2015年5月12日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(66)「アルバ公爵夫人登場」(1) : 「ゴヤの描いたアルバ公爵像を見る人は、その弱々しそうな顔貌やもろそうな肉体だけではなく、その服装が、この公爵についている数々の勲章などをまったくつけず、金糸・銀糸もなく、ほとんど当時の職業的演奏家のそれであることに注目をしておいてもよいであろう。 時代が、急速に変りつつあるのである。・・・」

*
ほとんどの詩人たちがこの公爵夫人に魅せられている
「ほとんどの詩人たちがこの公爵夫人に魅せられている。・・・

あなたのそのひかり輝く眼、
微笑の絶えることのない口と、
機知のあふれる言葉、
そして晴ればれとした優雅さよ。

あなたの誇らかな美しさ、
久遠に燃える瞳の、
力にあふれた愛撫は。

二つとも当時の代表的詩人の賞詞の断片なのだが、詩人たちは、とにかくべた惚れなのだ。スペインの新しきヴィーナスよ、と言った人までがいる。・・・マドリードのみならず、階級の上下を通じても、この公爵夫人の短い、一閃の光のような存在は、人々の心に灼きついて離れないもののようであった。」

この世に彼女以上に美しいものは存在しない
「「アルバ公爵夫人の髪の毛は、その一本といえども人の欲情をそそるものであった。この世に彼女以上に美しいものは存在しない。彼女が道を通るときには、すべての人々が窓にむらがり、子供たちまでが遊びをやめて見とれるほどであった。」
夫人は外国人観察者にとっても、「美、人気、優雅さ、富、家系」のスペインにおけるシンボルであった。」

教育というものはまったく受けず・・・その態度の軽々しさ・・・
「ではそのひととなりはどんなであったか。
「教育というものはまったく受けず、立派な訓戒も耳にしたことがなく、ためになる本も読んだことがなければ、目にしたものは悪い手本ばかりであった。」
・・・
「アルバ公爵夫人は、その態度の軽々しさという点で、一般の意見の一致するところ、であったが、最高の貴族階級の婦人の典型であった。彼女の名声は、その美しさ故に津々浦々まで知れわたっていた。」
その態度の軽々しさとは、ではどんなものであったか。
「まあほんとに美しい娘さんでした。その活潑なこと! ほがらかなこと! とくにあの髪の美しかったこと! あたしが結婚してから一年たって、ある日お訪ねしたら、着替え中で……大袈裟ではなくて……長い髪が足までたれていました。あの方は、とても気立てのよい、気さくな方なので、あたしにこういったのを覚えています。『あなた、裸のあたしを見るのがお恥しいのなら、あたし髪でかくしますわよ』」」

彼女の魅力、人気、優雅さ、親切さ、鷹揚さのすべての根源
「この「態度の軽々しさ」と、「教育」のなさと、「悪い手本」こそが前記の詩人たちにとってだけではない、彼女の魅力、人気、優雅さ、親切さ、鷹揚さのすべての根源であったのである。
・・・「教育」とは、少女時代を修道院に閉じこめておいて、そこから突然ひっぱり出して結婚させること、これが、上流階級の子女の「教育」というものであった。
アルバ公爵夫人マリア・テレーサは、そういう「教育」だけはうけていなかったのである。
彼女は何によって教育されたか。」

生れながらの女公爵
「彼女の正式の名前は、ドーニャ・マリア・デル・ピラール・テレーサ・カイェターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレド、第一三代アルバ公爵夫人、という長いものである。その長さが示すようにスペイン第一の家柄であり、祖先には武将としてその名を全ヨーロッパとトルコ、中近東(十字軍)にまで轟かせた人が何人もいた。ここで公爵夫人というのは、アルバ公爵と結婚をしたから公爵夫人になったのではないことをつけ加えておきたい。 Duquesa はこの場合、女公爵と訳したほうがよいかもしれない。生れながらの女公爵なのである。」

