2016年3月12日土曜日

元亀4/天正元年(1573)8月16日~9月6日 越前一乗谷攻略 朝倉義景(41)自刃 朝倉家滅亡 近江小谷城攻略 浅井長政(29)自刃 [信長40歳]

上野公園 2016-03-03
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元亀4/天正元年(1573)
8月16日
・信長、多胡宗右衛門尉(近江国土豪)へ、旧領安堵・新知給与は磯野員昌より通達すると約し、更に山々破城を命令(「田胡家由来書」)。
信長、越前河野浦・今泉浦・赤はけへ全3ヶ条の「禁制」下す(「西野文書」)。
木下祐久、木下秀吉の取次を以て越前敦賀郡西福寺は安堵された旨を通達(「西福寺文書」)。
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8月17日
・織田勢、木ノ芽峠越え越前侵入。
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8月18日
・一乗谷城下、平泉寺衆徒に放火され、一族の館・仏閣全焼。
平泉寺僧衆は信長へ忠節を誓い、織田勢に人数を出す。
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8月18日
・信長、府中龍門寺(武生市)着陣。
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8月19日
・ポーランド代表団、パリに入城。ボズナン司教、ラドジヴィル 大公(ポーランド宮廷の最高元帥)他。
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8月19日
・朝倉景鏡、東雲寺、義景に六坊賢松寺への移動勧める。
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8月20日
・越前一乗谷攻略
景鏡が突然裏切り、兵200を六坊賢松寺へ向け、義景主従を囲む。
朝倉義景(41)、自刃。広徳院ら殺害。朝倉家滅亡。

信長に降りた朝倉景鏡・景健・景盛・景泰・溝江長逸・魚住景固など本領安堵・新知行を宛行。
越前全域は前波吉継が守護代として統治。一向一揆を刺激しない布陣。
明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益3人衆をおく。新たに江北においた羽柴秀吉と若狭の丹羽長秀が越前を監視する。

越前は、一向門徒が多く、朝倉氏とも度々戦火を交えるが、織田軍に対抗するため和睦し共同戦線を構築してきた。
信長が引き上げると、朝倉旧臣の勢力争い(特に守護前波吉継と府中の冨田長繁)が勃発、これを引き金にして、越前全土で織田軍と越前一向門徒の凄惨な戦いが展開。
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8月21日
・北条氏政、上野へ進入。
上杉謙信、関東諸将の要請により越中から帰国し、関東出陣準備をすすめる。
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8月22日
・フランス、シャルル9世、アンジュー公アンリを後継者に任命。
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8月23日
・信長、鷲田三郎左衛門尉に当知行に任せて450石を安堵。

これを初見とし、以後10月8日橋本三郎左衛門に6石、大野郡折立称名寺佐々木蔵人に7石の安堵まで、信長朱印状で「本知」支配が武士・寺社に認められる。
信長の支配は、越前内の朝倉氏旧臣・寺社がそれまで支配していた知行分を「本知」として安堵することを原則とする。
この本知安堵の信長朱印状は、明智光秀等3人衆が審査の後、信長に下付が申請。
信長は、本領安堵に際して知行高100石につき黄金8両を徴収、寺社の多くが仏具などを売却してこれを調達と伝えられる(「朝倉始末記」)。
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8月24日
・降伏した朝倉景鏡、府中龍門寺織田本陣に出向く。
義景の首と母・妻・男子である光徳院・少将・愛王の身柄を引き渡す。光徳院と愛王は丹羽長秀により南条郡の帰の里で殺害(「越州軍記」)、5代100年の朝倉氏直系は断絶。
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8月26日
・信長、朝倉氏旧臣の前波吉継(前年服属、のち桂田長俊と改名)を守護代にして越前統治を任せ、江北虎御前山城帰陣。

旧臣冨田長繁を府中城主、直前に降伏した朝倉景鏡・景健・魚住景固・溝江長逸も本領安堵。
越前には吉崎道場もあり、一向一揆蜂起の可能性もあるため、ひとまず旧臣に任せて様子を見る。但し、浅井制服後は、越前の押えとして、北近江に秀吉、若狭に丹羽長秀をおく。

