2014年9月20日土曜日

明治37年(1904)12月1日~10日 203高地陥落(日本側戦傷16,936(内戦死5,052) ロシア側戦傷4,576) 原敬と桂首相の第1回秘密交渉 ロシア旅順艦隊全滅 パブロフがノーベル生理学・医学賞を受賞  

千鳥ヶ淵戦没者墓苑の彼岸花 2014-09-10
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明治37年(1904)
12月
・日本、韓国在外公館廃止を要求。
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・松岡文子、平民社賄方「平民社の主婦」として入社。
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・漱石(37)、高浜虚子の勧めで、文章会「山会」で「吾輩は猫である」を発表。
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・石阪昌孝、家産を整理(家屋敷を売却)。
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・孫文、再度日本亡命。
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・トロツキー、翌年に『1月9日以前』として出版される一連の評論を書き、自由主義を厳しく批判し、ゼネラル・ストライキ論を展開。
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12月1日
・午前1時過ぎ、203高地東北部山頂にロシア軍の逆襲。第28連隊第2大隊長真崎友吉少佐ら山頂の日本軍は殆ど死傷。ロシア軍が東北部を奪回。
午前8時頃、後備第1旅団長友安少将、第7師団長に辞任申し出。大迫中将は、第14旅団長斉藤太郎少将を203高地攻撃指導官に変更。
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12月1日
・満州軍総参謀長児玉源太郎大将、参謀田中国重中佐、柳樹房の第3軍司令部到着。
乃木大将、203高地作戦指揮交代承諾。
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12月1日
・山陽鉄道会社、讃岐鉄道会社を合併。
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12月3日
・平民新聞第53号(「共産党宣言」掲載)第1審公判。
裁判長は「鳴呼増税」事件以来の判事今村恭太郎、検事は第52号事件の担当と同じ安住検事。弁護士今村力三郎・卜部喜太郎・板倉中・花井卓蔵・木下尚江。第1回は事実調べのみ。
13日、第2回。
20日、判決。西川・幸徳・堺夫々罰金80円。翻訳頒布禁止は撤回(判決文はマルクスを「ドイツの偉人」と称する)。
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12月3日
・(露暦11/20)ロシア、ペテルブルク、解放同盟主催司法制度改革40周年記念バンケット、676人、憲法制定会議即時招集。
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12月4日
・第7師団長大迫尚敏中将、5日の攻撃を下命。
第14旅団長斉藤太郎少将に殆どの兵力を委ね「203高地攻撃隊」とする。第26連隊と工兵の一部は第13旅団長吉田清一少将指揮で「老虎溝山攻撃隊」として牽制任務を与え、第35連隊を予備にまわす。
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12月4日
・週刊『平民新聞』第56号発行。

「日本平民新聞発行届出始末」
平民社は発行禁止判決の確定を予期して予め後図を策し、石川三四郎と斎藤兼次郎の名を以て11月25日、『日本平民新聞』発行届書を警視庁に提出した。警視庁は「取調べる事がある」と称してただちに受理することを拒み、その理由を追及する両人に対して「不法と思うなら訴訟するがよい」と、横暴極まる態度である。
両人はさらに警視庁の監督官庁たる内務省を訪い、大臣秘書官に面会して理由を質したが、要領を得ざること警視庁と少しも変らない。両人はふたたび警視庁におもむき、官房主事に対して届書不受理の理由を質問したが、その返答は「今その受理せざる事情を申上ることが出来ません、暫くの間待って下さい」というのみであった。
さきには堺が、今はまた幸徳、西川が新聞条令違反として処罰せられ、60年前の古典にして現に世界公刊の『共産党宣言』すら同条令達反の廉で起訴されている。しかるにその政府は、同じ新聞条令に従える社会主義者の行動を拒否したのである。
記者は本文の末尾に附記して曰く、「アゝ今の所謂立憲法治制とは実に漸の如し、諸君、此の如きも猶は正理と平和とを日本政府に向つて求むることを得るや。」

