百日紅 江戸城(皇居)二の丸庭園
*マドリードに戻ったゴヤ、物語性をもつスケッチ
一七九六年夏の幸福と、その年の冬及び明けての春の苦しみと瞋恚の念々とを経て、四月にマドリードへ帰って来てゴヤは何をしているか。
アンダルシーア滞在中からはじめられていたか、あるいはマドリードに帰ってからアンダルシーアでのくさぐさ思い出して描いたか、今回は少し大型の画用紙に、ここでもアルバ公爵夫人とおぼしい多くの女性像が出て来る。サンルーカル画帳と違う点は、登場する人物がいずれも複数であって、ただのスケッチではなく、次第にそれらが劇的な物語性をもちはじめることである。
ゴヤ『マドリード画帳』〔15〕1797
ゴヤ『マドリード画帳』〔34〕1797
ゴヤ『マドリード画帳』〔46〕1797
ゴヤ『マドリート画帳』〔49〕1797
マハとやり手婆
マハとやり手婆のテーマが登場する。
また、一人の伊達男(マホ)をめぐって女二人が靴を手にし、髪をつかみあっての大喧嘩をしている。それを男の方はのんびりと横になって嘲笑いながら見ている。・・・
あるいは、外を通る軍隊の行進を見に、少女が階段を駈け上ろうとしている。・・・
男が棒を振り上げて女を撲ろうとしている、床に手紙が落ちている。・・・
あたかもこの争いの結末を示すかのようにして、次の一葉には、決闘をして刺された男を、女が介抱をしているの図があらわれる。
一人のマハが中心にいて、フランス風のフロックコートを着た若旦那が帽子を手にして深々と背を折って挨拶をしている。それをマホ姿の男が倣然と突っ立ったままで見ている。マホと、フランスかぶれの男との差違が歴然と描き出されている。
アルバ公爵夫人とおぼしい女性が、気まぐれに井戸の釣瓶をひっぱり上げようとしている。
よい夫に恵まれたいと思ったら、井戸の水に顔を写してパドゥアの聖アントニオに祈るがよい、という迷信にもとづき、敬虔な面持ちで手を組んで井戸をのぞいている女性。
気まぐれに井戸の釣瓶を引っぱる女性と、迷信を信じて祈る女性の、この二つの、対比的なタイプが描きわけられる。
そうして、その次の頁には、腹の異常に突き出した醜い男がにやにや笑いに笑いながらこの女性に話しかけているの図があらわれる。井戸が与えてくれたのは、グロテスクきわまりない男であった。
画帳が物語性をもちはじめると同時に、明らかにゴヤの手になるナンバーが一枚一枚に記載されはじめるのである。
ゴヤは何をしようとしているのか?
ゴヤは何をしようとしているのであるか。
彼は小説を書こうとしている・・・。
詞書があらわれるのもそう遠くはない。
あたかもゴヤが、何かの一線を跨ぎ越したか、あるいはこの世の中に一つの亀裂か裂け目があって、その奥に、何かうごめくものがあることに彼が気付いたかのようにして・・・
ゴヤ『マドリード画帳』[55〕1797
このマドリード画帳、前半は主としてアンダルシーアで見た女性たちのさまざまな挙動についての、いわば楽しかりし部分だけの回想のようなものである。
ところが、ゴヤの振ったナンバーで五五番、あるいは五六番に来て、画調は音をたてて変りはじめるのである。・・・
あたかもゴヤが、何かの一線を跨ぎ越したか、あるいはこの世の中に一つの亀裂か裂け目があって、その奥に、何かうごめくものがあることに彼が気付いたかのようにして、楽しかりしアンダルシーアの牧歌は急激に後方へ、過去のなかへ去って行ってしまうのである。
女性をめぐっての優にして雅なる振舞いのことや、コケトリーなどもここで姿を消してしまう。
五五番は、おそらくは前記の井戸の迷信が与えてくれたとおぼしい腹の突き出た男が、山羊と悪魔の合成とでも言うべき仮面をかぶって出て来、もう一人の、これもグロテスクな仮面の男とともに、女性を驚愕のあまりのけぞらせているのである。男の真実は、あるいは真実の男は、こうだった。……
そうしてここにはじめて詞書があらわれる。「仮面(Mascaras)、残酷な(Crueles)」。
やがてこの残酷な仮面は、肉に食い入って、その人間の顔貌そのものとなるであろう。・・・
いや、仮面は仮面なのではなくて、その人間の真実なのだ。・・・
仮面と、歪曲による認識がここに開始される。
人はこれを仮面であり歪曲だとするであろう。しかしゴヤはそれが真実の相なのだ、と認識をする。
むき出しの真実が、その怖ろしい仮面に表出されて来る。
魔女が現れる
五六番に入って、はじめて魔女があらわれる。
魔女は豚の顔をもっていて、四つ足獣の足の醜い男に肩車をされて台上の二人のトンガリ帽子の男が金テコでつまんで拡げた誓文の本を見せられている。誓いをたてているのである。これには「飛ぼうとしている魔女」という詞書がつく。五七番は、「魔女集会の準備」として、魔女が幼児の四肢をつかまえ尻から庇を放出させて松明の火をかきたてているの図である。いずれもみな後に些少の変更を加えて版画集『気まぐれ』に編入されて行く。そうして「魔女(Brujas)」というあまりにあからさまな言葉は、この二枚だけで、詞書は次第に洗練されて行き、寸鉄の一語によって見る人に解釈の自由の余地がのこされるようになる。
