第7章 常照皇寺の九重桜(京都府)
2 今は力なく色褪せて
大雄山常照皇寺
大雄山常照皇寺のあるところは昔は山国村、現在は京北町と名が変わり、同町井戸字丸山に所在する。タクシーは道から折れて参道入口に向かい、山の斜面を一〇〇メートルほど登ったところで止まった。
そこから幅の広い、ゆるやかな石段の坂道がまっすぐにのびている。脇にはもう一本、細い道があって、か細く林の中に消えていた。
この森の中の道をのぼり切ったところに寺の開祖、光厳(こうごん)天皇の陵(みささぎ)がある。山国陵である。実は陵には光厳天皇のほか後花園天皇、後土御門天皇(御分骨)も葬られている。
「常照皇寺の九重桜」はこの光厳天皇ゆかりの伝承を持つ桜である。
光厳天皇:北朝初代天皇に擁立される
桜の話に入る前に、光厳天皇の御生涯にふれておこう。
天皇は御名は量仁、後伏見天皇の第一皇子。御母は広義門院寧子。御誕生は正和二年(一三一三)。
ところが時代は南北朝の動乱期にさしかかる。鎌倉の北条執権政府に推されて量仁親王は嘉暦元年(一三二六)皇太子となった。やがて天皇となられるべきところだが後醍醐天皇はこれを拒絶、三種の神器を持ち、京都を脱出、動乱が始まった。
元弘元年(一三三一)、北朝年号だと元徳三年、北条高時に擁立されて践祚、翌二年、即位、光厳天皇となられた(北朝初代)。
退位、そして上皇
ところが次の年、北条執権政府は倒れ、後醍醐天皇による建武中興なり、退位させられる。
そのうち足利尊氏が勢力を盛り返し、建武中興は崩壊、光厳天皇は都にもどって上皇となられる。
かくて、しばらく”北朝”が続くも、争乱二〇年目に”南朝”が勝ち、光厳は没落して河内、大和を転々とする。そのうち南朝が力を失ったおかげでやっと京にもどることができた。
出家、常照皇寺創建、死去
しかし、こんどは御当人がつくづく世俗がいやになり、禅僧、無範和尚と名をかえて、丹波の山中、山国郷に移り住むことにされ、鎌倉時代創建の成就院(天台宗)を臨済宗天龍寺派の禅寺として改め、常照皇寺を創(そう)されたのである。かくて貞治元年(一三六二)、この地に隠棲された。ちなみに貞治は北朝年号。それよりわずか二年後の貞治三年(一三六四)七月、光厳は崩御された。波乱に満ちた生涯であった。光厳は火葬に付され、寺の裏山に葬られた。これが山国陵である。
光厳天皇遺愛の桜と伝わる九重桜
九重桜は数奇なる運命にもてあそばれた、この北朝初代、光厳天皇が御隠棲の折、お手植えされ、遺愛の桜であると伝える。
山門をくぐり、・・・開山堂と方丈の前にある庭に入る。
とたんに、視界いっぱいに飛び込んでくる満開の桜の光景。
広い庭がそれこそ淡いピンク色に染まっている。心に描いていた「雅」の世界をい違実にこの目で確かめている、そんな思いでいっぱいである。
よく見るとと庭には桜の木がほんとうは四本もある。このうち、入口近くの一本はかなりの古木であるが、ずいぶんと遅咲きらしく、まだかたいつぼみである。
方丈の縁側に近く一本ある桜は山桜である。これはそれほどの大木ではない。
庭の前方は切り立った暗い谷になっていて、その斜面に沿っては薮椿が咲いている。谷の縁に沿って道が作られ、開山堂前、谷側寄りに、大小二本のしだれ桜がある。
入って手前の一本は割と若木であるが、奥の方の一本は主幹に大きな空洞ができ、明らかにそれと分る長い年月を経た巨木である。私が尋ねきた常照皇寺の「九重ザクラ」はそれであった。
国の天然記念物
昭和十三年八月、この桜は国の天然記念物に指定された。
当時の調査資料によると根元の周囲約四・六メートル、目通りの幹囲約四メートル。東方の枝は七、八〇年前(但し指定当時現在)、位牌堂が火災になったとき、一部を消失したため短くなったと伝える。
根元からの枝張りは東へ約四・七五メートル、西へ約四・六八メートル、南へ約七・九メートル、北へ約七・六五メートル、木の全体の高さ約八メートル。
繊細なしだれの細枝は先端がほとんど地に接するばかりで、独特の樹形美をなしている。かように枝張りが大きく、しだれが長く、まさしくシダレザクラの名木として見るべきものであるので天然記念物指定となった、とある(文化庁文化財保護部監修『天然記念物事典』第一法規刊、昭和五〇年二六一頁〉。