「欧米社会党の非戦運動」
フランスでは首領のジャン・ジョーレス、ベルギーではジュール・ゲストリー、イタリアではアンドレ・コスタが、それぞれ議会に日露戦争反対の決議を通過させる手段をとったことを報道している。
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12月5日
・午前7時、事前砲撃。
午前9時15分、第26連隊長村上正路大佐、工兵35と選抜隊(第25連隊30、第27・28連隊各90)の計245に突撃命令。ロシア軍銃火を浴びる。
午前10時、選抜隊と第27連隊集成第3中隊、西南部山頂到達。兵力は僅か40。
午前10時20分、西南部山頂に援軍増派し西南部奪取は確実となる。
午前10時30分、東北部山頂のロシア軍の銃火に衰えが見え、旅順口新市街へ退却する車輌を確認。
午後1時45分、第28連隊集成第1中隊長沼部大尉は、命令を受け歩兵30・工兵5を1組とする3班で突撃。東北部の西側を占領。ロシア兵は中央鞍部から抵抗。
午後2時、203高地西南部と砲兵隊の間で電話線が開通、28センチ砲4門が港内ロシア艦隊を砲撃。30分後には電話線は切断されるが、戦艦「ポルタワ」火薬庫に命中し沈没させる。
午後2時20分、第25連隊長渡辺水哉大佐の隊が東北部頂上に到達。中央部のロシア兵と接戦。
午後4時30分、ロシア側の銃火が急速に衰える。
午後8時30分、ロシア軍の増援隊が西南部・中央部に接近するが壊滅。
午後10時、残存ロシア兵が退却開始。
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12月6日
・203高地陥落
午前7時30分、203高地占領確認。日本側戦傷16,936(内戦死5,052)。ロシア側戦傷4,576。第3軍累計戦傷48,788。

この月、鴎外の妹・喜美子の夫小金井良精(よしきよ)の弟・小金井寿慧造が203高地で戦死した。寿慧造と同時に出征した同郷の兵士27人のうち26人が戦死した。
鴎外はそれを弔う長歌と反歌を作った。

「あともひて 君が立たしし/ふる里の 越(こし)のくにびと/はたちあまり 七たりゆきて廿余り むたり返らず/ただひとり あともひゆきし/はたちあまり むたりと共に/かへり来ぬ 数にいりぬと/ねなきつつ 告げけんさまを/まのあたり 我も見るごと/おもはゆるかも
二十あまりむつのあらをら君をもりて死出の山路を今か越ゆらん」
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12月6日
・午後2時、第3軍、旅順港内砲撃開始。戦艦「レトゥイザン」「ベレスヴェート」撃沈。造船所・工場破壊。
7日、巡洋艦「パルラーダ」・戦艦「ポビエタ」に命中、両艦は着底。
8日、巡洋艦「バヤーン」が着底。
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12月6日
・三越呉服店(株)設立。本店東京。21日開業。
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12月6日
・ルーズベルト大統領、年次教書で「モンロー主義の系譜(コロラリー)」発表。
「西半球の諸国の失政に対しては国際警察力として行動せざるをえない」と宣言。カリブ海諸国への干渉主張。ルーズベルト・コロラリーとよばれる。
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12月8日
・政友会原敬、密かに桂首相と会見(第1回秘密交渉)。3時間。
桂は、戦後在職するなら政友会と連立、辞職すれば西園寺を後任推薦すると約束。
「桂園時代」(桂・政友会提携し、桂・西園寺が交代して政権掌握)が始まる(「大正政変」迄)。
第21議会での政府予算案に対する憲政本党の削減要求は政友会の3倍、桂は政友会と連携する考え。
原は、政友会の議席数が過半数を下回るため、政府との連携か憲政本党との連携かを冷静に判断する必要あり慎重な対応。
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12月8日
・東京電気鉄道お茶の水~土橋間開業。外濠線。
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12月9日
・旅順艦隊全滅。戦艦「セヴァストポリ」、駆逐艦6隻、旅順港脱出。要塞近くに隠れる。
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12月9日
・総参謀長児玉源太郎、旅順発。総司令部に戻る。
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12月9日
・白仁武栃木県知事、谷中村買収案提出。
翌10日、栃木県会(秘密会)可決(賛成18、反対12)。谷中村滅亡の第一歩。
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12月9日
・関西鉄道会社、南和鉄道会社を合併。
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12月10日
・ロシア、生理学者パブロフ、ノーベル生理学・医学賞を受賞。
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12月10日
・セルビア、ニコラ・パシッチが初めて首相に選出。第1次パシッチ内閣発足。反オーストリア的国粋主義政府。
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