神宮外苑 2014-12-02
*明治38年(1905)
1月16日
・伊藤整、誕生。北海道松前郡炭焼沢村。父昌整は広島県三次出身で、日清戦争に出征した後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡る。任地で結婚、土着して小学校の代用教員となる。日露戦争に従軍後、塩谷村(現在の小樽市塩谷町)の役場につとめ、同村に一家をかまえる。
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1月16日
・私立仏教大学、専門学校令により設立認可。龍谷大学の前身。
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1月16日
・(露暦1月3日)ロシア、ペテルスブルク、プチーロフ工場、朝8時迄に全員1万2800人スト。改めて12項目要求纏める(仲間の復職、「8時間労働制」「労働者委員会設置」、雑役夫(婦)の最低賃金、託児所設置、衛生状態改善など)。
2日目(17日)。連帯スト呼掛けるオルグ団。午後、機械造船フランス=ロシア工場2千、連帯スト。
3日目(18日)。大企業ネヴァ造船6千人含む4工場が連帯スト。政治的要求(憲法制定会議、市民的自由保障、戦争中止など)を含む請願書作成。リベラル派は資金、エスエルは爆弾の提供をガボンに約束。
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1月18日
・フランス、コンブ内閣総辞職。
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1月19日
・韓国、日本貨幣を法貨として国内に流通することを公認。
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1月19日
・この日、鴎外の母峰は観潮楼に不在の主人鴎外の誕生祝を開き、佐佐木信綱、上田敏、千葉鉱蔵、篤次郎、喜美子も会して、寄書を戦地の鴎外に贈った。
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1月19日
・(露暦1月6日)午前11時、ペテルスブルク、キリスト洗礼祭(祝日)、礼砲に誤って実弾2発撃たれる。
午後2時、ガボン宅で支部代表者会議。1月22日(月)午後2時に冬宮広場でペテルスブルク全労働者が請願書を提出すること決定。
・ボリシェヴィキ首都組織中心人物グーセフのレーニン宛手紙「神父ガボンは・・・最高級のズバートフ派」「ガボンは大衆を革命化した」。
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1月19日
・ドイツ、ヴェストファーレン炭鉱地帯、21万5千、閉山反対ストライキ。
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1月19日
・北海事件国際査問会、英露米仏墺、パリ、第1回公開会議。/2/25.決定。
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1月20日
・平民社・松崎源吉、足尾銅山の労働同志会に招かれて講演会。~28日。
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1月20日
・(露暦1月7日)ペテルスブルク、プチーロフ工場スト4日目。328工場10万5千人参加。ゼネスト状況。
・午後9時、メンシェヴィキ、全面的に行進参加決定。
・司法大臣ムラヴィヨーフ、ガボン呼出し、決裂。
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1月21日
・(露暦1月8日)ペテルスブルク、プチーロフ工場スト5日目。456工場11万1千人参加。
・ガボン、ツァーリと内務大臣スヴァトポルク・ミルスキーに親書・請願書届ける。
・午後、文化人150人集会。ゴーリキーら、内務大臣ヴィッテに陳情、不成功。
・政府は、首都・ペテルゴフ・レーヴェリ・ブスコフの軍隊を集め、市内要所に阻止線を敷く(歩兵1万2千・コザック騎兵3千・警官5千)。
ツァールスコエ・セローのツァーリは戒厳令を命じるが、政府はこれを撤回させる。
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1月21日
・米・ドミニカ、議定書調印。米はドミニカの負債返済実現のため負債額と支払法を調整しドミニカ税関を管理下に。この措置はドミニカ保護領化でなくその意図もないと公式に言明。
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1月22日
・川村景明大将司令官、鴨緑江軍編成。
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1月22日
・外相小村寿太郎、駐米公使高平小五郎に対し講和問題に関する日本政府の意見を米大統領に伝えるよう訓令。韓国保護権・遼東租借権獲得、満州は清国に返還、一時の休戦にとどまる条件には反対。
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1月22日
・週刊『平民新聞』第63号発行。
欄外に、「次号に注意せよ、読者諸君、願はくば本紙次号に注意せられよ、吾人は次号に於て、本紙の運命に関し、重大なる発表を為さんと欲す」と大書する。
「社会主義者に対する迫害とその効果」:政府に正面から抗議
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1月22日
・血の日曜日