彼女の父母及び祖父のこと
「彼女の祖父は、スペイン大使としてヴェルサイユ宮に、ほとんど君臨していた、と言いたくなるほどに倣然として他の国々の大使やルイ一族の王族たちを見下していたものであった。そうして彼女の父にあたる人は、フランスで完全にフランス風な教育を受けた。ということは、この祖父の指示によって、ヴォルテール、ルソー、ディドロなどの百科全書派の、当時としての自由思想にどっぷりつかった人であった。スペイン第一の封建大貴族が自由思想によって頭のテツペンから足の先まで武装をしているという、この異様な矛盾のかたまりが父のアルバ公爵そのものであったのである。この公爵の御乱行振りは、これまたスペイン第一の家柄をはずかしめかねぬほどのものであった。パリへの郷愁がそうさせたものであったろうと言われている。そうして彼女の母は、これも大貴族であるウェスカ公爵夫人マリアーナ・デ・シルバ・イ・サルミエントであり、この母がまたなんとも言えぬ変った女性であった。自分で詩を書き絵も描き、アカデミイの名誉理事に任命されたりもしていた。フランスの芝居をスペイン語に訳して上演をさせたり、とにかく八面六臂の一大芸術(!)活動を行ってマドリード狭しととび歩いた人であった。
けれども勇武の家系である公爵家の血も、ようやく衰えてきて、父の公爵は、彼女が八歳の時に早すぎる死をとげてしまった。男の子がいなかった。従って彼女に婿をとらない限りは、アルバ公爵夫人の爵位はのこっても、肝腎のアルバ公爵の爵位は消えてしまうことになる。」"
"「・・・彼女の母なる人が、これまた自由思想、女性解放の熱に燃え上って、夫の死後に、モラ侯爵を寝取ったり、また王妃マリア・ルイーサから若いツバメのフエンテス伯爵を奪い取り、この若い伯爵がこれまた早死にをすると、この男の父の老フエンテス伯爵と結婚をする。老伯爵はゴヤの生地フエンデトードス村の領主である。金使いの荒いこともたいへんなもので、さしもの大金持ちの老伯爵も、ほとんど破産させられるに近いほどの大活躍をしたものであった。・・・
・・・(よって)、一人のこされた娘のマリア・テレーサの教育は、従って老公爵の受け持ちとならざるをえなかった。」

ジャン・ジャック・ルソー『エミール、あるいは教育について』の幼児教育批判、女性教育批判、及び宗教批判の項
「子どもの状態を尊重するがいい。そして、よいことであれ、悪いことであれ、早急に判断をくだしてはならない。長いあいだ自然のなすがままにしておくがいい。はやくから自然に代ってなにかしようなどと考えてはならない。そんなことをすれば自然の仕事をじゃますることになる。へたに教育された子どもは、ぜんぜん教育を受けなかった子どもよりずっと知恵から遠ざかることが、あなたがたにはわからないのだ。子どもがなんにもしないで幼い時代をむだにすごしているのを見て、あなたがたは心配している。とんでもない。しあわせに暮らしているのがなんの意味もないことだろうか。一生のうちでこんなに充実した時はまたとあるまい。ひじょうにきびしい人と思われているプラトンは、『国家篇』のなかで、もっぱらお祭りや遊びや、歌をうたうこと、なぐさみごとをさせて子どもを育てている。子どもにみずから楽しむことを充分に教えることができたとき、プラトンはすべてをなしとげたことになるだろう。

それに理性がめざめるときがくるまでは、あらわれはじめた感情が良心に語らせるときがくるまでは、年のいかない女性にとってよいこと悪いことは、周囲にある人たちがそう決定したことであるということに注意するがいい。そこで、彼女たちの身近にいることになる人々、彼女たちにたいしてなんらかの権威をもつことになる人々の選択はひじょうに重大であること、男の子のばあいにくらべてずっと重大なことであることがわかる。しかし、やがて、彼女たちが自分でものごとを判断しはじめる時期がやってくる。そうなったら、教育計画を変えるときだ。

こうした問題を検討し解決するにあたっての立場のちがいから、相反する極端に陥って、ある人々は、女性を家庭に閉じこめて召使いたちを相手に針仕事や糸をつむぐようなことだけをさせ、妻を家の主人に仕える女中頭にすぎないものにしているし、他の人々は、女性の権利を保証するだけでは満足しないで、さらに、女性にわたしたち男性の権利を奪わせるようなことをしている。女性をその本来の性質においてはいぜんとしてわたしたちよりすぐれたものにしておいて、ほかのあらゆることではわたしたち男性と同等のものにするというのは、自然が夫にあたえている優位を妻に移すことにはかならないのではないか。

