京都 鴨川 2016-04-04
*應永21(1414)年
この年
・若狭太良荘、この年以降「勧進猿楽」として毎年1貫500文が支出され、「勧進」の本来の意味(国内寺社造営費を捻出するたの猿楽興行の際の棧敷代などとして徴収)を無視した恒常的な役と化す。
また、従来は荘内に入部する守護使への接待費、守護役軽減を嘆願する際の一献料、守護代・小守護代らが京都・若狭間を往来する際の挨拶料などの礼銭が年貢から支出されているが、この年からは、それらとは別に「年始礼」と称する礼銭が恒例となり、小守護代長法寺をはじめ在国奉行や中間らに合計3貫文前後が毎年支払われている。
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・ヨハネス23世、逃亡後回勅「サクロサンクタ」
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・パリ大学ジャン・ド・ジェルソン、プラハ大司教コンラッドに書簡、ウィリクフの危険なこと、異端審問の必要を説く。
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・ヤコウベク・ゼ・ストシーブラ(もとウィリクフティーン)、「二種聖餐」(両形式の聖餐。パンと葡萄酒の両方による聖餐の儀式)を実行。
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・仏、パリはアルマニャック派、アラスはブルゴーニュ派(守勢)。
ジャン無畏公、パリ復帰を企てるが、失敗。
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・イングランド、ヘンリ5世、オックスフォード大学に39ヶ条の教会改革法案を準備させる。
最初の出だしの文章「今日の司祭達の肉に溺れた罪深い生活は全教会をスキャンダルに まみれさせているが、その公然たる姦通は全く罰せられないままはびこっている。」。
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1月9日
・ロラード貴族サー・ジョン・オールドカースルの反乱。
ロンドン周辺で反乱を組織したが、事前に露見し失敗。オールドカースル卿逃亡。支持者、異端者の烙印を押され残虐な迫害を受けたロラード派。
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3月
・内膳司清宣、三国湊の下地および廻船交易船方諸公事関所(交易上分と津料)は供御料であるが、去年より興福寺代官等の違乱が甚だしく全く収納がないと訴え、武家から使節を送り所務を全うし、毎日の供御が勤仕できるよう処置してほしいと請う。
訴えは、湊の下地も内膳司の領知するところで下地上分もその所当であると主張する。
これらの申状に対して、武家側の立場と思われる「三国湊相論意見状」は、興福寺は湊の下地の支配権をもち廻船交易上分については内膳司に納入すると主張。
内膳司はそれを否定して下地の支配権をも主張。
この意見状の判断は興福寺の下地知行を認め、廻船交易などは先例に任せて内膳司に納入することを興福寺が了承して請文を出すよう勅裁を下されるのがよいとする。
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・この頃、ジクムント(ドイツ王、ハンガリー王、ボヘミア王ヴァーツラフの異母弟)、フス宛てにコンスタンツ公会議への出席要請の通知が届く。
フスは、危険を承知の上で、教会改革への使命感から出席の意向を伝え、その為の論文も作成。
ジクムントは、1387年以来ハンガリー国王であるが、1410年ドイツ国王にも選ばれ、諸侯の自立化が進むドイツにおいて、再び国王権威を回復させようと努力しており、更に、最も急を要する教会の統一と改革に取り組む決意を示す。
ピサの公会議はアヴィニョンとローマの両教皇を廃位して統一教皇を選んだものの、両名が廃位を認めず、3人の教皇が並び立つ結果となり一層の混乱を招く。
また、1389年、オスマン帝国によりセルビア王国が滅ぼされ、ジクムント自身も1396年にニコポリスでオスマン帝国軍に手痛い敗北を喫しており、全キリスト教諸国が結集してイスラム教徒に反撃する必要性を痛感し、その為には教会統一は不可欠である。
彼はこうした問題をヨーロッパ中の有識者・有力者の使節を集めて議論するために、公会議の開催を呼びかける。
開催地は、従来の慣例のようなイタリアではなく、南ドイツのボーデン湖畔の街コンスタンツ。
ジクムントのもう一つの懸案は、子供のいない兄ヴアーツラフの後を襲って自分が将来のボヘミア国王になることを予定しており、そのためにはボヘミアに混乱を巻き起こしている教会改革論議を、今のうちに決着させておかねばならなかった。