(露暦1月9日)ガボン率いる労働者2万(4万6千、6~7万とも)、四方からペテルブルク冬宮へ請願行進。軍隊発砲。死亡1千以上、負傷2千以上。翌日、ロシア全都市で抗議スト。
午前9時30分、ネヴァ支部隊、出発。
午前10時、ネヴァ河畔シリッセリブルク通りでコサック奇兵隊がネヴァ支部隊に空砲発砲、抜刀して追い立てる。労働者は東岸へ逃亡。
午前11時30分頃、ガヴァン支部・ヴァシリエフスキー支部隊がニコライ橋のたもとで騎兵隊に追立てられる。
正午、ナルヴァ支部隊に対してナルヴァ凱旋門近くで発砲。一斉射撃5回。死者45、負傷61。
午後1時、トロイツキー橋北で合流しようとしたペテルブルク支部・ヴィボルク支部隊2万に対して騎兵隊が一斉射撃3回。騎兵隊が攻撃、労働者は四散。
同時刻頃、冬宮前広場(東の歌手橋付近と西の海軍本部前アレクサンドル御苑前)に群衆が集り、皇帝とガボンの出現を待つ。
午後1時30分過ぎ、兵士が海軍本部前の群衆を排除始める。
午後2時、ガボン出現の予定時刻。現れず。近衛中隊が海軍本部前の群衆に発砲。騎兵が歌手橋前の群衆を蹴散らす。
午後3時頃、海軍本部前の群衆、排除され始める。中央での虐殺、死者不明(マリヤ病院だけで56人)。
この頃、西のヴァシリエフスキー支部は支部近くにバリケード構築。
午後4時過ぎ~5時、バリケード鎮圧。犠牲者(官報)死者96・負傷333。(社会民主党ビラ)死者700、負傷1200。
・ゴーリキー「全ロシア市民及び全世界の世論に訴える」。予め仕組まれた殺戮。
・ガボン、落ち延びてゴーリキー宅を訪問。
午後8時、ゴーリキーと共に自由経済協会での文化人グループの集会に参加。
午後11時30頃、閉会しゴーリキー宅に戻り、で労働者への訴えを書く。後、海外に逃亡。明石大佐の工作にも関係する。政府の手先とみなされ革命的社会主義者党により暗殺。
以後各地にストが広まりワルシャワでもスト参加者に軍が発砲。
第1次ロシア革命の開始。
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1月23日
・夕刻、ロシア第2軍司令官グリッペンベルク大将、攻撃下命。総勢9万6千、砲452門。対する日本軍は、秋山支隊と第8師団の一部の総勢1/2師団が散在。
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1月23日
・(露暦1月10日)ロシア、スト拡大・継続。工業技術高専集会・カンパ、弁護士25人の蛮行抗議声明。
・ツァーリ、ペテルブルク市総督職を設置。前モスクワ市警視総監トレーポフを任命。
・モスクワ、スト開始。
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1月24日
・志知文子(後、西川光次郎夫人)・神崎順一、雑誌「新社会」発行届出。差し戻し。
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1月24日
・(露暦1月11日)ロシア、ペテルブルク、ゴーリキー、逮捕。1/8の内相陳情団拘留。
・首都新聞主筆13紙の共同声明。
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1月24日
・フランス、ルービエ内閣成立(~1916年)。
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1月24日
・フィリピン、カビテ州でゲリラ残党が警察軍を襲撃。人身保護令が一時、停止。
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1月25日
・黒溝台会戦(黒溝台失陥)
第8師団他の日本軍、黒溝台付近でロシア第2軍約10万と戦闘。ロシア軍包囲により黒溝台陥落。
午前3時、ロシア軍、土台子侵入。日本軍は退却。
午前4時、ロシア軍、黄臘坭子侵入。日本軍「壊滅」状況(戦死21・捕虜61)。
午後1時、ロシア軍、黒溝台に進撃。
午後2時、黒溝台孤立化は時間の問題。
午後3時30分、西側のロシア軍が6~700mに迫る。
午後3時50分、北東のロシア軍が700mに迫る。
午後6時、黒溝台西方の泡頭の第5連隊第3大隊が包囲される。守備隊、退却。
午後11時、種田支隊(騎兵第5連隊長種田錠之助大佐)、古城子に到着。種田支隊の損害:死傷81・俘虜19。
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1月25日
・清国、商標註冊局設立。
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1月25日
・社説「これを日本の事として想像せよ」(「万朝報」)。ペテルブルクの様な騒ぎにならない「皇天に感謝」する。
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1月25日
・長野県小県郡長瀬村の久保田甲子治ら、小県社会主義茶話会で、普通選挙請願について討議。
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1月25日
・(露暦1月12日)ロシア、モスクワ、スト参加4万3千人。
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1月25日
・スイス、レーニン「ロシアにおける革命のはじまり」。
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1月25日
・高平小五郎駐米公使、米大統領に平和克服後の満州・韓国・旅順に関する日本政府の意見と講和に関して申し入れ。
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