わが子よ、こんなふうにやっかいなことがたくさんあるのだが、これで全部というわけではないのだ。おたがいに締めだしたり排斥したりしている多くのさまざまな宗教のうちに、正しい宗教が一つあるとするなら、一つだけが正しいのだ。それを知るには一つの宗教を検討するだけではたりない。すべての宗教を検討しなければならない。そして、どんなことにせよ、聞いてみもしないで非難するようなことをしてはならない。反対派の理由を知るには味方の博士連中の言うことを聞いていれば充分だと考えるような人はまったく単純な人と言わなければならない。誠意を誇りとする神学者がどこにいるのか。敵の論拠を反撃るためにまずそれを弱めようとしない神学者がどこにいるか、すべての人は自分の陣営内でこそ輝かしい存在となる。」

途方もない、過激きわまる教育方針
「・・・当時のスペインにおいて、このような方針にもとづいて少女を教育するなどということは、これはもう途方もないことであった。過激きわまる教育方針というものであり、異端審問所がもし気付いたりしたら、マリア・テレーサをまるごと逮捕したくなったであろう。
本国のフランスでも、革命後といえども一八世紀中はこのような教育は行われていなかった。それは一つの”哲学”であるにとどまっていたのである。それを、封建的、かつ異端審問所の健在するスペインでやるとは! またそれの施し手が、封建大貴族の筆頭であるアルバ老公爵でああるとは!
老公爵はまたピエール・ベールの思想の信奉者であったようであるから、道徳と宗教は相互に独立した価値であり、賞罰のない道徳の方が宗教的道徳よりも公正である、と考えていたものと思われる。」

「ともあれ、八歳のときに父を失ったこの娘は、祖父の老公爵の庇護の下に、たった一人で育った、と言えるであろう。」

貴族たちはにわかに”文化”について熱心になりはじめる
「伝統的貴族たちの、その剛毅な伝統がすでに内部で空洞化してしまっているのである。精神的にも肉体的にも蝕まれてしまっている。そこへ先に一度触れたことのある、ドールス博士の言う”革命的マゾヒズム”が加わり、民衆への擬似下降志向が出て来る。伝統が空洞化したその空洞をかかえて、貴族たちはにわかに”文化”について熱心になりはじめる。文学、美術、哲学、芝居、音楽が登場しはじめる。後述するように、とりわけて音楽である。」

想像を絶して自由かつ気ままな家庭的、社会的雰囲気、それと莫大な財産
「ともあれ、幼いマリア・テレーサをめぐっての家庭的、社会的な雰囲気というものは、当時のこととしては想像を絶して自由かつ気ままなものであった。母からはおそらく社会的な慣習や拘束などを蹴とばして平然としている、徹底して不羈な性格をうけついでいたであろうし、祖父からは、第一三代アルバ公爵夫人としての、外国から輸入されて来た王や王妃などをものともしない古い家系の誇りと尊大さとを継承していたであろう。彼女は王と王妃の前で帽子を脱ぐ必要のない大貴族の筆頭である。それに、たとえ気分としての民衆への下降志向があり、ルソーによって自然へ帰れと教育されていたとしても、アルバ公爵夫人の年収は金貨五〇万ドゥカード(!)である。これを月割りにして、現代の国際通貨のドルで勘定してみると、ざっと一カ月一〇万ドルということになる。
・・・それに広大なアンダルシーア、トレド、マドリードその他の地域にある領地と、五つか六つの別邸と、銀行その他の動産! マドリードだけでも、現在スペイン国防省となっているアルカラ通りの宮殿のほかに、市中に一つ、近郊のモンクロアにもう一つと、二つの別邸があった。」

13歳のとき、第11代ピリァフランカ侯爵の長男(19歳)と結婚
「そうして当時の習慣に従って、一三歳のとき、第一一代ピリァフランカ侯爵の長男ドン・ホセ・アルバレス・デ・トレド・オソーリオ・ペレス・デ・グスマン・エル・プエノという、彼女自身の名の長さにもおさおさ劣らぬ青年と結婚をさせられた。彼女が内部に結核を宿していたように、一九歳の夫となる人は、心身ともに脆弱な青年、であった。
彼ら二人の婚約契約書を見ると、夫のピリァフランカ侯爵は、アルバ公爵の爵位をうけつぐこと、となっていて、これは老侯爵がアルバ家の光栄ある伝統の消えることを憂えた結果であったと推察される。公爵夫人の爵位だけでは、この後、代々女性が家を継ぐことになっても困るからである。
それから、もう一つ人の注目をひくのは、アルバ家の財産の一部は、「将来の配偶者から完全に独立して」管理されるものとする、という異様な項目である。おそらくこのまだ幼い夫人の未来と自由を保証するための、抜け目のない条項というべきものであろう。」