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3月1日
・ヴェネツィア、ミラノ公と5年間の同盟
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4月2日
・ヴェネツィア、年齢3歳以上のものへの国勢調査をパドヴァの司政官に命令
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4月11日
・ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、ヴェローナ及びヴィンチェンツァに課した法律をヴェネツィアに対して断念
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4月18日
・ヴェネツィア、夜間、トランペットを吹く者に改めて厳しく取り締まる
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5月23日
・イングランドのヘンリー5世、ブルゴーニュ派と結束。
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5月25日
・鎌倉府、鎌倉中の酒壷別銭1年分を円覚寺修造料として寄進。
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6月9日
・斯波氏庶家で加賀守護斯波満種(嘉慶元(1387)年補任)、将軍の怒りに触れ高野山に閉居。斯波氏、加賀を失う。
満種派は被官二宮氏と共に大野に本拠を移す。
斯波氏の分国:
信濃は応永9(1402)年5月幕府料国に編入され斯波氏の手から離れ、加賀はこの年応永21(1414)年5月満種が将軍義持から忌避され高野山へ遁世し斯波氏の手を離れる。
しかし、応永7(1400)年尾張、同12(1405)年遠江の守護職を獲得し、越前と合わせ3ヶ国が斯波氏領国。その間、同17(1410)年5月義将没後、義淳が管領を解任されている。
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7月18日
・飢餓戦争。
ポーランド軍、プロイセンに侵攻。
ドイツ騎士修道会28代総長ミヒャエル・キュヒマイスター、ポーランド軍の補給線を絶ち、防衛。
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8月
・ヤン・フス、クラコヴィッツからプラハに出る。
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・ナポリ王ラディスラオ(37)、病没(1377~、位1386~)。
姉ジョヴァンナ2世、即位(ジャンヌ、位~1435)。
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8月9日
・幕府、道祖小路・天王寺の土民が油を商売することを禁止。
・座の特権。
「石清水八幡宮大山崎の神人等、荏胡麻商売の事の旨を申す。播磨・備前、近年油運送たえ難きの処、結句かの両国内において、被官人小川新左衛門入道彼の荏胡麻を押取ると云々。何様の事か。被官違乱の及ぶの上は、早く神人等に返し渡し、向後分国の油に至っては召上げらるべからざる也。もしまた子細あらば、注進せらるべき由、仰せ下さる所也。仍て執達件の如し。 応永廿一年八月九日 沙弥(花押)」(「離宮八幡宮文書」)。
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8月11日
・ヴェネツィア、午後4時に大地震
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8月26日
・ヤン・フス、「もし自説に誤りあれば異端者と同様の刑罰を受ける」と宣言。
30日、プラハに来た宗教裁判官ニコラウス、フスと食事をしたり説教を聞いたりして「彼はカトリック教徒なり」と宣言。
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9月1日
・北畠満雅の義戦
伊勢国司北畠満雅、両統迭立に反する称光天皇の即位に反対し、良泰奉じて挙兵。
これに河内の楠木正真・足利一族の足利義嗣が応じ挙兵。
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9月4日
・仏、アルマニャック派・ブルゴーニュ派、アラスで和議。
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9月11日
