横浜市 2016-03-08
*應永16(1409)年
この年
・若狭守護一色氏の当主満範、没。
家臣間の権力闘争もあり、後継の五郎(10、義範)と兄二郎(持範)の間で確執が生じ混乱。
2年後、兄弟は和睦、若狭守護代三方範忠を中心とする重臣たちが幼主義範を支える形で一色氏の政治的地位は維持される。
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・リトアニアのヴィタウスがドイツ騎士修道会との同盟のために与えたサモギティアで反乱。ヴィタウスが煽動・援助。
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・ライプツィヒ大学創立。
ベーメン王ヴェンツェル(48)、ウィクリフ主義者の働きかけによりプラハ大学規約を根本的に変更。ドイツ人(非ウィクリフ主義者)は抗議してプラハ大学を去り、ライプツィヒ大学を設立。創設以来第一級の地位を保ってきたプラハ大学は、地方的存在に転落
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・フランス、オルレアン候シャルル(シャルル・ドルレアン)妃イザボー(イザベル)・ド・フランス(20)、没。イザベル、1389~1409、シャルル6世娘、イギリス王故リチャード2世妃。
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・ヴェネツィア、ダルマツィア地方を領有
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・トランシルヴァニアに住むルーマニア人ヴォイク、ルクセンブルク家出身ハンガリー王ジギスムントによりハンガリー王国貴族となる。
ハンガリー貴族に同化したヴォイク子孫がフニャディ家であり、やがてオスマン・トルコとの戦いの英雄フニャディ・ヤーノシュを生み出す。その息子が1458年即位のハンガリー王マーチャーシュ(マティアス・コルヴィヌス)。
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・スコットランド、摂政オルバニー公ロバート、最有力貴族4代ダグラス伯アーチボルド・ダグラス(ロバート3世長女マーガレットと結婚)と相互支援・防御協定締結。
1402年イングランドに侵攻、パーシー家に捕らわれる。後、パーシー家に協力してイングランド・ヘンリー4世と戦う、再び捕縛。
後、フランス・シャルル7世に加勢、摂政となる。ヘンリー5世弟ベドフォードに敗れ、北フランス・ヴェルヌイで殺害。
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1月3日
・プラハ大学恒例の自由討論会。ボヘミア「国民」は闘争宣言の場と捉える。プラハ参事会員(メンバ18人の過半数がチェコ人)も参加。
最終日、イェロニーム(ポーランド、ハンガリー、リトアニアなどの宮廷でウィクリフ哲学を擁護してまわる)の演説「自由学芸の勧め」。
教会改革に端を発した運動が「国民」同士の闘争を通して、先鋭化された国民意識を生み出している。一部のドイツ人マギステルの欠席を非難し、国王の偉大さを讃え、「敬慶なボヘミア国民」という言葉を繰り返し、チェコ系住民の意識に訴える。
「ボヘミア人」の共同体は、言語・宗教・血筋に基づくものであり、「正しいボヘミア人」だけがこれに属する。フスに反対する者は真実に対してだけでなく国民に対しても罪を犯している。純粋なボヘミア人のことを異端として非難するような者は一切の信用に値しない。最後に、学生に向かってウィクリフの著書研究を奨励し、マチェイの功績を讃える。
「ボヘミア人」概念が、ボヘミアに住む人という意味でなく、言語・血筋という、より本源的に人間に備わる要素によって規定され、それが信仰によって正当化される。
討論会後、イェロニームとその同僚のイェセニツェのヤンは、国王が滞在するクトナー・ホラへ赴き、国王の側近たちと会談。
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1月18日
・チェコ国王ヴァーツラフ4世(1361~1419年)、「クトナー・ホラ勅令」発布。
プラハ大学規約変更(ドイツ人教授の特典停止、大学のチェコ化)。フスが学長に選出。更に勅令を発し「王国のいかなる臣民、聖職者もグレゴリウス12世からの指示、あるいは給与を受け取ることは許すべからず」と宣言。
一部の高位聖職者の逮捕、ドイツ系有力聖職者の逃亡。
これに対しツビニェック大司教は、プラハ及びその周辺に「インターディクト」(祭式執行禁止)を命令、ヤン・フスを「国王を異端の説に近ずけた者」としてローマの宗教裁判官に訴える。
今後大学のボヘミア「国民」は「あらゆる会議、裁判、試験、選挙その他この大学のすべての業務や制度において三票を投じるべき」と定められ、他の3「国民」は合わせて1票だけを投じることになる。決定の根拠として、「ボヘミア王国において住民の権利をまったく持っていないドイツ国民がプラハの大学のさまざまな事柄に関して三票を投じる権利を持ち、一方でこの王国の正しい継承者であるボヘミア国民はわずか一票しか投じる権利を持っていない」のは「不正でありきわめて不適切である」と述べ、この決定は「パリ大学においてフランス国民が、ロンパルディアやイタリアにおいてその他の国民が享受している方式」に倣うものであるとして正当化。、
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2月7日
・ヴェネツィア、ドージェ、スキオの教皇代理の称号を受ける
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3月9日
・フランス、シャルトルの和平条約。
シャルトル大聖堂でブルゴーニュ派とオルレアン派が和解
(ルイ・ドルレアンの子供達は、ジャン無畏公を赦す。ルイ・ドルレアン末子フィリップが、ブルゴーニュ公ジャン無畏公孫マリーと結婚することとなる)。和解の仲介者はエノー伯ギョーム・ド・バヴィエール(ジャン無畏公の義兄弟、王妃イザボーの兄)。
両派以外の出席者(両陣営各々600人の護衛隊で固める。内100名は武装した貴族):
シャルル6世、王妃イザボー、王太子ルイ(ギュイエンヌ公)、ナヴァール王シャルル3世(シャルル5世姉妹ジャンヌとナヴァール王シャルル2世の息子)、シチリア王ルイ・ダンジュー2世(シャルル5世弟ルイ・ダンジュー1世息子)。ベリー公ジャン(シャルル5世弟、69)、ブルボン公、アランソン伯、ラ・マルシュ伯、ユー伯、ヴァンドーム伯、総元帥シャルル・ダルブレ、高等法院、会計法院、最高国務会議。
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3月11日
・~ 年末まで、ジャン無畏公、原則としてパリに滞在。
民衆から唾棄されていた徴税官ジャン・ド・モンタギュ(シャルル6世側近の革新官僚、シャルトル和平交渉要員、オルレアン側諸侯相談役)を拷問、処刑(ルイ・ドルレアン殺害以後の最初の犠牲者)。
