2015年5月19日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(67)「アルバ公爵夫人登場」(2) : 『アルバ公爵夫人像』(『白衣のアルバ女公爵』) 「描き手がモデルを画布に吸い寄せたのではなくて、描き手がモデルに吸い寄せられたのでは、作品は、心ここになし、ということになってしまうであろう」

ゴヤ『アルバ公爵夫人像』
(『白衣のアルバ女公爵 / Retrato de la duquesa de Alba』)1795
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ゴヤはいつ頃からアルバ家の人々と知り合いになっていたか
 「・・・エスケーラ氏などは・・・、一七八〇年代、ゴヤがタピスリーのカルトンを描いたり、オスーナ公爵家の壁を飾る風俗画を描いていた時代にまでさかのぼっている。そうしてたとえばカルトンの『葡萄摘み』、『目隠し遊び』、オスーナ家の『落馬』、『プランコ遊び』などに描き込まれた公爵夫人像を見ている。
しかしこれには何の証明もない、特に大貴族と知り合いになることについてあんなにもお喋りなゴヤの側からの発言が、まったく記録されていないのである。
けれども、おそらくは相当に早い時期に、マリア・テレーサの母の第三番目の夫、サラゴーサ出身のピニャテルリ・フエンテス伯爵を通じて往来があったであろうことは推察がつく。また彼の早い時期の庇護者であった、オスーナ公爵家のサロンで知り合いになったであろうことも推察して誤りはないであろう。
それにしても、王室用のタピスリー・カルトンやオスーナ家用の風俗画に、相共に対立関係にあるアルバ公爵夫人を描き込むとなると、疑問はのこる、如何に彼女の挙動の一つ一つがマドリードの話題の中心でありつづけたにしても。
前者については、王室用だろうが何だろうが、ゴヤはそのくらいのことは平気の平左でやらかしたであろう、という推論が立つかもしれない。また後者については、如何にオスーナ、アルバの両公爵夫人が対立関係にあるとしても、こと王妃との敵対関係となると、これは只事ではないのでそこに連帯感があった筈である、という推論も成り立つかもしれない。」

向う(アルバ公爵夫人)から近づいてくるのをじっと待つゴヤ
 「・・・一七九五年の手紙、そこにはじめてアルバという名があらわれるのであるが、その手紙の調子も、「君よ、ぼくのところに来て、アルバ夫人を描くのを手伝ってくれたらいいんだが。彼女は僕のアトリエに入り込んで来て、顔を描けって言った」というこの調子は、友人にその関係の親密さを見せびらかすところがないではなく、ずっと前からの知り合いであることがほのめかされているであろう。少くとも注文はずっと早くうけていたことは明らかである。
おそらくゴヤは、この奇矯なところのある夫人を、遠くから、また近くからずっと注目して来ていたものであろう。けれども、・・・向うから近づいて来てくれるまでじっと待っていたものであろうと考えられる。なぜか?
いかにこの公爵夫人がマドリード社交界を代表する女性であるとしても、彼は王と王妃付きの宮廷画家であり、また早くからオスーナ公爵家の庇護をうけて来た。慎重でなければならぬ、と彼の世間智は彼に教えた筈である。事実、オスーナ家からの注文は、断続的に十数年にわたってつづくのである。ここで自分からアルバ家の御機嫌を伺いに行ったりして、前二者との親密な関係を台なしにしてはならなかった。
・・・
アルバ公爵夫人は、早く注文を出してあるのに、なぜゴヤはさっさと伺候をして来ないのであるかとばかり、持ち前の自由不羈さを発揮して自分からアトリエへ押しかけて来たものであろう。・・・。
しかも彼は、この注文を、夫の公爵の方からさばいて行く。教養深く音楽演奏をたのしみにし、穏和というよりは柔弱なこの公爵は、おそらく彼の好みに合うような人物ではなかったであろうが、そこに、世間に対する慎重で、注意深い目配りを見ても誤りではないであろう。・・・。」

ゴヤ『アルバ公爵夫人像』1795
 「制作年代と署名の入ったアルバ公爵夫人像は、二枚ある。前者は一七九五年、後者は一七九七年のものである。しかしこの二枚は、二枚ともにまことに見ることのむずかしい作品である。」

 「さてこの第一三代(不吉な数である!)アルバ公爵夫人、ドーニャ・マリア・デル・ピラール・テレーサ・カイェターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレドの肖像画(当時三三歳)は、現アルバ公邸二階の接見室に掲げてある。かなりに大きなもので、一・九四メートル×一・三〇メートルである。この絵と向いあった壁には、ベラスケスの王女マルガリータ像が掲げてあるのであるが、可愛らしい、・・・。これに比べると、公爵夫人像は、いっそ貧相で画中の夫人も硬直して突っ立っているだけである。」

 「この、床も天井も家具類も、すべて一八世紀そのままの宏壮な接見室には、このほかにティツィアーノの第三代公爵像をはじめとして、ヴェロネーゼ、ベルリーニ、アンドレア・デル・サルト、ラファエロ、レオナルド派のもの、レンブラント、ブリューゲル、ルーベンス、グレコ、ムリーリォ、スルバラン、メングス等々、あたかも西欧美術史そのものを見るかのような観を呈している。・・・」

 「以前から、私は複写でこれを見ていたときからこの一七九五年の夫人像は、著名ではあるけれども、ゴヤの数々の肖像画中でも、三流の作品ではなかろうかと思いつづけて来たのであったが、それがベラスケスやティツィアーノの力添えであかしだてされるとは思いがけぬことであった。」

描き手がモデルを画布に吸い寄せたのではなくて、描き手がモデルに吸い寄せられたのでは、作品は、心ここになし、ということになってしまうであろう
 「ここに立っている、長い、腰まで届く黒髪と、裾に金の縁どりのある白の紗の服をまとい、赤の綬をつけ帯で腰をきつく締めつけた夫人 - 黒、白、赤、金の色彩対比は見事なものであるにしても、その肢体自体が硬直していて、あたかも瀬戸物の人形のようである。
顔は眼がへんに窪んでいて生気が感じられない、活潑すぎるほどに活潑な夫人な筈なのに。
しかし、かたくなったのは夫人の方なのではなくて、描き手のゴヤ自身だったのかもしれない。描き手がモデルを画布に吸い寄せたのではなくて、描き手がモデルに吸い寄せられたのでは、作品は、心ここになし、ということになってしまうであろう。
・・・
それはゴヤにとっては珍しいほどのものである。彼の心に、ある深い動揺があって、モデルはでくの坊の人形になってしまった、と私に見えるのである。」

フランス革命とともに、服飾の世界にも革命が来ていたのである
「この絵で、私どもの注目をひくのは、彼女が長い髪を三つに分けて、後頭のそれは自然なままに背に垂らしていることである。カツラもかぶっていないし、髪粉もふってはいない。髪だけは、少くとも〝自然に帰って〞いる。もはやあの大袈裟な、ボンテーホス夫人や王妃がかぶっていた飾り帽子もない。フランス革命とともに、服飾の世界にも革命が来ていたのである。
夫人の着ているものも、以前の女性たちの、ごてごてとしたマリー・アントアネット風な服ではなくて、比較的に簡素な服装にも注目をしていただきたい。パリでの政治動向が、ロベスピエールの失脚にともなって、次第に国民議会の解散、総裁政府の成立へと向っていたときの、後に”ディレクトアール風”と言われたファッションを、このアルバ公爵夫人は、いち早くパリから取り寄せてそれを着ているのである。
パリで革命が起ころうが何が起ころうが、パリのファッションがファッションそのものなのである。」

「ひょっとしてこの公爵夫人像は、当時のマドリードの政治的ムードを巧まずして表現しているものであるかもしれない。
もしそうであったとしたら、この平板な肖像を描いたゴヤは、まことに転んでもただでは起きぬ男、ということになるであろう。」

事実としてこの夫人が軽い結核症状をかくしもっていたことをも描き出していると言えるかもしれない
「そうしてもう一つ、この夫人の在り様の全体、特に窪んだ眼に生気がないことなどから感じられて来る、どことなく虚弱でひよわな要素 - それは〝活潑な″と言われている在り様を裏切るものである - は、事実としてこの夫人が軽い結核症状をかくしもっていたことをも描き出していると言えるかもしれない。それも画家においての怪我の功名のようなものであったかもしれない。
彼女は、ゴヤが一七九三年にカディスで業病に苦しんでいたと同じ頃に、一時症状が悪化して病臥をしていたのである、従ってこの肖像画は、病後の、恢復期のそれにあたる。」
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