しかし、なぜいったい突然に魔女どもが侵入して来たのであるか。
マドリードへ帰ってゴヤは、開明派の知識人たちとの往来を再開している。・・・司法大臣ホベリァーノス、大蔵大臣サーベドラ、アカデミイの次席監督イリアルテ、美術学者ベルムーデス、詩人パルデース、劇作家モラティンなどの、当時の代表的大知識人たちであり、この人々もが公職につきうるほどに政治的、宗教的雰囲気が当時において緩和もして来ていた。
とりわけて、劇作家で詩人兼歴史家のレアンドロ・モラティン氏がここで重要な役を果したと言えそうである。このモラティンには、『一六一〇年のログローニォ』における著名な異端処刑の訴訟記録』という著書があり、これを再版するについて詳しい注記を同氏は用意をしていた。この本は、・・・集団妄想の歴史という副題をもつ『魔女と魔女裁判』という訳書によると、一六一〇年にエプロ川の上流にあるログ口ニォの町に悪魔崇拝事件なるものが起り、数百名の人々が世俗裁判官にとらわれ、うち六名が火刑に処せられた。牡山羊の牧場で二〇回もの魔女大集会が催されたという。
これはしかし世俗裁判所がやったことであって、異端審問所の最高機関は、これを徹底的に調査して、魔女が空を飛ぶなどということはありえない、また、「悪魔の同類といわれる者どもが徒歩で”牡山羊の牧場”へおもむくなどという話はぜんぜん問題にならぬ、という結論に到達した。魔女術による告発および判決は説得力がありかつ再検査のきくいかなる証拠にももとづくものではない、という結論に到達した。そして彼はその報告書をこう結んでいた。『わたしはたった一例でも、魔女術が真実おこったと結論しうる根拠を一つも発見できなかったのであります。』」
スペインでは大規模な魔女狩りは、世俗裁判所の手になる、この一例だけしかなかったのである。
ここに彼といわれているのは、このスペインにとっての決定的な報告書を作成した異端審問所最高機関委員のアロンソ・サラーサ・デ・クーリアという人で、この人が「この恐れられたスペィンの宗教裁判で高官の地位を占めるこの役人は、今日でも科学的価値を有する立派な業績をあげていたのであった。」
ゴヤ『マドリード画帳』〔60〕1797
ゴヤ『マドリード画帳』〔66〕1797
従ってスペインでは、魔女や魔女狩りのことなどは、すでに伝説、お話の範囲に属していた。・・・
とはいうものの、民間には魔女伝説や迷信のたぐいは、それはふんだんにあった。しかもそれらの伝説や迷信は、画家の想像力や観察を強く刺激するものであることも充分に想像できることである。迷信の一つについて言えば、この画帳の六〇番には、四旬節に老人をかたどった人形を鋸で切ると御利益があるという、バカバカしいアンダルシーアの迷信をまことに面白げにゴヤは描いている。
従ってゴヤの魔女たちは・・・
従ってゴヤの魔女たちは、一面での迷信批判、他の面での、その絵画的な面白さと、人間狂気に対する批評としてのあたかもゴヤが、何かの一線を跨ぎ越したか、あるいはこの世の中に一つの亀裂か裂け目があって、その奥に、何かうごめくものがあることに彼が気付いたかのようにして応用、想像力に翼を与えるものとしての積極性などが綯いまざっているものが大部分である。そうしていずれにしても、迷信も魔女や魔界もまた人間を離れたものではない。それは人間的真実のうちに属しているのである。
この画帳の五六番は『気まぐれ』の七〇番に、五七番は六九番にやがて銅版に刻まれる。それらの情景にそっくりな話が、前記モラティンの著書にしるされてあるということである。
それからもう一つ、こういういわば人間批判を描くについて、彼がその当時全ヨーロッパ的に知られていたスイス人の観相学者ヨハン・カスバル・ラヴァテルの、人相と心性の相関関係を書いた著作にかなり忠実であったことをつけ加えておきたい。図像学に忠実であったように、彼は自分ひとりでオリジナルなことをする人ではない。
このデッサン画帳を仔細に見て行くと、ゴヤに漫画を描こうという気特があったこと明らかになる。「宝の夢」と詞書されたものは、女がベッドからおっこちそうな恰好で眠っていて、手の指をおまる(便器)のなかへ突っ込んでいる!
『気まぐれ』の準備はすでに出来ている
漫画から諷刺へ、それはほんの一歩の距離でしかない。フロックコートを着た山羊がひんぽんに出没しはじめる。牢獄風景もがあらわれる。シラミをさがして胸うちをのぞいている女。女性たちのほとんどは、前半の幸福なアンダルシーア牧歌の主人公たちではなく、やりて婆につきそわれた売春婦たちとなる。女をめぐって殺し合いがはじまる。それは、現実のマドリード街頭風景である。
『気まぐれ』の準備はすでに出来ている。
あとは暇を見つけて銅版に、逆にこれを刻んで行くだけである。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