・ナポリのジョヴァンナ2世、相談役にヴェネツィア貴族1~2名を求める
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10月
・神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント、アーヘンでローマ王戴冠。
皇帝ジギスムント、フスのコンスタンツへの自由通行を許可。
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10月17日
・ヴェネツィア、トルコのスルタンと平和条約
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11月3日
・ヤン・フス、10月11日、国王派遣の護衛を連れプラハ発、ドイツ国内で歓迎を受け、3日コンスタンツ到着。
彼への「聖務執行禁止(インターディクト)」と「破門」は一時停止宣言。教会に行くことも自由、ミサ参加だけは「危険だから」という理由で禁止。
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11月5日
・コンスタンツの公会議(第16回教会公会議)開催(1414年11月5日~1417年11月11日)。
教会関係者だけで参加者600超、各国使節などを合わせればその倍に達したといわれる。
主要課題は、①教会統一、②教会改革、③ボヘミアの「異端」問題解決の3つ。
会議はドイツ、フランス、イングランド、イタリアの4「国民」毎の部会に分かれて進められる(1416年末、スペイン「国民」が新たに加わる。ドイツ「国民」には、スコットランド、北欧諸国、ボヘミア、ポーランド、ハンガリーなどの代表も含まれる)。
会議は、公会議の権威を教皇よりも上に置こうとする公会議派と、これに抵抗する勢力との対立が先鋭化。1415年3、4月の公会議教勅は公会議の優越を宣言。
こうした緊張の中で、フランス人枢機卿ピエール・ダイイ(1420年没、カンブレ司教)を中心とする勢力は、「ボヘミア問題」を早期に解決させることで、会議の主導権を握ろうとする。
実質招集者は皇帝ジギスムント。
Ⅰ.教会分裂の収束。3教皇廃位
(①1515年5月29日教皇ヨハネス23世廃位、②1515年7月4日シエナの教皇グレゴリウス12世 (アンジェロ・コレーレ)退位、③1417年7月教皇ベネディクトゥス13世(ルナ教皇)を廃位)→1417年10月28日教皇マルティヌス5世選出。
Ⅱ.異端審議
1415年7月6日ヤン・フス 火刑、1416年ヒエロニムス火刑。金貸し(高利貸し)容認、適当な利子として11%に固定を宣言。
ドイツ騎士修道会総長キュヒマイスターは代弁者ペーター・ヴォルムディトを送りポーランド国王の反キリスト教的行動を非難。
ポーランドは法学者クラクフ教会主教パウルス・ウラディミリを派遣、ドイツ騎士修道会の存在理由(武力による異教徒征服)を攻撃。
パウルス・ウラディミリ:
北部ポーランド、マゾフシェ地区ドブジィンのブルゼニに貴族の子として誕生。少年期にはドブジィンはドイツ騎士修道会に併合されており、その暴虐を見て育つ。プラハ大学(1348年創立)に進み、1389学芸学士、1393年学芸修士、1396年法学士。1404年前後、イタリアのバドヴァ大学で教会法を学ぶ。教会法学者・教皇の助言者フランシス・ザバレラに師事。後、クラクフ大学で教会法を教える。1411年クラクフ教会の主教および司教座聖堂参事会員。1415年クラクフ大学学長。
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11月28日
・フスへの陰謀、進行。
首謀者:ライトミュール司教ステファン・パレッチ、ミヒャエル・カウジス、ウェンツェル・ティエム等。
彼らは、教会の扉にフスの危険性と異端ぶりを書き、併せてミサを行ったこと、群衆に向かって説教したこと、逃亡の恐れがあることなどを示す。
11月28日、フスは捕縛、監禁。
コンスタンティノープル総司教ヨハン、レーブス司教、カステラ・マラ司教らによる取り調べ。証人はかつてプラハを退いたドイツ人神学者達で、形勢はフスに不利。更に公会議でのヨハネス23世の逃亡により、フスの身柄はコンスタンツ司教の管轄下に厳しい管理のもとに置かれる。
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12月
・末、ジャン無怖公、イングランド国王ヘンリ5世と交渉。フランス国王直轄領征服に参加・戦争終了後、ヘンリ5世に臣従、など。
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