2017年8月4日金曜日

明治39年(1906)9月 日刊『平民新聞』発行計画 関東総督府廃止、関東都督府となる 東京市電値上反対市民大会、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決 木下尚江・石川三四郎、田中正造を応援 幸徳秋水が郷里より戻る  

横浜 港の見える丘公園ローズガーデン
*
明治39年(1906)
9月
・西川光二郎「改革者の心情」発禁。
*
・吉野作造「支那人の形式主義(再び)」(「新人」)。
革命・暴動により天下は乱れるのみ、「結局外国勢力に依って僅かに納まるものとおもわれる」。革命運動に無理解、日本の対中国政策にも無批判。
吉野(既に娘3人の子持ち)、この年より3年間中国で生活(直隷総督袁世凱の息子克定の家庭教師)。
*
・この月頃から日刊『平民新聞』発行の計画がもちあがり、新たに平民社を京橋区新富町6丁目7番地(現・中央区新富2丁目)に設置することになる。事務所は、新富座の隣にあった廃業した芝居小屋を借り受けた。
日刊紙を出す話は、弘前の裕福な竹内兼七という資金提供者が出現したことで急に具体化した。竹内は『新紀元』を刊行していた西川光二郎に、『新紀元』を日刊化することを提案する。西川は堺と秋水に相談し、それなら『新紀元』と『光』を合同して、日本社会党の事実上の機関紙として一本化しよう、ということになった。
「階級闘争論」をめぐって一時は堺と論争をした石川三四郎は、この新しい平民社の創立人として加わった。
しかし、木下尚江は心境の変化を理由に社会主義運動から退き、『新紀元』からも抜けて、群馬県の伊香保の山中に隠遁してしまう。
*
・噺家・社会活動家高松豊次郎、風刺喜劇短篇「社会パック活動写真」を公開。千葉吉蔵撮影。
*
・正宗白鳥(28)「旧友」(新小説」)
この年、正宗白鳥は数え年28歳、「読売新聞」記者になって4年目。
はじめ美術、文芸、教育に関する消息記事を書き、明治37年から劇評も書いたが、その年11月、「新小説」編輯主任後藤宙外にすすめられて、初めて短篇小説「寂莫」を「薪小説」に発表した。
彼は学生時代に友人について田山花袋を訪問したことがあり、以後時々花袋を訪ねて、ヨーロッパ文学の智識を得た。
明治38年、花袋や柳田国男のグループの作っていた龍土会に加わり、そこで岩野泡鳴らの文士と交際するようになった。
明治38年~39年、漱石が諸作を発表し、島崎藤村の「破戒」や国木田独歩の作品が注目を浴びるようになり、文壇に新機運の起るきざしが濃厚になり、彼も創作に対して積極的な気持ちが湧き、幾つかの小説を発表した。
この年、「新小説」2月号に「破調平調」を、9月号に「旧友」を書いた。
*
・東洋硝子製造株式会社創立(大阪)。日・英・仏・ベルギー4ヵ国の共同出資。1909年2月解散。
*
・富士瓦斯紡績、東京瓦斯紡績を合併。
*
・王子製紙、北海道苫小牧に工場新設を決定。資本金600万円に増加。
*
9月1日
・関東総督府を廃止、関東都督府となる。
都督は大島大将引継ぎ、陸軍部設置。

「関東都督府官制問題」:
陸軍(都督府)・外務(在満領事)の対立を惹起。都督は陸軍大・中将が親任され、政務は外務大臣、軍政、軍人人事は陸軍大臣、作戦・動員計画は参謀総長、軍隊教育は陸軍教育総監の監督をうける。特別委任事項として、都督は外務大臣の委任により清国地方官憲との交渉できることになるが、在満領事の権限を強化しようとする外務省と対立。
*
9月1日
・清朝光緒帝、預備立憲を宣示し、数年後に立憲政治の実現を宣言。
*
9月1日
・大連港を自由港として開放。大豆・石炭などが積み出され、絹布など工業製品が荷卸し。
*
9月1日
・韓国統監府機関誌『京城日報』、創刊。
*
9月1日
・第2回水産博覧会開催(神戸市、~11月30日)。
*
9月1日
・(露暦8月19日~07年8月20日)野戦軍法裁判、ストルイピン主導で実施。革命弾圧。
*
9月1日
・英領ニューギニア、オーストラリアの管轄下に置かれる。パプア(元のポルトガル語による名称)に改称。
*
9月1日
・有島武郎、アメリカを去る。この日、ニューヨーク発。
9月10日、ジブラルタル、13日、ナポリ着。ナポリでは弟の壬生馬が出迎え、家からの手紙や家族の写真を彼に見せた。彼は壬生馬と共にナポリの見物をし、それ以後、イタリア各地を歩く。日記も壬生馬と交替で書くことにした。
ローマにしばらく滞在し、10月21日、アシジやフローレンスを経てヴェニスへ出発。壬生馬は1年半ほど住んだローマを去り、兄とともにヨーロッパ旅行をすることになった。
10月29日、ヴェニス着。11月12日、ミラノを経てシンプロントンネルを抜け、スイスのローザンヌに着く。
そこからジュネーヴに行き、11月23日まで滞在。
*
9月5日
・諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。
議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。
裁判は一審と二審は無罪判決。しかし、検事局が上告し、再審が行われたのは1908年の赤旗事件の後。結果、赤旗事件で有罪判決を受けた被告たちは、有罪を宣告された。
*
9月5日
・堺利彦「基督教に対する予の態度」(「光」第30号)。宗教と社会主義を対立的に捉えない。
*
9月9日
・木下尚江、田中正造の鉱毒事件の運動の応援に石川三四郎と出かける。

この頃、渡良瀬川事件はいよいよ末期的な状態に追い込まれていた。
渡良瀬川に流れる足尾銅山の鉱毒問題を解決する方針として、政府は渡良瀬川と思川の合流点の窪地に当る谷中村を買い上げ、そこに貯水池を設けることとした。そして、立ち退きに応じない住民の生活を不可能にするために、隣接の赤麻沼に面する堤防が壊れたのを修理することを禁じ、谷中村を窮地に追い込んだ。村民はその堤防を自力で修理したが、官憲はそれを取り壊そうとしていた。
谷中村が犠牲になれば、附近の他町村は鉱毒の水害から安全になるので、同じ鉱毒に悩む他の町村もこのときは谷中村を助けようとしなかった。
田中正造は、この村を救うことにその努力を集中し、明治37年7月からこの村に住んで政府、県当局、古河方に抵抗していた。

木下は社会主義運動に絶望しかけていたが、田中正造の現実的な運動に対しては深い関心を持っていた。田中は何度か入獄をくり返しているうちに、獄中で聖書を読み、自己流のクリスチャンになっていた。

このとき演説会は、栃木県佐野町で開かれた。
田中は、谷中村と赤麻沼の間の堤防を論じ、聴衆は熱狂して盛んな拍手が起った。しかしそのあとで現実にその谷中村を見に行く志願者をつのった時、1人も応ずる者がなかった。

田中の次に演説することになっていた木下は、それを知って、憤懣に耐えなかった。
彼は喋り出し大声で聴衆を罵倒した。
「あなた方は一体何を見に来たのだ。わが田中正造は、口稼ぎの大道芸人ではないぞ。あなた方は同郷の偉人を見殺しにしておいて、手ばかり叩く軽薄漢!」
そう言って彼は演壇を下り宿に帰ってしまった。
聴衆は、木下が酔っぱらっていると言って非難した。

翌日、石川三四郎と木下尚江は田中正造に連れられて、佐野町から1里ばかりの、田中の故郷小中へ行き、その生家を見た。
尚江が社会党にあきたらなかったところは、ただ爆発的に騒いだり、実行の伴わぬ革命理論を口にしているばかりで、渡良瀬川事件のような現実問題には積極的な援助の手を差しのぺないことにもあった。
*
9月9日
・奥宮健之・小林樟雄ら、労働党結成。
夜、両国館で「労働党創立兼電車値上反対演説会」を開催。
労働党は、3月31日に鉄道国有法が公布され、日本鉄道株式会社が国有に帰した際、労働者がその割当金にかんして不満をもち紛擾をおこしたのを支援するために、奥宮健之、岩本新吾、石井保男等が結成した。「我党ハ天賦人権ヲ全スルヲ以テ主義トスル」とし、自由党左派の系譜に立つものであった。
*
9月9日
・幸徳秋水、郷里より戻り、20日、大久保村百人町に居を定める。
*
9月10日
・満鉄株募集開始。10月5日募集締め切り。約1,078倍の応募(盛況)。
*
9月10日
・夜、社会党員15人、5方面からチラシを配り日比谷公園に集合。
*
9月10日
・戸川秋骨(35)、横浜港から出航、古画商の通訳としてアメリカに向かい、ヨーロッパ漫遊ののち、40年1月23日横浜港に帰着。
*
9月11日
・社会党、ボイコット大会が中止され、第2回市民大会に出席。錦旗館。
大会事務局、前回大会のボイコット決議を無視し、社会党(森近)発言を不許可。社会党退場。
ボイコット宣伝のかどで荒畑寒村、安成貞雄、堺婦人ら5名検挙。1夜留置。社会党ビラ「貧富の戦争」署名人山口孤剣起訴。
*
9月11日
・木下尚江(数え38歳)、社会主義を捨て秋水・堺と決別。
(この項、次回に詳述する)
*
*

0 件のコメント: