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2017年10月28日土曜日

明治39年(1906)10月15日~31日 漱石、文学に対する決意を語る。 「余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。」 「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」

江ノ島 2017-10-26
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明治39年(1906)
10月15日
・1906年7月6日の第2回ジュネーブ条約に対する、韓国の地位に関する外交文書交換(11月20日も同様)。
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10月15日
・サンフランシスコの小学校で、日本児童200余人の通学禁止問題発生。
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10月16日
・谷口房蔵ら紡績業者、韓国棉花設立(本社大阪、資本金20万円、綿作農民への前貸等を行う。のち朝鮮棉業と改称、'16年、日本綿花に買収される)。
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10月16日
・ケーベニック事件。ベルリン郊外ケーベニック市、兵士数名、市庁舎乱入。市長拘禁。
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10月17日
・ロシア、トロツキーの口頭弁論。
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10月17日
・ドイツ、1,600キロメートル離れた場所に電信で写真を電送。
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10月18日
・渡島水電株式会社創立(北海道)。
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10月18日
・神田錦輝館で社会主義演説会。弁士10名中8名に中止命令。
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10月19日
・中国同盟会、湖南省で蜂起。
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10月19日
・韓国、伊藤博文統監、韓国政府と森林経営に関する共同約款調印。
鴨緑江・豆満江沿岸森林は日本・韓国両国政府共同経営とする。
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10月20日
・坂口安吾、誕生。
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10月21日
・この日付け夏目漱石の森田草平あての手紙
森田の自分の生活の秘事を打ちあける手紙に対する返事。
「余は満腔の同情を以てあの手紙をよみ、満腔の同情を以て裂き棄てた。あの手紙を見たものは手紙の宛名にかいてある夏目金之助丈である。君の目的は達せられて、目的以外の事は決して起る気遣ひはない。安心して余の同情を受けられん事を希望する。(略)余は君が此一事を余に打明けたるを深く喜ぶ。余をそれ程重く見てくれた君の真心をよろこぶ。同時に此一事を余に打明くべく余儀なくさるゝ程、君の神経の衰弱せるを悲しむ。男子堂々たり。這般(しやはん)の事豈(あに)君が風月の天地を懊悩するに足らんや。君が生涯はこれからである。功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後、誰か此一事を以て君が煩ひとするものぞ。君若し大業をなさば、此一事却つて君がために光彩を反照し来らん。」

続けて、漱石は作家としての自分の覚悟を述べる。
「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。(略)」
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10月22日
・名古屋電力株式会社設立。
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10月22日
・セザンヌ(67)、没。
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10月23日
・この日付けけの漱石の手紙
「今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかつた。己れを信頼した事が一度もなかつた。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しやうとのみ生活してゐた。是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行つて、行き尽いた所で斃れるのである。」(10月23日狩野亨吉宛書簡)
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10月24日
・英、婦人参政権論者11人が議会開会時に起きた暴動に参加したとして投獄。
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10月25日
・この日付け「光」掲載の社会党公報。
近く日刊「平民新聞」が創刊され、キリスト教派と非キリスト教派が再び手を結び合うこと、また「新紀元」は来月10日号を以て廃刊し、石川三四郎は新しい平民社に創立人として加わること、安部磯雄は社友として援助すべきこと等を報じる。
また、木下尚江の脱党の報告
「然れど吾人は又茲に一の悲むべき事実を報告せざるを得ず。それは吾党の運動に永さ歴史を有せる木下尚江氏が遂に全く吾党と関係を絶ちたるの一事なり。(略)因に記す、氏は今月下旬より家を伊香保の山中に移し、『懺悔録』其他の著述に従事すべしと云ふ」
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10月25日
・仏、クレマンソー内閣成立(−1909)。
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10月25日
・サンフランシスコ学務局の日本学童隔離決議(11日)に対し、青木周蔵駐米大使抗議。
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10月26日
・10月26日付漱石の鈴木三重吉宛手紙。
「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」。
「それでないと何だか難をすてゝ易につき、劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん」

と、漱石自身の文学者の立場、文学にはどのような精神をもって取り組むかを語り、「腰抜文学者」にはなりたくないと言う。

さらに、
苟(いやしく)も文学を以て生命とするものならば、単に美といふ丈では満足出来ない。丁度維新の当士(ママ)勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。
間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては、文学者になれまいと思ふ。
文学者はノンキに、超然と、ウツクシがつて世間と相遠かる様な小天地ばかりに居れば、それぎりだが大きな世界に出れば、只愉快を得る為めだ抔とは云ふて居られぬ、進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思ふ。

と、まだ東大英文科の学生である鈴木三重吉に、文学を遭って生きる者の心構えを説いている。
これは漱石の文学に取り組む姿勢、決意である。
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10月26日
・ドイツ領ポーランドの生徒、宗教の時間にドイツ語使用を強制されることに反対し、ストライキ。
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10月27日
・海江田信義(75)、没。
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10月29日
・帝国肥料株式会社創立(横浜)。資本金300万円。
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10月31日
・木下尚江、伊香保の温泉宿、小暮金太夫方へ転居。「毎日新聞」の退職金が彼の生活を支えた。木下が伊香保を選んだのは、この夏ロシアから帰った徳富蘆花が、出発前に、精神的な苦悩の果て伊香保に隠退していたことから暗示されたため。木下の実社会離脱、自己否定、懺悔という衝動は蘆花が1年前の明治38年末に味わった経路に似ていた。冬の間、客の少い宿で、彼は半年の約束で安い料金で座敷を借り、その前半生の自叙伝なる「懺悔」を書きはじめた。
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2017年10月27日金曜日

明治39年(1906)10月 夏目漱石門下生の「木曜会」開始 木曜会の人々 森田草平 鈴木三重吉 「ホトトギス」の俳人たち 小宮豊隆 

稲村ヶ崎 2017-10-23
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明治39年(1906)
10月1日
・吉岡弥生ら、大日本実業婦人会を結成。
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10月1日
・医師法・歯科医師法(5月2日公布)、施行。
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10月1日
・北海道炭鉱鉄道、甲武鉄道など国有化。
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10月1日
・鉄道国有法(3月31日公布)、施行。
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10月2日
・日清間営口還付に関する北京協定ならびに交換公文承認。
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10月2日
・足尾銅山に大日本労働至誠会支部設立。
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10月2日
・(露暦9月19日)ペテルブルク・ソヴィエトのメンバーに対する裁判開始。
反動側の狙いはヴィッテの自由主義と革命への弱腰の暴露。証人喚問400人、1ヶ月。綱領を開陳し帝政を告発する場とする。
トロツキーは元老院議員ロプーヒン(1905秋、警察署内にポグロム煽動文書の印刷局を開設)喚問を要求するが、法廷が拒否したため公判ボイコット。弁護人・証人・傍聴人も退廷。判事・検事のみで判決言い渡しとなる。
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10月4日
・鬼怒川水力電気会社設立(栃木県)。
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10月5日
・中央製紙株式会社創立(岐阜県)。資本金50万円。
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10月7日
・林董外相、英公使に英の威海衛継続占領を希望。
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10月7日
・イランで第1回国民会議開催(テヘラン)。自由憲法作成に着手。
イラン国王は12月30日、草案に署名し翌日死亡。
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10月8日
・仏、労働総同盟(CGT)大会、サンディカリズム基本理念を表明したアミアン憲章採択(~14日)。
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10月10日
・この日付漱石の若杉三郎宛手紙。
「明治の文学」はこれからであり、今までは「眼も鼻もない」時代である。これから若い人々が大学から輩出して、「明治の文学」を「大成」するのである。それは「前途洋々たる時機」である。漱石も幸いにこの、「愉快な時機」に生まれたのだから、死ぬまで、「後進諸君」のために路を切り開いて、「幾多の天才の為めに」、舞台の下ごしらえをして働きたい、と述べ、
さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。
と、明治の文学観、過去、現在、将来の抱負などを披歴。
漱石の文学者としての責任感がうかがわれる。
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10月10日
・豊田佐吉、軽糸解舒及緊張装置(自動織機)特許取得。
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10月11日
・夏目漱石門下生の「木曜会」開始。
「木曜日の午後三時からを面会日と定候」(明治39年10月7日付野村伝四宛書簡)。
小宮豊隆、寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、阿部次郎らが集る。
晩年の大正4年(1916)には、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らが始めて木曜会に参加。

《木曜会の人々》
■森田草平
漱石「草枕」(「新小説」明治39年9月号)発表のとき、草平(数え26歳)は岐阜県鷺山村の郷里に帰っていた。7月に東京帝国大学英文科を卒業しまだ就職は決まってなかった。彼は自分の卒業成績では東京によい地位は得られないと思って就職は諦めていた。卒業の少し前、伊藤博文の娘婿、末松謙澄が書いた日本論 ”Rising Sun” の和訳を頼まれて原稿料を得た。そういう雑原稿によって生活するか、それとも中学校教師にでもなって地方へ行くか、決めかねていた。同じ年に東大美学科を卒業した1つ年下の生田長江も同じような気持ちでいた。
森田と生田は、一高時代に「明星」に寄稿したり、上田敏・馬場孤蝶らが創刊した「芸苑」に翻訳を載せたり、小説の試作をしたりしていたので、このまま筆で食って行けそうでもあった。生田は、大学を卒業した頃、博文館から模範文集の編纂という仕事を小遣取りに引き受け、諸作家の文章の編輯と解説をしていた。
森田は、時々夏目家に出入りし、また馬場孤蝶や上田敏を訪ねたりして、生田とともに何とかして文士として生活出来るようになりたいと思っていた。森田は自分と生田と、同じ「明星」の寄稿仲間だった級友の川下喜一と3人の作品集「草雲雀」を編纂して、出版社を見つけてほしいと漱石に頼んであった。

草平11歳のとき父亀松が死んで、母とくが1人で郷里の家を守っていた。家に多少の資産はあったが、その資産は失われ、今度帰って見ると、母屋も離れも売られて、母は買い手のつかない古土蔵に独住いしていた。
郷里では、彼が数え年19歳で金沢の第四高等学校に入ったとき、彼を追って来て同棲し、退学させられる原因を作った遠縁の森田つねという女が、彼との結婚を待っていた。草平が改めて入った東京の第一高等学校を卒業した明治36年夏、つねは彼の息子を産んでいた。その子(亮一)は、この時数え年4つになっていた。草平が大学を卒業したと知って、つねの両親は彼に結婚を迫った。だが、草平はつねと結婚したくなかった。

8月末、彼は「新小説」に掲載された「草枕」を読んだ。前に漱石から聞いて、大きな期待を持っていたが、「草枕」の出来は、彼の期待以上であった。
彼は「吾輩は猫である」を読んで以来、熱烈な漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。「草枕」を読んだあと、彼は、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、既に抵当に入っていた7,8反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作って、9月初めに上京した。

彼は先ず「草枕」についての感想を漱石に書き送った。漱石からは返事がすぐあった。
漱石は、「今日まで『草枕』に就いて方々から批評が飛込んで来る。来る度に、僕は喜んで読む。然し言語に絶しちまったものは、君一人だから難有い。今日迄受け取った批評の中、最も長く且真面目なものは深田康算先生のものである。尤も驚嘆し、尤も感情的なものは君のである。」と書いてあった。深田康算は森田より4年前に東大哲学科を卒業して大学院に入っていたが、その学才を認められていた秀才であり、漱石が、寺田寅彦とともに敬意を持って接していた後輩であった。漱石の手紙をもらうと、森田は早速夏目家へ出かけた。

■鈴木三重吉
森田の上京と前後して、鈴木三重吉(数え25歳)が広島から上京した。彼は大学2年になった前年9月から、神経衰弱で1年間休学していた。その間に彼は夏目家ですっかり有名な人物になっていた。
鈴木は、三高以来の友人の中川芳太郎に、漱石讃美の長い巻紙の手紙を送ったところ、それが夏目家に届けられ、しかも夏目家に入った泥棒に尻拭きに使われて笑い話になった。また今年5月の「ホトトギス」に発表された彼の処女作の「千鳥」が大変な好評に迎えられ、今度はいい意味で評判になっていた。
漱石は教室で鈴木の顔に見覚えがなく、この頃よく夏目家に出入りしていた小宮豊隆も森田も鈴木の顔には見覚えがなかった。彼を知っているのは中川芳太郎だけだった。いったい、どんな顔の男だろう、ということがよく話題になった。あるとき、漱石あての手紙の中に鈴木の写真が一枚入っていた。それは黒い背景の中に胸の辺まで裸になり、莇(あざみ)の花をあしらったもので、ギリシャ彫刻のアポロの胸像とそっくりに気取った、石膏のように色の白い青年の姿であった。漱石はその写真を見て幽霊のようだといったが、外の連中は好男子だということに一致した。近くその鈴木が上京するというので、夏目の妻の鏡子や女中などは、笑い話にしなからその上京を期待していた。

9月初め、その鈴木が千駄木町57番地の夏目家にやって来た。鏡子が出て逢うと、顔の輪郭はたしかに写真の通りだが、目玉がぎょろりとして、首の長い色の黒い、とても好男子と言える顔ではなかった。鈴木は調子の高い青年で、はきはきとものを言い、自分の才能が漱石に買われているという自信もあったので、夏目家で先輩の寺田寅彦などに逢っても怖じるところがなかった。

漱石は数え40歳、この年4月の「坊っちゃん」と「新小説」9月号に発表した「草枕」により、学者の余業から完全な文士として、文壇人に力を示し、小説家としての漱石の力を疑うことは何人にもできなくなった。
「草枕」における美文調と脱俗的な文人思想との結合は、泉鏡花の方法を思わせるところはあったが、先例のない新しい小説であった。鈴木から見ると、「草枕」は、中年になった漱石の人間としての諦観を芯としている点では、25歳の彼に書けるような作品ではなかった。しかし抒情的な文体による田園の風趣の中に人間を描くという点で、その年4月に漱石の推薦によって「ホトトギス」に出た彼の「千鳥」の影響がこの作品に及んでいることを漠然と彼は感じていた。その意識が、もともと調子の高い人間であった鈴木三重吉を、夏目家において自由に感じさせ、自分は漱石に甘える特権があるという意識を抱かせる原因になった。

■俳人たち
この頃、夏目家の来客には、「ホトトギス」の高浜虚子、坂本四方太、篠原英喜の俳人たちがいた。この人々は34、35歳であった。
それから前々年(明治37年)に東大の理科大学講師となり、38年末に郷里から二度目の妻寛子を迎えて小石川区原町12番地に居を構えた数え年29歳の寺田寅彦がいた。
また松山中学で夏目の生徒であり、一高~東大法科に学び、前年に卒業して宮内省に勤めながら俳句を作っている松根東洋城(豊次郎、29歳)がいた。松根はよい家柄の出で、鷹揚な人物であり、漱石の俳句を遠慮なく古いと言って非難した。
他は多く東大の学生か卒業したばかりのもので、野間真綱、野村伝四、中川芳太郎、小宮豊隆、野上豊一郎、森田草平、鈴木三重吉などであった。

■小宮豊隆
小宮豊隆は、このとき数え23歳、福岡県京都郡犀川村久富に明治17年に生れた。父弥三郎は農科大学の卒業生で、福岡の農業学校の教師をしていた。小宮豊隆が中学校に入学した頃、従兄の丹村泰介というのが熊本の第五高等学校にいて漱石(夏目金之助教授)に俳句を見てもらっている話を聞いていたので、その頃から彼は、俳句、夏目漱石、「ホトトギス」などということを覚えていた。そして中学の4、5年生頃から自分でも俳句を作った。明治35年、19歳のとき、豊津中学校を卒業して第一高等学校に入学。そのとき同時に一高に入ったものに、安倍能成、中勘助、野上豊一郎、茅野儀太郎、有田八郎、前曲多門、堀切善次郎、青木得三などがいた。小宮豊隆が一高の2年になったとき、漱石がイギリスから戻って一高の教師になった。そのとき校長は狩野亨吉で、藤代禎輔、桑木厳翼、松本文三郎、原勝郎、岩元禎、杉敏介、菊池寿人等の教授が一高にいた。

イギリスから帰ったばかりの漱石は、小宮から見ると、ひどくハイカラな服装をしている点で、教授たちの中でも異彩を放っていた。洋行帰りの教授たちは一般に服装や態度に細心なものであるが、漱石はその点が一層目立っていた。房々と生えた口髭の両端をぴんと刎ね上げ、高いダブルのカラーに、よく身体に合った紺地の背広をきちんと着こなし、ズボンにはよく折目がついていた。靴はよく磨いたキッドの編み上げであった。漱石はそういう服装で、菊倍判ぐらいの黒いクロース表紙の出席簿の角のところをつまんで持ち、爪先立ちにひょいひょいと弾みをつけて、少し俯向きがちに教員室から教場へ歩いて来た。

夏目と同時期にドイツに留学して帰っていた藤代禎輔は、一高教授のかたわら、夏目と同様東大の文科大学でドイツ文学を教えていた。小宮は東大に入ってからドイツ文学を学ぶことにしたので、フロレンツと藤代禎輔とに就くことになった。

小宮は大学に入るに当って保証人を置かねはならなかった。彼の従兄犬塚武夫がロンドンで夏目と同じ下宿にいて親しかった縁によって、彼は大塚の紹介状をもらい、明治38年9月、初めて夏目の家を訪い、保証人になってもらった。彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。

森田は、「千鳥」発表のときから、鈴木三重吉に関心を持っていたが読む機会がなかった。9月に上京してみると、「千鳥」の評判はますます高く、寺田寅彦はこの作品に感心して「好男子万歳」と書いた葉書を漱石に寄せ、写生文を熱心に書いていた坂本四方太は「四方太などは到底及ばない、名文である、傑作である」と漱石に書いた。森田は「千鳥」を熟読し、その官能的な筆致には自分の到底及ばないところがある、と思った。しかし、彼は馬場孤蝶の影響でロシアの近代文学を多く読んでいたし、自分の身の上に暗い、解決不可能な事情があったので、自分の書きたいものは告白文学であるときめていた。だから必ずしもこの「千鳥」のようなものは書けなくても構わない、とすかな慰めを感じた。
森田は、ほぼ同じ9月初めに上京した鈴木と夏目家で顔を合せた。鈴木は、いかにも自信ありげに見えた。神経衰弱で休学したというだけあって、鈴木は神経質に見えたが、目玉をぎょろぎょろさせて、始終昂奮しているような賑やかな人間で、夏目家で自分の家にいるように振舞っていた。その率直な態度は、陰鬱な森田や、人々の中で控え目に黙っている小宮よりも漱石の気に入っているらしく、騒々しいほどの鈴木の饒舌を漱石はにやにしなから黙って聞いていた。そして、漱石が時折彼をたしなめると、鈴木は「先生はわしばかり叱る」と不平そうに言った。その言い方にも漱石への甘えが漂っていた。
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10月11日
・サンフランシスコ教育委員会、日本、中国、韓国人学童の隔離指令。以後、対日関係緊張。1907年3月13日に取り消し。
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2017年9月19日火曜日

明治39年(1906)10月 漱石(39)「二百十日」(「中央公論」) 徳田秋声(36)「佐十老爺」(「新小説」) 三木露風、「雨ふる日」「古径」「鑓鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表 与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ

鎌倉 英勝寺
明治39年(1906)10月
・添田唖蝉坊『喧嘩坊流生記』の口絵写真には、この年の秋頃のもので、唖蝉坊、堺利彦、中里介山、渡辺政之輔、福田英子らと夢二が写っている。
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・漱石(39)、「二百十日」(「中央公論」)
「中央公論」10月号に、夏目漱石「二百十日」、島崎藤村「家畜」、独歩「入郷記」の3編が載り、この月の最も注目を浴びる内容となった。それは年若い編輯者滝田樗陰の着想と努力によるものであった。この時期から、「中央公論」の文芸は少しずつ文壇で特に重視される気配が生れた。

漱石は1906年9月10日付高浜虚子宛の手紙の中に、
今度の中央公論に二百十日と申す珍物をかきましたよみ直して見たら一向つまらない。二度よみ直したら随分面白かつた。どう〔いふ〕ものでせう。君がよんだ〔ら〕何といふだらう。又どうぞよんで下さい。
(『漱石全集』22巻)
と。

虚子は読んで、「論旨に同情がない」、「滑稽が多過ぎる」、「不自然と思ふ」と評したのに漱石は抗弁している(10月9日付虚子宛書簡)。

漱石は「二百十日」に、圭さん碌さんの二人を配し、二人の会話から、当時の社会状況を批判している。滑稽な会話もあるが、華族や金持ちにたいする憤慨を吐露している。社会主義的な意識を貫き、反体制的な作品でもある。二人の次のような会話がある。二人の青年は阿蘇山に登ろうとしてその近くにいる。

「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりや、あゝなるのは自然の理窟だからね。ほら、あの轟々鳴って吹き出すのと同じ尊さ」
(中略)
「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云ふ。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」

平出修は「二百十日」にたいし、同年十一月号「明星」の「文芸彙報」の中で、
中央公論の秋期付録に夏目氏の『二百十日』、島崎氏の『家畜』何れも期待した程のもので無かつた。
(『定本平出修集」)

・長谷川天渓「幻滅時代の芸術」(「太陽」)10
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・島村抱月の主筆する「早稲田文学」の「彙報」欄が、近時の文壇の新傾向を代表する3冊として、藤村「破戒」、漱石の短篇集「漾虚集(ようきよしゆう)」、独歩「運命」を取り上げて論じた。
それは、
「小説壇の新気運は本年の春に入って、稍発動し始めた観がある。其以前のしばらくの小説壇にはさして著しい現象も見えず、大体に於いて在来既に名を成せる人々の馳駢に任せてゐるの観あり、夫等の人々に在つても、未だ斯壇に生面を開展し来たるといふが如き態度をば取らず、所謂写実小説といひ、家庭小説といふ在来の風潮を追ふに止まってゐた」
と述べ、この頃の新しい傾向を代表する作品は、在来文壇の別方面で名を為していた者又は、未だ小説壇で名声を得なかった作家たちによって書かれたとして、この3冊を代表的に取り上げていた。
独歩「運命」については、その他に「文庫」では小島烏水が、「太陽」では長谷川天渓がこれを取り上げて賞讃した。国木田独歩の作家としての地位は、数え年36歳になって出版したこの「運命」によって確立した。
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・徳田秋声(36)「佐十老爺」(「新小説」)
秋声は前年(明治38年)10月「新潮」に「お俊」を、11月独歩の経営する「新古文林」に「昔の恋人」を、12月「新小説」に「侠美人」を、同月「新声」に「正直もの」をと次々と書いた。
またこの年(明治39年)1月には「時事新報」に「亡母の記念」を連載、2月「文芸界」に「学士の恋」、3月「太陽」に「生死」、4月「中央公論」に「ひとり」、6月「新潮」に「悪徒の娘」、7月「新小説」に「老骨」、10月「新小説」に「佐十老爺」をと書いた。しかも多くは巻頭の小説であった。
彼の作家としての地位は次第によくなっていたが、作品には硯友社風の古い書き方かつきまとっていて、この時の文壇の流行になりかかっていた近代的写実の手法からは遠いものであった。
秋声は、明治39年、数え36歳、2児の父になっていた。この年は師の紅葉が死んでから4年目、秋声は硯友社の末流の1人として、栄えない作家の1人であった。
日露戦争中の明治37年から38年にかけて文壇は沈滞し、秋声は辛くもその生活を支えていた。「文芸倶楽部」「新小説」「文芸界」のような文学雑誌ですら、戦争を描いた作品が多く載せられた。江見永蔭、遅塚麗水、山岸荷葉、田口掬汀などが戦争小説の主な筆者であった。純文学の作品を発表する舞台は狭くなり、生活の前途は暗澹たるものに感じられた。 
紅葉の死と前後して、硯友社に反旗をひるかえすような写実主義の新風が小杉天外や田山花袋の作品によって興った。また戦争の終り頃の明治38年からこの年、明治39年にかけて、夏目漱石や島崎藤村の新作が世評のまとになっていた。
秋声はゾライズムには関心を寄せていたが、そういう新しい作風を要領よく取り入れることはできなかった。35歳という相当の年齢となりながら、文壇から浮き上った存在になっていた。

戦争中、彼は生活に困って、多少戦争に関係のありそうな題材の小説「通訳官」を書いて春陽堂へ売りに行ったことがあり、「新潮」には「召集令」という短篇を書いた。また明治37年12月から「万朝報」に「少華族」という長篇小説を連載し糊口の資を得ていた。それを書き出した頃、秋声は結婚以来住んでいた小石川表町の、友人の田中千里の借家を出て、本郷森川町の借家に移った。「少華族」は完結して、明治38年夏、2冊本に分けた上巻が春陽堂から刊行された。
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・三木露風、「雨ふる日」「古径」「鑓鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表。
「芸苑」は、明治35年2月上田敏が文友館から出し、1冊で廃刊にしたものであるが、明治39年1月から、馬場孤蝶、生田長江、森田白楊等とともに再興して左久良書房から刊行していた。三木露風は明治38年10月に出た上田敏「海潮音」の影響を受けたが、上田敏も露風の才能を認めて、明治40年に入ると、毎月のようにその作品を「芸苑」に載せた。
露風は「芸苑」に作品を発表するとともに、尾上柴舟の事前草社から離れて、詩作に専念するようになった。
明治40年4月、露風は、早稲田系統の雨情野口英吉、御風相馬昌治、介春加藤寿太郎、東明人見円吉等とともに、早稲田詩社を組織した。このとき、露風は数え年19歳、野口雨情26歳、相馬御風25歳、加藤介春23歳、人見東明25歳であった。露風以外の4人は、人見束明が明治38年11月から麻生茂という醸造家の出資で出していた詩の雑誌「白鳩」に執筆していたメンバーであった。だがその「白鳩」は、明治39年4月で廃刊になっていた。
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・堺利彦、月初めに淀橋町柏木343番地(現・新宿区北新宿1丁目)へ引っ越し(その後、柏木314番地、柏木104番地と住所変更)。
同時に、由分社を解散して『家庭雑誌』は大杉栄・堀保子夫妻の手に譲渡。
『家庭雑誌』(1906年11月号)には、「俄かに色々の都合から由分社が解散されることになり」「其等の片の付くまで一時本誌を休刊せねはならぬ次第に立至った」とのみ書かれているが、これは第2次『平民新聞』発刊が決まって、堺はその準備に専念する必要があったから。
以後、『家庭雑誌』は大杉夫妻が発行していたが、1907年6月に大杉が新聞紙条例違反で入獄したため、発行人を平民書房主人の熊谷千代三郎に委ねることになった。
その後、同誌が終刊すると、赤旗事件で大杉が入獄中、生活に窮した妻の堀保子が1909年4月に復刊を図る。しかし、第4号が発行停止になり、ついに幕を閉じる。
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・与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。
紀州は鈴木夕雨(歌人、木本町紀南新聞社長)の招請。
8日、大石誠之助は与謝野らを歓迎し、新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもっている。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。牧師沖野岩三郎が新宮キリスト教会へ赴任したのは教師試補として翌年6月であるから与謝野はこの時は沖野に面会しなかった。
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・ハーグの国際仲裁裁判所、米・加間の漁業権問題を調停し、解決。
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・モディリャーニ(22)、パリ、モンマルトルのコランクール街に住み、未来派画家ジノ・セヴェリーニと友達になる。ユトリロと飲みあかしたりする。
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2017年8月11日金曜日

明治39年(1906)10月 悪税反対運動の開始 山県有朋「帝国国防方針私案」を上奏 二葉亭四迷「其面影」(「東京朝日」~12月31日、78回) 二葉亭四迷の軌跡 池辺三山 内田魯庵   

京都 下鴨納涼古書まつり(過去画像2011-08-13)
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明治39年(1906)
10月
・鴨緑江・豆満江森林経営共同約款調印
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・統監府嘱託・黒竜会主幹内田良平、一進会(韓国内で併合推進唱える)顧問となる。
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・北洋常備軍、彰徳で軍事演習(彰徳会操)
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・悪税反対運動の開始。
商業会議所連合会(上層ブルジョワジーの利益代表、中野武営指導)、「税法改廃に関する建議」(3悪法廃止、塩専売・通行税・織物消費税)を政府に提出。
織物同業組合は日露戦争下で既に織物消費税反対運動展開。
更に、この年2月、西陣・八王子など主要産地の同業組合長名で同税改革陳情書を政府に提出。
9月、京都・東京・名古屋3組合が中心となり「織物消費税廃止同盟大会」を京都で開催。
11月、1道3府14県の塩、醤油・味噌醸造、塩魚の業者が塩専売廃止同盟結成。連合会は、業界の要請のみならず、労賃騰貴による企業の収益減、物価騰貴による労働争議を防ぐ意図もある。連合会は前年10月の大会決議で行政費節約・税制整理を要望。

中野武営:
明治14年政変で大隈派河野敏鎌に従い農商務省権少書記官を辞任、改進党結成に参画。初期議会で予算委員となり藩閥政府と闘う。明治38年8月初代商業会議所会頭渋沢栄一(東京商業会議所会頭)の後を継ぎ、副会頭から会頭となる。前年(明治38年)10月の大会決議、この月の建議など、政府との対決姿勢を示す。
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・山県有朋、「帝国国防方針私案」を明治天皇に上奏。
翌年2月、帝国国防方針・用兵綱領として具体化される。
内容は、ロシア、アメリカ、フランスの順で仮想敵国を定めて軍備を拡張する、というもの。そのための膨大な経費は、日露戦争時の非常特別税を戦後も継続し、さらに、間接税などの増税を実施することでまかなわれた。戦後不況のなかで、これらの政策が民衆を苦しめることになる。
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・この月より1年間で全国私鉄17社買収、4億5千万円。
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・下郷製紙所、組織を変更し中之島製紙株式会社と改称。資本金30万円。
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・神戸製糖株式会社創立。
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・大阪活版工技工組合結成。
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・大阪盲人会設立。
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・大日本労働至誠会結成。
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・南海晒粉株式会社創立(和歌山)。資本金20万円。
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・寶田石油会社、新津鉱業・長岡石油・帝国石油・小千谷石油・五菱組など33の会社組合を買収合併。資本金400万円。
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・二葉亭四迷「其面影(そのおもかげ)」(「東京朝日」~12月31日、78回)。
「浮雲」(明治20~22年)中断以来17年ぶりの小説。「「浮雲」の惰力的労作である…」(内田魯庵)。

■二葉亭の軌跡
明治36年7月、北京の警務学堂の提調を辞して日本に帰国。
その1年前、東京外国語学校と海軍大学の露語教授を辞して、国の運命を担うような事業を志し、ハルビンや北京に流寓し、結局何一つ成就することなく東京に帰って来た。
彼には前妻つねとの間に2人の子供があり、後妻りうと、母志津と一緒に、本郷の西片町10番地に住んでいた。
帰国後、ロシアや中国事情の論評家として新聞に職を得たいと思ったが、思わしい口がなかった。またロシアの極東政策を研究した「露勢東漸考」という著述をしようと、プランを作り、友人坪内逍遥に出版社の紹介を依頼したが、引き受けてくれる本屋はなかった。結局、以前のように文学作品の翻訳で収入を得る外なく、ツルゲーネフの「煙」を冨山房から出す約束をし、途中まで翻訳したが、これも中絶するに至った。彼は母志津の心を安んじることを常に念頭に置いていたが、母は大変我儘で、生活が苦しくなると事ごとに不平やあてこすりを言って息子を厭からせた。その上、彼は経済観念に乏しく、また常に理想的なことを考えていなから、それをやり通すような生活者としての忍耐心に乏しかったから、家計はいよいよ苦しくなった。
この困難な時期に彼のよい相談相手となったのは友人の坪内逍遥と内田魯庵であった。

明治37年2月、日露戦争が始まると、「大阪朝日新聞」記者内藤湖南が、優秀なロシア事情通で、かつ文士でもある二葉亭四迷を思い出し、彼を社員として迎えることを首脳部に建議して、容れられた。
「大阪朝日新聞」入社は二葉亭四迷にとって救いであった。月給100円で、東京在住のまま、ロシアの新聞雑誌から適当な材料を得て原稿を書き送るというのか条件であった。名目は「東亜経営問題の研究」であった。
彼は何度か原稿を書いたが、その原稿は研究論文めいた難かしいもので、派手な戦勝気分に満ちていた新聞の記事としてはふさわしくないものが多かった。そのため、彼の原稿はほとんど新聞に載せられることがなかった。彼は不愉快な日を送るようになり、新聞社もまた彼に不満であった。

この年10月、彼は脳貧血の気味で東京郊外、北豊島郡滝野川村大字田端に転居した。
その間、彼は「朝日」以外に内職として文学作品の翻訳を発表するようになった。それはトルストイの露土戦争を描いた小説「つつを枕」、ガルシンの「四日間」等であった。そういう社外の活動が「大阪朝日新聞」に分ると、彼の立場は一層不利になり、会長村山龍平は彼をやめさせようと考えるに至った。

明治38年3月、彼は、「東京朝日新聞」主筆、池辺三山から逢って話したいという手紙を受けとった。三山によると、村山とともに「朝日新聞」創設者である上野利一社長は二葉亭四迷を引きとめたい意向であるが、村山が中々承知しないので困っている、とのことであった。二葉亭四迷はいま「朝日」をやめると生活に困ることになるので、1、2カ月の猶予をもらい、その間に自分が役立つかどうかを試してもらいたいと言って、三山に取りなしを頼んだ。三山は努力を約し、今後「東京朝日」のために原稿を聾いてはどうかと提案した。
結局、三山の努力によって、二葉亭四迷は新聞社の席を失うことなく、以後「東京朝日」の仕事をすることになった。彼は深く三山を徳として、その人柄に服した。

■池辺三山
池辺三山(吉太郎)は西南戦争により刑死した熊本の人、池辺吉十郎の子。
吉太郎は少年時代に漢学を修め、10歳の頃から詩文の才によって知られていた。
17歳で上京、中村敬宇の同人社に学び、後、福沢諭吉の慶応義塾に転じた。
その後、熊本の旧藩主細川家の東京における藩塾、有斐栄舎の舎監となったが、明治21年、数え25歳のとき、大阪に移って東海散士柴四朗とともに雑誌「経世評論」を発行し文筆に生きることとなった。
明治25年、陸羯南に才を認められて新聞「日本」に客員として執筆しはじめ、外交問題、時事問題に精通することで知られた。
またこの年(明治25年)、旧藩主細川侯爵家の長子護成の留学に附き添ってフランスに赴き、数年滞在した。その間日清戦争の時期にあたって鉄崑崙の筆名で、日清戦争のヨーロッパにおける反響を新聞「日本」に書き好評を博した。
明治30年9月、「大阪朝日」主筆の高橋健三が、松方大隈連合内閣の書記官長となって、「朝日」を去った。高橋健三は、明治22年、二葉亭四迷が「浮雲」第三篇を最後として小説家たることを諦め、内閣官報局の雇員となったとき、そこの長官をしていた。彼は新聞「日本」の創立にも関係があり、「大阪朝日」の中心人物であった。村山龍平は高橋のあと池辺三山を招き主筆とした。彼が主筆となって以後、「朝日新聞」の紙面はとみに活気を加えた。"

明治31年、池辺は「東京朝日」に移り、西村天囚(晴彦)を継いで主筆となった。
明治34年、北清事変直後の中国・朝鮮の視察旅行をしたので、二葉亭四迷の ロシアや中国に関する知識には敬意を抱いていた。
池辺三山は、初めから二葉亭四迷を文士として考えていた。彼が長谷川辰之助として時局を論じても、新聞の役に立つものが出来る筈がない、というのが彼の意見であった。実際、明治38年1月から「大阪朝日」に連載して中絶した「満洲実業案内」という記事は、新聞記事というよりは「参謀本部か外務省」に調査書類として提出するにふさわしいような詳細極まる固苦しいものであった。三山は、二葉亭四迷がやめさせられそうになったとき、「大阪で断念してしまえば朝日が二葉亭四迷を失う事になり、又長谷川君に断念せらるると私が友誼甲斐ない事となる」と考えて村山龍平と二葉亭との間に立って努力し、どうにか成功した。

明治38年6月頃から二葉亭四迷の原稿が「東京朝日」に載るようになった。
戦争の結果起る事態に備えて彼は「樺太の森林」「樺太の炭鉱」「露国革命党」など啓蒙的な記事を続けて書いた。三山は彼の内職なる文学作品翻訳も「社の仕事が留守にならぬ範囲でするなら構った事なし」と言ったので、彼はゴーリキーやガルシンやゴーゴリの翻訳を公けにした。また翌年7月には「世界語」という題のエスペラントの解説書を、西本翠蔭の経営する彩雲閣から出版した。この本は思いがけず版を重ねて二葉亭を潤した。

この年(明治39年)、ロシア事情の解説も用がなくなり、二葉亭は文学ものの翻訳や小品文などを「朝日新聞」に暫くようになった。
5月、三山は、「東京朝日」に連載中の柳川春葉「もつれ糸」のあとの小説を二葉亭四迷に書かせようと考えはじめた。小説でも書くのでなければ、二葉亭四迷という高い給料を取る記者の地位は危くなることを池辺は気づかった。その使いに立って二葉亭を訪問したのは弓削田精一であった。

二葉亭四迷は、自分には小説を書く才能がなく、また小説を書くことの苦しみに直面したくないと思っていた。しかしこの明治39年春、二葉亭が以前発表した小説「浮雲」や翻訳「あひゞき」「片恋」などに近代的な写実文学の典型を見出していた島崎藤村が「破戒」を出版し、「あひゞき」の影響を受けた国木田独歩が短篇集「運命」によって、新文学の代表的な作家としての地位を獲得していた。
弓削田精一は二葉亭に小説を書くことを奨め、政治と文学というものが二葉亭にとって両立するかしないかという議論を4時間あまりも続けた。

結局、その日は話がまとまらず、弓削田はまた同じ話を繰り返すつもりで再度訪ねて行くと、意外にも二葉亭は小説を書くことを承諾した。
弓削田は、小説家として世に立ちたくない二葉亭の気特が分っていたので、一面では大変気の毒なことをしたように感じた。
20年近く以前に、二葉亭が自分の手にあまると思って中絶した「浮雲」の系統を引く口語文体が、明治36年に紅葉が没して以後、新しい小説文体として次第に広く行われるようになり、その文体によって島崎藤村、夏目漱石、国木田独歩が仕事をして注目を浴びていた。どうしても書かなければならないのなら、自分もやって見ようと、二葉亭は考えた。

彼には一つの腹案があった。
日露戦争後、表面には出ないが社会の大きな問題となっていた戦争未亡人のことを小説に描いて見たらと考えていた。彼は、体面のために個人の人権が無視される未亡人問題を、そのまま放置することはきなかった。未亡人は再婚すべしというのが彼の意見であった。彼は小説家としては認められたくなかったが、この問題は小説として書くべきものである、と考えていた。
依頼を受けて承諾した5月から8月まで、彼は小説の構想を練った。
自然主義が起って、天外、花袋、藤村、独歩の作品がその名で論議されていた。肉体の自然を尊重するこの文芸思潮を取り入れて未亡人問題を描いてもよさそうであった。二葉亭は戦争未亡人が肉体の慾に負けて妻のある男と通じる小説を書こうと考え、内田魯庵に何度か題名について相談した末、「茶筅髪(ちやせんがみ)」というのに決めた。そして真の Heart を持った女主人公が、弱気のために偽瞞的を行為をする男と関係した結果、気が狂って破滅する、という筋を作った。そして彼は8月頃その小説を書き出したが、結局彼はその構想を棄てた。
女主人公を戦争と関係ない未亡人に変え、小夜子というその女主人公が姉の夫なる小野哲也と関係するという筋を作った。

小説発表後、内田魯庵は、二葉亭がこの春から半年の間、この作品のことで苦しんで来たの知っていたので、祝いの手紙を送ると、翌日、二葉亭は魯庵に礼状を出した。

主人公小野哲也は、無理解な妻と姑に苦しめられ、義妹の小夜子と親しくなるが、その結果小夜子は家を出て千葉の教会へ走る。小野哲也の方は家を棄て、満洲へ逃亡してうらぶれた生活をする、というのがその結末であった。

内田魯庵は、二葉亭が20年ぶりの作品を書いている間じゅう、「恰も処女作を発表する場合と同じ疑懼心が手伝つて、眼が窪み肉が痩せるほど苦辛し、其間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼くなるまで全力を傾注し、千鍛万練して」書き改めて来たのを知っていた。また、二葉亭は毎日の締切時間に遅れそうになるので、社からは度々社員を催促にやったが、その仕事ぶりを見たものは誰も気の毒がって催促の言葉をロにしかれた、ということであった。池辺三山はそれを評して「造物主が天地万物を産み出す時の苦しみ」だと言った。この作品に苦心している間じゅう、二葉亭四迷は二階の書斎で咳をしていた。それを母の志津は気にしていたが、すでに彼は胸を冒されはじめていた。

にもかかわらず、この作品を通読した内田魯庵は、「『浮雲』の若々しさに引換へて極めて老熟して来ただけ或る一種の臭みを常びてゐた。言換へると『浮雲』の描写は直線的に極めて鋭く、色彩や情趣に欠けてゐる代りには露西亜の作風の新しい匂ひがあった。之に反して『其面影』の描写は婉曲に生温く、花やかな情味に富んでゐる代りに新らしい生気を欠いてゐた。幸田露伴は曾て『浮雲』を評して地質の断面図を見るやうだと云ったが、『其面影』は断面図の代りに横浜出来の輸出向きの美人画を憶出させた。更に繰返すと『其面影』の面白味は近代人の命の遣取をする苦みの面白味でなくて、渋い意気な俗曲的の面白味」であると感じられた。

坪内逍遥は二葉亭から「其面影」についての批評を求められたとき、「『浮雲』とは遥かに洗練された点で先ず違う」と言った。二葉亭は、逍遥が満足していないらしいのをすぐ感じとって、うんざりしたような顔になった。

夏目漱石はこの作品が翌明治40年8月に本になったとき買って通読し「大いに感服」し、賞讃の言葉を述べた手紙を二葉亭に送った。

専門家の間では、一般的に、二葉亭の新作に対する期待が大き過ぎたためか、この作品はあまり好評ではなかった。しかし、一般読者には大変人気があった。そして、二葉亭四迷は小説家としての華やかな存在であると認められるようになった。
(『日本文壇史』第10巻による)

なお、
関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』(文春文庫)が詳しい。




2017年8月9日水曜日

明治39年(1906)9月11日~30日 東京の3社統合し東京鉄道株式会社設立 漱石の岳父中根重一病没 大杉栄(21)の日本エスペラント協会活動 

鎌倉 妙本寺
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明治39年(1906)
9月11日
・東京電気鉄道・東京市街鉄道・東京電車鉄道合併。東京鉄道株式会社設立。3社統合し交通会社の独占会社となる。資本金2,700万円。東京市電(明治44年8月)の前身。電車賃を3銭均一から4銭均一に値上げ。
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9月11日
・インドのマハートマ・ガンディー、南アフリカで非暴力的抵抗運動を初めて組織。
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9月13日
・東京電力株式会社創立。
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9月13日
・漱石の岳父(妻境子の父、元貴族院書記官長、56歳)中根重一、病没。
中根重一は官職を退いてから事業に手を出して失敗を重ね、しばしば女婿漱石の援助を受けた。漱石の身辺には、元の養父塩原昌之助やその別れた妻のやすをはじめ、そういう関係の人間が多く、まともにつき合っていると大変煩雑だったので、漱石は妻と相談して、親戚附合は一切不義理をするという原則を作って、その上で可能なことだけをしてやった。
中根重一は不遇を生活が長く続いた結果、安田保善社に勤めて少しばかりの月給を得て生活を支えていたが、その子供の学資などは夏目家から出ていた。いま重一が死んでみると葬式を出す金もなかった。嫁いだ娘たちや古い友人達が金を出し合うことになり、漱石もその金を出した。そして彼はその死亡広告にも名を連ねた。しかし彼は、その葬式には出ないと言い出して、どうしても妻の頼みを聞き入れなかった。彼は遺族にあてて長文の慰めの手紙を書いた。そういうとき、何が彼をそのように頑固にさせるのか、はたから考えて分らないところがあった。彼は岳父の葬式に出ないで学校の講義に出ていると人に言あれるのを気にして、葬式の当日は大学の講義も休んで家でじっとしていた。
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9月18日
・中国の浙江諸県で飢民暴動発生。
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9月18日
・富士瓦斯紡績株式会社設立。
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9月19日
・石垣綾子、誕生。東京市谷加賀町。父は陸軍幼年学校教師。物理の受験参考書はベストセラー。大正6、府立第1高女入学。
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9月22日
・ジョージア州アトランタで、大規模な反黒人暴動。黒人18人含む21人死亡。
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9月25日
・旅順鎮守府条例公布(勅)。
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9月25日
・ペテルブルク、ディミトリー・ディミトリエヴィチ・ショスターコーヴィッチ、誕生。
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9月26日
・日米追加犯罪人引渡条約公布。
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9月26日
・米、キューバに軍事干渉。
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9月28日
・四平街覚書(日露撤兵手続き及び鉄道引き渡し順序議定書)廃止。北満州の全地方への日本人の旅行自由に。
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9月28日
・大杉栄(21)、日本エスペラント協会第1回大会(神田青年会館)で「桃太郎」の話をエスペラントでやり、喝采を博す。
この月、堀保子と結婚。
「大杉が、黒板勝美、千布利雄らとともに日本エスペラント協会を設立(註、6月12日)し、神田の青年会館で開かれた第一回大会の席上で『桃太郎』の話をエスペラントでやり、喝采を博したのは、その年九月二十八日のことである。彼はまた、九月十七日に、本郷区壱岐坂下の習性小学校で、日本最初のエスペラント学校を開いた。生徒は四十五名。十二月六日、神田の国民英学校で行われた第一回卒業式には、黒板勝美や加藤高明が来賓として出席、大杉はやはりエスペラントで「卒業生諸君に告ぐ」という訓辞をしている。この学校は夜学で、大杉が翌一九〇七年五月巣鴨監獄に入獄するまで続いた。彼の日本芸ベラソト協会番号は二百一号である。なお、この学校には数人の中国人留学生も入っており、彼らは大杉のことを”ダーサン先生”と呼んでいた。彼らは、東京で中国語の社会主義雑誌『衡報』を発行していた呉稚暉、張継、景梅九らの仲間であった。」(大沢正雄「大杉栄研究」)。
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9月28日
・新渡戸稲造、第一高等学校長に就任。
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9月28日
・パルマ・キューバ大統領辞任。政権は空白状態となり、米陸軍長官ウィリアム・タフトが臨時総督となって反乱軍と政府軍間の調停を試みる。
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9月29日
・イタリアのミラノで労働総同盟結成大会(~10.1)。
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9月30日
・第1回国際熱気球競技会開催(パリ)。
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2017年8月5日土曜日

明治39年(1906)9月11日 木下尚江(数え38歳)が社会主義を捨て秋水・堺と決別する 木下尚江の活動の足跡(「平民新聞」 「毎日新聞」 弁護士 「火の柱」 「良人の自白」 キリスト教社会主義 「新紀元」 二葉亭四迷との出会い 母の死...)

汽車道からのみなとみらい
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明治39年(1906)
9月11日
・木下尚江(数え38歳)、社会主義を捨て秋水・堺と決別。
佐野町から帰った翌日の9月11日、木下尚江は麹町元園町の堺家を訪ねた。秋水が7日に上京して、まだ堺家に同居していた時であった。その2人に向って木下は、社会主義運動から離脱する旨を伝えた。
9月13日、木下尚江は「旧友諸君に告ぐ」という訣別の辞を書いた。
「諸君よ、僕は断然政党運動を脱退したる也。是れ僕が政党運動を不必要となすが為に非ず、政党運動を以て愚挙となすが為めにも非ずして、僕自身の性格が到底政党運動に不適当なるを知りたると、政党運動以外に於て僕の専ら力を致すべき事業あることを確信するに至りたるとの為に外ならず。既往数年間僕は二途にも三途にも迷ひ来れり。今ま始めて自らの位置と職分とを覚ることを得たり。故に今敢て絶つべからざるの旧交厚誼に背き、明白に諸君を離れて孤立独住の寂寞を甘んずる也。」

《木下尚江の活動の足跡》
■「平民新聞」に拠る活動
木下尚江は明治34年5月、片山、堺、幸徳等と社会民主党を結成。それは届出るとすぐ禁止になったが、以後彼は社会主義者として行動。
彼は「毎日新聞」に席を置くかたわら、明治36年~38年、週刊「平民新聞」の主要な一員として、積極的に働いた。
彼は非戦論を擁護し、徴兵制の残酷さを指摘し、忠君愛国思想の空虚さを批判し、国家至上主義を嘲笑する論説を書きつづけた。

日露開戦後の間もない明治37年3月、彼は、戦時の国庫債券募集の不成績を暴露して発行禁止を食った「二六新報」を擁護する文章を「毎日」に載せた。
「或は妻を離別して出陣せるものあり。或は子を殺して出陣せんとしたるものあり。而して堂々たる新聞記者筆を揃へて讃称して曰く義士なり勇者なりと。是れ不倫を煽揚するものなり。・・略・・然れ共世を挙つて謳ふて曰く『忠君愛国』、吾人は如何ばかり多大の割引をなすも、是等を目して重厚なる愛国心と言ふこと能はざるなり。・・・略・・・軍国時代の故を以て吾人新聞記者は言論の自由、其七分以上を失へり。此時に当つて甘言は理非曲直を問はずして喝采せられ、苦言は善悪邪正を問はずして排斥せらる」
この文章のために、掲載した3月25日の「毎日新聞」は発売禁止になり、発行人と木下尚江とは起訴された。罰金20円。

一方「平民新聞」の記事によって、堺、西川、幸徳等が起訴されると、弁護士の資格を持つ木下尚江は法廷でその弁護に当り、平民社にとっての最も強い楯となった。

■小説「火の柱」
木下は「毎日新聞」が徳富蘆花に小説を頼もうとして成らなかったとき、自らかって出て明治37年元旦から小説「火の柱」を連載した。(~3月20日)。
この小説は、木下自身をモデルにした、キリスト教社会主義者で非戦運動の闘士、篠田長二を主人公とするもの。「平民週報」という名で「平民新聞」が活躍の舞台とされ、その談話室を中心に活躍する人々は、幸徳、堺、石川、西川その他の人をモデルにしたもの。小説の中で、反戦運動をしているロシアの社会民主党員からの手紙が着く場面があるが、それは週刊「平民新聞」において事実となって現われた。
開戦後の3月13日発行「平民新聞」第18号に、公開状「与露国社会覚書」が掲げられ、次号にはその英訳が載せられた。その文章は欧米の社会党系の新聞に転載されている間に、ロシアの社会民主党の目にとまり、その機関誌「イスクラ」は、それに答える公開状を載せ、それは7月24日の「平民新聞」第37号に訳載された。

「火の桂」の最後の場面では、篠田の書いた反戦主義の原稿が探偵の手に入り、そのため日露の国交断絶の日に篠田が逮捕されることになっていた。

■小説「良人(りようじん)の自白(じはく)」
その5ヶ月後、明治37年8月15日から、木下尚江は第二の小説「良人(りようじん)の自白(じはく)」を「毎日新聞」に連載。前篇は11月10日まで、中篇は翌明治38年4月1日~6月3日、後篇はその年7月1日~10月16日まで掲載。
「火の柱」は全く素人であった彼によって書かれた反戦主義そのものの小説であったが、「良人の自白」は社会小説でありながら、恋愛小説の観をも呈していた。

作品は、東大法科を卒業したばかりの主人公白井俊三が家族制度の絆に縛られて、気に入らぬ結婚生活に入る話からはじまり、無実の罪を着て入獄し、そこで子供を産む下層の女お玉、小作争議の指導者である、俊三の幼友達の野間与三郎、主人公俊三の堕落、人妻との姦通と彼女の自殺、俊三の離婚、芸者への耽溺、自暴自棄の俊三が自分を尊敬するお玉にまで手を出そうとすること等、多くの事件が続く。
後篇途中から、俊三は恋人松野を追ってアメリカに渡り、社会主義大会に出席する消息が出、やがてロシアに渡るが、そこで暴漢に撃たれて死ぬ。その消息が郷里の人々の間に伝えられる。
最後は、下層社会出身のお玉と与三郎との将来に希望がかけられているところで、この小説は終る。
「良人の自白」は社会悪を摘発した小説であったが、同時に、俊三という知識階級人の異性関係における腐敗、自棄、執着の連続とも言うべきものが作品の主脈をなしている。この小説は、男性の告発であり、木下の過去の異性関係をフィクションの中で自ら暴いた自己告発の小説である。

■キリスト教
木下は明治28年、廃娼運動をしていたとき、諏訪で1人の娼妓を知り、その女を救おうとしているうちに、その女と通じてしまう。また彼は妾を囲っていなから、廃娼運動の演説をしていた。ある演説会で、彼は、聴衆から偽善者と罵られたことがあった。
彼は自己の人格的矛盾に悩むことが多く、絶えず自分自身を責め苛んでいた。「良人の自白」は、そういう内的な彼自身の心の露頭の描出であり、それを書いて以後、彼は心の問題から目をそらすことができなくなった。正しき恋愛によらざる結婚と男女関係とは、すべて神の目からすれば罪悪だという考えを彼は棄てることができなかった。

木下は22歳の頃からキリスト教の影響を受け、24歳のとき、北村透谷の「厭世詩家と女性」を読んで「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人生あり」という言葉に接し、「まさに大砲をぶちこまれた様な」感銘を受けた。
にもかかわらず彼の蹉跌はその後、社会運動家としての彼の地位が高まるにつれて数を重ねるに至った。
同時にその反省が常にキリスト教に縛りつけていた。

■キリスト教と社会主義思想の葛藤
明治34年4月、社会民主党が結成され、1日にして禁止された少し後、木下と幸徳・片山が横須賀へ演説に行った。
その汽車の中で幸徳が木下に言った。
「木下、君、どうぞ神を捨てて呉れ。君が神を棄ててさえ呉れれば、僕は甘んじて君の靴のひもを解く」
木下は返事をためらった。
そのとき、キリスト教から完全に脱却できないでいた片山潜が、木下を助けるように言った。
「幸徳きん、君が神様に征服されないように用心したまえ」
幸徳は重ねて、
「必ず君に捨てさせる。必ず捨てさせて見せる」
と言った。

木下は時々、自分が本当の社会主義者ではないと思うことがあった。
第1回非戦論演説会の日、片山潜が、働く者、労働経験のある者のみが社会正義を主張し得ると言い、「諸君、手を出せ」と叫んだ。傍で聞いていた木下は、自分の手は白い、遊民の手であると思い、自分は社会主義者ではない、自分は「ただ社会主義を利用したのだ。社会主義の理論を借り、同志を利用したにすぎない」という自責の念に駆られた。

幸徳がアメリカへ去り、「新紀元」が創刊された明治38年暮に神田三崎町の森近運平のミルクホール平民舎2階で同志の者の会があったとき、話題は我々の将来という問題になった。
そのとき木下は、「人格という事に注意せねばならぬと思うがどうだろう」と言った。同志たちはそれに反感を覚えた。人格論は個人主義者の言うことである、人格は貴族富豪の代名詞で、それは労働者にとっては仇敵だ、という言葉が彼に投げつけられた。
散会後、彼は追放されたような気持ちでそこを去った。

■キリスト教社会主義
日露戦争が終りに近づき、平民社の運動が非戦論から別個の領域に移行しようとしたとき、幸徳はカによる革命を考えはじめ、木下は前に戻って良心の問題に直面していた。

明治38年9月、平民社解散が決定したとき、沈黙していた木下が石川三四郎(旭山)に言った。
「旭山、大いにやれよ!」
「やれと言うた所で、何をやるのかね、下宿屋でもやろうか」と石川がふざけて言った。
「いや、そうじゃない。雑誌を発行しないか、クリスチャン・ソシアリズムのを」と木下が言った。
キリスト教をもっと研究したいと考えていた石川は、その言葉に啓示を得て「新紀元」創刊を企てた。キリスト教社会主義という名目に良心を託す人々によって「新紀元」は始められた。
新紀元社は石川を責任者とし、木下と安部磯雄を指導者としていた。新宿駅の西側にある石川三四郎の家で、藁家(わらや)の6畳、3畳、2畳という小さなものであった。そこで毎週1回日曜説教を行い、隔週に聖書研究会を開いた。そして毎月1回、社員と社友の晩餐会を開いた。集まる青年たちは、赤羽巌穴、逸見斧吉、小野有香、横田兵馬等の10名ばかり。木下と石川は彼等の思想に最も近い人として、徳富蘆花と内村鑑三の協力を願い、蘆花は「黒潮」の続編を執筆することになったが、それは中絶され、蘆花は榛名山に籠ってしまった。その縁により蘆花の弟子、前田河広一郎が石川の助手として同居していた。

「新紀元」創刊の明治38年の末頃、木下は、凱旋した兵士たちに参政権を与うべきであるとの趣旨で普選論を掲げた。
しかし彼は、兵士たちが戦場において自己の立場に目覚めるどころか、逆に盲目になり、愚物になって帰り、天皇神聖論と戦勝気分の中に眠り込んでしまうのに気がついた。
■思想と文学とにおける動揺、二葉亭尾四迷との出会い
木下は明治39年に入ると「新紀元」に執筆するかたわら、「毎日新聞」に、「良人の自白」の続篇としての「新曙光(しんしよこう)」を書いた。

そのとき、桂内閣が退いて西園寺内閣が成立し、日本平民党と日本社会党の結社届が受理された。新しい社会へのかすかな希望を漂わせた。木下は社会党に対する期待を「新紀元」第6号で述べたが、自分はその結社に参加しなかった。

「新曙光」は「良人の自白」の続篇であった。
小作人の与三郎と娼妓出身のお玉を中心にした共同農場が、ある地主の土地の提供によって作られ、色々な困難に逢いながら建設が進められて行くのがその筋である。
しかし、このユートピアには本質的に悪の問題がなく、それ故に実在性がなかった。
罪の意識を背景とする実在感に動かされた時のみ、木下の精神は動くのであった。
木下はこの小説に情熱を感ずることができなくなり、掲載は中絶しがちに6月9日まで続いた。このユートピアが戦争の到来でおびやかされるところがその末尾であった。

この作品執筆中の春のある日、長谷川辰之助(二葉亭四迷)が毎日新聞社に木下を訪ねて来た。
木下は生れながらの知己であるような親しみを長谷川に感じた。二葉亭四迷は、横山源之助から木下のことを聞いていたと言い、うしろに立っている外国人を紹介した。ピルスーツキーと言う、ポーランドの革命党員で、シベリアの流刑地から逃れて来たいうことであった。木下は社会主義熟から醒めていた時であったので、外国の革命家に興味を抱かなかったが、長谷川に対しては関心を持っていたので、この機会に長谷川を知ったことを嬉しく思った。

この頃、彼の思想は動揺しており、それと共に改めて「文学」というものに対して、疑問と希望とを感じていた。木下は、文学とは何か、という問題につき当っていた。
この時以来、木下はしばしば長谷川に逢い、文学の話を聞こうとした。
長谷川辰之助はこのとき数え年42歳で、木下より4歳年長。
長谷川は明治37年2月から「朝日新聞」の社員であった。ロシアについての雑文を書き、ゴリキーやガルシンの翻訳をしていたが、まだ「其面影」を書き出していない時であった。
「朝日新聞」は銀座6丁目の滝山町に、「毎日新聞」は5丁目の東角にあったので、木下と長谷川は、いつも銀座の箱館屋という店の2階で逢った。木下は、長谷川から文学についてのその本心を引き出そうとするのだが、文学の話となると長谷川はそれを避けた。長谷川は、話がそこへ行くと、眉の間に皺を寄せて、横向きになり黙してしまった。ある時は、目を天井へ外らして、煙草をふかしながら、「はゝはゝ」と軽く笑うだけであった。2人とも黙りこくったまま、じっと相対し、しばらくそうしていると、長谷川は「また逢おう」と言って出て行くのであった。

木下が受けた印象では、長谷川は一個の「苦悩」というものそれ自体であり、また「魔」というものがあれば、それは長谷川のことのような気がした。長谷川の様子を見ると、木下は、腹違いの兄の傍にでもいるような安らかさと懐かしさとを感じた。

■母の死
この年3月11日、国家社会党の山路愛山が会主となって、日本社会党と共同で電車賃債上反対市民大会が開かれたが、その前夜木下は銀座街頭でその会を知らせるチラシを撒いた。
当日、逮捕されることをも予想して、彼は聖書、手拭、切手などをポケットに入れて日比谷の会に行った。その日は雨で、改めて15日に会を開いたところ、彼の家は家宅捜査を受けた。

この頃、木下は、母の久美子が病重く、床についていたので、絶えずそのことを気にかけていた。自分が入獄、裁判などということになれば、それが母にとってどんな打撃になるかと思うと彼は少しも心が安まらなかった。

電車賃値上反対市民大会の時から2月ほど経った明治39年5月6日、彼の母久美子は数え年68歳で死んだ。小説「新曙光」は6月9日に終った。23日には幸徳がアメリカから帰って来た。幸徳帰国を迎えて木下は、日本社会党へ幸徳とともに加わった。母の死が、それまで木下を拘束していたものから彼を解放した。

しかし、彼の真の関心は社会運動にも、幸徳が披瀝した新しい急進思想にもなかった。彼の心は、外的世界での闘争から離れかかっていた。

6月末、彼は7年あまり在社した「毎日新聞」を辞めた。島田三郎の「毎日新聞」は経営的に行きづまっていたが、木下は奔走して、困難打開の道をつけて、長い間恩顧を受けた島田に報いた。

木下には妻操子との間に子供がなかった。彼には妹伊和子があった。伊和子は菅谷透に嫁して女児を1人産んだが、寡婦となり、平民社にも出入りして、演壇に立ったこともあった。父は尚江が19歳の時に死んでいたので、母を失ったこの兄妹は孤独感を強く感じ、親しく行き来していた。


出典『日本文壇史』第10巻(伊藤整)






2017年8月4日金曜日

明治39年(1906)9月 日刊『平民新聞』発行計画 関東総督府廃止、関東都督府となる 東京市電値上反対市民大会、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決 木下尚江・石川三四郎、田中正造を応援 幸徳秋水が郷里より戻る  

横浜 港の見える丘公園ローズガーデン
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明治39年(1906)
9月
・西川光二郎「改革者の心情」発禁。
*
・吉野作造「支那人の形式主義(再び)」(「新人」)。
革命・暴動により天下は乱れるのみ、「結局外国勢力に依って僅かに納まるものとおもわれる」。革命運動に無理解、日本の対中国政策にも無批判。
吉野(既に娘3人の子持ち)、この年より3年間中国で生活(直隷総督袁世凱の息子克定の家庭教師)。
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・この月頃から日刊『平民新聞』発行の計画がもちあがり、新たに平民社を京橋区新富町6丁目7番地(現・中央区新富2丁目)に設置することになる。事務所は、新富座の隣にあった廃業した芝居小屋を借り受けた。
日刊紙を出す話は、弘前の裕福な竹内兼七という資金提供者が出現したことで急に具体化した。竹内は『新紀元』を刊行していた西川光二郎に、『新紀元』を日刊化することを提案する。西川は堺と秋水に相談し、それなら『新紀元』と『光』を合同して、日本社会党の事実上の機関紙として一本化しよう、ということになった。
「階級闘争論」をめぐって一時は堺と論争をした石川三四郎は、この新しい平民社の創立人として加わった。
しかし、木下尚江は心境の変化を理由に社会主義運動から退き、『新紀元』からも抜けて、群馬県の伊香保の山中に隠遁してしまう。
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・噺家・社会活動家高松豊次郎、風刺喜劇短篇「社会パック活動写真」を公開。千葉吉蔵撮影。
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・正宗白鳥(28)「旧友」(新小説」)
この年、正宗白鳥は数え年28歳、「読売新聞」記者になって4年目。
はじめ美術、文芸、教育に関する消息記事を書き、明治37年から劇評も書いたが、その年11月、「新小説」編輯主任後藤宙外にすすめられて、初めて短篇小説「寂莫」を「薪小説」に発表した。
彼は学生時代に友人について田山花袋を訪問したことがあり、以後時々花袋を訪ねて、ヨーロッパ文学の智識を得た。
明治38年、花袋や柳田国男のグループの作っていた龍土会に加わり、そこで岩野泡鳴らの文士と交際するようになった。
明治38年~39年、漱石が諸作を発表し、島崎藤村の「破戒」や国木田独歩の作品が注目を浴びるようになり、文壇に新機運の起るきざしが濃厚になり、彼も創作に対して積極的な気持ちが湧き、幾つかの小説を発表した。
この年、「新小説」2月号に「破調平調」を、9月号に「旧友」を書いた。
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・東洋硝子製造株式会社創立(大阪)。日・英・仏・ベルギー4ヵ国の共同出資。1909年2月解散。
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・富士瓦斯紡績、東京瓦斯紡績を合併。
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・王子製紙、北海道苫小牧に工場新設を決定。資本金600万円に増加。
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9月1日
・関東総督府を廃止、関東都督府となる。
都督は大島大将引継ぎ、陸軍部設置。

「関東都督府官制問題」:
陸軍(都督府)・外務(在満領事)の対立を惹起。都督は陸軍大・中将が親任され、政務は外務大臣、軍政、軍人人事は陸軍大臣、作戦・動員計画は参謀総長、軍隊教育は陸軍教育総監の監督をうける。特別委任事項として、都督は外務大臣の委任により清国地方官憲との交渉できることになるが、在満領事の権限を強化しようとする外務省と対立。
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9月1日
・清朝光緒帝、預備立憲を宣示し、数年後に立憲政治の実現を宣言。
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9月1日
・大連港を自由港として開放。大豆・石炭などが積み出され、絹布など工業製品が荷卸し。
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9月1日
・韓国統監府機関誌『京城日報』、創刊。
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9月1日
・第2回水産博覧会開催(神戸市、~11月30日)。
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9月1日
・(露暦8月19日~07年8月20日)野戦軍法裁判、ストルイピン主導で実施。革命弾圧。
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9月1日
・英領ニューギニア、オーストラリアの管轄下に置かれる。パプア(元のポルトガル語による名称)に改称。
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9月1日
・有島武郎、アメリカを去る。この日、ニューヨーク発。
9月10日、ジブラルタル、13日、ナポリ着。ナポリでは弟の壬生馬が出迎え、家からの手紙や家族の写真を彼に見せた。彼は壬生馬と共にナポリの見物をし、それ以後、イタリア各地を歩く。日記も壬生馬と交替で書くことにした。
ローマにしばらく滞在し、10月21日、アシジやフローレンスを経てヴェニスへ出発。壬生馬は1年半ほど住んだローマを去り、兄とともにヨーロッパ旅行をすることになった。
10月29日、ヴェニス着。11月12日、ミラノを経てシンプロントンネルを抜け、スイスのローザンヌに着く。
そこからジュネーヴに行き、11月23日まで滞在。
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9月5日
・諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。
議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。
裁判は一審と二審は無罪判決。しかし、検事局が上告し、再審が行われたのは1908年の赤旗事件の後。結果、赤旗事件で有罪判決を受けた被告たちは、有罪を宣告された。
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9月5日
・堺利彦「基督教に対する予の態度」(「光」第30号)。宗教と社会主義を対立的に捉えない。
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9月9日
・木下尚江、田中正造の鉱毒事件の運動の応援に石川三四郎と出かける。

この頃、渡良瀬川事件はいよいよ末期的な状態に追い込まれていた。
渡良瀬川に流れる足尾銅山の鉱毒問題を解決する方針として、政府は渡良瀬川と思川の合流点の窪地に当る谷中村を買い上げ、そこに貯水池を設けることとした。そして、立ち退きに応じない住民の生活を不可能にするために、隣接の赤麻沼に面する堤防が壊れたのを修理することを禁じ、谷中村を窮地に追い込んだ。村民はその堤防を自力で修理したが、官憲はそれを取り壊そうとしていた。
谷中村が犠牲になれば、附近の他町村は鉱毒の水害から安全になるので、同じ鉱毒に悩む他の町村もこのときは谷中村を助けようとしなかった。
田中正造は、この村を救うことにその努力を集中し、明治37年7月からこの村に住んで政府、県当局、古河方に抵抗していた。

木下は社会主義運動に絶望しかけていたが、田中正造の現実的な運動に対しては深い関心を持っていた。田中は何度か入獄をくり返しているうちに、獄中で聖書を読み、自己流のクリスチャンになっていた。

このとき演説会は、栃木県佐野町で開かれた。
田中は、谷中村と赤麻沼の間の堤防を論じ、聴衆は熱狂して盛んな拍手が起った。しかしそのあとで現実にその谷中村を見に行く志願者をつのった時、1人も応ずる者がなかった。

田中の次に演説することになっていた木下は、それを知って、憤懣に耐えなかった。
彼は喋り出し大声で聴衆を罵倒した。
「あなた方は一体何を見に来たのだ。わが田中正造は、口稼ぎの大道芸人ではないぞ。あなた方は同郷の偉人を見殺しにしておいて、手ばかり叩く軽薄漢!」
そう言って彼は演壇を下り宿に帰ってしまった。
聴衆は、木下が酔っぱらっていると言って非難した。

翌日、石川三四郎と木下尚江は田中正造に連れられて、佐野町から1里ばかりの、田中の故郷小中へ行き、その生家を見た。
尚江が社会党にあきたらなかったところは、ただ爆発的に騒いだり、実行の伴わぬ革命理論を口にしているばかりで、渡良瀬川事件のような現実問題には積極的な援助の手を差しのぺないことにもあった。
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9月9日
・奥宮健之・小林樟雄ら、労働党結成。
夜、両国館で「労働党創立兼電車値上反対演説会」を開催。
労働党は、3月31日に鉄道国有法が公布され、日本鉄道株式会社が国有に帰した際、労働者がその割当金にかんして不満をもち紛擾をおこしたのを支援するために、奥宮健之、岩本新吾、石井保男等が結成した。「我党ハ天賦人権ヲ全スルヲ以テ主義トスル」とし、自由党左派の系譜に立つものであった。
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9月9日
・幸徳秋水、郷里より戻り、20日、大久保村百人町に居を定める。
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9月10日
・満鉄株募集開始。10月5日募集締め切り。約1,078倍の応募(盛況)。
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9月10日
・夜、社会党員15人、5方面からチラシを配り日比谷公園に集合。
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9月10日
・戸川秋骨(35)、横浜港から出航、古画商の通訳としてアメリカに向かい、ヨーロッパ漫遊ののち、40年1月23日横浜港に帰着。
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9月11日
・社会党、ボイコット大会が中止され、第2回市民大会に出席。錦旗館。
大会事務局、前回大会のボイコット決議を無視し、社会党(森近)発言を不許可。社会党退場。
ボイコット宣伝のかどで荒畑寒村、安成貞雄、堺婦人ら5名検挙。1夜留置。社会党ビラ「貧富の戦争」署名人山口孤剣起訴。
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9月11日
・木下尚江(数え38歳)、社会主義を捨て秋水・堺と決別。
(この項、次回に詳述する)
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2017年6月18日日曜日

明治39年(1906)9月 夏目漱石(39)、「草枕」(「新小説」)発表。舞台とモデル(前田つな子)などについて

鎌倉 寿福寺
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明治39年(1906)9月
・漱石(39)、「草枕」(「新小説」)。  
「草枕」の発表は、改めて夏目漱石の存在を世に強く印象づけた。

■舞台とモデル(前田つな子)
この作品は、30歳の画家と、旅先の温泉宿の美しい出戻りの娘との出逢いが土台になっていた。画家と娘の間に起るのは、人生についての悟りの競争のような心理劇であった。漱石はこの心理劇を、禅問答めいた画、俳句、外国小説、宗教等についての対話で飾り、また娘のもとの夫、戦争に出かける青年、僧侶、理髪師などを配して、美的教養主義による人生苦の脱出方法を説いているように見えた。

小説の舞台、那古井という温泉は、房州あたりであるかのように描かれていた。しかし漱石が使った舞台は、明治30年彼が熊本の第五高等学校に勤めた当時、遊びに行ったことのある小天(おあま)温泉であった。女主人公那美は、その温泉の所有者であった政客前田案山子の長女前田つな子であった。

小天温泉は熊本市の西北3里半のところにある有明海に面した温い土地であった。
漱石が松山中学校から五高に転任し、中根鏡子と結婚したのは、明治29年。この30年の正月休みに、漱石(数え31歳)は五高の同僚で第一高等中学時代からの親しい友人であった山川信次郎と一緒にそこへ湯治に行った。

前田案山子は熊本県の玉名郷の区長をしていた郷士で、槍の名手であった。池辺吉十郎等と親交があり、中江兆民とも交流があった。
小天の温泉宿は、もとは彼自身の隠居所として、また政友たちを招待する時に役立てようとして建てたものであったが、空いている時は客を泊めた。五高の教師たちは恰好の行楽地として時々ここへ出かけていた。山川信次郎は前田父娘と親しい交際をしていて、漱石を連れて行った。

前田つな子は前田案山子の2人の娘のうちの長女で、この時漱石と同年の31歳であった。婚家から戻って、このとき父とその隠居所にいた。
漱石と山川がそこに泊っているある夜更け、2人が湯に入っていた。そのときつな子は女湯がぬるくなっていたので、人がいないと思って男湯に入りかけた。すると湯の奥の方で、2人のくすくす笑う声がしたので、あわててそこを飛び出した。
つな子はしっかりした男まさりの女で、時によっては長い話をしはじめて、仲々漱石を離さぬこともあり、その性格は漱石の心に残っていた。

漱石はこの年6月頃にも、再び同僚の狩野亨吉、山川信次郎、奥太一郎等と小天へ遊びに行っている。
そして、9年後の明治39年、漱石は「草枕」を書くに当って、その温泉とこの女性とを材料に使った。

「草枕」発表のとき、モデルの前田つな子は東京に住んでいた。
彼女は漱石と知り合った後、再びある軍人と結婚したが、その結婚にも失敗して、今後は養老院の世話人にでもなって生きようと思って、上京していた。ところがつな子は、孫文一派の中国の亡命政治家たちのグループである民報社に入って、その人々を世話することになった。それは彼女の妹宮崎つち子の縁によるものであった。

妹のつち子は、父と同郷人である熊本県玉名郡荒尾村の宮崎寅蔵(号は滔天)と結婚した。寅蔵の父長蔵は幕末の頃剣士として知られた人間で、寅蔵の長兄真郷は、西南戦争で戦死していた。
寅蔵は、明治20年、数え年18歳の頃から、兄の弥蔵とともに中国革命運動に心を傾けた。その思想は、世界の現状の不合理を改めるには先ず中国の革命を実行して、その力で世界を理想的に改革するのか一番自然であり、かつ可能性に富んでいる、ということにあった。滔天はその考によって先ずシャムに渡航して開拓事業をし、次いで孫文を日本に迎えて、その革命の援助をした。彼は全く家庭を省みず、妻のもとに幼児の龍介と震作の2人を残し、常に海外と日本との往復に日を送った。

つち子は貧窮の中にあって、時には子供たちを実家に預け、時には荒尾村の家庭に夫と孫文を迎えて何を食わせるべきか途方に暮れるような生活を続けた。
孫文の革命運動は二回にわたって失敗し、滔天は方途に窮して、桃中軒雲右衛門の弟子となり、浪花節語りとして、各地を歩きまわっていた。そういう生活をしてもやっぱり革命の資金は出来ず、家庭に仕送りすることもできなかった。

明治38年1月、つち子は貧窮の果て、荒尾村にもいられなくなり、3人の子供を連れて上京し、東京市外の新宿番衆町に家を借りて住んでいた。その年8月、再び孫文がイギリスから日本にやって来て横浜に住んだが、その番衆町の宮崎の家を彼は自分の東京の事務所として、そこで中国の若い学生たちに逢ったり、ピストルの製造家と相談したりしていた。
前田つな子はこの妹の仕事を手伝うことになった。

