2016年4月12日火曜日

元亀4/天正元年(1573)9月7日~10月31日 第2次伊勢長島一向一揆戦 北伊勢の一揆をほぼ鎮圧したものの長島には侵入できず失敗 [信長40歳]

鎌倉 妙本寺 2016-04-06
*
元亀4/天正元年(1573)
9月7日
・信長、毛利輝元・小早川隆景へ8月10日~28日の軍事行動の詳細を通知(「乃美文書正写」、「武家事紀」)。
*
9月7日
・信長、池田恒興へ、木田小太郎「跡職」を息子池田輝政に譲与することを安堵(「池田文書」)。
*
9月8日
・家康、長篠城攻略
家康、武田勝頼に属す長篠城開城、城主菅沼正貞。
徳川家中戸田忠次、牧野康成、菅沼定盈に説得される。武田氏は東三河侵略の拠点を失う。
*
9月9日
・信長、京極高次に所領を宛行う。(清滝寺文書)
*
9月10日
・仏、アンジュー公アンリ、ノートル・ダム寺院でポーランド代表団に誓言
(ポーランドでは、選定諸侯が要求する条件遵守を誓った後、初めて王と見なされる。王が即位時誓言した約束を一つでも破った場合、臣下は王に従う必要がなくなる。王が決定したことでも、貴族議会の承認がなければ実行力を持たない)。
*
9月10日
・1570年に信長を狙撃した杉谷善住坊、磯野員昌に捕縛され岐阜へ連行。鋸引きの刑に処せられる。
*
9月14日
・細川藤孝、山城松尾社家へ、信長より西岡の地を安堵されたが、それは松尾神社社領でありこれの安堵を通達(「東文書」)。
*
9月14日
・天下所司代村井定勝、禁裏より「松の折」を下賜される(御湯殿上日記)。
信長から禁裏への献上、禁裏から信長への下賜・返礼は、だいたい貞勝を通じて行われる。下賜が信長へのものか貞勝へのものか、紛らわしい場合もある。この件は、「むらいにつかわさるる」と『御湯殿上日記』に明記されており、貞勝への下賜である。天皇にしても、貞勝は皇居修理の奉行としてよく知った存在だったはずである。「松のおり」とは、毎年妙心寺から献上されているもののようで、時期から推測すると、松茸を詰めた折であろうか。貞勝は、そのおすそ分けにあずかった。禁裏への季節の物の献上はいろいろとあるが、秋のものとしては、柿や粟が多く見られる(『御湯殿上日記』)。
*
9月16日
・前波長俊(越前守護代)、増長新十郎知行分(没収所領)の代官職・若林山奉行に帰山・服部両人を任じる。
*
9月20日
・織田信雄、伊勢大湊中へ信長朱印による桑名までの就航命令実行を要求。
塙直政、大湊惣中へ、敵方の伊豆国から大船が大湊に着岸したので津田一安が派遣される、日根野弘就が「足弱」を送った船の件は「曲事」であるので「舟主共」を必ず成敗すること、これらは信長御意なので厳守を通達。(「伊勢市大湊支所保管文書」)
*
9月20日
・滝川一益・明智光秀、越前北庄軽物商人中へ、信長が橘屋三郎右衛門尉を軽物座長に指名したので承知すべき、9月23日前に橘屋へ連絡することを通達。連絡が延引した場合は永代軽物座に加入をさせない旨を通知(「橘文書」)。
*
9月20日
・遠江武田勢武田信廉隊と榊原康政隊・大須賀康高隊が交戦。
*
9月21日
・顕如、武田信玄(没が公表されていない為)に書簡。
「遠三表の御備え如何候哉」(遠江・三河への出陣要請)、「江北越前その外近国いよいよ正体無く候」(浅井・朝倉滅亡後の北近江・越前を憂慮)。(「顕如上人文案」)
*
9月23日
・仏、ポーランド代表団、帰国。アンジュー公アンリ、12月10日にはクラクフに到着を約束。アンリの戴冠式の予定は1574年 1月17日。
*
9月24日
・信長、北伊勢に向う。大垣泊。
25日、太田(岐阜県海津郡南濃町太田)の小稲葉山に布陣。近江の織田軍兵力(柴田・佐久間・羽柴・丹羽・蜂屋)も北伊勢へ移動。滝川一益を桑名におき、長島を牽制。
*
9月26日
・~10月25日、第2次伊勢長島一向一揆戦
信長、桑名の一向一揆に攻撃開始。佐久間信盛・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・丹羽長秀、西別所・坂井(ともに桑名市)の一揆砦陥落、虐殺。
北伊勢の一揆をほぼ鎮圧したものの長島には侵入できず失敗。

北伊勢平定戦:
強襲で攻略した城1、攻撃半ばで交渉に入り開城した領主3、戦う前に人質を出して帰順した領主10。撤収中に追撃され損害大。
*
9月末
・秀吉・光秀・一益3人に代わり、木下祐久・三沢秀次・津田元嘉3人が代行者として任に就く。
彼等は北ノ庄の朝倉景行の旧館に居たので「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」(「朝倉始末記」)或は「北庄ノ三奉行」(「總見記」)と呼ばれる。
*
10月
・信長、備前天神山城主浦上宗景に備前・美作・播磨3国を安堵。
*
・武田勝頼(28)、大軍を率いて遠江に侵入し、浜松城を窺う。
その後駿河に引き返し、諏訪原城を普請する。
*
・北畠具教(46)、信長の圧力を受け、大湊衆に長島へ出船要請。
*
・スペイン軍、ライデン(オランダ語レイデン)包囲開始。
1573年10月~1573年3月スペイン軍、ルイ迎撃のため包囲を中断。
1574年5月~10月ライデン、守りきる。
*
10月6日
・信長軍(柴田勝家・滝川一益)、坂井の片岡城・深谷部の近藤城(桑名市)、陥落。
8日、信長、東別所に本陣。
付近の土豪(伊坂・萱生・赤堀・田辺・桑部・千草・長深の諸土豪及び田辺九郎次郎・中島勘解由左衛門ら)、和を乞う。ただ1人降参しない中嶋将監の白山城(一志郡白山町)には佐久間・羽柴軍を送り開城させる。
*
10月8日
・信長、越前称名寺佐々木蔵人へ本知7石を、越前の橋本三郎左衛門尉へ本知6石を、越前の衣料を商う大商人慶松家の小武氏一族に本知10石余を、安堵。
*
10月13日
・鳥屋尾満栄、伊勢大湊衆へ、信長からの桑名への廻船命令に10日も遅延し信長は立腹している。桑名陣所の津田一安へ早急に廻船するよう命令(「伊勢市大湊支所保管文書」)。
*
10月21日
・信長、山城賀茂惣中へ筒井順慶と相談して松永久秀の多聞山城に付城を構築し、攻略命令(「賀茂郷文書」)。
*
10月24日
・信長、伊勢大湊廻船中へ「関東」への所用のため大船1艘派遣するので早々に渡海することを命令。
*
10月25日
・引上げる(多度→養老)織田勢に一揆勢3千(大半雑賀鉄砲隊)攻撃、総崩れ。
殿軍の林新二郎(筆頭家老林秀貞の子)隊は壊滅。
信長、大垣城入り。
26日、信長、長島の西の矢田城(桑名市矢田)に滝川一益をおき、岐阜へ戻る。
長島を攻めるための大湊の船が十分に調達できず、長島攻めを諦める。
*
*

0 件のコメント: