2024年9月2日月曜日

大杉栄とその時代年表(241) 1898(明治31)年6月24日~30日 山東巡撫張汝梅の上奏文(光緒帝、義和拳を政府公認の義勇軍と認める) 憲政党(隈板内閣、初の政党内閣)成立 松山版「ホトトギス」廃刊

 

大杉栄とその時代年表(240) 1898(明治31)年6月1日~22日 この頃、漱石の妻鏡子が自殺を図る 河野一郎生まれる アメリカのサンチャゴ湾(キューバ)閉塞作戦失敗 清英「香港地域拡張に関する条約」九竜租借条約 戊戌の変法(百日維新) フィリピン共和国独立宣言(アギナルド) ハワイ併合に関する決議アメリカ下院通過 アメリカ、グアム占領 憲政党成立(自由党・進歩党合同) より続く

1898(明治31)年

6月24日

伊藤首相、元老会議で民党合同に対処する為、①首相在職のまま政府党を組織、②下野して政党を組織、③憲政党に内閣を渡す、などを提案。

山県有朋は、超然主義を主張し、いずれの案にも反対。伊藤首相は辞表を提出、後継首相に大隈重信・板垣退助を推薦。山県は「明治政府は落城せり」と記す。

6月24日

フランツ・ヨーゼフ即位50周年記念式典。

6月25日

保安条例廃止の件、公布。

6月27日

大隈重信・板垣退助に組閣命令下る。

6月28日

司法関係者の人事異動。学歴を有しない特進者の整理。政権交代期の駆け込み人事。控訴院長3、大審院部長2、大審院判事8、東京・横浜地裁所長。全て東京大学か司法省法学校正則科卒業生に代わる。但し、特進組の1人である司法次官横田国臣は、この日検事総長に横すべりし批判を浴びる。7月27日児島惟謙「忠言書」、大東義徹司法相に提出。

6月30日

清、山東巡撫張汝梅の上奏文。村民・教民の対立には兵力を頼るべきではない。「義和拳を官許の民団とせよ」と提案。

7月6日、光緒帝はこの上奏文に「知道了(了解した)」と朱記する(義和拳を政府公認の義勇軍と認める)。背景には康有為の「国民皆兵」の主張の影響。変法運動と歩調を合わせ、国民同士(村民・教民)の分裂をはらみ、列強の侵略に対抗すべく挙国一致武装化のコースをとり始める。

6月30日

憲政党(隈板内閣)成立。大隈首相(61)・板垣内相(62)・文相尾崎行雄(58)。農商務相大石正巳・逓信相林有造。日本初の政党内閣(陸・海軍相以外は憲政党出身)。但し、陸海軍大臣は天皇が桂太郎中将・西郷従道に留任下命。官僚勢力の攻撃、旧自由・旧進歩党の猟官を巡る争い。10月31日崩壊。

伊藤博文の対策:①新政党の結成(明治33年9月政友会結成)。②陸海軍大臣現役制(明治33年5月19日)。

①貴院で三曜会を統率し、親山県系勢力の研究会と対立している近衛篤麿は隈板内閣の成立を歓迎、同志に対し、「立憲政治の世となりては結局政党内閣となるの止を得ざるものなれば、区々たる感情に駆られてこれを拒くは余等の取らざる処たるは、余が諸君と共に常にロにする処なり。故に今日政党内閣の組織せらるるは、勿論政海の一進歩として余の慶賀する処なり。今日憲法中止諭(山県一派の論)の如き迂腐の説は固より一笑に附し去るべきものなり」。

②「大阪毎日新聞」主筆原敬は、「今回組織せられたる隈板内閣を直ちに真正なる政党内閣なりと認むること能はずと雖ども、政党内閣の遂に免るべからざるものなりと云ふの一事に至りては、これを断言して悍らざるものなり」と述べる。

③山口高等学校の文科在学中の河上肇には、一生の方向を決定する影警を与える。

「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云つたやうな欲望は松陰先生によって絶えず刺戟されてゐたこと思ふが、それは遂に日本で政党内閣が初めて成立したことに関連する諸般の新聞記事に刺戟されて忽ち表面へ暴れ出た。尾崎行雄、大東義徹、松田正久など言はばシルクハットも持ち合はしてゐない位に思はれてゐた政党者流が無位の野人から一躍して台閣に列したといふ報道は少年の心に功名手に唾して成すぺしといふ昂奮を与へた。文学は未だ以て男子の一生を托するに足れりとしない。俺は法科へ転じよう。かう私が決心したのは、卒業試験が早や目睫の間に迫ってゐた時のことである」(「自叙伝」)。

