2015年3月21日土曜日

康和4年(1102) 延暦寺衆徒、法成寺長吏(検校)任命の事を強訴 尊勝寺供養 尊勝堂曼荼羅堂を建立した若狭守平正盛に重任の宣旨 若狭守平正盛と祭王大中臣親定との荘園争論

わが町のモクレン 2015-03-21
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康和4年(1102)
この年
・ヘンリ1世、ウェールズ政策開始。
ヘンリ1世長女マティルダ、誕生(1102~1167)。

ヘンリ1世に対する蜂起と鎮圧。
シュルーズベリ伯ロベールはウェールズの入り口セバーン河沿いのブリッジノース、キャリッジホフ、シュルーズベリ城を強化し長期籠城戦を準備、モントゴメリー家と支持者達に蜂起を促す。
モントゴメリー家支配のイギリス海峡に面したアランドル港、ヨーク州チックヒル市、ウェールズ内陸モントゴメリー市、ウェールズ西岸ペンブルック市、ランカスター州クリザオレ市が蜂起。
シュルーズベリ伯ロベールは配下のノルマン軍・ウェールズ軍を糾合しスタフォード州へ略奪目的で侵攻。

ヘンリ1世は、これまでのウィリアム1、2世の反乱鎮圧法(最初に反乱首謀者の本拠を直撃する)を採らず本拠を孤立させる作戦を採る(シュルーズベリ伯は直撃作戦を予想し本拠の守りを固め、ヘンリ1世はそれを見抜く)。
ヘンリ1世はまずノルマンディからの援軍を遮断する為モントゴメリー家が南部に唯一所有しているアランドル港を攻撃、チックヒルへ分遣隊を派遣して封鎖。アランドル港は2ヶ月後降伏、チックヒルもヘンリ1世到着時に降伏。両市の降伏によりノルマンディとシュルーズベリ間の連絡は遮断。
次にヘンリ1世は、シュルーズベリ州とイギリス中央部間の連絡路となりうるスタフォード州守備隊を増員してシュルーズベリ州を孤立させ、ヘンリ1世率いる本隊がセバーン川沿いの要所へ侵攻。
最初にシュルーズベリ州一帯で大規模な襲撃を行い、続いてブリッジノース市を攻撃。
ブリッジノース市はシュルーズベリ伯に救援を求めるが、シュルーズベリ伯の救援は不可能で、3週間後降伏。シュルーズベリ伯ロベールも降伏、追放刑となる。ノルマンディ公ロベールはバイユー司教オドやノーザンバーランド伯ロベールの反乱の時と同様に動かず。
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・ブロワ伯エティエンヌ(スティーヴン)・ド・ブロワとエティエンヌ・ド・ブルゴーニュ、帰国途中、嵐に遭遇、ヤッファに漂着。
エジプト軍(アラブ人・スーダン人2万)がアスカロン近郊に結集しラムラに進軍、2人はエルサレム王ボードワン1世に合流。
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・マティルダ、トスカナ辺境伯領を教皇に寄進。
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・カスティーリャ・アルフォンソ6世部将ペドロ・アンスーレス、バラゲール(レリダ北北東、エブロ河支流セグレ河畔)を征服。
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2月20日
・源義家の従者資通、源義家次男義親召問の官吏を殺害し、獄所に拘留。
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3月
・エル・シッド妻ヒメーナ・ディーアス、カスティーリャ軍の支援を得て、バレンシアを包囲するムラービト朝軍を敗走させる。
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・ポエモン捕虜抑留の為、甥タンクレードがアンティオキア摂政となる。アレッポ近郊を荒らしまわり、アレッポのリドワーンはフランク軍の引揚げと交換条件でアレッポ大寺院光塔に大十字架をかける。
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3月9日
・白河法皇の50歳の祝いの賀の為の試楽。楽人の殿上人のうち越前守藤原家保は笛を担当。
18日、堀河天皇、鳥羽殿へ向かう。
19日、鳥羽殿の池で越前守藤原家康(保)ら船遊び。
20日、御賀後宴で船遊び(「中右記」)。
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4月
・トリポリ前面、サンジル軍300、トリポリ領主ファルク・アル・ムルク、ダマスカス王ドゥカーク、ホムス総督の軍数千を破る。トリポリ領主の過去の裏切り(ナフル・アル・カルプの待伏せを通報)への報復。
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5月
・カスティーリャ軍、バレンシア支援より撤退。
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5月8日
・延暦寺衆徒、神宝を捧げ持ち右大臣藤原忠実邸宅・枇杷第に乱入し法成寺長吏(検校)任命の事を強訴。
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5月13日
・慶朝、天台座主となる。長治元年(1104)8月8日叡山大衆により山門から追却される。
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5月19日
・ラムラの戦い(ヤーファ港近く)。
宰相アル・アフダル息子シャラフが率いるエジプト軍2万、ラムラでエルサレム軍を撃破。
エティエンヌ・ド・ブロワ(ブロワ伯、アデーラの夫)、エティエンヌ・ド・ブルゴーニュ、戦死。
ボードワン1世は命拾い(エティエンヌ・ド・ブロワ息子はイングランド王スティーヴン、ヘンリー1世甥(母アデラがヘンリ1世妹))但し、エルサレム奪回に向うべきか躊躇中に海よりフランク援軍来着。シャラフは撤退。
この後もエジプトのアフダルの遠征はことごとく失敗。
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5月20日
・ローマ公会議(教皇パスカリス2世(位1099~1118)の最初の公会議)。俗人叙任を禁止。
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7月15日
・御願寺供養習礼。
越前守藤原家康(保)ら、蝶舞童に負担した布施装束などを与える。
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7月21日
・尊勝寺供養。
尊勝堂曼荼羅堂を建立した若狭守平正盛に重任の宣旨。越前権守源重資を正四位上に叙任。