明治39年9月のある日、彼女の知っている五高出身の東大生たちがやって来て、夏目先生があなたのことや小天のことを小説に書いていると言ったので、つな子は神楽坂の本屋で「新小説」を買って「草枕」を読んだ。
青磁の鉢に羊羹を入れて出したことや、床の間に若冲の絵を懸けてあったことや、彼女の父が漱石を茶に招いたことや、家の様子など、彼女が漱石に逢った時のことが、そのまま描かれてあった。
湯の場面は、漱石一人のところに彼女が入って行ったように描かれてあったのは工合が悪かった。
女主人公はたしかに自分らしいが、それがかなり派手な存在に描かれていた。つな子が、これでは困ると思ったのは、村の人たちが彼女や母親を気が変だったと言っているように書かれていることであった。

しかしつな子はそれに関して抗議はしなかった。
つな子はたしかに変った所のある女性であった。孫文一派の革命家たちが、ある日新しい国旗を作る相談をしているのを彼女は聞いた。革命家たちは貧しく布の工面がつかぬようだった。つな子は、その大きさや色を考えていたが、ふと自分の荷物から新しい腰巻を出してやって、「この腰巻はまだ一度締めたばかりだから、これでも使ったらどう」と言って、それで国旗を作らせた。こんなことをする自分の気持ちが夏目さんに見抜かれてあんな風に誌かれたのだ、と彼女は思った。
(以上、伊藤整『日本文壇史』より)

「草枕」那美のモデルに関しては、彼女をよりポジティブに描いた評伝がある。
「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)












読み始めたもののまだ読了していないので、以下に本書の「はじめに」の一部を紹介しておく。(読み易くするため、段落、改行を勝手に施した)

はじめに
一人の女性について書きたいと思っている。
前田卓(つな)。明治元年六月十七日に、熊本県玉名郡小天村(現玉名市天水町小天)に生まれ、昭和十三年九月六日に東京で亡くなった女である。戸籍名はツナ。明治時代の流行で漢字を当て、子を付けて卓子とも称したし、「つな」や「つな子」と書くこともあった。墓には前田卓と刻まれている。
日本の近代の夜明けとともに生まれ、明治、大正、昭和と生きた。
表舞台で華々しく活躍したわけではない。多くの女性と同じように、その時代を懸命に生き、働き、死んでいった市井の人だ。それでも歴史の表にわずかに顔を出す。一つは、夏目漱石の小説『草枕』のヒロイン那美のモデルとして、もう一つは、孫文や黄興ら中国の革命家たちが日本でつくった「中国革命同盟会」(通称「中国同盟会」)を支援した女性として。

わずかに残る足跡がその二つであることに興味をもった。
この二つの点と点の間に何があるのだろう。前脚卓の生涯を追いたいと思った。亡くなってからすでに七十年。関係者もほとんど残っていないし、彼女が書いた手紙も日記も何も残っていない。
けれども、わずかに残る手がかりから浮かび上がる前田卓は、キラキラと輝いている。
制度的にも社会常識的にも女性が男性の付属物とみなされた時代に、自由と平等を当たり前のこととし、傷つきながらも平然とそれを貫いた女だったからだ。

(略)








2017年4月27日木曜日

明治39年(1906)8月1日~31日 関東都督府官制公布(9月1日、大島義昌を関東都督) 韓国駐箚軍司令部条例公布 東京市電値上げ反対運動 漱石夫人がデモに参加とのデマ 「電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。」 東京小石川砲兵工廠スト 呉海軍工廠スト     

エドヒガン 皇居東御苑 2017-04-13
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明治39年(1906)8月
・三土忠造、韓国政府学部参与官(教科書編纂)
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・横浜正金銀行、漢口に出張所設置。
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・清国、新聞紙条例公布。
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・荒畑寒村、京都荒神口の菅野宅で1ヶ月過ごす。
この夏、東京の荒畑のもとへ、田辺から京都に戻った管野須賀子から京都へ逢いに来いと手紙が届く。荒畑は正則英語学校の夏期講習会に出るつもりで、堺に教科書を買ってもらっていたが、須賀子の手紙を受けとると、口実を設けて堺家を飛び出した。
彼は京都、河原町荒神口の須賀子の家に8月一杯を過した。東京の堺家にいる大杉栄や深尾韶からは冷やかされ、堺利彦からはいい加減に帰るようにとの手紙が来た。
須賀子が、自分も近く上京して同棲すると約束したので、荒畑は1月ぶりで堺家に戻った。
その間、大杉栄は、深尾韶と親しかった堀保子を口説いて2人で一家を構えていた。
保子は堺利彦の亡妻、(旧制堀)美知子の妹。
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・石川「堺兄に与えて政党を論ず」を発表。
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・日本留学生団体、東京基督教青年会創立。
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・東洋硝子製造株式会社創立(大阪)。日・英・仏・ベルギー4ヵ国の共同出資。1909年2月解散。
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・京都府の舞鶴海軍工廠の職工、相互救済の目的で、京都に共済会病院設立。1907年2月開院。
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・宮沢賢治、大沢温泉で開催された夏期仏教講習会に父と参加。この後もしばしば参加。
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・漱石『猫』最終回(「ホトトギス」)
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・近事画報社を独歩社に改める。
この年の春頃、近事画報社はいよいよ立ち行かなくなって、社長の矢野龍渓は解散を決意。戦争が終り、戦況に関心を持っていた読者が離れるとともに、新聞の写真製版術が発達して写真を載せるようになり、対抗できなくなっていた。
だが社員たちは解散を残念がり、自分たちの手で続刊しようと言い出し、編輯長の独歩(36歳)が押されてその中心になった。
独歩は自分が経営に当る決意をし、独歩社という新社を興して、8月号から社名を改めた。刊行物は、「近事画報」「婦人画報」、「少年知識画報」、「少女知識画報」、文芸雑誌「新古文林」であった。
「新古文林」は前年の明治38年5月創刊。創刊号には、広津柳浪、小栗風葉などの硯友社系作家の小説、独歩の友人である田山花袋の小説「帰航記」を掲載した。
「新古文林」は、この頃の主要な文芸雑誌である博文館「文芸倶楽部」、春陽堂「新小説」、金港堂「文芸界」と並んで、一応は文芸雑誌の面目を保っていたが、近事画報社が経営不如意になるに従って、稿料を払うことができなくなり、稿料なしでも作品を発表したがる新作家にその舞台を提供するようになっていた。
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・8月初め、河東碧梧桐(34歳)の全国俳句行脚行の送別会。
碧梧桐は正岡子規没(明治35年9月19日)の翌36年1月から、新聞「日本」に戻り、子規のあとを引き継いで俳句欄の選者になった。「日本」の俳句欄は、虚子の主宰する「ホトトギス」と並んで、子規の系統を曳きながら、ともに俳壇で重きをなしていたが、碧梧桐が新しい形式や新しい着想や発想の発見に努力するのに較べて、虚子の方は子規以来の写実主義の中に落ちついていた。碧梧桐は、感覚的写実主義とも言うべき自己の新傾向の俳句を、この旅行によって天下にひろめようとした。
碧梧桐の全国俳句行脚は、俳人たちにとって大きなニュースであった。碧梧桐は新時代の芭蕉をもって自ら任じているように見えた。地方の投稿者たちは彼の歓迎の支度をし、また東京の俳人たちは、彼の積極性に敬意を払った。彼のために経済的援助をしたのは本願寺法主の大谷句仏(くぶつ)だという噂が流れていた。"
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・中央電気株式会社創立。
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・日本エスペラント協会、『日本エスペラント』創刊。
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・富士製紙、北海道江別工場の建設に着手。
8月1日
・関東都督府官制公布。
遼東半島の旧露租借地を関東州と命名し旅順に関東都督府を設置する勅令を公布。
都督は陸軍大将または中将。
清国の関東州を管轄し満鉄線路の保護取締り・満鉄業務の監督を行う。旅順に関東都督府設置。9月1日、大島義昌を関東都督に任命。
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8月1日
・日本側陸軍少将中村愛三、露側ドウイッチ、東清鉄道公主嶺~寛城子間授受終了に関する公文書交換。1907年4月1日同鉄道を満鉄に引き渡す。
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8月1日
・韓国駐箚軍司令部条例公布。司令官は陸軍大将または中将、天皇に直隷、統監の命令あるときは兵力を使用。
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8月1日
・内務省、東京市内電車3会社合併、9月11日より4銭均一値上げを認可。
日本社会党、ボイコット運動「乗らぬ同盟」提唱。
8月7日、日比谷公園で反対市民大会開催。
9月5日、再び反対市民大会開催。市民数千人が日本橋・神田付近で暴徒化。
12日、4銭均一実施。
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8月1日
・日米海底電信線開通。日米間で電報直接取扱開始。
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8月1日
・米独、互恵関税条約調印。
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8月2日
・日本、遼陽に領事館設置。
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8月3日
・萬歳生命保険株式会社創立(東京)。資本金100万円。
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8月4日
・清国、女学教育章程制定。
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8月4日
・徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会ったあと、シベリア経由で帰国。この日、敦賀に上陸。
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8月4日
・日露通商条約交渉開始(ペテルブルグ)。
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8月5日
・イランのカージャール朝、憲法の詔勅発表。
イラン国王、大臣アイノッ・ドーラを解任し、国民議会(マジュリス)開設に合意。
10月7日、初議会。自由憲法起草。
12月30日、国王、草案に署名、31日没。
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8月6日
・廃兵院条例公布(勅)。陸軍大臣の監督下で、所在地所管師団が管理、入院資格など規程。
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8月7日
・清国の各省留学生の日本派遣停止。
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8月7日
・8月1日に内務省が東京の市電4銭均一値上げを認可したことを受けて、日比谷公園で東京市電値上げ反対市民大会開催。
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8月7日
・啄木(20)、文芸雑誌「小天地」発刊に絡む大信田落花への負債を「委託金費消」事件として告発され取り調べを受ける。落花の証言により不起訴処分。啄木は一禎の宝徳寺再住問題に絡む捏造事件だろうと推量。
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8月10日
・清国、日本の関東都督府設置に抗議。
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8月10日
・電車ボイコット運動、行進ビラ配布。
午前9時、社会党員14人、「乗らぬ同盟」運動のため党本部(神田三崎町、森近経営ミルクホール平民社)出発、
午後5時、数万のビラ配布終る。
20日、再度、行進ビラ配布。

■夏目漱石と電車ボイコット運動
翌日の『都新聞』記事。見出し「電車値上反対行列」。

電車賃値上反対の旗幟を標榜して其の絶交運動(ボイコット)を市民に促す為め、開催されたる日本社会党有志者の行列は、昨日午前九時五十分、神田区三崎町三丁目一番地の同党本部を出でたり。行列の一行は出来得るだけ質素に且つ静粛ならん事を期したるより、総数を十人と限り、堺枯川、森近運平、野澤重吉、菊江正義氏外四名と、堺氏の妻君、夏目(漱石)氏の妻君、是れに加り、各自浴衣に尻端折、或は筒袖に草履穿といふ遠足式軽装を為し、婦人連も小褄(こつま)をキリと引上げて、頗る身軽に見受けられたり。(略)

『都新聞』を読んで驚いた美学者の深田康算(やすかず、後の京大美学教授)は、すぐにこの記事を切り抜いて漱石へ郵送したらしい。
それに対して漱石は、8月12日に深田に返事を書く。

拝啓、今頃は仙台の方にでも御出の事と存候処、突然尊書飛来、都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候。電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。ことに近来は何事をも予期し居候。新聞位に何が出ても驚ろく事無之候。都下の新聞に一度に漱石が気狂になつたと出れば、小生は反つてうれしく覚え候(略)

このデマは1匹の猫が引き起こしたもの。
事件の5ヶ月後、大杉栄が『家庭雑誌』(1907年1月号)に「飼猫ナツメ」という文章を書いている。

一九〇六年の春、由分社(=堺家)に一匹の可愛い子猫が加藤時次郎の病院からもらわれてきた。雉子色でよくじゃれる元気な猫だった。その名前が「ナツメ」。命名したのは飼い主の堺利彦である。かの『吾輩は猫である』の著者の夏目漱石と発音が同じだというので、由分社に出入りする人たちの間でこの子猫は有名になったが、大杉によれば、そのために「遂に一大事件を惹起した」。

昨年の夏、社会党の人達が電車賃値上反対のチラシを配る為めに、隊を組んで市内を歩るき廻つた事があった。其の日、之等の人達は中食をする為めに、由分社に立ち寄った。そしてナツメ君を見て、『アゝ之れがあの有名なナツメさんですか』などゝ云って、皆してナツメ君を玩弄にしてゐた。すると、翌日の或る新聞紙に、どうこれを聞き違えて探訪(新聞社のネタ集めの記者)が報じたものか、『漱石夫人社会党のチラシを配る』と、麗々しく書いてある。サア大変だ。

当時、漱石は東京帝大で教鞭をとっている名士である。堺は自分の飼い猫が原因で、漱石に迷惑をかけては申し訳ない、と思ったに違いない。堺はすぐに新聞社に取消文を送ったという。

小説「野分」(『ホトトギス』1907年1月号)のなかの会話
(最初が主人公の白井道也、次が妻)

『社のもので、此間の電車事件を煽動したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。 - 所が其家族が非常な惨状に陥つて見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ』
『そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから・・・』
『間違へたつて構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいゝのさ

堺と漱石が直接会う機会はなかったが、文学好きな堺が、作品を通じて漱石に好感を抱いていた。
『吾輩は猫である』を読んだ堺は、未知の漱石に宛てて、平民社で作成したエンゲルスの肖像入りハガキに次の文章を書いて送っている(『漱石全集』第1巻月報1)。
ハガキの消印は、『猫』上篇出版語すぐの1905年10月28日。
堺はこの本が出るとすぐに読み、漱石に感想を伝えた。

新刊の書籍を面白く読んだ時、共の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新著「猫」を得て、家族の者を相手に、三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。  堺利彦

三馬は、江戸時代の草双紙・滑稽本作者として有名な式亭三馬、『浮世風呂』はその代表作。
ちなみに、漱石は、この感想から刺激を受けて、『猫』第7に『吾輩』が銭湯を観察する場面を入れたのではないかとの見方もある
(水川隆夫『漱石と落語 -- 江戸庶民芸能の影響』)。

堺は猫を「ナツメ」と命名した理由を、「夏目ではなく棗(なつめ)」だと述べていた(『家庭雑誌』1906年7月号)。この猫が「ナツメ先生」とか「金之助」と呼ばれるようになったため、名前は可愛らしい形をした茶入れの器の棗から取ったのだ、と弁解した。堺が加藤病院から猫をもらってきたのは、漱石『猫』が人気を博していたときであり、「ナツメ=窺」説はこじつけと思われる。
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8月10日
・後藤新平(台湾総督府民政局長)、満鉄総裁就任の条件を原敬に報告(8月1日就任承諾、11月13日任命)。
総裁の地位は勅令では「関東都督の影響を受けるとともに外務大臣の指揮下に入る」だが、後藤の条件は「関東都督の監督は受けるが、同時に都督の最高顧問」としこれが成功。「・・・武人政治は是れにて一頓挫を示したるものなり・・・」(「原敬日記」8月11日)。但し、後藤は「武人政治」を排除するのが目的ではなく、植民地経営に無知なものの介入を封じるためのもの。
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8月10日
・東京弁護士会、日比谷騒擾事件に対し、動きの鈍い検察を批判するため、本郷座で、検事長の問責演説会を開催。3千人。
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8月12日
・北洋大臣袁世凱、立憲準備を上奏。
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8月14日
・日露漁業協約締結交渉第1回会議開催(ペテルブルグ)
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8月15日
・ファン・チュー・チン、ベトナムの封建君主制批判。政治社会改革要求。
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8月16日
・東京小石川砲兵工廠ストライキ。
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8月18日
・呉海軍工廠スト暴動化。職工500余人、戦時手当廃止に反対してストライキ。暴動化。24日 解決。
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8月18日
・チリの港湾都市バルバライソ、大地震のため壊滅。
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8月19日
・清国、日本の関東州設置に抗議。
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8月20日
・『光』第19号、全号キリスト教批判に充てる。
品性庵人格居士の投稿「耶蘇坊主評判記」で内村が東京市電値上げ問題で反対運動批判したことを非難(批判したかは不明)。
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8月20日
・国定教科書共同販売所(株)設立。
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8月20日
・キューバで反乱勃発。
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8月21日
・東京陸軍砲兵工廠、8月16日に職工100余人が解雇されたことと、不良製品の弁償の給料差し引きに反対してストライキ計画。不貫徹に終わる。
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8月22日
・高橋是清を特派財政委員に任命。英に派遣(9月6日出発)。
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8月24日
・東京地方に大暴風雨。浸水は、本所7,190戸、浅草6,950戸、深川2,960戸。
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8月25日
・福田英子、石川ゆき子と共に谷中村を訪れる。
この時、買収を拒否している残留民は僅か27戸。
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8月28日
・「貧富の戦争」(『光』)、発売頒布禁止処分。
夜、西川光次郎「改革者の心情」、発禁。
29日朝、添田平吉の俗謡「寸鉄」差押さえ。
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8月29日
・清国、天津自治局設置。
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8月31日
・幸徳秋水、中村町発。午後1時宿毛港発、宇和島へ。9月1日宇和島発、3日朝大阪天保山着。4日夕方、京都へ。大道和一、宮崎民蔵らと会う。6日、京都発。
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8月31日
・ノルウェー、アムンゼン、北極海横断しノーム港到着。
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8月末
・漱石3女の栄子が赤痢になって大学病院の隔離室に移される。
この時、長女笹子は数え年8歳、次女恒子は6歳で、2人とも幼稚園へ行っていた。だが下には前年暮に生れたばかりの4女愛子があった。
妻の鏡子が病院に行っている間、漱石は女中とこの子供たちの世話に忙殺された。
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2017年3月4日土曜日

明治39年(1906)7月1日~31日 谷中村・藤岡村合併強行、法制上の谷中村は消滅 啄木、「雲は天才である」「面影」執筆始める 陸軍大尉ドレフュスの名誉回復 児玉源太郎(54)急没

浜離宮庭園 2017-03-03
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明治39年(1906)7月
・横浜正金銀行、中国の安東県に出張所設置。
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・梅屋庄吉、エム(M)・パテー商会を創立。仏パテー作品を携えてシンガポールより帰国していた。
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・シェークスピア、坪内逍遙訳、戯曲「ヱ゛ニスの商人」(「早稲田文学」)
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・水野葉舟、窪田空穂「明暗」(「金曜社」)7
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・二葉亭四迷、エスペラント独習書「世界語」出版。
8月ザメンホフ「世界語読本」出版。
明治35年~、沿海州、満州、北京へと旅したとき、ウラジオストクでエスペランティストと出会い、意気に感じて約束を果たそうと、この年はエスペラント語著書の出版に熱中。
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・武者小路実篤(21)、学習院高等科3年を卒業、成績がビリから4番。
9月、東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。大学の授業にあきたらず、小説・詩・対話・戯曲・感想など、形式にこだわらず創作をこころみる。
この頃、メーテルリンク「智慧と運命」(ドイツ語訳)を読んだことや、ドイツの理想派の画家クリンゲル等の影響を受け、トルストイの禁欲的傾向から自己の解放を図る。  
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・新聞社が相次いで夏目漱石に寄稿依頼。
新聞「日本」から夏目家へ記者がやって来て、時々短文を「日本」に発表する気はないかと言った。「日本」は正岡子規が長年席を置いたところであり、夏目とは間接に緑のある新聞であった。夏目はそれにすぐ応じはしなかったが、それを機会に彼は、新聞から定期的に入る収入をあてにして学校の勤務を減らせるのではないか、と考えはじめた。
またこの頃、「報知新聞」、「国民新聞」からも同様の依頼があり、「読売新聞」がそれに続いた。
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・堺利彦「社会主義研究」第4号(7月1日)は、殆ど全面をエンゲルス著・堺利彦訳「科学的社会主義の発展」(「空想から科学への社会主義の発展」)で埋める。
翌月の第5号(8月1日)は、マックス・ベーア「総同盟罷工の歴史及意義」、アウグスト・べーベル「政治的総同盟罷工論」(1906年イエナのドイツ社会民主党第16回大会における演説、べーベルはこの演説で総同盟罷工を採用すべき旨の決議案を提出し、それを説明した)を訳載し、また志津野又郎が、1904年のアムステルダムにおける第6回万国社会党大会(第2インタナショナル)で討議されたブルジョア政府への参加問題、ゼネストの問題を、2派の代表弁士であったジョーレス、べーベルの演説の大要を「社会党硬軟二派の主張」と題して訳載。
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・三重紡績、津島紡績を合併。
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・富士製紙、北海紙料会社買収。
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・イラン立憲革命。
数千人のテヘラン住民、テヘランの英公使館敷地内に避難して抗議スト(一斉封鎖)。
イラン国王モザッファロッ・ディーン・シャー、大臣アイノッ・ドーラを解任し、国民議会(マジュリス)開設に合意(8月5日)。
10月7日、初議会を開き、自由憲法起草。
国王は12月30日、草案に署名し翌日死亡。
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・メキシコ、フアン・サラビア,自由党綱領を著す。
アリアガらに配慮し自由主義を基調としながら労働保護、土地改革、反帝民族主義なども盛り込む。17年憲法の精神となる。
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7月1日
・日本、京釜・京仁鉄道買収。統監府管理下に置く。
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7月1日
・谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併。
この月、田中正造、谷中村管掌村長鈴木豊三に対する官吏侮辱罪により栃木未決監に拘留。宇都宮裁判所での一審有罪。
明治40年6月、東京控訴院、無罪。
明治38年12月、谷中村村会が田中与四郎を村長に選出するにもかかわらず、県は郡官吏鈴木豊三を管掌村長に任命。
39年3月、谷中村3小学校を廃校。4月、谷中村・藤岡村合併提案。村会はこれを否決するも、7月1日、合併強行。法制上の谷中村は消滅。
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7月1日
・大阪砲兵工廠の職工500人、解雇に反対し、暴行。
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7月2日
・宮禁令改変。王宮警護を韓国官憲から日本官憲へ移譲。
6日、更に、宮禁令一部変更。韓国人の出入りは大韓政府の許可要。韓国宮廷を粛正。
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7月2日
この日付の漱石の高浜虚子宛手紙。
少々ひまになったから余計な事を書くと断り、昔はこんな事を考えた時期がある、として、

正しい人が汚名をきて罪に処せられる程非惨な事はあるまいと。今の考は全く別であります。どうかそんな人になって見たい。世界総体を相手にしてハリツケにでもなってハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい。
尤も僕は臆病だから、本当のハリツケは少々恐れ入る。絞罪位な所でいゝなら進んで願ひたい。

と、昔とは生きる価値観が違ってきたことの自白、生きる決意、その覚悟を述べる。
また、同月17日付小宮豊隆宛手紙では、
「来月は講義をかゝなければならん。講義を作るのは死ぬよりいやだ、それを考へると大学は辞職仕りたい」。
大学の講義にたいする本音を述べている。
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7月3日
・啄木、帰郷後のこの日から小説家をめざして「雲は天才である」「面影」を書く。
「七月になった。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」

『雲は天才である』は、啄木自身そのままに月給8円の代用教員新田耕助が主人公。
彼は、「云はゞ校歌といった様な性質の一歌詞を作り、そして作曲」する。この歌を高等科の生徒たちが高吟する。「昼休みの際などは、誰先立つとなく運動場に一蛇のポロデージ行進が始つて居た。彼是百人近くはあつたらう、尤も野次馬の一群も立交つて居たが、口々に歌つて居るのが乃ち斯く申す新田耕助先生新作の校友歌であつたのである」。
当然、校長・古参教員から注意を受ける。教頭格の古参教師は小学校教授細目を盾にとって叱責する。ところが、生徒たちが新入りの代用教員を支援する。円陣を作って再び歌う。

啄木の日記同様にナルシスティックな青年教師像がいたる所に顔を出す。
作品は、漱石の『坊っちゃん』の影響を受けている。校長を「泥鰻(どぜう)金蔵閣下」とし、古参教師を「立枯になつた朴の木」と揶揄する。
啄木は、『雲は天才である』を書き始める前、『坊っちゃん』の読後感として、「夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。しかし『偉大』がない」と日記に書いている。

一方、啄木の島崎藤村への評価は高い。
啄木は、「島崎氏も充分望みがある。『破戒』は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない」とする。藤村『破戒』は、この年(明治39)3月25円に自費出版された。

『破戒』もまた社会の圧迫と理念の狭間に悩む青年教師が主人公である。未解放部落出身、それを隠せという父親の戒めを守り生きてきた瀬川丑松は、長野の師範学校を卒業後、教師となるが、思想家猪子蓮太郎の生き方に触れ、周囲の噂にも耐えきれず、ついに生徒の前で出自について告白する。
被差別部落に対する藤村の理解は不徹底であったとの『破戒』への批判はあるが、藤村は、『破戒』によって近代日本の社会構造を真正面から取り上げた。被差別部落の問題のみならず、いまだ残存する閉塞した村意識、教育界の腐敗、宗教家の堕落などの問題が織り込まれている。
この問題意識は『坊っちゃん』『雲は天才である』とも共通する。三作が青年教師を主人公としたのは、それぞれの作者に教師の体験があるためである。

この年のほぼ同時期に、青年教師を主人公とした小説が、漱石、藤村、啄木によって書かれた。
しかし、三作の結末は異なる。

『雲は天才である』では、学校の小使いが「乞食」と呼ぶ男が主人公を訪ねてくる。彼は主人公が兄とも慕う旧友からの紹介状を持参する。その男から、八戸で教職に就いていた旧友が、校長と対立し免職となったことを聞く。旧友はなけなしの財産を男の汽車賃に替え、自分は無一文となって旅立つ。
「雲は天才である」という主題は、旧友の生き方に共鳴し、啄木自身も教職を辞し、雲のごとく生きる未来が暗示されている。

一方、『破戒』の主人公は、生徒とも恋人とも別れ、テキサスの新天地で生きようとする。

学校の体制でさえ崩すこともならなかった青年の失望と苛立ちの反転として、啄木と藤村は青年に希望を託している。
『坊っちゃん』の場合は、この心情は共通するものの、坊ちゃんは学校、世の中のすべてに苛立ち、腹を立て、その結末は淋しい。『雲は天才である』『破戒』の主人公が抱くような、明確な希望がない。
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7月 4日
・東北地方の飢饉救済に関して、天皇がセオドア・ルーズベルト米大統領に感謝の親書を発す。
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7月4日
・エチオピアに関して、英仏伊間で協定締結。
エチオピアの領土保全・独立を承認。3ヵ国はエチオピアを3分割してそれぞれ勢力下に。
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7月5日
・湖北羅田の張金正ら、「輔清滅洋」を掲げ、安徽霍山の教会を破壊。
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7月6日
・戦地軍隊における傷者及病者の状態改善に関する条約及最終議定書調印。
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7月7日
・幸徳秋水、妻千代子と共に郷里中村町に帰省。
8月3日中村町で、7日入野村で、26日後川村岩田で演説会。
この間、慢性腸カタルで下痢が続く。
8月31日午前7時、中村町発、帰京の途につく。
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7月7日
・墺・ハンガリーとセルビア、関税戦争「豚戦争」開始。
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7月9日
・3月11日に市電値上げ反対の東京市民大会を開催した西川光二郎、大杉栄、山口義三らに無罪判決。
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7月10日
・日比谷焼打ち事件群集の判決、有罪87人。
一方、民衆に斬りつけて起訴された警官3人は有罪1人(9月5日、放火犯と間違えて市民を負傷させた本所警察署巡査)のみ。
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7月12日
・仏破毀院、ユダヤ人の陸軍大尉ドレフュスの名誉回復。1894年の反逆罪嫌疑は事実無根と判断。21日、ドレフュスはレジョン・ド・ヌール勲章を授与、彼の面前を軍隊が行進。
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7月13日
・南満州鉄道株式会社設立に関し、総参謀長児玉源太郎を委員長とする設立委員会、設置。80人。
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7月17日
・東京市、市区改正速成事業などのため、ロンドンで150万ポンド5分利付東京市債発行決定。
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7月20日
・(露暦7/7)セント・ペテルブルク、合法的ボリシェヴィキ雑誌「エホー」、レーニン「・・・我々は世界革命を望んでいる…」。
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7月20日
・フィンランド、新憲法制定。一院制、婦人参政権、比例選挙。
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7月20日
・グアテマラ、エルサルバドル及びホンジュラスと講和条約締結。5月以来の3ヵ国間の戦争終結。
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7月21日
・慶應義塾教師向軍治、多数の死者を出した旅順戦を批判。問題となる。
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7月21日
・(露暦7月8日)4月27日に開会したドゥーマ、急進派の諸政党にボイコットされ解散。
獄中のトロツキー、この問題についてパンフレット「憲法制定議会のための闘争におけるわれわれの戦術」を執筆。レーニンによりボルシェヴィキ出版社から出版。更に、この頃「1905年労働者代表ソヴィエトの歴史」執筆、出版。

■この頃のツァーリ(ニコライ2世)の日記(トロツキー『ロシア革命史』1)
「七月七日。金曜日。きわめて多忙な朝。将校のための朝食会に三〇分遅刻・・・雷雨があった、ひどく蒸し暑い。いっしょに散歩した。ゴレムーィキンを引見。ドゥーマ解散の勅令に署名!オーリガとペーチャのところで昼食。一晩じゅう読んだ。」
・・・
解散させられたドゥーマの議員たちは国民に納税と兵役義務の遂行を拒否するように呼びかけた。一連の軍隊の反乱が起こった。スヴェアボールク〔バルト海艦隊の基地で、のちのフィンランドのスオメソリンナ市〕で、クロンシタットで、艦船で、陸軍部隊で。高官にたいする革命テロが空前の規模で復活した。ツァーリは記す。「七月九日。日曜日。実現した!ドゥーマはきょう解散。ミサ後の朝食時、呆然とした顔をしている者が多かった・・・天気はすばらしかった。散歩のとき、きのうガーッチナから来たミ-シャおじに会った。昼食まで、また、晩じゅう静かに仕事をした。カヌーを漕いだ。」・・・。
・・・
「七月一四日。着替えをして、自転車で海水浴場に出かけ、海で楽しく泳いだ。」
「七月一五日。二度泳いだ。とても暑かった。二人で昼食。雷雨があった。」
「七月一九日。朝、泳いだ。農園で引見。叔父のヴラヂーミルとチャーギンが朝食。」・・・。
「朝九時半にカスピ連隊に出かけた・・・長いことぶらついた。天気はずばらしかった。海で泳いだ。お茶のあとリヴォーフとグチコーフを引見した。」 二人の自由主義者の引見はきわめて異例なことだが、ストルーィピンが野党政治家を自分の内閣にひきいれようとしたためにその引見がおこなわれたという事実には一言もふれない。未来の臨時政府首班、リヴォ-フ公爵は当時、ツァーリのその引見についてこう語っていた。「私は、悲しみにくれるツァーリの姿を眼にするものと予期していたが、かわりに私のところへあらわれたのは、暗赤色のシャツを着た陽気で活発な青年であった。」」
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7月22日
・西園寺首相、台湾総督府民政局長後藤新平に満鉄総裁就任要請。拒否。
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7月23日
・煙草専売局製造煙草の種類公示。
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7月24日
・児玉源太郎(54)、脳卒中で急没。
8月1日、台湾総督府民政局長後藤新平が「満鉄」総裁を引受ける。後藤は前日7月31日、山縣元帥に手紙を書き、8月8日には大島都督・寺内陸相に建白書を提出。
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7月23日
・露、ゴレムイキン首相、辞任。後任に内相兼任のままストルイピン就任。反動強化。
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7月23日
・第3回汎米会議開催(リオデジャネイロ)。
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7月26日
・清国、京師督学局開設。
*7月26日
・湖北蘄(キ)州で反乱。
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7月27日
・南方熊楠(40)、松枝(28)と結婚。
翌年7月、長男熊弥、誕生。周辺の植物採集を続ける。
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7月28日
・清国、教育会章程制定。
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7月31日
・露、代議員が多数の逃亡者がフィンランドに向かう前に、市民的不服従を呼びかける宣言を出す。
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2017年2月20日月曜日

明治39年(1906)6月30日 徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会う。ヤスナヤ・ポリヤーナ村のトルストイの自宅に7月2日まで滞在。 

2017-02-15 鎌倉市役所前
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明治39年(1906)
6月30日
・徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会う。

6月26日、ルーマニアのガラツ(ダニューブ河口の港)に着き、その対岸のレニ町でロシア領に入る。そこから、ヨーロッパ・ロシアの中心に当るツーラの近くのトルストイ家を訪ねるために汽車に乗った。
27日キエフ着、29日クールスク着、30日夜中にツーラに到着。
そこから2つ目の駅、ゼキノという駅に下り、そこで少し休んで朝5時、駅でシャツをとりかえ、馬車でヤスナヤ・ポリヤーナ村に着いた。

そこはは小さい村で、藁葺、板葺の貧しげな家が並び、幅の広い道の真中に草が生え、犬が吠え、裸足の子供が立って見ていた。村の家並から道は低くなり、円錐形の屋根のある無人の番小屋のついた門があって、そこがトルストイの屋敷の入口であり、馬はそこへ入って行った。左手に周囲4町ほどの池を見なから、西洋杉や白樺など茂った間のゆるい登り道を1町あまり行くと、青く塗った屋根のある白壁の二階づくりの家があった。その家は北方に木立ちを負い、東向きに建っていた。一面に実をつけた林檎の木の下をくぐって、馬車はその家の入口にとまった。

6時。しばらくして、白い胸掛けをした八字髭の男が台所から出て来たので、手真似で、家の人々は眠っているのかと尋ねると、そうだという。蘆花は荷物を玄関の隅に置き、裏手に出た。そこは一面の林檎畑であった。池の方へまわって白樺の木の蔭に青く塗ったベンチを見つけ、ヘルメット帽を枕に、インヴァネスをかぶって仰向けになると、昨夜ツーラ着いてから寝ていないので、いつの間にかうとうとと眠り込んだ。

人の気配がして目を開くと、髭の白い大柄の老人がそばに立っていた。庭の掃除に来た百姓かと思ったが、見ると写真で知っているトルストイの顔だったので、彼ははね起きた。するとトルストイは「おお、君はトキトミ君」と英語で言って、歯の抜けた子供のような口もとに笑を浮べ、手を差しのばした。トルストイはイギリスへ行ったとき英語で講演したほどで、英語は巧みであった。

蘆花は、「ああ、あなたは先生」と言ってその手をしっかり握った。トルストイの手は大きくて温かった。このとき、トルストイは満87歳、蘆花は満37歳であった。

トルストイは蘆花の手紙に返事を出したが、それが遅れたので蘆花はそれを見ずに東京を発ったのだった。返事の遅れた理由をトルストイは英語で次のように言った。
「余は君に返事を出す前に余程考へたり。許されよ。余は君の手紙を信ずる能はざりき。其はあまりに喜ばしき手紙なりし故なり。故に余程考へて返書を書きたり。君の手紙に書きし所は真実なりや?」

トルストイは蘆花の絶対平和の思想を確信することができなかった。
蘆花は答えた。
「無論真実に候。真実なるが故に、露骨を許し玉へ、先生の存生中に一度先生に対面せむと推参致しぬ。先生の健康は如何?」         
「甚だ宜しからず。余の死期は遠からずと覚ゆ。皆死を恐る。然れども死は解脱なり、恐るべきにあらず」

トルストイの顔は紅潮しているが、髪も髭も白く、目は少しうるみ、歯が抜け、蘆花の思っていたよりも衰えていた。
この時、トルストイは「戦争と平和」を書いてから36年経っており、「アンナ・カレーニナ」を書いてからも30年経っていた。彼の芸術から宗教への転機となった「我が懺悔」を書いたのは24年前であった。その後は、宗教や倫理に関する著述が多かったが、小説としては20年前の1886年に「イワン・イリッチの死」を書き、16年前の1890年に「クロイツェル・ソナタ」を書き、7年前の1899年には最後の大作「復活」を書いた。20世紀に入ってから、著述活動はほとんど中絶していたが、世界の良心を代表する偉大な存在と見られており、専制帝国のロシアに於ても、その戦争反対の意見を拘束されることなく生きていた。

トルストイは蘆花を連れて、林間の小道を下り、もう一つの池のほとりを話しながら歩いて行った。髪と髭の白い彼は、白っぽいダブダブした服に黒い革の帯をつけ、縁の広い夏帽子をかぶり、自然木のステッキをつきながら、10年前にここを訪れた蘆花の兄蘇峰と同行した深井英五の消息をたずねた。それから彼は言った。自分の余生はもう長くないが、一刻生きていれば一刻の義務というものがある。自分はいま政府と人民の関係についての著述をしている、と言い、また、土を耕して他の力に頼らずに生活する者が国の力というものだ、と語った。また彼は蘆花に、君は農業で生活することができないのか? とたずねた。蘆花は、私も農業は何より好きだが、今は土地というものを持っていない。しかし将来は少くとも半農の生活をするつもりだ、と語った。

2人は家のそばの広庭に着き、葉の伸びた楓の下の、白い布をかけられた食卓についた。銀のサモワールが音を立てて沸き、茶や菓子などが出してあった。トルストイは、20歩ほど離れた白樺の木立の中の小家を指差して、あそこの離れにゆっくり逗留しなさい、と言った。やがて下男が掃除が出来たと言って来たので、蘆花はその離れに行った。
入って直ぐの所に4畳半ほどの室、その次に10畳ほどの板張りのままの室があった。寝台、白木のテーブル、ソファ、箪笥、椅子三脚、常春藤(ふゆづた)の這い上った窓にはカーテンがかかっていた。窓の下に花壇があった。来客のために建てたもののようであり、さっぱりとして居心地は大変よかった。長旅の後に彼は落ちつきを感じた。

荷物を整理しているうちに、昼食を告げる鐘が鳴った。蘆花は昨夜ろくに寝ていないので、眠たかったが、さきほどの楓の木の下の食卓に行って、集った人々に挨拶した。トルストイの姿はなく、夫人がその卓を支配していた。トルストイ夫人ソフィアは62歳であったが、50歳ほどに見える体格のよい女性で、白いリンネルのブラウスの胸に藤色の襞飾りをつけたのを着ていた。

蘆花が、しばらく御厄介になります、と言うと、近いうちに長男の結婚式があり、それまでは構いませんから御遠慮なく、と答えた。蘆花は日限を切られたような気がしたが、これが正直な答というものだろう、と考え直した。客が多くてうるさいでしょう、と彼が言うと、ソフィア夫人は、慣れていますから、と言った。

トルストイ夫婦の間には13人の子供が生まれたが、現存しているのは8人で、その席には3人がいた。三男レオとその妻と2人の幼児、その妹で英語が上手な病身のマリア、その夫オボレンスキイ公爵、未婚の末娘アレキサンドラは22歳でこれも体格のいい女性であった。その他オーストリア人医師、トルストイの秘書ジュリア、アレキサンドラの学友などがいた。

昼食後、離れで休んでいると、トルストイが入って来て、テーブルの上の書物を見つけ、君はどんな本をもって釆たか、とたずねた。そこにあったのは「聖書」、袖珍版の四書、「パイロン詩集」、「山家集」、「パレスチナ案内」等であった。トルストイが四書の1冊を取り上げて、これは何か、とたずねたので、孟子の書だと言うと、私は孟子よりも墨子が好きだ、孟子が孔子の真意を理解することができなくて、墨子に論争しかけたのは惜しいことだ、と言った。その理解の広さに蘆花は驚いた。

トルストイは孟子や四書の話をした後、水浴に行くから一緒に来ないか、と蘆花を誘った。途中、トルストイは戦後の日本人の精神状態を訪ねた。
蘆花が、戦争は悲しむべきものだが、戦争が人を真面目にさせたのも確かである。東郷平八郎のような難局に当った人々はクリスチャンではないが敬虔で真面目を人間である、と語った。すると、トルストイは、白い眉の下で目から火のような光を発し、いや、自分はそう思わない、東郷等が敬虔な人間ならば、その敬虔だということは、狭隘な、事理を弁(わきま)えない頭を持っているということを証明しているだけだ、と言った。
しばらくして彼は、孔子が言っているではないか、一言以て智を表れし、一言以て愚を表わす、言葉に気をつけたまえ、とつけ加えた。蘆花はそのトルストイの言葉に不満であったが、後で考えると、大馬鹿者と叱られたのだと気がついた。

そのうち末娘アレキサンドラが馬車を駆って追いつき、二人を乗せて川の畔へ行った。川は6、7間の幅でS字を描いてゆるやかに流れていた。脱衣小屋があったが、女たちがそこに腰かけているので、トルストイと蘆花は川下の方の人気のない所へ行って、裸になり、水浴をした。

晩餐では、家族や多くの客の中で菜食はトルストイと蘆花の二人だけであった。菜食者のために、肉の入らぬスープと、クワス、胡瓜のサラダ、卵、アイスクリームなどが出された。

翌7月1日、トルストイの四男アンドレ(29歳)がこの家に着いた。蘆花はこの青年と語り合った。アンドレは、日露戦争に出征して奉天にいたことがあり、文学に志を持っていて幾つかの作品があるのだとのことで話が合った。アンドレは父を批評して言った。父の議論は理想ばかりを追って実際には適しない、今では父も優しくなったが、昔はとてもエゴイストであった、父の議論は独身者の唱えるべきもので、妻子のある社会人としてはあれでは困る、父は説教するばかりで何も実行しない、と。

この日、蘆花は母屋二階のトルストイの書斎を見せてもらい、そのあとでソフィア夫人と雑談した。夫人は、夫の思想は流行遅れになりました、いまではどこでも、革命、革命という騒ぎです、革命騒ぎはこのヤスナヤ・ポリヤーナの村まで入って来ていますから、いつこの家が襲撃されるか分りません、と言う。
蘆花はトルストイが著作権を放棄するとか、土地を農民に分け与えるなどと言って、妻子の反対に逢い、禁治産者のような扱いを受けていることを知っていた。

午後、水浴に誘いに来たトルストイは、元気なく、歩きながら語った。
「本当のクリスチャンは決して自分の財産というものを持ってはならない。この頃私は自分の著作からの収入を何も受け取っていない。ただ私は戯曲の上演料だけはもらっている。その外方々の友人が時々私に金を送ってくれるのだ。」
またトルストイは、自分は立論と生活環境が一致しないと言ってしばしば攻撃されるのだ、と言った。
それを聞いて蘆花に暗い猜疑心が起った。トルストイまでこんな愚痴をこぼすのか、あの苦しそうな弁解の下に偽善がひそんでいるのではあるまいか、彼の百姓じみた様子は道楽でしていることで、本当は貴族趣味なのではないのか? 彼の生活は芝居気たっぷりではないのか? しかし、彼はその衷心の苦悩を皮膚の色の違う友の自分に打ちあけただけかも知れない、などと蘆花は考えた。

蘆花はトルストイの家に5日間滞在した。その間、彼は毎日のようにトルストイと散歩し水浴し、トルストイに親しみ、ある時は彼を敬い、ある時は疑い、結局トルストイの人柄に限りない親しみを感じた。

蘆花ははじめ、トルストイに逢ってから西ヨーロッパ諸国とアメリカをまわって帰国するつもりであったが、予定を変更し、ロシアの首都を見て、シベリア鉄道で日本へ帰ることにした。トルストイは彼のためにペテルプルグとモスクワの友人に紹介状を書いてくれた。

7月4日の晩餐の時、彼はトルストイとその家族に別れを告げ、翌5日朝早く、トルストイ家の人々が起き出さぬうちに馬車で出発した。その日の午後モスクワに着き、翌日ぺテルプルグに着いた。
7月8日、またモスクワに戻り、10日ほど滞在した。
7月19日、モスクワからシベリア行きの汽車に乗り、27日イルクーツクで東清鉄道に乗りかえ、30日満洲里についてそこから満洲を横断し、8月1日夕方、ウラジオストックに到着。
翌8月2日、ロシア汽船モンゴリア号に乗り、4日、敦賀に上陸。そして5日朝、逗子の父の家、老龍庵に到着し、120日余の旅行を終えた。

トルストイは12年前の明治27年、小西増太郎と交際を始め、小西に協力して、「老子」を共訳したこともあり中国の古典に通じていた。小西は17、8歳の頃、何という理由もなくロシア語を学びたくなり、ニコライというギリシャ正教の僧が東京に設立したロシア語学校に学んだ。明治19年(1886年)春、彼は特命全権公使としてロシアに渡る西徳二郎に連れられ、南ロシアのキエフ大学で5年間の教育を受け、その後、モスクワ大学のグロト教授の下で心理学を専攻した。教授に言われて、彼は儒教を紹介することになり、「大学」を露訳した。それが大変賞讃され 雑誌に発表されたので、次に「中庸」、「孝経」を訳した。教授はその次に難解で知られている「老子」を訳して見ないか、と言った。モスクワの帝国図書館に原本が4種類あった。それによって小西が「老子」を訳している途中、グロト教授は彼を呼んで、いまモスクワに来ているトルストイがその訳に興味を持って援助したいと言っている旨を伝えた。

明治27年(1894)11月初め、小西はトルストイのモスクワの家へ連れて行かれた。そのときトルストイは、「老子」を数年前から英独訳で読んでいるが、その説き方が巧妙深遠で、大胆に深い哲理を述べている点は天下一品と思う。それで、そのよい露訳を得たい、と語った。その後小西は翻訳の進むに従って、トルストイの所へ原稿を持って行くと、トルストイは英、仏、独の訳本によって読み合せながら意見を述べ、その仕事に協力した。

「老子」31章の「夫れ兵を佳(よ)みする者は不祥なり、物或はこれ悪(にく)む、故に有道者は処(を)らず、・・・兵は不祥の器にして君子の器にあらず」という所へ来ると、トルストイは飛び上るように喜び、「ここまで極論する処が老子の偉く、尊い所だ。三千年前にこういう非戦論を高唱するとは、敬服の外ない」と言った。

11月末から12月末までの間に20日ほど彼はトルストイ家に通ったが、更に翌明治38年3月中頃までかかってその訳業を終え、その本は「老子の哲学、レオ・トルストイ監修、日本人エム・小西訳並序論」という名で刊行された。その年彼はオデッサから船で日本に帰った。

彼が日本へ帰ると、トルストイの弟子のような男がロシアから帰ったそうだ、という評判が立った。ある日、本郷教会の横井時雄が、トルストイの話を聞きたい、と言って彼を招いた。横井時雄は、横井小楠と矢島つせ子の間に生れた長男で、つせ子は蘆花の母、矢島歌子の妹であり、基督教矯風会の矢島楫子の姉である。また時雄の妹みや子は海老名弾正の妻である。トルストイの作品や思想が日本の智識階級の関心を呼ぶようになったのは、明治24、5年頃からであり、クリスチャンの間に特にそれが問題にされていた。

小西増太郎が本郷竹町の本郷教会の後庭の中にある横井時雄の家へ行くと、横井時雄の外に原田助、村井知至などが集まっており、少し遅れて徳富蘇峰と弟の蘆花がやって来た。それが緑となって、小西は「国民之友」にトルストイの翻訳を5、6篇載せた。その後、小西は「クロイツェル・ソナタ」を訳して蘇峰のところへ送ると、蘇峰からは、この小説は実に面白いが、訳文は手入れが必要だと思う、という手紙が来た。そのあとで、民友社から国木田独歩と名乗る編集者がやって来て、「クロイツェル・ソナタ」の訳文訂正は尾崎紅葉に頼んだ、と彼に伝えた。明治28年8月号の「国民之友」に尾崎紅葉訳としてその「クロイツェル・ソナタ」が「クレーツェロワ」というロシア音の題で連載されはじめた。
小西はそれを読んで、紅葉の訂正した文章は、実に立派になっていたが、原文にある凄味が抜けて、別な人の書いた作品のようになっていた。10日ばかり後、麹町2番町の小西の家に、33、4歳の、久留米絣に薩摩下駄をはいた書生風の男が訪ねて来た。男は私は紅葉のところにいる書生ですが、私の主人が蘇峰さんに頼まれて、あなたの訳した「クレーツェロワ」を訂正したのですが、その文章があなたの気に入ったかどうかを承って来るようにと申しましたので、と言った。小西は、「御訂正は立派で、よくなり過ぎたと感ずるほどです。喜んでいますが、ただ遺憾なのは、原文に溢れるようにある凄味が大いに減りました」と言った。書生はこれを聞いて帰って行った。その後間もなく、「太陽」の口絵に紅葉の写真が出ていたので見ると、あの久留米絣を着た書生が紅葉であった。そのとき紅葉は数え年29歳。

蘆花がトルストイに関心を抱いたのは、小西の話を聞く5年前の明治23年、数え年23歳の頃から。その年、彼は「国民之友」に「露国文学の泰斗トルストイ伯」という紹介文を書いた。更に翌24年、「トルストイ伯の飲酒喫煙論」を書き、25年秋には「戦争と平和」を英訳で読んだ。翌26年、彼は横浜まで「アンナ・カレーニナ」を買いに行って読みはじめた。またその翌年、彼は「我が懺悔」を読み、小西帰国2年目の明治30年4月、民友社の十二文豪伝の第10巻として「トルストイ」を刊行した。

伊藤整『日本文壇史』による
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2016年12月22日木曜日

明治39年(1906)6月1日~29日 奉天に日本領事館 日露講和条約により南樺太がロシアから割譲 在米日本人「社会革命党」発会(オークランド) 韓国で崔益鉉の蜂起 南満州鉄道株式会社設立に関する勅令公布 田中正造に予戒令適用 常磐会創立(鴎外と山縣) 日本エスペラント協会成立 幸徳秋水帰国、「世界革命運動の潮流」演説  

新宿御苑
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明治39年(1906)
6月
・東京製紙株式会社創立(大阪府)。資本金35万円。
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・大阪紡績、金巾製織を合併。
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・藝防抄紙株式会社創立(山口県)。資本金50万円。
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・岩野泡鳴「神秘的半獣主義」(「左久良書房」)
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・イラン、大衆運動高揚。
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・第1回仏・グランプリ自動車レース開催(ル・マン近郊)。
ルノー搭乗のハンガリー人セイス・フェレンツ優勝。
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・ポーランド、ビヤウィストクで計画的反ユダヤ人暴動。ユダヤ人数百人が虐殺。
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・カナネア鉱山(メキシコ北部米国人ウィリアム・グリーンの経営、米国人ウィリアム・グリーンの経営)、賃金差別に抗議し1万人スト。マゴンの影響を受けたカナネア人道自由同盟が指導。州知事指令により23名虐殺、敗北。アリゾナ州警備隊も越境して参加。
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6月1日
・奉天の日本軍撤退。
日本、奉天に領事館設置。
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6月1日
・日露講和条約により、北緯50度以南の樺太がロシアから割譲。
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6月1日
・(資)池貝鉄工所設立。
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6月1日
・耕地整理及土地改良奨励費規則公布。
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6月1日
・幸徳秋水・岡繁樹・岩佐作太郎・竹内鉄五郎・小成田恒郎・倉持善三郎ら、オークランド白人社会党本部にて在米日本人の「社会革命党」発会式。在米日本人社会主義者50名参加。秋水執筆の宣言・綱領・党則採択。
竹内鉄五郎:日雇い労働者。岩手県出身。啄木と同期で盛岡中学在学、仙台の東北学院で院長押川方義に愛国主義を叩き込まれ、島貫兵太夫の激励をうけ渡米。週刊「平民新聞」により社会主義に共鳴。「竹内の無鉄砲」とあだ名される。
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6月2日
・この日付け漱石の森巻吉宛手紙。
「(前略)此夏は又講義をかゝなければならない苦しくて面白くなくてきく人もつまらなくて、然もやらねばならぬとは馬鹿気て居る」。大学の講義に熱意がない。

12日付け加計正文宛手紙。
「僕の胃病は今年程よき年はない。天下の犬を退治れば胃病は全快する。是が僕の生涯の事業である。外に願も何もない。況んや教授をや況んや博士をや」。
教授や博士を問題にしていない。生涯の事業は、「天下の犬退治」である。
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6月3日
・山路愛山、『社会主義管見』刊行。発禁。
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6月4日
・韓国、老儒・前賛政崔益鉉(チェ・イクヒョン)、全羅北道泰仁で蜂起。「棄信背義十六罪」を日本政府に送る。全羅南北道境界地帯制圧。
10日、崔益鉉・林炳瓉ら義兵軍、全州・南原の鎮衛隊に包囲。崔(自ら縛につく)ら13人逮捕。
8月18日、対馬厳島獄舎に護送。
明治40年1月1日、死亡(74)。

崔益鉉:
1876(明治9)年江華条約時(44歳)、3日3晩の伏閣上疏を行う。高宗・閔氏政権は反政府分子と見做し、全羅南道の西方海上の黒山島に3年の流刑。
1895(明治28)年断髪令時、再度上疏。この時、高宗はこの反骨の士にり刮目、特進官・議政府賛政という官職につける。更に京畿道監察使に任じようとしたところ、林公使に反対され、一切の官職から退かされ、郷里からも追われ忠清南道定山面に引下る(1905年3月)。
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6月4日
・徳富蘆花、10日余をエルサレムとその周辺で過ごし、6月4日、北方のガラリヤ(イエスの郷里)へ出発。サマリアの山地を越えて3日間の馬車の旅の後、6月6日、イエスの生地ナザレに到着。
蘆花の日記
「ヨセフの子と呼ばれ、マリアの子と視られ、弟妹に気の知れぬ兄視(あにし)せられて、雪の冬、泉の夏、野花の春、山の月の秋と、ここナザレの山の上に過ぎし三十年の生涯よ。想へばなつかし、知りたし。」
6月9日、ガリラヤから西方の海岸のハイファ港に出て、14日、フランスの汽船オリノク号に2等船客として乗り、黒海入口のコンスタンチノープルに向かう。
20日、コンスタンチノープルに着き、23日、そこからウィーン行きの汽車に乗る。ブルガリア、ルーマニアを経てロシアへ入るためである。
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6月5日
・京都帝国大学に文科大学設置(勅)。9月11日開設。
*
6月5日
・独、艦隊法修正案可決。ドレッドノート級潜水艦建造開始、キール運河拡張決定。
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6月6日
・駐英大使に小村寿太郎任命。
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6月7日
・共同火災保険株式会社創立(東京)。資本金500万円。
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6月8日
・南満州鉄道株式会社設立に関する勅令、公布。
7月13日設立委員任命(児玉源太郎ほか80人)。
9月10日満鉄株募集開始。
10月5日募集締め切り。盛況で、約1,078倍の応募。以後投機熱盛んとなり、5、6ヶ月間に10数億円の新会社興起。
11月26日設立。1907年4月1日開業。
*
6月8日
・田中正造に栃木県知事白仁武より予戒令適用
(「一定の生業を有せず平常粗暴の言論行為を事とする者」に適用する)。
正造の言論・行動の自由を封じ込める。
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6月9日
・駐清公使に林権助任命。
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6月9日
・文部大臣牧野伸顕、校長・教職員に対して学生の教育及び風紀引き締めに関する訓令。
社会主義の宣伝に惑わされないよう。文部省訓令第1号。
「万朝報」賛成、「時事新報」「毎日新聞」は非難。
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6月10日
・啄木(20)、農繁休暇を利用して、父の宝徳寺住職復帰運動のため上京、新詩社(与謝野鉄幹・晶子宅)に滞在。夏目漱石・島崎藤村・小栗風葉等を読み、帰郷後小説家を目指す。
7月「雲は天才である」(11月修正)、「面影」脱稿。春陽堂後藤宙外、後、小山内薫に送るが、いずれも返却。
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6月10日
・「常磐会」創立。
会場は山縣有朋の古稀庵(小田原)、新々(さらさら)亭・椿山荘(小石川)、新椿山荘(番町の英国大使官裏)など。1922(大正11)年2月山縣死去まで185回。会の名付け親は鴎外であり、幹事は鴎外と賀古鶴所。
『自紀材料』1906年6月10日に、「小出粲、大口鯛二、佐々木信綱、井上通泰、賀古鶴所と会す」とあり、これは創立時の会合であり、賀古を除く4人が選者。
選者の井上通泰は、
「明治三九年六月十日の夜森林太郎、賀古鶴所の二氏が小山粲、大口鯛二、佐々木信綱の三氏と余とを浜町一丁目なる酒楼常磐に招きて明治の時代に相当なる歌調を研究する為に一会を起さん事を勧められた。(中略)余は無論森、賀古の二氏の勧告に応じ(中略)其後賀古氏から話のついでに此事を山県公爵に申し上げた所が公爵も非常に喜ばれカを添へらるる事を約せられた」

賀古鶴所は鴎外と同窓で、日本の耳鼻科の開拓者。
1888年には山県内務卿のヨーロッパ巡遊に随行。
日露戦争には、「山県の懇請」により従軍。山県と同じく和歌・硯石・刀剣・古書と趣味も広く、「山県に信頼されて国事上の相談」も受けることもあった。
鴎外の小倉左遷のとき、辞職を決意した鴎外を切諌し、鴎外が中央に戻ることを運動した。
鴎外を「常磐会」幹事とし、山県と鴎外の仲を終始取り持ったのも賀古であると思われる。
鴎外の遺言には、「余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所ナリ・・・」とある。

鴎外と山縣は、「常磐会」を通して急速に緊密になる。
鴎外は山縣に「詠歌に関する『門外所見』を呈」し、「『古稀庵記』を椿山荘へ持ち」ゆき、山縣に頼んで親友・菊地常三郎を「大阪赤十字社支部病院長」にし、平井政通を「陸軍の軍医学校長」にし、陸軍の「新かなづかひ不採用を通告」させ、旧主家の亀井伯爵を「式部官に採用」させたりしている。
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6月10日
・ニュージーランド、1893年以来首相のチャード・セドン(キング・ディック)、没。
1893年に世界で初めて婦人参政権を導入するなど実験的国家社会主義計画を推進。
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6月11日
・米、森林自営農地法制定。
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6月12日
・日本エスペラント協会成立(東京)。
東京高等商業学校生と加藤節の運動による。大杉栄、黒板勝美、千布俊雄ら出席。
8月、「日本エスペラント」創刊。
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6月13日
・帝国学士院規定公布。
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6月13日
・エジプト、デンシワーイ事件。鳩の狩猟会で英人将校を殺した現地人処刑。エジプト民衆の感情刺激。英狙撃部隊とエジプト住民が小競合い。7月、英は増援軍をエジプトに派遣。
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6月14日
・露ビャルイストク市、大規模なユダヤ人迫害。
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6月17日
・中国の汴鄭鉄道完成。
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6月17日
・[露暦6月4日]ペテルブルク市内各所で政治集会。ツァーリに対して闘う国会への支持決議。
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6月18日
・モロッコのスルタン、1月のアルヘシラス会議を承認。
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6月20日
・清国、南昌教案で仏に賠償金25万両支払を約す。
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6月23日
・幸徳秋水、岡繁樹と共に帰国(前年11月14日~)。
岡繁樹:
「万朝報」記者、主筆松井柏軒を殴って解雇。アメリカに渡りサンフランシスコ平民社設立。
船中で幸徳を会う。幸徳は、岡に対して、日本に革命を起すためには天皇を倒すことが必要である、その準備として帰国の上は貴族院の守衛を志願せよ、と言った。また、「岡君、後世この香港丸が歴史に残る」と昂然とした調子で言った。

4月18日、滞在していたサンフランシスコが大地震に襲われ、秋水はオークランドに避難していたが、在米日本人同志を結集した社会革命党の結成(6月1日)を置き土産に予定を切り上げて6月5日に日本へ向かった。
アメリカ到着後の秋水は、日本を代表する社会主義者として大歓迎を受け、各地で講演をし、無政府主義者たちと交流した。
無神論者のアルバート・ジョンソンやフリッチ夫人(ロシアのエスニル系の亡命者)と交わり、アナルコ・サンジカリズムの傾向の強かったI・W・W(世界産業労働組合)の会合に出席して、アナルコ・サンジカリスト(無政府王義的労働組合主義者)としての性格を強める。
またフリッチ夫人は、秋水に「普通選挙の無用」や「治者暗殺」についてさかんに持論を述べたという。
アメリカでは演説を中止されることもなく、その解放感から、秋水は天皇制を批判するような言葉も使うようになっていた。だが、2人の”スパイ”がつねに監視していたことを、彼はまったく知らなかった。
在米中に起こった大地震で、秋水によれば「無政府的共産制」の状態が現出した。
彼の「思想の変化」に最も大きく影響したのはこの大震災だろう、と荒畑寒村は述べている(『続 平民社時代』)。
秋水の劇的な「思想の変化」は同志たちを動揺させ、社会主義運動をさらに分裂させることになる。

横浜に着いた幸徳秋水は、一時麹町元園町の堺利彦の家に落ちつく。
幸徳は堺や西川光二郎、大杉栄、荒畑勝三など若い連中の前に坐って、自分の派手を靴下を見せ、「ハイにしてカラなるものだろう」などと冗談を言った。
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6月25日
・幸徳秋水、片山潜(1月に帰国)の家で同志たちと茶話会。片山との思想上の立場の違いを融和させることはできなかった。
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6月26日
・韓国における裁判事務に関する法律、公布。理事庁が始審を、統監府法務院が終審として上訴を管理。
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6月26日
・日米直通海底有線電話が開通。
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6月28日
・幸徳秋水、日本社会党の帰国歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」演説。神田区錦町(現・千代田区神田錦町)の錦輝館。
総同盟罷工による直接行動論。ドイツ社会民主党の議会主義、ロシアの革命運動の例により、ゼネストが将来の革命の武器となる。

錦輝館は1902年に日本で初めてメリエスの『月世界探検』を上映した活動写真館。
秋水帰国の2年後の1908年6月22日には、ここで行われた山口孤剣の出獄歓迎会がきっかけで赤旗事件が起こる。

幸徳は言う。
過去一年有余の入獄と外遊とは、自分の主義思想になんの変化をあたえることなく、自分はいぜんとして社会主義者である。
しかし、その主義理想に変化はないけれども、これを実現する手段方法にはおのずから変化がないとはいえないのであって、自分の見聞したところでは、今や欧米の社会主義運動の方針はまさに一大変化をきたそうとしている。
したがって日本の社会党もまたこの新しい潮流をみてとらなければならないのである。

幸徳は続ける。
「一八四八年にマルクス、エンゲルスの二人が草した『共産党宣言』の中には、共産党は世界いたるところで政治的および社会的現状に反抗する革命運動を援助するといって、その実行のためには武力を用いるももとより敢て辞するところではなかった。しかも社会党の運動は多少の盛衰消長をまぬがれなかったとはいっても、一八七一年、普仏戦争の終局にいたるまで二十年問つねに革命党として前進し、革命党として奮戦していた。

しかるに理想的、急進的、民主的なフランスの敗北と、保守専制的、武断的なプロシアの大勝とは革命運動にとって一大打撃であった。一方においてパリ・コムミュンが粉砕され、フランス流の革命運動が一時まったくへい息して、武力革命が到底不可能だと思わせると同時に、他面ではビスマルクが戦勝の余威を駆って鋭意革命運動を鎮圧し、かつ普通選挙制を採用して民間不平の安全弁とするにおよんで、ドイツ流の社会党が銃器爆弾を棄てて、もっぱら議員選挙に向かって全力を注ぐようになったのは自然の勢いといわなければならない。かれらは社会民主党は議会に多数を制し、平和的、立憲的、合法的な手段をもってその志をおこなわなければならない、といったのである。したがってパーリヤメンタリズム - すなわち議会政策が万国社会党の運動方針として採用せられるいたって、毎回の万国大会における革命的決議案は常に少数を以て敗れ、急進派は無政府党に走るというような状態になった。

わが日本の社会党も従来は議会政策をもって主たる運動方針とし、普通選挙の獲得を以て第一着手の事業としていたのであるが、自分は獄中における読書と研究との結果、密かにいわゆる議会政策の効果に疑いをはさむにいたり、その後アメリカに遊ぶにおよんでますますその疑いを深くするようになった。
三百五十万の投票を有し、九十人の議員を有するドイツ社会党が果して何をなしたか。ドイツは依然として武断専制の国家であり、依然として堕落罪悪の社会であって、その投票なり、その代議士なるもの、はなはだ頼むにたりないではないか。労働者の利益は労働者自身で得なければならない。労働者の革命は労働者みずからおこなわなければならない。というのが最近欧米における社会主義者のあいだにおこっている声である。」

ここにおいて、近時欧米の社会党は議会政策のほかに社会革命の手段方法を求めるにいたった。それは十九世紀前半の遺物たる匕首、爆弾、竹槍、むしろ旗のたぐいではない。ただ労働者全体が手をこまねいて何事をもなさざること数日、もしくは数週、もしくは数月ならばすなわち足る。社会一切の清算交通機関の運転を停止すればすなわち足る。換言すれば、いわゆる総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)を行なうことにあるのみである。

幸徳の「直接行動」というのは、端的にいえば「ゼネストによる革命」である。

・この日(6月28日)から、京橋区出雲橋際の加藤時次郎の病院に移り住み、7月4日には、妻千代子を連れて郷里の高知県中村に帰省。
幸徳は前から肺結核を患っていたが、アメリカ滞在中からしばしば下痢症状を起し、腸結核を併発している気味もあり郷里で暫く静養するつもりであった。
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6月29日
・章炳麟、出獄。日本へ赴く。
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6月29日
・米、ヘプバン法制定。
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2016年11月29日火曜日

明治39年(1906)6月 北原白秋と若山牧水 柴舟尾上八郎 早稲田大学と白秋・牧水 坪内逍遥 安部磯雄 22歳にして第一線の詩人白秋

新宿御苑 2016-11-22
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明治39年(1906)6月
若山牧水(21)、英文科の同級生らと回覧雑誌「北斗」発行。6月末に帰省。
父が財産をなくし母は病床。牧水自身もしばらく病床に臥せったが、9月中旬に上京。

以下、伊藤整『日本文壇史』第10巻第6章より
(見出し、段落は適宜付した)

■北原白秋と若山牧水

●北原白秋

この年、明治39年(1906)、早稲田大学には詩や歌に熱心な学生が多く集まっていた。

その中で特に目立っていたのは、前年1月に大学の機関誌「早稲田学報」の原稿募集に応じて1位当選した長篇詩「全都覚醒の賦」を書いた北原隆吉(号は射水)であった。
「全都覚醒の賦」は上篇109行、下篇118行計227行からなる長い詩であった。
詩の方法は、明治35年1月「公孫樹下にたちて」を書いて以後、華麗なイメージを駆使し、詩壇の中心にありながら大阪に住んでいた薄田泣菫の影響を受けたものであった。しかし句読点もスタンザの区分もない詩句を227行も書き続ける表現力の豊かさは、読む人を驚かし、大都会の夜から朝にかけての変化を捉えようとするその野心的な構想が読む人を圧倒した。
彼は、この年(明治39年)から与謝野寛の新詩社に加わり、北原白秋という号で、毎月のように「明星」に詩を発表し、社でも有力な新詩人と認められていた。

彼は、福岡県の柳川(山門郡沖端村)の生れで、このとき数え年22歳。生家は代々柳川藩の御用達として、海運の税金の取り立てを請負い、また海産物問屋として九州一円に知られた旧家であった。父長太郎は本業として酒造業を営み、家号を油屋または古問屋(ふつどいや)と言った。
彼は柳川の中学伝習館3年生になった16歳の頃から、雑誌「文庫」を読み、また新雑誌「明星」を知った。翌明治34年沖端村の大火で生家が類焼し家計が傾き始めたが、その頃から文学に心を注ぎ、白秋の号で「福岡日々新聞」に歌を投書したり、友人と廻覧雑誌を作ったりした。
明治35年(18歳)、「文庫」に短歌を投書して選者、服部躬治(もとはる)に認められた。また、翌年、中学5年の時から「文庫」の詩欄に詩を投じて、選者、河井酔茗(すいめい)に知られた。

卒業直前、「硯香」という新聞を学内で刊行し、学校当局に睨まれ、明治37年春、卒業直前に中学校を退学して上京、早稲田大学英文科予科に入学した。
この頃、家は衰運に向っていたが、家に古い小判があり、母親がその小判を毎月1枚ずつ送ってくれるのを金に替えて学資にしていると言われた。

●若山牧水

牧水(本名、若山繁)は明治18年生れで、白秋と同年。出身は宮崎県東臼杵郡東郷村坪谷。祖父健海は蘭医と漢法医を兼ねた医師で、父立蔵もまた医師であった。
牧水も16、7歳の頃から国語漢文等に興味が傾き、「中学文壇」「秀才文壇」「中学世界」「新声」「文庫」などの投書雑誌に短歌、俳句を投書し、中学4年から卒業するまで友人と短歌専門の廻覧雑誌「野虹」を発行していた。

明治37年4月、延岡中学校を卒業して上京、早稲田大学に入学した。

牧水の関心は、その時期から短歌に集中していて、雑誌「新声」の短歌欄には毎号何首ずつかが選ばれていた。
しかし、この当時、雑誌「新声」は危機に瀕していた。
「新声」は、佐藤儀助が明治29年7月に第1号を出し、明治32年1月からは大判に改め、その年4月創刊の「明星」と争いながら若い読者投書家を集め発展した。しかし「明星」には、与謝野寛とその妻になった晶子という、経営者にして詩人という柱があったが、「新声」にはそれがなかった。詩人では蒲原有明が比較的この雑誌に縁が深く詩欄の選者をし、歌人では、柴舟屋上八郎が選者をしていた。この二人はともに明治9年生れで、与謝野寛と同様落合直文門下であったが、与謝野のような強い性格や指導力はなかった。

牧水が上京して早稲田大学に入った明治37年春、佐藤は雑誌「新声」を譲り渡し、新声社を解散した。そして彼は改めて規模を縮小した新潮社を起し、雑誌「新潮」をその年5月から創刊した。

佐藤から「新声」を買い取ったのは、北星草村松雄という小説家である。草村北星は「文芸界」を出していた金港堂書店に勤務しなから「明星」などに小説を書き、明治35年12月に金港堂から「浜子」という長篇小説を出版した。これは一種の家庭小説で、家庭小説は、明治33年出版の幽芳菊池清の「己が罪」が当時には類のないベストセラーとなって以来、流行の通俗小説の形式であった。「浜子」もまたその類の作品として、好評を得、版を重ねた。
草村は作品を書くかたわら、明治37年に隆文館という出版社を創立して出版を始めた。そして、買い取った「新声」を、翌38年2月から刊行しはじめた。

▲柴舟尾上八郎

明治37年4月、牧水は上京して麹町3番町の下宿に落ちつき、早稲田大学に通い、5月22日、尾上柴舟を本郷西片町の家に訪ねた。

その頃、新しく出版された「新潮」の歌欄の選者は金子薫園(くんえん)であった。

尾上八郎はこの時、数え年29歳。岡山県津山町の出身で、父北郷直衛は旧津山藩の武士。尾上は少年時代から歌作に興味を持っていた。15歳で上京、東京英語学校に学んだが転じて府立尋常中学に入り、17歳の時、同藩の尾上勁の養子になった。彼は、第一高等学校に入ったが、その間に大口鯛二、佐佐木信綱、落合直文などの歌風の影響を受け、一高に入ると、落合直文が教授をしていたので、その門に出入することになった。

尾上八郎は落合直文の浅香社で、与謝野寛、服部躬治、金子薫園等と知り合いになったが、金子が彼と尋常中学の同級生であったことを知り、その後は親しく交わるようになった。
尾上八郎は一高から東京帝国大学国文科に入り、同学の久保猪之吉、服部躬治、菊池駒次等と短歌会「いかづち会」を作った。
明治34年、大学卒業後は大学院に入り、在学中から訳していたハイネの詩を集めて訳詩集「ハイネの詩」を出した。この訳詩集は平明な七五調にハイネの抒情詩を生かしたもので、長い期間にわたり多くの愛読者を得た。その結果、ハイネとは尾上柴舟の訳したような甘美な詩ばかり書くセンチメンタルな詩人であるという通念が、長く日本の詩壇に残ることになった。
尾上柴舟は教師として生活し、はじめ井上円了の経営する哲学館に、明治35年から女子高等師範学校、早稲田大学などの講師になった。

牧水は、尾上柴舟の歌が、静かな韻律を持ち、新味があり、その調子の澄んでいるのか好きであった。彼の取った早稲田大学の規則書には講師尾上八郎と出ていたので、その講義を聞くのを楽しみにしていたが、尾上柴舟が教えていたのは高等師範部の国語科であり、牧水は講義を聞く機会がなかった。牧水自身も、もし本科に国文科があったら入学したであろうが、この当時の早稲田大学の学科には、英文科と哲学科しかなく、彼はその英文科を選んだ。
牧水が訪ねて行ったとき、柴舟は20歳の牧水を迎え、快く逢い、学問や創作上の話をして力づけた。

▲早稲田大学と白秋・牧水

北原白秋と若山牧水は、投書家時代に互いに名前を知っていたので、6月頃早稲田大学の教室で、互いに相手をそれと知り、親しくなった。牧水は脚気を煩って、葉山一色海岸に転地したが、8月には東京に戻り、白秋と親交を重ね、9月中旬には牛込の穴八幡下の清致館という下宿に同宿するようになった。

この時期、白秋は射水という号を使い、外に中林蘇水(しすい)という文学学生もいたので、牧水を含めて早稲田の三水と言われた。

明治38年9月、文学科予科の学生のために、坪内逍遥特別講話というのを毎週2時間ずつ行った。坪内は初めの数回、文学についての一般的概念を説明し、続いて文明の推移と、西欧思想の発展を説き、更に近代文学の趨勢を理解させようとして、イプセンの「ブランド」の解説をした。
このとき坪内逍遥は数え年46歳、背が低く、半白の薄い髪の毛を無造作に短かく刈った坪内は、和服を着て、緑なしの眼鏡の下に神経質らしい目を光らせながら話をした。話し始めには、口を不器用に動かしていたが、話に調子が出ると、さまざまな比喩や引例を次々と並べて、一つの話題に2時間では時間が足りないほどの熱の入れ方であった。
坪内は近年の持論である倫理教育と背馳しない強力な文学作品の例として、この「ブランド」を選んだ。
当時イプセンの訳は高安月郊(げつこう)のものがあるだけで、一般の文壇人には知られていなかったから、学生たちには新鮮な印象を与えた。
「ブランド」の筋は、若い牧師ブランドが、深い雪の危険な山道を越えて、その目的を達するために、多くの友と別れ、知人への愛情を拒み、母親への顧慮を棄てて、ただ絶対の理想を追って進む話。アグネスという愛人を得て子供が生れるが、ブランドはその子のためにも節操を曲げることを拒む。妻はそのために死ぬ。しかもなお彼は自分の執着を棄てず、「一切か無か」を合言葉として神とのみ一致する生活に入る。
この作品についての坪内の解説は、深刻な感銘を牧水に与えた。一切か無か、という言葉は、それ以後牧水が何か事を企てる毎に彼の口から出るようになった。

またこの時期に安部磯雄が受け持っていた「実践倫理」は、講義内容がきちんと組織づけられ、実例が豊かで、学生に喜ばれた。彼は少しも興奮することなく静かな声で5、600人も集る大講堂で話し、彼の講義が終ると満堂の学生は一斉に拍手するのか常であった。
明治37年に入学した白秋、牧水、蘇水等の級には土岐善麿らもいた。

▲22歳にして第一線の詩人白秋

彼らは、明治38年9月には本科1年に進学、英文科・哲学科が各100名くらいだった。
白秋は中学校を卒業していないので、本科入学資格を得るために神田辺の中学校にも席を置いていたが、それよりも彼の「明星」での活躍が目立ち、新詩社同人として仕事が急がしくなり、学校には顔を出さなくなっていた。

牧水は、白秋と連れ立って千駄ヶ谷村字大通549番地の新詩社を訪ねて与謝野晶子に逢ったり、また「文庫」の詩の選者河井酔茗を訪ねたりし、次第に詩壇・歌壇の仲間に入って行った。
翌明治39年、彼は級友の土岐善麿、安成貞雄、仲田勝之助たちが小説の創作を目的として作った北斗会に加わって、小説の研究も始め、回覧雑誌「北斗」を作った。

明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。
彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。しかもなお彼は有明や泣菫の影響下にあり、その点では前年明治38年に上京して、友人に金銭上の迷惑をかけながら詩集「あこがれ」を刊行し、また郷里岩手に帰った啄木と似ていた。

この年明治39年春、白秋は、再び牧水と同じ下宿にいたが、牧水は帰省し、白秋は与謝野寛、吉井勇、茅野蕭々等と関西旅行に出かけた。一行は、伊勢、紀伊、奈良、京都を歴遊して東京に帰った。
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