河上は文科から法科に転じ、この年9月東京帝国大学法科大学政治科に入学する。

隈板内閣の致命的弱点。

①陸海両軍部大臣の反政党的立湯。山県系の山田・平田らは大隈・板垣に組閣が命じられると、軍部大臣就任拒否による内閣不成立の工作を行うが、前内閣の両軍部大臣が天皇の特命により留任し内閣は成立。山県は両軍部大臣留任が天皇特命により実現した事は、両者の去就は他の閣僚の去就と同一ではない事を意味すると主張。事実、隈板内閣瓦解後両軍部大臣は辞表を提出せず、そのまま第2次山県内閣に留任する。また、陸相桂太郎と海相西郷従道とは留任に際し大隈・板垣と会見し、「異分子」として入閣することを明らかにし、新内閣が軍備縮小方針をとらないことを入閣の条件とする。そして閣内で閣外の反政府勢力と呼応しながら、内閣打倒の策動を行う。

②憲政党内部の対立抗争。

(1)増税問題を巡る党内対立。第2次山県内閣以来、軍拡を筆頭とする「戦後経営」を遂行する為には、増税による歳入増加を計る以外にはなく、隈板内閣は地租増徴に代る他の増税よって歳入増加を計ろうとする。憲政党は地租増徴反対の自由・進歩統一戦線から生れたものであり、意政党内閣の下での地租増徴はありえない。しかし、党内には、東京市会に強力な勢力を持つ旧自由党関東派指導者星亨を代表とする一派は、地租増徴により歳入増加を計り、工業化を積極的に推進すべきとする都市商工業者の利益を反映する意見を持つ。増税問題は党の将来の進路にかかわる対立を孕み、やがて星が党を割ることになる原因の一つになる。

(2)自由党系と進歩党系との対立。地方では支部設立・役員選出・議員候補者決定を巡り、中央では閣僚・勅任官配分を巡り激化。総選挙後米国から帰朝した星は、大隈が兼任の外相ポストを要求するが容れられず、以来官職配分に不満を抱く旧自由党員を結集し、内閣破壊に着手。星は、憲政党を割る事で旧自由党を復活させ、統一ある単独政党による衆院の絶対多数を実現しようとする。尾崎文相の帝国教育会での「共和演説」事件(日本を「共和国に例える)はこの星の戦略に機会を与え、旧自由党系は板垣に対し尾崎を糾弾させる。尾崎は辞任し、その後任問題を巡り大隈と自由党系とが対立、犬養毅の文相就任を不満とする自由党系3閣僚は辞表を提出。大隈は進歩党系をかってこれらを埋め、進歩党内閣として政権存続を計ろうとするが、星は桂・西郷と連絡をとり、桂を通じて山県を動かし、宮中に大隈・板垣の連帯責任を強調させる事で大隈の辞表を提出させる。

6月30日

松山の柳原極堂が子規を訪ね、経済的に行詰った松山版「ホトトギス」廃刊を告げる。


「・・・・・子規は自分の雑誌を失いたくなかった。俳句・短歌だけではない、それは子規が計画しているあたらしい散文(写生文)の改革のための策源地として、どうしても必要なのである。

子規は極堂にいった。虚子が雑誌発行を望んでいる。自分は「ホトトギス」を東京移転させて虚子に受継いでもらいたいと思う。その件について、現在松山にいる虚子と相談してくれぬか。

極堂は諒承した。」(関川夏央、前掲書)

■この頃の虚子

「明治三十一年一月、月給二十円で萬朝報に入社した虚子は、神田五軒町の三軒長屋の一軒に住まいした。二畳の玄関と六畳の居間、それに三畳分の台所だけの家で、家賃は二円五十銭であった。・・・・・

(略)

・・・・・虚子が訪ねてきたのは明治三十一年初夏の一夕であった。

虚子は、郷里松山の老母の病が重いので、妻子をともなって帰省する、と子規にいった。どのくらいの期間になるものか、病気が相手では見通しが立たないともいう。

社(萬朝報)の仕事はどうするのか、と子規が問うと、どうせ募集小説の選抜や俳句時評なのだから誰にでもできる、と虚子はいった。それにしても社がよく許した、と子規がいうと虚子は、社長にも編集長にも直接は話さなかった、手紙でそのむねをつたえただけだ、と答えた。

(略)

明治三十一年六月、果たして萬朝報が、勝手な休みは許さぬ、即刻上京して出社するか退社するかを選べといってきたとき、松山にあった虚子はあっさり退社を選んだ。二十円の月給の勤めに執着する気はなかった。

自分の性格は、文人というより、編集に向いているのではないかと考えはじめていた虚子は、それを機会に、以前から漠然と念頭にあった雑誌発行の計画を具体化することに決し、長兄に三百円の借金を申し込んだ。構想したのは総合文芸誌である。」(関川夏央、前掲書)

つづく

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