大杉栄とその時代年表(208) 1896(明治29)年11月1日~25日 「二十六世紀」事件 一葉永眠(24歳8ヶ月) 〈一葉家族のその後〉 より続く
〈一葉日記出版の経緯〉
亡くなる前に一葉は日記類は焼却するよう妹邦子に言い残したというが、邦子は焼き捨てるにしのびず保有し、斎藤緑雨や馬場孤蝶らの尽力によって明治45年(1921)5月7日、博文館「一葉全集」前篇においてに公刊される。
孤蝶は、刊行直前、読売新聞紙上で次のように語る。
「日記の原稿は、幸田露伴君の校閲を経て、博文館に廻はり、私の所で始の方百頁位は校了になつてゐる。樋口家と博文館との協定は、二冊から成る一葉全集を出さうといふのだ。日記へ持つて行つて、従来刊行の書簡文範を加へ、それを前篇とし、従来の一葉全集に、未刊の小説断片及び随筆を加へて、それを後篇とすることになってゐる。即ち、一葉の遺稿といふべきものは、日記と、小説断片と、随筆とのこの三つなのだが、小説断片は一葉の文学生活の初期に属するものばかりなので、唯史的価値があればあるといふ迄に過ぎ無いもので、呼び物は無論日記だ。随筆もさう大した者では無い。」
出版に至るまでの経緯
明治37年、一葉の七回忌を前に、『日記』公刊の是非について、心が揺れていた邦子は、馬場孤蝶に相談。草稿を預かった馬場孤蝶はそれを齋藤緑雨に託す。
これ以前、一葉没直後の明治30年1月、『樋口一葉全集』が大橋乙羽編集により博文館から出版された。この全集は、趣味を凝らした装訂の本で、編集者大橋乙羽の思い入れの深さが現れている。
斎藤緑雨はこれに飽きたらず、なお厳密な校訂を加えて、同年6月に『校訂一葉全集』として再版を出版。
再版に際して当初、博文館の乙羽の校正が余りに杜撰なので、斎藤緑雨はこれから一旦は手を引く。博文館の文芸雑誌『太陽』『文芸倶楽部』に掲載、再掲された一葉の『経つくえ』『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』『われから』などが、初出時の誤植等がそのまま全集に持ち込まれようとしたことに、緑雨は我慢ならなかった。その後、再版の企画を再び持ち込まれ、斎藤緑雨が校訂に従事し、『校訂一葉全集』刊行となる。
緑雨は、一葉全集の校訂を担当することへの世間の攻撃に対して、「わが亡き後若し文筆に関する用事あらば、挙げて一切を緑雨に托せよと、一葉の申のこし置きたる故に候。」(明治30年3月発行『早稲田文学』掲載の「一葉全集の校訂に就て」)と言いきっている。
しかし、『日記』出版を進めたい馬場孤蝶に対し、緑雨は全面的公開に反対したと言われる。緑雨が『めさまし草』への勧誘を妨害する裏工作をしたことが暴露され、鴎外・露伴の顰蹙を買うことを恐れていたため、或は『日記』の中で一葉が桃水との会話の際に、緑雨を「いと気味わろき御かたよ」と言っていることに気分を害したため、とも言われてる。
明治37年4月、本所横網の金沢たけ(竹)方で危篤状態であった緑雨は、孤蝶の手を通じて、『日記』草稿を樋口家に戻すことにする。
明治41年の一葉の十三回忌を前に、邦子が『日記』公刊について孤蝶に相談。孤蝶は鴎外・露伴と相談しながら本格的な準備を進めることになる。しかし、鴎外や藤村の慎重論、消極論との調整がつかずに十三回忌での出版は見送りとなる。
以上の経過の後、1912年(明治45、大正元)年5月、孤蝶の校訂による『一葉全集』前後編全2巻が博文館から出版され、この前編によってはじめて一葉日記が公開されるに至る。
露伴は、『日記』全編に目を通し、出版のための浄書を監督。孤蝶は、浄書原稿の振り仮名を付け直し、宛て漢字を草稿通りに戻し、句読点を加え、何ら削除をしない無修正の本文公開を決める。
孤蝶の解説「一葉全集の末に」では、「一葉全集の校正は全く私の責任に帰するのだから、こゝに一言して置くが、『日記』には私の手では少しも省略した所は無い。多分全体を通じて何処にも省略した所はあるまい。」と述べる。
「日記」の問題点、一葉の日記に現れなかった人物などについて
「日記」の問題点については、小田切進「樋口一葉日記-近代日本の日記」(昭和58年11月「群像」、後『近代日本の日記』昭和59年6月 講談社)では、以下のように指摘されている。
②みずから破棄してしまったと思われる部分がある。
③故意に書かなかったと推定される出来ごとや人物がある。
④後になってまとめて書いたと思われる記述も少なくない。
⑤没後の削除の疑いも、多分なかっただろうが、全くなしとも言いきれない。
島崎藤村や泉鏡花らとの文学的交流と、日記未記載の事情についても、これらの「問題点」と深くかかわってくる。
鏡花の場合は、一葉にあてた書簡(1通は葉書)が2通あり、鏡花は「薄紅梅」(昭和12年1~3月、「東京日日」他)の中で、「余りくさくさするもんですから、湯春で一杯・・・てつたところ・・・黙ってて頂戴」と語りかける、「清い乙女」のイメージからほど遠い一葉の姿を描いている。創作とも考えられるが、やはり実際に会っての印象が生かされているといえよう。
藤村の場合も、たとえば三宅花圃の「女文豪が活躍の面影」(明治41年7月「女学世界」)に、一葉のもとに出入りしていた一人として藤村の名もあげられている。もっとも藤村は有名人だから名前がまざれこんだにすぎないので、度々訪ねたとは考えられないという否定説もあるが、「女」(明治44年11月14~16日「時事新報」)にも一葉を描いていることを思い合わせると、やはり直接会っていながら、一葉の「日記」には残らなかった一人といえよう。
一葉が藤村と鏡花の来訪を記さなかったのは、『座談会明治文学史』(昭和36年6月 岩波書店)の中で、和田芳恵が「一葉があるいはきらいな人、扱いにくい人間で、日記にのらないのかという見方も一つできるのですね」と語っている。
藤村の一葉観にも、他の「文学界」同人とは異なるものがあり、その思いが一葉にも反映していたと見られる。小説「女」(明治44年11月 「時事新報」)中で、「自分の眼に映った彼女は、どちらかと言へば小造りな、鼻の尖った、髪などのあまり濃くない方の人だった云々」と記している。
日記を読んでの感想は、
「自分は婦人科の医者のやうに接近し過ぎるほど接近して、彼女の身体の臭気でも喚ぐやうな気がして来た。斯の女くさい、決して淡泊とは言へない臭気は一体何から来たと思って見た」と書く。
エッセー「偶像の破壊」(大正元年10月 「文章世界」)にも、
「正直に言へば、私は女としての一葉をあまり好まなかった。あれほどサツパリした人であったにも関らず私には女といふものを全くヌキにして一葉を考へることは出来なかった」
と、「女」に描いたと同じ一葉観を記している。
他にも、長編「春」(明治41年4~8月)で、一葉姉妹を「堤姉妹」として登場させ、短編「沈黙」(大正2年2月「中央公論」)には、椎名のお茂さんとして一葉を、お菊さん母子の呼称で、一葉没後の妹邦子母子の消息を記している。
「故樋口一葉」(『市井にありて』昭和5年10月 岩波書店)には、「一葉は二五歳位の若さで死んだ人でありながら、その人の書いたものを見るとお婆さんのやうに賢い。・・今になつて思ふと、何か一葉の生涯には無理な所があつたやうな気がする」と記し、「何の作にもつよい婦人としての訴へ」のあったことを指摘している。
藤村が小説やエッセーに幾度も記したのは、一葉への並々ならぬ関心を示すものである。
こうした、実際には会っていると思われるのに、「日記」には残っていない鏡花や藤村が、「故意に書かなかったと推定される」人物なのか、それとも他の理由によるものか速断は許されないが、同世代の女流作家田沢稲舟との交流をも合わせ考えるとき、やはり会っていながら「日記」には残らなかった人物はいると判断される。
稲舟との交流については、稲舟側には一葉との交際はあったとの証言もあるが、一葉側のものとしては、わずかに明治27年から28年にかけて記されたと思われる、和歌のための冊子「うたかた」の中に、稲舟の名が落書として出てくるのみである。
この落書は、藤井公明氏の「歌集から拾った一葉の落書」(昭和29年3月「明日香絡」)ではじめて紹介された。
いな舟
かのぬし 稲舟
かのぬし羨れ候とても
田沢 田沢 田沢
稲舟 稲舟
というもので、藤井氏は「『にごりえ』の作者一葉が作家として稲舟を羨む理由は何処にもない。これは多分美妙との艶聞をうたわれて一躍時の人となった稲舟が羨しかったのだろう」と記している。この考えは塩田良平氏にも受継がれ、『樋口一葉研究』にも記されることになった。
ところが、「かのぬし羨れ候とても」は、実は誤読で、「かのぬし参れ候とても」が正しいことが、野口頓氏によって指摘された(昭和53年11月『樋口一葉全集』第3巻(下) 筑摩書房)。
「羨れ」が誤読で、「参れ」が正しいとわかってみると、これは一葉側の稲舟との交流を裏付ける有力な資料となる。「稲舟かのぬし参れ候とても」の後に続くことばは知る由もないが、少なくとも明治28年、稲舟が処女作「医学修業」を「文芸倶楽部」に発表する前後に一葉を訪ねていると推定される。ちなみに「医学修業」には、その女主人公が、「竹本一葉」という女義太夫になって登場する。やはり稲舟も、会っていながら、「日記」には記されなかった一人といえる。
つづく
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