)6月に没した六条藤家の藤原清輔に代って、九条家の和歌会の指導者に迎えられる。

6月27日

・範子内親王(2、母小督局)、賀茂斎王に卜定。

中宮徳子、高倉が小督との間にもうけた皇女(範子内親王)とも猶子の関係をもっていた。徳子の腹でない高倉の子女が、徳子の猶子もしくは一門の養育という形で、平家の管理下に置かれていた。院政期では、院が天皇の後宮を差配することによって、皇子誕生の過程に介入し、皇位のゆくえも自ら決定するという皇位継承システムができあがっていたが、ここにきて藤原道長の時代に回帰したかのように、その実質を外戚の家(平家)が握る状況になった。

『平家物語』によれば、徳子に仕えた女房小督は双びなき美人で琴の名手。清盛の女婿藤原隆房に見初められたのち、高倉の寵愛を受けるが、婿2人を盗られたとする清盛の怒りを聞いて内裏を出、嵯峨野に隠れ住む。八月一〇日余りの月の夜、天皇の命を受けた源仲国(なかくに)は、小督の弾く「想夫恋(そうふれん)」の琴の昔を頼りに隠れ家を尋ねあて、連れ戻す。内裏の人目につかぬところに隠し置かれ姫宮を生むが、清盛の知るところとなり、尼にされたうえ追放されて、嵯峨野に住んだという(巻六「小督」)。

6月28日

・中宮平徳子の着帯の儀。重盛以下が出席し、宗盛の北の方が乳母として参入。諸神社への祈りは五条坊門富小路の厳島別宮でも行われ、厳島の本社には特別に清盛の沙汰でなされる。

閏6月17日

・後白河法皇、17ヶ条の新制発布。

南都北嶺の寺社勢力による反平氏包囲網が形成され、清盛が女婿高倉天皇を「玉」として取り込み、後白河との間に政治的綱引きが展開されている時期。後白河の鳥羽殿幽閉(政治的破局)に至る時期。

この年の公家新制中の寄沙汰に関する法に、「近年、諸社の神人・諸寺の悪僧、或は京中を横行して訴訟を決断し、或は諸国に発向して田地を侵奪す・・」とある。もとよりこの「決断」は、主観的一方的判断であろうと想像できるが、国家の法令が、「訴訟を決断し」と表現して怪しまない行為が、新制の対象としなければならぬほど一般的な事実として存在したことは、注目に値する。「沙汰を寄せる者」「沙汰を請取」ってこれを「決断する」者の関係が、中央権力の裁判と違った場で、しかも空間的にはその膝下たる「京中」においてすら成立していること、その事にこの頃の「裁判」の性格を考えるうえでの、重要な手掛りがある。

閏6月21日

・「右大臣家歌合」。

7月

・平清盛、六角堂に如意輪観音寄進。

7月3日

・中宮御産祈願の大赦により、流人藤原成経・平康頼(俊寛以外)を召還。翌年3月、鬼界ヶ島より帰京。

7月16日

・平宗盛の室、没。前月(閏6月)腫物が悪化、同月15日に出家。

7月18日

・後白河法皇、18ヶ条の新制発布。

8月

・「廿二番歌合」。歌人22人、判者顕昭。

・夏頃、藤原定家(17)、「長秋詠藻」書写。

9月20日

・延暦寺の堂衆と学徒、闘争

9月20日

・清盛の赦免状を持った使者、7月下旬に出発、この頃、鬼界ヶ島に到着。成経と康頼が赦され、俊寛は赦されず。

赦文(ゆるしぶみ、「平家物語」巻3):

この年正月7日東の空に彗星が出る。建礼門院(中宮)が懐妊するが具合がよくない。讃岐院、宇治悪左大臣頼長、新大納言成親、西光法師の死霊、鬼界が島の人々の生霊が取付いているという。清盛は、讃岐院には追号崇徳天皇、宇治悪左府には正一位を贈る。重盛は、中宮の苦み成親の死霊の為であり、これを宥める為にも丹波少将(成経)・俊寛・康頼法師の赦免を清盛に進言。しかし、清盛は、俊寛だけは赦さず(自分が世話をしてやって一人前になったのに、けしからぬ振る舞いをした)。

足摺(あしずり、「平家物語」巻3):

清盛の使者の円左衛門尉基康が届けた赦免状には、俊寛僧都の名前はなく、俊寛は舟に乗せてくれるように繰り返し懇願するが聞き入れられず、俊寛を残し成経・康頼入道は出発。

10月

・中宮徳子の安産のための祈り

六波羅の御所に勧請(かんじよう)した厳島別宮では10月14日に神楽が清盛の沙汰で行われ、17日には西八条に勧請した別宮で知盛の沙汰により行われ、さらに清盛は新日吉社(いまひえしや)で19日に里神楽(さとかぐら)を行って無事の出産を祈った。神のみならず仏に祈ることも行われ、16日から公顕が尊星王護摩(そんじようおうごま)を行うと、その雑事は清盛が沙汰し、25日に孔雀経法(くじやくきようほう)を守覚法親王(しゆかくほつしんのう)が始めると、清盛は中門南廓で聴聞している。

10月4日

・後白河法皇(52)に命じられて、平清盛、延暦寺と学徒の争いで学徒側を支援。

10月27日

・維盛、「嫡子」と看做されるようになる(『玉葉』)。

鹿ヶ谷事件で母経子は兄成親が抹殺され、母方実家の後ろ盾を失った清経は、ここで失速。清経の後退に力をえて相対的に維盛が浮上し、「嫡子」とみなされるようになった(『玉葉』治承2年10月27日条)。だが正妻がいなくなっても使用人が正妻に昇格することはない。正妻の座が当面空白になるだけである。『玉葉』の記事にもかかわらず、この「嫡子」が法的な意味でのそれかどうか疑問は残る。経子は、承安元(1171)年以降記録類から姿を消す。重盛の没後まだ存命だったようだから、やがて出家したと推測できる。


つづく