守護代前波長俊の支配
長俊の支配権の最も重要なものは、朝倉義景の直接支配地と信長の敵対者から没収した所領に対する管理権。
朝倉氏時代に郡司の支配下に置かれていた敦賀郡・大野郡には支配権が及びにくい。大野郡では9月末に元郡司朝倉景鏡が大野郡から美濃郡上への荷物運送を禁止しており、景鏡の大野郡支配が認められていたとわかる。
長俊の支配権としては、信長朱印により確認された本知における給人・百姓の年貢についての抵抗を排除すること、寺社の末寺・門徒支配を安堵し、末寺領からの本寺への上分米納入について本寺と末寺の交渉を仲介し裁定することなど。

信長、越前井川村・敦賀西福寺・別印村千福氏知行方・惣社大明神並び社家・御廉尾村・滝谷寺・称念寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
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8月27日
・近江小谷城攻略
(~29日)秀吉、小谷城京極丸(長政の本丸と久政の小丸との間の曲輪)を攻撃、浅井久政・長政の連携を遮断。
最初に浅井久政居城(小谷城山王丸曲輪)を攻略。
夜、久政、自刃。秀吉は久政首級を虎御前山の信長へ届ける(「信長公記」巻6)。
28日、浅井長政へ最後の降伏勧告。お市御前と息女預けられる。嫡男万福丸(10)は敦賀へ落延び(後、関が原で処刑)。嬰児の2男は城下の寺院に預けられる。全軍攻撃。
29日、長政(29)、自刃。
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9月
・上杉謙信、水越氏・一揆勢の立て篭もる滝山城を攻略。
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・丹羽長秀、若狭小浜長源寺と遠敷郡滝村に禁制を掲げる(「長源寺文書」)。朝倉滅亡後の若狭の混乱を鎮めるため。

朝倉氏滅亡後に若狭に帰った武田元明は、朝倉氏と結んだことを理由に信長に殺されようとするが、旧臣粟屋勝久・熊谷直之の嘆願により許されたという。しかし元明が旧臣を従え武田氏を再興することは許されず。
武田氏旧臣は信長家臣となり、若狭衆と称されて長秀の与力とされる(長秀が遠敷郡、粟屋勝久・熊谷伝左衛門が三方郡、逸見昌経が大飯郡について大きな勢力を持つが、長秀が若狭衆を与力として軍事的に支配する権限を有しており、若狭衆の所領について支配することがある)。長秀は近江佐和山城を本拠とし、武田氏旧臣など若狭国侍を与力として軍事的に指揮する権限を信長より認められる。

この後も長秀は、柴田勝家滅亡後の天正11年4月末越前転封まで、遠敷郡の西福寺・羽賀寺・長源寺の寺領安堵、遠敷郡金屋の鋳物師に対する金屋職の安堵、小浜の豪商桑村氏の船・家についての課役免除、武田氏旧臣の白井氏に遠敷郡賀茂荘の代官職の安堵などを行う。長秀は遠敷郡統治の権限を持ってことがわかる。
但し、信長より所領・所職として認められた地を持つ国侍は、その地に領主としての支配権を行使している。武田氏有力家臣山県秀政、天正元年12月、遠敷郡谷田寺領を安堵、同8年、税所領常満保福同名の名主職を妙楽寺僧に補任、など。

長秀の農民支配は武田氏時代のありかたを踏襲。丹羽長秀時代の指出と武田氏時代の大永5年(1525)の指出を比較すると、基本的に大永5年の時の分米・本役米・反銭が維持されている。
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9月4日
・織田勢全軍、佐和山城入り。柴田勝家に命じて鯰江城を攻めさせ、六角(佐々木)承禎を追う。
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9月6日
・織田勢、小谷城に羽柴秀吉を入れ、浅井氏旧領の江北3郡支配(「江北浅井跡一職」)を任せ、岐阜凱旋。

この時点で残っている討伐対象となる将軍方の残党。

近江 志賀郡山中 磯貝久次
山城 勝龍寺城 石成友通(いわなりともみち)
    静原山城 山本対馬守
    一乗寺城 渡辺昌
大和 多聞山城 松永久秀・久通
河内 若江城 三好義継
摂津 池田城 池田重成
    伊丹城 伊丹忠親
    川辺郡多田 塩河長満
丹波 桑田郡宇津 宇津頼重
    八木城 内藤如安
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9月6日
・信長、近江竹生島宝厳寺へ、「青葉之笛」「小笛」は返還予定であるが、由来(誰が「寄附」したのか)調査し記録を提出するよう命令。また静御前所持の雷の蒔絵がある小鼓の披見を要求。詳細は磯野員昌が伝達(「竹生島文書」)。
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