パリでジャン無畏公への暴動の気配。ジャン無畏公は、これまで両派間を行き来していた王妃イザボーに接近、王太子ルイの後見役に決定させる。
ベリー公、ブルボン公など諸侯は、アルマニャック伯ベルナールとの提携に踏切る。
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5月
・ミラノ、ジョヴァンニ・マリーア、民衆200人を殺害。戦争継続中、「平和!平和!」と叫ぶ飢えた民衆を傭兵を使って殺害。
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5月5日
・ヴェネツィア、ヴェネツィアに定住するユダヤ人、衣服の上に丸印をつける
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5月9日
・「クトナー・ホラ勅令」発効。
プラハ参事会員、かつてのプラハ市民で国王側近こコラウス・アウグスティー二を先頭にプラハ大学に押しかけ、学長から大学の印章を奪い、新しく選ばれた学長ラボウニのズデニェクに渡し、この日、大学の各役職にボヘミア「国民」メンバーが次々と就任。
多くのドイツ系のマギステルや学生はこれに抗議し、プラハを去り、新設のライブツィヒ大学などへ移り、国王は彼らの追放を宣言。
フスはベトレーム礼拝堂で「神に感謝するように。われわれはドイツ人を追放したのだ」と述べたという。イェロニームほど明瞭ではないが、大学を「ボヘミア人」のものにするという考えをフスも共有。1409~10年の冬学期、フスは学長に選出される。
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5月25日
・ヴェネツィア、大議会議事室の絵画修理
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6月
・武衞の嵯峨有栖川山莊の榮仁親王、伏見へ移住。
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6月7日
・将軍義持、斯波義教(義重、越前・尾張・遠江守護)に代えて隠居中の父義将を三たび管領に補任。義将はただちに朝鮮との通交を開始させ、従属的な対明貿易を改めさせる。
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6月26日
・京で地震。
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6月26日
・教会分裂。ピサ大聖堂、教会会議(ピサ公会議)。
ミラノ大司教ペトロス・フィラルジィ(ピエトロ・フィラルゴス)を教皇選出(ピサ派教皇アレクサンダー5世)。
結果、3人の教皇が存在
(アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世、ローマ教皇グレゴリウス12世)。
アレクサンダー5世は教会改革の志を持ち、プラハ大司教ツビニェックに対して不利な裁きを下す。
ヤン=フスは書状をもって「大司教の横暴」を訴えた。ツビニェックはプラハからラウドニッツに退く。
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6月29日
・夜、鎌倉公方足利満兼の御所、炎上。公方満兼は宍戸遠江守の宿所に移る。
7月13日から普請開始。
8月27日棟上。
12月18日、御移徒。惣奉行は上杉右衛門佐氏憲。
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7月
・ブランバント候アントワーヌ(ジャン無畏公弟、25、1384~1415)、エリザベート・フォン・ゲルリッツ(ドイツ王ヴェンツェルの姪)と結婚。この結婚によりルクセンブルク候領を獲得(1407年迄ルイ・ドルレアンの所領)。
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7月9日
・ヴェネツィア、ハンガリーのラディスラオ、ザーラ、パーゴ、ノヴェグラーディ及びダルマツィア全土の主権を譲渡
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7月24日
・アラゴン王マルティネス1世、シチリアを併合
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8月6日
・ドイツ騎士修道会、ボヘミア国王ヴァーツラフ4世・ハンガリー王ジギスムントと同盟、全西欧に十字軍参加を求めポーランド国王に宣戦布告。
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8月10日
・幕府管領斯波義将、管領職を孫の義淳に譲り、その代行を実子の義重(義淳の父)が行う体制にする(~翌年6月迄)。親-子-孫による斯波氏の支配体制強化を目論む。
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8月21日
・ヴェネツィア、十人委員会、教皇に従うことを議論した元老院と四十人委員会の反乱分子に罰を下す
26日、アレクサンデル5世を認めぬ人を追放
28日、夜間にラッパを鳴らしてはならぬ
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9月3日
・ジェノヴァ、フランスの駐屯兵を追放
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10月7日
・ヴェネツィア、アクィレイアの教会に毎年2千ドゥカーティの支払を免除
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11月
・ブルゴーニュ侯とナヴァール王シャルル3世の同盟
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11月11日
・フランス、ムランの協約。
ジャン無怖公、王妃イザボーと王太子ルイを保護下におく。
ベリー公とブルボン公は、オルレアン側に傾いていく。
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12月
・ピサ派教皇アレクサンダー5世、勅書発布
プラハ大司教ツビニェックに「異端取り締まり」を命じ、一切の公の場におけるウィリクフ教説、およびそのシンパ的説教を禁じ、それに対する請願そのものも禁じる。
(ツビニェックはラウドニッツに退いた後、アレクサンダー5世に対して、ウィリクフ教説がどれだけチェコに広まっているか、その勢力が強大であり教会の教えといかに違うか、を誇張した使者を派遣。これにアレクサンダー5世の態度は豹変)
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