ゴヤ『アルバ公爵像』1795

「一七九五年にゴヤは、夫のアルバ公爵の肖像画を描いているのであるが、公爵は小ぶとりに肥ってはいても、顔にも身体にも力というものをまるで感じさせない。このとき公爵は三九歳の男ざかりなのだ。けれども眼にまったく光がなく、彼の運命を承知の上でこの肖像を見るとき、人は亡霊を見るかの思いをさせられるであろう。彼はこの翌年の一七九六年にセピーリァで亡くなってしまうのである。享年四〇歳であった。
さてこの公爵は、クラヴサンかピアノに肱をおろして上半身を曲げ、両手にハイドンの楽譜をもっている。その楽譜が何の曲であるかはわからないが、老公爵がJ・J・ルソーと文通があったように、この公爵はハイドンと文通があった。ある年にはハイドンの一年間の作品を全部買い取ったことさえあった。
公爵は、夫人とはまったくこと変って引き籠りがちな、メランコリックな人であったようである。ゴヤの肖像画で見ても、スペインの強烈な陽光には耐ええない人、月光を浴びて生きる影の人のように見えて来る。」

この頃の音楽について、アルバ公爵とハイドンとの交流などについて
「ところで音楽について、である。音楽は、ちょうどこの頃に「詩歌は人間社会へのお礼奉公です」と言われていた時期を脱して、詩・文学同様に、次第に芸術としての独立性を獲得して行くことになる。しかしここに言われている「人間社会」とは、主として宮廷、教会、貴族の世界のことであって、平民の「社会」ではまだまだ、ない。
一七世紀のヨーロッパは実にイタリア・オペラによって席巻されたものであった。「ヨーロッパが熱狂的にとりいれたのはイタリア・オペラだった。イタリアはオペラの手本を示し、音の波が湧き出る滾々たる泉となった。そしてヨーロッパ中に音楽と演奏者を同時に供給した。イタリアはメロディそのものだった。オペラの世界はもうイタリアの植民地にすぎなかった。どこの王様も大公も、みんな自分の劇場と自分の装置家、作曲家を持ちたがり、最高の作曲家と最高の振付師と最高のプリマドンナを抱えたがった。パリはリュリとキノーに名をなさせ、ロンドンはヘンデルを横取りした。ただマドリードだけは遅れていた。」
マドリードもまた一世紀ほどかけてこの熱狂に追いつき、カルロス四世は、いまではただ一曲のメヌエットだけで名を知られている、イタリア人作曲家のポッケリーニを抱えていた。アルバ家がリュリ派を支持すれば、オスーナ家はパリでマリー・アントアネットに庇護されていたドイツ人のグルック派となった。
マドリードでまだこういうことが行われていたあいだに、一八世紀に入ってヨーロッパの各地では次第にイタリア・オペラからの植民地解放運動が進み、今日、前ロマン主義古典音楽ということになっている器楽曲、ソナタ、交響曲などの大部分が創作されていた。そうしてアルバ公爵家のような全ヨーロッパに情報網をもつ国際的貴族は、そのことを熟知していた。そういうところからハイドンとの文通もかわされていたのである。」

歴史においてのコペルニクス的変化:
音楽にサービスをさせるのではなくて、自分から音楽の方にサービスするようになって来た
「カルロス四世が下手なヴァイオリンをギイギイやってポッケリーニを苦しめたように、この公爵またピアノ、クラヴサン・オルガン、ヴァイオリンなどを弾いた。王族や貴族が自分で音楽を演奏する、つまりは音楽にサービスをさせるのではなくて、自分から音楽の方にサービスするようになって来たのである。それは音楽の歴史においてのコペルニクス的変化であった。芸術としての音楽の独立ということがやがて認められるであろう。
・・・
この公爵の死後にのこされた財産目録によると、三万一九六〇レアール(約八〇〇〇ドル)相当の楽器、ピアノ二台、クラヴサン二台、オルガン一台、アントニオ・ストラディヴァリウス作のものを含む六〇のヴァイオリンとギター一が記載されている。このうちピアノ一台とクラヴサン一台はアルバ家に現存している。」

時代が、急速に変りつつあるのである
「ゴヤの描いたアルバ公爵像を見る人は、その弱々しそうな顔貌やもろそうな肉体だけではなく、その服装が、この公爵についている数々の勲章などをまったくつけず、金糸・銀糸もなく、ほとんど当時の職業的演奏家のそれであることに注目をしておいてもよいであろう。
時代が、急速に変りつつあるのである。・・・」
*
*

0 件のコメント: