山城ヒロジさん インタビュー。「連戦連敗」だった・・・/沖縄タイムス 2015.5.11
2015-05-12 00:22:24 | 沖縄
沖縄タイムス 5月11日
沖縄を語る 次世代への伝言 19
反基地「郷土愛」胸に 連戦連敗「今度こそ」
山城博治さん(62)沖縄平和運動センター議長
(略)
−最初に社会の矛盾を感じたのは。
「中1だった65年、 B52爆撃機が嘉手納基地に飛来した。
先生に連れられ、デモをした覚えがある。
本土復帰が決まった69年の佐藤・ニクソン会談は前原高2年の時。
基地自由使用の密約は、高校生にも見え見えだった。
佐藤首相訪米反対と学園の民主化を訴えて、約150人のハンストを1週間続けた。
マスコミや警察も来て大騒ぎになった」
「3年生になって、やはり基地付きの本土復帰に反対して仲間4人で校舎の一部を封鎖するバリケードストをやった。
先生にあっという間に解除され、僕は除籍処分になった。
『退学させられる理由はない』と登校しては、机といすごと先生に引きずり出される、の繰り返し」
−ゲート前で逮捕された時と同じ光景だ。
「やっていることはあまり変わらないね。
ただ、除籍になった時、母が涙を流しながら『頑張れ』と言った。
それで、むちゃばかりはできないと目が覚めた。
その後はガソリンスタンドボーイ、水道配管、土木工事となんでもやった」
−最終学歴は大学卒。
「兄の勧めもあって、大検を受けて進学した。
実は高校時代、全国のいろんな大学のセクト関係者が会いに来て『うちに来ないか』とスカウトされていた。
だけど僕は、反復帰論の新川明さん、川満信一さんの本をバイブルのように読んでいた。
国家をどう相対化するか、日本の支配層とどう縁を切るかばかり考えていたから、本土のセクトには全く興味はなかった」
−卒業後は。
「県庁に中級職で入り、学校事務をした。
思ったような、沖縄全体に関わる仕事ができず、2年目に辞めた。
司法試験を受けるため東京の専門学校に行ったが、学費が続かない。
上級職で県庁に入り直した。
専門学校で学んだ法律の知識は今、現場でハッタリをかますのに役立っている」
(後略)


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