「九重」の由来
さて、昔、中国の王城は門を九重に造る制であったという。禁中、皇居のあるところを「九重」と呼ぶのもそれによるといわれる。「九重桜」と称するゆえんもそれであろう。悲運の運命にもてあそばれつつも、なお気高く生きようとされた光厳の御遺志がこの桜の美しさに乗り移ったかとも感じられる。伝えるところでは光厳は当代、第一級の教養人でもあったという。
樹齢630年と410年
先述のように、この桜は光厳ご隠棲の折のお手植えと伝える。すると樹齢は約六三〇年となる。
ところが、天正七年(一五七九)、この寺は明智光秀の焼打にあって焼け落ちる。
桜の木も実はこのとき一緒に焼けたはずであって、いま眺めている桜は、天正七年の際、焼け残った桜の根株より生えでたヒコバエが生長して巨木となったものであろうと推定されている。すると推定樹齢約四一〇年ということになる。現在、植物学者は後者の樹齢を採用、寺院側は焼けたとしても、もとの命は最初からのもの、という見地から六三〇年説を採る。
「常照寺」と「常照皇寺」
ここでつまらぬ話を一つ。
先の『天然記念物事典』をはじめ、他の一、二の文献をみても、寺と桜の名称を「常照皇寺」とはせず単に「常照寺」としているのだ。しかも寺の庭に立つ石碑までもが「常照寺の枝垂桜」と彫ってある(昭和十四年建立)。
なぜこんな奇妙なことになったのか。
幕末、尊皇撰夷に燃える水戸史観の立場からは、南北朝の天皇にたいし、南朝を正統とし、北朝を偽朝とした。この論理はいうまでもなく南朝方、北畠親房の『神皇正統記』に根拠をおくものである。明治維新後、新政府見解も当然これに従った。明治四四年三月、政府は、北朝の光厳、光明、崇光、後光厳、後円融の五天皇を歴代天皇の系譜から削ってしまった。しかし、周知のように明治天皇は北朝系の血統である。そこで、五天皇の御陵、祭祀については従前どおり、として手をつけぬことにしたのである。これによって山国陵は無事残ることになったけれども、問題はその後である。
軍国主義の足音高い昭和十年代、北朝の天皇ゆかりの「常照皇寺」が「皇」の文字を用いるのはけしからんというとがめを受けて、寺側は役所へ提出の公文書類等すべてから「皇」の字を外し、単に「常照寺」としたのであった。
奇妙な話の原因は、実はそこにあったのである。名称が「常照寺」から再びもとの「常照皇寺」へと戻ったのはなんと戦後の昭和五六年以降なのである。
「九重ザクラ」の二世
「常照皇寺の九重ザクラ」に並ぶもう一本のしだれ桜は、実は「九重ザクラ」の二世で、桜守で知られた先代佐野藤右衛門(十五代)が実生から育て、二〇年昔に、氏より寺に贈られたものという。
「九重ザクラ」にも、これでやっと後継ぎができたわけである。
「御車返(みくるまがえ)しの桜」
方丈前にもう一本咲く満開の山桜は、これまた曰くがあって京都御所にある「左近の桜」を株分けした由緒ある木で、樹齢は約一五〇年といわれる。
最後に、入口近くにあるまだつぼみの「御車返(みくるまがえ)しの桜」であるが、これはその昔、後水尾天皇がこの桜を賞でて退所されようとしたけれども、あまりの美しきにもういちど車を返され、よくみたら一重と八重の花が一枝に咲いていたのでこの名が興ったと伝える。
こちらの方は樹齢約四〇〇年といわれる。
昨年秋の台風被害を受けて、今は樹勢の衰えが目立つ。
花が美しかったのも戦後の昭和四〇年頃までで・・・
あらためて「九重桜」の前に立ってみた。優美ではあるが、あまりにも年を経ているからであろうか、残念ながら木には力が感じられない。そればかりか花の色も心なしか色禎せてみえる。
そういえば先ほどの運転手が私にいった。
「昔の九重桜は、そりゃあすぼらしいものでしたよ。京都の円山公園のしだれ桜か、それともこの九重桜かといわれたものですからね」と。運転手は六四、五歳。山国生まれ、山国育ちだという。「子供の頃から何十回となく九重桜はみているが、花が美しかったのも戦後の昭和四〇年頃までで、それ以降はまったく活力を失いましたよ」と嘆く。
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