2014年8月24日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(40)「”私は幸福だ”(soy feliz)」(1) 「カスティーリアの天から降って湧いて来た仕事は、フェリーペ五世と、彼の後妻のイサベラ・ダ・ファルネーゼとの間に生れた末子のドン・ルイース親王一家の肖像を描くことであった。」

南禅寺 水路閣
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”私は幸福だ”(soy feliz)
天から降って湧いて来た仕事:ドン・ルイース親王一家の肖像を描くこと
「総理大臣フロリダプランカ伯爵は、二年がかりで苦心惨憺して描き上げた肖像画の画料を、ついに払ってくれなかった。・・・
その代りに、おそらくフロリダプランカ伯爵、あるいは伯爵ときわめて親しい建築家のベントゥーラ・ロドリゲスの紹介によって、天から降って湧いたようなよい仕事が与えられた。それもアカデミイでの同僚を出し抜いて、であった。

カスティーリアの天から降って湧いて来た仕事は、フェリーペ五世と、彼の後妻のイサベラ・ダ・ファルネーゼとの間に生れた末子のドン・ルイース親王一家の肖像を描くことであった。それまではこの親王家付きの画家は、ゴヤと同時にアカデミイ入りをしたルイース・パレートという男であったのである。」

ドン・ルイース親王とは:
「ところでこの親王は、現王カルロス三世の末弟にあたり、彼はたったの八歳のときに、もう枢機卿の紫衣を着せられてしまっていた。・・・」

「この親王の場合、適当な領地が見当らなかったので、・・・。八歳で枢機卿、つづけてトレドとセピーリアの大司教に任ぜられた。・・・即位式で国王の誓いを受理し、王冠をかぶせてやるのは、歴史的にトレドの大司教のつとめであり、かつ権限であった。それだけではなくて、実入りと言うか、受禄の方も相当なもので、全体で五〇にものぼる受禄職がこれにくっついていた。そのなかにはメキシコの大司教区からのあがりも含まれていた。」

「この殿下・・・。スペインの霊界の王として紫衣を着ることも、また独身を強いられることも重荷であった。常時女性がそばにかしずいていてくれることが望ましかった。しかもそういうふうに、人性の自然にもとづいての行動を秘密裡に行わねばならぬということも厭だったのである。」

「となれば、道は一つしかない。莫大な収入と聖職者としての最高位を投げ出して還俗することである。この殿下は、それを父であるフェリーペ五世の死をまたずして決断をしてしまった。早く、一七歳の時である。」

「還俗をしてから、さんざんに遊び歩いての後、中年になってから彼は花と、芸術 - 特に音楽 - が好きで、静かな、単純な生活がしたかった。」

「ドン・ルイースは、四九歳のときアラゴンの古い貴族の娘である、マリア・テレーサ・デ・バリァプリーガと結婚をした。
ただ、条件がついていた。マドリードに住んではならぬ、彼一人がマドリードを訪れることはかまわぬが、家族づれで来てはならぬ。子供たちは如何なる意味でも王権とは関係がない。彼の死後も、未亡人マリア・テレーサはマドリードに来てはならぬ、という・・・。
・・・
この二〇世紀でのエドワード八世とシンプソン夫人との恋愛をめぐって、前者が英国の王冠を投げ出してフランスに住むという事件の先駆をなしているような出来事は、時代がまだまだ一八世紀末とはいうものの、やはり時代の移りというものを物語っているであろう。ロマンティシズムへの移行が明らかにそこに見てとれる一事件であった。」

いかにも家庭的な家庭にある自らの姿をドン・ルイースは画面に定着をして自らも見、世間にも見せてやりたかった
「こういう経緯があって、この親王一家は、マドリードの西方一四〇キロほど離れた、シエラ・デ・グレドスという険峻な山脈の山ふところにある、アレーナス・デ・サン・ペドロという名の小さな町の離宮に隠棲していたものであった。・・・
・・・
・・・マドリードにいた頃は、相当数の女性との往き来のあった旧聖職者は、妻のマリア・テレーサ一人をまもって、波風のない、落着いた生活をおくっていた。子供たちも男の子一人に女の子が二人いた。
そういう、いかにも家庭的な家庭にある自らの姿をドン・ルイースは画面に定着をして自らも見、世間にも見せてやりたかった。」

ゴヤが呼ばれて行った
「ゴヤが呼ばれて行った。
一七八三年夏のことである。
・・・
ゴヤにとっては、これが王族との最初の邂逅である。・・・
・・・。アレーナス・デ・サン・ペドロの離宮に泊り込んで、殿下一族といっしょに四週間をすごすのだ。」

いまアレーナスから帰ったところだ、(途中)骨が折れるかと思った
「いまアレーナスから帰ったところだ、(途中)骨が折れるかと思った。殿下は僕に数え切れぬ栄誉をほどこして下さった。僕は殿下の肖像と夫人のそれを描いた。小さな坊っちゃんとお嬢さんのも描いた。他の画家たちがいままでやってみてとても出来なかったほど上出来だった。自分でもこれ以上は望めないほどの成功だ。僕は二度、殿下といっしょに狩りに行った。殿下は名だたる名射手なのだ。それでも最後に行ったときに、僕がウサギを射ちとめたとき、殿下はこう言われた。「この三文画工は、自分よりも狩りに夢中だ」とね。僕は一カ月間、畳も夜も一族の方々と一緒に暮した。方々は天使だよ。僕には一〇〇〇ドゥロ(五〇〇〇ペセータ)の謝礼を下さり、家内のためにと言われて金糸銀糸の引裾のドレスを贈って下さった。アレーナスの衣裳係りに言わせるとこれは三万レアール(現代の国際通貨のドルで約七五〇〇ドル)の値打ちものだそうだ。殿下たちは僕が帰ることなんかないようにというわけで、本当に心から別れを惜しんで下さった。それが少くとも毎年戻って来ること、という条件つきで引き下って来たんだ。もし君にあそこでのことのさまざまや、起きたことの全部を話せたら、君もきっととても喜んでくれるだろうが、それが出来ないんだ。馬車の旅で腰の骨が折れるかと思ったよ。それでもこの馬車は殿下の命令で供与されたもので、とても早く走ったよ。

これが九月二〇日に友人に書き送ったゴヤの報告である。
四週間の滞在の間にゴヤは殿下及び夫人の横顔ならびに半身像、男の子のルイース・マリア、女の子のマリア・テレーサの全身像を描き、殿下と建築家ベントウーラ・ロドリゲスとの二重肖像の下絵を描いた。」

これらの肖像画で面白いのは、絵の裏に、詞書が入っていること
「これらの肖像画で面白いのは、絵の裏に、同時代のフランスの画家フラゴナールがやったように、「一七八三年九月一一日午前九時から一一時の間に描く」とか、「一七八三年八月二七日午前一一時から一二時の間に描く」といった詞書が入っていることである。早描きの能力を誇ったものであったろう。」

殿下と夫人の各二枚ずつの横顔
「殿下と夫人の各二枚ずつの横顔は、別の『ドン・ルイース親王殿下家族図』のための下絵であろうと思われるのであるが、殿下の方は、中年までの独身時代の放蕩の跡が明らかにのこっている。いささか弛んだ表情がブルボン家持有の大きな鼻からロにかけてひろがっていて、やはりわれわれとしてもゴヤの性格観察力に感心せざるをえない次第になる。そうして夫人のマリア・テレーサの方は、若々しく堂々たる容姿で描かれていて、まことに田舎の離宮などに閉じ込めておくには惜しい、と思わせるに充分である。」

男の子、ルイース・マリアの運命
「このアレーナス滞在中のゴヤの仕事で、注目されるものは、殿下と夫人の肖像ではなくて、二人の子供の全身像と、家族図の方であろう。

この二人の子供のうちの、男の子の方、ルイース・マリアは、まだ六歳なのに、すでにカツラをかぶり、フランス風なフロックコート様のものをまとってキュロットをはいている。この子は、後に、まさに父が嫌い抜いて、それと引きかえに山間の領地で引退生活を送らざるをえなくさせられた、枢機卿兼トレドの大司教、すなわちスペインの首席司教に就任することになる。
若き日の父の地位をそっくりそのまま継ぐことになった。
・・・
後年、このルイース・マリアが枢機卿の紫衣をまとった肖像画をゴヤはまた描かねばならない。」

娘、マリア・テレーサの運命
「さらに劇的なのは、二歳と九カ月の娘のマリア・テレーサの方である。背景に峨々たるシエラ・デ・グレドスの岩山を配して、離宮のベランダに立った、まことに可愛らしい幼女像である。当時ヴェルサイユ宮廷で流行していた牧羊の少女たちを摸した半袖のシュミーズに黒の長スカートという質素な衣裳に、見事な白絹にレースで縁どりをしたマンティーリア(頭被=かすき)を頭からかぶっている。血色のいい丸顔に緑色の眼が無邪気に輝いている。背景の山々の険しさが幼女というものの、やり切れないほどの無垢さ加減を、いやというほどに強調しているのである。

しかし、この子の将来に、どういう運命が待ち受けているか。
幼女マリア・テレーサは、成人して青年総理大臣マヌエル・ゴドイと結婚し、チンチョン伯爵夫人という爵位をさずけられた、と言えばまことにめでたしめでたしということになるかもしれなかったが、事実はその反対であった。
ゴドイは、実はカルロス四世の王妃マリア・ルイーサの男メカケであった。一八歳のとき、近衛兵として三四歳の王妃に見初められ、たちまち昇進をさせてもらって将軍になり、総理大臣となったのは、たったの二五歳のときであった。

このときのスペイン宮廷は、あるフランス人が〝宮廷女郎屋〞と呼んでいるほどに非道いことになっていた。王妃を愛人としてもちながら、ゴドイは次から次へと女を、宮廷内の総理執務室の別室へ引き込み、公然として特定のメカケまでをもっていた。王妃が怒って総理執務室へ呶鳴り込めば、ゴドイはこの王妃をなぐり倒して平然としていた。それでも王妃マリア・ルイーサはゴドイに夢中なのである。

結婚をさせれば、少しはゴドイの乱行がおさまるか、と王妃は考え、その白羽の矢が、この、いまは二歳九カ月の、無垢な幼女マリア・テレーサ・デ・ブルボン、未来のチンチョン伯爵夫人にあたるのである。人身御供のようなものである。」

17年後、1800年にゴヤが描いた肖像画中の最高傑作『チンチョン伯爵夫人像』
「人間の運命が如何なるものであるか、それをゴヤがどう見たかは、一七年後の一八〇〇年にゴヤが描いた数ある肖像画中の最高の傑作である『チンチョン伯爵夫人像』に実に見事に、的確に、しかも人肌のあたたかさとあわれみにみちみちて描き出されるであろう。

・・・絵からじかに、幸福な幼女時代を知っているゴヤの、抑えられた悲しみがこみあげるようにして当方につたわって来る・・・」
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