2024年12月16日月曜日

万寿4年(1027)12月4日 入道前摂政太政大臣従一位、藤原道長(62歳)歿

江戸城(皇居)二の丸雑木林 2013-05-23
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万寿4年(1027)
6月13日
「興昭阿闍梨が云(い)ったことには、「すぐに危ない様子はありませんでしたが、未だ日没に及ばない頃、(源俊賢が)入滅しました」と云うことだ<69歳。員外帥(源高明)の遷化(せんげ)も69歳であった>。」(『小右記』万寿4年(1027)6月13日条)
11月
・道長の危急はもはや明らかとなり、中宮の法成寺行啓があり、大赦がおこなわれ、修法・読経はあいついで各所に修せられた。
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11月10日
「夜に入って、中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「初め禅室(藤原道長)に参りました。はなはだ危急でいらっしゃいました。臥したまま、汚穢(おわい)が有りました。ところが心神は、通例のとおりでした」と云うことだ。」(『小右記』万寿4年(1027)11月10日条)
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11月13日
夜に入って、中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は増減はありません。昨夜、沐浴し、念仏を始められました。外の人は、その声を聞いて、上下の者が走り迷いました。・・・
「・・・『入滅されるということを思っている』と云(い)うことです。公家(くげ/後一条天皇)は、千人の度者を奉られました。関白(藤原頼通)は禅閤(藤原道長)の為に万僧供(まんぞうく)を行います」と。」
『小右記』万寿4年(1027)11月13日条
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11月21日
・道長の衰弱はさらに進み、飲食も絶え、くわえて背中に腫物を発し、意識も明確を欠くに至る。
「中将(藤原資平)が禅門(藤原道長)から来て云(い)ったことには、「時に従って、いよいよ危急です。無力は特に甚だしいものです。痢病(りびょう)は、数えきれません。また、背中の腫物(しゅもつ)が発動しました。・・・」
「・・・医療を受けません。あれこれ、多く危ないです。行幸の日を待つことは難しいであろうということについて、家の子が談ったところです」と。・・・」
「・・・「女院(藤原彰子)と中宮(藤原威子)がいらっしゃいました。ところが親しく見舞うことは難しいのです。汚穢(おわい)の事が有るからでしょうか」と云(い)うことだ。」
(『小右記』万寿4年(1027)11月21日条)
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11月24日
・道長が首を振る症状を呈した。
医師和気相成(すけなり)は、これを腫物の毒がまわったためで、容易ならざる事態と見た。
その夜半、道長は天台座主院源の勧めにより、阿弥陀堂の中央正面に座を移した。ここが彼の最後の座所である。
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11月25日
「早朝、(宮道)式光が云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は夜半、阿弥陀堂の正面の間に移られました。座主が催し申したからです」と。」(『小右記』万寿4年(1027)11月25日条)
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11月26日
・後一条天皇の法成寺行幸がある。
封戸500戸が寄進され、また、道長の家司2人の昇進が発表され、かれらは法成寺の塔の造営に従事することになった。
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11月29日
・東宮の行啓がある。
その夜、妻の源倫子は賀茂守道に陰陽道の招魂の祭を行なわせた。道長の体を離れてなかば浮遊している魂を、もういちど呼び帰そうとする。守道が祭を行なった時、人魂が飛来したといわれ、彼は褒美を与えられた。
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11月30日
「(和気)相成朝臣(あそん)が云(い)ったことには、「召しによって、御堂に参りました。背中の腫物(しゅもつ)は、針治を行うという決定が有りました。ところが今日は、忌みが有ります。・・・」
「・・・来月4日、病状に随って、瘡口(かさぐち)を開き奉るべきであるということを申しました。不覚の瘡の様子とはいっても、通常のようであれば、治りません。そこで延期を申しておきました」と。」
(『小右記』万寿4年(1027)11月30日条)
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12月1日
・夜、医師丹波忠明は道長の背のの腫物に針を立て、膿血を少し取り去ったが、もはやどうすることもできない。

『栄花物語』によれば、道長は立てまわした屏風の西側をあけて、九体の阿弥陀仏に面し、西向き北枕に臥した。これは釈尊入減の姿勢である。そして手には阿弥陀仏から引いた糸を取り、ひたすら仏を仰ぎ、念仏を唱えるのみであった。堂の内外では不断念仏がおこなわれ、瞬時も休まず念仏の声が響く。
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12月2日
「(宮道)式光が云(い)ったことには、「去る夜半の頃、禅閤(藤原道長)は(但波)忠明宿禰に、背中の腫物(しゅもつ)に針治を施させました。膿汁と血が少々、出ました。吟(うめ)かれる声は、極めて苦しい様子でした」ということだ。」
中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「禅室(藤原道長)は、同じようなものです。その頼みは、すでに少ないものです」と云うことだ。
(『小右記』万寿4年(1027)12月2日条)
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12月3日
・道長は一旦息絶えたかに見えたが、夜に入ってなお身を動かす気配を見せて生気を残し、4日寅の刻(午前4時)、ついに没した。
その後も上半身は冷えないというので念仏が続けられ、人々も決しかねたが生き返るはずもなく、そのまま、4日午前の死亡が確認された。

こうして、入道前摂政太政大臣従一位藤原朝臣道長は、その62年の生涯を終えた。

『栄花物語』は、「御目には弥陀如来の相好を見奉らせ給、御耳にはかう尊き念仏をきこしめし、御心には極楽をおぼしめしやりて、御手には弥陀如来の御手の糸をひかへさせ給」と描かれている。心乱れず念仏を唱えて亡くなることが極楽往生には必要とされていた。

「巳剋の頃、(宮道)式光が来て云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は、昨日、入滅しました。ところが、『夜に臨んで、揺れ動く気配が有る』と云うことでした。今日、寅剋、すでに入滅しました。・・・」と。」
「夜半の頃、中将(藤原資平)が伝え送って云(い)ったことには、「禅室(藤原道長)は入滅しました<62歳>。また、按察大納言(藤原)行成卿が、急に薨じました<56歳>」と。」
(『小右記』万寿4年(1027)12月4日条)

12月日7日夜、勅使差遣の中に彼の遺体は烏辺野で火葬に付され、翌8日、権左中弁藤原章信の首にかけられた遺骨は、藤原氏代々の墓地である木幡(宇治市木幡)に向かった。
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同日、藤原行成、没。

大殿道長が亡くなると、関白頼通は女院の意向をうかがいながら、実質的な一上であった実資らと相談して政務を決定している。

■道長の歴史的意義:仏教信仰の上で新たな時代の先駆け
道長は、摂関政治のあり方を確立したという政治史上の意義のほかに、文化的には、後宮文化・女流文学を支えたパトロンとしての役割は大きい。
また、宗教文化において独特な役割があった。
神祇祭祀では、大嘗祭御禊など後宮との関わりで新たな儀式をおこした。

仏教信仰の上では、新たな時代の先駆けとなった。
仏教信仰の中で道長のなしたことは、それまでの権力者がしなかった独自性があり、またのちの時代のように悪趣味に堕さなかった。
生涯に行なった造寺造仏など多くの作善は、それまでになかった新しいものが多く、道長の進取の性格がうかがわれる。

金峯山へ登っての理経は、蔵王権現信仰、弥勒下生信仰、法華経信仰など複雑な要素をもつが、道長にならって金峯山に理経した師通などに受け継がれ、やがて院政期には末法思想と浄土信仰と結びつき性格を変えながら、全国に多くの経塚の流行をみる。

また、道長は最晩年の治安3年(1023)10月、高野山に登り、自筆の金泥法華経1部と般若理趣経30巻を弘法大師御廟前で供養して、兜率天浄土への往生を祈った。
3年後の万寿3年には道長の娘上東門院彰子が落飾して御廟前に納髪した。
これは高野山奥の院の納髪納骨の最古の例であるが、道長の高野山参詣は、頼通(永承3年(1048))、師実(永保元年(1081)の参詣へ継承され、院政期には白河上皇、鳥羽上皇をはじめ貴族のさかんな高野山参詣と理経供養に続いていった。

木幡の浄妙寺は、一族の墓所に追善としての法華堂を建てたもので、自らの法華信仰を基礎にしていたが、院政期以降、葬堂としての法華堂の展開をもたらすことになる。

法性寺五大堂は、再建ではあったが、こののちの五大堂の建築様式の定着をもたらす。

法成寺については、まず無量寿院の九体阿弥陀堂が、康尚の阿弥陀仏の美術性もあり、のちの九体阿弥陀堂の濫觴(らんしよう)となる。
また薬師堂の七仏薬師、六観音、あるいは釈迦堂の釈迦像百一体などの群像彫刻が多く、これがのちに院政期になって、長承元年(1132)に鳥羽法皇が平忠盛の援助でたてた得長寿院の千体等身聖観音像、そして長寛2年(1164)に後白河法皇が平清盛とともに造った蓮華王院の千体等身観音像などの千体の群像という数量主義へ発展していった。

また法成寺金堂の三丈二尺の大日如来像など、巨大な仏像が造られたことも特徴である。

「法成寺とは実にこの究極目的-即ち造形・律動の経緯によって織り出される浄土変相の立体的表現を目標とし、あらゆる芸術部門を総動員して構成された美の一大体系であったと云うことができる」(家永三郎)。

そして、この総合芸術は、息子頼通のたてた平等院において完成にいたる。
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