この年(康和4年(1102))に完成した堀河天皇の御願寺尊勝寺の場合、数ヶ月後には荘園を立てる準備がされ、翌年には近江守藤原隆時や中納言源国信、宮内大輔藤原師季らの所領寄進が正式に認められている。
法勝寺でも、膨大な封戸からの収入が途絶え、国司たちが便補保(びんぼのほ)と呼ばれる事実上の荘園をつぎつぎと立てていった。
11世紀末から12世紀初頭、律令制にもとづく国司からの封戸納入の悪化により、天皇の御願寺でも経済基盤が荘園に移されていった。
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7月28日
・この年、神宮権大副大中臣輔弘・前皇太神宮禰宜荒木田宣綱が、伊勢神宮の離宮院官舎・外宮禰宜宿館に放火し、落書がなされた。
この日、祭主親定の解状をうけて緊急の杖議が開かれ、以降1年間に7回の陣定が開かれ、罪名が慎重に審議された。
この時、2人の明法博士の罪名勘中が、大逆の真犯と謀大逆とでくいちがい、あらたに検非違使志(さかん)の中原資清に罪科勘文を上(たてまつ)らせ、それにより大逆真犯として、斬罪に決定された。
翌年8月、流罪が執行されたが、輔弘と宣綱の解官・流罪・除名(位記を迫する)だけでなく、「賊盗律」の大逆の規定に従い、親族の縁坐の配流、宣綱の田宅奴婢の没官も行なわれた。
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7月28日
・源義家の郎党大宅光房、相撲召合の一番として登場。
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8月5日
・興福寺衆徒、蜂起。
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8月10日
・臨時除目。
御祈料物進上の功により任国を交替、従四位上藤原家保を丹後守に、正四位下高階為家を越前守に任じる。
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9月28日
・興福寺衆徒の狼藉のため、東大寺衆徒が八幡の神輿を奉じて入京。
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9月29日
・ロンドン公会議。
シモニア・ニコライスムに対する諸禁令を更新。「司教叙階・国王聖別論」。
ヘンリ1世、アンセルムに王権を認めるか、イングランドを離れるか、と迫る。ヘンリ1世、貴族の意見に同意し、アンセルムが教皇に国王の意向を伝えることで妥協。
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10月15日
・若狭守平正盛と祭王大中臣親定との荘園争論。
白河法皇、右大弁藤原宗忠を派遣して堀河天皇に奏上させる。
以後11月11日まで宗忠、法皇と天皇の間を連絡(「中右記」)。
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12月28日
・朝廷、 康和の乱の源義家次男源義親を隠岐に配流。
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